ここから中世です。
前回は、1159年に平治の乱というのが起こった。ここは平清盛と源義朝の戦いだった。平清盛が勝って、源義朝は死んでしまった。それから20年経つと、その子供、まだ当時は子供だったけれども、もう30才ぐらいになっている。これが源頼朝です。何をつくった人ですか。1192年に鎌倉幕府をつくる人なんです。その話に行くわけです。
【平氏政権】
その覇権争いを源平合戦というけれども、それに行く前に、平氏の全盛期がある。1100年代、これが平氏政権といいます。中心人物は平清盛です。
この人は武士ですが、京都に住んで、貴族社会の中で出世していこうとするんです。その貴族社会の中に武士が入っていくことによって、自分の力を保つんです。彼は貴族ナンバーワンになる。1167年に、天皇の家来のなかではナンバーワンの太政大臣になる。貴族の中で一番偉いのは太政大臣です。征夷大将軍ではありません。
その平氏が一族みんなで貴族社会の高位高官、偉いポストを総なめにしていく。ささやかれた言葉、「平氏にあらずんば人にあらず」と都の人たちがいうほど、平氏全盛時代が約10年ちょっとぐらい続きます。
【日宋貿易】 ではその資金源、政治にはお金が必要です。それがだったか。貿易なんです。中国との貿易です。世界史を覚えてますか。中国は1100年代、何という国だったでしょうか。宋という国です。日宋貿易をしていた。宋の次がモンゴルの元、元のつぎが明です。宋、元、明とくる。その宋です。ここと貿易をすれば儲かる。貿易はもともと、博打的な儲けが大きい商売なんです。それまで中国の船は、九州にまでしか来てなかったんです。九州のどこが窓口だったと思いますか。これが博多です。博多は九州最大の貿易港です。今でも大きな貿易港なんだけれども。
これをもっと京都の近くに呼び込みたい。しかしそのためには瀬戸内海には島がいっぱいあって、綺麗なんじゃなくて、船にとっては迷惑なんです。こういう島は迷惑じゃないですよ。どういう島が船にとって天敵か。こんな島、見えない島。干満の差、引いたときには見えるけれども、満潮の時には見えなくて、ここに船が乗り上げると終わりです。
船が座礁すると、トラックで引っぱろうが、人間が押そうがビクともしない。そのまま廃船になって、朽ちるのを待つだけ。ここに船を航行させて、どうにか呼び込むことに成功した。そのために壮大な港を作る。この港を大輪田泊という。泊というのは船が泊まるところ、つまり港という意味です。何もないところに平清盛が初めて港をつくった。これが、いま日本ナンバーツーの貿易港、神戸です。神戸はここから発展していきます。
瀬戸内海には、船の航行を願う神社として、広島県の厳島神社があります。平氏ゆかりの神社です。あの「秋」の宮島ね、紅葉で有名な、という人がいますが、「安芸」の宮島、です。安芸は広島県の旧国名です。
【宋銭】 では貿易品は何か。日本は今は出ないけれど、昔は金が出た。銀も出たんです。この金でもって、中国の何が欲しかったのかというと、変な話ですが、中国のお金ですね。これを宋銭という。お金ぐらい自分でつくればいいじゃないか。覚えている人いますか。日本はつくり続けて12種類もつくった。皇朝十二銭というお金を。しかし流通しなかったんです。日本にはまだ実質的にお金がないんです。
そのころ、中国はお金は要らない、と言いはじめた。なぜ要らないか、というのは、日本史を少しはずれるけれど、中国は紙でやり始めたんです。紙幣です。これを交子という。紙のお金を使い始めて、それまでの銅のお金は要らないから、安く売ってやるぞという。すると日本は、買う買う、という。そしてそれを金で買う。中国にとっても要らないものが高く売れるんだからいい儲けです。日本にとっても通貨をもつというのは、いつの時代もものすごく儲かることです。しかも自分でつくるよりも、輸入すれば手間が省けるわけです。
事実上、これで平氏が日本の通貨発行権を持つ。実質上の通貨発行権を平清盛が持つ。自分でつくろうと、他人がつくったものであろうと、お金に変わりはありません。この通貨発行権というのはいつの時代も莫大な利益をもたらすのです。実質的に、輸入銭が日本のお金となって流通し始める。これは、日本のお金が、民間企業の平氏一族によって発行されていることと同じことです。今でいえば、平氏は日本銀行と同じ役割を果たすわけです。今の1万円札は正式には日本銀行券といって、これは政府が発行しているものではなく、日本銀行が発行しているものですよね。平氏はそれと似たことをやるわけです。そしてこれが平氏政権のドル箱になります。
そういう利益を手に入れる中で、平氏はナンバーツーになっていきます。もちろんナンバーワンは天皇です。ただこの時代に変則的なのは、前回言ったように、天皇は若いときに引退して、新しい天皇として息子を即位させ、自分は上皇、または坊さんになると法皇なる。そして政治の実権を手放さずに陰の実力者になる。これを院政といいますが、この上皇が実質的にはナンバーワンです。これが後白河上皇です。
ところがその部下の平氏がお金を持ちすぎると、後白河上皇が腹を立てて喧嘩しだす。どっちが勝つかというと、家来の平清盛のほうが勝つんです。
【後白河幽閉】 この時の実力者は後白河法皇です。この人は、約20年前の保元の乱の時には後白河天皇ででてきた人です。その乱では勝ったあと、早々と位を譲って上皇となり、さらに法皇となってより権威を高めています。
1177年には平氏政権の打倒を狙う鹿ヶ谷の陰謀が発覚し、院の近臣たちが処罰されます。
1179年に平清盛は、時の実力者の後白河法皇を幽閉します。平清盛は、後白河法皇と仲が悪くなり、彼を閉じ込めます。見張りをつけてこの家から出るな、という。これを幽閉といいます。
そして翌年1180年、平清盛は自分の孫で、わずか3才の安徳天皇を即位させます。清盛の娘の徳子が高倉天皇に輿入れし、そこで産んだ子供が安徳天皇です。このやり方は藤原氏のやり方と同じですね。清盛は天皇の外祖父となるわけです。
