国民主権だからといっても、今の高校生たちの疑問は(大人もそうかもしれないが)なぜ自分が政治にかかわらなければならないのかということである。
政治なんかにかかわるよりも、恋愛もしたいし、旅行にも行きたい、政治どころではない、というのが本音であろう。
もっともな感覚だと思う。
日本人にとって政治は遠い。
国民は自分が聖化された人間だとは思っていない。
日本には西洋のプロテスタンティズムのような宗教がないからそれももっともなことである。
逆に自分のようなものが政治にかかわることは恐れ多いことだと考えている。
通常は自分には関係ないという政治的無関心なのだが、その無関心の裏には、自分が神様と結びついていないという感覚がある。
国というものが神様と結びついているのだとすれば、国民主権の場合は一人ひとりの人間が神様と結びついていなければならない。
日本にはそれがないのである。
仮にそれがあったとしても、日本の場合にはさきにも言ったようにキリスト教のプロテスタンティズムのような宗教がないから、日本の伝統的な宗教によって国民主権の考え方を国民にもたらすことはむずかしい。
わずかに日本の神道は国民を国と結びつける機能があったのだが、日本人の多くがそのような宗教観念を失っている今日ではそれを復活することもむずかしい。
国民の宗教離れは、よりいっそう政治の暴走を加速させる方向に向かっている。
オーム真理教のような宗教は国民と国家を結びつけるような機能は持ち得ないでいるばかりか、地下鉄サリン事件に見られるようなテロ行為によって国家を転覆させる方向に向かっている。
国はいつでもどの時代でも宗教と結びついているものであるが、
日本の国民は宗教と結びつくきっかけさえ失いはじめている。
そのことがさらに国民の政治的無関心を高め、国家の暴走を加速させている。
そこから小泉政治のような大衆誘導型の政治が生まれてくる。
政治家にとって政治に関心のない日本人を大衆誘導することは簡単である。
小泉純一郎は神への恐れもなくそのことをやってのけた冷酷な政治家である。
そのような政治体質は、ひとり小泉純一郎だけではなく、多くの政治家、多くの官僚たちの共通して持つ政治認識になりつつある。