ひょうきちの疑問

新聞・テレビ報道はおかしい。
2020年のアメリカ大統領選以後はムチャクチャ

第一次大戦の密約 バルフォア宣言によるイスラエル建国

2018-01-30 11:41:58 | 旧世界史12 20C前半

火曜

現代の火種は、すべてイスラエル建国に行き着く。
バルフォア宣言とは、第一次大戦中、イギリスのバルフォアが、ユダヤ人のロスチャイルドに対して、書簡でイスラエルの建国を約束したものだ。
ユダヤ人には2種類があって、一つはアシュケナージという東方ユダヤ人、もう一つはスファラディーというスペイン系ユダヤ人。
イスラエルの主力はアシュケナージという東方ユダヤ人である。
彼らはもともとロシア国内に住んでいたユダヤ人である。
ユダヤ人の本場はヒトラーのドイツではなくロシアである。
彼らはそこで迫害された歴史を持つ。ポグロムという。かつて森繁久弥が演じた「屋根の上のバイオリン弾き」はそういうロシア国内のユダヤ人の物語である。
ユダヤ人は基本的に反ロシアである。
だから第一次大戦ではロシアが滅んでソ連ができた。トロツキーはユダヤ人だし、レーニンにも1/4のユダヤ人の血が混じっている。
ユダヤ人が嫌いなキリスト教国家ロシアは、ソ連という無宗教国家に変わった。
彼らは社会主義思想によって世界革命を引き起こそうとしたが、それはかなわなかった。
かなわなかったから、1991年にソ連は解体した。

1948年にイスラエルが建国されると、そこに住んでいたアラブ人は反発した。当然である。住処を奪われるのだから。
アラブ人はイスラーム教徒である。だからイスラーム教徒と、イスラエルのユダヤ人とは仲が悪い。
そしてそのイスラエルを支援するアメリカとも仲が悪い。
9.11事件以降のテロの横行は、ここに淵源がある。
1955年にアジア・アフリカ会議を開いたのも、インドネシアである。インドネシアもイスラーム国家である。
そしてロシアも歴史的経緯からユダヤ人とは仲が悪い。
この問題に世界はほとほと手を焼いてきた。
誰も解決できない。
暗礁に乗り上げている。

ただ、ドイツと中国はこの問題とは関わりなく、新しい経済秩序に取り組もうとしている、ように見える。
それが新しい動きのようにも見える。


第二次大戦の4つの謎

2018-01-30 11:34:43 | 第一、第二次大戦

火曜

第二次大戦の4つの謎
・なぜイギリスは、ポーランドに侵攻したドイツにだけ宣戦布告を行い、ほぼ同時にポーランドに侵攻したソ連には宣戦布告をしなかったのか。
・なぜアメリカは、のちに対立すると分かっているソ連と組んだのか。
・なぜヒトラーは、イギリスと戦いながら、独ソ戦を始めたのか。
・なぜ日本は、南方の石油を求めながら、アメリカの真珠湾を攻撃したのか。


ソ連と日本は使い捨て

2018-01-30 11:22:18 | 旧世界史14 1970~

火曜

1980年代に中国が急成長する準備は整った。
整ったところで、円高で日本の経済成長は止まり、
1991年にソ連は解体した。

日本の代わりは中国、
ではソ連の代わりはというと、統一ドイツである。
ドイツと中国は仲が良い。
中国は明らかに日本よりもドイツびいきである。
自動車も中国ではドイツ車が走っている。

ソ連と日本は使い捨てである。


1980年代からの人民元安

2018-01-30 10:45:59 | 旧世界史14 1970~

火曜

中国の鄧小平はアメリカに転んだが、イスラムのホメイニは転ばなかった。
ソ連のゴルバチョフもアメリカに転んだが、プーチンは転ばなかった。

だからアメリカは2001年の9.11事件を仕掛けて、イスラム世界を攻撃した。
最初はアフガン、次にイラク、その次は、チュニジア・エジプト・リビアの政権転覆。
アメリカはそれをアラブの春などといって喜んでいる。

