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新「授業でいえない日本史」 3話の1 古代 厩戸王(聖徳太子)の時代

2020-10-29 06:54:44 | 新日本史1 古代2
【7世紀 600年代】
【大和政権の発展】
 7世紀、600年代、厩戸王、別名は聖徳太子、というところに入りかけていたところです。
この厩戸王と蘇我馬子の政治です。蘇我馬子は、仏教争いで勝利した崇仏派の蘇我稲目の息子で、実はこの馬子がずっと年長です。政治の中心は蘇我馬子です。
そして聖徳太子つまり厩戸王は、女帝推古天皇(位592~628)の摂政として、蘇我氏にお株を奪われないように様々なことを行った。どういったことをしたか。
603年に冠位十二階を制定し、翌年604年には十七条憲法を制定した。

※【聖徳太子】
※ 「聖徳太子」の事績については近年虚構説が出されて、論争が続いている。「隋書」は、600年に聖徳太子が隋に使節を派遣し朝貢したと記す。ところが、我が国の歴史書にはそうした記述が見られず、筑紫の大宰府などの出先機関が非公式に隋に使節を派遣したのではないかと考えられている。(「海国」日本の歴史 宮崎正勝 原書房 P45)

※【異説】 7世紀初頭、既に九州を中心に行われていた中央集権政治を、新たに畿内を含めた東日本で実施する。それらの地域では、これまで現地の王を通じての間接支配であったが、そこで初めて九州王朝による直轄支配を行おうとした。十七条憲法はそのために制定したものではないか。
 これは九州王朝の天子が、(既に九州の本拠地で実施していた)官僚による直轄支配を、東国に拡大するための(新しく派遣する官僚と西国の豪族への)通達として作られたものであった。第一に、「君則天之」「国非二君」を示し、第二にその支配の正統性を支える仏教政策「篤敬三宝」をかかげ、第三に官僚の行動規範・服務規程を定めたものだ。『日本書紀』が示す十七条憲法を制定した聖徳太子は、九州王朝の中に実在したのである。しかも彼は、厩戸皇子ではない。(古代に真実を求めて 第23集 『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独〔消えた古代王朝〕 服部静尚 古田史学の会編 明石書店 2020.3月 P120)

※【異説】 「上宮聖徳法皇」とか、「聖徳太子」といった「厩戸皇子」の呼称は、九州王朝の天子「多利思北孤」の呼称である「上宮法皇」と、その太子「利(利歌彌多弗利)」に関する年号「聖徳」から採られたものである。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P143)

※【異説】 (7世紀は九州王朝の)日出ずる処の天子・多利思北孤(タリシヒコ)の時代に始まり、太宰府遷都前期難波宮副都の造営白村江戦での敗北、そして大和朝廷との王朝交代という、最も九州王朝が揺れ動いた時代です。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P82)



【遣隋使】外交面では、中国とのつき合いです。当時の中国は隋です。そこに使いを送った。遣隋使を派遣した。
この外交が異常だったのは、中国と対等外交を行ったということです。中国は対等外交を行わない国です。中国というのは世界の中心にある国だから、当然、中国が上でないと行わない。周りの周辺国家は頭を下げて、お願いでございます、と言って、つき合ってもらう。こういうことを、今までの日本も、卑弥呼の時代からやってきた。こういうのを朝貢というんです。朝貢外交、これが一般的なのに、厩戸王はこれをやらなかった。
それまで5世紀、400年代の中国との外交は、倭の五王という日本の5人の王が次々に中国と朝貢外交を行った。しかしそれ以降、中国への遣使は100年以上も途絶えていた。これを復活したのが聖徳太子です。5世紀は400年代です。いま聖徳太子は600年代です。約百数十年ぶりの復活です。

しかも対等外交で。このことがなぜ分かるのかというと、これもやっぱり卑弥呼の時代と同じように、中国の歴史書に書いてあるからです。これを隋書倭国伝という。



【日いずる所】 そこで607年、日本から出向いていったのが小野妹子です。名前に子がつくと今では女みたいですけれども、当時は男に子がつく。小野妹子は男です。
当時の隋の皇帝は誰か。隋の煬帝(ようだい)という。
ここで、天皇からの国書を渡す。国を代表した手紙です。これを渡したところ、そこに書かれてあった有名なフレーズが、「日いづるどころの天子、書を日没するところの天子におくる、つつがなきや云々」という言葉です。これを見て隋の煬帝は、真っ赤になって怒ったという。日本を日いずる国、中国を日没する国、それに怒ったと捉えがちですが、日いずるところの「天子」、それを日没するところの「天子」に送るという、この天子と天子が問題なんです。これが対等貿易です。当時は対等貿易などという言葉がないから、これで対等です。普通は、こちらは日本が王であったら、中国は皇帝で、一ランク上の称号でないといけないけれども、どっちも天子とした。日本の天皇は中国の皇帝と同格だということです。
ちなみに日本という国号は、この「日いずるところ」が日の本となり、日本となったといわれます。そして701年の大宝律令制定のとき、正式に「日本」が国号になります。

この遣隋使のことを中国の歴史書である「隋書」はこう書いています。
「600年、姓を阿毎アマ)、字を多利思比孤タリシヒコ)、号を阿輩雞弥(オオキミ)という倭王が、使者を中国の皇帝に派遣してきた。607年、倭国王の多利思比孤タリシヒコ)が、使いを送って朝貢してきた。」と。
 ここで不思議なのは、推古天皇でもなく、厩戸王(聖徳太子)でもなく、「タリシヒコ」になっていることです。このタリシヒコとは誰なのか、タリシヒコは男の名前だから女帝の推古天皇ではありません。厩戸皇子の別名でもありません。よく分からないのです。
 さらに607年には「朝貢」と書いてあります。「朝貢」とは臣下としての使いです。つまり中国側はこれを「対等外交」とは思っていなかったようです。

※【九州王朝の多利思比孤(タリシヒコ)】
※【異説】 「旧唐書」には「倭国伝」と「日本国伝」が別に建てられ、「倭国伝」には「倭国は古の倭奴国なり」「世、中国と通ず」「其王の姓は阿毎氏」とある。これは九州王朝のことを指すから、九州王朝は唐や歴代中国の王朝からは「倭国」と認識されていたことになる。(古代に真実を求めて 第20集 失われた倭国年号〔大和朝廷以前〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2017.3月 P21)

※【異説】 「隋書」俀(倭)国伝に見える6世紀末から7世紀初頭の「俀(倭)国」も、「王の姓は阿毎」「漢の光武の時、使を遣し入朝し、自ら大夫と称す。安帝の時、又遣使朝貢す。これを俀国と謂う」「魏より斉、梁に至り、代々中国と相通ず」とされ、さらに同国には「阿蘇山有り」とある。従って、1世紀の「倭奴国」から7世紀の「俀(倭)国」まで「九州」を拠点とする「王朝」が連続したことになる。(古代に真実を求めて 第20集 失われた倭国年号〔大和朝廷以前〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2017.3月 P20)

※(筆者中) このタリシヒコとは、ヤマト政権の王(推古天皇、厩戸王)ではなく、邪馬台国系の九州王朝の王ではないかという説もあります。すると厩戸王は本当にいたのかという話にもなります。厩戸王がおこなった603年の冠位十二階の制定や、604年の十七条憲法の制定も、どこか宙に浮いた感じがするのです。すると蘇我馬子も本当にいたのかという話になります。さらに推古天皇さえ本当の天皇なのかという疑問も起こります。厩戸王の一族はこのあと643年に蘇我氏によって滅ぼされ、歴史から跡形もなく消え去ったことになっています。またその後、蘇我氏の主流も滅ぼされていきます。

※【異説】 「隋が俀(倭)国だというのは、当然、九州王朝を指しているのであって、大和政権ではない。・・・・・・倭の五王もまた、同じく女王国邪馬台の後身で、隋代の俀(倭)国は五王の後代だというのが、「隋書」俀(倭)国伝の認識なのである。」(韓半島からきた倭国 李鐘恒 新泉社 1990.3月 P114)

※【異説】 結論はただ一つ。「俀国」とは近畿天皇家の統治する国ではなく、隋に国書を送った多利思北孤は、聖徳太子でも推古天皇でもなかったということだ。・・・・・・つまり600年当時、隋と交渉を持ったのは、近畿天皇家ではなく「九州なる俀国」すなわち九州王朝であり、俀王「多利思北孤」とは九州王朝の天子だったことになる。これを『日本書紀』では、「近畿天皇家の聖徳太子とその事績」であるかのように装ったことになるのだ。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P63)

※【異説】 「聖徳太子」のモデルは、『隋書』の記事から見ても、時代的に見ても、隋に国書を送った俀国、すなわち九州王朝の天子「阿毎多利思孤」だと考えられるのだ。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P66)

※【大宰府の成立】
※【異説】 政庁と条坊を供えた倭国の「京(首都)」即ち「倭京大宰府」は白村江以前に完成していたことになる。この点、九州国立博物館も、まだ発掘調査では明らかな証拠はないとしつつ、「すでにこの(白村江直後の)時期に、「大宰府」が、(水城・大野城等の)防衛ラインの中に設置されていた可能性が高いと思われます」と述べている(同館ホームページ「西都太宰府」より)。さらに、古賀達也氏は、政庁跡より南、条坊右郭中央通古賀(とおのこが)地区の王城神社(小字扇屋敷)を、Ⅰ期を遡る初期の条坊の中心、即ち王宮と想定し、九州王朝(倭国)は九州年号「定居(611~617)~倭京(618~622」)年間に大宰府を築造し都城を移したのではないかとしている。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P28)

※【異説】 大宰府はこれまでの発掘調査により、政治の中心である大宰府政庁の前面に、方路地割の街区が広がっていたことが明らかにされ、大宰府条坊と呼ばれている。・・・・・・その年代は一般に、第Ⅰ期が「古段階」から「7世紀末~8世紀初頭頃の新段階」、第Ⅱ期は「8世紀第1四半期から」、第Ⅲ期は10世紀中葉以降と区別される。・・・・・・(井上信正氏は)大宰府も条坊中央部の王城神社のある通古賀地区を意識した設計ではないかと指摘している。第Ⅰ期に中央宮〇型の条坊造営があり、第Ⅱ期に政庁や朱雀大路など主要な施設が造営されたとするのである。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 大墨伸明 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P54)

※【異説】 井上(信正)さんは大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺の成立を従来通り8世紀初頭、条坊都市7世紀末とされました。その結果、大宰府は大和朝廷の都である藤原京と同時期に造営された日本最古の条坊都市となったのです。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P64)

※【異説】 木樋の炭素同位体比年代測定値から判断すると、水城は7世紀前半に造営された大宰府条坊都市防衛のため同時期に築造されたと考えて問題ありません。この場合、大宰府条坊都市造営を7世紀前半とするわたしの理解と整合します。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P69)

※【異説】 牛頸窯遺跡は太宰府の西側に位置し、6世紀中頃から太宰府に土器を提供した九州王朝屈指の土器生産センターです。・・・・・・牛頸窯遺跡は6世紀末から7世紀初めの時期に窯の数は一気に急増するとあり、まさにわたしが大宰府条坊都市造営の時期とした7世紀初頭の頃に土器生産が急増したことを示しており、これこそ九州王朝大宰府遷都を示す考古学的痕跡と考えられます。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P80)

※【異説】 大宰府政庁遺構は三層からなり、最も古いⅠ期はさらに三時期に分けられています。その中で最も古い大宰府政庁Ⅰ-1期遺構から6世紀後半の須恵器蓋が出土しているというのですから、Ⅰ期遺構6世紀後半以後に造営されたことがわかります。・・・・・・Ⅰ期の造営は7世紀初頭と考えるのが、まずは真っ当な理解ではないでしょうか。・・・・・・大宰府政庁Ⅰ期に関わる出土土器の編年から、それは7世紀初頭の造営と理解できるわけですが、文献史学による九州王朝説の立場からの研究では、大宰府条坊都市の造営を九州年号倭京元年(618)と考えていますが、この時期が政庁Ⅰ期の造営時期(7世紀初頭)と一致します。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P104)

※【異説】 大宰府の創建は、第1期政庁下層の整地層から6世紀後半~末頃の土器が出土しており(九州国立博物館赤司善彦氏)、7世紀前半と考えられよう。なお、大宰府条坊は政庁の中心軸とずれている(太宰府市教育委員会 井上信正氏)ことから、創建当時の宮城は、条坊の中心と考えられる通古賀地区王城神社付近か)にあったのではないかと推測されている。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P99)

※【異説】 (「聖徳太子伝歴」の)「遷都予言」記事の翌年618年九州年号は改元され「倭京元年」となる。「(聖徳太子)伝歴」に「北方に京を遷し」とあるが、大宰府は「筑後の北方」にある。「倭京」はまさに「大宰府遷都」を示す年号だったのだ。・・・・・・隋の脅威が迫る中、九州王朝(倭国)は対「隋」防衛策として、大宰府を建設し、有明海沿いの筑後から宮を移転し、その後、唐・新羅との戦いに備え、大野城や基肄城の築造、羅城の構築、神籠石や大水城の築造・強化など「狂心(たぶれごころ)」と言われるほどの「首都大宰府を防衛」する大土木工事を強行した。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P30)

※【異説】 大宰府政庁Ⅰ期の掘立柱遺構は大宰府条坊都市と同時期であることが明確となり、わたしの理解では、多利思北孤独による大宰府条坊都市の造営や大宰府遷都は7世紀初頭(倭京元年、618年頃)です。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P38)

※【異説】 九州年号は618年に「定后(じょうご)」から「倭京(わきょう)」に改元されている。九州年号白雉(はくち)元年(652)には難波宮が完成し、白鳳元年(661)には「近江遷都(海東諸国紀)」、大化元年(695)には藤原宮遷都が記されるように、九州年号の改元と遷都との関連には密接なものがある。加えて、「倭京」は倭国の京(都)の意味だから、遷都に相応しい年号で、617年はまさに「遷都の詔」を発するべき年となるのだ。そこから古賀達也氏は、注1の論文(『「太宰府」建都年代に関する考察ー九州年号「倭京」「倭京縄」の史料批判』2004年12月9日 古田史学会報65号)で「九州王朝における上宮法皇多利思北孤による大宰府遷都の詔勅記事が、後代に於いて聖徳太子伝承に遷都予言記事として取り込まれた」のではないかとされている。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P85)

※【異説】 611年は九州年号「定后(じょうご)元年」にあたり、618年は「倭京(わきょう)元年」にあたる。「定后」改元は有明海沿岸から「北方」大宰府付近を新都予定地と定めた(布告した)ことを意味し、「倭京」改元は、遷都を実施したことを示すものだろう。このように「618年に九州王朝による遷都があった」と考えれば「なぜ617年や619年に、突如として遷都予言記事が集中して記されているのか」がわかる。「帝都」たる「此地」とは筑後を、「北方遷都」とは「大宰府遷都」を意味し、この遷都記事が『(聖徳太子)伝暦』に取り込まれたのだ。
 『(聖徳太子)伝暦』の太子46歳(617年)条の「一見荒唐無稽に見える聖徳太子の遷都予言記事」は、617年に発せられた九州王朝の天子多利思北孤の「大宰府遷都宣言」であり、これが「聖徳太子」の「予言」であると潤色を施され、『(聖徳太子)伝暦』に移されたものだった。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P88)



【対等外交】 この対等外交を、中国はなんと受け入れた。なぜ中国はこんな無礼者を受け入れたのか。当時朝鮮半島には高句麗という国があって、隋はそこと対立していた。東の方の高句麗を敵にまわして、島国とはいえもう一つの日本を敵に回すと二つの敵ができて、これはまずいぞ、そういう配慮をした。厩戸王は、そこをすかさず突いていった、ことになっています。
次の608年には、遣隋使の返礼に、隋から使いが来て、よろしゅうございます、貿易いたしましょうという返事を持ってきた。この中国人を裴世清という。こういう約束ができて、留学生を学ばせに行きます。土産物を持っていくんだけれども、欲しいのは、中国の学問・文化・宗教・芸術、そういったものなんです。


※【疑問】 しかし、遣唐使のタリシヒコ厩戸王ではなく、まったく別の九州王朝の王だったとすれば、裴世清は一体どこにやって来たのだろうか、という疑問が起こります。当然、九州になるはずです。ということは隋の文化は大和地方には伝わりません。

※【異説】 「隋書」俀国伝、普通倭国伝と言われていますが、俀国=タイコクと言うのが本来の原文です。ところがその最後に、結びに、「この後ついに絶つ」と。つまり裴世清がやってきて、多利思北孤と交歓、非常に歓迎されたとあって、俀国の使いを伴って帰るという話があって、その結びが、「この後ついに絶つ」と、このあと両者の国交はなかったと、こう書いてあるわけです。ところが、「日本書紀」では、そのあと大いに天皇家は中国側と交際、国交を結んで、唐の使いなどを歓迎しております。だから、あれを見ても、「日出づる処の天使」多利思北孤が推古天皇では困る、聖徳太子では困るわけです。
 さて、その直後、唐の初め、唐側は推古天皇に国書を送っています。これは「日本書紀」に載っております。・・・・・・「九州王朝」に対しては、「日出づる処」と「日没する処」の天子どうし、というようなことでは、中国側では相手にできないわけです。「二人の天子」という概念は無いのですから。
 だから、そういう相手に対して、「偵察のため」の裴世清を遣わした後、「国交断絶」といいますか、「国交無し」の状態に陥ったのです。そしてその後、偵察してきたときにわかったのでしょうが、東の方に有力な、実際、実力においては大古墳が示すように、九州王朝以上に強大な勢力を持った豪族がいると。分家ではあるけれど、母家から出て、母家以上の勢力を築いている。これに対して国書を送って「これからは、アナタを我々中国は倭皇とみなす」、そういう国書を送っている。朝貢と書いてあるのに、これに対して天皇家側ば喜んで応じたわけです。・・・・・・
 だから、聖徳太子の「対等外交」なんて大嘘でして、「日本書紀」がはっきり示しておりますように、聖徳太子は「朝貢外交」を展開したわけです。(邪馬壹国から九州王朝へ 古田武彦 新泉社 1987.10月 P228)



【留学生】 当時、学者はいないから、学者に相当するのはお坊さんです。僧旻(そうみん)という。
それから、これは昔の人の名前ですから、いまと発音が違う。高向玄理(たかむこのくろまろ)と言う。
そして3人目が、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)。この3人です。
彼らの多くはご先祖が渡来人です。海の向こうの朝鮮とか中国からやってきた人の子孫、そういう人が日本の貴族にはいっぱいいたんです。
そして彼らは中国の政治体制を学んで、日本に帰って来て、日本を変えていく。これは今では4~5年でできそうな感じがするけれども、この時代は船がちゃんと中国につくかどうか定かではない。半分以上は難破して死んでしまうのです。何十人も行ったんだけれども、彼ら3人は難破もせずに中国にたどりつき、さらに運良く帰りも船が沈まずに日本に帰ってくることができた。そういう幸運な留学生です。今の留学だったら、1年、2年ぐらいですぐに帰って来れそうなものですけれども、行ったら最後、いつ帰れるか分からないのこの時代の留学です。いつ船が来るか、定期便も何もないから、10年、20年いるのはザラなんです。30年いても当たり前です。船がいつ出るか当てもない。
そのうちに、中には勉強している途中で中国人の女性と結婚して、中国人になってしまう。そういう留学生もいる。そんななかで、彼らは20~30年学んで、20~30年というと20才で行っても帰ってくる時には50才です。
だから、この時代の文化は、すぐには日本には伝わらない。20~30年の長期留学です。それが伝わるのは20~30年あとだ、ということです。


※【疑問】 このあと遣唐使として唐に渡った空海は3年で日本に帰ってきてますし、最澄になるとたった1年で帰ってきています。帰ろうと思えば帰る方法は本当はあったのだと思います。



【蘇我氏の台頭】 厩戸王は622年に死にますが、その後は、蘇我蝦夷(えみし)、蘇我入鹿(いるか)親子が権力を思うままに操るようになります。
では厩戸王の一族はどうなったか。643年、厩戸王の息子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)は、蘇我入鹿によって斑鳩宮(いかるがぐう)で滅ぼされます。これで厩戸王一族は滅亡します。
古来から祀る人のいなくなった霊魂は恐れられます。その人が高貴な身分であればあるほどそうです。祀る人のいなくなった厩戸王の霊は、このあと非常に恐れられるようになります。聖徳太子という名前がついたのは彼の死後のことです。聖徳太子はこのあと信仰の対象となりますが、それには彼に対する恐れが背景にあります。これはのちに菅原道真が太宰府で不遇のうちに死に、死後は天神つまり雷の神として恐れられたことと似ています。


※【異説】 蘇我氏の悪者ぶりは、聖徳太子の子、山背大兄王を滅亡に追い込んだことから強く印象づけられているが、これこそ、「日本書紀」の構築した巧妙なトリックだったのだ。要するに、聖徳太子が聖者であればあるほど、蘇我入鹿が悪人になるという図式が、ここには描かれている。すなわち、聖徳太子も山背大兄王も、どちらも蘇我氏を悪人に仕立て上げるための偶像にすぎなかった疑いが出てくるのである。その証拠に、山背大兄王一族が滅亡した法隆寺では、当初、事件の弔いをしていない。どうやら事件は、でっちあげらしいのだ。(図解古代史 秘められた謎と真相 関裕二 PHP研究所 P48)

※【異説】 九州年号には・・・・・・7世紀前半には既に「聖徳」(629~634年)という年号がある。・・・・・・
 多利思北孤の崩御は『光背銘』から622年で、翌623年九州年号は「仁王」と改元されているから、この年に太子「利」が即位したと考えられる。そして、「仁王」は623年~634年で「聖徳」期を含むから、九州年号「聖徳」は多利思北孤の太子「利(利歌彌多弗利)」の年号となる。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P149)

※【異説】 古田武彦氏は、「利歌彌多弗利」の「歌彌多弗(かみたふ)」は博多の字地名(旧、九州大学の地帯)「上塔」に関連する地名ではないかとされている。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P150)

※【異説】 「」も(6世紀新羅の)真興王のように、「法興」と称した父多利思北孤にならい仏門に帰依し、「聖徳」の法号を得て、法皇の紀年として「聖徳」の年号をもったことは十分に考えられる。・・・・・・多利思北孤の次代の九州王朝の天子「利」は、「法興法皇」たる多利思北孤の「徳を継ぎ聖を重ねる」意味で、「聖徳」という法号を得、「法皇」としての紀年とした。これが九州年号「聖徳」だと考えられる。・・・・・・『書紀』編者は、こうした九州王朝多利思北孤とその太子「」二人の事績を近畿天皇家の「厩戸皇子」に集約して盗用した。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P150)

※【異説】 多利思北孤から利歌弥多弗利の時代に至り、倭国はより一層仏教国家へ傾倒したものと思われる。国書で隋の天子を海西の菩薩天子と呼ぶことによって、自らを「海東の菩薩天子」と考えたであろう多利思北孤に比べれば、利歌弥多弗利は如来を本師と仰ぐ熱心な信者としての天子と言っても過言ではあるまい。とすれば、命長七年文書にある「勝鬘」という自署名も、如来蔵思想を説くものとして有名な勝鬘経に由来するものと考えられよう。また、聖徳太子撰と伝えられる「勝鬘経義疏」も、多利思北孤あるいは利歌弥多弗利との関連で捉え直すべきではあるまいか。
 『日本書紀』は九州王朝の歴史や事績を近畿天皇家のものへ取り込んで編纂された史書であるが、中でも聖徳太子の事績として特筆されている数々の説話・伝承は、おそらく多利思北孤利歌弥多弗利のものであったに違いあるまい。本稿で紹介した善光寺如来との書簡も、釈迦三尊像と共に九州王朝系寺院から法隆寺持ち込まれたものと思われるのである。(古代に真実を求めて 第3集 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 2000.11月 P137)




【飛鳥文化】
聖徳太子のころの文化は、飛鳥文化といいます。聖徳太子がいたのは、今の奈良県でも平城京のもっと南へ20キロぐらいの飛鳥地方です。これが7世紀前半の文化ですけれども、中国の何時代の文化の影響を受けているかというと、中国の隋の時代の文化ではない。隋よりも前の文化がこの時代には伝わってきている。それが南北朝期の文化です。


※(筆者中) この時代の大和地方の文化が隋の文化ではなく、一昔前の南北朝時代の文化であることは、遣隋使のタリシヒコが厩戸王ではなく九州王朝の王だったとすれば、大和地方に隋文化が伝わらないことは当然のことです。日本に隋・唐文化がもたらされるのは、7世紀終りの天武天皇のころです。明治維新のときの西洋文化や、戦後のアメリカ文化の急速な流入と比べると、遣隋使の派遣から70~80年もたって隋・唐文化が流入するのは遅すぎるような気がします。



この時代の天皇は、基本的に仏教保護です。仏教は外来宗教ですけれども、これが非常に新しいイメージで日本に伝わってる。今のように仏教というと、爺さん、婆さんたちが拝むというイメージとは違うんです。日本人の外国文化好き、文化の最先端で、おしゃれで進んでる、という感じで伝わってるから保護していく。
天皇家が、そうやって仏教を保護していくと、その家来の豪族たちもオレも真似したい。そしたら豪族としての株が上がるぞと言って、氏族がお寺を建てていく。これを氏寺といいます。
それまでは氏族の権威の象徴は古墳ですよ。前も言ったように、500m級の古墳とか山のような古墳をつくっている。
それに代わるものとしてお寺というのが、権威の象徴になっていく。個人がつくったものとして代表的なものが聖徳太子が自分のお金で建てた。まだ国家のお金じゃなくて。
593年四天王寺を聖徳太子が創建したとされます。これはのちにできる『日本書紀』の記述です。

※【異説】 『二中歴』の九州年号記事の信頼性が高いという事実から、次のことが類推できます。
① 現・四天王寺は創建当時「天王寺」と呼ばれていた。現在も地名は「天王寺」です。
② その天王寺が建てられた場所は「難波」と呼ばれていた。
③ 『日本書紀』に書かれている四天王寺を6世紀末に聖徳太子が創建したという記事は正しくないか、現・四天王寺(天王寺)のことではない。
④ 『日本書紀』とは異なる九州年号記事による天王寺創建年は、九州王朝系記事と考えざるを得ない。
⑤ そうすると、『二中歴』に見える「難波天王寺」を造った「聖徳」という人物は九州王朝系の有力者となる。・・・・・・
⑥ 従って、7世紀初頭の難波の地と九州王朝の強い関係がうかがわれます。
⑦ 『二中歴』『年代歴』に見える他の九州年号記事(白鳳年間での観世音寺創建など)の信頼性も高い。
⑧ 『日本書紀』で四天王寺を聖徳太子が創建したと嘘をついたのには理由があり、それは九州王朝による難波天王寺創建隠し、自らの事績とすることが目的であった。
以上の類推が論理的仮説として成立するのであれば、前期難波宮九州王朝の副都とする仮説と整合します。すなわち、上町台地は7世紀初頭から九州王朝の直轄支配領域であったからこそ、九州王朝はその地に天王寺も前期難波宮も創建することができたのです。このように、『二中歴』『年代歴』の天王寺創建記事(倭京2年・619年)と創建瓦の考古学的編年(620年代)がほとんど一致する事実は、このような論理展開を見せるのです。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P141)



もっとも有名なのは、今も観光名所の法隆寺です。607年の創立と言われます。法隆寺があるところは、奈良県の斑鳩町です。これで、いかるが、と読む。今でも奈良県の町の名前として残っています。これが世界最古の建築物かというと、それはピラミッドになるから、世界最古の木造建築ということです。
 木造建築は、ふつう100年もてばいいほうです。なぜ千何百年間も木造建築物がもっているのかというと、ずっと修理していったからです。つまり法隆寺というのは、昔も今も、たんなる文化財じゃない。実際に宗教活動をしている。今もお坊さんが住んで宗教活動をやっている。文化財として観覧料が入るから公開してるだけで、ちゃんと宗教活動やっている。だから普通のお寺が修理をするのと同じように、痛んだところを修理しながら、千何百年も、1300年ぐらい維持されているということです。
そこの仏像彫刻ですが、代表格は法隆寺にある弥勒菩薩像です。
それからもう一つは、京都の太秦寺(うずまさでら)というところにもある。これは別名で、正式には広隆寺という。一般に弥勒菩薩像と言われるけれども、本当の名前は半跏思惟像(はんかしゆいぞう)という。片手を頬に当てて、ちょっと半身で、仏さんが考えにふけっている姿です。
 この時代には中国から一昔前の西アジアの文化が伝わってくる。これは中国よりもずっと西の文化です。中国の西には交易の道がある。これはシルクロードといって、絹の道ともいう。それを通って西のペルシャの文化が日本にまでおよんでいる。
これが厩戸王の時代の文化で、飛鳥文化といいます。



新「授業でいえない日本史」 3話の2 古代 大化の改新

2020-10-29 06:54:30 | 新日本史1 古代2
【大化の改新】
【東アジア情勢】
 次、ではこの聖徳太子、われわれは聖徳太子と習ったから、厩戸王というのも分かっているけど、ついつい聖徳太子といってしまいます。厩戸王の遣隋使の効果が、日本の文化に現れてくるのは、それから20~30年後です。
その間に中国情勢が変わります。隋は短命です。すぐ滅亡して、次の王朝に変わる。それが唐です。618年建国です。小野妹子が隋に派遣されたのが607年ですから、それから10年あまりで隋は滅んでいるわけです。そしてこの唐にも、630年、日本は遣唐使を送ります。
それから20年ばかり経って、遣唐使の留学生たちが帰ってくる。こういう情勢の中で、中国の唐は、非常に王様の権限が強い国家であることが分かってくる。こういう国家を中央集権国家という。そういう情報が入ってきて、日本もそうなろう。日本は天皇よりも蘇我氏が強い。それはおかしいじゃないか、という気運が高まってきた、といわれます。


※【疑問】 遣隋使のタリシヒコ厩戸王ではなく九州王朝の王だったとすれば、大和地方には隋の文化は伝わっていないことになり、隋の中央集権体制を見ならおうとする気運の高まりはありえないことになります。



【乙巳の変】 そこで改革をやっていく人物が現れます。その中心人物が、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)という。これも読みにくいから、覚えないといけない。皇子という言葉は、天皇の息子にしか使わない。
この時の天皇は女帝で皇極天皇といいますが、中大兄皇子はその皇極天皇の息子です。皇極天皇の夫は舒明天皇です。その二人の間に生まれたのが中大兄皇子です。つまり中大兄皇子は、舒明天皇を父とし、皇極天皇を母とした政界のエース中のエースという立場で登場したことになっています。


