ひょうきちの疑問

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幕末の『志士』とは何なのか 2

2017-08-26 07:04:50 | 幕末の「志士」とは何

土曜日

イギリスの植民地支配の方法は、実に巧妙である。
とてもパブリックな政府のやることとは思えないほどである。
イギリスの金融勢力は、あるときは政府と協力し、またあるときは政府から独立して独自の動きをしている。まるで二つの生き物が動いているようだ。
イギリス東インド会社というものが得体が知れない。
そこにイングランド銀行という民間資本の政府の中央銀行が加わる。そしてこの民間銀行が、ポンド紙幣という正式通貨をいくらでも印刷できる構造になっている。
だからイギリス政府は、イングランド銀行を頼っていくらでも借金できる。(いくらでも国債を発行できる。イングランド銀行が買ってくれるから。)

その植民地支配の方法は、金にモノを言わせて敵同士を戦わせる、あるいは敵を分断させ、自らは直接手を下さないばかりか、敵に協力するように見せかけて、敵国の実権を乗っ取っていくやり方だ。
例えば、イギリス最大の植民地インドは、ムガール帝国というイスラム国家であった。そこに乗り込んできたイギリスは、支配層のイスラム教徒ではなく、逆に被支配層のヒンドゥー教徒を優遇する政策をとり、彼らを東インド会社の役人に取り立てていく。その結果、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒との対立が深まり、長い抗争が始まる。
その結末は、ヒンドゥー国家インドとイスラム国家パキスタンの分離独立である。そして今もインドとパキスタンの根深い対立は続いている。

日本の幕末の志士たちは下級武士である。彼らは藩の命令を受けて行動している。上級武士の支配下にある。
活動内容は諜報活動である。秘密情報を集めることだ。いわば忍者である。そしてその情報を藩にもたらす。そのために敵に近づく。
ところがイギリスはそのことを知っている。
イギリスは、彼ら幕末の志士(忍者)たちが欲しがっている情報をわざと与える。
時にはそれは彼ら忍者たちの想像を超えることもある。
やがて忍者たちはとても自分の手に負えるものではないことを悟るばかりか、自分たちを動かしている藩の権力でさえ、それに太刀打ちできないものであることを悟る。
彼らはいつしか藩の忍者から、イギリスの忍者になっていく。

幕末期、そこには外交面では攘夷思想があり開国思想があり、政治面では佐幕思想があり尊皇思想があり倒幕思想があった。
しかし藩が滅び、大名がいなくなり、武士がいなくなることなど誰も考えていなかった。
これは明治新政府が樹立された時点でさえそうである。
戊辰戦争のあとも藩は厳然としてあった。戊辰戦争を戦った武士たちは藩に帰って行ったのである。
徳川と戦った藩をつぶすことなどありえない。まして武士身分をつぶすことなどありえない。
武士たちは何のために戦ったのか。
廃藩の思想は明治になるまで全く表に現れない。
それは幕末の志士(忍者)たちの中に隠されていた思想である。だから誰もそのことに気づかなかったのである。

幕末の志士たちは藩の命令で動いている。藩は生き残りをかけている。見かけ上その藩の命令で動いている幕末の志士(忍者)たちが、廃藩の思想を漏らすわけがない。
大政奉還で一気に藩がなくなったと勘違いしている人がいる。
あれは徳川幕府が消滅しただけで、徳川は日本最大の徳川藩として生き残る思想である。
当然、他の藩も大名も生き残るはずであった。

廃藩の思想は藩命に逆らうことであった。
このことに苦しんだのは西郷隆盛だけである。
あとの多くの志士(忍者)たちは、簡単に藩主を裏切り、仲間の武士たちを裏切り、武士をこの世から亡くしていった。
明治維新以後、名をあげ新政府高官として出世した多くの志士たちは、故郷に戻ることを躊躇している。
明治維新当初、新政府の実力ナンバーワンであった大久保利通は、地元薩摩では今も人気がない。
同じく大隈重信も総理大臣に二度もなりながら、地元佐賀では人気がない。
長州の伊藤博文もそうである。
彼らは藩命に背き、故郷を裏切ったため、故郷に錦を飾れなかったのだ。

