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新「授業でいえない世界史」 7話の1 古代インド インダス文明~ヴァルナ制度

2019-08-26 08:55:41 | 新世界史3 古代インド

【インダス文明】 ここからはガラッと変わって、インドに行きます。
 インドは東の川と西の川に囲まれた地域です。西のインダス川、東のガンジス川。今はこのガンジス川がヒンドゥー教の聖なる川として有名です。しかしインドの文明はここからではなくて、西のインダス川から発生しました。ここも四大文明の一つです。
 インド文明のことをインド文明とは言わない。インダス文明と言います。インダスとは、インドのという意味だから、同じことですけどね。

 これが今から紀元前2500年といいますから、今から4500年ぐらい前に文明が栄える。約700年間ぐらい。
  なんでそんなことがわかるか。文字はないから土の中から掘り起こす。その遺跡がモヘンジョ=ダロです。それからハラッパーです。東のガンジス川ではなく、西のインダス川周辺です。
 そこの遺跡を見ると、どういったことがわかるか。普通は文明ができると王が出てくるんですよ。中国でも出てきたでしょう。神権政治という神様と繋がっている王権が。
 でもここには、王がいた気配がない。王の宮殿のような跡がないんです。なぜなのか。死者の住む街だったから、という話もあります。


インダス文明(1) UFO University ( UU )



※ 地中海地域と西欧の巨石文化において、死者儀礼と結びついた祭祀センターはメンヒルやドルメンによって、まれには聖所によって聖化されていた。・・・・・・すでにあきらかにされたように、真の巨石文化的「都市」は死者のために造られた、すなわち、それらは死者の都であったのである。(世界宗教史1 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P187)


 では、どういう人たちがここに住んでいたのか。民族でいうとドラヴィダ系の人、この説が有力です。どういう人か。今のインド半島の南の方に住んでいる人たちです。そのご先祖様です。



 【アーリア人】 これが紀元前1500年頃突如、滅亡する。なぜだかよくわからない。とにかく都市があったということはわかる。いろんな噂があります。急に寒くなったとか、急に洪水が来たとか、異民族がやってきたとか。決定打がありません。

 ただ、なぜ滅んだかはわからなくても、異民族がインドに侵入してきたというのは本当です。ドラヴィダ人が住んでいた所に、新しく別の言葉を操る顔かたちが違う人たちがやってきた。彼らをアーリア人という。これがちょうどインダス文明が滅んだ頃なんですね。
 このアーリア人が今のインド人の中心になっていく。もともとどこに住んでいたか。インドの北西です。中国史でも、中国のずっと西のほうとしてでてきた中央アジアというところです。カスピ海の東あたり、今はカザフスタンとか、トルクメニスタンとか、ウズベキスタンのあたりです。
 そういったところから、半分は農業し、半分は牧畜をやっている、牛とか馬を飼っている、そういうやや気性が荒い人たちが侵入して来て、ドラヴィダ系の先住民を征服していった。そして奴隷にしていった。


※ 中国人というのは、インド人の祖先がはじめは確かに牧畜民だったのが、のちに農業民となり、さらに都市生活者にかわっていったケースとはっきりことなっている。(世界の歴史3 中国のあけぼの 貝塚茂樹 河出書房新社 P99)


▼アーリア人の侵入


 それが今にいたるまでインドの社会構造をつくっています。インドは今でも強い階級社会です。いわゆるカースト制度です。今でも政治問題になります。



【リグ=ヴェーダ】 彼らアーリア人がどういう宗教や神様を信じていたかというのは一つの文献が残っている。彼らが神を祭る儀式や、その時の祈りの言葉とかを書きとめている。これを「リグ=ヴェーダ」といいます。

 神様の祭り方、やっぱり政治に神様は欠かせないですね。個人の信仰よりも、この時代は、政治とか国家に神様はからんでくる。個人の信仰は、もっと自我の不安が大きくならないと出てこないようです。この時代にはまだ個人よりも、自分の属する集団や部族全体の安泰を祈る気持ちのほうが強かったようです。それが個人が集団や部族から切り離されて、自我の不安を意識するようになると、個人の信仰上の問題が出てくる。しかしそれはもっと後のことです。

※ (リグ・ヴェーダ時代は)諸部族の上に王(ラージャン)が支配権をもって君臨した。王位は時として選挙によることもあったが、ふつうは世襲であった。ただ即位にさきだって、人民の承認をうる必要があった。王権はかなり強大であったが、各部族の集会の「同僚のうちの第一位にあるもの」という資格で選ばれた。つまり、集会に集まった人民の意志によって制限を受けたのである。部族全体にかかわる重大な用件について意志決定をするときには、部族の有力者たちが提示した方針を審議するため、部族の全員が出席する集会がひらかれたことは疑いない。しかしこの集会が実際にどのような役割をはたしたかは、史料不足のため、ホメロス時代の古代ギリシャの集会に類似しているということしかわからない。王の最大の義務は部族とその領域の保護であって、外敵と戦い、戦利品としての土地、奴隷、家畜の分配を行い、部族員に対する懲罰権をもっていた。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P92)


 もともとドラヴィダ人が住んでいた地域に、中央アジア方面から、北西のカイバー峠を通ってアーリア人が侵入してくる。
 では昔からそこにいた人は誰か。それがドラヴィダ人です。彼らはアーリア人の侵入によって、ところてん式に押し出されて南に移動する。だから彼らは今もインド南部にいるんです。彼らが南のドラヴィダ人です。
 北がアーリア人です。アーリア人は白人です。もともとはイギリス人やドイツ人と同じ人たちです。インド人とヨーロッパ人はちがうじゃないかと思うけど、実はご先祖はいっしょです。

 今もインド人は公用語の一つとして英語を使ってますが、それはイギリスの植民地支配という不幸な歴史があったためですが、それとは別にもともとのアーリア人の言葉がヨーロッパの言葉と近かったということもあるのでしょう。だから根づきやすかった。
 日本人に英語を根づかせようとするのとは、わけが違うと思います。我々が使う日本語は、英語とはまったく違った言語体系をもってます。語順からして違います。だから日本人が英語を習得するのは大変です。

 この二つの民族が混血して何千年と過ぎると・・・・・・ドラヴィダ人は肌の色が黒かったから・・・・・・インド人の肌の色はだんだん黒くなる。しかもインドでは南に行けば行くほど肌の色は黒くなります。逆に北に行けば行くほど白くなります。同じインド人でも、かなり肌の色の違いがあります。
 インド人は肌が黒い人とばかり思わないでください。侵入してきたアーリア人はもともと白人です。

※ 「リグ・ヴェーダ」の記述のなかからはっきりと読み取れることは、インドに侵入したアーリア人がダーサ(原住民)と戦い、河を渡って新しい地域をかれらから奪ったという経緯である。・・・・・・原住民の多くは、アーリア人の攻撃にさきだって山中へ避難し、逃げおくれたものや捕虜になったものは多くのばあいに奴隷にされた。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P67)

※ アーリア人が彼らの軍神インドラの庇護のもとに、先住異民族をつぎつぎに征服し、しだいにその勢力をパンジャーブ地方へと拡大していったことは、インド最古の文献である「リグ・ヴェーダ」中の、インドラの悪魔退治の神話に伝えられている。(ヒンドゥー教 森本達雄 中公新書 P75)


 彼らアーリア人が、ドラヴィダ人を征服して奴隷化していき、インドに根付く階級制度を作っていきます。これがカースト制度です。あとで言いますが、今も残っています。決して過去のことではない。現在に結びついています。

 そういう新しいアーリア人が、次にはどこに移動するか。そのまま東のガンジス川流域へ進出していく。これが紀元前1000年頃、紀元前1500年から500年過ぎたころです。そうすると自分たちは白い。もともと住んでいた人たちは黒い。白と黒で差別していく。こういう階級社会、階級制度のことを現在では、ヴァルナ制度という。ヴァルナとは、もともとの意味は肌ののことです。肌の色で差別が発生します。



【バラモン教】 インドの宗教は、今はヒンドゥー教ですが、その前の段階がある。彼らアーリア人が信仰していた宗教はバラモン教です。
 インド人の宗教の特徴は墓がないんですね。つまりここには中国や日本に見られるような祖先崇拝の観念が非常に薄いのです。だからといって日本と関係ないのではありません。それどころか日本が一番影響を受けた宗教は、このインドの宗教だと言ってもいいくらいです。

※ ヒンズーの死者には墓がないのが普通である。・・・・・・インド全土において、祖先崇拝にはきわめてわずかな関与がなされるにすぎない。(比較文明社会論 シュー著 培風館 P41)

※ (インド人には、一族の)系譜を保存するということが、孝行にかかわる問題として、祖霊に対する供養になる、という感情は存しない。こうしたことはすべて、中国人の系図への関心とはっきりとした対照をなしている。(比較文明社会論 シュー著 培風館 P40)


 仏教の空の思想、「この世はもともと空だ」とか、聞いたことないですか。般若心経の「色即是空」、「空即是色」の「空」です。仏教思想は根本は「空」だから、人間死ねば空っぽになる。エジプト人のように再生を願って復活するためにミイラをつくったりしない。だから何も残らないように火葬する。火葬したら何も残らないでしょう。または墓をつくらずにガンジス川に流す。

※ インド人は生と死のすべてを自然の大きなめぐりと観じ、霊魂は肉体の死後も生きつづけ、天界の楽土に赴き、祖霊たちと再会したのち、やがて再びこの世に生まれかわるのだ。そして自分は、少なくとも今生で、あれこれ善い行いをしてきたのだから、来世はきっと現世より幸多く生まれるに違いない、そうした期待と信念を胸に抱いているのである。したがって、魂のぬけた亡骸に彼らはなんの未練ももたない。死体は空の器にすぎないのであり、蛇のぬけがらのように不要である。こうして周知のように、ヒンドゥー教徒は墓をつくらず、死者は荼毘に付し、遺骨は砕いて灰とともに天国に通ずる聖なる川に流すのである。(ヒンドゥー教 森本達雄 中公新書 P15)


 さすがに今は衛生上よくないということで、あまりしないようですけど、我々が小さい頃はよくそんな写真を本で見ていた。
 人が体を洗っているガンジス川で、死体がプカーっと浮いて流れている。殺人だ、と日本人だったら驚きそうなシーンを、インドの人たちは「また聖なる川に死体が流れているな」と平然としている。それで終わりです。だからインドには墓がない。
 日本も火葬しますけど遺骨を残します。そしてそれを墓に入れる。だから日本の仏教思想は完全に「空」ではない。別にそれがいけない、と言っているわけではありません。ただ違いを言っているだけです。

 アーリア人の考え方は、宇宙の神様はブラフマン、自分の心はアートマン、この2つです。バラモン教のバラモンはこのブラフマンが訛ったものです。

※ サンスクリットでは、この究極実在としてのブラフマンとヒンドゥー教の創造神ブラフマー(梵天)は同じ語だが、前者は中性名詞で主格形もブラフマンであるのに対し、後者は男性名詞のため主格形はブラフマーとなる。またブラフマンの力をつかさどる祭官のことをブラーフマナ(バラモン)という。(エンカルタ百科事典)