ここで朝廷の実力者の後白河上皇と平氏との対立がはっきりします。ここからが源平の争乱です。あとは家来たちがどう動くかです。
【源平の争乱】
【以仁王の令旨】 そうすると、まず反平氏の兵をあげたのは、幽閉された後白河法皇の息子です。もと天皇の息子だから王がつく。以仁王(もちひとおう)という。
貴族は身分が高いから、武士に対して命令ができる。平氏を撃てという命令を、100枚、200枚、当時は印刷はできないけれども、手で書いて命令書を配る。こういうのを令旨(りょうじ)という。命令文書です。
以仁王の令旨が全国に配られる。1180年です。幽閉から1年後のことです。まず、これに対して、平氏を撃つぞ、といったのが、やっぱり源氏なんだけれども、これは頼朝じゃない。都の貴族の源頼政という人です。頼朝からいえば叔父さんに当たる。しかし平氏に負けて死んだ。ただこの事件のことは非常に全国的に広まったんです。すでに令旨がくだっている。これをますます配っていく。それが地方にも伝わっていきます。
【福原遷都】 この年、平氏は身の危険を感じたかもしれない。福原という新しい町に400年続いた京都の町から首都を引っ越すんです。これを福原遷都という。首都を引っ越すことを遷都という。では福原とは何かというと、その海側に、さっきいった大輪田泊という新しい港ができた。つまり今の神戸です。いまの神戸に都を引っ越した。なにをバカなことをしているのか、400年の都を打ち捨てて、と批判が起こります。
【南都焼き打ち】 これには反対が強かった。一番反対したのは、京都の前の都、奈良の平城京です。そこにはまだ寺院勢力があって、けっこう勢力が強かった。この奈良勢力がまず反発した。反平氏です。すると平清盛の息子である平重衡が、それなら退治してやると、軍隊を仕向けて、南都つまり奈良を焼き討ちしていく。この時に奈良時代につくられた東大寺南大門にも火をかけるんです。当時は木造で、鉄筋じゃないから、火をかけたらすぐ燃える。火をつけたほうが、はやい。ぜんぶ焼き討ちしていく。東大寺はいったんここで燃えてしまう。正倉院をのぞいて。
これが次の伏線になるのは、鎌倉時代になって鎌倉時代の文化ナンバーワンとして出てくるのは、東大寺南大門の金剛力士像なんです。ここでアレッと本当は思わないといけない。東大寺は奈良時代につくられたのに、なぜ東大寺南大門の金剛力士像は鎌倉文化なのか。ここで焼けているからです。それを誰が再建するか。源頼朝が再建します。奈良仏師をつかって。立派な金剛力士像をつくってやれ、ということで。
これは効果抜群です。この効果わかりますか。焼いたのは平氏です。再建したのは源氏です。これ見ただけで、平氏と源氏の違いが分かる。これで政治家としての人気が高まる。だから金をかけるだけの政治的価値がある。ただの好みで金剛力士像はできない。
政治家の人気というのは、1万円、2万円を配るとか、そんなものでなくて、効果抜群なのはそういう方法です。それで源氏人気が高まっていくようになるんです。このことはもう言わないけど、ここで東大寺が炎上して、鎌倉期にこれが再建されます。
【源頼朝挙兵】 1180年には、伊豆の源頼朝にも令旨が届きます。平氏を撃て、という天皇の息子である以仁王の命令が。源頼朝は、親父は平氏に殺された。命からがらで、流罪の身分で20年間、伊豆で過ごしていた。
伊豆は京都から見れば田舎です。静岡県の伊豆半島、そこの蛭が小島という田舎に流されて、その地方のちょっとした土豪の勝ち気な娘を嫁さんにもらっているんです。それが北条政子です。バックに田舎土豪の北条氏がついている。頼朝の血筋は抜群です。チャンスがめぐってきた。
そこで挙兵する。しかしこの時にはまだ犯罪者の身分です。犯罪者が、オレは立つぞ、この指とまれ、と言っても、普通の人間だったら「バカが、おまえはとらわれの身で、犯罪者じゃないか」と言われる。しかし彼には血筋があるから、ここに流されるのは都で負けたからで、世が世なら立派な武士だ、とみんな知っている。だからみんな集まってくる。
【石橋山の戦い】 1180年8月、まず1回戦、石橋山の戦いという。これは伊豆にある小さな山です。しかし、ここでは負ける。でも死にはしなかった。命からがら逃る中で、普通だったら、敗軍の将だから、百姓に見つけられたら、すぐ殺されそうなものなんだけれど、逃げる源頼朝のもとに田舎の武士たちがますます結集していくという変なことが起こるんです。もう1回やりましょう、と。いっしょにやりますよ、命かけますよ、と。
なぜこんなことが起こるか。平忠常の乱以降、いろいろ八幡太郎義家とか源義家とかがやって東国の武士たちを集め、朝廷から褒美はもらわなくても、自分のポケットマネーから、褒美をあたえていた。その評判が、100年、200年経っても源氏にはある。そういう源氏ブランドができている。あそこはいいぞ、と。そうなると普通は、そのまま目指すは京都だ、平氏と戦うぞ、となりそうですが、この人は、じっくり構える。
では本拠地を決めなければ、という。本拠地をどこにするか。この近くに山に囲まれて、砦にするには良いところがある。それが鎌倉です。それまでは鶴岡八幡宮という田舎の神社がちょこっとあるだけだった。この神社は、鎌倉に本拠を構えて、そこに幕府ができると、日本全国にとどろく有名な神社になっていく。
【富士川の戦い】 1180年10月、そして2回戦です。2ヶ月待って、西の方にちょっと進んで、富士川という富士山のふもとから流れている静岡県の川、ここではじめて、平氏と戦う。平氏が攻めてきているから、では迎え撃とうとなる。ここで初めて、平氏に勝つんです。平氏に勝ったら、そのまますぐ京都かというと、この人は用心深い。またいったん鎌倉に戻る。
このうわさを聞きつけて、幼い頃生き別れになった弟がたずねてくる。犯罪者の息子として今まで別れ別れになっていた。そこに弟が、兄ちゃん久しぶりね、と訪ねてくる。この弟が源義経です。家来に武蔵坊弁慶を従えていた。その他にも5~6人、ならず者を引き連れていて、いったい何しているのかわからないような人です。でも喧嘩させたら、めっぽう強かった。戦さには使える。
