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2020年のアメリカ大統領選以後はムチャクチャ

授業でいえない日本史 43話 戦後 アメリカの占領政策~冷戦の発生

2020-09-21 10:00:00 | 旧日本史6 戦後
【アメリカの占領政策】
【東久邇宮稔彦内閣】
(1945.8.17~45.10)
戦後に入ります。日本で起こったことですが、ただし主権はありません。内閣は東久邇宮稔彦内閣です。
このときアメリカはすでに徹底した日本研究をやっている。経済研究じゃない。文化研究です。日本人の考え方の研究です。日本人が何をどう考えているかを知っています。
この時の最高の日本文化研究書、これは戦争中アメリカで書かれた本です。「菊と刀」です。戦後のベストセラーです。日本人が日本を説明するよりもよくわかると言われる。その通りです。こういう本が書けるほど徹底して日本の文化研究をやっています。占領政策にそなえて。どうやったら日本人を操ることができるかと。

この内閣の外務大臣は重光葵(まもる)という。このときの東久邇宮首相はどっちかというと責任職というか、飾りです。実質の首相は外相のこの人です。足が悪くて杖をついているけれどもかくしゃくとしている。
この人の一番の手柄は、闇になっているけれども、トルコなんかはアラビア文字がABCに変わった。この20年前に。日本にも同じことをやろうとする。本当にこの計画がある。ABCのアルファベットでで、全部日本語を表記しようということが考えられています。
それだけはやめてくれ、といってそれをストップさせる。
8月15日に玉音放送。なぜか敗戦とはいわずに、終戦という。だからこの日は終戦記念日という名がつきました。敗戦というと悔しいという感情が起こる。終戦というと平和になって嬉しいという感情が起こる。微妙な言い方ですけど。こんなところから工夫があります。


【マッカーサー】 1945.8.30日にマッカーサーが日本に降り立つ。連合国の総司令官として。アメリカ軍の司令官ではなく、連合国軍総司令官として。連合国はいっぱいあります。イギリスもフランスもソ連もそうです。しかし99%はアメリカ軍です。
先にそういう既成事実を作って、それを国際社会に認めさせる。こうしましたよ、といってしまえれば、それダメだ、といってももう済んでしまっている。

1945.9.2日、降伏文書調印も、東京湾に停泊する米軍のミズーリ号に呼び出されて、外務大臣の重光葵が行います。

さっき言ったように、英語を公用語にしようとする。これだけはやめてくれと撤回させる。もしそうなっていれば、学校は英語でしゃべらないといけなくなっていた。


【GHQ】 この連合国軍最高司令官総司令部というのを略してGHQという。しかしこれは、ほぼ米軍です。旧第一生命館ビル(現DNタワー21)がある場所がそれです。皇居の南側に向かい合うこの場所には、当時、7階建てのビルがありました。この時から日本が独立する1952年までの約7年間、日本の政治方針は、国会議事堂ではなく、また首相官邸でもなく、この場所から発せられます。 


日本は、GHQというけれども、当時は進駐軍といっていた。進駐軍が来たと。でも子供はこれが好きですよ。なぜか。チョコレートを配ってまわるから。チューインガムを配ってまわるから。これは作戦ですよね。だから、そのまわりで大人はシラーと見ている。子供は分からないから、ちょうだい、ちょうだい、と米兵に寄っていく。そこに自分の子供がいても、それを「行くな」とは言えない大人がいる。

そこで親と子の考え方が大きく違ってくる。子供は、米兵はいい人だったよ、アメリカ大好き、という。でも親の世代は、親兄弟をアメリカ軍から殺された世代です。その子供世代が、われわれです。その子供が、君たちの世代です。戦争を知っているのは、80才以上の世代です。
だから私の親父は、あんまり言わないですね。戦後は世の中が変わって、戦争のことを言ってもどうにもならないと思っているから。
私は30才過ぎて、父にいろいろ聞きだした。それまで親父から何か言われると、うるさがっていた私ですが、自分にも子供が生まれて、親父がいるうちに、いろいろ聞いておかなければならないと思った。親父はもういませんけど。

日本国の最高機関は国会ではありません。極東委員会と言って、ワシントンにある。こっちが上なんだけど、実権は東京の連合国軍最高司令官総司令部です。これをGHQといいます。その最高司令官がマッカーサーです。
ここでの第一目標は、日本が二度と立ち上がれない国にすること、弱い国でいい、アメリカにとって無害でさえあればいい、ということです。


連合国軍といっても、GHQはほぼアメリカ軍です。アメリカ主導で日本が作り変えられていく。当然、日本に主権はありません。国会はありますが、そこで決まったことよりも、GHQの決定が優先されます。そのような主権なき国家が、このあと7年間、1952年まで続きます。
そういう意味ではここは日本史の一部じゃなくて、アメリカ史の一部になっている。1945年から1952年の独立までは。理由は、日本には国のことを決定する主権がないからです。


【間接統治】 その主権がないなかで、一応日本政府は存続していきます。GHQが国民を直接支配すると、頭のいい国民は反発するんですよ。だから、その中間に地元民の政府を立てる。しかしこの政府には実権がないんですね。これを間接統治という。生活に追われている国民から見れば、あたかも自分たちの政府が機能しているように見える。
そのなかで、日本の独特の国家体制である天皇制も維持される。日本人から見れば何も変わらないように見える。日本政府も存続する。しかしなにも実権はない。形だけです。
この反対が直接統治です。例えば軍事的に最重要拠点になった沖縄は直接統治で、米軍が沖縄を直接支配する。車は右側通行ですね。お金もドル札です。だから私が子供のころ、沖縄が日本に本土復帰するまでは、沖縄は車は右側通行だったし、お金はドル札だった。それで甲子園にも来れなかった。

沖縄の人がいうには、そんななかで屋良朝苗という沖縄主席が、子供の教育をアメリカ流にしてどうするんだ、日本流にすべきだ、主張します。これで20数年後の本土復帰の際には、何も問題なくなった。
ただ子供は、さっきも言ったように、恐い米軍と思っていたら、チョコレートを配る、チューインガムを配る、アメリカが好きになる。これも印象操作の一つです。


【政党の復活】 日本の政府が存続しますから、政党も復活します。いったん戦前に消滅したけれど、体制翼賛会が消滅して、政党は戦後すぐ復活する。戦前の二大政党は政友会と民政党です。
これが名前を変えて、政友会系は日本自由党、この党首が鳩山一郎です。


10数年前にこの人の孫の鳩山由紀夫が総理大臣になりました。自民党から政権交代したあとの民主党政権でしたが、変な形で辞任しました。そこで何があったか、あれは多分、君たちが私ぐらいの年になったときに誰かが暴くでしょう。非常に不思議な終わり方をしました。この人が同じ民主党の菅直人に変わった瞬間に、全く方針が変わった。選挙公約とまったく違ったことを菅直人がやっていった。

もう一つ、戦前の民政党系は何か。日本進歩党です。


この二つは10年後の1955年に、合体します。これが今の自由民主党です。今の自由民主党の大もとはこの二つの流れです。


【外相更迭】 この東久邇宮内閣の外務大臣は重光葵です。日本で英語を公用語にするとか、またはアルファベットで記述するとか、それだけはやめてくれと、とにかくGHQへ乗り込んでいってストップさせた。この人はアメリカに対してもモノを言うんです。モノ言う人間は、アメリカは欲しくない。それで1945.9月に外務大臣を更迭される。更迭とは、やめさせられることです。

そこで代わりに外務大臣になるのが吉田茂です。戦前、何していた人か。アメリカ好きの外交官です。もと親米派の駐米大使です。国民に選ばれた国会議員ではありません。
この時期の外務大臣は、占領軍であるGHQとの窓口であり、その交渉の責任者です。実質的な日本政府の実権は外務大臣が握っています。この人はこのあと総理大臣になり、占領下日本の中心的政治家になっていきます。

吉田茂は、高知県出身の自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった竹内綱の五男として生まれますが、3歳で吉田健三の養子になります。養父の吉田健三は旧福井藩士で、長崎で英学を学んだあと、1866年にはイギリス軍艦でイギリスへ密航します。
1868年に帰国したあと、横浜の英国商社・ジャーディン・マセソン商会横浜支店の支店長に就任して富を築いた資産家です。吉田茂はその莫大な資産を受け継ぎます。
幕末に活躍した長崎のイギリス人の武器商人トーマス・グラバーの親会社に当たるジャーディン・マセソン商会が、こんなところに顔を出します。

三菱も長崎のグラバーと関係の深い会社でした。その三菱財閥の創業者である岩崎弥太郎の四女と結婚した政治家が、幣原喜重郎でした。幣原喜重郎は親米派の外交官として吉田茂の先輩格でもあります。
外務大臣の吉田茂は、この忘れられかけていた幣原喜重郎を次の首相として引っ張り出すことになります。
戦後のこの時期になっても、幕末の長崎つながり、つまりイギリスつながりの人脈が顔を出します。


【プレス・コード】 こういう占領下の状況の中で、米軍がまずしたことが報道統制です。
戦争中の日本が報道統制をしていたことは言いましたけれども、徹底した報道統制はGHQ占領下の戦後すぐにはじまります。これをプレス=コードといいます。プレスは印刷です。新聞発行要領という。これはGHQの政策です。日本に主権はないから、ここで説明するほとんどのことは、GHQの政策です。


出版物はすべて事前検閲、米軍に都合の悪いことを報道しようとすると、全部発行禁止になって許可が降りない。出版物の最たるものが新聞です。絶対させてはいけないものが占領軍に対する批判です。
これにまず乗せられていくのがNHKです。「真相はこうだ」という番組や、太平洋戦争はこうだったという番組を、アメリカの情報を一方的に流させていく。日本人の中には、アメリカに負けただけではなく、日本の軍部にだまされたんだという意識も出てくる。この1年間で日本人は、アメリカはこんなにいい国だったんだと作り替えられていく。
太平洋戦争という名前も、日本はあくまでも中国戦っていたからもともとアジアの戦争だった。だから東アジアの大戦争、大東亜戦争と言っていたものを、アメリカがこれはダメだといって、太平洋戦争という名前に変えられていく。最近は、これでは実態が分からないということで、アジア太平洋戦争という名前になりつつある。


【墨塗教科書】 学校では先生が墨もってきて、この教科書はウソ書いてあるから消しなさい、と言う。では去年まで、先生たちが言っていたことはウソだったのかということになる。これは辛いでしょうね。例えば、私が今言っていることを、来年政権が変わった場合に、ゴメン去年言ったことは間違ってた、といって自分の考えとは関係なく、それを墨で消す。これは耐えられないと思う。墨塗教科書というのは、そういうことです。
本来、教育は政治に左右されてはならないものですが、GHQはそれをやるんです。だから無条件降伏は長いこと受け入れられなかったし、それまで歴史的にもなかったんです。特に文系の教科は政治に左右されます。今やっている日本史も戦後最も変わった教科です。