 BRAHMAN(ブラフマン) → BARAMON(バラモン)となります。ブラフマンとアートマン、なんかウルトラマンみたいですが、漢字でいうとです。中国人がこういう字を当てはめたのです。
 人生の目標は「こういう宇宙の神と自分の心を合体すること。それで人生は成功なんだ」というものです。でもそれはタダではできない。そこに修行という考え方も出てくる。
 これはヨーロッパのキリスト教徒ともだいぶ違う。中国から日本に仏教は伝わりますから、そういうのを漢字で梵我一如という。これは中国人がインド思想を漢字で表したものです。梵我一如とは「我が梵と合体して完全に消えてなくなること」です。インド人にとって理想の死に方は、無になることです。これは命の再生を願ってミイラをつくった古代エジプト人とも違いますし、復活を願うキリスト教とも違います。

 これができる人は、世の中の自分のいろんな欲求、これを「煩悩」といいますが、その煩悩から解き放たれて、すがすがしく心が解放された状態になることができる。その状態を「解脱(げだつ)」といいます。日本流にいうと「悟り」です。これが人生の目標です。
 そうなるためには、生きているうちから修行を積み重ねる必要があるのです。そういう修行をしないつまらない人間ほど、何度でも生き返ってしまう。それを「輪廻(りんね)」というのですが、最高の死に方はその輪廻の悪循環から解き放たれて、2度と生き返らない状態、つまり「無」になることなのです。

※ 「梵我一如」と「輪廻」という2つの矛盾したものが、どうして融合するようになったのか。この当時(ウパニシャッド哲学の時代)にあっては、この矛盾についてまだそれほどはっきりと意識されていなかったというのが実情であろう。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P125)


 そのためには修行しなければならない。修行せずにアンポンタンのように暮らしている人間は、幾ら年を取っても自分の欲望に押しつぶされて、苦しみの中に生きるしかない。完全に生きなければ、完全に死ねない。しかもそれを何度でも永遠に繰り返す。これが一番恐ろしいことです。

 そのインドの仏教が日本に伝わってくる中で、そのほかのインドの神様も日本の仏教の中に入ってきています。さっき言った全宇宙の神、ブラフマンは日本では梵天という。奈良の東大寺の大仏は、このブラフマンが仏教化したものです。そのほかにもいろんな神様がいて、インドは多神教の世界です。生きている間に時に応じていろんな神様を拝んでいいんです。

 インドの戦争の神様は帝釈天といいます。戦争神つまり人を殺す神様というのは「そんな神様がいるのか」と不思議な気もしますが、戦いの前に「ご武運を」と祈ることはどの社会にも見られる自然なことです。
 君たちは日本で連作回数最多の映画「男はつらいよ」シリーズとか知らないかな。「帝釈天で産湯を使い」という超人気の映画、渥美清の「男はつらいよ」シリーズがありました。あの帝釈天です。
 日本の戦争神、つまり武門の神様は八幡神です。鎌倉将軍家である源氏一族の守り神は、鎌倉の鶴岡八幡宮です。八幡神は武門の神様です。八幡さまは日本全国どこにでもあります。

 でもインドでは、他の地域に見られるような、神様同士の戦いは起こらなかったようです。あとで見るオリエントのように、神様同士の間に厳密な序列化は起こらないし、他の神様を殺して一つの神様だけを拝めということも起こりません。たぶんオリエントに比べて平和で、部族同士の血で血を洗うような戦いも少なかったのでしょう。だからいろいろな神様が生き残り、それに対する信仰が続いています。
 征服されていくドラヴィダ人も徹底して戦ったわけではなく、南に逃げるか、半ばあきらめてアーリア人の支配下に入ったようです。

※ (インド社会における)奴隷身分はきわめてゆるやかなかたちであった。ギリシア、ローマにおける奴隷のように、鎖につながれ、烙印を押され、鞭うたれて酷使されるのとはかなりちがっていて、温情をもってあつかわれている実例が多い。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P247)

※ ガンジス・ヤムナー両河地域に進出したアーリア人に対し、先住民は強く抵抗することはなかったようである。多くの者は第四のヴァルナ「シュードラ」とされた。・・・・・・シュードラはこのように隷属民として差別されたが、奴隷とは異なり、一般に自分の家族をもち、わずかではあるが財産を所有している。当時の社会には主人の所有物として売買や譲渡の対象となる「奴隷」も存在していたが、奴隷制は古代のインドでは発達しなかった。(世界の歴史3 古代インドの文明と社会 山崎元一 中央公論社 P80) 


 インドでは奴隷制は発達しませんが、このことはあとで言う奴隷制の上に立脚したメソポタミア文明(オリエント)や、ギリシア・ローマ文明と異なっています。本当に虐げられた奴隷は、「苦しいときの神頼み」で「救ってください、言われたことは何でもしますから」、そういう絶大なる一つの神を生みだし、それにすがりついていきます。
 しかし、ここは日本と同じように、ありとあらゆる神々がいる多神教の世界になります。シュードラは奴隷と訳されますが、奴隷の意味が、西洋と東洋ではかなり違います。

 ただ死後の世界に対する関心は深く、死後、個体は無になっても、個人のアートマンは全宇宙の神ブラフマンと合体すると考えられていた。しかしそれはヨガのような厳しい肉体的修行が必要だと思われていた。

 また死の世界を支配するヤマという神さまは、日本の閻魔(エンマ)大王です。生きている間に悪いことすると、三途の川を渡るとき、天国に行くか地獄に行くかというとき、閻魔大王に地獄に行けと言われて、そのときに針千本飲まされたり、舌を抜かれたりする恐い神様です。
 これは民間信仰ですけど、その舌を抜く神様の閻魔(エンマ)大王は、もともとインドのヤマという神様です。死後の世界を支配する神様です。

 それから、コンピラ船ふね♪ で有名な神社がある。日本の金比羅神です。これはインドではクンビーラという神様です。このクンビーラがコンピーラになり、コンピラになる。これももともとインドの神様です。

 それからアスラ神という怒ったら恐ろしい神様がいるんですが、日本史では奈良の興福寺の阿修羅(アシュラ)像として有名です。顔が3つ、手が6本、三面六臂の神様です。真っ赤な顔して非常に人気がある神様です。これももともとはインドのアスラ神です。
 さらに遡れば、このアスラ神は、隣のイランのゾロアスター教の神様であるアフラ・マズダがインド化したものです。AFURA → ASURAというふうに訛ったものです。

 日本はこういうインドの神様を取り入れながら、同時に祖先崇拝を維持していきます。この祖先崇拝とインドの宗教を日本人がどのようにして融合していったかという問題は、われわれ日本人の宗教観念にとって重要なことです。日本人はどんな宗教でも取り入れる無宗教な国民ではありません。そこには異なる宗教を融合させるための努力がつづけられていきます。
 しかし融合できないものはきっぱりと、はねつけるときもあります。その代表的なものは、16世紀に伝来したキリスト教の拒絶です。しかしそのことは日本史で見ていくことになります。

※ リグ・ヴェーダに登場するこれらの神の中には、ゾロアスター教の神々やギリシャ・ローマの神々と共通するものも多い。例えば、天神ディヤウスはギリシャのゼウス、ローマのユピテルに、天空・友愛の神ミトラはゾロアスター教の大陽神ミトラに相当する。 また仏教にともない遠路わが国に伝来したものが多い。例えばインドラ神は仏教世界を守護する帝釈天、河神サライヴァティーは知恵と弁舌と財宝の神である弁財天、死者の国の神ヤマは地獄の支配者の閻魔大王としてわが国でも民間信仰の対象となっている。香川県の琴平町に祀られている金比羅はガンジス川のワニ(クンビーラ)に由来する竜神である。(世界の歴史3 古代インドの文明と社会 山崎元一 中央公論社 P54)

※ インド・アーリア人の宗教は他のインド・ヨーロッパ系諸民族と同じく、天体、天空、大地など、自然の威力を崇拝するもので、主な神々は33体を数えた。 最も重要な上の1つは風雨の神インドラであった。
 人間が死ぬと霊魂は冥界に行き、ヤマ(死者の王、閻魔)に面接し、現世における生活の批判をされ、賞与または処罰されるものと信じられた。このころには転生の思想はまだ信じられていなかった。ヴェーダの宗教は古代イラン人の宗教と密接に関連しており、イラン人の最高神アフラ・マズダは、ヴェーダのヴァルナ神に類似している。しかしイランの宗教は前600年頃、ゾロアスターによって改革され、古い神々の多くは崇拝されなくなるが、ヴェーダ時代のインドの神々は、しだいに新しい神々によって交替されはしても、その影響は決して消滅しなかった。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P95)



【ヴァルナ制度】
 インドでは、そういう神様を持っていた白い肌の人たちが、黒い肌のドラヴィダ人を支配していくうちに階級社会をつくっていきます。
 これは俗にカースト制と言ったほうが通りがよいかもしれない。カーストが違うと、同じ教室ですら勉強できない。結婚するなどとんでもない。一緒に飯も食えない。そんなに根強い。カーストはポルトガル語だから、最近はこれを現地流にヴァルナ制度という。ヴァルナは「色」という意味です。白い人間が黒い人間を征服したから。これには4階級あります。

※ 「リグ・ヴェーダ」のときには支配階級としてこのクシャトリヤは確かに存在していたし、また王位はふつう世襲であったから、その当時、たとえ胚芽的なものであったにせよ、一種の貴族階級が存在したと考えられる。・・・・・・さらに部族をブラフマン(神権)、クシャトラ(王権)、ヴィシュ(平民)に区分している箇所があるから、種姓制度はまだ発展の途上にある萌芽にすぎないことは事実としても、後代の整った組織への素地がすでに存在していたことは否定できない。おそらくこの説をより妥当と見るべきだろう。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P91)



バラモン】 一番上は、日本でいえばお坊さん、バラモンです。インドではお坊さんが一番偉いんです。アレッ、と思いませんか。王様はその下なんですよ。

※ 部族の司祭者たちは、祭祀を頻繁に取り行って勝利や繁栄を祈願した。また機会あるごとにラージャンの偉業を讃え、気前いい贈与を求めている。ラージャンは、獲得した富のかなりの部分を祭祀のために消費し、また金銀、牛、馬、女奴隷などを司祭者に贈った。司祭者も同じ部族の成員であったが、祭祀の規則が複雑となるにつれて、その職は世襲されるようになり、その結果、ラージャニヤとは別の階層の形成が促された。(世界の歴史3 古代インドの文明と社会 山崎元一 中央公論社 P58)

※ インド古代史を通じてバラモンは、宗教や儀礼にかかわる議論では王権に対する自己の優越をあくまでも主張したが、現実の生活においては、王に従属し、与えられた職務を果たすことによって地位と収入を保証されている。・・・・・・
 バラモンはまず、特別な儀式によって王権の正統性を保証し、また呪術の力によって王と王国に繁栄をもたらす。こうした役割を果たすバラモンのなかで最高位にあっあるのが、宮廷司祭長のプローヒタである。次にバラモンは、王の守るべき神聖な義務を説くことによって、政治に参加した。王は法の制定者ではなく、バラモンの伝持する聖なる法(ダルマ)に従って統治する者とみられたからである。この面でもプローヒタが指導的役割を果たしている。さらに知識階級としてのバラモンは、大臣や裁判官として、また上下の役人として王に奉仕する。(世界の歴史3 古代インドの文明と社会 山崎元一 中央公論社 P76)