※ 630年、中大兄皇子の父とされる舒明天皇の時代、すでに遣唐使が派遣されています。



どうも母親のほうが目立っていて、このときの天皇は母親の皇極天皇です。中大兄皇子はまだ20才前、若々しい青年ですけれども、彼一人じゃまだ経験不足です。ブレインとなる大人がついている。これが、中臣鎌足(かまたり)です。「かたまり」じゃない。「かまたり」です。
そして645年、暗殺事件です。相手は蘇我氏です。蘇我蝦夷の息子の蘇我入鹿を暗殺する。場所はこともあろうに天皇が住んでいる大極殿という一番の宮殿です。木の陰に潜んで、そこの儀式の最中に一気に飛び出してブスッとやる。昔の貴族は、まだこの時代は気が荒いです。こんな劇画的な話が乙巳の変(いっしのへん)です。乙巳は年の数え方で意味はありません。
そして蘇我氏を滅ぼして、新しい人事で天皇を変えていきます。中大兄皇子はこの時の皇極天皇の息子ですけど、なぜか天皇にはすぐにはならない。この人が天皇になるのは、ずっとあとです。

このことが私はずっと不思議です。この天皇である母親とクーデターを起こした息子の関係は不思議です。自分の母親が天皇であるのに、その天皇の前で息子の中大兄皇子がなぜ蘇我入鹿を殺さなければならないか。もっとうまい手があったはずだと思います。この事件は奈良県明日香村に遺跡のある飛鳥板蓋宮でおこったとされていますが、これをそのまま信じることは難しいです。

※【異説】 正義は蘇我入鹿にあって、よこしまな心をもった中大兄皇子中臣鎌足が権力闘争の末、蘇我入鹿を抹殺し、政治家蘇我入鹿の手柄をすべて横取りした、という可能性が出てくるわけだ。(図解古代史 秘められた謎と真相 関裕二 PHP研究所 P50)

※【異説】 中大兄皇子や中臣鎌足の蘇我入鹿暗殺は、単なる権力闘争の結果であって、本当に改革を推し進めていたのは、むしろ蘇我氏の方であった。そして孝徳天皇は、新蘇我派の天皇で、蘇我入鹿の遺志を引き継いだのではないか。(図解古代史 秘められた謎と真相 関裕二 PHP研究所 P52)



ここでは中大兄皇子は皇太子になる。中大兄皇子はすぐには天皇にはならない。次の次の天皇になる。この人が天皇になるのは20年以上あとです。父も母も天皇であるなら、その子である中大兄皇子はすぐに天皇になれるはずです。しかしならない。それは中大兄皇子が天皇の子ではなかったからではないか。中大兄皇子は、まったく別のところから来た人物だったのではないか。中大兄皇子が本当は誰であったか、本当に天皇の息子であったか、疑問です。


※【異説】 蘇我氏の正体。それは、新羅王子・天日槍(あめのひぼこ)の末裔だった。(蘇我氏の正体 関裕二 新潮文庫 P242)

※【異説】 蘇我氏が滅亡したとされる645年の乙巳の変は、新羅の出来事であるヒ曇の乱の書き換えとする説があります。蘇我氏自体が創作された可能性もあります。蘇我氏や厩戸王を登場させることによって、外来文化である仏教や律令の受け入れや、中央集権体制が早くから行われていたことにする意図があったのではないでしょうか。蘇我氏新羅の重臣をモデルにした架空の一族ではないかとする説もあります。
 しかし一旦、架空の人物を歴史上に登場させると、その子孫はどうなっているかという疑問が生じ、そこから歴史のウソが見抜かれてしまいますから、それを防ぐために、架空の人物は早めに滅亡させておく必要があります。だから蘇我氏は歴史上は跡が残らないように悪者にして滅ぼされ、それと同じように厩戸王(聖徳太子)の一族も蘇我氏によって滅亡させられることになった、とも考えられます。蘇我馬子、蝦夷、入鹿という三代の名前も、あえて悪い名前をつけられているように思います。

※【異説】 この大化改新には、
1.この話は実在しない架空の話だとする説、
2.647年に新羅でおこったヒ曇の乱(ヒドンのらん、ヒは田+比の字)を、日本の歴史としてアレンジしたものだとする説、があります。いずれにしてもそのまま日本の歴史として信じるのは難しいことです。

ヒ曇の乱とは新羅で起こった事件です。647年、新羅の女王である善徳女王(女帝皇極天皇に比定)のときに、女王の甥の金春秋中大兄皇子に比定)が、重臣で義兄(妻の兄)の金庾信中臣鎌足に比定)とはかって、対立する重臣のヒ曇(ヒドン、蘇我入鹿に比定)を殺した事件です。確かに時期も人間構成も似ています。(倭と日本建国史 鹿島曻 新国民社 P255あたり参考)



ではその相棒、中臣鎌足はどうなるかというと、ずっと偉い貴族になっていくんだけれども、名前を変えます。中臣から藤原に変える。この藤原氏が何百年も、というか現代まで生き残っていくんです。この藤原氏は、次の奈良時代、その次の平安時代と、ナンバーワン貴族にまで上りつめていく。ただし天皇にはならない。中大兄皇子も私には疑問の多い人ですが、それと同様にこの中臣鎌足も、本当は誰なのか、よくわからない人です。

※【異説】 少なくとも、「日本書紀」編纂の中心に藤原不比等が座っていたとするならば、「日本書紀」が単純な「天皇家のための歴史書」だったかどうか、じつに怪しいといわざるを得ない。・・・・・・「日本書紀」の神話とは、「天皇の正統性」を主張するのが最大の目的ではなく、「藤原氏の正統性・正当性」を主張する、という「裏」の動機・目的こそが大切だったことに気づかされる。・・・・・・「日本書紀」は藤原氏の政敵・蘇我氏をとことん悪く書いている。藤原不比等の父・中臣鎌足は蘇我氏の横暴を憎み、天皇家の行く末を憂い、蘇我入鹿暗殺というクーデターを起こしたと記している。・・・・・・藤原氏が心血を注いだのは、いかに蘇我氏の正体を抹殺するかにあったはずで、そのいい例が、蘇我氏の祖の名を「日本書紀」が無視している点である。(天孫降臨の謎 関裕二 PHP P98)

※(筆者注) 九州王朝説では、中臣鎌足から藤原不比等へと続く藤原氏について、ほとんど触れていない。藤原氏は奈良時代以降、絶大な権力を築き上げた。日本の歴史から九州王朝を消し、万世一系の天皇が支配する国にしたのは藤原氏である。藤原氏とはいったい何者だったのか、そのことが十分に解明されていない。


※【異説】 ひょっとして、ヤマト朝廷がヤマト建国来、王家が出雲神を重視し、丁重に祀る一方で、「日本書紀」の中で出雲神が「天神の敵」「天皇家のライバル」として描かれたのは、「出雲=蘇我氏」だったからではないか? 出雲神と蘇我氏の命運は驚くほどよく似ている。天神の敵で天神の強要によって国を譲り渡した出雲神は、「日本書紀」編纂の中心にいた藤原氏に政権を譲り渡し、大悪人と「日本書紀」の中で罵られた蘇我氏とそっくりではないか。つまり、出雲神蘇我氏の祖であったからこそ、「日本書紀」は「出雲」の正体を抹殺し、悪のイメージを植え付けたのではなかったか。(消えた出雲と継体天皇の謎 関裕二 学研 P117)

※【新羅の金春秋】 金春秋はのちの新羅武烈王(ぶれつおう、602年? - 661年)。武烈王は新羅の第29代の王(在位:654年 - 661年)。王妃は金庾信の妹に当たる。
この時代の新羅は、唐からの遠征を撃退したことで勢いに乗る高句麗と、伽耶地方を80年ぶりに新羅から奪回した百済からの圧迫により疲弊していた。窮した新羅は隣国の支援を求めて、王族の金春秋を高句麗、日本に派遣したが、どちらも成果を挙げることはできなかった。
対日本の場合、646年に日本から遣新羅使として高向玄理が派遣され、新羅から任那への調を廃止させ、新羅から日本に人質を差し出させることとなり、翌647年(大化3年)に高向玄理は金春秋を伴って帰国し、金春秋は人質という身分で暫く日本に留まった。
翌648年、今度は唐に派遣された金春秋は、対高句麗で思惑の一致する(唐の)太宗の厚遇を受けた。
652年、金春秋が即位すると、唐からは開府儀同三司・新羅王に封じられ、あわせて楽浪郡王を増封された。
659年、百済が国境を侵して攻め込んできたため、唐に出兵を求める使者を派遣した。新羅からの再三の懇願に応え、6603月、唐は水陸13万の兵を百済に送り、金春秋も唐軍の総管として5万の兵でこれを迎え、百済を滅ぼした
661年、唐の高句麗出兵に参加した金春秋は、軍を北上させている途上で病に倒れ、661年6月に陣中で病死した。(ウィキペディアより抜粋)



【孝徳天皇】 この時の新しい天皇には中大兄皇子の母方の叔父にあたる孝徳天皇を立てます。そして初の年号を制定します。この日本初の年号が大化です。「大化けする」という意味です。大化けして何をするかというと、翌年646年正月に「改新の詔」をだして、私有地を廃してすべてを天皇のものとする公地公民制を目指したということになっています。
これはすべての土地を国家が一元的に管理するということで、いわば古代の社会主義国家体制のようなものですが、こんなことが本当にできたのかどうか、古くから疑問があります。こんなことができたなんてとても信じられない、と思うほうが歴史の真実に近づけるような気がします。ある教科書にも、「日本書紀」が伝える「改新の詔」の文章には潤色(じゅんしょく)がある、と書いてあります。

講演番号61 ひた隠しにされる年号・九州年号 ~熊襲が制定したわが国最初の年号群~  講師:内倉武久

※【異説】 この改新詔九州王朝の天子による令であって、建の詔であったと考えるべきです。・・・・・・本稿では「7世紀中期以前の近畿地方の王者の領地領民を九州王朝側に召し上げる話」となります。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 服部静尚 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P244)

※【異説】 九州王朝は唐・新羅の脅威に対抗するため、九州年号常色・白雉期の、649年頃全国に制を敷き、652年難波遷都を行ったが、その先例は端政年間の多利思北孤によるこうした難波・河内進出と東方経営、集権体制の整備といった対隋防衛施策だったのだ。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P73)

※【異説】 「大化」は九州年号では695年が元年であるところ、「書紀」では645年で「50年のずれ」が見られます。「書紀」大化の時代は、九州年号では主に「常色」(647~651)期にあたり、九州王朝では、新羅や蝦夷との抗争に備え、全国に「評制」を施行(649年ごろ)し、「七色十三階の冠(647年)」「八省・百官設置(649年)」等の官僚制整備をおこない、「九州王朝を中心とした集権体制」を強化・確立していきました。
 一方、九州年号の大化期(695~700)は九州王朝の末期で、近畿天皇家では、持統・文武が「近畿天皇家を中心とした集権体制」を作るため、「評制から郡制への移行」や「律令制定(大宝律令)」「大宝建元」(いずれも701年)を始めとする「政権移行」に向けた準備・改革を進めている時期でした。
 「書紀」編者は、この(近畿)天皇家の改革記事を、「大化」年号ごと、九州王朝の改革期と重なる孝徳期645~649)の5年間に移しました。そして、九州王朝の制度の「評」を、近畿天皇家の制度の「郡」と書き換えるなどの手法で、「主体(九州王朝と近畿天皇家)」と、「時代」を異にする、「集権体制確立に向けての二つの改革」を「混合・融合」させました。(古代に真実を求めて 第20集 失われた倭国年号〔大和朝廷以前〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2017.3月 P66)

※【異説】 古田武彦氏は、「(日本)書紀」には九州王朝の史書からの「盗用」がみられるとされ、持統3年(689)から11年(697)にかけての31回の「持統吉野行幸記事」は、本来「34年前の九州王朝の天子の佐賀なる吉野への行幸である」こと、つまり行幸記事が「34年繰り下げ」られていることを例としてあげられた。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P185)

※【異説】 (九州王朝では)649年頃、全国に新たな地方統治制度である「評制」が敷かれたことが分かっている。・・・・・・「評制」は中央政権が、地方の豪族を評監等に任命し中央政権の統制下に置くものだ。・・・・・・その役所は「地理的」に全国統治に適した場所に整備する必要があり、九州は遥か東国を統治するには不適切だった。そこで、統治領域の中央に位置し、かつ筑紫からの海運の便も良い難波に造都を計画したと考えられよう。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P187)

※【異説】 都城造営の次の段階は、予定地の地形調査で、「書紀」天武11年(682)にその記事がある。34年前は孝徳大化4年(648)・九州年号「常色」2年だ。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P187)

※【異説】 「(伊予三嶋)縁起」は、天武11年(682)の34年前、常色2年(648)に九州王朝の天子が、「新城」則ち難波宮予定地調査のため工匠を派遣し、自らも予定地視察のため、筑紫から瀬戸内を経由し難波に行幸した。その途上伊予に立ち寄ったことを示すものとなろう。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P188)

※【異説】 (難波宮への)移転は、孝徳白雉2年(651)に行われたことが、天武14年(685)記事からわかる。34年前は孝徳白雉2年(651)・九州年号「常色」5年で、先発隊を9月に派遣し、現地で万全の備えが行われたと考えられる。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P191)

※【異説】 (天武14年(685)の)この記事こそ、「書紀」で「伊勢王」とされる「九州王朝の天子」らが筑紫から難波宮にに遷居した記事だと考えられる。・・・・・・ちなみに、新羅は百済との争いで劣勢となり、王子金春秋(武烈王)は、高句麗や倭国に支援を求めたが拒否され、648年に唐に入朝し臣従した。つまり、「唐・新羅の連合が強固になった」わけで、百済と関係の深い九州王朝にとって、唐・新羅の脅威が高まったことを意味する。まさにこの時期に「副都詔」が出され、難波都城造営が実行に移されたことになる。(筆者注 685年の34年前は651年)(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P192)

※【異説】 「持統の初の吉野行幸(689)」の34年前、斉明元年(655)には、九州王朝の天子の佐賀なる吉野行幸が始まり、翌斉明2年(656)には吉野宮が造られ、大野城基肄城の築造、羅城の構築が始まる。ここでは九州王朝の天子は「斉明」になぞられており、「倭京」とは飛鳥の諸宮ではなく「筑紫大宰府」で、「斉明」が居した「飛鳥河辺行宮・倭河辺行宮」も、太宰府周辺の大工事中に九州王朝の天子が居した小郡宮だったことになろう。・・・・・・その後「倭京」たる筑紫大宰府に復帰し、一大防衛施設造営に取り組み「城塞首都大宰府」を構築していった。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P194)



しかも時代は、次に見るように、それどころではないような混乱した時代に向かっていきます。
続く。

 


新「授業でいえない日本史」 3話の3 古代 白村江の戦い

2020-10-29 06:54:20 | 新日本史1 古代2
【改新政治の動向】
【斉明天皇】
654年に孝徳天皇が死にます。
すると、中大兄皇子は次にまた自分の母親を再度、天皇にします。乙巳の変の時の皇極天皇ですが、皇極天皇が名前を変えて斉明天皇として再度即位します。これを重祚といっています。
斉明天皇は、660年に、唐・新羅の連合軍により百済が滅亡すると、百済を救援するため自ら筑紫つまり福岡県の朝倉に赴きますが、661年にこの地の朝倉宮で没します。この宮がどこなのかはまだ分かっていません。このことが古事記や日本書紀で語られる神功皇后の三韓征伐説話のモデルになったのではないかといわれます。 

※ 古田武彦氏は『壬申大乱』で、「書紀」に記す持統天皇の持統3年(689)から11年(697)にかけての、のべ31回の吉野行幸は、斉明元年(655)から天智2年(663)までの、九州王朝(倭国)の天子による佐賀なる軍事基地・吉野への閲兵・行幸記事が「34年繰り下げ」られたものだとされている。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P25)

※(660年の日本書紀の)記事は、百済の危機という状況のもと、九州王朝(倭国)はこのころに大宰府の防衛ラインを築造・完成させ、兵士らを配置したことを示すものだろう。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P27)

※ 『海東諸国紀』(申叔舟著 1471年)では、斉明7年(661年・九州年号「白鳳元年」)に白鳳改元近江遷都の記事があります。・・・・・・「白鳳」は『書紀』に見えない「倭国年号(九州年号)」で、その改元と近江遷都が同時なら、遷都は倭国(九州王朝)の事績となります。そして、斉明6年(660年)に唐・新羅連合による攻撃で・・・・・・百済は滅亡しており、唐・新羅連合がその余勢を駆って、百済の同盟国であった倭国の本拠「筑紫」に侵入してくることは十分に予想できます。その場合、近江なら、筑紫の防衛線を突破されても、次は瀬戸内海での水軍による抵抗、さらに難波宮を防波堤にした抵抗と、「三段構え」の防衛戦が構築できます。従って「飛鳥から近江」と違い、倭国の「筑紫から近江への遷都」は対唐・新羅戦への備えとして大きな意味を持つのです。(古代に真実を求めて 第22集 倭国古伝 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2019.3月 P35)

※ 朝鮮半島と東アジア海域への進出を何としても実現したかった唐は、3度の遠征に失敗した隋から学び、東の新羅と提携して高句麗を挟撃した。
新羅は656年の使節の派遣を最後に、百済に近い倭国との関係を断つ。他方で高句麗は百済と連合し、659年、機先を制して新羅への攻撃に踏み切った。高句麗と百済の同盟軍が30余城を陥落させると、新羅は唐に支援を求め、両陣営の全面衝突が始まる。
唐の第三代、高宗は、高句麗との同盟を理由に、660年、百済への攻撃を開始。将軍、蘇定方が率いる13万人の唐軍と5万人の新羅軍が百済に侵攻して義慈王を降伏させ、百済を滅ぼした
百済の王族、貴族、民衆の多くが唐に連行され、多数が海を渡って倭国に亡命した。
その後、唐が主力軍を高句麗攻撃に回すと、百済では遺民の鬼室福信(生没年不詳)が百済の復興を目指して挙兵。義慈王が30年前に倭国に人質として送っていた王子、余豊璋(生没年不詳)の護送を求めた。
倭国では女帝の斉明天皇を先頭に百済救援の準備が進められたものの、女帝が2ヶ月後に筑紫で病没。中大兄王子が陣頭指揮にあたった。その間に、唐軍は本格的な高句麗攻撃を開始する。
662年、倭国は5000人の兵とともに船170隻で百済の王子、余豊璋に最高位の織冠位を与えを送り返す。同年、余豊璋は百済の王位についた。しかし、百済を復興しようとする勢力の内部で抗争が起こり、余豊璋が鬼室福信を殺害。それを機に、唐と新羅の連合軍が百済復興の拠点、周留城の攻撃に踏み切った。(「海国」日本の歴史 宮崎正勝 原書房 P49)

※【異説】 その時(白村江の戦い)には、九州王朝と、いわいる近畿天皇家側、近畿分王朝と言ってもいいのですが、これは必ずしも、正面きった対立関係ではなかったようです。その証拠には、今ご指摘になったような朝倉宮に斉明天皇が入ったということを見ましても、当然、朝倉宮は九州王朝の磐井の本拠、筑紫野君らの本拠ですから。そこに入ったのですから、両者は協力して、唐・新羅の連合軍にあたるという、少なくとも建前はそういう体制であったようです。
 ところが、これも結論から申しますが、どうも近畿天皇家側は、斉明・天智側は本気で戦う気持ちは無かったようです。と言いますのは、それを示します文献上の証拠は、「風土記」にございます。・・・・・・今の岡山県ですが、そこに邇磨(にま)の郷という箇所、そこだけが残っています。それは、斉明天皇の時、白村江の戦いがあるというので、軍勢が集められた。二万人が集まった。ところが、少し待っておれというので待たされていた。そのうちに朝倉宮で斉明天皇が亡くなられた。そこで、その後、中大兄皇子が、もう軍勢を解散していいと、こういうことで、結局解散してしまったので、白村江には行かなかったと。・・・・・・要するに、白村江の時には、近畿天皇家側は戦う意志を持っていないわけです。(邪馬壹国から九州王朝へ 古田武彦 新泉社 1987.10月 P226)

※【異説】 額田王の歌と言われている「万葉八番歌」の「熟田津」の比定地は、伊予国内ではなく有明海の佐賀県諸富町新北(にぎた)であった。また、作者も女性の額田王(ぬかたのおおきみ)ではなく男性の額田王(ぬかたのおう)であった。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 合田洋一 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P122)
(筆者注) 佐賀県諸富町の三重集落には「新北(にきた)神社」がある。そこには、秦の始皇帝の命により不老不死の薬を求めた徐福上陸の伝承がある。また、その徐福によると言われるご神木のビャクシンの樹がある。また付近には世界遺産「三重津海軍所跡」(幕末)がある。
 


【天智天皇】 若かった中大兄皇子も、もう40才ちかくです。斉明天皇が亡くなって、そこでやっと天皇になるかというと、なかなか即位儀礼をあげず、天皇になりません。しかし実質的には天皇の仕事をしていったことになってますので、天智天皇といいます。これを称制といっています。
そしてそのまま斉明天皇の百済救援事業を継続します。日本が朝鮮半島まで百済救援軍を派遣します。その戦いが663年白村江の戦いです。白村江(はくそんこう)は、日本ではないです。朝鮮の川の名前で、錦江といいます。鹿児島湾のことを地元では錦江湾といいますが、それと何か関係があるのでしょうか。ちなみに韓国の首都ソウルを流れる川は漢江です。

攻めて行ったのはいいけれども負ける。相手が悪かった。相手は新羅で、そのうしろに中国の唐がついています。
なぜそんな無謀な戦いをしたか。日本は、新羅のライバルであった百済と友好関係にあったから、それを助けに行くためです。仏教も百済から伝えられたものです。その百済を救援に行ったのです。


※ 周留城は唐軍に下り、敗れた余豊璋高句麗に亡命。百済は完全に滅び去った。倭国軍は、亡命を望む百済の将兵を船に乗せて帰国。
665年、400人の百済貴族の近江移住が認められ、
666年には、2000人以上の百済人が東国に移住した。
667年には、それまで百済に従属していた黄海の耽羅(べきら)(現在の済州島)が倭国に使節を派遣する。倭国は亡国の危機が迫っているとの危機感を強め、唐・新羅連合軍の海からの進撃に対する備えを固めた。玄海灘が戦争の海に変わったのである。
664年、対馬、壱岐、筑紫に防人と烽(ノロシ台)を配置し、防御の拠点を大宰府に置いて、海岸線に沿って大堤と堀からなる水城(1.2キロ以上の濠)が築かれた。・・・・・・大宰府の北の尾根筋や谷間に、6.5キロにわたり土塁、石垣を巡らした百済の様式の山城、大野城も築かれている。
667年になると、都が内陸部の琵琶湖南西岸に遷された。翌年、中大兄皇子は天智天皇として即位。予想される唐軍の侵攻ルートに沿って、関門海峡に臨む長門に城を設け、さらに高安城(奈良県)、屋嶋城(香川県)、金田城(対馬)などの朝鮮式山城を築いた。百済から亡命した技術者が山城の建設を指導したのであろうと推測されている。(「海国」日本の歴史 宮崎正勝 原書房 P50)

※朝鮮の歴史書である「三国史記」の「百済本紀」には次のようにあります。

「660年、百済の先代の武王の従子(甥)、(鬼室)福信はかつて将帥の経歴がある。この時に僧の道琛とともに周留城(旧韓山城)に拠って叛き、かつて倭国に人質となって行っていた故王子の扶余(豊璋)を迎えて王にした」 

※【異説】 ここでの中大兄皇子は、実在の人物ではなく、日本に来ていた百済王子の豊璋がモデルだとも言われます。つまり中大兄皇子は、乙巳の変では新羅王子の金春秋をモデルとし、白村江の戦いでは百済王子の豊璋をモデルとして合成された人物だとされます。

※【異説】 中臣鎌足の逐電の時期と豊璋の百済行きの時期が、ぴったり重なってしまうのである。いったいこれは何を意味しているのだろう。よもや二人は同一人物ではあるまいか。(天孫降臨の謎 関裕二 PHP P43)

※【異説】 興味深いのは、日本に人質として来日していた百済王子・豊璋で、この人物の姿が、中臣鎌足の登場と逐電のタイミングと重なってくるのだ。すなわち、豊璋が来日したあとに中臣鎌足が歴史に登場し、しかも、豊璋が百済に召喚されると中臣鎌足も姿をくらまし、さらに白村江の戦いのあと豊璋は行方不明になるが、中臣鎌足は、なに食わぬ顔で中大兄皇子の前にもどってくる。中臣鎌足、百済王子・豊璋、両者を同一と考えなければ説明のつかないことばかりだ。(図解古代史 秘められた謎と真相 関裕二 PHP研究所 P54)

※【異説】 中臣鎌足(百済王子・豊璋)の目的は、あくまで百済遠征であり、中大兄皇子はうまく利用されたのだろう。(図解古代史 秘められた謎と真相 関裕二 PHP研究所 P58)

※【百済の豊璋】 扶余豊璋(ふよほうしょう)は、百済最後の王である義慈王(在位:641年 - 660年)の王子。
豊璋は日本と百済の主従関係を担保する人質ではあるものの、待遇は決して悪くはなかった。
660年、唐・新羅の連合軍(唐・新羅の同盟)が急に百済を滅ぼしたという知らせが届いた。百済の佐平・鬼室福信らが百済を復興すべく反乱を起こしたという知らせも来た。当時、倭国の実権を掌握していた中大兄皇子(後の天智天皇)は倭国の総力を挙げて百済復興を支援することを決定、都を筑紫朝倉宮に移動させた。
662年5月、斉明天皇は豊璋に安曇比羅夫らが率いる兵5,000と軍船170艘を添えて百済へと遣わし、豊璋は約30年ぶりとなる帰国を果たした。豊璋と倭軍は鬼室福信と合流し、豊璋は百済王に推戴されたが、次第に実権を握る鬼室福信との確執が生まれた。663年6月、豊璋は鬼室福信を殺害した。
唐本国から劉仁軌率いる7,000名の救援部隊が到着し、8月27、28日の両日、倭国水軍と白村江で衝突した。その結果、倭国・百済連合軍が大敗した。いわゆる白村江の戦いである。
豊璋は数人の従者と共に高句麗に逃れたが、その高句麗も内紛につけ込まれて668年に唐に滅ぼされた。豊璋は許されず、嶺南地方に流刑にされた。
豊璋の弟については、豊璋と共に人質として倭国に渡り滞在したが帰国はしなかった。白村江の戦いの後、百済王族唯一の生存者として持統天皇から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜った。(ウィキペディアより)

※【異説】 九州王朝は、「天子対天子」の立場ですから、ついに白村江の戦いに突入したわけです。ところが、・・・・・・分家でありますから、近畿天皇家側は、いわば「応援」という形をとったのです。しかし、先ほどの備中の「風土記」が示しますように、また近畿天皇家の誰も主だった者が死んでいない事実が、何よりも雄弁に語りますように、実質上は「降りて」いたのです。だから、倭国側の大敗戦、「筑紫君」が捕虜になると、これは、ある意味では、近畿側にとってはチャンス到来といいますか、予想どおりの展開が出てきたわけです。(邪馬壹国から九州王朝へ 古田武彦 新泉社 1987.10月 P229)



しかし負けた。負けて「ごめんね」では終わらないです。敵を攻めて負けたら、今度は仕返しが来るんです。これが怖くて仕方がないから、九州の大宰府を今の場所の山懐に引っ越して(もともとは高宮にあったといわれます)、その大宰府の入り口に、敵が入ってこないような土塁をつくっていく。これが水城です。664年、水城をつくります。新しい大宰府の役所になったところが今の都府楼跡です。学問の神様で有名な太宰府天満宮ができるのはもうちょっとあとです。

ちなみにダザイフを、「大」宰府と書くか「太」宰府と書くかですが、もともとは「大」宰府ですが、誰かがまちがって「太」宰府と書いたところ、みんな「太宰府」と書くようになったようです。たぶん鎌倉時代には今の「太」宰府になったようです。今は「太」宰府市ですが、この時は「大」宰府です。まあそんなことは歴史の本流には関係ないですが。
さらに太宰府を防備するために、守るためにお城を築く。大宰府の北の裏山は大野山という。そこにお城をつくる。これが大野城です。今でも福岡県「大野城市」として名前が残っています。
それから向かいの佐賀側には基山という山がある。そこには基肄城(きいじょう)を造る。これは佐賀の鳥栖側です。これはともに日本の建築ではなくて、同じ型のお城が朝鮮にあることから、朝鮮の技術で造った朝鮮式山城です。


※【異説】 大宰府の防衛施設と考えられる「大水城」は白村江敗戦の翌年、 天智3年(664)に、「大野城基肄城」は天智4年(665)に、それぞれ築造されたと「日本書紀」に記されている。・・・・・・こうした「大宰府の防衛施設群」が、白村江直後の1~2年間でできたのではないことは考古学が証明している。まず、大野城城門の木柱の伐採年代は、年輪年代法で648年とされ(九州国立博物館が年輪年代法で648年と発表。西日本新聞2012年11月23日)、水城敷粗朶(しきそだ)(築堤の際に小さい枝葉を敷き込んだもの)は、九州歴史資料館による炭素同位体年代測定法で240年660年頃という結果が報告されており、これらの施設は白村江「敗戦後」ではなく、「戦前」に大宰府を防衛するために築造されたものと考えられよう。そもそも、天智3年には郭務悰等が、4年には唐より朝散大夫沂洲司馬上柱国劉徳高等254人の使節が筑紫に到着している。戦勝国唐の使節の「眼前」で、戦争準備であることが明白な「巨大工事」を行うことが可能だったとは到底思えない。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P19)

※【異説】 「書紀」編者は、実際は斉明2年(656年)の九州王朝(倭国)による大野城・基肄城築城記事を、天智4年(665年)に「9年繰り下げ」、近畿天皇家の天智の事績としたことになる。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P24)

※ 平成11年に発見された太宰府市の東側(筑紫野市)に位置する神籠石山城の阿志岐城の地図が掲載されており、大宰府条坊都市が三山に鎮護されていることに気づいたのです。その三山とは東の阿志岐城(宮地岳、339メートル)、北の大野城(四王寺山、410メートル)、南の基肄城(基山、404メートル)です。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P36)


【古代史探索の旅Ⅱ】第2話 失われた歴史/九州王朝(後編) 根拠となる史跡・資料をまとめています


結果的に敵は攻めて来なかったとされていますが、このような可能性が十分にあるのは、この600年後モンゴルの大軍が日本を攻めてきたとき、どこに攻めてきたかを考えれば分かることです。

さらにその北部九州の警備をする兵士が、防人(さきもり)です。敵来襲の知らせのための烽火(とぶひ)を設置します。
私は以前、水城や大野城や基肄城にも行ってそこに立ってみましたが、この砦は日本人の発想にしては大規模すぎる、日本人離れしている、と思いました。日本人がなぜ朝鮮式山城をつくるのか。敵を防ぐための施設というけど、本当に敵は攻めてこなかったのか。敵が攻めてきて敵に占領されたから、敵がその駐屯地として朝鮮式山城をつくったのではないか。白村江で負けた日本軍が防御のために朝鮮式山城をつくったとするより、勝った朝鮮の新羅軍が九州北部を占領するために朝鮮式山城をつくったと考えるほうが実態に合うような気がします。