美男子の源義経、嫁さんが静御前とか、いうけれども、どうも史料を見ると、美男子でも何でもなくて、やせてガリガリして、歯は出っ歯であったとか言われる。だから非常に無骨な男です。嘘か本当かしらないけれども、この時代に、京で有名な盗賊がいて、姓はわからないけど、みんなが、よしつね、と呼んでいた。そういう盗賊が京にいた。それとどんな関係にあるのか、それから先は知りませんが。
【侍所設置】 ここは政治の世界です。鎌倉に来て、弟と会って、ではいっしょにすぐ京都に攻めのぼるかというと、この源頼朝、のちの鎌倉将軍がやることは、まず組織作りをする。
家来たちが10人、20人、100人と増えていくと、みんな平等じゃなくて、お前は部長、お前は係長、お前は平だと、こういう組織作りをしていく。
これが侍所です。鎌倉幕府という組織はいつできたか。通常、のちの1192年に鎌倉幕府ができたと言われるけれども、組織でいうとこの時です。まだ1180年です。鎌倉幕府が産声をあげたのはこの時です。ここから組織として動き出している。この人は組織人です。政治家として有能です。でも戦争は強くない。
本当に強い政治家は、組織をつくれる人です。彼の家来を家人という。のちに幕府ができると、頼朝の家来には、呼び捨てにはできないから、丁寧語の御をつける。幕府の家来のことを、御家人というようになる。
ここには源頼朝と家来との信頼関係があります。この武士の信頼関係というのは何か。お互い命まで預けるという強い関係です。
こういう戦いの時代、戦さの時に腹が痛いと言ったら、もう関係が切れる。戦争の時にこそ、来ないといけない。一番肝心なところで、頭が痛くなったり、腹が痛くなったりすると、ごめんなさいではすまない。「いざ」というときに役に立たない人間はダメなのです。もう顔見たくないから、来ないでいいぞ。いやそういわんでと言っても、今のうちに逃げとかないと、おまえ大変なことになるぞ。逃げたいのなら、あと30分で、俺の目の届かないところに逃げろ、という。弟にだってそうです。弟を頭に来て、逃がしてやるから逃げろと言うけど、逃がしたあとに、本気で首を取りに行く。そういうことをやります。
こういうのを主従関係という。土地を保護して与えて保護してやる代わりに、肝心なときに逃げたら終わりだよ、ということです。ハイ、わかりました。あなたのためなら、やります、という。これが、イヤイヤ、行きたくないなあ、こうなると隷属関係です。奴隷関係になる。好んでやるという部分がある。あなたのためなら、と。そういうところ、信頼で結ばれた強い関係が、主従関係です。
【源義仲挙兵】 もう一人、頼朝の従兄弟がいます。長野県の山奥に。源氏一族は、あっちこっちにいる。これを源義仲という。木曽谷にいたから木曽義仲ともいいます。
ここにも、やっぱり平氏撃つべしという令旨、つまり以仁王の命令が届いている。平清盛はというと、病気にかかって、次の年の1181年に死にます。ここから、平氏は落ち目になる。
総大将を失った。清盛が死んだぞ。京に真っ先に攻めるのは頼朝ではなくて、この義仲です。木曽谷から、長野から入京する。入京とは、京都にはいることです。京は東京ではないです。この時代は京といえば東京ではなくて、もちろん京都です。これも喧嘩が強い。
こいつはちょっと手に負えないと、平氏はここで逃げる。逃げる時に何を持って逃げたか、ここが政治的に大事です。天皇をもって逃げた。この時、まだ赤ん坊ですけれども、天皇であることが大事です。安徳天皇を連れて逃げる。つまり、「玉」を持っている。玉に逆らう人間は何といっても逆賊です。天皇は、オレたちが正しい側なんだという象徴です。この関係は、明治維新の時の政治的関係とほとんど変わらない。どっちが天皇を取るかが非常に重要になってくる。平氏は、安徳天皇とともに西に逃げた。
では京都にはいった源義仲が政治をきちっとできたのかというと、あとはやりたい放題で、民家に土足で入るわ、店で無銭飲食はするわで、すこぶる評判悪い。暴れまくっていく。暴政です。
平氏が逃げたあとの京都のナンバーワン、後白河法皇とも仲が悪い。しかし後白河法皇は、頭が良くても武力がない。源義経と追い出したいなぁってと思っても、武力がないから、誰かに武力を頼らないといけない。頼るのは、遠いここにいる源頼朝です。おまえ、追い出して、くれないか、と頼む。
この瞬間、源頼朝は何になったか。犯罪者から天皇を守る守護神になる。180度、政治的な立場が変わる。あとは戦って勝つだけ。こういう政治的な立場を手に入れていきます。
源頼朝に院宣というのは、命令です。院の命令、つまり後白河法皇の命令です。このときに政治的なかけひきをする。ここで、はい分かりました、すぐ来ます、というのは、下手なやり方でしょうね。
ありがたき幸せでございます、ならば、と、ここからが駆け引きですね。私にどういうメリットがありますか、ということを引き出す。何をくれますか、というのを引き出す。動く前に。
何も言わずに戦ったら、よく頑張ったね、さよなら、で終わる可能性がある。退治する前に決めておく、何をくれるの、と。
【十月宣旨】 後白河法皇は、この1183年10月に十月宣旨といって、共同声明を出すわけです。約束するんです。関東をくれてやろうじゃないか、と。頼朝に、東国の行政権を与える。関東には口を出さない、と。これで関東が、まず頼朝のものになった。それまでの罪人が、子供の時に流罪になった罪人がです。これだけで東国を手にいれた。
しかしこれは、これから成立する鎌倉幕府が、朝廷とは別の独立政権として成立するのではなく、朝廷の許可のもとに成立した朝廷の一組織として成立するということです。
よく鎌倉時代に朝廷は滅んだと勘違いする人がいますが、朝廷は滅ぶどころか幕府の上に立って、それを認める立場にあったのです。
