【アメリカの占領政策】
【東久邇宮稔彦内閣】(1945.8.17~45.10)
戦後に入ります。日本で起こったことですが、ただし主権はありません。内閣は東久邇宮稔彦内閣です。
このときアメリカはすでに徹底した日本研究をやっている。経済研究じゃない。文化研究です。日本人の考え方の研究です。日本人が何をどう考えているかを知っています。
この時の最高の日本文化研究書、これは戦争中アメリカで書かれた本です。「菊と刀」です。戦後のベストセラーです。日本人が日本を説明するよりもよくわかると言われる。その通りです。こういう本が書けるほど徹底して日本の文化研究をやっています。占領政策にそなえて。どうやったら日本人を操ることができるかと。
この内閣の外務大臣は重光葵(まもる)という。このときの東久邇宮首相はどっちかというと責任職というか、飾りです。実質の首相は外相のこの人です。足が悪くて杖をついているけれどもかくしゃくとしている。
この人の一番の手柄は、闇になっているけれども、トルコなんかはアラビア文字がABCに変わった。この20年前に。日本にも同じことをやろうとする。本当にこの計画がある。ABCのアルファベットでで、全部日本語を表記しようということが考えられています。
それだけはやめてくれ、といってそれをストップさせる。
8月15日に玉音放送。なぜか敗戦とはいわずに、終戦という。だからこの日は終戦記念日という名がつきました。敗戦というと悔しいという感情が起こる。終戦というと平和になって嬉しいという感情が起こる。微妙な言い方ですけど。こんなところから工夫があります。
【マッカーサー】 1945.8.30日にマッカーサーが日本に降り立つ。連合国の総司令官として。アメリカ軍の司令官ではなく、連合国軍総司令官として。連合国はいっぱいあります。イギリスもフランスもソ連もそうです。しかし99%はアメリカ軍です。
先にそういう既成事実を作って、それを国際社会に認めさせる。こうしましたよ、といってしまえれば、それダメだ、といってももう済んでしまっている。
1945.9.2日、降伏文書調印も、東京湾に停泊する米軍のミズーリ号に呼び出されて、外務大臣の重光葵が行います。
さっき言ったように、英語を公用語にしようとする。これだけはやめてくれと撤回させる。もしそうなっていれば、学校は英語でしゃべらないといけなくなっていた。
【GHQ】 この連合国軍最高司令官総司令部というのを略してGHQという。しかしこれは、ほぼ米軍です。旧第一生命館ビル(現DNタワー21)がある場所がそれです。皇居の南側に向かい合うこの場所には、当時、7階建てのビルがありました。この時から日本が独立する1952年までの約7年間、日本の政治方針は、国会議事堂ではなく、また首相官邸でもなく、この場所から発せられます。
日本は、GHQというけれども、当時は進駐軍といっていた。進駐軍が来たと。でも子供はこれが好きですよ。なぜか。チョコレートを配ってまわるから。チューインガムを配ってまわるから。これは作戦ですよね。だから、そのまわりで大人はシラーと見ている。子供は分からないから、ちょうだい、ちょうだい、と米兵に寄っていく。そこに自分の子供がいても、それを「行くな」とは言えない大人がいる。
そこで親と子の考え方が大きく違ってくる。子供は、米兵はいい人だったよ、アメリカ大好き、という。でも親の世代は、親兄弟をアメリカ軍から殺された世代です。その子供世代が、われわれです。その子供が、君たちの世代です。戦争を知っているのは、80才以上の世代です。
だから私の親父は、あんまり言わないですね。戦後は世の中が変わって、戦争のことを言ってもどうにもならないと思っているから。
私は30才過ぎて、父にいろいろ聞きだした。それまで親父から何か言われると、うるさがっていた私ですが、自分にも子供が生まれて、親父がいるうちに、いろいろ聞いておかなければならないと思った。親父はもういませんけど。
日本国の最高機関は国会ではありません。極東委員会と言って、ワシントンにある。こっちが上なんだけど、実権は東京の連合国軍最高司令官総司令部です。これをGHQといいます。その最高司令官がマッカーサーです。
ここでの第一目標は、日本が二度と立ち上がれない国にすること、弱い国でいい、アメリカにとって無害でさえあればいい、ということです。
連合国軍といっても、GHQはほぼアメリカ軍です。アメリカ主導で日本が作り変えられていく。当然、日本に主権はありません。国会はありますが、そこで決まったことよりも、GHQの決定が優先されます。そのような主権なき国家が、このあと7年間、1952年まで続きます。
そういう意味ではここは日本史の一部じゃなくて、アメリカ史の一部になっている。1945年から1952年の独立までは。理由は、日本には国のことを決定する主権がないからです。
【間接統治】 その主権がないなかで、一応日本政府は存続していきます。GHQが国民を直接支配すると、頭のいい国民は反発するんですよ。だから、その中間に地元民の政府を立てる。しかしこの政府には実権がないんですね。これを間接統治という。生活に追われている国民から見れば、あたかも自分たちの政府が機能しているように見える。
そのなかで、日本の独特の国家体制である天皇制も維持される。日本人から見れば何も変わらないように見える。日本政府も存続する。しかしなにも実権はない。形だけです。
この反対が直接統治です。例えば軍事的に最重要拠点になった沖縄は直接統治で、米軍が沖縄を直接支配する。車は右側通行ですね。お金もドル札です。だから私が子供のころ、沖縄が日本に本土復帰するまでは、沖縄は車は右側通行だったし、お金はドル札だった。それで甲子園にも来れなかった。