先に磐井の乱のところで西日本各地に残る神籠石のことを言いましたが、この神籠石も朝鮮式山城だったことが分かっています。この神籠石は、6世紀の磐井の乱のころつくられたとする説と、この7世紀の白村江の戦いのころにつくられたとする説があります。その両方だった可能性もありますが、白村江の戦いの頃だとする説が有力です。朝鮮軍が日本に入ってきて支配しないと、このような大規模な朝鮮式山城はできないのではないでしょうか。

※【九州王朝の薩夜麻】
※【異説】 『旧唐書』『冊府元亀』には、白村江戦で「倭国酋長」が捕囚となり、高宗に謁見、封禅の儀(天下を平定した感謝を天に捧げる儀式)に参加し、唐の臣下となったと書かれています。・・・・・・『旧唐書』の「倭」とは倭国(九州王朝)を言いますから、その「酋長」が囚われていたことになります。そして、『書紀』では「筑紫君薩夜麻」が唐に抑留されていたと書かれているのです。また、捕囚となった敗戦国の東夷の王(酋長)たちは、皆唐に臣従し、「羈縻(きび)政策」により唐の任命した「都督」として「都督府」に送り帰されています。(古代に真実を求めて 第22集 倭国古伝 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2019.3月 P32)

※【異説】 倭王薩夜麻も「都督」として送り返された可能性が高い。現に「筑紫都督」の名称が、白村江後の天智6年(667)、「書紀」に初めて現れる。・・・・・・670年頃に造られた大宰府政庁Ⅱ期とは、唐の都督となった倭王の居する、文字通りの「都督の府都府楼」だった。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P32)

※【異説】 「書紀」では薩夜麻の帰還は天智10年(671)11月とされている。・・・・・・本来境部連石積の帰還と同じ天智6年(667)だった薩夜麻の帰還も、天智10年(671)に4年間繰り下げられた可能性がある。(古代に真実を求めて 第20集 失われた倭国年号〔大和朝廷以前〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2017.3月 P98)

※【異説】 (670年)、今までの「倭国」、この「倭国」というのは九州王朝です。・・・・・・この「倭国」を廃止して、この大和中心の「日本国」と名称を変える通知を行ったようです。何でわかるかというと、朝鮮半島の「三国史記」、それの新羅の文武王の10年、西暦で670年、その年に、「倭国」を「日本国」と改む、『倭国を更えて日本国と号す』、という記事があります。(邪馬壹国から九州王朝へ 古田武彦 新泉社 1987.10月 P229) 



その後、負けた側の天智天皇は、飛鳥の都にいるのが恐くなって、667年、都を琵琶湖の近くに引っ越します。これを近江大津宮と言います。それほど攻められる恐れがあったのだと思います。敵は日本に攻めてこなかったとされていますが、敵が九州に乗り込んできた、と考えるほうがリアル感が増します。
天智天皇はこの都に遷都したあと、翌年の668年にやっと正式に即位します。遅すぎる即位です。そしてその3年後の671年には亡くなります。

※【異説】 九州王朝の天子たる薩夜麻が唐に抑留されている間は、当然「天子不在」であり、天智6年(667)11月に帰国したなら「称制終了」も頷首できるのだ。つまり、「天子の不在」とは近畿天皇家の天皇の不在ではなく、「九州王朝の天子・薩夜麻の不在」であり、彼の帰国と「復位」により「天子不在」状況が「解消」したことになる。そして抑留中の薩夜麻にかわり近江朝を事実上運営していたのが天智であれば、その間は「天智称制」ということになろう。(古代に真実を求めて 第20集 失われた倭国年号〔大和朝廷以前〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2017.3月 P100)

※【異説】 「倭国(九州王朝)の天子」薩夜麻667年末に帰国するまで政務を執ることができない状況にあった。そこで、「近江宮」でヤマトの天皇家の天智が、薩夜麻の「代理」として政務を掌った。これは、天皇家一族は白村江に出兵せず、従って損害が少なく、また近江は継体(天皇)の生誕の地(『書紀』に「近江国高嶋郡三尾」とある)とされるように、ヤマトの天皇家の勢力範囲にあったから、自然の成り行きともいえよう。つまり、「天智称制」という形式は、天皇の不在ではなく「倭国(九州王朝)の天子薩夜麻」の不在によるものだった。
 しかし、薩夜麻は「唐の官僚たる都督」として帰国した。唐側から見れば、羈縻政策上「都督」は「倭国王」として統治する地位となるが、倭国側から見ればあくまで「唐の官僚」いわば「代官」だ。これは、倭国内の諸国・諸豪族、重臣らが盟主として推戴してきた「倭国王」とは異質な存在となる。そこで、都督薩夜麻の帰国直後の天智7年(668)正月、「九州王朝の薩夜麻」に代わって、「ヤマトの天皇家の天智」が諸豪族や重臣らによって「倭国の盟主・代表者」に推戴され、「大津近江宮」で即位したのだ。つまり、この時点で「唐の都督たる九州王朝の薩夜麻」と「倭国王たる天皇家の天智(近江朝廷)」という二重権力状態が生じたことになる。(古代に真実を求めて 第23集 『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独〔消えた古代王朝〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2020.3月 P184)

※【異説】 白村江の敗戦で半島に出兵した倭国の水軍は壊滅しており、残された主要な軍事力は、戦場から離れた東国の兵力となる。つまり、薩夜麻には白村江を生き延びたわずかな九州の兵しかなく、最大の頼みは駐留していた唐の勢力ということになろう。その唐にしても少数の駐留軍で東国の「天智の近江朝」を制圧するのは困難で、羈縻政策には反するが、当面天智の執政を認めざるをえなかった。(古代に真実を求めて 第23集 『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独〔消えた古代王朝〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2020.3月 P185)

※ 天智即位については近江朝内部は勿論、近畿天皇家内部においても、支持するか否か大いに意見が分かれたことだろう。ここで注目されるのは、天智は称制即位の前に多数の嬪を娶っていた。特に遠智娘(をちのいらつめ)は後に天武妃となる大田皇女、持統天皇となる鸕野皇女(うののひめみこ)を産んでおり、姪娘(めひのいらつめ)は後に元明天皇となる阿倍皇女を産んでいる。それにもかかわらず、(天智)7年1月の即位翌月に「倭姫王(やまとひめのおおきみ)」を正式に「皇后」としていることだ。
 そして天武は天智没後「倭姫王」に即位を勧めている。つまり天智即位と倭姫王を娶るのは「一体」の行為であり、かつ倭姫王は皇位を継承する十分な資格を有することになろう。古田(武彦)氏は「倭」は筑紫を意味するとされ、これを受け西村秀己氏は、「倭姫王」は古人大兄の娘とされるが、本来は九州王朝の血族(皇女=倭姫)ではないかとする。そうであれば彼女を娶る(天智が婿入りする)ことにより天智の皇位継承上の「障害」である「血統」問題が解消し、かつ薩夜麻側とも融和がはかれるのだ。
 ちなみにこれほどの地位にありながら、その後の「倭姫王」の消息は記されず、生没年も不詳とされる。その一方、九州の伝承では『開聞古事縁起』等で「大宮姫」という人物が665年に天智の妃となり、その後都(近江)を追われ天武天皇壬申年(672薩摩開聞岳に帰ったとされる。(650年生まれで708年に59歳で没)。『書紀』の「倭姫王」が「大宮姫」なら、夫天智の没後、壬申の乱時には「実家」たる九州王朝の薩夜麻の下に帰国した、あるいは「救出された」ことになろう。
 「倭姫王」が天智の妃である内は、薩夜麻側はあえて近江朝に手出しをしなかったが、「倭姫王」とは別腹(母は伊賀采女宅子娘)の大友が即位したことをうけ、近畿天皇家内部の権力闘争も利用して天武を支援し、遠慮なく近江朝を滅ぼしたのだ。(古代に真実を求めて 第20集 失われた倭国年号〔大和朝廷以前〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2017.3月 P100)



死の1年前の670年には、庚午年籍(こうごねんじゃく)という戸籍をつくります。これが日本初の全国的戸籍です。これは当初は農民を徴兵するのが目的でした。
ところで近江大津宮の近江というのも変な名前ですね。なんで近江と書いて「おうみ」というのしょうか。「おうみ」というのはもともと淡海(あわうみ)つまり湖のことです。都で知られた湖に2つあって、1つは琵琶湖、もう1つは静岡の浜名湖があります。都人は、琵琶湖のことを「近つあわうみ」、浜名湖のことを「遠つあわうみ」と呼んで区別しましたが、そのうちに琵琶湖には近江という漢字をあて、「近つあわうみ」と言いました。もう一方の浜名湖には遠江という字をあて、「遠つあわうみ」と言うようになりました。
しかし都に近い琵琶湖のことはだんだんと、たんに「あわうみ」とだけ呼ぶようになり、さらに訛って「おうみ」となりました。一方の浜名湖のほうは、遠江と書いて「とおつあわうみ」と言っていましたが、やがてそれが訛って「とおつおうみ」となり、さらに「とおとおみ」となって現在に至っています。近江は現在の琵琶湖のある滋賀県の旧国名になり、遠江は浜名湖のある静岡県の旧国名になります。
近江も、遠江も、知らないと普通は読めない字です。面倒くさいと思うよりも、漢字で日本語を記そうとした人たちの苦労を察してください。
その近江大津宮をつくったのは、琵琶湖は大きい湖で、この湖に乗り出せば、敵から逃れることができるからです。900年後に織田信長が琵琶湖のほとりに安土城を築いたのも同じ理由からです。


新「授業でいえない日本史」 3話の4 古代 壬申の乱

2020-10-29 06:54:10 | 新日本史1 古代2

【壬申の乱】 その近江に都を引っ越した天智天皇ですが、671年に彼が死ぬととたんに乱が起こります。672年壬申の乱です。天智天皇の子の大友皇子と、天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)の対立です。大半の有力豪族は大友皇子側につきましたが、勝ったのは大海人皇子でした。

※【異説】 前にも言ったように、663年の白村江の戦いで日本が新羅に敗れたあと、新羅は日本に攻めてこなかったことになっていますが、そうではなく、新羅はすぐに日本に攻めてきて日本を占領した、とする説があります。占領したからこそ新羅軍によって朝鮮式山城がつくられたとするものです。
史実としては、その後、新羅は朝鮮半島に生き残っていた百済の王族たちの軍を破り、百済軍は日本に逃れます。そして勝った新羅は676年に朝鮮半島を統一します。
この説では、その朝鮮半島統一と同じように日本に進駐した新羅の王族たちは、新羅が占領した九州の王国と、それ以前からあった百済系の大和の王国とを合わせて、統一された新日本国を建国したとされます。これが672年の「壬申の乱」の真実だというものです。そしてその新日本国の王になった新羅の王が、壬申の乱に勝利して翌年673年に即位した天武天皇だというわけです。つまり兄の天智天皇は従来からの百済系の天皇であり、弟の天武天皇はそれとは別の新しい新羅系の天皇になるわけです。のちにつくられる日本書紀ではこの二人は兄弟だとされていますが、本当はそうではなく、新しい新羅の王が日本の天皇になったわけです。そう考えると、戦争した日本と新羅との国交が、このあとすぐに回復していることもうなずけます。
天武天皇は新羅の文武王のことではないかと言われます。文武王とは、新羅のヒ曇の乱で、ヒ曇を殺した新羅王子の金春秋(のちの武烈王、日本の乙巳の変の中大兄皇子に比定される)の息子です。つまり新羅の王族の親子関係が、日本の天皇の兄弟関係に変更されて、新羅の歴史が日本の歴史として記述されているとも考えられるわけです。(倭と日本建国史 鹿島曻 新国民社 P298前後参照)

※【新羅の文武王】 文武王(ぶんぶおう、626年 - 681年7月21日)は、新羅の第30代の王(在位:661年 - 681年)であり、姓は金、諱は法敏。先代の武烈王の長子であり、母は角干(1等官)の金舒玄の娘(金庾信の妹)の文明夫人。王妃は波珍飡(4等官)の金善品(真智王の弟の金仇輪の子)の娘の慈儀王后。661年6月に先代の武烈王が死去し、王位に就いた。在位中に高句麗を滅ぼし、また唐の勢力を朝鮮半島から駆逐して、半島の統一を果たした。 (ウィキペディアより)

※【唐の郭務悰】 郭務悰(かく むそう、生没年不詳)は、中国代の官吏。白村江の戦い後に日唐関係修復交渉のため、3度(あるいは4度)倭国(日本)を訪問している。
『海外国記』では、664年(天智天皇3年)の4月に郭務悰ら30人、百済の佐平である禰軍ら100人あまりが対馬に到着し、倭国側からは大山中の采女通・僧侶の智弁らが遣わされたとある。郭務悰はこの時劉仁願からの「牒書(ちょうしょ)」を携えていたことも記されている。また、彼の役職は「上柱国」とも記されている。
翌665年、劉徳高らが倭国に派遣された際にも郭務悰と禰軍は同行し、この時の一行は合計254人からなる大使節団であり、7月28日に対馬に到着し、9月20日に筑紫に入り、22日に表函(ふみひつ)を進上している。
671年11月2日に唐国の遣使郭務悰ら600人、送使沙宅孫登ら1,400人を載せた、船47隻の大船団が比知島に現れ、対馬国司は大宰府に急変を伝えている。やがて筑紫に着き駐留して軍兵と思われる2000人での駐留状態になり深刻な問題となった。
しばらくして671年12月3日天智天皇が崩御し、その知らせは翌年、阿曇稲敷を通じて郭務悰らに伝達された。その後も駐留し続けた。
交渉の末に唐使らに大量の甲胄弓矢と絁(ふときぬ)1,673匹、布2,852端、綿666斤の贈物をすることで672年5月30日帰国させた 。(ウィキペディアより)

※ 『書紀』には672年5月に唐の郭務悰らが甲冑・弓矢の提供を受けたとあり、「壬申の乱」はその翌月(6月)に起きています。ここから壬申の乱当時、筑紫には唐の軍が駐留していたことがわかかるのです。(古代に真実を求めて 第22集 倭国古伝 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2019.3月 P31)

※ 翌668年、唐と新羅の連合軍は1ヶ月の攻防の末に高句麗を倒した。朝鮮半島の一連の戦闘に決着がつき、唐の朝鮮半島支配が成功したかに見えた。高句麗を滅ぼすと、唐は旧高句麗領を支配。
669年、(は)47隻からなる大船団で、旧百済領から2000人もの大使節団を倭国に派遣する。使節団のミッションははっきりしないが、唐軍への支援要請だったとする説もある。・・・・・・
ところが、予期せざることが起こった。唐軍と新羅の間に、亀裂が広がっていたのである。・・・・・・
668年頃、唐は倭国を討伐するためと称して軍船の修理を行うが、新羅はそれが自国に向けられるものと判断した。そこで新羅唐に背を向け倭国と連携して戦う道を選択することになる。
668年、新羅は久方ぶりに倭国に使節を派遣し、倭国もそれに応えた。
670年になると、新羅は高句麗の旧将の唐の安東都護府に対する攻撃を助け、大軍を動かしてかつての百済の地に駐屯していた15万人の唐軍を追い払った
675年、安東都護府を出た20万人の唐軍を新羅軍が迎撃し、壊滅状態に陥れる。
翌年、は海から新羅を攻めるが、失敗に終わった。
その結果唐は、678年、朝鮮半島の支配の拠点(安東都護府)を遼東半島に後退させ、朝鮮半島から撤退した。こうした経緯で、倭国は唐の侵攻を辛くも回避できたのである。
679年から690年の間の11年間に6回、新羅使が倭国を訪れたことを「日本書紀」は記している。8世紀にも、22回にわたり新羅の使節が倭国に派遣された。(「海国」日本の歴史 宮崎正勝 原書房 P50)

※ 郭務悰二千人の部隊は謀略的性格をもった「政治工作隊」である。「壬申の乱」はまさに彼らの謀略によるものだった。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P19)

※ 郭務悰は唐人韓人計二千人政治工作隊をひきいて、(671年)12月3日天智天皇崩御の直前筑紫に乗り込んできたのである。だが、彼らは7月に日本から帰った李守真から天皇不予の報を得て、万一を見こんでやってきたに違いない。あるいはこの連中が前記『扶桑略記』のしるすように、大津に近い長良の山中に天皇を狩猟に誘って弑殺した可能性もある。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P63)

※【異説】 天智の死後、大友皇子と皇位を争った大海人皇子が支援を求めてきた。・・・・・・そして、壬申の乱直前の672年5月記事から、郭務悰は九州にいたことがわかるから、天武は九州に行ったことになる。・・・・・・『書紀』で天武が近江から逃れたのは奈良吉野のように書かれているが、九州佐賀には吉野ヶ里に代表される「吉野」があった。実際に天武が行ったのは佐賀吉野であり、その目的は「」と「都督薩夜麻」の支援を得るためだったと考えられる。この支援を背景に諸豪族を糾合した天武は、近江朝を倒し、「ヤマトの天皇家(『旧唐書』にいう「日本国」)の天皇」に即位し、一方の九州王朝の薩夜麻は、都督であるとともに羈縻政策にもとづく「倭国王」に復位した。これで白村江の敗戦で一時断絶しかかった九州王朝は、継続したことになる。(古代に真実を求めて 第23集 『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独〔消えた古代王朝〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2020.3月 P185)

※ (672年)5月20日に至って近江朝廷から郭務悰に・・・・・・莫大な賜物があって、彼は5月30日に筑紫を出発、帰国の途についたと(日本書紀の)「壬申紀」はいう。その後わずか3週間を経た6月24日に大海人皇子は吉野を進発して美濃に向い、ここに壬申の大乱は切って落とされた。しかし郭務悰ははたして5月30日に日本を去っていたであろうか?
 『扶桑略記』によると大唐大使郭務悰はその翌年673年)に朝廷から・・・・・・『書紀』記載と同じ大量の賜物を賜った。そして2月27日天武天皇の即位が行われた。郭務悰はどうやら弘文元年(672年)5月30日には出発せず、その翌年天武即位を見とどけてから帰国した可能性が大きい。・・・・・・
 それ(日本書紀の壬申紀)は天武天皇の即位を正当化するためのものだった。しかし、それはたんに天武天皇の「正閏」問題だけでなく、さらに大きな任務として、この内乱に唐が一枚かんでいることを飽くまで隠蔽する必要があった。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P65)

※ 唐側は重ねて懲庸を加え、あわせて日本が二度と再び半島に進出するようなことがないよう日本にたいして徹底的な打撃を加えておくために、唐と新羅は力を合わせて、かねて噂されていた天智・天武の不和につけこんで、天智朝を倒し、傀儡王朝を立てて、その国政を支配せんとしたのだった。唐羅連合体の中心人物たる郭務悰はかねてその機をうかがっていたが、天智健在の間はついに歯が立たず、天皇崩御に及んで、筑紫にいた彼は筑紫大宰栗隈王と連絡をとりつつリモート・コントロールを行い、やがて機いたれりとして、その子美濃王を遣して吉野と通諜し、6月24日の吉野進発となったのである。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P68)

※ このようにして唐羅連合はついに計画通りにカイライ政権天武朝の樹立に成功した。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P78)

※【大海人皇子】
※筆者注 かつて九州王朝の天子であったアマタリシヒコの「アマ」と、大海人皇子(オオアマノオウジ)の「アマ」は似ている。

※【異説】 大海人皇子は近畿の天智(天皇)とは何の関わりもない九州王朝の皇子だったのです。・・・・・・「紀」にいう天智・天武の母親であるとされた斉明天皇は近畿の天皇ではなく九州王朝の「天子」であるならば、天武は近畿天皇家の天智とは兄弟ではなかったのです。・・・・・・天智と天武は兄弟ではなく、天武は「大皇弟」の称号から九州王朝の人となります。・・・・・・次代の整合性を加味して、消去法で見るならば、斉明(天皇)こそが天武(天皇)の「」になります。つまり、天武は「天子・斉明」の息子ではなく「弟」、すなわち「大皇弟」だったのです。それでは、天武の父母は、となると今のところ不明とせざるを得ません。(古代に真実を求めて 第17集 合田洋一 古田史学の会編 明石書店 2014.8月 P225)

※【異説】 (白村江の戦いに)「紀」では近畿天皇家も参戦したことになっていますが、実際は参戦していなかったのです。それに対して文武天皇以降の近畿王朝の事実上の開祖である天武(天皇)は九州王朝・倭国の皇子であったにもかかわらず、唐に対する忠誠を第一に考えて、実際に敵対した九州王朝を「なかった」ことにして抹殺したのです。・・・・・・
 九州王朝倭国の首都大宰府を中心とした博多湾岸の北部九州でした。ここは、日本列島の端に位置し、中国や朝鮮半島に最も近いため、文化・経済面においては最先進地域で王朝の発展につながったものの、「白村江の戦い」で散々の目に遭ったことから、対外戦争を考慮すれば近いがゆえに不適格と思ったのではないでしょうか。それに対して、近畿地方ならば日本列島の中央に位置しているため国家統治のためにも良しとした、と考えます。これもまた、九州王朝を抹殺する根拠の一つと考えることができます。(古代に真実を求めて 第17集 合田洋一 古田史学の会編 明石書店 2014.8月 P228)

※【吉野とは】
※【異説】 古田(武彦)氏は、(壬申の)乱に際し天武が近江から逃れたとする「吉野」は、奈良吉野ではなく「佐賀なる吉野」であり、「壬申の乱」の性格は、唐より帰国した九州王朝の薩夜麻と、九州に駐留するの支援を受けた天武とによる近江朝の打倒であって、筑紫から東国まで全土を巻き込む大乱であるとされた。(古代に真実を求めて 第20集 失われた倭国年号 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2017.3月 P90)

※【異説】 古田武彦氏はこの「吉野」とは吉野ヶ里(佐賀県神埼郡吉野ヶ里)で有名な「佐賀吉野」だとします。佐賀平野を流れる嘉瀬川の上流は吉野山(佐賀県三瀬村藤原字吉野山)で、川沿いに「吉野(兵庫町)」地名があり、そこには「宮」地名も残っています。(古代に真実を求めて 第22集 倭国古伝 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2019.3月 P31)

※【異説】 『書紀』では、この「吉野宮」は「奈良の吉野」のように描かれていますが、吉野宮の候補地(宮滝付近)の主要な建物遺跡は聖武天皇時代のもので、天武・持統朝では二間×六間と二間×四間の掘立柱建物が東西に二軒あるのみ。とても天武が家臣や家族を率いて壬申の乱前に籠れる場所ではありません。そもそも奈良吉野は深い山中にあり、ここに逃れても「虎に翼」どころか「袋のネズミ」のような状況になるはずです。(古代に真実を求めて 第22集 倭国古伝 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2019.3月 P31)

※【異説】 天武は、壬申の乱を始めるにあたり九州に逃れ、唐と薩夜麻側の支援をうけて近江朝を滅ぼした。・・・・・・壬申の勝利で天武は我が国の実質上の最高実力者となったが、名分上では依然として九州王朝の「臣下」であった。(古代に真実を求めて 第20集 失われた倭国年号〔大和朝廷以前〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2017.3月 P101)

※【異説】 近畿天皇家は、白村江直前に斉明天皇の崩御を口実に筑紫から撤退し、被害を最小限にとどめ、その後672年の壬申の乱に勝利し、近畿・東国の覇権を握った天武天皇は、事実上倭国で実力ナンバーワンの存在になっていった。これに対し、九州王朝(倭国)は、敗戦の痛手に加え、筑紫大地震(678)の未曾有の被害などもあり、衰退の一途をたどり、遂に701年の大宝建元・律令制定が示すように近畿天皇家(大和朝廷)にとってかわられた。その後、大和朝廷は、則天武后から703年「日本国」として承認され、名実ともに我が国の支配者となった。以後、「大宰府」は大和朝廷の任命した大宰帥や筑紫総領の駐在する、大和朝廷が九州を統治するための地方行政機関としてのみ存在することとなる。九州王朝(倭国)が唐に備えて営々と築いた「城塞首都太宰府」の城塞は、ついに本来の機能を発揮することなく、空しく朽ち果てることとなったのだ。そして720年の「日本書紀」の編纂にあたり、白村江以前に九州王朝が行った大土木工事や、佐賀吉野への閲兵等の事績を、あるものは斉明天皇の事績とし、またあるものは九州王朝(倭国)の史書から「九州年号を入れ替え」るという手法で繰り下げ、白村江以降の天智天皇や持統天皇の事績とした。これにより、7世紀段階での我が国の支配者は九州王朝(倭国)ではなく、近畿天皇家であったという歴史を「創作」したのだ。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P32)

※【大宰府】
※【異説】 観世音寺創建年の白鳳十年(670)の頃に、大宰府政庁Ⅱ期の宮殿が大野城築城とともに造営されたと考えて間違いないようです。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P106)



【天武天皇】 大海人皇子は飛鳥に戻り、673年に飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇になります。反乱を起こして天皇になった天武天皇ですが、いざ天皇になってみると、それまでの有力豪族は敗れた大友皇子側についてますから一気に没落してしまって、彼に対抗できるほどの有力豪族は誰もいないわけです。これで一気に天皇の権威が上がります。それまでの大王(おおきみ)の称号をやめて、天皇の称号をもちいたのはこの頃からだといわれます。

※ 天武朝には左右大臣も、太政大臣もなかった。それを人々は天武天皇の「親政」としてうけとっているが、とんでもない。これは天皇親政の左右の腕をもぎとったものだった。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P79)

※ 天武朝における中央集権の「復権」は、唐側からすれば「間接統治」の強化だった。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P83)



天武天皇が本当に天智天皇の弟だったのか疑問視する向きもあります。額田王(ぬかたのおおきみ)という万葉集の女流歌人がいますが、この人は最初、大海人皇子に嫁ぎました。しかし彼女を見た兄の天智天皇が横恋慕し、彼女を寵愛したといわれます。これが本当だとすれば、兄が弟の嫁さんを奪ったことになります。何か不自然さがつきまといます。


※ 余談ですが、天武天皇が猟をしているときに、額田王が送った歌が「万葉集」にあります。
「あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る」
これは通常、次のような意味だとされます。
「東の空が赤らむ紫野や標野(禁区)をあなたが行きながら、私に袖を振って名残を惜しむのを野守は見ていないでしょうか」と。
しかしこれを朝鮮語の裏読みで解釈すると、まったく違った意味になるといいます。
「あかい股が紫色のホトを行きます。標野を行くのです。野守は見ていないでしょうね。貴方が私の股をひろげるのを」
すごいですね。「袖振る」(之袖布流)が朝鮮語では「ガサボルヨ」と発音し、「あなたが私の股を広げる」という意味になるのだそうです。(本当は恐ろしい万葉集 小林恵子 祥伝社参考)

※【私見】 この額田王という女性、並の女ではないようです。たぶん神に仕える巫女か、聖なる王との聖なる性交の役割を担わされた聖女だったのではないでしょうか。聖なる女性を手に入れることは、ふつう王の証しです。
たぶんこういう女性が楼閣の3階に閉じ込められて、神がかったりすると、卑弥呼になったのでしょう。

※【私見】 正確にいうと、王朝が変わったのではなく、ここで王朝が乗っ取られたんだと思います。乗っ取った場合、先王(天智天皇)と次王(天武天皇)のあいだには血縁関係が偽装されます。



そして新しい天武天皇は、日本の歴史をつくる作業に入ります。これが「帝紀」「旧辞」といわれるものです。これが奈良時代に編纂された「古事記」「日本書紀」の元ネタになります。

このような国家による歴史の編纂には、自分を正当化するための歴史の改竄や、統治の起源を時代的にさかのぼらせて支配の正統性を高めるための変更が必ずなされます。ですからこれらの史書は真実の歴史を読むというよりも、どの部分をどういう政治的効果を狙って変更したかを考えながら読むべきです。

※【異説】 大和朝廷は九州王朝の制度を利用し、王朝交代直後の諸制度は九州王朝の影響を色濃く受けていると考えられる。たとえば、・・・・・・「日本書紀」に九州王朝史書の盗用が行われていることから、大和朝廷は九州王朝の「実績」「権威」を受け継ごうとしたことが判明しており、これらのことから大和朝廷は九州王朝に自らの姿を似せて体制作りを試みたと考えられるのです。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P49)

※【私見】 ということは、卑弥呼が九州王朝の支配者だとしたら、大和政権は『九州王朝の「実績」「権威」を受け継ごうと』して、伊勢神宮に卑弥呼に擬したアマテラスを創出した、と考えることもできます。こうなると卑弥呼と天皇家は血筋的にはつながってなくても、宗教的にはつながっていることになります。

※【異説】 ここでの歴史書の編纂は新羅から入ってきた王族によって進められ、そのことを隠すために、国家の起源が実際よりもずっと古いものとされたのではないかという説があります。朝鮮半島の新羅で起こったことを、日本で起こったこととする繋ぎ合わせが行われたのではないかというものです。

 どうも蘇我氏が登場してからの話は虚構が多いように感じます。大伴氏は奈良時代以降もときどき登場しますが、蘇我氏はほとんど登場しません。蘇我氏の話はどこかウソっぽいのです。崇峻天皇暗殺や、そのあとの推古女帝の話、それにからむ厩戸王(聖徳太子)の話には、どこか足が地に着かない作り話の匂いがあります。



彼が天皇になるや日本の歴史の編纂に取り組ませたことも、何か別の目的があったのではという気もします。

のちの日本書紀では天智天皇が兄で、天武天皇が弟だということになっていますが、まるで王朝が変わったかのように政治の変化が起こります。
この間、日本と唐・新羅との対立は続いているはずです。にもかかわらず、日本は663年の白村江の戦いが終わるとすぐ665年、667年、669年と2年ごとに中国に遣唐使をおくっています。しかもその遣唐使船は北路、つまり新羅の沿岸をとおるコースを取っています。
そしてケンカしていたはずの新羅とはいつの間にか国交が回復しています。
大化の改新から、天智天皇、天武天皇の時代にかけては、不思議なことだらけです。
天武天皇は天皇権威の高揚に努めますが、その時に重視したことが伊勢神宮の祭祀です。仏教ではありません。伊勢神宮が、現在のように皇室の祖先である天照大神を祭る神社として崇敬の対象とされたのが明らかなのは、この天武天皇の頃からです。伊勢神宮は20年に一度建て直されますが、その式年遷宮を決めたのも、この天武天皇です。それ以来、この儀式が1300年以上も続いていることはすごいことです。
ここでも、仏教一辺倒ではなく、神社の祭祀が機能しています。

※ 天武朝の大きな特色は、神道および仏教関係の行事が盛大なことである。白鳳元年即位後まもなく大来皇女を斎宮(いつきのみや)として、伊勢大廟の尊崇が行われたのもこの朝がはじまりだった。・・・・・・政治から分離された天武帝宗教祭祀に専念するほかに仕事がなかった。じつは政治を奪われて「祭祀的君主」にまつり上げられたのだった。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P83)

※ 天武帝が、いつまでもただの祭祀的君主として「黒い手」の下であまんじているはずがない。・・・・・・そんなことを『書紀』が書くはずがない。しかしいろいろの関係から、当時の「黒い手」のGHQは、孝徳天皇によって建てられた「難波宮」にあったと考えられる。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P89)