幕府をつくろうとする源頼朝も、朝廷のそのような公的な性格を認めているわけです。ここには朝廷が長らく主張しながらも、決して実現することのなかった公地公民の理念が浸透しているのではないでしょうか。だから頼朝は、幕府は自分が勝手につくった私的なものではなく、公的な性格を帯びるものでなければならなかったのです。頼朝も、その公的な性格を支えるものの前提として朝廷を捉えていたわけです。この時点で、朝廷の公的な権威は広く全国に浸透していたのでしょう。
ということは、逆に朝廷は幕府を認めないことだってできるのです。これはたんに理念的なものではなく、実際そういうことがその後の鎌倉時代には起こります。
しかしその時も幕府は不思議で絶妙な対応をします。でもこれはもっと後のことです。
【壇ノ浦の戦い】 では平氏を撃つのは誰か。源頼朝自身が動く必要はない。何のために組織を作ったのか。こういったときのための組織なのです。おまえやれよ、おまえが総大将だと、まず上のお兄ちゃんである源範頼(のりより)にいう。
でもこの人は、人はいいけど喧嘩が弱いんです。そこに新しく来た弟が、源義経です。友達は柄が悪い、口も悪い、女癖も実はちょっと悪い。でも喧嘩だけは強い。ついでに頭もちょっと悪い。喧嘩だけ強いです。範頼が兄だから形だけは偉い。形上は偉くないけれども実権を持っているのが義経です。
これが西に攻めて平氏を撃っていく。3回、4回と戦って、平氏を追い詰めて、結論をいうと、平氏はどこで負けたか。これが1185年、壇ノ浦の戦いです。関門海峡です。いまも交通の要衝です。ここは潮の流れが速い。平氏はここに追い詰められて滅亡する。
ここから、壇ノ浦でとれるカニの甲羅には、平家ガニといって、甲羅に平氏の顔の表情が彫られていった、という平家ガニの伝説が生まれる。
それから戦争で死んだ初の天皇、子供ですけどね、安徳天皇も一緒に死んだ。こういう場所は、恐いんですね。尾ひれがついていろんな伝説になっていく。
そのあと平氏たちは、なかには生き延びた残党もいる。残党というのは命からがら、死んだふりしながら、逃げていった人たちです。東にはいけないから、西の九州に人目を忍んで落ち延びていく。
そして人里離れたところで、目立たないように小さな村をつくっていき、村のなかだけで結婚をくり返しながら子孫を残していく。そういう隠れ里伝説というのは、全部で200ヵ所ぐらいあるという。九州各地にあります。実はこの近くにもあります。一番有名なのは、熊本県五家荘や宮崎県椎葉村です。五家荘や椎葉村に行けば、それは見事な山奥です。谷の深さが違う。バスで行きましたけどね。恐かった。運転手さんがもし寝ぼけ運転して事故でも起これば、谷底に落ちて死ぬなあ、と思いながら行きました。おまけに雨も降っていて、土砂崩れでもあったら、これは死ぬと思った。村の人はこんな道を通ってくるのか、と思うぐらい驚くほど深かった。この近くの山間部にもそういう伝承をもつ村はあります。熊本県五家荘、椎葉村の平家の落人伝説というのは今も有名です。
【義経入京】 では勝った義経は、どうすればいいと思うか。次にどこに報告に行かなければならないか。頭の悪いところはここです。誰に命令されてるのか。頼朝でしょ。どこに帰らないといけないか。頼朝のもとに、ここに遠回りしてでも、まっ先に行かないといけない。
そこに、京都の後白河法皇が声をかける。うちに来ませんかと。どうもご苦労さんでした、お風呂も沸いてます、今日は1日うちでゆっくり泊まっていってください、と後白河法皇が言うんです。だから泊まっていくね。アホですね。これで手柄はパーです。一晩、泊まっただけじゃないか、そんな問題じゃない。何百人も人の命がかかっている戦で、敵陣に入ったんです。その瞬間に、政治生命アウトです。
難癖つけられたら終わりです。なんで敵陣に入るのか。そんな馬鹿なことしないやろうと思うけど、でもするんですね。
そして、この後白河法皇は、やっぱり義経に言う。あのな、兄きの頼朝よりも、あなたの方が絶対優れているよ。オレが押すのは兄貴じゃない。兄貴は腹黒いから、友達の振りしているだけだよ。オレが好きなのは、あんただよ。オレはあんたを推すよ、とささやく。そしてこの義経に、兄貴の頼朝を討て、追討しなさい、つまり殺してこい、と言う。義経は、いったん断る。断って、こんなことをした上に、許しを請いに、ごめんなさいを言いにいく。でもこれは許されない。この後白河上皇と会った瞬間に決まっている。あとで何しようと、一度渡ったルビコン川は引き返せない。京都に立ち寄った瞬間に、勝負ありです。
でも、義経はごめんなさいを言いに行く。それで許されると思っている。ここらへんが甘いところです。頼朝は武士の情けで、バカたれ、速く逃げろ、1日うちに逃げ切らなかったら、オレは本当に殺しに行くぞと。それで義経は逃げた。そしてそのあと全国に指名手配するんです。源義経を。
ではこの義経は、どこに逃げたのかというと、奥州藤原氏です。もう願ったりかなったりです。頼朝にとっては。
平氏を滅ぼして、あと滅ぼすのは、奥州藤原氏だけです。日本という国がまだできていない。ここまで日本にしたいと思っていたら、目の上のたんこぶはこの奥州藤原氏です。
子供の喧嘩じゃないんだから、大人が喧嘩するときに、むかついたから殺す、そんなことじゃダメなんです。ちゃんとした理由が要る。これで理由ができたんです。俺を殺そうとした犯罪人をおまえはかくまった、と。これは立派な理由です。奥州藤原氏は、これで攻められる。
このあと源頼朝は、奥州藤原氏を攻めて滅ぼす。この時には本当は、義経なんかどうでもいいんです。政治的に大切なことはこの奥州藤原氏を滅ぼすことです。これで全国統一です。そういうふうになっていく。ちょっと恐いお話です。
政治というのは、判断を違うと、ゴメンで済みません。ことあるごとに「責任を痛感しています」という言葉を繰り返してあとはノホホンとしている、どこかの国の首相とは違うんです。
次回は、そこからやります。ここで終わります。