【一億層懺悔】 戦争の総決算として、一億総懺悔(ざんげ)です。この意味は、ごめんなさいをいうのは政治家じゃない、軍部じゃない、日本人全員なんだ、という。一般庶民は、オレは何か悪いことしたんだろうか、という話です。

それほど価値観がガラリと変わる。ここまで価値観が変わると国民は一種の思考停止状態に陥ります。庶民は生きていくのに精一杯な毎日です。とにかく流れに着いていくしかない。哀れなのは、軍神と崇められた、特攻兵のわずかな生き残りの青年たちが石投げられて、この特攻崩れが、と言われたことです。この屈辱は一生忘れない、といって戦後、死んでいった人もいる。
この東久邇宮は臨時政府みたいなものです。1945.10月、2ヶ月で退陣します。




【幣原喜重郎内閣】(1945.10~46.4)
次の内閣に変わります。敗戦から2か月経った1945.10月に、内閣総理大臣になるのが篠原喜重郎です。

国民による選挙はなく、マッカーサーの意向により任命されます。戦前には親米派の外交官だった。そして外務大臣になり、協調外交、幣原外交という名前までついた外交を行った人です。この人は国会議員ではありません。マッカーサーの意向を受けて、外交官の先輩であるこの幣原喜重郎を首相に推したのが、同じ親米派外交官であった外務大臣の吉田茂です。
この内閣は1946.4までの約半年間ですが、この半年間で戦後の日本がほぼ決まります。重要なことが立て続けに起こります。


【外相】 この内閣でも外務大臣になるのは吉田茂です。吉田茂がそのまま外務大臣にとどまる。親米派の外交官二人が、首相と外務大臣になるわけです。この時の外務大臣は、アメリカと交渉する責任者で、そのアメリカが実権を握っているわけですから、外務大臣のポストは首相以上の力があります。実質的な首相は、前の内閣から外務大臣であった吉田茂です。

吉田茂は戦前からアメリカべったりです。日本の官僚には高圧的な態度にでるけど、マッカーサーには平身低頭です。それだけだはなく、マッカーサー夫人には盆と正月に必ず酒を持っていたり、贈り物をしたりして、いろいろ政界工作をやっていく。そうやってマッカーサーに取り入っていくんです。
どうもこの人は、日本の政治家しか知らないようなことまで、GHQには言ってはならないことまでマッカーサーに言っていたらしい。秘密に近いことを言っていたらしい。だから日本人には人気がないけど、マッカーサーの信任は厚い。そうじゃないと、一介の外交官が首相にはなれないです。ちなみにこの人の外孫が今の副総理の麻生太郎です。


【戦後の混乱】 この時代、戦争が一番悲惨というイメージがあるけれども、一番悲惨なのは、この1945年が一番農作物がとれないことです。今年の秋とれた米は、来年食べる米です。ここが取れないから一番の食糧難は、次の1946年です。

こういう食糧がない中で、外地からいっぱい人が日本に帰ってくる。日本人は、このとき朝鮮や満州や台湾にもいます。その人たちが帰ってきます。食い物がないときに人口だけ増えていく。
まず兵隊が外地から帰ってくる。これを復員といいます。それから一般の人が朝鮮や満州や台湾などの外地から帰ってくることを、引揚げという。
私も、知っている人が、復員や引き上げで帰ってきたのを知ったのは20歳過ぎてからですよ。戦後の子供たち、ギブミーチョコレートの世代に、戦争のことを言うような大人はいないです。反感を持たれるから、なかなか言えないことなんですね。



【ベビーブーム】 ただ、食糧難の時代でも、おとうちゃんが数年ぶりに戦争から帰ってきたら、次の年は子供が生まれる。それが分からない人は、もういちど保健体育の授業を受けてください。終戦の翌年から子供が一気に生まれる。昭和20年代生まれの人口は多いです。今だったら、70前後の人たちです。これを団塊(だんかい)の世代という。

10年前までは現役世代で、定年前だったから、いちばん票数が多い。選挙のときの票数が多いから、政治家もこの世代を敵にまわすと選挙で勝てないから、自民党もいろいろ高齢者を優遇していた。
10年経って、我々の世代になると数少ない。さらに団塊の世代も70才をすぎたら体が衰えて、選挙には行かなくなる。そしたら、政治家は高齢者を気にしないようになる。高齢者に手薄くなっていく。
若い世代には、それぞれ課題があります。10年スパンで、生まれた世代が抱える問題が変わります。


【シベリア抑留】 もっとも悲惨だったのは、ソ連が満州から侵入したとき満州にいた旧日本軍の兵士は、そのまま捕虜として満州からシベリアに連れて行かれて、なかなか帰ってこれない。これがシベリア抑留です。ここで多くの人が死にます。


【中国残留孤児】 命からがら帰ってきた民間の人たちでも、乳飲み子をかかえたお母さんは、この子を抱えてはとても日本に連れて帰れないということで、近くの中国人に子供を預ける。中国残留孤児の発生です。
彼らが大人になって、本当は日本人だと知る。本当の父親や母親はどこにいるか、と20~30年前まで、君たちが生まれる頃までは、こういう人たちの肉親捜しが続いていました。

【闇市】 敗戦の年は物が足らない。店に行けば物が買えるか、そんなものじゃないんです。自分で買い出しに行かないと手に入らない。ふつうの小売店を当てにしていたら手に入らないのです。だから儲けたい人は、違法に勝手に仕入れて勝手に売る。これを闇市という。

闇市というと、真夜中に町のはずれでコッソリ何か売るようなイメージがありますが、白昼堂々と駅前通りの一番人の多いところに、ずらっと並んでいる。これは何かとたずねると、闇市だという。闇じゃない。もう取締れないのです。


【インフレ】 物が足りないと、物の値段は上がる。インフレですね。まだこの頃はいいほうです。この4年後の1949年には200倍になる。1本100円のチョコレートが100倍の1万円になったら、とても買えない。想像もできないようなことが起こっていく。


【五大改革指令】 そんななかでGHQが、まずやったことは、五大改革指令です。1945.10月です。2つだけいいます。

1つは婦人の解放です。女が強くなるということです。ただ、女が強くなったのは、「女と靴下」と言われるるけれども、女が強くなるということは、日本の「」が否定されるということです。女が家の外に出ていく。このあとの民法によって日本の「家」制度は否定されます。家長の戸主権もなくなります。これも良い悪いは、言いませんけれども、そういったなかで核家族化が進み、家庭の孤立化が起こり、今いろいろな問題が起こっている。

もう1つが教育の自由主義化です。これは現在も続いています。国の基本は教育にあるといわれるように、それを否定されることは、根本的に国が変わることを意味しています。
つまり日本は敗戦によって、「家」と「教育」を失ったことになります。このことは戦後日本の精神的な問題として残り続けます。
いまの日本で起こっている様々な問題、独居老人の問題とか、老人介護の問題、相続問題、家庭教育の問題などは、ここに起因します。


【日本国憲法】 この占領下の中で、日本を作り変える一番の根本は憲法を変えることです。変えなさいという。1945.10月です。日本人が変えようとお願いしたわけでも何でもない。これはGHQが指示する。この時代のGHQの指示は命令です。政治の世界で上から指示というのは、実質は命令です。指示されただけだから判断の裁量が与えられているのかというと、そういうことはない。大人の世界では、上からの指示というのは実質的に命令です。イヤといったら、来年は転勤で遠いところに飛ばされていたとか、いろんなことが起こる。

しかし、いくら日本が無条件降伏で戦争に負けたとは言え、国民生活の根本を規定する憲法を、よそからやって来た占領軍が自分たちの指示に基づいて作らせるというのは、人道的にどうなのかという疑問は残ります。それは人の生き方を他人が勝手に変えることです。そういう点で、主権者たる国民の意思が、この憲法には反映されていないのです。
もともと無条件降伏というのは政治的にありえないのです。政治というのはどこまでも交渉ごとです。戦争でも最後は交渉してまとめるしかないのです。だから交渉の余地なしの無条件降伏というのはもともとありえないことです。日本の敗戦が長引いた原因もここにありました。「押しつけ憲法」論は、これに起因します。

しかし、それが指示されました。作れといわれた。それで日本が自分でいったん作ります。ところがそれを見たGHQは即座に拒否します。こんなものじゃダメだ、おまえたちには任せられない、といって今度はGHQ自らがつくる。GHQ案です。日本国憲法の前文が非常に読みづらいのは、原文が英語で書かれているからです。日本人が書いたものではないからです。
しかし、GHQから提示されたら、それにノーと言える政治家がいるか。ほとんどいないのです。日本にはまだ枢密院という戦前の組織が残っています。そこで審議して、そのあと帝国議会で審議されて、ほぼ99%そのまま通る。形だけの審議です。大きなところは変えられません。そして1946.11.3日に公布されます。これが日本国憲法です。このときにはもう次の吉田茂内閣になっています。


【自由・平等】 この新憲法の基本原理は、中学・高校でもう何回も聞いていると思います。3大原則は、民主主義、平和主義、人権尊重です。この3つです。これはもう見てください。特に解説はしません。


ただ、「自由」で「平等」な社会が前提になっていますけど、確かにそれは大事ですが、もっと大事なことは「自由」と「平等」は似ていないということです。これは対立概念です。これを両立させるには、非常に優れたバランス感覚が必要です。
自由とは、十人十色で人がそれぞれ「違う」ようになることです。平等とは、逆に人が「同じ」ようになることです。自由からは「違い」が生まれ、平等からは「同じ」ことが生まれます。「違う」ことと「同じ」ことが、同じであるわけがありません。つまり自由と平等は違うのです。目指すものが違うのです。
この言葉を政治家はいろいろな意味で使います。いま「自由」は「格差」の別名のように使われています。


【芦田修正】 憲法は99%は無修正です。残り1%を修正したのは芦田修正といって、これが9条問題です。芦田修正とはのちに首相になる芦田均によって修正されたものです。
まず日本は戦争しない。それから軍隊をもたない。この2つの規定があった。これだったら全く相手にされるがままじゃないか、ということで一言加えた。
1のため(戦争をしないため)には、軍隊をもたない、と言った。戦争を仕掛けるための軍隊はもたない。ということは、自衛のためには持つ、ということです。
ただこの自衛権はもともと個別的自衛権だと解釈されていたものです。それが数年前に、安倍晋三政権下で集団的自衛権という、アメリカとともに戦争に出ていける自衛権に変わった。でもこんなことをするために、芦田修正はつけ加えられたのではない。こんなことを芦田均は言っていません。


