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授業でいえない日本史 9話 中世 平氏政権~源平の争乱

2020-08-07 09:00:00 | 旧日本史2 中世
ここから中世です。
前回は、1159年に平治の乱というのが起こった。ここは平清盛と源義朝の戦いだった。平清盛が勝って、源義朝は死んでしまった。それから20年経つと、その子供、まだ当時は子供だったけれども、もう30才ぐらいになっている。これが源頼朝です。何をつくった人ですか。1192年に鎌倉幕府をつくる人なんです。その話に行くわけです。



【平氏政権】
その覇権争いを源平合戦というけれども、それに行く前に、平氏の全盛期がある。1100年代、これが平氏政権といいます。中心人物は平清盛です。
この人は武士ですが、京都に住んで、貴族社会の中で出世していこうとするんです。その貴族社会の中に武士が入っていくことによって、自分の力を保つんです。彼は貴族ナンバーワンになる。1167年に、天皇の家来のなかではナンバーワンの太政大臣になる。貴族の中で一番偉いのは太政大臣です。征夷大将軍ではありません。
その平氏が一族みんなで貴族社会の高位高官、偉いポストを総なめにしていく。ささやかれた言葉、「平氏にあらずんば人にあらず」と都の人たちがいうほど、平氏全盛時代が約10年ちょっとぐらい続きます。


【日宋貿易】 ではその資金源、政治にはお金が必要です。それがだったか。貿易なんです。中国との貿易です。世界史を覚えてますか。中国は1100年代、何という国だったでしょうか。宋という国です。日宋貿易をしていた。宋の次がモンゴルの元、元のつぎが明です。宋、元、明とくる。その宋です。ここと貿易をすれば儲かる。貿易はもともと、博打的な儲けが大きい商売なんです。それまで中国の船は、九州にまでしか来てなかったんです。九州のどこが窓口だったと思いますか。これが博多です。博多は九州最大の貿易港です。今でも大きな貿易港なんだけれども。
これをもっと京都の近くに呼び込みたい。しかしそのためには瀬戸内海には島がいっぱいあって、綺麗なんじゃなくて、船にとっては迷惑なんです。こういう島は迷惑じゃないですよ。どういう島が船にとって天敵か。こんな島、見えない島。干満の差、引いたときには見えるけれども、満潮の時には見えなくて、ここに船が乗り上げると終わりです。


船が座礁すると、トラックで引っぱろうが、人間が押そうがビクともしない。そのまま廃船になって、朽ちるのを待つだけ。ここに船を航行させて、どうにか呼び込むことに成功した。そのために壮大な港を作る。この港を大輪田泊という。泊というのは船が泊まるところ、つまり港という意味です。何もないところに平清盛が初めて港をつくった。これが、いま日本ナンバーツーの貿易港、神戸です。神戸はここから発展していきます。


瀬戸内海には、船の航行を願う神社として、広島県の厳島神社があります。平氏ゆかりの神社です。あの「秋」の宮島ね、紅葉で有名な、という人がいますが、「安芸」の宮島、です。安芸は広島県の旧国名です。


【宋銭】 では貿易品は何か。日本は今は出ないけれど、昔は金が出た。銀も出たんです。この金でもって、中国の何が欲しかったのかというと、変な話ですが、中国のお金ですね。これを宋銭という。お金ぐらい自分でつくればいいじゃないか。覚えている人いますか。日本はつくり続けて12種類もつくった。皇朝十二銭というお金を。しかし流通しなかったんです。日本にはまだ実質的にお金がないんです。
そのころ、中国はお金は要らない、と言いはじめた。なぜ要らないか、というのは、日本史を少しはずれるけれど、中国は紙でやり始めたんです。紙幣です。これを交子という。紙のお金を使い始めて、それまでの銅のお金は要らないから、安く売ってやるぞという。すると日本は、買う買う、という。そしてそれを金で買う。中国にとっても要らないものが高く売れるんだからいい儲けです。日本にとっても通貨をもつというのは、いつの時代もものすごく儲かることです。しかも自分でつくるよりも、輸入すれば手間が省けるわけです。


事実上、これで平氏が日本の通貨発行権を持つ。実質上の通貨発行権を平清盛が持つ。自分でつくろうと、他人がつくったものであろうと、お金に変わりはありません。この通貨発行権というのはいつの時代も莫大な利益をもたらすのです。実質的に、輸入銭が日本のお金となって流通し始める。これは、日本のお金が、民間企業の平氏一族によって発行されていることと同じことです。今でいえば、平氏は日本銀行と同じ役割を果たすわけです。今の1万円札は正式には日本銀行券といって、これは政府が発行しているものではなく、日本銀行が発行しているものですよね。平氏はそれと似たことをやるわけです。そしてこれが平氏政権のドル箱になります。


そういう利益を手に入れる中で、平氏はナンバーツーになっていきます。もちろんナンバーワンは天皇です。ただこの時代に変則的なのは、前回言ったように、天皇は若いときに引退して、新しい天皇として息子を即位させ、自分は上皇、または坊さんになると法皇なる。そして政治の実権を手放さずに陰の実力者になる。これを院政といいますが、この上皇が実質的にはナンバーワンです。これが後白河上皇です。
ところがその部下の平氏がお金を持ちすぎると、後白河上皇が腹を立てて喧嘩しだす。どっちが勝つかというと、家来の平清盛のほうが勝つんです。


【後白河幽閉】 この時の実力者は後白河法皇です。この人は、約20年前の保元の乱の時には後白河天皇ででてきた人です。その乱では勝ったあと、早々と位を譲って上皇となり、さらに法皇となってより権威を高めています。
1177年には平氏政権の打倒を狙う鹿ヶ谷の陰謀が発覚し、院の近臣たちが処罰されます。
1179年に平清盛は、時の実力者の後白河法皇を幽閉します。平清盛は、後白河法皇と仲が悪くなり、彼を閉じ込めます。見張りをつけてこの家から出るな、という。これを幽閉といいます。

そして翌年1180年、平清盛は自分の孫で、わずか3才の安徳天皇を即位させます。清盛の娘の徳子が高倉天皇に輿入れし、そこで産んだ子供が安徳天皇です。このやり方は藤原氏のやり方と同じですね。清盛は天皇の外祖父となるわけです。
ここで朝廷の実力者の後白河上皇と平氏との対立がはっきりします。ここからが源平の争乱です。あとは家来たちがどう動くかです。



【源平の争乱】
【以仁王の令旨】
 そうすると、まず反平氏の兵をあげたのは、幽閉された後白河法皇の息子です。もと天皇の息子だから王がつく。以仁王(もちひとおう)という。
貴族は身分が高いから、武士に対して命令ができる。平氏を撃てという命令を、100枚、200枚、当時は印刷はできないけれども、手で書いて命令書を配る。こういうのを令旨(りょうじ)という。命令文書です。
以仁王の令旨が全国に配られる。1180年です。幽閉から1年後のことです。まず、これに対して、平氏を撃つぞ、といったのが、やっぱり源氏なんだけれども、これは頼朝じゃない。都の貴族の源頼政という人です。頼朝からいえば叔父さんに当たる。しかし平氏に負けて死んだ。ただこの事件のことは非常に全国的に広まったんです。すでに令旨がくだっている。これをますます配っていく。それが地方にも伝わっていきます。


【福原遷都】 この年、平氏は身の危険を感じたかもしれない。福原という新しい町に400年続いた京都の町から首都を引っ越すんです。これを福原遷都という。首都を引っ越すことを遷都という。では福原とは何かというと、その海側に、さっきいった大輪田泊という新しい港ができた。つまり今の神戸です。いまの神戸に都を引っ越した。なにをバカなことをしているのか、400年の都を打ち捨てて、と批判が起こります。


【南都焼き打ち】 これには反対が強かった。一番反対したのは、京都の前の都、奈良の平城京です。そこにはまだ寺院勢力があって、けっこう勢力が強かった。この奈良勢力がまず反発した。反平氏です。すると平清盛の息子である平重衡が、それなら退治してやると、軍隊を仕向けて、南都つまり奈良を焼き討ちしていく。この時に奈良時代につくられた東大寺南大門にも火をかけるんです。当時は木造で、鉄筋じゃないから、火をかけたらすぐ燃える。火をつけたほうが、はやい。ぜんぶ焼き討ちしていく。東大寺はいったんここで燃えてしまう。正倉院をのぞいて。


これが次の伏線になるのは、鎌倉時代になって鎌倉時代の文化ナンバーワンとして出てくるのは、東大寺南大門の金剛力士像なんです。ここでアレッと本当は思わないといけない。東大寺は奈良時代につくられたのに、なぜ東大寺南大門の金剛力士像は鎌倉文化なのか。ここで焼けているからです。それを誰が再建するか。源頼朝が再建します。奈良仏師をつかって。立派な金剛力士像をつくってやれ、ということで。
これは効果抜群です。この効果わかりますか。焼いたのは平氏です。再建したのは源氏です。これ見ただけで、平氏と源氏の違いが分かる。これで政治家としての人気が高まる。だから金をかけるだけの政治的価値がある。ただの好みで金剛力士像はできない。
政治家の人気というのは、1万円、2万円を配るとか、そんなものでなくて、効果抜群なのはそういう方法です。それで源氏人気が高まっていくようになるんです。このことはもう言わないけど、ここで東大寺が炎上して、鎌倉期にこれが再建されます。


【源頼朝挙兵】 1180年には、伊豆の源頼朝にも令旨が届きます。平氏を撃て、という天皇の息子である以仁王の命令が。源頼朝は、親父は平氏に殺された。命からがらで、流罪の身分で20年間、伊豆で過ごしていた。
伊豆は京都から見れば田舎です。静岡県の伊豆半島、そこの蛭が小島という田舎に流されて、その地方のちょっとした土豪の勝ち気な娘を嫁さんにもらっているんです。それが北条政子です。バックに田舎土豪の北条氏がついている。頼朝の血筋は抜群です。チャンスがめぐってきた。
そこで挙兵する。しかしこの時にはまだ犯罪者の身分です。犯罪者が、オレは立つぞ、この指とまれ、と言っても、普通の人間だったら「バカが、おまえはとらわれの身で、犯罪者じゃないか」と言われる。しかし彼には血筋があるから、ここに流されるのは都で負けたからで、世が世なら立派な武士だ、とみんな知っている。だからみんな集まってくる。


【石橋山の戦い】 1180年8月、まず1回戦、石橋山の戦いという。これは伊豆にある小さな山です。しかし、ここでは負ける。でも死にはしなかった。命からがら逃る中で、普通だったら、敗軍の将だから、百姓に見つけられたら、すぐ殺されそうなものなんだけれど、逃げる源頼朝のもとに田舎の武士たちがますます結集していくという変なことが起こるんです。もう1回やりましょう、と。いっしょにやりますよ、命かけますよ、と。
なぜこんなことが起こるか。平忠常の乱以降、いろいろ八幡太郎義家とか源義家とかがやって東国の武士たちを集め、朝廷から褒美はもらわなくても、自分のポケットマネーから、褒美をあたえていた。その評判が、100年、200年経っても源氏にはある。そういう源氏ブランドができている。あそこはいいぞ、と。そうなると普通は、そのまま目指すは京都だ、平氏と戦うぞ、となりそうですが、この人は、じっくり構える。
では本拠地を決めなければ、という。本拠地をどこにするか。この近くに山に囲まれて、砦にするには良いところがある。それが鎌倉です。それまでは鶴岡八幡宮という田舎の神社がちょこっとあるだけだった。この神社は、鎌倉に本拠を構えて、そこに幕府ができると、日本全国にとどろく有名な神社になっていく。


【富士川の戦い】 1180年10月、そして2回戦です。2ヶ月待って、西の方にちょっと進んで、富士川という富士山のふもとから流れている静岡県の川、ここではじめて、平氏と戦う。平氏が攻めてきているから、では迎え撃とうとなる。ここで初めて、平氏に勝つんです。平氏に勝ったら、そのまますぐ京都かというと、この人は用心深い。またいったん鎌倉に戻る。


このうわさを聞きつけて、幼い頃生き別れになった弟がたずねてくる。犯罪者の息子として今まで別れ別れになっていた。そこに弟が、兄ちゃん久しぶりね、と訪ねてくる。この弟が源義経です。家来に武蔵坊弁慶を従えていた。その他にも5~6人、ならず者を引き連れていて、いったい何しているのかわからないような人です。でも喧嘩させたら、めっぽう強かった。戦さには使える。
美男子の源義経、嫁さんが静御前とか、いうけれども、どうも史料を見ると、美男子でも何でもなくて、やせてガリガリして、歯は出っ歯であったとか言われる。だから非常に無骨な男です。嘘か本当かしらないけれども、この時代に、京で有名な盗賊がいて、姓はわからないけど、みんなが、よしつね、と呼んでいた。そういう盗賊が京にいた。それとどんな関係にあるのか、それから先は知りませんが。


【侍所設置】 ここは政治の世界です。鎌倉に来て、弟と会って、ではいっしょにすぐ京都に攻めのぼるかというと、この源頼朝、のちの鎌倉将軍がやることは、まず組織作りをする。
家来たちが10人、20人、100人と増えていくと、みんな平等じゃなくて、お前は部長、お前は係長、お前は平だと、こういう組織作りをしていく。
これが侍所です。鎌倉幕府という組織はいつできたか。通常、のちの1192年に鎌倉幕府ができたと言われるけれども、組織でいうとこの時です。まだ1180年です。鎌倉幕府が産声をあげたのはこの時です。ここから組織として動き出している。この人は組織人です。政治家として有能です。でも戦争は強くない。
本当に強い政治家は、組織をつくれる人です。彼の家来を家人という。のちに幕府ができると、頼朝の家来には、呼び捨てにはできないから、丁寧語の御をつける。幕府の家来のことを、御家人というようになる。


ここには源頼朝と家来との信頼関係があります。この武士の信頼関係というのは何か。お互い命まで預けるという強い関係です。
こういう戦いの時代、戦さの時に腹が痛いと言ったら、もう関係が切れる。戦争の時にこそ、来ないといけない。一番肝心なところで、頭が痛くなったり、腹が痛くなったりすると、ごめんなさいではすまない。「いざ」というときに役に立たない人間はダメなのです。もう顔見たくないから、来ないでいいぞ。いやそういわんでと言っても、今のうちに逃げとかないと、おまえ大変なことになるぞ。逃げたいのなら、あと30分で、俺の目の届かないところに逃げろ、という。弟にだってそうです。弟を頭に来て、逃がしてやるから逃げろと言うけど、逃がしたあとに、本気で首を取りに行く。そういうことをやります。
こういうのを主従関係という。土地を保護して与えて保護してやる代わりに、肝心なときに逃げたら終わりだよ、ということです。ハイ、わかりました。あなたのためなら、やります、という。これが、イヤイヤ、行きたくないなあ、こうなると隷属関係です。奴隷関係になる。好んでやるという部分がある。あなたのためなら、と。そういうところ、信頼で結ばれた強い関係が、主従関係です。


【源義仲挙兵】 もう一人、頼朝の従兄弟がいます。長野県の山奥に。源氏一族は、あっちこっちにいる。これを源義仲という。木曽谷にいたから木曽義仲ともいいます。
ここにも、やっぱり平氏撃つべしという令旨、つまり以仁王の命令が届いている。平清盛はというと、病気にかかって、次の年の1181年に死にます。ここから、平氏は落ち目になる。
総大将を失った。清盛が死んだぞ。京に真っ先に攻めるのは頼朝ではなくて、この義仲です。木曽谷から、長野から入京する。入京とは、京都にはいることです。京は東京ではないです。この時代は京といえば東京ではなくて、もちろん京都です。これも喧嘩が強い。


こいつはちょっと手に負えないと、平氏はここで逃げる。逃げる時に何を持って逃げたか、ここが政治的に大事です。天皇をもって逃げた。この時、まだ赤ん坊ですけれども、天皇であることが大事です。安徳天皇を連れて逃げる。つまり、「玉」を持っている。玉に逆らう人間は何といっても逆賊です。天皇は、オレたちが正しい側なんだという象徴です。この関係は、明治維新の時の政治的関係とほとんど変わらない。どっちが天皇を取るかが非常に重要になってくる。平氏は、安徳天皇とともに西に逃げた。

では京都にはいった源義仲が政治をきちっとできたのかというと、あとはやりたい放題で、民家に土足で入るわ、店で無銭飲食はするわで、すこぶる評判悪い。暴れまくっていく。暴政です。
平氏が逃げたあとの京都のナンバーワン、後白河法皇とも仲が悪い。しかし後白河法皇は、頭が良くても武力がない。源義経と追い出したいなぁってと思っても、武力がないから、誰かに武力を頼らないといけない。頼るのは、遠いここにいる源頼朝です。おまえ、追い出して、くれないか、と頼む。

この瞬間、源頼朝は何になったか。犯罪者から天皇を守る守護神になる。180度、政治的な立場が変わる。あとは戦って勝つだけ。こういう政治的な立場を手に入れていきます。

源頼朝に院宣というのは、命令です。院の命令、つまり後白河法皇の命令です。このときに政治的なかけひきをする。ここで、はい分かりました、すぐ来ます、というのは、下手なやり方でしょうね。
ありがたき幸せでございます、ならば、と、ここからが駆け引きですね。私にどういうメリットがありますか、ということを引き出す。何をくれますか、というのを引き出す。動く前に。

何も言わずに戦ったら、よく頑張ったね、さよなら、で終わる可能性がある。退治する前に決めておく、何をくれるの、と。


【十月宣旨】 後白河法皇は、この1183年10月に十月宣旨といって、共同声明を出すわけです。約束するんです。関東をくれてやろうじゃないか、と。頼朝に、東国の行政権を与える。関東には口を出さない、と。これで関東が、まず頼朝のものになった。それまでの罪人が、子供の時に流罪になった罪人がです。これだけで東国を手にいれた。

しかしこれは、これから成立する鎌倉幕府が、朝廷とは別の独立政権として成立するのではなく、朝廷の許可のもとに成立した朝廷の一組織として成立するということです。
よく鎌倉時代に朝廷は滅んだと勘違いする人がいますが、朝廷は滅ぶどころか幕府の上に立って、それを認める立場にあったのです。
幕府をつくろうとする源頼朝も、朝廷のそのような公的な性格を認めているわけです。ここには朝廷が長らく主張しながらも、決して実現することのなかった公地公民の理念が浸透しているのではないでしょうか。だから頼朝は、幕府は自分が勝手につくった私的なものではなく、公的な性格を帯びるものでなければならなかったのです。頼朝も、その公的な性格を支えるものの前提として朝廷を捉えていたわけです。この時点で、朝廷の公的な権威は広く全国に浸透していたのでしょう。


ということは、逆に朝廷は幕府を認めないことだってできるのです。これはたんに理念的なものではなく、実際そういうことがその後の鎌倉時代には起こります。
しかしその時も幕府は不思議で絶妙な対応をします。でもこれはもっと後のことです。


【壇ノ浦の戦い】 では平氏を撃つのは誰か。源頼朝自身が動く必要はない。何のために組織を作ったのか。こういったときのための組織なのです。おまえやれよ、おまえが総大将だと、まず上のお兄ちゃんである源範頼(のりより)にいう。

でもこの人は、人はいいけど喧嘩が弱いんです。そこに新しく来た弟が、源義経です。友達は柄が悪い、口も悪い、女癖も実はちょっと悪い。でも喧嘩だけは強い。ついでに頭もちょっと悪い。喧嘩だけ強いです。範頼が兄だから形だけは偉い。形上は偉くないけれども実権を持っているのが義経です。
これが西に攻めて平氏を撃っていく。3回、4回と戦って、平氏を追い詰めて、結論をいうと、平氏はどこで負けたか。これが1185年、壇ノ浦の戦いです。関門海峡です。いまも交通の要衝です。ここは潮の流れが速い。平氏はここに追い詰められて滅亡する。

ここから、壇ノ浦でとれるカニの甲羅には、平家ガニといって、甲羅に平氏の顔の表情が彫られていった、という平家ガニの伝説が生まれる。
それから戦争で死んだ初の天皇、子供ですけどね、安徳天皇も一緒に死んだ。こういう場所は、恐いんですね。尾ひれがついていろんな伝説になっていく。
そのあと平氏たちは、なかには生き延びた残党もいる。残党というのは命からがら、死んだふりしながら、逃げていった人たちです。東にはいけないから、西の九州に人目を忍んで落ち延びていく。
そして人里離れたところで、目立たないように小さな村をつくっていき、村のなかだけで結婚をくり返しながら子孫を残していく。そういう隠れ里伝説というのは、全部で200ヵ所ぐらいあるという。九州各地にあります。実はこの近くにもあります。一番有名なのは、熊本県五家荘や宮崎県椎葉村です。五家荘や椎葉村に行けば、それは見事な山奥です。谷の深さが違う。バスで行きましたけどね。恐かった。運転手さんがもし寝ぼけ運転して事故でも起これば、谷底に落ちて死ぬなあ、と思いながら行きました。おまけに雨も降っていて、土砂崩れでもあったら、これは死ぬと思った。村の人はこんな道を通ってくるのか、と思うぐらい驚くほど深かった。この近くの山間部にもそういう伝承をもつ村はあります。熊本県五家荘、椎葉村の平家の落人伝説というのは今も有名です。


【義経入京】 では勝った義経は、どうすればいいと思うか。次にどこに報告に行かなければならないか。頭の悪いところはここです。誰に命令されてるのか。頼朝でしょ。どこに帰らないといけないか。頼朝のもとに、ここに遠回りしてでも、まっ先に行かないといけない。
そこに、京都の後白河法皇が声をかける。うちに来ませんかと。どうもご苦労さんでした、お風呂も沸いてます、今日は1日うちでゆっくり泊まっていってください、と後白河法皇が言うんです。だから泊まっていくね。アホですね。これで手柄はパーです。一晩、泊まっただけじゃないか、そんな問題じゃない。何百人も人の命がかかっている戦で、敵陣に入ったんです。その瞬間に、政治生命アウトです。
難癖つけられたら終わりです。なんで敵陣に入るのか。そんな馬鹿なことしないやろうと思うけど、でもするんですね。


そして、この後白河法皇は、やっぱり義経に言う。あのな、兄きの頼朝よりも、あなたの方が絶対優れているよ。オレが押すのは兄貴じゃない。兄貴は腹黒いから、友達の振りしているだけだよ。オレが好きなのは、あんただよ。オレはあんたを推すよ、とささやく。そしてこの義経に、兄貴の頼朝を討て、追討しなさい、つまり殺してこい、と言う。義経は、いったん断る。断って、こんなことをした上に、許しを請いに、ごめんなさいを言いにいく。でもこれは許されない。この後白河上皇と会った瞬間に決まっている。あとで何しようと、一度渡ったルビコン川は引き返せない。京都に立ち寄った瞬間に、勝負ありです。


でも、義経はごめんなさいを言いに行く。それで許されると思っている。ここらへんが甘いところです。頼朝は武士の情けで、バカたれ、速く逃げろ、1日うちに逃げ切らなかったら、オレは本当に殺しに行くぞと。それで義経は逃げた。そしてそのあと全国に指名手配するんです。源義経を。
ではこの義経は、どこに逃げたのかというと、奥州藤原氏です。もう願ったりかなったりです。頼朝にとっては。
平氏を滅ぼして、あと滅ぼすのは、奥州藤原氏だけです。日本という国がまだできていない。ここまで日本にしたいと思っていたら、目の上のたんこぶはこの奥州藤原氏です。
子供の喧嘩じゃないんだから、大人が喧嘩するときに、むかついたから殺す、そんなことじゃダメなんです。ちゃんとした理由が要る。これで理由ができたんです。俺を殺そうとした犯罪人をおまえはかくまった、と。これは立派な理由です。奥州藤原氏は、これで攻められる。

このあと源頼朝は、奥州藤原氏を攻めて滅ぼす。この時には本当は、義経なんかどうでもいいんです。政治的に大切なことはこの奥州藤原氏を滅ぼすことです。これで全国統一です。そういうふうになっていく。ちょっと恐いお話です。

政治というのは、判断を違うと、ゴメンで済みません。ことあるごとに「責任を痛感しています」という言葉を繰り返してあとはノホホンとしている、どこかの国の首相とは違うんです。
次回は、そこからやります。ここで終わります。

授業でいえない日本史 10話 中世 鎌倉幕府~御家人社会

2020-08-07 08:00:00 | 旧日本史2 中世
【鎌倉幕府の成立】
源義経は有名な割には、政治的な冴えがないです。喧嘩にはこういう人は、めっぽう強いかも知れないけど。
一方で、源頼朝は、源義経を全国に指名手配する中で、鎌倉幕府は着々と作られていく。
そして、源義経は姿を消して風の便りで、どうも奥州藤原氏のもとにかくまわれている。
いまでも犯罪者を自分の家に匿ったら、共犯が成立する。それと同じです。実際そこにかくまわれているんです。


【守護・地頭の設置】 そして直接攻める前に、いったん知らんふりする。どこにいるのか、わからない。本当は知ってるんですけど。九州にいるかも知れない、と警察署を置く。四国にいるかも知れない。あっちこっちに警察署をおく。何のための警察署か。源義経を捕まえるための警察署です。そしてこの警察署が、義経を討ち取った後も、このあと200年続くんです。政治のやることは、最初の目的を達しても、一度設置された政治組織は撤回しない。そのまま残っていく。米軍基地もそうです。わけの分からないうちに、一度置いたら撤去しない。何十年経とうと。これが守護、地頭です。1185年です。

これは泥棒を捕まえる警察署と思ってください。県庁ではないです。市役所ではないです。最初はあくまでも警察署です。源義経追討を名目に置いたんです。義経を見つけるため、本当は半分は分かってます。奥州藤原氏にいるということを。でも知らんフリです。
のちにこれが鎌倉幕府の地方組織になっていきます。実質、幕府は全国組織としてここで成立した。始まりは1180年の侍所です。組織が完成したのは実はこの1185年です。組織はここで出来上がっている。

頼朝は1185年11月に守護・地頭を設置します。この1185年というのは、平氏が壇ノ浦で滅亡した年です。それが3月です。
義経が、奥州藤原氏のものにいるんじゃないかなというのは、気づいていても知らんふりする。それで全国に指名手配して、警察署を置く。これが守護・地頭の設置です。その理由は、源義経を追討するためです。追討というのは捜し出して、捕らえるためということです。
実は鎌倉では1180年にすでに組織化が始まっていた。侍を組織化する侍所です。しかしそれはまだ地方政権であった。1185年の守護・地頭の設置に寄って、全国に警察署を設置した。これで全国政権になります。実質上、幕府はこの1185年に成立してるんだということです。