前回は、1159年に平治の乱というのが起こった。ここは平清盛と源義朝の戦いだった。平清盛が勝って、源義朝は死んでしまった。それから20年経つと、その子供、まだ当時は子供だったけれども、もう30才ぐらいになっている。これが源頼朝です。何をつくった人ですか。1192年に鎌倉幕府をつくる人なんです。その話に行くわけです。
【平氏政権】
その覇権争いを源平合戦というけれども、それに行く前に、平氏の全盛期がある。1100年代、これが平氏政権といいます。中心人物は平清盛です。
この人は武士ですが、京都に住んで、貴族社会の中で出世していこうとするんです。その貴族社会の中に武士が入っていくことによって、自分の力を保つんです。彼は貴族ナンバーワンになる。1167年に、天皇の家来のなかではナンバーワンの太政大臣になる。貴族の中で一番偉いのは太政大臣です。征夷大将軍ではありません。
その平氏が一族みんなで貴族社会の高位高官、偉いポストを総なめにしていく。ささやかれた言葉、「平氏にあらずんば人にあらず」と都の人たちがいうほど、平氏全盛時代が約10年ちょっとぐらい続きます。
【日宋貿易】 ではその資金源、政治にはお金が必要です。それがだったか。貿易なんです。中国との貿易です。世界史を覚えてますか。中国は1100年代、何という国だったでしょうか。宋という国です。日宋貿易をしていた。宋の次がモンゴルの元、元のつぎが明です。宋、元、明とくる。その宋です。ここと貿易をすれば儲かる。貿易はもともと、博打的な儲けが大きい商売なんです。それまで中国の船は、九州にまでしか来てなかったんです。九州のどこが窓口だったと思いますか。これが博多です。博多は九州最大の貿易港です。今でも大きな貿易港なんだけれども。
これをもっと京都の近くに呼び込みたい。しかしそのためには瀬戸内海には島がいっぱいあって、綺麗なんじゃなくて、船にとっては迷惑なんです。こういう島は迷惑じゃないですよ。どういう島が船にとって天敵か。こんな島、見えない島。干満の差、引いたときには見えるけれども、満潮の時には見えなくて、ここに船が乗り上げると終わりです。
船が座礁すると、トラックで引っぱろうが、人間が押そうがビクともしない。そのまま廃船になって、朽ちるのを待つだけ。ここに船を航行させて、どうにか呼び込むことに成功した。そのために壮大な港を作る。この港を大輪田泊という。泊というのは船が泊まるところ、つまり港という意味です。何もないところに平清盛が初めて港をつくった。これが、いま日本ナンバーツーの貿易港、神戸です。神戸はここから発展していきます。
瀬戸内海には、船の航行を願う神社として、広島県の厳島神社があります。平氏ゆかりの神社です。あの「秋」の宮島ね、紅葉で有名な、という人がいますが、「安芸」の宮島、です。安芸は広島県の旧国名です。
【宋銭】 では貿易品は何か。日本は今は出ないけれど、昔は金が出た。銀も出たんです。この金でもって、中国の何が欲しかったのかというと、変な話ですが、中国のお金ですね。これを宋銭という。お金ぐらい自分でつくればいいじゃないか。覚えている人いますか。日本はつくり続けて12種類もつくった。皇朝十二銭というお金を。しかし流通しなかったんです。日本にはまだ実質的にお金がないんです。
そのころ、中国はお金は要らない、と言いはじめた。なぜ要らないか、というのは、日本史を少しはずれるけれど、中国は紙でやり始めたんです。紙幣です。これを交子という。紙のお金を使い始めて、それまでの銅のお金は要らないから、安く売ってやるぞという。すると日本は、買う買う、という。そしてそれを金で買う。中国にとっても要らないものが高く売れるんだからいい儲けです。日本にとっても通貨をもつというのは、いつの時代もものすごく儲かることです。しかも自分でつくるよりも、輸入すれば手間が省けるわけです。
事実上、これで平氏が日本の通貨発行権を持つ。実質上の通貨発行権を平清盛が持つ。自分でつくろうと、他人がつくったものであろうと、お金に変わりはありません。この通貨発行権というのはいつの時代も莫大な利益をもたらすのです。実質的に、輸入銭が日本のお金となって流通し始める。これは、日本のお金が、民間企業の平氏一族によって発行されていることと同じことです。今でいえば、平氏は日本銀行と同じ役割を果たすわけです。今の1万円札は正式には日本銀行券といって、これは政府が発行しているものではなく、日本銀行が発行しているものですよね。平氏はそれと似たことをやるわけです。そしてこれが平氏政権のドル箱になります。
そういう利益を手に入れる中で、平氏はナンバーツーになっていきます。もちろんナンバーワンは天皇です。ただこの時代に変則的なのは、前回言ったように、天皇は若いときに引退して、新しい天皇として息子を即位させ、自分は上皇、または坊さんになると法皇なる。そして政治の実権を手放さずに陰の実力者になる。これを院政といいますが、この上皇が実質的にはナンバーワンです。これが後白河上皇です。
ところがその部下の平氏がお金を持ちすぎると、後白河上皇が腹を立てて喧嘩しだす。どっちが勝つかというと、家来の平清盛のほうが勝つんです。
【後白河幽閉】 この時の実力者は後白河法皇です。この人は、約20年前の保元の乱の時には後白河天皇ででてきた人です。その乱では勝ったあと、早々と位を譲って上皇となり、さらに法皇となってより権威を高めています。
1177年には平氏政権の打倒を狙う鹿ヶ谷の陰謀が発覚し、院の近臣たちが処罰されます。
1179年に平清盛は、時の実力者の後白河法皇を幽閉します。平清盛は、後白河法皇と仲が悪くなり、彼を閉じ込めます。見張りをつけてこの家から出るな、という。これを幽閉といいます。
そして翌年1180年、平清盛は自分の孫で、わずか3才の安徳天皇を即位させます。清盛の娘の徳子が高倉天皇に輿入れし、そこで産んだ子供が安徳天皇です。このやり方は藤原氏のやり方と同じですね。清盛は天皇の外祖父となるわけです。
