【大和政権の発展】 7世紀、600年代、厩戸王、別名は聖徳太子、というところに入りかけていたところです。
この厩戸王と蘇我馬子の政治です。蘇我馬子は、仏教争いで勝利した崇仏派の蘇我稲目の息子で、実はこの馬子がずっと年長です。政治の中心は蘇我馬子です。
そして聖徳太子つまり厩戸王は、女帝推古天皇(位592~628)の摂政として、蘇我氏にお株を奪われないように様々なことを行った。どういったことをしたか。
603年に冠位十二階を制定し、翌年604年には十七条憲法を制定した。
※【聖徳太子】
※ 「聖徳太子」の事績については近年虚構説が出されて、論争が続いている。「隋書」は、600年に聖徳太子が隋に使節を派遣し朝貢したと記す。ところが、我が国の歴史書にはそうした記述が見られず、筑紫の大宰府などの出先機関が非公式に隋に使節を派遣したのではないかと考えられている。(「海国」日本の歴史 宮崎正勝 原書房 P45)
※【異説】 7世紀初頭、既に九州を中心に行われていた中央集権政治を、新たに畿内を含めた東日本で実施する。それらの地域では、これまで現地の王を通じての間接支配であったが、そこで初めて九州王朝による直轄支配を行おうとした。十七条憲法はそのために制定したものではないか。
これは九州王朝の天子が、(既に九州の本拠地で実施していた)官僚による直轄支配を、東国に拡大するための(新しく派遣する官僚と西国の豪族への)通達として作られたものであった。第一に、「君則天之」「国非二君」を示し、第二にその支配の正統性を支える仏教政策「篤敬三宝」をかかげ、第三に官僚の行動規範・服務規程を定めたものだ。『日本書紀』が示す十七条憲法を制定した聖徳太子は、九州王朝の中に実在したのである。しかも彼は、厩戸皇子ではない。(古代に真実を求めて 第23集 『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独〔消えた古代王朝〕 服部静尚 古田史学の会編 明石書店 2020.3月 P120)
※【異説】 「上宮聖徳法皇」とか、「聖徳太子」といった「厩戸皇子」の呼称は、九州王朝の天子「多利思北孤」の呼称である「上宮法皇」と、その太子「利(利歌彌多弗利)」に関する年号「聖徳」から採られたものである。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P143)
※【異説】 (7世紀は九州王朝の)日出ずる処の天子・多利思北孤(タリシヒコ)の時代に始まり、太宰府遷都や前期難波宮副都の造営、白村江戦での敗北、そして大和朝廷との王朝交代という、最も九州王朝が揺れ動いた時代です。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P82)
【遣隋使】外交面では、中国とのつき合いです。当時の中国は隋です。そこに使いを送った。遣隋使を派遣した。
この外交が異常だったのは、中国と対等外交を行ったということです。中国は対等外交を行わない国です。中国というのは世界の中心にある国だから、当然、中国が上でないと行わない。周りの周辺国家は頭を下げて、お願いでございます、と言って、つき合ってもらう。こういうことを、今までの日本も、卑弥呼の時代からやってきた。こういうのを朝貢というんです。朝貢外交、これが一般的なのに、厩戸王はこれをやらなかった。
それまで5世紀、400年代の中国との外交は、倭の五王という日本の5人の王が次々に中国と朝貢外交を行った。しかしそれ以降、中国への遣使は100年以上も途絶えていた。これを復活したのが聖徳太子です。5世紀は400年代です。いま聖徳太子は600年代です。約百数十年ぶりの復活です。
しかも対等外交で。このことがなぜ分かるのかというと、これもやっぱり卑弥呼の時代と同じように、中国の歴史書に書いてあるからです。これを隋書倭国伝という。
【日いずる所】 そこで607年、日本から出向いていったのが小野妹子です。名前に子がつくと今では女みたいですけれども、当時は男に子がつく。小野妹子は男です。
当時の隋の皇帝は誰か。隋の煬帝(ようだい)という。