1970年代後半、中国では毛沢東が死んで、鄧小平が実権を握った。
外交的には1972年に米中共同声明を出して、国交を回復し、準備は整っていた。
1980年代から本格的に中国の資本主義化が始まる。それを日本では改革開放政策と訳の分からない言葉で呼んでいる。
ここから中国の急成長が始まる。
1980年には、1ドル=240円=2人民元、だった。
1985年には、1ドル=240円=4人民元、になり、
1988年には、1ドル=120円=4人民元、になった。

これはどういうことだろうか。中国の人民元から見ると、
1980年には、1人民元=120円になり、
1985年には、1人民元=60円になり、
1988年には、1人民元=30円になったということだ。

この人民元安は何なのだろう。
10年も経たずに、人民元は円に対して1/4も安くなっている。
これが中国経済急成長のからくりである。
人民元はその後も安くなり続ける。
最安値は、1995年の1人民元=10円である。
1人民元は、120円だったのが10円になる。驚異的な安さである。
だから日本に百均ショップが乱立したのだ。

その間、日本はずっと円高で苦しんできた。

1980年代に世界は大きく変わった。
1985年のプラザ合意による円高、金利引き下げ、金余り。
1990年のバブル崩壊。
円高ドル安に目を奪われているが、本当は人民元の独歩安である。
1990年代に、中国経済は急成長を遂げた。
このことで世界が変わった。


世界政府とグローバリズム

2018-01-28 17:24:42 | 歴史

日曜

グローバリズムが進み、ナショナリズムが衰えれば、やがて世界政府となる。
権力は必ず腐敗する。
世界政府が権力集中制にならないようにするためには、権力は分散させねばならない。
権力分散は、機能上の権力を分散させるか、地域的な権力を分散させるか、のどちらかである。
世界政府が実現すれば、それは共産主義国家と同じように、政治的にも経済的にも非常に統制色の強いものとなる。だから機能上の権力の分散は難しい。
残るは、地域的な権力の分散を図るしかない。
そのためには地域ごとの政府が必要である。
つまり、民主主義的な世界政府の実現とグローバリズムは矛盾する。
世界政府の実現には、逆にナショナリズムが必要になる。


馬はどのようにして日本にやって来たか

2018-01-21 01:35:05 | 歴史

日曜

日本にはもともと野生の馬はいなかったといわれる。
しかし古墳時代の5世紀になると、古墳から馬具が出土し、馬の存在が確認される。
馬はどうやって日本に渡ってきたのか。
戦後、江上波夫が日本の国家の起源として騎馬民族説を唱えた。

馬は自分で海を泳いで渡ってきたわけではなかろう。
人間が連れてきたに相違ない。
それらの馬、つまり明治以前の在来種は、モンゴル馬系だと言われる。

江上波夫の騎馬民族説を支持する人は少ないようだが、私はそれが支持されない明確な理由を聞いたことがない。
それは、もともと馬のいなかった日本に、なぜ5世紀には馬がいたのか、そのことの説明に出会ったことがないからである。

古墳時代中期の5世紀には、古墳の埋葬品に武具や馬具が増える。
だから当時、馬がいたことを否定する人はいない。
ではどうやって馬は日本に渡ってきたか。

馬が対馬海峡を渡るには、人間が意図して連れてくるしかない。

騎馬遊牧民が世界史に与えた影響は計り知れない。
西アジア、モスクワ、トルコなど、ユーラシア大陸の東から西まで移動した人々が、同じ東アジアに隣接する日本まで移動することが荒唐無稽だなどとどうして言えようか。

卑弥呼の時代以前から、日本と朝鮮半島との交流は続いていた。人々の行き来は確実に存在した。

民族同士が抗争する場合、起こるのは次の4つである。
1.逃げる
2.殺す。
3.奴隷にする。
4.税金を取る。

日本でこれらのことが起こっても不思議ではない。

日本のアマテラスは、北方シャーマニズム系の思想である。


性と隣り合わせの危険

2018-01-11 08:39:46 | 歴史

木曜

性はもともと危険なものだ。
その危険を知らなければ、男女の仲など成立しない。
恋愛も、もともと危険なものだ。
それを知った上で世の男と女は恋愛関係に入っていく。
それで人間生活は営まれている。
だから人間の生活には危険がつきものである。

