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新「授業でいえない日本史」 1話の1 古代 旧石器時代~弥生前期

2020-10-29 07:00:00 | 新日本史1 古代
【はじめに】
今の高校の日本史は何か物足りません。近現代になるほどそうです。同じようなことは古代にもありました。
そこで、高校生を相手に実際に授業しているつもりで、日本史を書いてみました。
 
※の小さい文字は、出典や補足です。面倒であれば、読み飛ばしてもらって結構です。

補足や修正は、折に触れ行っています。


ちなみにカテゴリー(旧日本史1~6)の「授業でいえない日本史」(2がついてないもの)は、旧バージョンですが、こちらの作業上の都合で、削除せずにそのまま置いています。



【旧石器時代】
日本史です。
人類の発生、これは世界史で詳しくやりました。関係あるところだけ言うと、人類の誕生、500万年前から600万年前になって、700万年前までさかのぼっていったり、年々古くなっていってるんだけれども、ポイントは場所です。
人類の誕生は、アジアじゃなくて、アメリカでもなくて、当然日本でもなくて、アフリカですね。世界史でも言ったけれども、アフリカにいたサルがチンパンジーになって、日本にいたニホンザルが日本人になった。
これ根本的におかしい。そうじゃない。アフリカの猿が人間になって、その人間があとで日本人になったんです。ヨーロッパ人になったんです。人間同士、子孫が生まれる。日本人とアメリカ人と結婚しても子供が生まれる。これは同種ということでしょう。チンパンジーがアフリカ人になって、ニホンザルが日本人になったら、これ別種です。ライオンとトラを掛け合わせても、子供を生まれないでしょ。子供が生まれるということは、同種でないといけない。遺伝子がマッチしないといけない。だからアフリカから発生した同種の人間が世界中に広がった。ただ何万年の間には肌の色とか、環境適応で、ちょっと顔立ちが変わったり、形質の変化は見られる。しかし同種であるということです。
従来この時代にはまだ日本に人は住んでいなかったと考えられていましたが、1949年、群馬県岩宿の関東ローム層より、打製石器が発見されたことにより、人がすでに住んでいたことが確認されました。



【縄文時代】
【温暖化】
これで一気に、699万年すぎました。ここで。もう1万年前になりました。地球はだいたい10万年周期で、暑くなったり、寒くなったりするんですよ。今は、人間がつくった異常気象ですよ。二酸化炭素とかが増えて。PM2.5とかもあって。ただ何もしなくても、10万年周期で暑くなったり寒くなったりする。寒くなった時を氷河時代という。氷河時代というと、地球上全部が氷で覆われたとか、そんなバカなことはないです。南極と北極は今でも一年中氷がある。その凍る体積が増えるだけです。赤道直下はやっぱり温いんです。
この変化が1万年前ぐらいに起こる。氷河時代の5、6回、わかっているだけで第4氷河期の終了だから、少なくとも4回氷河期が10万年単位であった。4回あったということは、第5氷河期が明日来るかもしれないし、1億年後に来るかもしれないし、来る可能性はある。2度あることは3度あるというから、4度あることは5度あるわけです。この氷河時代の終了が1万年前です。
ということは、気候は温かくなったんです。温暖化です。温暖化して、気温が上がって、ではクーラー入れればいいか。そんな問題じゃないんですよ。地球規模で暖かくなったら、その氷はもともとは水です。氷は溶けたらどこに流れるか。海に流れて、海の水は上昇する。海の水が上昇して日本列島ができあがるんです。
もともと日本海というのは日本湖だった。大陸と地続きで。湖のようになっていた。海面が上がって、低いところは水没して、対馬海峡、津軽海峡、カムチャッカ半島ができて、四国などの4つの日本列島ができた。これが日本列島の形成です。



【弓矢】
それだけではない。動植物というのは、気温が上がれば、気温に合わせて移動して、環境を求めていかないと生きていけない。だから暑くなるということは、それまで寒かったところに住んでいた動物、これは死に絶える。一番いい例は、マンモス、北海道あたりにいたという巨大象です。アラスカでよく見つかる。象は温いところにしか今はいないけれども、象は象で努力して、何万年の間には、寒いところでも適応できるようなマンモス象がいた。それが温くなったんだから、図体大きくて環境に適応できなかったら、死に絶えるわけです。
マンモスをつかまえていた人間は、弓ではなくて、銛でガバッと寄ってたかって、10人ぐらいで倒していたから、肉を食えたんだけれども、それが死に絶えていくと、ウサギとか、ネズミとか、そういったものしかいなくなって、銛を投げようとすると、アッカンベーして逃げられる。すると、それを食っていた人間も死んでしまう。死にたくなかったら、何をしないといけないか、努力して捕まえる技術を身につけないといけない。
それが弓矢なんです。今までのように腕を振って投げると、頭のいいウサギなんか、鹿なんか、構えただけで逃げる。野鳥なんかは、近くの海の堤防に行ったらいっぱいいる。それが堤防から人間の髪の毛が1本見えただけで、パーッと飛び立って逃げる。野鳥は簡単に見れない。カメラでなかなか撮れない。堤防から頭を出しただけで、パッといっせいに飛び立つ。それで銛を構えたら、アッカンベーして逃げる。
弓矢は、狙いをつけたあとは、指を離すだけです。こうやって、ピッとするだけ。だから小動物はわからない。こういう技術がないと捕まえられない、とこういうことです。これが弓矢の使用です。これは中小動物を捕獲するための技術の進歩ということです。
環境に対応する技術がなければ、日本人は死んでいた可能性がある。誰かが新しい技術をどうにか生み出して、その技術を手に入れた者だけが生き残るとか、その部族だけが生き残るとか、1万年前にはそういう過程があったはずです。そういうふうに技術というのが、人間の生き残り、サバイバルに重要になってくるわけです。



【縄文土器】結局、食い物なんです。食い物というときに、今われわれが食っているものが、古代人が全部食えたのかと言えば、例えば米一つにしろ難しい。この時代、米があったって、人間は生きていけるのか。この時代。米を食うためには、そのままガリガリ、米を食えないでしょ。食べるためには、火を通して煮ないといけない。では煮るための鍋があったのかというと、鍋はないわけです。鍋がない時代には、煮炊きできない。煮炊するためには、鉄鍋のまえには土器ですよね。土器というのは、土を熱すれば別の物質に変わるという化学変化に人間が気づくというのはかなり時代が下る。世界史上でも。
そのなかで日本の場合には、この化学変化の理屈は知らなくても、気づくのが非常に早い。これによって何が変わるか。食えなかったものが食えるようになる。つまり生きる幅が増えるんです。これを縄文土器という。これは表面に、縄目文、つまり縄をころがしたような文様が入っているからこういうんであって、要は土器なんです。煮炊きができるんだということです。そこに魔術的な力を感じて、いろいろな飾り付けがあって、非常に派手なんです。炎のような形をしたものとかもある。
ただ泥を焼くということは、これ今も昔も、ろうそくの炎のような低温だったら、何万年も前から人間はできますよ。火というのは、製鉄でも何でもそうだけれども、高温に上げるのが難しい、低温は誰でもできる。でも高温にはできない。
火の温度を上げるためには、登り窯で焼かないといけない。普通のたき火しているだけでは、どうしても黒くなる。低温で焼くと黒くもろい土器ができる。あまり長持ちはしなかったけど。それでも水が漏れずに、水の中に米を入れて煮炊きすると、固い米がふわふわなってうまくなる。大した変化なんです。米はまだないけど、肉とか、魚とか、こういったものでも食うことができる。ドングリとか、クルミとか、こういうものですよ。
だいたい自然界のものというのは、動物に食われたら、種子がかみ砕かれたら発芽しないから、食われないように、ちぎって、ばらまいてもらえればいいわけで、食われないために、毒があることが多い。だから料理で熱を加えてあく抜きをする。土器がない時代には、これを水でさらして、何時間もさらして、自然に毒が抜けるまでやっていた。火を沸かせば、表面に黒ずんだあくが出るでしょ。あくが出ていくわけです。うまいラーメン屋さんなんかは、あくも味のうちではあるんだけれども、ころよく、きちっとあく抜きをしてある。手間暇かけてしてあります。
この縄文時代の代表的な遺跡が青森県の三内丸山遺跡です。この時代の集落は、まん中に広場を持ち、それをぐるりと取り囲むように竪穴住居がつくられることが多いのですが、この三内丸山遺跡には大規模な建物跡もあり、かなり高度な文明を持っていたようです。縄文時代は狩猟・採集移動生活とされていましたが、ここでは多数の堅果類(クリ、クルミ、トチなど)の殻、さらには一年草のエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどといった栽培植物も出土しました。三内丸山の人たちは、自然の恵みの採取活動のみに依存せず、集落の周辺に堅果類の樹木を多数植栽しており、一年草を栽培し、定住していた可能性も考えられます。 
今は海からけっこう離れているように見えますが、当時は海がこの丘陵近くまで迫っていて、ここは丘陵の先端の海に面した微高地でした。現在の標高は20mです。
この青森県に代表的な縄文遺跡があるように、縄文文化の中心は東日本です。この点は次の弥生時代の遺跡の代表例が、佐賀県の吉野ヶ里遺跡であることを考えると、好対照をなしています。縄文文化が東日本中心であるのに対して、次の弥生文化は西日本中心です。文化の中心が東から西に移動するのです。
それは大陸の中国や朝鮮から新たな文化をもった人たちが、日本に移動してきたからです。
こういう人の移動を目の前にして、それ以前から住む縄文人たちは、どのような対応をしたのでしょうか。
この縄文時代にはまだ本格的な農耕、稲作が始まっていませんが、縄文のここまでは日本のオリジナルです。他の文化の影響というのを、ほとんど受けていません。
しかし次はモロに影響を受けていきます。



【弥生時代】
【中国】
それは、今から2000年ぐらい前、2400~2500年ぐらい前、すでに中国では文明段階で、農業バッチリ、国家もできて相争いながら、統一国家ができつつある。そういったところです。世界史を思い出してください。殷ができて、周ができて、春秋・戦国時代っていうふうに、黄河流域の中国の中原の野原を、多くの土豪が跋扈する春秋戦国時代、それをまとめていったのが、最初の統一国家ですが、何ですか。紀元前221年という。
英語で書くとchinです。これが英語読みして何になるか。これがチャイナになる。英語というのは、表記どおり発音しなくて訛りがきつい。チンがチナになるかというと、英語ではチャイナという。要らないaが入ってくる。その点、日本の戦前は、中国のことをちゃんとシナと言っていた、よっぽどその文字に忠実に発音していたんです。その中国の影響を受けるわけです。
弥生時代は7~8百年間、紀元前5世紀から紀元後3世紀だから、8世紀ぐらい続く。特色は、米が入ってくる。水稲農耕です。



【水稲農耕】厳密にいうと、稲というのは、水田だけじゃなくて、特殊な稲でオカボといって、畑でできる稲もあることはあるんです。だから厳密にいうと、水で育つ稲で水稲と、オカボという陸稲の2種類ある。さらに水稲の中にも、日本人が食うジャポニカ米と、もう一つインディカ米というインドあたりのコメがあって、これは小麦みたいで、箸で取れない。スプーンじゃないと。パサパサしてすくえない。粘りけがなくて日本の米とは食感が違う。向こうの人は、うまいんでしょうけれども、ジャポニカ米に慣れた我々の味覚からいうと、心して食わないと、なんだこれとなる。そういうふうに米には2種類あって、ジャポニカ米は、日本のジャパンの名前がついとるけれども、どこから来たかというと、原産地は中国南部の揚子江流域と言われる。そのあたりから来ているんだということです。
ちょうど時代的には春秋・戦国時代、中国には万里の長城があって、北からの勢力が強かった。そうすると北から南に押し出されて、行き場を失うと、海に出てくるという形もある。中国の東の海には、地理の授業で言ったけど、何が流れてるか。黒潮です。暖流が流れて、船が櫂がなくても自然に北上して、東にカーブして、日本列島南端に流れつくわけです。
水稲農耕というのは米が流れついたとか、そんな単純なものじゃない。農業というのは種もいるんだけれども、基本は技術です。米自体はモノをいわない。農業ができるということは技術がやってきたということです。技術は、誰が伝えるのか。ビデオがあるのか、レコードが、本があるのか。人間が来たんです。人間がこないと、技術は伝わらない。農業技術を持った人間がやってこないと、技術は伝わらない。文化は伝わらないんです。
中国の歴史書である司馬遷の『史記には、紀元前3世紀末、秦の始皇帝徐福という人に、不老不死の薬を求めさせて東方に向かわせたが、二度と帰って来なかったという記述があります。ところがそんなことは知らない日本には、徐福のその後の伝説が各地に残っています。九州では、佐賀の徐福伝説が有名です。徐福は有明海から佐賀平野の南部に上陸して、平野北部に向かったとされています。これは多くの人を引き連れての渡来だったようです。しかし始皇帝が命じたような薬はあるはずもなく、中国に戻ることなく、一部の人はそのまま佐賀に住みついたようです。日本各地に伝承が残っていることを考えると、一部はまた他の場所に移動して行ったのかもしれません。いまも佐賀金立山の金立神社には、徐福が祭られています。このような伝承は、弥生時代の中国から日本への人々の渡来を連想させます。
佐賀平野には、この金立神社の東約10キロのところに、弥生時代最大の環濠集落跡である吉野ヶ里遺跡があります。この遺跡は、弥生時代の全期間を通じて営まれたものです。
縄文時代を代表する三内丸山遺跡は微高地にありましたが、水稲農耕はこういう微高地ではできません。水田には当然水が必要ですから、もっと低地を選ぶわけです。
縄文時代の初めには、縄文海進といって、海面が上昇して、陸地の奥深くにまで海が侵入してきましたが、その後約1万年間の間には、長い年月をかけて、山からの土砂が遠浅の海を陸地化していきます。
現在多くの日本人が住んでいる平地は、こうやってできあがるのです。これを沖積平野といいます。「沖」に土砂が「積」もって、できあがるのです。だから「沖積」です。縄文時代には、今の日本の中心である東京も、東京駅を南北に走る山手線の東側はまだ海です。千葉県との県境あたりまで、深い入り江になって、海が入り込んでいます。そういうところがだんだんと陸地化し、そこに人が住みついていくようになるわけです。
縄文人からみれは、そういう葦が生い茂るような低地は、いつ洪水におそわれるか分からない危険な土地です。しかし、大陸からやって来た人たちは、そういうぬかるんだ低地を見つけて、水稲農耕をし始めます。
この縄文人と弥生人がどのように融合していったか、または対立していったかは、よく分かりません。
ただ縄文人が微高地を好んだのに対して、弥生人は低地を好みましたから、彼らの住み分けは可能だったのではないでしょうか。
ただここにはかなりの文化の開きがあります。狩猟・採集の社会と、農耕社会は、土地に対する考え方が違うのです。
自分たちに恵みを与えてくれる大地に鍬を入れることは、神様の肌に傷をつけることと同じで、狩猟・採集社会の人々は、そのことを忌み嫌うのが普通です。
縄文人は、弥生人に押されるかたちで、山へ山へと入ったいったとも考えられます。弥生時代には、瀬戸内海沿岸を中心に、山の中に高地性集落も発見されています。
のち奈良時代に、朝廷が国土を広げる中で、東北地方の人々はそれに抵抗する人々として蝦夷(えみし)と呼ばれます。しかし彼らの祖先がどういう人々であったのか、縄文人の子孫なのか、弥生人の子孫なのか、よく分かっていません。
しかし、農耕社会の技術を自ら取り入れていった人たちもいるかもしれません。そのあたりは地域によっても、農耕社会の形成過程が違うでしょう。
ただこのような時代は、文化の接触として一種の緊張状態を発生させるのは確かです。昔はのどかだったんだろう、とばかり考えると、昔の人から、オレたちをバカにするな、と叱られそうです。
佐賀県の吉野ヶ里遺跡は、紀元前4世紀から集落が形成され始めますが、それがこれほど大規模な集落に発展するためには、何らかのきっかけがあったと思われます。この近くには、紀元前3世紀末頃のこととして、さっき言った徐福伝説が残されていますが、そのこととも関係しているかもしれません。



【弥生土器】 米が流れついたんだな。それだけでは、水稲農耕ははじまりません。それだけでは文化は伝わりません。文化が伝わるということは、人が伝えたということです。
それで、技術とともに、土器です。土器の重要性というのは、食えないものを煮沸して食えるようにするという食事の幅が広がるという点では、非常に画期的に重要なんです。この技術が上がって、弥生土器になる。土器の色が赤くなる。赤くなる土器というのは、高い温度で、精密に焼いた。緻密になるとこういう薄い土器ができる。
焼き物の技術は、お椀一つでも、素人ではあの薄さはできない。土も選ばないけない。それから火も調整しないといけない。素人が焼いてもなかなかできない。そういうことができるようになった。われわれは今でも、この茶碗を日常的に使っています。プラスチック製もあるけれども、やっぱり焼き物を普通に使っている。



【貧富の差】そういう社会になってくると、だんだんと食い物の幅が広がる。農業の生産力が上がる。生産力が上がると、肉は冷蔵庫がない時代は貯められないでしょ。でも米は貯められる。米は貯めるという行為ができる。これ文明には、ものすごく大事なんです。肉に比べれば、米は貯められる。一番貯められるのは今では何か。お金です。お金はまだないけれども。お金は貯められるものです。人間の生活では、肉とか何とか野菜とか、野菜は、1ヶ月もすると芽を吹いて、貯められない。そういう中で余剰生産物ができて、しかも貯めることはできるものは富を発生させる。国ができるまでには、貧富の差が発生する。貧富の差が発生すると、貧しい者に、豊かな者が、貸してやろうかとかいうことになる。ありがとうと頭を下げざるを得なくなる。



【クニの発生】これが親の世代、子の世代、孫の世代に渡って固定化して行われると、身分制度になっていく。身分ができて、次には、そこのリーダーが治水する。場合によっては隣村と交渉する。もっと言えば、喧嘩をしたり、それに勝ったりすると、だんだん村の領域が大きくなってクニが登場する。カタカナでクニと書くのは、我々が言うほどの日本の全体を意味するような、漢字で書く国よりまだ小さいからです。今の県、昔の市郡、それぐらいの領域です。



【青銅器】 金属器も伝わってきます。世界史では、青銅器のあとに鉄器の使用がはじまりますが、日本の場合、青銅器の使用と鉄器の使用がほぼ同時にはじまります。青銅器とは、銅とスズの合金です。銅は鉄に比べると錆びにくく、よく残っているのですが、鉄は強い割には錆びやすくほとんど残りません。ですから考古学的出土品としては青銅器を中心に見ることになります。我々が見る青銅器は表面が青く錆びた青銅器がほとんどですが、これは当初からそうではなく、つくられた当時は新品の十円玉のようにキラキラ輝いていたものです。それを初めて見た当時の人たちは、そこに神がかり的な威力を感じたのでしょう。
主な青銅器として、もともと楽器であった銅鐸どうたく)と、もともと武器であった銅矛(どうほこ)・銅戈(どうか)・銅剣(どうけん)があります。それぞれ分布域に違いがあります。銅矛・銅戈九州北部中心、銅鐸畿内中心に分布しています。注目すべきことは、それらがすべて本来の機能を失い、権威の象徴として祭り用の祭器として使われた点です。
そしてそれらの出土地域に地域の違いがあることは、たんに武力による地域統合ではなく、祭祀を通じた地域統合が進んでいたと考えられることです。つまり神を祭ることによる、平和的な地域統合の道も考えられるわけです。銅鐸(どうたく)、銅矛(どうほこ)・銅戈(どうか)・銅剣(どうけん)などの青銅器は、本来の機能を変え、その祭祀の時に、何らかの霊力の宿るものとして、権威の象徴として機能したわけです。
このことが日本の国家誕生を考えるときに、非常に重要だと思います。



【吉野ヶ里遺跡】 佐賀県の吉野ヶ里遺跡は、こういうクニを支配していたのではないかと思います。
村の周りに掘を掘ります。ポイントは堀です。日本は敵から身を守るために周りに堀を掘る文化です。ヨーロッパは壁を作るんですね。城壁を。堀は複合施設で、イヤお城の石垣もあるじゃないか。ほとんどその周りは、堀で囲んでいる。この近くのお城なんか、綺麗に真四角に囲んでいる。北堀端、西堀端、南堀端と。東堀端は150年前の明治維新の時に、もう要らないだろうと埋め立てられた。しかし今になって、やはり東堀端があったほうがいいよね、という話になりつつある。


新「授業でいえない日本史」 1話の2 古代 紀元前2世紀

2020-10-29 06:59:00 | 新日本史1 古代
【小国の分立】
【前漢】
小国の分立です。やはり中国の影響を受けていきます。紀元前221年に成立した秦が十数年で短期間で滅ぶ。
それを受け継いだのが紀元前202年成立のです。今でも漢の文字を、漢字として我々は使っているほど、中国を代表する王朝です。その武帝が周辺を征服して領土を広げる。メインは匈奴といって、騎馬遊牧民族です。モンゴルのチンギスハンのご先祖様みたいなものです。今までこれに負けっ放しだったのですが、ここで勝つんです。



【楽浪郡】 そのころ朝鮮半島には箕氏朝鮮という国がありましたが、前195年に中国の燕から朝鮮に亡命してきた衛満に乗っ取られ、衛氏朝鮮になります。

【天孫降臨とは】
【異説】 『記紀神話』を「考古学的事実」に照らして検証すると、「天孫降臨」は紀元前2世紀ごろに起きた、青銅の武器を携えた集団による北部九州侵攻譚の反映であることがわかるのです。
 邇邇芸(ににぎ)が天降ったのは「筑紫日向高千穂久士布流多気(くしふるたけ)(記)」、「筑紫の日向の高千穂の槵觸之峯(くしふるのみね)(紀)」と書かれていますが、我が国で天孫降臨の象徴である「三種の神器(剣・鏡・玉)」が最も古く埋葬されるのは福岡市西区大字吉武の「吉武高木遺跡」(紀元前2世紀頃)であり、そこには「日向川」が流れ、西の高祖連山には「日向山日向峠」があり、峠を越えた怡土平野には、三雲・平原・井原という青銅の武器や大型の鏡を伴う王墓級の遺跡が紀元前後約三百年間続いています。さらに古文書(『黒田家文書』)には高祖連山に「日向山」「くしふるやま」があると記されていますから、「高千穂」とは高祖連山を言うことになるのです。・・・・・・
 そして、「青銅の武器を携えた集団」とは、対馬海峡の対馬・壱岐を拠点としていた「海人(あま)」の集団「海人族(あまぞく)」(※『記紀』では(あま)を(あま)とする)だと考えられます。彼等は朝鮮半島に近く、いち早く青銅の武器を入手していました。これは対馬が青銅の武器の宝庫だとされること、また天日神命(天照大御神)を祭る阿麻氐留(あまてる)神社など、神話上の「始原の神」の社も多いこと等から裏付けられます。
 朝鮮半島では箕氏朝鮮に亡命していた衛満が紀元前195年ころ箕氏朝鮮王の準王を追放し、衛氏朝鮮を建国しましたが、準王は臣下と共に南方の馬韓の地を攻略しそこで韓王となりました。この動乱時に馬韓から半島南部や対馬に逃れた者を通じて、多量の青銅の武器が齎(もたら)されたのだと思われます。・・・・・・
 当然神武天皇もこの地から「東征」を始めたことになります。・・・・・・「神武東征」とは、「銅矛圏」の中心地怡土平野から「銅鐸圏」に侵攻し、その末端の奈良県南部に進出を果たした反映譚だと考えられるのです。(古代に真実を求めて 第22集 倭国古伝 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2019.3月 P154)

【異説】 「国ゆずり」「天孫降臨」というのは言葉はきれいですけれども、実際は、私の理解では、壱岐・対馬あたりで天照大神を主神とした人達が筑紫にパッと降りて来たわけで、「出雲の大国主の了解を得たよ」と言って、「ボス交渉」みたいなものでここに乗り込んできたわけです。・・・・・・そこに従来の神々は当然居たわけです。また、従来の支配者もいたわけです。それは追っ払われたわけです。(邪馬壹国から九州王朝へ 古田武彦編 新泉社 1987.10月 P145)