【財閥解体】 経済政策としては、三井、三菱、住友など、こういう財閥は戦争に協力したからダメだという。とにかく日本は弱くなってくれたらいい。そこで財閥解体の指示です。1945.11月です。ここは全部GHQの指示だと思ってください。あたかも日本の政府がやっているように見せかけているだけで、全部GHQの指示です。この中で独占禁止法も制定された。
しかし結果は不徹底で、今でも財閥系企業というのはあるし、まず母体をなす銀行の解体がなかった。三井銀行とか三菱銀行とかの財閥系銀行は生き残ります。今はさらに合体して、三井住友銀行とかに、今から20年ばかり前に再編されました。


【農地改革】 経済政策の2番目、大地主も戦争に協力したからダメだという。農地改革の指示が出ます。1945.12月です。
戦前は東京の大地主が地方の土地を100ヘクタール持つとか、こういう人がいた。こういう不在地主の土地は小作人に与えなさい。これが第1次農地改革です。最大5町歩までだったら持っていい。しかしGHQは5町歩は広すぎると言うんです。1町歩はほぼ1ヘクタールです。ではアメリカはというと、一農家あたり100ヘクタールを越えてます。
50年経つと、日本の農業は外国農産物に太刀打ちできない、と言われて、もっと一農家あたりの耕地面積を増やそうとしています。

この時には5町歩以内ですが、次の第2次農地改革では、それを1町歩以内としていく。
国家が強制的に買い上げて、それを市町村、全国の津々浦々で分配するんです。市町村ごとに農地委員会というものを設けて、そこでこの区間は誰の土地、誰の土地、ずっと割り当てしていく。そして安い価格で引き取らせていくんです。農地委員会は、自作農が2、地主が3、小作農が5の割合の小作農中心で構成されます。これで寄生地主制は解体し、日本の農村は豊かになっていくけれども、非常に小規模な自作農になってしまった。前にも言ったけれども、日本の食糧自給率は先進国中最低です。


【労働三法】 アメリカにとって日本企業は強くなくてもいい。でも日本企業き強すぎるから、労働組合が強くなって欲しいという。そこで労働三法が作られる。
労働組合法は、賃金を上げろ、長時間労働を許すな、などを要求する労働組合を認める法律です。社長にとっては、長時間労働させて、低賃金だったほうが儲かる。でもそうはさせない。こういう形で、われわれ労働者は守られるようになりました。しかし戦前のような企業活動は制限されます。

戦前の教育で一番いけないのは、どの教科とされたか。まず日本史です。これはダメだ。全部作りかえです。それから地理の授業も。広くは社会科ですね。政治的な変化があるときに変わるのは社会科です。



【近衛の死】 敗戦の年が終わろうとする1945.12.16日、近衛文麿が自殺します。彼はA級戦犯として裁判にかけられることを潔しとしませんでした。仮に生き延びたとしても、アメリカの占領政策の代行者になるしか生きる道はないと思ったのかも知れません。
同じくA級戦犯となったのちの首相岸信介は、生き残る道を選びました。どちらが正しいのか分かりません。これは正しさの問題ではなく、「生きる価値」の問題でしょう。何が「生きる価値」なのか、誰も分からない時代に入っていったのです。
このことが戦後に起こったいちばん恐ろしいことではないでしょうか。「価値」の基礎にあるのは歴史です。歴史が正しくないと、「価値」はいつまで経っても定まらないのです。そのことがいちばん恐ろしいことです。



【1946年】
【天皇の人間宣言】 敗戦の翌年正月、1月1日に天皇が、私は人間であります、と宣言するんです。これ何のことか分からないでしょう。「天皇は神聖」だと思ってきた戦前の日本人にとっては、天皇が人間であることは驚きだったんです。これは私のお袋もそう言ってました。
ただ天皇一族のグループがあった。華族制度です。彼らは全部平民に落とされる。だからこれがなくなって困るのは、天皇の結婚相手です。なかなか結婚相手が見つからないという問題があります。

同月、熊沢寛道という人物が、自分は南朝の皇統を継ぐものだとして皇位の継承を要求する熊沢天皇事件が起こります。日本は、明治政府以来は南朝を正統としていましたので、マスコミは一時これを大きく取り上げましが、マスコミが取り上げなくなるにしたがって世の中から忘れ去られていきました。


【公職追放令】 戦前にアメリカに対して反発した政治犯、これは政治家になったらいけない、公務員になったらいけない、と追放する。これを公職追放といいます。1946.1月です。早い話、モノを言う政治家や公務員をクビにする。そのための法律が公職追放令です。
大物政治家から地方の公務員まで、数万人が追放されて職を失います。これが解除されたのは、5年後です。これはまたあとで言います。こんなことをされると誰もが恐くてモノが言えません。

これをまた吉田茂がうまく利用するんです。初の総選挙があった。第一党の党首は、吉田茂ではありません。鳩山一郎でした。この鳩山一郎は次の総理大臣になるはずです。その首相就任直前に、この鳩山一郎が公職追放されるということが起こります。

きっと誰かが耳打ちしたんだろう、と言われます。吉田茂だろう、というもっぱらのうわさです。吉田茂の動きがおかしすぎるのです。公職追放は、戦争責任を問うだけではなくて、戦後の政治運営にも利用されている。こういった時にマッカーサーの奥さんに付け届けをしている人というのは強いです。こうなると生きる美学の問題です。


【金融緊急措置令】 経済はまだ立ち直っていない。そこで金融緊急措置令を出す。1946.2月です。新しくお札が変わります。
インフレ傾向で、昔は円の下に銭という単位があって、インフレ傾向で、発券高つまりお札の量を減らした上で、インフレを押さえようとしたけれども、一時的におさまっただけで、インフレはまたぶり返します。


【新選挙法】 国家の基本の新選挙法です。1945.12月に出されます。選挙権が25歳から20歳になった。男だけだった選挙権が男女になった。
女性が加わったのは、フランスよりも速いです。どこの国も政治に女性を参加させるのはかなりおそい。


そこで勢いをえて、この約10年後からウーマンリブ、最近ではフェミニズムという運動も起こり出す。ここらへんも、よく考えないと、男と女の違いはどこまでが区別で、どこからが差別なのか、それを見極めるのは非常に難しいことです。これからもすったもんだしていくでしょう。旧来の価値観が否定されるということはそういうことです。何でも壊すことは簡単ですけど、一度壊れたものをまた作り上げることはそう簡単にはいかないのです。ただ最近も一頃流行ったジェンダーフリーまで行くと、これは性別破壊で、これは何か別のものを狙っていると思いますね。


【第1回総選挙】 新選挙法が施行され、終戦から半年後の1946.4.10日第1回総選挙が行われた。まず女の国会議員が誕生した。しかも39人も。これで一気に女性が増えた。
しかしそれよりもっと大事なことは、ここで勝ったのは首相幣原喜重郎の与党であった日本進歩党ではないということです。これに反対する日本自由党が第一党になった。もっとも議席を多く占めた。次の首相をめぐって、国会は約1ヶ月空転します。

この選挙結果はGHQも予想外だった。GHQ批判が多いと受け取って、その直後の1946.4.29日、アメリカに批判的だった元外務大臣重光葵A級戦犯にする。そして彼は獄中生活をすることになります。



【極東国際軍事裁判】 翌月1946.5.3日から、戦争犯罪人の裁判が始まります。別名は簡単に東京裁判というけれども、正式には極東国際軍事裁判という。世界的な事後裁判が、この日本の東京国際軍事裁判と、ドイツのニュルンベルク裁判です。
事後裁判とは、あとで罪を加える。「平和に対する罪」というのを。今までそんな罪はなかった。あとで罪を作った法律を事後法といいます。これをやると何でも罪にできます。法の基本は罪刑法定主義といって、事が起こる前に罪になる法律が決まっていなければなりません。事後法で裁かれる裁判はまともな裁判ではありません。1946.5.3日に始まり1948.11月に終わります。開始と同年の1946年からは公職追放もはじまります。


日本が食糧難でいちばん混乱していたころです。私の父が何もする気が起こらなかったといっていた頃です。私の叔父が酒を飲むと手がつけられなくなっていた頃です。みんな物質的にも精神的にも、生きていくのに精一杯で、新聞など見る余裕のなかった頃です。

この裁判で処刑された代表的な人物がもと首相の東条英機です。この人は、自分で潔く死のうと思って、心臓にピストルあてて、バーンとやる。しかし、心臓の位置が、人よりも少し右にずれていたために致命傷にはならなかった。GHQはご丁寧にも万全の体制で生き返らせた。生き返らせて裁判にかけて処刑するんです。世の中に見てもらうことが必要なのです。死んでもらっちゃ困る。裁判で有罪になってもらわないと、アメリカにとっては非常にまずい。これは政治的なショーです。そして悪いのは日本の軍部だ、という結論になっていく。そのための手続きが欲しかったのです。


「勝てば官軍」と言うことなのでしょうが、この裁判には勝者による敗者に対する一方的な裁判、という批判がつきまとっています。このような近代的な裁判で、国家の指導者個人が戦争犯罪人として裁かれたのは、例のないことです。ここで示された善悪の基準がその後の日本の価値観になっていきます。この歴史観には東京裁判史観という名称があります。


【鳩山一郎の公職追放】 極東国際軍事裁判が始まった翌日の1946.5.4日に突然鳩山一郎公職追放になります。

さっき言ったように、日本自由党が第一党になると、日本自由党の総裁は次の総理大臣になるはずです。その人が鳩山一郎です。その彼が公職追放され、政界を追われます。本人にも予想外のことです。政治家という公職からの追放です。これで総理大臣になれなくなります。
誰がこんなことをしたのか。吉田茂は臭い人です。外相の吉田茂がマッカーサーに取り入って、鳩山一郎を公職追放にしたのではないかという噂があります。

総選挙で第一党になった党首の鳩山一郎が突然公職追放されることにより、国会は約1ヶ月空転します。
一方で総選挙の敗北を受けて、幣原喜重郎内閣は退陣します。しかしその間に、幣原内閣の外務大臣であった吉田茂は、まず日本自由党の総裁であった鳩山一郎の後任として日本自由党の総裁となります。これも不思議なことです。

そして吉田茂はその第一党の日本自由党の党首として、1946.5.22日に内閣総理大臣になります。このとき吉田茂は国会議員ですらありません。こうやって幣原喜重郎と吉田茂という、戦前からの親米派の外交官が2代続けて日本の総理大臣になります。アメリカの占領政策とはこういうことです。