沖縄の人がいうには、そんななかで屋良朝苗という沖縄主席が、子供の教育をアメリカ流にしてどうするんだ、日本流にすべきだ、主張します。これで20数年後の本土復帰の際には、何も問題なくなった。
ただ子供は、さっきも言ったように、恐い米軍と思っていたら、チョコレートを配る、チューインガムを配る、アメリカが好きになる。これも印象操作の一つです。
【政党の復活】 日本の政府が存続しますから、政党も復活します。いったん戦前に消滅したけれど、体制翼賛会が消滅して、政党は戦後すぐ復活する。戦前の二大政党は政友会と民政党です。
これが名前を変えて、政友会系は日本自由党、この党首が鳩山一郎です。
10数年前にこの人の孫の鳩山由紀夫が総理大臣になりました。自民党から政権交代したあとの民主党政権でしたが、変な形で辞任しました。そこで何があったか、あれは多分、君たちが私ぐらいの年になったときに誰かが暴くでしょう。非常に不思議な終わり方をしました。この人が同じ民主党の菅直人に変わった瞬間に、全く方針が変わった。選挙公約とまったく違ったことを菅直人がやっていった。
もう一つ、戦前の民政党系は何か。日本進歩党です。
この二つは10年後の1955年に、合体します。これが今の自由民主党です。今の自由民主党の大もとはこの二つの流れです。
【外相更迭】 この東久邇宮内閣の外務大臣は重光葵です。日本で英語を公用語にするとか、またはアルファベットで記述するとか、それだけはやめてくれと、とにかくGHQへ乗り込んでいってストップさせた。この人はアメリカに対してもモノを言うんです。モノ言う人間は、アメリカは欲しくない。それで1945.9月に外務大臣を更迭される。更迭とは、やめさせられることです。
そこで代わりに外務大臣になるのが吉田茂です。戦前、何していた人か。アメリカ好きの外交官です。もと親米派の駐米大使です。国民に選ばれた国会議員ではありません。
この時期の外務大臣は、占領軍であるGHQとの窓口であり、その交渉の責任者です。実質的な日本政府の実権は外務大臣が握っています。この人はこのあと総理大臣になり、占領下日本の中心的政治家になっていきます。
【東久邇宮稔彦内閣】(1945.8.17~45.10)
戦後に入ります。日本で起こったことですが、ただし主権はありません。内閣は東久邇宮稔彦内閣です。
このときアメリカはすでに徹底した日本研究をやっている。経済研究じゃない。文化研究です。日本人の考え方の研究です。日本人が何をどう考えているかを知っています。
この時の最高の日本文化研究書、これは戦争中アメリカで書かれた本です。「菊と刀」です。戦後のベストセラーです。日本人が日本を説明するよりもよくわかると言われる。その通りです。こういう本が書けるほど徹底して日本の文化研究をやっています。占領政策にそなえて。どうやったら日本人を操ることができるかと。
この内閣の外務大臣は重光葵(まもる)という。このときの東久邇宮首相はどっちかというと責任職というか、飾りです。実質の首相は外相のこの人です。足が悪くて杖をついているけれどもかくしゃくとしている。
この人の一番の手柄は、闇になっているけれども、トルコなんかはアラビア文字がABCに変わった。この20年前に。日本にも同じことをやろうとする。本当にこの計画がある。ABCのアルファベットでで、全部日本語を表記しようということが考えられています。
それだけはやめてくれ、といってそれをストップさせる。
8月15日に玉音放送。なぜか敗戦とはいわずに、終戦という。だからこの日は終戦記念日という名がつきました。敗戦というと悔しいという感情が起こる。終戦というと平和になって嬉しいという感情が起こる。微妙な言い方ですけど。こんなところから工夫があります。
【マッカーサー】 1945.8.30日にマッカーサーが日本に降り立つ。連合国の総司令官として。アメリカ軍の司令官ではなく、連合国軍総司令官として。連合国はいっぱいあります。イギリスもフランスもソ連もそうです。しかし99%はアメリカ軍です。
先にそういう既成事実を作って、それを国際社会に認めさせる。こうしましたよ、といってしまえれば、それダメだ、といってももう済んでしまっている。
1945.9.2日、降伏文書調印も、東京湾に停泊する米軍のミズーリ号に呼び出されて、外務大臣の重光葵が行います。
さっき言ったように、英語を公用語にしようとする。これだけはやめてくれと撤回させる。もしそうなっていれば、学校は英語でしゃべらないといけなくなっていた。
【GHQ】 この連合国軍最高司令官総司令部というのを略してGHQという。しかしこれは、ほぼ米軍です。旧第一生命館ビル(現DNタワー21)がある場所がそれです。皇居の南側に向かい合うこの場所には、当時、7階建てのビルがありました。この時から日本が独立する1952年までの約7年間、日本の政治方針は、国会議事堂ではなく、また首相官邸でもなく、この場所から発せられます。
日本は、GHQというけれども、当時は進駐軍といっていた。進駐軍が来たと。でも子供はこれが好きですよ。なぜか。チョコレートを配ってまわるから。チューインガムを配ってまわるから。これは作戦ですよね。だから、そのまわりで大人はシラーと見ている。子供は分からないから、ちょうだい、ちょうだい、と米兵に寄っていく。そこに自分の子供がいても、それを「行くな」とは言えない大人がいる。
そこで親と子の考え方が大きく違ってくる。子供は、米兵はいい人だったよ、アメリカ大好き、という。でも親の世代は、親兄弟をアメリカ軍から殺された世代です。その子供世代が、われわれです。その子供が、君たちの世代です。戦争を知っているのは、80才以上の世代です。