ここで朝廷の実力者の後白河上皇と平氏との対立がはっきりします。ここからが源平の争乱です。あとは家来たちがどう動くかです。
【源平の争乱】
【以仁王の令旨】 そうすると、まず反平氏の兵をあげたのは、幽閉された後白河法皇の息子です。もと天皇の息子だから王がつく。以仁王(もちひとおう)という。
貴族は身分が高いから、武士に対して命令ができる。平氏を撃てという命令を、100枚、200枚、当時は印刷はできないけれども、手で書いて命令書を配る。こういうのを令旨(りょうじ)という。命令文書です。
以仁王の令旨が全国に配られる。1180年です。幽閉から1年後のことです。まず、これに対して、平氏を撃つぞ、といったのが、やっぱり源氏なんだけれども、これは頼朝じゃない。都の貴族の源頼政という人です。頼朝からいえば叔父さんに当たる。しかし平氏に負けて死んだ。ただこの事件のことは非常に全国的に広まったんです。すでに令旨がくだっている。これをますます配っていく。それが地方にも伝わっていきます。
【福原遷都】 この年、平氏は身の危険を感じたかもしれない。福原という新しい町に400年続いた京都の町から首都を引っ越すんです。これを福原遷都という。首都を引っ越すことを遷都という。では福原とは何かというと、その海側に、さっきいった大輪田泊という新しい港ができた。つまり今の神戸です。いまの神戸に都を引っ越した。なにをバカなことをしているのか、400年の都を打ち捨てて、と批判が起こります。
【南都焼き打ち】 これには反対が強かった。一番反対したのは、京都の前の都、奈良の平城京です。そこにはまだ寺院勢力があって、けっこう勢力が強かった。この奈良勢力がまず反発した。反平氏です。すると平清盛の息子である平重衡が、それなら退治してやると、軍隊を仕向けて、南都つまり奈良を焼き討ちしていく。この時に奈良時代につくられた東大寺南大門にも火をかけるんです。当時は木造で、鉄筋じゃないから、火をかけたらすぐ燃える。火をつけたほうが、はやい。ぜんぶ焼き討ちしていく。東大寺はいったんここで燃えてしまう。正倉院をのぞいて。
これが次の伏線になるのは、鎌倉時代になって鎌倉時代の文化ナンバーワンとして出てくるのは、東大寺南大門の金剛力士像なんです。ここでアレッと本当は思わないといけない。東大寺は奈良時代につくられたのに、なぜ東大寺南大門の金剛力士像は鎌倉文化なのか。ここで焼けているからです。それを誰が再建するか。源頼朝が再建します。奈良仏師をつかって。立派な金剛力士像をつくってやれ、ということで。
これは効果抜群です。この効果わかりますか。焼いたのは平氏です。再建したのは源氏です。これ見ただけで、平氏と源氏の違いが分かる。これで政治家としての人気が高まる。だから金をかけるだけの政治的価値がある。ただの好みで金剛力士像はできない。
政治家の人気というのは、1万円、2万円を配るとか、そんなものでなくて、効果抜群なのはそういう方法です。それで源氏人気が高まっていくようになるんです。このことはもう言わないけど、ここで東大寺が炎上して、鎌倉期にこれが再建されます。
【源頼朝挙兵】 1180年には、伊豆の源頼朝にも令旨が届きます。平氏を撃て、という天皇の息子である以仁王の命令が。源頼朝は、親父は平氏に殺された。命からがらで、流罪の身分で20年間、伊豆で過ごしていた。
伊豆は京都から見れば田舎です。静岡県の伊豆半島、そこの蛭が小島という田舎に流されて、その地方のちょっとした土豪の勝ち気な娘を嫁さんにもらっているんです。それが北条政子です。バックに田舎土豪の北条氏がついている。頼朝の血筋は抜群です。チャンスがめぐってきた。
そこで挙兵する。しかしこの時にはまだ犯罪者の身分です。犯罪者が、オレは立つぞ、この指とまれ、と言っても、普通の人間だったら「バカが、おまえはとらわれの身で、犯罪者じゃないか」と言われる。しかし彼には血筋があるから、ここに流されるのは都で負けたからで、世が世なら立派な武士だ、とみんな知っている。だからみんな集まってくる。
【石橋山の戦い】 1180年8月、まず1回戦、石橋山の戦いという。これは伊豆にある小さな山です。しかし、ここでは負ける。でも死にはしなかった。命からがら逃る中で、普通だったら、敗軍の将だから、百姓に見つけられたら、すぐ殺されそうなものなんだけれど、逃げる源頼朝のもとに田舎の武士たちがますます結集していくという変なことが起こるんです。もう1回やりましょう、と。いっしょにやりますよ、命かけますよ、と。
なぜこんなことが起こるか。平忠常の乱以降、いろいろ八幡太郎義家とか源義家とかがやって東国の武士たちを集め、朝廷から褒美はもらわなくても、自分のポケットマネーから、褒美をあたえていた。その評判が、100年、200年経っても源氏にはある。そういう源氏ブランドができている。あそこはいいぞ、と。そうなると普通は、そのまま目指すは京都だ、平氏と戦うぞ、となりそうですが、この人は、じっくり構える。
では本拠地を決めなければ、という。本拠地をどこにするか。この近くに山に囲まれて、砦にするには良いところがある。それが鎌倉です。それまでは鶴岡八幡宮という田舎の神社がちょこっとあるだけだった。この神社は、鎌倉に本拠を構えて、そこに幕府ができると、日本全国にとどろく有名な神社になっていく。
【富士川の戦い】 1180年10月、そして2回戦です。2ヶ月待って、西の方にちょっと進んで、富士川という富士山のふもとから流れている静岡県の川、ここではじめて、平氏と戦う。平氏が攻めてきているから、では迎え撃とうとなる。ここで初めて、平氏に勝つんです。平氏に勝ったら、そのまますぐ京都かというと、この人は用心深い。またいったん鎌倉に戻る。
このうわさを聞きつけて、幼い頃生き別れになった弟がたずねてくる。犯罪者の息子として今まで別れ別れになっていた。そこに弟が、兄ちゃん久しぶりね、と訪ねてくる。この弟が源義経です。家来に武蔵坊弁慶を従えていた。その他にも5~6人、ならず者を引き連れていて、いったい何しているのかわからないような人です。でも喧嘩させたら、めっぽう強かった。戦さには使える。