※ それ(天武朝の仏教政策)は端的にいって法華経、勝鬘華経、維摩経などの六朝風の純粋な個人的修練の世界から、金光明経、仁王経など唐朝的ないしは政治的な国家統制的仏教への切り替えだった。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P93)




〇 この時代に薬師寺がつくられ始めました。


※ 藤原京の薬師寺は、伽藍配置の上からみて、わが国最初の唐系の官寺だったことはさきに記した。唐が「ポスト壬申」の対日政策として、天武朝以来、おおいに仏教の興隆につとめたことはいうまでもない。しかしそれと同時に難波の鴻臚館のほかに、大和におけるCIAの政治拠点として、純唐系の薬師寺が必要だったのだ。その初期の住職なども全然不明で、寺院としてよりも、むしろ政治色が強い。後に記すとおり、天平20年に異常の事態によって、突如聖武帝が退位してこの寺に幽閉されたことは、明らかにこの傾向を示している。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P110)


新「授業でいえない日本史」 3話の5 古代 持統天皇

2020-10-29 06:54:00 | 新日本史1 古代2

【持統天皇】 天武天皇が亡くなると、686年に、持統天皇といって女の天皇が即位します。天武天皇のお后です。父親は天智天皇です。つまり天武天皇とは、叔父と姪の関係で結婚しているわけです。
今と違って、古代では天皇は女性オーケーです。女性天皇をどうするか、今も政治的な議論はあるけれども、現状ではダメです。しかし古代では女の天皇がよくでてくる。ここでなぜ女の天皇が立ったかというと、持統天皇は息子を天皇に即位させるための一時的なつなぎとして即位します。

※ これ(持統女帝の即位)は唐側男帝の即位を極度に嫌ったからだった。・・・・・・しかも持統天皇の後の文武天皇が即位した後は、また元明・元正と女帝がつづき、その後また聖武天皇一代が男帝の後へ直ぐまた孝謙女帝となり、その後淳仁男帝の後にふたたび称徳女帝となって、ようやく光仁男帝につがれた。奈良朝七代のうちじつに四代が女帝だった。・・・・・・唐側から見て、男帝よりも女帝の方が傀儡政権として望ましいことは明白で、すべてはそこに関連しているのである。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P93)



しかしその息子である草壁皇子は若くして死んでしまいます。すると草壁皇子の息子、つまり持統天皇にとっては孫を天皇にしようとします。それまでがんばらなくちゃ、というわけです。
ただ結構、大きな事をやっていく。やったことは、694年に、それまでの都は、ちっちゃな村みたいなものだった。それを中国の真似して、大々的に本格的な都を造る。これが平城京じゃなくて、その前にもう一つあったんです。藤原京といいます。かなり大きな都です。

※ 藤原京が建設されたことは、難波GHQを煙たがって、なるべく首都を海岸から遠くしようとする日本側の動きを先取りした、唐羅側の立案と考えられる。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P90)

※ 近年の調査によると、藤原京の朝堂院(官庁)の規模は平城京のそれよりも大きいことがわかったが、これでこの首都建設が日本の国力消耗の一手段として実施されたものであることがわかる。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P95)



この藤原京の場所は、奈良盆地の南の方に、俗に大和三山といわれる、ちょっと低い山で、きれいな山が三つあるんです。その三角形の中、畝傍山(うねびやま)、耳成山(みみなしやま)、天香具山(あまのかぐやま)・・・・・・この天香具山が一番有名です・・・・・・この大和三山の間にあります。
この都で歌をつくった持統天皇の有名な歌がある。
『春すぎて 夏きにけらし 白妙の 衣ほすちょう 天の香具山』
これは百人一首にある有名な歌です。

※【異説】 聖なる山に洗濯物が干されているわけはない。では、白妙(タエ)とは何かといえば、天の羽衣伝承そのものだったのだ。天の羽衣を着る天女は、日本を代表する聖なる巫女で、その天の羽衣を奪った(手に入れた)者が王位を獲得する、という発想があったようなのだ。というのも、天皇が即位して行う儀式・大嘗祭のクライマックスで、天皇は天の羽衣を着ることで「人間ではなくなる」からだ。そこで件の歌を読み直せば、持統天皇のいいたかったことははっきりする。持統天皇は政権交替のチャンスを歌にしていたのだ。天武天皇の皇后であると同時に、持統天皇は天智天皇の娘でもあった。壬申の乱で一度は天武天皇に奪われた天の羽衣を、持統天皇は密かに、「天智の娘」として暗躍し、奪い返そうと目論んでいたのではなかったか。(図解古代史 秘められた謎と真相 関裕二 PHP研究所 P72)




【文武天皇】 697年、持統天皇の孫の幼い天皇が即位します。これが文武天皇です。この文武天皇の時に、中国式の政治の決まり、これが文章でつくられていく。


※【異説】 文武天皇は、新羅文武王ではないかとする説もあります。



701年
です。もう700年代に入りました。聖徳太子から約100年経ちました。大宝律令です。律令というのは決まりです。政治の決まりです。大宝年間にできたから大宝律令です。今と同じ平成のような年号がすでにある。大化の改新のときに、大化という年号ができたのが最初です。この年号には、土地と人だけではなく、時間を支配するという思いが込められています。これも中国経由の思想です。

※ 文武天皇の大宝元年(701年)に、遣唐使が再開されることになった。その理由については、その後(壬申の乱後)鋭意国内の復興に努めた甲斐があって、ようやくふたたび遣唐使を派遣できるまでに回復したというのが従来の説である。しかし実際は、大宝元年完成の大宝令を唐廷に上納するのがその使命だった。それを唐廷が嘉納して、ここに遣唐使が再開されることになった。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P112)

※ 従来の歴史では「白村江の戦い」後、日唐の関係はきわめて円満で、日本からはたびたび遣唐使も派遣され、極力彼地の高い文化を吸収して、ついに咲く花の匂うがごとき天平時代を現出したという。しかしこれではどうも話がうますぎる。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P15)

※ 天武朝14年、持統朝11年、計25年間というものは、わが国から1回も遣唐使が派遣されていないのみか、先方からも1回の使者の来朝もない。・・・・・・「戦後両国の関係はきわめて円満」などはとんでもない話である。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P18)

※ (701年に遣唐使に派遣された粟田)真人の一行が、3年間も彼地にいたことも普通ではない。おそらく彼はまず新製の大宝令を提出して、そこに示されているように、日本がすべてを唐朝に範をとった、立派な文化国家になったことを説明し、未来永劫白村江の戦ごとき大それたことをすまじきことを誓い、平身低頭して恭順の意を表したことであろう。それにたいして唐廷は一応承知したが、念には念を入れて、土左衛門の足に石をしばりつける意味で、一層平和無抵抗主義仏教をひろめて国是とし、さらに国力消耗作として、できたての藤原京から、もっと大きな平城京への遷都と、全国に国分寺・国分尼寺の建立強要されたのだった。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P114)



また「日本」という国名が用いられたのもこの頃からです。つまり天武天皇後に「日本」という国号も定まり、「天皇」の称号も定まったということです。このことは大変大きな変化が起こったということです。
この律令をつくった人は、藤原不比等です。中臣鎌足の息子です。なぜ名字が違うか。さっき言ったように、死ぬ間際に姓を変えたからです。中臣から藤原に変えたのです。これも中臣鎌足が架空の人物で、それとは別に以前から藤原氏が存在したとするほうがいいように思えます。日本初の本格的な都が「藤原京」という藤原の名前がついていることから見ても、そこに藤原氏の大きな力が関係しているように思います。



【律令制度】
【大宝律令】
その律令、これが政治のルールになっていく。決められたことは、従わないといけないから、ここで何が決められたかが重要です。制定されたのは、701年大宝律令です。

※【異説】 我が国の地方制度が「」から「」に変わったのも701年であることが藤原宮木簡から確認されている。このことから、「評」は九州王朝の制度、「郡」は大和朝廷の制度と考えることができ、ここで我が国の主権者の交代、つまり「王朝の交代」があったことになるのだ。(古代に真実を求めて 第20集 失われた倭国年号〔大和朝廷以前〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2017.3月 P21)

※【異説】 薩夜麻は唐の庇護の下で復位はしたが、もはや薩夜麻の倭国(九州王朝)には、白村江以前のような力はなく、ヤマトの天武・持統・文武(天皇)の時代を経るにつれて衰退していき、701年には文武(天皇)が大宝律令を制定し、大宝年号を建元する。そして、703年の「(当時は周)」の武則天(則天武后)の大和朝廷(日本国)の承認により、我が国の代表の座を「大和朝廷」に明け渡すことになる。すなわち、我が国に「王朝交代」がおきたのだ。(古代に真実を求めて 第23集 『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独〔消えた古代王朝〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2020.3月 P186)

※【異説】 (旧唐書の)「日本国伝」には「長安三年(703)、其の大臣朝臣真人(粟田真人)来りて方物を貢ぐ」とあり、これは疑いなく大和朝廷のことで、しかも「日本国は倭国の別種なり」「或いは云う。日本は元小国。倭国の地を併せたり」とあるから、8世紀初頭には大和朝廷(日本国)が九州王朝(倭国)を併合していたことになり、「九州年号(倭国年号)」の終了と大宝建元はまさにこれと軌を一にしているのだ。(古代に真実を求めて 第20集 失われた倭国年号〔大和朝廷以前〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2017.3月 P21)

※【異説】 九州の九国だけは大宰府を介して支配しており、他の諸国とは異なる扱いとなっています。すなわち、大和朝廷は九州王朝の旧直轄支配領域(九州島)だけは、九州王朝の「中央組織」であった大宰府による間接支配を行ったのです。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P50)



律令は中国の真似です。律令体制は、大化の改新からではなく、ここから本格化していくとみたほうがよさそうです。中国に遣隋使を派遣された人たちが、こういう知識を持ってくるんです。中国はこういう決まりがあって、こういう政治をしているんだと。
実際に作ったのは藤原不比等ですけど、制定者は偉い人の名前で、これは刑部親王(おさかべしんのう)という。親王というのも天皇の息子にしかつかない。一歩間違えば、天皇になったかもしれないような天皇の息子です。
さらに律令にちょっと、日本になじまないところがあったから、部分変更する。車がちょっとリニューアルするような感じです。これが718年、養老年間に作られたから養老律令です。これでだいぶ日本の風土に合うようになった。ここで手を加えた中心人物、これが藤原不比等です。法律をつくった人ですから法律には詳しい。



【国郡里制】 では行政組織です。中央と地方の関係を、国郡里制として三段階にまとめるんです。
奈良の都が今の東京と同じです。そこから、お役人を地方に派遣して、県に派遣する。今でいう県知事にさせていく。今でいうと県ですけれども、東京に行って、お国はどちらと一昔前には聞かれた。日本です、とかいうと、ふざけるな、と怒られる。国というのは県です。そこに国司を送る。これが今でいうと県知事にあたります。今の県知事と違うのは、今の県知事はその県で選ばれるんだけれども、東京で選ばれて地方に来た人です。そういう中央貴族であるということです。
でもこういう人は地方のことはよく知らない。東京の命令を聞くだけです。つまり東京の力が強くなる。だから中央集権です。中央貴族が来るというのは、中央集権です。ただ一生じゃない。だいたい4~5年交代で任期がある。
国司の側から言うと、転勤しなければならない。4~5年は福岡の県知事、4~5年は今度は愛知県の知事になったりする。全国を転勤して行く。その国司のいる役所を国衙といいます。
この国司のワンランク下に郡司がいて、これに地方のもともとの有力者がこれになるんです。地方の有力者が国司になったんじゃない。その下の郡司になったのが地方の有力者です。つまり地方豪族です。
これで地方豪族は、国司の命令を聞かないといけない立場になった。100年前までは、彼らは国造(くにのみやっこ)と言われていた。彼らはもともと生まれてからずっと地方に住んでる人たちだから、郡司の職は一生続く。これは終身です。一生よりももっと長く、親が郡司なら、子供も郡司になれる。親から子、子から孫へと伝わっていく。こういうのを世襲という。つまり郡司は世襲制です。

この人たちはそれまでは地方の親分であったのが、ここで一気に中央から派遣された国司の子分になったわけです。こんな大変化が起こったわけです。地方の親分たちにとっては、目を見張るような変化だったと思います。
余談ですが、地名で、福岡県に小郡というのがあって、これは「おごおり」と読みます。国郡里制は定着する前に、郡のことを、こおり、と呼んでいた時期があります。だからそれがなごりをとどめて、小郡と書いてこれで、「おごおり」と言う。小郡市というのは福岡にも、それから山口県にもあって、こういう地名がでてくる。
それから、村に相当するもの、50軒で一かたまりの村、これを里という。そのリーダーは里長という。地方の有力農民です。
こういうのを中央の天皇が管理する。国郡里制になります。
のちのことですが、江戸幕府を倒した明治新政府が、廃藩置県でまずやることは、この形なんです。そしてその後どうしていいか、分からなくなって、政府の要人たちがこぞって長い間、西欧視察に出かけるという異常事態になりますが、要は彼らの頭のなかにこの形が強くインプットされていたということです。それで約300年続いた藩がなくなっても反乱の一つも起こらなかったということは、そのことが広く国民の間にも理解されていたからではないかと思います。



【班田収授法】 では農民は、どうやって自分たちの土地を耕すことができるのかというと、この時代、この律令制で、土地はいったん国がぜんぶ没収するんです。土地は、天皇のものになる。つまり公地になるんです。そして国民は天皇の家来になる。公民という。公地公民制になる。その上で、農民が耕す土地は、天皇が貸し与えていくんです。一人一人に。この方法を班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)という。どうやって農民に貸していくか。
では農民側から見ると、借りた土地のことを何というかというと、口分田という。農民側、借りる側から見ると。この口分田は、年齢制限は20才ではない。わずか6歳。6歳になれば男にももらえ、女にもらえる。広さは男には2段
2段というのは約100m×20mです。一段は約100m×10m、その2倍です。ただ男女平等でない。女には、男の3分の2です。こんな大がかりなことは毎年はできない。人口調査も大変で、今のようにパソコンもないから6年に1回行う。ということは、班田が終わって次の年に生まれた人は、次の班田があった年に6歳手前で6才に手が届かないから、もらうのはそのまた6年後の11歳でもらう人もいる。6年に1回だから、生まれた年によって、6歳でもらう人もいれば、11歳でもらう人もいる。
国から借りているんだから、親父が死ねば、その土地は今のように息子の土地になるんじゃなくて、あくまでも国のものだから、死んだら収公といって国に戻すんです。
だからこれは私有地ではない。私有地だったら、親が死ねば息子のものになるけれども、私有地ではない。
こういう土地をちゃんと与えるために、田んぼを整然と縦横に区画していく。これが条里制となっていまも各地に残っている。里がつく地名、例えば佐賀県の吉野ヶ里遺跡の里というのはこの里です。条里制があった跡です。五条とか四条とかの地名は条里の条です。そのためには、どこに誰が住んでいるかが分かる帳簿がないといけないから戸籍を作る。
日本は早くに戸籍ができた国なんです。ヨーロッパなんか、戸籍は近代になるまでできない。どこに誰が住んでるところわからない。モンゴル社会などの遊牧民なんかになると、戸籍つくっても意味がない。どっちみち1年でどっかに行ってしまう。農耕社会でないとこれはできないし、日本は戸籍を早くつくったほうだということです。



【白鳳文化】
7世紀後半の文化を白鳳文化と言います。「白鳳」とはもともと元号ですが、日本書紀には現れない元号です。私年号とも言いますが、大和政権とは別に九州王朝で使われていた九州年号のようです。九州王朝が大和政権とは別に九州に存在していたことが、このような形で現れているとも言えます。

※【注】 九州年号では「白鳳年間」は661~683年です。


これで終わります。


新「授業でいえない日本史」 4話の1 古代 奈良時代

2020-10-29 06:53:42 | 新日本史1 古代2

【奈良時代】
【平城京】
前回、律令制度の制定、大宝律令、701年、その内容まで行ったところです。

※【異説】 「続日本紀」の慶雲4年(707)には・・・・・・武器を備えて大和朝廷に抵抗した勢力がいたことが知られる。さらに・・・・・・713年には「隼人の賊を征した将軍」たちへ大規模に恩賞が与えられ、同年に大和朝廷により南九州に「大隅国」が設置されている。・・・・・・ここから、中央では王朝交代があったが、九州王朝の残存勢力は南九州に割拠し、新政権に抵抗していたと考えられ、その、いわば「最後の九州王朝」の人々が713年に「隼人の賊」として討伐され亡びたため、九州年号も終了したのだと考えられている。(古代に真実を求めて 第20集 失われた倭国年号〔大和朝廷以前〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2017.3月 P22)

※【異説】 『続日本紀』には大和朝廷の成立直後の8世紀初頭に、九州王朝の有力な拠点だった薩摩や肥後の武力による抵抗があったこと、また兵器や「禁書」を保有し「山沢に亡命」していたことが記されている。養老4年(720)に完成した『日本書紀』は、和銅5年(712)に上梓された『古事記』に比べ、記事の量が圧倒的に多いが、この間の和銅6年(713)に南九州の隼人が討伐され、大隅国が設置される。天孫降臨神話は神武東征以前の九州を舞台とした神話だから、『古事記』に無く『書紀』にある記事は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)や彦火火見尊(ひこほほでみのみこと)の九州平定譚であり、「禁書」とされる九州王朝の史書に記されたものだったのではないか。大和朝廷は討伐の際に入手した九州王朝の史書を用いて神武らの事績を飾り、『古事記』に無かった神功皇后や景行天皇の九州平定譚を創作したものと考えられる。(古代に真実を求めて 第22集 倭国古伝 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2019.3月 P164)



今日は710年からです。ここから奈良時代になります。奈良に都があった時代。奈良の都の奈良時代です。こういうふうに、奈良の都、唐の都の長安を見習ってつくった。
どうやって情報を入手したかというのが、聖徳太子からの遣隋使、それに続く遣唐使です。だいたい20~30年ぐらいかけて、戻ってくる。
聖徳太子から、100年ぐらい経っているから、そういう情報が中国からもたらされた。
この都を平城京といいます。平城京は何県にあるか。奈良県です。奈良県のことを旧国名では何というか。これは大和です。ここは大和地方です。ここに都が移ったのが710年です。奈良時代は80年ぐらいで意外と短いです。次の平安時代は400年ぐらい続くんですけどね。モデルは中国、その長安をモデルにしている。





これが最初の都ではなくて、最初の都は何か。この前に藤原京というのがあった。藤原京はこの都の20キロばっかり南、同じ奈良盆地の南のほう、飛鳥地方のちょっと北ぐらいにあったわけですけれども、その時には、大極殿、大内裏という、ここは天皇の住みかとか、役所のあるところですが、北づめではなくて、まん中にあります。

しかし平城京は、北に寄っている。これは唐の都長安と同じ形です。平城京は、今の奈良市とほぼかぶるんですが、ここの大極殿あたり、一番の中心地だった官庁街は寂れていって、今は公園化されています。実はこのあと栄えていくのは東の外京というおまけのように作られた一画です。そこに東大寺がある。奈良の東大寺です。ここを中心に今の奈良の市街が発展していった。平城京の西の方に行ってみると、田んぼのあぜ道のようなところを行く、意外と田舎なんです。今は東のほうが市街地です。
だいたい4キロ四方ですから、4キロ四方というと、歩いていくと簡単には回れないぐらい大きいです。



【遣唐使】 この時代の外交です。聖徳太子がおくった遣隋使の隋は20~30年で滅んで、618年には唐が建国されます。唐の都は長安です。
そこにも船をおくる。遣唐使が始まったのは630年です。奈良時代よりも早いです。唐に送るから、遣隋使の隋を唐に変えるだけ、遣唐使です。遣隋使と遣唐使が、ピントこなかったら、現代語でいうと遣唐使節です。使というのは使節です。
オリンピックにも団長がいるようにこの使節にも団長がいます。遣隋使は小野妹子ですが、遣唐使は犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)といいます。
この時の天皇が舒明天皇です。この舒明天皇は教科書に出てこないことが多くて時代が前後しますが、嫁さんがのちの皇極天皇です。そしてその皇極天皇が産んだのが、中大兄皇子つまりのちの天智天皇です。第1回遣唐使は中大兄皇子の父親の舒明天皇が派遣したのです。中大兄皇子はこのような外国好き、中国好きの天皇の息子として生まれたのです。

※ 筆者注 遣唐使のことは教科書ではわかりにくく書いてあります。あたかも奈良時代に遣唐使が初めて始まったような印象を生徒にもたせるような書き方です。白村江の戦い後の、唐と日本との関係を知られたくないような書き方になっています。



この時代の遣唐使は、行って戻れること自体が非常にラッキーです。玄界灘の荒海に飲まれて、多くの人が死ぬわけです。うまく向こうにたどり着いたとしても、こんどは日本に帰ることができるかどうかが分からない。そういう2回の幸運に恵まれて、やっと日本に帰ることができる。



【留学生】 留学生は、帰ることができれば、日本にはない新しい文化や技術を持っているから、引っ張りダコなんです。引っ張りだこのタレントみたいに。
 まず玄昉(げんぼう)です。お坊さんです。僧玄昉ともいう。仏教は、この時代の最先端の文化です。爺さん臭くない。婆さん臭くない。最先端の非常に流行った宗教です。
 2人目は吉備真備(きびのまきび)です。吉備地方というから今の岡山県、出身はそこの豪族です。この2人はうまく往復できて、日本に帰って、日本の有名な天皇に右手として活躍します。
その時の天皇は、奈良時代で一番有名な天皇はこの天皇です。聖武天皇という。東大寺の大仏殿も有名だけれども、その宝物殿の正倉院という建物には、ほぼ聖武天皇の日用品、宝物、これが千何百年のあいだ火事にもあわずによく保存されている。
 3人目は、ついに日本に帰って来れなかったけれども、頭が良くて中国の唐王朝で出世した人で、阿倍仲麻呂という。中国で有名になった日本人です。そのまま中国で死んでしまう。こういうのを客死という。
今度は日本から行くんじゃなくて、逆に中国から日本に渡ってきた人もいる。当時の文化の最先端はやっぱり仏教です。お坊さんで、鑑真(がんじん)という中国人です。
日本に来ようとしたけど、何回も失敗して、やっと日本に渡って来たけど、その時には目が見えなくなっていた。彼は玄界灘沿いからではなく、有明海から入ってきて佐賀に上陸したと言われています。今そこには記念碑が建っています。このような有明海ルートもあったのでしょう。そして日本に新しい宗派を伝えた。鑑真が伝えたのは律宗です。



【領土拡大】 では次、この時代の領土です。
この時代、どこまでが日本か。古代は、開けてくるのは東京からではない。大阪からでもない。九州から開けてくるんです。どこまで行ったか。関東の北あたりまでです。まだ東北まで行ってない。竜飛岬や津軽海峡まで行ってない。北海道まで行ってない。北海道はまだ外国です。実は鹿児島の一部も、この時代もめてるんです。
今の日本の領土よりも狭いから、奈良時代に国土を広げようとします。まず日本の領土に入ったところが、北の東北地方の一部がやっと日本になる。
それにはたいそうお金をかけて、軍隊を出すわけです。そこに前線基地のために築かれたお城、これが多賀城です。今の宮城県です。多賀城があるから、宮城県というという説もあります。宮城というのはお城のことです。多賀城は、仙台市のすぐ隣の多賀城市にあります。多賀城市は、大宰府の北の大野城のあったところが大野城市になっているのと、似たようなものです。

ここを前線基地として、朝廷は北へ勢力を伸ばそうとします。まだ朝廷に歯向かう人たち、東北に住んでいた人たちを、都人は蔑んで、蝦夷(えみし)と呼んだ。
この蝦夷という字が要注意なのは、時代によって発音と意味する内容が違うことです。もともと蝦夷は「えみし」と読んで、東北の人を示す言葉ですけれども、江戸時代になると蝦夷と書いて「えぞ」と読むようになる。この蝦夷を「えぞ」と言った場合、東北の人ではなくて、北海道という土地を指すようになる。今は蝦夷を「えみし」と読まずに、「えぞ」と読む人が多い。北海道は明治の初めまで、蝦夷地と書いて「えぞち」と言ってたから。

余談ですが、商売の神様に恵比寿様がありますが、エビスというのはこの「えみし」なのです。この神様はどうも外来神です。商売というのは、他の地域との交易ですから、他所の神様を拝むことによって商売繁盛を願ったのです。この近くにも、恵比寿様は、数え切れないほど祭ってあります。市内中心部を歩いて回ると、路地の片隅や辻などに、魚を抱えた恵比寿様があちこちに祭ってあります。商業の発展の裏にもこのような信仰が生きていたことが分かります。この時代の村は閉鎖的でも、町はこのような外来神を受け入れる下地がなければ発展しなかったようです。でもこれはかなり後のことです。
それから、九州の南部もやっと朝廷の一部、日本の一部になる。今の鹿児島県に、西の薩摩半島ともう一つ東の大隅半島がある。そこに大隅国を置く。それまでは朝廷に反抗していた。彼らのことを都人は、隼人(はやと)と言った。薩摩隼人と書いて「さつまはやと」という言い方を、鹿児島県人はプライドを持ってよく言う。自分たちのことを「オレたちは薩摩隼人なんだ」と。薩摩隼人とは何か。権力に立ち向かった、千数百年前の鹿児島の男たちのことです。これが薩摩隼人です。もしかすると、「九州男児」のイメージはこういうところから来ているのかも知れません。



【和同開珎】 それで、708年に本格的なお金をつくり出す。これを和同開珎という。お金を作り始めた。これに先駆けて7世紀の天武天皇も、富本銭というお金をつくっています。お金というのは、政治経済でやったように、説明しだすとけっこう難しいところがあって、当時の日本人は理解できなかった。しかし中国は早々とお金をつくっているし、中国型の国をめざそうという日本は、お金を中国の真似してつくっていく。しかし流通しないんです。流通しないお金というのは、ほとんどお金の役目を果たしていないんです。
だから朝廷はその3年後の711年に蓄銭叙位令を出します。お金を貯めたら、位を与えるという法律です。でもお金をタンスの中に貯めたら、お金は流通しないでしょ。これでは交換経済にはなりません。つまり日本はまだ交換経済の段階にはなく、村々は自給自足の経済だったんです。
政府が蓄銭叙位令を出したということは、政府もお金を交換手段ではなく、貯蓄手段だと捉えていたということです。さらにお金には、それを人に貸して債券とすることもあります。日本ではまだお金が、交換手段にすらなってなかったということです。
それにもめげず、朝廷はこのあと12種類のお金を、200~300年間つくっていく。900年代まで。その12種類をまとめて、本朝十二銭といいます。でも結局流通しなかったから、お金をつくるのをやめてしまいます。

日本人は今でも、お金を使うことよりも、貯めることを考えますね。これは最初からそうだったようです。これは農耕社会特有の貯蓄観念なのでしょうか。
お金は、誰がつくっていたか。ここも大事です。民間ではなくて、政府です。今のお金は政府がつくっているのでないことは知っていますね。
さらに今のお金は、変なことに、お金を銀行に貯めているつもりでも、銀行はそれを保管してなんかいないのです。他の人に貸し出しているのです。近代以降、このお金を貸す力が、社会を左右することになります。
政府がお金をつくらなくなってから、約600年間、国はお金をつくりません。このあと政府がお金をつくるのは、16世紀後半の豊臣秀吉を待たねばなりません。



【土地政策】 今度は、土地政策です。大宝律令によって政府は農民に土地を貸し与えた。しかし土地が足らない。水田というのは人工的なものだということを、まず理解してください。何もしなかったら山に木があるように、平野にも木がはえているわけです。いま水田になっているのは、これは人が水田にしたんです。このあとずっと、コツコツと努力した。今のように平野部に、水田が開け尽くしてしまうまでには、あと千年ぐらいかかる。
この時代から木を、ちょこちょこ木を切りながら、どうにか水田にして行こうという計画があった。これが722年百万町歩の開墾計画です。いまからやるぞ、政府がアドバルーンを打ち上げたんだけれども、なかなか開墾がすすまなかった。なぜかというと、開墾したら、自分のものになるという保証がなかったから、ボランティアでやれといっても、メリットないから、みんな開墾しなかった。
ボランティアそのものはいいことですけど、政府がそれを言い出すのは、どうなのかな、と私は思います。いやボランティアはいいんですよ。困った人を助けるのはいいことなんですけど、それを行政責任のある政府が言い出すと、何か変なことになりはしないかと、それを心配するわけです。そんなことは生活に余裕のある人でないとなかなかできないでしょう。ボランティアというのは基本的に報酬がないわけですから、報酬がなければ継続的に続けることはできないわけです。
だから、開墾した人にはメリットを与えよう、となる。
その基本は、土地は国のものだから。農民には貸しているだけです。これが口分田だった。それが足らなくなった。すると政府は723年にこういう法律を出した。その法律を三世一身法といいます。土地を開墾した人は使っていい。ただ永久じゃない。期間限定です。自分の代は当然使っていい。さらに3世代にわたって使っていい。つまり三世です。オレ・息子・孫の代まで使っていい。その間、収穫は自分のものにしていい。つまり期限付きの私有を認めたのです。
しかしこれは、三世代にわたって50~60年も使った土地を、勝手に没収できるかというと、没収できずに、三世一身法は723年ですが、その20年後の743年にまた変更する。これが墾田永年私財法です。墾田とは開墾の墾です。自分で切り開いた土地や水田は、永年つまり永久に私財、つまり自分のものにしていいという法律です。こうやって日本にも私有地というのが発生したんです。
これは金持ちしか開墾できなかったから、金持ちや豪族の土地ができる。この私有地のことを歴史用語で荘園という。ここでできた荘園のことを墾田地系荘園といいます。
自分の収入にしていいとはいっても、ちゃんと税金は払わないといけない。この税金払うのがイヤで、また変化が起こるんですが。ただこういうふうに公地公民制に反するようなことをやっていった。そこから崩れていくんです。つまり早くも古代の大原則である公地公民制が崩れていくようになる。

でもそういうことを考えると、大化の改新で、1、2の3で、全国が公地公民化されたり、大宝律令でそれが徹底されたというのは、ムリのような気がしますね。
中央に天皇がいても、地方には豪族がいて、それ以前からずっと土地と領民を支配していたわけですから、それを一気に天皇のものとして公地公民化するというのは、できすぎたお話のように思えなくもありません。
逆に考えると、いつの時代にも私有地はあったのであって、公地公民という仮面をかぶせても、あるものはあるのであって、それをどのような形で法律的に認めるかということに、役人は苦労していたかもしれません。でないと、723年の三世一身法からたった20年後の743年に墾田永年私財法を出して、私有地を認めるというのは早すぎるような気がします。
これは余談ですが、のち明治政府になって、まっ先にやったことは、王政復古であって、次には廃藩置県で中央から県知事(県令)を派遣することだったから、彼らは古代の公地公民制を、実際以上に絶対的なものと信じていたのかもしれない、などと要らぬ想像をふくらませたりもします。
しかし何はともあれ、ここで日本に私有地の存在が認められたことになります。結局このあとの時代の焦点は、この私有地のあり方をめぐってのことです。