だから私の親父は、あんまり言わないですね。戦後は世の中が変わって、戦争のことを言ってもどうにもならないと思っているから。
私は30才過ぎて、父にいろいろ聞きだした。それまで親父から何か言われると、うるさがっていた私ですが、自分にも子供が生まれて、親父がいるうちに、いろいろ聞いておかなければならないと思った。親父はもういませんけど。
日本国の最高機関は国会ではありません。極東委員会と言って、ワシントンにある。こっちが上なんだけど、実権は東京の連合国軍最高司令官総司令部です。これをGHQといいます。その最高司令官がマッカーサーです。
ここでの第一目標は、日本が二度と立ち上がれない国にすること、弱い国でいい、アメリカにとって無害でさえあればいい、ということです。
連合国軍といっても、GHQはほぼアメリカ軍です。アメリカ主導で日本が作り変えられていく。当然、日本に主権はありません。国会はありますが、そこで決まったことよりも、GHQの決定が優先されます。そのような主権なき国家が、このあと7年間、1952年まで続きます。
そういう意味ではここは日本史の一部じゃなくて、アメリカ史の一部になっている。1945年から1952年の独立までは。理由は、日本には国のことを決定する主権がないからです。
【間接統治】 その主権がないなかで、一応日本政府は存続していきます。GHQが国民を直接支配すると、頭のいい国民は反発するんですよ。だから、その中間に地元民の政府を立てる。しかしこの政府には実権がないんですね。これを間接統治という。生活に追われている国民から見れば、あたかも自分たちの政府が機能しているように見える。
そのなかで、日本の独特の国家体制である天皇制も維持される。日本人から見れば何も変わらないように見える。日本政府も存続する。しかしなにも実権はない。形だけです。
この反対が直接統治です。例えば軍事的に最重要拠点になった沖縄は直接統治で、米軍が沖縄を直接支配する。車は右側通行ですね。お金もドル札です。だから私が子供のころ、沖縄が日本に本土復帰するまでは、沖縄は車は右側通行だったし、お金はドル札だった。それで甲子園にも来れなかった。
沖縄の人がいうには、そんななかで屋良朝苗という沖縄主席が、子供の教育をアメリカ流にしてどうするんだ、日本流にすべきだ、主張します。これで20数年後の本土復帰の際には、何も問題なくなった。
ただ子供は、さっきも言ったように、恐い米軍と思っていたら、チョコレートを配る、チューインガムを配る、アメリカが好きになる。これも印象操作の一つです。
【政党の復活】 日本の政府が存続しますから、政党も復活します。いったん戦前に消滅したけれど、体制翼賛会が消滅して、政党は戦後すぐ復活する。戦前の二大政党は政友会と民政党です。
これが名前を変えて、政友会系は日本自由党、この党首が鳩山一郎です。
10数年前にこの人の孫の鳩山由紀夫が総理大臣になりました。自民党から政権交代したあとの民主党政権でしたが、変な形で辞任しました。そこで何があったか、あれは多分、君たちが私ぐらいの年になったときに誰かが暴くでしょう。非常に不思議な終わり方をしました。この人が同じ民主党の菅直人に変わった瞬間に、全く方針が変わった。選挙公約とまったく違ったことを菅直人がやっていった。
もう一つ、戦前の民政党系は何か。日本進歩党です。
この二つは10年後の1955年に、合体します。これが今の自由民主党です。今の自由民主党の大もとはこの二つの流れです。
【外相更迭】 この東久邇宮内閣の外務大臣は重光葵です。日本で英語を公用語にするとか、またはアルファベットで記述するとか、それだけはやめてくれと、とにかくGHQへ乗り込んでいってストップさせた。この人はアメリカに対してもモノを言うんです。モノ言う人間は、アメリカは欲しくない。それで1945.9月に外務大臣を更迭される。更迭とは、やめさせられることです。
そこで代わりに外務大臣になるのが吉田茂です。戦前、何していた人か。アメリカ好きの外交官です。もと親米派の駐米大使です。国民に選ばれた国会議員ではありません。
この時期の外務大臣は、占領軍であるGHQとの窓口であり、その交渉の責任者です。実質的な日本政府の実権は外務大臣が握っています。この人はこのあと総理大臣になり、占領下日本の中心的政治家になっていきます。
吉田茂は、高知県出身の自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった竹内綱の五男として生まれますが、3歳で吉田健三の養子になります。養父の吉田健三は旧福井藩士で、長崎で英学を学んだあと、1866年にはイギリス軍艦でイギリスへ密航します。
1868年に帰国したあと、横浜の英国商社・ジャーディン・マセソン商会横浜支店の支店長に就任して富を築いた資産家です。吉田茂はその莫大な資産を受け継ぎます。
幕末に活躍した長崎のイギリス人の武器商人トーマス・グラバーの親会社に当たるジャーディン・マセソン商会が、こんなところに顔を出します。
三菱も長崎のグラバーと関係の深い会社でした。その三菱財閥の創業者である岩崎弥太郎の四女と結婚した政治家が、幣原喜重郎でした。幣原喜重郎は親米派の外交官として吉田茂の先輩格でもあります。
外務大臣の吉田茂は、この忘れられかけていた幣原喜重郎を次の首相として引っ張り出すことになります。
戦後のこの時期になっても、幕末の長崎つながり、つまりイギリスつながりの人脈が顔を出します。
1868年に帰国したあと、横浜の英国商社・ジャーディン・マセソン商会横浜支店の支店長に就任して富を築いた資産家です。吉田茂はその莫大な資産を受け継ぎます。
幕末に活躍した長崎のイギリス人の武器商人トーマス・グラバーの親会社に当たるジャーディン・マセソン商会が、こんなところに顔を出します。