戦後の大政治家といわれる吉田茂は、国民から選ばれて首相になったわけではありません。むしろ国民は吉田茂には否定的なのです。だから国民による選挙を受けていないのです。

この時にはまだ新憲法は発布されておらず、旧憲法の規定で内閣総理大臣になっています。しかも日本に本当の主権はなく、GHQの占領下にあります。こういう状況の中で、親米派としてマッカーサーにすり寄った吉田茂が首相となります。

このころ政治家たちは、いつ自分がA級戦犯容疑をかけられるか気が気ではなく、この1946.1月からは公職追放の不安がつきまといます。その決定権はすべてGHQが握っています。日本の政治家は何かに脅されているような状況の中で政治活動をしていかざるをえません。

占領下の民主政治、これはどう考えても矛盾しています。これは民主政治ではないです。ではなぜアメリカ軍が日本の民主政治を望んだのか。そのことの狙いは別にあります。アメリカの占領政策と結びつけて考えなければならないことです。




【冷戦の発生】
【国際連合の成立】
 戦後、国際連合が誕生した。スイスのジュネーブにあった国際連合が一気にアメリカのニューヨークに変わったということです。これは書いてないけど、これがポンと設立されて今の国連ビルが建った。その土地は、オレが寄付する、と言ってアメリカナンバーワン財閥のロックフェラーが寄付したものです。オレの土地を使えと。でもこれ本当に慈善事業で寄付したと思いますか。金持ちほど儲からないことはしないものです。
国際連合は軍隊があるというのが国際連盟と違う。これを国連軍という。これは、90%以上はアメリカ軍です。

しかし、すぐソ連との冷戦構造が出現する。資本主義陣営は、経済的にはマーシャル・プランです。マーシャルはアメリカの国務長官の名前です。これによりヨーロッパに対する経済援助を行います。

しかしそれと同時に、軍事的には、NATOつまり北大西洋条約機構です。これでアメリカによる軍事態勢を強化します。これは今もあります。
それに対して旧ソ連側は、今から30年前につぶれたけれど、コミンフォルムという共産党情報局がありました。これはつぶれました。軍事的にはワルシャワ条約機構です。これもソ連の崩壊と同時につぶれました。

この間、ソ連は国境を接するところを次々に社会主義国にしていく。ポーランドとチェコスロバキアからハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、いわゆる東ヨーロッパ諸国は一気に社会主義陣営になっていく。
これは別にヨーロッパだけのことじゃない。我々の日本や東アジア地域だって、ソ連とアメリカが分割する危険性があったんです。
今の北方領土問題の原因はそれです。ロシアの言い方は何かというと。オレたちが退くのだったら、その前にアメリカの米軍基地を撤去させなさいよ、という。一理ある。賛成はしないけど。日本にそれができるか、99%できない。


【冷戦による国家分裂】 しかし朝鮮は分割された。アメリカ占領地域が大韓民国になる。北朝鮮はソ連側になる。

ドイツもそうです。今は統合しましたけれども、アメリカ側の西ドイツ、ソ連側の東ドイツに分かれた。1948年には、首都ベルリンが封鎖された。ここは省略しますが、空輸したんです。さらに10年後には、西ベルリンを囲んだ。ベルリンの壁をつくった。君たちが生まれるころに、やっと取り壊された。この壁を登ろうものなら、即射殺です。何十人も殺されました。

お隣の中国もそうです。日本が戦争に負けたあと、中国は蒋介石国民党毛沢東共産党との本格的な内乱に入っていきます。
予想に反して、勝ったのは共産党中国です。これが今の中華人民共和国です。1949年の成立です。共産党政権です。リーダーは毛沢東です。このことが日本を支配するアメリカの占領政策に大きな変更を与えていきます。


負けた中国が中華民国です。中華民国とは1911年の辛亥革命で誕生したあの中華民国です。これが今の台湾です。国民党政権です。リーダーは蒋介石です。

アメリカはなぜ蒋介石を応援しなかったのか、これも大きな謎です。
中華民国を名乗っていた蒋介石は台湾に逃げて、台湾で中華民国と名乗る。ただ今の日本はこの政府を正式には認めないまま、経済取引だけは盛んに行うという、ねじれた外交を行っています。
これで終わります。

授業でいえない日本史 44話 戦後 吉田茂内閣①~吉田茂内閣⑤

2020-09-21 09:00:00 | 旧日本史6 戦後
【吉田茂内閣①】
1946.5.22日、約6ヶ月間の幣原内閣を受け継いで、吉田茂が総理大臣になります。前回言ったように、吉田茂は選挙で勝ったからなれたんじゃない。国民から選ばれた形じゃないです。

選挙で選ばれたのは、日本自由党党首の鳩山一郎です。しかしその直後、鳩山一郎はGHQによって公職追放された。その代わりが吉田茂です。ここで吉田茂は、自分が外務大臣を兼ね、アメリカとの交渉窓口を一手に引き受けます。これは勝った日本自由党と日本進歩党が連立した内閣です。
この人はこのあと、一次内閣、2次内閣、3次内閣、4次内閣、5次内閣と、5回も総理大臣になりますが、首相の座は選挙で選ばれて手に入れたものではない。


【財閥解体と農地改革】 そして、引き続き、財閥解体の一環として持株会社整理委員会。ここらへんは作業手順ですね。財閥解体はまだ進んでいる。次の1946年も。

それから自作農創設特別措置法、これも1946.10月ですけども、これは農地改革の一環です。こういうのが、着々と次々に進んでいくわけです。


【労働運動】 1946.5月、食糧が足らない、と食糧メーデーが起こる。労働組合を強くするための総同盟が結成される。産別会議も結成されます。


【日本国憲法】 1946.11.3日、GHQの肝いりの日本国憲法が公布された。施行は翌年1947.5.3日、憲法記念日です。ゴールデンウィークです。



【1947年】
【二・一ゼネスト】 労働運動が過激化していったのは、公務員だった。もう働かないぞ、と中央省庁の官僚たちがストライキの予定を立てる。これが二・一ゼネストです。しかし、年が明けて1947.1月GHQの指令で中止される。つまり労働組合の助長はGHQのホンネじゃないんです。労働運動は正当な権利だから、認めないといけないけど、GHQはダメだという。


【農協】 それから1947年、農協も戦後の農業組織として、戦後できる。今のJAです。


【復興金融金庫】 経済は1年経ってもまだ上がらない。それで、ポイント的にねらい打ちしようというのが傾斜生産方式です。まず強めないといけないのは、産業のもとは鉄だ。だから製鉄業を復興しようとした。そのためには、石炭産業を復興しよう。まず石炭です。お金がなかったら、貸すぞ。貸す金融機関も自前の政府系でつくる。これを復興金融金庫という。これでお金をバカバカ貸すんです。お金を貸しすぎたら、お金だらけになって、何が進むか。ますますインフレが進む。それでなかなかうまくいかない。


【アメリカ資金】 さらにアメリカも日本の経済状態を、はやく復興させようということで、ボンボンお金をつぎ込んで行きます。名前としてガリオア資金エロア資金、名前に意味はないです。アルファベットの頭文字だから。
こういうカンフル注射をどんどん打たれて、爆弾落とされて焼け野原になって、次はカンフル注射で早く元気になれといわれても、そんな無茶苦茶なこといわれてもすぐには立ち直れない。それでインフレだけが進行していった。


【独占禁止法】 1947.4月の独占禁止法というのも一連の流れで、これは財閥解体の一環です。財閥が独占企業とみなされ、独占を禁止するということです。いまもある独占禁止法です。


【地方自治法】 1947.4月、地方自治法です。中央集権的な、東京が強い政府ではいけない。ねらいは、日本に主権はないからね、主権はアメリカにあるから、アメリカの狙いとしては、地方分権型で全体としての国力を落とす。そこから生まれた首長の公選制です。首長というのは県知事です。戦前は中央のお役人が地方に来ていた。ねらいは強力な中央政府の成立を防止すること。


【教育】 アメリカがうらやましいのは、じつは日本の教育なんです。これ実は今も昔もそうなんです。戦前の教育をとにかく変えないといけない、というところから、1947.4月、教育基本法を制定します。
戦前にはなかったのかというと、戦前は教育勅語という天皇のお言葉が大原則としてあった。前に言ったように、去年まで言っていたこと間違ってましたといって、教科書に墨を塗ってください、どんどん塗っていく。
ということは、それを習った親の世代の考えは古くて間違ってることになるんです。戦前は違ってる。親よりも、俺たちが正しいんだ、という感覚。否定するというのが当然になっていくわけです。
それから義務教育も、今でいう6334制、小・中・高・大、これは戦後のスタイルです。戦後に始まった形です。


【日本国憲法施行】 1946.11.3日に公布された日本国憲法が、いつから効力を持つか。1947.5.3日からです。今でもゴールデンウィークのまっ最中、憲法記念日です。日本国憲法の施行です。

この1年前の5月3日は何が行われた日か。極東国際軍事裁判が開かれた日でした。この日に合わせて施行します。手の込んだことです。


【新憲法下初の総選挙】 1947.4月、吉田茂が戦後2回目の総選挙を打ちます。これが新憲法が適用される戦後初の衆議院議員選挙です。しかし吉田茂の率いる日本自由党はみごと敗北します。彼は国民に人気がありません。
ただ吉田茂自身はこの選挙に初めて立候補し、衆議院議員として当選します。なぜなら新憲法下では、首相は国会議員の中から選ぶことになっていますから、首相を続投したい吉田茂にとっては必要な手続きです。この選挙によって吉田茂自身は初めて衆議院議員になりますが、彼の率いる日本自由党は敗北します。

吉田茂の日本自由党は大敗し、第一党は社会主義政党にとられてしまった。これが日本社会党です。今や小さな政党になってしまってますけれども、社会主義政党が政権を取るということは、日本に社会主義革命が起こるかもしれない。
ここで吉田茂は1947.5月に総理大臣を辞めます。第一次吉田茂内閣は1年間で終わります。しかしこのあとも返り咲く工作は続きます。




【片山哲内閣】
日本は新憲法で明確に議院内閣制になりましたから、この第一党になった日本社会党の党首が総理大臣になる。片山哲といいます。1947.5月の成立です。日本社会党中心の連立内閣です。