【異説】 伊都国は、『(魏志)倭人伝』に「世、王有るも皆女王国に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり。」「女王国以北には、特に一大率を置き、検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す」とあるように、邪馬壹国の直轄地で、邪馬壹国から派遣された軍団、いわば進駐軍と、「一大率」がこの国を治めていた。古田(武彦)氏は、
【『倭人伝』で「一大率と言っているのは「一大国(壱岐)の軍団の統率者」の意味で、「天孫降臨神話」の実体は、壱岐・対馬を中心拠点とした海人(あま)族が、稲作の最盛地帯の唐津湾(菜畑遺跡)から糸島半島、博多湾岸(板付)へ征服軍を派遣した「侵略行動」だった。彼等の軍団は高祖山連峰に結集し、山の西側の「伊都国」に常駐した。これが「一大率」だ。】
としている。
 ただ、3世紀の伊都国は戸数が千戸しか無く、かつ東南百里(7~8キロメートル)に奴国、東百里に不弥国があるから、怡土平野でも加布里湾岸に限定された、「一大率の駐留する軍港国家」だと考えられる。(古代に真実を求めて 第24集 俾弥呼(ひみか)と邪馬壹国(やまゐこく) 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2021.3月 P83)

【異説】 『日本の神々ー神社と聖地1 九州』(白水社)には高名な111の名のある神社が納められているが、そこに月読命と瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を祭神とする神社を拾い出してみると次のようになる。・・・・・・問題は佐賀にある荒穂神社(瓊瓊杵尊を主神 佐賀県基山町)である。この神社は瓊瓊杵尊が基山国見をしたという具体的伝承をもっていることは特筆に値する。基山は古田武彦の福岡の糸島郡にある天孫降臨地からさして離れていないのである。・・・・・・いまわたしが何を言おうとしているのか。倭国建国の父である瓊瓊杵尊筑前、筑後の地で並ぶことなき神として圧倒的に崇拝されていたにちがいないのに、今はわずか佐賀の荒穂神社や天降神社など小社の地域幻想の中でのみ生き延びているにすぎないのである。(古代に真実を求めて 第2集 室伏志畔 古田史学の会編 明石書店 1998.10月 P147)

(筆者注) 天皇家の祖先神・・・ニニギの命(天照大神の孫で天孫といわれる)
       物部氏の祖先神・・・ニギハヤヒの命(ニニギよりも早く降り立ったという意味にも解せる)

(筆者注) 天孫降臨の神様は「ニニギ」ですが、それよりもいち早く降臨したと言われる「ニギハヤイ」という神様がいてます。両者に共通する「ニギ」とは何でしょうか。福岡県糸島には、朝鮮半島から渡ってくるときの目印になったと言われる「芥屋(けや)の大門(おおと)」という岬に突き出た巨大な岩山がありますが、その東横の海岸を「の浜」と書いて「ニギの浜」と言います。「芥屋の大門」のすぐ裏には大祖神社があって、その東岸の海岸を「御幣」を振って浄める海岸だと思います。
つまり「ニニギ」とは「新しく浄めた人」、「ニギハヤイ」とは「それよりも早く浄めた人」の意味になります。
『日本書紀』では天孫降臨は「ニニギ」による神聖な一度きりのことのように書いてますが、実は天孫降臨とは何度か繰り返された民族移動のことと捉えたほうがいいようです。

【異説】 邇邇芸命(ににぎのみこと)が降臨する前に、『古事記』では邇芸速日(にぎはやひ)が、天磐船に乗り河内国の河上に天下ったとされる。しかし「天孫降臨」が海人族博多湾岸への侵攻であれば、邇芸速日が天下った侵攻した)のも筑紫の話と考えるべきだ。この点、福岡県糸島の「志摩半島」には、玄界灘に面し「幣(にぎ)の浜」があり、邇芸速日の子で兄の香山命(かやまのみこと)にちなむ「火山・可也(かや)山」がある。弟の宇麻志麻治命(うましまじのみこと)の「志麻治」は志摩半島そのものだ。そうであれば邇芸速日の降臨地は志摩半島、古代の斯馬国となり、邇邇芸や邇芸速日に共通する「にき・にぎ」は、筑紫に降臨してきた新勢力を象徴する呼称だと言えよう。(古代に真実を求めて 第24集 俾弥呼(ひみか)と邪馬壹国(やまゐこく) 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2021.3月 P86)



〇 漢は前108年にその衛氏朝鮮を滅ぼします。


【異説】 衛氏朝鮮が滅びた時も、多数の亡命者列島に渡ったことは推測できる。(古代倭王の正体 小林恵子 祥伝社 P38)

【異説】 扶余族は中国東北部の松花江沿いに発生した民族で、高句麗百済のルーツと考えられている。・・・・・・扶余のトーテムは白い鹿で、日本ではしばしば神社や寺院に鹿が飼われているが、扶余が何らかの形で関与していたことを意味しよう。(古代倭王の正体 小林恵子 祥伝社 P54)



〇 そしてそこに朝鮮支配のポイントを置く。これを楽浪郡という。紀元前108年、前漢の武帝が朝鮮半島に楽浪郡を置く。中国の支店みたいなものです。それが朝鮮半島に置かれた。

【異説】 楽浪郡が設置されると半島および倭人楽浪郡朝貢するようになった。つまり列島漢の支配下に降ったのである。(古代倭王の正体 小林恵子 祥伝社 P39)



〇 日本は、東シナ海を横切って、中国まで行くのは遠すぎる。しかし、対馬海峡を渡って、朝鮮までだったら行ける。中国とお近づきになるためには、まず楽浪郡をめざせということになる。そしたら情報が手に入るぞと、やっさと行きます。



【中国】中国はこのあと約200年間、前漢です。それが紀元後8年にいったん潰れます。
そしてまた復活して、紀元後25年から後漢になる。この二つの漢で、200年たす200年で400年間です。
そして紀元3世紀になった。220年に後漢が滅びます。中国はここから大混乱時代が約400年続く。まず後漢が三つに割れる。・呉・蜀に。これを三国時代という。三国時代は約50年続きます。漫画でも小説でも有名な三国志というのは、この時代の歴史です。劉備玄徳とか、諸葛孔明とかが、出てくるのは、この時代の話なんですが、それは置いといて、日本はこの三国の魏に取り入ろうとしていく。
日本のことが、なぜ分かるのかというと、まだ日本にひらがなはないです。日本文字すらない。こう言うと、日本語もなかったなんて思う人がいますが、日本語はもちろんありますよ。言葉と人間は切っても切れないです。
文字もない、ひらがなもない、漢字もない。そういう国の歴史は普通は分からないんですよ。ギリシアだって、暗黒時代というのは、別に真っ暗で暴力団が横行したような時代ではなくて、文字がないから分からない時代なんです。ではなぜ、日本は分かるのか。文字をもっている国が、日本のことまで書いてくれたからです。中国は漢字をもっているから、どんどん中国の歴史書を書いている。その中国が日本のことまで書いてくれている。



【前1世紀】 話が飛びすぎました。もとに戻って、前1世紀、前漢の歴史書である「漢書地理志」に日本のことが出てきます。日本という国はまだないです。日本は中国から「」といわれている。これは誉めた意味じゃない。弱いとか、卑しいとか、ちんけな奴とか、ちょっと見下したような言い方です。日本がといわれていたことは、覚えておいてください。このあとも出てきます。
 
(筆者注) しかしこれには異説があって、「」は日本ではなくて朝鮮半島南部のことだ、とも言われます。その朝鮮半島南部の「倭」が日本の九州北部に乗り込んできて領土を広げ、そのため日本も倭の領土の一部として「倭」と言われるようになったというものです。こうなると「倭」というのは、朝鮮半島南部と日本の九州北部の両方を指す言葉になります。そしてその場合も「倭」国の中心は日本ではなく、朝鮮半島南部にあったことになります。
 


その中国の歴史書に、百余国にわかれている、そして朝鮮の楽浪郡によく来ていると、そういう記述がある。この百というのは、数えてちゃんと100あるという意味ではなく、100を数えるのが面倒だから、沢山という意味、沢山の国にわかれているというのが、百余国の意味です。

【出雲=大月氏】
【異説】 出雲大社が祀る大物主は同じ大月氏だが、休氏ではなかったらしい。紀元前109年、漢の武帝は雲南にあった土着勢力をテン国王に封じたが、この時、テン国側にあったのが大物主らしい。・・・・・・大物主武帝の承認を得て出雲地方に来たと考えられる。「新羅本紀」に葛文王という名が紀元24年に見えるところからみて、紀元前数十年のうちに出雲に定着していたようだ。・・・・・・大物主の勢力範囲は日本海側の越の国々から中国地方が主体だが、やがては大和地方に侵入し三輪山あたりを本拠としたらしい。(古代倭王の正体 小林恵子 祥伝社 P48) 


【北九州=扶余】
【異説】 中国では大武神高句麗初代と考えられているが、半島では朱蒙(しゅもう・チュモン)が高句麗・百済共通始祖とされている。朱蒙は解氏の扶余王に育てられたとあり、名は(すう)とある。(古代倭王の正体 小林恵子 祥伝社 P55)


【異説】 この(すう)を始祖として共有するのは高句麗馬韓だが、特に馬韓、後の百済は騶が扶余系であることから歴代、扶余氏を名乗っている。北九州の倭人国群は甕棺の扶余族とはよい関係にあった。
 それに対して半島の東側である辰韓・弁韓そして列島の日本海側の大物主の出雲勢力は、大月氏由来の犬戎の支配する国だったから扶余氏の南下は脅威になる。(古代倭王の正体 小林恵子 祥伝社 P56)


【異説】 高句麗始祖朱蒙扶余氏)は紀元前19年ごろから南下して日本海側にあった大月氏出身の出雲勢力(大物主・大国主・大穴持)を征伐した。さらに辰韓を征服した。この時期は紀元前後のことだったと推定される。(古代倭王の正体 小林恵子 祥伝社 P58)

【近畿=休氏】
【異説】 大夏休氏は・・・・・・武帝の南海制覇に押されて、かつての邪馬台国の領域に入り、さらに南九州の隼人を服属させて、近畿地方を制覇した。・・・・・・近畿地方到着の時期ははっきりいえないが、武帝が南海に兵を派遣した紀元前111年以後のいつの日か、おそらく紀元前1世紀の後半のことだろう。大夏の休氏は・・・・・・吉野の国樔(くず)であり、後に葛城氏といわれたのである。(古代倭王の正体 小林恵子 祥伝社 P47)



新「授業でいえない日本史」 1話の3 古代 1世紀(0年代)~3世紀(200年代)

2020-10-29 06:58:00 | 新日本史1 古代
【1世紀】 そのなかで、「後漢書東夷伝」によると、1世紀になると、初めて西暦でこの年というのがわかる。奴国が中国にやってきたと書いている。57年です。
これが今の福岡市ですよ。福岡市の入り口を流れる川の河口を那の津という。ナです。漢字はどうあろうと、ナの津という。福岡市の真ん中を流れる川を那珂川という。ナの川という意味です。男たちが大好きな夜のネオン街の中州を流れる川で有名です。九州一の繁華街を流れる那珂川です。そのナです。福岡市はナの国だった。

※【大月氏=奴国】
※【異説】 (大月氏休氏脱解は)葛城氏系で父親は多婆那国王をいうのだろう。・・・・・・葛城氏系の脱解の父親は大物主の出雲勢力に押されて丹波のどこかで細々と存在していたらしい。
 そこに(扶余族)解氏が出雲勢力を攻め滅ぼしたので、脱解も騶に降伏し、解氏の姓をもらって生き延び辰韓に亡命した。ところが騶は辰韓にも攻め込んだ。・・・・・・騶は大物主の出雲勢力を滅ぼし、ついでに反扶余の辰韓王赫居世(かくきょせい)を降伏させた。・・・・・・騶は親漢の馬韓、北九州勢力を残して大物主の出雲勢力を滅ぼし、残存休氏辰韓に追放した。さらに、休 (葛城)氏系の辰韓王を服属させたのである。・・・・・・騶から逃げて辰韓に亡命し、辰韓の実権を握った脱解は騶が殺されると、たちまち旧出雲地方に定着した騶勢力、つまり扶余の解氏に反抗を始めたらしい。・・・・・・騶の後継者である残存していた騶勢力が侵攻してきたのである。この戦いで、初めて脱解の辰韓完勝した。倭人とあるのは倭国から来たという意味で、この場合、日本海側に住む騶(扶余解氏)側の侵攻と捉えるべきである。・・・・・・
 さて、辰韓が騶勢力に攻められた紀元14年・・・・・・騶勢力に完勝した脱解はこの機を利用して日本海沿いの解氏勢力を平定したらしい。・・・・・・(後漢の)光武帝は騶の勢力下にあった列島の日本海沿いを征伐した脱解の行為を嘉(よみ)したか、脱解高句麗王として公認した。大武神である。中国の資料で高句麗王初代が大武神なのは、このような理由による。同時に高句麗王になった脱解は「解氏を脱した」のである。(古代倭王の正体 小林恵子 祥伝社 P60~)

※【異説】 (紀元)44年9月に、今度は光武帝が海上から大武神が占拠する楽浪郡を討ち、高句麗軍を追い払い、郡県を整備した。「高句麗本紀」には同年10月に大武神は没したとある。・・・・・・
 私は、大武神は死んだのではなく、列島に亡命したと思う。大武神は半島の東海岸から海上、故郷の丹波に帰り、丹波を拠点として北九州を攻め、早良国などを滅ぼし、奴国を建てたと考えている。57年正月、奴国は後漢に朝貢した。・・・・・・
 後漢は一旦、大武神を高句麗から追放したが、今度は奴国王に任命した。そして同年、脱解は辰韓王にもなったという。脱解は高句麗王としては追放されたが、奴国辰韓王を兼務したのである。(古代倭王の正体 小林恵子 祥伝社 P66)

※【異説】 スサノオは日本列島に現れる直前、じつは新羅に舞い降りていた。・・・・・・(「三国史記」の「新羅本紀」によると)脱解尼師今(だっかいにしきん)は新羅第四代の王に当たる。62歳で王位に就いた(西暦57年)という。ちなみに尼師今(にしきん)とは、新羅では古くは「王」をさしていた。・・・・・・脱解王(新羅第四代の王)は倭人であり、しかも脱解王の伝説が日本でも語り継がれ、これをモデルに「スサノオ」の神話が生まれたのではあるまいか。・・・・・・
 弥生時代、丹波のあたりから、さかんに朝鮮半島南部に向けて鉄を採りに出かけていった人はいるだろうし、その中のひとりが脱解王であったとしても、なんの不思議もない。・・・・・・まるで脱解王の命運を語り継いだかのような伝承が、まさに「丹波」に残されているからだ。もちろん、誰もが知る、浦島太郎伝説である。・・・・・・浦嶋子が「丹波」から海に向かっていたことも、理由のないことではなかっただろう。
 脱解王が日本海側の「多婆那」(筆者注、脱解王の出身国、丹波)から新羅に向かった姿を彷彿とさせるのである。とどのつまり、武内宿禰=天日槍とは、脱解王の末裔だったのではあるまいか。(蘇我氏の正体 関裕二 新潮文庫 P244~)

※【異説】 大武神を逆さにすれば神武である。私は「記紀」にいう神武天皇の第1のモデルと考えている。(古代倭王の正体 小林恵子 祥伝社 P69)

※【異説】 神武天皇のルーツは神ではなく、亀茲(クチャ)から来た大夏氏系の休氏だったようだ。(古代倭王の正体 小林恵子 祥伝社 P72)

※【異説】 「やすみしし」とは「万葉集」では天皇にかかる枕詞だが・・・・・・「やすみしし大王」の意は「休氏である大王」という意味である。ないとされる天皇の本姓は「」だったのである。(古代倭王の正体 小林恵子 祥伝社 P41)



そこの王が中国に朝貢して、印綬をもらった。印綬というのは、印鑑ですね。これが何で重要なのかというと、オレは中国からもらった印鑑をもっているということが大事なのです。それによって中国の権威を借りる。そういうふうな小さな国々が、近隣の国と張り合いながら、より優位な立場に立とうとしていた。しかも、この印鑑が有名なのは、それが忘れられてから1800年後の江戸時代に、偶然に福岡市の志賀島で発見されたからです。志賀島は、いまは陸続きになってますが、福岡市郊外にある島です。公園とかがあって、ドライブコースの先に志賀島があるんですよ。
そこを農民が鍬で畑を耕していたら、ガツッといった。何やろかと思って見たら、岩があって岩二つの間に挟まれて、金印が出てきた。その岩は、たぶん支石墓で、古代の墓の一種だろうといわれるけど、そこらへん分からないです。
掘り出して取り出したら、これは金だ、印鑑だ、と言って持ち帰った。しかしそのうち怖くなって、役所に届けたんです。何だろ、分からんといいながら、見る人が見ると、これは大変なものだということになって、今の定説になっている。千何百年前の中国の記録にあるのがこれだ、と。その金印には何と書いてあったのか。これが「漢委奴国王」です。「かんの、わのなの、こくおう」と読んだんです。「の、(わ)の(な)の、国王」と。漢が「おまえを倭の奴(な)国の国王だと認める」という2~3㎝の小さな印鑑です。という文字に人偏が足らないのは、小さい印鑑なので、ここに五文字を掘るのは、画数が多すぎて、省略したんだろうということです。
しかし、これには異説があって、倭の奴じゃない、福岡市よりもその西の方がもっと栄えていた、それに壱岐・対馬には西の方が近い。今でもそこにはちゃんと糸島(イトシマ)半島がある。「委奴」はその島の「イト」と読むんだ。「漢のイトの国王」なんだ。糸島のほうにも古墳とかいっぱいあって、この2説が対立している。
これは、たまたまじゃなくて、文化は中国大陸に近い西からやって来る。東京、大阪、奈良、京都、こんなところに最初から行きません。太平洋側は、朝鮮半島から見れば、誰も行かない死の海です。さいはての地域です。四国南端の室戸岬などは、国道ができる最近まで、行くのが難しかったところです。だから九州北部にしか来ない。九州北部は日本の文化の最先端です。特に玄界灘沿いはそうです。
それから次は背振山系です。これは山が浅いです。すぐ来れる。ここには吉野ヶ里があります。理屈にあっている。ここは文化の最先端です。邪馬台国=吉野ヶ里説というのが、あるんです。これは可能性は0%ではない。ここから日本が開けていくというのは理屈にあっています。

 吉野ヶ里は、邪馬台国以前からあった王国です。吉野ヶ里は紀元前4世紀に成立しています。そこに邪馬台国が乗り込んでくるから、話が複雑になるわけです。吉野ヶ里も邪馬台国も朝鮮半島の影響なしでは考えられません。吉野ヶ里は朝鮮南部の人々が渡ってきて住みついた村だと言われます。邪馬台国も吉野ヶ里と同じ九州にあったのではないでしょうか。なぜなら、朝鮮半島から人が日本に乗り込んでくるとき、直接、奈良や京都に行くのは無理なんです。まずは九州北部を拠点にすることが、軍事的にもっとも自然な考え方です。



【2世紀 100年代】 107年10月、倭国王帥升(すいせい)が、後漢に生口(せいこう、奴隷)160人を献じて、会見を願い出たといいます(『後漢書東夷伝』)。
 さらに『後漢書東夷伝』は2世紀後半に、倭国大乱が起こったと記しています。日本で発見される高地性集落はこの頃のものだとされています。

※【異説】 後漢で107年10月、倭国王帥升(すいせい)が生口(せいこう)160人を献じて会見を願い出たという(後漢書東夷伝)。倭国王帥升とは脱解にあたる人で、列島を代表する奴国王のことだろう。(古代倭王の正体 小林恵子 祥伝社 P75)


※【異説】 146年に奴国を去った帥升こと遂成高句麗王になった。(古代倭王の正体 小林恵子 祥伝社 P80)

※【異説】 谷川(健一)氏は、この倭国大乱の時、物部氏が(九州から畿内に)東遷したと考えている。倭国内部の政治社会は再編成を余儀なくされ、物部氏は北部九州からヤマトに移動した、というのである。(物部氏の正体 関裕二 東京書籍 P82)

※【異説】 「日本書紀」に従えば、神武天皇がヤマトに入るよりも早く、物部氏の祖・ニギハヤヒの命がヤマトに舞い降り、土着のナガスネ彦の妹を娶り、君臨していたという。(物部氏の正体 関裕二 東京書籍 P22)

※【異説】 奈良県桜井市三輪山麓のの大神(おおみわ)神社の主祭神は大物主神であり、物部氏と関係があるとされます。(物部氏の正体 関裕二 東京書籍 P35前後参考)



【3世紀 200年代】
【邪馬台国】 3世紀になると、204年に後漢は朝鮮半島の楽浪郡の南に帯方郡を設置します。ここまでが中国の領土になります。
 しかし、そのあと220年後漢は亡びます。
 中国は、の三国時代に入っていきます。
 中国の力が弱まると、朝鮮半島南部に、馬韓・辰韓・弁韓という三つの地域が成立し、それぞれ小国が分立していきます。

 日本は帯方郡を通してに朝貢します。三国時代の魏に本格的に近づいていくのが、有名な邪馬台国です。このことは中国の『魏志倭人伝』に記されています。

▼ 3世紀の東アジア


 邪馬台国のことは、聞いたことがあると思います。時代は、ちょうどそのころ三国時代が始まる3世紀です。3世紀は200年代です。そこには、男の王じゃなくて、女王が国を治めていた。
 有名な人です。誰ですか。卑弥呼(ひみこ)です。「卑しい」という字、これは宛て字です。倭を蔑んでいるから。卑弥呼にも汚い字を書く。本当は、これは日の巫女じゃないかな。巫女さんは、神社にいるでしょ。女性の巫女さん。たぶん日の巫女ですよ。これは宛て字です。宛て字も何も、日本には字がないんだから。中国人が宛て字しただけです。
 卑弥呼は239年に魏に朝貢し、魏から「親魏倭王」の称号を受けます。


※朝鮮の歴史書である「三国史記」の「新羅本紀」には次のような記述がある。
173年、倭の女王卑弥呼新羅に使いを遣わして、修好した」

※【異説】 卑弥呼を含めた巫術者許氏一族は・・・・・・呉の支配する江南を一度出て南インド洋から東シナ海に入り、北上して奄美大島から北九州に亡命したと推定する。・・・・・・私は卑弥呼一族を受け入れたのは北九州で、大国だった奴国ではなく、卑弥呼の墓に比定されている平原遺跡のある伊都国だったと思う。(古代倭王の正体 小林恵子 祥伝社 P84)




この邪馬台国は、約30国の連合王権です。各地の王は、そのまま残っていて、王の中のナンバーワンの王、が卑弥呼です。女がなぜ王なのか。たぶん神のお告げでしょうね。「キタキタキタ、神が」とか言うわけです。「鬼道につかえ、よく衆を惑わす」とありますから、宗教的な権威です。王の第一条件は神の声を聞けることです。
しかも卑弥呼は独身です。独身であることの宗教的な意味は、神に仕える身だから、他の男と交わることはできないということなのでしょう。しかし、その政治的な意味は、子孫を残すことができず、その王権を親から子へと世襲することができないということです。
政治の実務は弟が執っていたらしい。この弟が本当は王だったのではないかという話もあります。
日本神話では、天皇家の皇祖神は天照大神(あまてらすおおみかみ)とされていますが、このアマテラスは性別があいまいなところもありますが、女の神様だとされています。このアマテラスの原型が、この卑弥呼なのではないかとも言われます。
この謎は、この国がどこにあったのか、今でもわからないことです。どこにあったのか、二説あって、一つが近畿説。これは奈良周辺です。もう一つは北部九州説です。九州の人間は九州説をとりたいですけどね。大阪あたりの人は、近畿説をとるんです。お国自慢ですね。東京はというと、意外と九州びいきです。
文化面からいうと、朝鮮半島に近いのは近畿じゃなくて九州です。そこからまず国が始まってもおかしくはない。弥生時代以降、朝鮮半島からいっぱい人が九州北部に渡ってきていますから。
邪馬台国=近畿説、最近はそれが有力になっていますが、本当なんでしょうか。