ここで、天皇からの国書を渡す。国を代表した手紙です。これを渡したところ、そこに書かれてあった有名なフレーズが、「日いづるどころの天子、書を日没するところの天子におくる、つつがなきや云々」という言葉です。これを見て隋の煬帝は、真っ赤になって怒ったという。日本を日いずる国、中国を日没する国、それに怒ったと捉えがちですが、日いずるところの「天子」、それを日没するところの「天子」に送るという、この天子と天子が問題なんです。これが対等貿易です。当時は対等貿易などという言葉がないから、これで対等です。普通は、こちらは日本が王であったら、中国は皇帝で、一ランク上の称号でないといけないけれども、どっちも天子とした。日本の天皇は中国の皇帝と同格だということです。
ちなみに日本という国号は、この「日いずるところ」が日の本となり、日本となったといわれます。そして701年の大宝律令制定のとき、正式に「日本」が国号になります。
この遣隋使のことを中国の歴史書である「隋書」はこう書いています。
「600年、姓を阿毎(アマ)、字を多利思比孤(タリシヒコ)、号を阿輩雞弥(オオキミ)という倭王が、使者を中国の皇帝に派遣してきた。607年、倭国王の多利思比孤(タリシヒコ)が、使いを送って朝貢してきた。」と。
ここで不思議なのは、推古天皇でもなく、厩戸王(聖徳太子)でもなく、「タリシヒコ」になっていることです。このタリシヒコとは誰なのか、タリシヒコは男の名前だから女帝の推古天皇ではありません。厩戸皇子の別名でもありません。よく分からないのです。
さらに607年には「朝貢」と書いてあります。「朝貢」とは臣下としての使いです。つまり中国側はこれを「対等外交」とは思っていなかったようです。
※【九州王朝の多利思比孤(タリシヒコ)】
※【異説】 「旧唐書」には「倭国伝」と「日本国伝」が別に建てられ、「倭国伝」には「倭国は古の倭奴国なり」「世、中国と通ず」「其王の姓は阿毎氏」とある。これは九州王朝のことを指すから、九州王朝は唐や歴代中国の王朝からは「倭国」と認識されていたことになる。(古代に真実を求めて 第20集 失われた倭国年号〔大和朝廷以前〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2017.3月 P21)
※【異説】 「隋書」俀(倭)国伝に見える6世紀末から7世紀初頭の「俀(倭)国」も、「王の姓は阿毎」「漢の光武の時、使を遣し入朝し、自ら大夫と称す。安帝の時、又遣使朝貢す。これを俀国と謂う」「魏より斉、梁に至り、代々中国と相通ず」とされ、さらに同国には「阿蘇山有り」とある。従って、1世紀の「倭奴国」から7世紀の「俀(倭)国」まで「九州」を拠点とする「王朝」が連続したことになる。(古代に真実を求めて 第20集 失われた倭国年号〔大和朝廷以前〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2017.3月 P20)
※(筆者中) このタリシヒコとは、ヤマト政権の王(推古天皇、厩戸王)ではなく、邪馬台国系の九州王朝の王ではないかという説もあります。すると厩戸王は本当にいたのかという話にもなります。厩戸王がおこなった603年の冠位十二階の制定や、604年の十七条憲法の制定も、どこか宙に浮いた感じがするのです。すると蘇我馬子も本当にいたのかという話になります。さらに推古天皇さえ本当の天皇なのかという疑問も起こります。厩戸王の一族はこのあと643年に蘇我氏によって滅ぼされ、歴史から跡形もなく消え去ったことになっています。またその後、蘇我氏の主流も滅ぼされていきます。
※【異説】 「隋が俀(倭)国だというのは、当然、九州王朝を指しているのであって、大和政権ではない。・・・・・・倭の五王もまた、同じく女王国邪馬台の後身で、隋代の俀(倭)国は五王の後代だというのが、「隋書」俀(倭)国伝の認識なのである。」(韓半島からきた倭国 李鐘恒 新泉社 1990.3月 P114)
※【異説】 結論はただ一つ。「俀国」とは近畿天皇家の統治する国ではなく、隋に国書を送った多利思北孤は、聖徳太子でも推古天皇でもなかったということだ。・・・・・・つまり600年当時、隋と交渉を持ったのは、近畿天皇家ではなく「九州なる俀国」すなわち九州王朝であり、俀王「多利思北孤」とは九州王朝の天子だったことになる。これを『日本書紀』では、「近畿天皇家の聖徳太子とその事績」であるかのように装ったことになるのだ。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P63)
※【異説】 「聖徳太子」のモデルは、『隋書』の記事から見ても、時代的に見ても、隋に国書を送った俀国、すなわち九州王朝の天子「阿毎多利思孤」だと考えられるのだ。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P66)