このときの外務大臣が芦田均です。芦田均はアメリカに対して、「有事駐留」を主張します。有事というのは戦争のことです。この時の米軍は常時駐留なんです。戦争があろうがなかろうが、24時間いつでも日本にいる。
それに対して、有事駐留というのは、戦争のあるときだけ米軍は日本に駐留したらいいじゃないか、ということです。しかしこのあと今日まで、米軍は日本に常時駐留しています。芦田均はここで、そんなことやめろ、米軍は出て行け、と初めて言ったんです。
あとで言いますが、芦田均は翌年の1948.3月に総理大臣になります。しかしなった瞬間に昭和電工疑獄事件が起こる。それで、また吉田茂にもどります。
それはのちのことですが、このときの片山哲内閣も約9ヶ月間の短命内閣です。


【過度経済力集中排除法】 1947.12月、過度経済力集中排除法を出します。これは何の一環かというと、何段階も踏まえて、GHQは財閥解体をやっている。GHQはほぼアメリカ軍です。


【民法改正】 それから、日本人の生活を根底から変えるものというのは、じつは憲法よりも、結婚制度とか親子関係とか、そういう我々の生活に密着している民法なんですよ。1947.12月、民法が変わります。
その民法の目玉は何かというと、家です。いま家はない。漢字であるだけです。法律上、家はない。家族なんです。家はないです。法律上は。制度としてあった家制度を廃止する、ということです。
君たちは逆に反発するかもしれんけど、会社に社長がいるように、家には家長といって、家のことにすべて責任を持つ人がいたんです。いわゆる親父です。
社長に歯向かえばクビなるように、家長に歯向かえば、勘当というのがある。いなくていいぞ。明日からくるな、というのも親父です。そういうのは廃止されて、あとは親父もお袋も関係ない。
男女平等、家族もそうだ。だんだんと家族が、核家族化が進んでいく。同時に日本が持っていた家の教育力は、戦後低下してきたというのは否めないですね。
それからもう一つは、家の持つ永続性、これが否定されると、ご先祖様の宗教性も失われていく。



【1948年】
【警察制度】 年が明けて、1948.3月、新しい警察制度です。これは県別に県警が今あるように、自治体で警察を持つということです。もっと、市町村が持っていたりする。お金がなくて、すぐつぶれます。
では何がないかというと、国家警察がなくなったんです。アメリカは国家警察をもっている。これがFBIです。日本もあるじゃないか、というのは勘違いです。警視庁は、国家警察ですか。警視庁は東京都の警察です。べつに県警のリーダーでも何でもないです。国家警察は今の日本にはありません。




【芦田均内閣】
片山哲内閣は社会主義路線がうまくいかずに、すぐ変わる。次の首相が外務大臣の芦田均です。芦田均の与党は民主党という。さっき言ったように、外務大臣としてアメリカに対して有事駐留を要求したように、早い話がアメリカに出ていってほしい、と言う。
そして1948.3月に総理大臣に就任します。まだ今の自由民主党はできていません。


【教育委員会制度】 1948.7月、教育委員会制度ができます。これは今も変わらない。戦前はこういうのは、ありませんでした。
この時は民主化の流れで、知事を選挙で選ぶように、教育長も県民選挙で選ぶ。わからないでしょうね。教育長は、誰だか知らないでしょう。だからこれはうまく機能しなくて、結局今のように知事の任命制になった。


【昭和電工疑獄事件】 成立からたった半年後の1948.10月に、昭和電工疑獄事件が起こります。昭和電工が政府高官にお金をおくった贈収賄汚職事件です。この事件にはあいまいな部分が多く残りますが、同月1948.10月、芦田均内閣は総辞職します。約8ヶ月の短命内閣でした。この事件はGHQが、親米派内閣の成立をねらって、芦田均内閣に仕掛けたものではないかと言われます。




【吉田茂内閣②③④⑤】
事実、芦田内閣がつぶれたあと、選挙もないまま、その同月1948.10月に親米派の吉田茂が2度目の首相になります。吉田茂が国会での首班指名に勝利して総理大臣となります。この時の与党は民主自由党といって、芦田均の民主党の一部が、吉田茂の日本自由党に合流して新しくできた政党です。
この内閣は連続して、2次内閣、3次内閣、4次内閣、5次内閣と続きます。48年、49、50、51、52、53、54年と7年間も続く。安倍内閣なみです。


芦田均内閣がつぶれた。それで選挙もせずに政党の組み替えによって、吉田茂が首相になる。こうやってまた親米政権が成立します。
このような選挙によらずに、政党の組み替えまたは離合集散によって、政権交代を実現していくというやり方は、戦後日本に特徴的なことになります。それはここからはじまります。国民から見ると、A党から立候補した候補が、当選したあとはB党として活動するということが起こります。これを許せば、民意は無視されます。


日本社会党が第一党になった1947.4月の総選挙から、1年半後の1948.10月には国民の意思とはまったく無関係に・・・・・・つまり選挙は行われずに・・・・・・親米派の吉田茂が総理大臣になったということです。

この吉田茂内閣のとき、1948.11月に極東国際軍事裁判が終わります。翌月1948.12月に死刑が執行されます。
裁判開始直前でA級戦犯にされた重光葵は1950.11月まで服役し、その間は政治活動ができなくなります。


【1949年】
【占領政策の転換】 この時には、敗戦後3年が経っています。
1949年に、アメリカの政策が変わっていきます。占領政策の転換です。今まで日本は、2度と戦争できない弱くて小さな国であってくれればよかったんだけれども、東アジア情勢がアメリカの予想を裏切るものになった。


1949年に何という国ができたか。中華人民共和国の成立です。資本主義国になるとばかり思っていたら、共産主義国家になったんです。だからこれ以上、共産主義が広まったら、どうしょうもないと。どうにかここまで、その手前で、防波堤の役目、共産主義を押しとどめるもの、それが日本だと。日本を、反共の防壁としたい。そのためには、日本を経済力を持つ国にして極東の工場にしよう、とする。

日本がまん中にある世界地図は日本だけです。多くの国では世界地図はヨーロッパがまん中です。南北アメリカ大陸は世界地図の右側ではなくて、左側にある。ヨーロッパがまん中にあって、アメリカとヨーロッパは大西洋を挟んでこんなに近いんです。それに対して日本は一番東のはずれにある。
この地図で見ると、資本主義陣営は、ヨーロッパとアメリカで、地図の西側です。共産主義陣営はソ連、中国、北朝鮮と、東側にある。日本の世界地図で見るとわからないです。西側、東側は、こうなっている。
だからこの地図で見ると東側は共産主義陣営が強くて、日本が共産化されるのは時間の問題なんです。
ただここはアメリカが中国を攻めるには、沖縄は最重要、グァムも最重要です。絶対これは、敵側に取られたくない。だから援助していく。
逆に今考えないといけないのは、50年経ってソ連がつぶれました。日本には当時の重要性がないことです。そういう時代に入っています。

ここでは、1949年に中華人民共和国が成立し、そのことにより日本の軍事的重要度が増したということです。


【総選挙】 年が明けて、1949.1月、衆議院議員の総選挙が行われます。ここで吉田茂の率いる民主自由党が圧勝し、絶対多数を占めます。吉田茂はここで初めて選挙に勝ちます。


【インフレ激化】
この1949年最悪のインフレが起こる。物価が200倍に跳ね上がる。100円の飴玉が2万円に跳ね上がる。
我々にはこの感覚がちょっと分からないですね。どんなことなのか、経験がないから。ただ、とんでもないほどのインフレだということは分かります。そのための手を打たなければなりません。



【ドッジ・ライン】 一方で、日本の重要度が高まったから、はやく復興して欲しいと、アメリカの大金持ち銀行の頭取・社長が来日して、しっかりしないか、とある方針を伝えに来ます。これが1949.3月ドッジ=ラインです。ラインというのは方針です。でもはっきり言って命令です。


この時にはとんでもないほどのインフレが起こっています。

だからこのインフレをとにかく抑制しろ、お金なんか貸すな、と言う。そのために、復興金融金庫の融資を停止します。ということは弱い企業はつぶれる、ということです。こうやって弱い人間を切り捨てながら、インフレを抑制する。

戦前の為替レートは固定レートです。それがここで決まる。1ドル=360円です。
前に言ったように、戦後の通貨体制は、ドルが世界の基軸通貨になります。円では金を買えない。金が本物のお金です。その金はドルでしか買えない。ドルが世界の基軸通貨になっていく。貿易もドル建てです。ドルで取り引きします。

このドッジ=ラインの結果、日本は一気にものすごい不況に陥る。これをドッジ不況という。首をつった人も多い。


【シャウプ勧告】 半年後の1949.9月には、税金体系を大きく変えるために、またアメリカ人がやってくる。シャウプという人です。この人が勧告したから、シャウプ勧告という。言葉は優しく言うけれど、言う通りしなかったらどうなるかわからない。勧告といっても命令です。これは税制改革です。このときには、貧富の差を無くすという意味では徹底している。直接税中心主義です。

今のメインはここ30年で消費税になった。ここでのメインは所得税です。消費税は、お金持ちであろうと、我々庶民であろうと税率は同じ10%で変わらない。
所得税は1億円収入がある人からは多くもらうシステムです。給料が上がれば上がるほど税率は高くなる。「政治経済」でも言いましたが、これを累進課税という。庶民にとってはこっちがいいのです。しかしこれが、1988年から、このあと40年後に消費税に変わっていく。

こういうドッジ不況によって、物価がどんどん値上がりしていくインフレは、どうにか収束しました。収束はしたんだけれども、そのぶん不況は続いていく。まったく景気はよくならない。敗戦から4年過ぎ、5年すぎた。



【1950年】
【朝鮮戦争】 1950年、そこに朝鮮戦争が起こるんです。この戦争は決着がつかずに、いま朝鮮半島は北と南に分断されたままです。同じ言葉をしゃべる人たちが、親戚も、民族も分断される。

きっかけは、まずできたばかりの北朝鮮が朝鮮半島の北から南下する。それにアメリカは驚く。しかしこの朝鮮半島まで、アメリカから武器を運ぶのは大変です。地の利は中国にあります。アメリカは遠い。
そういうときに、やはり日本が必要だと思う。だから日本が軍隊を持っていたら勝てる。しかし軍隊を持つな、と憲法で書いている。だから日本は軍隊はつくれない。つくれないけど、つくるんです。ここから非常に説明しづらいことになっていきます。

実質、自衛隊は軍隊だけれども、憲法上は軍隊と言えないから、最初は「警察」という名前をつけるんです。これが1950年の警察予備隊の設置です。政治はこういう言い方をするということも、知っていてください。
別に私は自衛隊が良いとか悪いとか、そんな話はしてないですよ。軍隊を持たない国というのは、世界では例外中の例外です。よっぽど別の何かがないと、そんな国はありえないのです。しかし無条件降伏したあと、憲法で軍隊を持たないと書かれたのです。