※【邪馬台国の位置】
※【異説】 野田利郎氏は「末廬国」を唐津周辺としながら、方位で東南に「五百里」進んだ佐賀市大和町周辺に「伊都国」を比定した。(古代に真実を求めて 第24集 卑弥呼(ひみか)と邪馬壹国(やまゐこく) 谷本茂 古田史学の会編 明石書店 2021.3月 P25)

※【異説】 野田利郎氏は「『邪馬台国』と不弥国の謎ー倭人伝の国々の真実ー」(2017年6月刊 私家版 キンドル版をアマゾンで購入可能)で、女王国を不弥国とし、邪馬壹国の領土内に不弥国(女王国)があったとする。女王国吉野ヶ里遺跡とした説である。(古代に真実を求めて 第24集 卑弥呼(ひみか)と邪馬壹国(やまゐこく) 谷本茂 古田史学の会編 明石書店 2021.3月 P33)

※(筆者注) 『魏志倭人伝』の「自女王国以北特置一大率検察諸国畏憚之常治伊都国」の読み方は、
①「女王国より以北に特に一大率を置き、検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す」
これが通常の読みであるが、野田利郎氏は違った読み方をしている。
②「女王国より以北は、特に一大率を置き検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す」
これをもとに意味を考えてみると、
①では、「女王国より北に特別に一大率が置かれ、検察させている。諸国はこれを畏れ憚る。一大率は常に伊都国で政治をとっている」。
伊都国は今の福岡県糸島市を想定しており、一大率は伊都国に置かれ、女王国はその南にあることになる。
②では、「女王国より北は、特別に一大率を置いて検察させている。諸国はこれを畏れ憚る。一大率は常に伊都国で政治をとっている」。
伊都国は今の佐賀県佐賀市大和町を想定しており、女王国の北は、一大率が置かれた場所ではなく、一大率が検察する対象地域である。その一大率は伊都国に置かれている。一大率が置かれた伊都国は、山を越えた「女王国以北」(糸島)どころか、もっと女王国の近くにある。
ではその女王国はどこか。野田利郎氏は、伊都国(佐賀市大和町)の7~8キロ東の不弥国(吉野ヶ里)だとしている。

※【異説】「邪馬台国は福岡県朝倉市にあった」安本美典 勉誠出版 参考


※【異説】 私見も邪馬台国は御井郡や山門郡といった高良山(福岡県久留米市)の周辺にあったと考えている。(物部氏の正体 関裕二 東京書籍 P77)

※【異説】 筆者は、「邪馬台国は山門県(みやま市)」と考え、神功皇后が山口県側から「奴国の手引き」で北部九州に乗り込み、沿岸部の首長の恭順を引き出し、その上で南下して邪馬台国の卑弥呼を討ち取ったと考えるが、纒向型前方後円墳の分布域は、まさにこの神功皇后の「九州における勢力圏」に、見事に重なってくる。(磐井の乱の謎 関裕二 河出書房新社 P79)



その後、卑弥呼は日蝕の責任を問われて、殺されたという話もあります。神のお告げをきくというのは危険な仕事です。神のお告げの通りにならないと、その責任を問われて、王が殺されます。それは世界史的にも珍しいことではありません。
次の王はまた女性です。卑弥呼の宗女というから養女なのでしょう。壱与(イヨ、トヨ)といいます。我々には、王権は男に受け継がれるというイメージがありますが、そうはなっていないのです。この王権は、女性から女性へと引き継がれています。


※【トヨのこと】
※【異説】 北部九州の一帯には、「豊比咩(とよひめ)(豊姫)」を祀る神社が方々にある。特に、筑後川流域に多い。・・・・・・「豊比咩」とは、卑弥呼に次いで邪馬台国の女王となった台与のことと考えられる。(古代史 闇に消えた謎を解く 関裕二 PHP P200)

※【異説】 本稿では『風土記』と地方伝承の多元史観による分析で、ある人物の同定を試みた。その人物とは、『肥前国風土記』に「世田姫」と記され、同逸文では「與止姫(よとひめ)」あるいは「豊姫(ゆたひめ)」「淀姫(よどひめ)」とも記された、肥前国一宮河上神社(與止日女神社)の御祭神である。ちなみに、近畿の大河淀川の名はこの與止姫神を平安初期に勧請したことに由来しているという。そして、この『肥前国風土記』や地方伝承に現れた與止姫に比定した人物は、卑弥呼の宗女邪馬壹国の女王に即位した壹與である。『魏志倭人伝』に記された倭国の二人の女王。その一人、卑弥呼が『風土記』に甕依姫(みかよりひめ)として伝えられているなら、もう一人の女王壹與が『風土記』に記されていたとしても不思議ではない。幸いなことに、壹與に比定を試みた與止姫は現在も地方伝承として、あるいは後代史料に少なからず登場する。(古代に真実を求めて 第22集 倭国古伝 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 2019.3月 P53)

時間探偵。発見! 邪馬台国の末裔 與止日女 女神伝説


※【番外編 参考】
※【異説】 高良山周辺にしばらく君臨していたトヨ(この一帯に、「豊比咩(とよひめ)」を祀る神社の密集地帯があるであったが、彼女はヤマトに裏切られ、筑後川を一気に下り、そのまま海路鹿児島県の野間岬を目指した疑いが強い。そして、この逃避行こそが、「出雲の国譲り」であると同時に天孫降臨そのものだったと考えられる。「日本書紀」の神話は、一つの同じ事件を二つの神話に分け、ヤマト建国にいったい何が起きていたのか、すべてを闇に葬ったわけである。
 ではなぜこのときのいきさつを「日本書紀」が必死に隠匿したかというと、それは、トヨ(神功皇后)の夫の正体に問題があった。それは仲哀天皇だったと「日本書紀」に書かれているが、じっさいには武内宿禰であり、蘇我氏の祖だった。そして、2人の間の子が応神天皇であり、これは神武天皇と同一人物であった。ヤマト建国時の大王が蘇我系であったことを、「日本書紀」はあらゆる手段を駆使して隠匿しにかかったというのは、こういう事情があったからだ。(蘇我氏の正体 関裕二 新潮文庫 P182)
 

※【異説】 結論だけ言っておくと、天日槍とトヨ(神功皇后)は、山陰地方の力を結集し北部九州に乗り込み、邪馬台国のヒミコを殺して親魏倭王の称号を獲得したが、トヨ(神功皇后)が、魏の滅亡後ヤマトに裏切られ、南部九州に逃れたと考える。そして、これが天孫降臨神話の真相だったのではないか、と思うのである。
 つまり、トヨ(神功皇后)の子(あるいは末裔)が神武天皇で、応神天皇と同一人物だと、考えられる。ではなぜ、トヨはヒミコの宗女を名乗ったのかといえば、ヒミコは親魏倭王であり、ヒミコ殺しが魏に伝われば、ヤマトは魏に攻め滅ぼされる危険があったからだ。そこで、「トヨはヒミコの宗女だから王位を継承した」と偽ることによって、難を逃れたのだろう。だが、この偽装が仇となった。トヨを九州に派遣したヤマトの本当の実力者にとって、トヨは邪魔になったのではなかったか。・・・・・・
 さらに、このとき山陰勢力(神話の出雲)を追いつめたのは、「吉備」と「東海(+近江)」だった疑いが強い。・・・・・・
 そして神武(応神)東征とは、一度は「出雲潰し」に走ったヤマトが「出雲神やトヨの祟り」におびえ、トヨ(神功皇后)の末裔の貴種を、南部九州から呼び寄せ、司祭王として迎え入れたものではないかと、考えるのである。・・・・・・
 当然、ヤマトの中心に立っていた吉備は、トヨを邪魔にしただろうし、両者は一触即発の緊張感の中にあったに違いない。そして、大和+吉備は、トヨを裏切り、この結果、朝鮮半島南部の国々をに回してしまったと推測できる。(消えた出雲と継体天皇の謎 関裕二 学研 P132)

※【異説】 神功皇后(トヨ)が3世紀のヤマト建国の犠牲になり、ヤマトに裏切られた・・・・・・神功皇后とその子が祟る神と目され、「トヨの国=宇佐」の地で祀られていた可能性は非常に高い。(蘇我氏の正体 関裕二 新潮文庫 P210)



※【異説】 弥生後期から3世紀の大和建国の時代、北部九州は次第に衰弱し、しかも早い段階で「出雲」との交流を深め、「纒向」の出現後は新たな潮流を素直に受け入れていた疑いが強くなってきた。・・・・・・ところが筑紫平野の南方には、激しくヤマトに対抗しようとする勢力が残された。それが、邪馬台国の卑弥呼を盟主とする国々にほかならない。北部九州の軍事と流通の要衝となる高良山(福岡県久留米市御井)から女山(ぞやま)(福岡県みやま市瀬高町大草字女山)にかけての一帯を城塞化し、「親魏倭王」の称号を獲得してヤマトに対峙した卑弥呼であったが、「出雲(+ヤマト)」のトヨが長駆遠征し、これを滅ぼしたと考えられる。・・・・・・
 どうやら神功皇后の正体は、邪馬台国の女王トヨだったようだ。そして「日本書紀」には、神功皇后が北部九州になだれ込み、しかも山門県(やまとのあがた)(福岡県みやま市)の女首長を討ち取って九州征伐を終えたと記録している。この「山門県」こそが、邪馬台国北部九州論の最有力候補地で、「山門の女首長」とは、ようするに「魏志倭人伝」に言うところの卑弥呼のことであろう。ところで「魏志倭人伝」によれば、卑弥呼の死を受けて男王が立ったが、国中服さず戦乱が起き、やむを得ずトヨが女王として君臨したとある。考古学的に言うと、その直後に、「纒向の画期」がやってきていたことになる。つまり、ヤマトの発展は、まずトヨヒミコ殺しによってもたらされたわけである。(蘇我氏の正体 関裕二 新潮文庫 P182)

※(筆者注) 『日本書紀』は「神功皇后紀」に次のように記述する。
「二十五日、移って山門県(やまとのあがた)にいき、土蜘蛛の田油津姫(たぶらつひめ)を殺した。田油津姫のの夏羽(なっぱ)が兵を構えて迎えたが、の殺されたことを聞いて逃げた」(日本書紀 上 全現代語訳 宇治谷孟 講談社学術文庫 P187)
しかし大和の神功皇后が、女性ながらに大和から軍を率いて九州討伐にやってくることの不自然さの説明は何もない。

※【異説】 考えられることは、急速に出雲吉備が発展し、ヤマトに纒向遺跡が完成したことによって、それまで鉄器を独占していた北部九州の諸勢力は、ヤマトになびく者とヒミコを仰いでヤマトに対抗する者に分かれた、ということである。そして、高良山(福岡県久留米市御井)という天然の要害に守られた筑後川南岸の山門県の人々は、魏に朝貢し、親魏倭王の称号を獲得し、虎の威を借りようとしたということだろう。これが「魏志倭人伝」にいう邪馬台国である。

 ところが、ヒミコらのもくろみは、裏目に出たようなのだ。というのも、畿内のヤマトから遣わされた女傑の活躍によって、ヒミコは滅ぼされていた可能性が高いからだ。その女傑こそ、「日本書紀」に登場する神功皇后であり、「魏志倭人伝」にいうところの「卑弥呼の宗女・台与(とよ)」ではないかと、考えられるのである。
 神功皇后は第15代応神天皇の母だ。ヤマト建国時の大王は第10代崇神天皇というのが通説で、また崇神天皇は初代神武天皇と同一人物と考えられているのだから、第15代応神天皇の母親が、邪馬台国の時代と重なるはずがないと、思われるかもしれない。けれども、「日本書紀」は、ヤマト建国時の話を、神武、崇神、応神の代の三つに分けて語っていると考えられる。その証拠に、神武東征と応神東征は、鏡で映したかのように、よく似た事件である。(消えた出雲と継体天皇の謎 関裕二 学研 P128)

※(筆者注) 
トヨ=ヤマトの女傑、この必然性は疑問。
トヨ=神功皇后、これはありうる。
トヨは卑弥呼一族の宗女として邪馬台国を発展させた、ととらえるのが自然。
『日本書紀』を書いた8世紀の大和朝廷にとって、トヨは敵。
この敵を味方として描くために、仲哀天皇の妻として神功皇后が創作された。
しかし本当は妻ではなかったから、夫役の武内宿禰の創作が必要になる。

※(筆者注) 「トヨの国」がどうなったか。「トヨの国」といえば「豊の国」で、「豊前」と「豊後」ですが、北九州から大分まで全部「豊の国」です。奈良時代の道鏡事件にみるように、「豊前」の宇佐八幡宮がなぜあんなに力をもっているのか。宇佐八幡にはトヨ(神功皇后)とその息子の応神天皇が祭られています。その後、大和に入り、応神天皇は大和で即位します。

※【異説】 こののちヤマトの地で、天変地異が相次ぎ、疫病が蔓延し人口の半分以上が死に果てるという惨状に見舞われ、トヨの祟りにほかならない、ということになった。このことは「日本書紀」や「古事記」には、崇神天皇の時代の事件であったといい、「日本書紀」は大物主神の仕業とも、また「古事記」は、「出雲神の祟り」としているが、ここにある出雲神の本当の正体は、裏切られた「トヨ」であり、武内宿禰にほかならない。(蘇我氏の正体 関裕二 新潮文庫 P185)




※【大和朝廷】
※【異説】 古代王権のありかとして、大和王権九州王権出雲王権(島根県)の三つがあります。これに加え、吉備王権(岡山県)を考える場合もあります。さらに九州王権には、朝鮮王朝との関係がからんできます。

※【纒向(まきむく)遺跡】 奈良県桜井市の三輪山の北西麓一帯にある、弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡。国の史跡に指定されている。3世紀に始まる遺跡で、一帯は前方後円墳発祥の地とする研究者もいる。邪馬台国の中心地に比定する説があり、箸墓古墳などの6つの古墳が分布する。(ウィキペディアより)

※ 纏向には、吉備、山陰、東海、北陸、北部九州といった各地方の土器が続々と集まっていた。そして、纏向周辺に、やはり各地の埋葬文化を習合させた前方後円墳が出現し、この新たな埋葬文化が、一気に日本各地に伝播していったわけである。このような纏向のあり方にもっとも強い影響を及ぼしたのが、吉備だった。纏向の集落は3世紀の初頭に忽然と出現したのだが、3世紀の前半は、吉備の文化が中心的存在となって、大きなまとまりを形成していた可能性が高い。というのも、吉備では弥生時代後期にすでに前方後円墳の前身となる墳丘墓が誕生していたし、その墳丘墓上で執り行う首長霊を祀る儀式、その際使われる特殊器台形土器といった文化が、纏向で採用されていくからである。・・・・・・
 ところが、3世紀の後半になると、どうやらヤマトの主役は入れ替わっていた可能性がある。それが、最後に残った山陰地方だ。纏向遺跡にはひとつの画期があって、3世紀の後半に突然、発展をし規模を拡大させている。そして、このとき、土器にも変化があった。山陰地方の土器の影響を受けた布留式土器が出現し、この土器様式が日本各地に伝播し、画一性が起きてくる。(蘇我氏の正体 関裕二 新潮文庫 2009.5月 P176)

※【異説】 次のような説がある。すなわち、天然の要害・ヤマトがひとたび勃興すれば、北部九州は手も足も出なくなると考え、関門海峡を封鎖し、鉄器の流通を制限した、というのだ。そして、協力を請うために出雲吉備に、鉄器を流したという。・・・・・・ところが、この策が裏目に出たようなのだ。富を蓄えた出雲と吉備が周辺諸国を巻き込み、ヤマトに新たな拠点を作ってしまった疑いが強いのだ。これがヤマト建国ということになる。・・・・・・弥生時代後期、北部九州あるいはヤマトのどちらかが、他を圧倒するほど強く、征服戦によってヤマトが建国されたとは考えられない。(古代史 関裕二 PHP P80)
山陰地方に鉄器が流入してくる。すると日本海側から陸路吉備に物資が運び込まれる。吉備は瀬戸内海の流通の集散地になり、纒向に進出する。(古代史 関裕二 PHP P81)

※【異説】 3世紀後半から4世紀にかけて、ヤマトは建国された。ただし、ひとりの征服王がヤマトを建国したわけではなく、むしろ多くの首長たちの手で、王が担ぎ上げられていた。なぜこのようなことがいえるのかといえば、ヤマトの纒向にはいろいろな地域の土器が集まってきたこと、ヤマト建国の象徴である前方後円墳も、同様に各地の埋葬文化が集合して完成していたからである。
 つまり、ヤマトの王は首長連合の盟主であり、強い権限が与えられていたかどうか、じつに怪しい。神武東征はけっして強い征服王のそれではなく、何度も挫折を味わう悲惨な旅程を経験している。そして、神武東征が実際には「呪いの勝利」であったこと、ヤマトを支配していた饒速日命(にぎはやひのみこと)(物部氏の祖)が、王権を神武(天皇)に禅譲していたと「日本書紀」はいい、これが司祭王としての神武の誕生であったことは、他の拙著で述べてきたことである。
 要するに、ヤマト建国時の方は神事を託されたのであり、出雲神となんら変わるところがないのである。ついでにいうと、「神武天皇は零落した出雲系首長の末裔」というのが私見の骨子である。(消えた出雲と継体天皇の謎 関裕二 学研 P104)

※【異説】 3世紀後半から4世紀にかけて、前方後円墳が出現し、各地の首長(王)たちが新たな埋葬文化を受け入れ、ゆるやかな連合体が生まれた。これがヤマト建国だ。弥生時代後期の「倭国大乱」と呼ばれた混沌を、もののみごとに制した不思議な事件でもあった。ただし、みなが望んだ理想の国だったかというと、それは怪しい。ヤマトは北部九州を潰しにかかっていたし、その後、瀬戸内海と日本海が、流通ルートの主導権争いを演じ、禍根を残した。この争いは北部九州にも大きな影響を及ぼしている。ヤマト建国をめぐるいさかいの中で、第1回目は山門県(邪馬台国)が被害を受け、第2回のヤマトの内紛によって、旧奴国が没落したと思われる(拙著「神武天皇VS卑弥呼」)。また、玄界灘の沿岸部はヤマト政権に恭順し組み込まれていったのである。
 ただし、5世紀後半、次第に筑後が発展をはじめ、急速に成長していった。当初はヤマト政権側も、これを黙認していたのであろう。しかし、いつの間にか筑後勢力は、化け物になり、最後は反乱を起こすに至るのである。(磐井の乱の謎 関裕二 河出書房新社 P89)


※【朝鮮の王たち】
※【百済の肖古王】 肖古王は百済の第5代の王(在位:166年 - 214年)であり、先代の蓋婁王の子。(しょうこおう、生年未詳 - 214年)。子に仇首王。先代の蓋婁王の末年より新羅との交戦態勢に入っており、しばしば新羅と戦った。(ウィキペディアより)
「日本書紀」には神功皇后の55年に「百済の肖古王が薨じた」とあります。肖古王の死は214年ですから卑弥呼の時代と重なり、神功皇后は卑弥呼をモデルとしていることになりますが、神功皇后が実在かどうかは分かりません。神功皇后が生んだ応神天皇4世紀後半の人だといわれますから、実際には120年ほど時代をさかのぼらせて書かれているようです。

※【異説】 百済仇首王(きゅうしゅおう、在位:214年 - 234年)が、九州北部に乗り込んできて、伊都国をつくり、邪馬台国連合をまとめたという説もあります。卑弥呼はその百済王の仇首王の妃ではなかったかとされています。このとき九州の各小国は、百済王を支持します。たぶんそれ以前から百済は九州の各小国と連絡を取り合っていたのでしょう。
そんななかで、吉野ヶ里王国は邪馬台国に圧迫されて国を譲り渡し、そのあと中国地方を経て大和へ移動したとされます。そしてその王権が、5世紀に畿内の巨大古墳を造営するまでに成長したというものです。

※【百済の仇首王】 仇首王は百済の第6代の王(在位:214年 - 234年)であり、先代の肖古王の長子。
蓋婁王・肖古王に引き続き、新羅との交戦が続いた。新羅へは218年7月に攻め入って獐山城(慶尚北道慶山市)を包囲したが、新羅王(奈解尼師今)の反撃を受け、敗退した。222年10月には牛頭城(江原道春川市)に侵入して略奪し、迎え撃つ伊伐飡(新羅の1等官)の忠萱を熊谷(江原道春川市東南の甘渓)で大破した。224年7月には一吉飡(7等官)の連珍が侵入してき、烽山(慶尚北道栄州市)で迎え撃ったが敗北を喫した。(ウィキペディアより)



農耕社会は、母系制をとる社会が多くなります。狩猟・採集の社会では、狩猟はおもに男の仕事ですが、採集はおもに女の仕事です。農耕は、植物の採集から発展したものです。すると当然女性の力が強くなるわけです。家も、母から娘へと受け継がれることが多くなります。そのようなことが、王権が女性から女性へと受け継がれることに影響しているのかもしれません。そのあたりの弥生時代の社会は、よく分かっていませんが。
少なくともここでは、王権の男系世襲、つまり王権が父から息子へと受け継がれるスタイル、それが確立していないことは確かです。
先のことをいうと、200年後の5世紀には、いつの間にか王権の男系世襲が確立しています。その間に何があったのか、謎のままです。中国史書は、このあと約150年間、何も語りません。

続く。

新「授業でいえない日本史」 1話の4 古代 謎の4世紀(300年代)の1

2020-10-29 06:57:30 | 新日本史1 古代
【4世紀 300年代】
【朝鮮半島】 4世紀になると、朝鮮半島南部にも国が成立します。

313年に、高句麗が中国支配下の楽浪郡を滅ぼします。

※ 西暦313年、楽浪郡と帯方郡が、高句麗、百済それぞれに併呑され、消滅した。谷川健一氏は、この事件が、邪馬台国東遷の契機になったと主張する。(物部氏の正体 関裕二 東京書籍 P82)



〇 346年に、百済馬韓地方を統一。

356年に、新羅辰韓地方を統一します。
朝鮮半島南端の弁韓地方は加羅(伽耶)諸国といって、小国の動きが活発化していきます。

※ 黄海海域は4世紀から6世紀に、「五胡」と呼ばれる騎馬遊牧民の「中原」占領により激変した。ユーラシア世界では、遊牧民が仕掛けた戦争、征服が社会変動の一大契機になっているが、東アジアもその例外ではなかった。漢帝国の長期にわたる崩壊過程の中で起こった激動が、海域を含む東アジア世界への漢人の大規模な移住を生み出したのである。
「中原」から追い出された漢人の江南、朝鮮半島、黄海周辺への移住が、黄海を「民族の移住と交流の海」に変えた。世界史で大きく取り上げられる「ゲルマン民族の大移動」をはるかに上回る漢人の移住の波が黄海周辺に及び、玄界灘交易圏などの黄海、東シナ海のローカルな交易圏が相互に結びつきを強めていくのだが、天命と易姓革命に基づき天下を描く中国の史書にはその意義をくみ取る視点がない。
世界史の視点で見ると、3世紀から5世紀は、騎馬遊牧民がヨーロッパ、西アジア・インド、東アジアを激変させた時代だった。つまり、
ゲルマン民族大移動がローマ帝国西部をゲルマン社会に変え、476年に西ローマ帝国が滅亡、
②5世紀から6世紀のエフタルの侵入により、西アジアのササン朝が弱体化し、インドのグプタ朝が滅亡、
「五胡」(北方の5つの騎馬遊牧民)の黄河中流域進出に伴う東アジア世界の混乱と拡張が、ほぼ同時に展開されているのである。
東アジアでは、五胡十六国時代(304~439)が約130年間続き、同地域から押し出された漢人が長江流域、朝鮮半島、黄海海域などに波状的に移住し、中華帝国のタガが一時的に外れた。そうした中で、日本列島の面貌も一新されていく。(「海国」日本の歴史 宮崎正勝 原書房 P29)

※ 4世紀には遺跡からのウマの骨の出土が増加する。「倭人伝」にはウマの記述がないため、ウマはこの時期に列島にもたらされたものと考えられている。(「海国」日本の歴史 宮崎正勝 原書房 P31)



▼ 5世紀の東アジア


前に言ったように、この朝鮮半島南端と九州北部は同じ一つの国だった可能性があります。言葉も通じ合っていたとも言われます。九州北部の唐津にはいまも「チング」という言葉があります。友だちを意味します。韓国語で友だちは「チング」と言います。