※【大宰府の成立】
※【異説】 政庁と条坊を供えた倭国の「京(首都)」即ち「倭京大宰府」は白村江以前に完成していたことになる。この点、九州国立博物館も、まだ発掘調査では明らかな証拠はないとしつつ、「すでにこの(白村江直後の)時期に、「大宰府」が、(水城・大野城等の)防衛ラインの中に設置されていた可能性が高いと思われます」と述べている(同館ホームページ「西都太宰府」より)。さらに、古賀達也氏は、政庁跡より南、条坊右郭中央通古賀(とおのこが)地区の王城神社(小字扇屋敷)を、Ⅰ期を遡る初期の条坊の中心、即ち王宮と想定し、九州王朝(倭国)は九州年号「定居(611~617)~倭京(618~622」)年間に大宰府を築造し都城を移したのではないかとしている。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P28)
※【異説】 大宰府はこれまでの発掘調査により、政治の中心である大宰府政庁の前面に、方路地割の街区が広がっていたことが明らかにされ、大宰府条坊と呼ばれている。・・・・・・その年代は一般に、第Ⅰ期が「古段階」から「7世紀末~8世紀初頭頃の新段階」、第Ⅱ期は「8世紀第1四半期から」、第Ⅲ期は10世紀中葉以降と区別される。・・・・・・(井上信正氏は)大宰府も条坊中央部の王城神社のある通古賀地区を意識した設計ではないかと指摘している。第Ⅰ期に中央宮〇型の条坊造営があり、第Ⅱ期に政庁や朱雀大路など主要な施設が造営されたとするのである。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 大墨伸明 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P54)
※【異説】 井上(信正)さんは大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺の成立を従来通り8世紀初頭、条坊都市は7世紀末とされました。その結果、大宰府は大和朝廷の都である藤原京と同時期に造営された日本最古の条坊都市となったのです。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P64)
※【異説】 木樋の炭素同位体比年代測定値から判断すると、水城は7世紀前半に造営された大宰府条坊都市防衛のため同時期に築造されたと考えて問題ありません。この場合、大宰府条坊都市造営を7世紀前半とするわたしの理解と整合します。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P69)
※【異説】 牛頸窯遺跡は太宰府の西側に位置し、6世紀中頃から太宰府に土器を提供した九州王朝屈指の土器生産センターです。・・・・・・牛頸窯遺跡は6世紀末から7世紀初めの時期に窯の数は一気に急増するとあり、まさにわたしが大宰府条坊都市造営の時期とした7世紀初頭の頃に土器生産が急増したことを示しており、これこそ九州王朝の大宰府遷都を示す考古学的痕跡と考えられます。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P80)
※【異説】 大宰府政庁遺構は三層からなり、最も古いⅠ期はさらに三時期に分けられています。その中で最も古い大宰府政庁Ⅰ-1期遺構から6世紀後半の須恵器蓋が出土しているというのですから、Ⅰ期遺構6世紀後半以後に造営されたことがわかります。・・・・・・Ⅰ期の造営は7世紀初頭と考えるのが、まずは真っ当な理解ではないでしょうか。・・・・・・大宰府政庁Ⅰ期に関わる出土土器の編年から、それは7世紀初頭の造営と理解できるわけですが、文献史学による九州王朝説の立場からの研究では、大宰府条坊都市の造営を九州年号の倭京元年(618)と考えていますが、この時期が政庁Ⅰ期の造営時期(7世紀初頭)と一致します。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P104)