そしてこれを設置した後に、源義経は奥州藤原氏にいた、ということになります。そしたら、おまえは源義経を匿ったということで、奥州藤原氏を攻めて滅ぼす。これが1189年、奥州藤原氏滅亡です。これで全国統一です。理屈上、義経はこの時死んだんだから、守護・地頭は取りやめなければならないはずなのに、取りやめません。そのままずっと設置したまま、鎌倉幕府の地方組織になっていきます。この時は、守護というのは警察署と思ってください。しかし、このあと百数十年の間に警察署だけでは済まない。税金を取るようになる。年貢も取り出すようになる。こうやって地方支配を強めていく。

では俗に鎌倉幕府成立の年だといわれる1192年というのは何か。オレは幕府は認めないと頑張っていた後白河法皇、この京都のドンが死ぬですよ。死んで手薄になったところで、源頼朝は、朝廷という天皇の組織に対して、俺にこの官職をくれと要求してもらったのが、征夷大将軍なんです。これが俗に幕府の将軍さまといわれるものの正体なんです。このあと幕府は、室町幕府、それから江戸幕府へと移っていきますが、その将軍がもらうのはぜんぶこの征夷大将軍です。これを俗に将軍、将軍といってる。

ここで注意は、征夷大将軍は天皇からもらった官職だ、ということです。ここで鎌倉幕府が成立すると、頭のなかで天皇一族を滅ぼしてしまう人がいる。でもそんなこと一言も言ってないです。
天皇の政治組織はちゃんとあります。それどころか征夷大将軍はその天皇から任命されたんです。家来として。その任命した天皇はというと、この時は後鳥羽天皇という。この人はまたあとで出てきます。
鎌倉幕府の将軍とは、京都の天皇から見ると、天皇の家来だということです。歴史をたどれば征夷大将軍に初めてなったのは、平安時代の坂上田村麻呂という人です。この人は、天皇の家来として、東北の蝦夷討伐をしているだけです。べつに幕府を成立させてないです。

幕府ができるのは、ここからです。この官職によって武家政権をつくっていく。どういうことか。関東の武士たちにとっては、国司よりも人気がある。武士の総大将としての象徴的な意味がある。
これを下の三角形で書くと、こうなります。



上の三角形が公家社会です。公家というのは貴族のことです。これはもう何百年も前からある。大和政権の時代からあります。そのトップが天皇です。そしてその天皇は滅んでいない。
源頼朝が任命された征夷大将軍はここです。これが俗に将軍という。正式名称でいうと征夷大将軍という公家社会の中の一官職です。下の三角形が武家社会です。こういうふうになっている。

それぞれの三角形の地域はというと、公家社会の中心は京都です。京都から西が天皇の勢力が強いところです。逆に将軍の本拠の鎌倉は東京の近く今の神奈川県にある。だから武家社会は日本の東半分で勢力が強い。こういう構造だということです。
鎌倉幕府というのは、天皇の家来として、このような二重三角形構造のなかにある。これが日本の政治のちょっと複雑なところです。

ここらへんは中学校で歴史をやるときにはあえて触れない。中学生には理解するのはちょっと無理だろうから。でも高校生なら理解できるはずだということになっています。かなり偏差値は高いと思うけど。実質的にはこういう上下関係のもとで、東と西が分けられています。だから鎌倉時代のことは公武二重政権という。
公武の公は、公家社会の公です。公武の武は、武家社会の武です。貴族と武士が、日本を分け合っている、しかも縦につながる二重構造で。公武の公は、朝廷中心で西日本中心。公武の武は、幕府中心で東日本中心です。

このようなちょっと複雑な構造が日本の中世社会です。鎌倉時代は中世といいます。平安時代は古代といっていた。ここでのポイントは、征夷大将軍は天皇の家臣の立場で、武家社会を統一したということです。だから自分ではなれないんです。天皇から任命されないと。
任命される人と任命する人はどっちが偉いんですか。任命するほうが偉いんですね。天皇と将軍は相互に緊張をはらみながら、どちらもそのことをよく理解しています。絶妙なバランスの上に、日本の中世社会は成立します。本当は戦って勝った負けたで説明した方が簡単です。日本はそうはならない。政治のあり方の偏差値としてはかなり高いです。こういうところが歴史を暗記物ととらえている人には、理解できないところです。だから日本の高校生の半分は、このことをうまく理解できていないんじゃないかな。


【組織】 ではその組織です。これで成立ていく鎌倉幕府の組織、鎌倉には重要な役職が3つある。

最初にできたのは、侍所という。ここの長官になったのは関東の荒くれ武士出身の和田義盛です。これは荒々しい気性をもつ武士たちをまとめないといけない。

政治である以上は、定時的な事務もしていかないといけない。これが公文所です。のちに公文所では意味がわからないということで名前を変えて、政所(まんどころ)という。この政所の長官になるのが、大江広元です。幕府の家来だから武士なのかというと、この人は京の貴族出身です。幕府の長官に貴族が入っている。というのは、武士は荒くれ男で、まだ字が書けない。喧嘩には強くても、刀と弓には強くても、事務的な作業に向かないから、貴族からスカウトする。こういうところにも朝廷の下部組織としての鎌倉幕府の性格が表れてますね。

それから、三つ目が問注所という。これは裁判です。この長官には三善康信がなる。この人も京の貴族出身です。
こういうのが、幕府の三大組織です。


【鎌倉の地図】 この図が鎌倉の町の様子です。下に縮尺があって、これが1キロだから、行ってみると思ったより狭いです。鎌倉の中心はもともとここらへんです。山に囲まれています。東も北も西も、ぜんぶ山です。これがよかったんです。攻められないから。攻めるとすると、南の海から来るしかない。ここの海は、サザンオールスターズの湘南の海です。




鎌倉幕府の役所の場所は途中で変わるんですけど、もともと鶴岡八幡宮の東あたりにあった。鶴ヶ岡八幡宮は武門の神様で、源氏の守り神です。この神社を中心に、鎌倉は整理されていきます。
そのまん中に、この時代からある大きな道が通っている。神社に向かった参道がつっきって、その突き当たりにあるのが鶴岡八幡宮です。この神社が、幕府よりも古くからこの地にあったのです。政治はやはり「まつりごと」ですね。鎌倉幕府も、神様を祭ることから始まっています。幕府は最初この東側にあって、今は残っていません。江戸幕府のような、お城をつくったりは、まだしませんから。



【土地支配】 
ではその地方支配がどうなるかというと、これがもっと難しいんですよね。
いま公武二重政権といいました。この公武ですよ。本当は、この左2つの公武だけで、十分難しいんだけれど、正確にいうとあと1つある。合わせて3つある。非常に複雑な社会になるんです。




もともとあったのは一番左側の天皇ですよ。少なくとも表面的には。天皇のもとに地方には国司、その下には市長みたいな郷司というのがある。天皇の力が強い地域は。九州などはこれです。
しかし関東には鎌倉幕府ができて、トップに将軍がいる。まん中の列です。そしてその第1の子分に守護、さらにその下に地頭がいた。
では一番右は何かというと、それ以前からあった荘園です。例えば都のナンバーワン貴族であったのは何氏だったですか。京都ナンバーワン貴族というと。藤原氏というのがあった。藤原氏は滅亡していない。まだまだ元気いっぱいです。ただピークを過ぎただけで、厳然としてあるわけです。そういうナンバーワン貴族は、地方から土地が集まってきて、自分で管理してるんです。これがバカにできないほど大きいんです。これが荘園系列です。そういう三本柱がある。

これを特に地方での年貢との関係でいいます。

まず将軍は、自分の土地の管理を任せている地頭から年貢をもらう。そして地頭の土地を、誰かが横取りしようとすれば、保護してやるんです。
その代わり、将軍がいざイクサをするというときに、腹が痛いとかなんとか言ったら、もうそこで首です。もうおまえの顔も見たくない、どこか行け、と。イクサの時は何をさておいても駆けつけること、これが軍役です。いざ鎌倉という言葉があるのは、これです。いざという時に、頭が痛かったらダメ、腹が痛かったらダメ、何をさておいても飛んでくる。
将軍はこういう土地をもっている。これが幕府の一番の収入源です。これを関東御領という。関東を中心に将軍は土地を持っている。

では天皇方は、天皇方の土地を、国有地を管理してるのは国司です。この国司の下にいる郷司は、横目つかいながら、国司は落ち目やなあ、オレも鎌倉の将軍の家来になりたいなぁ、と思う。そして、どうぞ家来にしてください、戦さがあったときには来ますから、といって、将軍との繋がりを深めてくる。このラインが出てくる。

一番右は、都の藤原氏の土地です。藤原氏のような有力貴族を荘園領主という。そして、ここを現地で管理している人は荘官という。彼らも、藤原氏も一時の勢いないなぁ、オレも源頼朝さんの家来になりたいなぁ、と思う。そして、このラインが出てくる。

すると将軍は、そうかそうか、オレの子分になるか、それならオレが地頭に任命してやる。そしておまえに警察権力を与えてやる。そうやって郷司や荘官は警察権力を手に入れていく。こうなるとこの三つ巴のなかは、非常に複雑な三角関係になる。
そのなかで、源頼朝の家来になりたがる人が増えてくる。源頼朝が一番人気なんです。



【武家社会】
【封建制度】
 武士の親分・子分関係を、主従関係といいますが、源頼朝の子分になるということは、鎌倉幕府の家来になるということと同じなんです。家来ことを御家人という。もともとは家人、家来という意味だった。しかし将軍の家来だったら、御という丁寧語がつく。それで御家人という。

そして将軍との間で、きずなを深めるんです。契約というほどドライではなくて、もうちょっと人間的な、オレはあなたのためだったら命だって惜しくない、あなたのためだったらやりますよ、あなたとの関係は特別だ、と。こういう非常に個人的な関係から深まっていくんです。


【御恩と奉公】 御家人は給料はもらいません。彼らは自分の先祖伝来の土地を守りたいだけです。半分は百姓です。しかし暇なときには刀の稽古をしていく。こういう人たちが、将軍の家来になる。この時代は、お巡りさんいないから、喧嘩に弱かったら自分の土地なんか分捕られるんですよ。隣の暴力的な親父から。こういうときに将軍は、困ったら俺に言ってこい、俺がおまえの土地を守ってやるから、と言う。これが御恩です。恩に丁寧語がついて御恩という。

このもらった御恩は、もらいっ放しにする人が最近増えているんですけれども、もらったらオレのものだと考える人が最近いるんです。これは歴史的にちがう。もらったものは一生の間に返すんですよ。そしてプラス・マイナスゼロにして死ぬのが、最も良い死に方なんです。今すぐ返せといわれると、金の貸し借りになるから、そうじゃない。恩はいずれ返さなければならない。もらった物はいずれ返さないといけない。お土産をもらったら、もらいっぱなしはいけない。もらったものは、必ず別の形でもいいから返す。

それが何かというと、将軍が戦うときには、まず何があっても駆けつける。これが奉公です。これを御恩と奉公の関係という。もらったら返す。ちゃんと返したから、次またもらえる、という関係です。初めは非常に私的なものですね。将軍さま、あなただから、と。しかしのちに、頼朝個人ではなくて、将軍というポストに対する忠誠になって続いていきます。


【御恩】 これをもうちょっと詳しく見ていくと、まず御恩。家来は将軍から、給料もらってるんじゃないですよ。家来は、基本は自分の土地をもつ百姓です。自分の土地を耕して農作業したり、自分の子分に農作業させたりしている土地経営者です。

【本領安堵】 ただ困ったことにこの時代には、隣村のある大百姓の親分が、おまえの土地はオレのモノするから、おまえはどこかに消えてしまえ、と脅したりする。そういった時には、将軍が、何をいっているか、オレの子分に何をするのか、この土地はオレの子分の土地だ、と言ってくれる。これを本領安堵という。本領というのは本来の家来の土地です。それを安堵というのは、お前のものだ、確かにお前のものだ、ということを将軍が保障してくれるということです。
何を言いたいか。脅されたら、相手と喧嘩してでも、戦さをしかけてでも敵は倒してやる。これが本領安堵の意味です。お前のものだ、と権力者が言った以上は、絶対保護してやる。通常は、武士は農業経営をしてるんだとこういうことです。

ちょっとはずれるけれども、一所懸命という言葉があるけれども、今は一生懸命と書いても間違いじゃない。しかし歴史的には、一生懸命というのは一所懸命です。これがもともとの意味です。それはこの時代の地方武士の生き方です。一つの所に命を懸ける、これが武士なんです。この土地を守るためには、何だってする。そのために将軍の家来にもなっている。土地はメシの種だから、そういう土地を保障してもらうことが、一番大事なのです。これが本領安堵です。


【新恩給与】 ではもう一つ、将軍が敵と戦って、家来が、いざ鎌倉、と駆けつけて、命を懸けて家来たちが戦った。そして将軍側が勝った。勝ったときに、おつかれさん、で済むか。これじゃ済まないです。あと何をしなければならないか。褒美ですよ。命をかけて敵を召し捕ったんだったら、褒美をちゃんとやる。これが新恩給与です。戦さに勝ったら、相手側の土地を分捕る。それを将軍が全部を自分のものにしたら、家来たちは「なんだ、自分だけいい思いをして」と思う。そう思われたら最後なんです。敵から分捕った土地をちゃんと家来たちに分け与える。これを恩賞として与える。これを新恩給与といいます。御恩はこの二つです。


【軍役】 では家来がしないといけないことは、奉公です。

戦さだといったときに逃げない。軍役です。通常、いざ鎌倉、という。緊急出動といったときに、何をさておいても。そんな突然いわれても困ると言うのなら、それは自分の対応がまずいんです。いつ何時、敵が襲ってくるかわからないから、常日頃から備えをしておかなければならない。戦さの準備をしておきなさい、体の鍛錬をしておきなさい、武芸の訓練をしておきなさいということです。農作業のかたわらで。

やるべきこととして、騎射三物といって、こう書いて、これを読める人いますか。流鏑馬と、書くんだけれども、これは、やぶさめ、という。
時々、地方の神社でも、流鏑馬神事をもってる神社があります。ちょっと前まで、よくローカル番組でNHKが放送していた。見たことないですか。馬に乗って、100mぐらい走りながら、マトが最後のところにいくつか立ってる。10mぐらいの間隔で。これを、パカパカと馬に乗って全速で走りながら、弓を構えて、背中に弓矢を10本ぐらいさして、走らせながら、手綱を離して手放しして、弓を引いてパーンとマトにあてる。これが流鏑馬です。今はやめてしまったのかも知れない。昔はこの近くの神社にもありました。今はそんなことをできる乗り手がいないんじゃないかな。まずふつうの人間は、馬に乗れないし、まして弓を引けない。馬に乗りながら弓を引くということなんてまず素人はできないから、祭りを継続できなかったのかも知れません。でも最近までありました。今でも、続いている神社はあります。流鏑馬の稽古、それから笠懸、犬追物という。ぜんぶ、基本は弓ですよ。刀よりもまず弓です。

こういう訓練を、つね日頃、農作業の合間にすることが、兵の道(つわもののみち)という。これが江戸時代に出てくる武士道というものの源流です。武士道というのは、武士で大事なのは、命じゃないんですよ。何ですか。名こそ惜しけれ、というのはここからくる。殺されるときでも、潔く恥ずかしい死に方をするな、一番大事なのは人間としての名誉なんだ、命じゃないんだ、という考え方です。
このような考え方がどこからでてくるかというのは、よく分かりません。ただ刀の稽古をすれば、このような名誉を重んずる倫理観が自動的に養われるのかというと、それは違います。刀は危険な武器ですから、それを振りかざしてますます危険で暴力的になる人間はいくらでもいます。それはピストルを持ったからといって倫理的に人間がならないのと同じです。ピストルを持てば、普通はギャングになっていきます。

この時代、九州の守りは太宰府です。のちの戦国大名に太宰府に少弐氏がでてきます。もともとは朝廷の太宰の少弐という官職名です。このような地方に下った貴族の武士化は続きます。

【鎌倉番役】 この御家人の務めに、もう一つある。
戦さがないときはどうするか。鎌倉時代がイクサの時代だとはいっても、いつも戦争しているわけではありません。ヨーロッパと比べて日本は基本的に平和で、例外的に戦争があるんです。
平和なときは何するか。鎌倉の将軍の警備に行くのです。これが鎌倉番役です。割り当てられた期間、鎌倉に行って鎌倉幕府を守る。その警備です。これは将軍の家来だから、分かりやすい。

【京都大番役】 では将軍はもともと誰の家来だったか。天皇の家来だったんです。だったら上司の上司でしょ。親分の親分でしょ。それも守らないといけない。天皇はどこにいるか。京都です。だから京都に行って天皇も守らないといけない。京都の番役です。
でも京都が鎌倉より一段上だから、これは大がつくんです。これを京都大番役といいます。天皇の警備です。
なぜ武士が天皇の警備をしないといけないのかという理由が、一番最初に言った三角形の二重構造です。将軍は天皇の家来の立場で幕府を張っている、ということです。将軍は天皇の家臣の立場にあるからです。そこから鎌倉幕府の家来である武士が、京都大番役に出向くことになる。

でもそこに給料はないです。金が欲しかったら、自分で稼がないといけない。それぞれ武士は武士で土地を持っているから。でも逆に言うと、その土地を守って欲しいから、このような義務が発生するのです。武士は、それぞれの自分の土地からの収益で独立しています。


【武家造り】 武士は、江戸時代のように、城下町に住んでいるんじゃないです。城下町自体がまだないんです。武士は草深い田舎に住んでいる。少し大きな武士になると、あばら屋根みたいな農民の家とは違って、ちょっと大きめの家を作る。これを武家造りといいます。周りに堀をめぐらしたりして、警備を怠らない。
こういう家に住む武士たちが、平安貴族のように通い婚(妻問婚)をしていたのかというと、よく分からないけど、これはどうも違うような気がする。隣の武士の家まで馬に乗って、通い婚に行こうとしても、入り口のところで、槍を持った門番に「おまえ何しに来た」と言われて、「はい、通い婚にきました」と言うのも、間の抜けた話のような気がします。
他の家から娘を嫁にもらった方がいいような気がします。こういう何でもないようなことが、実はよく分からないのです。



【惣領制】 でも、その武士たちは孤立しているわけではない。ちゃんと御家人社会という社会をつくっている。
さらにまた一族の意識も強くて、血縁組織も強固です。血のつながりによる血縁組織、これを惣領制といいます。分かりやすくいうと、今でいう本家と分家の関係です。惣領というのは本家です。本家を中心に分家が集まる。分家は本家の命令をきかないといけない。本家の親分を惣領という。本家の叔父さんのいうことには逆らえない、という感じです。

今でもそういう株式会社の形態をとってる会社もある。一族会社のなかには、そういったものもある。本社があって、子供たち、またはその孫たちが子会社を経営して、盆正月に一族がみんな集まる。
そういう子会社の社長をしている私の知り合いが、ああ行きたくない、と言ってました。正月に集まると、去年は営業成績が悪かったから、小言を言われる、と言って嘆いていました。お金持ちなんですけどね。一族で会社を経営しているわけです。

彼らは精神的な拠り所は、自分たちの神様、神社を作って一族の守り神とします。源氏だったら、これが鎌倉の鶴岡八幡宮にあたる。あそこで一族みんな集めて、儀式をする。それによって儀式を取りまとめる惣領が権威を発揮していく。
分家に対して土地をどう分配するかも、惣領の仕事です。それには逆らえない。
鎌倉番役にも行かないといけない。おまえのとこは何人行け、おまえのとこは馬持ちで5人行け、おまえんとこは10人行け、と。惣領の指示には従わないといけない。それだけ惣領は効いている。本家の親父というのは。


ここで人の動きが今までと逆になっていることに気づきましたか。平安時代までは、国司たちが京から地方に下っていました。しかしここでは、守護や地頭や御家人たちが、逆に地方から、京や鎌倉に上るんです。中心から地方へ下るというスタイルから、地方から中心に上るというスタイルができています。のちの江戸時代の大名の参勤交代もこのスタイルの延長線上にあります。
今の地方の人間が、東京に向かおうとするスタイルも、この延長線上にあるのかもしれません。そうすると何か一つ偉くなったような気分になるのかもしれません。ある人はそのような日本人のもつ都へのあこがれを「都鄙(とひ)の感覚」と名づけました。


【分割相続】 しかし、子供が三人いたら、親が死んだときは、土地は三等分する。今は違うでしょ。今の農家は基本的には、単独相続です。戦後また民法が変わったり、兼業農家が増えたりして、ちょっと変わってきている。農家はだいたい、長男一人に継がせる形なんです。この時代はそうじゃない。分割相続です。

しかも女でも相続権があります。これは嫁に相続権があるのではなくて、娘に相続権があるということです。娘と実家との関係は、結婚しても、こういう形で強いものがあります。
江戸時代になると、女への相続権がなくなります。その代わりに、嫁いだ先の嫁としての力が強まります。これは女性蔑視の問題ではなく、どこの社会にも結婚の制度がありますから、結婚した場合の財産の問題です。ここをまちがうと変なことになります。女が財産を、実家からもらうのか、婚家からもらうのかという問題です。両方からもらうと、不平等が生じることになります。

分割相続ということは、土地がだんだんと小さくなっていくんです。小さくなったら食っていけなくなるから、そのぶんは増やさないといけない。これが開墾です。

まだ未開墾の土地があるからそれができるんです。平野部に雑木林がいっぱいあって、分割相続していかないといけないから、子供を1人立ちさせるまでに、開墾して所領を拡大するわけです。そして子供に分割相続するんです。まずそういう土地があったんです。これが分割相続です。反対は単独相続です。
これが鎌倉時代の武士社会の姿です。
これで終わります。

授業でいえない日本史 11話 中世 源実朝暗殺~社会と経済

2020-08-07 07:00:00 | 旧日本史2 中世
いま鎌倉時代をやってます。通常は、1192年、いいクニつくろう鎌倉幕府、と覚えるけれど、実は1185年から始動している。もっといえば、産声を上げたのは1180年からです。こういうことを言ってきたと思います。
1180年に何ができたか。1185年に何ができたか。1180年に侍所ができて、組織としては産声をあげた。1185年に守護・地頭の設置されて、鎌倉の地方政権から全国政権に脱皮した。実質ここからなんです。あとは事後承諾です。1192年というのは征夷大将軍に任命されただけです。



【源実朝暗殺】 
ではその後の将軍家はどうかというと、源頼朝は1199年に落馬で死んだと言われますが、これは本当かどうか分かりません。かなり不審な死に方には違いありません。長男の源頼家が2代将軍になりますが、家臣団の発言力が増大し、1203年に伊豆の修禅寺に幽閉され、翌年には暗殺されます。3代将軍に次男の源実朝が就任しますが、この人には政治家の才能がない。代わりに芸術の才能がある。その源実朝も、1219年に暗殺される。暗殺したのは頼家の息子の公暁ですが、この公暁もすぐ殺されます。結局、鎌倉将軍は初代も、2代も、3代もまともな死に方をしないわけです。

このようなことを考えると、鎌倉幕府の将軍というのは初めから飾りであったような気もします。実権は初めから関東武士たちが握っていたようなところもあります。

代わりに力をもってくるのが源頼朝の妻である北条政子の父親北条時政です。2代将軍が伊豆の修禅寺に幽閉された1203年に政所の長官となり、幕府の実権を握ります。将軍の補佐役を執権といいますが、この北条時政が初代執権だとされます。幕府の執権はこの後も、北条時政の子孫に受け継がれていきます。

このように北条政子は、頼朝と結婚したあとも実家の北条氏と強いつながりをもっています。姓も北条のままで、夫婦別姓なのです。2代将軍も、3代将軍も、北条政子の息子です。ということは、2代将軍、3代将軍にとって初代執権の北条時政は、外祖父にあたります。ここらへんは、平安時代の摂関政治と似ています。似ているというより、そのままだといっていい。将軍の母方の家が力をもつわけです。
源頼朝と北条政子の結婚生活は、通い婚だったのでしょうか。源頼朝の息子二人は、平安貴族のように母親の実家で育ったのでしょうか。そう考えた方が良さそうな気もしますが、詳しいことは分かりません。ただ源氏将軍家に、母親の政子の力がかなり強く働いていたことは事実です。そしてこの後の幕府政治はこの北条氏によって動かされていきます。

鎌倉幕府はやわな世界じゃない。字も読めないような、ひげだらけの荒くれ男たちの世界です。きれいにすました江戸幕府のようなサラリーマン武士が、政治を動かしてるんじゃない。なんだこら、ぶっ殺すぞ、という世界です。
ただ将軍暗殺の仕掛け人が北条氏であったとは思えません。彼らは、藤原氏の摂関政治と同じように、娘北条政子の子である源氏将軍を表に立てることによって権力をにぎったのですから、この源氏将軍が殺されて一番困るのは彼ら北条氏なのです。


藤原氏は決して天皇になろうとはしませんでしたし、北条氏も決して将軍になろうとはしません。世界史では、家来が王を殺して自分が王になることがよくあるのですが、ここではそういうことは起こりません。自分は表に立たずに、補佐役として権力を握ることに終始するのです。
ここでは、有力御家人のうちの誰かが、北条氏の傀儡となっている将軍を殺して、北条氏の力を削ごうとしたのでしょう。誰が殺したのかは分かりません。

ところで、この時点で、天皇を潰してしまってる人がいませんか。鎌倉時代に、天皇は滅亡したとか何とか、考えてる人いませんか。明治維新のとき、ペリーが来たとき、天皇が復活したなんか思っている人が時々いたりします。
天皇はこの時もちゃんといますよ。天皇の組織はちゃんと京にあります。その下に武家政権ができた。これが鎌倉幕府なんです。

3代将軍実朝が暗殺されて、ふと気づくと、もう源氏の血を引く男が誰もいないのです。将軍の跡継ぎがいなくなった。
そうすると、北条氏は自分で将軍になろうとはせずに、不思議なことに、京都の天皇家に、天皇家の誰かを鎌倉の将軍として派遣してくれないかと頼むんです。つまり朝廷に、皇族将軍の要請をするわけです。彼らに、鎌倉将軍は武士でなければならないという意識はないんですね。京都の貴族だっていいという考え方です。
ということは、この段階では、北条氏などの関東武士は、自分たちが京都の朝廷とは違った独立した政権をつくっているという意識がなかったのかもしれないということです。この段階で彼らは、あくまでも自分たちを朝廷の家来だと位置づけていたようです。だから、源氏将軍の跡継ぎが全部死に絶えて跡継ぎがいなくなってしまうと、天皇家から誰かを鎌倉将軍として鎌倉に派遣してくれ、というお願いをするわけです。


このように鎌倉幕府は、朝廷に対する独立性が非常にあいまいです。つまり独立政権なのか、中央政府の地方の出先機関なのかがよく分からない。しかも幕府の実権をにぎっている北条氏自体が、自分が将軍になろうなどとはハナから思っていない。