【ヤマト政権】 では邪馬台国=近畿説がなぜ出てくるのかというと、朝鮮半島で百済や新羅が成立したのと同じ4世紀になると、そこに所在も場所もはっきりした一つの政権が誕生するからです。これがヤマト政権です。これははっきりしています。
どこで生まれたかというと、大和の名のとおり大和地方です。旧国名の大和国は、今の何県だったか。奈良県です。奈良地方に誕生した。
ではその奈良に誕生したというのが、なぜ分かるのかというと、とても大きな日本独特の古墳が発生するからです。王様が死ぬと、日本は、インドみたいにガンジス川に流したりしないんですよ。エジプトのピラミッドも王の墓ではないのじゃないかという異説も強いけれども。大がかりなお墓を造って、お墓にお金をかけるというのは、我々の感覚からみると珍しいかもしれないけど、昔はこれが当然じゃないかな。人間が今までやって来たことから言って。
沖縄の人なんかそうです。家の形をした大きな墓を今でもつくる。沖縄の墓は大きいです。墓にお金をかけるということは、変なことじゃないです。別にかけなさいといってるわけじゃないけど。
人間が何千年もしてきたことを見ると、歴史的には、死んだあとの墓にお金をかけることは、非常に自然なことです。墓にお金をかけなくて、ほかに何にかけるのか、バカたれが、というぐらい自然です。
奈良周辺に、そういう大きなお墓をつくる。これを古墳という。その形が中国にはない日本独特の形です。しかもむやみに大きい。これを前方後円墳という。前方というのは、四角いほうが前です。方というのは四角です。だから前方です。後ろが円だから、後円です。
そういう前方後円墳がつくられた。いくつか古墳の種類はあるんですが、この前方後円墳が代表的なものです。
このことを見ると邪馬台国は畿内にあったようにも見えます。そしてそれが大きくなってヤマト政権になったんだと。

※ 1986年に福岡県小郡市において発見された津古生掛(つこしょうがけ)古墳は全長33m、後円部の直径28m、「前方部」の長さ6mでバチ型に開く「前方後円墳」の事例を検証すると興味深いことが分かる。九州北部の脊振山系から続く三国丘陵の東端で筑紫平野との接点にある。この古墳から庄内式土器や布留式土器が出土し、奈良県桜井市の纏向石塚と同時期の3世紀後半初期型古墳と考えられる。発掘担当者の宮田浩之氏(小郡市埋蔵文化財調査センター)は「前方後円墳は畿内で生まれ、北九州に伝わったというのが通説だったが、今回の発見により、北九州の勢力と畿内とのかかわりの深さがうかがえるものの、この古墳は畿内の力が及んだことによるものともいいきれない」という。筆者は通説とは逆に、北九州から畿内への影響を考えている。(古代に真実を求めて 第3集 藤田友治 古田史学の会編 明石書店 2000.11月 P76)

【消された九州王朝】大宰府は倭国の都だった!?【ゆっくり解説】



しかし、大陸北方の騎馬民族が、海を渡って日本にやって来て、日本を征服したとする騎馬民族征服王朝説もあります。このことの裏には、5世紀の古墳から出土する副葬品に、急に武器や馬具類が増えるということがあります。
さらに、北部九州説をとる人の中には、九州北部にあった邪馬台国が東に領土を広げて畿内までを領有し、その時に本拠地を北部九州から東の畿内に引っ越した、という邪馬台国東遷説もあります。日本の神話の中には、初代天皇とされる神武天皇が、九州から出発して東へ遷り、畿内までを平定したという記述があり、その記述とも合致すると考えられています。
世界史レベルで見ると、こちらの方がスケールが大きくて、イメージがふくらみますね。しかしはっきりしたことはまだ分かりません。この4世紀の日本を記述する中国の史料もありません。

ただここで抜け落ちていることは、邪馬台国とヤマト政権が併存していた可能性です。九州に邪馬台国があり、同時に大和地方にヤマト政権があったとしてもおかしくありません。そしてこの二つの国が合体して「日本」ができたかも知れません。

※ 小林恵子氏は、
(神武天皇の即位を248年)
崇神天皇の即位を298年
ヤマトタケルの活躍を340年前後、
神功皇后の活躍を380年前後、
応神天皇の即位を389年としている。(解読「謎の四世紀」 小林恵子 文藝春秋 参考)

※ 初代の神武天皇後の、『日本書紀』での2代の綏靖天皇から9代の開化天皇までの8人の天皇には具体的事績なし。「欠史八代」という。

※【10代崇神天皇の事績】 300年頃?
・崇神天皇の即位は298年とされる
・崇神天皇は「御間城(みまき)入彦(いりびこ)五十瓊(いにえの)天皇(すめらみこと)」といい、「みまき」とは「任那(みまな)」のことである。そのことは、次代の「垂仁紀」に記されている。「任那から来た天皇」という意味になる。
・大物主神を祀る(書紀)
・四道将軍(四人の将軍)を各地に派遣する(書紀)
・崇神天皇の姑(おば)、倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)命が大物主神の妻になり、死後、箸墓に葬られる(書紀)
・任那から蘇那曷叱智(ソナカシチ)が朝貢する(書紀)

※【11代垂仁天皇の事績】 320年頃?
・加羅の王子、都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)が来る(書紀)
・新羅の王子、天日槍(アメノヒボコ)が来る(書紀)
・皇后の兄、狭穂彦王(さほびこのみこ)の謀反(書紀)
・天照大神を伊勢に祀る(書紀)

※【12代景行天皇の事績】 340年頃?
武内宿禰の登場(書紀)
・第二子、ヤマトタケルの活躍(書紀)

※【ヤマトタケル】
※(筆者注) ヤマトタケルの活躍は340年前後とされる。

※(筆者注) 346年に、百済馬韓地方を統一。356年に、新羅辰韓地方を統一します。

※(筆者注) ヤマトタケルという名前は、熊曾建(クマソタケル 日本書紀では川上梟師(かわかみのたける))が名づけた名前であり、ヤマトタケルの本名は小碓命(おうすのみこと)です。名前を与える行為は、上の者が下の者に対して行う行為であり、下の者にとっては非常に名誉ある行為です。この名誉ある行為を、新築祝いの宴会の席での暗殺シーンとして『記紀』は描いています。この宴会の主催者は熊曾建(クマソタケル)であり、ヤマトタケル(小碓命)はその宴会に呼ばれた出席者にすぎません。(しかも女に扮して殺しています)。このことは、ヤマトタケルが地方の一支配者にすぎず、このときの本当の支配者は熊曾建(クマソタケル)であったことを意味しているのではないでしょうか。

※【異説】 私は、最近「ヤマトタケル物語」が史実であり、その舞台が佐賀県にあったことを知ることが出来た。新史料を手に入れたのである。『佐賀県史蹟名勝天然記念物調査報告』上巻中の佐賀郡鍋島村大字蠣久(かきひさ)に在る「蠣久府址」の説明に、
「往昔此地は九州一方の都会、肥州の国府長岡ヶ庄蠣久と云ひ、戸数三千、富家巨商軒を連ねし所、此地元斥鹵(せきろ 塩分を多く含んで耕作の出来ない荒地)の地、蠣殻多かりし。日本武尊河上村に熊襲追討、日向の国より兵船に乗りて蠣久津に到着し、蠣殻の上を歩みて河上村に至り給へり。文徳天皇天安二年(858)勅許を以て、肥前国府市、芸州宮島市、筑州宰府市を開けりとぞ」・・・・・・
 後漢の永初三年(107)、委奴国が朝貢してから幾年経ったであろうか。国王は、脊振山脈を越えて南麓の佐賀平野へ進出した。山間に発する水脈が清冽な川上川となって南の平野を潤す地勢を、有望なりと見て取ったのであろう。かくして川上村を中心とする一帯は、委奴国の穀倉地として重要な都となり、河口に向け開けた蠣久の津は、南九州から大陸までも通ずる賑やかな港町として知られるようになったのであろう。この南方進出によって、当時の委奴国王取石鹿文(とろしかや)は、豊かな財力と強固な権力とを併せ持つ「川上梟師(たける)」と称されたのであった。
 だが人生夢幻、新宮殿も落成して目出度い祝宴の一夜、女装の童男、日本武尊の刃に倒れたのであった。
 「大乱」の火種は、ここに発火したのである。東方程近い神埼郡の「吉野ヶ里」は、この大乱に巻き込まれた遺跡の一つではなかろうか。(古代に真実を求めて 第3集 平野雅廣 古田史学の会編 明石書店 2000.11月 P120)

田川広域観光協会主催 第20回古代史講座 第1部 『日本武尊 消された歴史 福岡と佐賀に伝えられていた戦いと愛』講師:綾杉るな

田川広域観光協会古代史講座 第20回第2部 講師:福永晋三「景行天皇紀のからくり風土記のヤマトタケル伝承」


(筆者注) 『日本書紀』では、ヤマトタケルは神功皇后の一世代前のこととされる。神功皇后の夫(仲哀天皇)の父とされる。

※ 13代の成務天皇の記事は、前後の天皇と比べて非常に短い。370年頃?

※【トヨと神功皇后】
※(筆者注) 神功皇后の活躍は380年前後とされる。

※ 『日本書紀』では神功皇后は、開化天皇の曾孫で(14代の)仲哀(天皇)の皇后、則ち当然ながらヤマトの天皇家の祖とされている。・・・・・・『書紀』の年紀では紀元200年269年の間に、「摂政」として筑後や熊襲国ほかを平定し、さらに高句麗・百済・新羅の「三韓を征伐」し、応神(天皇)を筑紫で産み、摂政69年(269)に崩御したと記す。(古代に真実を求めて 第23集 『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独〔消えた古代王朝〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2020.3月 P80)

※(筆者注) 『古事記』の応神天皇の「天の日矛(あめのひほこ)」の記述に、新羅の「天の日矛」から神功皇后にいたる系譜がある。神功皇后は「天の日矛」の子孫である。つまり神功皇后は新羅系になる。

※(筆者中) 『日本書紀』では、神功皇后39年を魏の景初3年(239年)のこととして、『魏志倭人伝』の「倭の女王」(卑弥呼)の魏への朝貢の記事を紹介している。卑弥呼の魏への朝貢は、朝鮮半島の記事と同様、まるで外国のことを紹介しているかのようであり、自国のこととして書かれていない。

※ 『書紀』神功紀のハイライトは、俗に「三韓征伐」と呼ばれる朝鮮半島遠征譚だ。しかし、「三韓(高句麗・新羅・百済)」との戦闘や交渉・交流は、両国の歴史から三世紀ではありえず、早くとも四世紀中葉の出来事なのだ。・・・・・・神功紀の半島関連記事は、次のとおり『三国史記』等との比較から、「二連(120年)繰り上げ」られていることがわかっている。
①肖古王薨去記事は『書紀』では255年とされているが、『三国史記』では375年となっている。・・・・・・
②また、貴須王薨去・枕流王即位記事も120年繰り上がっている。・・・・・・
つまり、「神功皇后紀」では「実年と合った卑弥呼・壱與記事」と、「二運(120年)繰り上げ、干支を合わせた半島記事」が混在する構成となっている。従って『書紀』で神功皇后は、実年で紀元200年ごろから389年ごろ(崩御年の269+120=389)まで執政していたことになる。(古代に真実を求めて 第23集 『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独〔消えた古代王朝〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2020.3月 P85)

※ 日本書紀の編者は、その記事(百済記)を利用するときに、わざとその干支を二運、つまり120年もさかのぼらせている。・・・・・・日本書紀の編者のこのようなからくりは、記紀の紀年の問題を学問的に研究した那珂通世いらい定説となっていることである。(日本の歴史 1 神話から歴史へ 井上光貞 中公文庫 1973年 P353)



※【異説】 8世紀以降、天日槍(サルタヒコ、武内宿禰)トヨ(神功皇后)夫婦関係を語ることこそが歴史上最大のタブーになっていったに違いない。(蘇我氏の正体 関裕二 新潮文庫 P237)

※【異説】 その(日本書紀)の真意は、武内宿禰の正体を抹殺することにあったのではなかったか。・・・・・・ここにいう武内宿禰の正体とは、ようするに7世紀に活躍した蘇我氏の祖のことである。(蘇我氏の正体 関裕二 新潮文庫 P227)

※【異説】 天日槍(あめのひぼこ)は新羅王子とされ、ところが「日本書紀」と「古事記」の記述を合わせると、天日槍は伽耶王子ツヌガアラシトとも同一だった。さらに、神話の世界のサルタヒコも、まさに天日槍と同じ属性をそなえ、両者は重なっていたのである。(蘇我氏の正体 関裕二 新潮文庫 P242)

※(筆者注) 『日本書紀』には、神功皇后元年の事績として、福岡市那珂川町の用水路「裂田溝(さくたのうなで)」の記事あり。

※(筆者注) 『日本書紀』には、神功皇后52年のこととして、百済の近肖古王(位346年~75年)から贈られた「七支刀」の記事あり。(西暦369年

※(筆者注) ニニギ=朝鮮系 → 九州王朝系
       スサノオ=新羅系 → 出雲王朝系 
       蘇我氏=新羅王朝系  藤原氏=百済王朝系
       葛城氏=大和朝廷系  物部氏=吉備王朝系  大伴氏=九州王朝系

※【応神天皇と邪馬台国東遷】
※(筆者注) 応神天皇の即位は389年とされる。

※(筆者中) 『日本書紀』では、神功皇后元年のこととして、仲哀天皇の皇子の香坂王・忍熊王の策謀の記事がある。

※(筆者注) 高句麗好太王碑には、「新羅・百残(百済の蔑称)は(高句麗の)属民であり、(高句麗に)朝貢していた。しかし、391年に海を渡り、百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった」とあります。

※【異説】 初代神武天皇と第10代崇神天皇が同一人物であるという話はすでにした。二度あることは三度ある、ではないが、もうひとり、第15代応神天皇も、じつは初代王であった可能性が高い。・・・・・・応神と神武は、ヤマト入りの行程までそっくりだ。(物部氏の正体 関裕二 東京書籍 P220)

※ 王仁(わに、生没年不詳)は、応神天皇の時代に辰孫王と共に百済から日本に渡来し、千字文論語を伝えたと記紀等に記述される伝承上の人物である。(ウィキペディアより)

※(筆者注) 『日本書紀』には、応神天皇16年の事績として、百済から王仁が来た記事がある。

※(筆者注) 「王仁」は、「応神」と音読みが共通する。

※【異説】 九州王朝がいよいよ国内の支配領域に対して漢字の使用を命じ、同時に百済の学者を配下の国々派遣する、こうした処置が国内公用に際して行われたのではないでしょうか。そして、近畿なる応神(天皇)のもとに派遣されたのが阿直岐・王仁だったのです。こうして倭国でも、王(九州王朝)と臣下(近畿天皇家)との漢字漢文のやりとり、国内公用が始まりました。(古代に真実を求めて 第1集 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 1999.5月 P47)

※【異説】 仏教418戊午年九州に伝来した。・・・・・・(418年と九州という)二つの結論の結節点として糸島郡『雷山縁起』(筆者注 『雷山千如寺法系霊簿』を含む)の「清賀」伝承を発見しえたのでした。わが国に初めて仏教を伝えた僧、清賀は伝承によれば天竺(インド)の人とされています。(古代に真実を求めて 第1集 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 1999.5月 P67)

※【異説】 九州勢力の大和への進出は、大きく三回にわたって行われたと考えられる。第一回が神武(天皇)の東征という説話に反映されている。第二回は崇神(天皇)系の大和進出である。(三世紀初め)。そして、第三回の東征は応神(天皇)の四世紀後半の進出なのである。(韓半島からきた倭国 李鐘恒 新泉社 1990.3月 P300)
これに六世紀初めの継体天皇(507年即位)を加えると、四回の大きな波があったことになる。

※【異説】 (古事記の神武東征には)「鵜養(うかい)」の「久米歌」もあります。・・・・・・(筆者注 そこに「伊那佐山」がでてきます)
奈良大和では「伊那佐山」はどこか不詳ですが、佐賀県有明海に面した杵島山地に「稲佐(有明町稲佐)・稲佐山」があります。奈良の吉野の山中で「島つ鳥鵜養が伴」に助けを求めるのは不自然ですが、糸島半島北端はウミウの捕獲地であり、怡土平野を平定して後の時代に、佐賀平定に進んだ時の歌なら自然なのです。(古代に真実を求めて 第22集 倭国古伝 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2019.3月 P163)
(筆者注) 佐賀の稲佐山には、百済の聖明王を祭る稲佐神社があります。

※【九州からの分離】
※【異説】 近畿天皇家は、九州王朝から分離した一支派に過ぎない。すでに先住民たちがあちこちに場を占めている奈良盆地に侵入した天皇家の祖先たちは、たいへんな辛苦を重ねてついにようやく盆地の一角に根を下ろしはじめ、そこから発展して周囲の小集団の吸収に成功した。しかし近畿天皇家の大和王朝は長い間、九州王朝の陰にかくれて歴史の檜舞台では脚光を浴びることができなかった。(韓半島からきた倭国 李鐘恒 新泉社 1990.3月 P69)

※【異説】 天照大神は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を、葦原中国の主、つまり、地上の王とするために、九州の高千穂の峯に天下らせた。瓊瓊杵尊はその地に王朝を建てたであろう。その曾孫神武天皇である。つまり、神武天皇は既に王の一族である。九州に存在したであろう王朝の王の血を引く人物が、大和で新しい国「近畿天皇家」を創設して、その初代王になった。これを身近な言葉で言えば、分家である。・・・・・・近畿天皇家は九州の王の傍流が建てた国であることを隠していないのである。(古代に真実を求めて 第23集 『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独〔消えた古代王朝〕 岡下英男 古田史学の会編 明石書店 2020.3月 P199)

※【異説】 弥生時代の紀元前4世紀に成立した佐賀県の吉野ヶ里は、その後、ずっと王権を形成していたという説があります。そこに朝鮮半島の紀元後3世紀に百済から王族が乗り込んできて、福岡県の玄界灘沿いの伊都国一大率を置き、邪馬台国連合を形成したという考えもあります。
 すると以前から存続していた吉野ヶ里王国はどうなったか。佐賀の地を邪馬台国に譲り渡して、そこから押し出されるようにして中国地方から大和地方に入り、そこで別の王権を形成した。仮にこれを第2次吉野ヶ里王国とします。すると邪馬台国東遷説は、実はこの吉野ヶ里王国東遷説ではなかったかということになります。(これは吉野ヶ里でなくても、他に吉野ヶ里以上の大きな国があったとすれば、それでも成り立ちます。ただ、今のところ吉野ヶ里を上回る大規模遺跡は発見されていません)
 そしてこの大和に押し出された第2次吉野ヶ里王国がだんだんと力を強めて、4世紀には畿内でヤマト政権になったというものです。ただしこのヤマト政権はまだ全国を統一した政権ではなく、畿内を中心とする地方政権にすぎません。
だから、大仙陵古墳のような5世紀に畿内に出現した巨大古墳は、畿内に移動したこの第2次吉野ヶ里王国のものになります。大仙陵古墳は以前は仁徳天皇陵古墳と言われていましたが、これを仁徳天皇陵古墳だといわずに大仙陵古墳というのは、それが仁徳天皇陵だという確証がないからです。
 この説では、これらの畿内の巨大古墳は「倭の五王」のものではありません。九州に邪馬台国連合はちゃんと存在しており、中国に遣いを出した「倭の五王」は畿内のヤマト政権ではなく、あくまでも邪馬台国連合(九州)の王たちのことだということになります。
つまり5世紀の日本は、畿内ヤマト政権と、九州邪馬台国連合にまだ分裂していて、九州の邪馬台国連合がまだ有力だったという考えです。
 確かに上の地図に見るように、朝鮮半島が百済・新羅・加羅に分裂して抗争を繰り返しているときに、日本だけがいち早く統一されて、一つの国になっていたと考えるのは不自然です。このころ日本は朝鮮半島勢力のフロンティアです。その朝鮮半島が分裂して抗争を繰り返しているときに、フロンティアである日本だけが統一されたというのはおかしな話です。日本は7世紀の白村江の戦いまでは分裂していたとする考えもあります。(倭と日本建国史 鹿島曻 新国民社 P220前後参照)

※【番外編 参考】
※ 大和王朝vs朝鮮半島の国々: 歴史と芸能の面白ニュース (keiseisaimin.xyz)
https://www.keiseisaimin.xyz/article/480673771.htmlより
この奈良の大和盆地の大規模な水田稲作の状況が日向(ひむか)の国の神倭伊波礼毘古命(かむやまと・いわれびこ・の・みこと)たちに伝わったということです。 伝えたのは、塩椎神(しおつちのかみ)と『古事記』等には 書かれています。
 それを聞いて神武東征、ということで、まさに日本の建国ということになりますが、これが いつなのか、というのは、よくわからないのですが、紀元前50年より前なのは確かで、地質学が科学的に証明しています。そうしなければ、今の大阪平野が河内潟ではなくなってしまい、河内湖になってしまうので、『日本書紀』のあの描写を再現することができません。
 ここからは、外国の史書に載っています。「西暦57年奴国が後漢に朝貢しました」と、『後漢書』(ごかんじょ)に書かれています。 西暦238年邪馬台国卑弥呼女王が魏に朝貢しました。 これは『魏志倭人伝』に書かれています。 248年に卑弥呼が死んだでしょう。これは1年ぐらい少しずれがあるかもしれません。 ほぼ248年前後です。
 それで、3世紀後半に崇神(すじん)天皇が四道将軍を各地に派遣して、垂仁(すいにん)天皇の御代に伽耶(かや)の 王子都怒我阿羅斯等(つぬが・あらしと)が来日しました。
 これはなぜ3世紀後半と断言するかというと、それこそ卑弥呼の墓と言われている、箸墓(はしはか)古墳が造られたのが、放射性炭素年代測定で調べたところ、はっきりわかったからです。卑弥呼の死後50年以上過ぎています。そもそも、崇神天皇、垂仁天皇の時代に造られた、と「日本書紀」に書かれています。 葬られているのは、第8代孝元(こうげん)天皇の皇女(ひめみこ)である倭迹迹日百襲姫命(やまと・ととひも・もそひめ・の・みこと)です。 だから、この頃には九州北部を支配していた邪馬台国、女王の国、倭国が相当に衰退していたのであろう、ということです。 それで、伽耶の王子としては非常に危機感を抱いて、大和王朝に庇護を願ってきたのだろうな、 というふうに普通に考えるのが普通の事でしょう。
 それで、4世紀前半景行(けいこう)天皇の筑紫遠征、倭建命(やまとたけるのみこと)の熊襲(くまそ)討伐がありました。『日本書紀』と『古事記』の年代というのは、全然 当てにならないのですが、支那、朝鮮の史書によって、いろいろと年代がほぼ確定できる状況になってきます。西暦364年、これは『三国史記』の『新羅(しらぎ)本紀』に、「倭兵が大挙して新羅に侵入」とあり、これが神功皇后新羅征伐なのでしょう。 ということは、この頃、仲哀(ちゅうあい)天皇が崩御されているということです。
 369年、百済(くだら)が七支刀(しちしとう)を贈っております。 これは七支刀が現存しているので確定でしょう。 375年、百済の近肖古王(きんしょうこおう)が死にました。 これと『日本書紀』を突き合わせると、おそらく神功皇后がお隠れになったのが388年です。 この後、広開土王碑(こうかいどおうひ)によると、391年に大和王朝と高句麗(こうくり)との大戦争が始まることになります。何しろ、広開土王碑という石碑に碑文が残っているのですから これも確定と考えていいでしょう。
 ということで、朝鮮半島の状況というのがやはり肝なのでこれを少し整理しておきたいのですが、まず『魏志韓伝』に(中略)「南は倭と接す」ここがポイントです。 「南も海じゃないの?」と思われたかもしれませんが、それは違います。倭と接しています。つまり、この時は、大和王朝とは国交がなく、あったのは女王の国なので、倭とは邪馬台国なのでしょう。女王の国の勢力範囲というのは 朝鮮半島の南に及んでいたということです。
 でもこれは当たり前でしょう。別の動画でも解説していますが、縄文時代から、沖縄から北海道までを丸木舟でぐるぐる日本列島周辺を回っていたので、朝鮮半島の南にも住み着いていたとしても、何ら不思議な事ではありません。だから朝鮮半島からも大量の縄文式土器が発見されているし、少し時代は下りますけれども、日本独特の古墳であるはずの前方後円墳もたくさん発見されることになります。 ということで、支那の歴史書にもある通り、朝鮮半島南部は倭の国だったという事です。(中略)
 弁韓がいわゆる加羅、あるいは伽耶(かや)です。 でもある意味、倭の事で、住んでいる人はほとんど倭人でした。辰韓が新羅になりまして、最終的に新羅が三国を統一することになりますけども、馬韓が百済 ということです。 それで今の北朝鮮に該当するのは、帯方郡(たいほうぐん)であったり楽浪郡(らくろうぐん)です。郡とは何の話かというと、これは実は漢(かん)です。 楽浪郡、帯方郡だったのですけれども、漢帝国の一番東の領土ということです。 そこにおそらく夫余(ふよ)という北方から来た騎馬民族が国を作ってできたのが高句麗ではないかと言われております。
 高句麗は最終的には唐に滅ぼされてしまい、安東都護府(あんとう・とごふ)になるのですけれども、その唐と結んで今の韓国辺りを統一したのが新羅というような歴史をたどることになります。
 ここで問題にしたいのはこの弁韓、つまり伽耶(かや)です。 三国志の『魏書弁辰伝』、弁辰と弁韓は同じです。(中略)
 要は新羅と似ているのです。 大体、新羅の第4代国王は倭種です。女王の国の住民ではありませんけれども、多婆那国(たばなのくに)の出身の倭種です。
 ということで、当時、新羅、あるいは伽耶(かや)、百済辺りというのはいろいろな民族が入り乱れていて、特に倭人もたくさん行っていたわけです。それは数千年前からです。(中略)
 つまり倭国というのは朝鮮半島の南の所に少し勢力範囲があったのです。そこと接しているということです。 だだ、倭人の国ですから、事実上の倭、女王の国の支配下にあったでしょう。 あるいはそうではなかった時もあるかもしれないけれども、それは入り乱れていたのでしょう。
 大和王朝は加羅、あるいは伽耶(かや)、あるいは中国式に言うと狗邪韓国(くやかんこく) ですけれども、あるいは安羅(あら)など、倭人が住む、諸国入り乱れる弁韓、弁辰地域の統括機関として、任那(みまな)日本府を置きました。任那(みまな)でもいいのですけれども、この「日本府」という言葉は『日本書紀』において、新羅王がそう呼んでいるという記載があります。 「任那(みまな)というのは日本の府である」と言っています。
任那(みまな)の文字というのは広開土王碑(こうかいどおうひ)や『宋書』などでも見られますけれども、この辺りは後で解説します。
 『宋書』では西暦438年以降、今までの弁辰が消えて任那(みまな)に変わって記載されています。ということで、後で大和王朝が置いた任那(みまな)というのが基本的にこの辺を支配していますというのを、趙匡胤(ちょう・きょういん)の「宋」(そう)よりももっと古い国である南北朝の南の「宋」なのですが、この宋が認めたということです。
 ところがこの任那(みまな)が、昭和後期より、消されたのです。 この左側は過去の歴史の教科書ですけれども、きちんと任那(みまな)と書かれています。昭和50年代頃までの教科書には載っていました。任那(みまな)、加羅、伽耶(かや)、全部同じです。 いろいろな国が入り乱れている弁韓地域を統括するような機関が任那(みまな)と考えるのが 最も適切だと思われます。そもそも、任那(みまな)という言葉自体は垂仁(すいにん)天皇が名付けたのです。 加羅から都怒我阿羅斯等(つぬが・あらしと)がやってきた時に、垂仁天皇が「先帝の崇神天皇の名前である御間城天皇(みまき・の・すめらみこと)に因んで、あなたの国の名を任那(みまな)にしなさい」 と名付けなさいました。 実際には変わっていないのだけれども、任那(みまな)という機関ができたのです。


