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「授業でいえない世界史」 16話 中世ヨーロッパ フランク王国~ノルマン朝

2019-02-10 05:00:00 | 旧世界史7 中世ヨーロッパ

※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


【ヨーロッパの地形】 ヨーロッパの地形で、大きな川は黒海から流れ出るドナウ川です。それからドイツの西部を流れるライン川です。今までイスラム世界をやったところから600年ぐらいまた過去に戻ります。

 イスラム世界は13世紀、1200年代まで行ったんですけど、そこが実は一番世界で進んでいる地域です。それを先にやりました。
 それからみると今ヨーロッパというと、イギリスだったり、フランスだったり、ドイツだったりして進んでいるように見えるけれども、この当時は田舎です。もともとアルプスの南の地中海沿岸地域がヨーロッパの中心だったけど、そこが廃れて田舎になっていきます。そこから見て、アルプスの北側というのはもっと田舎なんです。つまり田舎の田舎です。さらにそこから見た海の向こうのイギリスは、とんでもない田舎になります。
 ではなんでこんなド田舎のことをやるのかというと、これから1000年後に圧倒的にここが発展して、日本でもペリーが大砲を向けて来て脅されるまでになる。ここの文明、近代ヨーロッパ文明が発展してくるからなんです。
 今の段階でここが進んでいるとは思わないでください。今までヨーロッパをやったときに中心はどこかというと、ローマだった。ではこの時ヨーロッパの中ではローマが中心かというと、でもローマはもう捨てられた。
 どこに移ったか。ここの今のイスタンブール、この時にはコンスタンティノープルといいますが、ローマからここに中心が移った。ヨーロッパではここが中心です。

 ローマ帝国は二つに分裂しました。そして東の帝国だけが生き残る。これが何帝国だったか。東ローマ帝国です。それが中心です。

 しかし今からはその西の田舎をします。人があまり住まないような、オオカミが出るようなところです。ヨーロッパには「赤ずきんちゃん」のお話がある。赤ずきんちゃんは、何に食べられるのか。森のオオカミです。オオカミが出るような、森がうっそうと茂っている地域が西ヨーロッパです。
 そこにお姫様がいたら、何ヶ月も森をかき分けて行かないといけないようなところです。そういう「眠れる森の美女」の話もあります。ここはそういう森に覆われた地域なんです。この田舎のことを今からやっていきます。イメージを間違わないようにしてください。

 中心はここの東ローマ帝国です。でも本当はもっと東のイスラーム世界が栄えています。ヨーロッパで栄えているのは東ローマ帝国だということもです。
 ここに昔あったローマ帝国が分裂し、西半分の西ローマ帝国は滅亡したんです。このあとは廃れていく一方です。

 ローマは地中海側です。しかしローマの北のアルプス山脈を越えたら田舎です。険しくてなかなか越えられない山脈です。太陽の光が降り注ぐローマから見てアルプスの北側は、森に覆われた別世界です。今はそこがヨーロッパの中心ですけど、フランス・ドイツはもともと、アルプスの北の森の世界です。その田舎から見て、海の向こうにあるイギリスは、さらにとんでもない田舎です。

 フランス人は今でも、英語を田舎言葉だとして、使いたがりません。でもそのイギリスから、ずっとのち産業革命と近代社会が出現します。
 なぜそんなことになったのか。この地域は現代の社会をひもとく鍵なのです。


▼ヨーロッパの言語分布



【ヨーロッパの言語分布】 それが今の民族分布を見ていくと、ここはライン川です。その西側が西ローマ帝国があった地域で、まずその西ローマ帝国が滅ぶ。ここはまだ森に覆われた田舎のイメージです。

 発展したあとの民族分布をみると、もともとのローマ帝国のローマ人はラテン系の人々です。彼らが住んでいるところは、イタリアから、フランスから、スペイン、こういったところがラテン系の人々が住む地域です。ヨーロッパを西と東に分ける目印は、さっき言ったライン川です。ドイツとフランスのほぼ中間にあります。

 今からいう主役はこの東の田舎側に住んでいた人たちです。彼らをゲルマン人といいます。彼らゲルマン人がライン川を渡り、押し寄せてくる。

 むかし橋がない時代には、大きな川はなかなか渡れなかった。それを何千人・何万人というゲルマン人たちが大挙してライン川を渡って、そこに自分たちの国を作っていく。そのゲルマン人のもともとの地域が、だいたいドイツからオーストリアです。こういった領域をこれからやるいうことです。
 それから北のスウェーデンとノルウェー、ここもゲルマン人です。
 これからこのゲルマン人の動きを見ていきます。


【ゲルマン人の登場】 主役はゲルマン人です。西ローマ帝国が滅ぼうとしているときに、まず東のゲルマン人を押し出すのが、さらに東の方から西側のヨーロッパ側に進んできたフン族です。多分これは中国史でやった匈奴またはその一派だろうといわれる。それが東から西にどんどん進んで、そこに住んでいた人間を押し出します。押し出されたのがゲルマン人です。

 彼らが大移動を始める。旧ローマ帝国の領域は、ライン川の西側まで、今のフランスまでだった。そこにゲルマン人が入ってきたものだから、ついに476年に西ローマ帝国は滅んだ。

 しかしすでに東に引っ越していたもう一つの東ローマ帝国は生き残り、繁栄が続きます。

 もう一つ生き残ったのが、ローマ帝国の宗教です。国教になった宗教は何だったか。キリスト教ですね。これは総本山は今でもローマにある。そのまま生き残ったんです。これがローマ教会です。西ローマ帝国は滅んでも、そこにあったローマ教会は生き残った。
 これが一つの隠し味、ヨーロッパの底流を流れる伏線です。このあとのヨーロッパはこのあと新しく出てくるゲルマン人の国と、昔からあるローマ教会のライバル競争です。ローマ教会から見たら、新しく侵入してきたゲルマン人たちは野蛮人にしか見えない。一見仲が良いように見えて、ローマ教会と王様が、それでオレが偉いんだ、オレが偉いんだ、とケンカし出す。


【ゲルマン諸国】 ではゲルマン人が作った国、これはいっぱいある。西はスペインから、さらにジブラルタル海峡を南に渡って、アフリカの北岸にまで及ぶ。ゲルマン人が何千キロと移動してさまざまな国を作ります。


▼ゲルマン人の移動




【フランク王国】

【メロヴィング朝】 しかし、それを全部省略して、一つだけ代表的なものだけ取り上げると、これがフランク王国です。
 これは481年メロヴィンク家クローヴィスが、フランク諸部族を統一して建てた国です。クローヴィス一族の王朝をメロヴィング朝といいます。フランスという国の名前はここに由来します。フランクが訛ってフランスになっていきます。


【クローヴィスの改宗】 ローマ人から見るとゲルマン人というのは野蛮人だったんです。それがどうにかキリスト教の教えには従った。キリスト教徒にはなったんだけれども、ローマ教会の教えとは違った別の宗派のキリスト教の教えに従っていた。これを異端といいます。キリスト教にもいろんな宗派が発生します。のちにローマ教会によって弾圧されますが。

 ただこのフランクの王様、クローヴィスは、キリスト教にも何種類かあるが、どうせならこの生き残ったローマ教会の教えに変わったほうが何かと得だぞ、と考えた。この正式な教えをカトリック、本当はアタナシウス派という。これに改宗した。
 ここからフランク王国とローマ教会の仲が良くなります。ゲルマン人のフランク王国は、ローマ教会と手を組むことによって発展していくんです。


【聖像禁止令】 ただ忘れてならないことはヨーロッパの中心は東ローマ帝国であった。そこにもまた別の教会があるんです。国も二つになっていたし、教会も二つになっていた。それぞれ教会の教えも違ってくるようになる。

 西のローマ教会はゲルマン人にキリスト教を教えるときに、ゲルマン人は字も読めない野蛮人だと思っているから、キリストさんの像、またはマリアさんの像を見せて、これを拝むと良いことがある、と言っていた。
 日本人は仏像を拝むからそのことに違和感はないですけど、実は一神教の世界ではこんなことは絶対にしたらいけないんです。偶像を、神様の像を彫ってはならない。人間の形を神様はしてない。それを拝むなんてとんでもない。そういう教えです。これは「モーセの十戒」に書いてあるもっとも基本的な教えです。
 これを東ローマ帝国が黙って見ていられずに、禁止令をだした。それを聖像崇拝禁止令といいます。726年です。
 しかし、これを出されたら、字が読めないゲルマン人に絵もみせられない。像も見せられない。それだったら難しいキリスト教の教えを野蛮なゲルマン人に伝えられない、とローマ教会は反発していく。

 それで教会も、西と東で仲が悪くなっていくんです。ローマ教会と東の教会が対立するようになります。
 この聖像禁止は、もともと1000年以上前の「モーセの十戒」にも定められていたことです。ということは、ローマ教会は最初からこの禁を破っていたのです。そしてそのことを問い詰められると、何が悪いんだと開き直ったようにも取れます。
 私はキリスト教徒ではないから、聖像禁止が正しいのかどうかは分かりません。しかし歴史を見ると、一神教ははじめから聖像禁止なのです。
 このようにキリスト教には、ご都合主義のところがあります。これを柔軟だととらえるか、二枚舌だととらえるか。
 キリスト教の難解さはこういうところにもあります。これを悪用する人だって出てくるかも知れません。
 そのことへの恐れから、少なくともイスラム社会は今も偶像崇拝を認めません。イスラーム教徒が神様の像を拝んでいるのを見たことはないでしょう。それが一神教の原型です。
 だから同じ一神教でも、キリスト教とイスラーム教は対立します。


【ツール・ポワティエ間の戦い】 世界の中心はイスラム世界です。前に言ったイスラム帝国のウマイヤ朝は、昔のメソポタミア、今のイラクあたりを征服し、北アフリカに軍隊を広げて国がどんどん大きくなっています。さらに地中海の出口のジブラルタル海峡を越えて、ヨーロッパに攻め込んできた。ヨーロッパのスペインからフランスに攻め込もうとする。しかしこれ以上攻め込まれたらとても耐えられないということで、ゲルマン人のフランク王国は戦った。そしてヨーロッパがイスラム軍の侵攻をなんとか食い止めた。

 この戦いが732年ツール・ポワチエ間の戦いです。これでヨーロッパはどうにか潰れなくて済んだ。ゲルマン人の国のフランク王国がここで生き残りました。もし負けていたら、ヨーロッパはキリスト教国ではなく、イスラム教国になっていたと思います。このあともヨーロッパは防戦一方で、イスラム教徒の脅威におびえます。



【カロリング朝】
 そこからまた息をふき返したゲルマン人の国であるフランク王国は、ツール・ポワティエ間の戦いで手柄を立てたカール・マルテルの一族であるカロリング家に実権が移り、王家が変わります。カール・マルテルは、メロヴィング朝の宮宰だった人です。宮宰とは日本でいえば、大名家の家老のようなものです。8世紀の751年にはメロヴィング朝からカロリング朝に変わります。自分が王になります。


【カール大帝の戴冠】 この家から出た王様がカール大帝です。もともとカールというただの王様だった。ここで何とも不思議なことが起こります。

 ちょうど800年のことです。たんなるフランク王のカール王が、ここでローマに出向いていくと、そのローマ教皇から「おまえを皇帝にする」といって冠をかぶせられるんです。
 日本の天皇は冠とか別に要らないけれども、ヨーロッパの王は頭に王冠をかぶります。こういうのを難しい言葉で「戴冠(たいかん)」という。戴冠とは冠を頂戴することです。
 このローマ教皇が、カール王に冠をかぶせて、どこの国の皇帝にしようとしたかというと、それが不思議なことに、滅亡したはずの西ローマ帝国の皇帝にする、と言ったんです。これが西ローマ帝国の復活です。ここで476年に滅んだ西ローマ帝国が復活した、という言い方をするようになります。
 これは変なことで、何が復活したのか説明するのはけっこうむずかしい。でもヨーロッパ人はそう思ったんです。あのローマ教皇が王に冠をかぶせたんだから間違いないだろう。でもなぜローマ教会が、西ローマ帝国の皇帝を任命できるのかは、日本人にはなかなかわからない。

 ここで教科書に書いてない裏話を言うと、このときローマ教会に伝わっていた文書に「コンスタンティヌスの定め」というのがあったんです。約500年前の3世紀のローマ帝国時代にコンスタンティヌス帝という皇帝がいた。キリスト教を公認した皇帝ですが、覚えていますか。彼が決めたという文書が残ってたんです。その文書に、「ローマ教皇は西ローマ帝国の王を任命することができる」と書かれていたんです。何百年も前からそういうことをローマ皇帝が認めていたという文書が。

 ただこれは今となっては、偽書だということが分かっています。捏造文書です。最近のモリカケ問題の捏造文書じゃないけれども、公文書偽造です。嘘の文書をつくってそれを証明書にしている。
 ただこういうウソの文書でも本物だと信じられてきた。だからローマ教皇が冠をかぶせた人は、西ローマ帝国の皇帝になれる。だから西ローマ帝国は復活した、とヨーロッパ人は信じてきたというふうになっています。

 なんとも不思議な話ですが、ここで大事なのは、ローマ教会はそんな捏造文書まで使って皇帝を生み出し、そのことによってヨーロッパの政治的な支配を狙っていたということです。

 ここで起こったのは、ローマにいる教皇がカール王というフランク王に、田舎の王様に冠をかぶせた途端に、この田舎の王様が突然「オレは西ローマ皇帝だ」と名乗り始めた。つまりゲルマン人の王がローマ皇帝だという不思議なことがおこるわけです。これがヨーロッパという田舎で起こったことです。

 再度言うと、ヨーロッパの中心は実はコンスタンティノープルという東ローマ帝国です。ただ、これが名前を変えるところが覚えにくい。東ローマ帝国と言わずに、この時にはビザンツ帝国というふうに名前が変わっているんです。ビザンツとは、コンスタンティノープルが昔はビザンティオンという名前であったからです。

 東京の昔の名前が江戸というようなものです。だから江戸帝国になったみたいなものです。東ローマ皇帝はビザンツ皇帝です。こっちが実はヨーロッパの中心です。


 このビザンツ帝国では、皇帝とキリスト教の教皇の関係では、皇帝が上なんです。皇帝が東ローマ帝国の教会を支配している。これを皇帝教皇主義といいます。だから西に残ったローマ教会も支配しようと圧力をかけていく。
 しかしこのローマ教会はビザンツ皇帝の命令に従いたくないから、それをはねのけようとしている。800年の事件が起こったのはそういう時なんです。
 そのためにはこれと同じような形で政治的な後立てが必要になるから、この田舎の王様を、「おまえが東ローマ皇帝なら、こちらは西ローマ皇帝がオレのバックについているぞ」、という形を作りたかった。




 しかしここでは皇帝と教皇の関係が逆になっています。皇帝が教皇を任命するのではなく、教皇が皇帝を任命しています。

 ところがヨーロッパでは教皇が皇帝を任命していい、と信じられてきた。その定めに従って、西ローマ帝国が復活したと。ここにはかなり無理があります。無理を重ねると道理が引っ込みます。道理が引っ込んだ世界では、戦争で解決するしか方法がなくなります。

 この背景にあるのは、ローマ教皇ビザンツ総主教というキリスト教内の宗教対立があって、その対立を有利にするために、ローマ教会は西ローマ帝国を復活させたということです。それで田舎のゲルマンの王であるフランク族の王に冠をかぶせたわけです。それが800年におこったことです。


【ヴェルダン条約】 この時のフランク王国というのは、今のフランスよりもかなり大きい。フランス・ドイツ・イタリアにまたがるような大きな国だったんだけれども、このカール大帝が死ぬと、息子が3人いて、その3人に分割相続する。国家が王の私的な領土だと考えられていたから、国民の同意なく分割もできるのです。またこのことは、逆に王様と隣の国の女王様が結婚したら、その二つのことは合体して一つの国になることだってあります。15世紀に誕生したスペイン王国はこうやって誕生したものです。ヨーロッパでは近代になるまで国家は非常に私的なものです。
それで割れてしまう。この取り決めがヴェルダン条約です。843年です。

 どういうふうに三つに分裂したか。東フランク、西フランク、イタリア王国の三つに分裂した。西フランクの国境は、ほぼ今のフランスと重なる。フランスの形になった。ここでフランスができたと思って半分は正しい。これが今のフランスです。

 次に、ドイツに相当するのが東フランク王国です。今のヨーロッパの二大国家、フランスとドイツの原形がここでてきた。イタリアもです。
 さらにその後、870年メルセン条約でこの形がはっきりします。
 西ローマ帝国の滅亡して約400年後、東がドイツ、西がフランス、南がイタリアの原型ができた。

 では何が入ってないか。イギリスがはいっていない。イギリスはまた別です。イギリスは島国です。海の向こうの田舎のまた田舎じゃないか、いるもんか、という感じです。イギリスが国になるのはあと200年ぐらい後です。イギリスは統一国家にさえなってないということです。
 まえ言ってなかったけど、4~5世紀のゲルマン民族の移動の時に、イギリスに渡ったゲルマン民族のことをアングロ・サクソンといいます。イギリス人はアングロ・サクソン人です。本当はアングロ族とサクソン族、二つあったけれども、それを一つにした言い方です。アングロ・サクソンというゲルマン人の一派がイギリスに渡って行った。だからイギリス人のことを今でもアングロ・サクソンといいます。
 ここはアングロ・サクソン人による小国家が分裂している状態です。7つの国があったから、これを七王国といいます。ヘプターキーとも言います。それをどうにか統一したのが829年です。でもここはフランク王国の枠外の国です。


【東フランク王国】 中心はフランスとドイツのうち、ドイツなんです。ドイツは東フランク王国という。もともとはこのドイツがゲルマン人の本拠地です。

 そこから一部がライン川を渡って西に行ってフランスまで占領した。ただ本拠地はドイツです。
 このフランク王国は、王様といっても日本と違って、家来たちが王を選挙で選ぶという形をとります。ヨーロッパ人は選挙をやる。ギリシャ国家もそうだった。日本の王は、親から子、子から孫へと受け継がれる。これを世襲というけど、ヨーロッパはそれとは違って選挙原理というのが強い。
 生きるか死ぬか、荒々しい戦争がしょっちゅうあるときに、そういう地域では選挙で選ぶ。

 なぜかというと、平和なところでは、親が偉ければ、息子がボンクラでも、おまえが次の王になっていい。それでも戦争がないから滅びることがないんですよ。しかし戦争がいっぱいあって、いつ滅ぼされるかわからないところで、親が偉かったからといっても息子がボンクラで、そういうボンクラ息子が王になったら、そんな国はすぐ潰れる。滅んで自分たちも殺される。

 だから王権は一代限りで、では次の王は、親が偉いといっても関係ない、おまえはバカで何の能力もないから、この中で一番能力のある者を選挙で選ぼう、そういう実力主義です。選挙というのは実力主義です。
 一番力の強いものを選ばないと生き残れない。そういう世界で選挙が行われる。
 カロリング朝は911年に断絶します。


【オットー大帝】 ここで選ばれたのが、962年にオットー1世というザクセン家の人です。これをザクセン朝といいます。このあとも王家はコロコロと変わります。
 ドイツ人です。オットーという名前です。カール大帝から約150年経った。その間、ローマ教皇が王様に冠を被せる、これが空白になっていた、忘れられていたんです。これが150年ぶりぐらいに復活します。

 このオットー1世が久々にローマ教皇から、ローマ皇帝の冠を受けた。被せられた。さっきも言ったけど、これを「戴冠」といいます。オットー大帝といいます。




 この帝国は意味合いとしては、西ローマ帝国なんだけれども、ただこのあと何と呼ばれていくか。いつとはなくちょっと名前がアレンジされて、神聖ローマ帝国と言われるようになる。ローマ教皇という神の使いがからむから「神聖」なんです。

 これがドイツのもとです。962年の時のドイツという国は、何というか。神聖ローマ帝国です。でも支配領域は実質的にドイツのみです。ローマのあるイタリアも併合しようという努力はしますが、うまくいきません。一番簡単に言うと、神聖ローマ帝国とはドイツのことです。
 ドイツはこうやってローマの名前を受け継ぐ名誉ある地位を手に入れます。ヨーロッパで最も権威ある国になる。フランスじゃない。ドイツです。

 理念的には、このドイツが全ヨーロッパを支配する帝国です。フランスはその下にある王国に過ぎません。あとで言うイギリスは、さらにそのフランスの支配下にある国にすぎません。
 これは理念的なものに過ぎませんが、20世紀になってドイツのヒトラーが目指した第三帝国というのはこれなのです。第一がローマ帝国、第二が神聖ローマ帝国、そして第三がヒトラーの帝国です。こうやってバカにできない形で理念が復活することがあります。
 ドイツ人の中には今もこの理念が息づいています。今のEU、つまり欧州連合もそういう理念の一つでしょう。
 この神聖ローマ帝国は、ヨーロッパを一つにまとめることはできませんでした。そこが中国との違いです。中国は分裂と統合を繰り返しながらも、必ず一つにまとまります。今の中国も激しい内乱のあとにできた国です。
 この違いは何なのでしょうか。一つの違いは、皇帝権の上に、さらにまた別の組織があるということです。それがローマ教会です。上が二つに分裂していると、社長が二人いるようなもので、会社はまとまりません。


 悔しがったのがフランスです。なんでドイツだ、俺たちだってフランク王国の領地じゃないか、ドイツにしてやられた。ドイツめ、いつか見返してやる。だからドイツとフランスは仲が悪い。
 20世紀までずっと仲が悪いです。第一次世界大戦では、ドイツとフランスは敵同士です。第二次世界大戦でもドイツとフランスは敵同士です。

 この時の神聖ローマ帝国の構造はさっきのカール大帝の時の構造に似ています。ローマ教会トップのローマ教皇が今度は東フランク王に冠をかぶせた。そういう二番煎じで、ローマ帝国が復活したんです。このためにローマ教会は偽書まで用意していたということは先ほど話しました。ローマ教会はそのワンパターンです。その復活したローマ帝国は名前がちょっと変わって、神聖ローマ帝国という。その皇帝が神聖ローマ皇帝です。

 ローマ教会としてはこういう政治的な後ろ盾、バックボーンが欲しかった。宗教だけでは力にならないから、軍事力を持っている国が欲しかった。そして国王に命令したかった。
 神聖ローマ皇帝という政治的な後ろ盾を得たローマ教会は、以前から対立を深めていたコンスタンティノープル教会(ギリシャ正教会)と、1054年に分離します。東西教会の分離です。ビザンツ皇帝の指示は受けないということです。ローマ教皇は自分たちで決めるようになります。これがコンクラーベという選挙です。

 しかし一方で、神聖ローマ皇帝は、自分の皇帝位が、ローマ教皇によって決められるのはおかしなことだと気づく。ローマ教皇はビザンツ皇帝から命令されたくないし、また神聖ローマ皇帝もこのローマ教皇から命令されたくないのです。
 こういう社会トップの命令系統の混乱があるのが、ヨーロッパです。皇帝が上か、教皇が上か、これがよくわからないのです。だから政治と宗教を切り離すしかないのです。しかしこの問題はヨーロッパ特有のものです。

 それで皇帝と教皇で、オレが上だ、いやオレだ、それで対立する。ローマ教皇は、じゃあおまえをキリスト教会から破門するぞ、キリスト教から除外するぞ、そういって脅すんです。
 これがローマ教皇のもつ伝家の宝刀で、教皇と対立する皇帝にとってはこれが何より恐い。これはキリスト教社会では、人間でなくなることと同じなんです。この感覚もなかなか日本人にはわかりませんね。どうもキリスト教社会では、キリスト教徒でないものは人間ではないと考えられている。
 でもそうやって、皇帝と教会がこのあと対立していく。これがヨーロッパの歴史です。日本にはこういう宗教勢力がないから、日本人にはちょっとピンとこない。


【西フランク王国】 では冠をかぶせられそこねた西フランクはどうか。これが今のフランスです。カロリング朝という王様の家も断絶して、はがゆい思いをしながら力が弱くなる。すぐには復活できない。

 そのあと、また新しい王になった家がカペー朝です。987年です。ユーグ・カペーという人の家柄、カペー一族です。ただ王権は弱いです。


【ノルマン人】 この9世紀頃にまた、田舎の暴れ民族が、フランク王国に押し寄せてくる。荒らしまわるといっていい。彼らをノルマン人という。基本的にはドイツ人です。つまりゲルマン人の一派なんだけれども、その親戚筋です。

 400年前のゲルマン人の大移動の時にはまだ移動していなかった。400年遅れて彼らが移動し始めた。ノルマンというのは、北の人という意味です。ドイツ人から見て北にいる一族という意味です。
 今のスウェーデン一帯から海を超えて船に乗ってやってくる。彼らは海賊です。その海賊が船に乗ってやってくる。舳先がクッと曲がった海賊船に乗って。海から川に入って、急流があると丘に登って、百人ぐらい乗れるから皆で船を担ぐ。えっさほっさと担いで行く。
 また船を浮かべて、川をさかのぼって、村々を荒らし回る。これにさんざん痛めつけられていく。彼らの別名がヴァイキングです。海賊です。ヨーロッパはこの海賊がこのあと500年ずっと活動する。

 ジョニー・デップの映画、パイレーツ・オブカリビアンというのはこの伝統です。これがのち大西洋に乗り出していく。そういうお話です。このヴァイキングの経路を見ると、もともと北にいた人たちで、現住地はスカンジナビア半島です。今のスウェーデンです。彼らは西に行って、フランスにも入っていく。フランスを荒らし回る。

※ ノルマン人はバイキングと呼ばれ、海賊というイメージが強いのですが、海運業によって沿岸部をネットワーク化し、経済・産業を振興した創造者というのが実体です。・・・水上の広域ネットワークを独占したノルマン人は巨万の富を蓄積し、自らの国を築いていきます。(宇山卓栄 経済)


【ノブゴロド国】 もう一つ、東に行った人たちは、ロシアをつくる。ロシアはこんな小さいところから始まる。そしてその東に伸びていく。この土地をめぐっては戦争はないです。こんな寒いところ・・・つまり今のシベリアですけど・・・ここに他のヨーロッパ人は誰も興味を示さなかったから。取りたければ取っていいよ、という感じです。

▼ノルマン人とイスラーム勢力の侵入


 しかし、これがどんどん大きくなって、今や世界最大の領土をもつ国家はロシアになる。ヨーロッパ人こんなところは要らないと言う。だからこのあとシベリアまで広げていく。

 これもノルマン人の動きで、ロシアも彼らが作った国です。862年にまずノブゴロド国をつくる。これがロシアの始まりです。しかしすぐ引っ越しする。その南のキエフというところに引っ越しする。キエフ公国です。882年頃です。これが本格的にロシアのルーツになる。


【フランスのノルマンディー公国】 西では、さっき言ったようにノルマン人がフランスに侵入する。フランスの海岸にノルマンディー海岸というところがある。そこに族長のロロが国を作る。ノルマンディー公国という。

 つい最近、といっても70年代前、第二次世界大戦の戦場にもなった。アメリカ軍のノルマンディー上陸作戦が70年前にあった場所です。そこに国をつくる。北フランスです。ノルマン人が国をつっくたから、ノルマンディーという名前になります。
 ただしこれは王国ではなく、フランスの一地方領主という立場で認められた公国です。つまりフランスの一部です。日本でいえば大名のようなものです。



【イギリスのノルマン朝】
 次はイギリスです。このイギリスに乗り込んできたのも彼ら海賊のノルマン人です。
 今でこそイギリス王室というのは、おしゃれで、バッキンガム宮殿に住んで、綺麗な馬車に乗ってというイメージですが。でももとを正せば海賊です。だからエリザベス女王でも、暗殺されたダイアナ妃でも、背は170センチぐらいあって、体格が良い。背が高く、肉付きもよくて、しかも美人です。やわな血筋じゃない。ご先祖は海賊です。あの王家一族は、気性は荒いです。
 このイギリス王家が現代世界に及ぼした影響は計り知れません。

 すでに800年代後半から、ノルマン人の一派のデーン人のイギリス侵入が始まり、アルフレッド王により抵抗が続けられていましたが、アングロ・サクソン人の小王国の大半は滅ぼされました。
 そして1016年には、デンマーク王のカヌートによって、イギリスは支配されることになりました。まずデンマークの支配下に入ったのです。
 しかしさらに別のところから、新しい支配者が乗り込んできます。
 フランスの一大名であるノルマンディー公ウィリアムがイギリスを征服します。1066年のことです。このことをノルマン征服といいます。その戦いをへースティングズの戦いといいます。そこから王朝が築かれます。その王朝をノルマン朝といいます。

 まずデンマーク王が征服し、それをさらにフランスのノルマンディーという大名が征服したんです。もとはと言えばどちらもノルマン人です。逆に支配されたのがゲルマン系のアングロ・サクソン人です。イギリスは少数のノルマン人が、多数のアングロ・サクソン人を支配する国です。だから前に言ったように、イギリス人のことをノルマン人とはいいません。イギリス人はアングロ・サクソンといいます。
 それと同時にイギリスはフランスの子分になります。フランス王の家来のフランスのノルマンディー公が、イギリスを支配するという形になったからです。子分の子分です。子分でもワンランク下です。

 しかしこのあと、イギリスは子分はイヤだという。フランスは、何でだといって怒る。それでイギリスとフランスは仲が悪くなる。だから、このあとイギリスとフランスの間には百年戦争が起こります。
 ドイツとフランスは仲が悪い。イギリスとフランスも仲が悪い。隣同士で仲良くしていそうな感じだけれどもそうではない。それは日本もあまり言えない。日本と中国は仲があまり良くない。日本と韓国はもっと仲が悪い。隣同士の国というのは、歴史的に非常に仲が悪い国が多い。アジアの中で国同士がいがみ合うのは、アメリカにとって非常に都合のいいことです。こういう国は操りやすい。
 ただ日本はペリーが来る以前までは、朝鮮とも中国ともけっこう仲良かったんですけどね。その後、険悪な関係になった。
 

 ここでメイン三国ができた。やっとイギリスができた。その前にフランスができた。ドイツができた。イギリス・フランス・ドイツです。それにイタリアも。

 イギリス・フランス・ドイツ・イタリア、この4ヶ国は特に重要です。英、仏、独、伊。イギリス、フランス、ドイツ、イタリア。有名な外国は日本は漢字一文字で書く習慣があります。
 これで終わります。ではまた。



「授業でいえない世界史」 17話 中世ヨーロッパ ビザンツ帝国~百年戦争

2019-02-10 04:00:00 | 旧世界史7 中世ヨーロッパ

※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


【ビザンツ帝国】

 だいたいヨーロッパの1000年ごろまで行きました。ここ2~3時間で説明したた地域は、アルプス山脈の北側の、今でいうフランス、ドイツです。しかしこの地域は田舎です。ヨーロッパで進んだところはもっと東のほうです。そこに東ローマ帝国があります。
 西側は、以前に西ローマ帝国があったけれど、これは滅んだんです。滅んだから、田舎のゲルマン人が侵入してあちこちに国をつくっては滅んでいった。そのなかで生き残ったのがフランク王国です。
 中心は東方の東ローマ帝国です。ただこれが紛らわしいのは、ローマを支配していないのに東ローマ帝国というのはおかしいじゃないかということで、この時の首都はコンスタンティノープルといいますが、それ以前はビザンティウムと言ったから、東ローマ帝国ではなくビザンツ帝国と名前を変えたんです。
 しかし本当の世界の中心はどこかというと、もっと東の今のイラクとかイランあたりにはイスラーム帝国がある。イスラーム文化圏がある。ヨーロッパよりこっちが栄えてるんです。

 キリスト教の開祖のキリストさんはローマ人だったんですか。キリストさんはどこで生まれたんですか。エルサレムですよ。今でもよく爆弾が飛んでいる。
 ここをヨーロッパが征服するぞと言って遠征に出かける。結局200年もかけて遠征して、結局失敗するんだけれども、この過程で彼らは、ここは進んでいる、ここはすごいじゃないか、と気づく。イスラーム社会の文化に接触して、オレは田舎者だったんだ、と気づくわけです。
 こういう文化をヨーロッパに運んで来るのは商人なんです。商人は地中海を船で行き来している。それがイスラーム商人ビザンツ商人です。

 そのヨーロッパはさらに田舎の北のノルマン人という人たちが荒らし回っている、というところまで言いました。これが900年代~1000年代です。10Cから11Cです。

 ではその東の東ローマ帝国はどうなるか。さっき言ったようにビザンツ帝国と名前が変わります。これは西ローマ帝国が476年に滅んだあとも、約1000年間存続する。1453年まであるんです。つまりこのあともずっとある。この時のコンスタンティノープルは、今は名前を変えてイスタンブールといいます。1000年の都です。非常に有名な都市です。


【ユスティニアヌス帝】 また500年もどります。そのビザンツ帝国が支配した地域はどうか。西ローマ帝国が滅んだあとの6世紀、もう1回大帝国を奪い取るぞ、復活するぞ、という皇帝が出てくる。

 これがユスティニアヌス帝です。527年から565年まで約40年。政治のこと、領土のことは、次に言いますけれども、ここで問題になるのは、日本人が不得意なキリスト教会との関係です。
 ビザンツ帝国も西ローマ帝国も、キリスト教国であるということには変わりがなかった。しかし国が分裂し、そのあと西ローマ帝国は滅亡した。

 では生き残ったビザンツ皇帝はというと、この人は会社でいえば本店の社長だと思ってください。この社長はキリスト教のお坊さんの一番偉い人だって任命できる。しかしそのキリスト教会が今2つに分裂している。西の教会はローマ教会です。そのトップをローマ教皇といいます。

 もう一方の東のビザンツ総主教というのが、コンスタンティノープルにあるキリスト教会のトップです。そしてビザンツ皇帝はその両方の任命権を持っている。いってみれば、社長が東京支店と大阪支店の支店長を任命する権限をもっているようなものです。
 しかし問題は西のローマ教会です。オレは言うこと聞きたくない、独自の動きをしたいということで、東フランク王に神聖ローマ皇帝の王冠をかぶせて、政治的に結びついた、という話を前回したんです。ローマ教会から見れば、ビザンツ皇帝の支配下から脱して、独自に政治権力を持ちたいんです。


【皇帝教皇主義】 しかしビザンツ皇帝から見れば、俺は西のローマ教会に対しても命令権を持っているんだ、そこに命令を出すのはオレだ、と言いたい。これが皇帝教皇主義です。
 なぜなら、オレは東ローマ帝国の皇帝、ビザンツ皇帝だから、ローマ皇帝の権限を受け継ぐのはオレだ、西ローマ帝国は滅んだんだから、その権限を受け継ぐのもオレだ、だからオレがローマ教会に命令する、と考えた。

 だからローマ帝国を復活しようと、領土を広げていくわけです。それで大征服活動をしていきます。

 先に領土からいきます。このあとのビザンツ帝国は、いったん小さくなったけれども、ユスティニアヌス帝の時代の6世紀には多くの領土を復活しました。ギリシャを含めてイタリアまで。さらに広大な領土を治めた。ほぼ地中海を覆うまで。しかしこれは長く続かなかった。王様の個人的な勢いでやったからです。

 200年経って8世紀になると、本拠地以外にはギリシアの一部、それからイタリアの南の一部を領有するだけになります。
 さらに200年経って、10世紀頃にはますます減る。
 そして滅亡する14世紀になると、コンスタンティノープルの周辺だけになる。

 それでも1000年間モツんだから大したものです。日本人には意外と知られていませんが、こういうローマ帝国が繁栄していたんです。

 だからビザンツ皇帝は、ローマ教会に対して、俺の命令を聞け、ということをいろいろやっていきます。


【聖像崇拝禁止令】 それが、ビザンツ教会が726年に出した聖像崇拝禁止令です。

 神様は人間の目ではとらえられない、捉えられないものをなぜ彫るのか、そんなものを拝んだらダメだ、像をつくったらダメだ、キリストの像を拝ませるな、それは神を冒涜することだ、これはモーセの時代から決まっていることだ、と言うんです。