※ (アメリカ・インディアンの)ズニ族の政治の中心は、6人の僧侶からなる議会で、魔法が使われた場合どうするかとか、いつ誰が宗教儀式を行うか。といったことを決めた。・・・・・・僧侶の議会によって任命される、世俗政府とでも呼ばれる非宗教的政府があった。・・・・・・しかしこの政府の役人は、僧侶の議会がいつでもくびにすることができたから、たいした力はなかった。要するに神政政治の国家であった。(アメリカ・インディアン 青木晴夫 講談社現代新書 P155) 

※ 祭政一致の性格を強くもっていた当時の政事のなかで、王の諮問に答え、これを補佐する重要な顧問官として、「リグ・ヴェーダ」の讃歌が高い評価をあたえているのは、王の専属の司祭であるプローヒタ(扈従司祭・こしょうしさい)である。かれらは行政、司法業務をたくみに処理するバラモン政治家の先駆者であったばかりでなく、王にしたがって戦いにおもむき、祈祷と呪文によって王が勝利を得ることを助けた。その報酬は莫大であった。・・・・・・ヴェーダ時代の軍勢は、戦争のときには王によって指揮された。戦争には部族全員が従軍し、祈祷と呪文によって勝利をねがう司祭たちに鼓舞されたのである。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P93)



【クシャトリア】 王様はクシャトリアといって、バラモンの下です。王様よりもお坊さんが偉い。普通は逆ですよね。王様が普通は一番偉い。でもインドではその王様の上にバラモンがいる。

※ 紀元前10世紀ごろから、北部インドの中原を占拠したアーリア人が、ここに多くの都市国家を建設した。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P98)

※ 後期ヴェーダ時代(前1000~600頃)には、ガンジス・ヤムナー両河地域を中心に、部族王制といえる形態をとった国家が割拠した。これらの国はいまだ部族制を脱却してはいなかったが、部族集会は力を弱め、前代のラージャン(首長)よりもはるかに強い権力を持ったラージャン(王)が登場した。・・・・・・
 そうした王に特別な権力と地位を与えるための儀式が、バラモンによってさまざまに執り行われた。まず王は、頭上から聖水をそそぐ灌頂儀式をともなう即位式を挙行し、一般人とはかけ離れた神聖な力の持ち主であることを誇示した。・・・・・・祭式を執行したバラモンたちは、莫大な報酬をえたという。(世界の歴史3 古代インドの文明と社会 山崎元一 中央公論社 P66)

※ ブラーフマナ時代(前800~前500)には部族連合の国家のあいだで戦いが繰り返され、弱肉強食によって多くの部族が併合された過程で、王権がしだいに形成されていく。この王権形成の歴史は、ローマの共和制のうちから皇帝権が生まれていく過程を頭において考えると理解されるだろう。
 平等な市民権をもったローマ市民のなかで、その序列が第1位にあるもの(プリンケップス)にすぎなかった統領が、しだいにその権限を自分の一身に集め、・・・・・・人民に対して絶対的な権限を持つもの(ドミヌス)として皇帝に成長していく。それと同じように、古代インドでも、これまで部族の代表者としての資格をもつにすぎなかった族長が、のちには強大な王権をうちたてるように成長していくのである。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P113)

※ 王権の強化を目的とするこれらの儀式により、王の神格化への道が踏み出されたが、部族制を脱却しきれていないこの段階では、それはまだ形式的なものにとどまっていた。一方、儀式を執り行うバラモンは王に向かって、かれら(バラモン)を尊び、かれら(バラモン)の教えに従うことを誓わせている。(世界の歴史3 古代インドの文明と社会 山崎元一 中央公論社 P67)

※ リグ・ヴェーダ時代の部族制社会からブラーフマナ時代(前800~前500)の王制国家へと脱皮していく過程は、部族の有力な家系のひとつにすぎなかった族長の家が、王家としての権威を高めていくすがたを示すものにほかならない。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P115)

※ 後期ヴェーダ時代(前1000~前600年頃)におけるアーリア人の活動の中心は、ガンジス・ヤムナー両河地域であった。・・・・・・アーリア人部族のなかでも最有力であったバラタ族の王国の都は、ヤムナー河畔で今日のデリーの地にあたるインドラプラスタと、その東北のガンジス河畔に建設されたハスティナープラにあった。二大叙事詩の一つ「マハーバーラタ(バラタ族の大史詩)」は、バラタ族内部の王位と領土をめぐる争いをテーマとしている。・・・・・・デリー北方のクルクシュートラの平原でたたかわれたというこの天下分け目の大戦争は、現実には前9世紀ころ部族を二分して争われた小規模な戦闘であった。(世界の歴史3 古代インドの文明と社会 山崎元一 中央公論社 P68)


 でもこのことはイスラーム教と似ていて、イスラーム教国家も国家の頂点の大統領の上にはさらに宗教指導者がいます。だから王様の政治力によってではなくて、イスラーム教の宗教力によって社会が秩序づけられています。だから宗教国家です。

※(●筆者注) イスラーム社会には、強力な神がいても、強力な神官はいなかった。だから神官に邪魔されることなく、神の代理としての強力な王権(カリフ)が発生した。
 しかし次に述べるギリシャでは、強力な神官はいなくても、強力な神そのものがいなかった。神がいないところでは強力な王権のもつ宗教性は発生しない。だからギリシャに王は発生しなかった。
 このインドでは、王権を加護する強い神がいないにもかかわらず、バラモンという強い神官団が発生した。これにより王権は発生しても、王の力はバラモンにより抑制された。


 ただバラモン教はイスラーム教のように強い一神教ではないから、バラモンの支配は緩やかです。ということはバラモン教による国家統一は難しい。国家を統一するほどの強い強制力は持ちません。

 そういうバラモン教の世界で、なぜ仏教という新しい宗教が生まれたか。仏教はバラモン教による階級社会がイヤだったからです。
 そうすると王様は「そうだそうだ、バラモンは威張っている」、そう言って仏教になびいていく。王様と仏教はこの関係で良好です。バラモンは王様の上にいるんだから、王様にとっては目の上のたんこぶです。王様にとってはその権威は邪魔になる。そうやって広まったのが仏教です。仏教の平等思想はバラモン否定です。

 さらにその下の商人や農民はヴァイシャという。ここまでが白い人です。特に新しい都市社会で生きる商人たちは仏教になびいていく。
 さらにその下がある。肌の黒いドラヴィダ人はシュードラ、これは奴隷です。
 バラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ・シュードラこの4つです。

 カースト制は、それをなくそうと今も憲法でつとめているけど、なかなかなくならない。
 インドの王は力を持ちにくい。上にバラモンがいるから。インダス文明も王がいなかった。バラモン教もそうです。ヒンドゥー教もそうです。だからインドの古代王権は弱いんです。だから、のち16世紀にインドに帝国が復活するときは、支配層はヒンドゥー教ではなく、別の宗教つまりイスラーム教になっていきます。
続く。


新「授業でいえない世界史」 7話の2 古代インド 十六大国~マガダ国

2019-08-26 08:55:29 | 新世界史3 古代インド

【十六大国時代】 紀元前7世紀頃から、十六の大国が並び立つようになります。代表的なものとして、ガンジス川中流域のコーサラ国、ガンジス川下流域のマガダ国などがあります。

※【国家形成】

※ 仏教およびジャイナ教の文献によると、仏教とジャイナ教がおこるにさきだつ時代、つまり前7世紀の末ごろから前6世紀のはじめにかけて、北部インドには16の大国が割拠していた。これらは、前10世紀ごろに中原を占拠したアーリア人が建設した多くの都市国家群が、はげしい生存競争を繰り返した末、生き残った有力なものが他を併合して、しだいに領域国家へと成長したものである。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P127)

※【王とバラモン】
※ 領域国家を形成した叙事詩時代(前6世紀~前5世紀)になると、しだいに政治組織が複雑になり、これにともなって、王侯に専属するバラモン祭司(プローヒタ)の勢力が増大した。彼らは祭典と呪文を独占し、王の戦勝や治績を、すべて司祭の行う儀礼の効果であり、霊威(魔術)の結実であると主張して、その特権を独占するようになった。王がその神聖な権威を社会的に承認されるためには、バラモン祭司の保証がどうしても必要となったのである。
 この点では、神政政治を行うバビロニア王が、祭司階級から保証を受けなくてはならなかった古代メソポタミアの領域国家に類似している。ただ、インドにおける王権は、エジプト、メソポタミアのそれにくらべて、はるかに微弱であった。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P139)

※【マガダ】
※ (前10世紀~前7世紀末には)のちに北部インドの覇権をにぎるようになるマガダは、 このころにはまだバラモン文化に浴さない東方の後進地域にすぎなかった。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P98)    

※ 「ヤジャル・ヴェーダ」には、マガダは「声高い喧騒」の地としてえがかれている。これはこの地がまだ完全にはバラモン文化に同化されず、土着民の血が優勢であったことを示している。そのため後世になって、マガダは反バラモンをとなえる仏教の本拠となったのである。バラモンよりも低い階級であるはずのクシャトリヤ階級に、逆にバラモンが従属していることが仏典に明示されていることは、バラモン文化に同化されていないマガダの気風を示しているものといえよう。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P107)

※【コーサラ】
※ バラタ族の国の東方では、アヨーディアーに都を置くコーサラ国が栄えた。二大叙事詩のうちのもう一つ「ラーマーヤナ(ラーマ行状記)」はこの国の王子ラーマを主人公としている。(世界の歴史3 古代インドの文明と社会 山崎元一 中央公論社 P72)




【仏教】 仏教はどこの宗教ですか。日本古来の宗教だと思っている人が時々いますが、そうじゃない。ちょっと勉強したつもりで、仏教は中国から伝わったから中国の宗教だ思っている人がいますが、これも間違いです。仏教はインドの宗教です。

 日本にも仏教が根づいていますが、では日本古来の宗教はなかったのか。そんなことはない。日本には神道という日本古来の宗教があります。これがお寺と神社の違いです。このクラスの中にもお寺と神社の区別がつかない人がいるはずです。
 地図でも、神社は ⛩ のマークで、お寺は卍のマークです。神社では力強く両手で柏手(かしわで)を打つけど、お寺では静かに合掌(がっしょう)します。お正月は神社に三社参りをするけど、お盆にはお寺参りをする。結婚式は神道で、お葬式は仏教です。
 お葬式で若いお姉さんが間違って柏手を打ったのを見たことがあるけど、あれだけはやっちゃあいけないな。


 バラモン教に反発して出てくるのが仏教です。バラモンに対抗する宗教だから、王様やそれと結んだ商人に人気がでます。ちょうどそのころお金が発生し、商業が発展した時代です。インドにも都市が誕生して金持ちが出てきているころです。これと歩調を合わせて「バラモン教はおかしい」という仏教がでてくる。「そうだそうだ」と王や商人がそれになびいていく。基本はバラモン教批判です。

  あと一つ、仏教だけではなくて、バラモン教批判をしたインドの宗教、ジャイナ教というのがある。これも信者は少ないけれども、まだインドに残っています。

 紀元前5世紀、今から2500年前頃、中国では孔子が出た頃です。このあと言うけど、ギリシャではそのころソクラテスが出てくる。ここらへんは、歴史に残る頭のいい人たちが一気に申し合わせたように出てくる。一つの歴史的転換点です。
 紀元前5世紀、そのころ発生したのが仏教です。インドの宗教です。始めたのはお釈迦様です。これはあだ名です。本名は、ガウタマ=シッダールタという。インド語だから言いにくいです。でもこれが本名です。お釈迦さんは空想上の人物じゃない。実際にいた人、生身の人間です。

