そこで、高校生を相手に実際に授業しているつもりで、日本史を書いてみました。
補足や修正は、折に触れ行っています。
ちなみにカテゴリー(旧日本史1~6)の「授業でいえない日本史」(2がついてないもの)は、旧バージョンですが、こちらの作業上の都合で、削除せずにそのまま置いています。
【旧石器時代】
日本史です。
人類の発生、これは世界史で詳しくやりました。関係あるところだけ言うと、人類の誕生、500万年前から600万年前になって、700万年前までさかのぼっていったり、年々古くなっていってるんだけれども、ポイントは場所です。
人類の誕生は、アジアじゃなくて、アメリカでもなくて、当然日本でもなくて、アフリカですね。世界史でも言ったけれども、アフリカにいたサルがチンパンジーになって、日本にいたニホンザルが日本人になった。
これ根本的におかしい。そうじゃない。アフリカの猿が人間になって、その人間があとで日本人になったんです。ヨーロッパ人になったんです。人間同士、子孫が生まれる。日本人とアメリカ人と結婚しても子供が生まれる。これは同種ということでしょう。チンパンジーがアフリカ人になって、ニホンザルが日本人になったら、これ別種です。ライオンとトラを掛け合わせても、子供を生まれないでしょ。子供が生まれるということは、同種でないといけない。遺伝子がマッチしないといけない。だからアフリカから発生した同種の人間が世界中に広がった。ただ何万年の間には肌の色とか、環境適応で、ちょっと顔立ちが変わったり、形質の変化は見られる。しかし同種であるということです。
【縄文時代】
【温暖化】これで一気に、699万年すぎました。ここで。もう1万年前になりました。地球はだいたい10万年周期で、暑くなったり、寒くなったりするんですよ。今は、人間がつくった異常気象ですよ。二酸化炭素とかが増えて。PM2.5とかもあって。ただ何もしなくても、10万年周期で暑くなったり寒くなったりする。寒くなった時を氷河時代という。氷河時代というと、地球上全部が氷で覆われたとか、そんなバカなことはないです。南極と北極は今でも一年中氷がある。その凍る体積が増えるだけです。赤道直下はやっぱり温いんです。
この変化が1万年前ぐらいに起こる。氷河時代の5、6回、わかっているだけで第4氷河期の終了だから、少なくとも4回氷河期が10万年単位であった。4回あったということは、第5氷河期が明日来るかもしれないし、1億年後に来るかもしれないし、来る可能性はある。2度あることは3度あるというから、4度あることは5度あるわけです。この氷河時代の終了が1万年前です。
ということは、気候は温かくなったんです。温暖化です。温暖化して、気温が上がって、ではクーラー入れればいいか。そんな問題じゃないんですよ。地球規模で暖かくなったら、その氷はもともとは水です。氷は溶けたらどこに流れるか。海に流れて、海の水は上昇する。海の水が上昇して日本列島ができあがるんです。
もともと日本海というのは日本湖だった。大陸と地続きで。湖のようになっていた。海面が上がって、低いところは水没して、対馬海峡、津軽海峡、カムチャッカ半島ができて、四国などの4つの日本列島ができた。これが日本列島の形成です。
【弓矢】それだけではない。動植物というのは、気温が上がれば、気温に合わせて移動して、環境を求めていかないと生きていけない。だから暑くなるということは、それまで寒かったところに住んでいた動物、これは死に絶える。一番いい例は、マンモス、北海道あたりにいたという巨大象です。アラスカでよく見つかる。象は温いところにしか今はいないけれども、象は象で努力して、何万年の間には、寒いところでも適応できるようなマンモス象がいた。それが温くなったんだから、図体大きくて環境に適応できなかったら、死に絶えるわけです。
マンモスをつかまえていた人間は、弓ではなくて、銛でガバッと寄ってたかって、10人ぐらいで倒していたから、肉を食えたんだけれども、それが死に絶えていくと、ウサギとか、ネズミとか、そういったものしかいなくなって、銛を投げようとすると、アッカンベーして逃げられる。すると、それを食っていた人間も死んでしまう。死にたくなかったら、何をしないといけないか、努力して捕まえる技術を身につけないといけない。