 これでローマ教会と対立する。ローマ教会はそんなこと言われたら困ると言う。困る理由は何か。それはあんたたちのいるビザンツ帝国は文化水準が高いから、字を読める者もけっこういて、頭がいい者もいるから理屈で説明してわかるけど、オレたちが教えているのは、あのゲルマン人だぞ、フランク王国だぞ、田舎の人間だぞ。こういう人間に理屈で説明して、キリスト教の難しい教えが理解できると思うか。何でもいいから、きれいな像を見せて拝ませる。これが一番てっとりばやいじゃないか。あんたの言うとおりにしたら、とても布教などできない。キリスト教の教えは広まらない。

 そう言ってローマ教会は反発するんです。それでビザンツ皇帝とローマ教皇は仲が悪くなる。


【東西教会分裂】 この聖像問題がネックになって、もともとビザンツ皇帝の支店みたいなものだったローマ教会が、独立して別会社になる。決定的なのが、1054年東西教会の分裂です。

 ローマにある西のローマ教会と、コンスタンティノープルにある東のギリシア正教会が正式に分裂する。これでキリスト教会は2つになったんです。
 今のキリスト教は3つある。1つはローマ・カトリック教会、2つ目はギリシア正教会、そして3つ目はこの500年後に出てくるのがプロテスタントという新しい宗派です。
 我々日本人に一番なじみの薄いキリスト教は、実はこのギリシア正教会です。今はその代表格がロシアです。ロシアはギリシア正教会を受け入れたキリスト教国です。
 ロシアは今やっているビザンツ帝国とは全然場所が違うじゃないか、と思うかも知れないけれど、1000年後にこのビザンツ帝国が滅ぶときに、ビザンツ皇帝の姪を嫁に迎えて、オレがその後継者だと名乗るんです。それはあとで触れます。

 この東西教会の分離の何十年かあとには、西ヨーロッパが、胸に十字架を縫い付けて征服活動をする。目指すはここエルサレムです。キリスト教の聖地、キリストが生まれたところを征服しに行く。

 この軍隊を十字軍といいます。さっき言ったように200年間かけて、何回も何回も行ったあげくに失敗する。しかしその間に、オレたち田舎者だったと気づくんです。進んだものがあるんだ。オレは知らなかっただけなんだ。早くマネして取り入れようとなります。

 そのビザンツ帝国は1453年に滅ぼされる。東隣に隣接するイスラーム教の国、オスマン帝国によってです。

 ビザンツ帝国が滅亡するとそれと同時に、残されたギリシア正教会を受け継ぐのはオレだと名乗り出たのがモスクワ大公国です。これがのちのロシアになります。

 十字軍で西ヨーロッパが征服しに行ったところはエルサレムです。ではエルサレムは、この時どうなっているか。イスラーム世界になっています。キリスト教の聖地をイスラーム教徒が支配している。

 実際には、その中にキリスト教徒もいっぱいいて、大きな混乱はなかく平和は保たれていたんだけれども、ここで本格的に血が流れ出すのはこの十字軍からです。


【封建社会】 ではこの頃の西ヨーロッパはというと、もともと未開の土地で、赤ずきんちゃんがいてオオカミがいる。そういう森に覆われたところを、ちょこちょこ開墾しだしていった。森の木を切り倒していった。

 だんだん農地が広がっていき、それに伴って食糧が増産して、田舎のヨーロッパがじわじわと・・・こういうのは目立たないけどボディーブローのように効きます・・・じわじわと力をつけて行った。

 そういった中で、田舎の親分さんは自分の土地を広げていくと、だんだんと王様の命令を聞かなくなる。王に税金を払わない。王様の役人が農地を検査しに行くと、帰れと追い返す。オレは検査を頼んでいないぞ、と追い返す。こうなると国の中に別の独立国ができたようなもので、こういう領主ばかりになると王様が困りだす。

 田舎の親分さんは王様の命令に対して、王様がなんだ、あさっておいで、と役人を追い返すんです。自分の領地に立ち入らせない。
 こういうのを不輸不入権という。不輸というのは税金払わない、輸送しないということです。不入というのは検査官を立ち入らせない、追い返すということです。
 こうやって田舎の親分さんの私有地が成立していく。こういう領主の私有地のことを「荘園」といいます。


【ローマ教皇の隆盛】 ではローマ教会のことに行きます。西のキリスト教会のことです。さっきビザンツ総主教のあるビザンツ帝国のことを言いました。

 1054年に正式に東西教会が正式に分裂したということは、ギリシア正教会のところで言いましたけれども、それは同時に西のローマ教会が正式に独立したということです。

 これがローマ・カトリック教会です。俗にカトリックをはずして、ローマ教会という。宗派でいうとカトリックです。こちらも自分の力を上げようと必死です。

 田舎の親分さんも、王に税金を払わなくていいように必死です。
 王様も、このままでは誰もオレの命令を聞かなくなる、自分の力を上げるのに必死です。

 まず対立するのは、この王様とローマ教皇です。

 田舎の西ヨーロッパでの中心はドイツです。ただドイツとはいわない。神聖ローマ帝国という。
 ローマを支配してもないのに、神聖ローマ帝国と名乗っている。それはおかしいじゃないか、と言われる。だから、そのうちにローマ支配をしますから、ローマ支配をしますから、とずっと政策の中心は、ローマ、ローマでいく。でも結局うまくいかずにローマを支配することはできません。

 その皇帝をハインリヒ4世という。11世紀のドイツの王様です。というより正式には神聖ローマ皇帝です。王にはいろいろランクがあって、王様のワンランク上が皇帝です。王様より偉いんです。


【カノッサの屈辱】 それに対して、ローマ教会のボスは教皇という。名前はグレゴリウス7世という。この2人がケンカする。

 なぜケンカするかというと、帝国の領内にある教会のお坊さんを誰が任命するかという問題です。ローマ教皇は、教会のことは当然オレが任命すると言う。それに対して神聖ローマ皇帝は、いや教会は土地をもっている領主だから、オレの子分だ、だからオレが任命するんだと言う。
 その任命権をめぐって、お互い争って対立する。


 そしたらローマ教皇が神聖ローマ皇帝に対して、それならおまえは破門だと言う。破門というのは、キリスト教徒と認めないということです。これは我々日本人にはあんまりピンと来ないけど、キリスト教社会の中でキリスト教徒ではないと名指しされた人間は、ほとんど人間ではないと言われたのと同じです。

 人間ではない者を、皇帝の子分の大名たちが、皇帝として拝めるわけがない。皇帝にとってローマ教皇からの破門はそれだけ恐ろしいものです。
 破門されて、おまえはキリスト教徒ではない、だからキリスト教の仲間に入れないと言われたら、ますますこの皇帝は孤立していく。そうすると子分の領主が誰もついてこなくなる。

 こういう形で、神聖ローマ皇帝に対して、ローマ教皇と地方の領主であるドイツ諸侯が手を組むわけです。この皇帝の子分であるドイツ諸侯は、もし破門が解除されなければ、お前を皇帝とは認めないと決定する。皇帝はこれが怖くて怖くて、もうローマ教皇に謝罪するしかない。

 孤立した皇帝は謝りに行った。謝った場所がイタリア北部にあるカノッサというところです。このローマ教皇がたまたまそこに滞在していたんですね。雪降る中にわざわざ出向いて行って、謝りますからどうぞ中に入れてください、と言う。
 しかしローマ教皇は、オレは会わないという。皇帝は三日三晩、裸足で立ち尽くした。そして四日目に、そこまで言うなら仕方ない、会ってやろう、となった。そこで皇帝は教皇に頭を下げた。皇帝がです。それでやっと破門は取り消しになった。それでどうにか皇帝の座を維持できた。
 これがカノッサの屈辱です。このことを皇帝のハインリヒ4世は一生忘れない。1077年です。
 こうやって皇帝と教皇を比べると、日本人の感覚では皇帝が偉く見えるんだけれど、ヨーロッパでは教皇が強い。キリスト教のボスが皇帝よりも強い。そのことを天下に知らしめることになった。

 このローマ教皇の絶頂期が、このあと12世紀、1100年代のインノケンティウス3世の時です。何世と言っても王様じゃない。ローマ教会のボスです。彼のときが全盛です。

 「皇帝は月、教皇は太陽」。オレが太陽だ、皇帝は月のようなもんだ、俺がいなければあいつは輝けない、と彼は言ったといいます。 


【十字軍】 その間、さっき言った西ヨーロッパという田舎は、エルサレムを征服しに行く。これを十字軍といいます。エルサレムはイエス・キリストさんが生まれた所、キリスト教の聖地なんだけれども、そこを今イスラーム教徒が支配している。それを奪い返しに行くのです。何のためか。キリストの栄光のため、神の国を作るため。それで人を殺すんです。さんざん殺します。

 殺し方はキリスト教徒のほうがひどい。イスラーム教徒はそこまでもムチャクチャに人を殺さないけど、キリスト教徒は無残に殺します。
 コロンブスがアメリカ大陸を発見した後などは、アメリカ大陸の現地人は悲惨ですよ。アジアも悲惨ですよ。日本はすんでのところで植民地にならなかったけれども。

 十字軍の目的はキリスト教にとっての聖地、エルサレムを取り戻すため。

 この時には・・・これもあとで言うけど・・・セルジューク朝というイスラーム帝国が攻めて来ている。
 このエルサレムはイエス・キリストの生まれた場所です。イエス・キリストはローマ人じゃない。だからここを取り戻しに行った。この十字軍をやるぞと言ったのが、1095年です。
 キリスト教会の会議のことを、なぜか公会議という。これもまたわかりにくい。公の会議とは何かな、国会かな。いやキリスト教の会議です。
 これはローマ教会のボス、つまりローマ教皇が招集するんです。会議を開くぞ、キリスト教徒は集まれと言う。こう呼びかけたのがローマ教皇ウルバヌス2世です。キリスト教徒が会議を開いて何を決定したか。戦争するぞ、ということを決定する。
 そして大名たちや王たちに、戦争にいこうと呼びかける。十字架を付けて。これが神の栄光なんだと言って。どんどん殺していく。十字軍というのは征服軍です。これを命令したのは皇帝じゃない。まして王でもない。キリスト教会の教皇です。皇帝よりもオレが上なんだ、オレに命令する権利があるんだと言って、戦争さえも行っていく。神様のためだと言って、戦争を正当化するんです。一神教世界ではこういう戦争の正当化がよく起こります。
 これが200年も続きます、10回近く、何回も何回も、何十年に一度ずつやっていくんです。しかしその結果はというと、エルサレム回復には失敗します。


【商業の発達】 ただこの間、さっき言ったように、オレたちは田舎者だ、もっと進んだ世界があった、と気づく。

 まずそこに商人が乗り込んでいく。もっとも利益を得たのが北イタリア商人です。なかでもヴェネチア商人などはがっぽり儲ける。

※ イスラーム商人が支配する地中海世界では、十字軍運動を契機にイタリア諸都市の商業活動が活発になった。商業とともに起こってきたイタリア金融業の成長には、手形、小切手などを普通に使っていたイスラーム商人の影響が大きい。(宮崎正勝 お金の世界史)

 商工業が発達していく。商売人たちが力を蓄え仲間を組む。これをギルドといいます。今でいう商工会議所みたいなもの、商人の連合会みたいなものです。

 そして征服活動があっている間に、田舎のヨーロッパにお金が入ってくる。お金は人間の発明です。お金が流通する社会というのは、かなり高度な文明です。そこでしかこれは成り立たない。ヨーロッパはやっとこの12世紀ぐらいに、地方にもお金が回りだした。

 ここまで200年かかる。11世紀から13世紀まで200年です。何回も、何回も、十字軍は7回もやる。個別にはもう見ません。200年間これが繰り返し続くんだということです。その200年の間にヨーロッパが発展しだす。戦争によって多くの人は苦しみますけど、その一方で富を蓄える人もいます。彼らが蓄えた富によって、貨幣経済が発達しだす。

※ 1215年の第4回ラテラン公会議では、支払い期日を守らない債務者によって債権者の損害が発生した場合、利子が認められるとされました。これが教会法の抜け穴となります。・・・人々は資金の貸し付け時に、極端に短い返済期限を設定し、それ以降の期間についての返済の遅延を延滞利息として計算する、という方法をとりました。・・・このような手法を駆使し、銀行業で華々しく成功する事業家一族が次々に登場します。(宇山卓栄 経済)


【農民の自立】 その一方で地方の封建領主は潰れていきます。そうすると・・・それまで田舎の西ヨーロッパの農民は農奴といってほとんど奴隷と変わらなかったんですよ・・・こうやって封建領主が力を失うと、この農民たちが力を持ちだす。勤勉に働くとお金を貯められる。お金を貯めて自分の土地を買ったら農奴身分から解放される。


【ドイツ】 では個別に見ていくと、田舎のヨーロッパの中心はドイツであった。正式には神聖ローマ帝国といいます。しかしここの皇帝とは名ばかりです。それほど力はない。なにせカノッサの屈辱で、皇帝が裸足になって三日三晩、ごめんなさいと言い続けないと、王でいられなかったような皇帝だから。


 その300年ぐらい後には、皇帝を出す家は、ほぼ家柄が決まっていく。これがハプスブルク家です。

 ハプスブルク家の王が、だいたい親・子・孫とずっと続いていく。なんでこうなったか。強かったからじゃない。一番力がなくて無害だったからです。わざと弱い王を立てた。
 しかしこのあとハプスブルク家は、300年の間にじわじわと力をつけていく。あれよあれよという間に。このあとも出てきます。ドイツはハプスブルク家です。神聖ローマ皇帝はハプスブルク家という。



【イギリス】
 今度はイギリスです。9世紀以降ノルマン人による侵略が続き、1066年に、すでにフランスに領土を確保していたフランス貴族となっていたノルマンディー公ウィリアムによって征服されます。この征服をノルマン征服といい、そのイギリス王朝をノルマン朝といいます。これはすでに言いました。

 ノルマン朝以後、13世紀、1200年代のジョン王という人は、まずフランスとケンカします。当時イギリスはフランスの中に領地を持っていて、イギリス王はフランス王の家臣であるという関係だった。


【マグナ・カルタ】 ジョン王はフランスとケンカして、その領地を全部奪われてしまう。それに家来たちは腹を立てて、おまえの言うことなど聞けるか、逆に王に対して命令する。これだけのことを守れと。家来がですよ。家来が王様に要求する。この要求がマグナ・カルタといいます。1215年のことです。

 マグナというのは大きいという意味です。カルタは約束です。これを漢字で書くと大憲章といいます。大憲章の憲は、憲法の憲なんです。憲法のルーツはここにあります。
 憲法とはバカな王に対して、バカな事をするなよと、家来が王に要求したものです。上から下に命令するんじゃないです。逆に下から上に要求したんです。これが憲法です。だからこういうことするな、こういうことするときには、会議を開いて国民の意見を聞いて、その承認を受けろ、そういう要求をしている。
 日本人の多くは、日本国憲法を「上が下に」与えたものだと思っています。自分たちが守らなければならないものだと。これ違いますよね。憲法は「下が上に」要求したものです。権力はよく腐敗します。そうならないように守らなければならないことをしっかり書いて上に要求したものです。憲法を守らなければならないのはまずは国なのです。国は憲法の抜け道を常に探します。憲法九条の問題はまさにそうですね。

 税金を上げる時には、オレたちの了解をもらえ、勝手にするな、これがマグナ・カルタです。これが憲法の原型になっていく。貴族が王に勝手に税金あげるなという。まずはお金のことです。

 だからこの国は基本的にお金がない。勝手に税金を上げられないからです。ではなんで稼ぐか。これが海賊なんです。ノルマン人自体が海賊だから海賊行為はお手のものです。

 海賊で何をするか、海でどんどんこのあと植民地をとる。海賊は植民地をつくる。だからころの小さな島国はつい100年前まで、世界最大の植民地帝国を築いていた。大英帝国です。グレートブリテンです。アメリカの前の世界の覇権国はイギリスです。

 もう一つは植民地の奴隷で稼ぐ。アフリカ人をアメリカに連れて行って売り飛ばす。1人あたり1000万ぐらいかな。

 奴隷はロボットと同じぐらい高価です。どんな精巧なロボットでも、コーヒー沸かせと言ってもできない。これが人間の奴隷だったらやってくれる。だから奴隷はものすごく高価です。だから高価で売り渡す。人間が人間を売り渡すんです。
 先のことを言うと、これでお金を儲けて、そのお金で産業革命が起こります。奴隷貿易で稼ぐのです。あこぎな話です。

 話が先に行きすぎました。もとに戻します。
 この時の貴族の要求は、議会を開けということです。とにかく王に、議会だ、議会だ、俺たちの意見を聞け、と言う。議会は、王が下の者の意見を聞く場です。


【百年戦争】 しかしイギリスはフランスとの仲が悪い。

 そこでフランスがカペー朝からヴァロア朝に王家が変わった際に、王位継承をめぐって戦争が起こる。100年間も。これを百年戦争という。1339年からです。ヨーロッパは戦争だらけです。百年戦争、三十年戦争、ざらです。
 日本だって、関ヶ原の戦いとかあったじゃないか、と言って、関ヶ原の戦いが100年も続いたと思っている人がいます。これはたった1日で終わる。もっと言えば半日で終わる。日本は半日で300年の平和を維持する。

 ここでは百年戦争です。日本は平和が基本です。例外的に戦争がある。ヨーロッパはその逆です。戦争が基本です。例外的に平和がある。

 百年戦争は英仏間の戦争です。英はイギリス、仏はフランスです。こうやってヨーロッパの有名な国は、漢字一文字で出てくる。

 最初はイギリス有利だった、これを跳ね返したのが、フランスの16才の少女だったというのです。ジャンヌ・ダルクという16歳の田舎少女が出てきて、フランス軍を率いてイギリスに戦いを挑む。そして勝つ。

 この話は不思議です。私にはよく分からない。しかも最後は魔女裁判にかけられて火あぶりの刑で死ぬんです。

 これはイギリスの撤退が政策的に進められていく中で、一種の話題作りと戦意高揚のためにでっち上げられたフランスの広告戦略であり、ジャンヌ・ダルクはそれに利用された広告ガールに過ぎないのが実体でしょう。

 これでフランスがイギリスに勝ちます。終わったのが1453年です。このことでイギリスはフランス国内の領地を失い、フランスとははっきりと別の国になります。

 この戦いの中心地はフランドル地方です。フランスみたいですけど、今のベルギーです。オランダの南にある小さい国です。ここはけっこう豊かなんです。狭いけど、お金になる地域です。フランスもイギリスも本音ではここが欲しかったのです。

 ここが何をつくっているかというと、ウールです。ウールというのは毛織物です。

 我々が着ているのは木綿です。逆にいうと、ヨーロッパには木綿がないんです。だからこのウールに頼るしかない。これがこの時代の衣料品事情です。その生産地がフランドル地方で、これで儲けている豊かな地域です。

※ 百年戦争中、非常に興味深い現象が起こります。戦場となったフランドル地域を離れて、フランドル毛織物業者が大挙してイギリスへ引っ越しをし始めます。戦争によって経済活動が阻害され、原料の羊毛が安定的に入手できない状況に追い込まれたフランドル毛織物業者たちは原料の生産地であるイギリスに海外移転します。(宇山卓栄)

※ 十字軍運動の中で頭角を現したのが、銀の取引で王と諸侯に対して担保をとる前貸しにより利益を上げたロンバルディア人だった。ちなみに彼らの一部は、14世紀にロンドンのシティに移住し銀行家として活躍した。ロンドンの金融の中心ロンバード街の名の起こりは「ロンバルディア」にある。(宮崎正勝 お金の世界史)

※ ヨーロッパ最古のアラビア数字の使用は、10世紀のこととされる。イスラーム世界を媒介にしてインドの記号が移植されたのである。
 イスラム世界に起源を持つ簿記は、1340年にジェノバで「複式簿記」として定着した。(宮崎正勝 お金の世界史)


 この後の衣料品事情について触れておきます。
 真夏でも毛糸を着ておかないていけない。だから汗で臭い。木綿がない時代に、上質なウールはなくてはならないものです。

 ヨーロッパ人がアジアに行って、涼しい木綿を知ると、これが欲しくてたまらない。しかしつくれない。気候が合わずに栽培できないんです。これをいかに安く仕入れるか。それが課題になる。この仕入れ先がインドです。インドには木綿がある。
 これに目をつけたのがイギリスです。こういった細かいところに、近代に結びつく要素がある。

 毛糸しかなければ、ウールで満足してたけど、それは木綿を知らないからです。毛糸なんか夏に着ていたら、日本人はバカだと思う。あんなのをよく着るぞと。しかしそのウールしかないわけです。このウールは洗うと縮むので、なかなか洗うことができません。
 しかも彼らは風呂にはいりません。ヨーロッパで、なぜ香水が流行るかというと、彼らは不衛生で臭いからです。夏に毛糸を来ている人には臭くて近寄れない。香水はそのにおい消しです。日本人は毎日風呂に入る。だから香水なんか本当は要らないのです。

 サングラスといっしょで、青い目のヨーロッパ人には、光を防ぐサングラスは意味がある。しかし黒い目の日本人には意味がありません。それといっしょで、香水は日本人には意味がない。
 それにトイレがない。どうするか。オマルの生活です。用を足したあとは、二階からそのまま捨てる。オーイ、どけどけ、と言って、バシーっと道端にものを捨てる。だから中世のヨーロッパの都会の道ばたは糞尿の山です。

 中世のヨーロッパの都会は、お洒落だというイメージがありますが、これがヨーロッパの都市の実体です。この時代の都市は我々の想像を絶する汚さです。
 衛生的に劣悪です。そこで何が流行るか。伝染病です。ペストです。真っ黒に皮膚がなるから黒死病という。これでとんでもない数の人が死にます。
 これで終わります。ではまた。



「授業でいえない世界史」 18話 中世ヨーロッパ バラ戦争、レコンキスタ、ロシア

2019-02-10 03:00:00 | 旧世界史7 中世ヨーロッパ

※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


 前回はイギリスの百年戦争まで行きました。1339年から1453年、約百年間、本当は百年以上です。イギリスフランスの戦いです。英仏と書いています。こういうふうに、ヨーロッパの主要国は漢字1文字で表す慣例は今でもある。

 このイギリスとフランスがちょっとねじれているのは、イギリスから見ると、イギリスの領土はフランスにもまたがっていたんです。今はイギリスとフランスは別の国でしょ。しかしイギリスの領土がフランスの1部にまたがっていた。
 これは正確に言うと、フランスの王様の子分のノルマンディー公というフランスの大名が、海を越えたイギリスを征服して今のイギリスという国ができたんです。だからこのフランスから見るとイギリスはオレの子分だ、ということになる。それが100年もかけて戦ってる。
 おまけとしては16歳の少女がフランスを勝利に導いた。有名な少女です。これがジャンヌ・ダルクです。最後は火あぶりいで殺されましたけれども。

 この14世紀というのは、もう一つ、ヨーロッパ人が3人に1人死ぬ。人口の3人に1人が死ぬということは、今の日本の人口からいうとどのくらい死ぬのか。日本人の1億2000万の3分の1というと、4000万人が死ぬ。恐ろしい死に方です。
 これが伝染病の黒死病、つまりペストです。非常に不衛生であった。尾籠な話までしました。トイレがないから、どんどん二階から捨てていた。ヨーロッパの中世の町は不衛生きわまりない。だから疫病が流行る。


【バラ戦争】 やっとこれが終わったかと思うと、イギリスはまた30年間にわたって戦争します。これをバラ戦争といいます。1455年から1485年です。15世紀のイギリスは戦争に明け暮れます。イギリスはもともと海賊の国です。ノルマン人の別名はバイキング、海賊です。まだ海賊に飽きずに、のちにアメリカ大陸を見つけたらそこでも海賊をやる。王自らではないけども海賊を雇う。
 この40年間の戦争をなぜかバラ戦争という。今までの王家はランカスター朝といいます。それが百年戦争で負けて立場が悪くなると、皇位継承問題で「おまえ、やめろ、オレが代わりに王になる」といったのがヨーク家です。ではバラというのはなぜか。
 日本でも家紋がある。家の紋章です。天皇家は菊の紋とか。ヨーロッパにもあったんです。ランカスター家の家紋は赤いバラだった。ヨーク家の家紋は白いバラだった。どっちもバラだから誰が名付けたのか、バラ戦争です。一種のしゃれです。バラの花がいっぱいあって、華麗な戦いのようなイメージが起こるかも知れないけど、全然華麗じゃない。凄惨な戦いです。



【フランス】
 今度はイギリスと戦ったフランスですけれども、フランスも1328年までカペー朝が続いていましたが、それがヴァロア朝に変わるんです。王家が変わったんです。
 この王位継承に異をとなえたのがイギリスです。そしてそこから起こったのが、百年戦争です。ちょっと順番が逆になりました。
 この百年戦争には、どうにかフランスが勝った。イギリスの領地があったフランスの国内からイギリスの領地を奪いとって国内統一に成功していく。
 それからもう一つは、やっぱりイギリスにも議会が出てくるように、フランスにも三部会という会議がある。これは身分制議会です。一番偉いのが王とお坊さん、次に貴族、その次が平民。身分ごとに会議を持っている。
 この辺の感覚も日本人にはちょっとわかりにくいんですね。ヨーロッパは日本と違って、強い身分制社会です。これも王に要求をつきつける場所です。議会をもっているかどうか、これは日本との大きな違いです。



【イベリア半島】
 イベリア半島というのは今のスペインです。スペインがある半島をイベリア半島といいます。
 ここはこの時代から500年くらい前に、南のアフリカからキリスト教徒でない人たちが攻め上がって国をつくっていた。それがイスラーム教徒です。
 スペインはもとイスラーム教徒の国だった。紀元1200年ころまで。南のアフリカからジブラルタル海峡を渡って、イスラーム教徒が乗り込んできてイスラーム教徒の国家になった。
 そこにキリスト教がじわじわと勢力を盛り返して、北の方からキリスト教徒が圧力をかけてきます。そういうふうにイスラーム教とキリスト教がミックスしている地域なんです。このほかにユダヤ教徒もいました。

 イベリア半島には、イスラム教ユダヤ教キリスト教、こういういろいろな宗教がありました。この中で力を持ち出すのがキリスト教です。キリスト教は自分とは違った宗教の共存を許しません。ここは全部キリスト教国にするんだ、異教徒は追い払らおう、という。彼らはこれを、追い払い運動とは名づけないで、国土を回復する運動という。回復するというわりには、ここが全部キリスト教の国になったことはないんですけど、なぜかそう言うんです。これが国土回復運動です。これをレコンキスタといいます。異教徒の排除です。キリスト教以外は認めないということです。
 キリスト教徒以外は人間じゃない。こういう発想をする。キリスト教徒以外は人間じゃなかったら犬猫といっしょです。奴隷にしてかまわないという発想になる。キリスト教徒ではない黒人を、アフリカから奴隷として連れて行って何とも思わない。そういうことに繋がっていきます。

 さらに複雑なのは、ここにも多くのユダヤ教徒が多数いたことです。ユダヤ教徒はこれから約1000年前に国を失って、世界中に離散、これを英語でディアスポラというんですけど、国を失ったまま信仰だけ持ち続けている人たちです。彼らもまたイスラーム教徒といっしょにこのイベリア半島から追い出されていきます。
 彼らユダヤ教徒は、ユダヤ教徒独自のネットワークを使いながら、その一部はのちのオスマン帝国内に住み着いていきます。
  またその他のスペインにとどまったユダヤ人は、のちオランダに移住します。それが1492年です。この年はコロンブスがアメリカ大陸を発見した年でもあります。この年をきっかけにスペインのユダヤ人はオランダに移住します。
 1500年代のオランダの繁栄には、このユダヤ人たちが大きな影響力を持ちます。彼らは貿易国家オランダの中で、その中核となるお金の両替や貿易決済などの金融業を営みます。
 さらに1600年代になって、オランダ総督のオレンジ公ウィリアムが、1688年の名誉革命のあとイギリスに乗り込んで国王ウィリアム三世となると、それにともなってさらにイギリスに移住し、そこでもまた金融業に従事します。
 本格的な中央銀行である1694年のイングランド銀行の成立はこういう動きの中で起こります。



【ロシア】
 ヨーロッパの歴史は、なにか日本の歴史と違うな、という感じです。とにかく、このあと起こるのはぜんぶ戦争です。戦争、戦争です。本格的にこのあとヨーロッパが戦争しはじめます。
 そういう戦争の結果、ヨーロッパが軍事的に強くなるんです。だから文化水準が高かったから世界を征服したというよりも、ヨーロッパの場合には軍事力が強かったのです。だから世界に乗り出して支配していくようになった。

 それからもう一つ言うと、この百年戦争が終わった1453年というのは、もう一つ大事なことが別のところで起こっています。
 これがビザンツ帝国の滅亡です。これも1453年です。ビザンツ帝国、つまりわかりやすくいうと東ローマ帝国です。西ローマ帝国が滅んだ後のヨーロッパの中心はもともとこの国だった。それが滅んだんです。千年の都が。
 ここはローマ・カトリック教会とは違うキリスト教の宗派だった。これをギリシア正教といいます。このビザンツ帝国の首都が今のイスタンブールです。この時はコンスタンティノープルと言います。
 これが滅びると、ここのギリシア正教会も滅びるのかというと、それはオレが面倒見ると言った国がある。ビザンツ帝国が滅んだとき、その皇帝の姪を后にもらっていた関係から、ビザンツ皇帝の跡継ぎはオレだ、と名乗った国がある。
 それがモスクワ大公国です。これが発展したのが今のロシアです。ここから本格的にロシアが始動します。ロシアの首都モスクワのことを第三のローマと言ったりするのはそのためです。
 だからロシアの宗教は、同じキリスト教でも西ヨーロッパのキリスト教とは違う。ギリシア正教という別の宗派です。その時のロシアの王様をイヴァン3世といいます。



【中世ヨーロッパの文化】
 15世紀までのヨーロッパ、ここまでをヨーロッパ中世といいます。16世紀から近世というんだけれども、この中世文化の特徴を3ついいます。
 一つ目はスコラ哲学です。このスコラが訛って、君たちが必ず知ってる英語になる。スクールです。学校です。学校のルーツは、このスコラ哲学のスコラです。スコラとはという意味です。もともとは勉強なんかする人間は暇人なんですよ。
 なんで暇していて食っていけるのか。ギリシアの昔から日本と違ってヨーロッパは何を持ってるか。何を持っているから勉強できたのか。働かなくてよかったのか。暇ができたのか。奴隷社会だったんです。ギリシアのアテネは人口の3倍くらいの、スパルタとかはその10倍ぐらいの奴隷がいるんです。ローマ社会も奴隷社会です。だから暇です。暇になったら人間は勉強する。これが文明ですね。普通はみんな忙しくて勉強する暇なんかないから、恵まれた人たちの哲学です。
 文明以前の社会は、暇なときは寝っ転がっているんです。またはおしゃべりしているんです。それでなければみんなでお祭りしているんです。そのことが悪いとは言いません。ただなぜこんな勉強する社会になったのか、考えてみれば不思議です。
 これを文明社会に応用すると、学生は暇だからで勉強できる。仕事をし出すと勉強したくても、暇がなくて勉強できない。仕事しながら勉強するのは大変です。暇なときにこそ勉強すべきです。そんな時間は一生のうちでそれほどない。

 二つ目です。そこで使われている書き言葉は何か。この時代は今のフランス語やイギリス語やドイツ語ができつつあるんだけれども、勉強には使わない。勉強に使うのは、古代ローマで使われていた言葉、ラテン語です。これはローマの言葉です。正確にいうとローマ帝国の言葉です。

 三つ目です。スコラ哲学というのは、何を勉強するのか。勉強と言えば、キリスト教です。このキリスト教の考え方をまとめたのが「神学大全」です。ヨーロッパで神といえばキリスト教しかない。ほかに仏教大全とかありません。神学といえばキリスト教です。
 これをまとめたのが、トマス・アクィナスです。彼が偉いのは、キリスト教の考え方の中に、キリスト教とは全然違ったギリシャ哲学の考え方・・・これが今の科学に近いのですが・・・そういう科学的なものの見方を取り入れたことです。
 矛盾するものを一つにまとめて矛盾がないように見せるという非常に不思議なことをやった。違った意見をまとめて、まとまったように見せる才能というのは、正しいものを真正面から追求する才能とはぜんぜん別の才能です。
 これで終わります。ではまた。



「授業でいえない世界史」 19話 中世ヨーロッパ 中世都市と商業

2019-02-10 02:00:00 | 旧世界史7 中世ヨーロッパ

※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


【都市と商業】
 ここから商業にいきます。

 地図を見ると、アルプス山脈がこんなところにある。マッターホルンとかあるんです。その北はローマ帝国から見ると田舎だったんです。
 ではどこがヨーロッパの都会かというとコンスタンティノープルです。当時はコンスタンティノープル、今のトルコのイスタンブールです。ここが中心です。コンスタンティノープルはビザンツ帝国の首都です。千年の都といわれる。
 でも本当に世界で最も栄えてるのはここじゃない。もっと南東のイスラム世界です。
 だから活動する商人も文明が高い順でいうと、まずはイスラム世界のイスラム商人です。次がビザンツ帝国のビザンツ商人です。物を運ぶのは、新幹線もなにもないから、大八車で引いてもラチあかない。何で運ぶのか。大八車で運ぶのと、船で運ぶのとどっちが効率的か。風の知識さえあれば断然、船なんです。その海がこの地中海です。
 まずこの地中海ルート。イスラムもこの地中海に出れます。コンスタンティノープルも地中海に出れます。
 そこにヨーロッパがエルサレムを軍事征服をする。エルサレムというのはキリスト教の聖地で重要な都市です。200年かけて征服しようとしたが失敗した。これが十字軍です。失敗したけれども。
 そのことによってこの地中海商業圏に西ヨーロッパ勢が入ってくる。これは儲かる、オレたちもおこぼれにあずかろう、となる。そうすると、イタリア半島の西の人間よりも東の人間が地中海に出やすいです。これがイタリア半島の東にあるベネチアです。ベニスともいう。海の中に浮かんだ都市です。今も車が走れない都市です。ぜんぶ船で行く。水路で移動する。ここが繁栄していく。ここを中心にヨーロッパとイスラム世界の交易が発達する。


【ビザンツ商人】
 この地中海には、それ以前からビザンツ商人が活躍していました。このビザンツ帝国というのは、何回も言うように昔の東ローマ帝国のことです。この首都がコンスタンティノープルという都であった。
 ここがヨーロッパの中心で、そこから地中海に乗り出してイスラム圏と東西交易をはじめる。地中海を渡ってイスラム世界と貿易する。それで一時はビザンツ商人が中継をしてガッポリ儲けた。それで繁栄した。
 この利権を奪ったのが、さっき言ったベネチアです。地中海利権を奪われると、このビザンツ帝国は成り立たない。農業国ではないから。商売で儲けている国だから。
 第4回十字軍などはエルサレムを攻めずに、このコンスタンティノープルを攻めます。これは本末転倒もいいところです。味方を攻めています。これを仕掛けたのがベネチア商人です。つまり十字軍という聖地回復運動は、ベネチア商人によって、地中海貿易の利権獲得という別の目的にすり替えられたのです。
 その被害者がビザンツ帝国です。その利権を奪ったのがベネチアです。


【ムスリム商人】
 ビザンツ商人が取引していたのがイスラム商人です。彼らをムスリム商人という。イスラム教徒のことをムスリムというからです。彼らはイスラム商人です。
 彼らムスリム商人が地中海に出る時には、今はここにスエズ運河がありますが、その横にカイロ、さらにカイロの近くに港町のアレクサンドリアというところがあって、そこから地中海に出る。それでカイロが繁栄する。