※【ブッダの出身地】
※ 仏教の開祖ゴータマ・シッダッタ(ガウタマ・シッダールタ)はヒマラヤ山麓に拠っていたシャーキヤ(釈迦)族の有力者の家に生まれた。シャーキヤ族の本拠地はカピラヴァストゥ(カピラ城)であるが、この地をネパール領内のティラウラーコートとみるか、インド領内のピプラーワーとみるかをめぐって、両国や日本の考古学者の間で論争がたたかわされてきた。(世界の歴史3 古代インドの文明と社会 山崎元一 中央公論社 P120)

※ ブッダがシャキャムニ(釈迦牟尼、サカ族の聖者)と呼ばれていることは、その宗教の発生がインド世界外にあることを暗示している。・・・・・・サカ族は当時ネパールとの境界に居住したカピラヴァストゥの人民を指しており、名義上はコーサラ国に所属していたとはいえ、実質的には独立した存在であった。・・・・・・ブッダにはアーリア的雰囲気がきわめて稀薄で、したがってバラモン主義が地盤を確立していない社会に成長したことは明らかであって、仏教がバラモン主義にたいして批判的な立場をとったのもきわめて自然ななりゆきであった。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P162)

※ ブッダの時代の東北インドに存在したガナ・サンガ国の民族系統については、実際にはその多くは、アーリア文化を導入しクシャトリアと自称した先住農耕民の有力部族であったと思われる。 おそらくシャーキャ族などもそうした先住民であり、クシャトリヤを自称するという形でヴァルナ制度を採用したが、この制度に伴うバラモンの優越的地位を認めることには抵抗を示した。(世界の歴史3 古代インドの文明と社会 山崎元一 中央公論社 P91)

※ ここで忘れてならないのは、ゴータマはインド人ではなかった、という事実です。ゴータマ・シッダルタはヒマラヤ山麓の小国の王子として生まれています。このクニは本当に小さなクニでした。サーキャ族というモンゴロイド系の民族によって立てられたこの王国は、数百メートル四方ほどの小さなカピラ城を中心として、インド平原とヒマラヤへの中間地帯に位置していました。サーキャ族は、インドの宗教とは違う、彼ら独自の民族宗教を信仰していたようです。おそらくモンゴロイドの伝統に直結する、一種の「知恵の宗教」であったと考えられます。・・・・・・渡辺(照宏)先生は仏教を次のように定義しています。
仏教はシャーキャムニがはじめて説いたものではなくて、非アーリア民族がヒマラヤ山麓地方で古くから信じていた宗教にもつづくものであり、シャーキャムニはこの民族宗教を深くきわめた上で、ガンジス河の南岸マガダ国においてバラモンの宗教と対比して新しく仏教として説いたものである。(宮坂宥勝 「仏教の起源」 山喜房書林 1971年への解説)」
 ・・・・・・シャーキャムニ(サーキャ族の宝)王子の父親は、小さなクニの王だったと言われています。このクニをたしかに王国と呼んでもよいでしょうが、そのクニでおこなわれていた習慣や法律などを、仏典によって調べてみますと、強大な王を頂点とする国家と言うよりも、共和制国家に近い性格をもっていたことがわかります。シャーキャムニ王子の父親は、いちおう王ではありますが、その性格はむしろ首長に近い存在であったように思えます。(カイエ・ソバージュ2 熊から王へ 中沢新一 講談社選書メチエ P207)



【出家】 なんでおシャカさまというのか。彼はシャカ族の王子であったからです。ということは彼はバラモン階級ではなく、クシャトリア階級です。シャカというのは、その一族の名前です。だからお釈迦様です。
 ただ王子だから王になったのかというと、「オレは王になるのは嫌だ」と言って、嫁さん捨てて、子供も捨てて、お釈迦様は家出する。家出では格好悪いから、俗人がお坊さんになることを字をひっくり返して、出家という。出家とは、坊さんになることです。でも字を逆にすると家出です。嫁さん・子供を捨てて、救いの道を求めたと言えばカッコいいけど、捨てられた方は悲しみますよね。

 一昔前、オーム真理教という世間を騒がせた宗教がありましたが、それにハマって出家した人の親は悲しみましたね。宗教にはそういうところがあります。でも人間に宗教はつきものです。宗教のない歴史はない、と言ってもいいくらいです。

 その救いを求めるうちに、お釈迦様がたどり着いたのは、バラモン中心ではない、カースト制度ではない平等観です。
 我々のように平等観に親しんだ日本人から見ると「差別とか階級とか奴隷とか、何でそんなことがあるのか」と不思議に思うかもしれませんが、世界史を見ると戦争に負けた人間はふつう奴隷になっていく。そして当たり前のごとく階級が発生する。差別が生まれる。けっこう怖い社会です。
 日本は世界の中でも平和な国じゃないかな。内側から見ているだけでは、なかなか分からないけどね。他のところではもっと簡単に殺されたり、奴隷になったりします。



 【四苦】 仏教では、世の苦しみ、生きる苦しみとして、四つの大きな苦しみがある。生・老・病・死。これが人生の四大苦です。四苦と言います。
 これ見て驚くのは、死がイヤというのはわかる、病気がイヤもわかる、老つまり老いていくはイヤだというのもわかるんです。でも「生」つまり生まれたこと、これが苦しみの最大のもので、これが四大苦の最初に来る。「生は苦しみである」と仏教はとらえた。

 仏教の特徴は「生きることはすばらしい」なんて口当たりのいいことを言わない。生きることは苦しみなんです。「生まれた瞬間に苦しみを背負って来る」という発想です。「生きることは苦しみなんだ。そこからいかに離れるか、脱出するか」、そこに修行という考え方がでてくる。今まで出てきた宗教とだいぶ違うんです。

※(●筆者注) 「生は苦しみである」という考え方は、東洋的ではなく西洋的である。これはアーリア系の考え方に近い。この考えは、都市国家が抗争を繰り返し、国家が成立する過程で形勢されたように思われる。ここにはメソポタミアやギリシャと共通するペシミズムがある。


 その苦しみから脱出することを「解脱」といいます。わかりやすくいうと、これが「悟り」です。それは自分だけではできなくて、全宇宙を支配するブラフマンと合体しなければならない。「自分が自分が」と言っているうちはダメなんです。
 そこから「無我」がでてくる。「無我の境地」とか「無念無想」とかよく言うでしょう。自分が無くすことが理想なわけです。西洋流の自己主張の考え方とは正反対です。西洋はどこまでも自我を拡大させていきます。この無我という考え方に強く惹かれるのがインド人です。このようなお釈迦様の考えに多くのインド人が惹かれました。

※(●筆者注) 同じペシミズムから出発して、神による「救済」に向かわず、修業による「悟り」に向かったところが、西洋とインドの違いである。 


 でもお釈迦様が自分のことを神様だと言ったことは一度もありません。お釈迦様は神様ではなくあくまでも一人の人間です。神様はどこにいるか。それはお釈迦様ではなく、インドに古くからいる神々です。
 お釈迦様はそういう神様に近づくための方法を説いたのです。「神様に近づいて合体する」、そうすることによって「解脱」できる。つまり「悟り」の境地に達することができる。お釈迦様はその悟るための方法を説いたのです。
 それが修行です。修行をしなければ人間は何度でも生き返って、輪廻転生の無間地獄から抜け出すことができないのです。
 キリスト教のような復活の思想と違って、仏教ではダメな奴ほど生き返るのです
 逆にいうと「完全に生きなければ、人間は完全に死ねない」のです。完全にであって、完璧にではありません。完全に生きることができないから、完全に死ぬこともできず、何回も何回も生き返ってしまう。仏教が最も恐れたのはそのことです。

 先日亡くなった女優の樹木希林が、「この体をすり切れるまで使って、使い切って死にたい」と言ってましたが、そんなイメージでしょうか。樹木希林は年を取るごとにいい女優になりました。美人ではなかったけど、いい味出してました。あんなふうに年を取りたいですね。

 釈迦はそういう教えを無理矢理に説いたのではなく、教えてくれという人が集まってきたから、その方法を教えてやったのです。イエスという人間が神様のようになったキリスト教・・・・・・こういうとキリスト教徒は怒りますが・・・・・・とはここが大きく違います。その教えて欲しいという人たちがお釈迦様の弟子になって、やがて仏教教団を形成していきます。余計なことですが、これをサンガといいます。

※ 教祖であるゴータマが仏陀すなわち覚者として性格をもち、けっして神的存在でなかったことは、仏教が人間としての自覚、したがって解脱に到達する道を説く教えであって、西洋流の概念による宗教ではないことを示している。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P160)



【商人の支持】 ただ仏教が広まったのは、お金持ちが住む都市だけです。そこのお金持ちと商人です。地方の田舎にはあまり浸透しなかった。商人は、勝ち気で派手でお金に目のない人間が多いのに、なぜ生が苦しみであるという仏教の信者になるのか、感覚的にはまだちょっと私にもわからない。

 ただよく説明されるのは、王様から見たら、バラモンが王様よりも上にあることが気にくわない。それを否定してくれる宗教が便利だ。だから仏教が、王様の保護を受けていくようになる。その王権と商業が結びついていく、という説明です。
 確かに仏教は、権力とか、富とか、お金については何も言ってませんね。「仕事とは関係なく、心の問題だ」と言っているようにも思われます。商人もお金儲けには関係なく、心の問題として仏教を信仰していたようです。

※ 厳格派のバラモンたちは都市の生活を軽視し、商業とりわけ金融業を低級な職業とみていた。これに対し、仏教ではそれらの職業による利潤を正当に評価しており、また商人からの経済的援助を受けていた。(世界の歴史3 古代インドの文明と社会 山崎元一 中央公論社 P98)

※ 初期の僧院としては、マガダ国の都ラージャグリハの竹林精舎とコーサラ国の都シュラーヴァスティーの祇園精舎が名高い。前者は長者の寄進した竹林に国王ビンビサーラが僧院を建てたものであり、後者は ジェータ(祇陀、ギダ)太子の園林つまり「祇園」を長者が買い取り、僧院を建てて寄進したものである。二つの僧院は、初期の教団が王侯と商人によって経済的に支えられていたことを語っている。(世界の歴史3 古代インドの文明と社会 山崎元一 中央公論社 P127)



【貨幣の流通】 このころはインドに貨幣が流通し始めた頃です。それにともなって商業が活発化します。(貨幣については、次の古代オリエントのリディアのところで説明します)

※ 貨幣の使用もこの時代(仏教興起時代)に始まった。・・・・・・おそらく最初の貨幣は商人が取引上の便宜のために発行したのであろうが、それが広範囲に使用されるようになると、王ないし国家に発行権が移った。インドでは、前6世紀ころはじめて国家の保証印をともなった貨幣が発行されている。(世界の歴史3 古代インドの文明と社会 山崎元一 中央公論社 P103)

※ インド最古のコインは、ペルシャ人のアケメネス帝国の東部諸州で紀元前5世紀から前4世紀に発行されたコインとされている。コインは模倣されコピーされてインドの各地に広まった。そのコインは両面ではなく片面だけに刻印を打つ銀貨であり、その形も様々だった。同時にインドでは、鋳型に入れて鋳造する四角の銅のコインが作られ、それを変形させ打刻したコインも作られた。(知っておきたいお金の世界史 宮崎正勝 角川ソフィア文庫 P28)