三菱も長崎のグラバーと関係の深い会社でした。その三菱財閥の創業者である岩崎弥太郎の四女と結婚した政治家が、幣原喜重郎でした。幣原喜重郎は親米派の外交官として吉田茂の先輩格でもあります。
外務大臣の吉田茂は、この忘れられかけていた幣原喜重郎を次の首相として引っ張り出すことになります。
戦後のこの時期になっても、幕末の長崎つながり、つまりイギリスつながりの人脈が顔を出します。
【プレス・コード】 こういう占領下の状況の中で、米軍がまずしたことが報道統制です。
戦争中の日本が報道統制をしていたことは言いましたけれども、徹底した報道統制はGHQ占領下の戦後すぐにはじまります。これをプレス=コードといいます。プレスは印刷です。新聞発行要領という。これはGHQの政策です。日本に主権はないから、ここで説明するほとんどのことは、GHQの政策です。
出版物はすべて事前検閲、米軍に都合の悪いことを報道しようとすると、全部発行禁止になって許可が降りない。出版物の最たるものが新聞です。絶対させてはいけないものが占領軍に対する批判です。
これにまず乗せられていくのがNHKです。「真相はこうだ」という番組や、太平洋戦争はこうだったという番組を、アメリカの情報を一方的に流させていく。日本人の中には、アメリカに負けただけではなく、日本の軍部にだまされたんだという意識も出てくる。この1年間で日本人は、アメリカはこんなにいい国だったんだと作り替えられていく。
太平洋戦争という名前も、日本はあくまでも中国戦っていたからもともとアジアの戦争だった。だから東アジアの大戦争、大東亜戦争と言っていたものを、アメリカがこれはダメだといって、太平洋戦争という名前に変えられていく。最近は、これでは実態が分からないということで、アジア太平洋戦争という名前になりつつある。
【墨塗教科書】 学校では先生が墨もってきて、この教科書はウソ書いてあるから消しなさい、と言う。では去年まで、先生たちが言っていたことはウソだったのかということになる。これは辛いでしょうね。例えば、私が今言っていることを、来年政権が変わった場合に、ゴメン去年言ったことは間違ってた、といって自分の考えとは関係なく、それを墨で消す。これは耐えられないと思う。墨塗教科書というのは、そういうことです。
本来、教育は政治に左右されてはならないものですが、GHQはそれをやるんです。だから無条件降伏は長いこと受け入れられなかったし、それまで歴史的にもなかったんです。特に文系の教科は政治に左右されます。今やっている日本史も戦後最も変わった教科です。
【一億層懺悔】 戦争の総決算として、一億総懺悔(ざんげ)です。この意味は、ごめんなさいをいうのは政治家じゃない、軍部じゃない、日本人全員なんだ、という。一般庶民は、オレは何か悪いことしたんだろうか、という話です。
それほど価値観がガラリと変わる。ここまで価値観が変わると国民は一種の思考停止状態に陥ります。庶民は生きていくのに精一杯な毎日です。とにかく流れに着いていくしかない。哀れなのは、軍神と崇められた、特攻兵のわずかな生き残りの青年たちが石投げられて、この特攻崩れが、と言われたことです。この屈辱は一生忘れない、といって戦後、死んでいった人もいる。
この東久邇宮は臨時政府みたいなものです。1945.10月、2ヶ月で退陣します。
【幣原喜重郎内閣】(1945.10~46.4)
次の内閣に変わります。敗戦から2か月経った1945.10月に、内閣総理大臣になるのが篠原喜重郎です。
国民による選挙はなく、マッカーサーの意向により任命されます。戦前には親米派の外交官だった。そして外務大臣になり、協調外交、幣原外交という名前までついた外交を行った人です。この人は国会議員ではありません。マッカーサーの意向を受けて、外交官の先輩であるこの幣原喜重郎を首相に推したのが、同じ親米派外交官であった外務大臣の吉田茂です。
この内閣は1946.4までの約半年間ですが、この半年間で戦後の日本がほぼ決まります。重要なことが立て続けに起こります。
【外相】 この内閣でも外務大臣になるのは吉田茂です。吉田茂がそのまま外務大臣にとどまる。親米派の外交官二人が、首相と外務大臣になるわけです。この時の外務大臣は、アメリカと交渉する責任者で、そのアメリカが実権を握っているわけですから、外務大臣のポストは首相以上の力があります。実質的な首相は、前の内閣から外務大臣であった吉田茂です。
吉田茂は戦前からアメリカべったりです。日本の官僚には高圧的な態度にでるけど、マッカーサーには平身低頭です。それだけだはなく、マッカーサー夫人には盆と正月に必ず酒を持っていたり、贈り物をしたりして、いろいろ政界工作をやっていく。そうやってマッカーサーに取り入っていくんです。
どうもこの人は、日本の政治家しか知らないようなことまで、GHQには言ってはならないことまでマッカーサーに言っていたらしい。秘密に近いことを言っていたらしい。だから日本人には人気がないけど、マッカーサーの信任は厚い。そうじゃないと、一介の外交官が首相にはなれないです。ちなみにこの人の外孫が今の副総理の麻生太郎です。
【戦後の混乱】 この時代、戦争が一番悲惨というイメージがあるけれども、一番悲惨なのは、この1945年が一番農作物がとれないことです。今年の秋とれた米は、来年食べる米です。ここが取れないから一番の食糧難は、次の1946年です。
こういう食糧がない中で、外地からいっぱい人が日本に帰ってくる。日本人は、このとき朝鮮や満州や台湾にもいます。その人たちが帰ってきます。食い物がないときに人口だけ増えていく。
まず兵隊が外地から帰ってくる。これを復員といいます。それから一般の人が朝鮮や満州や台湾などの外地から帰ってくることを、引揚げという。