 アフリカのことをここでだけ言うと、アフリカの北部にも国があった。アフリカは未開の土地ばかりじゃない。文明があった。
 アフリカにもちゃんと国があったし非常に栄えた。なんで今アフリカは遅れているのか。それはこのあとの500年後、ぜんぶヨーロッパの植民地にされて、ヨーロッパ人がアフリカの勇壮な男たちを根こそぎ奴隷として連れて行ったからです。だから人手不足で社会が荒廃していく。
 一度そういうことやられると水田といっしょで、水田を豊かにするのは何年もかかるけど、一度荒らされると水田はなかなかもとに戻らない。だから今でもまだアフリカの社会は回復していない。その原因はヨーロッパ人の侵略です。


【北イタリア商人】
 今この地中海商業圏というのをやっています。
 このあと田舎であった北部ヨーロッパにも商業権が出てくる。これを北ヨーロッパ商業圏といいます。フランスとドイツの間、ここをフランドル地方という。今のベルギーです。ここがヨーロッパを代表する毛織物の産地です。綿織物はヨーロッパにはありません。
 そこに出てくるのが北イタリア商人です。そのきっかけになったのが、さっき言ったように征服運動です。十字軍です。田舎のヨーロッパ人が、エルサレムをイスラム教徒から取り戻すぞといって、200年かけて7回も行く。でも成功しない。
 しかし、そのことでヨーロッパにプラスになったのは、これで北イタリアの商人が活躍しだして、金儲けしだしたことです。
 進んだイスラム世界の文化が、ヨーロッパに伝えられた。それでヨーロッパが豊かになっていく。このことが重要です。その運び屋となった都市がベネチアです。さらにこの都市は地中海貿易の利権を、ビザンツ商人から奪っていきます。
 もう一ついうと、ベネチアはイタリア半島の東にありますが、もう一つ、西側に都市がある。ジェノバです。これが二大都市です。ここが儲け出す。

 このジェノバが大事なのは、ここの船乗りの一人にコロンブスがいるからです。彼はもともとジェノバの船乗りです。しかしジェノバの商人は彼の企てを支援しなかった。だから彼はスペインの女王のところに行って、話を持ちかけます。こういう企画がある、プロジェクトがある、一枚噛みませんか、金さえ出してもらえれば、オレが行きますよ。そうやって西回りでインドに行こうとした。
 コロンブスは、アメリカ大陸を発見しようとして行ったんじゃない。インドに行こうとしたんです。そしたら予想より早く着いた。彼は死ぬまでそこをインドだと信じていた。だからそこに今でも西インド諸島という名前があります。だから死ぬときには大ウソつきです。歴史に名前が残っただけで、死ぬときには不幸です。
 しかしコロンブスが見つけたアメリカ大陸との貿易は、このあとヨーロッパに莫大な富をもたらします。
 そのことによってヨーロッパ人が、それまでの二大商人であるビザンツ商人やムスリム商人の優位を覆す。ここから田舎のヨーロッパ市場が盛り上がっていくんです。しかしそれはもうちょっと後のことです。

 それ以前、この北イタリア商人が、東のムスリム商人たちから欲しがったのは何か。ヨーロッパには絶対ない香辛料です。香辛料というのはスパイスです。肉を食うのに、冷蔵庫がないから、肉を保存したくてたまらない。そういうときに胡椒、スパイスを振りかけると保存できる。肉が腐ると臭いから、腐りにくくしたい。だからこれが欲しくて、欲しくてたまらない。これをどこから手に入れるか。それがインドです。
 これが非常に珍しくて高く売れた。すると胡椒バブルが起こって、胡椒1グラムを金1グラムで買う。つまり金といっしょです。しかしバブルは、数十年でストーンと落ちますけど。
 バブルの間は金と同じ値段で売れる。それならインドに行くぞ。ここでインド貿易に火が付くんです。
 これで終わります。ではまた。




「授業でいえない世界史」 20話 中世ヨーロッパ 北方商業圏と東西交易

2019-02-10 01:00:00 | 旧世界史7 中世ヨーロッパ

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 いま12~3世紀の商業のことなんですよね。中心はヨーロッパの北なんですか、南なんですか、伝統的なものは。

 今は北が栄えているから、北だと思いがちなんですけれども、実は南の方なんです。伝統的には、1000年前は。
 十字軍がむかったエルサレムは東にある。イスラーム世界というのは、もっと南東のここらへんにあるんです。ではコンスタンティノープルというのはどこにあるか。
 ビザンツ帝国の都は。ギリシアがあって。ここは黒海といって海です。まん中は地中海です。その南はアフリカです。そしてジブラルタル海峡を越えると大西洋です。黒海の入り口のここがコンスタンティノープルです。
 十字軍というのは・・・ちょっと補足すると・・・イスラームがエルサレムを取るんです。もともとエルサレムはコンスタンティノープルを拠点とするビザンツ帝国(東ローマ帝国)の領土だったんです。そのビザンツ帝国が自分だけでは戦えないということで、ローマ教皇に助けを求めたんです。
 それで援軍として遠征軍を送ろうとして、エルサレムまでヨーロッパ軍が攻め込んだんです。これが十字軍です。
 十字軍というのは十字架・・・キリスト教の象徴は十字架でしょう・・・その十字架を胸に縫い付けて、オレはキリスト教徒だといって戦うわけです。ひどい殺しかたをしていきます。
 さらに変なことには、そのうち物資輸送でベネチア商人が、貿易の利益を求めて、助けを求めたこのビザンツ皇帝を滅ぼしに行くんです。これは敵が違うんですよ。助けを求めたから、その相手の敵のイスラムを殺しに行ったのに、助けを求めた本人を潰すんです。
 これがなぜかというと、商売の利権を奪いたいからです。こんなことをやってベネチアというのは、栄えていきます。旅情豊かなロマンのベネチアみたいに日本では映画とかでよく言われますけれども、歴史的にいうととんでもないところです。やったことを見ると、仲間を裏切るのは当然、という感じです。


【ルネサンスと交易】 十字軍のあと商業が栄えて、このベネチアがこのコンスタンティノープルに商館を置く。ビザンツ商人を潰して自分たちの拠点、支店を置くんです。のちビザンツ帝国はもう一回復活するんですけどね。細かいことはカットします。
 でももうちょっと補足しないといけないですね。進んだイスラムの文化が、ここまで行くことによって、このイスラムの文化がヨーロッパに伝えられていく。
 なぜ伝えられたかというと、古代文明の発祥地ギリシアはどこですか。ギリシャはここです。
 ここの文化がヨーロッパにすぐに伝えられたように思うでしょう。そうじゃないんですよ。ここが滅んだあとの世界の中心はどこかというと、イスラム世界です。そこにまず伝わるんです。
 そのあとヨーロッパ人は、十字軍によってこのイスラーム世界に攻めることによって、ギリシア文化を初めて、ああこんなすごい文化があったんだ、と知るんです。そしてオレの本家は、ここだ、ギリシアだ、と言いだす。これはウソですよね。直接の本家はイスラームです。その前がギリシアなんですね。途中を省略しすぎています。
 その後、ギリシアに戻るんだといって、ギリシア文化を復興する。元に戻ろうとする。こういう文化運動がヨーロッパにこのあとでおこる。
 まだ言ってないけれども、これをルネサンスといいます。漢字で書くと「再生」です。何を再生するのか。ギリシャ文化の再生です。オレたちのご先祖様だ、と言って。ちょっと違うんですけどね。
 ギリシャ文化はヨーロッパに伝わる前にイスラームに伝わって、その二番煎じでヨーロッパに伝わったということです。


【モンゴル帝国の交易】 しかしさらに広げてアジア大陸全体でみると、交易が活発になった最大の帝国は、実はモンゴル帝国です。
 この国の規模はヨーロッパでも及ばない。ここで東西交易がものすごく活発になる。だから商売は危険も伴うけれども、もし生きて帰れれば利益が百倍ぐらいのとんでもない利益になる。
 これを求めてヨーロッパ人がアジアに出向いていく。東が豊かです。アジアは貧乏だと思ったらダメです。アジアが豊かなんです。
 まず陸でいく。これがシルクロード、草原の道です。これが中国からヨーロッパに繋がる。行けると思ったら、次は一気に大量に運ぶために今度は船です。海の道になる。
 そんならオレも陸で行くぞと言って、やはりベネチア商人が中国に行く。これがマルコ・ポーロです。実際に中国に行って、20~30年いて、ベネチアに帰って来た。どうしてたと聞かれると、中国に行ってきたよ。聞かせたら話を信じてもらえずに、ホラ吹きだと言われる。しかしだんだんとこれは本当だということで、この時の話がマルコ・ポーロの「東方見聞録」という本になる。「世界の記述」ともいいます。


【利子】 ではカトリック教会はどうするかというと、商業には元手がいるんです。お金がない人は商売できないかというと、借りたらいいんです。お金を貸す商売というのがでてくる。
 しかしヨーロッパは、キリスト教は基本的に利子禁止なんです。利子禁止なんだけれども、目の前の必要に押されて、ツベコベ言うなと、利子OKになる。
 そうすると金貸しが栄える。金貸しという言葉が悪ければ銀行です。これでガッポリ儲ける。銀行はたいして儲けないと思うかも知れないけど、1%、2%はたいしたことないと思うかもしれないけれど、1兆円の1%は100億円になる。1兆円の預金もっている銀行は日本でもザラです。都市銀行とかは10兆円とか、100兆円とか持ってる。
 これがフィレンツェのメディチ家という金貸しです。こういう商売が栄えていく。


【インド洋交易】 こういう交易の活発化があって、次にヨーロッパ人が太平洋を渡っていく。コロンブスの時代に。これはあとで言います。大航海時代と言いますけれど、これは東西交易の活発化の産物です。
 そこで変なものが、爆発的に高い値段で売れるようになる。西洋は肉食です。冷蔵庫がない。だから腐る。臭いがたまらない。臭い消しと保存料。つまり胡椒ですよ。たかが胡椒、されど胡椒です。
 胡椒1グラムが金1グラムで取引される。つまり金と同じです。胡椒を米俵いっぱい持ってくると、もう億万長者です。
 その欲につられて、またヨーロッパ人がアジアに乗り出すようになるんですが、ではヨーロッパ人がもともとインド洋貿易を行っていたのかというと、彼らは新参者です。
 そこのインドや東南アジアとの貿易を前から仕切っていたのは、船乗りシンドバットたちなんです。船乗りシンドバッドはヨーロッパ人じゃない。イスラム教徒です。ムスリム商人が中心なんです。文明が栄えていたのはイスラム圏です。だからその貿易の中心はインド洋です。
 今までインド洋のことをあまり言ってないけど、太平洋と大西洋はよく言うんですが、それは最近500年のことです。ずっと歴史のメインはこのインド洋です。ユーラシア大陸の東西交易はインド洋です。ここが貿易の中心でした。


【北方商業圏】
 先に行きすぎたからまた元に戻ります。
 そういう地中海から始まって、ヨーロッパの田舎のアルプスの北にも商業圏ができた。ここらへんからヨーロッパが力を持って行くんですが、その前段階にあるのは、その前200~300年まで海賊たちがヨーロッパの海を荒らし回っていたということです。
 これが北方のゲルマン人です。北のゲルマン人を何人と言ったか。ノルマン人といっていた。イギリス王室をつくったのもこのノルマン人です。イギリス王室やエリザベス女王は海賊の子孫です。ご先祖さんはヤワな人たちじゃない。そういうバイキングが活躍していた。
 人が動けば商業が発達していきます。そのうちに今の北ドイツあたりのリューベックやハンブルグができると、今の商工会議所といっしょで、商人たちが同盟を組むようになる。
 この商工会議所をハンザ同盟といいます。その中心がフランドル地方です。フランドル地方は、今のオランダの南のベルギーあたりといいました。ここは小さいけれども豊かなところです。だからみんなが欲しいところです。
 オランダは小さい国です。しかし唯一、日本が江戸時代に貿易していたヨーロッパの国はオランダです。オランダ人というのは、こんな日本にまでやってくる商魂たくましい人たちです。

※ フランドルのブリュージュにはジェノバ船やベネチア船が入港し、北方経済圏と南方経済圏を繋ぐ役割を果たし、レバントの香辛料がもたらされました。(宇山卓栄 経済)

 もう1つ、フランドルのもうちょっと南、フランスの西側あたりにシャンパーニュ地方というのがあるんです。ここも定期市が立って非常に商業が栄えていく。そこで売られた酒が何でしょう。
 シャンパーニュだから、そこで売られた酒はシャンパンです。名前はここからくる。酒蔵があるところはだいたい豊かです。酒蔵もっている地域は、だいたい豊かな地域です。
 それからもう1つは、ちょっと田舎なんですけど、ドイツもそれなりに頑張っている。南ドイツのアウグスブルクです。
 しかし、この3つ、フランドルとシャンパーニュと南ドイツ。こういったところが、アルプスの北で田舎ですけど、ここが初めて発展しはじめた。この田舎を強調するのは、この田舎が全世界の文化になっていくから。
 我々は何のまねしているか。そこの一言でいうと、ヨーロッパの文化です。なんでズボンにベルトをしているのか、なんで紋付き袴はしていないのか、女がスカートをはいているのか、フンドシをせずにパンツをはいているのか、日本の伝統的なものではないです。
 フンドシというのを一度してみたいですね。銭湯行ったとき、スーパー銭湯で若いお兄さんがフンドシしてた。カッコイイと思ったね。オレもしてみようと思いました。私の爺さんは当たり前のごとくフンドシだった。おやじはフンドシしていなかったけど、でも若い頃はしていた、と言っていました。



【イベリア半島】
 今度はイベリア半島です。今のスペインです。スペインでは、ムスリムの支配が長く続いていた。イスラム教徒の支配地であった。
 そこをキリスト教徒が巻き返して、イスラム教徒を追い出そうとした。これを追放運動じゃなくて、なぜか国土回復運動といいます。昔ここがすべてキリスト教国であったことはないんですけどね。
 これをレコンキスタと言って、国土回復運動と訳します。コンキスタは征服、レは再びです。再び征服するという意味です。ここがいつキリスト教の国だったのかはよく分からないけど、ローマ帝国の時代はそうだったということになっています。それほどローマ時代にここにキリスト教が普及していたとは思えないんですけどね。
 ヨーロッパ人はギリシャ文化をこのイスラム世界を通じて学びます。ギリシャから直接ではない。
 ギリシャ哲学はまずイスラム世界に伝わったんです。だからイスラム教徒によってアラビア語に翻訳された。アラビア人はイスラム教徒です。
 ヨーロッパ人がさっき言ったように、十字軍に行ってイスラム文化に触れ、そのレベルの高さに驚き、本を持って帰って自分たちの言葉に変えようとする。それでラテン語に翻訳する。こうやってイスラム世界から学んだのです。

 また中国から学んだものがある。この時代にやっとを使いはじめるんです。中国はすでにその1000年前から紙があります。
 紙がない生活はトイレットペーパーが困るとか、そんなものじゃない。紙がないと行政ができないんです。お金の信用取引もできないです。紙がなかったら命令ひとつ出せない。
 我々は出張に行くのも勝手に行けない。ちゃんと会社から、何月何日に、どこどこに行きなさいと文書が来る。それを持って行くんです。勝手に行ったら職務放棄で給料が出ないです。
 そのためには紙が必要です。紙は今の社会の基盤になっている。これがやっとヨーロッパに伝わったのがこの時代です。
 それまでヨーロッパに紙がなかったということは、ヨーロッパ人の多くは読めないです。でも中国人は読めるんです。字が読めない社会が文明社会とは言えない。紙がなかったとはそういうことです。



【ユーラシア全体】
 東西交易は最初は陸路です。陸路は唐の都の長安を出発して西へ行く。これが絹の道のシルクロードです。マルコ・ポーロは、逆にベネチアからこの道を伝って中国に行った。
 しかし物を運ぶにはラクダよりも船がいい。これは今も昔も変わりません。中国の南のベトナムから東南アジアへ。そしてインド洋へと出るとき一番近いルートは、今も昔もこのマラッカ海峡です。
 ここが安全であれば、わざわざ南に遠回りして行くことはない。だからここを支配する人というのは、この地域のポイントなんです。アジアで日本以上の金持ちはというと、今でもこのマレー半島先端のシンガポールです。シンガポールは日本よりお金持ちです。8割方は東南アジア人ではなく中国人です。中国人は目ざといから、ここが儲かると思ったらすぐ移動していく。
 そして帰りはインドに戻り、西のペルシャ湾に行って、地中海からベネチアまで帰っていく。このルートです。
 その他にもちょっと寄り道して他のところにも行こうかな。そういう経路もある。その周辺にも行ける。アラビア半島に行ったりできる。
 メインの海はこのインド洋です。

 現在のエネルギーを支えているのもこの地域です。100年前に石油が出たんです。ペルシャ湾岸に石油が出る。ここが安全でなかったら、日本に電気はつきません。石油が来ないから。ペルシャ湾の出口のホルムズ海峡は狭い。ここを誰かが通せんぼしたら、日本は電気がつきません。日本を潰すには、ここを通せんぼするだけでいいです。
 ホルムズ海峡が封鎖されたときに、ヨーロッパに行くための抜け道がアラビア半島の西の紅海を通っていくことです。
 しかしこの航海の北ではいったん陸にあがらないといけない。300年後、ああ面倒だと言って、水を通せと、運河を掘ったんです。イギリス人がエジプト人に掘らせるんです。これがスエズ運河です。そういうルートができて、現在も利用されています。
 物を運ぶ時には基本は海です。1に海、2に陸です。海は交通をさえぎるものという考え方が鎖国以降の日本には強いけれども、逆に海は外に開かれているものです。海を通って物は運ばれていく。そういう意味では海が流通の動脈です。

 砂漠のラクダ使いと比べて、海のルートを知っていれば、物を運ぶのに海が有利です。風さえつかめば大量のものを乗せて自分で動いてくれるんです。
 このアジア大陸の東と西を結んだ大帝国がモンゴル帝国であった。13世紀のことです。これで東西交易がますます盛んになった。
 しかし困ったものまでヨーロッパに運ぶ。ペストまで運ぶんです。ペストはどこが原産かよくわからないけど、たぶんインドの北の中央アジアのネズミだろうといわれます。
 人が行き来するから、ネズミもそれに乗ってヨーロッパまで運ばれる。当時のヨーロッパはものすごく不潔です。不衛生きわまりない。もう一発で流行する。3人に1人が死ぬ。


【海の道】 海の道としてはインド洋がメインです。太平洋でも大西洋でもない。伝統的にはインド洋航海です。そこで往来している船乗りたちはヨーロッパ人ではなく船乗りシンドバットです。それがイスラム世界の商人です。
 イスラム世界がまん中だとすれば、東の豊かな国に中国がある。中国とイスラム社会がメインです。西のヨーロッパはおまけです。まだ田舎なんです。
 世界で最も栄えたところは、アッバース朝時代の・・・最近はアメリカの空爆で粉々になっているところですが・・・バグダードです。2003年のイラク戦争以後のここ十数年間は悲惨なところです。アメリカによって家もろとも破壊され、難民続出です。親兄弟にも会えない。難民は遠いアメリカには避難せずに、近いヨーロッパに避難する。アメリカは破壊しただけです。
 それから第2の都としては、エジプトのカイロがある。ここにはむかしファーティマ朝がエジプトにあった。そのときにできた都です。


【ダウ船とジャンク船】 そこの商人たちはムスリム商人という。イスラム教徒のことをムスリムといいます。そういう船に乗ったムスリム商人の活躍がある。
 イスラムの船と中国の船、東と西でこの2種類の船があります。何千キロも離れたところからやって来てこの二つが結びつく。
 ムスリムの船をダウ船といいます。一枚のものすごくでかい帆を持ってる。三角の帆です。こういう船は速いと思う。
 中国のほうはジャンク船です。帆はそんなに大きくないから遅いかもしれません。速さはダウ船、頑丈さは中国のジャンク船でしょう。アラビアには台風こないからかな。日本もさんざん台風の被害受けますけど。そんなことも関係あるかもしれません。


▼12世紀頃の海域世界


 そのダウ船を使って、イスラム商人はアフリカの東側にも行く。アラビア海は当然です。その船乗りシンドバットたちは東南アジアにも行く。
 人口で世界最大のイスラーム国家はどこか。アラビア地域ではない。東南アジアのインドネシアです。ここが世界最大のイスラム国家です。東南アジアになぜイスラーム国家があるのか。イスラーム教徒がアジアに乗り出していくからです。
 東南アジアはもともとはインド勢力です。その前は中国です。ここでイスラーム化していく。イスラーム教徒が乗り出していくから。

 また東アフリカでは、もともとバンツゥー語というアフリカ言語があった。そこにアラビア人の船乗りシンドバットたちがやってくる。そこでアラビア語とバンツゥー語が混じり合う。
 それで生まれた新しい言語がスワヒリ語ですう。スワヒリ語圏の文化のことを、スワヒリ文化という。文化も混じり合う。
 何が取引されたか。やっぱり中国からの絹は大きい。シルクです。それから肉が腐らないように香辛料も。胡椒を調味したものです。こういうのが金1グラムと変わらない価値で取引される。
 またヨーロッパ人は風呂にはいらない。木綿がなくて、夏でも毛糸を着ている。汗で臭くて仕方がないから、体臭を消すための香水が必要です。風呂に入っている日本人にはこういう発想はない。

 南シナ海がある。シナは中国です。シンというのが訛ってシナ、英語では訛ってチャイナ。中国です。中国ではジャンク船という。
 こういう船で商売圏が広がっていく。だから西から東に行くと、西イスラム圏から運ぶのはまずダウ船。これはイスラムの船です。
 それが東南アジアに行って、そこまでやってきている中国人の船に積み替えられる。この船がジャンク船です。
 それが中国の各港、とくに広州とかに運ばれて中国の国民が消費する。こういう広い交易圏がすでにアジア大陸では成立している。そこではイスラーム文化圏が中心です。
 これからあとに言うのは、インド洋以外、最初は大西洋です。アメリカ大陸を発見するから。それまでその存在を知らない。アメリカはあるんですよ。でもヨーロッパ人は知らないんです。


【東南アジア】 ユーラシア大陸のネットワークを結んでいるのは、東南アジアです。東南アジアは海の道です。
 そこにはいろんな人たちが行き交って、早くはインド文化、それから中国文化もやってくる。次にイスラム文化もやってくる。3つの文化がやってくる。
 教科書でみると、普段の街の写真で、顔つきがぜんぜん違う人たちが、無造作にバス停に並んでいたりする。いろんな人が住んでいます。


【マラッカ海峡】 そのなかで東南アジアの注目点というのは、マラッカ海峡です。マラッカ海峡はさっき言ったところで、海の一番の近道です。
 東南アジアで大きい島はスマトラ島。ジャワ島の西隣にある一番大きい島です。ここにシュリービジャヤ王国というのがあった。
 今の中心、インドネシアのジャワ島にはシャイレーンドラという王朝があった。これが伝統的な王朝なんです。ジャワ島には、ボロブドゥールという仏教寺院跡もある。こういう文化が栄えていた。


【マラッカ王国】 しかしイスラーム教徒との接触によって、ポイントとなる地点が新たにできる。これがマラッカ海峡です。マラッカに王国ができる。これがマラッカ王国です。東南アジア初のイスラーム国家です。港がそのまま国家になる。
 ここが拠点になって、イスラーム教が広がっていく。現在世界最大のイスラム国家はインドネシアです。人口2億です。
 マラッカ王国が小さいからといってバカにしたらいけない。その後どうなるか、わからないんだから。これが拠点です。ここからイスラーム教が広がっていく。

 さらにその後、ヨーロッパ人の植民地になっていく。ヨーロッパ人がどんどん進出して占領していく。軍事力にものを言わせて。まずはポルトガルが占領する。それをまたオランダが奪っていく。イギリスも乗り込んでくる。
これで終わります。ではまた。




「授業でいえない世界史」 14話 イスラム世界 ムハンマド~後ウマイヤ朝

2019-02-09 23:22:09 | 旧世界史6 イスラーム世界

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▼イスラーム帝国の発展

 

【ムハンマド以前】
 ではユダヤ教、キリスト教に継ぐ第3の一神教、イスラーム教の成立に行きます。キリスト教と今は仲が悪い宗教です。前回言ったエルサレムはここだった。今度はその南のアラビア半島のメッカというところから話が始まる。エルサレムと近いといえば近い。
 時代は紀元7世紀、600年代です。この時代には大帝国として、東にはササン朝ペルシャ、それから西には東ローマ帝国があるんですけど、名前をこのあと変えるんです。東ローマ帝国がビザンツ帝国と名前を変える。これは同じ国です。このササン朝ペルシャとビザンツ帝国の二つの国があって、何百年も対立が続いていた。
 紀元7世紀、ササン朝ペルシャとビザンツ帝国、この2つの帝国の対立の影響を受けて交易が遮断される。その交通の迂回路としてアラビア半島の西側が交通網として発達していく。これをヒジャーズ地方という。
 その中心都市がメッカという都市です。ここには昔からこの地方のいろいろな神様を祭る多神教の神殿がありました。それをカーバ神殿といいます。この都市が貿易の中継都市として繁栄する。

 ここは砂漠地帯です。ラクダを使って、羊を追ったり、山羊を追ったり、移動生活をする。移動生活の人は、移動のついでに物を運んでやるといって、容易に商人になりやすい。
 これがアラブ人、アラビアに住む人はアラブ人という。


【ムハンマド】 商売が発達するとお金が流通して、お金が流通すると・・・世界史に共通なこととして・・・貧富の差が拡大していく。貧しい人はものすごく貧しい。お金もっている人はものすごくお金を持っている。

 こういう中でムハンマドは生まれた。このムハンマドが生まれた頃には、この地域にはユダヤ教もあるし、キリスト教もすでに発生している。そういう一神教の考え方が広まっているんです。
 ムハンマドは、ある日突然、40歳ぐらいの時、神の言葉を聞くんです。その神はアッラーという。そしてこの神への絶対的な信仰を説く。
 たぶんそういう人はいる。神のお告げを聞いた人というのは、日本にも時々出てくるし、それを聞いて、バカが変なこと言ってる、で片付けられないところが宗教なんです。宗教には人の心を動かすものがあります。
 神様がオレに教えてくれた、オレの考えじゃないぞ、神様がオレに告げたんだ、そういう彼の話を信じた者から、彼は預言者とされた。明日のことをいうのは予言です。そうではなくて、この預言者は預かった者です。神の言葉を預かった者、これを預言者というんです。

 すでにこのヒジャーズ地方には、そういう人格神である一神教の土台が浸透していたわけです。

 ムハンマドは610年、メッカで貧困層を中心に布教を開始し、貧富の格差を是正すべく唯一神アッラーの前の平等を主張しました。ムハンマド自身は豪商の家柄で豊富な資金を貧困層救済のために費やしました。食べ物などを変えられた貧困層はムハンマドの言うことに耳を傾け、イスラーム教に帰依するようになりました。


【ヒジュラ】 ムハマド自身は結構お金持ちです。両親は早く亡くなっているけれども、クライシュ族という一族で、ハーシム家という金持ちの商人の家柄です。
 その中で、クライシュ族自体は多神教だったから、親戚がいろいろな神を拝んでいるのを見て、あれはウソだ、そんな神を拝んではダメだ、アッラーだけを拝め、とムハンマドは言う。そういうふうに一神教は、他の神を否定するんです。

 言われたほうは、おまえ頭がおかしいんじゃないかと言う。でも彼は言うことをやめなかった。そこまで言うのなら、追放だ、町から出て行け、となる。
 それで喧嘩して、622年に隣の町・・・といっても何十キロも先なんですけど・・・メディナという場所に仲間を連れて引っ越します。

 この年をイスラーム教徒は、この年をヨーロッパでいう西暦ゼロ年にする。イスラム暦の始まりです。ここがイスラム暦の元年です。そういう意味で記念すべき年だから、622年の引っ越しをヒジュラといいます。

 仲間とともにメディナに移って、そこで共同生活をやっていく。この共同体をウンマといいます。

 イスラーム国家と一般に言うけれども、イスラーム教には国という言葉は実はありません。国に当たる言葉は、実はこのウンマです。彼らは、国をつくっている気持ちはない。イスラム教徒の共同体をつくっているだけなのです。
 その共同体のルールは、ムハンマドが聞いた神の言葉が、それがそのまま生活全体のルールになる。そしてこれを守る人たちの共同体ができる。
 ただメッカの親戚からは迫害される。だから戦わないといけない。彼らは自ら兵士になって軍隊をつくっていく。ここから彼らの征服活動がはじまります。

※ イスラム教は、当時の経済状況における偏りと歪みの中で生まれた貧困層の反動の産物です。(宇山卓栄 経済)

※ 大富豪のクライシュ族の出身であるムハンマドは豊富な資金力で、貧民を雇い入れて、強大な私兵軍団を編成しました。一族の中には武勇のすぐれた軍略家もおり、軍事のプロたちが数多くそろっていました。貧困層の集団を組織的に軍制化したのも彼らです。(宇山卓栄 経済)

 ムハンマドが630年メッカを占領し、支配者層を追い出します。この地にカーバ神殿を作り、イスラームの本拠地としました。これらのことは貧困層のムハンマド派が上層階級を数の力でつぶしたクーデターととらえることもできます。

 彼らの軍隊は勇敢で、メッカの勢力に勝利します。そしてメッカにあったカーバ神殿・・・それまでは多神教の神殿でしたが・・・その神殿をイスラーム教の一神教の神殿に作り変えます。こうやってメッカのカーバ神殿がイスラーム教の聖地になります。
 そのカーバ神殿には神の像がありません。代わりに神の象徴として黒い石があるだけです。一神教では偶像崇拝は禁止されています。
 イスラーム教はコーランの他に旧約聖書新約聖書も聖典として認めていて、旧約聖書の十戒の中にある偶像崇拝の禁止を守っています。しかしキリスト教は旧約聖書を聖典としていながら偶像崇拝をしています。キリストの像を拝んでいます。これはおかしい、とイスラーム教徒は感じるわけです。このことはのちにキリスト教の内部でも問題になり、キリスト教会の分裂につながります。この偶像崇拝を認めているのがキリスト教最大のローマ・カトリック教会なのです。

 イスラーム教徒は、このカーバ神殿に一生に一度は巡礼することになっています。
 現在このカーバ神殿を有している国はサウジアラビアです。日本にとってこのサウジアラビアは、最大の石油を輸入している国です。いわば日本の命綱といってもいい国ですが、その割には日本人はこの国のことをあまり知りません。


【一神教】 そして神の教えを24時間守っていく。政教一致の宗教です。ここがキリスト教と違うところです。個人的な時間にお祈りしておけばいいのではない。日常生活すべてが神の教えに従うべきなのです。

 神の教えそのままを日常生活で守る。飯を食うなといわれたら食わない。断食です。日没までですけど。苦しみを忘れるなという教えです。女性は顔を隠せと言われたら隠す。今もイスラム女性は人前で顔を見せません。イスラームのスカーフは女性蔑視だと非難されますが、日本も平安時代の女性は顔を隠していました。身分が高い女性ほど顔を隠していた。
 これはアラビア半島だけの風習ではない。古代ではみんな女性は顔を隠していた。身分が高ければ高いほどそうだった。身分の低い女性だけがスッピンであった。この時はそういう世界だったのです。この教えがイスラーム教といわれる。

 イスラーム教は、ユダヤ教やキリスト教と同じ一神教です。日本の多神教とは違います。ただキリスト教と違うのは、イエスは神に近い存在だった。少なくとも預言者ではなかった。だからイエスは生身の人間ではないとされた。

 ところがイスラーム教では、ムハンマドは紛れもない生身の人間です。それと同じようにイスラーム教ではイエスも普通の人間だとします。神とは認めません。神はアッラーだけです。イエスは優秀な預言者に過ぎない。
 イスラームの神というのは、一神教だから、世の中のすべての事を作ることができるし、見通すことができる存在です。全知全能の神とはそういう神です。一歩間違えば、とんでもなく恐ろしい存在です。だからその教えには絶対従う。ムハンマドが聞いたその神の教えをまとめたのがコーランです。クルアーンとも言います。

 ここに書いてあることは今でも必ず守らねばならない。この教えを守る人のことをムスリムという。イスラーム教徒のことです。

 イスラームとは服従という意味です。これは一神教として非常にすっきりしています。これほど明快な一神教は実はない。

 すでに一神教世界では、この約1000年前にユダヤ教という一神教が発生し、約600年前にはキリスト教という一神教が発生しています。そして第3番目の一神教がアラビア半島に誕生した。神様はアッラーといって呼び名は違うけど、この神様はたどっていくとユダヤ教のヤハウェといっしょです。呼び方が違うだけです。
 だからイスラーム教徒はそれ以前の一神教、つまりユダヤ教やキリスト教とは、同じ神を拝んでいるから、この二つの宗教の信者を「啓典の民」として尊重します。

 神様が語った言葉を知るための一番正しい方法は、直接コーランを読むことです。そのためには当然ながら字が読めないといけない。イスラーム教徒は字が読めたのです。それに対してこの時代のキリスト教徒はほとんど聖書を読みません。字が読めないからです。それだけではなくイスラーム教徒は読んだ上に暗記する。これが神のルールだとしっかり頭に入れて行動しなければならないからです。文化水準はどちらが高かったか、勘違いしている人はいませんか。

 ヨーロッパ人はまだほとんど字を読めなかったのに、イスラーム社会では多くの人が読めるんです。だから識字率は非常に高い。それはコーランを読んで覚えるためです。そしてそのコーランに書かれた通りの生活を一日を通してする。だからイスラーム教は政教一致の宗教です。


【政教一致】 キリスト教との違いは、キリスト教には牧師さんがいるけれども、イスラーム世界にはそのような神様と人を仲介する人がいません。自分でコーランを読んで、自分で神様の教えを勉強するから、キリスト教徒のようなお坊さんはいらないのです。

 ちなみにヨーロッパ世界で、普通の人が聖書を読めるようになるのは、16世紀以降です。イスラーム世界はその1000年も前からそれをやっています。

 それから、お坊さんや牧師さんがいなければ、牧師さんが説教する教会もないです。モスクがあるじゃないかというけど、あれは無人の礼拝所です。先生のいない学校のようなもので、祈りの場所として場所を貸してるだけです。

 そういうお坊さんの代わりに、コーランの意味をどう解釈するかという学者、イスラーム教に詳しい学者が社会のルールを作っています。そういう人をウラマーといいます。イスラーム法学者ともいう。だからイスラーム社会ではコーランに書かれた神様の命令が、そのまま社会のルールになっていきます。

 世の中のルール、政治のルールはどこにあるかというと、すべては神の言葉であるコーランに書かれている。だから憲法はいらない。イスラム社会にも憲法はあるにはありますが、それはコーランに矛盾しない範囲の憲法に限られています。コーランをかみくだいて矛盾しない憲法を作ってるだけです。また大統領はいますが、その上に宗教的な最高指導者がいます。

 西洋社会のように、聖書にはこう書かれているけど、実際の社会のルールはそれとは別の憲法に書かれている、というようなことはありません。そんなことをすれば、コーランは意味をなさなくなるからです。近代に入って西洋で最初に起こったことは、そういう神の権威の喪失です。
 社会の変化に合わせて、人間が合意すれば何でも変えていいか、そこには条件があります。それはコーランに矛盾しないことです。正しいことはすべてコーランに書いてあるからです。それがイスラーム社会の合意なのです。


【ムハンマド時代】 この宗教は日本のような多神教と違って一神教です。神様は一つしか拝んだらいけない。二つ拝んだら罰が当たる。そういう発想です。日本人とは非常に違います。

