ひょうきちの疑問

新聞・テレビ報道はおかしい。
2020年のアメリカ大統領選以後はムチャクチャ

ウクライナ戦争は第一次世界大戦に似ているという話があります

2022-09-04 09:40:09 | 旧世界史12 20C前半

世界はすでに第三次世界大戦に突入しているという話があります。

第一次世界大戦のきっかけは、1914年6月にこのオーストリアの皇太子つまり次の国王になる人が、併合したボスニアを訪れて国の儀式に参加し、車に乗ってそのボスニアの州都サラエボを回っていたところをピストルで撃たれて暗殺されたことです。あるスラブ系の青年によって。この青年をプリンツィプと言いますが、彼は隣国のセルビア人だった。この事件をサラエボ事件といいます。

 オーストリアは翌月1914年7月にセルビアに宣戦します。翌月の1914年8月に、ドイツがセルビア寄りのロシアとフランスに宣戦し、ベルギーに侵攻します。すると、この暗殺事件に関係がないイギリスがセルビアを味方して、ドイツに宣戦します。
第一次世界大戦のきっかけは、セルビアとオーストリアですが、実体はイギリスドイツの戦争です。

ウクライナ戦争は、これと似ています。これはウクライナとロシアの戦争ですが、実体はアメリカロシアの戦争です。第一次世界大戦よりも簡単な構図ですが、日本の報道から見ると、その簡単な構図ですらよく分からなくなっています。

第一次世界大戦でセルビアを応援したイギリスと、ウクライナ戦争でウクライナを応援したアメリカは、ほぼ同じ行動を取っています。露骨さや分かりやすさでいえば、第一次大戦のイギリスよりも、ウクライナ戦争でのアメリカのほうがより露骨で分かりやすいといえるでしょう。

こういうと、第一次世界大戦で勝利したイギリスの正義を学校で教わった人には、私がウクライナ戦争でのアメリカを支持しているかに見えるでしょうが、私はそういうことを言いたいのではありません。むしろ逆です。


2014年のウクライナ革命で、それまで親露派だったウクライナを親米派政権に変えたのは、アメリカです。このことは第一次大戦よりもはっきりしていて、中心人物の個人名さえ分かっています。ビクトリア・ヌーランドです。彼女は先月8月に日本のテレビに出演したりして、ウソがばれることを恐れてさえいません。もう破れかぶれなほどの露骨な行動を取っています。彼女の動きを見れば、今のウクライナ戦争の姿がよく分かります。



「授業でいえない世界史」 40話 現代 第一次世界大戦前の世界

2019-05-16 16:00:00 | 旧世界史12 20C前半
※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。



【義和団事件】 ではまたアジアに行きます。中国です。中国は日本と戦って負けた。これが日清戦争です。1894年です。このあと中国は虫食い状態になって、イギリスから取られる、フランスから取られる、ドイツから取らえる。アメリカはちょっと出遅れて、みんなで分けましょうと門戸開放を求める。結局ねらっているわけです。
 こういう状態に中国人は腹を立てて、義和団というグループが反乱を起こす。これを義和団事件といいます。1900年ちょうどです。
 時代はここから20世紀です。義和団とは外国人出て行けという団体です。日本の幕末の尊皇攘夷運動みたいなものです。外国が中国に土足で乗り込んできて、そこに駐在員を置くと・・・これが大使館、公使館です・・・そこを襲撃する。合い言葉は「扶清滅洋」。清を支えて、土足で踏み込んでくる洋を滅ぼそう。洋は西洋です。扶清滅洋という。外国人は出て行けといって、大使館を襲撃する。清朝政府も、そうだそうだと、一緒になって義和団側に立つ。しかしこうなると相手の思うつぼです。おまえが先に手を出した。もう思うつぼです。イギリス、フランスなど・・・そういう強い国を列強といいます・・・これが8ヶ国連合軍を組んで、中国に一気に攻めていく。やはり中国は勝てない。