美男子の源義経、嫁さんが静御前とか、いうけれども、どうも史料を見ると、美男子でも何でもなくて、やせてガリガリして、歯は出っ歯であったとか言われる。だから非常に無骨な男です。嘘か本当かしらないけれども、この時代に、京で有名な盗賊がいて、姓はわからないけど、みんなが、よしつね、と呼んでいた。そういう盗賊が京にいた。それとどんな関係にあるのか、それから先は知りませんが。
【侍所設置】 ここは政治の世界です。鎌倉に来て、弟と会って、ではいっしょにすぐ京都に攻めのぼるかというと、この源頼朝、のちの鎌倉将軍がやることは、まず組織作りをする。
家来たちが10人、20人、100人と増えていくと、みんな平等じゃなくて、お前は部長、お前は係長、お前は平だと、こういう組織作りをしていく。
これが侍所です。鎌倉幕府という組織はいつできたか。通常、のちの1192年に鎌倉幕府ができたと言われるけれども、組織でいうとこの時です。まだ1180年です。鎌倉幕府が産声をあげたのはこの時です。ここから組織として動き出している。この人は組織人です。政治家として有能です。でも戦争は強くない。
本当に強い政治家は、組織をつくれる人です。彼の家来を家人という。のちに幕府ができると、頼朝の家来には、呼び捨てにはできないから、丁寧語の御をつける。幕府の家来のことを、御家人というようになる。
ここには源頼朝と家来との信頼関係があります。この武士の信頼関係というのは何か。お互い命まで預けるという強い関係です。
こういう戦いの時代、戦さの時に腹が痛いと言ったら、もう関係が切れる。戦争の時にこそ、来ないといけない。一番肝心なところで、頭が痛くなったり、腹が痛くなったりすると、ごめんなさいではすまない。「いざ」というときに役に立たない人間はダメなのです。もう顔見たくないから、来ないでいいぞ。いやそういわんでと言っても、今のうちに逃げとかないと、おまえ大変なことになるぞ。逃げたいのなら、あと30分で、俺の目の届かないところに逃げろ、という。弟にだってそうです。弟を頭に来て、逃がしてやるから逃げろと言うけど、逃がしたあとに、本気で首を取りに行く。そういうことをやります。
こういうのを主従関係という。土地を保護して与えて保護してやる代わりに、肝心なときに逃げたら終わりだよ、ということです。ハイ、わかりました。あなたのためなら、やります、という。これが、イヤイヤ、行きたくないなあ、こうなると隷属関係です。奴隷関係になる。好んでやるという部分がある。あなたのためなら、と。そういうところ、信頼で結ばれた強い関係が、主従関係です。
【源義仲挙兵】 もう一人、頼朝の従兄弟がいます。長野県の山奥に。源氏一族は、あっちこっちにいる。これを源義仲という。木曽谷にいたから木曽義仲ともいいます。
ここにも、やっぱり平氏撃つべしという令旨、つまり以仁王の命令が届いている。平清盛はというと、病気にかかって、次の年の1181年に死にます。ここから、平氏は落ち目になる。
総大将を失った。清盛が死んだぞ。京に真っ先に攻めるのは頼朝ではなくて、この義仲です。木曽谷から、長野から入京する。入京とは、京都にはいることです。京は東京ではないです。この時代は京といえば東京ではなくて、もちろん京都です。これも喧嘩が強い。
こいつはちょっと手に負えないと、平氏はここで逃げる。逃げる時に何を持って逃げたか、ここが政治的に大事です。天皇をもって逃げた。この時、まだ赤ん坊ですけれども、天皇であることが大事です。安徳天皇を連れて逃げる。つまり、「玉」を持っている。玉に逆らう人間は何といっても逆賊です。天皇は、オレたちが正しい側なんだという象徴です。この関係は、明治維新の時の政治的関係とほとんど変わらない。どっちが天皇を取るかが非常に重要になってくる。平氏は、安徳天皇とともに西に逃げた。
では京都にはいった源義仲が政治をきちっとできたのかというと、あとはやりたい放題で、民家に土足で入るわ、店で無銭飲食はするわで、すこぶる評判悪い。暴れまくっていく。暴政です。
平氏が逃げたあとの京都のナンバーワン、後白河法皇とも仲が悪い。しかし後白河法皇は、頭が良くても武力がない。源義経と追い出したいなぁってと思っても、武力がないから、誰かに武力を頼らないといけない。頼るのは、遠いここにいる源頼朝です。おまえ、追い出して、くれないか、と頼む。
この瞬間、源頼朝は何になったか。犯罪者から天皇を守る守護神になる。180度、政治的な立場が変わる。あとは戦って勝つだけ。こういう政治的な立場を手に入れていきます。
源頼朝に院宣というのは、命令です。院の命令、つまり後白河法皇の命令です。このときに政治的なかけひきをする。ここで、はい分かりました、すぐ来ます、というのは、下手なやり方でしょうね。
ありがたき幸せでございます、ならば、と、ここからが駆け引きですね。私にどういうメリットがありますか、ということを引き出す。何をくれますか、というのを引き出す。動く前に。
何も言わずに戦ったら、よく頑張ったね、さよなら、で終わる可能性がある。退治する前に決めておく、何をくれるの、と。
【十月宣旨】 後白河法皇は、この1183年10月に十月宣旨といって、共同声明を出すわけです。約束するんです。関東をくれてやろうじゃないか、と。頼朝に、東国の行政権を与える。関東には口を出さない、と。これで関東が、まず頼朝のものになった。それまでの罪人が、子供の時に流罪になった罪人がです。これだけで東国を手にいれた。
しかしこれは、これから成立する鎌倉幕府が、朝廷とは別の独立政権として成立するのではなく、朝廷の許可のもとに成立した朝廷の一組織として成立するということです。
よく鎌倉時代に朝廷は滅んだと勘違いする人がいますが、朝廷は滅ぶどころか幕府の上に立って、それを認める立場にあったのです。