私も、知っている人が、復員や引き上げで帰ってきたのを知ったのは20歳過ぎてからですよ。戦後の子供たち、ギブミーチョコレートの世代に、戦争のことを言うような大人はいないです。反感を持たれるから、なかなか言えないことなんですね。
【ベビーブーム】 ただ、食糧難の時代でも、おとうちゃんが数年ぶりに戦争から帰ってきたら、次の年は子供が生まれる。それが分からない人は、もういちど保健体育の授業を受けてください。終戦の翌年から子供が一気に生まれる。昭和20年代生まれの人口は多いです。今だったら、70前後の人たちです。これを団塊(だんかい)の世代という。
10年前までは現役世代で、定年前だったから、いちばん票数が多い。選挙のときの票数が多いから、政治家もこの世代を敵にまわすと選挙で勝てないから、自民党もいろいろ高齢者を優遇していた。
10年経って、我々の世代になると数少ない。さらに団塊の世代も70才をすぎたら体が衰えて、選挙には行かなくなる。そしたら、政治家は高齢者を気にしないようになる。高齢者に手薄くなっていく。
若い世代には、それぞれ課題があります。10年スパンで、生まれた世代が抱える問題が変わります。
【シベリア抑留】 もっとも悲惨だったのは、ソ連が満州から侵入したとき満州にいた旧日本軍の兵士は、そのまま捕虜として満州からシベリアに連れて行かれて、なかなか帰ってこれない。これがシベリア抑留です。ここで多くの人が死にます。
【中国残留孤児】 命からがら帰ってきた民間の人たちでも、乳飲み子をかかえたお母さんは、この子を抱えてはとても日本に連れて帰れないということで、近くの中国人に子供を預ける。中国残留孤児の発生です。
彼らが大人になって、本当は日本人だと知る。本当の父親や母親はどこにいるか、と20~30年前まで、君たちが生まれる頃までは、こういう人たちの肉親捜しが続いていました。
【闇市】 敗戦の年は物が足らない。店に行けば物が買えるか、そんなものじゃないんです。自分で買い出しに行かないと手に入らない。ふつうの小売店を当てにしていたら手に入らないのです。だから儲けたい人は、違法に勝手に仕入れて勝手に売る。これを闇市という。
闇市というと、真夜中に町のはずれでコッソリ何か売るようなイメージがありますが、白昼堂々と駅前通りの一番人の多いところに、ずらっと並んでいる。これは何かとたずねると、闇市だという。闇じゃない。もう取締れないのです。
【インフレ】 物が足りないと、物の値段は上がる。インフレですね。まだこの頃はいいほうです。この4年後の1949年には200倍になる。1本100円のチョコレートが100倍の1万円になったら、とても買えない。想像もできないようなことが起こっていく。
【五大改革指令】 そんななかでGHQが、まずやったことは、五大改革指令です。1945.10月です。2つだけいいます。
1つは婦人の解放です。女が強くなるということです。ただ、女が強くなったのは、「女と靴下」と言われるるけれども、女が強くなるということは、日本の「家」が否定されるということです。女が家の外に出ていく。このあとの民法によって日本の「家」制度は否定されます。家長の戸主権もなくなります。これも良い悪いは、言いませんけれども、そういったなかで核家族化が進み、家庭の孤立化が起こり、今いろいろな問題が起こっている。
もう1つが教育の自由主義化です。これは現在も続いています。国の基本は教育にあるといわれるように、それを否定されることは、根本的に国が変わることを意味しています。
つまり日本は敗戦によって、「家」と「教育」を失ったことになります。このことは戦後日本の精神的な問題として残り続けます。
いまの日本で起こっている様々な問題、独居老人の問題とか、老人介護の問題、相続問題、家庭教育の問題などは、ここに起因します。
【日本国憲法】 この占領下の中で、日本を作り変える一番の根本は憲法を変えることです。変えなさいという。1945.10月です。日本人が変えようとお願いしたわけでも何でもない。これはGHQが指示する。この時代のGHQの指示は命令です。政治の世界で上から指示というのは、実質は命令です。指示されただけだから判断の裁量が与えられているのかというと、そういうことはない。大人の世界では、上からの指示というのは実質的に命令です。イヤといったら、来年は転勤で遠いところに飛ばされていたとか、いろんなことが起こる。
しかし、いくら日本が無条件降伏で戦争に負けたとは言え、国民生活の根本を規定する憲法を、よそからやって来た占領軍が自分たちの指示に基づいて作らせるというのは、人道的にどうなのかという疑問は残ります。それは人の生き方を他人が勝手に変えることです。そういう点で、主権者たる国民の意思が、この憲法には反映されていないのです。
もともと無条件降伏というのは政治的にありえないのです。政治というのはどこまでも交渉ごとです。戦争でも最後は交渉してまとめるしかないのです。だから交渉の余地なしの無条件降伏というのはもともとありえないことです。日本の敗戦が長引いた原因もここにありました。「押しつけ憲法」論は、これに起因します。
しかし、それが指示されました。作れといわれた。それで日本が自分でいったん作ります。ところがそれを見たGHQは即座に拒否します。こんなものじゃダメだ、おまえたちには任せられない、といって今度はGHQ自らがつくる。GHQ案です。日本国憲法の前文が非常に読みづらいのは、原文が英語で書かれているからです。日本人が書いたものではないからです。