だからつくらせたアメリカの事情が変われば、つくっていきます。ここではまだ日本は主権はないです。独立していません。憲法を新しく施行しても、独立はしていません。アメリカ軍の占領は続いています。アメリカの場渡り的な政策が続いていきます。日本の将来よりもアメリカの利益が優先するのです。

それで、朝鮮に国連軍が派遣される。ただ一つの謎は、国連軍を動かすときには、五大国のアメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国、これが全員一致しないといけない。

資本主義のアメリカと共産主義の中国が戦うのだから、同じ共産主義のソ連がアメリカに反対するのは当然です。しかしソ連は国連に欠席する。これはなぜか分かりません。ソ連がいないのだから、アメリカが行くぞと言ったら、どこも反対しない。もう一つ注意は、この時の国連五大国の中国というのは、中華人民共和国ではなくて、台湾の中華民国政府のことです。

国連軍が出動します。国連軍と言っても、アメリカ軍が中心です。しかし押したり、押されたりしながらなかなか決着がつかなくて、膠着状態になります。このラインが今の38度線です。南北朝鮮の国境地点、唯一の窓口が板門店です。
この時には、マッカーサーは、アメリカのやってることの不可解さを指摘している。アメリカ政府の方針と対立します。


【逆コース】 ここからが、軍隊を持たない国、弱い国であるはずの日本が、逆に強くなれ、強くなれと言われて、今までの5年間とまったく逆のコースに行きます。これが逆コースです。
アメリカの武器弾薬の需要が日本に来るようになる。ここから日本の経済も急に回復していく。
最初に、アメリカの再軍備要請から警察予備隊が作られます。これが今の自衛隊になります。


【公職追放令解除】 それまで、アメリカの目にかなわない政治家は全部クビだ、と公職追放されていた。それが、戻ってきていいよとなります。つまり公職追放令が解除される。これも朝鮮戦争と同じ1950年です。

追放されていた一番の大物が鳩山一郎です。この時の首相の吉田茂は、この鳩山一郎の代役としてピンチヒッター的に首相になった人です。吉田茂は選挙に勝ってもいないのに、選挙で勝った鳩山一郎が、総理大臣になろうとした瞬間にGHQから公職追放されたため、その代わりに首相になった人です。
吉田茂はアメリカが大好きだからマッカーサーに気に入られて、ずっと総理大臣をやっているわけです。このあともなかなか辞めようとしません。
しかし1951年、その鳩山一郎が公職追放を解除されて、政界に復帰します。


【レッド=パージ】 同年1950年、レッド=パージです。これは、今までの公職追放の代わりに、今度追放するのはレッド・・・・・・赤は共産党の色です・・・・・・共産主義者を逆に追放していく。追放の対象が、戦争犯罪者から共産主義者へとまったく変わっていく。



【財閥解体打ち切り】 経済的にも、日本は弱いままにしたかったから、財閥解体をしたんですが、イヤやっぱり、財閥を中心に経済を盛り上げてもらわないといけないとして、1951年に突如打ち切りです。財閥を壊せ、壊せと言っていたのが、突如、中途半端で終わる。だから今でも、日本の財閥が悪いわけではなくて、財閥はあります。三井、三菱、住友の名前のついた企業はたくさんあります。


【特需景気】 日本にとっては、1950年の朝鮮戦争をきっかけに、戦後初の好景気がやってきた。この好景気を特需景気といいます。朝鮮戦争の特別需要という意味です。
戦争が始まると、戦車をつくる国は儲かる。飛行機をつくる国は儲かる。これが日本に来たわけです。この時が、吉田茂内閣です。吉田茂内閣はまだまだ続きます。敗戦から5年過ぎました。
いま1951年です。吉田茂第3次内閣、4次内閣、5次内閣まで行きます。




【1951年】

【マッカーサー解任】 そして1951.4月マッカーサーが突如解任される。おまえはアメリカに戻ってこい、と。彼は朝鮮戦争に原爆を使おうとして解任されたとも言われますが、日本占領に対してアメリカ政府と違った考えを持つようになっていました。のちに彼は、アメリカが日本に通告したハル=ノートの存在さえ知らされていなかったと言っています。あの戦争は何だったのかと。
マッカーサーの代わりの派遣されたのがリッジウェイです。


【サンフランシスコ平和条約】
 ここで1951年、戦後から6年たった。まだ日本に主権はありません。そろそろ日本を独立させよう、首相もアメリカのいうことを聞くし、地ならしは終わった、とアメリカは思う。
それで1951.9月に独立条約を結ぶ。これをサンフランシスコ平和条約という。日本でやったりはしない。日本は負けた国だから。場所はアメリカのサンフランシスコです。
この時、日本を独立させると、アメリカの子分になるのは分かっているから、反対する国もある。ソ連を中心とする共産主義国がそうです。
日本としては、アメリカにばっかり片寄ったら、戦争に巻き込まれる恐れがある。独立するのなら、ソ連からも承認される形で独立しないと危ないぞ、という意見もあった。これを全面講和論といいます。

しかし、吉田茂はハナからアメリカです。単独講和論です。アメリカ講和論とは言わないで、単独講和と言います。つまり、一方とだけ、アメリカとだけ講和して独立するんだという。そういう意味で単独講和です。

案の定、これはアメリカとの軍事同盟と抱き合わせになります。日本の軍事面はアメリカに任せてもらえば、その代わり独立していいという形です。
日本はとにかくお金を稼いでくれ、経済優先でやってくれ、という形です。その結果、思いやり予算とか、アメリカ軍が日本に駐留しているその経費、日本が払っていますよね。これを思いやり予算とか、よくつけたものだと思います。

サンフランシスコに全権として、首相みずから吉田茂が訪く。
ソ連は当然調印を拒否します。日本はアメリカの仲間に入るのは分かっているから。しかし、それでもアメリカが認めたら、ソ連は認めなくても、日本は独立を回復した、ということです。

中国は、台湾の中華民国政府と大陸の中華人民共和国政府の、二つの中国があるから招かれない。
ただし例外は、沖縄はそのまま、アメリカの施政権下におかれた。なぜか。中国、東南アジアに対して軍事的に最適な場所にある。だから今でも米軍基地がある。

こうして世界の主要国が集まった中で調印したのが、1951年のサンフランシスコ平和条約です。


【日米安全保障条約】 しかしそれだけでは問屋は降ろしません。さらにこのとき同日に結ばされた条約が、日米安全保障条約です。
これはどこで結ばれたかはっきり書いていない。同じ場所ではないです。吉田茂は、どこか別の場所に連れて行かれて、そこで結ばされる。
サンフランシスコ平和条約はちゃんと場所が分かっている。日米安全保障条約はどこで結ばれたかよく分からない。どうも米軍基地みたいです。車で連れて行かれて。押してきました、という感じです。だから周囲の者は、あまり知らないです。秘密条約っぽいんだけれども、これが今となっては、完璧な日米同盟になってしまっている。吉田茂というのはこれを決めた人です。そして芦田均のように、それじゃあ戦争の時だけ守ってくれよ、ではない。いつでも1年中24時間守ってくださいと、米軍の日本駐留を認める。つまり常時駐留です。

芦田均は9条をパッと見た瞬間に、芦田修正というのを入れる。頭のひらめきはこの人以上です。でもそうでない人が戦後ナンバーワンと言われてる。


われわれは日本に米軍がいることに慣れっこになっていますけど、A国はA軍で守る。B国はB軍が守る。これが独立国です。B国をA軍が守った場合、普通それは独立国ではない。植民地の場合がそうです。そのことを意識しないで、日本は立派な独立国だと思っている人がけっこういる。それはちょっと違うんです。外国の政治家は日本と接する時、それを常に頭に入れています。

スイスが永世中立国だと聞いて、スイスのように軍隊がなくても国は守れると言った人がいます。これ間違ってますね。スイスにはちゃんと軍隊があります。ただ、どこの国とも軍事同盟を結ばない、と中立を宣言しているだけです。その代わり自分の国は自分たちの軍隊で守るんだとはっきり言っているのです。自分たちの国は自分たちで守るしかないのだから、スイスは逆に軍事意識の高い国です。それを日本人はスイスと聞くとアルプスの少女ハイジの国だという。それはスイスのほんの一面です。そういう勘違いが起こり始めています。B国にA軍が常時駐留するということは、それほどおかしいことなのです。

さらに、米軍が日本に入ってきたときの細かいことは、翌年1952.2月の日米行政協定で決めます。しかもこれにはいろいろ不備がある。沖縄で婦女暴行した米兵が、すぐに本国に帰ってあとはどうなったか分からないとか、そんな事件が沖縄では何回も起こっています。
婦女暴行しても帰っていい、とは書いてないよ。日本の警察は米軍基地内に一歩たりとも立ち入れない、と書いてある。でも同じことでしょ。警察が立ち入れなかったら、捕まえられないのですから。そこに逃げ帰れば、どうにもできないのです。

この日米安全保障条約が、数年前に集団的自衛権を持ったものに変わったばかりです。

むかし日本には個別的自衛権さえない、という話が革新政党にはあって、非武装中立論を唱えていたことがありました。でもそんな国はないんですよ。スイスの永世中立国路線は、非武装中立どころか重武装中立です。それは、叩かれたら叩き返しますよ。黙ってたら殺されるんだから。これは個別的自衛権です。
それがいつの間にか集団的自衛権を認めることにまで変わっしまった。集団的自衛権は、アメリカは何回も戦争しているでしょ。集団的自衛権を認めると、アメリカが、いっしょに来い、いっしょに攻めに行こう、というと日本は断れないです。でもこれは自衛権じゃないでしょう。

個別的自衛権と集団的自衛権は、ぜんぜん違うんです。集団的自衛権というのは。それを安倍晋三内閣が、自衛権として正当だと認めた。これには多くの憲法学者が反対しました。そこにはウソがあるからです。

条約が発行したのは1952年からです。だから日本が占領下に置かれたのは、1945年からの7年間です。7年もの間、日本はアメリカの占領下で、主権のない改革を推し進めていったわけです。そのほとんどが吉田茂政権下です。


【1952年】
また1952年に日華平和条約を結びます。このとき日本は正式な中国として、大陸の中華人民共和国ではなくて、台湾つまり中華民国政府を正式中国と認めていた。これはアメリカも同じです。