明治維新には地元の人間が表には出さない複雑な感情がある。

では幕末の志士(忍者)たちは、誰の命令に従って、藩をつぶし、大名をつぶし、武士をなくしてしまったのか。

伊藤博文などの長州ファイブは決して藩の力によってイギリスに密航したのではない。(1863年密航)
彼らを後押ししたのは、イギリス政府とグラバーなどのイギリスの武器商人である。

彼ら忍者たちは、イギリスの指示を受けたか、そうでなければ、イギリスの圧力のもと自らの判断で廃藩の思想を持ったのである。

つまりイギリスから見れば、敵を分断させる、敵同士を戦わせる、といういつもの手段に成功したのである。
それは『幕府VS天皇』という構図ではなく、天皇方の下にある『大名VS忍者』という構図においてそうなのである。
実権を握ったのは大名ではなく、忍者である。
イギリスは、天皇に協力したのでも、大名に協力したのでもない。忍者に協力したのである。
そしてこの忍者たちを動かしていったのである。
このことに疑問を持った者は政府を追放された。それが西郷であり、板垣であり、江藤である。


ちなみに薩長同盟の立役者とされる土佐の坂本龍馬は、明治維新直前にイギリスの方針に疑問を持った節がある。
それは大政奉還の発案者が坂本龍馬だからである。大政奉還は、坂本龍馬 → 土佐藩士後藤象二郎 → 土佐藩主山内容堂という経路を通じて将軍徳川慶喜に献策されている。
この思想は先に見たように藩の生き残りを説いたものだ。徳川が大藩として生き残れば、当然他の藩も生き残る。しかしこれはイギリスの方針とは決定的に違う。
そして龍馬は大政奉還発表の1ヵ月後(1867.11月)、何者かによって暗殺される。犯人は今も歴史の闇の中に隠れている。
そして龍馬の大政奉還論は小御所会議で破棄される。

徳川慶喜は戦わなかった。それが江戸城無血開城として今では美談になっているが、本当は美談でも何でもない。
彼はここでイギリスをバックとする幕末の志士(忍者)たちと戦うことがいかに危険なことかを知っていた。アヘン戦争の二の舞はごめんだった。
戊辰戦争は徳川と戦った戦争ではない。徳川と戦わなかった戦争である。恭順の意を示す徳川慶喜に対して、幕末の志士(忍者)たちが京都から江戸に攻め上った一方的な戦いである。
彼ら忍者たちに正統性はない。だから正統性の根拠として天皇が錦の御旗としてますます必要になったのだ。
天皇を錦の御旗として立てることにより、イギリスという本尊はうまく隠された。



(この天皇に関しても、現在の天皇家は北朝であるが、明治政府は南朝を正統とするという考えられないことをやっている。ここにも深い謎がある。)


幕末の『志士』とは何なのか 1

2017-08-25 10:00:10 | 幕末の「志士」とは何

金曜日

伊藤博文など明治の元勲と呼ばれる人々は、若い頃は幕末の『志士』と呼ばれた。
彼らのほとんどは下級武士出身である。
下級武士がどうやって藩論を牛耳るまでに成長し、日本を西洋化する明治の元勲にまでなったのか。
彼らの行動は今もって断片的にしか分かっておらず、多くの謎に包まれている。
この謎の多さが彼らの特徴であると言ってもいい。