※ ダレイコス金貨を鋳造させた(アケメネス朝ペルシアの)ダレイオス大王そのひとが、インダス地方をペルシア帝国に併合したのだから、このペルシアの金貨がヒンドゥークシュを越えてインダス地方に流れ流れ込んだ、と考えるのがしぜんであろう。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P189)


※ 初期の打刻印貨幣は地方的に流通したものであったが、マガダ国の発展とともにこの国の貨幣が広域で使用されるようになり、次のマウリヤ帝国の時代になると、五つのマークをもつ打刻印貨幣が、亜大陸内で広く流通するにいたった。マウリヤ時代の政治・経済の様子をかなりよく伝えている政治論書「実利論」によれば、官吏の給与は貨幣で支払われ、また刑罰の多くは罰金刑となっている。(世界の歴史3 古代インドの文明と社会 山崎元一 中央公論社 P104)



【氏族制】 アーリア人は、強い父系血縁集団を構成していました。

※ 「ダルマ・スートラ」は、通婚できる族集団の範囲を、いくつかに分けて規定しているが、その第1として、娘を同じゴートラ(姓)を持つものに嫁がせてはならないと定めている。・・・・・・この族集団(ゴートラ)とは、自分たちが共通の祖先から出ているという伝承にもとづいて、その祖先(氏族神)に供犠の祭祀をする父系の擬制血縁集団、つまり氏族である。ひとつの氏族に属するものは、みな同じ名である姓を、自分の名とともに名のる。・・・・・・姓(ゴートラ)をもっている氏族成員は、都市国家時代には、市民権を持った支配階層であり、すでに氏族制度がその機能を失っている領域国家時代には、由緒ある家系をもつ一種の貴族層であった。そしてこの貴族層の女子は、結婚してからも、実家の姓を名のった。・・・・・・このことは、古代ローマにおいて、貴族の娘が生家の姓(氏族名)を名のる習慣をもっていたのと一致する。・・・・・・このような点からみれば、領域国家時代における古代インドの社会構成は、ギリシャ、ローマ風の「氏族的な」社会構成に類似している。この類似は、けっして偶然ではない。インド・イラン人と、ギリシア・ラテン人とは、ともにインド・ヨーロッパ語族に属し、原始アーリア人を共通の祖先としたふたつの支派にほかならないからである。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P130)

(●筆者注) 日本でも、源頼朝の妻である北条政子は、結婚したあとも北条政子でありつづけた。室町時代の足利義政の妻である日野富子も、日野富子でありつづけた。しかしこのことをもって夫婦別姓を論ずることは危険である。現在とはちがう社会構造があったことを、よく念頭におくべきである。逆にいえば、日本がそのあと、なぜ夫婦同姓を選択し、そこで女性の権利がどう保護されたかを、理解したうえで考えるべきことである。



【マガダ国】 紀元前357年頃、インド北東部のマガダ国にナンダ朝が起こります。そこで大きな事件が起こります。

※ (アケメネス朝ペルシャの)ダレイオス大王が西北インドを併合したのは、・・・・・・マガダが領域国家として発展したのと、ほぼ同じ時代である。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P190)

※ ガンジス川流域でマガダ国が興起したころ、西北インドには十六大国の一つガンダーラ国が存在した。・・・・・・しかし前6世紀の後半にガンダーラ国は、南隣のインダス川中・下流域とともにアケメネス超ペルシアに征服され、その属州となった。(世界の歴史3 古代インドの文明と社会 山崎元一 中央公論社 P146)
(●筆者注) このガンダーラ地方は、のち仏像彫刻の発祥地となりガンダーラ美術を生みだした。


 これで終わります。ではまた。


新「授業でいえない世界史」 8話の1 古代インド マウリヤ朝~ヴァルダナ朝

2019-08-26 08:54:06 | 新世界史3 古代インド

【アレクサンドロス】 インドに初めて国らしい大きな国ができていくきっかけは、紀元前4世紀です。仏教が発生してから約100年後です。
 これもまだ言ってないけれど、今は地域ごとに縦に言っているからヨーロッパのことはまだ言ってないけれど、時々こういうことが起こるんです。どうしても言ってない人物に登場してもらわないと先に話が進まないことがある。

 ギリシャのアレクサンドロスという王様が、紀元前334年、ギリシアから世界征服を企てる。まだモンゴル帝国が出現する以前の時代ですから、当時としては世界最大の帝国を築いていく。西方のギリシャからインドまで征服して行こうとする。
 そしてインドの手前まで来ると、そこに大きな川があって進めなくなった。これがインドの西を流れるインダス川です。これを越えていたらインドはアレクサンドロスに征服されていたかもしれません。
 アーリア人たちはこういう危機を目の前にすると、「俺たちもウカウカしていたら征服されるぞ、強い国をつくらないととんでもないことになるぞ」という危機感を持った。そこで一気に国を興そうという機運が盛り上がってくる。

※ (アレクサンドロス)大王のインド侵入は、インド史上の重要な事件として、数々の影響をおよぼしている。そのひとつは、この侵入によってインドの統一が促されたことである。これまでなにものにも従属しないことに誇りをもっていた個々の部族の連合体が破壊され、これらの小さな部族国家は、単一の王国へと統合されるようになった。・・・・・・このことは古代統一帝国へ進むための障壁を取り除き、数年後にチャンドラグプタが、これらの諸国を大帝国に統合する事業を容易にしたのである。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P199)



【マウリヤ朝】 紀元前317年頃マウリヤ朝ができます。これがインド初の統一王朝です。インド全部じゃないけども70~80%ぐらいは支配下に治めた。王様はチャンドラグプタという。変な名前ですね。チャンドラとかグプタとかよく出てくる。一世、二世とかも。


The rise of Mauryan Empire 1 (Chandragupta)



※ チャンドラグプタはマガダのナンダ王家につながるものであるが、母方の家系が下賤であって、マウリアを姓とした。マウリアはクジャクのトーテムを示すものらしく、ヴェーダ以来のアーリア人ではもとよりない。軍隊の司令官をつとめたが、王の不興をまねいて身の危険を感じ、バラモンのヴィシュヌグプタと共謀して、ナンダ王に反旗をひるがえした。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P206)

※ 古い時代には、クシャトリヤの出身でない王は非合法と考えられていた。ところがマウリア王朝の王はクシャトリヤでない下賤の出身で、ナンダ王朝をほろぼしてこれにとってかわったものである。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P249)


  首都はパータリプトラというところです。これは北東部です。北西部か北東部かの違いは大きいです。北西部だと隣のイラン系になります。

▼マウリヤ朝



 二代あとの王様が仏教に深く帰依し、仏教を保護していく。バラモン教の保護ではありません。バラモン教は王の上にバラモンがいて、王の権威を認めないから目の上のたんこぶなんです
 その仏教を保護した王様がアショーカ王です。紀元前3世紀です。


The rise of Mauryan Empire 3 (Ashoka)



※ マガダはマウリア王家の発祥地であり、パータリプトラは古い伝統をもつこの国の首都である。古代統一帝国と呼ぶにふさわしい形式と内容をそなえたマウリア帝国の主権者アショーカが、父祖のときから受け継がれてきたマガダ王(ラージャン・マーガダ)という称号を最後までつかっているのは、インド世界の帝王であるとともに、マウリア王家の直轄領マガダ国の王であることをあらわしたものと考えられる。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P226) 


 キリスト教の聖典は聖書一つですが、仏教の聖典つまりお経は何万冊もある。弟子たちがずっと教えを深めて書いていくからです。そこに微妙に教えの違いが出てきて、どれが本当だかわからなくなる。
 だから仏教にはいろんな宗派が出てくる。「これじゃ分かりにくいから、教えをまとめよう」という作業が行われます。これを仏典結集(ぶってんけつじゅう)といいます。
 それを国家プロジェクトとしてやっていく。しかも宗教的指導者ではない王様がこれをやっていく。だからこれは国家プロジェクトです。でもだからといって他の宗教を禁止するわけではありません。他の宗教も同じように保護していく中で、特に仏教を保護したということです。ここがのちにいう一神教と違うところです。

※ メソポタミアの都市国家の政体は、祭政一致の専制王権であった。国家の主権者は国家の最高神であり、国家の君主は、主権者である最高神によって任命された神の代理人であって、国家の重要な役職は祭祀階級に独占されていた。・・・・・・メソポタミアのばあいには、都市国家時代に神殿祭司層がおおきな権力をもったため、その伝統が領域国家の時代にも存続し、神政政治を行うバビロニア王は、祭司層によって、正当な神の代理者であるという保証を受けなければならなかった。整った官僚機構と強勢な祭司層に支持された王権が強大であった点が、ギリシャ、ローマとはちがっている。・・・・・・
 (インドでは)むしろ王権は、呪術的な霊威をもつバラモン種姓によって制約された。メソポタミアやエジプトの君主が神の代理人というかたちで人民に君臨したような強力な王権が、インドには欠けていたことが特色としてあげられる。・・・・・・
 (ペルシアの)ダレイオス大王が古代ペルシア楔形文字で刻ませた磨崖碑文には、全知全能の創造主であり正義の神であるアフラマズダ大神の庇護を受けたアカイメネス朝の王が、「諸王の王」として君臨する正統性を主張している。
 同じように、アショーカ王がカロシュティー文字で刻ませた磨崖、石柱詔勅は、すべての民族に共通する人間の理法として仏教の「法」の実現につとめるようにうったえ、王者の優越した地位を権威づけようとしている。(世界の歴史6 古代インド 佐藤圭四郎 河出書房新社 P364)

※ 王の神格化への過程は、すでにヴェーダ時代から正統派バラモンによって進められていたが、非正統派思想の影響の大きかったマウリヤ朝の諸王についていえば、神格化にはあまり熱心ではなかった。・・・・・・王位の正統性を神の権威で裏付けようとする意図が認められるものの、神聖王の主張ではない。(世界の歴史3 古代インドの文明と社会 山崎元一 中央公論社 P165)


 インドは多神教だから、仏教だけ保護して他の宗教を禁止したら、他の宗教からの反発が大きくてとてもできません。逆にいうと、のちに言う一神教はそれをやるんです。他宗教を徹底して弾圧し、多くの血が流れます。仏教ではそういうことは起こりません。

 ヴァルナ制というバラモンが最上位にある中で、王様としてこうやって宗教の教えをまとめようとすることは、王権が政治的にバラモンの上に立とうとすることです。これは帝国を形成する上で非常に大事です。

※(●筆者注) 政教一致の一神教に対して、多神教のヒンドゥー教は政教分離である。ここで政教分離という意味は、政治的権威は王が受け持ち、宗教的権威はバラモンが受け持つという意味である。王がバラモンによって神聖化されることはあるが、王が宗教的権威をバラモンから奪おうとしたり、逆にバラモンが政治的権威を王から奪おうとすることはない。そのようななかで、政治的秩序の前に宗教的秩序ができあがっているのがインドである。いかに王であっても宗教的秩序に手を加えることは許されない。
 「(インドの)王は法の制定者ではなく、バラモンの伝持する聖なる法(ダルマ)に従って統治するものとみられた」のである。 (世界の歴史3 古代インドの文明と社会 山崎元一著 中央公論社 P77)
 この点アショーカ王がやろうとしたことはイスラーム社会と似たものを持っている。イスラーム社会も王は法を制定するものではなく、法(シャリーア)はウラマーと呼ばれるイスラム法学者たちの手によって解釈されるに過ぎない。イスラームの法は王の恣意的な意志によって制定されるのではなく、コーランやムハンマドの言行によって決められている。ただムハンマドの後継者であるカリフは宗教的指導者であるとともに政治的軍事的指導者でもあった。しかし、これと比較してみた場合に、インドの王には宗教的指導者であるという側面はまったくない。
 一つの例外として、紀元前3世紀に仏教を保護したアショーカ王は、征服戦争という手段を放棄して、非暴力的なダルマの政治をおこなう決意をした。
 「(アショーカ王は)帝国統一の理念としてダルマを掲げたのであるが、その目的を達成することはできなかった」のである。(世界の歴史3 古代インドの文明と社会 山崎元一著 中央公論社 P174)
 アショーカ王の試みは、王が宗教的権威をも手に入れることによって、それまでのバラモン階級による宗教的秩序に変更を加えようとした試みだととらえることができるが、インドではその試みは成功しなかった。バラモン教やヒンドゥー教のような多神教世界の王権は世俗的であり、一神教世界のような「この世のすべてを支配する神」の代理人としての聖俗両権に渡る権限が発生しなかった。 