新「授業でいえない日本史」 4話の2 古代 奈良時代の政治と文化

2020-10-29 06:53:20 | 新日本史1 古代2

【奈良時代の政治】
『あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり』
と万葉集にはあるものの、実際の奈良の都は政争うずまく危険な世界でした。
大きな対立点は、2つです。
1つは、藤原氏と藤原氏以外の対立。
もう1つは、藤原氏内部の4つの分家同士の対立です。
729年、長屋王の変で皇族の長屋王が死んだ年、中臣鎌足の息子である藤原不比等は、娘の光明子を聖武天皇の后とすることに成功します。これで藤原氏の娘が産んだ子供が天皇になるという、のちの摂関政治への第一歩が踏み出されます。

※【異説】 近年、長屋王邸宅跡から出土した「長屋親王木簡」で親王だったことが判明したのです。そうなると、親王は天皇の皇子に限られるとされていることから、その父・高市皇子天皇の可能性が出てきたのです。これは、「紀」は持統(天皇)の意に沿い、また藤原不比等やその息子たちの思惑もあってか、持統(天皇)の実子でない「高市天皇」を消し去った、か。(古代に真実を求めて 第17集 合田洋一 古田史学の会編 明石書店 2014.8月 P230)



しかしその8年後の737年には、当時都で流行していた天然痘によって、藤原不比等の4人の息子が次々に死んでしまいます。都人はそれを長屋王の祟りだと恐れました。
政権は、皇族出身の橘諸兄に移ります。そこに取り入ったのが、遣唐使帰りの玄昉吉備真備の二人です。

※ 大仏建立のプランは、(735年に)第三回遣唐使とともに帰国した吉備真備玄昉、およびバラモン僧正、唐僧道〇の4人によって、この時唐からもたらされたのだった。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P122)

※ 今日では国分寺や大仏の建設などが、それほど大変なことだと思っている人はすくないが、それは当時の日本を破産させまじき大事業だった。こんな難事業を日本が自発的に考えることはとうていあり得ないということが、これで理解されるであろう。おそらく唐都にいた当時、玄昉真備も加わって、時の対日委員会がこのプランを作り上げ両名が帰国後全力をもってこれを推進すべきことを議決するとともに、その監督後見人として僧道〇を遣唐副使の帰り船に乗り込ませたのだった。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P125)



そこで740年藤原広嗣の乱が大宰府で起こります。藤原広嗣は、藤原氏の分家に南家、北家、式家、京家の4家があるうちの式家の筆頭です。

※ 青丹よし 寧楽の京師は 咲く花の 薫ふが如く 今さかりなり
・・・・・・それは政治の建設ブームだったというだけで、そのために重税をとられ、長期の庸役を強いられる民衆は、たまったものではなかった。現に有名な山上憶良の『貧窮問答』が同じ頃の作で、税をとり立てる村長の声が、眠られぬ夜の枕辺に聞こえてくるという。ちょうどそのような所に(唐から)帰ってきた玄昉と(吉備)真備の二人が、おおいにアチラ風を吹かせて、諸国国分寺大仏建設の大風呂敷をひろげた。その上に、宮中の風紀を乱すにいたっては、ついに黙ったいられなくなったのが藤原広嗣だった。・・・・・・(彼は)ついに天平10年(738年)10月、大宰府に飛ばされた。・・・・・・彼は(740年)8月29日意を決して玄昉・真備弾劾の上表文をさし出した。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P130)

※ 彼らをしてこれ以上のさばらせては、どういうことになるか分からないというのが、この時の広嗣の気持ちだった。・・・・・・が体制側の壁は厚かった。上表の文面は玄昉・真備の退任要求であるが、その核心は親唐政策の批判だった。それは最高国策に対する公然たる挑戦である。政府としては二重の立場から、やむなくただちに出兵に踏切った。それにつれて広嗣の挙兵となった。おそらく彼は元来そこまでは考えていなかっただろう。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P132)

※ この大乱を契機として、かねて永年の間、問題になっていた国分寺および総国分寺たる東大寺の建設が一層「国家鎮護」の名において強行されることになった。(白村江 鈴木治 学生社 1972作 P133)



この乱は失敗し、広嗣は船で逃亡しますが、逆風によって押し戻され、肥前の唐津で捕らえられ処刑されます。余談ですが、その地にはいま大村神社が建っていますが、昔は無怨寺という怨霊鎮めのお寺が建っていました。彼の霊は恐れられ、今は松浦佐用姫伝説で有名な唐津の鏡山にある鏡神社に祭神として祭られています。幸せに死んだ人は天国に行けるからいいんです。不幸に死んだ人ほどその祟りが恐れられるんです。恐れられるから神様として祭られるわけです。
この時代の人々にとって、死んだ人々の霊魂は大きな問題でした。死んだ人の霊魂はこの世に留まると考えられていたからです。天皇はそれを仏教の力で鎮めようとしたのです。このとき聖武天皇は、広嗣の乱を恐れて平城京を離れ、都を恭仁京、難波宮、紫香楽宮と次々に変えています。
741年国分寺建立の詔が出されたのはこういう時です。これは恭仁京で出されました。
743年大仏造立の詔は、紫香楽宮で出されました。
仏の力でこの世を安寧に保ちたいという鎮護国家の思想は、このような政治的混乱の中で実行されたのです。当時は世の中を乱すのは、怨霊の仕業だと本気で信じられていました。鎮護国家の思想は、怨霊鎮めの思想でもあったのです。そのための強力なパワーが仏教にはあると信じられたのです。
聖武天皇には、光明子との間の一人の娘しかいません。
749年、この一人娘が即位して、孝謙天皇となります。母親は藤原氏出身の光明子です。このときは光明皇后となっています。藤原氏南家の藤原仲麻呂がこの孝謙天皇を補佐しますが、764年に反乱を起こして失脚します。
この孝謙天皇は一度退位したあと、764年に再度即位して称徳天皇となります。これを重祚といいます。
そこに僧の道鏡がこの称徳天皇に取り入り、自ら天皇になろうとしますが、
769年、宇佐八幡宮神託事件が起こり、これは阻まれます。宇佐八幡宮は、大分県にある大きな神社です。奈良の都から遠く離れた宇佐八幡宮が、天皇家とどういう関係にあったのかはよく分かりません。ただこの神社には天皇の即位を左右するほどの権威があったのでしょう。
その翌年の770年、称徳天皇は、跡継ぎを残さないまま急死します。ここで天武天皇から続いた天武系の血筋が絶えたのです。
その同年の770年、それまで傍流に過ぎなかった天智天皇系光仁天皇が即位します。奈良時代初の天智天皇系の天皇です。つまり天武天皇から7人続いた天武系の天皇がここで途切れて、天武天皇の兄とされる天智天皇系の天皇が約100年ぶりに即位するわけです。光仁天皇は天智天皇の孫です。
781年には、光仁天皇の息子の桓武天皇が即位します。彼ら天智系の天皇にとっては、平城京は他人が建てた都でした。桓武天皇の母は百済系渡来人出身です。天皇家と朝鮮半島との強いつながりを連想させます。
784年、桓武天皇は新都長岡京に遷都します。

※【異説】 壬申の乱後の天武天皇から奈良時代終盤の称徳天皇までが新羅系の天皇であったのに対し、光仁天皇からは百済系の天皇に変わったとする説があります。つまりそれまで新羅系と百済系の二つの王室があり、ここで新羅系から百済系へ天皇の血筋が変わったとするものです。それほど大きな政治の変化であったから、平城京から長岡京への遷都が行われたというものです。




【天平文化】

では次、この時代の文化です。奈良時代の文化を、奈良文化とは言わない。奈良文化でも分かりはするんですけど、天平文化といいます。天平文化が、いつのころかというのがまずわからないといけない。奈良時代の文化を天平文化という。天平というのはこの時代の一番有名な天皇であった聖武天皇の時の年号です。今の年号は平成でしょ。それといっしょです。もろに中国の影響を受けています。盛唐文化の影響です。
今700年代ですけれども、盛唐、つまり最も唐の勢いが盛んであったのは600年代です。約100年前の中国の文化です。

【仏教】 遣唐使は行って吸収して日本に戻ってくるまでに、30~40年かかるから。その時間のズレがあります。では流行りは何だったかというと、やはり仏教です。仏教が文化の最先端です。この仏教というのは、個人信仰というよりも、まず仏教によって守られるのは、人ではなくて国なんです。国を守る思想があるから、時の権力者である天皇が、よし仏教の力で国を守ってやろう、という仏教の教えを大々的に取り入れていく。こういう仏教思想を、鎮護国家の思想といいます。

【鎮護国家】 もともと仏教は個人の救いを求める宗教なんですけど、日本に伝わった北伝仏教は、自分だけ救われて何になるんだ、という教えを含んでいます。これが社会全体、国家全体の救済を求めると、鎮護国家の思想になるわけです。
今は政教分離じゃないか、宗教と政治は無関係だということになっているじゃないか、と思うかもしれませんが、それはついここ100年ぐらいに出てきた考え方で、歴史的には宗教の大部分は政治と関わります。そして政治も宗教を利用します。宗教と政治というのは、ずっと二人三脚ですすんでいく、というのが人間の歴史です。
それで、頭のいいお坊さんが、政治家になっていくこともある。それがさっき言った僧玄昉です。遣唐使で中国に留学した人です。
それからさらに道鏡という坊さんも出てきます。この時代は、宗教と政治が一体であるのは当然のことだから、鎮護国家も当然のことです。鎮護国家というのは、国を守るという意味です。鎮め護るという意味です。仏教はこれに効くという教えです。むしろ時の権力者が私利私欲に走るのがいけないことで、権力者が国民すべての幸せを守るというのは、非常にありがたい考え方なわけです。

【南都六宗】 そのころ流行った仏教には、いろいろな宗派があって、六つの宗派があった。その六つを、南都六宗といいます。これは歴史用語で、あとでついた名前です。このあと都が奈良から平安京つまり京都に移る。京都から見たら、奈良の都は南にあるから、京都の貴族たちは、奈良のことを南都と呼んだ。そこに六つの宗派が栄えたということです。これは信仰というよりも、学問といったほうがいい。六つの宗派をお寺で勉強するんです。

【僧尼令】 この時の注意は、仏教はまだ特権階級のものであって、貴族の宗教です。農民はほとんど知らない。仏教は庶民には手の届かない高嶺の花です。逆にお坊さんが農民に仏教を教えようとすると処罰される。これは禁止されていました。庶民が触れるものじゃない。庶民への布教は行われない。貴族だけのものだったのです。
そのために、国がお坊さんに対して法律を出す。これが僧尼令(そうにりょう)です。僧はお坊さん、尼というのは尼さんです。その僧尼令です。この近くにもこの字を使った地名があります。尼寺は尼寺があったところです。その尼さんのいる尼寺があったところです。その僧尼令に、庶民への布教をしたらいけないと書いてある。

【国分寺】 聖武天皇は、政治的な混乱が続く中で、この仏教を奈良だけではなく、日本全国に広めようという事業を行いました。
741年国分寺建立の詔(みことのり)を出した。詔というのは、天皇のお言葉です。これで全国に国分寺ができた。その国分寺、国分尼寺です。男寺、女寺、セットで全国にできたんですよ。だから国分さんという人の前とか、東国分とか、地名とか、いっぱい残っている。それはだいたい国分寺があったところです。全国にあっちこっちにあります。本当の名前は何かというと、国分寺は、金光明四天王護国の寺という。金光明経というお経があるんです。仏教の経典というのは何万冊もある。一冊じゃない。そのなかで、どの本が一番大切かということによって、宗派が分かれてくる。
それから国分尼寺もできた。この近くには尼寺という地名もある。本当は国分尼寺です。尼寺というのは。それを縮めて、尼寺、尼寺と、地元の人間が呼んでいるだけで、本当は国分尼寺が尼寺にあったんです。これは法華滅罪の寺という。
この近くには、国分寺跡もあるし、国分尼寺跡もある。

【大仏造立】 その総本山として都にドカンとつくったのが、奈良の大仏です。743年大仏造立の詔を出す。俗に奈良の大仏というこの大仏の本名は、正式な仏教の教えにある仏さんの名前で、えらい画く数が多いんですが、盧舎那仏(ルシャナブツ)という。本当のインド発音はビルシャナという。それが中国でルシャナというふうに訛って、そのまま日本でルシャナと言われる。これが奈良の大仏の本名です。東大寺の大仏です。人間の10~20倍ぐらいある大きさです。これをやったのが、奈良時代を代表する天皇の聖武天皇です。

【正倉院】 そしてその聖武天皇が亡くなった時に宝物として、その保管場所とされたのが、東大寺の正倉院です。
このなかには千数百年前のガラス細工とか、貴重なもの、時間的によく残ったというもの、絵とか、漆器とか、調度品とか、いっぱい残っている。
これはなぜで残ったのかというと、湿気を防ぐために、ものすごく高度な建築技術が使われている。これを、校倉造り(あぜぐらづくり)という。そういう建築技術がすでに日本にあった。ここはめったに開けられない勅封の倉です。勅封の勅は天皇です。天皇の封印がされていた。開けていいのは天皇だけです。その中にある宝物を俗に正倉院御物といいます。御物(ぎょぶつ)というのは、天皇が使われたものが御物です。その天皇とは聖武天皇のことです。その遺品です。

【儒教教育】 教育機関として中央には大学、地方には国学がおかれます。ここで貴族の子弟がエリートを目指して学ぶのですが、ここで教えられたのは中国の儒教です。国家の役人となるためにはこの儒教の知識が必須とされました。将来の役人たちは、ここで儒教的な考え方を学び、漢詩の素養を学び、歴史の知識を身につけました。こうして日本のトップエリートたちは中国文化を身につけていったのです。

【歴史書】 奈良時代の文化を、奈良文化とは言わない、天平文化というんですね。天平とは年号なんです。聖武天皇の時代の年号です。いつまでさかのぼって年号はあるか、これは大化の改新なんですよ。645年の、そこで年号が大化とついた。大きく変わる、大きく化ける、と書く。645年の大化の改新から年号はずっとある。これは国の支配者は、土地を支配する。人を支配する。もう一つ何かを支配するという発想です。何とおもいますか。時間です。時間を支配する、というのが年号なんです。今はそれに賛否両論あって、批判する人もいるんだけれども、これはもともと中国の思想です。中国はすでに年号をもっていた。
その時間の観念が、歴史書になっていく。中国は、世界で最も早く歴史書をつくっていった国です。日本もそれにならって歴史書というのをつくっていく。

歴史というのは、何の正当性を証明するためのものか。これは真実を伝えるというのもあるけれども、もう一つある。国家の正当性、王の正当性を証明する。これが歴史書の役割なんです。だから丸呑みしたらいけない。
特に中国の歴史というのは。中国は日本と違って王朝が変わるから、戦いに勝ったら、前のつぶれた王朝は、良く書かれているんですか、悪く書かれるんですか。悪く書かれているんですよ。
これは日本の明治維新のときも起こったことです。明治政府は江戸幕府を倒した。江戸幕府のことは、どんなに書かれているか。良く書かれているか、悪く書かれているか。どうも実際以上に悪く書かれているんです。100年以上たって、そうでなかったんじゃないかというのがでてきているけど、それはここ20~30年のことです。
だから、そういうふうに歴史は見ないといけない。勝った人間が歴史を書くんです。負けた人間は歴史を書けない。原爆が落ちて日本は負けた。戦前の日本は良く書かれるんですか、悪く書かれるんですか。それは言いません。言わないけれども、そこらへんよく考えてください。
では私がいう歴史はどうなのかな。それは私にも分かりません。君たちが判断してください。本当だろうか、と疑問を持ったら、質問してください。でもそれは私にも分からないことが多い。それは今も調べています。知りたければ、自分で調べるしかない。
文系の学問というのは、そういうものです。1+1は2になるというのは、天地がひっくりかえっても1+1は2になるんです。イギリスに行っても2になるんですよ。アメリカに行っても2になるんです。しかし歴史は、時代が変われば2にならない。他の国に行っても2にならない。日本で教えている歴史は、中国では違った意味になる。韓国に行けばもっと違う。日本では歴史は暗記物だと思っている。しかし海の向こうでは、歴史は意味づけするものです。歴史の意味も分からないような大人は、一人前の大人として信用できないのです。

※【異説】 「続日本紀」和銅元年(708)記事によれば、「山沢に亡命」していた勢力は「禁書を挟蔵」していたとある。この「禁書」が九州王朝の史書等であれば、そこには九州年号が付された記録が書かれていたはずだ。大和朝廷は、これらを入手し、九州王国の事績や年号を一部は取り込み(盗用し)、他は抹消することによって「書紀」を編纂し、720年に撰上した。九州王国残存勢力の滅亡直前の712年に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上された「古事記」には存在しない記事が、「書紀」には大量に存在する。それは、こうした「盗用」手法による編纂の経過によるものだ。そのようにして大和朝廷は、「我が国の始源から天皇家が統治していた」という歴史像を作り上げていったと考えられる。(古代に真実を求めて 第20集 失われた倭国年号〔大和朝廷以前〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2017.3月 P23)



話が逸れましたね。歴史書ができる。ここまで言ったと思います。
二つ、奈良時代に歴史書ができる。712年古事記という。乞食じゃない。古い事を記した古事記です。このでき方は、もともとは日本の過去のことは文字がないんですね。まだひらがながないんですよ。新しい中国の漢字が入ってきただけで、文法体系は日本語と中国語全く違うんです。そういった文字がない時代には、記憶に頼って300年前のことから、ずっと丸暗記している語り部がいるんです。
これ古くは、アフリカの未開社会の村などに行くと、古老、おじいさんが、しゃべってと頼んだら、最初から10時間ぐらい聞かないといけない。途中から話を初めてと頼んでもできない。最初からずっと、条件反射のようにずっとしゃべっていくのを仕事としている人がいて、そういう人に似てる。これは稗田阿礼、ひえだのあれ、と書いてある。アレというと、女みたいですが、男ですね。イメージとしては、そういう語り部のじいさんですけど、本当はよく分からない。とくかく昔のことを覚えている。ずっと昔のヤマト政権の時代から。ただそれは頭の中にあるだけなんです。文字に記したい。記録に残したい。
この大事業に取り組んだ人、文字に書くというのは、この時代には一つのプロジェクトですよ。
太安万侶という人が、それを文字化することに成功した。だから稗田阿礼が語る古い日本の物語を、異国の文字である漢字で記している。なぜ、ひらがなを使わなかったか。ひらがなは、まだないからです。あと200~300年ありません。
これは古い伝承なんだけれども、もうちょっと整理して、日本の国を中心に、古事記は、昔話とか神話とかいろいろはいっているんですよ。八岐大蛇、やまたまおろち、なんかもここに入っている。
これを国の歴史として記したのが、8年後の720年日本書紀です。ここで日本という国、名前があるということ、日本という名前、これいつの頃からかというと、よくわからないけれども大宝律令の制定後からといわれます。そのはじまりは聖徳太子、いま厩戸王という人が、中国に使いを出したときに、日本のことを、日の出ずるところの国、ひのいずるところ、日の本です。そこら辺がルーツじゃなかろうか、と言われる。日本という国の名前もあった。この時代には。これをつくった人は、舎人親王(とねりしんのう)という。天武天皇の息子です。素材としては、天武天皇時代の帝紀と旧辞という文献があった。
細かい事をいうと、古事記と記と日本書紀の紀も違うからね。記は物語を記す。日本書紀の紀は歴史を紀す。そんな意味の違いがある。

※ 「日本書紀」編纂時に中臣鎌足の子の藤原不比等が、ほぼ実権を握っていたのだから、「日本書紀」は、藤原氏にとって都合の良い文書だった。(豊璋 藤原鎌足の正体 関裕二 河出書房新社 P13)

※【異説】 この古事記日本書紀は一度成立したら確定ではなく、その後、奈良時代をつうじて、時の権力者たちによって、都合の悪いところは削られたり、新たに付け加えられたりしながら現在の形になったとする考え方があります。このことは奈良時代の終盤に、天皇の血筋が天武天皇の血筋から天智天皇の血筋に変わることとも関係しています。つまりこの史書には、実際の歴史とは違ったことが多く書かれているとするものです。



これが日本の正式な歴史書の最初です。中国の真似して、この後、平安時代も歴史書を書いていきます。あと400年間で、2番目の歴史、3番目の歴史、4番目の歴史、全部で六つの歴史を作っていく。総称してこれを六国史(りっこくし)といいます。日本史だから当然日本語で書いてあるかというと、ひらがながないから、漢文で書いてある。漢文というのは、わかりやすくいうと中国語ですよ。日本人が中国語で日本の歴史を書いているんです。今でも日本でサラサラと英語を書ける人は、なんかカッコイイでしょう。漢文を書けるというのはこの時代の男性貴族の教養の証しなんです。
こういう苦労をして歴史を記録化していったわけです。


【風土記】
 では今度は地方の物語も書いていこうという。これが風土記です。
全国にできたみたいですが、それが今に残っているのは次の5つです。出雲は島根県、常陸は茨城県、播磨は兵庫県、豊後は大分県、肥前は佐賀県、の5つです。この間言った、唐津の鏡山の松浦佐用姫の話はこのなかにあります。

【万葉集】 それからこの時代に、和歌、歌です。和歌というと何文字ですか。575に77がつく。575は何ですか。これは俳句です。俳句はまだありません。この時代は575+77です。これが和歌です。国語では短歌という。和歌とは、漢詩に対して、日本の歌という意味です。
「和」とは日本のことです。日本食は、和食です。日本式トイレは、和式トイレです。「和」とは、もともとは魏志倭人伝の「倭」で、中国人が呼んだ言葉です。でも日本人は自分たちの国のことをヤマトと言っていました。最初は、倭と書いてヤマトと言っていたのですが、倭には弱いとか卑しいとかの悪い意味があったから、日本人はこの「倭」を「和」に変えたのです。さらに明治時代に日本のことを大日本といったように、国威発揚の時には大をつけて「大和」と書くようになり、これで「ヤマト」と読むようになります。こうやって大和(ヤマト)という言葉もできます。
通常は、日本人は、短いものほど好む。そして庶民化していく。普通は、短いものから、詳しい長いものに発展していきそうですけど、日本の文芸は、この和歌でも十分短いけれど、江戸時代にもっと短くする。575で決めようとする。これが俳句です。そこまで行くのに、あと何百年もかかる。やったのは松尾芭蕉という人です。世界最短の文学と言われる。
この時代には和歌を作っていこうとします。さまざまな人々の歌を集めた万葉集ができます。これをやらないととモテないです。歌が上手でないとダメなんです。だから男も女も盛んにやる。こういう歌をやって、女の子がどう返事を返すか。べちゃべちゃ言う女はダメです。綺麗にすらっと返すんです。それで相手との距離をはかっていく。この子と合うかな。ダメやな、とか。顔以外に、スタイル以外に、自分と合うか合わないか。そういう見定める貴族の素養となっていく。老いも若きも、男も女も、貴族も農民も、みんな歌を歌っています。歌の前では身分を問いません。

日本には各地に歌垣の風習が残っており、祭りの後には男女の自由な交合が許されていました。歌を掛け合って、若い男女が、互いに相手を探すわけです。それはオープンなゲームで、「花いちもんめ」という子供の遊びは、その名残だと言われています。万葉集の歌はこのような風習のもとに、残ることができたのでしょう。
この時代の男女の結びつきは、今のような嫁入婚ではなかったようです。よく分かっていませんが、男女のどちらか一方が相手の家にはいったり、のちの源氏物語に出てくるような通い婚つまり妻問婚の形をとったりしたようです。古事記のイザナギとイザナミの国産み神話を読むと、「なりなりて成り余れるところを、なりなりて成り足らざるところに、差しふたぎて国づくりをした」とか、そういうかなり露骨な表現もありますから、性に関してもかなりオープンだったようです。農耕社会の特徴として、性は農耕儀礼と結びつき、祭りの際はかなりオープンにされる傾向があります。農耕社会はどこか非常にエッチなのです。
文学の裏には女がからむ。歴史の裏にも実は女がからむ。面白いのはそこらへんですよ。しかしあんまり教科書には出てこない。知りたかったら自分で調べてください。
ただひらがながないから、日本語をどうやって表すかというと、ぜんぶ漢字で書いてある。でも漢文ではありません。日本語で書いてあります。これを万葉仮名という。一種の宛て字です。
こうやって中国文字を使いこなす努力をしていった。そしてそれを使いこなした時に日本文字が生まれていく。これがひらがなですが、それまであと数百年です。

この万葉集は、日本書紀のような漢文ではありません。つまり中国流ではありません。あくまでも日本の歌を日本語で表そうとしたのです。編者は大伴家持だと言われます。松浦佐用姫伝説に登場した大伴狭手彦のあの大伴一族です。もともとは軍事豪族として政権の中枢を担っていましたが、藤原氏の台頭の陰で没落しつつある一族です。
この万葉集は、中国一辺倒になっていく日本の中で、それに対するささやかな抵抗であるともとれます。そしてこの万葉集が現代まで受け継がれているということは、多くの人がそれを支持したということでもあります。このなかには悲惨な条件の中で、九州北辺の防備を担った無名の防人(さきもり)の歌もあります。彼らは東国から九州まで連れてこられた人々です。このような国家の犠牲にされたような人々の歌が入り交じっているということは、これが日本書紀のような国家プロジェクトではないということです。
このような国家に対する批判を含む作品が、ひろく国民に受け入れられて行くのみならず、都の貴族たちの中にも、これを受け入れていく者が多く現れるというところが、日本という国を形作っていくうえでの、大きな特徴だと思います。

これで終わります。


新「授業でいえない日本史」 5話 古代 平安遷都~弘仁貞観文化

2020-10-29 06:52:42 | 新日本史1 古代2
【平安時代】
【平安初期の政治】
【桓武天皇】
 784年に、桓武天皇は、まず長岡京をつくる。これはいまの平安京のすぐ南西側にありました。そこでいったん完成したんです。
しかし、そこへ平城京から引っ越すると、その翌年の785年に暗殺事件が起こります。建設責任者の藤原種継が殺されるという藤原種継暗殺事件というのが起こる。
それで藤原種継を誰が殺したか、というと自分の弟の早良親王が犯人だということになって、彼を殺したんです。
桓武天皇は早良親王の怨霊に、悩まされるようになるですよ。またバカな、と思うかもしれませんが、この時代の怨霊は特別強いんです。不幸に死んだ人の霊は取り憑く、と言われれば、みんな気色悪いでしょう。そんなことあるかと分かっていても、気持ちは良くない。私は、怨霊がいるかどうかということを言っていませんよ。怨霊が恐れられたということを言っているんです。それが政治が変わるほど強い。このことによって都がまた変わる。何兆円のプロジェクトが一気に吹っ飛ぶわけです。


【平安京】 それで、もうひとつ都を隣につくろう。これが平安京です。794年にまた引っ越すんです。

「ウグイスの鳴く世(794)になりぬ平安京」、とか言ってよく覚えますが、桓武天皇にとっては、2つ目の都です。彼をそこまでさせたのが、弟の早良親王の怨霊です。

この2つの遷都の目的は何か。奈良時代には仏教の坊さんが政治に取り入ったりして乱れた。政治が。だからまず何を排除したか。寺院勢力の排除です。
都が変わると、奈良のお寺も平安京に引っ越して来たいと思う。でもそれは禁止です。
おまえたちは奈良から動くな。だから奈良に今でもいっぱいお寺がある。
こういうと、では今の京都にはお寺がないのか。修学旅行とかに行くと、いっぱいお寺がある。お寺があるじゃないか、と。禁止にもかかわらず、この後できてくる。でも最初はお寺のない都です。お寺がないこと、これが平安京の自慢だったんです。




ただ入口だけは、やっぱり怨霊が来る。またバカなと思うかも知れないけど、そうじゃない。そう信じたんです。入口だけは怨霊が入ってくるから、防がないといけない。何の力で防ぐか。この時代に一番パワーを持っているのは仏教なんです。入口には東寺と西寺、その二つだけがあったんです。でも西寺は潰れた。しかし東寺は今も堂々とあります。そういう国家プロジェクトをやった。
その都の入り口、芥川龍之介が書いた羅生門、字が違うけど、本当は羅城門です。これが都の入り口です。

それからもう一つ、天皇が住んでいた京都御所があるけれども、今の京都御所は、この時代に天皇が住んでいた大内裏とは違う場所にあったんです。
なぜかというと、ここは火事にあって、天皇はだんだんお金がなくなって、火事になったあと、つくりたいと思ったけれども、再建費用がなくて親戚に間借りした。そしてそのまま動かなかった。大貴族の家に間借りした。そのままそれが天皇の御所になった。
でもここは行ってみたら、えらく広いです。普通の高校の敷地の10倍ぐらいある。北から南まで、歩いたことあるけど、けっこうかかる。平安時代以後もずっと天皇はこの京都御所にいました。歴史の途中で天皇家はほとんど出てこなくなったりしますが、大政奉還つまり江戸幕府の滅亡まではずっとここにいます。鎌倉時代に天皇を勝手に滅亡させないでください。

地図でもう一つ言うと、京都最大の夏祭りは、どこの神社のお祭りと言いましたか。お祭りには、必ずどこかの神社のお祭りなんです。どこだったか。祇園社です。この横に、京都の祇園という花街がある。福岡は中州、京都は祇園です。


【蝦夷征討】 そればかりではなくて、お金のかかることをやる。日本はまだ東北の津軽半島まで領土を広げてないです。東北にはまだ、都に従わない人たちがいるから、彼らを平定しに行く。
彼らを、蝦夷と書いて「えみし」と言う。これは奈良時代にも出てきました。

780年、東北地方で乱が起こる。伊治呰麻呂の乱(いじのあざまろのらん)といって、多賀城、これは奈良時代に拠点を築いたもので、大宰府の東北版みたいなものです。
797年、おまえ反乱を鎮圧しに行け、と命令された人が、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)です。人の名前です。坂上田村麻呂が軍隊を引いて、東北まで遠征に行った。この人は軍を率いる将軍です。将軍には名前がある。何という名前をつけられたか。これを征夷大将軍という。

何か気づいた人いますか。征夷大将軍というのは何ですか。俗に、徳川家康が将軍になった、と言うけど、正式には何という将軍になったのか。征夷大将軍です。これと同じです。征夷の夷は、蝦夷の夷です。つまり従わない者たちのことです。徳川家康も同じ形で天皇からこれに任命されるんですよ。もともとは、東北遠征の総大将です。しかし鎌倉時代から、武家の総大将の地位がこれになる。意味あいがちょっと変わってくる。名前は同じです。しかもこれは天皇の家来です。その天皇と将軍の構造はずっと変わらない。
そのための拠点として、さらに多賀城の北方に、802年に、胆沢城(いざわじょう)というのを設置する。
だから、この桓武天皇一代でたいそうお金を使うんです。もうお金がないから、みんな「やめてくれ」という。何と何でお金がなくなったか。