新「授業でいえない日本史」 1話の5 古代 謎の4世紀(300年代)の2 大和朝廷と九州王朝

2020-10-29 06:57:25 | 新日本史1 古代
つづき

※【九州王朝】
※【異説】 (福岡県の)比恵・那珂遺跡は、3世紀に活況を呈したのち、5世紀には一度衰退し、6世紀後半に再活性化するという変遷をたどる。
 これは4世紀後半に九州王朝の天子の系譜と考えられる「高良玉垂宮」(筆者注 福岡県久留米市の高良大社の祭神)が博多湾岸から筑後三潴に遷り、390年に没し、その子孫が代々筑紫を守護したという高良大社の縁起・伝承や、6世紀中葉に全国に屯倉が設けられ、そこから那の津に穀物を送ったという『書紀』記事と一致する。このように比恵・那珂遺跡は、金印を下賜された1世紀から、3世紀の俾弥呼、5世紀の倭の五王を経て、6世紀に至るまで北部九州が倭国の中心だったことを示している。(古代に真実を求めて 第24集 俾弥呼(ひみか)と邪馬壹国(やまゐこく) 谷本茂 古田史学の会編 明石書店 2021.3月 P36)

※【異説】 不思議な系図の存在を紹介したい。それは高良大社(福岡県久留米市)所蔵の『高良記』に記された「系図」だ。この『高良記』も「千珠満珠型三韓征伐」説話を載せている縁起だが、その「三韓征伐」に参加した神々が「異国征伐之時三百七十五人ノ神立」として記されている。そこには「稚日女命」から「天日神命」まで44代の名前が並んでいる。しかも25代目にあたる「五櫛彦命」から分岐して近畿天皇家の祖先ウガヤフキアエズへと続いているのだ。古田(武彦)氏はこのことに注目して、この「系図」は九州王朝のものであり、近畿天皇家は傍流であると主張したものではないかとされた。・・・・・・その中には卑弥呼壹與の名前が記されている可能性もあるはずだ。そして、その痕跡があるのだ。(古代に真実を求めて 第22集 倭国古伝 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 2019.3月 P60)

※【異説】 古賀達也氏によれば、(福岡県南部の)筑後にある大善寺玉垂宮の由緒書きで、「祭神」の高良玉垂命は仁徳55年(367)に博多湾岸から筑後三潴(みずま)に来て、56年(368)に賊徒を退治。57年(369)に三潴大善寺に宮を造営し筑紫を治め、78年(390)に三潴で没したとされる。(古代に真実を求めて 第23集 『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独〔消えた古代王朝〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2020.3月 P86)

※【異説】 (大善寺玉垂宮の)由緒書では玉垂命の没年は仁徳78年(390)とされ、『書紀』の神功(皇后)の没年389年と近似し、また、次代の応神元年(390)と一致する。・・・・・・
 また、『筑後国神名帳』に「玉垂姫神」、『袖下抄』に「高良山と申す處に玉垂の姫はますなり」とあるように、玉垂命は女性で、いわば女王とされていることも神功皇后と同じなのだ。
 結局、神功(皇后)の事績とされる「三韓征伐」は、本当は三潴遷都を行った玉垂命の事績となろう。
 こうしたことから、筑後の玉垂命もまた神功(皇后)に擬せられており、「4世紀後半、高良玉垂命は、百済と盟約し新羅と激闘を繰り広げた。そして、戦禍の危険を避け博多湾岸より三潴に遷都した。百済王はこれを祝し、半島七ヶ国平定に因んだ「七支刀」を送った。『書紀』はこれを神功皇后、則ちヤマト天皇家の事績に取り込んだ」
と考えられる。そして、その玉垂命の活躍が九州北部に神功皇后伝承や信仰となって今に伝えられているのだ。(古代に真実を求めて 第23集 『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独〔消えた古代王朝〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2020.3月 P88)

※【異説】 玉垂命の没年は、神功皇后が「筑紫で産んだ」応神元年(270年・実年390年)と合致する。そして、玉垂命には「九体の皇子」がいたという。
斯礼賀志命(しれがしのみこと) ②朝日豊盛命・・・・・・(筆者注③~⑨省略)
『高良社大祝旧記抜書』(元禄15年成立)によれば、長男「斯礼賀志命」は朝廷に臣として仕え、次男「朝日豊盛命」は高良山高牟礼で筑紫を守護し、その子孫が累代続くとある。つまり、
◎九州王朝:玉垂命(~389)ーー長男「斯礼賀志命」(390~)ーー次男「朝日豊盛命」ーー(この系統が継ぐ)という系列だ。
 一方、玉垂命以後、五世紀の倭国は「倭の五王」の時代に入っていく。
 「倭の五王」の「」は晋安帝(396~418)の時倭王賛有り(『梁書』諸夷伝・倭)とされ、その後も421年と425年に朝貢している。438年に朝貢記事の見える「」は讃の弟とされる。『宋書』讃死して弟珍立つ。そして「珍」『梁書』では「弥」の息子が「済」(443年と451年に朝貢)。その息子「興」(462年朝貢)。その弟が「武」(478年朝貢)なのだ。つまり、
◎倭の五王:「」ーー」ーー息子「済」ーー息子「興」ーー弟「武」
という系列で、兄「讃」を弟「珍」が継ぎ、その系列が累代の倭王となる。これは、玉垂命の系列と一致する。そうであれば「」は斯礼賀志命であり、『書紀』では応神(天皇)に擬せられ、「」は朝日豊盛命となろう。
 通説では、「倭の五王」をヤマト天皇家の天皇と接合しようとするが、年代・血縁関係の何れかが矛盾するうえ、天皇が一文字を名乗ったことはなく、また中国王朝への朝貢記録もない。
 しかし、玉垂命を「筑紫の女王=倭国(九州王朝)の王」とすれば、年代・血縁関係も矛盾なく説明できるのだ。(古代に真実を求めて 第23集 『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独〔消えた古代王朝〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2020.3月 P88)

※【異説】 ヤマト天皇家には女王がいなかった。しかし海外史書(筆者注 九州王朝史書)には卑弥呼・壱與がいた。また現在でも九州には神功皇后伝承・信仰が色濃く残っているほどだから、恐らく当時新羅・百済と交流した倭国女王の記録・記憶はより鮮明だったと考えられる。こうした女王の事績を取り込むために神功皇后紀が編纂され、天孫降臨神話から栲幡千千姫(筆者注 たくはたちぢひめ 瓊瓊杵(ににぎ)尊の母)の事績を盗用したうえ、実年記事と、「二運・120年繰り上げた記事を併せる」という手法で、卑弥呼・壹與・玉垂命の事績を神功皇后一人に集めたのだ。(古代に真実を求めて 第23集 『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独〔消えた古代王朝〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2020.3月 P89)

講演番号25 二つの七支刀と物部氏 講師:綾杉るな



※【吉野ヶ里その後】
※ 3世紀後半になると、吉野ヶ里遺跡全体をとりかこんでいた外環濠や北内郭・南内郭の内濠はほぼ埋没する。南内郭一帯に住居はみられなくなり、大倉庫群があった外濠西側では古墳時代初頭の竪穴住居跡が数棟みつかるだけである。北内郭のすぐ西や北方約500メートルあたりでも竪穴住居跡が確認されたが、集落の規模はきわめて小さい。弥生時代前期から終末期まで繁栄した弥生の大集落は、弥生時代の終わり、古墳時代の到来とともに姿を消したのである。・・・・・・吉野ヶ里遺跡の衰退に並行して、その西約200メートルの低丘陵上に突如として出現するのが神埼市の枝町遺跡の集落である。断片的にしか調査されていないが、広範囲の集落遺跡と考えられる。また、北西1.8キロにある神埼市の右原祇園町遺跡では、古墳時代はじめの首長居館と考えられる方形環濠区画が確認されている。・・・・・・蒲原宏行によると、弥生時代の終わりころから古墳時代のはじめの佐賀平野の状況は、環濠集落の解体、方形居館・屋敷地の出現、集落遺跡の分布変動、前方後方墳・方形周溝墓などの広範な出現、集団墓の消滅、外来系土器への様式変化などの現象が短期間のうちにいっせいに起こっている。・・・・・・吉野ヶ里のクニでは古墳時代まで継続した集落が多く存在する。(邪馬台国時代のクニの都 吉野ヶ里遺跡 七田忠昭 新泉社 2017.3月 P86)

※【異説】 休氏は漢に追われただけに朝貢の道を選ばなかった。したがって新しく列島に入った大月氏出雲族に、休氏の主流は列島を追い出される結果となった。東遷した神武(天皇)がみたのは、すでに出雲族に追い出された後の休氏で、すでに葛城氏と呼ばれていた残存休氏だったのである。(古代倭王の正体 小林恵子 祥伝社 P48) 



新「授業でいえない日本史」 1話の6 古代 謎の4世紀(300年代)の3 出雲王権と吉備王権

2020-10-29 06:57:20 | 新日本史1 古代
つづき

※【出雲王権】
※【異説】 纒向遺跡に集まった土器のなかに「出雲」は入っていたし、前方後円墳という埋葬文化を形づくるうえで、出雲は重要な役割を担っていたのだから、九州よりも先に出雲ヤマトに入り造成していた、という神話を無視することはできない。(天孫降臨の謎 関裕二 PHP P106)

※【異説】 邪馬台国東遷説は危ぶまれる。その一方で、吉備の存在が大きな意味を持ってくる。というのも、前方後円墳の原型は、すでに吉備にでき上がっていて、吉備で生まれた祭祀用の土器が、ヤマトに持ち込まれ、前方後円墳で執り行われる祭祀に用いられていたからだ。ヤマト建国の旗振り役は吉備ではあるまいか。吉備は瀬戸内海の流通を支配することで、巨万の富を蓄積していたのだろう。

 出雲も、ヤマト建国には大いに関わっていたようだ。ただし、出雲は日本海を通じて、北部九州とのつながりを重視した。そして、瀬戸内海を重視する吉備と、日本海の水運をおさえる出雲は、ヤマト黎明期の主導権争いを起こしていた可能性がある。出雲神話の中で出雲が朝鮮半島の新羅と関わりを持つのは、出雲が北部九州のみならず、朝鮮半島との間に強いパイプを持っていたことを示していると考えられる。これは吉備にとって脅威だったのではなかろうか。4世紀の倭国が外交活動を見せないのは、出雲潰しによって、吉備が朝鮮半島と疎遠になったからではあるまいか。
「日本書紀」には、スサノオは高天原から新羅に舞い降りたとあり、「風土記」には、出雲は新羅から土地を持ってきたとある。(古代史 関裕二 PHP P84)

※【吉備王権】
※【異説】 国の土台を固めたのは、吉備であり、さらにヤマト建国後の主導権争いを制したのも吉備で、五世紀半ばまで、王家と同等の力を誇示していたのだった。ちなみに、神武東征よりもはやくヤマトに舞い下りた物部氏の祖のニギハヤヒは、吉備からやってきたと、筆者は睨んでいる。物部氏の拠点(大阪府八尾市)から、三世紀の吉備系の土器が出土していることがその証拠だ。・・・・・・

 ヤマト建国後の主導権争いは、神功皇后らの日本海勢力とニギハヤヒらの瀬戸内海勢力の死闘なのだが、どちらが、北部九州から朝鮮半島につながる航路を獲得するかが、大きな争いの種になった。もちろん、敗れたのは神功皇后を押していた日本海勢力で、考古学的にも出雲や越の没落が明らかになっている。一方勝利したのは東海(尾張)を味方につけた吉備で、神話の時代だけでなく歴史時代に入っても、「物部氏(吉備)と尾張氏(東海)」が、何度も出雲をいじめていたと「日本書紀」は記録している。こののち、五世紀半ばまで吉備の繁栄はつづく。五世紀後半からは、吉備系の一派から物部氏が勃興して、吉備の遺産を継承したと筆者はみる。(磐井の乱の謎 関裕二 河出書房新社 P76)

※【朝鮮王朝】
※【異説】 (「日本書紀」によると)、この人物(天日槍〔アメノヒボコ〕)は新羅の王子で、聖皇=崇神天皇を慕って日本にやって来たという。・・・・・・「古事記」では、第15代応神天皇の段に載せられている。・・・・・・「古事記」は、天の日矛(アメノヒボコ)が応神天皇の時代の話だといっているのではなく、「昔々」の話だったとしている。・・・・・・応神天皇の母・神功皇后の母方の天の日矛であり、天の日矛伝承の最後に、この系譜を掲げている。このような天の日矛と神功皇后のつながりを、「古事記」は示したかったに違いない。(蘇我氏の正体 関裕二 PHP P197)

※【異説】 梅澤恵美子氏は、新羅から来日したという天日槍武内宿禰(神功皇后の協力者)が同一なのではないかと指摘した。(蘇我氏の正体 関裕二 PHP P193)

※【異説】 そこで注目されるのが、「日本書紀」の天日槍来日伝説の直前に記録された伽耶王子・ツヌガアラシトの来日説話である。「天日槍(天の日矛)」という名が、実在の地用船の人物であったはずがなく、これは一種の「神格化」された名である以上架空の存在であり、したがってツヌガアラシトこそが、実在の本来の名であったのではないか。(蘇我氏の正体 関裕二 PHP P199)

※【蘇我氏】
※【異説】 「古事記」の第八代孝元天皇の条に・・・・・・蘇我氏が、内宿禰から枝分かれした氏族であることが記されている。(蘇我氏の正体 関裕二 PHP P99)




七支刀】 370年頃、百済の近肖古王が、倭王に七支刀を贈っています(奈良県の石上神宮の七支刀)。

※【近肖古王】 近肖古王は百済の第13代の王(在位:346年 - 375年)。(きんしょうこおう、生年不詳 - 375年)。
346年9月に先代の契王が薨去し、王位を継いだ。新羅とは和親(羅済同盟)を保ち、高句麗との抗争を続けた。369年には雉壌城(黄海南道白川郡)へ進駐してきた高句麗兵を急襲して5000の首級を挙げ、371年には太子(後の近仇首王)とともに高句麗の平壌へ攻め込み、故国原王を戦死させた。また372年1月には東晋に対して朝貢を行い、6月には鎮東将軍・領楽浪郡太守に封ぜられた。同じ頃、倭国に対しても七支刀(作成は369年と考えられている)を贈り、東晋~百済~倭のラインで高句麗に対抗する外交戦略をとった。こうした対高句麗の外交戦略は、次代の近仇首王にも引き継がれ、百済にとっての基本的な外交態勢となった。375年7月に高句麗が北部辺境の水谷城(黄海北道新渓郡多栗面)を攻め落としたため、将軍を送って反撃したが勝てなかった。王は再び大軍を派遣して高句麗を討とうとしたが、不作の為に出征はできなかった。(ウィキペディアより)

※ こうやの宮 (oct-net.ne.jp)
山門郡瀬高町は有明海の遠浅の入り江を埋め立てた干拓の町。こうやの宮は本来、高野宮が正しい。こうやとは高良と関わるか。筑紫の君の本拠地八女の高良大社のこうらは「かわら」からきたのか?いづれにせよ奈良の石上神宮にあるはずの七支刀を持つ人形がどうして九州にあるのか。それはここが本来の「日本国」であったからだというのが古田武彦氏の主張である。私も最近、それが正しいのではないかと思い始めている。ありえないと思っていたことがなにやら現実になりつつある。

瀬織津姫と七支刀を持つ神像を祀る神社 【太神太神宮・天道社・こうやの宮(磯上物部神社)】 福岡県みやま市 5:00~  旧地名 太神(おおみわ)村




高句麗好太王碑】 391年に倭国(ヤマト政権)は、朝鮮に出兵し高句麗と戦っています。高句麗の首都丸都(今は中国領)にある高句麗好太王碑には、
「そもそも新羅・百残(百済の蔑称)は(高句麗の)属民であり、(高句麗に)朝貢していた。しかし、391年に海を渡り、百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった」とあります。 つまり倭国が、百済や新羅を破って服属させてしまった、とあります。さらに高句麗好太王碑は次のように続きます。
396年、好太王みずからが水軍を率いて百済を討伐した。百済は高句麗に下った。
399年、百済は誓約を破って倭に通じていたので、好太王は南下して平城に赴いた。そのとき新羅は使いを遣わして「倭人が新羅に迫り、城を破り、新羅の民を征服してしまった」と訴えてきた。
400年、好太王は5万の兵を送って新羅の救援に行かせた。高句麗の兵が到着すると倭軍は退却した。
404年、倭はまたも帯方郡に侵入してきた。しかし倭軍は敗退した。


※【朝鮮半島】
※【異説】 高句麗好太王と戦った倭国は、畿内のヤマト政権ではなく、九州王朝だとする説もあります。

※ 朝鮮の歴史書である「三国史記」の「百済本紀」には次のような記述がある。

「397年、百済の阿莘王(あしんおう)は倭国と友好を結び、太子の腆支(てんし)を倭国に人質に出した」

※ 朝鮮の歴史書である「三国史記」の「新羅本紀」には次のような記述がある。
「402年、新羅倭国と好(よしみ)を通じ新羅の奈勿王(なもつおう)の子、未斯欣(みしきん)を倭国に人質に出した」

※ 朝鮮の歴史書である「三国史記」の「百済本紀」には次のような記述がある。
百済の腆支王(てんしおう)は、阿莘王(あしんおう)の元子で、394年に太子に冊立され、397年には倭国へ人質として行っていたが、405年に父の阿莘王が薨じると、王の二番目の弟、訓解が摂政をしながら太子の帰国を待っていた。すると末弟の碟礼は訓解を殺し、みずから立って王となった。腆支は倭にあって阿莘王の訃報を聞き、哭泣しながら帰国を請うと、倭王は兵士百人をもって護送させた。国境に至ると、漢城の人、解忠が来て『王が亡くなられると、王の弟の碟礼は兄を殺してみずから立って王になっております。願わくは太子は軽々しく国に入らないで下さい』と告げた。腆支は倭人を留めておいて自衛しながら海島に拠って待っていると、国の人が碟礼を殺し腆支を迎えて即位させた」

※ 朝鮮の歴史書である「三国史記」の「新羅本紀」には次のような記述がある。

「408年、新羅王は、倭人が対馬島に軍営を設けて兵器と軍需品を貯え新羅を襲おうと企んでいる、と聞いた」

※ 朝鮮の歴史書である「三国史記」の「百済本紀」には次のような記述がある。

「409年、倭国は使臣を遣わして夜明珠を送ってきた。(百済の)腆支王はその使臣を優礼でもって接待した」

※ 朝鮮の歴史書である「三国史記」の「百済本紀」には次のような記述がある。
「418年、(百済の)腆支王は使臣を倭国にやって白綿(蚕綿)十匹を送った」

※ 朝鮮の歴史書である「三国史記」の「新羅本紀」には次のような記述がある。
「418年、新羅王の弟の未斯欣(みしきん)が倭国から逃げて帰った」



〇 前方後円墳が現れたのが4世紀(300年代)で、伝承ではヤマトタケル神功皇后が活躍した時代です。「謎の4世紀」とも言われます。
 朝鮮の歴史書では、このあと400年代には「倭」はたびたび新羅を攻めていますが、500年代には倭国の記述はあらわれません。
 朝鮮との関係がうまく行かなくなると、倭国は朝鮮の支配権を求めて、再び中国に遣いを出すようになります。


新「授業でいえない日本史」 1話の7 古代 5世紀(400年代)

2020-10-29 06:57:15 | 新日本史1 古代
【5世紀 400年代】
【大仙陵古墳】 5世紀(400年代)になると、日本最大の前方後円墳ができる。確証はないけれども、この時代の5世紀の天皇の墓だといわれますが、一説には吉野ヶ里王権が畿内に移動して(東遷して)強大化したものだともいわれます。
 その最大の古墳が仁徳天皇陵といわれる大仙陵古墳です。畿内の巨大古墳には応神天皇陵といわれる誉田山古墳(こんだやまこふん)もあります。

 千数百年も血統が途絶えなず、千数百年も王家としてずっと続いている国は他にないです。100年前までエチオピアがありましたけれども、あそこはいったん潰れました。この時代を古墳時代といいます。