しかし、GHQから提示されたら、それにノーと言える政治家がいるか。ほとんどいないのです。日本にはまだ枢密院という戦前の組織が残っています。そこで審議して、そのあと帝国議会で審議されて、ほぼ99%そのまま通る。形だけの審議です。大きなところは変えられません。そして1946.11.3日に公布されます。これが日本国憲法です。このときにはもう次の吉田茂内閣になっています。
【自由・平等】 この新憲法の基本原理は、中学・高校でもう何回も聞いていると思います。3大原則は、民主主義、平和主義、人権尊重です。この3つです。これはもう見てください。特に解説はしません。
ただ、「自由」で「平等」な社会が前提になっていますけど、確かにそれは大事ですが、もっと大事なことは「自由」と「平等」は似ていないということです。これは対立概念です。これを両立させるには、非常に優れたバランス感覚が必要です。
自由とは、十人十色で人がそれぞれ「違う」ようになることです。平等とは、逆に人が「同じ」ようになることです。自由からは「違い」が生まれ、平等からは「同じ」ことが生まれます。「違う」ことと「同じ」ことが、同じであるわけがありません。つまり自由と平等は違うのです。目指すものが違うのです。
この言葉を政治家はいろいろな意味で使います。いま「自由」は「格差」の別名のように使われています。
【芦田修正】 憲法は99%は無修正です。残り1%を修正したのは芦田修正といって、これが9条問題です。芦田修正とはのちに首相になる芦田均によって修正されたものです。
まず日本は戦争しない。それから軍隊をもたない。この2つの規定があった。これだったら全く相手にされるがままじゃないか、ということで一言加えた。
1のため(戦争をしないため)には、軍隊をもたない、と言った。戦争を仕掛けるための軍隊はもたない。ということは、自衛のためには持つ、ということです。
ただこの自衛権はもともと個別的自衛権だと解釈されていたものです。それが数年前に、安倍晋三政権下で集団的自衛権という、アメリカとともに戦争に出ていける自衛権に変わった。でもこんなことをするために、芦田修正はつけ加えられたのではない。こんなことを芦田均は言っていません。
【財閥解体】 経済政策としては、三井、三菱、住友など、こういう財閥は戦争に協力したからダメだという。とにかく日本は弱くなってくれたらいい。そこで財閥解体の指示です。1945.11月です。ここは全部GHQの指示だと思ってください。あたかも日本の政府がやっているように見せかけているだけで、全部GHQの指示です。この中で独占禁止法も制定された。
しかし結果は不徹底で、今でも財閥系企業というのはあるし、まず母体をなす銀行の解体がなかった。三井銀行とか三菱銀行とかの財閥系銀行は生き残ります。今はさらに合体して、三井住友銀行とかに、今から20年ばかり前に再編されました。
【農地改革】 経済政策の2番目、大地主も戦争に協力したからダメだという。農地改革の指示が出ます。1945.12月です。
戦前は東京の大地主が地方の土地を100ヘクタール持つとか、こういう人がいた。こういう不在地主の土地は小作人に与えなさい。これが第1次農地改革です。最大5町歩までだったら持っていい。しかしGHQは5町歩は広すぎると言うんです。1町歩はほぼ1ヘクタールです。ではアメリカはというと、一農家あたり100ヘクタールを越えてます。
50年経つと、日本の農業は外国農産物に太刀打ちできない、と言われて、もっと一農家あたりの耕地面積を増やそうとしています。
この時には5町歩以内ですが、次の第2次農地改革では、それを1町歩以内としていく。
国家が強制的に買い上げて、それを市町村、全国の津々浦々で分配するんです。市町村ごとに農地委員会というものを設けて、そこでこの区間は誰の土地、誰の土地、ずっと割り当てしていく。そして安い価格で引き取らせていくんです。農地委員会は、自作農が2、地主が3、小作農が5の割合の小作農中心で構成されます。これで寄生地主制は解体し、日本の農村は豊かになっていくけれども、非常に小規模な自作農になってしまった。前にも言ったけれども、日本の食糧自給率は先進国中最低です。
【労働三法】 アメリカにとって日本企業は強くなくてもいい。でも日本企業き強すぎるから、労働組合が強くなって欲しいという。そこで労働三法が作られる。
労働組合法は、賃金を上げろ、長時間労働を許すな、などを要求する労働組合を認める法律です。社長にとっては、長時間労働させて、低賃金だったほうが儲かる。でもそうはさせない。こういう形で、われわれ労働者は守られるようになりました。しかし戦前のような企業活動は制限されます。
戦前の教育で一番いけないのは、どの教科とされたか。まず日本史です。これはダメだ。全部作りかえです。それから地理の授業も。広くは社会科ですね。政治的な変化があるときに変わるのは社会科です。
【近衛の死】 敗戦の年が終わろうとする1945.12.16日、近衛文麿が自殺します。彼はA級戦犯として裁判にかけられることを潔しとしませんでした。仮に生き延びたとしても、アメリカの占領政策の代行者になるしか生きる道はないと思ったのかも知れません。
同じくA級戦犯となったのちの首相岸信介は、生き残る道を選びました。どちらが正しいのか分かりません。これは正しさの問題ではなく、「生きる価値」の問題でしょう。何が「生きる価値」なのか、誰も分からない時代に入っていったのです。
このことが戦後に起こったいちばん恐ろしいことではないでしょうか。「価値」の基礎にあるのは歴史です。歴史が正しくないと、「価値」はいつまで経っても定まらないのです。そのことがいちばん恐ろしいことです。
【1946年】