まず軍事、これは東北遠征、つまり蝦夷征討。

もう一つは、都の造営、しかも長岡京と平安京の2つも。これを造作という。これは今でもお金がかかる。東京オリンピック、東京大改造、今は地価がどんどん上がって、オレは一発当てるぞ、魚の目たこの目です。
それと戦争です。古来お金がかかるのは、この2つです。



【藤原北家の進出】
藤原氏の権力闘争は、奈良時代と同じように続きます。
1つは他氏の排斥、もう1つは藤原氏一族内の争いです。
810年には、平城太上天皇の変(薬子の変)が起こり、これに荷担した藤原薬子の藤原式家が没落し、藤原北家が力を拡大します。
842年には、承和の変が起こり、橘氏が没落。
藤原北家の藤原良房は、娘の明子(めいし)を文徳天皇の皇后とすることに成功し、明子はのちの清和天皇を産みます。
858年に、北家の藤原良房は、自分の外孫である幼い清和天皇を即位させ、事実上の摂政となります。
866年には、応天門の変が起き、伴氏が没落。この伴氏は大伴氏が改姓したものです。松浦佐用姫伝説の大伴狭手彦や、万葉集を編纂した大伴家持の大伴氏は、ここで没落します。
その後、藤原良房の養子の藤原基経も関白となります。
摂政と関白の違いは、天皇が幼少の時の補佐が摂政、天皇が成人したあとの補佐が関白です。


891年にその藤原基経が死ぬと、時の宇多天皇は、摂政・関白をおかず、代わりに学者として有能だった菅原道真を登用しました。この菅原道真が建議したのが、894年の遣唐使廃止です。もうやめましょうと。この人は九州に関係が深い人です。太宰府天満宮に祀られている、あの菅原道真です。あの人が都にいたときに建議した。それで遣唐使は廃止されました。そこまではよかったのですが、藤原氏は、ずっと自分のライバルを排斥していきます。


901年には、昌泰の変が起きて、菅原道真は、藤原氏との政治争いに負けて、九州の大宰府に左遷されて、2年後にそこで死にます。
でもそのあとが彼の本領です。何が出てくるか。不幸に死んだ人間は、偉い人や頭がいい人ほど、あとの祟りが恐いのです。菅原道真は祟り神になります。太宰府天満宮が、学問の神様というのは歴史的には違いますよ。あの神社は祟り神をなだめるための神社です。あそこの祟り神の菅原道真は怖い。


太宰府に詳しい人だけ知ってるけれども、太宰府天満宮にお参りするときに、池をまたぐ太鼓橋があって。あの太鼓橋には知る人ぞ知る噂がある。彼女と一緒にお参りする時に、手をつないで渡ると別れてしまうんです。もともと祟り神だから。菅原道真は恐い祟り神です。雷の神となって祟るんです。だから天神様というんです。
天神という地名はいっぱいありますよね。九州最大の繁華街はどこですか。福岡の天神ですよね。あの近くには、やはり天神様が祭ってある神社がある。それが天神という名前の由来です。
でもそれでは神社として恐がれらるから、神社も商売上のことを考えるんです。菅原道真は、頭がいい学者だったから、学問の神様にしよう。そうすると人気がバリバリ出てきて、みんな合格祈願に行くようになる。それはそれでいいことです。営業妨害するつもりはないです。私も昔行きましたから、人のことは言えません。

でもここは歴史の時間ですから、歴史上の成り立ちをいっています。私がこのことをマ顔で言うのは、これが怨霊思想となって日本の政治を動かすほどのパワーを持っているからです。このことはあとでも出てきます。
この時、菅原道真を左遷した藤原時平は、道真の怨霊に悩まされるようになります。

あと1つ、それから約70年後の969年に、安和の変というのがあって、これで藤原氏の他氏排斥は完成しますが、実際には、菅原道真が大宰府に左遷されたことをもって、藤原氏に対抗できるものはいなくなります。この901年の昌泰の変の時の天皇は、醍醐天皇です。



【醍醐天皇】
醍醐天皇は、天皇の手に政治の実権を取り戻そうと、不十分ながら天皇親政を復活します。即位は897年です。905年には、最初の勅撰和歌集である「古今和歌集」を紀貫之に編纂させます。漢詩から和歌へと大きな文化の流れの変化が見て取れます。漢詩は貴族だけのものだったのですが、和歌は200年前の万葉集の時代から、みんなのものです。そのような国民的文学形式を時の天皇が認めたということの文化的意義は大きいものです。勅撰の「勅」とは天皇を表します。今でいうと、流行りの流行歌が、ビートルズの「レットイットビー」から、「五木の子守歌」に変わったようなものです。ビートルズはもう古いかな。



【弘仁・貞観文化】
この時代の文化、平安初期の。平安の文化は3つある。初期の文化を、その時代の年号をとって、弘仁・貞観文化という。弘仁も貞観もどっちも9世紀の年号です。平安の始めから、800年代の終わりごろまでの文化です。
この時代の文化は、唐の終わりの頃の、晩唐文化の影響を受けています。


仏教が一番パワーを持っている。仏教は文化の最先端です。ここでは仏の教えが、密教化していきます。密教っていう言葉だけ知っておいてください。一言でいうと、本物は隠れてるという発想です。真実は隠れてるという発想です。それに平安京は寺院勢力の排除をねらった都です。だから都の中にお寺はできなくなって、目立たない山の奥にお寺ができてくるんです。山岳仏教になっていく。何でこの山奥にお寺があるんやろか、という有名なお寺は日本にいっぱいあります。


【平安仏教】 それから、奈良時代までは国家を守る国家仏教であった。これが国家ではなくて、貴族の御利益になっていく。貴族がもてはやすようになる。これが貴族仏教です。
しかも密教化した山岳仏教です。平安仏教はまず密教化する。感覚で本質をとらえようとする。理屈じゃないんだ、悟れという感じです。つへこべ言うな、座れ、目をつぶれ、意識をなくせ、と。それじゃあ、死んでしまうじゃないか、と思うかもしれないけれども、人間の意識には限界があるという、そんな感じです。


【最澄】 えらいお坊さん二人、彼らは中国への留学生です。どちらも中国帰りで、1人が最澄、もう1人が空海です。空海の別名がよけい有名ですね。弘法大師という。聞いたことないですか。「弘法も筆の誤り」ということわざもあります。


まず最澄です。中国で生まれた新しい宗派を伝える。天台宗です。別名、天台の台をとって、天台の密教という意味で、台密という。お寺は都に立てない。本物は山の奥に隠れている。京都の北の比叡山に建てる。だから、今でも普通のお寺でも、お寺の名前の前には、〇〇山△△寺と、山がつくでしょ。良く書いてあるんです。お寺の名前の前にある〇〇山、というのはここから来るんです。比叡山延暦寺です。これは今でもある。比叡山は京都のすぐ北の山、京都と琵琶湖の間にある。
仏教にはキリスト教と違って、聖典は一冊ではなくて何万冊もある。どれをメインするかによって、違う宗派がででくる。天台宗は法華経です。


【空海】 では空海はどうか。この人が、よけい中国では勉強してきたんです。本格的に密教を学んできた。そして中国の真言宗をもたらす。時の天皇が、この教えに非常に感銘を受けて、一番大事な京都の入り口の寺を、おまえにやるぞ、という。これが京都に2つしかなかった西寺と東寺のうちの東寺です。これをおまえにやる、と。それで東寺は今も真言宗のお寺になる。別名、教王護国寺といいます。これが京都の入り口にある。だから東寺の東をとって、真言宗の別名は、東密とも言う。では総本山はどこかというと、やっぱり山奥です。高野山という和歌山県と奈良県の県境です。だいたい奥深い山の一番高いところは県境が多い。これを高野山金剛峯寺という。超個人的なことですけど、うちの檀家寺はこの真言宗です。私はこの教えに従って、死んだらお墓に入らないといけないことになっています。といっても、あまり熱心な仏教徒ではないですけど。


ちなみに、真言宗が唱える文言は、よく聞く「南無阿弥陀仏」でもなく、次ぎに聞く「南無妙法蓮華経」でもなく、「南無大師遍照金剛」です。「南無」だけ同じですね。これは昔のインド語で「すがる」という意味です。「南無」の次のすがる対象が宗派によって違うのですね。


何をいいたいか、というと、これは過去の宗派ではないということです。今でもあるんです。そんなにメインじゃないけれども、べつに珍しい宗派ではない。天台宗も真言宗も。この空海は四国出身で、もう一つ、四国八十八ヵ所巡り、とか聞いたことないですか。これをはじめた人だということになっています。お遍路さんのことです。杖を持って。菅笠かぶって、白衣を着て歩くお遍路さんです。うちのお寺の住職が、成仏したかったら、お遍路さんに行くのもいいですよ、と私に言うんです。定年退職したら行こうかな。四国を一周するのはきついだろうけど。四国は九州よりも小さいけど、九州の半分にしたって一周すれば大した距離です。1000キロぐらいをあるんじゃないかな。試しに行ってみませんかとか、住職さんが言うんだな。成仏できなくてもいいもん、と今のうちは言ってるけど。まあ人間、歳をとってあの世が近付いてくると、だんだん気持ちも変わってくるかもしれません。


この真言宗は呪法といって、いろいろ呪文を唱えたりする。これは加持祈祷というけれども。これが貴族に受けたのは、あの世の利益だけでなく、ついでにこの世の利益も授けてくれるからです。ここらへんが貴族に受ける。


この山岳仏教の影響で、日本独特の宗教が生まれてくる。これを修験道という。深い山奥に入って、頭に鉢巻きみたいなものをして、金具のついた太い杖もって、ジャリジャリと、袴はいて歩くような、お坊さんなのか、宗教者なのか、見たことないかな。山にあるパワーをもらいに行く。天狗のイメージというのは、こういう山岳信仰のイメージから来るんです。天狗は海に住んでない。天狗は山にいます。


【神仏習合】 この時代にはもう一つの特徴があります。仏さんはインドの神様です。日本古来の神様は見捨てられたのかというと、ヨーロッパなんかは一神教だから、1つの神様以外はダメになるけれども、日本は多神教だからいろいろな神様を抱き込んでいく。よかよか、気にするな、と。これが日本独特の神仏習合を生んでいきます。ただ宗教と宗教が融合することは不思議なことではなく、日本以外の地域にもよく見られます。それが日本の場合には、日本の神とインドの仏が一緒になっていく。どっちを拝んでもいいぞと。神を拝むことは、仏を拝むことだ。そういう論理です。


ただ何でもオーケーではなくて、宗教者は拝んでいいための、ちゃんとした論理を組み立てないとダメなんです。神と仏が矛盾しないように、これを考えていく。これを本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)という。難しい名前ですけど、一言でいうと、本物変身説です。本地とは本物のこと、垂迹とは仮の姿のことです。
これは神と仏のうち、本物はどっちだ。仏を本物とする。では日本の神様は。ここで何が出てくるか。仮面ライダーの変身です。変身の術です。仏が本物なんだけれども、日本に来た時には、その仏様が時々変身するというわけです。本当ですか、と聞かないでください。そう信じられてきたという話をしているんです。

変身して日本の神様になる。だから同じものです。ウルトラマンの変身といっしょです。モロボシダンがウルトラマンになるようなものです。ウルトラマン=モロボシダンです。我々の頃はウルトラマンなんですよ。仮面ライダーの前は。同じでしょ。ウルトラマン=モロボシダンだったでしょ。どっちを拝んでもいい、どっちと友達になってもいい。結局は一緒だとする。こういうのを本気で考えていく。そしてどっちを拝んでいいとなる。

だから日本には、お寺の中に神社があったりするんです。神宮寺という。神社なのか、お寺なのか。神社とお寺の違いは、分かりますね。正月に三社参りに行くところは、お寺じゃないでしょ。神社でしょ。お盆に行くところが、お寺です。精霊流しをして、祖先の霊を迎えたりするときには、お寺のお坊さんが来て拝むんです。お寺と神社は違いますよね。でも日本ではどっちを拝んでもよくなるんです。


【外交】 それから、中国との交易では、遣唐使がやまったあと、どこが窓口になるかというと、九州の大宰府です。これが中国に近いのは九州です。
こういう流れがあるから、九州一の今でも大都会になっている博多の町つまり今の福岡市は、この港町からきている。
ちなみにいま多く県庁所在地になっている、熊本とか、佐賀とか、大分とかの城下町はまだないです。
終わります。

新「授業でいえない日本史」 6話 古代 武士の成長~摂関政治

2020-10-29 06:51:44 | 新日本史1 古代2
【武士の成長】
【国司の土着化】
 貴族の時代、貴族がだんだんと貧乏になって、次に出てくるのは、武士の成長です。時代がじわじわとフェイドアウトしていく。バリッと歴史というのは線が引けない。貴族社会は少しずつうっすらと消えていきます。
都からの下級貴族が国司として、地方にやってくている。彼ら国司は転勤族なんだけれども、なかには、オレは京都に帰ったって、どうせうだつの上がらない二流貴族で終わる、それよりも田舎にいれば、みんな国司様と慕ってくれる、オレは都に帰るのやめようかな、と思う。オレはここで骨を埋める、もう都に帰らない、だから国司やめる、官僚をやめる、というんです。そうやって土着してゆく国司がでてくるんです。そういったなかで、地方で非常に人気があった親分が、天皇の血筋を引く国司なんです。

天皇の子孫も、孫の代あたりまでが天皇の一族であって、あとは自分で稼がないといけない。だいたい3代目で臣下に下る。あとは家来として、国司階級になっていく。ただ系図があるから、オレの祖父さんは天皇だと言える。うわーすごいですね、彼らは地方で大人気です。
もうおまえは、天皇の一族じゃない。もう家来の身分だと言ったときに、皇族には姓がないから姓をもらう。それが源氏姓です。「みなもと」です。多くの天皇の子孫が源氏姓をもらうなかで、一番人気だったのが、清和天皇の子孫である清和源氏です。

それからもう一つ人気があったのが、平安京をつくった桓武天皇の子孫です。この子孫は平氏姓をもらうんです。「たいら」です。彼らを桓武平氏といいます。彼らも天皇の子孫として地方で人気が上がる。

そしてこの清和源氏と桓武平氏が、このあと地方に発生する武士を束ねる存在になっていきます。彼らのことを武家の棟梁といいます。

このような武士たちの動きが、次の武家社会を準備していきます。ここで言っているのはその伏線です。武家政権はもうちょっと200年ぐらいあとに成立しますが、突然スーパーマンのように源頼朝がでてきて鎌倉幕府が成立したら、やっぱりおかしでしょう。
それで納得したら、小学生の単純な漫画と同じです。スーパーマンのような人が突然出てくるときには、何かある、と普通は思わないといけない。何でこいつが突然出てくるのか、と不思議に思うのが当然なのに、ウルトラマンが突然出てきて喜んでいたら、歴史にならないわけです。

そういうのが出てくるためには、何百年も前から準備をしておかないといけない。そういうのが歴史の伏線です。いい歴史の本は、いい小説とまったく変わらないと思いますね。テレビのゴールデンタイムのサスペンスとか見ると、突然ひらめいて犯人が出てきたりしますが、でも犯人は最初から伏線として、それ以前の場面の中に組み込まれていないと、本当のサスペンスドラマにはならないと思う。
いい小説の書き手というのは、始まって10分以内に犯人がちらっと出て、最初は目立たないけど、そのうちストーリーが地下水のようにつながって、犯人が分かってくる。歴史はそれと変わらない。歴史は推理小説と変わらない。突然場外からスーパーマンが出てきたのでは面白くない。次の時代が切り開かれるのは、その前の時代に原因があるんです。

何を言っていたかというと、目立たない地方、田舎の方で、天皇の子孫たちが国司として地方に根づいていく。根づいていくというのは、国司が京都から地方にきて、地方の人間として骨をうずめるということです。骨を地方でうずめてくれるんだったら、この人を親分として、ついて行こうという家来たちが出てくる。そういう目立たない動きをしながら、やがて武士社会というのが草深い田舎から出てくるんです。


【清和源氏】 その人気武士シリーズで、二つ書きました。

一つは清和源氏です。これは清和天皇の子孫です。
天皇の孫だからといって、いつまでも威張ってはいられない。おまえ働け、いいかげん、おまえたちが天皇の子孫と言っても、3代も4代も前の、100年前のことじゃないか、いつまで威張っているんだ、早く働け、と言われて、臣下の下級貴族になって、地方回りの国司になったりするわけです。その時に姓をもらう。天皇には姓がない。今も天皇だけ特別で、天皇には人権がない。日本国憲法で決められた人権、職業選択の自由があるんですか。ないでしょ。引っ越しの自由はあるんですか。ないんです。我々が当然と思っている人権がない。姓もないんです。皇族じゃなくなれば、姓をもらわないといけない。それが源氏姓です。だから、清和天皇の子孫という意味で彼ら一族を清和源氏という。


【桓武平氏】 もう一つは、平安京を作った桓武天皇の子孫です。彼らは平の姓をもらう。

このような源氏と平氏の二つの勢力が200年後の源氏と平氏の源平合戦になる。鎌倉幕府ができる前です。平氏と源氏が下関の壇ノ浦でぶつかって、源氏が勝って、平氏は滅亡した。そのあと平氏は怨霊化して、壇ノ浦には平家ガニが出たり、耳なし芳一の話が生まれたり、平家の落人伝説の話が生まれたりする。このあいだのサスペンス劇場は、平家の落人伝説の話しだったですね。

源氏と平氏は天皇の子孫ですが、それ以外にも、藤原氏という貴族ナンバーワンの子孫も、増えすぎて京都にいられなくなって、その何代目かの子孫になると、貴族でも地方に出向いて働けとなっていく。彼らが地方に根づいていって、じわじわと100年、200年かけて力を持ち出してくる。
その中で地方の一番人気はやっぱり天皇の血筋です。清和源氏と桓武平氏以外にも、天皇の子孫はいっぱいいて、彼らも国司階級となって地方に下っていましたが、その中で特に力を持ち出したのが、清和源氏と桓武平氏だということです。


【平将門の乱】 桓武平氏の中には、地方政治がうまくいかなくなると、腹を立てて反乱を起こす人も出てくる。935年、平将門の乱が起こる。平氏一族です。たいら、ですから、ご先祖さまは桓武天皇です。
これが詳しく分かるのは、小説づくりになって記録に残ってるからです。音読みして将門記(しょうもんき)と読む。誰か詳細に記録を残したんですね。

どこで反乱を起こしたか。関東です。進んでいる地域じゃないか。違いますよ。進んでいるのは京都です。その前に進んでいたのは九州なんです。関東は坂東といってまだ田舎です。関東が先進地帯ではないということは、注意しておいてください。逆にここは、開発できる土地がまだ残っている開発のフロンティアなのです。

一族の内輪もめから始まって、まず伯父の国香を殺す。殺したあとは追われる身になっていて、関東全域で反乱を起こして、地方の中心である国府を襲撃し、下総の猿島郡を拠点にします。下総国というのは今の千葉県です。そこに今までも猿島郡という地名があります。そこを拠点にして最初はものすごく強かった。関東八州全域を自分の支配下において、自分のことを新皇と名のった。天皇のもじりです。第二の天皇みたいな言い方です。
ここまで来て、朝廷も、これはえらいことだ、と思った。これはこれ以上見過ごすことはできないと、本格的に討伐に向かう。ただそのときに都の貴族は久しく武器を持たないから戦えない。300年の間に弱くなって、部下に、おまえ行け、と命令する。その部下が武士です。おまえの一族じゃないか、ということで、この平氏一族のリーダーである平貞盛に・・・・・・これは殺された国香の息子です・・・・・・おまえ行け、と言う。
もう一人は、都の一番の貴族の藤原氏、その分家の分家、いわゆる傍流の藤原氏である藤原秀郷(ふじわらのひでさと)です。この2人が力を合わせて乱を平定する。


平定されて、野望むなしく、平将門の関東独立の夢は費え去った。ただ、平将門の塚は、今どこにあるかというと、東京駅の真ん前です。東京千代田区の丸の内です。あの一坪何千万円もするような都会の一等地の高層ビルの谷間に、一坪何千万もするようなところです、この教室の何倍とある塚がある。これには誰も手をつけきれない。これは将門塚といって、知る人ぞ知るものすごく有名な塚です。
ここにビル建てたら、何億円ともうかると思うけど、誰も建てない。なぜかというと、祟り神だからです。前回いった太宰府天満宮の菅原道真と同じです。不幸に死んだ人です。この塚は、東京駅の北の皇居の目の前にあります。そこにまだ鎮座している。すごい話です。昔の人が怨霊をどれだけ恐れていたかということが、分かる気がします。

この怨霊思想がどこから来るのか、それは謎です。でも今でも幽霊とか、物の怪とか、怨霊を恐れる人の気持ちは理解できます。源氏物語を読むと、都の貴族たちの世界にも、至るところに物の怪が飛び交っていて、それを貴族たちが恐れている姿が描かれています。
この将門塚、機会があれば1度見てみたらいいです。あんな東京の一等地に、何でこんなものがあるのか。ちょっと異様な感じですね。あの敷地だけは。
これが935年だから、1000年経って今もまだ誰も手をつけられないです。つけきれないんですよ。いまは行政管轄になっているかどうか知らないけれども、江戸時代でも、江戸城の真ん前です。今の皇居は昔の江戸城です。それでも祟りが恐くて、誰も手をつけきれない。


【藤原純友の乱】 この平将門の乱とほぼ同時に起こったのが、今度は瀬戸内海です。これは藤原氏の傍流です。分家の分家です。藤原純友の乱が瀬戸内海で起こる。この人は、このあいだまで県知事していたような人です。場所は四国の愛媛県だから、伊予という。伊予掾の掾というのは国司です。県庁マンです。それもかなり高位の。この人が国司をやめたあとも都に帰らずに、この海賊の親玉になる。瀬戸内海というのは昔から海賊のメッカです。2番手が九州北西岸地方です。唐津、松浦、壱岐・対馬です。彼らを松浦党といいます。日本は、山賊よりも海賊が多いです。特に古代では。
京都から見ると、平将門の乱が935年で、939年の藤原純友の乱とは4年しかはなれてない。ほぼ同時なんです。東では平将門の乱が起こる。西の瀬戸内海では藤原純友の乱が起こる。朝廷も、これはまずいぞと、尻に火がつく。

藤原純友は日振島という、瀬戸内海で何百と浮かぶ島の一つを拠点にしていた。島がいっぱいあるというのは、逃げるのや隠れるのに最適なんです。そこを拠点にして、どこを襲撃したかというと、これが九州の大宰府です。瀬戸内海から福岡に上陸して焼き討ちする。いま大宰府政庁跡は石しか残っていない。いつ焼けたか。この時です。藤原純友が焼き討ちしたんですよ。このあと再建されたらしいけど、その廃墟のあとが今の都府楼跡です。
これを討伐したのが、源経基という人。この人は清和源氏で、その子孫はこのあとも出てきます。それからもう1人は、ここでしか出てこないけど、小野好古です。

結局、これも鎮圧されたけれども、でもこれは朝廷が鎮圧したのではなく、武士が鎮圧したということです。これがどんな意味をもつか。まず朝廷に対して歯向かう人間が出てきたということ。それに対して朝廷はなすすべがなかった。鎮圧したのは、結局武士であったということです。ということは武士の力を借りなければ、貴族は武士の反乱を平定できない、ということも明らかになった。武士が自分たちだけでやろうと思えばやれる。それがだんだん分かってくる。貴族は、何もできないじゃないか、えらいだけじゃないか、ということになってくる。


【乾元大宝】 それからもう一つ、この時代に朝廷としての最後のお金を発行します。958年の乾元大宝(けんげんたいほう)の発行です。日本は708年の和同開珎以降、お金を使おう、と言って、12種類のお金を発行した。でもこれが最後です。


お金は誰が発行すべきか、いまは政府が発行しているんですか。政治経済でやりましたけど、銀行ですよね。これは歴史的に見ると、国が発行すべきか、銀行が発行すべきかというのは、よくわからないのです。歴史的には2パターンある。どっちがいいのかは、経済上の大問題です。
今、アメリカをはじめ主要国は、お金は中央銀行が発行するものだと言っているけど、歴史的にはそうじゃない。銀行が発行すれば、その利息はまるまる銀行の懐に入るからです。その利益によって、銀行の株主には配当金が入るからです。中央銀行は、政府組織ではないですよね。民間資本による民間銀行ですよね。

ではなぜ銀行が生まれたのか。これは世界史で見るしかない。でもこれはなぜか高校レベルでは、ほとんど触れられていません。触れられていないから重要ではないかというと、これがそうでもないのです。これを少しのぞくと、おどろおどろしい世界が浮かび上がってきます。教育的ではないから触れなかったのか、触れられたくなから触れなかったのか、そのどちらかでしょう。

ここで言いたいのは、この本朝十二銭は、結局流通しなかった、ということです。300年近くつくったけれども、結局流通しなかった。
では日本のお金は、なかったのかというと、非常に変則的に出てくる。先のことを言うと、中国銭です。日本には政府がお金をつくる力がなくなって、100年後、平氏政権の平清盛が中国からお金を持ってこようとする。これをやったら、今まで流通しなかったお金が日本全国に広まっていくんです。不思議ですね。日本の貨幣経済はここからです。その間に日本の庶民にどういう変化が起こっていたのでしょうか。
普通は日本のお金が流通する範囲は、日本の領土なんです。それと同じように、中国のお金が流通する範囲は、普通は中国の領土なんです。だから世界史で言った冊封体制で、このかなりあとの室町幕府は中国の下に入るという貿易を続けていったりもする。しかし他の国の通貨を使う国というのは、普通は独立国とは見なされないんですよ。

このあと日本独自の通貨を発行するのは豊臣秀吉の天正大判を待たなければなりません。このことが日本の独立意識と結びついているのは、彼が中国の明の征服を企てて、朝鮮出兵をしたことにも現れています。



【摂関政治】
ではまた京都に戻ります。京都ではどういう政治が行われたか。一番えらい人は、だんだんと偉すぎるようになって実権をもたなくなるんです。イメージで言うと、良きにはからえ、となる。江戸時代の将軍だって、凡庸な将軍は、良きにはからえ、としか言わない。そのぶん家来が優秀なんです。しっかりしてくれる。良きにはからえ、といわれると、本当に良きにはからうんです。
適当にしろ、というと、悪い意味での適当だけれども、適当の本来の意味は、適切にという意味で、家来たちが、仕事をきちっとやっていくわけです。
だから天皇は祭り上げていればいい。幼いときには補佐役がつく。この補佐役を摂政という。良きにはからえ、ということで。大人になったあと、まだ実権を渡したくないからまた補佐役がつく。これを関白と言います。

では天皇は何をするかというと、ちゃんと跡継ぎとしての子孫を残してくれればいい。あとは、良きにはからえ、と言ってくれればいいんです。そしてちゃんと、良きにはからってくれるんです。藤原氏が。この藤原氏がナンバーワン貴族です。
この摂政・関白は、もともと臨時の職だったけれども、藤原氏の力の基盤となって、常に置かれるようになる。ナンバーワン貴族は藤原氏です。しかし、権力のあるところ、必ず争いが起こる。


【藤原北家】 これが藤原氏の内部抗争です。藤原氏は遡れば大化の改新の中臣鎌足がご先祖です。藤原北家というのは奈良時代の藤原不比等の4人の息子がそれぞれ分家したものの一つで、その中のナンバーワンになったのが藤原の北家です。ではどうやって政権争いに決着がつくかというと、前に言ったね。歴史はいつつくられるか。歴史の裏に女ありです。
天皇の嫁さんに、どっちの娘が入るか。当時、天皇は、一夫多妻制です。これはのちの幕府の将軍さんでもそうなんです。なぜかというと、一番大事なことは、世継ぎを残すことだから、天皇はべつに政治をしなくても、他に有能な家来がいっぱいいるわけです。嫁さんが一人だと、子供が生まれなかったり、女ばかりが生まれたりするリスクが増える。とにかく男を生みたいのです。だから子供をいっぱいつくるためには側室が必要になります。ナンバーワンは皇后です。二番手が中宮です。

皇后には、定子(ていし)です。この人は、藤原北家の藤原伊周(これちか)の妹です。その他にも後宮には、側室の部屋がいっぱいある。夜になると、天皇は今日はどの部屋に行こうかな、と思う。こういったときに、やっぱり行きやすい部屋の雰囲気というのがある。だから部屋の雰囲気は侍女次第です。侍女というのは、はべる女性、世話役です。その付き人次第です。この定子に仕えた侍女が、清少納言です。この人が何を書いたかは分かりますね。

では二番目の嫁さんである中宮には誰がなっているかというと、彰子(しょうし)という人です。この人は、同じ藤原北家の藤原道長の娘です。そしてその彰子には紫式部が仕える。そこに行くと、おもしろいんです。いろいろな話をしてくれて。紫式部は何を書いた人ですか。源氏物語ですね。この源氏物語を、鎌倉将軍になる清和源氏の話だと勘違いして、源平合戦のような荒々しい武士の世界を想像する人がいますが、これは雅な貴族の世界のお話です。都の貴族の中にも、源氏姓をもらった高貴な天皇の子孫がいるわけです。その高貴な光源氏のお話です。

紫式部も、清少納言も、本名じゃないです。本名はわかりません。今も女性の年を聞いたらいけないのと同じで、名前を聞いたらいけないのです。
名前どころか、女性は顔も見せません。現在でもイスラーム教の女性は顔を見せませんね。ベールで顔を覆っています。昔は女性は顔を見せないのが普通です。高貴な女性ほどそうです。顔も隠さず表を歩いているのは、身分の低い女性だったのです。以前フランスでイスラーム教の女生徒に教室でのベールを取らせようとして、社会問題になったことがありました。キリスト教社会は、よくイスラーム教社会を、女性を蔑視していると言いますが、彼女たちにとっては、私はそんな、はしたない女じゃないわ、という気持ちなのです。
当時の日本でも、顔さえ見せないのだから、名前を教えないのは当然です。だから有名な女性の中に、名前が分からない人はいっぱいいます。旦那の名前しか分からないとか、息子の名前しか分からないとか。作者の名は、〇〇の妻とか、△△の母とか。蜻蛉日記の作者は、藤原道綱の母と書いて正解になります。それしか分からないからです。

こういう才女がいて、今日は天皇はどっちに来るかな。呼び込み合戦です。部屋の雰囲気を明るく、いろいろな話題で盛り上げる。天皇は良きにはからえしか言わなくても、バカじゃないですよ。別にバカとはいっていません。頭のいい天皇は、良きにはからえといいながら、その裏でいろいろな工作をする。だからいろんな情報がはいる部屋に行きたい。そういう部屋には非常に頭の切れる侍女たちがいるわけです。


【妻問婚】 この時代の結婚というのは、今と違っています。今は嫁取り婚といって、女が嫁になって男の家にはいる。しかしこの時代は、男が女の家に通うんです。今から見ると逆で、ちょっと不謹慎のように見えますけど、これが普通なんです。通い婚です。正式には妻問婚といいます。結婚の形式がどうであれ、男女が結婚すれば、なぜか子供が生まれます。