【承久の乱】
2019年に平成天皇は、生前退位をして上皇になられました。これは近代の天皇としては初めてのことですが、それ以前はよくあることでした。
この時の朝廷の実力者は、後鳥羽上皇です。天皇は10年ばかり務めたらいいほうです。すぐ譲位して、上皇になります。
1192年に源頼朝を征夷大将軍に任命した時の天皇が、この後鳥羽天皇でした。

ところが3代将軍実朝の暗殺を聞いた後鳥羽上皇にとっては、もともと幕府など不用なものなのです。仕方なく征夷大将軍に任命したけれども、自分たちで勝手に作ってワーワー言っているだけで、それで今は跡継ぎいなくなったといって騒いでいる。もともとないはずのものだから、跡継ぎいなくなったら当然消滅すべきです。後鳥羽上皇は、鎌倉幕府からの皇族将軍の要請を拒否します。
ところがこれに対抗して、摂関家の藤原氏が鎌倉幕府を応援します。うちの子供でよかったら、と言って、わずか2才の藤原頼経を将軍候補として、鎌倉に下します。
こうなると潰れるはずの鎌倉幕府は潰れません。

それならいっそ、潰してしまおう、とこの後鳥羽上皇は考えます。それで乱を起こす。年号を取って、承久の乱という。1221年です。
ふつうは謀反や乱というと、下の者が上に反抗するわけです。ところがこの時は逆です。上の者が下に反抗してくる。天皇が反乱を起こしたという言い方をするけど、これは考えれば考えるほど分からない言い方ですね。言葉の意味としては、矛盾しています。
でも日本史では、このことを承久の乱といって、これは天皇が下に対して謀反を起こしたことになっています。言葉でうまく言えないほど、日本の歴史は微妙で変則的なのです。

そこで後鳥羽上皇は、幕府に将軍はいないから、時政の子でこの時2代執権となっていた北条義時に対して、義時を討て、首を取れ、という院の命令を出します。

こういうことが起こったら、ふつうの武士からみたら、将軍というのは会社でいう部長クラスですよ。天皇が社長ですよ。部長の命令と社長の命令が逆になった場合、あなたならどうするかという話なんです。ふつうは社長である天皇の命令を聞くでしょう。これを逆に将軍に引きつけられるかどうか、ここが勝負なんです。家来たちの間に動揺が広がります。そこで大演説をぶって、鎌倉武士を将軍側につかせたのが、尼将軍と言われた北条政子です。

武士がぜんぶ将軍方についた時点で、この乱の趨勢は決定します。京に攻め上り、幕府方の勝利に終わった。

すると圧倒的に、前に言った二重三角形の将軍方が強くなります。ではここで公家社会の三角形はつぶれるかというと、そうはなりません。小さくはなるだけです。
では朝廷方はどうなるか。所領没収です。天皇家も西日本や九州に、領地を持っている。その天皇の領地を、幕府が没収します。

没収すると、そこに鎌倉武士がやってくる。この近くにも千葉氏がやって来ます。千葉はどこの出身か。この近くには、祇園さんの近くに、石垣がちょっと残っていて、中世の館跡がある。それが千葉氏です。千葉県の千葉です。こうやって九州にも関東武士がやってくる。幕府方が、それまでの東日本中心から西日本へと勢力を広げていきます。

でも天皇は交替させられただけです。天皇が廃止されたりはしません。
後鳥羽上皇は、隠岐の島に流されます。実は、隠岐に流されたはずの後鳥羽上皇は隠岐に流されたのではなく、九州の背振山系の山に隠れ住んだという伝承がこの近くには残っています。


【六波羅探題】 鎌倉幕府から見て、それまで西日本は勢力の及ばない範囲でした。
しかし西日本にも幕府の力が及んでくると、天皇が住む京都に、幕府の支店をおく。おまえ西日本を見張れ、西日本一帯を管轄しろ、と。これが京都の六波羅というところに置いた六波羅探題という幕府の役所です。
まず、天皇が悪さをしないか。部長が、社長が悪さをしないか見張るというのも、変な話は話です。これはたぶんヨーロッパから見ると理解できないかもしれません。小学生にこんな話をしても、混乱させるだけでしょう。

もう一つの役割は、西日本一帯の武士の統括です。幕府の命令を聞け、ということです。それで源氏将軍家なき後、幕府の実権を握ったのが、義時の子の北条泰時です。初代将軍頼朝の嫁さん北条政子の一族です。彼は3代執権になります。

中国は夫婦別姓です。唐の則天武后なんかは、王朝を乗っ取って、自分の一族で国までつくったりします。夫婦別姓はこうなります。日本も夫婦別姓で、かなり似たことが起こるのですが、最後が違う。北条氏は自分で鎌倉将軍になる気など全くないのです。天皇の血筋には何か近づきがたいものがあるような気がします。


日本は女の地位が弱いというけど、本当にそうなんでしょうか。普通は日本の女性は、嫁に来たら、その嫁ぎ先の完璧な一員で、しかも中心人物になるんですね。母親というのは家の中心でもあります。自分の実家よりも、嫁ぎ先で力を振るい、そのうち旦那を尻に敷いたりもする。こういう女性の姿を目の当たりにしていると、女性の地位が低いとは、私はあまり思わないのです。しかし一般的には、日本は男尊女卑の国だとか言って、相撲の土俵にあがれないのは男尊女卑だという。でもこれを言うと、話が逸れるのでこれ以上言いません。


【貞永式目】 3代執権北条泰時は、決まりを作ります。これを、年号をとって貞永式目といいます。1232年です。御成敗式目ともいいます。式目というのが今でいう法律です。古代では律令といった。字を書けない荒くれ男たちが法律をつくるようになった。
法律に矛盾があれば、そこから社会が壊れるから、あんぽんたんが鼻くそほじくりながらつくるようではダメなんです。そして記憶力がよくないとダメです。10年前に作った法律は右側通行で、それを忘れて突然、人は左側を歩けと言ったら、そんな社会は壊れます。忘れとったでは済みません。一度出した法令は、そんなに簡単に改定できない。もしそうなったら朝令暮改といって、悪い法律の典型です。朝だした命令を、夕方には改めるのはバカな証拠です。法律は一度出したら、そんな簡単に変えたらいけない。変えるようなら、出すなという話なんです。矛盾があったらダメなんです。こういうのを武士の力でやり始めた。

しかし公家社会には律令という法律があります。これも生きたままです。これとの関係はどうなるのか。律令は従来通り生きたままで、自分たちの支配のおよぶ武家社会にのみ適用できる法律として貞永式目を制定するのです。つまり日本には、律令と式目という、二つの異なった法体系が存在したことになります。政権も二重構造なら、法律も二重構造です。


【藤原将軍】 では、将軍はどうなったか。1226年に、摂関家から派遣されていた藤原頼経が将軍に就任します。これが3代将軍源実朝の後を継ぐ鎌倉幕府の4代将軍です。鎌倉幕府の将軍は武士ではありません。京の貴族です。しかも摂関家の人間です。これを藤原将軍と言います。

ではこの藤原将軍が幕府を思い通りに動かすのかというと、幕府の実権は北条氏にあります。この時の幕府の実権は3代執権の北条泰時にあります。

このとき4代将軍の藤原頼経はまだ子供だからよかったのですが、彼もだんだんと大人になると、自分の立場がおかしなものであることに気づいていく。つまり執権よりも将軍が偉いはずなのに、幕府の実権は執権の北条氏に握られたままになっている。そして北条氏は自ら将軍になろうとはしない。北条氏としては、将軍は飾りでよかったわけです。この権力構造も独特で、なかなか理解しにくいものがあります。


【皇族将軍】 問題は、4代将軍の藤原頼経が、そういう自分の立場に満足できなくなってきたことです。それから約20年後の1252年、藤原頼経による幕府転覆計画が発覚し、彼は将軍の地位を追われます。


そうなると実は次の将軍をどうするかをめぐって、また幕府も困ります。頼むところは朝廷しかありません。30年前に皇族将軍の派遣を頼んだのと同じように、今度もまた天皇家の中から鎌倉幕府の将軍を派遣してもらうように頼みます。
30年前には、後鳥羽上皇はこれを断りました。そこから承久の乱が起きたのですが、今回は朝廷はその要請に応じます。朝廷は、天皇の息子である宗尊親王を、鎌倉幕府の将軍として派遣します。これを皇族将軍と言います。しかし幕府の実権は北条氏がにぎったままです。幕府の実権は5代執権の北条時頼が握っています。
このように、鎌倉幕府は、実権は北条氏が握っていても、形式上は、皇族が将軍なのだから、まぎれもなく朝廷の出先機関に見えます。しかしこの皇族将軍が幕府の実権を握ることはありません。

このような複雑な構造をなぜ北条氏が取ったのかということは、よく分かりません。北条氏が将軍にならなかった理由と、藤原氏が天皇になろうとしなかった理由は、たぶん共通するものがあったのではないかと思います。
それは天皇家が実現しようとした公地公民の理念と関係しているように思います。この公地公民の理念は、正統性の根拠と結びついているのではないでしょうか。



【元寇】
それでうまくいくかというと、日本も世界の情勢に巻き込まれる。中国ではモンゴルが宋を倒した。モンゴル統一は1206年、チンギス・ハーンです。
そのうちに朝鮮半島まで支配下に置いた。さらにべトナムまでも遠征する。朝鮮半島が敵になったら、必ず日本も襲われる、と思っていい。朝鮮も征服された。この時は高麗という。ちなみに、韓国の航空会社、何エアーというか。コリアンエアーという。大韓航空のことですけど。コリアンという。コリアンとはなにか。これは高麗の訛りです。
いまだかつて、この元の面積を超える帝国はない。ロシアも勝てない。
そのモンゴルの大軍が日本に2度やってきた。これが元寇です。

このとき日本の軍事を指揮したのは、天皇ではなく、幕府の8代執権北条時宗です。


【文永の役】 1271年10月、年号をとって、文永の役という。文永は年号です。朝鮮半島が拠点です。逆に日本が朝鮮半島に出兵する時には、どこを根拠地にするか。唐津です。これが豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に築いた肥前名護屋城です。
朝鮮から来るときには、釜山あたりから来る。逆に、日本から行くときには肥前名護屋です。唐津というのは、中国の唐を指しているように見えるけれども、カラというのは、中国ではないです。大和政権ができる前の朝鮮半島南端の地域を、加羅(カラ)と呼んでいた。カラ津とは何か。このカラに行く港なんです。朝鮮半島南端のカラ地方です。そこに行くカラ津です。
この戦いの時、日本人は礼儀正しく、名前を名乗って戦うんです。やあやあ我こそは、聞いたことないですか。あれがイクサのは作法です。自分の家柄、オヤジや爺さん、先祖代々並べ立て、うちはこういう家柄だ、と。何でそんなことをするかというと、相手が釣り合うかどうか見定めるためです。それでお互い名前を名乗り合って、相手にとって不足はない、じゃやりましょう、となる。これは集団戦法じゃない。サシでやろうということです。これが一騎打ちです。
こういうことは、言ったらいけないけど、私たちのころの喧嘩の作法は、たしかに一方では一人に対して大勢で取り囲んだりしていたけれども、それは非常に卑怯な不良グループがやることで、ホントの喧嘩はサシでやるものだ、という雰囲気があった。喧嘩しろということじゃないよ。ここではそういう一騎打ちだということです。お互い一騎打ちをやる。あとの者は介入したらいけないのがイクサの作法だったんです。

しかし、やーやーわれこそは、と言ったら、急に20人ぐらいに取り囲まれて、名乗りが終わらないうちに、ブスッとやるんです。向こうは集団戦法なんです。ぜんぜん戦い方が違うんです。しかも一騎打ちで馬だった。騎馬武者同士戦う場合、ふつうの日本人同士なら、馬と戦っているわけじゃないから、相手の馬は傷付けないという作法があったんです。けっこう昔の戦い方は礼儀正しいのです。
でも元軍は何をするか、馬を驚かすんです。火薬を投げて、バーンと。てつはうといって、鉄砲じゃないけれども、いわゆる爆竹です。火器です。こういったことで、ぜんぜん戦い方が違う。それで明日は全滅かな、と思っていたら、次の日、暴風雨で相手が消えていた。この暴風雨が何なのかはよく分かりません。この時は旧暦の10月ですから、今の11月ぐらいで台風のシーズンではありません。


【弘安の役】 しかし、これで終わりじゃない。2回目がいつやってくるか分からない。それで福岡の今津の浜の海岸線に、今度は堤防を築く。また7年後の1281年7月、2回目がやってくるわけです。これを弘安の役といいます。
今度は、北の朝鮮と南の中国の江南から二手に分かれてやってくる。もう絶対絶命です。しかしこれもまた暴風雨によって救われた。暴風雨といわれますが、この時は旧暦の7月で今の8月ぐらいにあたりますから台風が来てもおかしくはありません。しかしこれが一体何なのか、今でもよくわかりません。

私が一度、玄界灘で船釣りして、ビールを飲んだら船酔いして、ゲロを上げ続けた話をしましたが、玄関灘は揺れるんです。荒海なんです。モンゴル人は陸でしょう。あまり船の知識がなかったんじゃないか、と言われる。いろんな話がある。でも偶然にしては、あまりにも偶然が過ぎている。
この元寇防塁は、今津の浜や博多湾岸には、今でもこの時の石がゴロゴロ残ってます。

ただこのあと日本で一つの宗教思想がでてくる。これは神風が吹いた、と。神風というのはここからです。

これがまた800年後の太平洋戦争の時に、100%生還の見込みのない作戦の名前になる。神風特攻隊です。ふつうは、ガソリンを片道分積んで出撃しないです。絶対返って来れない。ふつう戦争というのは、100%死ぬ戦争はしたらいけないし、またしないです。日本軍はこの時100%死ぬ作戦をやったんです。こんなことは日本の歴史上ないんですよ。特攻隊は100%死ぬでしょう。なぜこんなことをせざるを得なかったのか、今でもよく分からない。

このように後々まで日本に影響を与える神風思想ですが、ここではそれが日本の思想にまで影響を与えます。これは神風であって、仏風ではないんですね。つまり仏様よりも、神様の人気が高まっていく。そして反本地垂迹説も現れてきて、本物は誰だといったときに、今までは仏様だったのが、日本の神様こそが本物だということにもなっていきます。そしてこの神風思想は天皇の権威の高揚とも結びついていきます。
では天皇はこの元寇のとき何をしていたか。一生懸命、祈祷をしていたんです。政治というのは、もともと「政りごと」で神様をまつることですから、そんなに変なことではありません。軍事面は将軍が受けもち、宗教面は天皇が受けもったという構造です。その天皇の祈祷が受け入れられて、神風が吹いたと考える人もいたはずです。


【得宗専制政治】 元寇後、北条氏の力は弱まりそうですが、それ以上に弱体化していくのが北条氏以外の御家人たちであって、彼らの没落に比べれば、逆に北条氏の力は相対的に強くなっていきます。
そんな中で力をもちだすのが、北条氏一族の惣領です。北条氏の惣領のことを、とくに得宗といいます。得宗が力を持ち出すと、その得宗の家来も力を持ち出します。彼ら得宗の家来のことを御内人と言います。御内人は、得宗という将軍の家来の、そのまた家来ですから、将軍直属の家来である御家人よりもワンランク下の武士です。ところが彼らが御家人をしのぐほどの力をもつようになります。
得宗を中心に北条氏一族が集まって、鎌倉幕府全体のことを決めていくようになります。この段階になると、平安貴族のような母系社会ではなく、惣領を中心とした父系制の強い家とその一族が成立しているように見えます。このあたりの女性の立場の変化はよく分かりません。しかし嫁の扱いはまだ夫婦別姓です。

これは北条氏一族として父系血縁組織の結束が強まった反面、他の御家人から見れば、北条氏への反発を強めていく結果にもなります。



【元寇後の社会】
【御家人の窮乏】
 今度は社会経済です。この鎌倉時代は、日本で初めてお金が流通し始めた時代です。お金はそれまでもつくっていたけれども、奈良時代からつくったお金は流通しなかった。ではいつ日本人は、お金の便利さに気づいていくかというと、この鎌倉時代からです。

貨幣経済が発達する。お金については、政治経済で、さんざんやりましたが、結局よく分からなかったですね。これがわかったら、本当にノーベル賞ものだと思うんだけれども、お金の秘密が分かっている人は、たぶん世界に誰もいないと思う。私にも分かりません。しかしお金は非常に難しいということは分かってください。これを理解すれば、すぐ億万長者になれる。お金の理屈がわかれば。そして自分がそのお金を動かせる職に就けば。

このときの日本では、お金をつくってないんだけど、このお金はどこのお金なんですか。中国銭です。誰が輸入しはじめたか。これが平氏政権です。平清盛がやり始めたんです。平氏は、源氏によって、壇ノ浦でつぶれたけれども、平氏がやった功績の貨幣経済を、鎌倉幕府が受け継いでいくということです。

ただこれがうまく行き始めても結局、元寇で戦った。どうにか神風が吹いて追い払ったんだけれども、べつに日本が勝ったわけじゃない。戦いの原則はどうだったか。オレに加勢してくれ、おつかれさんでは、帰っていいぞ、ではすまなかった。命をかけたんだから。逆に、いざ鎌倉、というときに、腹が痛いとか、頭が痛いと言えば、もうおまえ来なくていい。俺の前に、顔をみせるな、という世界だった。
でも馳せ参じて勝った以上は、何をしないといけないか。褒美を取らせることです。しかし褒美、これは敵の領地を取り上げて、部下に与えることだったんです。では日本は元から何か得たのかというと、何も得てないんです。

御家人たちは、元寇の負担に耐えかね、さらに期待していた恩賞ももらえず、貧窮化していきます。恩賞というのは、具体的には土地です。それで戦さにお金はかかった。家来たちは、褒美ももらえずに、どんどん貧乏になっていく。貨幣経済が発達していくから、借金していくんです。借金して返せるかというと、返せないわけです。そんな時、今でも銀行からお金を借りようとすれば、信用貸しなんかしないですよ。銀行はちゃんと、家とか土地とかを担保に取るんです。これは昔からそうです。金を貸すとはそういったことです。金を貸したリスクは、返済できない人間がいことです。返せなかったら、あなたも気の毒だから借金返さなくていいよ、と言うのか。絶対そんなことは言いません。返せないことをある程度予想して貸すんです。そして返せなかったときのために、担保を取るんです。自分が損しないように。これが土地です。今だったらマイホームの家と土地です。
そうなると、返せないときには、担保に入れた土地を失うことになる。担保というのは分かりやすくいうと質です。それが質流れになって、自分の手から失われていきます。それでますます武士たちは貧困化していく。

これじゃいかんということで、幕府は1297年に、永仁の徳政令を出す。漢字の意味からいうと、徳政とは徳のある政治という意味です。
内容はどういうことかというと、貧乏になった御家人は、人に売った土地でも、生活に困ったら取り返していい、という。これどうですか。これがこの時代の所有の観念です。人にやろうが、売ろうが、元の持ち主が困っていたら、ちゃんと取り返すことができるのが持ち主の所有権なんです。今とぜんぜん違うね。

ただこれは御家人救済策であり、農民救済策ではありません。幕府はあくまでも家来である御家人の貧困化を救済しようとしたのであり、農民の救済を目的としたのではありません。このことは農民を見下していたというより、このことが幕府の管轄する責任の範囲だったということです。

今は法律的には買った以上は自分のものでしょ。これが通用しない。しかしこのときには法律的に、もとの持ち主に返還しなければならない。こういうことが、執権の北条貞時によって定められた。これが元寇後の1297年です。
ただこれには、何年以上前のものだったら、こんなことはできない、という規定があるんです。それが20年です。20年以上前に手放した土地はもうダメです。これ実は現在でも日本の法律に生きている。法律用語でいうと、これを何というか。時効です。
いま逆の方向で、私が例えば、腕時計をA君に貸して、20年間貸したまま、一度も返せといわなかったとします。本来は、その時計は私のもので、貸していただけだから、A君は私に返さないといけない。しかし20年過ぎたら、時計はA君のものになる。だから甘い顔していたら、とられてしまう。返せ、返せとずっと言っておかないといけない。
時効というのは、こうやって現在も受け継がれている、とこういうことです。このように、この時代の所有の観念は、もともとの持ち主というのは、そう簡単にもっていたモノと縁を切れないんです。

しかし、これが国に及ぶと、かえって混乱して、経済がうまく回らなくなった。やっぱり没落していく御家人は貧乏になって、彼らは武力を持っているから、最終的には刀、弓、馬、手下を従えて、地域を荒らし回るようになる。彼らを悪党といいます。これが奈良や京都にいっぱい出てくる。御家人が没落して、悪党が発生していく、ということです。
こうなるとだいたい政権は行き詰まって、崩壊していく。



【社会と経済】
【二毛作】
 崩壊の前に、もうちょっと社会を見て行くと、鎌倉時代は、平安時代と比べて、どういう違いが起こったか。まず米作りだけだったのが、二毛作が始まった。地方は今でも二毛作を受け継いでいます。二毛作というのは、何と何か。1年間のうち、同じ一枚の田んぼで、米と、裏作に何をつくるか。冬場は。大豆ですか。玉ねぎですか。麦ですよね。麦を裏作としていく。麦はパンになるんだけれど、日本ではうどんになるんです。

それから、牛馬耕です。トラクターの前は、農家は、ふつう牛や馬を飼っていた、というのも、君たちに思い出せというのは無理だと思う。我々がぎりぎり知ってる世代ですよ。トラクターのないころは、馬を飼ってそれに引かせる。この馬を大事にするんです。耕耘機の代わりだから。飼育も大変です。子供の仕事上です。小学生の仕事です。馬の草やりと風呂焚きは。


【肥料】 それから肥料も出てきた。刈敷という。草の根をつかないようにして、葉っぱを腐らせる。これは有機肥料ですよ。それから草木灰です。草木を焼いて灰にする。灰を畑に振っているのを、君たちも、これは見たことなかろうね。肥料ばっかりで。灰はアルカリです。植物の天敵は酸性土壌です。酸をアルカリで中和する。すると良い土地になる。

これが次の時代なると、下肥(しもごえ)というのがが出てくる。下肥と聞いてわかる人いますか。下水道トイレが水洗になる前は、ぽっちゃん式だったです。あれはお金で売れたんですよ。いい肥料です。そこまでやる。日本人はそこに抵抗感がないです。他の国は下肥まではあんまり使ってない。少なくとも、豚のウンコぐらいまでです。家畜のうんこは使う。しかし人間のうんこまで使ったのは、日本ぐらいです。
お金になっていた。だいたい私が中学校の時に、うちの便所が満杯で汲み取り屋さん、300円ぐらいで売れていた。コッソリもらって、自分の小遣いにしていました。


このような農作業のことを武士とは関係のない地方の農民のことだと考えたらダメですよ。こういうことをやっているのは、地方の開発領主なのです。彼らが武士になるのです。つまり地方に住む武士たちが、弓や刀の稽古をする一方で、肥だめのウンコを汲んだり、それを畑に撒いたりしているのです。農業の主体は武士なのです。そしてこのような勤勉性が、農業生産力を上げていくのです。


【商品作物】 次は商品作物です。米は自分が食うためです。または年貢として納めるためです。商品作物というのは、花をいっぱいつくって、それを売って現金収入を得る。こういう農業の形はここからですね。
その代表的なものが荏胡麻(えごま)という。ゴマは油です。ゴマの油。油は、炒め物か、料理か、とんでもない。家の明かりです。蛍光灯がない。電球がない。夜の明かりを灯せる家というのは、今でいえば、自分の家を全自動電化にしている家と同じで、お金持ちなんです。あの家、夜に明かりがついているぞ、と評判になる。灯油は、それくらい高く売れるんです。
それから、楮(こうぞ)、これは紙です。和紙の原料です。今使っている紙は、パルプでもとは木材ですけれども、和紙があったということがこの時代の文化水準の高さなんです。紙があって文字が書けるんです。行政文書が書けるし、契約証書も書けるんです。ヨーロッパにはまだありません。


【手工業】 それから、職人の自立としては、鍋商人が発生する。鍋ぐらい、どうでもいいじゃないかと思うかもしれないけど、鍋がないと味噌汁一杯できないでしょ。土器はあるけど、割れる。そういう鍋をつくる人を鋳物師(いもじ)という。それから鉄を扱う人は鍛冶(かじ)です。こういう人たちが、旅の職人としてうろつき回っている。まだ商人は定住化してない。商人、職人というのは、基本は物売りです。


【宋銭】 こういう商業を発達させていく貨幣は中国の宋銭です。中国の宋からの輸入銭であった。なぜ中国は自分の国のお金を日本に売るのか。中国の宋は、交子という紙幣を発行しているからです。その点は、今の銀行券と同じですけど、銀行券と違うのは、国が管理していることです。しかし、これもクセがつくと、発行しすぎてしまう。財政難の時に発行しすぎて、国を滅ぼすことにもなる。この宋銭の取り引きが日宋貿易であった。平清盛から鎌倉時代も続く。

日本が欲しいものは、中国のお金です。この時代、日本は金が出ます。奥州藤原氏の中尊寺金色堂には、一面に金を吹いたりしている。金との交換だから、中国にとっても悪い話ではない。こうやってお金が流通すると、物々交換からお金に変わったものは税金です。領主に払う年貢が銭納になる。銭で払う。これも大八車で米を京都まで運ぶのに比べると、手間が省けたんだけれども、それでもこの時代には、山に行けば山賊がいて、船で海を行けば海賊がいて、金目のものを運ぶのは危険だらけです。


【為替】 そこで信用取引が発達する。地方の商人と京都の商人が、現金さえ運ばずに取り引きする。こういうのを為替の制度というんです。貸し借りの手形だけで済むんです。それを年間通して、ずっとプラス・マイナス計算して、年に一回決済するだけです。ほとんど現金は動かさない。この裏にあるのは人と人の信頼関係です。制度的な信頼関係です。この為替のために、手形だけで決済する。現金は運ばない。この手形を割符(さいふ)という。
お金を扱うと儲かる。だから金融業者が出てくる。これが借上です。かりあげと書いて、なぜかカシアゲという。これが鎌倉時代の金融業者です。


【三斎市】 こうやって商業が発達すると、定期市ができてくる。決まった日に市が開かれると聞いて、それを聞きつけると、20キロ、30キロ先からでも、売り買いにやってくる。これを、月3回開かれたから、三斎市(さんさいいち)という。福岡の三斎市の地名は二日市がある。その他、三日市、四日市、五日市、八日市、十日市、全国にいっぱいあります。これは月3回なんです。二日市、これでは毎月二日に開かれると思う人がいる。もうちょっと考えないといけない。月3回だから、二日市は、何日と何日と何日に開かれますか。二日市とは、二のつく日です。2日、12日、22日、32日、42日とか、こういった人がいる。そんな日はない。32日、ないでしょう。42日、ないでしょう。月3回です。これで二日市です。五日市も同じ。八日市も同じです。説明が必要ですか。もう要りませんね。