世の中にもともとある危険を封じてしまおうとするのは、頭隠して尻隠さず、に似ている。
いくら目を背けても危険はある。
いや、人生そのものが危険と隣り合わせである。
文明があるのも危険があったからである。
この逆説から目を背けてはならない。

男と女が人格を持っている以上、男女関係が成立するためには、どちらかがその人格を突き破らなければならない。
どんなに高潔な人格をもっている人でも、男女関係で行っていることは、驚くほど一様である。
その領域に入るためには、人格を突き破る作業が必要である。
通常その役割は男が引き受けてきた。
しかし最近はそれを引き受けたくない男性も増えている。
失敗することを極端に恐れているからだ。

振られたことのない男などありえない。
仮にいたとしても、そのことに何の意味があるだろうか。
社会的意味がない。
男がその役割を引き受けてきた、ということが社会的に大事なのだ。

男女関係で辛酸を舐めてきたフランスの大女優は、そのことをわかっている。
セクハラがいいとは言わない。
しかし世の中にはこの種の危険は常に存在する。

この種の危険は、人間の発生と同時に生まれたもので、こういう当たり前のことが社会問題になるときには、人間社会を成立させている大きな前提そのものが問題にされなければならないが、その危険にはまったく誰も触れようとしない。

セクハラ問題は、人間が触れてはならない領域まで突き進む可能性がある。

セクハラは、もともと非常に個人的な性の領域に、法の支配が及ぶことを意味している。
しかし男女のなれそめは、法の支配の枠外にある。
紳士淑女が裸になって、愛と快楽の世界に身をゆだねるということは、情念の世界である。
この情念こそ、人間の最も大切な部分であり、人に触れられたくないものではないか。

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ウィキペディア より
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%83%B4

カトリーヌ・ドヌーヴCatherine Deneuve, 1943年10月22日 - )はフランスパリ出身の女優である。

本名はカトリーヌ・ファビエンヌ・ドルレアック(Catherine Fabienne Dorleac)、「ドヌーヴ」は母の旧姓。

モーリス・ドルレアック、母ルネ・シモノ、夭折した姉フランソワーズ・ドルレアック[1]皆俳優であり、子供のクリスチャン・ヴァディムキアラ・マストロヤンニも俳優の道に進んでいる。

10代のころから映画に出始める。ミュージカル映画『シェルブールの雨傘』のヒットで世界的スターの座をつかむ。

1992年の『インドシナ』で米国アカデミー賞主演女優賞にノミネート。1998年の『ヴァンドーム広場』でヴェネツィア国際映画祭 女優賞を受賞。

プライベートでは1961年から交際を始めた映画監督のロジェ・ヴァディムとの間に息子クリスチャン(1963年生まれ)を儲けたが、1965年にイギリス写真家デビッド・ベイリーと結婚した。しかしベイリーとの結婚はヴァディムがジェーン・フォンダの元に走ったことにショックを受け、自暴自棄になり衝動的に行ったもので、ベイリーへの愛情は持っておらず、結局結婚生活を維持できなくなり1972年に離婚した。その後に俳優のマルチェロ・マストロヤンニとの間に、娘キアラを儲けている。ヴァディム、マストロヤンニと正式な婚姻関係になることは諸事情のためいずれもかなわなかった。しかし、マストロヤンニとは晩年までキアラ共々交流があり、1996年のマストロヤンニの臨終の時にもキアラと共に立会った[1]

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https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180110-00000004-jij-eurp

ドヌーブさん「女性口説く権利ある」=過度なセクハラ告発非難

1/10(水) 5:51配信

時事通信

 【パリAFP=時事】仏女優カトリーヌ・ドヌーブさんは9日、仏女性作家ら約100人と連名でルモンド紙に公開書簡を発表し、世界各地で相次ぐセクハラ告発について「口説く自由は認められるべきだ」と男性側を擁護した。
 
 ドヌーブさんらは「性暴力は犯罪だが、誰かを口説こうとする行為はたとえしつこかったり不器用だったりしたとしても犯罪ではない」と主張。「誰かの膝に触ったり、一方的にキスをしようとしたりしただけで職を失い、即刻罰せられている」と指摘し、男性が不当に名誉を傷つけられていると擁護した。