 ムハンマドが生きていた間に、共同体がどこまで広がったかというと、ほぼアラビア半島全域に広がった。これがムハンマド時代です。この共同体は国です。
 


【正統カリフ時代】
 イスラーム教はムハンマドが死んだあと、さらにどんどん国家を広げていって、東は中央アジアの手前まで行く。北はカフカス山脈まで、西は紅海を超えてアフリカの北岸まで行く。そんな大帝国を築いていく。

 なぜこんなに広がったのか。帝国を築くというのは、戦争をして征服をしていくということです。
 なぜムハンマドが死んだ後、たった40年でここまで広がるのか。なぜここまで征服していくのか、実はよくわからないです。
 彼らの言い分は、神のため、神の教えを広めるためだ、と言うけど本当かなぁ。
 もう一つの考え方は、征服して金銀財宝を奪うため。そっちの方が俗っぽくて我々俗人にはわかりやすい。

 拡大するイスラムはヨーロッパ・キリスト教世界をも支配しようと、とどまることのない征服欲を持っていました。

 とにかくこんな大帝国を築いていった。それが正統カリフ時代です。たった40年間ぐらいのことです。

 ムハンマドは、ヒジュラから10年ほどで死にました。632年にムハンマドが死ぬと、どこの世界も誰を後継者にするかが非常に難しい。すったもんだしたあとで、後継者が選ばれる。この後継者のことをカリフといいますう。これがイスラーム社会のリーダーになる。
 ではカリフが王様かというと、さっき言ったように、イスラーム社会は信者の共同体ではあっても、国という意識がないんです。国ではなくて、信者のグループをつくっただけなのです。
 そのグループの人数を、最初の10人から、100人、1万人、1億人に拡大しても、彼らはこれを国とは思ってないんです。ただ何とも呼びようがないから、便宜的に国と呼ぶんですけど、そのリーダーがカリフです。この人が指導者です。
 カリフは命令はしていいんだけれども、何でも命令していいかというと、その命令はコーランに違反したらいけないのです。だからこのカリフもコーランに違反することは命令できない。コーランに書かれた範囲内でしか命令できない。だからカリフには法律を作る権利つまり立法権はない。カリフ独自の新しい法律を作るようなことはできないのです。

 こういうカリフが4人続きます。この時代が30年間ぐらい続きます。これを正統カリフ時代といいます。カリフが選挙で選ばれた時代です。
 ただこの時代は、ムハンマドが死んだ後にもかかわらず、急速に領土を拡大していきます。つまり戦争していく。戦争し征服していく理屈として、これは神のための戦争だ、神のために俺たちは戦っているんだという。これをジハードといいます。日本語に訳すと「聖戦」といいます。
 なぜそうまでして領土を広げていく必要があったのかというのは、ちょっとわからない。ホントに神の命令と思って戦ったのか、それとも戦って相手を富を略奪したかっただけなのか。本当のところはわからないけれど、とにかく戦いに戦って隣の巨大国家を滅ぼします。
 642年ササン朝ペルシャを破ります。これをニハーバントの戦いといいます。ニハーバントは地名です。この結果イスラーム国家がどこを領有するか。ユダヤ教・キリスト教の聖地です。キリスト教の聖地とはどこだったか。それがエルサレムです。だからイスラム教徒が、この時からエルサレムに住み始めます。
 しかし、それから1500年ばかり経って、またユダヤ人が「おまえたち退け」と言う。昔オレたちの国があったから、新しいイスラエルをつくるんだと言って、イスラエルという国ができたのが、今から70年前のことです。ここからユダヤとイスラームの対立がはじまります。キリスト教はユダヤ側につきます。

 イスラム勢力は、東ヨーロッパのビザンツ帝国と対峙する前線基地をシリアに築き、ここに主力精鋭軍を結集させました。その数十万人にのぼる精鋭軍を率いていた総督はムアーウィアという人物です。

 ムアーウィアの軍団はビザンツ帝国との戦いを一時中断し、急遽軍を取って返し、カリフのいるアラビア半島に進撃します。この混乱のなかで4代目カリフのアリーは暗殺されました。アリーはムアーウィアの勢力に殺されたととらえるのが自然です。

 そこから王朝が発生します。4代目カリフが暗殺されて、その対立者のウマイヤ家が指導者になりました。



【ウマイヤ朝】
 この王朝をウマイヤ朝といいます。661年の成立です。建国者は軍人の親分みたいな人です。首都もメッカを捨てて、今のシリアの首都であるダマスカスというところに新首都をつくる。このダマスカスというところも、今非常に血生臭い。ミサイルが飛んだり、人が死んだりしている。メッカはアラビア半島ですが、ダマスカスは地中海寄りです。
 ここ数年、世界最大の難民はシリア難民です。イスラーム国とかいろいろあって、日本人が殺されたりしたあの国からいっぱい難民が発生しています。
 そのダマスカスに首都を定めて、ウマイヤ家がカリフの地位を世襲していく。世襲の意味は、親から子、子から孫へと受け継がれていくことです。こういう形を世襲といいます。そういう形で継承される国家を王朝といいます。王朝は他の地域では普通のことですが、イスラーム世界では宗教指導者は選挙で選ばれてることが原則だったのです。それがまたもとに戻ったのです。

 もともとカリフはそれではダメだった。もともとのルールは、選挙で選ばれることだった。信者の中から選ばれないといけない。それを無視して世襲になる。選挙は行われなくなった。これだったらふつうの国家の王様と変わらない。
 だからこれはおかしいという人、反対する人も出てきた。しかしこれでいいという人も出てくる。これでいいというグループ、これをスンナ派という。
 それに対して、これではいけない、4代カリフのアリーの一族こそ、本当のカリフだというグルーブをシーア派と言います。しかしこの一派もアリー一族の世襲を目指している点では同じです。当初の選挙原理がうまく機能しなくなったのです。これが現在でも続くイスラーム教の二大対立です。二大派閥の中の多数派がスンナ派です。

 全世界を見渡すと、我々はどうしてもヨーロッパが進んでいるという先入観がありますが、何回も言うように、この600年代のヨーロッパはド田舎です。
 ローマ帝国は滅んだ。滅んだあと、蛮族と言われるゲルマン人という田舎民族の国が乱立して、文化水準は逆にものすぐく低くなった。
 それに比べたらこのイスラーム世界の方がはるかに進んでいる。けっしてヨーロッパの方が昔から進んでいたわけじゃない、ということは一つ頭に入れていてください。

 そのゲルマン人のことは、またあとで言います。こういうふうにリーダーが親から子へと世襲されるということは、これはイスラームといえども、一つの王朝とみなされます。だから家の名前を取って、ウマイヤ朝といいます。
 しかし、これをおかしい、ウマイヤ朝を認めない、というグループもあるんです。これがさっきも言った反対派のシーア派です。
 今の時代から1400年ぐらい前のことですけれども、未だにこの対立は、スンナ派とシーア派の対立として続いています。1000年以上変わらない。この時できたんだということです。
 シーア派の支持者は、もともとは4代カリフであったアリーの支持者が多い。

 では大帝国が築かれた裏で、逆に征服された側の人はどうされたかというと、悲惨な戦争のなかで問答無用で殺されたというイメージがあるけれども、宗教は強制されません。これがキリスト教と違うところです。
 キリスト教では正当な考え方と違うと、おまえは魔女だ、魔女裁判架けられて、火あぶりの刑で殺されていく。その点イスラーム教は、征服はするけれど、信じないなら信じなくていいよ、イヤなら信じなくていいよ、という。
 ムハンマドは、「宗教に強制なし」と言った。宗教は強制するものじゃない。自分から信じるものだ。考えが違ったら、それは仕方がない。

 その代わりお金を払えばいい。税金を払えばいいんです。税金に2種類あって、土地税はハラージュ、これは一般的です。これはどこでもある。ヨーロッパでも日本でも。
 もう一つが、体で払う税金です。こういうのをジズヤといいます。これを人頭税といいます。国の中に住んでいるだけで、国のために働きにいかないといけない。お殿様のところの家の修理とか、畑を耕したりしないといけない。この二つを払えば何を信じてもいいよ、という感じです。

※ ウマイヤ朝は695年、正式な法定貨幣を発行します。ファルス銅貨、ディルハム銀貨、ディナール金貨の3種類に統一され、イスラム世界の金銀両本位制が確立します。(宇山卓栄 経済)

※ ウマイヤ朝第5代カリフのアブド・アルマリクは、ビザンツ帝国のノミスマ金貨をまねた純度97%のディナール金貨、ササン朝のディレム銀貨を継承するディルハム銀貨、ビザンツ帝国のフォリス銅貨を継承するファルス銅貨によりお金の制度を整えた。本位通貨の金貨・銀貨の鋳造権はカリフが独占し、補助貨幣の銅銭の鋳造権は地方の総督にも与えた。(宮崎正勝 お金の世界史)

 まだイスラムの拡大は続いてます。

 ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを破ることのできないウマイヤ軍はバルカン半島を越えてヨーロッパへと中央突破することができません。やむをえず、ウマイヤ軍は北アフリカ経由の迂回ルートを進むという戦略の大きな転換を迫られました。北アフリカからスペインへとまわり込み、ヨーロッパの背後をつくという新戦略です。

 100年経って、ヨーロッパ西端のスペインまで征服しようとしてきたけれども、弱かった田舎のヨーロッパも、ここから先はいくら何でもこれ以上進まれては困るというので、必死で戦う。スペインのちょっと北のほうです。

 イスラムはどこまで行こうとしたかというと、ダマスカスからアフリカを西に進んで、ジブラルタル海峡を渡ってスペインに乗り込み、その北のフランスに乗り込んで、ツールとポアチエというところまで攻め込んだ。
 フランスまでイスラームの国になるかという寸前ところで、ヨーロッパ側がこれを食い止めた。その戦いが、ツール・ポワチエ間の戦い732年です。ここでやっとイスラーム帝国は膨張をストップした。この時点では、これをストップしたヨーロッパの諸国に比べれば、イスラーム帝国の方が何倍も大きい。

 ウマイヤ朝は実はムアーウィアによる建国の起源から軍事主義的な性格を持っていました。しかし、ひとたびトゥール・ポアティエ間の戦いで敗れ、その侵略が止まると、機構はすぐに動揺し、もろくも崩れ去っていきました。



【アッバース朝】

 今言ってるのは、ウマイヤ朝の動きです。しかしそれに反対する一派つまりシーア派も出てきた。それと組んで新しい王朝を作るんです。750年にウマイヤ朝を滅してアッバース朝をうち立てる。これも家の名前です。アッバース家という。しかしアッバース家は王朝をうち立てると、シーア派を弾圧し始めます。そしてやはり多数派のスンナ派の国家になります。

 アッバース朝はウマイヤ朝のような軍事国家ではありません。

 この時に首都をどこにしたか。ダマスカスは敵方の都だったから、新しい都をつくる。これがバグダードです。今でも新聞やニュースで時々聞きませんか。イラクの首都ですよね。このときに人工的に都市計画をして新しくできた新都です。

 今の主要な国の首都というのは、ある時に国ができたときそこの王様が作って、それが今まで続いている、そういう都市がけっこうある。この後でてくるエジプトのカイロも、このあと王様がつくったものです。

 王朝が成立した翌年の751年には中央アジアでタラス河畔の戦いが起こります。これはアッバース朝と中国の唐が戦ったもので、ここで勝利したアッバース朝に唐から製紙法が伝わります。中国にはすでに紙がありますが、このイスラーム世界に初めて紙が伝わります。このイスラーム世界からヨーロッパに紙が伝わるのはさらにその後です。ヨーロッパにはそのあいだ紙はありません。紙がないということはヨーロッパの大半の人は文字が読めないということです。

 全盛期は、800年前後のハールーン・アッラシードという王様のときです。このイスラーム帝国で一番有名な物語として、船乗りシンドバッドの冒険とか、子供のころ聞いたことないですか? または、アラジンと魔法のランプとか、アリババと40人の盗賊とか、あれは一冊の本の中にあるんです。これを「アラビアン・ナイト」という。あれに出てくる王様なんです。この王様の頃のことです。

 この頃のヨーロッパは、のちに言うカール大帝の頃です。800年にカール大帝がローマ教皇レオ3世からローマ皇帝の戴冠を授かり、西ローマ帝国の復興に向かおうとする頃ですが、まだ首都さえ定まらず、王は各地を転々としている状態です。各地を転々として王の権威を誇示しなければならなかった頃です。こういうのを移動宮廷といいますが、国としての国力の差は明らかです。

※ アッバース朝期、10世紀以降には銀不足が深刻化します。人口150万人を数えるバグダードの金融街が金銀比価の調整にあたり、各地方都市の両替商が活躍した。しかし、巨大化した経済に金・銀の産出量が追いつかなくなる一方だった。アッバース朝の経済規模が拡大して交易が活性化すると簡単な決済方法が求められ、ペルシア起源の送金手形のスフタジャ、持参人払いの為替手形のチャクが盛んに用いられた。ちなみにチャクは英語のチェック(小切手)の語源になっている。(宮崎正勝 お金の世界史)

※ アラビア数字や複式簿記の起源は、イスラーム世界にあり、リスク、小切手(チェック)などの言葉がアラビア語に由来することが示すように、イスラーム世界の金融の仕組みは14~15世紀ルネッサンス期のイタリア商人にも伝えられた。(宮崎正勝 お金の世界史)

※ 10世紀になると、資源の枯渇や銀を精錬する木材の枯渇により、銀の産出量が一気に減少した。金貨と銀貨が大幅に不足すると、帝国の経済規模を維持するために金融業者が手形を大量に流通させることになった。バグダードやバスラなどの大都市では金融業者の店が軒を並べ、バスラでは市場の商人たちが銀行に口座を設けており、市場での取引はすべて小切手で行われた。両替商に有価物件を持ち込むと、両替商は手数料を差し引いた額の小切手帳を発行し、その限度内で市場での買い物を小切手で済ますことができたという。
 またバグダードで振り出された小切手は、北アフリカのモロッコで現金化できたとされる。イスラーム商人が使う手形や小切手は、イスラーム商人と取引するベネチア、ジェノバなどのイタリア商人の間でも取り入れられるようになった。(宮崎正勝 お金の世界史)


 このアッバース朝は500年ぐらい続きますが、広大すぎる領土の周辺では、早くも9世紀には各部族の自立が進み、各地で新たな王朝が発生していきます。そこにはすでにトルコ人も侵入しています。



【後ウマイヤ朝】

 ただ、アッバース朝に負けたウマイヤ朝はどうなったか。本拠地はアッバースに取られた。その代わり、イベリア半島つまり今のスペインに逃げた。スペインまでイスラーム教が浸透した。そこに乗り込んでいき、756年後ウマイヤ朝をつくる。ウマイヤ朝の後という意味です。
 だからスペインは今でこそキリスト教の本尊みたいになっているけれども、500年前まではイスラーム世界だった。
 これで終わります。ではまた。



「授業でいえない世界史」 15話 イスラム世界 ファーティマ朝~マムルーク朝、アフリカ

2019-02-08 23:43:06 | 旧世界史6 イスラーム世界

※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


【ファーティマ朝】

 それから、アッバース朝も100年ぐらい経つと、帝国が広すぎてとても支配できない。周辺で地方政権が分裂する。
 909年、エジプトファーティマ朝が分裂します。アッバース朝が嫌いな国です。ここで新しい国を作って、その時に新しい都もつくる。それがカイロです。今でもエジプトの首都です。
 ここは同じアラブ系の国ですが、シーア派の国です。国の名前のファーティマというのはムハンマドの娘で、その娘と結婚したのがシーア派が正統とする4代カリフのアリーです。つまりアリー支持派です。アリーを支持するグループがシーア派です。それにちなんだ国の名前です。

 イスラーム帝国は広すぎる。だから辺境地帯で地方政権が誕生してどんどん分裂していく。広げるときはいいけど、広すぎると守りが大変です。異民族が侵入してくるんです。


【トルコ人の移動】

 今度は中国史と関わります。中国史で中国の北方民族、馬に乗った民族、彼らは動くのは速い。1000キロ、2000キロぐらい平気で移動する。彼らが移動して、中央アジアからこのイスラーム化した西アジアに入ってくるんです。イスラーム帝国に入ってきて国を建てていく。彼らがトルコ人です。
 中国史では何と言っていたか。漢字で出てきた。中国史では突厥と言っていた。騎馬遊牧民です。彼らは馬に乗っていて戦いには強いから、それを見込まれてアッバース朝の王様から軍人に雇われる。彼らも好んで軍人になっていく。

▼トルコ人の拡大


 しかし彼らは今でいう軍人と違って、王様の奴隷として軍人になっていきます。奴隷軍人なんです。しかも王様と緊密なつながりを持つエリートです。イスラーム圏にはこういうシステムがあります。横文字で言うと、彼らのことをマムルークという。
 奴隷というとものすごく悲惨な生活をしているような気がしますが、実はそれはヨーロッパの奴隷のイメージであって、ここの奴隷はけっこうお金をもっていて豊かです。我々日本人の持つ奴隷のイメージとはかなり違います。そこには血の通った主人と奴隷の関係が成り立ちます。
 だからこれは奴隷ではなくて、日本で言えば養子のようなものだという人もいます。確かにそうとらえた方が分かりやすいです。しかし教科書には奴隷と書いてあります。その奴隷をマムルークと言います。

 ただ優れた軍人は他の王様も欲しいから、奴隷を売ってくれとなる。そうなると自分の意志とは関係なく、売られていきます。売られる人間というのは、自由人ではなくてやはり奴隷だということで、雇い主から雇い主に売られていたので、やはり奴隷かな、という感じです。
 だから奴隷というのは、その生活の悲惨さを言うのではなくて、お金で売買されるかどうかが基準になるようです。他人の意志でお金で売買されるとは、自分の意志は無視されるということです。つまるところ人間と奴隷との差は、その生活水準ではなくて、個人の意思が尊重されるかどうかにかかっているようです。


 ただ現在でもこのスタイルを取っている職業人はいます。すぐれた野球選手は、球団のオーナーから見ると戦力として非常に欲しいから、高額でトレードされます。トレードとは売買です。5億とか10億で売買される。これがトレードです。イスラム圏の奴隷は、こういうプロ軍人として、今のプロ野球選手のイメージに近い。オレはあの球団には行きたくないと言っても、オーナーが移籍しろと言えば、行かざるをえない。

 サラリーマンはそういったことはない。例えば私が、ある企業に勤めていているのに、別の会社に移れと社長に言われても、私はそれを断ることができます。正当な理由なく、一方的に解雇されることはありません。
 ここにはそういう権利はない。そういう奴隷軍人です。しかし生活は豊かです。権力も持っている。武力も持っている。だから彼らが腹を立てると怖い。奴隷が主人の国を乗っ取って、別の国を建てたりします。

 

▼11世紀のイスラーム世界





【セルジューク朝】

 彼らトルコ人がそのマムルークになって雇われているなかで、その一方で中央アジア出身のトルコ人たちをまとめた国が建てられた。これが1038年です。セルジューク家が建てたからセルジューク朝という。彼らは中央アジアから入ってきた人たちですが、もともとの出どころはモンゴル高原です。中国史で出てきた騎馬遊牧民の突厥です。
 1055年、セルジューク朝のトゥグリル=ベクがバグダードに入城し、先に侵入していたブワイフ朝を滅ぼします。これはアッバース朝カリフの要請に応える形で入城します。

 そしてかなり大きい国になります。東は中央アジアから、イラン・イラク、そして西はアナトリアまで。この西のアナトリアを領有したことが、今のトルコ共和国の起源になります。このアナトリアはそれまでビザンツ帝国の領土だった。そこにセルジューク朝が入ってきたことが、ヨーロッパ人の恐怖心を高め、このあとでいう十字軍の征服活動になります。
 ただしアラビア半島は砂漠だから、20世紀に石油が出るまでは誰も欲しがりません。

 つまりアラブ人の世界に、東方の騎馬遊牧民のトルコ人が入ってきたということです。そして奴隷からのし上がって支配者になっていく。
 言葉も顔もアラブ人とは違うんです。しかし千年たった今では血が混じり合って、アラブ人やヨーロッパ人に似た顔になってますが、もともとはアジア系の人々です。


 彼らはアッバース朝から実権は奪っても、カリフは名目的に飾っておいた。そしてそのカリフからスルタンという称号をもらった。これを日本語に訳すと「統治者」という。つまり宗教的権威とは切り離して、政治的な権力だけをカリフから認められたわけです。

 こういうふうに、アラブ人に代わってトルコ人が支配層になる。これが11世紀です。

 この頃のヨーロッパでは・・・これも後で言いますが・・・キリスト教のローマ教会がイスラーム帝国と戦争をやると宣言して、参加するものこの指止まれというと、ヨーロッパ人がいっぱい止まりだして、イスラームに対して征服活動をしだした。オレがイスラームの土地をぶんどってやる、というんですよ。

 1096年からの約200年間、7回にわたって攻撃を仕掛けます。彼らヨーロッパ軍のことを、胸にキリスト教のトレードマークつまり十字架のマークを上着につけて征服に行ったから、彼らは十字軍と呼ばれます。
 これはヨーロッパ勢です。彼らはキリスト教が発生したところつまりエルサレムを一時的に奪います。ここはこの時イスラーム教徒の支配地になっています。

 こうやって、西アジアのイスラーム地域には、東からはトルコが来るわ、西からはヨーロッパのキリスト教徒が攻めて来るわ、グシャグシャになる。



【アイユーブ朝】

 次の12世紀になると、エジプトにまた別の王朝ができる。これをアイユーブ朝という。建国は1169年です。建国者はサラディンという武将です。本名は、サラーフ・アッディーンというんだけれども、これを縮めたあだ名がサラディンです。サラーフ・アッディーンの短縮形のようなものです。
 1187年、サラディンは十字軍と果敢に戦い、エルサレムを奪い返します。それでヨーロッパに名を知られます。しかしこれで終わらない。
 ここまでが12世紀です。



【イル=ハン国】

 次は13世紀です。1200年代です。中国史は先にやりました。モンゴル高原から中国を征服して、この西アジアまで征服してくるのがモンゴルです。中国方面からは2回目です。1回目はさっき言ったトルコです。そして2回目が今から言うモンゴルです。
 モンゴル人は、アジア大陸を征服して、ここにモンゴルの分家をつくる。これがイル=ハン国です。1258年です。これがアッバース朝のカリフの息の根を止めます。ほんとに殺害する。実権を失ったとはいえ、まだ生きながらえていたアッバース朝はこの時に滅亡します。
 ここでモンゴルが攻めてきた支配したから、イスラーム教は禁止されたのかというと、これが全く逆です。支配者層になったモンゴル人自らが、このイスラーム教の教えの圧倒的な厚みに感化されて、イスラーム教徒になっていきます。支配する側が支配される側の宗教に染まっていく。これがモンゴルのイスラーム化です。



【マムルーク朝】

 これと前後して、エジプトには1250年マムルーク朝ができます。マムルークとは、さっき出てきた奴隷という意味です。彼らはまたここでも王朝をつくる。そしてここに攻め入ろうとするモンゴル軍を撃退していく。その後、イル=ハン国は、約100年後の1393年にティムールによって滅ぼされます。


 まとめると、今までいろんな国が出てきたんだけど、覚えようとしてもなかなか覚えきれないというのが実情ですね。

 出てきた国を確認すると、ウマイヤ朝からアッバース朝になった。
 10C、エジプトではファーティマ朝が分裂した。
 11C、アッバース朝をトルコ系のセルジューク朝が占拠した。

    するとヨーロッパから十字軍が攻めてきた。
 12C、エジプトにアイユーブ朝ができた。
 13C、モンゴルが攻めてきて、イル=ハン国ができた。
    エジプトでマムルーク朝が対立した。
 14C、ティムールが攻めてきた。
 グチャグチャですね。西からも、東からも敵が押し寄せてくる。西アジア地域の宿命のようなものです。メソポタミア文明の頃から、これは変わりません。



【イスラーム文化】

 いろんな絡みで、いろんな宗教と接触し、キリスト教勢力も来る。中国の遊牧民も来る。そうしながらイスラーム文化圏が、いろんな文化を取り入れていくわけです。
 結局、どんな敵から攻められても、戦争には負けても文化的には勝ったんです。モンゴルだってイスラーム帝国に戦いでは勝っても、イスラーム教を受け入れていく。だからイスラム教はますます栄える。

 この時代は、ヨーロッパよりもこのイスラーム世界のほうが文化が高い。頭もいい、計算もできる、字も書ける。ヨーロッパ人は字が書けない、計算できない、まず紙がない。

 しかしここには紙がある。紙があって、字が書けて、計算ができるから、契約ができる。ということは商売ができる。金貨や銀貨のお金だって当然あります。このころのヨーロッパでは、まだお金は一部にしか流通していません。
 イスラム商人たちは、そのお金を使って、何百キロも離れたところで商売をし、中にはガッポリ儲ける商人たちも出てくる。これが船乗りシンドバットのモデルです。

 船乗りシンドバットは物語上の人物ですが、彼らは実際に風向きもちゃんと知ってる。季節によって風向きが違う。これを利用すれば貿易ができて、大儲けができる。船が1年を通じて移動できるんです。
 この季節風の知識を得て、彼らが操ったイスラムの船をダウ船という。この船乗りがシンドバッドですよ。
 アラビアンナイト、これがイスラムを代表する物語です。日本では千夜一夜物語といいます。


 しかもギリシャの学問は、すぐにヨーロッパに伝えられるんではなくて、このイスラム世界で一旦アラビア語に翻訳されて保存されているんです。彼らイスラーム教徒がまずギリシャ文化を学んだ。その500年もあとになって、ヨーロッパでやっと紙ができて、ヨーロッパ人が勉強しはじめる。まだこのあと500年もかかるんだけど。 

 アラビア語をヨーロッパ人が、自分たちの書き言葉であるラテン語に翻訳して、やっとヨーロッパ人がギリシャ人が考えたことを読めるようになるんです。こうやってギリシャ文化がヨーロッパに伝えられた。ここからヨーロッパが動き出して、やっとイスラームの水準に追いつく。
 それまでのヨーロッパは遅れた地域だったのに、それが追いついたとたんに、なぜか爆発的に発展していく。
 イスラーム世界は、これで終わります。



【アフリカ】

 次はアフリカです。世界史はあっちこっち行きます。アフリカは野蛮な土地ではない。ちゃんと国があります。今なぜ遅れた地域になっているか。
 これは後で言いますが、ヨーロッパ人が荒らしまくって、アフリカの黒人社会を壊したからです。この最たるものが奴隷貿易です。アフリカの働き手の若手の多くが、奴隷として連れ去られた。


 これは前に言ったイスラーム圏の奴隷と違って、本当に悲惨です。彼らは今でいう拉致にあう。突然後ろから羽交い締めにされて、手を縛られてブタのよう船に入れられて、大西洋を渡ってアメリカに連れて行かれた。この後500年後におこることです。

 アフリカにやってくるのはヨーロッパ人です。その前はアフリカにもちゃんと国がありました。

 ガーナ王国マリ王国。ちゃんと文明も栄える。国もあった。そのほかにもあるんですが、代表してこの二つ。

 ガーナ王国の後、14世紀にマリ王国。ここも非常に繁栄して、金があふれるほどとれた。そういう王国もでてきます。
 ポルトガル人が、スペイン人が、そしてイギリス人がやってくる。これでアフリカが変わる。

 アフリカ大陸の自然環境は、赤道から北にあるのがサハラ砂漠です。北はイスラーム圏です。古代ではエジプト文明が栄えた。

 よく赤道をサハラ砂漠のまん中あたりに引く人がいますが、そうじゃない。サハラ砂漠の南に赤道はあります。赤道直下は熱帯雨林で、さらにその南北に砂漠があります。これは地理の基本だったですね。

 商業が栄えたのは、アフリカの西ではなくて、アフリカの東のほうです。東岸の海岸です。なぜなら、この東海岸にイスラム商人の船乗りシンドバットたちが、インド洋を西に東に貿易をしていくわけです。インド洋の西の突き当たりがアフリカの東岸です。儲かる商品があれば、何でも売り買いしていく。

 だからここらへんのアフリカのもともとの言葉はバンツゥー語といいますけれども、これにアラビアの商人の言葉が混じり合う。そして別の言葉になっていく。これがスワヒリ語です。東海岸にもジンバブエなどの国ができます。

次はヨーロッパに行きます。
これで終わります。ではまた。



モリカケ問題、どこ行った

2019-02-07 22:48:18 | マスコミ操作

木曜日

日産ゴーンに、統計不正、北方領土に、児童虐待。
モリカケ問題どこ行った。

1月に国会が始まっても、モリカケのモの字も出てこない。

今年の夏頃になって、モリカケはどうなったんだろう、とテレビで誰かが言うんだろう。
その時は、すでに過去の問題。

みんなモリカケのことなど忘れている。
うまいもんだな、報道は。
いつも肝心なことは報道しない。



「授業でいえない世界史」 12話 古代ローマ1

2019-02-06 00:33:10 | 旧世界史5 古代ローマ

※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


【マケドニア】
 つまりアテネもスパルタの没落して、その北にあった田舎のギリシャつまりマケドニアが急速に強くなっていく。

※ ペルシャ戦争以降、南部の諸ポリスでは経済が急速に成長し人口も増大します。増大した人口のほとんどが土地を持たない無産市民となりました。多くの無産市民は都市での生活が成り立たなかったため、新天地を求め北部のマケドニアに移住しました。(宇山卓栄 経済)

 強くなった理由は、アテネの住民が、こんな没落したアテネなんか住めるかと言って、多くの住民が北方の田舎のマケドニアに移住して行くからです。腐敗したアテネやスパルタに愛想を尽かすんです。  例えば、東京の人が腐敗した東京がいやになって九州に移住して行き、それで九州が強くなる。それがマケドニアです。そしてギリシャの支配権を握る。王の息子が大征服に乗り出す。この若き王がアレクサンドロス大王です。そしてアレクサンドロス大王の東方遠征が始まります。紀元前334年です。

※ アレクサンドロス大王はみずからの肖像を刻んだスタテル金貨を大量に鋳造し、広い範囲に流通させた。アレクサンドロス以後、コインの表面に王の顔を刻む習慣が定着した。王が神に模されたのである。(宮崎正勝 お金の世界史)

  これでまずギリシャを征服する。つまりアテネもスパルタも、マケドニアのアレキサンダーによって支配されてしまいます。最終的な勝者はマケドニアです。さらに東方に遠征し、アケメネス朝ペルシャ前330年に滅ぼし大帝国を築く。

※ 巨大化した軍隊を養うためには他国を侵略し、略奪すること以外に方法がなく、未知の領域への大遠征が決行されました。(宇山卓栄 経済)


▼アレクサンドロスの東方遠征

 

 

  そしてさらにインドのインダス川のほとりまで行く。びっくりしたインドは、オレたちも国をつくろうとなってマウリヤ朝という国ができた、という話はすでにしました。ここらへんは前後します。地域ごとに言ってますからよくこうなります。横軸のピントを合わせてください。
 横のつながりが、グチャグチャになりかけてませんか。5本ぐらい線がありますからね。最初はアジア行って、インド行って、オリエント行って、エジプト行って、いろんなところに行きますから、どこがどこか分からなくなったりしてませんか。
 早く説明したところが、歴史的に古いとは限らないです。でもこれはテレビドラマを5つ同時に見れないのといっしょで、一つ一つ見ていくしかありません。前後関係はドラマのあとで調整してください。この作業は自分でするしかありません。

  これによってギリシャ世界で長らく存在しなかった王権が復活し、大帝国を建設します。
 しかしアレクサンダーはなぜか急死した。病死だと言われます。それだけしか分かりません。するとワンマン社長が死んだ瞬間に跡目争いが起こり、帝国はまた崩壊して分裂する。中国の王朝のようには帝国は継承されません。
 ギリシャになぜ王がいないかと同じように、なぜ帝国が継承されずに分裂を繰り返すのかということも、よく考えるべきことです。
 ただアレクサンダーが運んだギリシャ文化はインドあたりまで根付いていった。これをヘレニズム文化といいます。ヘレナというのはギリシャ人のことです。

※ 実際にアレクサンドロスらがペルシアで行ったことは、配下の武将たちによるペルシア男性の大虐殺と、ペルシア女性の集団強姦でした。父や兄弟を殺したギリシャ人とペルシャ人女性が好きこのんで結婚することなど、あろうはずがありません。(宇山卓栄)


【三国分立】
 アレクサンダーの帝国はすぐに3つに分裂します。
  1.まず本家のマケドニア
  2.それからエジプトはプトレマイオス朝エジプトという。ここの女王が絶世の美女のクレオパトラです。このあとちょっとだけ出てきます。
  3.それからセレウコス朝シリアです。
  似たようなことは、前7世紀にはじめてオリエントを統一したアッシリア帝国にも起こりました。その時もすぐ四国に分裂しました。覚えてますか。メディア、リディア、新バビロニア、エジプトの四つです。
  それから約300年後のこの紀元前4世紀に、アレクサンダー帝国も三国に分裂します。
  それ以前も、シュメール人のウル第一王朝が滅び、アッカド人のアッカド王国が滅び、またハンムラビ王のバビロン第一王朝も滅びました。
 これらの国々の民族はすべて違います。国ができては滅びます。跡を受け継ぐ者がいない。そして繰り返し分裂する歴史です。これが中国の王朝と違うところです。そこにどういった違いがあるか。それを考えることは現代人とくに東洋人にとっては非常に重要だと思います。



【古代ローマ】
 ここからは、ギリシャの西にあるローマ帝国の成立に行きます。アレクサンダーによって征服されたのはギリシャから東です。ローマはギリシャの西にある。アレキサンダーは英語読み、ギリシャ読みはアレクサンドロス、どっちでもいいです。彼によっても、西の方のローマは征服されなかった。だからローマは生き延びた。

※ ギリシャはオリエントという中心に対し、辺境に位置する弱小勢力でした。ローマはさらに西の果ての弱小勢力で、たった数千人の村から出発します。(宇山卓栄 経済)

▼ローマ帝国の拡大


【都市国家】 古くはどうかというと、紀元前7世紀・・・ギリシャと同じ頃です・・・小さな都市国家としてローマも誕生する。ここまでは一緒です。ギリシャと。しかしここから先が違う。

 この国家は・・・伝説では・・・国をつくったのはろくな男たちではない。一人者の荒くれ男です。男だけで国をつくった。30才ぐらいになると、女がいないからといって、隣村に女を略奪しに行く。伝説として物語にもなっている。略奪された村をサビニ村という。この略奪を「サビニの略奪」といって絵の題材にもなっている。
 こういう荒くれだった男たちの国がローマです。そして女たちを自分の嫁さんにしていく。その息子たちも親父の気性を受け継いで気が荒い。


【王の追放】 今のは伝説です。歴史的にわかっているところでは紀元前509年に、ここにも王が最初はいたんだけれども、王権が弱くて、荒くれ男たちによって逆に王が追放される。

 荒くれ男たちが追放されるんではなくて、逆に荒くれ男たちによって王が追放される。力が支配する世界のようです。それで力の強い男たちが、有力者となって数人での政治を行う。これを共和政という。共和というソフトなイメージと違って、非常に荒々しい世界です。



【貴族政】
 そのなかの有力者が、年を取れば取るほど発言権を持って、元老院というグループを構成し、これが実質的にローマを動かす力を持っています。だからローマは民主制ではありません。有力者が力を持つ貴族政です。貴族と平民には身分の差があります。貴族はパトリキ、平民はプレブスです。

 ローマ人の言葉は英語じゃない。この時代のローマの言葉はラテン語といいます。イタリア語の原型と思ってください。

 平民たちはこの身分差を埋めようといろいろ要求していきます。
 前494、平民の権利を守る護民官の設置、
 前471、平民だけの民会である平民会の設置、
 前451、十二表法・・・初の成文法
 前367、リキニウス=セクスティウス法・・・貴族の公有地所有の制限
 前287、ホルテンシウス法・・・平民会による法律制定権