西郷隆盛は、藩主島津斉彬のお庭番として登用された。
身分が低いから、座敷に上がることができないお庭番である。
しかし本当はそんなことではない。
お庭番とは、諜報活動が役目である。そうは言えないからお庭番といっているだけだ。
諜報活動とは一言でいえばスパイである。
スパイなどというと、小説の読み過ぎかと人は思ってしまうが、どこの国でも政治と諜報活動は切っても切れない関係にある。
古くは忍者である。漫画にでてくる分身の術などは使えなかったのかもしれないが、諜報活動を行う忍者は江戸幕府以前から厳然として存在した。それを疑う人はいるまい。
江戸城の半蔵門は、服部半蔵の半蔵門である。伊賀出身の忍者の家柄である。
戦前の日本でも、陸軍中野学校といえば、スパイの養成機関であった。
イギリスのMI6、アメリカのCIAなど、現在でも諜報機関は現存し、我々の知らない情報をしっかりと握っている。いや本当の情報はここだけに集められているといっても過言ではない。
そういう現実を見る目を切り落とされてしまったのが、戦後の日本だ。

スパイは捕まっても口を割らない。そして黙って殺される。秘密は墓場まで持って行く。そしてそのことは誰にも知らされない。
そういう役回りは上級武士にはさせられない。
それは下級武士の役なのだ。

伊藤博文はもともと農民である。それが足軽という最下層の武士になった。英国大使館に火をつけ、人を殺している。その後、「長州ファイブ」としてイギリスに密航している。その資金源は謎である。(映画「長州ファイブ」の説明は子供だましである。)
坂本龍馬は土佐の脱藩浪人である。やはり下級武士である。
佐賀の江藤新平も手明鑓(てあきやり)という最下層の武士である。彼は脱藩して京都に赴いたが、藩に戻ると死刑にもならず、蟄居処分になっている。そして不思議なことにその蟄居機関の間にも他藩で政治活動をした記録が残っている。

彼らの本当の仕事は何だったのか。
諜報活動である。つまり日本流にいえば忍者であり、西洋流にいえばスパイである。

幕末の志士とは何なのか、わかりやすくいえば幕末の忍者である。
だから明治維新は秘密のベールに包まれている。
本当の明治維新はまだ何も分かっていない。

イギリスの武器商人で長崎で商売をしたトーマス・グラバーはたんなる武器商人ではない。イギリス政府に中国とのアヘン戦争を仕掛けさせるほどの力を持つ貿易会社ジャーディン・マセソン商会の代理人として来日している。
今でも香港ドルの発行元である香港上海銀行は、そのジャーディン・マセソン商会によって設立されたもので、アヘンの売り上げを本国に送金するための銀行である。
その邸宅グラバー邸は今では市民や観光客に親しまれる庭園であるが、当時は幕末の志士たちの巣窟であった。
そしてそのグラバー邸のある丘の入り口には、今も香港上海銀行長崎支店が記念館として建っている。

彼ら幕末の志士(忍者)たちには、驚くほど大きな資本の圧力がかかっていた。

明治に入って、『光栄ある孤立』を誇り、どことも同盟を結ばなかった大英帝国が、極東のちょんまげ国家となぜ『日英同盟』を結んだのか、明治維新の謎はそのことにまでつながっている。


長州の刺客だった伊藤博文

2017-08-04 08:04:04 | 幕末の「志士」とは何

金曜日

長州の刺客だった明治の元勲伊藤博文が、明治の日本が非常時であることをどこまで認識していたか。
伊藤博文はその出自がよく分からない人物だが、もともとは長州の農民である。
故郷を追われた父親が萩の城下に移り、そこで足軽の養子になった。
若い頃は、イギリス大使館に放火したりしている。
そしてたぶん何人かを暗殺している。
そんな人物が長崎の英国武器商人グラバーと結びつき英国に密航している。
彼がそこで見たものは何だったか。

彼に先見の明があるとすれば、誰よりも早く『攘夷不可能』を悟ったことである。
彼は明治の日本が非常時であることを悟ったのではないか。
非常時の政治論理は、平常時の政治論理とは違う。
だから人殺しの前科を持つ者でも堂々と首相になることができた。

彼がどこまで操られ、どこまで独自の判断をすることができたか。
若い頃の彼らの活動資金源はいまだに謎である。
誰が彼らに資金を提供していたのか。
とても田舎旅館春帆楼のオヤジのポケットマネーで事足りる額ではない。