※【異説】 大宰府の創建は、第1期政庁下層の整地層から6世紀後半~末頃の土器が出土しており(九州国立博物館赤司善彦氏)、7世紀前半と考えられよう。なお、大宰府条坊は政庁の中心軸とずれている(太宰府市教育委員会 井上信正氏)ことから、創建当時の宮城は、条坊の中心と考えられる通古賀地区(王城神社付近か)にあったのではないかと推測されている。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P99)
※【異説】 (「聖徳太子伝歴」の)「遷都予言」記事の翌年618年に九州年号は改元され「倭京元年」となる。「(聖徳太子)伝歴」に「北方に京を遷し」とあるが、大宰府は「筑後の北方」にある。「倭京」はまさに「大宰府遷都」を示す年号だったのだ。・・・・・・隋の脅威が迫る中、九州王朝(倭国)は対「隋」防衛策として、大宰府を建設し、有明海沿いの筑後から宮を移転し、その後、唐・新羅との戦いに備え、大野城や基肄城の築造、羅城の構築、神籠石や大水城の築造・強化など「狂心(たぶれごころ)」と言われるほどの「首都大宰府を防衛」する大土木工事を強行した。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P30)
※【異説】 大宰府政庁Ⅰ期の掘立柱遺構は大宰府条坊都市と同時期であることが明確となり、わたしの理解では、多利思北孤独による大宰府条坊都市の造営や大宰府遷都は7世紀初頭(倭京元年、618年頃)です。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P38)
※【異説】 九州年号は618年に「定后(じょうご)」から「倭京(わきょう)」に改元されている。九州年号白雉(はくち)元年(652)には難波宮が完成し、白鳳元年(661)には「近江遷都(海東諸国紀)」、大化元年(695)には藤原宮遷都が記されるように、九州年号の改元と遷都との関連には密接なものがある。加えて、「倭京」は倭国の京(都)の意味だから、遷都に相応しい年号で、617年はまさに「遷都の詔」を発するべき年となるのだ。そこから古賀達也氏は、注1の論文(『「太宰府」建都年代に関する考察ー九州年号「倭京」「倭京縄」の史料批判』2004年12月9日 古田史学会報65号)で「九州王朝における上宮法皇多利思北孤による大宰府遷都の詔勅記事が、後代に於いて聖徳太子伝承に遷都予言記事として取り込まれた」のではないかとされている。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P85)
※【異説】 611年は九州年号「定后(じょうご)元年」にあたり、618年は「倭京(わきょう)元年」にあたる。「定后」改元は有明海沿岸から「北方」大宰府付近を新都予定地と定めた(布告した)ことを意味し、「倭京」改元は、遷都を実施したことを示すものだろう。このように「618年に九州王朝による遷都があった」と考えれば「なぜ617年や619年に、突如として遷都予言記事が集中して記されているのか」がわかる。「帝都」たる「此地」とは筑後を、「北方遷都」とは「大宰府遷都」を意味し、この遷都記事が『(聖徳太子)伝暦』に取り込まれたのだ。
『(聖徳太子)伝暦』の太子46歳(617年)条の「一見荒唐無稽に見える聖徳太子の遷都予言記事」は、617年に発せられた九州王朝の天子多利思北孤の「大宰府遷都宣言」であり、これが「聖徳太子」の「予言」であると潤色を施され、『(聖徳太子)伝暦』に移されたものだった。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P88)
【対等外交】 この対等外交を、中国はなんと受け入れた。なぜ中国はこんな無礼者を受け入れたのか。当時朝鮮半島には高句麗という国があって、隋はそこと対立していた。東の方の高句麗を敵にまわして、島国とはいえもう一つの日本を敵に回すと二つの敵ができて、これはまずいぞ、そういう配慮をした。厩戸王は、そこをすかさず突いていった、ことになっています。
次の608年には、遣隋使の返礼に、隋から使いが来て、よろしゅうございます、貿易いたしましょうという返事を持ってきた。この中国人を裴世清という。こういう約束ができて、留学生を学ばせに行きます。土産物を持っていくんだけれども、欲しいのは、中国の学問・文化・宗教・芸術、そういったものなんです。
※【疑問】 しかし、遣唐使のタリシヒコが厩戸王ではなく、まったく別の九州王朝の王だったとすれば、裴世清は一体どこにやって来たのだろうか、という疑問が起こります。当然、九州になるはずです。ということは隋の文化は大和地方には伝わりません。