 しかし共和制の実質は貴族共和制で、元老院の力を削ぐことはできませんでした。
 貴族たちは平民に表面上は譲歩しながらも、実質的には自分たちの力を手放そうとはしません。表面的には平民が力を持つように見せながら、その実態は貴族政です。看板に偽りありですので、そこで騙されないようにしてください。
 平民は、徐々に怒らせないように、また力を持たせないように、無力化されていきます。


【イタリア半島統一】 さっき言ったように、アレクサンドロスは東に行ったから、西のローマは侵略を受けず、そのまま生き延びることができた。ギリシャは都市国家のままだったんだけれども、ローマは領土をどんどん拡げていく。だから都市国家ではなくて、領土を持つ国になっていく。

 そしてアレクサンドロスから約100年経った前3Cに、ローマがあるイタリア半島を統一していく。ローマが征服したイタリア半島の諸都市に対しては、地位の高い順に植民市、自治市、同盟市という区別を儲け、彼らが団結することを阻止した。敵を分断させ、団結しにくくするこの方法を分割統治という。敵同士は仲間割れさせた方がいいわけです。今の国際情勢を見ていると、これは過去のことではないことが分かります。今はもっと巧妙化していますが、同じことがなされています。ヨーロッパ流はワンパターンで、2000年以上変わりません。

 ここで活躍した兵士についても、考え方はギリシャといっしょです。荒くれ男たちが重装歩兵となって戦います。つまり一般庶民が戦いに参加する。

 荒くれ男たちの中で、イクサに行くぞという時に、オレは腹が痛いなどというと、帰れ、来るな、二度と顔を見せるな、厳しい社会です。


【領土拡大】 平民の軍事力の大きさ、これがローマの軍事力を担ってる。これがつぶれるとローマは困ったことになる。この大敵が貧富の差です。一部の人間にお金が集まるすぎると、彼らは消滅していかざるをえない。

 これをどうするか。基本的にはギリシャといっしょです。乾燥地帯だから食糧は不足している地域です。ギリシャとの違いは、ギリシャは貿易でこれを補ったんだけど、そんなめんどくさいことはしない。ローマは周りの村を征服することによって食糧を確保する。このことが領土を広げていったということです。これが帝国になる第一歩です。帝国とは、自分たち以外の民族を従えた国家のことです。

 隣の村は負けた。負けた村人は殺されるか、逃げるか、捕虜にされるか、そのまま生き延びれば奴隷にされる。これを戦争奴隷という。奴隷にこれで2種類出てきた。ギリシャは戦争奴隷というよりも債務奴隷だった。借金を返せなかったから体で払う。これが債務奴隷です。

※ ローマでは、交易が盛んになると、ソリドゥス金貨、デナリウス銀貨が登場する。銀貨のデナリウスは前3世紀頃から鋳造された。(宮崎正勝 お金の世界史)

 ローマは征服して乗り込んでいっても無理やり奴隷にして連れて帰る。これが戦争奴隷です。けっこう危ない社会ですね。こういう社会は奴隷をもてば、仕事は奴隷にさせる。

 ギリシア人は暇になって考えた。そこから哲学を生み出した。しかしローマ人は暇になって遊び方を考えた。このあとローマは贅沢になる一方です。


  ここでちょっとまとめると、ローマ帝国が起こって、紀元前3世紀、小さな都市国家ローマがイタリア半島を統一したところまで行きました。これが紀元前3世紀です。

 ローマはギリシャと違って、周辺の都市を征服していく。戦争するわけです。それで負けた方の人間はどうするか。
 負けた側は、植民地にされる。では戦って負けた人はどうなるか。殺されたりするけど、負けて生き残った人は、ローマ人によって奴隷にされるんです。これが戦争奴隷です。ギリシャもローマも日本と違うのは、徹底した奴隷社会です。
 奴隷社会なんて、そんなバカな、2000年も前のことじゃないか、と思いますか。つい100年、200年前まで、アメリカは歴然とした奴隷社会です。黒人奴隷がまともな人権を持ったのは私が生まれてからあとのこと、50年もまだ経ってないんです。
 こんな奴隷社会です。負けたらとんでもない。基本は戦いの世界です。イタリア半島は、あの長靴のようなこんな半島です。
 西にスペイン、南にシチリア島です。地中海の南側はアフリカです。アフリカのここにカルタゴという都市があった。ローマは今度は海に出る。半島統一したら今度は海です。東地中海は、ここは霧がなくて、痩せ海で、魚は取れないけれども、交通の便が良くて交易社会なんです。


【ポエニ戦争】 この東地中海の海の支配権をめぐって、また戦うんです。相手はカルタゴという。アフリカ北岸のフェニキア人の都市です。カルタゴ人のことを、ローマ人は、ポエニと呼んだ。フェニキアの訛りのようです。

※ カルタゴはオリエントからやってきた商人たちによって紀元前9世紀末に建設されました。「新しい都市」という意味です。・・・紀元前4世紀に、アレクサンドロスがオリエントを征服すると、ギリシャ人の支配を嫌う多数のオリエント人がカルタゴに移住し、大きく発展しました。(宇山卓栄 経済)

 この戦いをポエニ戦争という。この戦いが紀元前264年から前146年まで、120年も続く。100年間以上の戦争です。ローマはカルタゴの名称ハンニバルに苦しめられるが、ローマの将軍スキピオがザマの戦いでハンニバルを破った。そしてやっとカルタゴを滅ぼす。地中海にまで進出していった。これをポエニ戦争という。ここまで来て、海に行く。

※ ポエニ戦争による財政悪化をやわらげるために、お金の改鋳がなされたのを事始めに、ローマ帝国では質の悪いお金にコインを改鋳することで政府が財源の捻出に努めた。ローマ帝国のお金の歴史は、改鋳によるコインの質の低下の歴史である。(宮崎正勝 お金の世界史)

※ アウレリウス帝の時代になると本来銀貨だったデナリウス銀貨の銅の比率が95%に達し、実質的にほとんど銅貨になってしまった。銀の比率は最悪2%にまで落ちていく。(宮崎正勝 お金の世界史)


 まず一番目にイタリア半島でしょう。二番目に海でしょう。そして東に行く。東にギリシャがある。ギリシャの北方にマケドニアがある。大帝国を築いたあのアレキサンダーの帝国です。ギリシャはローマに征服される。しかしローマは野蛮です。ギリシャのほうが文化的に高かった。
 ローマはこれを征服して、ギリシャ文化を受け継ぐんです。でも実用的な部分だけで、芸術的なものや哲学的なものは、ローマ人は難しくてわからなかった。でもギリシア文化を受け継いだから、ギリシャ・ローマ世界といいます。

 まず紀元前168年にアレキサンダー後のマケドニアを滅ぼす。これによってギリシャ一帯を征服する。やさしい社会じゃないんですね。強い者はどんどん自分の領地を広げていくような社会で、貧富の差も大きく、強い者はどんどん大金持ちになっていく。そうじゃない人は、どんどん虐げられて、戦争に負けたら奴隷になっていくような社会です。


【グラックス兄弟】 これでいいのかな、と考えたローマ人もいる。しかし、結論はうまくいかない。強くて何が悪いのかという社会ですから、ヤワな世界じゃない。へなちょこはぶっ殺すぞという、荒くれ男の世界です。

 でもこれでいいのか、という疑問をもって改革に挑んだ兄弟がいる。グラックス兄弟です。彼らが改革に取り組む。これが紀元前133年です。ちなみに彼らの祖父はカルタゴの名将ハンニバルをポエニ戦争で破ったスキピオです。
 彼らは貧富の差が大きくなるのを防ごうとする。お金持ちからはお金をもっともらって、それを貧しい人に分けようとする。土地も、大土地所有者の土地をもらって、それを土地を持たない人に分配しようとする。


 こういうのは富の分配です。自分で稼いだのは、すべて自分のものにしていいという今のような社会は、歴史の中でそんなに多くはない。今ほど私的所有権、稼いだものは自分のもの、ということが徹底した社会はない。
 普通は、稼いだものは自分だけのものじゃなくて、社会に分配しなければならない。これが税金であったり、または寄付であったりするわけですが、ローマは金持ちがどこまでも自分のものにする。
 イスラーム社会では、自分の富を喜んで寄付する喜捨の教えがあってそのことに成功していくのですが、ローマ社会にはそういう発想がありません。
 なんでオレの土地を没収しようとするのかという反対にあって、このグラックス兄弟のほうが逆に殺されてしまいます。


【パンと見世物】 貧富の差がますます大きくなって、花の都ローマにはホームレス、家のない人たちがゴロゴロしていく。こういう異常な都市になっていくわけです。そうなると、こういう人たちは普通は反乱を起こす。反乱を起こして暴動を起こして、場合によっては宮殿を襲って王を殺したりする。

 中国の反乱はまさにそういうものです。中国は皇帝を殺して、反乱のリーダーが次の王朝を建てたりする。
 しかし、ローマ人はこういうのにどう対処したかというと、ホームレスになり家もないように人たちは腹を減らしているから、彼らに無料でパンを配る。何時にパンを配りますよと言って、人を集めてどんどん配る。そうすると、いい人だいい人だ、と思われて、下層民の不満を抑えられる。彼らは働かずにパンをもらえるからどうにか生活できるんです。

 次には見せ物といって、こういう建物を見たことないですか。ローマの中にコロッセオという建物がある。円形競技場で野球場みたいに、何万という人が収容できる。ここで何が行われていたかというと、奴隷同士を殺し合うまで戦わせる。または奴隷とライオンを戦わせて、どっちが勝つか、見世物にする。それをローマ市民が、やった、やれやれ、と熱狂する。

 働かなくてもパンをもらえる、働かなくても人殺しをショーとして楽しむ。これが「パンとサーカス」です。多少狂っている。「パンと見世物」です。こんな社会では、まじめに働くよりも、働かずにローマに行って遊んでおいたほうがマシだとなる。

 そうなるとますます貧しい人たちがローマに流入する。それでもどうにか食っていけるんです。
 でもこの富はもともと奴隷が働いたものです。誰が働いているのかと言えば、奴隷です。その奴隷はもともとローマ以外の人に住んでいた人たちです。それをローマが強引に侵入して戦って征服して、奴隷にしてローマに連れてきている。社会を支えているのは奴隷です。こういう社会です。

 ローマ人の金持ちは贅沢に遊び、そうでない人たちは無料でパンをもらう。無料で人殺しの試合を見る。それに熱狂する。それもタダで。そしてそれを政治サービスだと思う。受ける人間はこれを当然だと思う。これでよく社会が続いたと思います。


【私兵】 ただ、戦う兵士たちはもともと農民で、自分で武器・弾薬を用意して戦っていかねばならない。しかしそういう自作農が没落してくると、自分では食料とか武器とか用意できなくなるんです。兵士が不足する。
 そうなると、お金持ちが社会の富を全部ガメて、お金をいっぱい持っているから、彼らが今度は、お金で兵士を雇うんです。これを傭兵という。1ヶ月20万で雇うから、オレの兵隊になれ。給料払うぞ。刀も鎧もオレが準備するから、おまえは戦うだけでいい。


 こういうふうに、金持ちが国の兵隊じゃなくて、自分の兵隊を持っていく。これを私兵といいます。1000人、2000人、1万人もてばたいがいの勢力になる。こういう私兵を抱えたお金持ちたちを、政治家がおさえられなくなる。すると私兵をもった彼らがローマを動かしていくようになる。しかも民衆がこれを支持する。
 なぜ支持されるか。仕事がなくて、ブラブラしているところを兵隊に雇ってくれるんです。仕事があれば、兵隊だって何だっていいんです。どうせ戦っても勝つんだから。それで給料もらえる。いい仕事だな。オレを兵隊に雇ってくれていい人だな。そうやって民衆も、彼らを兵隊として雇ってくれるお金持ちたちを支持していく。

 富裕な者が私財を投じ、街にあふれるホームレスたちをみずからの軍団に雇い入れました。富裕な者はそのような私兵軍団を率いて遠征を行い、外地で土地を支配していきます。多くの富裕層がこの私兵軍団による外地征服の投資ビジネスに熱狂し、私財をつぎ込み強力な軍団を編成します。



【三頭政治】
 そうしたときに、コロッセオの中で戦っている奴隷の剣士が、反乱を起こす。これがスパルタクスの反乱です。紀元前73年です。
 しかし国には反乱を鎮圧する力がない。鎮圧するのは、こういう私兵をもった軍人政治家です。彼らが奴隷の反乱を、自分のポケットマネーで自分の兵隊を使って鎮圧する。当然、国家は彼ら中心に動いていく。

※ カエサルは自己資金で私兵を雇ったのみならず、私兵軍団の将軍として自らの能力と外地征服のリターンの高さを富裕層に売り込み、投資を勧誘します。(宇山卓栄 経済)

 その結果、有力な軍人政治家が3人でグループを組んでローマの政治を動かしていこうとする。このローマの3人が、カエサル、ポンペイウス、クラッススです。3人の大物による政治という意味で三頭政治という。紀元前60年から約7年間です。2回目があるから、ここは第1回三頭政治という。
 その筆頭がカエサルという人です。ローマ読みでカエサル、英語読みでシーザーです。このシーザーは何をしたか。今のフランス、当時はガリアといいますが、ここに征服しに行って勝った。フランスをローマの植民地にした。
 お金持ちだから、全部自分の私兵を使って征服する。国の軍人じゃない。自分で勝手に兵隊をつくって、お金が足らなければ莫大な借金までして、自分でフランスに遠征する。そこをローマの領地にして、ここで負けた人たちを奴隷として連れてくる。奴隷として連れてくると、カエサルも戦争に使ったお金以上の儲けを得る。その儲けによって借金を返済する。

※ カエサルは貧困層の増大とともに貧困層によって支持されて、貧困層によって生み出されたリーダーです。この意味においてカエサルという現象は、ローマ史の表層に過ぎず、真相にあるものは貧困層の不満の集積であり、これこそがローマを世界帝国に突き動かした原動力だったのです。・・・カエサルはかつて軍団のスポンサーになってくれた恩のある富裕層を裏切り、民衆に加担します。(宇山卓栄)

 こういうふうに戦争と借金、そして金儲けが結びついているんです。戦争によって金儲けをする人は今も昔もいる。戦争になると多くの人は、ものすごく悲惨な目にあうんだけれども、逆に戦争で金儲けをする人たちもいる。そういう人たちが国の指導者になろうとする。

 本当は、ローマ帝国の政治というのは、貴族の長老の意見によって動かされていたんです。これを元老院という。
 しかしこの3人が元老院のいうことを聞かなくなる。さらに元老院を押さえ込もうとする。つまり一番簡単にいうと、金の力にものを言わせて、軍隊をつくり、ローマの政治を乗っ取ったということです。

 だからこのカエサルは、ローマの原則、元老院政治の原則に反するということで、頂点のところである日突然、殺されます。暗殺されるんです。ある特定の人が偉くなりすぎると、ここは気が荒い世界だから、社会の頂点に立とうとするような人間は殺される。このローマ世界では。それがカエサルです。

 このカエサル亡き後、カエサルには息子がいなかったから、養子をもらってるんです。この養子が後を継ぐ。名前はオクタヴィアヌス(前63~後14)という。彼が紀元前43年から、第2回三頭政治を行う。あとの2人は、カエサルの部下であったアントニウスとレピドゥスです。

 このオクタヴィアヌスがローマの領土を広げようとして、また征服に出向いたところが、このアフリカの入口のエジプトですね。
 そのエジプトには男の王様ではなくて女の王様がいた。その女王がアントニウスと同盟を組んだクレオパトラなんです。絶世美女で、前のカエサルの時代から、クレオパトラは色仕掛けでいろいろやったとか、いろいろな話がある。死んだカエサルとの間には子供までもうけている。オクタヴィアヌスはその色仕掛けに乗らずに、結局エジプトのクレオパトラを攻めて滅ぼす。

 クレオパトラは最期は、毒蛇におっぱいを噛ませて死んだと言われる。こういう艶っぽい話はたぶんウソだろうと思いますが、そう言い伝えられていてよくドラマになっています。

 でも大事なことは、クレオパトラが蛇におっぱいを噛ませてたことではなくて、ローマがエジプトを治めて、ほぼ地中海を自分の海としていったことです。これが地中海世界の統一です。

 だからここまでくると、オクタヴィアヌスのことを、元老院も認めざるをえなくなる。あなたは素晴らしいと。そして称号を与えるんです。この称号がアウグストゥスという。立派な人という意味です。漢字で書くと尊厳者という。8月のことを英語でなんていうか。オーガストという。これはアウグストゥスから来ています。

 このアウグストゥスはここからが慎重です。

 オクタヴィアヌスの政治が巧みで決してカエサルのように元老院勢力を叩きすぎず、これと対決するフリをしながら民衆の怒りや不満を鎮め、その裏で元老院の保守勢力と協調していきました。

 オレは偉いんだ、と威張らない。わざと皇帝と名乗らない。なぜか。自分の義父のカエサルは皇帝になろうとしたと疑われて、権力の絶頂で突然殺された。オレはそんなことはしない。皇帝という言葉を決して使わない。

 しかしローマ帝国の重要官職を一手に集めて、実質上は皇帝と同じ権力を持つ。だから彼は初代皇帝です。そう名乗らないけどね。
 だから同じ皇帝でも、ローマ皇帝は中国の皇帝とはその意味がだいぶ違う。他に訳しようがないから、仕方なく皇帝といっているけど、皇帝はエンペラーという。これはインペラトールという軍事司令官のことです。つまり軍隊の指導者にすぎない。
 彼ら戦争には強くても、政治は苦手です。というより、戦争が本来の仕事で、政治は自分の仕事ではないと思っているようなところがあります。だからこのあと皇帝の権威が低下すると、各地の軍隊の軍事司令官が、勝手に自分で皇帝と名乗って、皇帝の位を奪い合うようになる。

 そこには中国の皇帝に見られたような、天からの権威づけもありませんし、天によって与えられる徳もありません。軍事力が頼りの皇帝です。国を治めるというより、国を支配するという感じです。国を治めるというより、人を支配するという感じなのです。
 我々日本人とは、政治に対する考え方がかなり違います。


【イエス】 同時代のパレスティナについて少し触れます。今でいうイスラエルです。そこにはユダヤ人が住んでいます。彼らはユダヤ教を信じていました。
 紀元前63年、パレスティナはローマの属州になります。 
 そこに紀元前4年にイエスが誕生します。イエスが誕生したのは、ローマではなくてこのエルサレムです。またはその近郊のナザレとも言われます。彼からキリスト教が生まれてくる。
 本当は紀元0年にイエス・キリストが生まれたと信じられていたから、それを基準としてキリスト紀元の西暦が作られたんだだけれども、その後、歴史が詳しく分かってくると、4年ズレていたことがわかった。
 イエスが生まれました。今の西暦はこのことを基準につくられています。このあとのヨーロッパはこのキリスト教を中心に動いていくといっても過言ではありません。
 これで終わります。ではまた。



「授業でいえない世界史」 13話 古代ローマ2

2019-02-05 11:38:37 | 旧世界史5 古代ローマ

※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


【五賢帝】 この後のローマ帝国は約100年ぐらいは平和です。頭のいい、賢い皇帝が5人続く。名前を言うと、ネルウァ帝、トラヤヌス帝、ハドリアヌス帝、アントニヌス帝、マルクス・アウレリウス帝です。こういう5人の時代は非常に安定した政治だった。だから五人の賢い政治家という意味で「五賢帝時代」といいます。約100年間、96年から180年までです。この時代がローマの最盛期です。

 ただこの5人の皇帝は、江戸幕府の将軍様と違って親子関係じゃないんです。実はローマの皇帝の血が繋がってないことが多い。他人を後継者にしたとか、養子とか、そんな感じです。世襲ではありません。だから王朝ではない。カエサルとアウグストゥスの関係もそうでした。
 この血縁関係の薄さは、東洋社会と比べた場合、ヨーロッパ社会は際立っています。のちには選挙王制というのも出てきます。血縁関係の薄さ、親子関係の薄さが、のちの選挙という制度と関係していると思います。
 アウグストゥスの家系も、1世紀後半のネロ帝(位54~68)が最後で、それ以後は別の家系に変わります。

 古代ローマ時代にできて、今でもあるヨーロッパの有名な都市というと、ロンドンもその一つです。ロンドンは海の向こうのブリテン島です。今のイギリスです。ローマ帝国はこんなところまで行っている。それからフランスもです。当時はガリアという。そのパリもです。これらは2000年の都です。それからウィーン。オーストリアという内陸のけっこう重要な場所にあります。

 どこまでがローマ帝国だったか。ドイツとフランスの間を流れるライン川。ドイツはその外側だからローマ帝国じゃない。それから、トルコ半島があってその北の黒海からドナウ川が西のヨーロッパに向けて流れている。このライン川とドナウ川までがローマの国境だった。

 その外側にはどういう人たちが住むか。実はこの人たちが国境を越えてローマに攻めてくることによってローマは滅ぶんです。これがゲルマン人です。大まかに言うとドイツ人です。
 イメージで言うと、ローマ帝国はフランスまでです。ドイツはローマ帝国の外側です。ドイツはゲルマン人です。フランス人は俺たちのご先祖はローマ帝国と思ってる。しかしドイツ人はローマ帝国の枠外にいた人です。でもそのドイツ人たちが600年後にローマ帝国を受け継いで、神聖ローマ帝国を名乗ります。このあとだんだんとそういう複雑な世界に入っていきます。
 ローマ帝国の外側のドイツにゲルマン人あり、ということをここで頭になかにインプットしてください。


【キリスト教】 次に、キリスト教との関係です。キリスト教はこの時代、生まれたばかりの新興宗教です。ローマ帝国はこれに賛成だったのか。ローマはもともとは日本とおんなじ多神教です。ギリシャの神々を受け継ぐんだから、ギリシャといっしょです。ギリシャの神様がローマに入って、同じような多くの神様を拝んでいる。
 しかしキリスト教はたった一つの神様しか拝むなという一神教です。だからローマ人にとってキリスト教徒は最初はイヤな奴です。他にもいっぱい神様があるのに、一つしか神様を拝んだらいけないというのだから。
 この宗教観の違いが、なぜなのか。そこにある溝は深いです。1つの神様しか拝んだらいけないという発想の中に何が生まれていたのか、そこにはちゃんと見届けなければならない問題があります。
 だから最初キリスト教は弾圧される。100年、200年間ぐらい弾圧される。


【領土の限界】 2世紀初め、五賢帝の1人、トラヤヌス帝の時代になると、ローマの領域が、これ以上拡大できなくなる。領土の拡大がストップする。

※ 拡大政策が取れず、経済の成長が止まると、直ちに民衆の不満が噴出し始めました。不満をガス抜きするために、ローマ帝国は広大な帝国領内の有力者のすべてに寛大な市民権を付与しました。(宇山卓栄 経済)

 ストップすると困ったことが一つ、戦争をしないと何がストップするか。生産を支えてるのは誰か。自分じゃないです。人に働かせてる。奴隷に働かせている。戦争することによって、負けた人間を連れてきて奴隷にしている。
 戦争をしなくなったということは何が止まるか。奴隷の供給がストップするということです。戦争奴隷が減少する。自分が働かずに人に働かせていると、こういうときに困る。戦争奴隷が減る。略奪品も減る。国家収入も減ってお金がない。経済自体が収奪によって成り立っているのです。

 それでどうするか。当時のお金は、金貨か銀貨です。最初は100%の金で100%の金貨をつくる。次は90%で1枚の金貨をつくる。さらにお金がないと、これを50%にする。見た目はいっしょで、色だけ合わせて、金の量をどんどん下げて、最終的にはローマの金貨は金の含有量がたった3%になる。ものすごく質が悪くなる。しかし金貨1枚には変わらない。ここは今の通貨の話といっしょです。3%だったら、もともと1枚の金貨が100÷3で約33枚になる。
 こうやって、通貨改悪することによってお金をつくりそれを財源とする。こういうお金のトリックを使って、苦肉の策で食いつないでいく。こういう社会が健全であるわけはありません。


▼2世紀の世界



【軍人皇帝時代】 3世紀には軍人皇帝時代235~284)になって、地方の親分がその軍事力によって皇帝までのし上がっていきます。皇帝同士の殺し合いが始まります。
 去年皇帝になったかと思うと、次の年にはもう殺されている。50年間で約70人の皇帝が乱立する。軍人同士の殺し合いです。
 軍事力をもっている人間が、相手を殺して自分が皇帝になる。皇帝になると自分も殺される。こうして皇帝がコロコロ変わって、それが約50年も続く。


 前に言ったように、もともとローマの皇帝は、インペラトールといって、たんなる軍事司令官にすぎなかった。軍事力次第で皇帝が変わるんです。

 こんなことをすれば、中国ならここで農民反乱が起こって、農民の中から新しい皇帝が生まれたりする。
 しかしローマ帝国では農民は奴隷化されていて力を持たない。だから権力者は農民にはお構いなく、権力闘争に明け暮れることができた。
 貧富の差を容認する社会の政治は、最終的にこうなります。世の中は、金だ、力だ、軍事力だと。
 「すべての道はローマに通じる」と言ってローマを理想化するのではなくて、そういう社会を我々が受け継いでいるとしたらそれはかなり恐いことだ、と考えた方がいいでしょう。


【ディオクレティアヌス帝】 3世紀末になるとディオクレティアヌス帝というのが出てくる。この皇帝が、初めて軍人皇帝時代の混乱をおさめます。おさめた瞬間に、俺を拝めと、皇帝崇拝を強制する。神がかってくるんです。

 ポリュビオスという人は、「人々は結婚したがらない。結婚して子供が生まれても子供を育てたがらない」と言っています。だからこの時代には捨て子がいっぱいいた。
 宴会する時に、うまいものいっぱい食って、食った後に鳥の羽で喉をくすぐって胃から全部出すんです。腹一杯になったらこれ以上食えないから。食って出して、食って出して、延々と一晩中でも宴会する。こういう遊びかたをする。どこか不健全です。
 しかもこういう金持ちは、子供も育てないし、非常に社会が病んでくる。宗教的な退廃がすすむ。会社が病んだ時には、倫理的にも退廃するし、宗教的にも退廃する。神の声が聞こえない社会です。
 キリスト教はそういう社会の中で勢力を広げていきます。それは今言った皇帝の神がかりと歩調を合わせていきます。


【コンスタンティヌス帝】 そういったキリスト教の広まりの中で、313年に今まで禁止されてきたキリスト教を公認しようじゃないかと、それまでの方針を180度方向転換するんです。これがコンスタンティヌス帝です。
 彼は、キリスト教徒もこれだけ増えたから敵に回すよりも、公認して自分の味方につけたほうがいいと考えた。
 キリスト教が好きというよりも、人数が多いから味方につけたのです。キリスト教の善悪はあまり考えてない。


 それだけキリスト教徒が増えたのです。なぜ増えたのか。
 ローマの墓地は地下にお墓があるんです。そこを集会所にして夜中になると、キリスト教徒は黒い服に身を固め、目立たないようにして、地下のお墓の中でロウソクを頼りに集会してお祈りしていく。そうやって広めていく。
 夜に活動するコウモリみたいに非常に目立たないけれども、知っている人にとっては不気味だなと思う。そういう地下墓地をカタコンベといいます。しかしその数がだんだん増えていくと、皇帝が味方につけようという政治判断をする。

 それだけローマ社会には社会的弱者がうごめいていたということです。この社会的弱者に頼らなければならないほど、皇帝権は弱体化していたということです。これがキリスト教の公認です。

 皇帝は、少しでも自分の権威を高めようとして、キリスト教の神によっても自分を拝んでもらおうとします。今までも、皇帝はローマ帝国の他の神々によってそうしていた。しかし今度は今まで禁止していたキリスト教によって皇帝権の神聖化を行おうとするのです。
 しかしこれは矛盾しています。キリスト教徒が拝んでいいのは、ヤハウェという一つの神様だけだったんですよね。皇帝はヤハウェじゃないから、キリスト教徒はヤハウェ以外を拝めないはずなんです。でももう理屈じゃない。キリスト教会も自分から皇帝の都合に合わせる。つまりキリスト教が政治化するわけです。

 このときの解釈は、皇帝は地上におけるイエスの代理人です。そうやって皇帝崇拝が発生する。ローマ教会は政治的には長けてますね。別にほめてるんじゃないですよ。
 でもローマがそろそろ滅びつつあるというのは、この皇帝も知っているから、これはもうダメだ。それで東のほうに引っ越します。これがコンスタンティノープルです。今のイスタンブールです。今のトルコ共和国にあります。
 これは千年の都で、このあともよくこの都市は出てきます。ここが西洋と東洋の境目と言われます。
 皇帝にとってはローマは腐敗した都。しかも異教の都です。ローマは本来、多神教だったから。こんな都は早く捨てなければならない。それに東の方がギリシャ文化の本場で文化的にも高い。この都に引っ越していく。ローマは捨てられていきます。


【ゲルマン人の移動】 まだローマ帝国はつぶれてないけど。ローマが弱るとドナウ川の北にいたゲルマン人が川を越えて侵略してきます。375年です。これがゲルマン民族の大移動の始まりです。
 なぜドナウ川を越えてきたか。東からフン族が攻めてきて、追い出されたからです。その話は中国史のところでしました。そしてこのフン族は中国から追い払われた匈奴だったと言われます。
 騎馬民族の移動が、ユーラシア大陸を股にかけて東から西へとおこっているわけです。それがここでローマ史とぶつかるわけです。
 この時代は気候が非常に寒くなってきたといわれる。こういう気候の変化も、騎馬遊牧民族の移動を促していったと言われます。

※ 3世紀以降、地球規模の寒冷化が起き、穀物の生産量が減りました。食糧不足は北方のフランスやドイツにいたゲルマン人にとっても深刻で、4世紀頃からゲルマン人が物資を略奪するため、ローマ領内へ南下侵入し始めます。(宇山卓栄 経済)

 人間が世界中に広がって人口が増えていき、そこで気候変動が起こったりすると、今まで出会ったこともないような民族同士がぶつかり、他の民族を押しのけて、安住の地を奪い合うようになります。
 この時にはユーラシア大陸の東が優勢で、そこから押し出された人たちが、西へ西へと移動して、ついにヨーロッパの入り口まで来たのです。
 このような民族移動は、このあとも続き、よくヨーロッパ史に現れます。
 ちなみにハンガリーのハンは、このフン族が訛ったものだと言われます。フィンランドのフィンも、フン族の訛りだと言われます。


【テオドシウス帝】 その後、キリスト教は国教にまで登りつめます。392年です。この時の皇帝がテオドシウス帝です。

キリスト教会はすでに皇帝崇拝に協力しています。皇帝もますますキリスト教会に頼るようになっている。だからキリスト教会の要求を断れなくなって国教にしていくのです。
 すると怖いのは、このキリスト教は他の宗教に寛容な宗教じゃないということです。この宗教は拝んでいいのは一つの神様だけです。つまり一神教です。
 日本人はいっぱい神様を拝みますが、これができなくなる。キリスト以外の神を拝んでいた多くの人間が今度は逆に弾圧される。皇帝もそれを認める。これがキリスト教の国教化です。これ以外の神を拝んだらダメだとする。神様を一つしか認めない宗教を国教にするとこうなります。

 こうやって教会と帝国が、他宗教の弾圧で手を組む。そうすると、ギリシャ・ローマというのは多神教の世界で、ギリシャの昔から4年に1回なにをしてたか。それがオリンピックです。オリンピックというのは祭典、祭りの儀式なんですね。でもこれは異教の神々で、一神教の教えに反する。古代オリンピックがいつ終わったか。ギリシャのオリンピックはこの時に禁止される。

 ミロ島にあったヴィーナス像も打ち捨てられていく。そして千年以上の間、土の中に眠り続け、19Cになってやっと発見される。これが美術品として有名な「ミロのヴィーナス」です。


【帝国分裂】 その3年後の395年に、ローマは分裂します。西ローマ帝国東ローマ帝国分裂です。すでに首都は、東のコンスタンティノープルに引っ越してます。だから東ローマ帝国が栄えていきます。
 今のヨーロッパの中心、フランスとドイツは、西ローマ帝国です。つまりこの地域はローマ帝国から切り離されて、捨てられていったのです。だから西ローマ帝国のほうが先に廃れていって、先に滅亡することになります。


【西ローマ帝国滅亡】 西ローマ帝国は476年に滅びます。西ローマ帝国の滅亡です。

 東ローマ帝国まで潰れたと早合点しないようにしてください。東ローマ帝国はあと千年生きのびて、輝きを放ちます。この帝国はこのあともよく出てきます。帝国としての格はもともとこちらが上です。
 ではなぜ西ローマ帝国の滅亡が歴史上大事なのかというと、この後、ここにイギリス・フランス・ドイツなど、今のヨーロッパを代表する国が発生してくるからです。

 しかしこのときには東ローマ帝国が格上です。西ローマ帝国は田舎です。当時は西ローマ帝国の滅亡は世界の小さな出来事です。中心の東ローマ帝国は栄えているから。
 しかしここからイギリス・フランス・ドイツがでてくる。だから今の世界を見るときこの地域は注目される。


【ギリシア・ローマの宗教】 ではギリシャ・ローマの宗教について。基本的には日本と同じような多神教です。ローマの宗教はギリシャと基本的に同じです。ギリシャ・ローマの宗教は、オリンポス12神と言って、神々がいろいろあるから多神教です。

 メインは12神あるんですが、一番有名なのは、愛の神ヴィーナスでしょう。これはローマ名と英語読みが二つある。ギリシャの神々に名前が二つあると知っている人。英語読みが知れわたってるんですけれども、ヴィーナスは本当はアフロディーテというローマ名があります。あと有名なところでいうと、ポセイドンというのは海を怒らせる、これはネプチューンという。それから後にアポロは、アポロン。狩りの神はダイアナ、別名アルテミスという。

 このギリシャの神々は、人間と同じような喜怒哀楽を持ち、人間と同じように憎しみ、妬み、恋愛し、場合によっては浮気までします。今流に言うと気取らなくて親しみやすい神々なのでしょうが、当時としては全く神としての権威がないのです。神々の神々しさが人間レベルにまで引きずり落とされている感じなのです。こんな神々を誰も恐れはしません。まるで友人に接するような態度で神々に接しているのです。
 ギリシャに王権が発生しなかったのは、神々に対するこのようなギリシャ人の態度にも原因があるような気がします。神々に権威がなければ、王にも権威がなくなるからです。
 その証拠にはギリシャ人は神々の像を、全く人間と同じ形に彫っていきます。そこに写実性はあっても、宗教性はありません。人間と神様の違いがないのです。
 今でもイスラーム教では神の像を彫ることはタブーですし、仏教にはもともと仏像はありませんでした。それは神の姿は、人間の能力では捉えられないほど崇高にものだとと考えられたからです。
 しかし仏像が、ヘレニズム文化というギリシャ文化の影響を受けてインド西北部のガンダーラ地方で制作され始めたことは、すでにインドの歴史で触れました。

 ところが、12神がこれだけいっぱいいる中で、これとは全く別のところから出てきたのがキリスト教です。キリスト教はヤハウェだけを信じなさいという一神教であってこれを信じたら、今までのギリシャの神々は否定されるんですね。
 一神教は共存できない宗教です。自分以外の神は間違いだという宗教です。だからオリンピアの神々を否定し、その祭典であるオリンピックを廃止する。一神教の怖いところは他の神殺していくことです。

 ローマ帝国の最大領域を見ると、ライン川、これはフランスとドイツの間。ドナウ川。それから黒海。イェルサレムも含まれる。アフリカの北側はローマ帝国。逆に北はイギリスまで渡って行く。
 それから西ローマ帝国と東ローマ帝国の境界線。コンスタンティノープルというのは東の方にある。ローマからここに中心が移った。今のイスタンブール。これは千年の都です。
次はキリスト教に行きます。