明治維新は非常時国家であった。
ここで多くの国民が非常時国家の論理に吸収されていく。
しかしもともと日本の平常時の論理はそれとは別物であった。
庶民生活の日常の論理が消えていく。
人口の多かった東京の下町(東側)にはそれは後々まで根付いていたが、
それとは別に明治国家の論理を支えていくのが新しく発展していく『山の手』(西側)の地域である。
ここに政府高官や地方から都会に出てきた者たちが移り住んだ。
東京に別の町ができたのだ。
伊藤博文はそこの中心的人物である。


トマス・グラバー 三菱広報委員会より

2011-12-12 02:22:22 | 幕末の「志士」とは何
mitsubishi.com より
http://www.mitsubishi.com/j/history/series/man/man01.html



トマス・グラバー


「長崎のグラバー邸はかつて三菱重工業のものだった」と言うと「へえ~」と反応する人は三菱の関係者にも多いと思う。
長崎湾を見下ろす南山手の丘の上。
文久3年(1863)に建てられた。
プッチーニのオペラ「蝶々夫人」の舞台に擬(ぎ)せられている。
ただしグラバーはピンカートンのように愛妻ツルを裏切っていないしツルは自害などしていない。
ちなみに、初演から今年で100年目の由。

グラバー邸は幕末には武器弾薬などきな臭い取引の舞台となったが、明治維新後は普通の外国人の別荘。
昭和14年(1939)に三菱重工業がグラバーの子孫から購入した。
戦後の昭和32年(1957)、造船所が長崎鎔鉄所として発足してから100年を迎えた記念に長崎市に寄贈された。

トマス・グラバーはスコットランドの生まれ。
安政6年(1859)、開港後1年の長崎に、香港を拠点にする英国のジャージン・マセソン商会の代理人として着任した。21歳だった。

ほどなくグラバー商会を設立、
幕末の激動の中でオールトやウォルシュ、シキュート、クニフレルなど米欧の貿易商人たちと競合しながら、
西南雄藩(ゆうはん)に艦船・武器・弾薬の類を売り込んだ。
1860年代半ばには長崎における外国商館の最大手になっていた。

グラバーには長期的な視野からの活動も多い。
長州藩の伊藤博文や井上馨らの英国への密留学を支援したほか、
薩摩藩の五代友厚(ごだいともあつ)や寺島宗則(てらしまむねのり)、森有礼(もりありのり)らの秘密裏の訪欧にも協力、
結果として日本の近代化に大きな役割を果たしている。

明治維新で倒産

慶応3年(1867)には岩崎彌太郎が土佐藩の開成館長崎出張所に赴任してきた。
早速、彌太郎をグラバー邸に招き商談に取りかかる。
坂本竜馬や後藤象二郎も出入りしていた。

グラバーは貿易にとどまらず事業にも乗り出した。
慶応4年、肥前(ひぜん)藩から経営を委託された高島炭坑にイギリスの最新の採炭機械を導入し、本格的な採掘を開始した。

また、ほぼ同時期、グラバー邸から1キロほど南の小菅に薩摩藩と共同で日本初の洋式ドックを建設した。
いわゆるそろばんドック(注)で、設備はすべてイギリスから輸入した。

そういうグラバーだったが
「日本国内の政局の流動化を背景に…取引の重心をしだいに投機的かつ短期的性格の強い艦船や武器の取引にうつし… 」
(杉山伸也『明治維新とイギリス商人』)
一攫千金をねらうようになっていった。

ところが皮肉にも、グラバーが肩入れした西南雄藩は怒涛の勢い討幕の兵を進め鳥羽伏見の戦いで一気に勝敗を決してしまう。
グラバーの思惑はずれて大規模内戦なし。
グラバー商会は見越(みこし)で仕入れた大量の武器や艦船を抱え込む。
おまけに時代変革の混乱の中で雄藩への掛売りの回収は滞り、明治3年(1870)、資金繰りに窮して倒産するはめに。