※【異説】 「日本書紀」編者は、やはりヤマト建国当時の「東(国)」を抹殺したのではなかろうか。そしてもちろん、その過程で「尾張氏」の正体も隠蔽する必要があったという事ではなかろうか。・・・・・・神武(天皇)が高倉下から霊剣を授かったという話は、応神天皇が祖父・ヤマトタケルの忘れ形見を尾張氏から手に入れた事件と解釈したい。説明するまでもないが、応神天皇の父は仲哀天皇で、仲哀天皇はヤマトタケルの子である。・・・・・・
 ヤマトタケルは東国征討の帰路、尾張に立ち寄り、尾張氏のもとに草薙剣を預けてしまう。それが原因で伊吹山の神の毒気に負け、命を落としている。草薙剣が三種の神器の一つに選ばれたのは、この剣がヤマトの命運を左右する霊剣だからだろう。ヤマトタケルは、そのシンボルを手放したがゆえに、王になる資格を失ったのであり、応神天皇(神武天皇)は、その「祖父の剣」を尾張氏から受け継ぐことによって、王の資格を獲得したのである。(消えた出雲と継体天皇の謎 関裕二 学研 P80)



【倭の五王】 この5世紀には、日本の「倭の五王」といわれる王たちが次々に中国に遣いを出したということが、中国史書に記されています。この史書を『宋書倭国伝』といいます。宋という国は中国の南北朝時代の南朝の一つの国で、のちの宋・元・明という宋とは違います。

 倭の五王は、中国では讃・珍・済・興・と書かれている五人の王です。421年に、倭王讃が「貢ぎ物を献上してきた」という中国の記録があらわれます。このうち最後の武は雄略天皇であるといわれます。ここでは王権の男系世襲が確立しています。

※【出雲と物部氏】
※【異説】 考古学の証言によれば、はじめヤマトには吉備・出雲・東海・北陸の土器と埋葬文化が集まり、最後の最後に北部九州勢がやってきたという。とするならば、まず「出雲神・大物主神(おおものぬしのかみ)」がヤマトに舞い降り、さら饒速日命(にぎはやひのみこと・物部氏の祖)がこれにつづいてヤマトの基礎を築き、最後の最後に「九州の大王」神武(天皇)が迎えられたという話の骨格は、「纒向(まきむく)と前方後円墳の完成」の考古学と奇妙に重なってくるわけである。(天孫降臨の謎 関裕二 PHP P33)


※【異説】 原田常治氏は日本全国の神社伝承をかき集め、物部氏の正体は、神話の世界に封印された「出雲」ではないかと推理した(「古代日本正史」同志社)。そして出雲神・大物主神こそが物部氏の始祖でヤマトを建国した饒速日命(にぎはやひのみこと)その人だったのではないかというのだ。・・・・・・私見も出雲=物部説を支持している。(天孫降臨の謎 関裕二 PHP P104)

※【海の支配権】
※ 古墳時代に交易圏は、北九州から東の瀬戸内海方面に中心を移動させた。瀬戸内海航路が成長し、本州西部が広い範囲で東アジア海域に組み込まれたのである。・・・・・・瀬戸内海航路の開発が進んだのは、5世紀から6世紀のことと考えられる。・・・・・・
海人とその信仰は、かつての奴国に当たる博多湾の志賀島と「海の中道」一帯に住まう海人集団を取り仕切る海人の宰(つかさ)だった、ワタツミ(綿津見)の三神を祭る安曇氏の時代と、ムナカタ三女神を祭る宗像地方の宗像氏とツツノオ(筒男)三神を祭る瀬戸内海の住吉氏の2者が管轄を分担した時代に分けられる。・・・・・・
瀬戸内海航路が成長を遂げると、朝鮮半島南部と九州北部を結ぶ主要航路も博多湾経由から瀬戸内海に近い北九州に直行するルートに移る。それに伴って海上輸送の主たる担い手が、安曇氏から宗像氏・住吉氏に変わったと考えるとわかりやすい。・・・・・・
安曇氏は、朝鮮半島南部の原鉄を唐津湾、博多湾にもたらした有力海人と推測されるのである。それに対し、大和地方に強大な政治勢力が成長する時期に瀬戸内海ルートで活躍した海人が・・・・・・住吉氏だった。・・・・・・(長門の)穴門に建てられた住吉神社は、難波の住吉津に建てられたす住吉大社、博多の住吉神社とともに「日本三大住吉」と呼ばれている。・・・・・・
瀬戸内海ネットワークの成長とともにすべて玄界灘交易圏の中心は東に移動し、朝鮮半島南部、対馬、沖ノ島、大島、神湊(玄海町)を結ぶ宗像氏の新ルートが中心になった。・・・・・・宗像氏の祭神は、安曇氏や住吉氏が海の形象を神格化したのに対し、交易の要素が入り、より具体的である。・・・・・・沖ノ島は、玄界灘交易の最前線に位置していた。そこを通って朝鮮半島南部に送られた主要な商品の一つが山陰地方で加工されたヒスイである。・・・・・・大和王朝が瀬戸内海経由で朝鮮半島南部に船を出した際には、玄界灘での安全を祈願する祭祀が沖ノ島で行われた。(「海国」日本の歴史 宮崎正勝 原書房 P34~40)



〇 倭王が中国の皇帝に宛てた478年の手紙には、「自分たちの祖先は自ら鎧や兜に身を固めて戦い、山や川をねり歩き、一時も休むことなかった」と書いています。
この雄略天皇の別名がワカタケル大王なのですが、彼の名前が刻まれた太刀や鉄剣が熊本県江田船山古墳と、埼玉県稲荷山古墳の副葬品として出土したことから、畿内のヤマト政権の勢力範囲が、九州から関東に及んでいたとも言われます。

彼らが中国に遣いを出した目的は、朝鮮への支配権を中国皇帝に認めてもらうことでした。倭王武は次のような称号と支配権をもらいます。中国の皇帝は、倭王武を「倭・新羅・任那・加羅・秦韓(辰韓のこと)・慕韓(馬韓のこと)」の六ヶ国の軍事的指揮権をもつ安東大将軍倭王に任命します。
しかし不思議なことに、この「倭の五王」が中国に遣いを出したことは、のちにつくられる大和王権の歴史書「日本書紀」にはまったく出てきません。

※【九州王朝説】
※(筆者注) 日本の正史である『日本書紀』には、この「倭の五王」の中国への朝貢のことがまったく書かれていません。中国の歴史書が日本の朝貢のことを記述している事実があるのに、日本の歴史書が日本の朝貢のことを記述していないとはどういうことなのでしょうか。大和朝廷は「倭の五王」のことを自分たちの王だとは考えていなかった、と考えざるをえません。つまり、「倭の五王」は「大和朝廷の王」ではなかった、のです。

※【異説】 天皇というのはのちの8世紀に書かれた『日本書紀』にそう記されたもので、この「倭の五王」の時代にはまだ天皇はいません。天皇といわれるから日本を統一していたとする考えは成り立ちません。順番が逆なのです。天皇と言っても、まだ一地方政権の王なのです。さらに「倭の五王」がヤマト政権の王ではなく、九州王朝の王だとする考えもあります。つまり畿内の巨大古墳の王とは別に、九州に「倭の五王」がいたとする考え方です。

※【異説】 結論を要約していえば、「宋書」などにみられる倭の五王は、近畿天皇家の大和王朝とは関係がないということである。倭の五王は、天皇家以前から九州にあって、当時も日本列島を代表していた九州王朝の王たちだとする他に方法はない。それが正直な結論なのである。九州王朝は、その本拠地を九州にはおいてはいるが、彼らの大部分はまだ韓半島に残っていた。彼らの母体であり故郷であったのはあくまでも韓半島で、倭の五王の時代には韓半島の南部はまだ倭が支配していたのだ。(韓半島からきた倭国 李鐘恒 新泉社 1990.3月 P53)

※【異説】 倭国というのは、要するに、弥生時代も古墳時代も、いわゆる博多湾岸が中心である。それが変わるのが、先ほど言った、(新羅の)文武王10年、670年。「倭国」が「日本国」に変わったという記事までは、(朝鮮の史書に)「変化」は書いてないわけです。(邪馬壹国から九州王朝へ 古田武彦 新泉社 1987.3月 P237)

※【異説】 私が「倭の五王」時代の九州王朝の都を筑後と考えたのは高良大社の御祭神「高良玉垂命」の名前が「倭の五王」にも襲名されたとする研究結果(「九州王朝の筑後遷宮」「新古代学」第4集 新泉社 1999年)によるものでした。それと、古田武彦先生が1989年に発表された「筑後川の一線を論ず」(「東アジアの古代文化」61号)でした。・・・・・・その主要論点は、弥生時代の九州王朝の中枢領域は考古学的出土物から見ても筑前だが、古墳時代になると様相が一変し、装飾古墳などが筑後地方に出現することから、筑後に変わっている。・・・・・・古墳時代になると九州王朝(倭の五王、タリシヒコ)はより安全な筑後川(天然の大濠)の南に拠点を移動させたためだとされました。私はこの論文を支持しており、「倭の五王」や筑紫君磐井筑後を都にしていたと考えています。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P41)
 
※【異説】 近年百済西南部の栄山江流域で多数の「北部九州様式」の前方後円墳や、同様の九州様式の石室を持った円墳が多数発掘され、その時期は「倭王武」と重なる「5世紀末~6世紀初頭」とされている。・・・・・・
 これは、5世紀末から6世紀初頭に半島を平定した「倭王武」は、「ヤマトの雄略(天皇)」ではなく北部九州を拠点とする大王だということを示している。(古代に真実を求めて 第23集 『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独〔消えた古代王朝〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2020.3月 P96)

※【百済との関係】
※【百済の東城王】 東城王は百済の第24代の王(在位:479年 - 501年)である。(とうじょうおう、生年不詳 - 501年)。先代の三斤王の堂弟(父方の従弟)とする。子に武寧王
日本書紀雄略天皇23年479年)4月条では、「百済文斤王(三斤王)が急死したため、当時人質として日本に滞在していた昆支王の5人の子供のなかで、第2子の末多王が幼少ながら聡明だったので、天皇は筑紫の軍士500人を付けて末多王を百済に帰国させ、王位につけて東城王とした。」と記されている。
対外的には、高句麗の長寿王が北朝だけではなく南朝にも朝貢して爵号を得たことを聞き、百済からも南朝斉に朝貢して冊封体制下に入った。新羅との同盟(羅済同盟)を結ぶための使者の派遣も行っている。新羅との同盟で高句麗に対抗する姿勢をとっていたが、501年7月には新羅に対しても警戒して炭峴に城柵を築いた。
倭国との関係では、東城王の即位以前に起きた二度にわたる百済と高句麗の戦い(455年と475年)において、古くからの同盟国であるにも関わらず倭国が百済を支援しなかったことを背景に東城王は倭国に対しては非友好的な態度を取っている。(ウィキペディアより)

※【百済の武寧王】 武寧王は、百済の第25代の王(在位:502年 - 523年)。(ムリョンワン、462年 - 523年)。
『三国史記』百済本紀・武寧王紀によれば先代の東城王の第2子である。旧都漢城(ソウル)を高句麗に奪われ混乱した百済の安定を回復した王とされる。
東城王が501年12月に暗殺された後、首都熊津(忠清南道公州市)で即位した。
日本書紀」は次のように伝える。武寧王の出生の話として雄略天皇紀5年(461年)条に、百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の昆支王を倭国に貢る際、自身のすでに妊娠した婦を与えて、途中で子が生まれれば送り返せと命じた。一行が筑紫の各羅嶋(かからのしま・加唐島、佐賀県唐津市)まで来たところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した。これが武寧王であるとしている。継体天皇6年(512年)に任那の4県を、倭国から百済に譲渡した。
武寧王は41歳に至るまで倭国で生活していたとする説がある。(ウィキペディアより)



〇 世界史を見てみると、古代王権の成立には必ずといっていいほど、外部からの侵入があり、それが古代王権の成立のきっかけになることが多いのです。
 早い話、例えばイギリスは、外部から北方のノルマン人が攻めてきて、彼らがイギリスを征服することによって、初めて統一王権ができあがります。つまり異民族によって国家が統一されるのです。これがノルマン朝の成立で1066年のことです。その戦いが同年のへースティングスの戦いです。これをノルマン征服といいます。これはどの世界史の教科書にも載っている有名な戦いです。これは11世紀のことです。
 これと比べても、日本の国土統一が5世紀のヤマト政権にあるというのは早すぎる気がします。別に日本がイギリスに劣っているなどと言う気はさらさらないのですが、イギリスと決定的に違うのは、日本の統一王権の成立について、中国や朝鮮半島などの外部の動きの記述が圧倒的に少ないことです。この時代には、朝鮮半島南部と九州北部はもっと一体化した政治的な動きがあったはずなのです。朝鮮や日本の王族たちは、朝鮮海峡をまたいで活発に行き来していたはずです。
 もしイギリス史の記述で日本と同じことをやったら、ある日突然、神様が雲の上から天下ってきて国土を統一したとするしかないと思います。それは神話としては優れていても、歴史とは言えません。神話が悪いわけではありませんが、今話していることは歴史なのです。
終わります。

新「授業でいえない日本史」 2話の1 古代 5~6世紀の日本

2020-10-29 06:57:00 | 新日本史1 古代
【渡来人】 前回は、古墳時代というところで終わりました。古墳時代です。5世紀、400年代です。この時代には大陸から文化を持った人が日本に渡ってくる。
こういう人を渡来人という。留学生じゃないんですよ。遊びじゃないです。そのまま日本に骨を埋めて日本人になる。今でいうと、日本に来て日本の戸籍を取って死ぬときは日本人で死ぬような人、これが渡来人です。彼らが伝えたものが今でも使っている漢字です。漢字を伝えたのは西文氏(かわちのふみうじ)の祖である王仁(わに)だと言われます。

※ 王仁(わに、生没年不詳)は、応神天皇の時代に辰孫王と共に百済から日本に渡来し、千字文論語を伝えたと記紀等に記述される伝承上の人物である。(ウィキペディアより)

※(筆者注) 「王仁」は、「応神」と音読みが共通する。

※【異説】 九州王朝がいよいよ国内の支配領域に対して漢字の使用を命じ、同時に百済の学者を配下の国々派遣する、こうした処置が国内公用に際して行われたのではないでしょうか。そして、近畿なる応神(天皇)のもとに派遣されたのが阿直岐・王仁だったのです。こうして倭国でも、王(九州王朝)と臣下(近畿天皇家)との漢字漢文のやりとり、国内公用が始まりました。(古代に真実を求めて 第1集 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 1999.5月 P47)

※【異説】 仏教418戊午年九州に伝来した。・・・・・・(418年と九州という)二つの結論の結節点として糸島郡『雷山縁起』(筆者注 『雷山千如寺法系霊簿』を含む)の「清賀」伝承を発見しえたのでした。わが国に初めて仏教を伝えた僧、清賀は伝承によれば天竺(インド)の人とされています。(古代に真実を求めて 第1集 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 1999.5月 P67)



でも彼らはここで初めて来たのではありません。弥生時代からこういう人たちの渡来はずっと続いていたのです。しかし、ここでやっと彼らのことが記録に留められるようになったということです。
彼ら渡来人は難民のようにやって来て、日本の底辺層を形作った人たちではありません。彼らは社会の上層部を形作るのです。それどころか、彼らこそが日本の国の形をつくっていくのです。

※【異説】 このころの日本の歴史は、後の奈良時代につくられた「古事記」「日本書紀」の記述をベースとしています。しかしこれを書いたのは渡来系の人たちです。彼らは朝鮮半島から日本に渡ってきて、朝鮮を本国と仰ぎながら日本の歴史を書いた可能性があります。だから彼らは、朝鮮半島で起こったことを、日本で起こったこととして書いているかもしれないのです。彼らにとって日本は朝鮮半島の延長なのです。しかしそれでは日本を支配する正統性が薄れるため、それを隠そうとして、はるか以前から一つの天皇家が日本を支配していたことにして、歴史を記述したと言われます。
一口に朝鮮半島と言っても、百済、新羅、加羅に分裂し、互いに対立しています。その中のどこで起こったことなのか。「古事記」「日本書紀」を読むときには、そのことに注意しながら読む必要があると言われます。



【儒教伝来】
 それから、中国オリジナルの宗教は仏教じゃなかった。何だったんですか。世界史でもやりました。儒教です。6世紀初めに、百済から五経博士が来日します。五経とは、詩経、書経、易経、春秋、礼記という儒教が重視する経典のことです。

これは中国の孔子の教えです。「子曰く、学びて思わざれば則ちくらし」とか、「義を見て為ざるは勇なきなり」とか、そういう教えです。そういう儒教が伝わってくる。
この儒教の基本にあるのは「」の考え方です。親孝行の「孝」です。親を大切にするという考え方を、生きている親だけではなく、死んだあとの親に対しても、維持し続けます。死者の霊を祭るのは、子孫の役目だとされたわけです。そうなるとこれは祖先崇拝の考え方になってくるわけです。この祖先崇拝は、古代社会では世界の多くの地域に見られるもので、各地に見られる巨石記念物はその現れだとされています。中国ではこの考え方を基本として、祖先崇拝が発達してくるわけです。しかも中国は、男性を中心に血筋を考える強力な父系の血縁制度が発達します。

余談ですが、中国はこの血縁組織が強力なため、一度生まれついた一族の名を終生名乗り続けます。これは変えることのできないものです。女性も結婚しても姓を変えません。中国の夫婦別姓はこうやってできあがります。それは日本の家族とは非常に違った家族形態ですが、その夫婦別姓が、いま日本でいわれているような個人の選択の自由から生まれたことでないことだけは確かなことです。
この中国の父系による血縁制度は、母系が強かったかもしれない日本社会に変化を及ぼしていきます。このような変化は長い時間をかけて行われていきます。
日本の場合、王権が父系を中心とするか、母系を中心とするか、中国とは違って、母系を残した微妙な絡み合い方をしていきます。



【古墳時代の信仰】
【宗像大社】 古墳時代の生活に行きます。古墳時代の信仰としては、自然神の信仰、海そのもの、島そのものが、ご本尊になる。それが福岡県の宗像大社です。この沖津宮は、沖ノ島という玄界灘に浮かぶ無人の島です。ここは神の島で、女人禁制の島です。これは最近、世界遺産になりました。祭られているのは市杵島姫(イチキシマヒメ)で、この神様はアマテラスがスサノオの剣を噛んで吹き出した霧から生まれたとされる女神です。

【住吉大社】 それから、大阪、ここも海の神様を祭ります。住吉大社です。日本の神様は数限りなく分身の術を使うことができるから、日本全国に散らばって、この名前の神社はいっぱいある。海の神様とか、変ですか。ギリシャ神話で海の神様は何ですか。ポセイドンです。どこにでもあるわけです。ここに祭られているのは、イザナギ(天照大神の父)が穢れ祓いのため禊をしたときに誕生した筒男(ツツノオ)三神です。 


【大神神宮】(おおみわじんじゃ) 奈良県桜井市にある神社て、大和国の一ノ宮です。この神社の主祭神は大物主神 (おおものぬしのかみ)で、古代豪族の物部氏と関係が深いと言われます。配祀神の大己貴神 (おおなむちのかみ)は、出雲大社の大国主神(おおくにぬしのかみ)と同一神で、出雲王権との関係もありそうです。三輪山そのものを御神体とする古い信仰を持っています。

【伊勢神宮】 祖先神、天皇の祖先神を祭っている神社は、伊勢神宮です。三重県です。祭られているのは、天照大神(あまてらすおおみかみ)という女神様です。いまは読めない人が多いけど、こう読みます。これは天皇の祖先神で、皇祖神といいます。
日本には古くから祖先崇拝が根づいています。それがいつの頃から庶民に浸透するのかはよく分かりませんが、すくなくとも天皇家にはこのようなかたちで祖先崇拝の信仰が発生していたのです。大和の天皇家と、三重県の伊勢神宮という、地域の違うものがなぜ結びついたのかはよく分かりません。しかし天皇家がこの神宮への信仰を絶やさず、現在に至っていることは確かです。

※【異説】 伊勢神宮の内宮の祭神は天照大神、外宮は豊受大神です。伊勢神宮は「台与=神功皇后」を祀っていたのではあるまいか。(古代史 関裕二 PHP P205)

※【異説】 一方ヤマトの三輪山周辺では、「伊勢の神と三輪の神は同一」という伝承が残されている。(古代史 関裕二 PHP P205)

三輪山の大神神社の祭神は出雲神の大物主神

※【異説】 伊勢の神が天照大神となったのは、「日本書紀」が編纂された頃(七世紀後半)。(古代史 関裕二 PHP P205)


【出雲大社】 また古代王権の所在を連想させる神社が島根県にあります。進んでるのは、北部九州とか、裏日本の山陰なんです。朝鮮半島に近いからです。この時代の進んだ文化は、北とか、西からやって来ます。南とか、東からはやって来ません。太平洋側には文化は伝わってこない。太平洋は誰も渡ってこれないのです。

これが島根県の出雲大社(いずもたいしゃ)です。須佐之男命(すさのおのみこと、天照大神の弟)、大国主命(おおくにぬしのみこと、須佐之男命の子孫)、八岐大蛇(やまたのおろち)、奇稲田姫(くしなだひめ)、そういう神話の宝庫でもある。ここを舞台にしている。
日本神話では、須佐之男命は天照大神の弟です。暴れ者だったから、下界に落とされて、この近くを通りがかったところ、八岐大蛇という大蛇の生贄にされようとしている奇稲田姫に会い、八岐大蛇の退治に乗り出し、見事それを退治して奇稲田姫を嫁にもらいます。その八岐大蛇を退治するとき、大蛇の体の中から出てきた剣が草薙剣(くさなぎのつるぎ)といって、王権の象徴とされるものです。須佐之男命はそれをもってこの地域を治めたという話です。この須佐之男命の子孫が大国主命です。出雲大社に祭られているのはこの大国主命です。

このように地方の神々を、天照大神などの天皇家の神の兄弟や子孫にするなどにして血縁関係を持たせ、そのことによって地方の王権が中央の王権のもとに組み入れられていくわけです。逆に地方の王権はそのことによって天皇家の保護を受けるようになります。「オレの弟に何するんだ」「オレの親戚に何するんだ」、天皇家からそう言われると手出しはできなくなります。こういうことが天皇家が日本を統一する過程で、長い時間をかけて起こっていったようです。

古代の出雲大社は、現代の社殿の2倍ほど高く50メーター近くあったといいます。驚異的な古代の高層建築です。巨大な地方王権の姿を想像できます。
神社は高いほうが好まれたらしく、それはたぶん神様が高い所から降りてくるイメージからなのでしょうが、日本神話にも神様は高天原から下界に降りてくるものとして描かれています。それは天空に届くようなピラミッドを造った古代エジプト人や、高いジッグラトの上に神殿を造った古代メソポタミア人とも、共通しているように思います。このような高くて巨大な神殿建築は、古代マヤ文明やアステカ文明にも見られます。

またこの出雲大社の宮司である千家は代々受け継がれ、現在で85代目です。現在の天皇が、伝説上の初代神武天皇から数えて126代目ですから、家柄の古さとしては、天皇家に次ぐ家柄です。
この出雲大社の宮司家である千家は出雲国造(いずもこくそう)ともいわれ、古代の国造(くにのみやっこ)を受け継ぐものです。古代の地方王権が祭祀を兼ねる王権であったことをうかがい知ることができます。王権とは「政りごと」(まつりごと)をするものですが、それはまさに「祭りごと」をすることだったのです。


※【異説】 スサノオは出雲建国の祖神なのだが、不思議なことに、出雲大社の主祭神は大己貴(おおなむち)命(=大国主命)で、スサノオではない。スサノオは、大己貴(おおなむち)命を祀る本殿真裏の摂社に祀られている。問題は、このスサノオを祀る社の名で、「素鵞社(ソガノヤシロ)」という。素鵞と書いて、「ソガ」と読むところがミソで、ここでもスサノオと「ソガ」がつながってくる。(蘇我氏の正体 関裕二 新潮文庫 2009.5月 P150)

※【異説】 ヤマト建国直後のヤマトの出雲いじめとは、ようするにヤマトが神功皇后と武内宿禰(たけうちのすくね)を北部九州の地で滅ぼしたことを意味しているのではあるまいか。(古代史 関裕二 PHP P200)