それが弓矢なんです。今までのように腕を振って投げると、頭のいいウサギなんか、鹿なんか、構えただけで逃げる。野鳥なんかは、近くの海の堤防に行ったらいっぱいいる。それが堤防から人間の髪の毛が1本見えただけで、パーッと飛び立って逃げる。野鳥は簡単に見れない。カメラでなかなか撮れない。堤防から頭を出しただけで、パッといっせいに飛び立つ。それで銛を構えたら、アッカンベーして逃げる。
弓矢は、狙いをつけたあとは、指を離すだけです。こうやって、ピッとするだけ。だから小動物はわからない。こういう技術がないと捕まえられない、とこういうことです。これが弓矢の使用です。これは中小動物を捕獲するための技術の進歩ということです。
環境に対応する技術がなければ、日本人は死んでいた可能性がある。誰かが新しい技術をどうにか生み出して、その技術を手に入れた者だけが生き残るとか、その部族だけが生き残るとか、1万年前にはそういう過程があったはずです。そういうふうに技術というのが、人間の生き残り、サバイバルに重要になってくるわけです。
【縄文土器】結局、食い物なんです。食い物というときに、今われわれが食っているものが、古代人が全部食えたのかと言えば、例えば米一つにしろ難しい。この時代、米があったって、人間は生きていけるのか。この時代。米を食うためには、そのままガリガリ、米を食えないでしょ。食べるためには、火を通して煮ないといけない。では煮るための鍋があったのかというと、鍋はないわけです。鍋がない時代には、煮炊きできない。煮炊するためには、鉄鍋のまえには土器ですよね。土器というのは、土を熱すれば別の物質に変わるという化学変化に人間が気づくというのはかなり時代が下る。世界史上でも。
そのなかで日本の場合には、この化学変化の理屈は知らなくても、気づくのが非常に早い。これによって何が変わるか。食えなかったものが食えるようになる。つまり生きる幅が増えるんです。これを縄文土器という。これは表面に、縄目文、つまり縄をころがしたような文様が入っているからこういうんであって、要は土器なんです。煮炊きができるんだということです。そこに魔術的な力を感じて、いろいろな飾り付けがあって、非常に派手なんです。炎のような形をしたものとかもある。
ただ泥を焼くということは、これ今も昔も、ろうそくの炎のような低温だったら、何万年も前から人間はできますよ。火というのは、製鉄でも何でもそうだけれども、高温に上げるのが難しい、低温は誰でもできる。でも高温にはできない。
火の温度を上げるためには、登り窯で焼かないといけない。普通のたき火しているだけでは、どうしても黒くなる。低温で焼くと黒くもろい土器ができる。あまり長持ちはしなかったけど。それでも水が漏れずに、水の中に米を入れて煮炊きすると、固い米がふわふわなってうまくなる。大した変化なんです。米はまだないけど、肉とか、魚とか、こういったものでも食うことができる。ドングリとか、クルミとか、こういうものですよ。
だいたい自然界のものというのは、動物に食われたら、種子がかみ砕かれたら発芽しないから、食われないように、ちぎって、ばらまいてもらえればいいわけで、食われないために、毒があることが多い。だから料理で熱を加えてあく抜きをする。土器がない時代には、これを水でさらして、何時間もさらして、自然に毒が抜けるまでやっていた。火を沸かせば、表面に黒ずんだあくが出るでしょ。あくが出ていくわけです。うまいラーメン屋さんなんかは、あくも味のうちではあるんだけれども、ころよく、きちっとあく抜きをしてある。手間暇かけてしてあります。
この縄文時代の代表的な遺跡が青森県の三内丸山遺跡です。この時代の集落は、まん中に広場を持ち、それをぐるりと取り囲むように竪穴住居がつくられることが多いのですが、この三内丸山遺跡には大規模な建物跡もあり、かなり高度な文明を持っていたようです。縄文時代は狩猟・採集の移動生活とされていましたが、ここでは多数の堅果類(クリ、クルミ、トチなど)の殻、さらには一年草のエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどといった栽培植物も出土しました。三内丸山の人たちは、自然の恵みの採取活動のみに依存せず、集落の周辺に堅果類の樹木を多数植栽しており、一年草を栽培し、定住していた可能性も考えられます。