これで三斎市の三は分かった。問題は次なんですよ。三斎市の斎とは何か。市の時には、近くには神社があって、そこに神に捧げる儀式がまずあるんです。斎とは祀って、きよめることです。

これが所有権と関係するんです。何でかというと、物と人とは結びついているから、この関係を断ち切るのは、人間技ではできない。神様しかできないんです。だからいったん神に捧げることによって、物と人との関係を一度断ち切ってもらうんです。
へぇ、馬鹿な事するなあ、と思いますか。じゃあ、ある中古車で50万、これが相場とする。ほとんど走ってないのに、極端に安くて10万円の中古車があった。どう、これ買う? ふつうは何かいわれのある事故車ですね。イヤ買って良いんですよ。しかし私は買えなかった。買えなかった理由は、事故車というのか恐かったから。でも事故車だから事故が起こるかというと、それはほとんどの場合、車そのものに欠陥はなくて、運転していた人のミスです。運転者が変われば、問題はないはずです。だから安い方が良いはずですけど、買えなかった。これ理屈が合わないでしょ。でもこの感覚は今でも私には残っているんです。
モノと人との関係は、前の持ち主の魂か何かがモノに乗りうつっていて、気持ち悪いという感覚は分かりませんか。これ何となくあるんですよ。だからこれは合理的じゃないけど、私は安い車を見ても、極端に安い車というのは、なぜか買えなかったんです。それは買える人は買って良いから、別に私の言うことは気にせずにどんどん買ってください。まあそういう今でも生きている感覚だということを言いたいのです。亡くなった親の形見分けにしてもそうですね。亡くなった父の形見の腕時計をしていると、何か安心する。

モノを売り買いする場合には、まず神様によって、そういうモノと人との関係を断ち切ってもらうんです。これが三斎の斎です。だからこういうのがあって、モノと人のつながりが切れてないから、20年よりも近くで売ったのは、ちゃんと持ち主に返せと、幕府も徳政令を命令できるんです。
権力が強かったから、できることじゃない。これは権力の問題じゃない。この時代の、一つの心のあり方の問題なんです。徳政令というのは。


【見世棚】 常設店、これを見世棚という。全国をうろつき回っていた行商人が、物の売れそうなところの市に行って、ここは人通りが多いから、ここに店建ててしまおう。そして商売しはじめる。
店というのは、見せるところです。中国では「店」と書くけど、日本では見せるところです。見世棚といいます。お店のメインは何かというと、今も昔もショーウインドウです。
あれでバシッと、人を引きつけないといけない。引きつけた以上は、そのレベルに商品を上げておかないといけない。落差が大きいと、えらく良い物を見せて、ぜんぜん良くないものを売ったら、そんな店は二度と行かない。落差はないようにしておかないといけない。
しかしこれができたのは、まだ全国じゃないです。まず第一の都の京都。鎌倉時代の三大都市は、どこだと思いますか。
まず言っておきます。この時代は、江戸はない。大坂もないです。熊本城だってないです。京都、奈良、鎌倉です。これが三大都市です。
これに、今までの日本史をやって来た時間が集約されている。平城京、平安京、鎌倉幕府です。


【運送業】 あと、遠隔地商業です。港に発生する運送業者が、問丸という。物は今のようにトラックに乗せて運ばない。船です。
陸上は近いところのみです。それは馬の背に乗せて運ぶ。これを馬借と書いて、ばしゃく、という。これが発達するのは関東じゃない。京都の近く、琵琶湖のほとりです。琵琶湖と京都は隣同士です。近江坂本というところです。
これで終わります。

授業でいえない日本史 12話 中世 鎌倉仏教~鎌倉幕府の滅亡

2020-08-07 06:00:00 | 旧日本史2 中世
【鎌倉仏教】
今、鎌倉時代です。幕府のことを言って、次に社会経済のことを言って、今度は、仏教、宗教、文化です。


仏教はもともと日本の宗教じゃない。外来の宗教です。でも中国の宗教ではない。お釈迦様は何人ですか。インド人ですね。それが日本に伝わってきたときは、ハイカラ宗教で、特権階級の宗教だった。それがいつ、我々のような庶民の宗教になっていったか。じわじわ上から下に降りてきてはいたんだけれども、この時代までは日本人はほとんど仏教徒じゃないんです。貴族しか仏教を知らない。それが広まるのは、この鎌倉時代です。
なぜ広まっていくか。平安時代の末から末法思想というのが出てきた。これは近代の進歩の思想の逆です。世の中だんだん良くなるというのは進歩の思想ですが、その逆、世の中はだんだん悪くなるという考え方です。歴史上では、近代思想のように、世の中が単純に良くなると考えることのほうが、むしろ珍しいですね。今年よりも十年後のほうがもっと進んでいるという信仰を抱いているほうが少ないです。
この末法思想が流行っていた。それは貴族の世が崩壊して、荒々しい武士の時代になっていく社会変化も手伝って、社会不安が増大していくわけです。
世の中で不安が大きくなると宗教が流行るというのは、これは古今東西、どの国にも見られることです。そういう国のなかに、人々を救っていこうという有能な宗教家が出てくることがあります。日本にも出てくるんです。


【開祖】 この鎌倉時代の百数十年、決して江戸時代に比べれば長くない時代に、そういう宗教の開祖が6人も出てくる。前期、中期、後期でそれぞれ2人ずつ。
前期はちょうど戦争があっている最中です。源平合戦です。まず法然です。次が栄西です。
また何十年かたって中期になると、次の不安のピークが出て来る。これが天皇と将軍が戦ったという承久の乱のころです。そのころ出て来るのが、親鸞です。有名な人ですね。この人だけ、ちょっと言っとこう。仏教にはいろんな宗派がある。檀家数が一番多いのは何宗ですか。浄土真宗です。その浄土真宗を開いた人、これが親鸞です。もう一人が道元です。
それから後期になると、これは元寇の頃です。モンゴルが攻めてくる。このころ現れるのが日蓮です。それと一遍です。
こういう6人がもともと若い頃、学んでいた宗派は何かというと、これは奇妙に一致する。京都の裏山である比叡山、その山の上に本山を構えた宗派、天台宗です。


【易行】 ここで彼らの疑問は何であったか。救われるためには、毎年毎年100万、200万をお寺に寄付しなければならない。または、自分でお寺を建てなければならない。でも、それができるのは金持ちだけです。普通の人間は、100万も200万もお金をもたない。庶民にはそういうことできない。では救われなくていいのか。貴族だけ救われて、庶民はのたれ死にしていいのか。それはおかしいんじゃないか、と。
彼らが疑問を持ったのは、共通して庶民の救済のことです。町人、百姓の救済です。貴族ではない人々の救済です。
それまでは仏教で、仏に救われるためには、仏の教えを何百冊も読まないといけなかった。お経を呼んで、教えを理解して、頭で考えてなければならない。でも、そんなこと要らない、もっと簡単にできる、と彼らは考えた。これが易行(いぎょう)ですね。易しい行いのことです。誰にでも実行できるようなものです。この結論を言います。人は何で救われるか。一言唱えるだけでよい。これが、南無阿弥陀仏です。これだけで救われる。これが念仏です。こういうことを、まず法然がいう。次の親鸞になると、言わなくてすらいい。心で唱えるだけでいい。そこまで徹底してくる。
それからもう一つは、選択(せんちゃく)という。現代では選択(せんたく)と読むけど、仏教用語では選択(せんちゃく)です。意味は選択と同じです。国語も、社会も、数学も、みんなしないと救われないのが、今までの仏教だったんです。でも選択授業があると、日本史だけ選択しておけば救われる。一教科でいいわけです。
この二つ、易行と選択です。簡単に、南無阿弥陀仏だけでいい。それから一冊でいい。1番流布しているのは般若心経ですね。仏教のお経が、何万冊もあるなかで。
そこらへんが、平安時代の造寺造仏といって、お寺をつくって仏を奉納しないと救われない、とは違うし、兼学といって、何でも国語、社会、数学、ぜんぶしないと救われない、これでもない。
それぞれ何という宗派を開いたか。これは現在の宗派として続いています。


【法然】 最初、法然浄土宗を開いた。この考え方は、自分で開くぞ、といって開くのではないんすよ。この人はただ自分の考えを言っただけです。しかしそれが面白いと、テレビ番組で人気が上がって、視聴率が上がるように、みんなが、教えてください、話を聞かせてください、と来るんです。そして信者になる。そのうちに、自分は普通のことを言ってるつもりなんだけれども、聞いた人たちが、これは今までと何か違う。これは今までの教えと違う、と言って、これは別の教えだということになって、独立した宗派になる。普通はそうなんです。自分から、オレが開祖だ、というのはちょっとあぶないですね。これが浄土宗てす。京都の知恩院というというお寺が本拠地になる。


【親鸞】 その弟子が親鸞です。彼は浄土真宗を開きます。いま日本では最大の檀家数を持ちます。俗に浄土真宗は浄土をカットしてたんに真宗ということも多い。この本拠となったお寺は本願寺です。今はまたこれが2つに分裂して、京都に道をはさんで隣同士で、西本願寺と東本願寺に分かれていまが、これはのちのことです。
親鸞がここで説いた有名な教えが悪人正機説です。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉で始まるけれども、現代語訳すると、善人でさえ救われるのだから、悪人が救われないわけがないじゃないか、という意味です。
普通とは逆です。善人が救われるけれども、悪人は救われない、と考えるのが普通ですけれども、親鸞はそうじゃない。善人でさえ救われるんだから、悪人が救われないわけはない、という。仏が一番救いたいのは、オレはダメだと、うちひしがれているような人たちを真っ先に救うんだ、と言う。オレは貴族だ、絶対天国に行けるんだ、そういう人こそ救われないんだ、と親鸞はいうのです。これを悪人正機説といいます。

日本の仏教は北伝仏教または大乗仏教といって、伝わった初めからそういう教えがあります。自分の心の悟りを求めて始まった仏教ですが、自分だけ救われて何になるんだ、自分が救われるんだったら他の人も救われなければ意味がない、という教えが、インドから北に伝わって、中国、朝鮮、日本と伝来するわけです。親鸞はそのことをつきつめた人です。


【一遍】 それから次は一遍。これは時宗といって、現在では少ないですね。踊り念仏という。踊りを取り入れた宗教です。イスラーム教にも踊りはあります。スーフィズムといって。踊りながら恍惚の宗教的体験をしていく。この踊り念仏は昔の御霊信仰と合体して、盆踊りのルーツの1つになります。
盆踊りのルーツにはこういった宗教的踊りがある。現代でも宗派によって、お葬式のときに、今はもう高齢のお婆さんたちの踊りになっていますけど、5~6人ばかりで踊って葬式を弔うという風習のところもありますね。私も何回か見たことがあります。


【栄西】 それから、栄西、この人はエリートなんです。ということは、さっき言った3人は非エリートです。もとエリートですけど大学中退組です。比叡山の延暦寺というと今の東京大学みたいなものですけれども、そこに入って勉強しているうちに、これはつまらん、こんなことを勉強するためにオレはここにきたんじゃない。オレは、山を降りて、町の中で教えを説くんだ、と言った人たちです。
しかしこの栄西はエリートです。中国に留学して新しい中国の仏教を持ち帰ってくる。これが禅宗です。この近くにも禅宗のお寺はあります。
禅宗のルーツ、これがダルマさんです。ダルマがインドから禅宗を中国に運んだ。それを栄西が日本に伝える。これを臨済宗といいます。
私はある研修会で、臨済宗の寺院に泊まったことがあるけど、これは、つべこべ言うな、黙って座れ、目を閉じろ、という感じです。理屈じゃない。ただ分かるまで座れ、という感じです。坐禅です。考案という謎かけ問答もあるけれども、有名なのはこの座禅です。
何時間も座禅していると、肩から背中にかけて、まるで針金の筋でも入ったように固くなってそのうち痛くて痛くてたまらなくなる。そこで、雲水さんという棒をもったお坊さんから、バシッと背中を叩かれたら、ものすごく気持ちいいんです。あれは気持ちいいんですよ。黙って座れ、動くなといわれるのが一番辛いんです。少しでも動かして、頭を下げるだけでも、気持ちいいんです。その上で、あの棒みたいなもので、ばしーっと叩かれると、もう恍惚の境地です。もっともっといつまでも叩いてください、という感じです。こういう倒錯と恍惚の境地に入る。だから素人が、なめてかかってこれをやると精神を病む場合もあるとか。非常に厳しいものです。これが座禅です。


【道元】 道元になると、もっと徹底して、只管打坐(しかんたざ)という座るだけ。本当はこれです。黙って、ただただ座る。そして打たれる。ただ座って、打たれて、座る。これは曹洞宗です。
確かに坐禅は厳しいものですが、貴族だけしかできない造寺造仏に比べたら、坐ることは誰でもできます。誰にでもできること、これが易行です。


【日蓮】 最後に、元寇の頃に出てきたのが、日蓮です。これをそのまま名前をとって、日蓮宗という。これも基本は、口で唱えるだけでいい。ただ唱える文言が違います。
念仏は、南無阿弥陀仏です。日蓮宗は、南無妙法蓮華経です。これは念仏ではなくて、題目といいます。
この日蓮宗がらみの政治団体が、これがいわゆる創価学会です。この創価学会を母体にしている政党が、公明党です。今の政権与党です。

南無というのは、これはインド語です。インド語を中国文字の漢字で表した。頼むとか、おすがりするとかいう意味です。その対象は、念仏は阿弥陀仏を信仰する。日蓮宗の題目は妙法蓮華経というお経を信仰する。そういう意味です。
南無阿弥陀仏は念仏、南無妙法蓮華経は題目、これが易行ですよ。誰でも易しくやれる。本気でいっぺん唱えれば、その瞬間にあなたは救われる、という教えです。

ここで共通するのは、庶民がどうすれば救われるか、です。つまりすべての人がどうすれば救われるか、そのことを考え続けたのです。そのための易行です。
日本では、自分だけが救われることに、大した意味はありません。広く社会を救ってこそ価値があるのです。
こののち300年後にキリスト教の宣教師たちが来たとき、お手上げだったのはこのことです。キリスト教では、異教徒はすべて地獄に落ちることになっています。日本人はこういったと言います。
「あなたのいうことは分かる。でも、そうなるとオレたちのご先祖様は全部地獄に落ちたことになる。ご先祖様を地獄に落として、自分だけ救われて、それが一体なんになるのか」と。
宣教師たちは何も答えられなかったといいます。
個人の救済を目的とするキリスト教と、日本人が求める救いとの溝は、思いのほか深いのです。救済とは自分を越えたところにあるのですから。それをいくら自分の中に探しても見つかりません。救いとは何かが、根っこから違うのです。

日本人にとって、祖先の御魂は生きています。今もお盆には、迎え提灯をして祖先の霊を迎え、お盆が終わると精霊流しをして送り出します。そのような日本人にとって、祖先の霊を地獄に落とすなど考えられないことなのです。
そんなことをすれば逆にどんな祟りがあるか分かりません。
鎌倉仏教が日本人に受け入れられた理由はここにあります。鎌倉仏教はこのような日本人の考え方を認めていきます。そこにはインドで発生した仏教とは大きな隔たりがあります。インドの仏教は、人が死ねば完全に無になることを目指します。しかし鎌倉仏教は霊魂がこの世に生きつづけることを良しとしました。鎌倉仏教の功績は実はここにあります。

日本では、社会の利益を私(わたくし)することは非常に嫌われます。それは政治に関しても共通することです。
社会全体の利益を考えること、国家全体の利益を考えること、このことと古代天皇制が目指した公地公民制は、どこか似かよっています。このことを越える理念が生まれてこなかったといってもいいでしょう。天皇の血筋が近づきがたいと考えられたことも、このこととどこかで関係しているように思います。


【伊勢神道】 元寇の二度の暴風雨が神風とされ、その後、天皇家の皇祖神をまつる伊勢神宮では、度会家行が伊勢神道を始めます。反本地垂迹説を唱えて、それまで仏を本地(本物)だとしていたものが、日本の神様こそが本地だとされます。このことも天皇を中心とする国家意識を高揚させます。
天皇を中心とする公的な考え方は、庶民全体の救済意識、あるいは国家全体の救済意識と、どこかで結びつきながら、日本人の意識の底流を支えるものとして流れ続けていくように感じます。天皇の権威は、こうやって維持されたようです。

「世のため、人のため」というのは、それが回りまわって、「自分のため」にもなるという考え方です。最初から「自分を出す」ことは、流行らないのです。「いやーね、あの人」という感じです。



【鎌倉文化】
【徒然草】
 ではこの時代の文化、鎌倉末期の代表的な随筆、随筆は英語でいうとエッセイです。
吉田兼好徒然草です。いわゆる世捨て人です。何でこれで、つれづれと読むのか、これを音読みすると「とぜん」です。
九州のある地域でほんの十数年前まで高校生に通じた方言に、「とぜんなか」というのがあった。「とぜんなか」というのは、この「つれづれ」の意味なんです。手持ち無沙汰で、日曜日に何もすることがないなあ、家には誰もいなくて、自分一人で家でボケッとしているときに、「とぜんなかー」という。
「とぜんなか」ときに手のすさびに書きましたと、謙遜して言うんですね。俺の言うことを聞け、すごいことを言ってやるから、とか、そう言う人に限って大したことは言わないものです。手のすさびに、暇だったから、ちょっと書きました、と。
でも、内容は素晴らしいです。サラサラと大事なことをさも大したことではないように書いている。私のように、力を込め力んで言ったりはしない。大事なことは、サッサッサッと言って、何も気づかなかったら、それでもいいです、気にしないから、というふうな感じで、サラサラッと世の中のポイントを書いている。「つれづれ」に書いただけですよ、と。いいですね、こんな書き方。
でも底流にあるのは、感情の抑制と、自分を捨てた諦観です。


なぜか知らないけど、日本語では自分で自分を大きく見せると、途端につまらない人間になってしまうんです。一人称の「私」にはあまり良い意味はないです。へりくだった言い方です。男の一人称「僕」も家僕の僕です。今はあまり使わないけど、「小生」という言い方もあります。武士のつかう「拙者」もへりくだった言い方です。すでにそういう敬語体系が日本にはあります。すでにどころか、平安時代の源氏物語には、すでに今と同じ敬語体系が発達しています。自己主張を嫌う言い方は、非常に古くから日本に定着しています。尊敬語、謙譲語、丁寧語と昔ならった気がしますが、日本語の敬語の基本は、相手が上だということです。
このようなことも、鎌倉仏教が目指した庶民の救済と、関係しているように思います。


【金剛力士像】 美術としては、東大寺、これは奈良時代の建築物なんだけれども、平氏が焼いた。これを再建したのが源氏です。その南大門も焼けたから再建した。だから南大門は鎌倉様式なんです。この様式を大仏様という。
このために尽力したお坊さんが、重源という人です。それを支援したのが源氏将軍家です。
平氏は南都に火をかけて焼いた。南都というのは、京都から見て南にある都、つまり奈良のことです。むかしの平城京のことです。
代表的な彫刻として、仁王像二つ、これが金剛力士像です。同じ名前のものが、多くお寺にあります。力士とは、相撲取りではないです。邪気を防いでいる。お寺に変な魔物が入ってこないように。だから力を込めている。だから、こんなカッコウをしている。はいらせないぞ、と言っているのです。これをつくった彫刻家、この時代は仏師といいますが、運慶快慶です。



【朝廷の内紛】
鎌倉時代、幕府も滅亡に近づきます。鎌倉時代には、天皇家がちゃんといる。ただその天皇家が内輪もめしだします。天皇家の荘園の財産争いが絡んで。天皇の血筋二つが対立していく。その二つの派閥の一つを大覚寺統、それからもう一つを持明院統という。天皇家同士が、次の天皇は、どっちから出すかでもめて、そのたびに喧嘩しないといけなくなる。


【文保の和談】 これを見ていたのが、天皇から見るとその家来である鎌倉将軍です。将軍は飾りですから、実権は北条氏です。北条政子の実家です。天皇さん方、親戚同士でみっともないじゃないですか。手を打ちなさいよと、斡旋する。1317年です。1300年代に入ります。年号をとって、これを文保の和談という。どういう提案かというと、次の天皇を誰にするかで、しょっちゅう揉めるんだったら、交代交代にしたらいいじゃないの、という。これを両統迭立といいます。


【後醍醐天皇】 1回交代で天皇になるということです。そうしましょう、ということにまとまって、次の年の1318年に天皇になったのが、後醍醐天皇です。この人は大覚寺統から立った天皇です。
後醍醐天皇は何をしたかというと、これまでの天皇は、政治のことは部下に任せていたけれども、オレは直接自分で政治をやるという。天皇が直接、政治の実務を執ることを、天皇親政といいます。
家来に任せず、直接自分で政務を執る。そのための事務所として、記録所を復活する。そして今までの人選のルールを破って、下級貴族でも能力があれば、上層に登用する。これが北畠親房です。

もともと昔は幕府はなかった。日本全国、関東でも、幕府の実権はなかった。日本全体をまとめていたのは天皇家だった。もう幕府を倒そうじゃないか、ということになる。それで統幕計画をたてる。そんなことしたらまた負けますよ。そういう人もいたんだけれど、彼がこういう幕府を倒そうという理論を正当化した学問が、儒学のなかでこのころ流行っていた中国の学問で、朱子学といいます。朱子学を一言でいうと、上の命令を下の人間が聞くのは正しいことだ。一番簡単にいうとこれです。では今の日本は、どうなってるか。
後醍醐天皇がどうやって天皇になったか。幕府が天皇に、争いをやめて、一回交代で天皇になったらいいじゃないかと、下が上に命令しているんです。これはおかしいじゃないか。下が上に命令しているじゃないか。これが後醍醐天皇のいい分です。

さっそく1324年に密談を凝らして、幕府倒幕の計画を練る。しかしそれが発覚する。正中の変という。これも年号です。しかし幕府もバカじゃない。こういった時のために何を置いていたか。第2の幕府ともいうべき、六波羅探題を京に置いて目を光らせていたんです。朝廷がまた変なことをしないかと。この時には、後醍醐天皇は、オレは関係ないと、言い逃れする。家来が島流しになる。
また7年後の1331年、もう一回やろうとなる。これを元弘の変という。これもやっぱり発覚する。幕府もバカじゃない。

この時代で忍者とかっていうのは、霧隠才蔵とかが霧の中に消えていったり、分身の術で1人の人間が10人に分身したり、そんなことはしない。そんなことはしないけど、忍者はいます。忍者というと分かりにくくなるけど、要はこの時代のスパイなんです。007なんです。これは多くの国家にいる。日本は忍者といって、かなり発達していた国です。手裏剣ぐらいは使うでしょう。スパイというのは、天井裏とか溝の中に隠れる。普通の侍のように長脇差しを持っていたら、狭いところは通れないから邪魔になる。だからそんなものは要らない。黒ずくめに身を包んで、身軽にしておく。手裏剣を100枚も持っていたら邪魔になる。せいぜい2~3枚です。これをピンチの時に投げたりする。そういった忍びの者たちはいる。水遁の術ぐらいは使うでしょう。堀があって、堀の向こうに石垣があっても橋がなければ、水面から突き出た細い竹がひゅうーっと動いていく。これは今のシュノーケルですよ。こうやって忍者が、水中を隠れて行っている。こういった人たちは、この時代はいっぱいいる。だから下手な動きをしていくと、忍びの者に見つかるわけです。

それで後醍醐天皇はついに、逃げとおすことができずに、隠岐の島に流しにされる。隠岐の島とはどこか。島根県の沖にあるから隠岐ノ島です。承久の乱で、後鳥羽上皇が流されたのもここでした。
それで天皇はもうクビになって、次の天皇は、幕府が決める。そして新しい天皇がたつ。これを光厳天皇といいます。注意しないといけないのは、後醍醐天皇は殺されてもいないし、やはりここでも天皇家が滅んだりもしていません。天皇家は存続していきます。


【護良親王の挙兵】 これに腹を立てて京都で挙兵したのが、後醍醐天皇の息子です。護良親王(もりよししんのう)という。鎌倉幕府もだいぶ落ち目で、その落ち目の幕府が天皇を島流しにした。地方武士たちは、どっちに味方するか。天皇方に着くか、幕府方につくか。そろそろ来るぞ、みんな身構えています。
みんな勝つほうにつきたい。どっちにつくかなと、にらみ合いが始まる。そういった時に護良親王方つまり天皇方に着いた土豪が楠木正成です。
昔の江戸城、今の皇居前の広場に、立派な銅像が立っているのは誰の銅像か。この楠木正成です。一貫して後醍醐天皇側に味方するから。しかしそんなにいい人物だったのか。このころ治安の悪化に伴って発生していた悪党の一味です。こういう人たちが天皇と結びついていくんです。


【全国的蜂起】 ここから全国的に反鎌倉幕府の動きが出てくる。九州では熊本勢の菊池氏、それと阿蘇氏です。これで内乱状態になっていく。
こういう内乱状態になって、全国的な反幕府の動きが起こるなかで、後醍醐天皇は1333年、こっそりと隠岐の島を脱出する。では、そうとも知らない鎌倉幕府はどうするか。


【幕府の滅亡】 鎌倉幕府の動きは、執権の北条氏は、まず誰を京都の鎮圧に向かわせたか。清和源氏の遠い親戚、これが栃木県にいるんです。
今でも足利市というのがある。そこを拠点とする御家人の足利尊氏を京都に向かわせる。京都がいま内乱状態になっている。おまえ鎮圧してこいと。ハイと言って、足利尊氏は鎌倉から京都に向かう。
そこまではいいです。京都についてどこを攻めるか。足利尊氏は、六波羅探題を攻めたんです。これは何かおかしいですよね。六波羅探題というのは幕府の役所です。幕府から反乱を鎮圧してこいといわれて京都についたら、六波羅探題を攻めたということは、幕府を裏切ったということです。六波羅探題は第二の幕府です。それを攻めたということです。足利尊氏は、幕府に背いた。寝返ったんです。この足利氏も清和源氏の流れで、血筋はいい。

それと同時に、足利の近くの新田荘(群馬県)に、同じ清和源氏の流れで新田義貞というのがいた。これも清和源氏の一族なんだけれども、彼も突然、兵をあげてどこを攻めたか。群馬県から神奈川県まで軍隊を率いて、鎌倉を総攻撃して、滅亡させた。
結局、鎌倉幕府は、仲間から謀反人が出て滅亡したのです。足利尊氏と新田義貞は、ともに鎌倉幕府の家来なんです。この家来から攻められて、1333年鎌倉幕府は滅亡します。