幕府をつくろうとする源頼朝も、朝廷のそのような公的な性格を認めているわけです。ここには朝廷が長らく主張しながらも、決して実現することのなかった公地公民の理念が浸透しているのではないでしょうか。だから頼朝は、幕府は自分が勝手につくった私的なものではなく、公的な性格を帯びるものでなければならなかったのです。頼朝も、その公的な性格を支えるものの前提として朝廷を捉えていたわけです。この時点で、朝廷の公的な権威は広く全国に浸透していたのでしょう。
ということは、逆に朝廷は幕府を認めないことだってできるのです。これはたんに理念的なものではなく、実際そういうことがその後の鎌倉時代には起こります。
しかしその時も幕府は不思議で絶妙な対応をします。でもこれはもっと後のことです。
【壇ノ浦の戦い】 では平氏を撃つのは誰か。源頼朝自身が動く必要はない。何のために組織を作ったのか。こういったときのための組織なのです。おまえやれよ、おまえが総大将だと、まず上のお兄ちゃんである源範頼(のりより)にいう。
でもこの人は、人はいいけど喧嘩が弱いんです。そこに新しく来た弟が、源義経です。友達は柄が悪い、口も悪い、女癖も実はちょっと悪い。でも喧嘩だけは強い。ついでに頭もちょっと悪い。喧嘩だけ強いです。範頼が兄だから形だけは偉い。形上は偉くないけれども実権を持っているのが義経です。
これが西に攻めて平氏を撃っていく。3回、4回と戦って、平氏を追い詰めて、結論をいうと、平氏はどこで負けたか。これが1185年、壇ノ浦の戦いです。関門海峡です。いまも交通の要衝です。ここは潮の流れが速い。平氏はここに追い詰められて滅亡する。
ここから、壇ノ浦でとれるカニの甲羅には、平家ガニといって、甲羅に平氏の顔の表情が彫られていった、という平家ガニの伝説が生まれる。
それから戦争で死んだ初の天皇、子供ですけどね、安徳天皇も一緒に死んだ。こういう場所は、恐いんですね。尾ひれがついていろんな伝説になっていく。
そのあと平氏たちは、なかには生き延びた残党もいる。残党というのは命からがら、死んだふりしながら、逃げていった人たちです。東にはいけないから、西の九州に人目を忍んで落ち延びていく。
そして人里離れたところで、目立たないように小さな村をつくっていき、村のなかだけで結婚をくり返しながら子孫を残していく。そういう隠れ里伝説というのは、全部で200ヵ所ぐらいあるという。九州各地にあります。実はこの近くにもあります。一番有名なのは、熊本県五家荘や宮崎県椎葉村です。五家荘や椎葉村に行けば、それは見事な山奥です。谷の深さが違う。バスで行きましたけどね。恐かった。運転手さんがもし寝ぼけ運転して事故でも起これば、谷底に落ちて死ぬなあ、と思いながら行きました。おまけに雨も降っていて、土砂崩れでもあったら、これは死ぬと思った。村の人はこんな道を通ってくるのか、と思うぐらい驚くほど深かった。この近くの山間部にもそういう伝承をもつ村はあります。熊本県五家荘、椎葉村の平家の落人伝説というのは今も有名です。
【義経入京】 では勝った義経は、どうすればいいと思うか。次にどこに報告に行かなければならないか。頭の悪いところはここです。誰に命令されてるのか。頼朝でしょ。どこに帰らないといけないか。頼朝のもとに、ここに遠回りしてでも、まっ先に行かないといけない。
そこに、京都の後白河法皇が声をかける。うちに来ませんかと。どうもご苦労さんでした、お風呂も沸いてます、今日は1日うちでゆっくり泊まっていってください、と後白河法皇が言うんです。だから泊まっていくね。アホですね。これで手柄はパーです。一晩、泊まっただけじゃないか、そんな問題じゃない。何百人も人の命がかかっている戦で、敵陣に入ったんです。その瞬間に、政治生命アウトです。
難癖つけられたら終わりです。なんで敵陣に入るのか。そんな馬鹿なことしないやろうと思うけど、でもするんですね。
そして、この後白河法皇は、やっぱり義経に言う。あのな、兄きの頼朝よりも、あなたの方が絶対優れているよ。オレが押すのは兄貴じゃない。兄貴は腹黒いから、友達の振りしているだけだよ。オレが好きなのは、あんただよ。オレはあんたを推すよ、とささやく。そしてこの義経に、兄貴の頼朝を討て、追討しなさい、つまり殺してこい、と言う。義経は、いったん断る。断って、こんなことをした上に、許しを請いに、ごめんなさいを言いにいく。でもこれは許されない。この後白河上皇と会った瞬間に決まっている。あとで何しようと、一度渡ったルビコン川は引き返せない。京都に立ち寄った瞬間に、勝負ありです。
でも、義経はごめんなさいを言いに行く。それで許されると思っている。ここらへんが甘いところです。頼朝は武士の情けで、バカたれ、速く逃げろ、1日うちに逃げ切らなかったら、オレは本当に殺しに行くぞと。それで義経は逃げた。そしてそのあと全国に指名手配するんです。源義経を。
ではこの義経は、どこに逃げたのかというと、奥州藤原氏です。もう願ったりかなったりです。頼朝にとっては。
平氏を滅ぼして、あと滅ぼすのは、奥州藤原氏だけです。日本という国がまだできていない。ここまで日本にしたいと思っていたら、目の上のたんこぶはこの奥州藤原氏です。
子供の喧嘩じゃないんだから、大人が喧嘩するときに、むかついたから殺す、そんなことじゃダメなんです。ちゃんとした理由が要る。これで理由ができたんです。俺を殺そうとした犯罪人をおまえはかくまった、と。これは立派な理由です。奥州藤原氏は、これで攻められる。
このあと源頼朝は、奥州藤原氏を攻めて滅ぼす。この時には本当は、義経なんかどうでもいいんです。政治的に大切なことはこの奥州藤原氏を滅ぼすことです。これで全国統一です。そういうふうになっていく。ちょっと恐いお話です。
政治というのは、判断を違うと、ゴメンで済みません。ことあるごとに「責任を痛感しています」という言葉を繰り返してあとはノホホンとしている、どこかの国の首相とは違うんです。
次回は、そこからやります。ここで終わります。