この青森県に代表的な縄文遺跡があるように、縄文文化の中心は東日本です。この点は次の弥生時代の遺跡の代表例が、佐賀県の吉野ヶ里遺跡であることを考えると、好対照をなしています。縄文文化が東日本中心であるのに対して、次の弥生文化は西日本中心です。文化の中心が東から西に移動するのです。
それは大陸の中国や朝鮮から新たな文化をもった人たちが、日本に移動してきたからです。
こういう人の移動を目の前にして、それ以前から住む縄文人たちは、どのような対応をしたのでしょうか。
この縄文時代にはまだ本格的な農耕、稲作が始まっていませんが、縄文のここまでは日本のオリジナルです。他の文化の影響というのを、ほとんど受けていません。
しかし次はモロに影響を受けていきます。
【弥生時代】
【中国】それは、今から2000年ぐらい前、2400~2500年ぐらい前、すでに中国では文明段階で、農業バッチリ、国家もできて相争いながら、統一国家ができつつある。そういったところです。世界史を思い出してください。殷ができて、周ができて、春秋・戦国時代っていうふうに、黄河流域の中国の中原の野原を、多くの土豪が跋扈する春秋戦国時代、それをまとめていったのが、最初の統一国家ですが、何ですか。紀元前221年、秦という。
英語で書くとchinです。これが英語読みして何になるか。これがチャイナになる。英語というのは、表記どおり発音しなくて訛りがきつい。チンがチナになるかというと、英語ではチャイナという。要らないaが入ってくる。その点、日本の戦前は、中国のことをちゃんとシナと言っていた、よっぽどその文字に忠実に発音していたんです。その中国の影響を受けるわけです。
弥生時代は7~8百年間、紀元前5世紀から紀元後3世紀だから、8世紀ぐらい続く。特色は、米が入ってくる。水稲農耕です。
【水稲農耕】厳密にいうと、稲というのは、水田だけじゃなくて、特殊な稲でオカボといって、畑でできる稲もあることはあるんです。だから厳密にいうと、水で育つ稲で水稲と、オカボという陸稲の2種類ある。さらに水稲の中にも、日本人が食うジャポニカ米と、もう一つインディカ米というインドあたりのコメがあって、これは小麦みたいで、箸で取れない。スプーンじゃないと。パサパサしてすくえない。粘りけがなくて日本の米とは食感が違う。向こうの人は、うまいんでしょうけれども、ジャポニカ米に慣れた我々の味覚からいうと、心して食わないと、なんだこれとなる。そういうふうに米には2種類あって、ジャポニカ米は、日本のジャパンの名前がついとるけれども、どこから来たかというと、原産地は中国南部の揚子江流域と言われる。そのあたりから来ているんだということです。
ちょうど時代的には春秋・戦国時代、中国には万里の長城があって、北からの勢力が強かった。そうすると北から南に押し出されて、行き場を失うと、海に出てくるという形もある。中国の東の海には、地理の授業で言ったけど、何が流れてるか。黒潮です。暖流が流れて、船が櫂がなくても自然に北上して、東にカーブして、日本列島南端に流れつくわけです。
水稲農耕というのは米が流れついたとか、そんな単純なものじゃない。農業というのは種もいるんだけれども、基本は技術です。米自体はモノをいわない。農業ができるということは技術がやってきたということです。技術は、誰が伝えるのか。ビデオがあるのか、レコードが、本があるのか。人間が来たんです。人間がこないと、技術は伝わらない。農業技術を持った人間がやってこないと、技術は伝わらない。文化は伝わらないんです。
縄文時代を代表する三内丸山遺跡は微高地にありましたが、水稲農耕はこういう微高地ではできません。水田には当然水が必要ですから、もっと低地を選ぶわけです。
縄文時代の初めには、縄文海進といって、海面が上昇して、陸地の奥深くにまで海が侵入してきましたが、その後約1万年間の間には、長い年月をかけて、山からの土砂が遠浅の海を陸地化していきます。
現在多くの日本人が住んでいる平地は、こうやってできあがるのです。これを沖積平野といいます。「沖」に土砂が「積」もって、できあがるのです。だから「沖積」です。縄文時代には、今の日本の中心である東京も、東京駅を南北に走る山手線の東側はまだ海です。千葉県との県境あたりまで、深い入り江になって、海が入り込んでいます。そういうところがだんだんと陸地化し、そこに人が住みついていくようになるわけです。
縄文人からみれは、そういう葦が生い茂るような低地は、いつ洪水におそわれるか分からない危険な土地です。しかし、大陸からやって来た人たちは、そういうぬかるんだ低地を見つけて、水稲農耕をし始めます。