※(筆者注) 日本書紀には、こんなことが書いてあります。「アマテラスの次男のアメノホヒが最初、出雲に平定しに行ったが、出雲のオオクニヌシに言い含められて、復命しなかった」と。それで次々に神様を差し向けたが、みんな出雲側についてしまう。それでやっと4人目のタケミカズチが出雲を平定する。出雲は簡単に平定されたんじゃなさそうです。

ところで吉備(岡山)の桃太郎の鬼退治は、実はこの出雲退治のことだった、という話もあります。鬼ヶ島とは出雲のことだった。出雲つぶしには吉備が関係しているようです。



【祭り】 それから農耕儀礼としては、今でも春祭り、秋祭り、正式な祭りなんです。教科書的には、春祭りは祈年祭(としごいのまつり)、どうぞ稲が実りますように、と。そして実ったら、それで終わりじゃ神様が腹を立てる。感謝のお祭りをする。秋祭りをする。これが新嘗祭(にいなめさい)という。神様の気持ちというのは、人間とほぼ一緒ですね。どこも。同じように喜び悲しみ、それが一番典型的なのは、ギリシャ神話です。あの神様はほとんど人間と変わらないです。日本の神様はもうちょっと上品ですけどね。

【盟神探湯】 それから裁判。悪い人間は熱湯に手を入れて、よけいただれる。盟神探湯(くがたち)という。これも宛て字です。この時代、ひらがながあるなんて、考えないでください。ひらがなはありません。中国語で、漢字で書くしかないわけです。日本語を。ひらがなはあと500年間ない。あとしばらくないと思ってください。奈良時代になっても、まだないです。さすがにこの盟神探湯は今は見られない。

【禊ぎ・払え】 しかしその次は、今でもやる。禊ぎ(みそぎ)、払えです。車を買ったら交通安全にお祓いに行きます。正月に禊ぎする人は今は少ないけれど、水が冷たいから、朝風呂に変わってます。正月に朝風呂というのは、あれは禊ぎの一種ですよ。本当は水ごりしないといけない。こういうふうにして、世の中、楽に楽にと、なっていくんですね。私も正月は近くの温泉の湯に浸かるのが1年の始まりです。



【5~6世紀 400~500年代】
【大和政権の政治機構】
【大王】
 ヤマト政権が成立して、領土拡大をして大きな国になって、そこで地方をどうやって治めていくか。または有力な中央豪族たちをどうやって治めていくか。その政治機構です。
あと100年ばかり経つと、中国式の官僚制、律令制というのが、中国を見習って入ってくるんだけれども、まだそこまで行ってない。自分たち独自で考えた政治組織です。


まず天皇という言い方は、まだないです。これは、大王と書いて「おおきみ」という。地方には、小国を治めるふつうの王がいて、その王よりもワンランク上だということを、どうやって言い表すか。この時には「大」をつけた。これで大王(おおきみ)という。これがのちに天皇になっていくわけです。
世界史でやったギリシャ・ローマ社会なんかは、選挙で王を選んだり、皇帝を選んだりする慣習があるけれども、これは世界の地域によって違う。日本はそうじゃない。王権は世襲ですね。家柄で選ぶ。だから親から子、子から孫へと王権が伝わっていく。選挙ではなくて。

その大王も、もともとは大土地所有者であって、彼が直轄する土地のことを、屯倉と書いて、ここらへんは宛て字だから読めないですよ。「みやけ」と言う。
読めないから、これ今、どう書くかというと、たまに人の名字で、三宅さんというのがある。これも知らない人は読めない。「さんたく」さんとか。これは知ってたほうがいい。「みやけ」さんです。三宅さんというのは、もともとこの屯倉(みやけ)であったろうといわれます。



【中央豪族】 それから奈良県にいる、天皇の家来、中央豪族ですね。おもに役割が3つある。
1つ目は、戦さの時の軍事です。
2つ目は、政治にはお金がかかる。この時代にはまだお金はないけれども、米倉、財政です。財政で役に立つ。
3つ目は、この時代に大事なのは祭祀です。お祭りですよ。政治とお祭りの関係というのも、いま分からない人が多いですけれども、江戸時代まで政治のことを、政りごと、と呼んでいた。政りごと、これは何と読むか。まつりごとです。お祭りなんです、政治というのは。祭りとは、神様を祭ることなんです。そのことと政治というのはセットだった。古くなればなるほどそうです。この祭祀、これはなかなかバカにできない。

結論をいうと、あと500年後の平安時代に生き残って、大豪族になっていくのは誰かというと、この祭祀を担当する一族です。この時代のメインはこの祭祀なんです。これは要注意です。バカにできない。
1つ目の軍事は、大伴氏です。それよりも古い豪族として物部氏もいます。


※【異説】 物部氏は、天皇家が入ってくる以前の大和地方の王だったのではないかとも言われます。5~6世紀に日本がどこまで統一されていたかは、はっきり分かっていません。


この大伴氏の伝説が残っているのを、聞いたことないですか。
九州の唐津の鏡山、そこはひれ振りの峰といって、その鏡山にまつわる伝説があります。そこに昔、松浦佐用姫さんという娘さんがいて、その恋人(夫)の武将が朝鮮半島に船を漕いで渡って行った。そのときに鏡をもらいます。鏡をもらうことは、保護と服属の証しです。松浦佐用姫が妻になることも、政治的な連合があった証しです。

松浦佐用姫は夫をいつまでも見送りたいから、ひれ振りの峰、つまり今の鏡山に登って、その船をひれを振りながら、いつまでも、いつまでも、「さようなら」と言いながら、ひれを振って見送った。そこから鏡山には「ひれ振りの峰」という名前がついた、という話です。これが唐津に残る佐用姫伝説です。その近くに大きな松浦佐用姫さんの像が、ゆっくり回っている道の駅がある。唐津の厳木の道の駅に。けっこう有名です。

『遠つ人 松浦佐用姫 夫(つま)恋に ひれ振りしより 負へる山の名』
(遠い昔の人 松浦佐用姫が 夫が恋しくて ひれを振ったから ついた山の名)

という歌が奈良時代の「万葉集」にあります。
何を言いたいかというと、松浦佐用姫という人は伝説ですけれども、見送られた色男の恋人(夫)は歴史上の実在の人物で、大伴狭手彦(おおとものさでひこ)と言います。このヤマト政権の軍事担当豪族、大伴氏の一族です。
朝鮮半島と日本は非常に関係が深くて、そこに軍隊を引き連れて渡っていった。唐津はその前線基地になる。この唐津の軍事的重要性は、それから1000年後、豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵するときも変わらない。秀吉は前線基地をどこに作ったか。これが唐津の肥前名護屋城です。昔は大きなお城だった。唐津からちょっと西の鎮西町にあります。
朝鮮半島にいくときには、唐津、福岡、そこらへんが前線基地、つまり拠点になるわけです。その大伴狭手彦は、実際に軍隊を率いて朝鮮半島まで渡って行った。それは事実です。それが形を変えて、唐津の松浦佐用姫の伝説になっている。大伴狭手彦というのは、このヤマト政権の軍事を担当する大伴氏です。(本当は九州王朝の豪族ではなかったかという話もあります)

2つ目の財政担当、お金勘定担当、これは蘇我氏です。これもあとで出てきます。
3つ目の祭祀、神を祭ること、これは中臣氏という。結論をいうと、これが平安貴族最大の藤原氏になっていく。あとで名前を変えて藤原氏になる。



【地方豪族】 では地方豪族です。県知事さんのようなものです。県よりちょっと小さいんですけど。県知事クラスの地方豪族を、国造と書いて「くにのみやっこ」と言う。ここらへんは全部、宛て字です。なぜ宛て字かというと、ひらがながないからです。だから国造と書くんです。

もともと「くにのみやっこ」という日本語があって、それをひらがながないから、中国の文字で表そうとした。意味をとらえて、国を造る人、国を治めていい国を造っていく人という意味は分かっている。これを「くにのみやっこ」という。これが県知事レベルです。「やっこ」というのは人のことです。「やっこさん」という歌や、やっこ凧という凧もある。それに丁寧語の「み」がつく。「国の御人」ぐらいの意味でしょう。それを「国造」と書いた。
ここには、たんに人を支配するという観念から抜け出て、「国」という観念があります。みんなが共に生きていく共同体の観念が発生しています。

それから市長レベルになると、県主(あがたぬし)と言う。県は「あがた」です。県は、都道府県の県ですけれども、県さん、「あがた」さんという名字もたまにある。そのあがたの中心人物を、県主(あがたぬし)という。地方豪族にこういうふうに官職を与えることによって、お前はオレの家来だ。家来になると、もし困ったことがあったらオレが助けてやるという、そういう保証が生まれるんです。
しかし、何かあったらオレを支えろ、ということです。地方では、都の大王(おおきみ)さんとオレは仲が良いんだ、というと箔がつく。地方の小豪族に箔を与えて、その豪族にその地域を任せる。

これが200年後、8世紀の奈良時代になると、中央貴族を、地方の県知事クラスとして、新幹線もない時代に派遣していくようになる。これは国司と言われる。それまでは地方豪族がそのまま国造(くにのみやっこ)になっていた。それが国司制度になると、奈良県生まれの中央豪族の若い息子たちが国司になって地方を支配する。そういうふうに変わっていきます。


※【異説】 しかし5世紀の日本が、畿内の第2次吉野ヶ里王国(ヤマト政権)と、九州の邪馬台国とに分裂していたと考えると、6世紀のこのようなことが「どこで」起こったことなのか。ヤマトのことなのか、九州のことなのか、それともヤマトと九州の両方でたまたま同じことが起こっていたのか、という疑問が起こります。そして「いつ」のことなのか、という疑問も同時に起こります。あとで言うように、日本が統一されるのは7世紀の白村江の戦いのあとだ、とも考えられるのです。

続く。



新「授業でいえない日本史」 2話の2 古代 (6世紀)磐井の乱

2020-10-29 06:56:00 | 新日本史1 古代
【大和政権の動揺】 6世紀になると、507年に意外な人物が天皇になります。大和の人ではありません。越の国というから遠い北陸地方から迎えられた天皇で継体天皇といいます。『日本書紀』によると在位は507~531年です。前世紀の天皇だとされる応神天皇の5代あとの子孫だとされています。5代も隔たっていると普通の家ではご先祖様もたどれないほど昔のことです。
天皇の子孫は大和地方にもたくさんいただろうに、なぜこんな遠くから天皇を迎えなければならなかったのか、よく分かっていません。ただこの継体天皇は今までの天皇の系図とはまったく違った血筋の天皇ではないかとも言われます。となれば、ここで王朝が交代した可能性もあります。

※【異説】 これ(継体天皇の先代の武烈天皇)は倭王武の諡(いみな)と年齢ではないでしょうか。いわゆる倭王武の漢風諡号を大和王朝が取り込んだものに相違ありません。(古代に真実を求めて 第4集 和田高明 古田史学の会編 明石書店 2001.10月 P311)

※【異説】 実は我が国には「日本書紀」や「続日本紀」には登場しない年号群が存在するのです。この年号群を載せる書物は「二中歴」「海東諸国紀」「襲国偽僭考」「善光寺縁起」などなど枚挙にいとまがありません。勿論様々な書物に登場しますからその異同も少なからず存在しますが、概ね「継体元年」(517年)から「大化6年」(700年)まで184年間途切れることなく続いています。この年号群は・・・・・・一般には「九州年号」と呼ばれてきました。・・・・・・我々の主張は主に九州北部を首都にしていた「倭国」という国家が700年までは近畿王権に先んじて日本列島の主権者であったというものです。(古代に真実を求めて 第20集 失われた倭国年号〔大和朝廷以前〕 西村秀己 古田史学の会編 明石書店 2017.3月 P14)

※【異説】 要するに、武烈(天皇)に子供がなかった。継体(天皇)は滋賀県の北部、出身は福井県のあたりの豪族だった。・・・・・・それを、結局、武烈の子供がなかったことで、大和皇位継承戦が起こった。・・・・・・周辺の、それぞれ天皇になりたい候補者は、周辺の豪族を応援に呼んだと思います。その呼ばれた1人が継体だった。
 結局、要約すると、結論において、継体は頼まれた通り相手を倒した、返す刀で自分に頼んだ人物を倒した。そして自分が天皇の位についた。どうもそういう経緯のようでございます。・・・・・・それまでは、近畿天皇家は九州の出であるということを自慢にしていたのです。・・・・・・それだから母屋には「楯突けなかった」わけです。ところが、野武士のように出てきた継体は「母屋」に楯突く。・・・・・・
 要するに、これ(磐井の乱)は「磐井の反乱」ではなくて「継体の反乱」である。継体は二重の意味で反乱を行った。第一には近畿の天皇家に対する反乱、応援部隊であったのが。第二には近畿天皇家の母屋であった、九州王朝に対する反乱と。この二重の反乱を経てきた。(邪馬壹国から九州王朝へ 古田武彦 新泉社 1987.10月 P217)


※【異説】 丹後は、越北東部と強くつながり、日本海側から東国に影響力を及ぼしていた。当初丹後は近江・東海とつながっていたが、次第に丹後と東海の利害は対立するようになった。
 このため、丹後はかつての仇敵・出雲と手を結び、日本海連合体を構築したのではないかと筆者は考えるのである。これが、神話にいうところの「出雲」の正体ではないかと思うのである。・・・・・・一つだけ言えることは、ヤマト建国ののち、出雲、丹後、越、そろって仲良く没落してしまったことである。・・・・・・そして、この出雲や丹後(要するに山陰地方)と越南西部の没落と零落こそ、神話に描かれた出雲の国譲りだったのではないだろうか。・・・・・・
 つまり弥生時代後期から古墳時代初期の日本海諸国の活躍を、「日本書紀」は「出雲」とひとくくりにしてしまったのではないかというのが、筆者の考えなのである。・・・・・・なぜこのようなことに注目したのかといえば、ヤマトと東国、出雲と東国、越と東国の関係が、継体天皇出現の背景に隠されているからである。(消えた出雲と継体天皇の謎 関裕二 学研 P46)


※【異説】 ヤマト朝廷も出雲神には頭が上がらなかったようだ。箸墓古墳で名高いヤマト黎明の地・纒向遺跡は、出雲神・大物主神(おおものぬしのかみ)の祀られる三輪山のふもとの扇状地に展開している。その後の天皇家も、三輪山を無視できなかった。・・・・・・
 「日本書紀」や「古事記」の説話の中には、天皇家を悩ませる出雲神が頻繁に登場し、出雲神の祟りにおびえた天皇家は、出雲神を丁重に祀りあげたのである。祟る出雲神は、「天皇と同等の宮を建ててくれれば、おとなしくしていよう」とすごんでみせ、恐怖した天皇家は、出雲に巨大な神社を建立した。これが出雲大社の起源とされている。(消えた出雲と継体天皇の謎 関裕二 学研 P99)



〇 この継体天皇を迎え入れたのが、軍事担当豪族の大伴金村だといわれています。しかしこの大伴金村は、朝鮮半島南部の加羅地方を百済(くだら)に割譲したため、その責任を問われて失脚していきます。さっき言った唐津から出兵していった大伴狭手彦はこの大伴金村の息子です。

※【百済の武寧王】 武寧王は、百済の第25代の王(在位:502年 - 523年)。(ムリョンワン、462年 - 523年)。
『三国史記』百済本紀・武寧王紀によれば先代の東城王の第2子である。旧都漢城(ソウル)を高句麗に奪われ混乱した百済の安定を回復した王とされる。
東城王が501年12月に暗殺された後、首都熊津(忠清南道公州市)で即位した。
「日本書紀」は次のように伝える。武寧王の出生の話として雄略天皇紀5年(461年)条に、百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の昆支王を倭国に貢る際、自身のすでに妊娠した婦を与えて、途中で子が生まれれば送り返せと命じた。一行が筑紫の各羅嶋(かからのしま・加唐島、佐賀県唐津市)まで来たところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した。これが武寧王であるとしている。継体天皇6年512年)に任那の4県を、倭国から百済に譲渡した。
武寧王は41歳に至るまで倭国で生活していたとする説がある。(ウィキペディアより)




【磐井の乱】 これに対して、地方豪族のなかで不満を持つ者が現れた。不満を持つナンバーワンはどこか。やはり北部九州です。なぜか。奈良県のヤマト政権が強大化しているから。もともと進んでいたのは九州なんです。なんで奈良県ばかりそんな偉そうにしているのか。オレたちのほうが、もともと先進地帯なんだと。前に言ったように、実はこのころ九州北部にはヤマト政権とは違った別の王権が存続していたのではないか、という話もあります。

※【異説】 (517年は)最初の九州年号「継体」の元年で、筑後を王都とした磐井の時代にあたる。「建元」は中国の冊封から離れ自立したことを示すから、この時点で磐井は筑後を「天子の都」則ち「帝都」としたといえよう。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P30)



〇 527年、ここらへんからは具体的な年まで分かってきます。さっき言った筑紫の国造、これは福岡県です。福岡県の国造です。具体的には、福岡市じゃなくて、もうちょっと南の八女市だといわれます。そこの筑紫の国造磐井(いわい)という人です。筑紫の(きみ)と書いてあるものもあります。

彼が朝鮮半島の新羅(しんら)と手を結び、百済を応援するヤマト政権に対抗したといわれます。その乱を、527年磐井の乱といいます。ここには彼の墓とされる古墳もあります。福岡県八女市には国道3号線沿いにある岩戸山古墳です。かなり大きな古墳です。それまで先進地帯であった九州北部の地方豪族が、ヤマト政権に反抗していった、ということです。
しかしこれは、物部麁鹿火(あらかび)に鎮圧されて滅んでいきます。磐井の乱が鎮圧されて、これで奈良の中央権力は安定します。

※(筆者注) 磐井の乱は中央に対する地方の反乱ではなく、畿内のヤマト政権九州王朝との戦争だとする考えもあります。そもそも国造制度は次の600年代になってから現れたもので、この時代にはなかったとする考えが最近では強いようです。とすると、磐井は国造ではなく九州王朝の王だったことになります。こう考えると、それまで磐井を王とする九州王朝の分家に過ぎなかったヤマト政権が、ここで逆に九州王朝に勝利し、力を強めていったことになります。しかしここで九州王朝が滅んだわけではなく、ヤマト政権と九州王朝の対立はその後も続いたようです。その九州王朝の存在を、のちの「日本書紀」はあえて記述しなかったとするものです。「失われた九州王朝」(古田武彦)という考えはここから発生します。

※【異説】 新羅討伐に赴いた、または赴こうとした人物とは、倭王武の後継である「磐井」その人であり、『書紀』では「磐井」と「毛野臣」が入れ替えられている可能性が高い。そうであれば、磐井の渡海を妨げようとしたのが「毛野臣」ということになる。(古代に真実を求めて 第23集 『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独〔消えた古代王朝〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2020.3月 P98)

※【異説】 おかしいのは、磐井を斬った、これは大勝利という感じです。中心人物を斬ったのですから。ところがその後、子供の葛子が和睦をしたと。これは何と、和睦の条件が「糟屋の屯倉を献上する」というだけの条件。・・・・・・その屯倉、集めた収穫物をあなたにあげますよ。それだけの条件で和睦したと(日本書紀には)書いてあります。私、一時、糟屋の土地を割譲したかと思ったことがありましたが、よく見たら、全然そんなことは書いてありません。屯倉を献上しただけのことであります。・・・・・・

 これは当然ながら、近畿天皇家側の大勝利には終わらなかったのではないか、という大問題が出てくるわけです。もっとズバリ言いますと、後半は、負けたんではないか。近畿天皇家側が負けたのではないか、という問題を指しているのです。・・・・・・
 久留米の近辺の御井、「ここで戦って磐井を斬った」とあります。『風土記』によると磐井は落ちのびて、大分県の近くの方へ行って、その山中で没したと書かれていますが。ところが、その場合、上陸地点の戦闘が書かれていないのです。ご存じのように、御井なり久留米なりあの辺は内陸部でありますから、大和から来ていきなり、飛行機で落下傘部隊で降りるというわけにはいきません。当然、博多湾から上陸したか、別府湾から上陸したか、あるいは関門海峡からということもあるかもしれませんが、いずれにせよ「上陸」したはずです。それならば、御井へ行く前にその上陸地点で、もっと激烈な戦闘があったはずではないですか。
 ところが、それが一言も書いてないのです。面倒くさいから略したのでしょうか。しかし、最初のそれだけの激烈な戦闘を略す必要がどこにあるのでしょう。・・・・・・これは何か。私は、これに対する答えとしてはひとつだけ答えうる「仮説」があると思うのです。何かと言いますと、それは内陸部に入るまでは、敵としては入らなかったつまり味方として入った。何の味方か。磐井、私の言う九州王朝ですね。・・・・・・それの「応援軍」として入った。・・・・・・
 その場合には磐井側は当然喜んで迎え入れますよね。そうすれば、磐井の本営の所まで行けるわけです。そして一夜、「反乱」です。「磐井を斬る」。これは斬られるわけです。懐に入っているのですから。ところがその場合には、非常に見事な水際立った成功に見えますが、あとが怖いわけです。・・・・・・
 懐に入って磐井をパッと斬った、そこまではよかったのですが、さてその後に、いわゆる南北(筆者注 肥後軍と朝鮮半島軍)から、最も精強な軍隊に挟み撃ちになるのです。そうすると、その後はどうなったかは、先ほどの「和睦条件」が意味しているのです。(邪馬壹国から九州王朝へ 古田武彦編 新泉社 1987.10月 P197)

※【異説】 海峡の向こう側には、倭国(九州王朝)の大軍が渡って任那作戦を展開中なのですから、戦況如何では、いつでも引き揚げて来られる状況にあります。そこで降伏したのは、大和軍の(物部)麁鹿火の方だったのです。・・・・・・そこで麁鹿火と継体(天皇)を助命する代わりに、謀反の代償として突きつけた条件が、継体(天皇)の太子の入質だったということです。そして・・・・・・その扶養料として糟屋(かすや)屯倉を当てるから心配するな、というのが真相だったのです。・・・・・・この太子が後の欽明天皇です。(古代に真実を求めて 第4集 和田高明 古田史学の会編 明石書店 2001.10月 P321)

※【異説】 本来「倭国(九州王朝)の政を執る筑紫の磐井が、530年大伴金村新羅討伐を命じ、金村は息子狭手彦半島に派遣した」記事を、『書紀』編者は、磐井の死後の537年に移し「ヤマトの宣化(天皇)が大伴金村に新羅討伐を命じ、金村は息子狭手彦を半島に派遣した。息子磐は筑紫の政を執った」と潤色したことになろう。(古代に真実を求めて 第23集 『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独〔消えた古代王朝〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2020.3月 P107)

※【異説】 『書紀』編者は、
①「磐井の乱」記事では磐井毛野臣を入れ替え、
②「磐井討伐令」では磐井継体(天皇)に、大伴金村物部麁鹿火に入れ替え、

③「日本天皇」を磐井でなく継体(天皇)のことだとしている。(古代に真実を求めて 第23集 『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独〔消えた古代王朝〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2020.3月 P107)

※【異説】 「支配地分割」は、「磐井が大将軍の大伴金村半島平定を命じ、自らは国政を担当した」という倭国(九州王朝)の事績記事を、「継体(天皇)が物部麁鹿火磐井討伐を命じ、本州は継体が、九州は麁鹿火が支配することにした」と潤色したものだった。この潤色により、『書紀』編者は、「磐井の討伐で九州は本来のヤマトの天皇家の支配に復し、我が国すべてがヤマトの天皇家の統治するところとなった」という歴史を創造したのだ。(古代に真実を求めて 第23集 『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独〔消えた古代王朝〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2020.3月 P108)

※(筆者注) 九州王朝説に立てば、大伴氏は九州王朝の豪族だったことになります。万葉集の作者とされる大伴家持は、そこに松浦佐用姫の歌をおさめ、自らの出自と九州王朝の痕跡を後世に語り伝えたかったのかも知れません。

※【異説】 いずれにしても、磐井の崩御による九州年号の改元はあっても、以後も九州年号は続き、任那復興に向けた軍事行動も起こしているから、葛子以降も倭国(九州王朝)は存続し、6世紀末の『隋書』に「阿蘇山有り」と記す「日出る処の天子」阿毎多利思北孤(アマタリシヒコ)に繋がっていくことになる。(古代に真実を求めて 第23集 『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独〔消えた古代王朝〕 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2020.3月 P110)