 米映画プロデューサーによる有名女優へのセクハラ騒動に端を発して世界中に広まった告発の動きを「魔女狩りだ」と非難。同調しない女性を裏切り者と見なす風潮が生まれたと指摘した。 

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https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180110-00000083-sph-ent

美保純、ドヌーヴの「男には口説く権利ある」発言に賛同「誘われてこそ女優って感じする」

1/10(水) 18:06配信

 女優の美保純(57)が10日放送のTOKYO MX「5時に夢中!」(月~金曜・後5時)に出演。映画「シェルブールの雨傘」などで知られるフランスの大女優カトリーヌ・ドヌーヴ(74)らが仏ル・モンド紙に「男性には女性に言い寄る権利がある」と共同の声明文を出し、セクハラ告発運動の過熱化に警鐘を鳴らしたことに賛同の意を示した。

 ハリウッドの大物プロデューサー、ハーヴェイ・ワインシュタイン氏のセクハラ事件に端を発した一連の問題について、美保は「女優が強くなっちゃうイメージがある。誘われてこそ女優って感じがするんですよ」と独自の見解を示した上で、「もし(誘ってきた)プロデューサーがいい男でかっこいい人だったら、逆に来て欲しいってなるじゃないですか」と続けた。

 同じくコメンテーターで出演のタレント・江原啓之(53)は「(誘惑されるように)仕込んでいる女優さんも知っていますよ。それで仕事とっている。そういう人もいるから厄介なんですよ」と“爆弾発言”していた。


中央銀行はなぜ情報公開されないか。

2018-01-09 08:56:25 | 日銀景気対策

火曜

公的機関の情報公開が進む中で、個人情報は保護されている。
世界の主要国のほとんどは中央銀行を持っているが、この中央銀行は株式会社の形を取っている。日本銀行も広くいえば株式会社で、東京証券取引所に上場され、今日も株が売買されている。
ということは、日本銀行は民間資本だということである。
なぜ国家財政の中枢を占める中央銀行が、民間企業の形を取っているのか。資本の半分は国が持っているが、あとの半分は民間企業と同じように株が売買されている。
それは国家資本になると、国家財政と同じように情報公開しなければならなくなるからである。資本の半分を民間で売買させることによって、情報公開の義務から逃れることができる。なぜなら個人株主の秘密は守られなければならないからである。
しかしそれは隠れ蓑である。
本当は情報公開したくないからである。

国家財政が情報公開されるのに対し、日本銀行の財務は公開されることがない。少なくともそれを知っている人は非常にまれである。

情報公開されることがなければ、日本銀行は国家財政に比べて、かなり自由な財政運営をできる。今の黒田日銀がやっていることはそういうことである。
国家財政が逼迫している中で、国債を買って金利を抑え、株を買って株価をつり上げている。
その資金源が何なのか。
どれくらいお金を刷っているのか。
どれくらい利益が出て、どれくらい損失が出ているのか。
我々国民は無頓着である。
でもそれは情報公開されないからである。
国家の中枢機関でありながら情報公開されない機関、それが日本銀行である。中央銀行である。
その最たるものがアメリカの中央銀行であるFRBであるが、このFRBと日本銀行との間の資金のやりとりもまったく闇の中である。
国家資金ならこういうことはできないが、民間資金なら何でも自由に行える。
しかし民間資金といっても、日本銀行が扱っているのはわれわれの税金である。
そこが非常に不透明である。
国家の財政収支だけではわからない。

つまり我々の税金は、日本銀行が情報公開されない限り、闇の中である。
そのために日本銀行は株式会社とほぼ同じ形を取っている。


ムラの構成員

2018-01-08 14:03:09 | 歴史

成人の日 祝日

日本のムラの原型は、室町時代に誕生した。惣村というものである。
そこには産土神があり、祭礼を行う宮座があった。
このことによって日本のムラはそれまでの血縁結合を抜け出し、異姓集団による地縁結合が可能になった。
そのよりどころがムラの祭礼であった。
ムラに参加することは、この祭礼に参加することと同じことであった。