【総選挙】 1952.10月、独立後初の衆議院議員の総選挙が行われます。吉田茂の率いる自由党が第一党になります。


【アメリカの再軍備要請】 あとは日本の再軍備です。ソ連の脅威から国を守れと。警察予備隊の名前を保安隊と変えます。1952年です。
その2年後に今の自衛隊となる。自衛隊が個別的自衛権をもつのは当然です。しかし自衛隊が、集団的自衛権を持つというのは、半分以上の憲法学者は違憲だという。憲法違反をしているといいます。
自衛隊は三段階で変わります。警察予備隊、保安隊、自衛隊です。
まだ吉田茂は続きます



【1953年】
【テレビ放送】 当時まだテレビもない時代です。ちゃんと新聞読んでる人は、警察がなんで戦闘機を運転しているのか、分かる人は分かるんですけど、占領下で、まだなかなかそんな余裕はありません。
1953.2月に初めてテレビが登場します。ここでテレビです。NHKテレビです。NHKは日本放送協会です。

次が、1953.8月の日本テレビです。これは民放です。これを作ったのは正力松太郎といって、戦争が終わった直後はA級戦犯です。
A級戦犯というのは、ほぼ処刑されます。しかし赦免されて、なにか取り引きがあったんでしょうか。そして読売新聞の社長になる。そういえば今の安倍晋三首相のお爺さんの岸信介もA級戦犯です。そして総理大臣にまで登りつめる。
正力松太郎が読売新聞社長になり、その読売新聞が初の民放テレビを作る。日本テレビは今もテレビ界の大手です。力道山の空手チョップにみんなが声援を上げていた。本当に街頭テレビで。テレビがあるところというのはまだ一部の金持ちだった。それで駅前に街頭テレビがあって、本当は小さくて見えないぐらいのところで、人が2~3百人集まってワーワーやる。相手は誰か。アメリカのプロレスラーです。そんな憂さ晴らしをする。それで盛り上がる。


【総選挙】 1953.4月、吉田茂は国会で「バカヤロー」と発言し、衆議院を解散します。これが「バカヤロー解散」です。オレは選挙やっても勝てるんだと、総選挙を打つんです。でも負けます。吉田は不人気です。国民から支持されていない。このあとは、鳩山一郎に政権が移ります。

ただこの不人気の総理大臣が、アメリカの力で戦後の日本の一番大事な役割を担った。



【1954年】
【鳩山一郎】 鳩山一郎は1951年に公職追放が解除されて政界に復帰しています。
吉田茂はもともと一外交官にすぎない。戦後の大政治家みたいに言われるけれども、それは日本が戦争に負けたからそうなったんであって、アメリカによって逆転したんです。吉田茂は「親米」でしたから。

それに対して鳩山一郎は「自主」路線です。

1954.11月、この鳩山一郎のもとに吉田茂に反対する国会議員が集まって作ったのが日本民主党です。総裁は鳩山一郎です。まだ自由民主党ができる前です。その勢力を抑えることができずに、吉田茂は7年間の長期政権を辞任せざるを得なくなり、吉田茂内閣は総辞職します。
1954.12月、その代わりに国会での指名を受け首相になるのが鳩山一郎です。

1952年に日本は独立を回復し、翌年1953年の選挙で国民は吉田茂にノーといったのです。





【内閣の覚え方】 「シテヨ 片足 ヨヨヨヨ
シテ 幣原喜重郎内閣
ヨ  吉田茂内閣①
片  片山哲内閣
足  芦田均内閣
ヨ  吉田茂内閣②
ヨ  吉田茂内閣③
ヨ  吉田茂内閣④
ヨ  吉田茂内閣⑤




これで終わります。

授業でいえない日本史 45話 戦後 55年体制~佐藤栄作内閣

2020-09-21 08:00:00 | 旧日本史6 戦後
【鳩山一郎内閣】
長かった吉田茂内閣のあとを受けて、1954.12月、鳩山一郎が総理大臣になります。
ちなみにこの孫が鳩山由紀夫といって、2009年からの半年間総理大臣であった人です。
鳩山一郎は、翌年1955.2月の総選挙でも、また勝ちます。このときも、日本国民が選んだのは鳩山の日本民主党だった。吉田茂ではない。この日本民主党が第一党になって主導権を握ります。


【55年体制】 この時には、保守系政党が二つあります。鳩山一郎の日本民主党と吉田茂系の自由党です。これは合体したほうがいいぞ、となる。その話をまとめて、1955年に新しい合体政党ができた。これが今の自由民主党です。略して自民党です。このことの重大さは、この時には気づかなくても、いまの政権与党は何党か。今も自由民主党です。もう何年続いてますか。途中中断はあったにせよ、70年近く続いている。ここから始まります。だから55年体制という。1955年に決まった体制が今も受け継がれている。その自由民主党の結成です。その初代総裁に鳩山一郎が就任します。

ちょっと順番が逆になるけれども、左派勢力の社会党もそれまで2つに分裂していた。これが一足先に統一した。その危機感に対応するために、自由民主党は生まれた。つまり左も右も統一した。左、右という言い方、分かるかな。政治的に保守系を右という。社会党や共産党などの革新系を左という。今はそんな単純に分けられないけれども、おおまかにそんな言い方をよくします。


【神武景気】 この頃から日本の高度経済成長が、ぼちぼち始まります。この好景気には名前がついています。伝説上の最初の天皇である神武天皇にあやかって、神武景気という。好景気に沸いていきます。
その統合された自由民主党の初代総裁に鳩山一郎がなる。この人は、独自外交路線を取ったため、どうもアメリカに嫌われている。吉田ほどアメリカの自由にならない。これは、使えないなあと。この当時はソ連がバリバリ強いんです。ソ連はアメリカに対抗しています。


【日ソ共同宣言】 鳩山一郎は、アメリカ一辺倒の外交路線は取りません。アメリカだけじゃダメだというバランス感覚の持ち主です。鳩山はソ連に近づきます。
それで1956.10月に日ソ共同宣言を結ぶことに成功します。これによって日本が入りたかった国際連合加盟に、ソ連が反対しなくなった。それで日本は国際連合に加盟できたんです。
しかしこの時から、今まで北方領土問題は前進していません。この人が、一歩大きく前進させたのに、そのあと政権が親米にもどったら、そのままストップです。

戦後、大きく5年おきにいくとすると、1945年は終戦です。
5年たって1950年に朝鮮戦争が起こる。これで沈んでいた日本経済に明かりが見えた。
そして政治的には1955年に55年体制です。自由民主党ができた。

鳩山一郎は、日ソ共同宣言を結んだ2ヶ月後、1956.12月に引退を表明し、政界を去ります。これも唐突な退陣で、疑問が残ります。だから鳩山一郎内閣はこれ1回きりです。




【石橋湛山内閣】
そのあと鳩山内閣を受け継いだのは石橋湛山という。戦前から異色の政治家であった。この人は「自主独立」を表明する。この意味は何か。アメリカからの自主独立、と言ったんです。これはアメリカに近づくことですか。離れることです。反米とまでは行かないけれども、アメリカとの距離を置こうとした。


すると、首相になるまでピンピンしていたのに、急に肺炎にかかって2ヶ月後の1957.2月に退陣するんです。脳梗塞と書いているものもあります。不思議だと思いませんか。
1956年12月に首相になって、自主路線を唱えて、たった2ヶ月後の1957年2月に退陣ですよ。そして2度と復活しない。これ以上言わないけど。




【岸信介内閣】
次に出てくるのが、岸信介です。1957.2月です。誰のお爺さんですか。今の安倍首相のお爺さんです。母方のお爺さんです。


【岩戸景気】 この時代も景気は上向いていた。この好景気を岩戸景気といいます。天照大神の神話で、神様がお隠れになって、世の中が真っ暗になった。隠れた場所を天岩戸というんです。それにあやかった名前です。なぜこういう神話や天皇に関する名前ばかりがつけられるのか、それは分かりません。

この好景気には財閥解体を免れた銀行からの融資があります。企業は銀行からお金を借りて、どんどん設備投資をしています。岸信介はその好景気に助けられる。

この人はもともとは政党政治家ではありません。戦前はお役人です。高級官僚です。官僚として商工省のトップとなり、さらに東条英機内閣で商工大臣を務め、A級戦犯に指定されて死刑の直前まで行く。東条ら7名のA級戦犯が処刑された翌日の1948.12.24日、不起訴のまま無罪放免された。なぜ無罪放免されたのかはよく分かりません。しかしその後は、政治家としてトントン拍子に出世していきます。

やることは、日米安全保障条約、つまり今でいえば日米同盟の強化です。日米の軍事的相互協力体制を強化しようとしたのです。今の安倍さんとやってることは同じですね。CIAから選挙資金を提供されていたのではないか、という噂もあります。


【新安保条約】 正式名称は長くて、日米相互協力および安全保障条約という。あまり長過ぎるから、新安保条約という。安保というのは安全保障の略です。一言でいうと、日米同盟を強化した。これに対しては、国民・学生あげて、大規模な反対運動がおこった。これを安保闘争といいます。これが1960年です。
これも安倍政権で数年前に起こった戦争法案のときといっしょです。あのときでも反対するデモ参加者が12万人をこえた。私はその時たまたま出張があって、東京に行ましたが、東京はものすごい熱気でした。ウワーこれはやってるな、と思いました。あの2~3倍ぐらいの群衆が国会議事堂を取り囲みました。
しかし岸信介はそれでもやる。強行採決で成立させた。それと同じことが約50年後に孫の安倍晋三によって繰り返されます。今の日本は集団的自衛権を認める国になっています。日本はアメリカの戦争に参加できるのです。戦争を放棄し、軍隊を持たない国がです。憲法を変えずにこういうことをやると憲法が腐っていきます。

そのあとに、このままでは国は収まらない、オレがやめない限り収まらないと言って、内閣総辞職した。1960.7月です。

しかしなぜかこの一族はそのあとも強いです。次の次に総理大臣になるのは、この人の実弟の佐藤栄作です。岸信介は佐藤家から岸家に養子に行って名前を変えています。また50年あとには孫(娘の子)の安倍晋三が首相になります。岸、佐藤、安倍と名前は違いますが血がつながっています。名前が違うから、はた目にはそれが分からないようになっていますから、注意してください。遠い親戚ではないです。本人からみて弟と孫という非常に近い関係です。




【1960年代】
【池田勇人内閣】

1960年代に行きます。軍事は岸信介がつくった。ではそのあとは、とにかく経済を発展させようとします。吉田茂系の人です。「吉田学校」の第一の優等生といわれる池田勇人です。1960.7月、池田勇人内閣が成立します。これもアメリカの意向に沿った人事です。こういう形で敗れ去ったかにみえた吉田茂系の政治家が復活します。ここで大きく政治の流れが変わります。

自由民主党には大きく2つの流れがあります。1つは親米・経済優先をとる吉田茂系。もう1つは自主独立路線をとる鳩山一郎系です。これは現在まで続く自民党の流れとなっています。