※ 私は仏教というものを、対称性の思想に根ざした「野生の思考」の文明的に洗練された一形態と考えたい。(カイエ・ソバージュ2 熊から王へ 中沢新一 講談社選書メチエ P180)



【バクトリア王国】 アショーカ王の少し前に、あのアレクサンドロス大王の大遠征がありました。彼は何万人というギリシャ人の兵隊を引き連れている。彼らの一部がそこに留まり、その地を征服してインドの北西部に国を建てます。彼らはギリシア人です。その国をバクトリア王国といいます。紀元前3~前2世紀です。

 1000キロ、2000キロ、人間は軽く移動します。モンゴル人は、3000キロ、5000キロ、平気で移動する。
 だから同じところに1000年後に同じ顔をした人間が住んでいるなどとは思わないでください。100年経てば、1000キロか2000キロぐらい人間は簡単に移動します。10年で100キロというと、福岡県人が10年後には大分県あたりに住む。そう考えるとそんなに不思議なことではありません。



【クシャーナ朝】 そういうギリシャ文化の影響を受けながら、西北の方からインドに入ってきた新しい国がクシャーナ朝です。紀元後1~3世紀です。
 中国史では言わなかったけれども、クシャーナ朝の前にここには中国系の大月氏という国もありました。バクトリアとクシャーナ朝との間に大月氏という中国系の騎馬遊牧民の国があったんです。本当は、バクトリア  大月氏  クシャーナ朝、となります。ここらへんは四方八方から人が来ます。

※ 大月氏は領内に五諸侯を置いて統治させたが、百余年ののち、五諸侯のうちの一つを出していたクシャーナ族が強力となり、他の四諸侯を滅ぼしクシャーナ王として独立した。(世界の歴史3 古代インドの文明と社会 山崎元一 中央公論社 P187)


▼クシャーナ朝


  インド史をやっているのに、主人公はインド人じゃないです。そんなに簡単じゃない。いろんな民族が入ってくるから。
 逆にいうと、今はたまたまそこに今のインド人が住んでいるだけと思った方がいい。国が変われば民族がまた動いて、彼らが支配者になっているかも知れないし、もしかしたら奴隷にされているかも知れない。

 このクシャーナ朝はイラン系です。前のバクトリアはギリシア系です。ここはだいぶインドの西方で、インド全域を支配したわけではない。でもインドの王朝の一つに数えられます。
 このときのインドの首都はプルシャプラです。だからこれもインド北西部にあります。というよりインドをはずれて今のパキスタンの領域です。さっき言ったバクトリア王国はこのやや北側です。バクトリアはギリシア人の国でした。その前には、この地域にガンダーラという国もありました。

 いまインド史をやっていますが、このときの主人公はインド人ではない。イラン人です。
 この頃イランではパルティアという国が成立しています。そこでは別の宗教、ゾロアスター教が成立しています。でもインドに入ったイラン人たちはゾロアスター教ではなく、仏教を信仰していきます。



【大乗仏教】 このクシャーナ朝のころ、インド南部から新しい仏教が成立します。これを大乗仏教といいます。大乗とは大きな乗り物という意味です。
 これはクシャーナ朝領域外のドラヴィダ系のインド南部から発生します。ナーガールジュナという人・・・・・・この人は中国では龍樹と呼ばれますが・・・・・・この人が3世紀に大乗仏教を大成します。

 お釈迦様は何を求めたか。500年前に仏教が生まれたときは、自分個人の救済が中心だった。だから嫁さん捨てて、子ども捨てて家出したんです。しかし「それだけでいいのか」という疑問はずっと前からある。
 自分だけ救われて、それでおまえ満足なのか。満足だと開き直る人もいるかも知れませんが、「それはおかしいじゃないか」という人も出てくる。
 「自分だけ救われて、あとの者はどうなるのか。みんな救われないといかんのじゃないか」。インド人はこの思想に近づいていく。「そうだ、そうだ」と。
 「オレは救われていない。金持ちばかり救いの道を求めて、オレたちはそんな暇はない。毎日汗水垂らして働かないといけない。そんなに瞑想にふける暇はない。俺たちは救われなくていいのか。そんなことはないはずだ。すべての人が救われないといけないんじゃないか」。

 こういう考えの対立から出てきて、すべての人間を救うための宗教が発生する。だから「家出したり出家したりする必要はない。普通の生活をしながら、心さえ磨いておけば、出家せずに解脱することができる。悟りに達して、欲望を離れることができる」という教えです。
 実は日本に伝わったのは、お釈迦の生の教えではありません。その500年後に出てきたこの大乗仏教の教えです。日本仏教はこの大乗仏教です。「自分ばかり救われて何が楽しいのか、自分ばかりいい思いをして、それでおもしろいのか」。われわれ日本人にはこういう思い、ありませんか。
 この教えがインドから、中央アジアへ、そして北の方に伝わって、中国までたどり着きます。そして中国から朝鮮半島へ、朝鮮半島から日本へと伝わる。それがだいたい6世紀のことです。500年代の日本に伝わります。

▼仏教の伝播





【上座部仏教】 では、もともとのお釈迦様の教えはどこに行ったのか。これは逆に南に、東南アジアあたりに伝わっています。この教えは呼び方が違う。上座部仏教といいます。
 これは従来の教えどおりに出家しなければならない。だから東南アジアの若い青年、頭のいい人ほど、若い頃に2~3年、お坊さんになって修行するんです。
 そして托鉢(たくはつ)といって、「どうぞめぐんでください、米一合めぐんでください」と田舎を回り歩く。すると家のお母さんたちは喜んで布施を行う。それで「ありがとうございました」という感謝を知る。
 「そういう苦しい時期があったことを忘れるなよ」という思いも入っている。だからお坊さんに1度はならないと、立派な大人とは認められない。

 しかし日本は、みんながお坊さんにならなくてもいい。「きちんと自分で勉強して、心を磨いてさえいれば。ふだんの日常生活そのものが修行なんだ」、そういう仏教の違いがあります。
 だから日本には日常の仕事をビジネスとして割り切ってしまう発想はないのです。そこに仕事を一つの修行として捉える考え方が芽生えてきます。出家しなくてもいい代わりに、日常すべてのことが修行なのです。日本人のベースにはこういう発想があると思いますね。

 しかし出家しなくてもいいからといって、自由気ままに暮らしていれば、とんでもない人間ができあがります。その歯止めが効かなくなったときに日本の倫理観や道徳観がどうなるか、その危険性は常にあります。私は戦後70年経って、そのことが一番無防備な子供たちをパニックにおちいらせているように思います。
 日本に伝わってきた仏教は大乗仏教です。仏教伝来の日本へのルートは、北から伝わったから別名が北伝仏教という。

 仏教に2種類あって、一つは北に行った仏教、これは大乗仏教、または北伝仏教といいます。もう一つは南に行った仏教です。これは上座部仏教、または南伝仏教といいます。日本は北です。
 大乗仏教の中身は「自分だけ救われて何様のつもりだ、自分だけ救われて何の意味があるんだ」という教えです。日本人の考え方の土台にはこれがあります。私は日本の文化水準の高さの秘密は、ここら辺にあるような気がします。



【ガンダーラ美術】 それからこのクシャーナ朝時代には仏教美術が栄えていきます。これを発生地の名前をとってガンダーラ仏教美術といいます。3世紀頃です。ガンダーラとはインド北西部です。ギリシア系の地域です。
 今の仏教には、仏さんの像があるのが当たり前ですけど、それまでの仏教には仏さんの像はありませんでした。もともとお釈迦様は神様じゃないです。生身の人間です。キリスト教のような一神教から見ると、仏教は宗教ではない、という人もヨーロッパにはいるようです。
 「お釈迦様は神様じゃない」ということはわかります。ガウタマ=シッダールタという本名を持つ生身の人間だから、確かに神様じゃない。偉いのは偉いんでしょうけど神様じゃない。

 でもその点、キリスト教は違うんです。キリストさんも実在した生身の人間です。でもキリスト教は、イエスを神様にしていきます。日本人から見ると、生身の人間が神様になるという感覚は、なかなか分かりづらいです。
 しかしよくよく考えると、日本でも平安時代に生きた菅原道真が北野天神や太宰府天満宮に祀られて神様になっています。徳川家康だって日光東照宮に祀られて神様になっていますからね。でもこれは「人間は死ねば仏になる」という感覚に近い気がします。

 それに対してキリストさんは、もともと神様が人間の姿となって現れたという感覚らしいです。遠い国から来たスーパーマンが人間に化けているようなものです。だからキリストさんは神様なのです。
 お釈迦様は、心が救われる道を考え続けて、もがき苦しんだ生身の人間です。人間であって神様ではないのだから、神様としての仏像はもともとはなかったんです。

 しかしこの地域にアレクサンドロス以降はギリシア人が住んだ。ギリシャ人は人を彫刻するの大好きです。そして目に見えない神様を人間と同じ姿に彫っていく。
 これもまだ言ってないけど、ギリシャ彫刻は、女性でも裸にしておっぱい出して、男でもあそこをむき出しにして、ありのままの人間の姿を彫って、これが神様だと言ってはばからない。これは偶像禁止の考えからは出てこないことです。
 そういうギリシャ人の影響で「お釈迦さんもそうしよう、彫ろう」となる。そうやって仏像ができていく。発生地点がガンダーラです。ガンダーラというのは、クシャーナ朝の首都プルシャプラのちょっと北西です。
 仏像は西北インドから発生する。そこにギリシア人の文化があったから。だから初期の仏像にはギリシア彫刻の影響があります。この頃のお釈迦様の顔はギリシャ人の顔をしています。



【カニシカ王】 このクシャーナ朝に、紀元後2世紀に出てきた王様がまた仏教に帰依します。カニシカ王といいます。仏教を中心にして統一的な国の宗教にして行こう。みんな幸せになるためには、国を幸せにすればみんなが幸せになる。そうやって国家と結びついていくのです。そのための教えを統一していきます。また仏典結集を行います。でもアショーカ王のところで言ったように、他の宗教を禁止したわけではありません。神様を一つに限定する一神教世界とはかなり違います。

 このカニシカ王はイラン人です。イラン人が仏教を信仰している。この時代の仏教は国際色豊かです。ギリシャ文化の影響も受けている。南では大乗仏教も発生する。イラン人も信仰する。我々が今見る仏教とはかなり違ったものだと思われますが、それは逆に言うと、日本の仏教がそれを丸呑みするのではなく、いろいろ手を加えながら、日本に合う形に作りかえることに成功した姿だと思います。猿まねではないということです。