そのあとが大事です。通い婚の場合は、その子供はどこで育つんですか。父方の家で育つか。母方の家で育つか。これは母方の家です。これは自然の成り行きでそうなります。父ちゃんは3日にいっぺんぐらいしか母ちゃんの家に通ってこない。子供はもちろん女が産む。そしたら自然に母方で育つんです。これが天皇の息子であった場合、母方で育ったこの赤ん坊が、次の天皇になる。いっしょに住んでいる母方の爺さんは、絶大な権力をこの天皇に対して持つ。この構造わかりますか。天皇の息子が母方で育って、それが20年後には次の天皇になったりする。赤ん坊の時から、爺ちゃん、爺ちゃんと慕って育つ。そういう爺ちゃんと孫との関係は、天皇になったからといって急に変わりはしないのです。この孫を使って爺ちゃんである藤原氏はものすごい権力をもつことができる。日本を動かすことができる。これを狙っている。

これが藤原道長です。子供を産むのはどっちか、こっちの道長のほうです。道長の娘の彰子が時の一条天皇の息子を産むのです。そしてその赤ん坊が、のちの後一条天皇になります。それで道長の栄花になる。


【藤原道長】 道長は995年に内覧という機密文書を事前に読むことができる地位を経て、摂政になる。成人したあとは太政大臣になる。太政大臣というのは、天皇のナンバーワンの家来です。
そうなると、ここに黙っていても贈り物が届くようになる。これをどうぞと。菓子折ぐらいでは見向きもされない。土地の寄進です。
オレが地方にもっているこの広大な土地、どうぞあなたの名義にしてください、と。こうやって都の有力者に土地が集まる。これを寄進地系荘園という。
天皇の生まれ育った家の爺さんが藤原氏だとすると、天皇も逆らえないようなこの藤原氏に、税金取りに来れる役人がいると思いますか。
役人というのは、なかなか上には逆らえないもので、取りに来た瞬間にどうなるか。左遷されてしまいます。いえいえ税金はけっこうです、となって、誰も税金のことを言わない。

そういうふうに天皇の母方の親戚、これは世界史でも出てきたけれども、これを外戚という。外戚とは、外の親戚です。内孫と外孫の使い方は、君たちわかりますか。男が家を継ぐとして、爺ちゃん、婆ちゃんといっしょに住んでいる息子の子は内孫といいます。外の孫というのは、娘は他家に嫁いでいっしょに住んでいないから、娘の子は外孫です。
ただこの時、今と違うのは、爺さんは娘の孫といっしょに住んでるというところが、今と逆です。息子の子とは住んでない。娘の子といっしょに住んでいる。通い婚だったらそうなる。その場合でも、天皇の母方の親戚を外戚といい、母方の祖父を外祖父といいます。

結婚の形というのも、歴史の中でけっこう変わります。どこで今のような嫁取婚になったかというと、武士の時代になってからです。いつなったかというと具体的なことは分からないけれど、鎌倉にすぐなるかというと、すぐにはならない。
のちのことですが、鎌倉幕府の初代将軍の源頼朝の嫁さんは誰ですか。源頼朝の嫁さんは。これは北条政子です。源なのに、なぜずっと北条政子なんですか。この時代はまだ夫婦別姓なのです。結婚しても、女性の姓は変わらない。室町時代はどうなのかというと、8代将軍の足利義政の嫁さんは日野富子です。足利将軍家の嫁になってもずっと日野富子なんです。まだ夫婦別姓です。いつからなのかというのは、よくわからない。ふだん、戦国時代ぐらいじゃないかな。それがはっきりするのは。

夫婦別姓の本場の中国では、男女が結婚しても、その子供から見ると、父親はA一族、母親の親戚はB一族といって融合しません。女はいつまでたっても生まれたB一族の姓をずっと守るんです。
だから結婚してもA一族の一員に入れない。だから自分の子(子はA一族です)を押しのけてでも国を乗っ取るような則天武后とか、自分の甥っ子を押しのけてでも近代化に反対した西太后とか、すごい女が出てくるんです。この背景には夫婦別姓があります。女も政治にかかわるときには腹をくくってやるからね。

藤原道長は、後一条、後朱雀、後冷泉天皇の三人の天皇の外祖父になる。ということは、道長の娘が次々に天皇の子供を産んで、その子供が天皇になったということです。


【藤原頼通】 その道長の子供の代になると藤原頼通です。1017年に摂政になります。以後、約50年間、天皇の外戚として、権力を握ります。
この時代から、大台にのって1000年代になります。天皇のお母方の親戚ではあったんだけれども、この人は、娘が男を産むか、女を産むかというのは、努力のしようがないから、偶然にまかせるしかない。欠点はそこです。頑張っても、娘が男の子を産まなかったんです。産めと言っても、産まれないものは産まれないのです。それで摂関政治は終わりです。自分は天皇の外祖父となれなかった。それは娘が男子を産まなかったから。それで摂関政治は衰退します。

しかし、今に残る文化財、平等院鳳凰堂を残す。これが摂関政治の全盛期です。しかし藤原氏が全盛期が終わったからといって、藤原氏が滅亡したりなんかは、しません。そんなことぜんぜん言ってません。藤原氏はこのあともずっと残っていくんです。明治になって、この家から総理大臣になる人間だって出てくる。これは西園寺とか近衛とか。西園寺も近衛も、何百年の間には名字が変わって、藤原氏の分家として西園寺や近衛を名のったりする。日本近代まで影響します。
とにかくこうやって摂関政治が衰退します。ピークを過ぎた。

しかし地方では武士が、まだまだこれからこれからピークを迎えようとしている。ここらへんの時代の対比を、伏線としてください。伏線が待ちきれないで、推理小説を10ページ読んで、一気に300ページぐらい飛ばして読む人がいるけど、そんな読み方でしたら、推理小説の面白さがなくなるよね。
終わります。

新「授業でいえない日本史」 7話 古代 国風文化

2020-10-29 06:49:40 | 新日本史1 古代2
【国風文化】
この時代の文化を国風文化といいます。国風の意味は日本風という意味です。ということは、今までは日本の文化は日本風じゃなかったんですね。なに風だったんですか。中国風だったんですよ。これが日本になってくる。そのきっかけは、894年の遣唐使の廃止です。国風文化は、遣唐使の廃止以降です。


【浄土教】 まず仏教で、これは宗派じゃないけれども、教えの一つが出てくる。キリスト教の聖書は一冊なんです。仏教の本は何万冊とある。だから、その中で嫌いな本、好きな本、人によって違うんですよ。どれが好きかによって、宗派が出てくる。ここで流行るのは浄土教という。
浄土というのはあの世です。あの世はいいぞ、という教えが流行する。いや世の中が進歩してもっとこの世がよくなる、という考えもある。でも世の中が進歩するという考えだけが、歴史のなかに出てくるんじゃないです。世の中が発展するんだったら、世の中は悪くなるという考えもちゃんと出てきます。最近100~200年は、進歩していくというのが、世界の流行りですけどね。
世の中、だんだん悪くなるというのが、歴史のなかにはある。世の中は進歩すると信じた時代ばかりじゃない、と。世は末法です。世も末じゃというのはここから来ます。
世の中だんだん悪くなっていく。この世に生きているよりも、悪くなっているような世の中なら生きているよりも、浄土に行ってあちらに行って成仏したほうがいい、そう考える人が増えてきます。これを末法思想といいます。人もたくさん死んでいます。
餓鬼という言葉は、飢えた子供のことです。いまの日本では見ることはないけど、人間が死ぬときは、子供などはガリガリにやせ細って、腹だけがプーッとふくれあがる。そういう子供がいっぱいいる都の光景が広がっている。そういう庶民がいて、たしかに末法だな、そう思う人々が、都の中にもだんだん増えてくるわけです。


【かな文字】 文化の非常に重要なツールは文字です。それまで日本文字はなかった。といって日本語がなかったと、いつの間にか勘違いする人がいますが、日本語がなかったのと、日本文字がなかったのはぜんぜん違う。3~4歳のとき、日本文字を君たちはもたなくても、君たちは日本語をしゃべっていたでしょう。日本語はずっとあるんです。ただ日本文字がなかった。では今まで何で日本語を書いてきたか。中国語で書いてきた。文字は漢字、文法は漢文で、日本書紀なんかそうだった。それが、ひらがなが出てきて非常に書きやすくなった。誰が発明したかはよく分からないけど、使ったのは女性です。男はカッコつけて、あんな女文字なんか使えるか、オレは貴族なんだ、ちゃんと漢文で書くんだ、中国文字で書くんだ、と言う。でもそのうちに、便利さに負けて男も書き出すんですよ。

携帯電話が出はじめの頃も、そうだった。あんな邪魔になるもの持ち歩けるか、と思っていたけど、みんなが持ち始めると、その便利さに負けて、ほとんどの人が持つようになった。

ひらがなの出来かたで、一番分かりやすいのは、一寸法師の「寸」です。こう書くと「す」になる。えっ、一寸法師、どういう話か知らない。一寸法師が、お椀の船に箸の櫂で、京にはるばるのぼりゆく。小さいから、鬼に呑み込まれて、おばあさんがつくってくれた針の刀で、胃の中を刺す。鬼は降参して、綺麗なお姫様と結婚する。綺麗な貴族のお嫁さんもらったというお話です。だいたいそんな話です。
次が、太いの「太」、こう書くと「た」になるんです。




カタカナは、これはズルするんですよ。イタリアの「伊」、もうめんどくさくなって、右半分を書かなかった。左半分だけ書いて、それで「イ」になる。
我々の文字は、外国人から見ると、日本の文字と中国語の文字をよく一緒に使えるな、と思うらしい。もうちょっと知っている人になると、中国語の文字は便利で、「山」はこう書けば「山」に見えるんです。「馬」はこう書けば「馬」に見えるんです。これを表意文字という。意味を表す文字です。ひらがなは「あ」と書いても、「あ」に意味はない。音を表すだけです。文字の種類がぜんぜん違うんです。漢字は表意文字、ひらがなは表音文字です。ぜんぜん性格の違う二つの文字を、我々は当たり前のごとく、さあ作文だ、書けといわれて書いている。外国人から見ると、何これと思う。ものすごいことをやっている。さらにアルファベットを入れたり、カタカナを入れたり、数字があったりする。すごいの一言ですね。

日本語が難しいというのは、私はきっとそうだと思うよ。英語も難しいけど、英語習う以上に。たぶんヨーロッパ系の外国人が日本語を習うのは難しいと思う。すごい文字を我々はあやつっている。韓国もそうだった。だから韓国は表音文字であるハングルだけで書こうとしています。しかしこれはどうなるか。漢字が復活しつつあるという話も聞きます。


【和歌】 ひらがなが出てくると、とにかく書きやすいんです。どんどん文学が発展してくる。まず和歌です。和歌は何文字ですか。57577です。日本は長いものから、短くなればなるほど、いいんです。それがさらに575に行くまでは、まだ江戸時代の松尾芭蕉までかかる、というのは言いました。
古今和歌集です。905年です。これは中国語の漢文で書けといっていた天皇が、日本語で書け、書け、という。和歌は、本当は、若い男女間の恋愛遊びのツールだった。しかし天皇がはまってしまう。勅撰というのは、天皇が勅です。天皇が選んだ。だからお墨付きですね。こうなると、これに選ばれた歌を非難しようなら、飛ばされる。この構造わかるでしょう。天皇が選んで、それを非難しようものなら、どうかしたら反逆罪になる、文句言えなくなる。
選んだ天皇は誰か。天皇が選んだからお墨付きになるといいました。醍醐天皇です。
400年後の室町時代に、後醍醐天皇というのが出てくるけれども、醍醐天皇がいて、2番目の醍醐天皇は、醍醐天皇を理想として、後醍醐天皇と名のる。
この天皇がこれでいいと認めます。実際に選んだのは誰かというと、歌の名人として名高かった貴族の紀貫之です。本当は遊びの一種だったものを、天皇がこれがいいと定めたら、日本の文芸の中心に座るようなものになっていくわけです。


【国文学】 日記としては、この紀貫之が書いた日記、土佐日記という。この人の本職は県知事です。この時代の県知事を国司というんです。国司というのは、日本初の転勤族なんです。
平安京の都から、どこの県知事に行けと言われたかというと、土佐です。土佐はどこ。四国の高知です。その旅日記です。それが土佐日記です。
普通は貴族の男はプライドが高くて漢字だけで書くんだけれども、ひらがなで書いた。女になりすまして書くんです。ひらかせなが、便利だったんです。こうやって男が、ひらがなを使い始めます。

それから、この時代の物語が竹取物語です。といっても分からない人がいます。竹の中から、かわいいお姫様がお生まれになったというというお話で、かぐや姫の話です。見方によっては、結婚しない女の始まりです。一流の貴族から言いよられても、イヤだ、イヤだと、無理難題ふっかけて、結婚を断り、ついには月に上っていくというお話です。
この裏にあるのは、一流の貴族でも関係なくソデにして、あんたあっちにいけ、という。一流の貴族とは誰か。藤原氏です。そういう反藤原の感情をこういう形で表現したとも言われます。底流に流れてるのは、藤原嫌いです。今のように自由にものを言ったら、首が飛ぶからこういう形で表現したんですね。だからこの物語は作者不詳です。

日本人はこうやって、権力者を批判するスベを知っていたんですね。それを直接的に表現するのではなく、うまく人の心に届くような仕方で物語に込めていったわけです。一流の文学というのは、長い時間をかけて、日本人の心を形作っていくわけです。

今はまた別の意味でモノが言えなくなっている時代です。忖度(そんたく)で。ふつう財務省の公文書を改ざんしたら、犯罪でしょう。どうですか、あれ。モリカケ問題ですよ。証拠隠滅で文書は燃やしました。犯罪じゃないか。検察といえば、罪を裁判に持っていくのが仕事ですが。不起訴です。起訴は分かりますか。裁判の始まりは、起訴なんです。訴えを起こすことが、起訴です。起訴して裁判が始まる。しかし不起訴なんです。訴えを起こさなければ裁判もしないから、無罪確定です。うわー、すごい世のなかになったと思った。くるぞー、これは。すごい世の中になりつつあると思います。

今の日本にも、この竹取物語のような文学が生まれる下地が残っているのでしょうか。

それから、前に言ったけど、天皇の中宮は彰子という人でした。藤原道長の娘だったんですよ。その付き人は誰だったか。紫式部ですね。紫式部と言えば何を書いたか。源氏物語です。源氏というと、源頼朝とか源義経の源平合戦を想定したらダメです。これは、みやびの貴族のお話だから、源氏というのは天皇の子孫なんです。この時代にこれだけ長い、現代文に訳せば、上中下巻で1500ページぐらいの本になる。この時代にこんな文学を書いたのは、日本ぐらいのものです。主人公の光源氏というのは、彰子の父親の藤原道長がモデルだとも言われます。

それから、そのライバルの第一夫人、皇后に仕えていたのが清少納言です。こっちは軽妙に何を書いたか。随筆の枕草子です。国語の時間じゃないから、その評価はともかく、この裏に激しい女の戦いがあったんだ、ということを言いました。なぜ女の戦いがあるのか。なんでこの女の戦いが日本を変えていくのか。もし天皇の后である皇后や中宮が男の子を産めば、その男の子は次の天皇になる。どっちが次の天皇を産むか。そこに熾烈な戦いがあるわけです。下手ににやにやするような恋愛小説じゃない。厳しい女の戦いです。男の裏に女あり。歴史はいつ作られるか。歴史は夜作られるんですよ。男と女しかいないのだから。

表面上に出てくるのは男ばかりですが、それを裏からきちっと操っている女というのがちゃんといるんです。男にとって、嫁さんほど恐いものはないです。これは今も昔も変わらないと思う。年をとるに従って、女はだんだん恐くなってくる。若い時には、男が威張っているように見えても、年をとるとだんだん差がちじまって、仕舞いには追い抜かれてしまう。そして尻に敷かれるようになる。女は強いですよ。
今の若者はどっちかというと草食系で、はじめから女が強いと、男は立つ瀬がなくなります。生理学的には、男よりも女が強い。子供を産まないといけないから、まず痛みに強い。忍耐強いんです。ねばり強いんですよ。男は、もともと勝てないのに、若い時から草食男子だったら、絶対に女に勝てない。もともと勝てないんだから。誤解したらダメですよ。男が強いのは、これは女に勝たせてもらっているんです。

女性がいないから言うけど、いい女の代名詞として、男を立てる、というでしょ。男を立てるというのは何か。何を立てるの。あそこも立てきれない女は、これ以上言ったらダメだな。言葉の裏にある意味はそこなんです。そこまで解説しませんが。威圧して閻魔大王のような女の前では立たないでしょう。たで食う虫も好き好きで、それが好きという人は別に否定しませんよ。それはそれでいいことです。でもふつうは男は萎縮してしまうんです。


【御霊会】 それからこの時代のお祭りとして、御霊会(ごりょうえ)というのがある。古墳時代の昔から春祭りと秋祭りはあったんです。豊作をお願いします。豊作をありがとうございました、と。
しかしそれとは別系統です。これはどうも神の怒りの恐さではなく、人間の霊魂の恐さから来ているようです。神様は怒ったり誉めたりして、罰や恵みを与えるのですが、人間の霊魂は違うんです。呪うんです。呪い殺すんです。このような怨霊思想が盛んになる。これはすでに奈良時代からありました。それ以前からあったのかもしれません。都市に起源があるのか、農耕社会に起源があるのかよく分かりませんが、田舎よりも都市によりはっきりと現れたようです。でもそうとばかりも言い切れないところもあります。不幸に死んだ人間の霊魂は祟るのですよ。本当ですかと、聞かないでください。そう信じられてきたという話です。

祟るという感覚、これは今かなり変化していますね。不幸に死んだ人の霊魂は祟る。それを鎮めることは、子孫の役目でした。
今よく町中で交通事故にあった人とか、不幸な事故に巻き込まれて死んだ人とかの霊を弔うために、献花台が儲けられて、多くの人がそこに花を手向けたりします。それはそれでいいことです。そのことを、とやかく言うつもりはありません。
しかし90才近くなる私のお袋は違うのですよ。お袋は、そういうことを非常に恐がるのです。なぜなら、霊に取り憑かれるから、というのです。私のお袋は、特別信心深くもないし、変な宗教にはまっているわけでもないけど、見ず知らずの人の献花台に花を手向けることを非常に恐れます。それは不幸に死んだ人の霊魂を鎮めることができるのは、血のつながりのある人だけだと思っているからです。血のつながりがあるから、死んだ人の霊魂はそう簡単には祟らないのです。これは中国にも、日本にも古くからある信仰の祖型ですね。
だからそこに見ず知らずの人が花を手向けたりすると、返って死んだ人の霊魂は見ず知らずの人に取り憑いて祟るのだと言います。そのことを非常に恐がるのです。
昔の人が、いかに死者の霊を恐がっていたかを垣間見る思いがします。簡単に他人が手出しできるようなものではなかったのです。だからこそ、血のつながりのある人は、その霊を鎮めることのできる者として、必死に慰霊を行ってきたのです。そうでないと、今度は自分の一族に災いが起こったりするからです。だから私のお袋は祖先の供養を欠かすことがありません。

偉い人間ほど祟る。不幸に死ねば死ぬほど祟る。九州ではその代表がどこか。福岡の太宰府天満宮です。菅原道真が勉強の神様なんてとんでもないです。あそこはもともと怨霊です。天神様です。本当は雷の神様です。怒らせると、とんでもない祟りがある。
天神という地名は、福岡だけではなく、あっちこっちにあります。この近くにもあります。もともとは、菅原道真を祭るところです。
こういう怨霊をどうにか鎮めないといけない。そういう日本人の御魂というのは、こそこそ鎮めるよりも、大規模にやればやるほど鎮まってくれる。そう信じられてきたんです。それはたぶん、個人的に小さくやると祟られるから、「みんなでやれば恐くない」という発想なのでしょう。そういえばむかし、「赤信号、みんなで渡れば、恐くない」というのがありました。言い得て妙ですね。うまく日本人の心理を捉えています。昔のビートたけしは、何かもっていましたね。

こうやって御霊会というお祭りがどんどん盛んになる。
菅原道真は、異郷の地の太宰府で不幸に死んだ人ですけど、都人は祟るんだったら、オレたちだ、俺たちに祟るはずだ、もともと京都の人間だから、京都から追放されて死んだんだから、と思う。それで彼を祀る神社を京都に建てる。これが京都の北野天神です。
天神という名はここから来ます。もともとは雷の神様です。北野天神は今でもあります。京都の壮大な神社です。

そしてもう一つ、京都の町全体の、今でも一大イベントになっているのが御霊会です。京都には菅原道真以外にも祟る神様がいっぱいいて、それらをまとめて怨霊鎮めの祭りをするわけです。日本の怨霊は聞き分けがよくて、本気で祭ってもらえれば、ちゃんと鎮まってくれます。鎮まった怨霊のことを御霊といいます。
祭りには、コマーシャルベースの商店街のお祭りもあるけれども、本当は祭りの裏には必ず神社があるんです。もともとはすべて神社の祭りなんです。神社で神様を鎮めるんですよ。その儀式がお祭りです。そのためにいろいろなイベントを開催します。露店であめ玉を買っても、その露店は神社から境内や参道を借りているんです。
この御霊会は京都の八坂神社の祭りです。今でも京都最大の夏祭りは何ですか。祇園祭です。山鉾を曳いて京都の町を練り歩くお祭りです。山を曳くお祭りの形はこれが最初で、この形が各地に伝わります。これは車に曳かせる山です。この系統に博多の夏祭りである博多祇園山笠もある。あれは肩で担ぎます。京都の祇園祭は山を曳くいう形です。佐賀の唐津くんちも曳山ですね。それに対して、他の地方では風流を踊る。おおまかに、山と踊りの二系統があります。
だから、この八坂神社の別名は祭りの名にちなんで祇園社という。京都では祇園さんで通っているらしい。その横に、じつは舞妓さんとかがいる京都の花街がある。男たちいっぱい寄ってくるような夜の街があったりするわけです。これが京都の祇園です。

この夏祭りが今は何になるかというと、盆踊りです。盆踊りというのは、御魂鎮めの祭りの流れです。
精霊流しとか、お盆にするでしょう。あれは祖先の霊を鎮める。だから夏祭りだけは、春祭り、秋祭りと雰囲気がちょっと違う。幽霊も夏に多くでてきますね。お化けに足があるのに、なぜ幽霊に足がないか、これも不思議ですね。どうもお化けと幽霊は違う生き物というか、出所が違うようです。
盆踊りというのは、今はお婆さんたちの踊りみたいになってるけれども、もともとは若いお姉さんたちの踊りです。若いお姉さんたちがキレイな浴衣を着て、うちわ片手に腰を振り振り踊っていたのです。そうすると村の若い男たちも寄っていきますね。そこに恋が生まれたりする。うちの親父はそうやって生まれた新しいカップルの仲人をしていたりしました。
それがだんだんと地方に若者がいなくなって、お婆さんたちが踊るようになったのです。昔の盆踊りは艶っぽいものでした。


【浄土教】 幽霊とか御魂とか、発想的には、この時代にはわれわれ現代人よりも、この世よりも、あの世というのが、ものすごく大きいんです。あの世のことを何といったか。浄土といった。ここには行ける、行けないがある。ただでは行けないんです。浄土に行く教えがある。浄土教というのが流行る。この流行の背後にあるのは、仏教独特の考え方です。前にも言ったけど、産業革命以降のヨーロッパ思想は進歩の思想です。世の中だんだんと進歩していくという。100年前よりも今が進歩している。100年後は今よりももっと進歩してる、と何となく我々は信じてないですかね。しかし歴史的にはそう考えた時代ばかりではないんです。逆の発想もある。世の中だんだん悪くなるという考え方もある。これが末法思想です。これは仏教の中にずっと流れている思想です。これにみんな、そうだそうだ、と納得するんですね。

仏の教えではいつから末法の時代になるか。1052年、ちょうどこの時代です。摂関政治の時代です。この時代以降に生きている人間は、この世では救われない。現実に貧乏で飢えている人たちも、いっぱいいる。芥川竜之介が書いた羅生門の話とか、死んだ女性の髪の毛を抜いて、それをカツラにして売ろうとする人がでてくる。カツラは今も昔も高かった。女の命は髪で、長い髪をバサッと切って売るとお金になる。長い髪のまま死んだ婆さんの髪まで切って、金にするような人間の話というのが、芥川が書いた小説です。羅生門の話です。まんざら嘘ではない。京都の街はだんだん廃れていって、そこに疫病も流行る。下水も何もない時代には伝染病も流行るし、盗賊もいる。ということは確かに世の中は悪くなっている。

そこで仏にすがる。これが阿弥陀仏信仰です。阿弥陀仏というのは、あの世を支配する仏さんです。仏様は一つではない。一神教と違っていっぱいあるんです。
奈良時代には、盧舎那仏、あとまた菩薩様とか、観音様とか、ここでいう阿弥陀様とか。阿弥陀様というのは、阿弥陀クジしか知らないかもしれないけれども、阿弥陀クジのルーツは、仏様が座ると、光を放つんです。パーッと。こういうふうに、背中の後ろから光を。それでカネの光の線をつける。それだけでは誰かが曲げたりして壊れるから、動かないように、カネの線と線を止めていくんです。それで何になるか。阿弥陀クジの模様になる。阿弥陀さんとは、背中の後ろの光背の形から来ている。阿弥陀様の背中の後ろにあるの、あれ何やろか。光です。阿弥陀クジとは何かと聞かれれば、それ阿弥陀様の後ろの光から出てくるんだということです。そういう燦然と輝く阿弥陀様がいるところが浄土です。

仏教は、決して爺さん、婆さんの宗教ではないですよ。貴族だけの宗教です。金持ちの宗教です。それが今まで貴族独占だったのが、あの世に行けるんだったら、オレも行けるかもと、庶民化していく。庶民に仏教が広まっていく、ということです。
こういう仏教が下へ下へと浸透していくベクトルがこの時代からじわじわ出てきて、このあと約500年間で、江戸時代にほとんどの日本人が仏教徒になっていきます。仏教徒になるということは、オシャレで進んだ感覚なんです。だから、あんた仏教徒なの、すごいね、という感覚です。

こういうふうに庶民化していくのは、やっぱり都の偉いお坊さんが、部屋の中で勉強ばかりしていてもダメだな、というふうに考えたからです。オレはお寺での出世とか関係ない。教えがあったら、それを人に説いてこそ坊さんの価値があるんだ、という考えをするお坊さんが出てくるんです。
この人が、10世紀の空也です。こういう人の教えを、初めて聞いた都の人が、うわー、すごい教えだな、初めて聞いた、いいじゃないか、思う。別名、市聖という。彼が民間布教を行なって、京都にお寺を建てた。これを六波羅蜜寺といいます。この寺は今でもあります。しかしこれは、上からは、何でおまえはそんなことしているのかと、とがめられることだった。
それまで、お坊さんが民間布教することは、禁止されていた。しかし、教えることが正しいんだ、こういうお坊さんが日本に現れてくるわけです。

すると今度は、口で言っても消えてしまうから、文字で残そうとする。ポイントは、あの世への行き方です。どうやったらあの世へ行けるか、これを書いて教えればいいじゃないかと。これが源信です。別名、恵心僧都という。都の人が親しみを込めて住んだ庵にちなんで、そう呼んだ。彼が書いたのが、「往生要集」です。往生というのは聞いたことないかな。うちの婆さんが100歳越えて死ぬときは大往生だった、という往生です。あの世へ行くことです。死んであの世に行くことが往生です。要集とは要点集です。つまり、あの世への行き方のポイント集です。もとは天台宗のお坊さんです。何を言いたいかというと、もとはエリート坊さんだったということです。エリート坊さんが、こういったことを、庶民布教のために書いていく。彼の関心は、自分が上にのぼって行くことではなくて、下にある。エリートが上ばかりを見ていくときには、国というのは危ないような気がします。エリートのなかにもちゃんと下を見ていく者がいるときに、国はだいたいうまく回って行きそうな気がします。彼らがどっちを見ているか、上だけを見ているのか、ちゃんと下まで見ているのか、そこらへんがポイントになるように思います。


【神仏習合】 それから、宗教界でおこったことは、神仏習合です。これは前に言いましたけれども、仏教は日本オリジナルの宗教じゃないですよね。どこの宗教ですか。インドですよね。仏教は外来宗教です。だから、外国の神様ばかり拝んでいたら、日本古来の神様が腹を立てて、それこそバチがあたるぞ、という考え方が一方にある。

この問題をどう解決するか。日本の場合には、神様と仏様はいっしょなんだから、いっしょに拝んでもいいじゃないか、とする。だから我々は今でも、ほとんどいっしょに拝んでいます。前にもも言ったけど、正月になると三社参りに行くでしょ。お盆になるとお墓参りに行くでしょ。行っているところが、ぜんぜん違うよね。これ分かるね。神社とお寺さんは、ぜんぜん違うんです。それを一年のうちに、何も意識せずに、我々は使い分けている。これは、神仏習合の結果です。
宗教というのは、信じる者の勝手ではなくて、なぜこれをいっしょに拝んでいいかということの理屈づけて成功しないと、うまくいかないのです。宗教は、ものすごく論理が必要なんです。日本はそれをクリアーするんです。それが本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)という考え方です。平たく言うと仮面ライダーの変身と同じだという話を前にしました。
モロボシダンが変身してウルトラマンになるのもそれと同じです。モロボシダンとウルトラマンは、君たちは知らないかもしれないけど、ウルトラマンとモロボシダンは同一人物なんです。そしてモロボシダンが変身してウルトラマンになるんです。仮面ライダーのもともとの名前は知らないけれども。
そういうふうに、仏が本物なんだけれども、この仏は力があるから、何にでも変身することができるんですよ。それが変身した結果が、日本の神様なんだ、ということです。仏が本物で、それが変身して日本の神様になった。もともといっしょだ。いっしょだったら拝んでいいんだ。そうだったのか。それなら安心して拝みましょう、となる。これでお互い喧嘩しないで、二つとも拝みやすくなる。それが神仏習合が起こる。


【シンクレティズム】 むかし私はこの神仏習合を、日本特有のことだと思っていました。それはキリスト教徒のヨーロッパ人が、日本人が神様と仏様を同時に拝むのを見て、一体日本人は何教徒なのかと不思議がっているという話を聞いたからです。キリスト教徒だったら、同時にイスラーム教の神様を拝んだり絶対しないと言うんです。そこには「だから日本人はダメなんだ」というある種の侮蔑が含まれているように感じました。「そうか、そういうところが日本人はダメなんだな」と思っていました。
でもよく調べてみると、このような神様と神様との融合は、世界史上多くの地域で起こっていたのです。そのなかでただ一つの例外が一神教なのです。キリスト教は一神教です。仏教と神道は多神教です。一神教の神様は妥協しません。一神教は、一つの神様だけが正しいとする宗教ですから、自分以外の神様は絶対に正しくないのです。しかしそれでは融合することはできません。その結果、悲惨な宗教戦争さえ起こります。でもそれは世界史の中でも例外的なことです。
宗教上、神と神とが融合することには、シンクレティズムという名前がつけられるほど、一般的な現象なのです。シンクロとは融合することです。この融合どあいを水中で競うスポーツが、シンクロナイズドスイミングです。そのシンクロです。
これはどこにでも起こる宗教的な現象だったのです。起こるというより、多神教世界ではそういう努力をしていくのです。