この縄文人と弥生人がどのように融合していったか、または対立していったかは、よく分かりません。
ただ縄文人が微高地を好んだのに対して、弥生人は低地を好みましたから、彼らの住み分けは可能だったのではないでしょうか。
ただここにはかなりの文化の開きがあります。狩猟・採集の社会と、農耕社会は、土地に対する考え方が違うのです。
自分たちに恵みを与えてくれる大地に鍬を入れることは、神様の肌に傷をつけることと同じで、狩猟・採集社会の人々は、そのことを忌み嫌うのが普通です。
縄文人は、弥生人に押されるかたちで、山へ山へと入ったいったとも考えられます。弥生時代には、瀬戸内海沿岸を中心に、山の中に高地性集落も発見されています。
ただこのような時代は、文化の接触として一種の緊張状態を発生させるのは確かです。昔はのどかだったんだろう、とばかり考えると、昔の人から、オレたちをバカにするな、と叱られそうです。
佐賀県の吉野ヶ里遺跡は、紀元前4世紀から集落が形成され始めますが、それがこれほど大規模な集落に発展するためには、何らかのきっかけがあったと思われます。この近くには、紀元前3世紀末頃のこととして、さっき言った徐福伝説が残されていますが、そのこととも関係しているかもしれません。
【弥生土器】 米が流れついたんだな。それだけでは、水稲農耕ははじまりません。それだけでは文化は伝わりません。文化が伝わるということは、人が伝えたということです。
それで、技術とともに、土器です。土器の重要性というのは、食えないものを煮沸して食えるようにするという食事の幅が広がるという点では、非常に画期的に重要なんです。この技術が上がって、弥生土器になる。土器の色が赤くなる。赤くなる土器というのは、高い温度で、精密に焼いた。緻密になるとこういう薄い土器ができる。
焼き物の技術は、お椀一つでも、素人ではあの薄さはできない。土も選ばないけない。それから火も調整しないといけない。素人が焼いてもなかなかできない。そういうことができるようになった。われわれは今でも、この茶碗を日常的に使っています。プラスチック製もあるけれども、やっぱり焼き物を普通に使っている。
【貧富の差】そういう社会になってくると、だんだんと食い物の幅が広がる。農業の生産力が上がる。生産力が上がると、肉は冷蔵庫がない時代は貯められないでしょ。でも米は貯められる。米は貯めるという行為ができる。これ文明には、ものすごく大事なんです。肉に比べれば、米は貯められる。一番貯められるのは今では何か。お金です。お金はまだないけれども。お金は貯められるものです。人間の生活では、肉とか何とか野菜とか、野菜は、1ヶ月もすると芽を吹いて、貯められない。そういう中で余剰生産物ができて、しかも貯めることはできるものは富を発生させる。国ができるまでには、貧富の差が発生する。貧富の差が発生すると、貧しい者に、豊かな者が、貸してやろうかとかいうことになる。ありがとうと頭を下げざるを得なくなる。
【クニの発生】これが親の世代、子の世代、孫の世代に渡って固定化して行われると、身分制度になっていく。身分ができて、次には、そこのリーダーが治水する。場合によっては隣村と交渉する。もっと言えば、喧嘩をしたり、それに勝ったりすると、だんだん村の領域が大きくなってクニが登場する。カタカナでクニと書くのは、我々が言うほどの日本の全体を意味するような、漢字で書く国よりまだ小さいからです。今の県、昔の市郡、それぐらいの領域です。
【青銅器】 金属器も伝わってきます。世界史では、青銅器のあとに鉄器の使用がはじまりますが、日本の場合、青銅器の使用と鉄器の使用がほぼ同時にはじまります。青銅器とは、銅とスズの合金です。銅は鉄に比べると錆びにくく、よく残っているのですが、鉄は強い割には錆びやすくほとんど残りません。ですから考古学的出土品としては青銅器を中心に見ることになります。我々が見る青銅器は表面が青く錆びた青銅器がほとんどですが、これは当初からそうではなく、つくられた当時は新品の十円玉のようにキラキラ輝いていたものです。それを初めて見た当時の人たちは、そこに神がかり的な威力を感じたのでしょう。
このことが日本の国家誕生を考えるときに、非常に重要だと思います。
【吉野ヶ里遺跡】 佐賀県の吉野ヶ里遺跡は、こういうクニを支配していたのではないかと思います。