ここで戦ってないけれども、政権が転がり込んできたのが、島から逃げて脱出した後醍醐天皇です。そのまま次の武家政権にはなりません。京都で六波羅探題を攻めた足利尊氏もこの後醍醐天皇の配下になります。
これで終わります。

授業でいえない日本史 13話 中世 建武の新政~室町幕府の制度

2020-08-07 05:00:00 | 旧日本史2 中世
【建武の新政】
ここから非常に動きが細かいところにはいっていきます。

後醍醐天皇が京都に返り咲いて、オレは幕府なんか要らない、オレが昔のように日本をまとめて政治を行うんだ、という。年号を取って、これを建武の新政といいます。1334年からです。いったん幕府のない天皇による政治に戻ります。でもたった3年しか続きません。
まず後醍醐天皇がやったことは、摂政関白を廃止して、自分が直接命令を下す。こういう天皇直接の命令のことを綸旨(りんじ)という。その志はいいです。しかし、ぜんぶオレが目を通すといっても、書類を何百と毎日見ているうちに、仕事が追いつかない。だからふつうは3日で通っていた決済文書が、1週間も2週間もかかる。そういう事務の遅れがどんどん出てくる。


【新政の失敗】 そんな中で、後醍醐天皇の息子の護良親王と足利尊氏の仲が悪くなる。内部的にまとまらない。
そういうゴタゴタがあって、結局、武力を持っている足利尊氏が護良親王を、武士の本拠地である鎌倉に飛ばします。おまえは京都から追放だ、ということで。こうやって京都では足利尊氏中心に動き出す。

その間に、地方武士にも非常に不満が広がっている。武士に対して、褒美が少ないからです。貴族に対しては褒美が多い。武力で駆けつけたのは武士だ。貴族は何もしてない。何でオレたちに褒美が少ないのかと、武士は不満です。
とくに武家社会の習慣を無視した土地所有権について、後醍醐天皇の政府は慣例を破ることが多かった。


【新政の崩壊】 こういうゴタゴタが続いている最中、鎌倉で一つの事件が起こります。1335年です。中先代の乱といいます。これは北条時行という人が起こした乱です。その人は、幕府が滅んだときの最後の実力者、北条高時の息子です。
この人が、鎌倉幕府の御家人たちの残党を集めて、再度鎌倉を占領した。その鎌倉にいたのは、足利尊氏の弟です。彼が鎌倉の実機を握っている。足利直義(ただよし)といいます。この混乱の中で、この足利直義がやったことは、鎌倉に飛ばされている護良親王を殺すんです。ドサクサのなかで殺して、逃げます。
これを聞きつけた京都にいる兄の足利尊氏は、軍勢を集めて京都から一気に鎌倉に向かいます。もうこの時には、親分の後醍醐天皇のいうことなんか聞いてないです。
鎌倉の反乱は、たいしたことない。あっという間に鎮圧する。そのあと、本来は足利尊氏は、京都の後醍醐天皇の家来として京都にいるべきなのに、無断で鎌倉に行って、この反乱を鎮圧して、今は鎌倉にいる。
黙ってここに出向いて反乱を鎮圧して手柄をたてたから、京都に戻れば誉められるのかというと、命令違反で殺されるんです。自分が勝手に軍隊を率いたんだから。
後醍醐天皇のもとに、もともと足利尊氏がいた。そして反乱が起こったからといって、命令なしに、勝手に軍を動かしたら、自衛隊が勝手に反乱を起こしたのと変わらない。内閣総理大臣が軍隊を動かせと言わない限りは、防衛大臣が勝手に動かしたらいかんでしょう。勝手に軍隊を動かして、相手をつぶしたから褒美頂戴なんかと言えば、バカかと言われて殺されるんです。だから戻ったらいけないと、弟の足利直義は反対する。
結局足利尊氏は京都に戻らずに、京都に天皇が、鎌倉に足利尊氏がいる。ここで対立が成立です。敵になった。家来が敵になったということです。後醍醐天皇と足利尊氏か対立するということです。
尊氏は、自分の立場を明確にして、新政に対して反旗を翻したという立場を取る。あとは戦って勝てるかどうかです。約1年ばかりで軍勢を立て直して、1336年に足利尊氏は京都に攻め込む。しかし敵もさるもの、北畠顕家という武将に負ける。
負けて京都をとれなかったから、尊氏は、今度は朝廷勢力の強い西国に逃げるんです。ふつう、この東国にいた人間が敵陣の西国に逃げたら、ここで殺されてしまうのが当然なんです。

しかし、ここで、イヤ俺は足利につく、と言い始めたのが、九州北部の武士たちです。その中心が太宰府で、そこの武将を少弐氏という。佐賀の吉野ヶ里遺跡からちょっと西に数キロの所に目立たない墓がある。少弐氏の墓です。北部九州はこの少弐方です。このあとの室町時代、佐賀・長崎一帯を守護大名として治めたのはこの少弐氏です。
それに対して、後醍醐天皇方についたのが熊本県勢で、熊本の阿蘇氏や菊池氏です。阿蘇氏は阿蘇山の阿蘇です。九州で阿蘇氏と聞けば、どこの人かはみんな分かるよね。菊池氏は菊池渓谷の菊池です。
福岡県の東区の多々良浜というあたりで、福岡・佐賀の九州北部勢と熊本の九州中部勢が戦って、九州北部勢が勝った。これは足利方が勝ったということです。大番狂わせです。ここから足利方は勢力を盛り返していきます。

熊本県勢は負けた。そして引っ捕らえられる。佐賀の霊峰天山に登ると天山の山頂に墓があります。阿蘇惟直の墓です。阿蘇惟直の墓がなぜ天山にあるのか。殺される時に、せめて故郷の熊本の地が臨めるような山の頂に墓をつくってくれと、阿蘇惟直が頼んだからと言われます。こういう約束は大事です。死後の世界を恐れた人たちにとって、末期の約束を違えることは、祟りに襲われることと同じだからです。だから大事に祀って、今でも墓がある。
のちに佐賀の戦国大名になる竜造寺もこのとき少弐氏のもとで、足利方につきます。まだ小さな土豪ですが、この竜造寺氏の根拠地が今の佐賀市になります。今の佐賀城付近が竜造寺氏の拠点でした。まだ大きなお城はない時代です。ですから当然、城下町もありません。まだ熊本城も、福岡城もありません。だから熊本の町も、福岡の町もありません。ただ博多の町はあります。博多は港町で、城下町ではありません。今は町が大きくなって、福岡と博多が見分けがたくなっていますが、もともとは別の町です。地元では、福岡の町とはいいませんね。やっぱり福岡は「博多の町」です。そこに住む人は「博多んもん」です。

この九州で勢いを盛り返した足利尊氏は、再度京都に攻め上る。そのときに考えた。オレは、なぜこんなに苦労しているのか。天皇の権威というのは思った以上に強いな、と。
でも、うまく天皇家は二つにわかれているじゃないか。大覚寺統と持明院統に。後醍醐天皇は大覚寺統だ。それならもう一つ持明院統がある。これをいただこう、と。
京に攻め上る間に、足利尊氏は持明院統から別の天皇を立てます。そして天皇がこっちにもいるぞという形を整える。これが政治なんですね。この天皇を光明天皇という。天皇がここで二人になった。一人は京都の後醍醐天皇、もう一つはここで足利尊氏が立てた光明天皇です。

この時に、後醍醐天皇に死ぬまでつき従った関西の武士がいます。これが楠木正成です。今も江戸城の前の広場に銅像が建っている楠木正成です。最後まで後醍醐天皇に付き従いますが、1336年の湊川の戦いで足利尊氏方と戦い、戦死します。
戦ったのは足利尊氏です。そして足利尊氏方についたのが光明天皇です。では今の天皇家はどちらの子孫なのか。この光明天皇の子孫なのです。とうことは、楠木正成は敵なんですか、味方なんですか。今の天皇家にとっては。敵なんですよ。
敵将であった楠木正成の像が、なぜ今も皇居前にあるのか。皇居前といえば日本を象徴するような場所です。そこに現天皇家と戦って戦死した武将の銅像が建っている。普通そんな場所に、戦って死んだ敵将の像など建てないのです。これは不思議なことです。

その後、足利尊氏は、京都を制圧します。そして京都に光明天皇を立てます。
後醍醐天皇は、ここで死んでしまうのかというと、粘り強く逃げるんです。南に。京の南には、むかしの平城京がある。さらに南に飛鳥地方がある。そこから山間部に入って、南の吉野まで逃げて、そこに朝廷を構えます。さらにその南の山深い熊野は、九州の人はあまり知らないけど、関西の人間にとっては、関西地帯の信仰の地なんです。ものすごく神聖な場所として信仰を集めている場所です。その信仰の強さと、天皇の権威が重なるような場所です。むかし院政時代には、上皇たちが何度も何度も熊野詣でをした場所です。
だから天皇がいる場所は、北の京都と南の吉野の2つになります。天皇が北の天皇と南の天皇の2つに分裂した形になる。だから京都の朝廷が北朝で、吉野の朝廷が南朝です。

この時代を南北朝時代といいます。この時代以降、60年ぐらい分裂が続きます。後醍醐天皇は南朝方の天皇となる。さっきも言ったけど、今の天皇はどっち側の天皇の子孫かというと、後醍醐天皇側ではなくて、北朝側の光明天皇の子孫です。でも歴史的には、後醍醐天皇のほうがどうも正統性が高いということになっています。北朝は、足利尊氏から、ちょっと天皇になってくれと頼まれてなっただけ。歴史的には、南朝の方が正統だという意見が強い。明治天皇も北朝の天皇です。そうすると明治国家としては都合が悪い。だから、明治時代になると政治問題になったりするんです。

このことは戦後にまで尾を引いていて、原爆が落ちて日本がアメリカに負けたあとの戦後の混乱期に、オレは後醍醐天皇の子孫だ、オレの何十代か前の祖先は後醍醐天皇だ、と言って、熊沢寛道という人が、オレを天皇にしろ、と名乗りを上げたことがありました。これはちょっとしたブームになった。あだ名は熊沢天皇です。その後どうなったか、わからないけれども、こういう人が現れたりする。
南朝の問題は、日本の歴史の中で時々、忘れた頃に噴き出してきます。



【室町幕府の成立】
戦いの勝敗は足利方に有利になった。足利尊氏は京都に入って、新しい幕府をつくっていく。室町幕府の成立です。
この幕府は京都です。鎌倉幕府は鎌倉です。室町幕府は京都です。では室町とはなにか、京都の町名です。探そうと思えば今でもある。室町町というのが。行ってきたけれども、看板も何もなかった。私が行ったのは、室町幕府の跡という、石碑が立っていたたけです。その横の家は床屋さんになっていた。昔はそこに幕府があったんです。
天皇の血筋をいうと、まず後醍醐天皇方が南朝です。これは天皇家が二つに分裂しているその血筋からいうと、大覚寺統といった。
もう一つは足利尊氏方、これは天皇の権威には勝てないからといって、足利尊氏が天皇を立てた。光明天皇を擁立した。この光明天皇というのは血筋からいうと持明院統です。
日本に、自分が正統だという天皇が二人並び立ちます。この時代を南北朝時代といいます。その混乱を南北朝の動乱といいます。まだ争いは続きます。このあと約60年ぐらい続いていく。こういう二人の天皇がいて、日本が分裂していくなかで、足利尊氏は京都に独自に武家政権をつくっていく。これが室町幕府です。

できたのが実質的に1336年といわれる。この時に、なぜこれが幕府になるかというと、法律を決まりをつくったんです。その決まりのことを建武式目といいます。
幕府の基本方針です。実質的な室町幕府の誕生です。
武家政権の法律は鎌倉時代は何だったか。貞永式目があった。ではこの貞永式目は廃止されたのかというと、廃止されません。そのまま受け継ぎます。変更点を書いたものが、この建武式目です。
まず幕府の場所が違う。守護の配置もちがう。そういうのをきちんと書いていく。そしてこれを守れという。そして幕府を開くためには、幕府の将軍というのは、ナンバーワンじゃなかった。家来だったですね。誰の家来ですか。天皇の家来です。将軍の正式名称が何であったか。これが征夷大将軍です。


【征夷大将軍就任】 1338年に、足利尊氏は征夷大将軍に任命される。これは誰からか。後醍醐天皇は敵ですよ。北朝の天皇の光明天皇からです。後醍醐天皇は南朝です。
ここで、天皇家は分裂していても、結局、鎌倉幕府と同じ構造が続く。征夷大将軍が朝廷の家臣であるということは変わらない。日本の政治は、二重三角形であって、一番上に天皇がいる。そして将軍というのは天皇の家来である。天皇と将軍の関係はこうです。




この天皇の家来の征夷大将軍として武家社会を作ってるのが室町幕府です。だから貴族もまだいるんです。
小さくなった天皇の三角形、これは公家社会です。お公家さんというのが貴族です。
その後60年間の戦いはどうなるか。基本的には南朝方、つまり後醍醐天皇方が劣勢です。部が悪い。ただその中で頑張っていた人が、北畠親房です。
この人はパッと見て、この戦いはどうも北朝の天皇よりも、南朝の後醍醐天皇の方が理屈が通っていると直感する。南朝の天皇の方が正しい、と。そしてそれが政治的な武器になることも知っています。この天皇の正しさを解いて説明できれば、これが政治的な力になって、南朝の勝利に結びつく。こういうねらいで天皇の歴史を書く。この本は日本では一流の天皇史です。書いたのが神皇正統記という。南朝の天皇の正しさを歴史的に主張した本です。
でも南朝勢力が強いところは、九州だけです。これは懐良親王という後醍醐天皇の息子の奮戦によります。

全体としては、北朝優勢なんだけれども、なぜすぐに北朝が勝たなかったのかというと、当初仲がよかった兄の足利尊氏と弟の足利直義が、このあと喧嘩しだすんです。この兄弟喧嘩の原因は何かというと、尊氏と息子の親子喧嘩が絡んでいる。これはよくある。親父と息子が仲が悪い。息子は親父よりも、自分を育ててくれた叔父さんの方と気が合う。こういうふうに、親子、兄弟がらみで、北朝が割れていくんですね。
兄は足利尊氏。それから弟は足利直義です。さっきも出てきた。政治的な力量からいうと、足利尊氏は戦さ好きなんです。一気にやってしまおうとする。いわゆる急進派です。しかし弟の足利直義は熟慮型です。世の中の動きなどは、こっちのほうが良く知っている。動くべきとき、動くべきでないとき、軍事行動をとるべき時、そのチャンス、一瞬のスキを冷静に判断していく。そしてチャンスが来るまで待つという漸進派です。そういう性格の違いもあって、結局南朝一つに対して、北朝が二つに分裂する。こういうのをこれ三つ巴(どもえ)の戦いという。これになったときには勝負つかない。
北朝がそれぞれ仲が悪いと、南朝が負けそうになると、北朝の一方と手を組む。またこっらが強くなりすぎると、こう手を組む。いくらやっても勝負がつかない。三つ巴というのは。これで長引く。敵とも手を組む。もう収拾がつかない。まだ南北朝の動乱は長々と続きます。



【室町幕府の制度】
そういう三つ巴の戦いが続くなかで、着々と室町幕府の組織は整えられていく。
どうにか組織が整うのが、初代、2代ときて、3代目の孫の世代です。もう幕府の成立から50年ぐらい過ぎた。


【足利義満】 3代将軍が足利義満です。一番有名なのは何を作ったからか。金閣ですね。この人が、さっき言った京都の室町というところに、幕府を引っ越したんですよ。それまではちょっと離れたところだった。高倉というところにあった。
これは実は、今の京都御所の真ん前なんです。京都御所、天皇がいるところの真ん前にドカンと御殿を作る。どっちが強いかといわんばかりに。どっちが立派な家かといわんばかりに。これを花の御所という。
今は横が床屋さんになって、石碑1本しか立ってないけれども、その何百年か前には、壮大な御殿があったところです。だから今は何も残ってはいません。



【政治組織】
【管領】
 この将軍を補佐する役割も出てくる。鎌倉時代にはこれを執権といっていたけれども、管領という。
おおまかなところ、ポイントをその下に書くと、将軍、一番左のほうが偉いんですよ。将軍が一番えらい。それを補佐するのが管領です。

あとは鎌倉幕府と一緒です。鎌倉幕府を受け継ぎます。この組織がいっしょだというのは、当然だとは思わないでください。次の幕府は江戸幕府ですが、徳川家康は全く受け継がない。
そこが時代の切れ目です。鎌倉幕府と室町幕府はいっしょです。考え方は。しかし、室町幕府と江戸幕府は違う。組織から違う。発想が違う。組織が違うということは、発想が違うと言うことです。
侍所政所問注所、この三大組織は同じです。

力をもつのは、将軍の補佐の管領です。これは一人なんだけれども、選ばれるのは三つの家柄からです。だから三管領という。

【四職】 侍所の長官、これも四つの家柄から選ばれる。この家がものすごく力をもっている。侍所の長官を四職という。
将軍は足利家です。足利家の次に力を持っているのが、三管領と四職です。あわせて8つの家柄がものすごく力をもつ。

三管領の代表格は細川です。君たちは、知らないかも知れないけれども、20年前、この細川家から日本の総理大臣が出ましたね。細川家というのは、今もあります。細川護熙首相です。まだ存命ですよ。
次は志波氏、畠山氏。全部足利氏の親戚です。つまり親戚で固めたのです。
次の四職というのは、京極氏、山名氏、赤松氏、一色氏の四つです。これが中央制度です。これはあくまでも京都での職です。

【鎌倉府】 しかし武士の本場は関東、東日本なんです。だから、ここをおろそかにはできない、東日本が本場であれば、ここに第二の幕府ともいうべき役所を置く。これを鎌倉府といいます。この組織は京都の幕府とほぼ一緒です。それをちょっと小さくしただけです。新幹線も車もない時代に、こことの意見が幕府と違うことになったときが大変です。地方に力を持たせると、こういったときが、大変です。
その鎌倉府の長官を、鎌倉公方という。公方(くぼう)といえば、ふつうは将軍を指す言い方です。力が将軍といっしょなんです。関東武士にとっては。
この鎌倉公方になるのは足利尊氏を息子の一族です。京に将軍を支える管領がいたように、鎌倉公方を支える補佐役を関東管領といいます。
これになる家も決まってる。これが上杉です。このあと300年後、この上杉家は、何になって出てくるか。上杉謙信と戦国大名を聞いたことないですか。上杉謙信が出るのは、この上杉氏からです。

【守護・地頭】 諸国には、鎌倉時代と同じ、守護それから地頭を置く。守護地頭の設置です。これは同じですよ。

【守護大名】 そして京都近辺は親戚で固める。親戚のことを一門という。
新幹線や車がないときに、さぞかし京都に行くのは不便だったろうということで、守護は鎌倉時代と違って、都の政治の中に入っていくんです。守護は地方にいないんです。守護は京都にいて、権力者としていろいろ中央の政治的なことをやっていく。では地方はどうなるか、その代わりの者が支配している。彼らを守護代という。守護の代わりという意味です。
しかしこうなると、いくら偉くても顔も見たことのないような殿様よりも、身分はワンランク低くても、毎日毎日顔を合わせて、いっしょに仕事している上司の方が親しみもわくし、人間的なつきあいも深まっていく。するとだんだんと守護代が国を乗っ取っていくようになる。そして家来たちは守護代にはついていくようになる。
この室町幕府というのは、権力自体はそんなに強くない。ただ守護を京都に集めてまとまっている。そういう守護大名が連合しているからもっている。
ということは、この守護の力が失われて、地方の実権が守護代にうつれば、もう日本はバラバラになる。このバラバラの時代のことを何というか。これを戦国時代というんです。
政治にはお金がかかる。室町幕府は自分の土地を持っている。そこからの年貢収入に限られている。この土地を御料所という。全国が将軍の土地になったりはしない。将軍の土地だけで、全国の政治を動かさないといけない。でもこれが十分じゃないんですね。貧乏なんです。貧乏幕府なんです。だから将軍の力も弱い。

【奉公衆】 では戦さをするときはどうするか。これもまず将軍の軍隊を京都に抱えている。彼らを奉公衆という。ちょっとした小競り合いの時には、これで済ます。そして奉公衆に将軍の土地の管理も任せている。将軍の御料所の管理をさせる。
ただ大きくなった守護たちが将軍を裏切った時、この幕府は崩壊していく。
終わります。

授業でいえない日本史 14話 中世 足利義満の政治~惣村の成立

2020-08-07 04:00:00 | 旧日本史2 中世
【足利義満の政治】
3代将軍足利義満の時代の室町幕府からです。
2つ目の武家政権が誕生して、いつのまにか頭のなかで勝手に天皇家を滅ぼしている人いませんか。天皇家はあるよね。武家政権下でも天皇家は滅んだことはない。それどころか、天皇家は二つに分裂して大変なことになっている。天皇が二人いるから、この室町時代の初期を南北朝時代といいます。
これが60年ぐらい続いてやっと収まるのが、この3代将軍足利義満の時代です。
足利義満は、1392年南北朝を合一します。世界史でも、中国に南北朝時代というのがありました。中国の王朝が二つに分かれた時代です。

この時、足利義満が朝廷に駆けあってどういう約束をしたかというと、南朝の後亀山天皇に、「ここはとりあえずあなたが譲ってくださいよ。そして北朝の後小松天皇だけに一本化しましょう。その代わり、後小松天皇が亡くなった後は、あなたの子孫に天皇を受け渡しましょう。そうやって南朝、北朝が交代で天皇を立てていきましょう」という約束です。それでまとまった。これが南北朝の合一です。
でもその後、南朝には二度と戻りません。だましたんですね。その後はずっと今に至るまで北朝の天皇です。しかし有名な後醍醐天皇はどっち側だったか。南朝方だったんです。
ところが、時代は600年後の明治時代、明治政府はこれに決着つけた。どっちが正しいとしたか。南朝が正しいとしたんです。今の天皇家は北朝なのに。これはやはり不思議ですね。だから政治問題になったりする。戦後になって、俺は南朝の子孫だ、という人が出てきたという話をしましたね。熊沢天皇事件といって。マスコミがウワーッと持ち上げて、あとは無視されてどうなったかよく分からないけど。マスコミのいつものパターンで、かき消されましたけど。

この3代将軍、南北朝をまとめた力は認められた。それでこの人は将軍でありながら、北朝の天皇の公家社会の中で出世をしていく。
「オレは公家社会で政治をやりたいんだ、もう将軍はいい、征夷大将軍というのは、どうせ天皇の下級家来の立場でしかないじゃないか」と。だから息子に早々と譲るのですよ。1394年、ここで早くも将軍職を譲って、息子の足利義持を4代将軍とする。しかしこの4代将軍が実権を持つわけではない。3代将軍義満が実権は持ち続ける。
公家社会で、天皇に次ぐナンバーツーは太政大臣といいます。足利義満は、将軍職を譲ったのと同じ年の1394年に、この太政大臣に就任します。貴族社会では、征夷大将軍よりも、太政大臣が格段に位が上です。こうやって義満は、天皇の政治組織の中で出世していく。お公家さんとしても出世する。
これで義満は公武に渡って、つまり公家社会と武家社会の両方に渡って、実権を持つことになります。義満は公家社会にも支配も及ぼしていきます。

さらに、自分の権威を高めるために何を作ったか。1397年に、金閣を作ったんです。鹿苑寺金閣といいます。
彼女と一緒に行くなら銀閣がいいけど、年をとったら金閣に行ったほうがいい。あそこは浄土だと思う。夕日と燦然と輝くあの金閣の美しい照り返し。30~40年も前に一度行って、今も忘れない。池があって、夕日の照り返しのなかで、池の水面に浮かぶ金閣の姿と、あの夕日の神々しさ、そして庭の木々が周囲を囲んでいる。あー、浄土だ、と思いました。今でも我々日本人にそう思わせるんだから、当時はさぞかし貴族たちの度肝を抜いたことでしょう。

こうやって自分の権威を高めた上で、有力守護である地方の有力者を蹴落とす。これを応永の乱という。1399年です。討たれたのは、長門つまり今の山口県の守護大名であった大内義弘です。でも、ここで大内氏が滅んだわけではありません。大内氏はこのあと200年間、戦国大名として生き残っていきます。



【足利義満の外交】
ここで外交に目を転じると、公式外交は遣唐使の廃止以来、日本は公式には中国と外交してない。ただ、今のような海上保安隊も警備隊も、何もないから、私的な船の往来はあるし、荒海でも俺は死んでもいい、という命知らずの海賊たちが、日本には多数いるんです。
彼らのことを倭寇といいます。倭寇の寇は、元寇の寇です。悪者という意味です。倭というのは日本です。日本の悪者と、中国が呼んだ海賊たちのことです。彼らが、中国の海岸や朝鮮の海岸を荒し回っていた。これが盛んな時期が南北朝期です。
そのメッカは、中国朝鮮に近い北部九州です。九州北部の松浦、唐津、平戸あたりです。玄界灘沿いです。有名な海賊集団に、平戸から唐津にかけて松浦党という一団があります。
彼ら日本の倭寇が中国沿岸を荒らし回った結果、ついにあの元を潰すまでになる。中国もほとほとこれに手を焼くんですね。
中国では元が滅んで新しい国、1368年に明ができた。日本は日明貿易といって、中国とも貿易をしはじめます。世界史でも出てきたけど、明の建国者は朱元璋です。もともとは農民です。農民が皇帝になる国というのは中国だけです。日本では1人豊臣秀吉ぐらいのもので、これはヨーロッパにはないパターンです。中国はこうやって上から下へと人が動く。だから今でも中国は大衆の暴動を非常に恐れます。
しかしこの貿易には、その前に朝鮮との貿易があります。