【キリスト教】

 ローマを終えようとしているところですね。最後にキリスト教の成立と発展について言います。ローマ帝国が終わりを迎える頃には、キリスト教をローマ帝国の国の宗教とした。これを国教といいます。キリスト教がローマ帝国の国教になったということを先に言いました。だから重要なんです。
 キリスト教はこの後、ローマ帝国が滅んだ後も、ヨーロッパ社会の宗教として現在まで続いているから、ものの考えかたを見る上で、このことはどうしても避けられない。

 そのキリストさんというのはどこで生まれたのかというと、地域でいうとパレスチナ地方、国でいうとイスラエル。イスラエルが今も昔も世界のヘソで、今も爆弾が飛んできたり、鉄砲玉が飛んできたり、壁ができたりして、人の血が流れているのはここなんです。
 キリスト教というのはローマで発生したんではありません。パレスチナ地方です。地域でいうとパレスティナ。国でいうとイスラエル。その中心都市がエルサレムです。
 その近郊で生まれた大工の息子。ただお母さんのマリアさんは処女のまま、ご懐妊されたということになっているから、大工さんの息子かどうかはわからない。私生児であったかも知れない。父親の影は薄いです。
 そのパレスチナ地方が紀元前63年ローマの属州になる。属州とは、植民地のようなものですけど、征服によって手に入れたイタリア半島以外の領地です。

 生没年は、本当はキリストが生まれた年を紀元0年として西暦は成立したけれども、そのあとよく調べてみたらずれていて、紀元前4年頃、本によっては前7年と書いてあったりします。だからキリストさんというのは本当は生まれた年すらよくわからない。

 不思議なのは、生まれた年すら分からないのに、誕生日が分かっていることです。キリストの誕生日はクリスマスです。何年に生まれたかわからない人が、なぜ生まれた月日がわかるんでしょうか。そんなことは普通ありえないでしょう。つまりこれはウソということです。
 クリスマスは誕生日でもなんでもない。これは冬至の祭りです。1年で1番太陽の出る時間が短い。これから長くなっていく日です。正月ももともとそれなんです。12月22日前後、もともと冬至のお祭りがクリスマスです。

 つまりキリスト教は、一神教でありながら、土俗の信仰を取り入れていった宗教です。だから厳密な一神教とは言えない部分があります。一つの神しか拝めないはずなのに、キリストさんの他に母親のマリアさんを拝んだりします。そうなると二神教です。日本人にとってキリスト教を一神教として理解しにくいのはここです。

 そこに一人の男が生まれた。名前がイエスです。ここはユダヤ人の土地です。しかし大人になって30歳ぐらいになると、ユダヤ教で本当にいいのかなぁ、という疑問を持つ。なぜか。神の前の平等を欲したからです。ということは、ユダヤ教は平等じゃなかったのです。

 ユダヤ教の救世主であるメシアは、世界の全人類を救うのかというと、ユダヤ人だけ救うんです。あとの人間は滅んでいい。こういう選民思想が流れている。イエスの疑問は、どうして救世主はユダヤ人しか救わないのか。みんな救ってもいいじゃないか、ということです。
 そうするとユダヤ教のお偉いさんから、オマエはオレに文句があるのか、恨みがあるのかと目をつけられて、ローマの総督のピラトという人に、あいつはおかしいから、殺してくれと頼み、イエスは磔にされて殺される。それが十字架の刑です。ユダヤ教も政治と結びついているんです。

 十字架の刑というのは、日本だったらちゃんと心臓を突いてやる。磔にされたら、ひと思いに殺します。十字架の刑は五寸釘を手のひらに打ち付けて、出血多量で死ぬまでに3、4日放っておく。3、4日かけて、生死の境をさまよわせながら、じっくり殺す。そんな残酷な刑です。十字架のペンダントなどはそういう信仰の証です。信仰も持たずに、あんなものを首に架けている人は、かえってすごいです。


【イエスの復活】 ユダヤ教のもう一つの特徴は、世の中に救世主が現れてくれるという思想です。イエスが死んだ3日後に、イエスの教えを受けた弟子の中で、イエスが復活したっていう噂がたつ。この噂がだんだんと噂でなくなって、ホントに復活したことになったんです。仲間内ではですけど。

 同時に、イエスの教えは絶対正しいんだという人も現れる。ではなぜ殺されたのか。それは、世の中の人間の罪を一身に背負って、一人で死んでくれた、ということになる。これが十字架の刑だということになった。悪いことをしたから殺されたのではなく、正しいことをしたから殺されたという発想です。けっこう難しい発想だと思います。
 そういう意味で彼は救世主ではなかったのか。そう、ユダヤ教には救世主がいます。救世主はメシアといいます。それをギリシャ語でいうと、キリストというんです。そうだ彼は救世主なんだ。これが、イエス=キリストの誕生です。イエスは地球を救ってくれた救世主だったんです。
 それを信じているのがキリスト教徒です。私はこれが正しいかどうかはわからないから、信じる信じないは個人の判断に任せますけど、そういう世界で成立するのがキリスト教です。

 しかし、こういう教えは金持ちにはあまり受けがよくなかった。食うや食わずの貧しい人たちに広がりました。


【救われた人間】 だからこのキリスト教とユダヤ教の違いは、キリスト教徒はすでに救われている人間なんです。神に救われた人間です。
 なぜかというと、イエス・キリストが十字架の刑で、人間の罪を全部かぶって死んでくれたからです。もう怖いものなしです。オレは救われたんだ、鉄砲で撃たれても、死なない。それはあんまりだとしても、キリスト教社会は救われた人間の世界になっていく。
 自分が救われていると思うことと、自分が絶対に正しいと思うことは、もう紙一重です。キリスト教徒の絶対的自信はこういうところにあります。それはかつてギリシャ社会で、ソクラテスが説いた「無知の知」とはかなり違うものです。


【神か人か】 ただここでイエスさんは神様だったのか、人だったのかというのが、ずっと問題になる。というのは、キリスト教の母体であるユダヤ教は、我々日本人とは違う一神教なんです。世の中に神様は一つしかない。これがヤハウェという神です。

 ではイエスが救世主だとすると、救世主とは何なのか、神なのか。神だとした瞬間にヤハウェの他に神様がいることになるから一神教じゃなる。二神教になる。しかしそれでは矛盾する。
 ここの解釈学が、我々素人にはなかなかわからない。結論からいうと、神でもあり人間でもある。そういうあいまいな解釈になる。それがのちに「神と、子と、精霊の御名において」という三位一体説となります。


 そういう解釈とは別に、イエスの教えがローマの下層民に拡大した。これは一神教だから、王様がオレを拝めと言っても、一神教徒が拝むのは神様だけなんです。王様が、オレを拝め、と言っても、イヤだ、という。教えによると、ヤハウェしか拝んだらいけないことになっている。だから言うことを聞かない奴らだ、ということになって、迫害される。キリスト教は初期には迫害されていきます。


 ただローマはもともと多神教です。だから人の流入にともなって、よそからもいろんな宗教がいっぱい入ってきても気にしなかった。キリスト教も、そうやって入ってきた外来宗教の一つだと最初はローマ人に受けとめられていた。数ある外来宗教の一つだから、誰も気にも止めていなかった。

 それがだんだんとじわじわと信者の数を増やしていって、やがて国家が認めざるをえなくなった。しかしそれを認めると、この宗教は他の宗教を認めないわけです。キリスト教は一神教で、一つの神だけを信じる人間だけが救われるという宗教ですから。それ以外はダメなのです。キリスト教の異端とか、魔女狩りというのはここに根があります。


【予定調和】 キリスト教徒には、救われた人間のすることは間違っているはずがない、という論理があります。ということは、自分は救われた人間だから、間違ったことをするはずがない、自分がすることはすべて正しい、ということにもなる。
 だからキリスト教社会はだんだんよくなって進歩していくという考え方があるし、キリスト教徒がやることは将来に渡って正しい、ということにもなっていく。さらにキリスト教徒がやることは、すべて調和していくという発想にもなっていく。これが予定調和説です。


 これはしばらくナリを潜めますが、16世紀の宗教改革時にカルヴァンによって復活します。しかしこれはカルヴァンの独創というよりも、もともとキリスト教に内在していた論理です。それが一気に開花します。
 ここから資本主義の自由放任の考え方も出てきます。昔は、人間が金儲けばかりやっていたら、世の中は壊れてしまうと考えられていた。しかしキリスト教社会では、みんなが金儲けを目指して働けば調和した世界が訪れる、だからそれでいいんだ、金儲けしていいんだとなる。
これが現代社会と微妙に結びついている。キリスト教的発想によって。

 ローマ皇帝に対しては、最初は皇帝崇拝を拒否します。だから迫害を受けますが、その間にもじわじわとローマに教会が成立し、イエスが言った言葉をまとめて、それがやがて本になっていく。これが「新約聖書」です。これはイエスの教えを弟子たちがまとめたもので、これをつくるには、100~200年かかります。


【アダムとイブ】 ではユダヤ教とキリスト教の違いは何か。
 ユダヤ教の聖典は、ユダヤ民族の歴史をまとめた「旧約聖書」です。これはアダムとイブのお話です。ユダヤ人のご先祖さんは、男がアダム、女がイブで、神様から絶対食べるなと言われていたリンゴの実を、蛇からだまされて食べてしまい、神との約束を破った人です。だから楽園を追放されていった。

 日本人のご先祖様がこれだったら、ありがたいと思いますか。ありがたがって拝めるかな。ユダヤ人のご先祖様は、約束を破ってリンゴを食って楽園を追放されたんです。これがご先祖様です。キリスト教はこの旧約聖書を別に否定してないです。これはこれで正しい教えです。

 キリスト教は、この「旧約聖書」に加えて、イエスが言った言葉「新約聖書」を加えます。聖書が二つあります。これに対してユダヤ教の聖書は「旧約聖書」だけです。これがユダヤ教とキリスト教の違いです。


【離散】 ではイエスを磔にしたユダヤ人たちはどうなったかというと、その約100年後の2世紀にユダヤ人は国をつぶされて、パレスティナから追い払われてしまう。
 そしてヨーロッパを中心に、世界のあちこちに散らばって暮らしていく。これをディアスポラといいます。離散という意味です。そしてその後、なんと2000年間、ヨーロッパを中心とした各地を、国を持たない民族として生きていく。
 彼らの動きは、歴史の表面には現れませんから、教科書にもほとんど取り上げられませんがとても重要です。ヨーロッパの歴史の隠し味が、ユダヤ人問題といってもいいくらいです。


 2000年経った現在、彼らはお金を持っていたから、今から約70年前にできたのが、今のユダヤ人国家イスラエルです。しかしそこには当然、2000年の間に別の民族が住んでいました。それがイスラム教徒のアラブ人です。イスラム教のことは次に言います。

 おまえ立ち退けと言われて、イスラム教徒が、なぜオレたちが立ち退かなければならないのか、と聞くと、オレたちのご先祖様が2000年前に住んでいたからだ、という。だから俺たちユダヤ人が住む権利がある、というのです。この理屈どうですか。
 例えば、私のご先祖様が2000年前に住んでいたところに、私が突然乗り込んで行ってそこに住んでいる人に、退け、オレが住むからと言う。そんなことをすれば不法侵入罪で逮捕されます。

 でもイスラエルは建国されました。そしてこれを応援したのがイギリスです。追い出されたアラブ人は難民となってしまい、当然腹を立てます。だから難民のアラブ人は、その後70年間、オレの土地を返せよと言って、今でも血が流れている。こういう紛争の地にもなっています。

 活動の場所はエルサレムです。ここに70年前にイスラエルという国ができた。そこはもと2000年前にユダヤ人の国があったところです。

 キリスト教はローマで生まれたんじゃなくて、このイスラエルで生まれたものです。それがトルコ地方に伝わって、さらにローマに入っていって、ローマ帝国の国教にまでなっていった。

 国教になる前には迫害されていたキリスト教徒も、もう迫害しないから信じていい、としたのがコンスタンティヌス帝です。つまりキリスト教を公認した。

 このあと問題になるのが、イエスは神だったのか、人間だったのか、というのが人によってバラバラでした。イエスは肌のぬくもりのある人間だったという弟子もいれば、イエスは3日後に復活したのだから、神だという人も出てくるんです。人間だったら復活できないから、というわけです。

 そこで、なにが正しいのかを決めるため、一つの教えに統一する必要があった。弟子の中のアタナシウスという人がいて、彼の理論を正しいとした。
 この理論が何かというと、これが先に触れた三位一体説です


【三位一体】 もともとのユダヤ教という一神教では、ただ一つの神はヤハウェです。これが父だとすると、イエスというのはその子供である、とする。親と子というのは一緒なのだから、分ける必要はない、一つの神だ、という。日本人には理解しにくいね。

 ついでに、精霊というワケのわからないものまで含めて、父と子と精霊、これを分けることのできない一つの神とする。「父と子と精霊の御名において、アーメン」というやつです。日本人にはどうもピンとこない。本当にヨーロッパ人には分かっているのでしょうか。でもこれがキリスト教の正式な理論になる。これが三位一体説です。

 これは一面、一神教にとって危険なことで、一神教の自殺行為とも取れます。神様が3つあるように見えるからです。
 我々日本人から見ると、イエスは神でもなければ人でもない。いったい何なのか、という話です。逆に言うと、神でもあるし人でもある。これは苦しいです。
 神と人との中間にイエスという神のようなものを認める一神教。キリスト教は一神教として非常に危うい構造を持っています。
 これがのちイスラム教との違いにもなっていきます。この違いが憎しみのもとにもなります。


【国教化】 それでキリスト教は、392年国教化されていく。信者が増えていきます。

 しかし国教化されると、一つの神様しか拝めなくなる。他の神様は絶対に拝んだらダメです。異教は悪魔の宗教とか言われて、それを拝んだ人間はのちには魔女裁判にかけられたりしていく。

▼キリスト教の発展(330年頃)


 しかしこの国教化によって、キリスト教会とローマ帝国の結びつきは強まっていきます。キリスト教会のほうも一神教のヤハウェしか拝まないはずが、皇帝を持ち上げて皇帝を拝んでいくようになっていきます。これが皇帝権の神聖化です。


 その後、コンスタンティヌス帝が、ローマを捨ててどこに引っ越したかというと、これがコンスタンティノープルです。これは順番が逆で、コンスタンティヌス帝が引っ越したから、その都にコンスタンティノープルと王の名をつけたのです。それまではビザンティウムと言っていました。さらに今はイスタンブールといいます。この都にイタリアのローマから引っ越していく。そしてこのさき東ローマ帝国の都として、約千年間栄えていきます。だから「千年の都」とも言います。


 滅んだのは西半分の西ローマ帝国が滅んだ。この滅んだ西ローマ帝国から現在世界の中心国家である、イギリス、フランス、ドイツが出てきます。

 だから、滅んだ小さな西ローマ帝国のことがこのあと重要になっていきます。でもこの時代に栄えていたのは、この東ローマ帝国の方です。
  西ローマ帝国は476年に滅んでいます。だからローマの西側は廃れていきます。東の方がますます発展します。キリスト教という一神教文化も東の方に広がります。

 次にイスラム教を言いますが、アラビア半島にもこういう一神教文化がすでに浸透していたのです。のちにヨーロッパでルネサンスという古代文化の復興が起こりますが、そのギリシア・ローマ文化は、このあとイスラム世界で保存されます。ヨーロッパで保存されていたわけではありません。
 これで終わります。ではまた。



「授業でいえない世界史」 11話 古代ギリシャ

2019-02-05 10:31:20 | 旧世界史4 古代ギリシャ

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【エーゲ文明】

 では古代ギリシャに行きます。ギリシャの次はローマに行きます。
 まずギリシャの場所を確認してください。ギリシャは九州よりちょっと大きいぐらい。九州の倍の北海道ぐらいかな。ギリシャは小さい地域です。

 ギリシャ文明の最初は海の文明です。ギリシャの海はエーゲ海です。トルコ半島、つまりアナトリア半島とギリシャの間のきれいな海です。
 地中海は塩分濃度が高くて魚が住まないから痩せ海です。綺麗な海は痩せてる。きれいな草原は土地が痩せている。やせてる人間は栄養が悪い。土地でも海でもそうです。あまりきれいな海は住むにはよくない。その海にエーゲ文明というのが起こる。昔は独自に独立して発生したように言われていたけれども、やはりオリエント文明に近くて、その影響を受けている。


▼エーゲ文明



【クレタ文明】
 最も早いのはエーゲ海の島で、東西に長いクレタ島という。エーゲ海のちょっと南にクレタ島がある。ここに壮大な宮殿跡が発見された。みんなこれ、なんやろか、なぜこんな田舎の島にこんな建造物があるのか、と最初は思った。城壁を持たない文明です。ミノタウロスという牛頭人身の怪物がこの迷宮のような宮殿に閉じ込められていたという伝説もある。
 王宮はダテや酔狂でつくったんじゃない。そこに権力があって王がいた、ということが分かってきた。海洋文明です。船で海を渡って商売していた文明です。ただ民族系統は不明です。ギリシャ人ではない可能性が高い。この文明は紀元前3000年頃から始まって、紀元前1400年頃に崩壊します。


【ミケーネ文明】
 それが紀元前2000年頃になると北の大陸の方から人が動くんですよね。ギリシャ人が北方から南下して来て、紀元前14世紀から前13世紀に王国を作る。小さな王国です。この文明をミケーネ文明という。
 ただこれは周りに城壁を作ったりして、非常に戦闘的な、王権の強い国です。王権のあり方がメソポタミア地方に似ている。

 このギリシャの気候の特徴で日本と違うのは、夏に乾燥するということです。こんなところで植物は育たない。日本も夏は暑いですけど問題は雨の量です。日本の夏は蒸し暑い。夕立はするし、梅雨は大雨です。水がない夏というのは植物の天敵なんです。そんなところで植物は育ちはしない。
 では人は何で食べていくか。農業では食えないです。ここでは農業は発達しない。雨が降らない。土地も痩せている。だから住める人間は限られている。こういうのを人口収容力が低いといいます。雨が降らないから、夏場の景色は緑が枯れて茶色なんですね。日本の夏の景色はどんなに暑くても緑です。我々が抱くイメージは日本の夏は緑です。ギリシャの夏は茶色です。夏に草が生えないからです。

※ 紀元前8世紀頃、当時のギリシャの食料自給率は約3割程度しかなかったといわれています。(宇山卓栄 経済)

 だから海で交易するしかない。でも海は危険です。そのエーゲ海や地中海で交易する。ここが綺麗な海で見晴らしはきく、濃霧も発生しない。魚は取れないけれど、綺麗で見晴らしがいい。船を浮かべて物を運ぶには最適です。地中海は交通に便利です。だからこのギリシャ地方は日本と違って、生産するよりも交易したほうがいい。農業は人を定住させるけれども、交易は人を移動させる。そういう危険に挑まないと交易の利益にありつけない。
 しかし交易というのは、子供のママゴトじゃないんだから、商談が成立しないときは、一瞬で戦いの世界に急変します。相手からぶんどっていく荒々しい世界に変わります。だから戦争が絶えない。交易と戦いというのは一見無関係に見えて、実は切っても切れない関係です。
 ただこの時代は前1200年頃だから、リディアの貨幣はまだない。まだぼちぼちとした交易です。しかし前7世紀に貨幣が流通し出すと、ギリシャの交易が一気に活発化します。


【トロヤ戦争】 エーゲ海周辺ではもう一つの文明として、ギリシャの隣のトロヤ文明があります。トルコ半島の西端、ここと戦争をする。トロヤ戦争といいます。実はこれは伝説では、女をめぐる争いになっています。
 このトロヤ戦争の話は有名な『イリアス』などの叙事詩になっています。古くからある話で、これをまとめた人はホメロスと言われる。ホントにいたかはわからないけど、ホメロスが100人ぐらいいた、ともいわれる。1人の作品かどうかはわからない。
 そこでトロヤ戦争の話が出てくる。女をめぐる話で、人の嫁さんにちょっかいだそうとして、こともあろうにスパルタ王の嫁さんヘレネーを、バカなトロイヤの王子パリスが奪う。スパルタ王のメネラオスは、兄のミケーネ王のアガメムノンに応援を頼み、戦争が始まっていく。人の嫁さんを略奪して、国中を巻き込んだ戦争が起こり、多くの人間が死んでいく。
 あらすじだけだとイヤな話です。学校で教えるような倫理的な話じゃない。しかし有名な話です。最後はトロイの木馬という奇策を用いてスパルタ軍が勝ち、トロヤは滅んでいくという、ドラマ仕立てになっているんだけれど。
 このトロヤ戦争はギリシャ全体が戦争状態になっていくことを暗示しています。
 実際ミケーネ文明は前1200年頃、衰退していきます。



【暗黒時代】
 前1200年頃、ミケーネ文明が衰退してからそれ以降の400年間は全くわかりません。ギリシャ全体が混乱して暗黒時代になる。何が起こっているのかわからない。これが紀元前12世紀前8世紀まで、400年間続きます。
 その間に王権も消滅します。たぶん非常に血生臭いことが起こっていたんでしょう。しかし詳しくわからない。わからないのは、人を刺し殺す戦いの中では字を書く余裕がないからです。歴史書とかも書かない。だから記録が残っていない。しかも文字も消滅してしまった。ビデオもない。あとは土を掘って発掘するしかないけど、それも限界がある。

 しかしこの400年間にオリエント地域で起こっていたことは、けっこう大事なことです。
 1.そのちょっと前の紀元前1379年には世界初の唯一神の発生、つまりエジプトのイクナートンによる宗教改革があった。
 2.それから紀元前1250年頃には、ユダヤ人の「出エジプト」という事件が起こっている。
 3.そして紀元前1020年頃には、ユダヤ人初の国家であるヘブライ王国ができている。
 この暗黒時代は、こういう時代と重なるんです。すでに一神教の準備ができつつあるんです。

 一番面白いところなんですけど、でもわからない。えてして歴史は一番面白いところは激動の時代すぎて、歴史を残すどころじゃない。だからよくわからないです。その中に生きている人間はそれどころじゃないんですよ。記録に残すにはどこかに余裕がないとできない。戦争の記録映像でも、本当に自分が必死で逃げている時に記録映画は撮れない。記録映画は余裕がある方、つまり勝った側の記録であることが圧倒的に多いです。
 沖縄戦でも記録を取ったのは日本の8ミリじゃない。勝った側のアメリカ側の8ミリです。アメリカ軍はそれだけ余裕があったんです。日本人がもし撮っておけば・・・それどころじゃないけど・・・また別の記録映画になっていたかも知れません。記録映画はふつう勝った側の立場での記録映画になります。


【ポリスの成立】

 この暗黒時代の間よく分からないまま約400年過ぎて紀元前8世紀になると、都市国家が突然でてくる。これをポリスといいます。都市を城壁でぐるっと囲んで敵の攻撃から守る。そういう都市ができてくる。
 それもあちこちに100も200もできはじめ、最終的には1000以上のポリスがギリシャにはあったといわれる。人口は5000人ぐらいかな。ちょっとした大きい村のようなものです。はじめは王政だった。しかし戦争に負けた弱い王様は殺されたりして王政は消滅する。これも今までやってきた地域と違いますね。それで数人の有力者の国家になる。これを貴族政といいます。
 ギリシャは王様がいない地域です。こういう地域は珍しいです。今までペルシアでもオリエントでも王様がいた。しかしギリシャには王様がいない。有力なリーダーぐらいしかいない。
 ギリシャになぜ王が発生しないのか。なぜ発生してもすぐ消滅したのか。これは教科書には書いてないけど、よく考えるべきことです。それは民主主義の前提を考えることだからです。
 戦争状態にある地域では、戦争に負けると王は殺されます。そうやって責任を取らされるのです。民衆が望むのは戦争に勝てる強い王です。血筋は関係ありません。誰が王としての能力があるか。それを選ぶのが選挙です。

※ ギリシャの民主政は、戦争や軍隊組織と関係が深い。(浜島 世界史要覧)


【植民活動】 ギリシャは土地が痩せている。だから人口収容力が小さい。しかし人口が増えてきた。うちの村にはこれ以上食わせるものがないから、村の外の隣の島に出て行け、海の向こうの対岸に出て行け、という。こうやって植民活動が行われる。
 日本の貧しい明治時代にもそういうことがありました。長男だけが跡取りで、二男、三男は、東京へ行け、大阪へ行け。場合によってはブラジルに行って働いてこい。日本人の植民はそれです。ブラジルになぜ日系人がいるのか。日本で食えなかったからです。観光に行っているんじゃない。今のようにお金を持って海外移住する人とは違うんです。
 そういうのを植民活動という。その前提にあるのが、痩せた土地をめぐって激しいポリス間の戦いが続いているということです。


【多神教】 ギリシャ本土は小さいとはいえ、都市国家というのは一つの国だから、都市国家のでき方はオリエントと似ている。国である以上はまず神様が必要になる。神様なんて関係ない? そうじゃない。村を守る神様・・・これを守護神というんですが・・・それもいないような、神様も守ってくれないような土地には恐くて住めないです。せめて神様が守ってくれないと、とてもとてもこんな危ない時代に生きていられない。もともと政治とは政りごと(まつりごと)です。神様を祭ることから始まります。

 平和から考えるより、戦争から考えたほうがいい。
 彼らは丘の上に神殿をつくった。これをアクロポリスといいます。都市国家から見える一番小高い丘、そこに神殿を建てる。ギリシャは山がちだから、こういう小さい山はよくある。メソポタミアは山がないから、自分でドカーンと高い塔を建てた。ピラミッドのようなジックラトという塔を建てて、その上に神殿をつくったんです。

 ギリシャは丘があるから、その丘の上に神殿を建てた。ギリシャの神殿で代表的なアテネのパルテノン神殿は、それはそれは壮大です。もっともこれは紀元前5世紀の完成ですので、このあとの建物ですが、あれを見るとギリシャ人がどれほどの熱意でアクロポリスを建設したかがよく伝わってきます。そして同じ神を信じる人々がその周囲に集まる。その代表格として一番有名なのが、アテネのパルテノン神殿です。そこにはアテナという神が祭られます。
 ギリシャは一神教ではありません。いろんな神々がいます。ギリシャの神々のことをオリンポスの神々という。俗に有名な神様が12あるから、オリンポス12神といいます。ギリシャは多神教です。
 我々日本人の多神教と同じです。いろんな神様がいて、時と場合によっていろいろ拝んでいく。それでいいんです。ギリシャ人もそうしていた。一神教はこの後、別の地域から発生します。


【オリンピア競技】 そういう神社のお祭りで、神様に奉納するのがもともとのスポーツのかたちです。日本でいえば奉納相撲です。奉納相撲というのは、我々が小さい頃までは村々の秋祭りでやっていた。神社の境内に土俵ができて、村の力自慢の若者が相撲を取って、それを神様に見てもらうんです。そうすると村人たちもそれを見たくてやって来るわけです。
 4年に一度、オリンピア競技をやる。オリンピアというのは神殿です。そこにギリシャ中から力自慢、足自慢の人が集まって競技をする。神様に奉納するためのものです。だから穢れがないように裸でやる。これは男の競技です。だから女人禁制です。

 だから男しか土俵には・・・いい悪いじゃないよ・・・上がれない。相撲は男がするものだった。だから女が土俵に上がったらダメだった。しかしそれを今は時代が変わって、男が上がれるのに、なぜ女が土俵に上がったらいけないのか、というようになってきた。理屈上、今は男女同権の憲法があるからどうしようもないけど、伝統的にはそういうものではないです。お祭りには女人禁制とかいろいろ考え方があって、その間は男と女は交わったらいかんとか、女は神域には立ち入り禁止とか、いろいろタブーがある。そういう日常とは違ったルールの中で成立するのがお祭りなんです。
 ギリシャのお祭りもそうです。神様に見てもらおうと、オリンピアの祭典をやるんです。だから必死で競技をするわけです。

 こういう考え方は日本だけではなくて、古来多くの世界で共通していた。現代に当てはめて、良いとか悪いとかいい始めるとバカバカしく思えて、なかなかうまく理解できなくなる。ここでは同じ神々を信じて、その神様を祭る同じ作法に従っている、ということが大事です。


【貨幣】 前7世紀になると、隣のリディアでお金ができた。貨幣が鋳造された。そこまで数百キロぐらいしか離れていません。ギリシャからボスポラス海峡を渡ればすぐリディアです。だから前7世紀後半にはギリシャに貨幣が伝わります。

※ 一般に市場では、供給量の豊富な銀貨が流通します。高価な金貨は日常的な小口決済には向きませんでした。(宇山卓栄 経済)

※ ギリシャ世界はリティア人が発明した重さと純度の均一なコインを引き継いだが、豊富な銀山を持っていたこともあり、銀貨が主なお金になった。

 銀商人は様々な担保を取ってコインの貸し付けを行い、時に貸し付けの際に保証人を求めた。積荷を失う危険性がある商船への貸し付け利子は特に高く、3割に達したという。遠隔地との交易には、一種の為替手形も用いられていた。(宮崎正勝 お金の世界史)

 このお金を使って小麦を輸入する。そしてお金を使って交易を活発化させる。そうするとますます儲かる。ギリシャの交易活動が活発化する。ギリシャ一帯が貨幣経済圏になる。

 ちょっとここでまとめると、紀元前7世紀を言い始めたところでした。ギリシャは小さい地域ではあったけど、小さい都市国家がバラバラに何百もできたのに、それでなぜギリシャというまとまりが生まれたのか。
 それがオリンポス12神という共通の神々を信じていたからです。その神々を取り囲んで団結を深めるという意味で、4年に1回、神様の前で、百メートル走、円盤投げとか、いろいろやる。これがオリンピックです。

 オリンピアの競技といって、ゼウスを祭るオリンピアという神域があるんですよ。ゼウスはオリンポス12神のなかの最高神です。オリンピア山は3000メーター級のギリシャ最高峰の山です。いわば日本の富士山のようなものです。
 そこに参加する人間は、ポリスが違っても同じ仲間だ。オリンピックに集う人間は同じ仲間だ、という意識が生まれる。

 今のオリンピックには半分はそれがあるけれども、あとの半分はコマーシャリズムで成り立っている。ものすごい利権が動いて、純粋に見れないれないところがある。今のワールドカップも、ものすごい金が動いている。私は、日本を応援しているけど、お金の流れはずっと気になる。式典、祭典を開催するためにどれだけのお金がかかっているのか。

 ギリシャ人はオリンピア競技によってまとまっている。同じオリンポス12神を信じることによって、まとまっているという感じですね。同じ神々を信じている。オリエントの神々とは違った独自の神をもつということは、ギリシアがオリエントとは違った独自性をもって、自分たち独自の活動をしているということです。

 多神教というのは、我々日本人と同じようにいくら神様を拝んでもいいんです。神様は一つと決まっているわけではない。我々はふつう一つの神様を拝むよりも、もう一つはしごして、もう一つ、もう一つと三つぐらい拝む。正月の三社参りというのはそうでしょう。全然違う神社を三つ拝んで、三つも拝んだから大丈夫だ、と安心する。これが多神教の当たり前の考え方なんですけどね。
 それを否定するのが一神教です。一神教では、一つの神様を拝んだ後に別の神様を拝めば、神様が妬んで罰をくだすんです。


【貨幣の発生】 ギリシャの東隣はトルコ半島のリディアです。これは前に言ったように前7世紀貨幣を世界で初めて鋳造した国として有名です。ギリシャはエーゲ海を挟んでこのすぐ横です。だから貨幣はギリシャにすぐ伝わる。

 リディア王国から波及して、ギリシャ・エーゲ海域一帯に大きな貨幣経済圏ができ上がりました。ギリシャは貨幣経済の広がりとともに交易によって栄え始めました。

 スマホは壊れてパソコンが壊れたら、社会は混乱するにしても、死にはしない。しかし食い物がなかったら絶対死ぬ。

 ギリシャは痩せた土地で自給できないから、食い物は輸入するしかない。食い物が不足する地域で、食い物を輸入できるノウハウを持っている人は、断トツに強くなるんです。食い物がもともと足らないんだから、これを他の国から輸入できる力を持つ人、こういう人は断トツに政治的に強くなるんです。
 自給できないから小麦を輸入する。これが生きるための必須条件です。日本は逆に、必要なものは自分でつくり、不足する米も増産で補い、自給自足体制で来た国なんです。日本とは国の成り立ちが、2000年も前から違うんです。それが交易の活発化となります。
 だから日本の貨幣経済化はものすごく遅れる。ギリシアよりも2000年ぐらい遅れて、紀元後12世紀ぐらいになります。

 ギリシアに隣のリディアから貨幣が伝わってくると、貨幣と貿易はものすごく相性がいいんです。自給自足であれば自分が食う分を自分の畑でつくる生活にはお金はいらないけど、しかしそれができないと、人がつくったものを手に入れなければならない。それでお金が必要になります。交易と貨幣との相性はバッチリいいんです。
 ただこれはプラスの面に過ぎません。ではマイナス面はなにか。商売には上手な人と下手な人の差が、はっきりと出てくる。貨幣を使って交易で儲ける大金持ちと、うまくいかない人と、その差が鮮明に出てくる。
 お金はお金のあるところに集まる習性があります。カルロス=ゴーンが30億もらう。我々は100万しかもらえない。こんな貧富の差がこういう地域では広がる。
 これが歴史の一つのテーマです。日本はどうにかこれを縮めることに成功してきた国です。しかしギリシャでは、これではいかんと思う人がいても、逆に金持ちから潰されて貧富の差は縮まらない。お金持ちと貧乏人の差が拡大する一方です。
 これで終わります。ではまた。



「授業でいえない世界史」 第11話の2 古代ギリシャ

2019-02-04 08:26:30 | 旧世界史4 古代ギリシャ

※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


【スパルタ】
 前回は全般的な説明をしました。8世紀に代表的なポリスとして、何百とあるポリスの中で、二つのポリスが代表的です。
 一つはスパルタです。この交易社会の中では、珍しく農業重視の国です。しかしその農業は、スパルタ人が自ら額に汗して働くようなところではない。人にやらせるんです。それが奴隷制度です。
 日本では奴隷制度はなかったか、あったにしても発達しなかった。日本には本格的な奴隷はいません。しかしヨーロッパやアメリカでは、つい150年前まではっきりと奴隷制度は存続しました。アメリカの黒人奴隷です。2000年も前のことではない。奴隷というのはつい150年前までヨーロッパでは続いていました。
  なぜ奴隷にするか。平和な社会で育った日本人にはなかなかピンとこない。戦争から考えるんです。ここは絶え間ない戦争に明け暮れている地域です。戦争が発生すると勝ち負けがある。勝ったらいいけど、負けたらどうなるか。まず殺される。うまくいけば逃げれる。捕まれば捕虜になる。そして奴隷になる。
 少数の強い人たちが、大多数の負けた人たちを支配する。スパルタ人1人に対して、奴隷10人ぐらいを支配する。市民人口の10倍ぐらい奴隷がいる社会です。それを少数のスパルタ人が管理している。
 スパルタ教育というのは、ここから出てくる。10人を、私一人が支配するようなものです。私は強くないといけない。毎日筋トレして、弓矢の訓練、刀の訓練して、バサバサ切っていかないといけない。だから女も子供も筋トレばっかり行う軍事国家です。これがスパルタです。
 しかも女性は丈夫な子供を産むことが第一とされ、夫が了解すれば他人の夫との間に子供をもうけることさえ許された。ギリシャ神話を読むと、愛の神ビーナスは夫がありながら、よく他の男と浮気している。神話でありながら、よくそういうシーンが描かれている。そこに神々しさはありません。しかしそれはギリシャ人の生活の投影なのです。