【サータヴァーハナ朝】 今までは北インドです。ではそのころのインドの南はというと、別の王朝があります。これをサータヴァーハナ朝といいます。紀元前1世紀~紀元後3世紀です。これはアーリア人に征服された側のドラヴィダ系の国家です。大乗仏教はこの地域で発生しました。

 そこに面している南の海はインド洋です。ここでは早くから季節風が気づかれていました。日本にも季節風が吹きます。横文字でいうとモンスーンです。夏と冬で風向きが違う風です。
 これは早くから気づかれていて、これを何に利用するか。帆掛け船です。船で貿易すればお金になるんですよ。珍しいものを100キロ、200キロ、500キロ、ずっと遠くに持って行けば行くほど、1万円のものが100万円になる。そういう貿易に命をかける男たちが早くから出てくる。
 このインド洋交易でこの国は儲ける。だから1000年の間に、アラビア人も来れば、イラン人も来る。彼らの多くはイスラーム教徒です。中国人だって東からやって来る。ローマ帝国とも交易しています。

 まとめると、古代インドは、インダス文明から始まってクシャーナ朝まで紀元3世紀まで来ました。王朝名はマウリヤ朝、バクトリア、サータバーハナ朝、クシャーナ朝と来たきたところです。日本関係でいうと、仏教はインド宗教であってインドから日本に伝わった経路は、北の方から伝わったということを言いました。
 そのクシャーナ朝が滅びました。クシャーナ朝はインドにおこった国だといっても、民族的にはインド人ではなかった。イラン系の人たちが支配者層だった国でしたが、これを次に土着のインド人が巻き返します。



【グプタ朝】 彼らが作った新しい王朝、これがグプタ朝です。紀元4世紀6世紀にかけてできました。それまでは紀元前4世紀にやって来たギリシャ人のアレクサンダー大王・・・・・・アレクサンドロス大王ともいいますが、別の読み方ではイスカンダルというのもアレキサンダーのアラビア語読みです・・・・・・そのアレキサンダー大王の影響でギリシャ文化がインドまで及んできました。
 しかしここでギリシア文化は・・・・・・ギリシア人のことをヘレナというからこれをヘレニズム文化といいますが・・・・・・そのギリシャ文化は消滅します。そして純粋インド文化に変わっていく。ギリシア風からインド風へという大きな流れです。

 この国で使われているインドの言葉は、サンスクリット語という仏教の経典が書かれている言葉で、今は誰も使わない死語になっていますが、この言葉はインド=ヨーロッパ語であって、このインド語とヨーロッパ各国の言語は親戚同士なんです。

▼グプタ朝


 このグプタ朝の王様がチャンドラグプタ2世です。前にマウリヤ朝のチャンドラグプタという王様がいましたが、今度はチャンドラグプタ2世というのがグプタ朝の王様です。
 このグプタ朝も5世紀になると、また異民族の侵入を受けます。エフタルという異民族が中央アジアから侵入し、このグプタ朝は衰退していく。そしてしばらくは小さい国が乱立している状態が続いていきます。



【インド古典文化】
 このグプタ朝で「これがインドだ」という純粋なインド文化が栄えていく。インドのことはヒンドゥーという。ヒンドゥー教というのは、H音は発音するとき鼻に抜けるので、本当はインドゥー教なんです。インドゥーというのはインドのことです。



【ヒンドゥー教】 この時代にヒンドゥー教が成立します。バラモン教の中に、ドラヴィダ系のインドの土着文化や民間信仰、その土地その土地の神が入っていく。そのヒンドゥー教というのは誰が発明したのでもありません。自然宗教なんです。その祈り方一式をまとめたのが「マヌの法典」です。人間の始祖マヌの啓示によって作られたといいますが、真作者は不明です。このグプタ朝時代に、そういう純インド洋式が復活します。

※ 「マヌ法典」は、王を聖法(ダルマ)の下位に置いている。王は聖法に従って統治する者とされるのである。この聖法はバラモンが伝持するものであるから、王はバラモンの教示を常に仰がねばばならない。・・・・・・バラモンもまた神聖な存在とされ、王の神格よりもバラモンの神格のほうが勝るとさえ説かれている。(世界の歴史3 古代インドの文明と社会 山崎元一 中央公論社 P208)


 さっき言ったアレキサンダー遠征以降、ギリシャ文化の影響を受けていたこの地域に、それを否定してインド様式が復活したのです。
 それと同時に仏教は、ヒンドゥー教と同化し吸収されていきます。だから、ヒンドゥー教と仏教の境界線はあいまいです。

 ちなみに、ヒンドゥー教にはキリスト教のような聖典はありません。キリストさんのような教祖もいません。神様も一つではありません。そこには種々雑多な神様がいます。それがおかしいとは言いません。日本と同じです。
 ヒンドゥー教とは何か、それを一言でいうのは難しい。ただそこには、すべてを飲み込むような懐の深さがあります。すべてを飲み込むのは、無限大に大きいものです。無限大に大きいものは、何がそこにあるか分からないものです。それは、無そのものなんでしょう。



【空の概念】 この時代のインドの偉大な発見は何か。数学上の何を発見したか。「無い」ということを発見した。無いものはふつう意識しませんが、インド人がはじめて「無い」とは、どういうことかを考えた。そしてこれをゼロと名づけた。「無」に名前をつけるということは、「無が有る」ことを自覚したということです。
 数学の世界では、このゼロが有るか無いかによって、数学の水準は格段に進歩したといわれます。言葉でいうと、無いものを発見したということですが、無いものを考えるというゼロの観念は、かなり抽象度の高いものです。ふつうは無いものは考えられないのですから。

 これはインド人の大発見です。なぜインド人はゼロを発見できたか。インドの仏教思想の中には一番大事な核になる思想として「」の観念があります。そのことは前にも言いました。だから何もないとはどういうことか、をずっと考えてきた。
 「色即是空」「空即是色」という般若心経の「空」です。
 こういうヒンドゥー教のなかに、仏教思想は息づいています。



【ヴァルダナ朝】 このグプタ朝の後、統一王朝としてはこれが最後になります。ヴァルダナ朝です。グプタ朝がその前の4、5、6世紀。短い王朝ですが、ヴァルダナ朝が7世紀。このヴァルダナ朝は全インド統一というよりも、北インド中心です。

▼ヴァルダナ朝



【玄奘】 中国では、このころ仏教が外国の新しい宗教として流行ってるんですが、仏教の本場はインドです。だから中国のお坊さんが、この時代のインドを遠路はるばる訪ねてきた。
 これが中国史でもやった玄奘です。仏典を求めて。仏典というのは仏教の本です。つまりお経です。中国史のところでもやったこの玄奘というのは、あだ名が有名です。三蔵法師という。

 三蔵法師といえば、孫悟空のお話をちょっとしましたね。孫悟空は空想上の話ですけど、孫悟空が仕えた三蔵法師というのは実在の人物で、この中国の偉いお坊さんです。本名は玄奘です。その話が変わり変わって孫悟空の話になっています。それが「西遊記」という明の時代の物語です。500年以上後になって書かれたものです。

 しかしこのヴァルダナ朝は約50年間という短期間で崩壊し、647年に滅びます。その後は今まで言ったような大きな統一国家は、インドでは発生しません。これでインドの古代史は終わりますが、このあとのことまで行きます。

※(●筆者注) インドの古代王権は仏教の興隆とともに栄えたが、仏教は王権の衰退とともにヒンドゥー教に同化・吸収されて、インドからはほぼ消滅する。
 紀元前4世紀から紀元後7世紀までの1000年間に栄える古代インドの王国は、アショーカ王をはじめ仏教の興隆に努めた。そこでは仏教はインドの王権を聖化する宗教としての勤めを果たした。
 ところが紀元後7世紀のヴァルダナ朝の滅亡を境として、仏教はその誕生の地インドから他地域へと移動していく。代わりにインド本土では、土着の民間信仰を取り入れたヒンドゥー教が広まっていく。
 このあとインド宗教の中心になったのはヒンドゥー教である。そのなかでバラモン階級も生き残っていく。バラモン階級は王族を上まわる最上級の階級としてインド社会に君臨しつづけたが、バラモンと王が対立していたわけではなく、バラモンは王族の要求に従って王権を神聖化することに協力した。王はもともとクシャトリア階級として、バラモンに次ぐ2番目の階級として位置づけられているため、王権の権威はバラモンの宗教的権威を超えることはできなかった
 一般に王権は武力的権力だけではなく、宗教的権威とも結びついていくものだが、インドの王権の場合にはこの宗教的権威が薄く、バラモン階級による宗教的権威の前にはそれに従うしかなかった。このようなところに、ヴァルダナ朝以後のインドに、強力な王権が誕生しなかった原因がある。
 一方でバラモン階級もその宗教的権威を利用して政治的権力を手に入れることには限界があり、みずからになろうとはしなかった。古代国家では宗教的権威を身にまとった者は、よく政治的権力まで手に入れるものだが、インドのバラモンにはそのような力はなかった。
 そういう意味でインドは宗教色の強い国家ではあるが、王権の弱い国家であった。しかし社会は、ヒンドゥー教の宗教的秩序によってバラモンの教えによる安定が保たれていた。政治権力者である王は、ヒンドゥー教の宗教的秩序のなかの一部として国家を統治することしかできなかったのである。

 これで終わります。ではまた。


新「授業でいえない世界史」 8話の2 インド ラージプート諸王国~東南アジア

2019-08-26 08:53:52 | 新世界史3 古代インド

【ラージプート諸王国】 このあとのインドは、小国分裂の状態が約500年~600年ぐらい続きます。この長い小国分裂の時代の国々をラージプート諸王国といいます。8世紀から13世紀まで、長いです。インドは戦国時代のようになっていく。
 このラージプートとはラージャ(王)の子、つまり「王子」という意味です。王子と名のる地方の親分さんですが、彼らは昔からの名族ではない。彼らが小さな国をいっぱい建てていった。 

※ ラージプートとはサンスクリット語のラージャプトラ(王子)の訛った形で、正統クシャトリヤの子孫であることを意味する。・・・・・・ラージプート諸王は実際には古代クシャトリヤの子孫であったわけではない。権力を握ったかれらは、自分らにへつらうバラモンの手を借りて神々や伝説上の英雄にさかのぼる家系を作成し、その出自を誇ったのである。(世界の歴史3 古代インドの文明と社会 山崎元一 中央公論社 P268)

※ (ラージプート諸国の)王はクシャトリア出身であることを誇り、またヴァルナ制度の擁護者をもって任じていた。そうした主張を宗教的に保証をしたのはバラモンである。・・・・・・このようなバラモンを王はさまざまに保護した。・・・・・・
 この時代に諸国の王はさかんにヒンドゥー教の大寺院を建立したが、これは不安定な王権を強化しようという政策の一環でもあった。(世界の歴史3 古代インドの文明と社会 山崎元一 中央公論社 P273)


 もともと小さい田舎の親分さんだから「オレが王だ」と言っても、いかにも権威がない。「王の権威を何によってカバーするか」、それが重要になっていきます。彼らは「ヒンドゥー教の神様によってオレは王に任命されたんだ」というアピールをしていく。
 ヒンドゥー教のなかにバラモンは生き残っています。そのバラモンの力によって、各地の王は宗教的権威を高めようとしました。しかしバラモンの力では大帝国をつくれない。だから小国分立が続きます。その一方でバラモンは地方の親分の協力を得て社会に根づいていきます。