バブルがはじけてグラバーは、失意のままに故郷のスコットランドに帰ったかというと、そうではない。
日本にとどまり、国際ビジネスの豊富な経験と多彩な人脈を活かし、事業主ではなくビジネスマンとして死ぬまで活躍した。
まさしく19世紀の冒険商人。ロマンあふれる人生だった。

注)修繕船をレールに乗せて引き上げるシステム。



幕末の西南雄藩に武器弾薬を供給した外国商人の一人トマス・グラバーが、明治維新後、資金繰りに窮して破産してしまったことは前回述べた。
高島炭坑は人手に渡り、間もなく官営化され、のちに後藤象二郎に払い下げられた。
ところが石炭の国際的な取引については日本人はまだまだ経験不足。
グラバーは、経営権は失ったが引き続き高島炭坑に地位を得た。

明治14年(1881)、今度は三菱が高島炭坑を買収した。
管事(社長に次ぐ立場)の川田小一郎は言った。
「高島の石炭の、支那香港その他への輸出の采配はグラバー殿にお願いしたい。ただし炭坑の支配人である瓜生震(うりゅうしん)とは納得ずくでやること。また、取引の状況については、支配人経由で毎月本社に報告願いたい」。
グラバーは答えた。
「川田殿、岩崎殿にお伝え下さい。必ずや満足いただける結果を出しましょう」。

大見得を切ったとおりグラバーは石炭の国際取引を巧みにこなし、彌太郎の期待に応えた。
その後三菱の本社の渉外関係顧問に迎えられ、愛妻ツルとともに長崎から東京に移り住んだ。

最初の子は夭折(ようせつ)したが、次男トムは順調に成長した。
グラバーとトムの音を取って倉場(くらば)富三郎と称した。
父が三菱の顧問なので三菱の子弟寮から学習院に通い、やがてペンシルバニア大学に留学、異郷で岩崎久彌らと交友を深めた。
久彌は父彌太郎が逝ったのち三菱を継いだ叔父彌之助の勧めで留学していた。
経営学や米国史を学び、帰国して2年後に三菱の三代目社長になる。

外国人社会のリーダー

グラバーは技術導入など三菱の国際化路線のアドバイザーとして久彌を輔(たす)けた。
キリンビールの前身ジャパン・ブルワリーの設立にも参画した。
グラバーに対する三菱の評価は高く、たとえば明治34年の月給は手当込みで720円という厚遇で、最高幹部である管事の荘田平五郎の600円よりも多かった。

在日外国人社会における人望は絶大で、鹿鳴館の名誉セクレタリーにも推され、明治日本の国際交流に貢献した。
また、かつてグラバーの尽力で密かに英国に留学した伊藤博文は、明治政府の高官となってからもグラバーと接触を保ち、私的に意見を求めることもあったという。

二代目社長の岩崎彌之助は伊藤にグラバーの叙勲を働きかけたことがある。
「グラバ…日清ノ事起キルヤ身長崎ニアリテ海外各国貴紳及ビ海軍士リテ海外各国貴紳及ビ海軍士官、新聞記者等ト往来シ…朝廷軍ヲ出スノ正義ナルヲ説キ…隠然我外交ニ裨益スルコト固ヨリ一二ニ止マラズ…」。

明治41年にグラバーは、明治維新に功績があったとして、外国人としては破格の勲二等旭日章を贈られた。
その3年後に腎臓炎で他界。73歳だった。
日本を愛し、明治日本を生きぬいた英国人は、長崎に還り、愛妻ツルとともに国際墓地に眠っている。

息子の倉場富三郎はというと、米国留学から戻って三菱には入らず、長崎で遠洋漁業の会社に勤務した。
学究肌で仕事のかたわら「魚類図譜」をまとめたりしている。
グラバー邸は昭和14年(1939)に三菱重工業に売却した。

第二次大戦が始まり、混血なるがゆえに日英のはざまで苦しんだ富三郎だったが、戦後になって74歳で自ら孤独な死を選んだ。
国際墓地の父母のかたわらに葬られた。

文・三菱史料館 成田 誠一

三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2004年6月号掲載


龍馬を暗殺したのはグラバー?