 子供は7歳で両親と引き離され、集団生活で軍事規律を教え込まれます。
 こんな社会では日本のような暖かな家族は生まれません。血縁関係は非常に希薄です。そのことは世襲の王権が生まれない背景でもあります。

 実はスパルタには王がいました。王は1人に決まっています。1つの国に二人の国王など聞いたことがありません。しかしスパルタの王は二人もいたのです。そして6ヶ月交替で王の努めを果たします。しかしこんな王は役には立ちません。飾りなのです。実質的には民会で選ばれた5人の監督官がスパルタを支配します。

  アメリカでは白人と黒人は同化しない。オバマ大統領は混血だったけど、多くの白人と黒人は混じり合わない。それは白人と奴隷は結婚しないということです。奴隷は奴隷のまま、支配者は支配者のまま、スパルタ人はスパルタ人のまま支配階級であり続ける。
 だから奴隷たちは常に不穏な動き、隙があればスパルタ人をやっつけてやろうという反乱の動きがある。スパルタ人はこれを押さえつけないといけない。
 スパルタの場合は、征服者が丸ごと村中を奴隷化したものです。もともとあった平和な村にスパルタ人が押し入って、そこの村人を支配し働かせる。こういう国家です。市民人口の10倍が奴隷です。我々からみると、とんでもなく暴力的なポリスです。



 【アテネ】
 もう一つがアテネです。都市国家の代表となるのはこのアテネです。しかしこれも褒められたことじゃない。貧富の差が大きいから、貧しい人は貨幣経済のなかで借金する。でも借金は返せない。借金はたいがい返せないことが多い。返せなかったら借金のカタは体で払う。お金がないでは済まない。破産宣告などない。借金は体で払わなければならない。あまり言われないけれども、人身売買は東南アジアなどで今でも行われている。借金のカタに娘を身売りするということは、戦前までは日本でもあった。
 こういうのを債務奴隷といいます。アテネの奴隷制度はこの型です。奴隷を持つことで、支配階級は働かなくてもよくなる。労働に時間を裂かなくてよくなる。だからその余った時間でスパルタ人は筋トレした。それと同じように、アテネ人はいろいろ考え出した。暇ができたからです。
 そこからいろいろな考え方が出てくる。星の動きはどうなっている、空の向こうに何があるか、なぜ太陽が東から登るのか、こんなことは忙しい人間にはどうでもよいことです。だから彼らは最初は変人です。
 アルキメデスのように、紙がない時代に、地面に図形ばかり書いて、毎日毎日それをやっている人は変人でしょう。そんな人間が出てくる。これがギリシャ哲学になる。仕事はしない。奴隷に任せる。だから考える時間ができた。
  しかし彼らにとって一番大切なことは、働くことよりも、戦争に参加することです。哲学者ソクラテスも、ペロポンネソス戦争に参加している。そこに迷いはありません。このアテネは交易重視です。自給力はないから、戦争に負ければ簡単に滅びます。常に戦争とむすびついている。つまり社会の根底に戦争があるんです。
 アテネが強いのは陸軍じゃなくて海軍です。何で儲けるか。貿易ですね。米の生産で儲けるんじゃない。そこが東アジアとの違いです。
 最初言ったように、ギリシャに王はいない。王は最初にちょっとだけいたみたいですけど、王は嫌われて殺されたり、追放されたりして、数人の有力者の政治になる。これを貴族政治といいます。
 今まで言った中国とか、オリエントとか、バビロニアとか、そういったところには必ず王がいたんです。そこが違う。アジアやオリエントとは違う形態だった。そういうところには王は必ずいた。しかしギリシャには王がいない。


【重装歩兵】 王がいないから平和なのかというと、とんでもないです。逆です。戦争しているから王がいないのです。王というのはどうも平和な政治形態です。戦争ばかりしているところでは逆に王は不要になる。王よりも将軍が重視される。
 では戦争の時、今のように専門の軍隊に任せておけばいいのか、それは今のように職が分化したからできることです。ギリシャのようにしょっちゅう戦争が起こるところでは、自分たちの生活は自分たちで守るしかない。戦争の時に逃げる男というのは男の風上にも置けない。そんな男は生かしておけない。頼んでばかりで、肝心なときには真っ先に逃げる。なんのつもりだ、そんな男は村から追放される。どうかすると殺される。
  では政治的な意見をいう時に、最低限しておかなければならないことは、戦争にきちっと参加していくということです。まず自分の村を守る義務を果たしていくということです。自分の村は誰かが守れじゃない、自分の村を守りたかったら、自分で守れ、自分で戦え、ということです。あの哲学ばかりしていたソクラテスだって、戦争が起こると当然のごとく参加している。戦争から逃げるという発想はない。
 これをできない人間に発言権はない。義務も果たさないヤツは集会に来るな。そんな男は一人前だとは認められない。そんな人間のいうことを聞いていれば村は潰れてしまう。
 しょっちゅう戦争があるんだから、村での発言権を得るためには・・・これが今流にいうと参政権ですが・・・まず軍役です。敵が攻めてきたときに逃げたら市民ではありません。自分が戦って始めて市民になる。市民は戦士なのです。だから参政権は最初、男に与えられたのです。
 王がいないということは、自分の村は自分で守るという人たちが選んだ別のリーダーがいるということです。だから王がいなくても、村を守れるんです。そして戦争のつど、リーダーつまり将軍を選ぶんです。世襲制は戦争には不向きです。リーダーは血縁ではなく実力で選ぶ必要がある。
 戦争に行くと軍人のように給料もらえるのか? そんなもんじゃない。当然しないといけないことだから無給です。鎧兜、槍を、刀をください? バカたれ、そんなもの自分で持ってこい、自分で取りそろえて自分で参加しろ、参加しない者は出て行け、でないと誰が守るんだ。だから当然武器も自弁です。給料などでません。それは市民の権利の裏側にある当然の義務です。
  しかしここまでできるのは全員ではない。貧しい人はできない。だからあるレベル以下の人は戦争にも参加できない。ということは、政治的な発言権もない。つまり参政権がない。
 男=戦士であって、これをできる人が一人前の大人です。この一人前の大人のことを市民というんです。義務も果たしきれない人間というのは市民ですらない。
 戦争に参加する一般民衆はどうやって参加するか。馬を持ってそれに乗れる人は、特別に裕福な人です。そうではない多くの人は、自分で鎧兜を用意し、自分の足で戦う。こういう人たちを重装歩兵といいます。自分で重装備して歩兵になる。これが軍の主力です。
 この戦争に参加する者たちによって、ギリシャは戦争の時のリーダーを誰にするか、話しあいで決めます。村の寄り合いみたいな会合です。リーダーを誰にするか、作戦をどうするか。司令官を誰にするかは、王が決めるんじゃない。自分たちで決める。
 その代わり、発言した以上は、それだけのことをしなければならない。発言だけして、オレは参加しない。そんな男は男ではない。そんなら村から出て行けです。そんなら発言するな、荷物まとめて村から出て行け、となる。出て行かなかったら殺すぞ。そういう民会をもつ。この会合は、戦士である男が全員参加する。そういう点で民主的です。民主制が戦争が関係していることが分かると思います。
  これはイクサがあるところほどそうであって、血筋にとらわれていると親父は有能な戦士でも、息子がアンポンタンだったら村が滅ぶ。そんな決め方はしない。イクサのあるところほど実力主義になる。  親父は親父、親父が死んで次の息子の代になったら、どこに才能のある人間がいるかわからない。みんながまわりを見ながら、能力のある者を選ぶ。これが将軍です。こういう選び方が生き残るために必要なんです。
 民会戦士の集会に起源をもちます。民主主義のルールは最も強いリーダーつまり将軍を選ぶために生まれたものです。それは戦争に勝つための強いリーダーを選ぶ方法として発生します。平等を実現するために生まれたものではありません。少なくとも歴史的にはそうです。そこに救世主を名乗る独裁者が出てくる危険性は常にあります。独裁者というとドイツのヒトラーが有名ですが、本当の独裁者はもっと巧妙です。
 この将軍は一代限りです。これが世襲の王権と違うところです。将軍の中には将軍職を自分の息子に譲り、将軍職を世襲化しようとした将軍もいますが、市民はそれを拒みます。
 血縁組織の弱いところでは、世襲制はなじまないのです。


【ソロンの改革】 ただそうしてる時でも、着々と貧富の差は大きくなっていきます。
 紀元前594年に、これはまずいぞと言って、改革しようとした人がいます。ソロンという人です。彼の改革をソロンの改革と言います。  彼は借金のカタに人を奴隷にすること・・・これを債務奴隷といいますが・・・これを禁止します。

 さらに財産額によって、政治的義務に差をつけた。これを財産政治といいます。すると金持ちが反対する。なんでオレたちの負担を大きくするのか。お前こそやめろ。結局、ソロンの改革は失敗します。
 中国が農民の没落を防ぐために、大土地所有の制限策を実施したのとは大きな違いです。それで貧富の差はますます大きくなっていく。そうなると貧しい市民が没落してホームレスが発生するようになる。

※ ギリシャのアテネで紀元前6世紀の半ば、ラウレイオン銀山の組織的な採掘が始まり、独自の通貨ドラクマが鋳造されます。(宇山卓栄 経済)


【前6Cの改革】  前561年には、ペイシストラトスが、行きすぎた貴族政治を抑制しようとして独裁を始めます。しかしこれは非合法的なもので、ルール違反であった。これを僭主政治といいます。しかしこの政治は平民にとっては善政であったから支持された。こうでもしなければ貧富の差はどうにもならないところまで来ていたということです。しかしこれも彼の息子の代になると崩壊します。

 前508年には、クレイステネスが、貴族の特権を否定するため、血縁による4部族制を解体します。それに代わって人為的な10部族制を制定します。これにより民主制に一歩近づきますが、民主制のために血縁組織を解体しなければならなかったことは、民主主義を考える上で大事な点です。
 こういう民主主義の基礎的なことに日本人は無自覚です。素晴らしいものを手に入れるためには、何を犠牲にしなければならないかを知っておくべきです。手放しで喜べるバラ色の制度はありません。一つのものを手に入れるためには、必ず犠牲にしなければならないものがあります。二十歳になる前にそのことに気づいておくべきだと私は思います。そうでないと本物の大人になれないから。
 このことによって、オストラシズム・・・陶片追放といいますが・・・が可能になりました。


【ペルシア戦争】  このような貴族政治の限界に突き当たったところで、ちょうど紀元前500年、ギリシャの手前まで隣の大帝国が攻めてきたんです。ペルシャです。このペルシャが攻めてくる。これをペルシア戦争といいます。あの大帝国のアケメネス朝ペルシアに、小さな都市国家のギリシャが勝てるわけがない。これが下馬評です。でも番狂わせがおこる。勝てるはずのない相手に勝つんです。


【マラトンの戦い】 前490年マラトンの戦いです。勝てるはずのない戦いに、ギリシャが勝ってしまった。

※ 産銀以外にもギリシャは、ペルシャから流入した大量のダレイオス金貨を有しており、物資の調達を有利に進めることができました。(宇山卓栄 経済)

 ちなみに、このマラトンの戦いがアテネから40キロぐらいのところの戦場であって、勝ったぞという知らせを一目散に走って、真っ先にギリシャの町に伝えた。マラソンの起源はこれだという。40キロを走りっ放しで伝えた。ここからマラソンが発生したことになっています。マラトンがマラソンになる。マラソンはここからだと言われる。距離は違うという話もあるけど。
 この戦いに勝って、これいけるかも、です。次は得意の海戦です。実は陸戦はアテネは得意じゃない。アテネは貿易国家だから船なんです。海軍力なんです。


【サラミスの海戦】 これが本番です。日本は陸軍中心だったから、海戦はピンとこないけれどもアテネは海戦です。これが前480年サラミスの海戦です。
 ここで今まで戦争に加われなかった下層市民が参加する。これは海戦だから、鎧甲はいらない。一生懸命、船の櫂を漕ぐだけでいい。この漕ぎ手が何人いるかが勝負を決する。  向こうが10人で漕ぐんだったら、こっちは30人で漕いで、漕ぎ手は3階建ての三段櫂船で、どんどんスピードつけて追い抜いて、横から相手船の横っ腹に追突する。
 敵を追いかけて、これをやれるかどうかがポイントです。横っ腹に刃物が刺さるのといっしょです。漕ぎ手としてこれをやったのがギリシャの下層市民なんです。
 さっき言ったように、戦争に参加して手柄を立てたら、政治的発言権が発生するんです。よくやったと。
  我々の世代は昔、このギリシアの勝利を、アジアの専制政治からギリシアの民主政治が守られた戦いだと習ったけれども、そうするとこのあとなぜ、ギリシアのアレクサンドロスが東方遠征を行って自ら東方的専制君主になろうとしたのか、よくわからなくなる。
 だから、そういうふうに1つの戦いに対して、1つの価値を持ち込んで評価すると、あとでいろいろ矛盾がでてくる。この戦いは単に、ペルシアとギリシアという政治体制が違う国どうしが戦ってギリシアが勝利した、という事実を理解するだけで十分だと思います。別にこのあとギリシャの民主主義が世界中に広まるわけではないし、ギリシャがペルシャを滅ぼしたわけでもないです。むしろ事実は逆なんです。


【民主政治】 それで下層市民が政治的発言権をもつ。それを今流に言うと、参政権の拡大というんです。できない人間は言うな、やったあとに言え、ということです。世の中のルールはどこでもそうです。権利には必ず責任がセットになって着いてくる。責任があって権利が発生する。どちらか一方の力が強まると、そういう社会は長くもてません。
 結果はギリシャの勝利です。アテネでここから下層市民が政治的な発言権を持ったから、ギリシャは民主政治といわれる。
 ギリシャは九州ぐらいの小さなところですけど、これがクローズアップされるのは、2000年後の紀元15世紀に、ヨーロッパのイタリア人がこれを再発見して真似していくからです。美化された理想社会として。このことはのちにルネサンスとして出てきます。
 俺たちヨーロッパ人の祖先はギリシャ人だ。ギリシャ人は民主政治、話しあいの政治をやっていたんだと、クローズアップされていく。でもそれは今と同じ民主政治ではありません。奴隷制が前提になっています。
 民主主義に必要なのは、ある一定の政治的情報とそれを知るための時間的余裕です。古代ギリシアはその2つを、奴隷制によって実現したんです。
  ペルシャ戦争に勝った後、古代ギリシャの民主政治は発達していく。下層民までが戦争に参加して政治的発言権をもつ。戦争が良いとか悪いとか言ってるんじゃないですよ。やることをやった人間じゃないと政治的発言権はない、という事実を言っているだけです。
 アテネの民主政治の特徴は何か。国政の最高機関である民会がある。アテネは総人口の1/3が奴隷です。スパルタに比べると少ないけれども、基本的には彼ら奴隷が働いてる。農作業とか、物の運搬とか、部屋の掃除とか、道の掃除とか、全部奴隷がやっている。こういう奴隷制に基づいている。ここが今の民主制と決定的に違うところです。
 だから、ご主人様のアテネ人は、暇なときに考える力を持つ。今で言えば、政治に関して新聞を読む時間ができる。新聞はないから、広場に出かけていって情報を仕入れる。だからあの政治家は良いとか、あの政治家は悪いとかという判断力がつく。
  逆に言うと、世の中が不況になって、貧困の中で大人がみんな朝から晩までのべつまくなく働きだすと、政治どころじゃなくなる。それでみんな政治に関心を持たなくなる。貧しいギリギリの生活のなかでは民主主義は機能しないんです。
 1日14時間、16時間、寝る間を惜しんで働いている人間が、なんで政治に関心を持てるか。政治を理解するには、毎日30分とか1時間、新聞とかニュースとか見たりしないといけない。働いてばかりいるとそれどころじゃなくなって、政治的な関心が薄れていく。
 これは現代国家でも一つの手なんです。不況になると民主政治が崩れていく。低賃金・長時間労働になっていく。それが政治に対する反発をかわす手段になる。それでますます貧しい者に不利で、豊かなものに有利な政治になっていく。ちょっと怖い話ですけどね。
  ある程度の豊かさの中でしか民主主義は機能しない。ギリシャは直接民主制です。投票するだけが大事なんじゃない。みんな広場に集まって意見を言うし、賛成反対を意思表示する。または手を上げたりする。また紙はないから、石の破片に書いていく。しかしこの豊かさには、奴隷制度が欠かせないという矛盾がある。そのことを15世紀のイタリア人は言わなかった。それどころかアメリカやアジアの非キリスト教徒を犬猫のように扱っていく。2000年以上経っても彼らは人間を奴隷のように扱うことを疑問に思っていない。
 世界で最初に憲法を発布したのは18世紀のアメリカです。その当時のアメリカはひどい奴隷制社会です。奴隷制度と民主政治は全く水と油のようでいて、実は深く結びついています。戦争とも結びついています。この奴隷制度のもとで、ギリシャから2000年後に、まずアメリカで近代民主政治が成立する。でもそのことはあまり強調されません。

 このギリシャ民主主義の最盛期が、ペルシア戦争に勝利したあとの前443年から前429年のペリクレス時代です。この十数年間が古代民主主義の完成期とされます。でもたった十数年しかもたないのです。
 その後アテネは、ペルシャ軍の再来に備えてデロス同盟という軍事同盟を周辺のポリスと結び、その盟主となって軍資金を集めます。

※ ペルシャの復讐に備え、強い軍隊組織が必要とされ、ギリシャの軍事国家体質が定着します。(宇山卓栄 経済)


 しかしその集めた軍資金をペリクレスは、ペルシア戦争で破壊されたパルテノン神殿の再建費用に使います。それはアテネ市民にとってはアクロポリスの重要性を示すものですが、軍資金を拠出したポリスから見ると、こんな不正支出が許されるはずはありません。アテネは周囲のポリスとの対立を深めていきます。
 デロス同盟の盟主となって軍資金を集める力を持ったアテネは、一時ポリスを統括する「アテネ帝国」の様相を呈していたのですが、それがこの非常識な不正支出によってその幻想が崩れます。そのことは、アテネの政治思想がいかに自分勝手なものであったかを感じさせます。こういうこともあってギリシャはついに領域国家を形成できないのです。いつまでもバラバラのまま対立を繰り返していきます。
 そのことが周囲のポリスの反発を呼び、ギリシャは再び戦争に突入していきます。その反アテネの中心になったのがスパルタです。


【ペロポンネソス戦争】  ペルシャ戦争に勝ったギリシャは内部分裂していきます。紀元前431年から約30年間、地名をとってペロポンネソス戦争が起こります。ペロポネソス半島というギリシャの半島の名前です。そこが主な戦場になります。
 二大ポリスのアテネとスパルタ、この二つが対立する。多くのポリスが五分五分ぐらいで、アテネについたり、スパルタについたりして、ギリシャ全体を二分して戦うことになります。スパルタを盟主としたのがペロポンネソス同盟です。ペルシア戦争に敗れたアケメネス朝ペルシャはスパルタを応援します。


【衆愚政治】 これが30年間続く間にアテネの民主政治はどうなったか。ちょっとずる賢くて頭のいい悪徳政治家にだまされていく。こういう政治家を扇動政治家(デマゴーグ)といいます。デマをとばすのデマは、このデマゴーグから来ます。
 彼らは、こうすればいい、ああすればいいと無責任なことを言いながら、結局うまくいかない。彼らは役職をもたない評論家です。だから責任をとる必要がない。責任がないから、ますます無責任で民衆にとって口当たりのいいことを言いふらす。また民衆も甘い言葉に酔って、そのウソを見抜く力がない。これを衆愚政治といいます。皆の衆が愚かになる政治です。民主主義の裏側にはこれがあります。ソクラテスが裁判にかけられて死んだのは前399年、この頃のことです。
  悪い政治家は人相の悪い人じゃない。甘い顔してだます政治家です。甘言をいう政治家です。国民に対して甘い言葉を言って、国民を信用させて国を滅ぼす。そしてこれを国民が見ぬけなくなる。国民がバカだとそうなる。民主主義の最大の敵はこれです。
 アテネはこれに騙されて没落していきます。民主主義の敵は外にあるようで、実は内側にある。このことは現代の民主主義にも共通します。現代民主主義におけるデマゴーグとは何か。マスコミとSNSです。その巧妙さはデマゴーグの比ではありません。
 アテネはデマゴーグによって腐敗し、スパルタが勝利します。
 結局、アテネの民主主義は、十数年しか続いていない。ほんの短期間しか続いていない。しかしこれを2000年後に、イタリア人が理想化して持ち上げたためクローズアップされます。
 アテネは腐敗して敗れた。勝利したのはスパルタです。しかしその後、このスパルタも金・銀が流入し、貧富の差が拡大して没落していきます。その後はテーベという別のポリスに覇権が移ります。このテーベはアケメネス朝ペルシャに支援されたポリスです。こういうことを考えると、ペルシャ戦争の最終的な勝者は誰だったのかよく分からなくなります。少なくともギリシャの民主主義が勝利したと、単純には言えないのです。
 これで終わります。ではまた。



「授業でいえない世界史」 9話 古代オリエント メソポタミア文明~ヘブライ王国

2019-02-03 19:33:27 | 旧世界史3 古代オリエント

※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


【メソポタミア】
 今度また、2000年戻ります。どこに戻るかというと、メソポタミアです。
 メソポタミア文明が栄える地域は、三日月地帯と言われます。ここが非常に豊かな地域です。麦が取れるからです。

 でもまっさおとした緑の草原ではない。日本人から見ると、砂漠じゃないのと思うくらいのところです。この周辺は砂漠です。日本のような緑の多いところから見ると、ここは砂漠に見えるけれども、本物の砂漠から見ると、草がポコポコ生えているぐらいのこの三角地帯は天国のように見える。砂漠から見たらここは豊かな土地なんです。日本人から見ると寒々とした荒野のように映るけど、砂漠の民からすると、ここは蜜がしたたる土地です。
 ここを流れる川が二つ、チグリス川とユーフラテス川です。川があるところ水がある。水があるところ文明が発生する。農耕ができるという循環、この二つの川に挟まれた地域が豊かなんです。この地域をメソポタミアという。川に挟まれた地域という意味です。

 一気にまた5000年前に戻ります。紀元前3000年ころです。
 ここで初の国家ができる。作った民族はシュメール人。発音しか分かりません。どんな民族なのかわかりません。シュメールという名前が伝わるのみです。


【都市国家】 国の始まりは中国とほとんど同じです。小さな都市の形をとる。これを都市国家という。ギリシアもそうです。周りを城壁で囲む。
 有名な都市国家として、ユーフラテス川下流のウルがあります。紀元前2700年頃には、そこにウル第一王朝ができます。しかしそれはまだ小さな都市国家です。
 国ができる時には必ず神様が発生します。神様によってまず守られている。これが国家です。守ってくれる神がいない国は恐くて恐くてとても住めない。国と神は深いつながりがあります。
 都市国家の神の象徴がジッグラトという高い塔です。神様はなぜか高いところが好きです。日本の神様だって、鯉のぼりののぼり竿は、もともとは神様が降りてくる竿です。神様はそういう高いところに降りてきます。
 ジッグラトとは聖塔と日本語では訳します。その塔の上に神の住まいを作る。神様が住むところが神殿です。だから塔の上には神殿があります。イラクにはこのウルのジックラトが復元されて建っています。今は砂漠ですが、当時は河口が近く水があったようです。
 この神の言葉を聞くことができる人・・・そんなのウソだろうと思わないでください・・・そう信じられてきた、という話をしているんです。
 これが王になる。だから王の原型は、神様の言葉を聞ける神官です。そして神様は王の言葉しか聞かない。だから神の言葉を聞けたら王になれる。そこで最高神官は神の代理人となりやがてとなります。神様の権威によって王様が発生するということです。政治は政りごと(まつりごと)です。神を祭ることだったんです。
 そしてその神様が神殿とその周りを守ってくれる。そう信じた人たちが都市を城壁で囲む。こうやってやっとひと安心するんです。神が守ってくれる上に、城壁までつくった。これで敵が攻めてきても安全です。
 つまり敵が想定されていたのです。そういう敵の中にいる人間だからこそ、人は集まって住まないと不安で不安で仕方がない。敵がいるから城壁をつくる。平和なところでは壁をつくりません。この時、人間の敵になっているのは獣ではなく人間です。人間が人間の敵になっています。壁ができるのは、人間と人間が争うところ、つまり戦争があるところです。今から1万年前に人間は南米の南端に到達し、他に行くところがなくなりました。
 そんな敵がいるところにオレは住まないと言っても、どこかに敵がいるわけですから、ますます自分だけが不利になるだけです。1人の人間はすぐに敵に襲われてしまいます。孤立したら人間終わりです。だからここに集まって住むしかない。

 こういう都市国家が文明をつくります。その一つの重要な条件が文字の発生です。中国はかなり早く文字を発明し、さらにそれを書く紙を発明した。でもここらへんは乾燥地帯だから紙が発明されません。だから文字は粘土に書く。書くというより、粘土板に刻むんですね。ギザギザをつけて。こうやって書かれた文字を楔形文字といいます。楔はくさびと読みます。粘土を板状にして、それに△□みたいな模様を押す。これが文字になる。

 1年は人間が決めたわけじゃない。これは太陽の運行だから。1ヶ月も人間が決めたわけではない。これは月が地球の周りを回る周期だから。
 でも1週間は人間が決めたものです。7日である必要はない。6日でも、10日でも本当はいいんです。

 では誰が決めたか。はっきり歴史に現れてくるのは、ここからです。7日区切りの人間の生活をリズムとして採用する。1週間はここから発生して、それがキリスト教の母体である旧約聖書に取り込まれます。
 日本には1週間の制度は江戸時代にはありません。だから日曜休みもありません。日曜日は明治になってからです。代わりに多くの祭日がありました。日本に1週間ができたのは、明治政府がヨーロッパの制度の多くを真似していったからです。ヨーロッパが1週間は7日としていたから、明治の日本がそれを真似したのです。
 ヨーロッパはキリスト教です。ヨーロッパの核には宗教があります。それがキリスト教です。キリスト教の聖典である旧約聖書に1週間7日の観念が取り込まれるのは、ここにルーツがあります。



【アッカド王国】
 こういうシュメール人の国家は、500~600年で別の民族に滅ぼされます。日本のように四方を海で囲まれた国と違って、陸づたいに山からAという民族、川の向こうからBという民族、海からはCという民族がやってくる。言葉も違うアッカド人という人々が侵入する。

 シュメール人はどういう人だったか全くわからない謎の民族ですが、アッカド人はセム系だといわれます。セム系・ハム系は世界史でよく出てくる。セム系は大まかにいうとアラビア人です。ハム系がエジプト人です。
 シュメールの国家は紀元前3000年頃ですが、このアッカド王国の征服は紀元前2400年頃です。このアッカド人の王サルゴン1世によってメソポタミアは始めて統一されます。

 では征服されたシュメール人はその後どうなったか。彼らは紀元前2100年頃に一時的に国家を再興し、ウルにウル第三王朝を建てます。創始者はウル=ナンムです。彼は最古の法典であるウル=ナンム法典をつくります。アッカド後のメソポタミアを再統一しますが、次に登場するアムル人によって滅ぼされます。

 その後のシュメール人は、わかりません。全部殺されたのか。多分そうではなくて、被支配階級となってあとは同化していったのでしょう。同化というのは、別の民族と混血しながら民族としては消滅していくことです。しかしそれは予想であって、実際のところはわかりません。

 ただここでは、こういう民族の興亡・混乱を、中国と比較してください。中国のように漢民族によって殷が誕生して、同じ漢民族によって周が生まれ、さらに秦によって統一されるというようには、すんなりいかないということです。国家をつくってもそれは一時的で、次にどんな民族によって滅ぼされるか分からない。油断も隙もないような場所です。
 こういう安定しない国家です。こういう安定しない国家では、国家の滅亡とともに神も殺されていきます。だから神様のありようも違います。



【バビロン第一王朝】

 このシュメール人・アッカド人のあと、3度目にメソポタミアを統一していくのが、セム系民族のアムル人です。
 彼らはバビロン第一王朝をつくります。首都は今のイラクの首都のバグダッド近郊です。バグダッドではないけれども、その近くにあった古代都市バビロンです。シュメール時代のウルから約200キロぐらい上流です。これは神の門という意味です。今は廃墟ですが、そこを首都にして王国を建てた。紀元前1800年頃です。約300年ぐらい続きました。

 建国して100年ぐらい経った紀元前18世紀つまり紀元前1700年代に出てきた王様がハンムラビ王です。

▼古バビロニア

 
 旧約聖書を書いたユダヤ人、ユダヤ人のことはまたあとでいいますが、少数民族ですけど、世界史では非常に重要な民族です。ユダヤ人がわからないとなかなか世界史は分からない。
 ユダヤ人はこの文明を見てびっくりした。庭が空中に浮かんでる、と書いています。バビロンはそんなすごい都であった。よく意味が分からないけれども。
 たぶん高いジッグラトがあって、その上に宮殿を建てている。それを見て、宮殿の庭が空中に浮かんでいるとか、そういう表現をしたんじゃなかろうかということです。これは旧約聖書に記述があります。ユダヤ人と旧約聖書の関係? それは追い追い言っていきます。

 このハンムラビ王は法律を作った。世界初じゃないけれども、非常に早い法律です。これをハンムラビ法典と言います。
 この法律の原則は何か。相手から被害を受けたら、その加害者にも同じ被害を与えてよい。目を潰されたら相手の目を潰してよい。歯を折られたら相手の歯を折ってよい。これをもっと縮めて「目には目を、歯に歯を」という。今こんなことしたら、両方とも傷害罪で刑務所行きです。
 しかし法律の原則はここに記されています。まずはこうなんです。殺されたら殺してよい。憎しみのあまり倍返しなんかしない。これでおあいこです。おあいこのことを難しく言うと、同害復讐と言います。倍返しはダメです。
 この時代は、お巡りさんがいない、裁判所がない。それでどうやって決まりを作るかが問題になる。そのルールが同害復讐です。

 黙っていると悪ははびこるんです。それをどうやって防ぐか、というのが人間の知恵なんです。目をつぶされたら相手の目をつぶしていい。これが正しいと決まったら、次はどうなるか。目をつぶさなくなる。こうやって正義を保つ。

※ 都市が自立性を持ち民族の交流が盛んなメソポタミアでは古くから交易が発達し、都市の神殿が利子を取って『お金』の貸し付けを行っていた。(宮崎正勝 お金の世界史)

※ ハンムラビ法典の第89条は、銀を貸したときの最大利息を2割と規定している。(宮崎正勝 お金の世界史)

※ ハンムラビ法典では、大麦を貸したときの利子は年33%とされ、奴隷の価値も銀の重量単位のシュケルで表示された。(宮崎正勝 お金の世界史)

 このハムラビ法典が書かれた石碑はバビロンに建っていましたが、1902年にフランス人がこれを発見したときにはバビロンから約400キロも離れたスサという場所で・・・のちのアケメネス朝ペルシャの首都ですが・・・ここで発見されました。これはバビロン第一王朝が滅んだとき、滅ぼしたのがカッシートですが、これはカッシートを滅ぼしたエラム人がハンムラビ法典の石碑を持ち去ったからです。
 このハンムラビ法典の石碑には、法律の条文だけではなく、この決まりをハンムラビ王が国の守護神から受け取る絵が描かれていたのですが、それの神様が気にくわなかったのです。神を殺す必要があった。だからエラム人は石碑もろとも持ち去った。
 これは神を殺すことです。国が滅ぶとき、神もこうやって死ぬのです。逆にいうと民族を殺すには、その神を殺せばいい。
 死んでしまう神は頼りにならない神です。そんな神は当てにならない。もっと強い神が欲しくなる。そういう神がだんだんと誕生していきます。このような戦争絶え間ない地域では、神の姿はだんだんと強大化していきます。
 もともとメソポタミアは多神教です。民族ごとに守護神がいて、王はその神を祭る最高の神官でもありました。しかし民族同士が戦い合い、次第に大きな国家を形成すると、戦いに勝った民族の神が最高神になっていきます。そういう点では一神教的要素があります。しかしこの時には本格的一神教のように他の神を排除
することはありませんでした
 彼らはヒッタイトに滅ぼされます。彼らは白人です。彼らは北からやってきた民族です。これがケンカ強い。をもってるからです。木剣と鉄剣といったら、鉄もってるのが強いですよね。それから馬に戦車をひかせて戦います。ヒッタイトはこの二つを持っている。



【エジプト】
 その隣のアフリカにいきます。その頃のエジプトです。これも紀元前3000年だから、2000年たして今から5000年前に国家が誕生する。
 王が非常に強い権力を持っていて、その権力の象徴として作ったのが、ピラミッドです。
これにはいろんな噂があるけれども、本当のことはわからない。何のためにつくったのか。王の墓と言われてるけれど骨は出てきてない。王の谷とか、死体は別の所からでてきてるんです。墓ではないとすると一体なんなのか。よく分からない。

 これを簡単につくれるのかというと、日本最大の建設会社でもさじ投げるほどです。こんなでかい石をどうやって運ぶのか、どうやって持ち上げたのか。どうやって積み上げたのか。現代の建設会社でも尻込みする。こんなものをよくつくったものだ。誰がつくったのか、何のためにつくったのか。
 もしかしたらこれは庶民を養うための古代の公共事業ではなかったのか、という話もあります。


 しかし一般には王の権力の象徴といわれる。王が非常に強い力を持つ。王は太陽神の化身です。世界にはいろんな言い方があります。神の代理人、これはメソポタミアだった。エジプトは神の化身です。代理人と化身とを比べたらどっちが神に近いと思いますか。化身が神様に近いみたいです。

 これがファラオという王様です。神というのはエジプトにはいっぱいいて、古代エジプトは多神教です。これは日本人には当たり前のことです。日本にも神様はいっぱいいる。観音様もいれば、天神様もいて、八幡様も、お地蔵様もいる。神社の神様だっていっぱいいる。
 しかしこのあと、神様は世の中に一つしかあったらいけないという考え方が出てくる。日本にはそういう考え方はないけど、これが一神教です。
 ヨーロッパは今でも一神教です。これがキリスト教です。その前身がユダヤ教です。そのことは、あとで言っていきます。

 なぜエジプト人はミイラを作ったのか。古代エジプトのミイラです。あの世で復活するために体が必要だったからです。体がなければ復活できません。
 ミイラというのは、死後の世界を想定していないとできない。そのミイラを復活させるために、死後の世界を支配するオシリスという神様もまた別にいます。
 太陽神は王に権力を授ける神様となっていますが、その他にも、いろんな神様がいます。だから多神教なんです。
 このエジプトの復活を願う死生観は、キリスト教の「最後の審判」の考え方に影響を与えました。「最後の審判」で許されたものは復活して生き返るんです。つまり彼らは死後に復活して生き返りたい人々なんです。

 これをインド人と比べたらどうでしょうか。全く逆ですよね。インド人は、永遠に続く輪廻から脱出して、完全にになることを望んだ。そのためにいろいろ修行をするのです。つまらないヤツほど生き返るのです。完全に生きなければ、完全に死ねない。完全に生きて、完全に死のうとした。つまり絶対に生き返らないことを望んだのです。
 こういう死後に対する考え方の違いが、多くの文化の違いを生んでいきます。
 日本人はどうなんでしょうか。仏教の影響を受けて「無」の思想に近づいているようにも見えますが、死んだ人が「草場のかげて泣いている」と言うように、死んでもこの世にとどまりたがっているようにも見えます。これは神道流のような気もします。日本人の宗教観は簡単に見えて、かなり複雑です。
 これを日本人は無宗教だの一言で片付けてしまうと、とんでもない間違いを犯すことになります。