※【異説】 6世紀初頭の磐井は・・・・・・九州を拠点とし、半島諸国は揃って磐井に朝貢していた。つまり磐井は倭王だったことになる。その王都は、磐井の墳墓とされる岩戸山古墳や磐井の乱に「御井の郡での戦闘」が記されることなどから、筑後~肥後という「有明海沿岸」にあったと考えられる。その6世紀、九州王朝(倭国)は、半島の覇権をめぐって新羅との戦いに明け暮れていた。そして任那滅亡に表れるように、全体として新羅の進出を許す情勢にあった。こうした半島情勢の悪化は6世紀中続いており、九州王朝(倭国)はその間戦乱を避け、半島から遠い筑後に王都を置いていたと考えられよう。・・・・・・その中で、筑後~肥後王都時代を終わらせ、太宰府に遷都したのは九州王朝(倭国)の天子タリシヒコだった。(古代に真実を求めて 第21集 発見された倭京 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2018.3月 P28)

※【異説】 磐井の墳墓は八女の岩戸山古墳とされ、『書紀』によれば「磐井の乱」の戦闘は「筑紫御井郡」で戦われたとある。加えて、万葉歌(4261番)の「大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を皇都と成しつ」から、その「帝都(本拠)」は筑後三潴(みずま)(福岡県三潴郡水沼・古代の水沼県)、或は高良山(久留米)付近を中心とする御井~八女の付近にあったと推測される。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P86)




〇 記録にまったく現れない遺跡に神籠石(こうごいし)というのがあります。九州北部から瀬戸内海沿岸にかけて発見されますが、山の中に山を取り囲むように石が並んでいるのです。今は雨で流れ去っていますが、実はその上には土塁が築かれていたのです。最初は何だか分からずに、何かの神域だろうということで神籠石と呼ばれていましたが、だんだんと古代の朝鮮式山城跡だということが分かってきました。

福岡県では、久留米の高良山、糸島の雷山など、佐賀県では、佐賀の帯隈山(おぶくまやま)、武雄のおつぼ山など全部で21ヵ所もあります。これらの山城跡は、磐井の乱の頃のものではないかと言われていますが、もう一つ、663年の白村江の戦いのころにつくられたものではないか、とも言われます。最近はこのほうが有力のようです。

さっき言った唐津の鏡山の佐用姫伝説というのは、この頃の話です。磐井の乱の10年後の537年です。527年の磐井の乱は軍事担当豪族の物部麁鹿火によって鎮圧されますが、そのあと、都(どこかは分かりません)から送られてきた将軍が、同じ軍事担当の大伴狭手彦です。このときには複雑に、朝鮮半島の国が絡んでいて、朝鮮の新羅が強大化していた。それで、圧迫される百済を応援するために朝鮮半島まで軍を出さないといけなくなったのが大伴狭手彦です。
この大伴狭手彦の話は史実とされますが、その恋人役の松浦佐用姫の話は伝説です。「なんだ伝説か」ではなくて、「伝説は意外とバカにできない」ということを言いたいのです。
昔話と伝説の違いというのは、昔話は、「いつ、どこで、誰が」、これが分からない。桃太郎は、「むかしむかし」、これではいつかが分からない。「あるところに」、これでは場所が分からない。「お爺さんとお婆さんが住んでいました」、お爺さんとお婆さんはどこにでもいるわけですから、ますます分からない。
しかし伝説というと、「文久三年、播磨の国の、寒い冬の夜のことであった」と時間と場所が分かる。「そこに清兵衛という貧しい農民が母親と一緒に暮らしていた」とかなんとか続くわけです。人物まで特定できる。これは伝説です。伝説は、すべて100%正しくはないけれども、かなり事実をくみ取っている。その上でアレンジしていく。そこらへんが伝説です。

『日本書紀』では、継体天皇のあとは安閑天皇(位534~35年)ですが、継体天皇の死が531年ですから、即位までに3年間のブランクがあります。次が宣化天皇(位536~39年)ですが、安閑・宣化は共に短命です。

 次が長期政権の欽明天皇(位540~71年)ですが、安閑・宣化天皇の宮廷と欽明天皇の宮廷が併存し対立していたのではないか(二朝対立)ともいわれており、この時期のことはよくわかりません。

※【異説】 「安閑」帝とは(磐井の子の)葛子である可能性が濃厚です。・・・・・・宣化帝も紛れもなく九州の王者です。・・・・・・これは全て、九州王朝の系譜を、大和王朝に取り込んで接合したために生じたことなのです。・・・・・・(宣化帝の宮である)檜隈(ひのくま)盧入野(いほりの)宮を推理するにつき、おもしろいことがあります。九州は佐賀、吉野ヶ里遺跡の西方に隈の字のつく山が並んでいます。西から、鈴隈山、帯隈山、早稲隈山、そして最も東に日の隈山と、隈のオンパレードなのです。おまけに吉野ヶ里の東には鳥ノ隈の地名まであるのです。・・・・・・一方、太宰府から東へ山一つ越えた桂川町に王塚古墳があり、その近くに「日の隈」「忠隈」の地名が実在しているのです。(古代に真実を求めて 第4集 和田高明 古田史学の会編 明石書店 2001.10月 P317)

※【異説】 (磐井の乱とよばれる)「継体の反乱」により、(九州王朝は)都を(現久留米市の辺りから)、勾金(田川郡香春町か)、そして檜隈(ひのくま)に移したことになります。(古代に真実を求めて 第4集 和田高明 古田史学の会編 明石書店 2001.10月 P317)




新「授業でいえない日本史」 2話の3 古代 (6世紀)仏教伝来

2020-10-29 06:55:30 | 新日本史1 古代
【仏教伝来】 またそれと前後して、この6世紀には、朝鮮半島から新しい文化が伝わる。これが仏教です。仏教伝来です。「仏教は日本古来の宗教だ」と勘違いしている人が時々いますので、仏教はもともとはどこの宗教ですか、インドですよね。「日本の宗教ではない」と思っていたらいいほうですが、なかには「中国の宗教だ」と答える人も多い。中国の前がある。インドです。

日本に伝わったのは仏教2種類のうちの北伝仏教といわれるもので、インドからここに伝わる。インドの北西部は中央アジアという。その砂漠を渡って、中国の西部の敦煌について、それが漢の時代の中国に入って、中国・朝鮮・日本とやってきたのが、日本の仏教です。外来宗教ですよ。お釈迦さまは本名は、ゴータマ・シッダールタという。これも世界史でいいましたね。




ではそれまで日本に土着の宗教はなかったのか。仏教はお寺ですよね、では土着宗教は何か、それが神社です。これは神道というんです。建物としてはのちに神社になります。
この二つはまったく違った別の宗教です。しかし日本人のおおらかさというか、よく神様と仏様をいっしょに拝む。それでいいことになってます。お寺は外来宗教で、神社は日本の土着宗教です。
だから、拝み方も違う。社の造りも違う。お寺は、今でも瓦葺きですよね。屋根は瓦です。神社にも決まりはないけれども、だいたいは檜の皮で葺くというのが由緒ある神社の姿です。拝み方も、仏教は静かに合掌です。でも神社では勢いよくを打ちます。以前、お通夜の席で勢いよく柏手を打った女性がいたことを言いましたが、いくら知らなくても、あれだけはやっちゃいけないなあ。

日本人の今の葬り方、これは法律にまで明治以降、決まっているんだけれども、土葬はだめなんです。火葬です。この火葬というのは、もともと仏教の考え方です。
それまで日本はずっと土葬です。この近くにも、かなり最近まで、昭和の初めまで土葬の風習を守ってきた地域もあります。
土葬というのは、命の復活を信じる。そういったときに、命や魂が宿るときには、体がないといけないからです。これが徹底していくと、エジプトのミイラになる。ぜったい腐らないように、カラカラにしてでも、包帯巻いてでも、体だけは残す。あれは復活の思想ですよ。再生です。
でも仏教というのは、無になることを理想とします。ゼロを発見した国ですから。死んだら無になる。すべてなくなるのがいい。これが火葬です。

その仏教の伝来年ですが、国家に正式に伝わる前に、外国に詳しい人が仏教のこと知っていて、勝手に拝んでいた。これが私伝です。これは司馬達等という人です。この人が、早くから信仰していたという記録があります。彼らはもともと朝鮮から来た渡来人です。このような外国から来た渡来人が当時の日本にいっぱいいたのです。しかも彼らは難民として支配されるのではなく、社会の上層の支配層として社会の中枢にいたのです。



【公伝】 公伝というのは、古代では天皇に伝わるというのが正式です。欽明天皇(位540~571年)の時に伝えられた。この欽明天皇は在位が540年から31年ものあいだ天皇の座にあった人で、その治世が異様に長い人です。ふつうの天皇在位は10年前後です。在位がたった2~3年で終わる天皇も珍しくありません。そんな中でなぜこんなに在位の長い天皇が現れたのか、不思議な人です。継体朝から欽明朝にかけて支配者が変わったのかも知れません。大伴氏は力を失っていきます。


仏教がどこから伝えられたかというと、朝鮮半島の百済(くだら)からです。私が知った人で「百済」という名字の人もいました。その人は「ひゃくさい」という名前だったけど。その百済の王である聖明王から、仏教が日本の欽明天皇に伝えられます。この時代、百済は新羅から圧迫されています。聖明王は、554年に新羅との戦いで戦死しています。


※【異説】 欽明天皇は、百済の聖明王その人ではないか、とする説もあります。百済王の話が、日本の天皇の話に作り替えられているのではないか、とする考え方は同じです。

※【百済の聖明王】 聖王は、百済の第26代の王(在位:523年 - 554年)。(せいおう、? - 554年7月)。聖明王ともいう。先代の武寧王の子。 
新羅・倭との連携を図って高句麗に対抗しようとする百済の伝統的な外交態勢を再び固めた。
538年に首都を熊津から泗沘に移し、「南扶余」と国号を改めた。新羅との連携についても不安定なものとなり、新羅への対抗のために殊更に倭(ヤマト王権)との連携を図った。
541年には新羅討伐を企図し、ヤマト王権の介入を要請した。しかし、欽明天皇から武具や援軍が送られたのは547年以降のこととなった。この頃には百済は再び新羅と連合(羅済同盟)して高句麗に当たるようになっていた。
551年に漢山城付近を奪回したが、553年に同地域は新羅に奪われてしまった。同年553年10月に王女を新羅に通婚させている。554年に新羅と管山城で戦っている最中に、孤立した王子昌(後の威徳王)を救援しようとして狗川で伏兵に襲われ戦死した。(ウィキペディアより)



〇 仏教の公伝が538年説です。佐用姫伝説で出てきた大伴狭手彦が朝鮮に渡って行ったのは537年ですから、その前年ですね。大伴狭手彦は新羅に圧迫されつつあった百済を救援するために朝鮮に渡って行ったと言われます。百済の聖明王としてはその返礼のつもりだったのかもしれません。こういうふうにこの時代の九州北部は百済との関係が深いのです。


佐賀県西部の白石町には百済の聖明王を神として祭っている稲佐神社もあります。それは聖明王が朝鮮で戦死し、その息子がここに逃れてきたという伝承からです。たぶん亡命したのでしょう。百済は、邪馬台国系の九州王国との関係が深いのです。

ちなみにその稲佐神社一帯は昔は「錦江」村といっていて、錦江とは朝鮮の中南部を流れる川で、そこで行われた日本と朝鮮との戦いがあとでいう白村江の戦いです。白村江とは朝鮮を流れる錦江のことです。

仏教公伝にはもう一つ、552年説というのがありますが、538年説が有力です。それは年代を逆算できる記録が残ってるからです。これは聖徳太子という人の伝記を書いた「上宮聖徳法王帝説」という本に書いてあります。



【対立】 しかし仏教が伝わったとき、外来宗教だから、反対する人もいた。これが廃仏派です。しかし外来宗教好きで、これは新しい宗教だといって、真っ先に飛びついた人もいる。
ここで2派に別れる。崇仏派つまり仏教賛成派と、廃仏派つまり仏教反対派です。
仏教賛成派が蘇我稲目(そがのいなめ)です。この人は、朝鮮半島から日本に来た渡来人と仲がよかった。もともとご先祖は渡来人ではないかと言われる。だから仏教好きだった。
それに対して、神社が好きで、神様が好きで、それを一生懸命拝んでいた人は、新しい仏教に対して、こんなものはイヤだと言った。これが物部尾輿(もののべおこし)です。あとでいいますが、結論いうと、仏教好きな蘇我氏が勝ちます。物部氏を攻めて潰します。
これはいま日本が仏教を信仰していることを考えただけでも、予測はつきます。ここで仏教派が負けていたら、日本に仏教は根づいていないかもしれません。


※【異説】 蘇我氏は新羅の重臣のことだった、とも言われます。百済の聖明王が新羅と戦って戦死したことが、蘇我氏(新羅系)が物部氏(百済系)を滅ぼしたという話にアレンジされたとも言われます。蘇我氏は日本に実在しなかった豪族である可能性があります。



〇 ここからインド宗教である仏教が日本に根づいていきます。しかし、だからといってそれまでの伝統的な神道がなくなったわけではありません。このあとは神道と仏教の二本立てで信仰生活が維持されます。ここがヨーロッパ社会と違うところです。ヨーロッパでは、世界史でも言ったように、キリスト教が国教になったあとは、他の宗教はすべて邪教として弾圧されます。一つの宗教が正しいとすると、それ以外の宗教は間違っていることになる、キリスト教のような一神教ではそうなります。しかし仏教や神道は多神教です。多くの神様が、それぞれに正しいことを言っていい社会です。キリスト教社会が、異教をどうやって弾圧するかを考えたのに対し、日本は神道と仏教という二つの異なった宗教をいかに矛盾なく融合させるかを考えていきます。この違いは非常に大きな文化の違いを生んでいきます。


 欽明天皇の次が敏達天皇(位572~85)です。
 その次が用命天皇(位585~87)です。用明天皇厩戸王(聖徳太子)の父で、天皇として初めて仏教に帰依した人とされています。
 天皇はそれまで、日本古来の神社の祭祀をしていました。特に皇祖神である天照大神を祭る伊勢神宮の祭祀は重要です。天皇が仏教に帰依した場合、その伊勢神宮の祭祀はどうなるのか。用明天皇は、そのまま続けさせます。そればかりか、自分の娘を伊勢神宮に送り、神に仕える女性である斎宮(さいぐう)として奉仕させました。つまり神道か仏教か、という二者択一をとりません。むしろ逆に、仏教を手厚く信仰するのであれば、それまでの伝統的な神社の祭祀も手厚く行うというバランスの取り方です。これはこのあとも日本の一貫した宗教政策になります。

唯一の例外は、のちの明治維新政府の廃仏毀釈ですが、それは見事に失敗します。

蘇我稲目の子の蘇我馬子は、用明天皇が亡くなった587年に、仏教反対派の物部尾輿の子の物部守屋を滅ぼします。蘇我氏が勝ったのです。蘇我氏は勝って政権中枢を握ったことになります。

このとき用明天皇の息子の厩戸王(聖徳太子)は蘇我氏側につきます。

※【異説】 『日本書紀』では用明天皇2年(587年)7月に起こった崇仏・廃仏戦争(蘇我・物部戦争)の記事の後半に、これまで残党掃討戦のように読まれてきた地味な記事が続いている。本稿は・・・・・・後半における戦いを「河内戦争」と名付けた。・・・・・・
◎「朝庭」の該当者は近畿天皇家には見当たらない。九州王朝の天子(多利思北孤かもしれない)であろう。
◎「河内戦争」の結果、河内を中心とする近畿地方の「八つの國」「朝庭」の支配下に入った。・・・・・・
◎「朝庭」による近畿平定は、日本史上における一大事業だったと言って過言ではない。近畿はその後数十年をかけた開発により、前期難波宮天王寺などの建造をはじめとして、評制の施行という全国的な新政策の発信地になるなど、大発展を遂げた。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 冨川ケイ子 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P171)

※(筆者注) この河内戦争を、九州王朝近畿天皇家との対立とする説があります。そしてこの時の九州王朝の天子を「多利思北孤(タリシヒコ)」とみます。このタリシヒコは、中国史書『隋書倭国伝』に遣隋使を派遣したとされる人物で、「倭国の王」と記される人物です。

※【異説】 「海東の菩薩天子」を自負する(九州王朝の)多利思北孤(タリシヒコ)は、「廃仏」を旗印にして九州王朝による集権体制の強化に反対する物部氏587年に討伐し、その後高良玉垂命の崩御を受け、589年に俀国(九州王朝)の天子に即位し、「端政」と改元した。
 そして隋の脅威を背景に、守屋の旧領域も含め、全国的な地方統治制度の創設・再編に取り組み、法華経伝来や仏説に触発され、倭国を六十六ヶ国に分国した。その際、六十六ヶ国の代表を筑紫に参集させ、式典や諸行事を執り行い、そこでは、「筑紫の楽・筑紫の舞」の披露があり、参集した諸国からも、その国の歌舞が奉納された。この伝承が『(風姿)花伝』や『(聖徳太子)伝記』に「聖徳太子の事績」としてとりこまれ、「聖徳太子」こそ申楽の祖であるとされたのだ。
 しかし、本来「六十六国分国」を詔し、「六十六番の遊宴・ものまね」を命じたのは九州王朝の天子多利思北孤であり、彼こそが世阿弥のいう「申楽の祖」だった。そして筑紫舞は、そうした諸国から九州王朝への歌舞の奉納の姿を今に残すものといえるのだ。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P78)

※【異説】 『書紀』『二中歴』『(聖徳太子)伝記』を併せれば、587年に「聖徳太子」らが物部守屋を討ち、守屋の本拠難波・河内一帯を勢力圏に収め、直後の589年に、九州年号が「端政」と改元され、六十六ヶ国分国が行われたことになる。そして、六十六ヶ国分国を奏し、大伽藍を建立した「聖徳太子」のモデルが多利思北孤なら、守屋討伐も、当然九州王朝・多利思北孤だということになろう。『隋書』の記述から、多利思北孤が「崇仏勢力の首魁」であることは疑えないから、「廃仏勢力の首魁」の物部氏を討伐したというのは十分な必然性を有するのだ。
 尤も、多利思北孤は「宗教上の権威と政治上の権威を兼ね備えた菩薩天子」を自負し、かつ物部氏排斥後「六十六ヶ国分国」という地方制度改革に取り組んだというのだから、名目上は仏教を巡る争いであっても、その本質は「集権体制」を強めようとする九州王朝と、これに反対する地方勢力との攻防であったと考えられよう。この勝利を契機に九州王朝は、旧物部守屋の勢力下だった難波・河内地域一帯を支配下に置き、東山道・北陸道など「東国」の統治権を掌握強化することが出来たことになる。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P71)

※【異説】何故、九州王朝はこの時期、難波・河内に進出し、かつ集権体制確立地方統治制度整備(六十六ヶ国分国)を図ったのだろうか。その最大の要因は「隋」の脅威だ。・・・・・・
 多利思北孤の前代の九州王朝の天子が高良玉垂命とすれば、その本拠は筑後有明海沿いで、隋とは「一衣帯水」、直線距離では、589年に「境を観させた」とする「東海道」の東端常陸や、「東山道」の蝦夷との境信濃よりも近距離にあるのだ。つまり、東シナ海を挟んだ対岸「鼻先」の地が、従来臣従してきた南朝を滅ぼした国、いわば仮想敵国となったといえる。
 こうした状況の下、九州王朝は隋の脅威に備え、物部を討伐し難波・河内(或はこれに繋がる斑鳩を含むか)に「新たな拠点」を設けた。そして国力の涵養のため集権体制の確立を目指し、「仏教」を梃子とし、自ら「菩薩天子」と号して宗教政治の両面で権力の掌握を図りつつ、地方統治制度再編に取り組んだ。これが「六十六ヶ国分国の背景」だろう。六十六ヶ国分国に際しては、、『豫章記』の端正2年(590)に越智氏の百男が立官とあるように、新たな地域支配者の選任と、九州王朝への臣従が当然のこととして要請されたろうから、こうした再編を通じて九州王朝の地方統治は強化されたはずだ。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P72)

※【異説】 国家統治において仏教の権威を利用するため天子自らが僧籍に入るという方策は、中国・朝鮮半島において広く行われていた手法であった。こうした状況を見れば、多利思北孤仏教を崇拝し、自らを「菩薩天子」と位置づけ、仏門に入り法号を得て当然だといえる。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P147)

※【異説】 「日本書紀」によれば、この事件は崇仏派の蘇我氏廃仏派の物部氏の私闘を記されるが、物部氏は「瀬戸内海(吉備)」の利、蘇我氏は「日本海(越・出雲)」の利を代弁するものと考えれば、両者の相剋も、もっと別の見方ができるはずである。・・・・・・この後実権を獲得した中大兄皇子中臣鎌足は、百済救援に向けて邁進するのだから、彼らは「親百済派」であって、蘇我氏の外交方針と真っ向から対立したのだろう。(消えた出雲と継体天皇の謎 関裕二 学研 P177)

※(筆者注) 筑紫舞という、福岡市城南区の田島神社に伝わる舞がある。


※(筆者注) 厩戸王(聖徳太子)は、百済の威徳王をモデルにしたのではないか、とする説があります。

※【百済の威徳王】 威徳王は、百済の第27代の王(在位:554年 - 598年)。(いとくおう、526年? - 598年12月)。先代の聖王(聖明王)の長子。
554年7月に聖王(聖明王)は新羅を討とうとして、大伽耶と倭国と共に新羅と戦ったが、緒戦で奇襲を受けて聖王(聖明王)が戦死するという結果に終わった。このとき、威徳王も新羅軍に囲まれて死地に追い込まれたところを、倭の軍に助けられ逃げ延びたとされる。
561年7月には欽明天皇の援軍や任那と呼応して新羅に攻め込んだが、新羅の策略にはまり敗北して撤退している。任那はこのころ滅亡し、伽耶諸国は完全に新羅に属するようになった。
581年に隋に使節を送り「上開府・儀同三司・帯方郡公」に封じられた。
598年、高句麗が百済に侵攻してきた。 在位45年にして598年12月に死去した。(ウィキペディアより)



〇 さらに蘇我馬子は5年後の592年に、用明天皇のあとに即位した厩戸王の叔父の崇峻天皇(位587~92)を暗殺したことになっています。
そして蘇我馬子は、厩戸王の叔母である推古天皇(位592~628)を即位させます。女帝が誕生します。古代ではよく女帝が出てきます。卑弥呼も邪馬台国の女王でした。

厩戸王はこの推古天皇の摂政として政治を執ったことになっています。厩戸王は用命天皇の息子ですけど、天皇にはならなかった人です。まだ若く18才ぐらいです。摂政にしては若すぎます。
この厩戸王と、もう中年にさしかかり老獪な政治術をもつ蘇我馬子がペアになって政治を行う。複雑すぎる政治構図です。

※【異説】 (九州王朝の天子である)多利思北孤が即位後間もない端政3年(591)、すなわち「法興元年」に「道人の天子」とされる聆照律師から受戒し仏門に入り、法号を授かった可能性は高い。そして天子が仏門に入れば「法皇」となる。則ちこれが「上宮法皇」であり、その法号こそ「法興」だったと考えられる。(古代に真実を求めて 第18集 盗まれた「聖徳太子」伝承 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2015.3月 P148)



〇 その聖徳太子の政治、聖徳太子は何を行ったかというと、やっぱり新しもの好き、外来の文化が好き、中国が確かに文化は進んでいる。それが欲しい欲しい、取り入れようと、わざわざ船を出して、命の危険があってもそこに使いをだした。これが遣隋使です。このときの中国の国の名前は「隋」です。
ただこのへんの話は、のち奈良時代に作られた『日本書紀』『古事記』に記されたものがベースになっています。日本が本格的に歴史書の編纂に取り組んだのは、このあと触れる白村江の戦いに敗れたあとの672年に即位した天武天皇からです。そのため、この歴史書の編纂には当時(700年頃)の政治状況が深くからんでいます。史実をどこまで取り入れ、どこから史実を作り変えたのか、それを見つける作業が歴史を読むポイントになります。
 大筋は教科書のストーリーを述べていきますが、それには多くの【異説】があることも事実です。
終わります。