※【異説】 「隋書」俀国伝、普通倭国伝と言われていますが、俀国=タイコクと言うのが本来の原文です。ところがその最後に、結びに、「この後ついに絶つ」と。つまり裴世清がやってきて、多利思北孤と交歓、非常に歓迎されたとあって、俀国の使いを伴って帰るという話があって、その結びが、「この後ついに絶つ」と、このあと両者の国交はなかったと、こう書いてあるわけです。ところが、「日本書紀」では、そのあと大いに天皇家は中国側と交際、国交を結んで、唐の使いなどを歓迎しております。だから、あれを見ても、「日出づる処の天使」多利思北孤が推古天皇では困る、聖徳太子では困るわけです。
さて、その直後、唐の初め、唐側は推古天皇に国書を送っています。これは「日本書紀」に載っております。・・・・・・「九州王朝」に対しては、「日出づる処」と「日没する処」の天子どうし、というようなことでは、中国側では相手にできないわけです。「二人の天子」という概念は無いのですから。
だから、そういう相手に対して、「偵察のため」の裴世清を遣わした後、「国交断絶」といいますか、「国交無し」の状態に陥ったのです。そしてその後、偵察してきたときにわかったのでしょうが、東の方に有力な、実際、実力においては大古墳が示すように、九州王朝以上に強大な勢力を持った豪族がいると。分家ではあるけれど、母家から出て、母家以上の勢力を築いている。これに対して国書を送って「これからは、アナタを我々中国は倭皇とみなす」、そういう国書を送っている。朝貢と書いてあるのに、これに対して天皇家側ば喜んで応じたわけです。・・・・・・
だから、聖徳太子の「対等外交」なんて大嘘でして、「日本書紀」がはっきり示しておりますように、聖徳太子は「朝貢外交」を展開したわけです。(邪馬壹国から九州王朝へ 古田武彦 新泉社 1987.10月 P228)
【留学生】 当時、学者はいないから、学者に相当するのはお坊さんです。僧旻(そうみん)という。
それから、これは昔の人の名前ですから、いまと発音が違う。高向玄理(たかむこのくろまろ)と言う。
そして3人目が、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)。この3人です。
彼らの多くはご先祖が渡来人です。海の向こうの朝鮮とか中国からやってきた人の子孫、そういう人が日本の貴族にはいっぱいいたんです。
そして彼らは中国の政治体制を学んで、日本に帰って来て、日本を変えていく。これは今では4~5年でできそうな感じがするけれども、この時代は船がちゃんと中国につくかどうか定かではない。半分以上は難破して死んでしまうのです。何十人も行ったんだけれども、彼ら3人は難破もせずに中国にたどりつき、さらに運良く帰りも船が沈まずに日本に帰ってくることができた。そういう幸運な留学生です。今の留学だったら、1年、2年ぐらいですぐに帰って来れそうなものですけれども、行ったら最後、いつ帰れるか分からないのこの時代の留学です。いつ船が来るか、定期便も何もないから、10年、20年いるのはザラなんです。30年いても当たり前です。船がいつ出るか当てもない。
そのうちに、中には勉強している途中で中国人の女性と結婚して、中国人になってしまう。そういう留学生もいる。そんななかで、彼らは20~30年学んで、20~30年というと20才で行っても帰ってくる時には50才です。
だから、この時代の文化は、すぐには日本には伝わらない。20~30年の長期留学です。それが伝わるのは20~30年あとだ、ということです。
※【疑問】 このあと遣唐使として唐に渡った空海は3年で日本に帰ってきてますし、最澄になるとたった1年で帰ってきています。帰ろうと思えば帰る方法は本当はあったのだと思います。
【蘇我氏の台頭】 厩戸王は622年に死にますが、その後は、蘇我蝦夷(えみし)、蘇我入鹿(いるか)親子が権力を思うままに操るようになります。
では厩戸王の一族はどうなったか。643年、厩戸王の息子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)は、蘇我入鹿によって斑鳩宮(いかるがぐう)で滅ぼされます。これで厩戸王一族は滅亡します。