2011-12-12 02:01:03 | 幕末の「志士」とは何

灼熱 より
http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200408220000/



2004年08月22日

明治維新とはなんだったのか:トーマス・グラバーについて

明治維新の正しい理解をしてみようと思います。

明治維新最大の黒幕は、長崎にあるグラバー邸の持ち主トーマス・ブレーク・グラバーでした。
死の商人グラバーです。
グラバーの背後にはアヘン戦争の仕掛け人の大商社、ジャーディン・マセソン商会がいました。
つまり、ロスチャイルド → ジャーディン・マセソン → トーマス・グラバーという構図です。
ロンドン → 上海 → 長崎です。

坂本竜馬が仲介したと言われる薩摩・長州連合だけでは倒幕は無理です。
グラバーの目的(使命)は倒幕(明治維新)と軍事物資(武器)の供給です。

グラバーは、スコットランドのフレイザーバラに1838年6月6日生まれました。
グラバーが11歳のとき、一家はアバディーンに移ります。
父は英国海軍大尉(イングランド人)、母はスコットランド人です。
父トーマス・ベリー・グラバーは、退官したあとアバディーンで造船業をはじめます。

1859年9月19日、21歳のグラバーが長崎にやってきます。
グラバーは25歳のときにあのグラバー邸を完成させました。
長州の伊藤博文、薩摩の五代友厚、亀山社中・海援隊の坂本竜馬、三菱(土佐商会)の岩崎弥太郎らを代表とする幕末から明治にかけて活躍した人物が続々とグラバー邸を訪れます。
グラバー邸には隠し部屋がありました。

1863年5月には長州の伊藤や井上などの5人が密かにヨーロッパに旅立っています。
さらに1865年には薩摩の五代友厚ら17人がヨーロッパに密航しています。
上海にもたびたび長州の藩士らが出国しています。
これらはすべてグラバー(ジャーディン・マセソン)が手引しています。

竜馬は1865年5月に亀山社中を設立しましたが、
8月には亀山社中を通じてグラバーから第1回目の買いつけ商品である7800挺の銃が社中に入荷しています。
ジャーディン・マセソンの信用(状)を通じてグラバー商会が武器弾薬を極東に用意(買い付け)し、それを薩摩藩に売りつけます。
つまり、その仲介役が竜馬の亀山社中・海援隊だったわけです。
竜馬はグラバーの隠れ蓑です。
グラバーは竜馬の利用して幕府の目をごまかしたのです。
もっと言えば、竜馬はエージェントだったのです。

薩長同盟の成立は1866年です。
一般的には竜馬がこの薩長同盟を成立させたと言われていますが、
グラバーは、薩長同盟成立前に既に薩摩や長州の人間をイギリスに密航させているのです。
竜馬も密航していた可能性があります(証拠はありません)。
竜馬の背後にはつねにグラバーがいるのです。
薩長同盟は軍事同盟です。
グラバーがいなければ薩長同盟などありえないのです。
そして、倒幕という革命は、英国(もしくはグラバーとその背後の勢力)なくして成功しないのです。
英国大使ハリー・パークスも薩摩の後ろ盾になります。

「私がパークスと薩摩、長州の両藩の間にあった壁を壊してやった。これがわたしの1番の手柄だ」

これは、グラバーの言葉です。
そうです、グラバーが薩長の真の仲介者なのです。
表に立てないグラバーがその代わりに竜馬を表に立たせたのだろうと思います。
事実、薩摩と長州の集会所は、グラバー商会でした。
グラバー商会は、ロイズ保険、香港上海銀行等の代理店でもありました。

竜馬は突然、倒幕派から公武合体派に変わります。
おそらく、自分が英国(グラバーの背後)の大きな陰謀に利用されていたことに気付いたからだろうと、わたしは思います。
で、1867年の竜馬暗殺です。
暗殺の実行犯はわかっていませんが、動機から考えておそらく実行犯は薩長でしょう。
しかし、暗殺の背後にいたのは、これもまたグラバーでしょう。
いや、もうひとり怪しい人物がいます。
こいつが1番怪しい。
岩崎弥太郎です。
ご存知、三菱財閥の創始者です。