【日朝貿易】 朝鮮半島では、日本が南北朝を統一した同じ年の1392年に、それまでは高麗という国だったのが、朝鮮に変わります。日本の南北朝の合一と同じ年に、お隣の朝鮮半島では朝鮮が成立したのです。義満は、この朝鮮との貿易をしはじめます。これを日朝貿易といいます。
このきっかけは、新しい国の朝鮮の王様が、もういい加減やめてくれよ、海賊で荒らすのを、と頼む。海賊行為は、海賊が勝手にやっているんだけれども、幕府にこれを頼む。あんたの家来じゃないかも知れないけど、同じ日本人じゃないか、どうにかしてくれ、うちは迷惑しているんだ、と。朝鮮の王様の李成桂が、日本に倭寇禁圧を要求したんです。そうすると足利義満は、わかった、やりましょう、という。
幕府は、わかった、これでやろう、日本と幕府と朝鮮の貿易のために、その取引の事務所を朝鮮におく。これを3つの港に置いたから、その港を総称して三浦という。これを倭館といいます。3つなかの一つだけ言うと、これが今でも韓国最大の貿易港の釜山です。朝鮮も漢字を使います。プサンです。朝鮮の南端の港で、今なら博多から船で2時間ぐらいで着く。この時には字がちょっと違うけれども、発音は似ています。富山浦(ふざんほ)と言います。
これには幕府のもと、金持ち、大名、商人、博多商人が参加します。博多はもうこの時あります。でも江戸はないですよ。大坂もないです。江戸城も大坂城もないから。城下町は戦国時代にしか出てこないです。九州でも熊本も城下町、鹿児島も城下町、佐賀も城下町です。長崎は港町です。城下町じゃない。長崎城はない。
朝鮮側は対馬の宋氏を通して、通行についての制度を定め、貿易を統制します。貿易の国家管理です。今は誰でも貿易していい自由貿易です。でもアメリカのトランプ大統領は、それじゃいかん、と言っている。そういう考え方は今でもある。トランプさんは、自由貿易はいけない、保護貿易にして、制限するものもちゃんと決めないといけない、と言っています。それで今は中国ともめてます。これどうなるか、あと一悶着あるかもですね。
今でもこういう考え方があるように、この時代には、国が貿易を管理するというのは不思議なことではありません。

ここでの輸出品ですが、日本は銅を輸出する。銅で何を買うかというと、衣料繊維です。いま私が着ているこのシャツは普通の綿です。これが当時の貴重品なんです。木綿です。この時代から輸入品として流行りだす。欲しいな、欲しいな、あの舶来品、外国製品、欲しいなあ、と。
こののち江戸時代には、オレもつくろうといって国内生産に成功していく。日本には技術力が出てきますが、それはもうちょっとあとのことです。
もう一つの輸出品は、琉球から輸入した東南アジアからの南海産の染料、香料、こういうのをさらに北の朝鮮に持っていく。

これが日朝貿易です。これは莫大な金になる。この時代は、海を乗り越えようとすると、かなり高い割合で難破します。それにも拘らず行くのは、儲けも大きいからです。
そういう命知らずの男たちが行くんです。儲けだけ大きくて、リスクはないなんて、そんなうまい話があれば、みんな大金持ちになる。


【日明貿易】 もう一つの貿易、本場中国との貿易が日明貿易です。
1401年に、中国からの呼びかけに応じて、日本から祖阿という坊さんと肥富(こいづみ)という博多商人を派遣します。ただ中国は伝統的に、自由貿易でも対等貿易でもない。オレの子分になれ、という。子分としての貿易をしろ、という。

そこで勘合です。合い札です。かまぼこ板みたいなのを半分に割って、一方を中国、一方を日本に渡して、港で称号して、合えばOKっていう。勘ぐって合わせる。だから勘合です。別名、勘合貿易ともいう。

このとき明は基本的に貿易禁止です。これを海禁政策という。江戸幕府の鎖国政策をひどい政策だという人がいますが、アジア世界は基本的に海禁政策です。自由貿易ではないです。自由な貿易は禁止です。日本でいえば鎖国です。中国も鎖国です。朝鮮も鎖国です。この時代には、自由貿易というのが逆に常識はずれです。それで海を閉ざす海禁をとっています。

ただどうしても貿易をしたかったら、貿易じゃなくて、お付き合いといいなさい。これを朝貢という。贈り物を持って来たら、必ず返礼を返すお付き合いです。とらえようによってはこれは貿易です。

次が中国のプライドです。100万円の贈り物をもらったら倍返しで200万円返す。ふつうは半返しです。1万円もらったら5000円ぐらい返すのが普通です。中国のプライドは逆に倍返しです。
だから日本は何回も行きたい。日本は、年に一回でいいぞ、といわれても、2回、3回、来させてくださいという。その代わり、中国に対しては家臣として扱われる。


足利義満は将軍でありながら、何と署名したか。
日本国王臣源」です。日本国王、ここまではいいですか、ちょっと変ですけど。日本の国王は将軍なんですか。天皇だったでしょう。国王と名のった以上は、足利義満は天皇じゃないといけない。事実、義満は天皇家を乗っ取ろうとしたのではないかとも言われています。説の段階なので、これ以上は立ち入りませんが。


ただ結論だけいっておくと、足利義満はこの日明貿易の開始から10年も経たない1408年に、急に発病し、死んでしまいます。急死に近いです。足利義満が天皇家を乗っ取ろうとしていたかどうかは分かりませんが、そのようなことが実現する前に足利義満が死んでしまったというのが、歴史の事実です。

では次の文字です。足利の本名は清和源氏の源です、一文字飛ばして、それが「日本国王臣源」の「源」の意味です。


でもその前の言葉が大事です。「」と書いた。つまり中国の家臣だと署名したわけです。それで条件がおりあった。それで勘合貿易をやろうとなる。でもこれで日本は中国の家臣になった。これを朝貢貿易といいます。これには批判も多かったようですが、誰も面と向かって足利義満には文句を言わなかったようです。

そして明から交付された勘合を使用する。これは中国の悩みのタネは、日本人の海賊つまり倭寇だったんです。これを取り締まるため、区別するためです。勘合をもっておけば、倭寇ではないという証明になる。

さらに中国は貿易は国家管理だから、管理しやすいように港は1ヶ所に限定します。これが寧波(にんぽう)です。江戸時代の日本がやったものもこれと同じ形式で、それが長崎の出島です。これと同じ形式です。これが東洋世界の基準なんです。自由貿易はヨーロッパ人がこのあと、19世紀のアジアに強制したものであって、そんなルールはもともとアジア世界にはないものです。この唯一の取り引き港が寧波です。

さらに中国への贈り物を返礼品として倍返ししてもらう上に、中国に宿泊費がかかるけど、それはタダです。ふつうの貿易だったら関税を国に払わないといけない。これもタダです。すべて免除です。
難破せずに中国に着けたら、いかに利益が大きいか分かるでしょう。すべてタダの上に倍返しです。これは行きたくなる。
このように利益が大きいから、幕府は商人にもこれを認めて、その中から税金を取る。これを抽分銭といいます。

この時代、日本のお金は、誰がつくっているか。誰もつくってないんですよ。誰もつくってないけど、日本にはお金があるということは、輸入していたということです。そのお金を持っていれば、自分で作ろうと外国から輸入しようと、お金に色はないんだから、その輸入するお金を幕府が独占すれば、幕府は通貨発行権を持ったことと同じことになります。この通貨発行権がいかに大事かは、政治経済でも言いました。通貨発行権をもてば、とても大きな利権が転がり込んできます。さらに今のお金は紙だから、紙さえあればいくらでも刷れます。

このときには、洪武通宝、永楽通宝という明銭を輸入します。中国のお金を輸入するんです。その対価として、日本は銅を輸出します。

ではなぜ中国は、お金を輸出するのか。中国からお金が減るのに。世界史を覚えてますか。中国は早々と紙幣に切り替えています。そうすると、今までの銅銭が不用になった。おまえに、売ってやるぞ、となる。
銅銭というのは、例えばワンコインにもともと10円の銅の値段があるとしたら、だいたい100円ぐらいの価値をつける。本当の銅の値段は10円なのに100円の価値をつける。差し引き90円の儲けになる。これを通貨発行益といいます。紙幣1万円にはもともと20円ぐらいしかかかっていない。これは1万円だと言えば、みんな納得して1万円になる。9980円の儲けになる。この利益は大きい。だからここで幕府は、通貨発行権を持ちたいのです。

それともう一つの輸入品として、高嶺の花の生糸です。英語でいうとシルクという。これは衣料です。日本が衣料繊維として欲しいのは、中国からはシルクロードのシルクつまり生糸、朝鮮からは木綿です。
今では木綿は誰でも普通に着ているけれども、この時には冬は寒い麻の繊維しかない。麻とか、君たちは知らないかもしれない。この夏は、麻のポロシャツを買おうと思います。麻はじっくり汗を吸う。ただ冬場に麻を着ていると、寒いでしょうと笑われる。麻は保温力が低い。それぐらい寒いのをそのころは着ていた。それと比べれば木綿は、肌触りが良くてしかも保温力がある。これはすごいと、それで木綿は一気に流行っていきます。


【琉球】 もう一つが琉球です。琉球は今の沖縄です。この時には日本とは別の国です。三つの国ができていた。琉球では、山が国という意味で、北山、中山、南山です。この三つを琉球として初めて統一したのが、1429年です。統一したのは、名字は尚さん、名前は巴志さんです。中山王の尚巴志が琉球を統一します。
琉球の県庁所在地は那覇ですが、この琉球王国のお城が首里城です。まずは観光名所として、沖縄に行けばまずここを見る人が多い。中山より発展した。でも2019年に焼けましたね。
琉球は台風も来るし米は育たない。いまサトウキビぐらいです。だから貿易立国です。
自分では何も生産しないけれども、北から仕入れてそれを南に売って、そして南のものをまた仕入れて北に持っていく。これで莫大な利益を得る。これを中継貿易という。
こうやって東南アジア産の貴重な香料などが日本にも運ばれてくる。


【蝦夷ヶ島】 それから北海道のことを蝦夷(えぞ)ヶ島といって、そこにはまだ日本人が住んでいません。当時はアイヌの人たちの島であった。そこに今の青森県から進出したのが安藤氏です。北海道の南部に進出して、蠣崎(かきざき)氏になるんです。そしてアイヌ人を服属させていく。アイヌ人も腹を立てて、反乱を起こした。これが1457年、コシャマインの乱です。
ヨーロッパと同じように民族が民族を征服していく。その頻度がヨーロッパはものすごいですけど、日本でも起こる。この蠣崎氏は江戸時代に松前氏と名前を変え、その藩を松前藩といいます。



【惣村の成立】
では、今度は室町時代の村に行きます。日本の農村の世界、この原型は室町時代にできる。今の日本の村は奈良時代からあるんじゃないです。今の日本の村を、正式には惣村といいます。惣はまとまるという意味です。奈良時代にできていた荘園制のなかの村は、いったん解体します。
それ以前の村は、荘園領主のもとに自立性の低い農民たちがかき集められて、いわば強制労働させられるようなイメージなんです。ヨーロッパの農民奴隷とはちょっと違うんだけど。それがこの時代に地域としてまとまる。水田を切り開きながら。

そういう見ず知らずの人たちが、まとまって共同体を作るときに、核となるものが何か。これがお祭りなんですね。村の神社を作って、人間がまとまるというのは、定期的に年に2~3回、お祭りをやってまとまっていくんです。祭礼です。


これヨーロッパのギリシャと基本的にいっしょです。ギリシャのアテネには、やっぱり巨大な神社があった。パルテノン神殿というのがあった。西アジアのメソポタミアではジッグラトという高い塔があった。これも祭殿です。そういったところで祭りをやる。お祭りの力というのは政治的に、結構大きいです。
だから、江戸時代まで政治のことを、まつりごと、といっていた。政治という言葉はないです。まつりごと、と言っていた。政治というのは、祭ることなんです。

それで、村がまとまると、つらい田植え作業を、村で共同作業をしていく。


それから、この時代はお巡りさんもいないから、泥棒が来たら、自分たちで守らねばならない。強いことばかり言っていた、泥棒に対して尻向けて逃げるような人間には、2度と村の仲間に入れない。あまえはあの時裏切ったから、出て行け、出て行かなかったら殺すぞ、と絶対に村には入らせない。これが義務なんです。自衛という。これもギリシャのポリスと考え方はいっしょです。ギリシャの市民というのは、まず重装歩兵で敵と戦う市民だったんです。
そういう軍事力、警察力です。だからポリスというのは、ギリシアではポリスが、国家という意味だけれども、日本ではポリスといえば警察になっている。警察のパトカーには何と書いてあるか。ポリスと書いてある。ポリスというのは警察なんです。国家と警察は切っても切れない。


ただここで、それまでは親とか子供とか孫とか、そういった血の繋がったものが何十人も集まっている血縁組織だったのが、近くに住む他人同士が結びつく地縁結合に変わっていく。血は繋がらない。これは地縁結合です。血縁、これは何と読むか。血縁を「ちえん」と読む人がいる。「けつえん」です。血縁は「けつえん」です。でも地縁は「ちえん」です。血縁だったのが地縁になる。

国家というのは血の繋がった一族だけで日本をつくらないでしょ。知らない同士が、一つの国家や村をつくっていく。地縁でないとダメです。ほとんどは地縁です。共同体というのは。これが今の村、惣村です。
ふつう血が繋がらない人間同士は、敵同士になって戦うことが多いんです。これがA一族でも、B一族でも、共同してやるというのは、何らかの共同体の仕掛けがないといけない。この仕掛けが、村のお祭りを年に2~3回やるとか、そういったことで村人同士の信頼関係ができて、それがまとまりをつくるんです。
この惣村の機能は、黙っていてはまとまらないですよ。まとめるためのいろんな仕掛けがあります。まず年に2回お祭りをするこの集団にちゃんと、はいらないといけない。
祭礼をする場所とか、どこで、何月何日にやるとか、それを決める話し合いを宮座という。神社のお祭りに参加する人、これを氏子といいます。
あとお祭りを離れて、この道を広げようとか、橋をかけようとか、そういった話し合いをする。寄合をもつ。寄合は、正式名称です。今でも私の集落では、村の決めごとは、この寄合で決める。
そこで、破ったらいけない決まり事、これをちゃんとつくる。勝手なことをしたい人間は、10人おれば1人は出てくるんです。そういうのは廃除する。そんなら出ていけ。そんなわがままいうなら出て行け、と。一人でやれよ、二度と帰ってくるな、ですよ。村には、そういう厳しい面もある。そのような決まりを惣掟といいます。
しかし、泥棒がきたときには、自分たちで警察の役をする。追い出す。人が罪を犯したときには、裁判所もないんだから、自分たちで良い悪いを判断する。村追放とか、そういうことを自分たちで決める。これを自検断という。

それから、お殿様への税金も、年貢も、村でまとめて払う。ここで言えることは、税金を払うとき、60軒の家があれば、どの家からいくら集めれば村全体で幾らになるかという程度の計算はできたということです。
計算ができるということは、字が書けたということです。村人全員が字の読み書きはできなくても、少なくとも村に一人や二人はそういう人がいたということです。そうでないと村は成り立たない。村人は無学文盲じゃない。1たす1が3になったりするよう人たちばかりだったら、自分たちで年貢も集められない。
こういう地下請ができるということは、計算はできた。少なくとも小学校レベルの計算は。そういうレベルに村が達していたということです。これはヨーロッパより上です、ヨーロッパ人はこれができない。農民には。貴族の一部だけが文化が高い。

そして戦うときには一致団結して戦う。この団結のことを一揆といいます。団結した状態が一揆です。
まず武力でなくて、お殿様に、荘園領主に、要求をする。強く訴える。これを強訴という。
それでもノーというなら、それならお互い痛み分けで、オレたちはもう働かない。または逃げる。耕作放棄です。そうすると自分たちも困るけど、お殿様の荘園領主も年貢が入らなくて困る。
農民たちは、逃げてどうするか。隠し持ってるんです。食い物を。農民の隠し財産というのは、結構バカにならない。


そういう村の中で、村の指導者を、名主(みょうしゅ)と言う。なぬし、とは江戸時代の言い方です。村のリーダーですけれども、これは、地方によって呼び方がいくつかある。
まず乙名(おとな)と言う。それから、これは沙汰人(さたにん)と言う。時代劇で、「おって沙汰を申しわたす」の沙汰です。時代劇見ないかな。では「地獄の沙汰も金次第」の沙汰です。裁判のことです。
それから、年寄、というのは、いまは老人の意味でしか言わないけれども、ここでは村のリーダーのことす。年寄りとは、もともとはプラスの意味だった。いまは老人の意味ですけど。年が寄るというのは、それまで生きてきた知恵が増えるということなんです。彼らが、字が書ける、計算もできる。弓取や刀使いを練習する。そうなると侍になる。普通は農作業しているから、地侍という侍階級が、こういう田舎から出てくるんだ、ということです。


そういう村々が自立していくということです。自立するためにはまず、小学生なみの計算ができないといけない。村に2人3人ぐらいは字を書ける人がいないといけない。
そして屈強な若者がいて、泥棒が来たら自分で、お巡りさんじゃなく、自分たちが追い掛けて捕まえる、このやろう、そういう防衛力がないといけない。

そして彼らは地方の有力者などと主従関係を結ぶ。親分・子分関係です。主従関係は分かりやすくいうと、ちょっと恐いお兄さんたちの上下関係みたいなものです。親分と頼っていきます。

そういう村々がさらに連合をしていく。村が連合していくというのは、村の中の政治力のある誰かが交渉して、向こうの段取りとこっちの段取りをつけきれないといけない。そうやって初めて連合が成立するんです。そういう連合した村さえできてくる。これを郷村制という。
この意味は、村の百姓がバカにできない力を持っていくということです。政治力を持っていくんです。場合によっては、大名が、こうしろと言うと、何を言うか、と言って一揆をおこす。連合して。一人二人が一揆を起こしても、へのかっぱです。一揆を起こすんだったら、ガバーッと何千人と起こさないといけない。そういう統率力が出てくる、ということです。
これで終わります。

授業でいえない日本史 15話 中世 北山文化~一向一揆

2020-08-07 03:00:00 | 旧日本史2 中世
【北山文化】
【金閣】 3代将軍足利義満のころの文化にいきます。そのころの文化を北山文化といいます。京都は山に囲まれた盆地です。なぜ北山か。足利義満が別荘をつくっのがこの北山の麓です。別荘というか、何をつくったか。金閣です。正式名称は鹿苑寺金閣をこの北山につくった。
次に8代将軍が出てくる。それは逆に東のほう、東山文化という。

ここでは北山の近くに金閣をたてた。それで北山文化という。これは三階建てです。下二層は何であったかというと、寝殿造です。これ平安調です。
次の東山文化と比べて、先に結論言うと、東山文化で何が出てくるかというと、今の和風建築が出てくる。具体的には畳がでてくるんです。この段階では畳はまだないです。ここではまだ平安調を取り入れる。
だから畳というのは当時の最先端文化だったんです。これが庶民一般の我々、私のような庶民の家に畳があるというのは、いかに日本が生活水準が上がってきたかということです。畳は、もともと金持ちしか使ってなかったから。


【能と狂言】 そしてそれからもう一つ新しい芸能として、能という非常に抽象性の高いものが出てくる。これがです。はっきりいって、私も能はよく分からない。ただ目が肥えた人からは、おまえもいい歳になって能のよさも分からないのか、と言われそうです。
でももともと能は、軽妙なだじゃれみたいなものです。漫才がふざけたようなものだったんですね。
大道芸のような猿楽という滑稽なものまねがあって、これは都市文化です。田舎のほうでは、田植え踊り、これは早乙女さんが、つまりまだ若いお嬢さんたちが、いっせいに田植えを一番最初はするんですよ。縁起担ぎで。しかも生娘じゃないといけない。田の神が喜ばないから。生娘って、分かるかな。分からなかったら自分で調べてください。いっせいに早乙女がこうやって田植えをする。そのときに音楽が出てくる。音楽を鳴らしながら、田植えをしていく。これを田楽といいます。田植えというのは中腰できつい労働なんです。たいがい農家の爺ちゃん、婆ちゃんたちが腰が曲がっているのは、田植えのせいですよ。腰をやられるんです。きつい労働です。そういったときに、音楽を流しながらやっていく。この都市の人間が、田舎者とバカにせずに、この二つが合体していく。いろんな歌や踊り、お囃子を入れ、ポンと鼓を打ったり、そういうのが融合して能になっていく。

これはもともと田舎芸能っぽさ、田舎くささがあったんだけれども、面白いといったのが将軍です。それで保護するんです。保護というのは、具体的にはお金をつぎ込むんです。もっと高めろ、もっと広めろと。これは面白いじゃないかと。
特に、この一座はすごい、と将軍が思ったのが観世座という。すでに能の一団ができていた。その親子に目をつけた。この親子すごいぞ、と。
親は観阿弥、子は世阿弥という。義満は、観阿弥、世阿弥親子を保護し、お金を資金源として与えた。これを大成したのは息子の代です。親子2代で有能な人間が出るというのは、けっこうむずかしいですよ。親が一代は偉いが、息子はボンクラ、孫になると、どうしようもないアホだった、とかよくあるパターンです。有能な人間が親子3代続けば希有なことで、親子2代でも難しいです。
彼らは見事、息子の代に能を大成して、これをさらに言語化した。能というのはこういうものだ、というのを書いた。この本を「風姿花伝」という。これは今でも安く文庫本で手に入ります。たぶん新品でも500円出せば買える。アマゾンの古本で買えば、送料250円で、300円ぐらいで買えるかもしれない。


何を書いてあるかというと、芸術を見せるために、もっと磨け、表現しろ、もっと表現しろと書いてあるかというと、ぜんぜん逆のことを書いてある。美しく見せたかったら、見せろではない。表現するんじゃなくて、隠せと書いてある。「秘さざれば美なるべからず」と。隠していなければ、本当に美しいものは表現できないんだ、と。
これはまだ君たちには分からないかも知れないけど、少しは分かるかも知れない。美しいことを表現しようと思ったら、隠さないといけない。非常に矛盾した反語的な表現ですけどね。風姿花伝は、世阿弥著です。色男でもあったらしい。

言ったらいけないことですけど、このころから江戸時代にいたるまで、有力な武将とかが、好むことというのは、コレの趣味があるんです。分からなければ、それで終わり。コレとコレは、コレです。だから反面、屈折した所もあるんでしょうね。美しいことを表現しようと思ったら、ストレートに表現するのは、はしたないことだ。慎みをもってちゃんと隠しなさい。

これも女性がいないからいうけど、女性の色気というのは、チラッと見るところが良くないですか。全部見たら、今はもう、見ようと思えば、簡単に見れる時代になって、私はある意味、高校生でああいうのが簡単に見れたら不幸だと思う。若い時期特有のあふれるイマジネーションが養えない。見れないから楽しいことは、みんなうすうす感づいている。簡単にあんなものが見れるようになった世の中というのは、たぶん本当に優れた芸術は生まれてこないんじゃないかなと思う。

隠れたものを見るのは、非常に緊張が高いものなんです。2~3時間もぶっ続けて見れないです。30分も見たら緊張が続かない。緊張した後に緩む瞬間というのは、ちょこっとした冗談でも爆発的に受ける。これが狂言です。能と狂言はセットです。今度の東京オリンピックの総プロデューサーは狂言師でしょ。野村萬斎という。まだ若い、と言っても、40近くなっているかも知れないけど。

能は能面をつけて顔を見せないし、しゃべらない。無言で踊っていくんです。見る人間がみると、すごいと言う。私はよう分からないけれども、見る人間が見たらすごいみたいです。

狂言は、その能の合間に演じられる喜劇的なものです。もともとは能と同じ芸能から分かれたものです。能は非常に抽象性が高く緊張して見る。狂言はそれがパッと緩んで、ゲラゲラと笑わせる。この緊張と弛緩の緩急がいいんです。


これ逆にいうと、初めから笑おうと思ってやって来た人間を笑わせることは至難の業だということです。このことを分からないでお笑い芸人になろうとすると大変なことになります。プロの技というのは、授業中に先生の言葉尻を捉えてみんなを笑わせることとは笑いのレベルが違うのです。



【足利義政の政治】
将軍は4代、5代、6代、7代と飛ばして、あっという間に8代将軍足利義政にいきます。といっても、まだ50年も飛んでないです。その間は、短期間で将軍が替わるから、1440年代です。1443年に足利義政が8代将軍になります。3代将軍も1400年代だった。
この8代将軍は、政治的能力がない。政治を執らない。政治は嫌いだ、世の中にはもっとおもしろいものがある。オレはそっちのほうに行きたい、と言う。芸術家になっていたらバッチリだったでしょう。
彼が作ったのが銀閣です。金閣もすごいと言ったけれども、評価が高いのはこの地味な銀閣です。やっぱり、小学生は金閣がキラキラしてすごいと思う。しかし、早ければ高校生でも、銀閣寺いいなぁと、思う。30才ぐらいになると、あんな金閣のキラキラしたものよりも、と思う。これがまた70~80才になるとちがう、金閣が輝きを増すんです。浄土が近づくから。これは人間の自然な情みたいです。宗教に無関心な人でも、あの世が近づくと、やっぱり金閣に近づいていくらしい。他の宗教でもいろんなところで、外国人からも聞いたけれども、どこの民族でも、そういったところあるみたいです。
政治面、財政面はどうかというと、夫婦というのは、よくしたもので、嫁さんがバッチリ、金儲けがうまいんです。日野富子という。
ダンナは足利義政なのに、嫁さんはなぜ日野富子なんですか。ダンナは源頼朝で、嫁さんは北条政子であった。なぜなんですか。まだ夫婦別姓なんです。
日野富子は、何するか。徳政令といって、幕府は借金の帳消しをボンボン命令するんです。では借金帳消しで損するしゃないかというと、100万円借金している者に、おまえの借金を帳消してやろうか。その代わり、幕府が借金帳消しの命令だすから、幕府に10万円ちょうだい、と言う。どうする。100万円借金しているのに、10万円でそれがチャラになるんだったら、10万円払う。これで儲ける。こういうことができる。中世では。所有の観念が今とちょっと違うんですね。



【応仁の乱】
この人に、子供ができたんだけど、遅かったんです。子供は義尚(よしひさ)という。将軍の弟は義視というんです。こんな関係です。義視と義尚。
なかなか子供ができなかったから、将軍という自分の目が黒いうちに、次を決めておかないと、世継ぎ争いで反乱が起きるから、これを防がないといけない。
子供をつくろうと頑張っているけどできない。そこでもう弟の義視に譲る、と約束した。そしたら日野富子がご懐妊するんです。ちょっとあやしいですね。ここらへんの話は。のちに豊臣秀吉が子ができなくて、淀君との間に、秀頼ができたのもちょっと怪しいんですけど。そこらへんは、もう言いませんけれども。
こうなったら日野富子は自分が産んだ子供をぜひ将軍につけたい。
しかし義視には、次期将軍グループができてる。そこに日野富子が、自分の子の義尚を、ぜひ9代将軍にしたい、と言う。幕府はまっぷたつに割れて、これが日本を騒乱に導く。ここから実質、戦国時代に入っていくんです。
家臣も、管領の細川勝元と、四職の山名持豊の対立が始まる。四職というのは侍所の長官です。細川勝元が、子の義視側につく。有力大名の山名持豊が義尚側につく。
さらに、ここで管領家の畠山氏が内紛になる。そして敵味方にわかれる。志波氏、これも一族争いするんです。それぞれ義尚側につくか、義視側につくかして、この争いに便乗する。
そこで反乱が起こる。1467年。年号をとって応仁の乱という。1467年から。東軍、西軍と俗に言う。総大将はこの東軍は細川勝元と、西軍の山名持豊です。細川勝元軍、ちなみにこの細川家というのは、最近、君たちが産まれるころに総理大臣を出した家ですね。平成の初め1990年代に、細川護熙といって。この家柄です。戦国大名となって残り、江戸時代にも大名となって残っていく。明治、大正、昭和、今でも名族です。つい最近20年前は、君たちは最近とは言わないかも知れないけれど、私の感覚ではつい最近です。この家柄から総理大臣が出たという感覚です。
東軍の細川軍がが総勢16万。それに対して西軍の総大将は山名持豊です。総勢11万。か。16万と11万、あとは戦い方でどうにでもなる。作戦しだいで。なかなか勝負がつかない。これが足利義尚方につく。
ただ翌年の1468年からは、将軍家の義視方と義尚方が入れ替わったりして、複雑きわまりなくなる。