【天皇の人間宣言】 敗戦の翌年正月、1月1日に天皇が、私は人間であります、と宣言するんです。これ何のことか分からないでしょう。「天皇は神聖」だと思ってきた戦前の日本人にとっては、天皇が人間であることは驚きだったんです。これは私のお袋もそう言ってました。
ただ天皇一族のグループがあった。華族制度です。彼らは全部平民に落とされる。だからこれがなくなって困るのは、天皇の結婚相手です。なかなか結婚相手が見つからないという問題があります。
同月、熊沢寛道という人物が、自分は南朝の皇統を継ぐものだとして皇位の継承を要求する熊沢天皇事件が起こります。日本は、明治政府以来は南朝を正統としていましたので、マスコミは一時これを大きく取り上げましが、マスコミが取り上げなくなるにしたがって世の中から忘れ去られていきました。
【公職追放令】 戦前にアメリカに対して反発した政治犯、これは政治家になったらいけない、公務員になったらいけない、と追放する。これを公職追放といいます。1946.1月です。早い話、モノを言う政治家や公務員をクビにする。そのための法律が公職追放令です。
大物政治家から地方の公務員まで、数万人が追放されて職を失います。これが解除されたのは、5年後です。これはまたあとで言います。こんなことをされると誰もが恐くてモノが言えません。
これをまた吉田茂がうまく利用するんです。初の総選挙があった。第一党の党首は、吉田茂ではありません。鳩山一郎でした。この鳩山一郎は次の総理大臣になるはずです。その首相就任直前に、この鳩山一郎が公職追放されるということが起こります。
きっと誰かが耳打ちしたんだろう、と言われます。吉田茂だろう、というもっぱらのうわさです。吉田茂の動きがおかしすぎるのです。公職追放は、戦争責任を問うだけではなくて、戦後の政治運営にも利用されている。こういった時にマッカーサーの奥さんに付け届けをしている人というのは強いです。こうなると生きる美学の問題です。
【金融緊急措置令】 経済はまだ立ち直っていない。そこで金融緊急措置令を出す。1946.2月です。新しくお札が変わります。
インフレ傾向で、昔は円の下に銭という単位があって、インフレ傾向で、発券高つまりお札の量を減らした上で、インフレを押さえようとしたけれども、一時的におさまっただけで、インフレはまたぶり返します。
【新選挙法】 国家の基本の新選挙法です。1945.12月に出されます。選挙権が25歳から20歳になった。男だけだった選挙権が男女になった。
女性が加わったのは、フランスよりも速いです。どこの国も政治に女性を参加させるのはかなりおそい。
そこで勢いをえて、この約10年後からウーマンリブ、最近ではフェミニズムという運動も起こり出す。ここらへんも、よく考えないと、男と女の違いはどこまでが区別で、どこからが差別なのか、それを見極めるのは非常に難しいことです。これからもすったもんだしていくでしょう。旧来の価値観が否定されるということはそういうことです。何でも壊すことは簡単ですけど、一度壊れたものをまた作り上げることはそう簡単にはいかないのです。ただ最近も一頃流行ったジェンダーフリーまで行くと、これは性別破壊で、これは何か別のものを狙っていると思いますね。
【第1回総選挙】 新選挙法が施行され、終戦から半年後の1946.4.10日に第1回総選挙が行われた。まず女の国会議員が誕生した。しかも39人も。これで一気に女性が増えた。
しかしそれよりもっと大事なことは、ここで勝ったのは首相幣原喜重郎の与党であった日本進歩党ではないということです。これに反対する日本自由党が第一党になった。もっとも議席を多く占めた。次の首相をめぐって、国会は約1ヶ月空転します。
この選挙結果はGHQも予想外だった。GHQ批判が多いと受け取って、その直後の1946.4.29日、アメリカに批判的だった元外務大臣重光葵をA級戦犯にする。そして彼は獄中生活をすることになります。
【極東国際軍事裁判】 翌月1946.5.3日から、戦争犯罪人の裁判が始まります。別名は簡単に東京裁判というけれども、正式には極東国際軍事裁判という。世界的な事後裁判が、この日本の東京国際軍事裁判と、ドイツのニュルンベルク裁判です。
事後裁判とは、あとで罪を加える。「平和に対する罪」というのを。今までそんな罪はなかった。あとで罪を作った法律を事後法といいます。これをやると何でも罪にできます。法の基本は罪刑法定主義といって、事が起こる前に罪になる法律が決まっていなければなりません。事後法で裁かれる裁判はまともな裁判ではありません。1946.5.3日に始まり1948.11月に終わります。開始と同年の1946年からは公職追放もはじまります。
日本が食糧難でいちばん混乱していたころです。私の父が何もする気が起こらなかったといっていた頃です。私の叔父が酒を飲むと手がつけられなくなっていた頃です。みんな物質的にも精神的にも、生きていくのに精一杯で、新聞など見る余裕のなかった頃です。
この裁判で処刑された代表的な人物がもと首相の東条英機です。この人は、自分で潔く死のうと思って、心臓にピストルあてて、バーンとやる。しかし、心臓の位置が、人よりも少し右にずれていたために致命傷にはならなかった。GHQはご丁寧にも万全の体制で生き返らせた。生き返らせて裁判にかけて処刑するんです。世の中に見てもらうことが必要なのです。死んでもらっちゃ困る。裁判で有罪になってもらわないと、アメリカにとっては非常にまずい。これは政治的なショーです。そして悪いのは日本の軍部だ、という結論になっていく。そのための手続きが欲しかったのです。
「勝てば官軍」と言うことなのでしょうが、この裁判には勝者による敗者に対する一方的な裁判、という批判がつきまとっています。このような近代的な裁判で、国家の指導者個人が戦争犯罪人として裁かれたのは、例のないことです。ここで示された善悪の基準がその後の日本の価値観になっていきます。この歴史観には東京裁判史観という名称があります。