古来から祀る人のいなくなった霊魂は恐れられます。その人が高貴な身分であればあるほどそうです。祀る人のいなくなった厩戸王の霊は、このあと非常に恐れられるようになります。聖徳太子という名前がついたのは彼の死後のことです。聖徳太子はこのあと信仰の対象となりますが、それには彼に対する恐れが背景にあります。これはのちに菅原道真が太宰府で不遇のうちに死に、死後は天神つまり雷の神として恐れられたことと似ています。
※【異説】 蘇我氏の悪者ぶりは、聖徳太子の子、山背大兄王を滅亡に追い込んだことから強く印象づけられているが、これこそ、「日本書紀」の構築した巧妙なトリックだったのだ。要するに、聖徳太子が聖者であればあるほど、蘇我入鹿が悪人になるという図式が、ここには描かれている。すなわち、聖徳太子も山背大兄王も、どちらも蘇我氏を悪人に仕立て上げるための偶像にすぎなかった疑いが出てくるのである。その証拠に、山背大兄王一族が滅亡した法隆寺では、当初、事件の弔いをしていない。どうやら事件は、でっちあげらしいのだ。(図解古代史 秘められた謎と真相 関裕二 PHP研究所 P48)
※【異説】 九州年号には・・・・・・7世紀前半には既に「聖徳」(629~634年)という年号がある。・・・・・・
多利思北孤の崩御は『光背銘』から622年で、翌623年九州年号は「仁王」と改元されているから、この年に太子「利」が即位したと考えられる。そして、「仁王」は623年~634年で「聖徳」期を含むから、九州年号「聖徳」は多利思北孤の太子「利(利歌彌多弗利)」の年号となる。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P149)
※【異説】 古田武彦氏は、「利歌彌多弗利」の「歌彌多弗(かみたふ)」は博多の字地名(旧、九州大学の地帯)「上塔」に関連する地名ではないかとされている。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P150)
※【異説】 「利」も(6世紀新羅の)真興王のように、「法興」と称した父多利思北孤にならい仏門に帰依し、「聖徳」の法号を得て、法皇の紀年として「聖徳」の年号をもったことは十分に考えられる。・・・・・・多利思北孤の次代の九州王朝の天子「利」は、「法興法皇」たる多利思北孤の「徳を継ぎ聖を重ねる」意味で、「聖徳」という法号を得、「法皇」としての紀年とした。これが九州年号「聖徳」だと考えられる。・・・・・・『書紀』編者は、こうした九州王朝の多利思北孤とその太子「利」二人の事績を近畿天皇家の「厩戸皇子」に集約して盗用した。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P150)
※【異説】 多利思北孤から利歌弥多弗利の時代に至り、倭国はより一層仏教国家へ傾倒したものと思われる。国書で隋の天子を海西の菩薩天子と呼ぶことによって、自らを「海東の菩薩天子」と考えたであろう多利思北孤に比べれば、利歌弥多弗利は如来を本師と仰ぐ熱心な信者としての天子と言っても過言ではあるまい。とすれば、命長七年文書にある「勝鬘」という自署名も、如来蔵思想を説くものとして有名な勝鬘経に由来するものと考えられよう。また、聖徳太子撰と伝えられる「勝鬘経義疏」も、多利思北孤あるいは利歌弥多弗利との関連で捉え直すべきではあるまいか。
『日本書紀』は九州王朝の歴史や事績を近畿天皇家のものへ取り込んで編纂された史書であるが、中でも聖徳太子の事績として特筆されている数々の説話・伝承は、おそらく多利思北孤や利歌弥多弗利のものであったに違いあるまい。本稿で紹介した善光寺如来との書簡も、釈迦三尊像と共に九州王朝系寺院から法隆寺に持ち込まれたものと思われるのである。(古代に真実を求めて 第3集 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 2000.11月 P137)
【飛鳥文化】
聖徳太子のころの文化は、飛鳥文化といいます。聖徳太子がいたのは、今の奈良県でも平城京のもっと南へ20キロぐらいの飛鳥地方です。これが7世紀前半の文化ですけれども、中国の何時代の文化の影響を受けているかというと、中国の隋の時代の文化ではない。隋よりも前の文化がこの時代には伝わってきている。それが南北朝期の文化です。
※(筆者中) この時代の大和地方の文化が隋の文化ではなく、一昔前の南北朝時代の文化であることは、遣隋使のタリシヒコが厩戸王ではなく九州王朝の王だったとすれば、大和地方に隋文化が伝わらないことは当然のことです。日本に隋・唐文化がもたらされるのは、7世紀終りの天武天皇のころです。明治維新のときの西洋文化や、戦後のアメリカ文化の急速な流入と比べると、遣隋使の派遣から70~80年もたって隋・唐文化が流入するのは遅すぎるような気がします。