 文字もやっぱりエジプト文字ができます。さっきのメソポタミアの楔形文字とまた違う。象形文字といいます。横文字でいうと、ヒエログリフという文字です。

 文字ぐらい、書けばいいじゃないか、と簡単に思うかもしれませんが、そう言うときには、紙の存在が前提になっている。実はこの紙がないんです、
 メソポタミアでは紙がないから、粘土に書いた。エジプトでも紙がないから、パピルスに書いた。これがペーパーの語源です。パピルスという葦みたいなものの表面の皮をタテヨコ織ったものです。しかし今、我々が何気なく使っている紙に比べると、非常に素材は悪い。だからあまり残ってない。文字は何に書くかれるかというのがもう一つの課題です。
 紙の使用が早いのが中国です。中国の方が進んでいます。他の地域にはありません。パピルスがその紙の代わりだったということです。


【一神教】 紀元前3000年からエジプトの王権が始まって、紀元前14世紀ぐらいになると、アメンホテップ4世という王様がでてきます。この人の名前に注意です。アメンと言う言葉がある。これは神様の名前です。もともとこの王は、アメン神が大好きだと言っていた。しかしアメンを祭る神主さんたちがだんだんと強くなって、王と対立しだした。
 それでこの王は考えた。別の新しい神を作ろうと。そしてこの新しい神しか信仰したらいけない、ということにしよう。こういうことを歴史上最初に考えたのはこの王です。これが一神教の発想です。その神がアトン神です。
 アトン以外に神はない、この神だけ信じろ。それでアメンホテップという自分の名前がいやになった。だから名前を変えます。新しい名前がイクナアトンです。名前にアトンが入っています。アメンからアトンに自分の名前まで変更します。アトンだけ信じろ。それ以外は神様を認めない。これが一神教の発想です。
 しかしこの一神教の政治は成功したのかというと、次の王様、この王は墓から黄金のマスクでてきて、ものすごく有名になったツタンカアメンです。
 黄金のマスクのことを言いたいのではありません。ツタンカアメンという名前に注意して下さい。アメンがあります。元の神様に戻っているわけです。アトンが消えてアメンが復活しています。これで史上初の一神教の試みは失敗したことがわかります。

 しかし、ここで世界最初の一神教的発想が登場したということが大事です。これを見ていたのが、当時エジプトに奴隷として住んでいたユダヤ人です。



【インド=ヨーロッパ語族】 またイラクあたり、メソポタミアに行きます。メソポタミアに新たに侵入しはじめたのが、ヒッタイトです。彼らは白人です。ヨーロッパ人と同じです。この民族を語族でいうと、インド=ヨーロッパ語族といいます。

 インド語とヨーロッパ語というのは全然違うみたいですけど、言葉としては親戚です。インド=ヨーロッパ語の分布帯というのはヨーロッパからインドへと長い帯を引いて続いています。インドに侵入したアーリア人も、インド=ヨーロッパ語族です。インド=ヨーロッパ語族の分布の帯は、こうやって民族が動いた後です。
 彼らはもともとは、インド北西部の中央アジアつまりアジア大陸の真ん中あたりに住んでいたようですけど、何らかの事情で移動し始めて、西に行けばヨーロッパ、東に行けばインド、南に南下すればこのオリエントに移動する。
 いま話しているのはオリエント地域です。オリエントとは、ヨーロッパ人から見て東の方、日が登る場所という意味です。今の中東地域です。



【ヒッタイト】
 そこでこの地域で初めて王国を築いたのが、さっきでできたヒッタイトです。国の名前もヒッタイト王国です。彼らが建国したのは今のトルコです。トルコの場所は、黒海から突き出しているところ、出べそのように天狗の鼻のように出ている。そこに建国した国です。そしてギリシアのすぐ東です。

 別名はアナトリア地方です。これが今のトルコです。彼らヒッタイトはケンカがめっぽう強かった。それは、当時まだ普及していなかったを使って、それで武器をつくれたからです。
 一気に人の三倍ぐらい強くなった。そしてそういう刀を馬に乗りながら振り回す。相手は怖くて怖くて仕方がない。馬にチャリオットというリヤカーを引かして、そのリヤカーの上から刀を振り回す。危ない危ない。
 昔、ヤーヤー我こそは、と言って、古式ゆかしく日本人が戦っていたような戦争から比べれば、荒い、荒い。日本人はちゃんと礼儀正しく、名前を名乗って、親父の名前まで名乗って、それからオレでいいかという了解のもとで、それではやりましょうといって、命を賭けて戦った。
 それと比べたら仁義なき戦いです。戦争方法が大きく変化した。これが紀元前1700年頃のオリエント世界です。
 そのヒッタイトの他にも、ここら辺、地中海沿岸にはいろんな民族が、あっちこっちから押し寄せてきます。この時代には、メソポタミア北部ではミタンニ王国、メソポタミア南部ではカッシート王国という国が誕生します。彼らは民族系統不明です。
 カッシートはバビロン第三王朝としてバビロンを制圧します。このように一つの都市が何度も別の王朝によって支配されます。一つの古代都市遺跡が、一つの王朝だけのものではない、ということはよくあることです。
 そして、ヒッタイトミタンニカッシート、それにエジプトを加えてこの四つが、お互い覇を競い合います。

 

▼前13世紀頃のオリエント


 しかしこれを統一するのは四つの国のいずれでもなく、ミタンニに支配されていたアッシリアです。これはティグリス川上流の国です。これは後で言います。


【フェニキア人】 今のパレスチナ一帯、世界のヘソの今のイスラエルあたり、地域でいえばパレスティナ、国で言えばイスラエル、このあたりには、いろんな民族が押し寄せて来ます。彼らの一つをフェニキア人といいます。

 どうも海で活動している海賊みたいな人々だったらしい。この人たちは、海賊のくせに頭が良かった。そして文字を作った。これがアルファベットです。アルファベットって何ですか。英語の時間に使っているabcdのことです。
 abの代わりに、aはα(アルファ)と書く、Bはβ(ベータ)と書く。つまりαとβから始まる。だからabcdのことをアルファベットといいます。これがヨーロッパ文字の原形になる。
我々がabcdを勉強しなければならないのは、彼らがabcdという文字をつくったからです。



【ヘブライ人】
 それからヘブライ人、彼らは後にユダヤ人と呼ばれるようになりますが、この当時はヘブライ人といわれていた。20世紀でユダヤ人といえば、ナチスドイツによるユダヤ人大虐殺で有名ですけど、今でも彼らは世界史のヘソです。

 彼らは今は大金持ちです。アメリカのニューヨークのウォール街では10人に2人はユダヤ人だといわれている。お金を持ってる。1兆円、2兆円の金を一日で動かしている。世界経済の中心にいる人たちです。
 でもこの時は非常に貧しくて、生活の糧を求めて一部はエジプトへ移住して、食うや食わずでどうにか生き延びていた。しかし彼らのエジプトでの生活は苦しくて、ほぼ奴隷化していた。
 そうすると、こんな生活はもうイヤだと思う。このあたりは、民族の競合が激しくて、強い民族がやってくると弱い民族は叩かれて、下へ下へと押し込まれていく地域です。
 日本のように島国で、ほとんど民族が入ってこない地域ではそういうことは起こりませんが、彼らは油断も隙もないようなところで奴隷となって生きている。そしてあらゆるところから異民族が押し寄せてくる。だから生きるのにやっとなんです。生きるためならどんなことでもしていこうとする。
 ユダヤ人は、百年ぐらいエジプトで暮らしたけれども、全く生活が良くならない。こんなエジプト抜け出そうぜ、そういうリーダーに引っ張られて集団でエジプトを逃亡する。
 こういう大脱走が、紀元前1250年頃起こった。なぜそれがわかるか。旧約聖書に書いてあるからです。オレたちの祖先はこんなことをして生き延びたんだと言うことを書いています。この事件を「出エジプト」といいます。これは事実だとされています。
 ユダヤ人・・・このときにはヘブライ人と言いますが・・・何万人というヘブライ人を率いてエジプトから脱出した。その指導者がモーセです。
 伝説として、目の前の海を渡ろうと、モーセが呪文を唱えて、海よひらけと言うと、海の水が真ん中だけ分かれて、道ができて渡って行った。
 これが何を意味しているかは分からないけど、そういうのが映画になったりして、有名なシーンになっている。そんなもんウソだろうというと、宗教上のことだからなかなか触れられないところがある。


【十戒】 目指すはエジプトからイスラエル地域です。国で言えばイスラエル、地域でいえばパレスティナです。そこを目指した。
 日本から見れば砂漠みたいなところですが、砂漠の住人から見ると、蜜のしたたる地域です。緑があるじゃないか、と感動ものです。砂漠の民から見れば、こんな所に住めたらいいなと思う。
 その途中でモーセは自分たちが信じる神様から、十の戒めつまり「十戒」を授けられた。その1番目に何と書いてあるか。「オレ以外の神を拝むな」です。これが一神教の発生です。
 この話がホントかどうかは知りません。そういうふうにキリスト教世界では信じられています。根拠はユダヤ教の聖典である旧約聖書にそう書いてあるからです。



【ヘブライ王国】
 ちゃんと神を信じれば救われる、という教えなんです。それで、彼らは紀元前1020年にやっと念願の国を作ることができた。これをヘブライ王国といいます。ユダヤ人初の国家です。この首都が・・・首都と言ったらいけないけど・・・中心都市がエルサレムです。

 しかしこの国にも宗教上の対立があって、紀元前922年頃に北と南に分裂する。北は名前を変えてイスラエル王国と名のります。今といっしょの名前ですね。逆にいえば今の国名イスラエルはここからきます。この国はもう一つ別の神を拝もうとした。
 南はユダ王国という。ユダヤ人という名前はここからくるんです。彼らはかたくなに1つの神のみを拝もうとした。

 しかし北のイスラエル王国は短命で紀元前722年に滅ぼされる。メソポタミアから攻めてきた国、アッシリアに滅ぼされます。
 それを見ていたユダ王国の人々は、別の神を拝もうとしたから滅ぼされたんだと思う。自分たちの神への信仰をいっそう強めます。


【バビロン捕囚】 南のユダ王国はこのあと100年ばかり生き残る。しかしやはり滅ぼされます。滅ぼしたのは新バビロニアです。紀元前586年のことです。

 国が滅ぼされるということは、女は犯される、子供も殺される、男はまっ先に殺される。殺すのが一番簡単ですから。そうでなかったら捕らえて捕虜にする。そして連れて帰って奴隷にして働かせる。古代ではよくあることです。
 だからこういう目にあった人は他にもいっぱいいるんです。しかしその多くは消滅しているから歴史に残らない。だからユダヤ人もそういう目にあうんだけれども、彼らは消滅しないどころか、今では世界の中心都市でお金持ちになっている。
 だから特にこれがクローズアップされるのです。彼らが新バビロニアに滅ぼされた後、新バビロニアの首都バビロンに連れて行かれて奴隷にさせられる。これをバビロン捕囚といいます。
 そこで約50年間、奴隷として使われた。この間彼らは何を考えたか。オレたちを奴隷にした神はダメな神だとは考えない。
 この教えは「信ずる者は救われる」です。この言葉、よく聞きませんか。しかし自分たちは救われてないと彼らは思った。
 では救われてないのはなぜか。信じる者は救われるんです。でも救われていない。救われないのは信じてないからなんです。こういう発想をするんです。
 すべては信じる側の責任なんです。それまでの宗教は神の責任を保持しています。民を救えない神は、捨てられるか、殺されていきます。しかし一神教は神としてのすべての責任を、信じる側の責任に転嫁することに成功した宗教です。
 もっと信じろ、救われないのは信仰が足りないんだ、という発想です。信じても信じてももっと信じろと言う。救われないのは信仰が足らないからだ、と彼らは考えたんです。これが定着すれば、強靱な一神教が出来上がります。
 どこまでも信仰していかないと気が済まない。信仰しても信仰しても不安になる。これが一神教です。これがのちのキリスト教の母体になっていきます。なぜそこからキリスト教が生まれるか、それはまたイエスの誕生のところで言います。

 こうやってバビロン捕囚の間も、彼らは神への信仰は失わなかった。他の神を拝んではダメだ、と言った神様を信仰し続けた。この神様、名前はヤハウェという。この神様がのちのキリスト教の神です。


【ユダヤ教】 その後ユダヤ人はどうなったか。彼らを連れ去った新バビロニアを滅ぼす国が出てくるんです。これがあとで出てくるアケメネス朝ペルシアです。

 ユダヤ人はこれが大好きです。なぜか。奴隷身分からも解放してくれたからです。そして故郷へ帰って良いぞ、帰国まで許してくれた。前538年のことです。それで彼らはイスラエルに帰った。ばんざいです。ペルシアさまさまです。
 そういう苦しい奴隷生活をしていた50年間で、じわじわと形を整えてくるのが、彼らユダヤ人の一神教信仰です。これをユダヤ教といいます。ユダヤ人というのはこのユダヤ教を信じている人です。
 バビロン捕囚から帰国した後、エルサレムに神殿を再興し、今までの教えをまとめて本格的なユダヤ教が成立します。その聖典が「旧約聖書」です。その中には彼らがバビロンで見た「バベルの塔」や「空中庭園」の話が形を変えて織り込まれています。


【一神教】 

 この世界に一つしかないはずの神様の本名がヤハウェです。変な読み方です。YHWH、こういう書き方です。母音がないから、これ本当は何と読むかよくわからない。ヤハウェだろうといわれます。ヤハウェでも、エホバでもいいけれども、これは強い一神教です。

 神様、仏様、観音様、幸せにしてくださいなどと拝んだらダメです。三つも神様を拝んだら罰が当たる。神様は一つの神様だけにしろ、観音様なら観音様だけにしろ、というのが一神教です。

 このヤハウェというのは戦争神です。イクサの神様です。だからちょっと怖い。戦争神なんてものがあるのかというと、日本でも戦争神はあるんです。
 武門の神様というのは八幡神です。八幡様という神社があちこちあるでしょう。あれは武門の神様です。戦いの神様つまり戦争神です。
 戦争に勝ちますように。俺たちを守ってください。それが戦争神です。戦え、オレが守ってやるから、死んだらどうするのか、天国に行かせてやる、そんなら戦おうかな、という感じですね。これが戦争神です。
 この旧約聖書を読んでいくと、と言ってもこれはなかなか読めない。一冊400ページで20巻ぐらいある。ちょこっと読み始めたけど、最初の3ページで眠たくなってしまいました。とにかく長い。これが旧約聖書です。のちに出てくる新約聖書は一冊ですが。
 旧約聖書を読んでいくと、度重なる戦争です。いろんな街を破壊していく。その誇らしげな記録です。戦って戦ってパレスチナを自分たちのものにしていった。
 彼らユダヤ人が生きた時代は、民族同士の危機的な戦争があります。戦争に負ければ、いつ自分たちが奴隷身分に落とされるかわからない。社会の前提に奴隷制がある。一神教が生まれる背景にあるのはこういう厳しい社会です。


【救世主】 彼らも生きるのに必死です。そういう苦しい生活の中で、彼らは何を求めるか。スーパースターの登場です。これが救世主です。ヘブライ語でいうとメシアです。ではギリシア人はこれを何と言ったか。キリストと言ったんです。のちのイエスさんがそれです。

 救世主などいるものかと思っても、これは今でも形を変えてけっこう人気です。20世紀のアメリカ映画か生んだ救世主がいる。スーパーマンです。スーパーマンは地球を滅ぼす悪と戦って救ってくれるでしょう。これは救世主の発想です。今でも人気がありますね。これが一神教の発想です。
 日本にはこういう発想はない。でも戦後になってアメリカの影響で、日本でもウルトラマンとかが出てきた。ウルトラマンが、日本を征服するような悪と戦って、悪を追い払ってくれる。あれはスーパーマンの発想です。
 戦後アメリカに占領されて、日本もちょっと似てきました。しかしもともとあるのはアメリカのスーパーマンです。キリスト教世界は今でも救世主が大好きです。アメリカもキリスト教です。


【選民思想】 ただ、ユダヤ教の救世主は全世界を救うんじゃない。ここが今のスーパーマンと違います。ユダヤ教のスーパーマン思想の裏側には選民思想があります。

 救世主が現れた結果、全世界が救われるんだったらまだしも、ユダヤ人だけが救われて、あとの民族は死んでしまうんです。それでいいのか、という話ですけどね。
 ユダヤ人は、昔から人にお金を貸して利息を取ります。金貸しは非常に卑しい仕事とされてきたんです。ユダヤ教も実は利息を禁止しています。しかしそれが他の宗教と違うのは、禁止してるのはこのユダヤ人の仲間内だけです。ユダヤ人以外には貸してよい、と逆に勧めている。
 ただユダヤ人の仲間内では利息を取ったらいけない。ユダヤ人同士は金の貸し借りをしても、利息を取ったりはしない。反対に他のヨーロッパ人からは利息を取ることが許されています。
 ほかの民族はどうなろうとユダヤ民族だけは救われる。救世主が現れてユダヤ人だけを救ってくれる。これが選民思想です。

 旧約聖書にはそういう物語があります。洪水が来てノアという人だけ救われた話です。ノアの方舟です。大雨に襲われ大洪水が起きたとき、船をつくった善良なノアだけが救われて、ノアを信じた鶏さんとか馬さんが救われて、あとの人間はみんな死んでしまった。めでたし、めでたしというお話です。

 脚色して何となくいい話になっているけど、根底に流れている思想は、けっこう怖い。ノアだけが救われ、あとの人はみんな死んでしまいます。だから我々はこのノアの子孫です。でもそれはユダヤ人のことです。私はユダヤ教徒ではないから、少なくともそうではない。
 こういう思想が、全何十巻と延々と書いてあるのが旧約聖書です。これがユダヤ教の教典です。ほとんど戦いと苦難の歴史の連続です。


【裁く神】 前に言ったように、その中の十戒の第一条に「オレ以外の神を拝むな」と書いてある。ほかの神を拝んだらいけない。

 これがあとにキリスト教につながっていくんですが、その発生地点はヨーロッパではありません。ローマでもない。
 一神教は裁く神です。戦いの神です。しかも部分的にしか救ってくれない神なんです。恵み豊かな神ではなく、砂漠の神です。オリエントや砂漠地帯から発生したんです。


【偶像崇拝の禁止】 それだけ神というのは恐ろしいものです。人間の比じゃない。だから神様を人間の形で彫ったらダメです。ここがギリシア人とちがいます。

 ギリシア人は神様はなんでも人間の姿に彫った。キリスト教は、今はマリア様の像とか、キリストさんが磔にされた十字架の像とかを今は拝んでいるけれども、あれはキリスト教の原型ではないです。
 神の像を彫るなんてとんでもない話です。神の像を彫ってはならない。これがもともとの一神教の教えです。神の像を拝むというのは偶像崇拝といって、このあとも非常に嫌われる行為です。「神の像を刻むな」とモーセの十戒に書いてあります。これが偶像崇拝の禁止です。
 日本は仏さんの像を拝むから、なんでだろうと思うかも知れないけども。仏教も最初は仏様の像はありませんでした。でも仏教は像を彫れとも、彫るなとも書いてありません。つまりどっちでも良いわけです。
 これで終わります。ではまた。



「授業でいえない世界史」 10話 古代オリエント アッシリア~ササン朝

2019-02-02 09:08:39 | 旧世界史3 古代オリエント

※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


 前回は、ユダヤ教のことを言ってました。ユダヤ人のことを言ってました。ヘブライ人ともいいます。この時代はヘブライ人というんだけれども、今ではユダヤ人といいます。

 ここで起こっていることは、この当時は小さなことですが、しかし2000年後には大きなことになったりするんですよね。歴史というのは、その小さな出来事を起こした民族が、ものすごく現代で影響力を持つ民族になったりすると、もともと小さかったものが、ものすごく大きな事件として取り上げられたりする。

 そのユダヤ教がキリスト教に発展して、今や世界ナンバーワンの人口を誇るのはキリスト教です。
 ただキリスト教は、ヨーロッパの宗教というイメージがあるんだけれども、今舞台になってるのはどこなんですか。ヨーロッパではありません。今の地域でいうと、中東とかアラビアとか、歴史上はオリエント地方といいます。
 これがのちにヨーロッパに伝わっていきます。それは仏教がインドで発生して、他の地域に伝わっていったのと似たようなものです。でもその伝わり方がかなり違います。
 これは砂漠地帯で起こっていることです。これがなぜ取り上げられるかというと、ユダヤ人自身は紀元後2世紀に国を滅ぼされるんです。あとで言いますが、ローマに滅ぼされてバラバラになるんです。そして世界中あちこち散らばる。普通そういう民族は消滅するんだけれども、2000年経っても消滅しないのがユダヤ人なんです。彼らは宗教を捨てず、その宗教によって民族としての自覚を維持し続けます。
 逆に今は社会的に力を持っていて、世界の金融界なんかではものすごい力を持っている人たちです。
 おまけに世界三大宗教の一つであるキリスト教の母体になっている。そういうことで非常に注目されている。世界のヘソ、それがユダヤ人です。国が滅ぼされても民族としての自覚を失わない人たちです。

 例えば、日本が滅んで2000年後に「オレたちは日本人だ」と言って、世界中でネットワークを使って、日本人同士が通信しているようなものです。考えられますか。アメリカとアフリカで、日本人同士が2000年後、俺たち日本人だよね、と言うでしょうか。2000年前に国が滅んでいるのに。
 そういう世界です。ちょっと日本人にはわかりにくいですね。でもこれはよく出てきます。



【アッシリア】
 今まで、古バビロニアの滅亡後、ヒッタイト、ミタンニ、カッシート、エジプトの四国が分立していましたが、このオリエントを初めて統一するのがアッシリアです。これが紀元前7世紀です。
 より小さい地域のメソポタミアを初めて統一したのは紀元前24世紀アッカド王国でした。オリエントとはメソポタミアを含めそれよりももっと大きな地域です。帝国の範囲がグンと大きくなりました。この国がオリエント地方、今の西アジア一帯を初めて統一した。
 ついでに何をしたか。ユダヤ人の片方の国である北のイスラエル王国は、この国に滅ぼされました。
 しかし、このアッシリア自体はすぐに滅びます。それが紀元前612年です。滅んだ後、また四つに分裂します。



【4国分立】 
 1つめはエジプト
 2つめはリディア、これはアナトリア地方にできた国です。アナトリアというのは、今のトルコです。出ベソのようなところ。
 3つめは新バビロニア、これはバグダード付近、バビロンがあったところです。カルディアとも言います。
 4つめはメディアという。イラン高原です。イランは高原地帯です。


▼アッシリアと四王国


 またこの4つに分裂する。ここはアッシリア統一以前の、ヒッタイト、ミタンニ、カッシート、エジプトの四国対立とよく間違うところです。
 四国対立 → アッシリア → 四国分立、となります。
 すでにやった中国史と比べてどうですか。ムチャクチャですね。国のできかたが中国史の比ではない。しかもそのできた国の民族が全部違う。
 島国と大陸では国のできかたが違いますが、その大陸の中でも、大陸の端っことまん中ではまた違います。中国は東の端、ここはまん中です。民族が出会う頻度が違います。しかもここはアフリカの国も絡んできます。
 いろんな民族が出会い、しかも平和に暮らすことがいかに大変なことか。黙っているだけで平和にはなりません。そのことを分からない日本人はよく平和ボケと言われます。どうして戦争するのだろう、何もしなければ平和になるのに、こういう発想が平和ボケです。何もしないで平和が維持できる、というのは日本人の発想です。何もしなければ戦争になるというのが、ヨーロッパ人の発想です。

 この4つの中でよく出てくるのが新バビロニアで、この国は今のイラクです。この国が紀元前586年に、ヘブライ人のユダ王国を滅ぼし、彼らを奴隷としてバビロンに連れて行くバビロン捕囚を行います。これを行ったの王としてヘブライ人の歴史に刻まれたのが、新バビロニアの王ネブカドネザル2世です。
 新バビロニア王国時代の首都バビロンにも巨大なジッグラトがあり、バビロンに連れて行かれてそれを見たヘブライ人によって「バベルの塔」として旧約聖書に書かれています。旧約聖書にはバビロンの「空中庭園」の話もあります。彼らヘブライ人がバビロンから解放されたのは、前538年アケメネス朝ペルシャの王キュロス2世によってです。

 もう一つ注目されるのが、この4つの中でリディアが初めてお金を作ったことです。これは絶大なる影響力を後世に及ぼします。今、お金は世界中にあって、これがない国はない。これを初めてつくったのがリディアです。
 歴史的にはあまり注目されない国ですが、本当はものすごく影響は大きい。これが最初の鋳造貨幣です。これをつくった国がリディアです。紀元前8世紀です。

※ ヘロドトスの歴史はリディア人について「リディアの若い女性はみな売春し、それによって結婚の持参金を手に入れる。彼らはこの金を自分の身柄とともに、自分で適当と思うように後で処分するのだ。リディア人の風俗や習慣は、若い女性のこのような売春を除けば、ギリシャ人のそれと本質的に変わらない。彼らは、金、銀を貨幣に鋳造し、小売りに使用したと歴史に記録されている最初の人々である」と記している。(宮崎正勝 お金の世界史)

※ メルムナス朝の第2代王アルデュスは、王朝の紋章のライオンの頭などが刻印された均質のコインを発行した。エレクトラム鋳貨である。(宮崎正勝 お金の世界史)

※ コインについてはアッシリア起源説もある。(宮崎正勝 お金の世界史)

※ リディアはやがてキュロス王が率いるペルシャ軍に滅ぼされたが、コインは逆にペルシャを征服した。(宮崎正勝 お金の世界史)


 このすぐ西にアテネがあります。アテネが勃興するのはこの貨幣鋳造の直後です。ギリシャが貨幣経済になります。
 東のリディアを真似てお金を取り入れた瞬間に、この小さなアテネの都市国家が一気に繁栄してくる。お金の威力は絶大です。
 爆弾が落ちたとか、暴動が起こったとかいうのは、事件として非常にわかりやすいんですが、お金の影響というのは、人も死なないし、物も壊れないから非常にわかりにくい。
 でもこれが一番ボディブローとして効くんです。「オレ100万もらった」っていわない。「100万なくした」とも言わないでしょう。周りの人間は知らないけど自分にとってものすごく痛いこと、目の前真っ暗になるくらい。
 例えば、朝3万円もらって、その日に3万円なくしたら、目の前真っ暗になりませんか。3万円母ちゃんからもらったものを昼に財布からなくしたら、目の前真っ暗になって泣きたくなる。それくらいの影響がこれにはある。
 これがお金です。これがギリシャに波及する。ギリシャはすぐ隣にある。そういう位置関係です。



【アケメネス朝ペルシャ】
 この4つを再度まとめるのが、今度はイラン地方のメディアから出てきた国、ペルシャです。王家の名前はアケメネス家という。だからアケメネス朝ペルシャといいます。紀元前550年~前330年。今までオリエントで出てきた中で最大の国です。中国を除けば、この地域では最大の領域です。

▼アケメネス朝ペルシャの領域


 西はインダスから、アラル海に接して、カスピ海に接して、黒海に接して、ヨーロッパ側まで行く。アテネの手前まで行く。だからアテネとの戦争して、のちにペルシャ戦争というのも起こる。
 アフリカにも行って、エジプトにも行って、大帝国を築く。アラビア半島が入ってないじゃないか。いいんです、ここは砂漠だから。二千年後に石油がでてくるまでは。でも砂漠といって馬鹿にできないのが、世界No.2の宗教イスラーム教が、この千年後にここから発生します。
 ペルシャという今のイラン人の帝国が出てきた。この国はメディアから独立したものです。そして大帝国を築いていった。ペルシャ人というのは白人です。黒人じゃない。アラブ人でもない。白人の一種です。その王様で有名なのが、ダレイオス1世といいます。この名前はなまって、ダリウス1世ともいいます。


【ゾロアスター教】 このペルシャ人の宗教は、今はイスラム教になっているけれども、伝統的な宗教としてはゾロアスター教です。
 これいつ発生したかよくわからない。この頃だという説と、いやペルシアよりも千年前だという説、つまりよくわからないということです。千年の開きがある。これがイランの宗教です。
 人は死んで終わりではなくて、それから本番が来るという発想です。だから死んだ後に最後の審判があって、天国と地獄に振り分けられます。天国に行く人と、地国に行く人。そんなバカなと言ったらダメですよ。ホントですか、という話はしてない。そういうふうに信じられてきた、という話をしています。そしてその信仰が社会を変えていく、ということを言っているんです。人の信仰の力はバカにできない。
 ペルシア人が良いのは、自分が信じてるからといって、人にそれを押し付けないことです。おまえは別の考え方しているけど、まあいいだろう。

 それで誰を解放したか。バビロンから囚われの身になっていたユダヤ人を解放したんです。異民族に対しては寛容です。だからユダヤ人はペルシア人が好きです。解放してくれたから。紀元前538年にユダヤ人をバビロン捕囚から解放してくれたアケメネスペルシャの王がキュロス2世です。ユダヤ人にとっては救世主が現れたのです。
 でもユダヤ人は一神教徒で選民思想の持ち主です。「自分たちだけが選ばれたんだ」「オレは特別な人間なんだ」という考え方です。



【アレクサンドロス】
 しかしここに西からやってくるのが・・・インドでも出てきたけれど・・・ギリシャ北方から大帝国を築く大王が出てくる。ギリシャはまだやってません。この後やります。
 世界史の難しいところは、地域ごとに縦にやっているから、大人物は横のほうから、まだ授業でやってないところから、スーッと横に領土を広げて、突然やってくるような形になる。
 これはある意味、仕方がない。5つの物語を同時に理解するには、テレビを5台同時につけておかないと説明できない。でもテレビ5台は同時に見れない。
 この国がマケドニアです。これはギリシャの一部です。アテネの北、300キロぐらいのところにあります。ギリシャは狭いところです。そこの若きアレクサンドロス大王、英語読みでアレキサンダー、アラビア語読みでイスカンダルです。有名人は国によって何通りも呼び方がある。
 彼が東方を征服し、まずこのアケメネス朝ペルシャを征服した。それが紀元前330年です。これで誰が見ても大帝国です。しかしもっと東のインドまで行こうとしていた、という話をインドでやりましたね。
 しかしこの帝国は、ワンマン社長アレクサンドロスが・・・これは殺されたという話があってどうもはっきり書いてないけど・・・急死する。病死となっている。その瞬間にこの帝国は瓦解する。
 続きませんね。こういうところが中国と違うところです。


▼アレクサンドロスの東方遠征



【三国分立】
 そしてまたすぐ分裂していきます。
 1つ目が、本家のあったマケドニア
 2つ目が、プトレマイオス朝エジプト。このエジプトに後で出てくる絶世の美女というのが、女王クレオパトラです。
 3つ目が、セレウコス朝シリアです。
 この3つに分裂します。


【ヘレニズム文化】 ペルシャを征服したのが、ギリシャ人のアレクサンドロスだったから、分裂した後もギリシャ風の文化はペルシャに残っていく。これをヘレニズム文化という。ヘレナはギリシャ人の別名です。ヘレニズムとはヘレナ風つまりギリシャ風という意味です。
 文化が自然と融合していったような平和なイメージで語られますけど、実際はそういうものじゃありません。ヘレナであるギリシャ人が、ペルシャ人たちに自分たちの文化を強制的に押しつけていったんです。それが一つの文化名にまでなったということは、その強制が徹底したものだったということです。
 文化が融合するときに一番手っ取り早いのは、血を混じり合わせることです。ギリシャの荒くれ男の兵士たちに、ペルシャの女性をあてがって子供を産ませるんです。20~30年も経てば、その子供たちはギリシャ文化とペルシャ文化を両方受け継いだ人間になる。
 戦争に強姦・略奪はつきものです。そして戦争が終わると、どこの国でも子供がいっぱい生まれます。
 問題は、ペルシャ人女性が不本意にギリシャ人の子供を産んだということです。世界市民主義というコスモポリタニズムの裏には、そういう事実が隠されています。一つの民族文化が、他の民族文化とそう簡単に融合することはありません。

 そうやってペルシャはギリシャ風の文化に染まります。そのギリシャ人は、神様でもなんでも人間の通りにつくっていく。そこにギリシャ風の文化が浸透したイラン地方つまりペルシャで、また別のギリシャ風の国がでてくる。



【パルティア】
 これがパルティアです。紀元前3世紀~紀元後3世紀だから、これはけっこう長い、約600年間。ペルシャ地方、イランの北東部あたりからおこったイラン系遊牧民の国です。
 ではペルシャ語を使ったのかというと、公用語はギリシャ語です。王様が使っている言葉、宮殿で使われている言葉はギリシャ語です。こういうふうにこの国はギリシャ文化の強い影響を受けています。イラン人がギリシャ語を使っている。
 インド北西部には、ギリシャ風のバクトリアという国も出来ます。
 この頃の中国は漢の時代で、このパルティアは王家の名前がアルサケスであったことから、中国史には安息という国名で出てきます。
しかし、俺たちはイラン人だ、ペルシャ人だ、俺たちはもっとペルシャ人の誇りを持っていいんだ、そう思う人たちも多くいて、次にそういう国にとって代わられる。
 


【ササン朝ペルシア】
 これがササン朝ペルシャです。226年建国です。ササン家という王家です。前はアケメネス家という王家だった。今度はササン家という王家です。約400年間、651年まで続きます。これを滅ぼすのは、正統カリフ時代のイスラーム帝国です。
 オレたちはパルティアの後釜じゃない、イラン文化を大事にしたアケメネス朝の跡継ぎなんだ。600年前滅んだ国の跡継ぎなんだ、という民族の気概です。
 オレはペルシャ人だから、ペルシャ語を使うのが当たり前だ。ギリシャ語なんか使わない。オレはペルシャ語をつかう。ペルシャ人がペルシャ語を使うのは当たり前だろう。
 こういう形でペルシャ文化が復興していく。
 そのササン朝ペルシャの領域ですが、カスピ海の南半分、それから黒海まで達して、トルコまではいかない。バビロニアまで。アケメネス朝ペルシャよりもやや小さいけれど、それでも大帝国であることには変わりない。

 ここら辺には、今まで出てきただけでも、いろんな宗教が発生しているんです。ペルシャ人はゾロアスター教だった。
 その後、まだ言ってないけれど、ユダヤ教からキリスト教が生まれているんですね。インドは仏教でしょう。そういうのがすでにこの一帯には広がっています。その中でゾロアスター教だけが俺たちイラン人の宗教だというと、それはそれでいいんだけれども、宗教同士はよくケンカするんです。
 ケンカしないように、みんなとりいれていこう。ゾロアスター教、キリスト教、仏教を全部取り入れて融合させる。そういう宗教がこのササン朝で出てくる。これがマニ教です。これが一世を風靡する。非常に一時流行るんです。
 ただ考え方としてはペルシャ文化はゾロアスター教です。それに対して、このマニ教は何でも屋です。何をしているのかよく分からない、という批判があって対立関係になる。

 ササン朝ペルシャでなぜマニ教のような、ミックス宗教がでてきたかというと、商人の活躍があるんです。この国は中継貿易で儲けている国です。生産ではなくて貿易中心です。
 貿易というのは、近くで販売してもたいして儲からない。日本のものを遠く東南アジアとかアフリカとか、ずっと遠くにもっていくと、10倍にも20倍にもなる。
 ということは、当然考えが宗教の違う人と仲良くしないと商売できない。だからマニ教のようなミックス宗教が好都合です。こういうとマニ教徒は腹を立てるかもしれないけど、そういう誰とでも調和できるような宗教がいい。
 ササン朝は中継貿易が非常に重視されていた通商国家です。パルティアのような遊牧民ではなく農業に基礎を置く国ではあるけれども、純粋な農業国家ではない。通商がかなりの比重を持ちます。
 そういうジャンル分けをすると日本は農業国家です。中国も農業国家です。しかしこのあたりは砂漠で農業はできない。ちょっと考え方が違うんです。
 これで終わります。ではまた。