【鳩山一郎の公職追放】 極東国際軍事裁判が始まった翌日の1946.5.4日に突然、鳩山一郎が公職追放になります。
さっき言ったように、日本自由党が第一党になると、日本自由党の総裁は次の総理大臣になるはずです。その人が鳩山一郎です。その彼が公職追放され、政界を追われます。本人にも予想外のことです。政治家という公職からの追放です。これで総理大臣になれなくなります。
誰がこんなことをしたのか。吉田茂は臭い人です。外相の吉田茂がマッカーサーに取り入って、鳩山一郎を公職追放にしたのではないかという噂があります。
総選挙で第一党になった党首の鳩山一郎が突然公職追放されることにより、国会は約1ヶ月空転します。
一方で総選挙の敗北を受けて、幣原喜重郎内閣は退陣します。しかしその間に、幣原内閣の外務大臣であった吉田茂は、まず日本自由党の総裁であった鳩山一郎の後任として日本自由党の総裁となります。これも不思議なことです。
そして吉田茂はその第一党の日本自由党の党首として、1946.5.22日に内閣総理大臣になります。このとき吉田茂は国会議員ですらありません。こうやって幣原喜重郎と吉田茂という、戦前からの親米派の外交官が2代続けて日本の総理大臣になります。アメリカの占領政策とはこういうことです。
戦後の大政治家といわれる吉田茂は、国民から選ばれて首相になったわけではありません。むしろ国民は吉田茂には否定的なのです。だから国民による選挙を受けていないのです。
この時にはまだ新憲法は発布されておらず、旧憲法の規定で内閣総理大臣になっています。しかも日本に本当の主権はなく、GHQの占領下にあります。こういう状況の中で、親米派としてマッカーサーにすり寄った吉田茂が首相となります。
このころ政治家たちは、いつ自分がA級戦犯容疑をかけられるか気が気ではなく、この1946.1月からは公職追放の不安がつきまといます。その決定権はすべてGHQが握っています。日本の政治家は何かに脅されているような状況の中で政治活動をしていかざるをえません。
占領下の民主政治、これはどう考えても矛盾しています。これは民主政治ではないです。ではなぜアメリカ軍が日本の民主政治を望んだのか。そのことの狙いは別にあります。アメリカの占領政策と結びつけて考えなければならないことです。
【冷戦の発生】
【国際連合の成立】 戦後、国際連合が誕生した。スイスのジュネーブにあった国際連合が一気にアメリカのニューヨークに変わったということです。これは書いてないけど、これがポンと設立されて今の国連ビルが建った。その土地は、オレが寄付する、と言ってアメリカナンバーワン財閥のロックフェラーが寄付したものです。オレの土地を使えと。でもこれ本当に慈善事業で寄付したと思いますか。金持ちほど儲からないことはしないものです。
国際連合は軍隊があるというのが国際連盟と違う。これを国連軍という。これは、90%以上はアメリカ軍です。
しかし、すぐソ連との冷戦構造が出現する。資本主義陣営は、経済的にはマーシャル・プランです。マーシャルはアメリカの国務長官の名前です。これによりヨーロッパに対する経済援助を行います。
しかしそれと同時に、軍事的には、NATOつまり北大西洋条約機構です。これでアメリカによる軍事態勢を強化します。これは今もあります。
それに対して旧ソ連側は、今から30年前につぶれたけれど、コミンフォルムという共産党情報局がありました。これはつぶれました。軍事的にはワルシャワ条約機構です。これもソ連の崩壊と同時につぶれました。
この間、ソ連は国境を接するところを次々に社会主義国にしていく。ポーランドとチェコスロバキアからハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、いわゆる東ヨーロッパ諸国は一気に社会主義陣営になっていく。
これは別にヨーロッパだけのことじゃない。我々の日本や東アジア地域だって、ソ連とアメリカが分割する危険性があったんです。
今の北方領土問題の原因はそれです。ロシアの言い方は何かというと。オレたちが退くのだったら、その前にアメリカの米軍基地を撤去させなさいよ、という。一理ある。賛成はしないけど。日本にそれができるか、99%できない。
【冷戦による国家分裂】 しかし朝鮮は分割された。アメリカ占領地域が大韓民国になる。北朝鮮はソ連側になる。
ドイツもそうです。今は統合しましたけれども、アメリカ側の西ドイツ、ソ連側の東ドイツに分かれた。1948年には、首都ベルリンが封鎖された。ここは省略しますが、空輸したんです。さらに10年後には、西ベルリンを囲んだ。ベルリンの壁をつくった。君たちが生まれるころに、やっと取り壊された。この壁を登ろうものなら、即射殺です。何十人も殺されました。
お隣の中国もそうです。日本が戦争に負けたあと、中国は蒋介石の国民党と毛沢東の共産党との本格的な内乱に入っていきます。
予想に反して、勝ったのは共産党中国です。これが今の中華人民共和国です。1949年の成立です。共産党政権です。リーダーは毛沢東です。このことが日本を支配するアメリカの占領政策に大きな変更を与えていきます。
負けた中国が中華民国です。中華民国とは1911年の辛亥革命で誕生したあの中華民国です。これが今の台湾です。国民党政権です。リーダーは蒋介石です。
アメリカはなぜ蒋介石を応援しなかったのか、これも大きな謎です。
中華民国を名乗っていた蒋介石は台湾に逃げて、台湾で中華民国と名乗る。ただ今の日本はこの政府を正式には認めないまま、経済取引だけは盛んに行うという、ねじれた外交を行っています。
これで終わります。