空海はこの世で救われるとしましたが、浄土教はあの世で救われるとした。そのためには霊魂が必要なんです。浄土教のすごいところは、死んで無になるはずの仏教を、死んで無になってたまるか、としたことなんです。死んでも霊魂が残るから救われるんです。無にならないからみんな救われるんです。これは日本古来の神道の考え方と同じです。
日本人は、「色即是空、空即是色」といいながら、誰も「空」や「無」など信じていない。それが日本仏教の掛け値なしにすごいところです。こうやって神道と仏教がシンクロしていきます。

「一切衆生、悉有仏性」(いっさいしゅじょう、しつうぶっしょう・・・・・・すべての人間には仏性が備わっている)とはそういうことです。仏になれる仏性が、「有る」わけです。死んだら「無」になるはずの人間に、仏性が「有る」わけです。


【阿弥陀堂】 浄土教が流行ると、この時代に流行るのは、あの世の美術です。浄土教美術といいます。まず、あの世の仏様は何だったか。阿弥陀様ですね。

この阿弥陀様を安置する建物、これが阿弥陀堂です。そのお堂で、なまんだ、なまんだ、と百万遍唱えたら、ちゃんと浄土に行けるとか、それが修行だと思って唱えるわけです。
貴族の頂点に立つ藤原道長も晩年は、あの世に行きたくて、一生懸命です。そこで作ったのが、お金持ちは自分でお寺をつくれるんです。これを法成寺という。残念ながら火事で燃えてしまって今は残ってません。しかし息子の藤原頼通も同じような寺院をまたつくる。これが平等院鳳凰堂です。京都のはずれの宇治に今もあります。君たちはこの絵をポケットの中にもっているはずです。10円玉ですね。


【寄木造】 そういうふうに阿弥陀様が流行ると、その彫刻技術も進んでくる。以前は、太い丸太を選んできて、そのなかから一体、丸ごとくり抜いていました。これでは失敗は許されない。しかしここではパーツに分解します。プラモデルのように、頭だけ、足だけ、右足だけ、指だけとか。それをまとめる棟梁がいて、おまえは耳だけつくれとか、左足だけつくれとか、接合部分はこうしろとか、指図します。そして最後に合体させる。これが棟梁です。

そういえば、清和源氏とか桓武平氏のような一族も、武家の棟梁といわれました。「棟梁」であって、「頭領」ではないのです。これはもともと大工さんとか職人たちの用語ではないのでしょうか。棟は家、梁はその柱です。武士団を束ねるのは、家を造るのと同じようなものだったのかもしれません。
これは建築をつくるのと同じ発想です。これを寄木造りという。それまで一木作りだったのが、寄木造りになって、この時代の名人も現れる。彼を定朝という。さっきの宇治の平等院鳳凰堂のご本尊である阿弥陀如来像は、この人が寄木造で作ったものです。
この寄木造りのピークは、次の鎌倉時代です。東大寺南大門に、ドカンと私の何倍もの仏様が立っている。右と左に。何ですか。金剛力士像という。あんな大きなものは1本の木で造れないです。こうやって寄木造が発展していく。


【来迎図】 それから、あの世信仰のなかで来迎図が描かれます。仏様が自分の家来を引き連れて、死ぬ間際の人をお迎えに来ている図です。あの世に行くことを、今でも「お迎え」が近いとか言うでしょう。お迎えのイメージは、この絵から来るんです。それが来迎図です。
私の母はそろそろ90才で、特別信心深くはないけれども、私の祖父つまり母の父が亡くなる時には、右手をちょっと持ち上げて亡くなった、といいます。それがうちの母親にとっては、うちの爺さんがあの世に行けた証拠なんです。なぜ右手を上げたのか。合図したというんです。そうして亡くなったから、間違いなく、私の祖父はお迎えが来て、あの世に行っていると、今でも言います。迎えに来た仏さんに合図したからという。そういう観念は今も多くの日本人に非常に強い。私にもあります。
その傑作が、聖衆来迎図です。これは高野山です。和歌山県です。

最後に建築です。貴族が住んでいるような建物、これを寝殿造りといいます。瓦葺きではありません。瓦は中国風です。今はそれを日本人は取り入れていますが、この時は屋根は檜の皮で葺く。檜皮葺、ひわだぶき、です。檜の皮で屋根を葺く。
それから、もう一つ、があると勘違いしていませんか。畳はまだありません。まだ板敷きです。畳のない板敷き部屋に貴族は住んでいます。
これで終わります。

新「授業でいえない日本史」 8話 古代 寄進地系荘園~院政期の文化

2020-10-29 06:48:28 | 新日本史1 古代2
【寄進地系荘園の成立】
次はガラッと変わって、土地です。
都でナンバーワン貴族の藤原道長は、黙って座っているだけで土地が集まってくるという話をしたと思います。それは道長の土地になれば、恐くて誰も税金とろうとしないからです。
こうやって京都の一流貴族のもとには多くの土地が、全国から集まる。地方の人だって、都の貴族のところに行って、どうぞあなたの土地にしてください。名前も藤原荘園とつけてください。名前を貸してもらえませんか、頼みに来る。こういうのを寄進地系荘園という。
それは、権力が強い貴族には、税金を払わなくていいという特権があったからで、これを不輸の特権という。税金として輸送しないという意味です。
このページはちょっと、面倒くさいんです。土地の権利関係は複雑だから。今のように、この土地は誰のものかと一人の人間を特定できない。この土地は誰のもの、といったら、3人も4人も手を上げる。土地の所有にいろいろパーツがあるんです。非常に複雑なかたちです。
この不輸の特権は免税特権です。税金を払わなくていい。その荘園を誰が免税したかによって、その荘園の種類の名前がつくんです。
一つは、官省符荘、かんしょうふしょう、という。結論は荘園ですが、私有地のことです。貴族の土地のことを荘園という。これを免税と許可したのが、太政官という今の内閣府のようなところがある。それともう一つは、民部省という役所が認めて、あんたのところからは、税金を取りませんという符つまり免許状や証明書を発行する。すると、わかったと、貴族の藤原氏は、それを自分の箪笥の奥に入れておく。
もめ事があると、免税になっているじゃないか、10年前にあんたのとこは免税すると言ったやないかといって証明書をみせる。これが免税特権です。こうやって免税になる。太政官、それから省というのは民部省という。租税免除です。

それからもう一つ、地方の者から税金とるのは地方の国府でした。そこが地方の村々に税金を取りに来る。小粒ながらも税金取り立て人です。そこの役人さんと友達になって、よろしく、と頼む。そしたら、よかよか、あんたのところからは取らない。免税特権の許可を出す。これを国免荘といいます。それと似たようなものです。ここらへんは、どうもそんな世界です。これが不輸です。

そうすると、10年ばかりたつと、オレは知らんという国司も出てくる。免除した覚えないぞ、と。
その前に、この時代は、今のような一面が水田の平野ではなくて、山に木があれば、平野にも木がある。誰が水田にしたかというのは、誰かがどこかで、木を切って、そこに水を引いて、そこで田植えをして、水田にした人間がいないといけない。あっちこっちで、こういう開墾がされている。彼らを開発領主という。土地は切り開いた者の土地です。こういうことが何百年も営々と営まれていきます。
開発領主、こちらは自分が切り開いた土地だから税金を取られたくない。国司は税金を取りたい。今の税務署と企業の関係と同じです。みんな税金、払いたくないわけです。しかし税金払わなくていいとか、一言もいってないよ。選挙にお金をかけたらダメですけど、政治にはお金がかかるんです。お金のかからない政治というのは、古今東西ありません。

こういう対立からも、寄進地系荘園というのが出てくる。地方では、土地の税金をめぐって、どういう対立があるかというと、地方でいえば、地方の国府、そこにいる今でいう県知事が国司ですね。それと地方の土地をもってる人たち、彼らを開発領主という。開発というのは、今のように水田だらけの平野がもともとの姿じゃないんだ、ということを思い出さないといけない。いつかどこかで誰かが、木を切り、根株を取り、水を引いて耕すという作業をしなければ水田にはならない。この時代から千年以上続いて、今の一面水田の平野になっている。
地方の開墾の中心が、開発領主です。この開発領主が土地を開墾して、水田化に取り組んでいる。水田化した土地は自分の土地になるわけです。
ここから何とか税金を取ろうとするのが国司です。税金は払わないといけないけれども、開発領主としてはなるべく払いたくない。そういう対立があるわけです。

この11世紀頃には、この表題である寄進地系荘園というのが全国的に成立してるんです。寄進地系荘園は11世紀頃です。1000年代の摂関政治の頃です。
まず開発領主がいる。この開発領主が国司から、自分の税金を払いたくないから、どうすれば払わなくていいかな、と考えると、国司は都ではコッパ役人で下っ端役人なんですよ。そしたら彼らよりも、都で偉いのは中央の貴族です。そのなかで一番有力なのは藤原氏です。その藤原氏に寄進して、税金よりも安い土地からの利益を分配したほうが、返って安くつくんじゃないかと思う。それで地方の開発領主たちは中央貴族に荘園を寄進する。寺院も貴族の一種です。お寺は貴族なみのハイソサエティーなんです。ランクがずっと上なんです。
こういうことをして荘園領主は、都の中央貴族の保護をえる。そして自分はというと、もともと自分の土地だけれども、これを藤原氏に寄進すると、これは藤原荘園の地方版になるんです。その荘園の管理を誰がするかというと、今まで通り自分がする。こういう形で寄進した荘園の現地管理人になっていくわけです。もともとの開発領主は、荘園を管理する人だから荘官という。
つまり荘園の名前と自分たちの呼び方が変わっただけで、開発領主自体の実態は何も変わらないわけです。現地は実質的に自分が支配している。見かけ上は以前と何も変わらない。そして都の荘園領主へは、年貢を挨拶程度におさめる。こっちのほうが国司に税金を納めるよりも、取り分が多いというわけです。



11世紀頃の日本の土地制度というのは、二つの制度が混在しています。一つは貴族が全国的にあちこちに荘園をもっている。貴族の私有地のことを荘園という。
しかし一方では、天皇のもとで、地方の国府に国司が派遣されて行政を行っているように、公の領地つまり国の領地もある。
これが並び立っている、2本立てなんです。原型は公地公民制の国衙領なんだけれども、いま勢いをつけてるのは寄進地系荘園なんです。

でも私の疑問を言うと、701年の大宝律令で定まった公地公民制が、どれほど本当だったのかが、はっきり分からないから、私有地つまり荘園というのは、公地公民制の初めから日本にいっぱいあったのではないかとも思えるわけです。逆に国家の土地である公地というのは日本の耕地のほんの一部を占めていただけかもしれません。
とすれば、公地と私有地とのせめぎ合いは、律令制の初めから続いていたのであって、743年の墾田永年私財法は、それを後付けで追認したものに過ぎなかったのではないでしょうか。
その後もずっと公地公民化を続けようとする天皇家と、自分たちの土地を私有地として守ろうとする豪族たちとの争いは、公地公民制の初めから続いていたものと考えることもできるわけです。その争いが、11世紀には、こういう形になって表れてきたのかもしれません。
公地公民制という古代の社会主義体制ともいうべき体制が、そんなに簡単に実現されたとは、私にはなかなか思えないのです。看板に偽りありというか、ホンネとタテマエが違うというか、古代の土地体制を説明することの難しさは、そんな表と裏の使い分けの難しさにも起因するような気がします。
日本がモデルとした中国の北魏の均田制は、国家の土地を農民に貸し与えるだけで、中国の土地全部が国家の土地だったわけではないのですから、中国ではもともと国家全体を管理するような公地公民ではなかったのです。20世紀の旧ソ連でも、国の産業全体を国家が管理することはできなかったのですから、古代中国で国の土地全部を国家が管理することは土台不可能なわけです。まして、そんなことが古代日本ができたとは思えません。
この公地公民制は、理念的なものにとどまったというのが実態に近いでしょう。ただこの理念が、天皇の公的な性格を考えるときに重要なことは事実ですが。
しかし、そのことはさておき、説明を続けなければなりません。

この時代の主人公は地方の開発領主だといいました。開発領主は国司に税金を取られたくないから、都の藤原氏に寄進をして、みずからは現地の荘官となる。
寄進を受けた都の貴族は領家という。仮にそれが大伴さんという中流の都の貴族であったとすると、大伴荘園になる。
しかし大伴さんはそれほど力が強くない。そうすると圧力がかかって、おまえは税金払えと、天皇から言われるかもしれない。そしたら大伴さんはもっと上の藤原氏を頼りだす。二段構えで、寄進された土地の再寄進を行う。この寄進先が摂関家で、最も有力な貴族です。こういうのを本家という。

開発領主は、どうしてこんなことを行うかというと、国司からの土地の圧迫、税金払えとか、場合によっては、この土地はおまえのものとは認めないとか、そういうことを国司から要求されるようになる。その圧力を払いのけるために、こういうことをやるわけです。
しかし地方の国府は国府で、地方にもその国府に味方する人間がいる。彼らは国司のもとで、国府の役人になる。彼らを在庁官人といいます。地方の国府にいる役人、という意味です。今の県庁マンみたいなものです。彼らは一方で地方の有力な土地持ちです。彼らは何十人という農民を使いながら、結構大きい水田をもっている。そういう人たちを大名田堵という。そのなかには開発領主の子分みたいな人もいる。
さらにその下には、ふつうの農民がいて水田を耕しているわけですが、彼らはその土地に自分の名前をつけるようになる。これを名主という。名前をつけると土地への権利を強めて、これを自分の土地だ、と言うようになる。
教科書でも何でも、自分の名前を書くということは、自分のものだということを示すためなんです。それをいったん人が認めたら、自分の名前があるものに他人が勝手に手を触れたら、それは泥棒と同じことになる。勝手に触れるほうが悪いんです。土地も同じです。自分の名前のついた土地に、勝手に入ったり、そこから米を取ったりすると、それは取る方が悪い。名前というのはそういう意味です。所有権をはっきりさせるものです。ただ自分のものであっても名前を書いたらいけないものが一つだけある。それがお金です。だからお金は常に盗まれる危険があります。

それはともかく、さらにその下には、作人という土地を持たない人たちもいます。
開発領主はこの土地を守ることに必死です。生活がかかってますから。この時代には、お巡りさんなんかいないから、お前出ていけ、今からこの土地を俺のものにする、とか言う暴力的な者も出てくる。そういう土地争いが絶えないんですよ。
そういった時、都の貴族は遠すぎるんです。これは、自分で追い払うしかない。どうやってか。自分で刀・槍・弓の稽古をして、体を鍛えておく。いざとなれば、土地を守るために体を張って戦う。次の時代を担う武士というのは、これなんです。彼らが武士化していくわけです。自分の土地を守るためです。体を張って命がけで戦うのです。

こういう形で体を張って自分の土地を守ると、ここは俺の土地だから勝手にさわるなということになる。国府からお役人が来ても、不入の特権をえて、立ち入り禁止にする。部外者を入らせなくする。
いま私有地というのはこれです。人の土地に勝手に入ったらいけません。これは学校も基本的にはそうです。君たちは当たり前に来ているけれども、うちの高校生じゃない人、または保護者でもない人が勝手に入ったら、不法侵入で警察に言っていい。何の許可があって入ってきているんですかと。勝手に入ったらダメなんです。
一頃、さかんに開かれた学校ということが言われて、学校への立ち入りがかなり自由になったことがありました。そこで起こったのが、不審者によって学校の先生が学校内で殺されるという大阪での事件でした。学校が塀によっていかに守られているかをあらためて意識させた事件でした。

そういう国司が派遣して、他人の荘園を調べにくる人を検田使といいますが、開発領主たちは検田使の立ち入りを拒否するようになります。
こういう体制ができ上がる。このとき全国を見ると2本立てです。国が支配する公領と、貴族が支配する寄進地系荘園です。荘園公領制とはこういうことです。チャンバラがおもしろくて、武士になっているのではないです。土地を守るためです。無法者を追い払うのは、まず自分の力なんです。そういう武士団が地方で成長してきます。



【武士団の成長】
この11世紀になると、そういう地方から武士の反乱がまた起こる。900年代にも2つおこりました。約100年後、1000年代です。


【平忠常の乱】 1028年から1031年までの3年間です。起こしたのは平忠常という人です。平忠常の乱です。やっぱり平氏一族です。反乱が起こった場所は、上総国(かずさのくに)、今の千葉県です。武士の本場は京都じゃない。関東という田舎なんだ。田舎で武士たちが起こってるんです。九州はかなり昔から開けています。関東から東が未開の地が多く残っています。
これを鎮圧した人が誰かというと、甲斐の守(かみ)、甲斐の国というのは山梨県なんです。戦国時代に甲斐の戦国大名として武田信玄がでてきたりする山梨県です。そこの国司だった。守(かみ)というのは国司の肩書きです。ここの国司は源氏一族がつとめていた。甲斐守の源頼信が鎮圧する。平忠常は負けた。源氏一族が勝った。

これがきっかけでそれまで兵士が中心であったと東国に源氏一族が進出してくる。東国というのは関東のことです。
逆に負けた平氏一族は、関東が本場であったけれども、そこにいられなくなって関西に行く。畿内へ引っ越します。
それからまた20年経った。あと2つ、地方で武士の反乱が起こります。


【前九年の役】 1051年から1062年までの約10年間。これを前九年の役という。このネイミングは謎です。なぜこう言うのか。何の前から九年なのかわからない。説があるくらいで、よく分かっていません。でもずっとこう言っています。
ただこれも小説仕立てで、詳しく記録を残した人がいる。だから非常に詳しく分かっている。軍記物として「陸奥話記」という。陸奥(むつ)は東北のことです。陸奥のお話ということです。場所は関東からさらに東の東北です。そこの豪族が反乱を起こす。陸奥の安倍氏です。安倍頼時という陸奥の豪族が反乱を起こし、これを誰が鎮圧したかというと、やはり武士なんです。貴族ではない。東国に進出した源氏です。これは親子2代にわたって、親子が協力して鎮圧する。

父親は源頼義です。彼はさっきでてきた源頼信の息子です。さらにその息子の源義家、別名、八幡太郎義家とも言う。その親子が介入する。11年もかかって、かなりてこずって、この勝敗を決したのは、もう一つの東北の豪族の手助けがあったからです。日本海側の出羽の清原氏が源氏の親子を応援するんです。これによっては陸奥の安倍氏は滅亡した。これが前九年の役です。


【後三年の役】 その絡みで、また30年後に起こる。1083年から1087年まで。これを後三年の役という。これも名前の由来は不明です。今度は、源氏を助けた清原氏がまた内紛を起こす。内紛というのは内輪もめです。
でも自分たちだけでは解決できなくなって、それに介入してして、どうにかおさまりをつけさせたのが息子の源義家です。さっき出てきた人、そのときには息子だったけど、それから30年経ってもう立派な大人になっている。けっこう有名な人で、答えを言うけれども、鎌倉幕府をつくった源頼朝というのはこの源義家の子孫です。この流れが、鎌倉幕府の将軍家になっていく。この清原氏一族は二つに割れたけど、源義家が味方した方が繁栄する。しかし複雑な親子関係の血筋があって、清原の名前を捨てる。都の藤原氏の血筋を継いでいるということで、名前を藤原に変えるんです。ここはちょっと分かりにくいけど、清原氏が藤原に名前を変えるんです。

それが藤原清衡です。これが力を強める。東北ではこの藤原清衡のもとに権力が集中するようになって、東北地帯ではナンバーワンの豪族になる。
おまけに、ここでは金も取れるから壮大な寺院をつくる。この東北の藤原氏のことを、京都の藤原氏と区別するために、奥州藤原氏といいます。
奥州というのは、東北の呼び方です。拠点は、仙台のちょっと北、県境を越えて今の岩手県に入ります。けっこう山間部です。九州で言えば、大宰府みたいなところかな。そういったところが岩手県の平泉です。
そこに都のお寺に比べても、ひけを取らないような壮大なお寺を造った。今でもこれは残っています。これが中尊寺です。その中に金色堂という燦然と輝くお堂がある。そして奥州藤原氏はこのあと約百数十年、繁栄を誇ります。

では何で滅んだか。それはまた百年後に言いますが、先に答えをいうと、鎌倉幕府をつくった源頼朝が攻めるんですよ。全国統一の過程で。そして滅亡した。しかしこれは後のことです。

ただ、この内紛は、それまでの関係から源義家が、自らすすんで介入したもので、別に朝廷が頼んだわけでも何でもないから、朝廷はこの内紛をおさめたことに対して褒美をしない。
それにもかかわらず、源義家は、一生懸命で戦ってくれた自分の家来たちに、自分の財産をはたいて褒美を与えます。そこから非常に個人的な、親分と子分の人間的な繋がりが生まれます。これが武士団なんです。貴族の機械的な人間関係とはひと味違った人のつながりが出てきます。彼ら家来のことを郎党という。個人的に深く結びついている人間関係です。命を懸けてでも戦う。この親分とだったら一緒に戦う、という武士もでてくる。しかも西日本じゃない。九州じゃない。関東から東の田舎での出来事です。ここが武士の本場です。
だから源氏と関東武士の間には、そういう何十年にもわたる源氏との深い繋がりが、すでにこの11世紀に形成されていた。そのことが分からないと、のちに源頼朝がスッとスーパーマンのように来て、鎌倉幕府の将軍になったんじゃあ、わけが分からないのです。そういう前段がある。



【院政】 
地方でこのような武士の争乱が起こっていたころ、都ではどういうことが起こっていたか。ちょうど1000年頃、摂関政治のピークを迎えた藤原頼通の娘には皇子が生まれなかった。
そこで藤原氏を外戚としない後三条天皇(位1068~72)が即位します。そして、自ら直接政治をとる親政を行います。藤原氏の力は低下します。1069年には延久の荘園整理令を出して、摂関家の荘園も含めて、荘園整理を行いかなりの効果を上げます。

さらに後三条天皇の子の白河天皇(位1072~86)も父親にならって親政を行います。その白河天皇は、1086年、突然、まだ幼い息子の堀河天皇に位を譲ると、みずからは上皇として院庁をひらき、幼い天皇を補佐しながら、政治の実権をにぎる院政の道をひらきます。退位した天皇のことを上皇と言います。この形は令和になって久々、復活しました。
この院政は、白河上皇ののちも、鳥羽上皇、後白河上皇とこのあと100年あまり続きます。

このことによって、政治の実権がそれまでの天皇の母方である藤原氏から、天皇の父方である天皇家に移ります。天皇の母方の家である藤原氏、つまり摂関家がなくなったわけではありませんが、摂関家は力を弱めつつ、以後は天皇の父方である院と微妙な勢力の均衡を保ちつつ、院に従っていくようになります。
院政は、自分の子孫の系統に皇位を継承させようとするところからはじまったものです。それに対して摂関政治は天皇の外戚として力をもとうとするものです。皇位継承のルールが、母方の血縁よりも、父方の血縁のほうが優位に立ったわけです。
ここで父系血縁組織としての天皇家に、大きく一歩近づいたわけです。天皇に対する父方の力が強まります。しかし子供に対する母親と母方の力は、このあと武家社会になっても続きます。日本の結婚形態や家族形態は、まだまだ分からないところが多くあります。

いずれにしろ、日本の権力は、天皇という表面上の権力の後ろに、本当の権力を握るもう一人の者が隠れているという構造は変わらないようです。これはかなり偏差値の高い権力構造ですね。日本人がこういうスタイルをなぜ好むのかというのは、日本史の謎の一つです。
今でもこの権力構造は、日本の至るところにあるかもしれませんから、表面上の姿に騙されないようにしてください。もしかしたら、普通の家庭の中にだってあるかもしれません。



【保元の乱】 
その後、都ではどういったことが起こるか。
次の12世紀、1100年代になると、1156年に京の都で反乱が起こります。年号をとって、保元の乱といいます。これはもともとは貴族の戦いです。
崇徳上皇と後白河天皇の戦いです。さっきも言ったように、上皇というのは退位した天皇のことです。平成天皇が退位されて、久々に上皇となられました。
その対立に武力をもちいる。喧嘩で強いのは武士なんです。武士をどれほど味方に組み入れられるかで、この勝敗がつく。

勝ったのは、後白河天皇方です。後白河天皇についた武士は、このあと勢力を強めていきますが、その武士に2通りあったんです。2派閥が。1つが源氏です。源義朝です。鎌倉幕府を開く源頼朝は、この息子です。もう1つは平氏です。これが平清盛です。源義朝と平清盛との対立、それが貴族社会の中で表面化する。これが1回戦です。そして3年後には、すぐ2回戦になります。
年号が変わって、昔の年号は4~5年ですぐ変わります。今のように、30年も40年も続きません。



【平治の乱】 
3年後の1159年に、平治の乱が起こります。この源氏と平氏の戦いで勝ったのは、平清盛です。平清盛の勝利になる。負けた源義朝は殺される。この時に、わずか10才だった子供の源頼朝も殺されそうになったんだけれども、まあ子供だから生かしてやろう、かわいそうじゃないかということで、命を助けられた。しかしこの人が、30歳を過ぎて平氏を倒し、鎌倉幕府をつくっていく。この時には、京都からみれば田舎の、島流し同然、伊豆に配流される。これは流罪です。今はない刑罰に、流罪というのがある。遠くに流す。または絶海の孤島に流す。そうなると島流しです。



【源平系図】 
ここまで乱をみてきたけれども、その血筋をまとめたのが今の図です。約200年間の系図です。
藤原純友の乱からの関係です。上が清和源氏、下が桓武平氏です。確認しますが、清和源氏というのは清和天皇の子孫です。清和天皇の血筋をひく一族です。桓武平氏というのは、平安京をつくった桓武天皇の子孫です。



まず清和源氏の系図からいきます。
900年代、瀬戸内海で起こった藤原純友を鎮圧したのは源経基という人であった。それから、次の源満仲はカットします。その息子、源頼信というのが、今日いった平忠常の乱を鎮圧した。
そして、さっきいった、前九年の役を鎮圧したのが、源頼義です。
後三年の役を、奥州藤原氏を応援したのが源義家です。一代飛んで、源義朝というのは源義家の孫です。そしてその源義朝の息子が源頼朝になる。そして彼が、このあと鎌倉幕府の将軍になる。鎌倉将軍家です。
ただこれだけではすまないですね。鎌倉幕府の次には、室町幕府ができる。ずっと先のことですけれども。室町幕府の将軍家は足利将軍家なんです。足利将軍家とは何か。この源義家の息子から枝わかれして、群馬県に今でも地名がある足利市、そこに土着した武士の一族なんです。結局、足利氏も清和源氏なんです。これが室町将軍家になる。
結局、鎌倉幕府も室町幕府も将軍は、天皇の流れから出てくるんです。天皇の系図から出てくるんです。

このあと鎌倉幕府をめぐって対立する乱を戦っていくのが、平清盛です。その平清盛は桓武平氏です。その流れはどうなのか。
桓武天皇の孫、これを平高望という。その息子が平国香であって、その弟が平良将であって、良将の息子が反乱を起こした平将門です。
平将門自体は殺されて子孫は絶えた。これを撃ちとったのは殺された国香の子である平貞盛です。この貞盛の3代あとの子孫が、平清盛です。血筋は桓武平氏で、天皇家と繋がっている。
今日いった平忠常はここです。平高望の子孫、3代あとの子孫になるんだということです。



【院政期の文化】
ではこの時代の文化です。都と地方で、どういったものが流行っているか。院政期の文化というところにいきます。中心はやはり宗教です。仏教です。仏教にはいろいろな宗派があります。流行りは、この世の利益ではなくて、あの世での成仏です。あの世のことを何というか。浄土ですね。そこへの行き方を教える浄土教、これが流行る。

仏教は、もともと都の裕福な貴族だけのものだった。都だけの流行り、今でいえば、東京でしか流行ってなかった。しかし東京で流行ったものは、じわじわと地方に、今でも数年遅れで流行ってくる。今のようにテレビもラジオもない時代に、都で流行ったものが、なぜ地方に伝わってくるかというと、これを伝えに来る人がいたからです。
浄土教の地方化です。これは都から九州にまで、教えを伝えてくる遍歴のお坊さんがいた。彼らを(ひじり)という。彼らは地方地方で不幸に死んでいった人たちの霊魂をなだめて歩きます。地方の人々が一番恐れたのは、人々に災いをもたらすそのような怨霊だったのです。

前後しますが、このあと平家が壇ノ浦で滅んだのち、怨霊化した平氏の怨霊を琵琶を弾きながら鎮めていった琵琶法師たちも、そのような遍歴の宗教者の一種です。そのような琵琶法師たちの活動の中から、鎌倉時代に「平家物語」が成立します。

地方の人はそういう人の教えを非常に有難く耳を傾けて、頷きながら聴いていったんです。この聖により地方布教が行われる。
だから地方の我々でもお迎えの観念というのはわかる。ひろく国民に浸透していく。ここでは地方で、かなり高い文化が出てくるということです。平安時代のもう終わりごろです。

その代表格がさっき言った岩手県の平泉です。今でも田舎です。平泉は行ってみると、山に囲まれたようなところです。そこに燦然と輝く中尊寺金色堂がある。
九州でも、大分県の国東半島に富貴寺大堂があります。ここも行ってみると立派な田舎ですね。
これらは地方にできた阿弥陀堂建築です。つまりここでも浄土教が流行っているわけです。

それから文学では、貴族物ではなくて、武士が力をもってきているから、武士が中心の物語が出てくる。
前の時間にやった平将門の乱の記録、これを「将門記」という。それから、これもさっきやった前九年の役を記録した「陸奥話記」です。
ここで共通しているのは、日本の中心地の京都の出来事ではなくて、地方の動き、それから偉い貴族の話ではなくて、その下の武士とか庶民の動き、こういう庶民の話が文学の題材になっていく。その中で庶民がよく出てくるのは「今昔物語集」です。これが大好きだった小説家が、大正時代の芥川龍之介です。これにヒントを得て、そしてそれをふくらませて多くの作品を発表した。芥川賞というのは、この芥川龍之介の賞です。


このような動きの中で、時の後白河法皇までが庶民の生活に関心を持っていきます。庶民の間に流行っていたザレ唄、これを今様といいますが、これを聞いているうちに法皇自らこれにはまってしまい、ザレ唄の本まで作ってしまいます。これが梁塵秘抄(りょうじんひしょう)です。難しい名前ですが、中身は当時の庶民の流行り歌です。このような庶民の歌を貴族が書き留めるという流れは万葉集の時代からありますし、この後も続きます。それどころかますます盛んになっていきます。
ふつう文化は上から下に流れていきますが、日本ではもう一つ、下から上に浸透していく文化の流れがあるのです。そしてこれが高い文化に洗練されていきます。庶民のザレ唄の中に、貴族たちを引きつけるものがあるのです。そしてそれを時の権力者自らが書き留めていく、こんな文芸のあり方を、私は他の国で聞いたことがありません。

次は、源平合戦に入って行きます。
終わります。