【所得倍増計画】 まず国民が喜びそうな事をぶち上げます。10年間で所得を倍にする、という。これを所得倍増計画という。当初はそんなことできるものか、と思われていた。でもこれは本当にそうなります。これがこのあと約10年間の高度経済成長です。


私の先輩たちに、当時の話を聞くと、自分の給料が上がるのが楽しくて笑いが止まらなかった、という。そんな話を何人からでも聞きました。私たちはもうそんなことはない。給料は上がらないものだという感覚です。でも当時は笑いが止まらないほど給料が上がっていた、というんです。その代わり物価も上がっていたけれども。
これは日本人の努力も大きかったけれども、もう一つは、日本は何がダメになってこんなに経済ガタガタになったかというと、円の為替レートが高すぎたからです。しかしアメリカが設定した1ドル360円の為替レートは、法外に円が安い。そのレートが続いたのです。それで日本はどんどん輸出を伸ばして行く。

一方では、岸信介がやったことは、軍事に触れるととんでもないデモ行進が起こるから、しばらくはこれに触るなということです。ほとぼりが冷めて、世代が変わってみんな忘れてしまうまで触るな、と軍事問題は棚上げしたのです。
だから世代が変わって、50年経つと、孫の安倍晋三がやっぱりやるんです。ああ来たという感じだった。
だからこのあとは、軍事に触らず、経済に没頭です。しかしこの間に日本人は軍事的なことに対する判断能力が非常に低下します。学校ではほとんど軍事的な知識には触れません。


【大衆文化】 そこにテレビが普及する。大衆文化真っ盛りです。東京が一発番組を組んでコマーシャルを流せば、日本全国、津々浦々まで、流行り言葉を作ることぐらい簡単にできます。
中高生なんか、すぐそれに飛びつく。私も昔飛びついてふざけていた。大衆文化の花盛りです。
今までは、物を大事にしましょうと言っていたのが、もっと買え、もっと買え、消費は美徳だ、となる。そこまではいいかも知れない。

さらにみなさん使い捨てましょう、となる。それで百円ライターは使い捨てでしょ。君たちは知らないかもしれないけど、スマホが出てくる前はカメラは千円で使い捨てだった。それを見るとアフリカ人は怒っていたという。ライターだったら喜ぶけど、さすがにカメラを使い捨てると、日本人はどういう人間かと品格を疑われる。理念なき経済成長というのは、こういう事態も引き起こします。


【三種の神器】 それから急速に庶民にまで普及したのが、それまで高嶺の花で買えなかったテレビ洗濯機冷蔵庫です。これを三種の神器という(また天皇に関する言葉が出てきましたね)。これがあるのを当たり前と思ったらいけない。

1960年代まで、夜に水ガメに水を貯めて、朝方その上水を飲むという生活をしていたことを、前に言ったでしょう。メダカが泳いでいたとかも。ああいう生活は、わたしが小学校の頃の1960年代にコロッと変わった。あっという間だった。

重化学工業の発展も起こっていく。石油化学工業、それから電子工業、トランジスタというものも出初めていく。

今の日本の最大貿易相手は中国ですけれども、この当時はまだ国交がない。ただ貿易はある。これを担当者の頭文字を取ってLT貿易という。


【農業】 農業に関しては、1961年に農業基本法が出されます。日本は戦後、農地改革で多くの自作農が誕生しましたけれども、日本の農業のアキレス腱は規模が小さいことです。もっと大規模にしないと安い外国産に負ける。しかしこれは今にいたるまでうまく行きません。
代わりに、日本の農業は、付加価値の高い、フルーツなどのデザート系とか、花などの園芸作物です。米ではなかなかやっていけない。しかしこのことは、このあとの食糧自給率の低下となって効いてきます。


【自由貿易】 国際経済に乗り込むために、貿易の自由化をすすめる。1964年、IMF国際通貨基金)の8条国というものに移行し、貿易の自由化が認められる。ここらへんはアメリカと結んでいる。
同じ年に、OECD経済協力開発機構)にも加盟する。これは資本の自由化です。資本の自由化とは、日本の円を外国に自由に投資していいということです。ここらへんは、ちょっと難しいけど、外国にお金を貸したり、外国に工場を作ったりできるようになったということです。


でも逆に言うとこのことは、日本がアメリカにお金を貸せるようになると言うことです。現在、日本が一番多くお金を貸している国はアメリカです。アメリカは日本の円を、どうにでも借りれるんです。アメリカから貸せと言われて、貸しています。貸さないといえば、よほど恐いことが起こるんでしょうね。

1964年には、日本の復興をアピールする意味で、東京オリンピックが開催された。それに合わせて東海道新幹線も開通しました。

では、アメリカでは何が起こるか。1962年にはキューバ危機です。アメリカの目の前のキューバで革命が起こり、アメリカの経済支配から抜け出しソ連に近づいていった。

1963年には、独自路線を取ったアメリカの大統領が殺される。ケネディ大統領暗殺です。今でも犯人は分からない。容疑者を捕まえても、その犯人が警察署の中で殺されたりします。ネットでは写真にまで残っている。

1968年には、黒人運動の指導者のキング牧師も殺される。アメリカは、人を殺しても、その殺人犯人はなぜか分からないんですよ。

池田勇人は、病気のため1964.11月に退陣します。




【佐藤栄作内閣】
池田勇人が指名し国会で次期首相に選ばれたのが、佐藤栄作です。1964.11月です。岸信介の実弟です。岸信介は養子に行った実の兄です。


この兄弟の出身は、城下町の萩から遠く離れた山口県東部の熊毛郡田布施町という瀬戸内海に面する小さな町です。今もこの地に両名の墓があります。その西隣は今の山口県光市です。その光市に伊藤博文の生家があります。そこに記念館があります。日独伊三国軍事同盟を結んだ外務大臣の松岡洋右もそこの出身です。すべて歩いて行ける距離にあります。
さらに田布施町には、後醍醐天皇の子孫である南朝の天皇家にまつわる話もあります。北朝の天皇を立てた明治政府がなぜ南朝を正統としたか、この謎にはミステリアスな話がつきまとっています。


【いざなぎ景気】 このときも好景気は続きます。円も安い。いざなぎ景気です。1966~70年。これは神話のイザナギノ命にあやかった名前です。日本は1960年代末には、GNPがアメリカに次いで世界第2位となり、経済大国となります。1969年には「エコノミック・アニマル」という言葉が流行します。


【3C】 三種の神器からさらにレパートリーが増えて3Cが普及します。ワングレードアップです。テレビがカラーになる。カラーテレビ。全部Cがつく。次がカー、うれしかったね。
うちの親父はバイクに長いこと乗っていた。その前は自転車バイクですよ、今のようなおしゃれなお嬢さんが乗るようなスクーターバイクではなくて、ボトボト、バッタンバッタンと行くような、音はするけどなかなか進まないようなバイクでした。これがカブ号のバイクになったときも嬉しかったけど、それが四輪の自動車になって、雨でも屋根がついて濡れないのは嬉しかった。
本当の金持ちは、さらに夏でも窓を閉めて走っている。信じられなかった。車にクーラーがついているなんて、高嶺の花だった。
家にクーラーなんか、なかった時代です。私が高校の時、ある友だちが自慢していた。部屋にクーラーがついたぞ、と。クラスに40人に1人いるか、どうかだった。するとみんなが、エエッ遊びに行こう、と押しかけたりした。クーラーがついただけで驚きだった。
カラーテレビが、うちの村に初めて来たときは、村中の人が見せて見せてと言って、1週間に10人ずつぐらい、いつもその家にお客さんがいた。


【ベトナム戦争】 アメリカで起こったことは、1965年からのベトナム戦争への本格介入です。しかしアメリカが負けた。そしてお金を使い果たした。ここから世界が変わります。日本の高度経済成長などは、これでストップです。日本はアメリカしだいでどうにでもなる。これはいまだに続いてますね。
ベトナム戦争で、アメリカがベトナムに枯れ葉剤をまいていく。その戦闘機は、どこから飛び立ったか。それが沖縄の米軍基地です。アメリカにとって、沖縄の米軍基地は重要です。


【日韓基本条約】 1965年には、これもいまだに関係しているけれども、日韓関係の韓国です。日韓基本条約を結んで、日本は韓国の経済援助をする代わり、戦後補償関係はこれで終止符を打つというのがここで決まったんです。
しかし今はどうか。韓国はこれは国どうしの取り決めであって、個人への保障は終わっていないという言い方をしています。この論理でいけば、保障問題は永遠に続くかも知れない。


【文化大革命】 それから中国は経済がうまくいかず、1966年から文化大革命というのをやる。これで何百万という人が粛正されて死んでいく。しかしこの動きは失敗します。


【公害対策基本法】 公害も起こります。公害対策基本法、これは1967年です。そのため行政官庁として、新しくできたのが環境庁です。
それから1968年には文化庁もできる。


【日米新安保条約】 それから日米同盟は、十年ごとの更新でした。1970年日米新安保条約が自動延長される。それに対して、東大紛争などの学生運動が起こった。しかしこれは自動延長されます。1970年安保までは反対運動が起こります。1980年は起こらない。
これと引き替えに、今まで日本の統治の及ばなかった沖縄が日本に返還されることになったのが、その翌年の1971.6月に調印された沖縄返還協定です。翌年1972年に発効し、パスポートなしで沖縄に行けるようになった。


【世相】 この頃の若者たちは、しらけ世代と呼ばれ、戦後の理念と現実の違いに戸惑いながら失望感を味わっていきます。核家族化も徐々に進み。そこにアメリカ流の個人主義の影響もあって、大人社会への抵抗や、権威への反抗も流行していきます。そのような権威の喪失は、価値観の喪失と表裏一体となり、歯止めのない自由観が拡大していきます。1970年にはウーマンリブ運動も起こりますが、同年には小説家三島由紀夫の割腹自殺事件も起こります。

かたや農村では、農家の跡取りが企業に勤めるようになり、兼業農家が多くなります。それと同時に、じいちゃん、ばあちゃん、かあちゃんの「三ちゃん農業」が一般的になります。農村共同体の機能が衰弱していき、農村の崩壊が進みます。同時に食糧自給率も低下していきます。

沖縄返還協定の2ヶ月後の1971.8月にアメリカはとんでもないことを宣言し、ここからまた大きく世界が動いていきます。
まだ佐藤栄作内閣は続きますが、1960年代は、これで終わります。





1970年代以降については、本ブログ内カテゴリー「新世界史15 1970年代以降」の下の記事をご参照ください。
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