ふつう戦争というのは関ヶ原の戦いのように、大都会ではなく、人も住まないタヌキしかいないようなところで戦う。関ヶ原は有名だと言っても、1時間に1本しか電車が通らないような田舎です。私も行ってみたけど山の入り口の何もない所です。関ヶ原駅には、おばちゃんが独りポツンといるぐらいのものです。
しかしここはそうじゃない、京都そのもので起こる。ということは京都が荒らされて滅ぶということです。戦場の主戦場になった都は、たいがい滅ぶんですよ。でもこの京都のすごいところは滅ばなかった。
勝手に滅ばないじゃないです。このあと、武士はあてにならない。つぶれたこの町を復興していこうというのは行政じゃない。町人です。それでこのあと京都の町は、町人のまちになっていく。
応仁の乱はいつまで続くか。約10年間、1477年まで。京都で10年も戦争が続けば、いい加減みんなイヤになる。まだ続くのかと、オレたちは何年戦っているのか、今年もまたやるのか、来年もやるのか、いいかげん、やめよう、だんだんやる気を無くす。戦いは自然消滅です。
どちらが勝ったか、よくわからない中で、何となく義尚が9代将軍になっていく。

この間、京都のなかで起こったことは、行政の力がガタガタなんですよ、戦うことで精一杯で。すると兵隊というのは武力を持っているから、一歩間違えば暴力団と同じようになっていく。統制を失った兵隊は恐い。彼らが京都の町を荒らし回る。彼らを足軽といいます。
足軽というと江戸時代の足軽のイメージで、善良なイメージみたいですけど、こそ泥です、戦争を恐れて人が逃げたら、窓を打ち破って、金目のものはないかとか奪っていく。食い物があれば勝手に食べる。印鑑、通帳があれば、こっそり持ち出して、とんでもないことをしていく。こういう雑兵が京都を荒らし回る。

そうすると京都に住んでいた身分の高い人はどうするかというと、戦禍から逃げるために、地方に逃げる。地方に避難する。京のお公家さんたちは。
そうするとお公家さんたちが持っていた高い文化が地方に伝わっていく。どうぞ来てください。うちでかくまいますよ、と地方のお金持ちが言う。
これが大内氏です。山口の大名です。だから山口は西の小京都といわれる。文化人が一時いっぱい集まる。山口には瑠璃光寺という名園がある。お寺がある。五重塔がある。何も知らずに目隠しして連れて行ったら、京都のお寺だと思う。こんなすごいところが、こんな片田舎の山口にあったのか。のちに日本一の絵かきの雪舟も、ここを拠点に活動する。文化が花開くということです。

では足利幕府はというと、もう力がない。どうにか命令を聞いてくれるのは、京都一国のみ。京都のむかしの名前は山城の国という。奈良時代のことを覚えていますか。奈良から見たら、京都は田舎だった。その間に山がある。山のうしろの国と山背国と書いていた。でもみっともないということで、字を変えた。これが山城国です。京都は、もともと山のうしろの国です。

ここから、日本全体を支配する将軍の力もない。偉い人間がいないと、庶民は喜ぶかもしれないけど、それはルールがなくなると言うことだから、ルールがなくなったら力の世界になるんです。これが戦国時代です。軍事力をもった人間がその国を支配していく。
守護大名は形だけ、地方に根を張っていない。力をもつ土豪は、農民をしっかりと味方につけて、年貢をバッチリ農民とともにためて、刀や鉄砲を、村の有力者が勢力を広げていく。
さっきいったように、惣村が郷村に広がって、村連合をつくっていく。そういった中から守護大名に、オレに何か文句があるか、と潰していくんです。下剋上という。下剋上の世の中になる。下が上を凌ぐ。
ここで将軍は京都にいられなくなって、幕府は滅亡しないまま、将軍がどこにいるのか分からない。消息不明、ああ生きとったのか、こんなところに逃げていたのか、と。
しかし天皇家が京都にいられなくなって、逃げ惑ったという話は聞きません。
地方では武士がだんだんと力を持って行く。そうすると貴族の所有地だった荘園制というのは、ますます衰退していくようになり、武士の土地になっていく。
このあとは戦国大名が地方に跋扈する時代に入っていき、日本がバラバラに分裂する危機に直面しますが、そんな中で有力大名たちが目指したのは、京に上ることでした。京にはもちろん天皇がいます。そのことが政治的なシンボルになっていったのです。



【国一揆】
この後、日本が戦国時代に入った中で活躍するのは、戦国大名だけじゃない。地方の草深い田舎で、土地に根づいた有力者が登場していく。彼らを国人といいます。都の偉い人じゃない。
それから、村々の百姓のリーダー、彼らも地侍になっていく。こういう人たちが地方の村々で手を組んでいく。そして守護大名の命令に逆らうようになる。

1485年、京都の近郊で国人の一揆が起こる。山城の国一揆といいます。京都は、前に言ったように、応仁の乱の主戦場で、その後も喧嘩ばっかりしてるんです。その中心は、京都の守護であった畠山氏です。
十年間も戦争ばかりすると、農民も地侍もウンザリして、地方の有力者たちが自分たちで仲間を組むんです。これが国人一揆です。
それで何を要求したか。守護に対して、おまえこそ出て行け、と言う。おまえはもういらない、出て行け、と。そして戦って守護を追い出す。下が上を追い出していく。国外追放です。農民が国外退去じゃない、守護の畠山氏が国外追放です。守護がいない。たった8年間ではあったんだけれども、これは驚きなんです。8年間、農民たちが自分たちで国を治めた。自治を実現したということです。



【一向一揆】
それから今度は宗教が力を持ちだす。石川県です。九州の人間は、北陸を意外と知らない。当時は加賀といいます。石川県、能登半島、日本海側。そこらへん一帯に力を持っていたのが一向宗です。
一向宗とは浄土真宗です。日本で今でも最大の檀家数を持つのは、一向宗です。ただ、今は一向宗とは言わない。浄土真宗です。いまでも一番檀家数的には一番多い。だからいいとかなんとかいう話ではないです。これはもともと北陸から広がるんです。浄土真宗の別名で、この時には一向宗と言っていた。
この中の派閥で力を持っていたのが本願寺派です。この派が布教に成功していくわけです。そのリーダーで蓮如という人が出てくる。お坊さんです。
この人が立役者で、この人の言うことはよくわかる、ウソじゃない、と信者をだんだんと獲得して、まず北陸一帯、次には東海です。ここに信者を獲得していく。
東海とは、名古屋と思ってください。日本の近世をつくっていくのは愛知県人です。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、この三人は何県出身ですか。愛知県出身です。これが愛知県人の今でも自慢です。今はトヨタがある。のちのちここの戦国大名である織田信長が一番苦しめられるのも、この一向一揆です。だから信長は、徹底して殺していく。そうしなければならないほど、一向宗が力を持っていくんです。でもこれはあと100年後のことです。

そこで宗教信者たちが一揆を組む。一揆を組んで、その拠点になったのは、越前つまり今の福井県です。そこの吉崎道場という。道場は何かというと、この場合にはお寺と思ってください。これが力をもっていくと、このあと大坂に越して正式にお寺を名のる。これを石山本願寺といいます。これが織田信長に徹底的に歯向かった。ここは今、何になっているか。織田信長の家来が豊臣秀吉です。豊臣秀吉も徹底的に一向宗を潰して、これを立ち退かせる。そしてその跡地に自分がお城を建てる。それが大坂城です。大坂城は石山本願寺の跡地に建っています。その後、力をそがれた本願寺が京都に引っ越して、さらにそれが分裂して、東本願寺と西本願寺になっています。これは次の徳川家康がやった。敵が一つにまとまるのが一番まずい。敵は分裂させないといけない。それで東と西に分裂させたんです。これがいまの東本願寺と西本願寺です。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、すべてがこの一向宗弾圧に乗り出している。それほどの勢力をもつ宗派です。

一向一揆は何をしたか。やっぱり一緒です。守護は出て行け、と追い出すんです。このときの加賀の守護は、富樫政親(とがしまさちか)です。彼は戦って、農民たちに負ける。これが1488年加賀の一向一揆です。
これで一揆勢が100年間、加賀の国を治める。京都では8年間だった。ここでは100年間です。あだ名、加賀国は、「百姓の持ちたる国」です。あああそこ、百姓がもっている国だ、でとおる。守護がいない国になっていく。そして100年間の自治を実現していく。これを再度、征服し統一していくのが、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康です。そこまでまだ100年あります。
力を握り出すのは、地方の力なんだ、国人層なんだ、と言うことです。国人層です。このなかからも戦国大名が登場してきます。

これで終わります。

授業でいえない日本史 16話 中世 室町時代の社会経済~15世紀の仏教

2020-08-07 02:00:00 | 旧日本史2 中世
【社会と経済】
【二毛作】
 ではこの室町時代、経済面です。
社会が発展するためには、まず生産力が上がらないといけない。生産力を上げるためには、どうするか。米は10月に刈り取ります。冬場は空く。そこで作れるか作れないか、これがポイントなんですよ。
表作と裏作、夏場と冬場、2回つくる。これを二毛作という。これに成功していく地域が増えていく。これは鎌倉時代からぼちぼちとはあったんだけれども、これがほぼ全国化していく。ちなみに表作は米です。裏作はです。これは基本、今も地方では、崩れていないですね。こういうことが、このときから始まるんだということです。

【肥料】 そのためには、農作物はふつう肥料が要る。刈敷、草を枯らした物、今でいう堆肥です。それと草木灰。これは酸性土壌を中和させる。酸は植物の敵です。酸がいいのは体の中の胃酸だけ。あれは食ったものを溶かすから。でも土がモノを溶かしたら、植物は育たない。
もう一つ、これは前にも言ったけど、肥え、です。下肥です。私が中学まで、一軒分、いくらで売れたか。300円ぐらいだった。私はそれをもらって喜んでいた。それを、母ちゃんがオレから巻き上げるんですよ。コソッと取っておけば良かった。
汲み終わると、はーい、終わったよ、水を流して、ハイ300円ね。うちの母ちゃんが、機嫌がよかったらいいけど、あらっ汲み取ってある、汲み取り代はあんたどがんしたね、と怒られて、オレがもろうた、と言うと、出せ、と言われて、もらったお金を出していた。
そうやって、300円払ってでも、それを600円で売るんです。それを農家が買うんです。うちの実家は農家だけど、私の祖母は、汲み取り屋さんから肥だめを買うのが高いから、市内までリヤカー引っ張って、便所を汲ませてください、と言って、民家に汲みに行っていた。そっちが安くつくから。500年も前じゃない。戦前のことです。
そしてその御礼に、年末になると正月用についたお餅を持っていっていた。それは子供の仕事で、私の父は子供のころに、その餅を汲み取らせてもらった市内の民家まで届けに行っていたと話してました。


【手工業】 手工業にいきます。この手工業は、まず輸入に頼っていた当時の貴重品が何か、とこういうことから。
2種類です。日本が海外から輸入するというと、中国か朝鮮なんです。当時の貴重品として、中国からは何が欲しかったか。これが生糸です。これはなぜ輸入しなければならないか。これまだ、つくれないからです。生糸はシルクです。シルクロードといって、世界史でも出てきました。
この生糸は読んで字のごとく、糸なんですけれども、これを布にして布にするためには、縦糸、横糸を織っていく。その布は何というか。これが絹です。
この絹を日本で織るところが特産地になっていく。京都です。京都の西陣が特産地になっていく。そこでおられた絹が西陣織です。でもこれは輸入原料の生糸に頼っている。
この先をいうと、これが江戸時代になると、日本は生糸の国内生産に成功していくんです。
こういう伝統がずっと明治まで続きます。明治時代も産業革命で原料を輸入して、結局、機械工業で輸入に頼っていたものを、機械工業で国内生産できるかどうか、そこが勝負なんです。日本が近代化するときの。
それができるようになっていく。そのもとになる伝統はこの時代からすでにある。これが絹織物です。

次が綿です。綿は絹に比べると、庶民衣料になっていくんだけれども、この当時は高嶺の花なんだ、と言いました。日本でもともと生産するのは麻で、これは保温力が非常に弱い。
この綿は朝鮮から輸入している。この木綿は、原料はワタなんです。木綿です。木綿の輸入です。
これも、このワタから糸を織って、それを布にしたのが綿織物になる。原料からまず糸にする工程と、それを布にする工程がある。
綿花は室町時代末期から、国内栽培に成功していきます。そこが三河です。これは今の愛知県です。
愛知県は二つの地域からできています。愛知県の東半分は三河という。それから西半分は尾張といいます。
これは日本が、江戸時代になるときに、よく出てくる。織田信長が愛知県人とは言ったけど、どこの戦国大名として出てくるかといえば尾張です。そのとき、その隣にあった三河の戦国大名は家来になっていた。これは豊臣秀吉じゃない。豊臣秀吉は信長直属の家来です。隣の大名を家来にしている。これが松平家康ですが、のちに名前を変えて徳川家康となります。徳川家康は三河の戦国大名ということです。
徳川という名前は今はめったにないです。ただ松平さんは時々います。東京あたりには。この松平がもともとの徳川家です。これが木綿栽培の盛んな三河地方です。だから豊かなんです。
江戸幕府の成立は、そういうことと関係する。そういった木綿栽培にいち早く成功するところは、お金があって豊かです。いまは三大首都圏みたいになって、東京、大阪、次は愛知です。名古屋です。


【座】 この室町時代で発達するのは、やっぱり商売関係です。商売のグループの仲間、これをという。いま座というと、芸能のグループの一座をさすような言葉ですけれど、もともとは商業関係のグループです。これを座という。
最初は畿内周辺の先進地帯から発展して、その一部にしかなかったんだけれども、これがこの時代にあちこちにできていくようになる。全国的に座が結成されていく。
ということは、金になる地方の特産品も、この時代にあっちこっち出てきた。特産品が出てくるということは農民の生活に余裕が出てきたということで、食うや食わずだったら、特産品は出てこない。

ここで一つイメージ訂正は、江戸時代の農民は、とにかく貧しいというイメージがあるけれども、どうもそうじゃない。
貧しいように見えたと言ったら、いいかも知れない。貧しいフリをしていただけで、実はけっこう隠し財産を持っている。だから見た目ほど貧しくはなかった。
そういう座が、京都や奈良だけではなくて、地方の農村にも成立してくる。
それは一面では、余ったもので、余ったものを買うからです。そのためにはお金が便利になる。この時代から、ぼちぼちお金が農村にも流通し出した。お金は人間の発明ですよね。社会的発明です。自然にあるものではない。
このお金について、鎌倉時代も言ったように、日本はこのお金を国内で鋳造してるかというと、してないです。これは輸入に頼っている。中国からです。中国のお金を輸入しています。
そういうふうに生産が増えて、社会が豊かになってくると、次に余ったものができて、それを交換することによって生業を立てるようになる。これが商業です。


【六斎市】 鎌倉時代には、月に3回、市がたった。だから三斎市といった。この回数が増えていく。室町時代には月6回になる。だから六斎市という。月3回だったら、店を建てられないけれども、月6回だったら、ここに小屋でも建てて、寝泊まりしようとなる。そうやって、商人たちがだんだん住みつくようになる。その家を見世棚という。そういう人たちが増えていくと、町になっていく。
定期市から常設的な見世棚のある町に変わっていく。この時代になると、そういう町がちょっとした地方都市にでもでき始める。

ここで鎌倉時代との比較をすると、鎌倉時代はこういう見世棚があっても、限られた地域であった。鎌倉時代の3大都市、江戸ではない、大阪ではない、と言いました。なんで江戸ではないか。大坂ではないか。まだ町がないんですよ、江戸はないです。徳川家康が作る城下町だから。大坂もないです。大坂はこのあと豊臣秀吉がつくる都市だから。鎌倉時代の三大都市はどこだったですか。京都、次が奈良、次が鎌倉です。京都、奈良、鎌倉、これが今までの三大都市であった。まだこの時代もそうですけどね。ただこれ以外にも見世棚の並ぶ町が発生しだした。


【明銭】 ではさっき言ったお金です。お金は中国からです。中国の明という国から輸入していた。だから明銭といいます。輸入銭であるということです。幕府が鋳造していたんではないです。

鎌倉との比較をすると、鎌倉時代も輸入銭だった。これは宋銭だった。中国の王朝が変わっているからです。
こうやって実質上、幕府が貨幣発行権を握っています。これは幕府が輸入しているんですね。足利義満を中心として。
そうすると、オレもこのくらいつくれるといって、銅を鋳つぶして、銅を溶かして鋳型に入れて、勝手にお金を作り出す人々が出てきた。こういうお金を、私鋳銭といいます。今でいうとニセ金になるけれども、ニセ金とまでは言わない。これはこれで良かったんです。この当時は、銅には銅としての価値があるから。ただ素材が悪いから、みんな輸入銭と比べて材質が悪いから、おなじ一文銭でも受け取りたくないなといって嫌うんですね。こういうのをビタ銭という。
ことわざで、ビタ一文払うか、とか、ビタ一文もない、という言葉を聞いたことないですか。オレはビタ一文持たない、のビタとは何か。この粗悪銭のことです。10円玉どころか1円の粗悪銭さえ持たない。文無しだ、ということを、ビタ一文持たないとかいう。このビタなんです。それで、ビタ銭はイヤだなぁと、あめ玉を買おうとしても、10円を出して、店のおばちゃんが、こんなビタ銭じゃ売らん、という。そういう行為を撰銭(えりぜに)という。

こういうのが流行りだすんですよ。しかしこうなると、自分がもってる10円玉に信用があるかどうか分からなくなる。我々は子供の時のお小遣いは10円だったけれども、君たちにはとっては100円かな。この100円玉でほんとにあめ玉一個、買えるかどうか分からない。それじゃ安心してあめ玉を買いに行けない。つまり商行為が成り立たたない。
それでもう撰銭をするなよ、と幕府がお触れを出すわけです。撰銭令というのは幕府が、撰銭をするな、いいじゃないか、粗悪銭でもビタ銭でも、100円なら100円で売れよ、というお触れまで出さないといけなくなったということです。商業が発達する中で、ビタ銭が流通し、商業が阻害されていったということです。

しかしお金の世界というのは、他の社会とちょっと違って、いったん悪いお金を認めると、「悪貨が良貨を駆逐する」んです。だから、世の中が粗悪銭だらけになってしまう。我々は、悪は滅びる、と信じたいところですけど、お金の世界はそうはならないのです。
ということは、誰かが一手に通貨発行権を握って、統一通貨を発行しなければならないことになります。それを誰が握るかは、とても大事なことです。意外と見過ごすところですが。


【為替】 日本でも商工業が発達すると、一方ではもっと便利さを求めて、為替が発達する。博多から京都まで100万円を送りたいというときに、100万円の大判小判をザクザク積んで、両手で持って東京まで運んでいたら、山に行けば山賊がいて、船に乗っていっていたら海賊が出てて、危なくてしようがない。だから現金は動かさないまま、手形だけを持って、あとで払いますからという証書を送る。こういうのを為替という。現金を動かさないで送金ができるようになる。
この前提になるのは、博多の商人と京都の商人、この時代、新幹線もなにもないから、面識がない人間同士が信用し合ってないとダメなんです。
面識はないけど、噂で聞いたことある、京都の何とか株式会社の社長は信用できるとか、博多の何とかさんは信用できるとか。そういう情報をもとに商売が成り立つ。信用が社会の中心を占めていくようになります。その輸送する手形を、割符(さいふ)と言います。


【年貢の銭納】 年貢も、それまで米で納めていたものを、お金で払うようになります。年貢が米俵1俵だとすると、この米一俵が5000円だとすれば、5000円のお金で払うようになる。これは貨幣経済から見ると社会の進歩なんです。これを貫高という。年貢の銭納です。貫高の貫とは何かというと、当時のお金の単位です。1貫目、2貫目で表す。紙幣はまだありません。

お金を持ち運ぶときの運び方ですけど、財布に入れて運ぶとか、そんなことはしないです。お金の運び方、どういうふうに運ぶと思うか。袖に一文銭を入れて、ジャリジャリいわせて運ぶなんてことはありません。
ヒモを通すんです。その名残が五円玉です。真ん中に穴があいているのは、ヒモを通して肩に担いでいくその名残です。お金は重たくて、かさばるから、ヒモを通して束にして、何重にもして肩に担いで、ロープを担ぐようにして運んでいく。
それは面倒だから手形で決済すると、京都との決済は簡単に済む。


【金融業】 そういうお金を扱うことも商売になって、金融業が発生していく。銀行とか言わない、土倉という。これはもともと倉を持っている家は、金持ちなんです。そこにお金をいっぱい貯めている。そこで、あんたはお金もっているから10万円貸してよ、いいよ、となる。
それからもう一つ金持ちの代名詞が酒屋です。酒屋がなぜお金と関係があるかというと、お金持ちだからです。酒を作るような醸造元というのは、地域のお金もちなんです。資金がある。そして余ったお金を貸し出す。
ただし利息は取る。金貸しというのは、これがバカにならないくらい儲かるんです。
貸しただけで儲かる。今のように金利が年1%もない、0.1%もない、そんな時代は異常なんです。だいたいこの当時は、年10%、20%とか、今の高利貸し金融ぐらいの金利があるのが普通です。年20%で100万円貸したら、1年間で120万円になる。これはぼろい儲けです。これはバカにならない商売です。
逆の立場で考えて、だから高金利ローンに手を出したらいけないよ。逆に年利10%とか、20%とかの高金利でローンを借りたら、利子がバカにならない。思ってる以上に。
年10%とか言うと、高いと分かるから、日歩で言ったりする。1日たった3円よとか。1日3円というのは、100円借りて1日で3円というのはぼろい儲けです。年利で300%ぐらいになる。それを複利でやるから実質500%ぐらいになる。


【運送業】 運送業です。人は陸を行くんです。物は海を行くんです。大八車で引っ張って山越え谷越え、京都まで持って行くのは大変だから、物は船で運ぶ。そういう水上交通の運送業から始まって、問屋に発展する。いまもある問屋というのは、これです。もともと海上運送をやる鎌倉時代の問丸から発展し、その問丸が問屋に変わっていく。船を持ってる。
この船をもってる人は、もともとは頼まれて、運んでくれと言われたら、仕方なく受けていた。しかし定期的にあの人は、10日に1度ぐらい、オレに頼みに来る。そしたら、ついでに、10日と20日と30日は、大坂まで船を出すと決めて、そこにオレも、オレも乗せてという人間がいっぱい来るかもしれない。そしたらもっと儲かる。これが船の定期便です。これを廻船という。これが遠距離輸送です。モノの遠距離輸送です。
それと違って近距離輸送は、陸上を馬で運ぶ。これは馬借(ばしゃく)という。馬の背に乗せていく。



【15世紀の仏教】
では次、室町時代の宗教です。もう15世紀後半です。応仁の乱が発生したあとです。
応仁の乱は戦場はどこだったか。地方じゃなかった。日本の首都京都です。そこに住んでるのは、もともと伝統的な都だから、お公家さん、貴族なんですよ。彼らが家を荒らされて、ますます没落していく。
彼らが信じていた宗教は、実は平安時代の宗教なんです。だから平安時代の宗教は公家の没落にともなって没落していく。これが旧仏教です。奈良仏教とか平安仏教ですね。

それに代わって、新しく発生した仏教が逆に勢力を拡大する。これが鎌倉仏教です。
鎌倉時代には、いっぱい宗派がでできた。この宗派の支持層は貴族じゃなかった。もっと貧しい農民や、貴族の下の武士、こういった層に受け入れられていたのが鎌倉仏教です。彼らが力を持っていく。
宗教というのは、これは良い悪いは別にして、信じた人たちは、お寺さんに寄付をしなければならない。または進んで寄付をしていく。この寄付によって、鎌倉新仏教のお寺が各地にどんどん建てられていく。

私もこの歳になると、死んだ親父のお墓のこととかで、お寺さんの御世話になる。お寺さんもやっぱり生活もしていかないといけないし、お寺の本堂とかも100年ももたない。そうすると、50~60年ぐらい前の本堂の瓦がずれたりして、建て替えないといけない。立て替えの費用は、誰が払うのか。平安仏教だったら、大金持ちの貴族がパトロンになって、何億円も寄付してくれるからそれで良かったんでしょうけど、鎌倉仏教は庶民仏教だからそんな大金持ちのパトロンはいないわけです。では誰が払うか。檀家の我々が払うんです。お墓がお寺にあるというのはそういうことです。もともとお寺さんというのは、そうやって信者の寄付とか御布施によって成り立っています。


【法華宗】 そのなかで京都に広まったのが、日蓮宗です。鎌倉時代に日蓮宗が登場した。これがなぜか、時代によって名前が変わっていくんです。法華宗という。根本経典が法華経だからです。日蓮宗が、一番正しいことが書かれているとしたお経は法華経だった。だから日蓮宗は、南無阿弥陀仏じゃない、南無妙法蓮華経です。妙法蓮華経を縮めて法華経です。だから法華宗という。

ここに有名なお坊さんが出た。日親という。この法華経、つまり日蓮宗で、日親の教えがどこに広まるかというと、京都に広まる。京都の貴族ではなく、町人たちに。この京都の裕福な町人たちを町衆といいます。彼らは商売人で、けっこうお金を持ってる人たちです。
彼らが、応仁の乱でめちゃめちゃになった京都を復興していきます。オレたちの街じゃないかと、自分たちで金を出して、道割りを元に戻して、家を建て直していく。こういうことをやったのは貴族ではなく、行政でもなく、町衆と呼ばれた彼らです。応仁の乱後の町づくりやっていくのも彼らです。法華宗は、そういう人たちに広まっていく。