この時代の天皇は、基本的に仏教保護です。仏教は外来宗教ですけれども、これが非常に新しいイメージで日本に伝わってる。今のように仏教というと、爺さん、婆さんたちが拝むというイメージとは違うんです。日本人の外国文化好き、文化の最先端で、おしゃれで進んでる、という感じで伝わってるから保護していく。
天皇家が、そうやって仏教を保護していくと、その家来の豪族たちもオレも真似したい。そしたら豪族としての株が上がるぞと言って、氏族がお寺を建てていく。これを氏寺といいます。
それまでは氏族の権威の象徴は古墳ですよ。前も言ったように、500m級の古墳とか山のような古墳をつくっている。
それに代わるものとしてお寺というのが、権威の象徴になっていく。個人がつくったものとして代表的なものが聖徳太子が自分のお金で建てた。まだ国家のお金じゃなくて。
593年、四天王寺を聖徳太子が創建したとされます。これはのちにできる『日本書紀』の記述です。
※【異説】 『二中歴』の九州年号記事の信頼性が高いという事実から、次のことが類推できます。
① 現・四天王寺は創建当時「天王寺」と呼ばれていた。現在も地名は「天王寺」です。
② その天王寺が建てられた場所は「難波」と呼ばれていた。
③ 『日本書紀』に書かれている四天王寺を6世紀末に聖徳太子が創建したという記事は正しくないか、現・四天王寺(天王寺)のことではない。
④ 『日本書紀』とは異なる九州年号記事による天王寺創建年は、九州王朝系記事と考えざるを得ない。
⑤ そうすると、『二中歴』に見える「難波天王寺」を造った「聖徳」という人物は九州王朝系の有力者となる。・・・・・・
⑥ 従って、7世紀初頭の難波の地と九州王朝の強い関係がうかがわれます。
⑦ 『二中歴』『年代歴』に見える他の九州年号記事(白鳳年間での観世音寺創建など)の信頼性も高い。
⑧ 『日本書紀』で四天王寺を聖徳太子が創建したと嘘をついたのには理由があり、それは九州王朝による難波天王寺創建を隠し、自らの事績とすることが目的であった。
以上の類推が論理的仮説として成立するのであれば、前期難波宮が九州王朝の副都とする仮説と整合します。すなわち、上町台地は7世紀初頭から九州王朝の直轄支配領域であったからこそ、九州王朝はその地に天王寺も前期難波宮も創建することができたのです。このように、『二中歴』『年代歴』の天王寺創建記事(倭京2年・619年)と創建瓦の考古学的編年(620年代)がほとんど一致する事実は、このような論理展開を見せるのです。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P141)
もっとも有名なのは、今も観光名所の法隆寺です。607年の創立と言われます。法隆寺があるところは、奈良県の斑鳩町です。これで、いかるが、と読む。今でも奈良県の町の名前として残っています。これが世界最古の建築物かというと、それはピラミッドになるから、世界最古の木造建築ということです。
木造建築は、ふつう100年もてばいいほうです。なぜ千何百年間も木造建築物がもっているのかというと、ずっと修理していったからです。つまり法隆寺というのは、昔も今も、たんなる文化財じゃない。実際に宗教活動をしている。今もお坊さんが住んで宗教活動をやっている。文化財として観覧料が入るから公開してるだけで、ちゃんと宗教活動やっている。だから普通のお寺が修理をするのと同じように、痛んだところを修理しながら、千何百年も、1300年ぐらい維持されているということです。
そこの仏像彫刻ですが、代表格は法隆寺にある弥勒菩薩像です。
それからもう一つは、京都の太秦寺(うずまさでら)というところにもある。これは別名で、正式には広隆寺という。一般に弥勒菩薩像と言われるけれども、本当の名前は半跏思惟像(はんかしゆいぞう)という。片手を頬に当てて、ちょっと半身で、仏さんが考えにふけっている姿です。
この時代には中国から一昔前の西アジアの文化が伝わってくる。これは中国よりもずっと西の文化です。中国の西には交易の道がある。これはシルクロードといって、絹の道ともいう。それを通って西のペルシャの文化が日本にまでおよんでいる。
これが厩戸王の時代の文化で、飛鳥文化といいます。