【仏教の変化】 この時代には仏教よりもヒンドゥー教の神様がもてはやされていく。ということは、今まで流行っていた仏教はヒンドゥー教と同化してしまいます。
 別に仏教が弾圧されたわけではなくて、仏教が直感的に本質をとらえようとする密教化していって、ヒンドゥー教との見分けがつかなくなり、ヒンドゥー教の一つとして取り込まれていきます。
 インドで発生したときの仏教は今のインドにはありません。仏教は、インドの周辺の中国や東南アジアや、われわれの住む日本に残っています。仏教は日本の宗教ではありません。中国の宗教でもありません。インドの宗教です。では今のインドは仏教国かというと、インドはヒンドゥー教の国になっている。仏教はそういう複雑な動きをしています。



【カースト制】 もう一つ、このラージプート諸王国の500~600年の間に、インドの文化が強まって一つの社会制度が定着していきます。これがいわゆるカースト制ヴァルナ制)というものです。
 ヴァルナという4つの身分があり、それがジャーティという職業集団と結びついていきます。そして身分制度と職業がセットになった社会になっていく。だからカースト制は最近ではヴァルナ・ジャーティ制というようになっています。
 こうやって職業の世襲制が完成していきます。世襲というのは親から子、子から孫へと受け継がれることです。



【インドのイスラーム化】 この時代のインドは、ヒンドゥー教では大国家を作ることができずに小国に分裂したままですが、次にインドに大帝国を作っていく宗教が何かというと、それはヒンドゥー教ではなくイスラーム教です。
 しかしそれはインドがイスラーム化してからです。イスラーム教のことは後で言いますが、7世紀にすでにイスラーム教がアラビア半島で発生しています。 



【ゴール朝】 そのあとインドの近くにできた最初のイスラーム国家といえば、1148年ゴール朝です。今のアフガニスタンあたりの国です。
 今までインド人はイスラーム教徒ではなく、ヒンドゥー教徒だった。または仏教徒だった。しかしこのゴール朝はイスラーム教国です。北西インドから発生して、デリーというところまで進出してくる。インドに乗り込んできたイスラーム王朝です。その後、こういうイスラーム教国家がコロコロ変わって5つ続いていく。 



【奴隷王朝】 そのゴール朝の武将アイバクがゴール朝を倒して、自分が王様になってインドに君臨する。このイスラーム王朝の武将というのが、実は奴隷なんです。
 この奴隷のイメージが日本と違っていて・・・・・・奴隷がなぜ武将になれるのかと日本人の感覚ではわかにりくいのですが・・・・・・イスラーム教の兵隊は、もともと他民族から連れてきた奴隷なんです。そのうち有力な奴隷が兵隊をまとめて武力をもち、親分を倒して次の王様になったりします。こういうことは他のイスラーム地域でも、このあともよく出てきます。
 奴隷という訳し方が間違ってるともいわれますが、結婚の自由がなかったりするから、やはり奴隷だという見方もある。それで奴隷が王様になる。

 そうやって1206年奴隷王朝ができる。建国者はゴール朝の武将だったアイバクです。そしてこの後も、名前を変え、王様を変え、5つのイスラム国家がコロコロ変わる。奴隷王朝から、ハルジー朝、ツゥグルク朝、サイイド朝、ロディー朝、これで約300年間。この300年間をデリー=スルタン王朝(1206~1526)といいます。デリーにスルタンというイスラーム王の王朝ができたということです。これはすべてイスラーム教の国です。すべてデリーを拠点とし、北インドを押さえたということです。
 その次に全インドを含む大帝国ができる。それが16世紀に成立するムガール帝国というイスラーム国家です。
 インドはここまでです。


※(●筆者注) 古代インド最後の統一王朝はヴァルダナ朝(紀元7世紀)であるが、それ以後はインドは分裂していき、それまでのような統一王朝は見られなくなる。
 ヴァルダナ朝滅亡後のインドでは約500年間、ラージプート諸王朝というクシャトリア階級(王族)の国家が興亡を繰り返し混乱の時代に入っていく。彼らラージプート諸族は仏教勢力と結びつくことはせず、逆にバラモン勢力と結びついていく。
 しかし王たちは、インド古来のヴァルナ制度(のちのカースト制度)に組み込まれ、バラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラという4身分の秩序に従わざるをえなくなる。ここでの第一権力はバラモン階級であり、王族であるクシャトリア階級はそのバラモンの権威の下に置かれることとなる。その後、ヒンドゥー教は、インドの庶民のあいだに根づいていき、インドを代表する宗教になっていく。その一方で仏教は、ヒンドゥー教に同化していく
 ラージプート諸王朝の王たちは、バラモンによっては神に最も近い第一権力としての力を手に入れることができず、その結果、どこまでも俗なる世界の権力としての力しかもつことができず、国内を統一することができなかった。仏教がヒンドゥー教に同化した結果、仏教によって王の政治的地位を聖化することができなくなった。だから古代インドでは、仏教のヒンドゥー教への同化にともなって王権が衰退する。
 その結果、ラージブート諸王朝のあとは、16世紀に王権と宗教が一体化したムガル帝国というイスラーム国家が、インドを統一するようになる。



【東南アジア】  ここからは、東南アジアです。ベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、ミャンマー、マレーシア、シンガポール、インドネシア。これを一気にやっていきます。その間、1000年ぐらいを。
 この地域には、多くの民族、多くの国家が乱立していきます。この東南アジアは、数千年前から、人の流れは北から南に南下する。主に中国系の人々です。だから顔つきも似ている。何千年も前から、こういう人の移動が見られた地域です。
 東南アジアは文化的には、中国インドという二大文明の影響を受けている。どちらかというと、影響が早いのはインド文明です。最初に入ってくるのはインド文明。民族的には中国人の南下ですけど、文化的にはインド文明です。

※ 東南アジアの諸民族が国家の建設をはじめたのも西暦1~2世紀ころである。国家の形成期において、インドから移住したバラモンとその子孫たちは、さまざまな儀礼を執り行うことによって王権強化の一翼を担った。王とバラモンとのこうした関係は、その後の時代においても維持されている。(世界の歴史3 古代インドの文明と社会 山崎元一 中央公論社 P231)
 

 だからここは統一性がないんです。顔かたちは似ているけれども、言葉は違うし、文化も宗教も違う。多くの民族がごちゃまぜに混じりあっている。
 ただここは海に島がいっぱい点在して、船が往来します。おもに東から西に、貴重品がいっぱい、珍しいものが船に揺られていく。
 物は陸を行くのではありません。今のようにトラックで行くのはここ数十年ぐらいのもので、物を運ぶ時に大八車などは引いて行かない。船に乗せて運びます。日本でもそうです。陸を動くのは人間ぐらいのものです。物を輸送するときにはみんな船です。だから船を使った東西交易が非常に盛んです。
 ここをねらって世界征服を企てていくのがヨーロッパです。こんなところまであと500年経つとヨーロッパ人が進出してくるんです。そしてごっそり金目のものを持って行く。

 まずスマトラ島にできた国、7世紀頃、早いですね。スマトラ島はこれね。大きいから偉いんじゃない。インドネシアで一番中心は、ジャワ島です。ジャワ島のジャカルタという都市。これは一番大きな島にあるんじゃない。ここに人口が密集している。現在の中心はこのジャワ島です。
 しかしこのスマトラ島、ここにできた7世紀にできた国は、シュリーヴィジャヤ国。まずインドの文化、仏教が広まる。

  次です。人口が多いといったこのジャワ島の中部では、シャイレーンドラ朝。ちょっと遅くできて、早くつぶれた。このシャイレーンドラ朝も大乗仏教です。ここに壮大な仏教の世界をかたどった建物がある。建築物があるんですよ。これがボロブドゥールという仏教寺院の跡です。ボロブドゥール寺院。写真があった、これです。ボロブドゥール寺院、ジャワ島にある。これは仏の世界の建築物です。


【インドネシア編2019#9】ボロブドゥール遺跡見学ツアー他/Borobudur Tour【ジャコウネコ珈琲】



 ジャワ島の東半分に行くと、マジャパヒト王国。日本語では変な名前ですけど、マジャパヒト王国という。これは長く続く。1200年代から1500年代まで。

  次です。島ではなくて今度は大陸部です。カンボジアです。カンボジアにはアンコール朝。600年間、9世紀から15世紀まで。ここにはインドの文化でヒンドゥー教寺院が建てられた。アンコール=ワットという。最近非常に人気が高い観光地です。ヒンドゥー教寺院です。しかしこの後、仏教が盛んになってきて、このあと仏教寺院に変わっていく。



ANGKOR WAT DRONE FOOTAGE / カンボジアの世界遺産絶景!アンコールワットの空撮



 覚えにくいけど、こういうふうにいろんな人たちが覆い被さっていて、日本のように2000年の昔から日本民族がいるという歴史ではない。いって見れば日本民族が500年いて、次の騎馬民族が船で押し寄せてきて、さらに元のモンゴルの大軍の元寇が押し寄せてきて、日本が負けて支配されて、モンゴル帝国になって、そのあとまた北方の騎馬民族が日本を征服しにやってきて、そういうふうに何重にも人々が積み重なっています。
 そういう複雑な社会で国家を統一するために、宗教が重視されます。


※ カンボジアに残るアンコール=ワットをはじめ、中部ジャワのボロブドゥールなどを建立した支配者は、ヒンドゥー教のシヴァ神やヴィシュヌ神あるいはブッダの化身を自称し、壮大な宗教施設を建立し、王国が宇宙的秩序を体現していることを示そうとした。(詳説世界史研究 木村靖二他 山川出版社 P83)


 それから、ベトナム南部チャンパー。古い。2世紀から17世紀の1000年以上。
 それから、ミャンマーパガン朝。インドの東にある。
 それから、タイスコータイ朝、13世紀~15世紀。タイは今でも仏教の敬虔あらたかな国です。
  次に、マレー半島、細長いひょうたんみたいな半島、そこにマラッカ王国。14~16世紀。この地域が最初にイスラーム化していくのは、このマラッカ王国が15世紀イスラーム化してからです。ここから東南アジアのイスラーム化が始まる。

 世界最大の人口を持つイスラーム教の国というのはここ東南アジアの国です。西南アジアじゃないです。サウジアラビアでもない。世界最大の人口、2億の人口がいるイスラーム国家といえば、この地域にあるインドネシアです。


 それからこの時代、ここで重要なのは、海峡の名前を○をしていてください。マラッカ海峡です。このマレー半島とスマトラ島を抜けるためには、船はインド洋からここを抜けて、中国の沿岸の南シナ海に行く。このルートが一番近いです。ここを塞がれたら商売上がったりです。だから重要です。

 マラッカ海峡は、日本への石油も運ぶ。石油が止まったら、日本はパーです。その石油をアラビアから運んでくるタンカーは今でもここを通る。我々はさほど意識しないけれども、このマラッカ海峡は非常に大事なところです。ここを押さえているのがこの半島の先端にある小さな島、シンガポールですよ。
 シンガポールは大事な場所です。目立たないけど。シンガポールを取ればこのマラッカ海峡を押さえることができる。そういう国です。面積は日本の小さな県ぐらいしかない。しかしがっぽりお金を持っている。
 以上で、インドが終わりました。中国が終わって、インドが終わりました。
 これで終わります。ではまた。