彼らも一人一人が別々の動きをするんじゃなくて、今でいう商工会議所のような、みんなでこれをやろう、そうだそうだ、という結束した団体を作る。これを法華一揆といいます。彼らが、廃墟となった京都の町の復興を行なう立役者になっていく。これが京都の動きです。
ただこういうふうにお金持ちが団体つくると、政治団体になっていく面もあります。今でも商工会議所とか、日本経済団体連合会とか、略して日本経団連とか、そういった経済団体が、政治力を持って行くようになる。


【一向宗】 では田舎の方では、これは前回も一揆のことで触れました。
一向宗が広まったのは、北陸地方です。北陸地方というのは、京都から見ると山の向こうなんです。京都から北に山を越えたら北陸地方です。一向宗は今では浄土真宗といいます。
ここに出た有名なお坊さんは、蓮如というお坊さんでした。この人は、自分の教えを言葉でも言うけれども、手紙で書いたら保存されるから効果があるぞと言って、ずっと平易な教えの文章を何枚も書いて、それを地方の村々に配っていく。
私のウチの近くのお寺さんは、浄土真宗でやっぱりこれですね、配りはされないけれども、お寺の前に掲示板を置いて、そこに週に一回ぐらいペタッと貼る。いい言葉をサッサッと筆で書いて、ペタッと貼る。時々見ながら、ああ今週は当たってるなぁとか、今週はちょっとはずれてるなぁとか、思いながら。これはいいですよ。道行く人に、一行ですぐ読めるような言葉を書いて掲示する。
そういう布教方法で広まったところが北陸地方であり、もう一つは織田信長に敵対する東海地方でした。その手紙のことを御文というんです。この御文によったその信者団体のことを、という。浄土真宗の場合には。これが地方の村々に入り込んで、村々同士が団結していくような政治力をもつと、その裏には宗教があるから、こういう団結した村々のことを一向一揆というんです。

これが政治力になっていく。政治力を高めて、その総本山というのが、もともとは福井県越前の吉崎というところにあった吉崎道場です。これが道場といってますけど、お寺です。それがもっと中央の大坂に引っ越して、石山本願寺になった。
織田信長と徹底的に戦った時期もある。織田信長の家来の豊臣秀吉はついに、これを立ち退かせて、大坂城を建てた。
ここでの大坂の坂は、この坂を書くんですけれども、歴史的には間違いじゃないです。明治になって、この坂は、商売人の町で坂を転げ落ちるというのは縁起が悪いということで、いまの阪に変えた。大坂の字は間違いじゃないです。


【禅宗】 それから武士が好きなのはちょっと厳しい禅宗です。ずっと座る修業をする。この禅宗のなかにも、はぐれ禅宗がある。オレは権力は嫌いだ。主流派は権力と結びつく。反主流派は、オレは権力とは縁を切るという禅宗がある。この一派を林下といいます。
エリートじゃないけど、有名な坊さんがこの反主流派から出てくる。これが、とんち坊さんで有名な、一休さんです。ただ一休さんでは正解にはならない。一休宗純です。
この一休宗純が何を教えて、それを聞いた人が何をつくったか。日本が不思議なのは、飲食の作法が芸術になる。ただ茶を飲むことが芸術となるんです。茶道といって。これに影響を与える。
この茶道を作った人物は、一休さんの弟子なんです。村田珠光という。この弟子の弟子が、茶道を大成した千利休です。今は表千家と裏千家、二つに分裂していますけど、その茶道の家元の千家です。この佗茶が芸術になれたのはこの禅宗、一休さんの禅宗、があったからです。
これで終わります。

授業でいえない日本史 17話 中世 東山文化~戦国大名

2020-08-07 01:00:00 | 旧日本史2 中世
【東山文化】
東山文化です。将軍は何代将軍のころですか。8代将軍足利義政、時代は1400年代後半です。応仁の乱のころの文化です。


【銀閣】 では文化です。北山文化はいいました。年とったらますます綺麗に見える金閣寺。若い頃はシックな、彼女連れて行くんだったら銀閣です。ただ銀閣は、正式には慈照寺銀閣という。8代将軍足利義政がつくりました。
ここに、金閣の板敷きの間とは違う書院造という新しい様式が生まれる。一言でいうと、畳部屋です。この畳の目的は、自分が快適に過ごすためです。その前の寝殿造りというのは、客人をもてなすためです。自分が住んだりはしません。目的が違う。快適に過ごして何をするか。勉強するんです。つまり自分の勉強部屋です。
その書院造りの代表格というのは、銀閣そのものではなくて、実はその隣に建っている慈照寺東求堂同仁斎という目立たない建物です。
昔の窓は板なんです。ガラスなんかない。勉強するとき、板の窓を閉めたら部屋は真っ暗になる。今は想像できないかもしけないけど、ガラスがないときの家の中は真っ暗です。そういう真っ暗ななかで、勉強したいときに、窓を開けたら風か吹き込んで寒い。京都は夏は暑く、冬は寒い地域です。それでどうするか。窓に紙を貼って光を通すんです。これが障子です。板は光を通さないけと、障子は光を通す。襖(ふすま)ではないですよ。障子(しょうじ)です。今のような昼でも蛍光灯をつけていたら分からない。暗いから障子をあけろ、というけれども、その前から見ると格段に部屋が明るくなったんです。あれで風も通らないし、障子は明障子といって、部屋のなかが明るくなって勉強できる。


【佗茶】 では佗茶です。茶道のことを正式には、佗茶という。佗茶を始めた人、思想的には一休宗純の教えがあって、この人の禅の影響を受けて村田珠光がやりはじめた。
お茶は精神を高める一つの作法なんだとして、その作法を一種の芸術にしていく。そこに次の戦国期に武野紹鴎がでて、さらにこれを高め、さらに次の豊臣秀吉の時代に千利休がでる。千利休の名前は聞いたことあるでしょう。お茶を大成した人です。飲み物が芸術になる。こういう芸術を私は他の国には知りません。飲み方を芸術にしていくというのは日本だけじゃないかな。


【連歌】 次に、この時代に成立したものとして、連歌というのがあります。この基本形は奈良時代に成立した和歌、日本語はなぜか5音と7音が語呂がいい。それでぴしゃっと決まる。今でも言いたいことを、5音と7音の一言で言える人はすごいです。奈良時代に成立したのは和歌です。国語では短歌といいますが。これはすでに根づいている芸術なんですけれども、これをシャレた一種の遊びにしていくんです。
和歌はぜんぶで何音ですか。77がつく。57577です。その575の前半を1人が読んで、それに続けて次の人が後半の77を読む。こうやって、次に3人目がまた575を読む。こういう遊びを発明していくのが、南北朝時代です。二条良基という貴族が、こういう遊びを一冊の本にしていった。これを菟玖波集と言います。

これがもとになって東山時代に、さらに流行していく。流行させたのは、もともとお坊さんで、宗祇といいます。その連歌をまた本にする。新撰菟玖波集という。この人は、京都でふんぞり帰っているお坊さんじゃなくて、旅に暮らしていく。諸国を回って、面白いこの連歌の遊びを、各地に伝えていくうちに、これが全国的にだんだん流行っていく。

この遊びは今ではありませんが、なぜこのことを言うかというと、これが今でもある日本人最大の文芸に発展していくからです。この575と、77を合わせた原型が、ここで前半後半に分かれる。日本が世界に誇る世界最短の文学は何ですか。これが575の俳句です。前の句が独立していくんです。あと200年かかって。そこまで行くのは江戸時代ですが。江戸時代に俳句が成立する。その原型がここでできるんです。
歌の長短は、短いものから長くなるのではない。小説も、短編集書いてから長編集にいくのではない。日本はヘタの長話はダメです。長いものよりも短いものがいい。短いもの、短いもの。私も注意しないといけないけど、本当の話のうまい人は簡単明瞭、無駄のない言葉で一言ズバッと言う。それでオーケーです。
そこまで行くには、頭がたいがい良くないといけないと思ったりするけど、下手な人ほど話が長い。それでいて、まったくおもしろくない。日本はそういうふうに短いものが好まれる。これがのちの俳句です。その俳句の前提になる。短歌から遊びの連歌、それから世界最短の俳句になっていく。
それを次の戦国時代に集大成する人が、山崎宗鑑です。連歌の本として、犬筑波集をつくる。変な犬がつくのは、大したもんじゃないっていう謙遜の意味合いです。

こういうふうな連歌師が諸国を遍歴していく。遍歴というのは、諸国を旅に暮らすという意味です。旅に暮らす芸能者というのがこの時代にはいます。
昭和初期の名作の伊豆の踊り子、川端康成。君たちは、知らないかな。古くは吉永小百合、我々の世代だったら山口百恵、それも知らないかな。伊豆の踊子は、何回も映画になった。どういう話かというと、東京に住む学生と田舎の旅芸人との伊豆での出会いのお話です。村から村へと芸を売っていく旅芸人の一座というのが、昭和の初めぐらいまでは各地にあったんです。


女性の歩き旅の大変さは、男は気づかないけど、女性の用足しなんです。私も一度やってみてそれがよく分かりました。男は立ったままどこででもできるけど、女はそうはいかない。しゃがむと大事なところを虫に食われたりする。だから昔の女性は、立ったまましていたんです。昔の女性の下着は腰巻きだから。
これは昭和の終わり頃まで地方の農村では見られた風景です。野良仕事をしている女性は、しゃがんで用を足したりはしません。90になる私のお袋も、若い頃はこれが上手でした。今はしませんけど。

私は最初これを農村だけでのことかと思っていたら、私の友人が太宰治の「斜陽」を呼んで、それと同じオシッコの仕方が書いてあるというんですね。たしかに東京に住むもと華族の上品なご婦人が、庭の片隅で立ったままオシッコをする情景が書いてあります。とするとこれは、全国共通の、日本女性共通の作法ですね。着物の裾をからげて、腰を曲げて、後ろから垂らすやり方です。今の若い女性にこれをできる女性はいないでしょうけど。なんか残念ですね。こうやって隠された伝統文化がまたひとつ消えて行きます。

この連歌師は男ですけど、そうやって旅から旅に暮らしていく。そして、そういう芸能を民衆にまで広めていく。そういう活動が成立しているということです。このような文芸は、浄土教を地方に広めたたちの活動、琵琶を弾きながら平家の怨霊を鎮めた琵琶法師たちの活動、そしてこの連歌師たちの活動と、脈々と続いているものです。このような活動の中に、のちの俳句も成立します。江戸時代に俳句を確立した松尾芭蕉も、旅に暮らした人です。


【花道】 それから花です。今でもある女性のたしなみ、男でもいいけど。花道です。これが日本の場合には、家元になっていく。池坊専慶という、もともとはお坊さんです。
お茶といえば千利休の千家でしょ。花といえば今でも池坊家です。


【枯山水】 次は、庭師ですけれども、雄大な自然、この水の豊かな日本の風景を、水を使わずに表現する。京都は土地が高くて、土地は貴重で、大庭園なんかなかなかもてない。お寺の庭が狭いです。そんな狭い庭で、大自然を表現する。水を使わずに水を表現する。これを枯山水といいます。
石と砂だけで、代表的なものは京都の竜安寺の石庭です。写真で見れば見たことあると思うんですけど。真っ白い砂の下地に、風紋の波を松葉箒でつけて、石をポコポコと置く。イメージ沸かないかな。世界的に有名です。
こういう世界的に有名な高いレベルの芸術を生んだ人たちは、低い身分の人たちだった。身分です。これをつくったのは善阿弥という名前が分かっている。そういう人たちの活動があった。これも珍しいです。身分が低いというと、ふつう芸術とは縁がないんだけども、日本の場合には、低い身分の人たちに、高い芸術を生む何かがあった。この何かを説明できたらすごいだろうけど、私にもまだ分かりません。ただこれは身分だけで見るのではなく、神や仏との関係からも見たほうがいいような気がします。


【水墨画】 次は絵です。墨一色で大自然を描く。赤とか、黄色とか、青とか使わない。墨一色で絵を描く。これが水墨画です。代表格は雪舟です。この人が大成するんですが、そこまで行くには、お坊さんたちの活動がある。お坊さんの教養としてが始まって、明兆、如拙、周文、そのあとに雪舟が大成する。雪舟の代表作は四季山水図といいます。
もともと京都なんだけど、この時代は戦国時代で、京都から疎開していく。山口です。山口で活動した。そこで活動した文化人たちが集まる山口は、西の小京都と言われるほど一時栄えていた。


【風流】 それから庶民芸能も盛んになる。風流(ふりゅう)という。派手なカッコウして、ふつうの町人や農民たちが踊る。
地方にはよく残っています。ただ九州では浮立と書くところもありますね。
私の住む村でも、昔は風流踊りを持ってました。実は、私が小学校にあがろうとする頃まで、うちの村でもありました。
しかし、夜8時ごろから練習してたら、あるお母さんたちが、うちの子供は、小学生だから夜8時すぎに練習に出せないとか、いろんな事があって、昭和30年代かな、私が小学校であがるころに、たいがい終わってしまった。
今でも時々地方のローカルテレビなんかが放送するのは、そんなときでも、うちは守るんだと言って、守り続けた村です。

この風流踊りというのがあって、念仏踊り、サラッと言ったけど、鎌倉仏教の中で一遍上人という人が、踊りながら念仏を唱えれば救われるぞ、という。これと合体していく。これと合体して、派手な衣装を着て踊る。これが今の盆踊りになる。盆踊りは、腰の曲がったお婆さんたちが踊るんじゃない。村の若い早乙女たちが、腰をふりふり踊る。男たちが寄ってくる。そういう盆踊りというのが、ここで発生していく。四国徳島の夏祭りの阿波踊りも、ルーツは盆踊りだと言われています。


【祇園祭】 それから山を曳く祭りもあります。これは別系統の祭りになる。そのルーツは京都で発生するんです。京都一番の神社は、祇園さんなんですよ。そこのお祭りです。祇園祭です。正式には八坂神社というんですけど、八坂神社と誰も言わない。祇園さん、祇園さんという。近くに舞妓さんたちがいる。私も行ったことないけど、祇園の町には、舞妓さんを示す看板も何もないそうです。通が行くところは、看板なんか立てなくても、財界から経済界からお偉いさんたちが、そこに来るんですね。
この祇園祭に何をするかというと、今でも日本最大の夏祭りですね。これが山を曳く。祇園祭は山を曳くんです。
これが全国に、山を引くお祭りとして伝わっていく。九州にもあります。博多の祇園山笠、あれは山を担ぐ形です。唐津くんちの曳山もあります。これは山を曳きます。これは行政の力でもなく、侍の力でもない。町人の力です。

応仁の乱で廃墟になった京都の町を復興したのは町衆たちでした。今でいうと、オレたちの力でもう一回京都の町を復興しよう、という町おこしです。これに成功したのが京都の町衆たちです。ちょっとしたお金持ち、商売人たちです。
彼らが町を興すときには、楽しみもないといけない。町をつくるために、お祭りをするというのは、古来から人間がやって来たことです。京都を復興するためのお祭りが、この時代から始まる。平安京の時代からじゃない。
ここで京都の町の性格が変わります。行政の町から商売の町へと変わっていきます。その祭りの核となったのが八坂神社。別名、祇園社です。



【戦国時代】
応仁の乱後は、全国的に戦国時代です。京都の将軍はもう形だけ、誰もいうこと聞かない。あとは一国一城の主だらけですよ。詳細はカットします。地図を見てください。


(戦国大名)


このなかで、天下取りに向かうのは誰か。愛知県は西の尾張と、東の三河だったね。ここに、織田信長豊臣秀吉徳川家康、これ三人ぜんぶ愛知県人です。
まず織田信長です。地図かちょっと見にくいけれども、織田信長の横にある松平というのが三河の徳川です。あとで徳川と名前が変わります。豊臣秀吉は、もともと農民で、信長の草履取りから出世する人物です。

あと戦国大名として有名なのは、一番有名なのは武田信玄ですかね。山梨県の甲斐国の武田信玄、風林火山。越後の上杉謙信。戦って一番強いのは、この二人のうちどっちかだと、ずっと下馬評が高かったんだけれども、京都に登る前にずっとこの川中島で戦って、どっちも強いものだから、なかなか決着がつかなかった。そして一生懸命に戦っている間に、織田信長がぽっと京都にいく。こういうのを地の利という。織田信長の尾張は京都に近い。

あと出てくるのは、鹿児島は島津という。島津は覚えておかないといけない。ここは明治維新に関係します。同じく長州は毛利です。土佐は長宗我部、肥前は竜造寺です。同じ理由です。ただこのあと、土佐は山内氏に、肥前は鍋島氏に変わります。



【戦国大名の分国経営】
ではその戦国大名たちは、どういう政治を行ったか。これは国によって違う。決まりはないから、ただ共通点を言っていきます。力があれば、下の者だって上に行く。これを下剋上という。
室町将軍は滅亡してはいない。勝手に滅亡させている人いませんか。将軍はいます。ただ誰も命令を聞かないだけです。数年間は、どこにおるかさえよく分からないけど。


【寄親・寄子制】 戦国大名は、自分の家来たちを統率する時に、家来との結束を深めるために、何をモデルにしたか。親子関係です。他人同士が親子の契りを結ぶ。
今でもちょっとあちら側の人になると、義兄弟のちぎりを結んだりする。肉親関係をマネするんです。オレとおまえは、他人だけれども、俺をお親と思え、という。これを寄親といいます。そして一方も、私を子供と思ってください、という。これを寄親・寄子制といいます。親子関係を基本にして、それをモデルにして家臣団の軍事制度を作る。そして非常に親しい関係になる。これを他人行儀にやると、水くさいといったりする。

ここではいつのまにか、それまでの夫婦別姓は、姿を消しているように思えます。戦国大名の家としての結束の強さが求められています。他の一族が入る余地はありません。嫁に来たら、その段階でそれまでの姓を捨てて、嫁ぎ先の姓に改姓し、家の一員になったのではないでしょうか。

今のスポーツ界がいろいろと叩かれてるのは、昔のスポーツ界というのは、体罰も正直あったし、良い悪いは分からないけど、もっと緊密だった。先輩は恐かったけれど、先輩は後輩をいたぶった分、飲み会になると、後輩に金を出させたら恥という感じがあったから、オレの金で飲め、というところがあった。その代わり言う分は言う。それが今は、パワハラだとかいろいろあって、みんな深くつきあわないようになってきた。そこらへんで日本社会が、大きく変わってきたという感じがあります。
だから、ガミガミ言う人が嫌われた先輩ではなかった。嫌われたのは、ガミガミ言うばっかりで、飲み会でも金出してくれない。そういう先輩が、一番嫌われていた。言うだけ言って、何もおごってくれない。面倒見も悪い。そういう先輩とは、ハイハイハイハイと返事だけして、誰もつきあわなかった。


【城下町】 そしてそういう家臣団の親密な繋がりのなかで、新しい町、城下町ができる。
親である大名が城をつくれば、子である家来はそのお城の周囲を守る。そうすると、集合して住む町ができる。町ができると、人は食わないといけないし、水も必要だから、いろんな設備ができてくる。
昔は、お城は砦だから、平地は一番攻めやすくて恐かったんです。それまでのお城は山の上にあった。中世の城は山城でした。この近くにもそういう山城の跡はいっぱいあります。山城だと何かと不便です。でも人がこれだけ守っていると、平地に降りても大丈夫になる。これが今のお城、平城です。その代わり周りを堀で囲む。そして家臣団をその周囲に住ませる。戦国大名はみんなこういうことをやる。
しかし、家臣はもともとは地侍で、暇な時は農作業をしていた。自分の土地はお城から遠い所にあった。城下に引っ越すと、地元の農民との繋がりは薄れて行く。土地と人が、ここで分離していく。サラリーマン武士に一歩近づく。


【指出検地】 政治にはお金がかかる。税金が必要です。いつも言うように、選挙にお金をかけるな、ということと、政治にお金がかからないのは、ぜんぜん別です。政治には必ずお金がかかる。
お金がなかったら、道はできてません。橋もできません。学校だってできません。お金がかかるんです。じゃあどうやって税金を取るか。家臣団から、おまえ、土地をいくらもっているか、聞くんです。本当は自分の財産のことは言いたくない。おまえ銀行にいくら預金してるか、と聞かれても教えないでしょ。こんなことを税務署に聞かれたら。いろいろな税金がかかる。どれだけの土地をいくらもっているかを聞かれる。
そして自己申告させる。土地台帳を出せ、といって指し出させる。はいわかりました、出します、となる。これを指出検地という。つまり土地台帳を提出させる。
これに基づいて、この時代の財産は、お金より土地のほうがらより価値があるから、土地が多ければそれに応じて、戦さの時におまえは何人兵隊を出せ、おまえは馬を何頭だせ、という軍役を課していく。
その単位が、土地から出る年貢を銭に換算した貫高制です。その代わり、差し出した土地を、誰かが横取りしようもんなら、俺がとっちめてやる。それで家来も安心する。ここは、おまえの土地に間違いないと。土地の保障の代わりに軍役がある。
さっきの先輩の話で言えば、やかましいったかわりに、おごってやる。ちゃんと釣り合いとれている。やかくしいったかわりに、ちゃんとおごってやらないといけない。面倒みてやる。このバランスが崩れると、下剋上になる。あんな先輩しらねーよ、となる。

ここではまだ地方、地方の貴族の土地がまだ残っていた。貴族の土地は荘園という。戦国大名はこれを否定していく。
地方に見たこともない貴族の土地があったとする。だれが地主か、そんなの知らないぞ、と言って、ぶんどっていく。そうやって、荘園制が否定されていく。


【分国法】 気の荒い子分たちが、いっぱいいる。喧嘩が絶えない。
例えば、誰か二人の家来が喧嘩して、土地の取り合いしたら、喧嘩になる。喧嘩を認めるということは、この二人の裁量を認めるということです。
戦国大名は何をしたかというと、言い分はオレは聞くから、この土地が誰のものかは、俺が決める、と言う。それをせずに二人で喧嘩して決めようとしたら、両方ともにバツを与える。こういうのを喧嘩両成敗という。
単純に喧嘩が悪いからやめなさい、と言うんじゃない。そんな平和なものじゃない。なんでお前だちが勝手に喧嘩するのか。どっちが悪いかは、誰が決めるのか、おまえたちじゃなかろう、オレだ、ということです。だから喧嘩したら両成敗です。成敗というのは処罰するということです。喧嘩両成敗です。
でもこの時代は、あっちこっちでの刃傷沙汰ばかり、喧嘩ですよ。武士の喧嘩は決闘です。ヨーロッパでもそうです。100年前まで、ヨーロッパではピストルで決闘をしていた。そういうのを私闘という。
それを勝手に喧嘩するな、と言う。その意味は、勝手に善悪をおまえたちが決めるな、ルールは俺だ、ということです。
それまでは、自分の土地は自分で守るのが当たり前だった。戦国大名は、その自力救済を否定する。決めるのはオレだ、と。

喧嘩の種は、親が死んで、二人の息子がいれば、どっちが親の財産をとるか、これもうお定まりの、洋の東西を問わず兄弟喧嘩のはじまりです。それを防ぐ。
嫡子単独相続という。ふつう長男だけれども、長男でなくてもいい。親が次男を跡取りだと決めたら、次男が嫡子になる。跡取り1人に単独相続させる。

家来たち親同士が、息子と娘を結婚させるのも禁止します。自由恋愛を重視したとかではありません。歴史を今の価値観で考えると間違います。そういう武力をもった人間同士が集まり、いつ主君が家来から殺されるか分からないときに、有力な家来同士が息子と娘を結婚させたら、これはすぐ軍事同盟になる。軍事同盟禁止です。結婚は軍事同盟になる。これは日本でもヨーロッパでもそうです。ヨーロッパの王室なんか、ぜんぶ親戚だらけです。軍事同盟だらけです。だから私婚の禁止です。ということは結婚は私的なものではなく、公的なものだったんです。
私の家はもともと普通の農家ですが、私の祖父と祖母の世代までは、男三兄弟に、女三姉妹が、順番通りに嫁いでいくことは珍しいことではありません。親同士が仲がよくてそう決めたなら、それに従って結婚することは何の問題もないことでした。そういう親戚があります。

それから、個人責任制じゃない。家の中で長男が悪かったら、次男も親も全部悪い。縁坐制、連座制です。こうやって一家の長は、家族を見張る義務を負う。おまえ一家の主だったら、自分の嫁さん、息子とか、娘とか、おまえが監督しろ。おまえがチャンとできないからこうなる、だからおまえの責任だ、となる。このことは、嫁が完全に家族の一員になっていることが前提です。嫁が他氏族である夫婦別姓ではこういうことはできません。


【楽市令】 武士が集まるということは、武士も食わないといけないし、商売人が必要になる。商人は、誰でも自由に来ていいぞ、集まっていいぞ、という。これを楽市と言う。楽市の楽は楽しいじゃない。税金とらないから、儲けほうだいよ、あとは能力次第ですよ、ということです。
税金とらないというのは、今の中国の経済特区と似ていますね。中国の経済特区というのは、外国企業は税金取らないから来てくださいということです。ホイホイ日本企業も行っている。
だから、城下町というのは、お城のまわりに武家屋敷があって、その周りには町人町ができる。こういう戦国経営をしていきます。
これで終わります。

日本仏教史  末木 文美士

2011-01-27 21:33:56 | 旧日本史2 中世
日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫)
末木 文美士
新潮社


『仏教思想の大きな特徴は縁起にあるといわれる。縁起というのはあらゆる現象世界の種々の原因や条件が寄り集まって成立しているということで、それゆえにこそ一切万物は変転きわまりない。
これが無常といわれることである。
このように万物が変化し、縁起によって成立しているということは、裏からいえば、他によらずして自存し、永遠に存在するようなものは何もないということである。
他によらずして自存し、永遠に存在するものは哲学の用語で実体とよばれる。
したがって、縁起の原因は実体が存在しない、無実体であるということにほかならない。』

『このような縁起・無実体の原理にたつならば、この現象世界を離れて何か真実の世界があるという考え方は否定される。』

『日本人の死生観によれば、死とはタマ(魂)が身体から離脱することであった。
まだ新しい死者のタマはアラタマとよばれ、荒々しく、人に危害を加える危険な存在である。
とくに若くして死んだり不慮の事故で死んだもののタマにその傾向が著しい。
そこでそのアラタマをまつり、鎮める必要が出る。死者供養が必要なゆえんである。
こうして供養され、時間が経過するにつれ、しだいにタマはその荒々しい性質を失い、穏やかなニギタマへと変化する。やがて年数を経るとタマは個性を失い、祖霊と一つになる。
これがカミ(祖先神)である。
タマがカミになるのに大体三十三年かかる。
年忌の最後が三十三回忌になるのはこのためである。これをとぶらい上げなどとよぶこともある。』