現在であれば、土地の取得さえできれば、どこにでも家を建てることができ、そこに住むことができる。これは近代的土地の所有権の産物である。
日本のムラはそういうものではない。土地の取得そのものより、ムラという集団に参加する資格そのものが問題になったのである。
そうでなければ、いくら土地を取得してもムラの一員となることはできなかった。

お披露目がなければ、正式にはムラの一員となることはできなかった。
それは助け合うことを目的とするムラに、それを目的としない構成員を抱えることは、ムラの不利益になったからである。
ムラのためにならないことを村人は排除していった。

この機能は特別なものではない。あらゆる集団に普遍的に見られる機能である。このことによってムラの閉鎖性などということはできない。
日本のあらゆる集団では今でも、転入者または転出者の紹介が行われている。歓迎会、送別会も日常茶飯事である。

今日は成人の日だが、成人式も日本の大人社会へのお披露目である。


国家と領土 遊牧国家の場合

2018-01-06 09:52:21 | 旧世界史1 古代中国

土曜

日本人の感覚では、国家は領土と結びつくが、
モンゴル人などの遊牧民の場合、国家は領土とは関係なく、人の集団が移動すればその移動したところが国家になる。
つまり遊牧国家は領土とは関係なく、国家を形成する集団が動き、その構成員が居住するところがそのまま国家になる。

遊牧民の場合、土地は共有のものであり、誰のものでもない。
いわば土地は借り物である。

近代国家の場合、A国がBという領土を併合すればそこに住んでいる人はA国の国民になるが、
遊牧国家の場合はそうはならない。
国家とは土地ではなく、あくまで人である。
こう考えると、我々がふつう国家の三要素と呼んでいる領土・国民・主権という考え方も近代のものだということがわかる。
我々は国家を領土と結びつける発想になじんでしまっているが、歴史的にはそうとばかりは言えない国家があった。
しかも我々は領土を最初に国家と結びつける。
しかしそれは違うのではないか。
国とは最初に人である。
人の住むところが国家である。

遊牧民はそうやって国家を広げてきた。
大事なのは領土ではなく、まずそこに住む人である。そして次にはその人々をどう組織化するかということである。その手段として領土があるにすぎない。
その証拠には、史上最大のモンゴル帝国をつくったチンギス・ハンは、ほとんどモンゴル高原にはいなかった。その1000年以上前、史上初の帝国であるアケメネス朝ペルシャのダリウス大王も、首都のペルセポリスにはほとんどいなかった。両者とも生涯のほとんどを旅に暮らしていた。

王とその軍団が動く範囲、それが国家の範囲であった。
そしてそれは税金の徴収のためというより、そこの住民の組織化のためであった。
徴税はそれに付随するものである。
組織化なしに徴税した場合、国家はすぐに瓦解する。
それはたんなる暴力団のみかじめ料にすぎない。
みかじめ料と税金の違いはそういうところにある。
合法性の根拠もそこにある。


お金と保険

2018-01-05 12:08:02 | 歴史

金曜

男は現金を欲しがるが、女はその現金よりも、保険のほうが大事だと知っている。
現金はその場しのぎであるが、保険は将来に関わる。
現金を貯めるのは預金の発想であるが、そんな銀行預金よりも、
もともと保険の発想をするのが女性である。

世の中の金融商品はすべて保険である。

男が目の前の現金に目がくらむとき、女性はずっと先のことを見ていて、保険の発想をしている。
女が計算高いと言われる理由もここにあり、
男が刹那的だと言われる理由もここにある。

ただ女性の発想が及ぶのは死の手前までであり、男性の発想はいつも死後のことに結びついている。
男性の刹那的な発想と、死後への発想は、一見矛盾するように見えるが、男の中ではそれほど矛盾してはいない。

逆説的だが、男が刹那的なのは、絶えず死と隣り合わせているからである。
その点、女はそれほど死と隣り合わせてはいない。どこまでも生を考えている。
そして生に最も必要なものは富ではなく、保険だということを知っている。

投機は男性的だが、保険は女性的である。

投機は莫大な富と結びつくが、同時に死と隣り合わせである。
保険はそのような死が常にこの世には存在しているということを知っている。