竜馬の利権を受け継いだのが、岩崎です。
岩崎とグラバーの関係が三菱財閥を創ったと言っても言い過ぎではないでしょう。
三菱造船所の前身となるドックをつくったのはグラバーです。
造船や船会社にかかせない保険、グラバーはロイズ保険(ロスチャイルド)の日本代表です。
三菱のビール会社であるキリンビールを立ち上げたのもグラバーでした。

三菱はグラバー邸を買い取って地元で集めたグラバーにまつわる文献・資料を封印してしまい、三菱とグラバーの関係を闇に葬り去りました。
これが、グラバーに関する資料が極端に少ない理由のひとつです。

現在の三菱財閥の基礎はグラバーにある。


書き忘れたのでここに書いておきますが、グラバーは上海から1859年9月16日に日本へ向けて出航します。
上海にはグラバーの父も一緒にいました。
ですが、父は日本ではなくアバディーン(造船業)へと戻ります。
グラバーは軍艦や蒸気船、艦船を薩長などの各藩へ売りまくりましたね。
親子の動きも一致していたのです。


グラバーは幕府の人間ともつながっていました(つながっていたはずです)。
徳川側近の西周です。
西はフリーメーソンでした。
グラバーもメーソン(西とロッジは違います)ですから、西から幕府の情報を仕入れていた可能性が高いのです。
まあ、これはあくまでも可能性です。
…が、西の所属するロッジ(オランダのラ・ベルトゥ・ロッジNo.7)から間接的にグラバーへと情報が流れていた可能性の方が高いのかも知れません。
フランス革命やアメリカ独立運動(建国)に深く関与したメーソンが、日本の革命である明治維新に関与していないと考える方が無理があります。
…わたしには、ですけど。


グラバーの支配は維新後も続きます。
大日本帝国の支配者(支配人)はグラバーです。
日清戦争、日露戦争におけるグラバーの活躍も大きかったのですが、
それよりも明治時代の元勲のほとんどはグラバーがヨーロッパへと密航させたグラバーの教育を受けた顔ぶれなのです。
みんな長崎のグラバー邸にも通っていました。

グラバーは東京へと居を移し、三菱の中に溶け込みます。
三菱は、グラバーから資本主義を学んだのです。
グラバーが日本に資本主義を植えつけたんだと、わたしは見ています。
現在の三菱はグラバーの三菱なんです。
資本主義と戦争はセットです。
資本主義が世界中の富を略奪しています。
三菱は日本の企業ではありますが、グラバーによって成長させられた西洋の意思を持つ企業なんです。
もちろん、三菱の従業員はそんなこと知りません。

資本主義のレールに乗せられた日本は、どんなときも国際金融の動きには逆らえないのです。
明治維新という革命によって、日本はすでに乗っ取られたのです。
あとは彼らは見えないところに姿を消せばいいのです。
すべて日本人の意思で動いていると思わせればいいのです。
日本人の力で世界第2位の経済大国になったんだと思わせればいいのです。
事実は違うのです。
米国が輸入してくれるからこそ日本は輸出大国となれたのです。

現在は、その計画の収獲段階だと思っています。
日本のこの不景気だってすべて演出されたものです。
インフレやデフレは自然現象ではありません。
意図的に起こされているんです。
経済学では教わらない彼らだけの金融学によって。

わたしには、これからの日本はもっともっと悲惨な状況になっていくと見えます。
グラバーの意思は現在も生きているんです。
グラバーはどこかから日本を見て笑っているかも知れません。

「太った日本をこれからゆっくりと食べさせてもらうよ…」とね。

明治政府も現在の政府も、国際金融資本に操られていた(いる)ことは、疑問の余地がないと思っています。
米国からはペリーが来ていました。
ペリーが日本をこじ開け、そこへグラバーがやってきたのです。

グラバーは現在も笑っている……