 実はこの時、飛行機はまだない。遠いヨーロッパから軍隊を派遣するには時間がかかります。一番活躍したのは近い国です。どこか。それが日本です。あっという間に清は降参する。降参して約束したのが、首都北京で結ばれた約束、これを北京議定書という。賠償金払え。オレたちの軍隊を中国に居座らせることを認めろ。これで独立国とは言えなくなる。
 いつか言ったけど、独立国というのは、Aという国はAという軍隊が守る。Bという国はBという軍隊が守って、他の国の軍を入らせない。これが独立国です。そのことを我々日本人がピンとこないのは、戦後70年間、日本にはAという別の国の軍隊がいつもいる。常時駐留している。そういう状態をずっと続けて、その不思議さを感じなくなっているから軍隊に関する国際感覚が麻痺している。これは戦後のことです。
 イギリスは、日本も中国に乗り込んでよくやった、と甘いささやきをする。大英帝国イギリス、当時のナンバーワン国家は・・・イギリスは同盟を組まないことで有名だったんですよ・・・このイギリスがチョンマゲ国家日本と初めて同盟を組むんです。これが1902年日英同盟です。同盟というのは対等です。でもこの同盟が対等であるわけないです。今の日米同盟のようなものです。日米同盟のことはあまり言えないけど、同盟は対等な同盟を同盟というけど、日米同盟はどうですか。対等だと思いますか。対等だと思うなら、おめでたいです。
 そういう日英同盟を組んだ。なぜ組んだか。イギリスは、ロシアが中国に乗り込もうとしている。中国とロシアは国境を接っしている。中国に一番近い国は実は地続きのロシアです。このロシアが中国に乗り込んで行こうとしている。これを防がないといけない。しかし自分で手を出すと大ごとになるから、日本にさせよう。でも日本が勝つとは思ってない。でもそこそこ戦うだろう。日本は負けるだろうけど、その時にはロシアも息があがっているだろう。そこを叩こう。
 その証拠には、イギリスは、日本とロシアが戦ったら日本を応援すると約束していない。この同盟が不思議なのは、日本とロシアが戦った場合、イギリスは日本を応援するとは書いていません。ただ中立を守る、と書いてあるだけです。日本とロシアが戦うのを黙って見守るという約束です。これを同盟と言っている。不思議な同盟です。こうやって日本は英露対立の一つのコマとして一枚噛むんです。


【日露戦争】 次に起こるのは、第一次世界大戦です。いま目指しているところは、1914年です。我々は結果を知っていますが、時代の中に生きている人間は分からない。我々が来年何が起こるか分からないのと一緒です。
 日本は10年前、1894年に中国と戦って番狂わせで勝った。これが日清戦争です。そこで日本は、中国の一部の朝鮮北方の遼東半島を奪ったんですけれども、そこでロシアが日本に内政干渉するんです。日本と中国の取り決めに対して、なぜ関係ないロシアが文句言うのか・・・理屈があわないけど・・・こういうのを内政干渉といいます。本当はこんなことを許したらいけない。三国というのは、ロシア、フランス、ドイツです。1人では不安だから、フランスもいっしょにしてくれ、ドイツもいっしょにしてくれと頼むんです。だから三国干渉という。日本はこの遼東半島を、中国に返せと言われて、ハイと言って返すんです。でも内心では、この野郎、とロシアへの敵愾心は高まっていく。

 そこにイギリスが同盟組んでやろうかという、ロシアと戦わないか、とか何とか言う。そこに、お金を貸そう、と言ったのがアメリカです。
  その後は思うつぼです。1904年に日本はそのロシアと戦う。これが日露戦争です。日本海の海戦で待ち伏せして、ロシアのバルチック艦隊を一気に沈めた。やったやったというんですけど、これは裏でイギリスが軍事指導している。東郷平八郎の手柄じゃない。イギリスの海軍将校が裏で指導してる。ここに来るぞ、ということで。これも番狂わせです。日清戦争も日本が勝つはずじゃなかったのに勝った。日露戦争でも勝つはずじゃなかった。
 イギリスはロンドンで賭けをする。日本とロシア、どっちが勝つか。1対9です。1が日本です。それで楽しんでいる。でも番狂わせで日本が勝った。


▼日露戦争の構図


 こう見るとロシアは日本に負けたようにみえるけど、ロシアの本当の敵はイギリスだったんです。その手を組むことなんかありえないと思われたロシアとイギリスが、1907年に手を組むんです。これが英露協商です。日露戦争でイギリスとロシアの対立はほぼケリがついた。ロシアはイギリスと対立する力を無くすどころか、イギリスがドイツと戦うために協力することになります。
 イギリスにとって、日本の役割は実はここにあるんです。取り残されたのはドイツです。このあと1914年に起こる第一次世界大戦は一言でいうと、イギリスとドイツの戦いです。ロシアがイギリス側に付いた。日本もイギリス側です。
 しかし、イギリスは本当にロシアを信用しているかというと、そうではありません。ホンネではロシアを潰したいと思っています。実際、ロシア帝国は第一次世界大戦の途中で革命が起こって潰れていきます。日本についても同じようなことが言えます。
 
※ ロスチャイルド家はロシアを不安定にするために日本の力を必要としていた。(コールマン)

※ 横浜正金銀行の副頭取であった高橋是清は、宴席で、ロンドンに出張していたジェイコブ・シフに会う。(宋鴻兵)

※ ジェイコブ・シフがクーン・ローブ商会を通じて、日本に1904年と1905年、3回にわたって巨額の公債発行を行った。(コールマン)

※ 世界は、日露戦争はロシア帝国から迫害されていたユダヤ人たちが、ロシア皇帝を倒して共産主義革命を起こすための戦いの一環だったと考えている。(馬渕 グローバル)

※ ジェイコブ・シフが日本に手を貸した理由は、ユダヤ人を迫害した人類の敵ロシアを武装革命で転覆させるためである。(宋鴻兵)
※ 国際銀行クーン・ローブ商会の共同経営者シフたち国際銀行家には大きな目的がありました。それは、ユダヤ人迫害を続ける帝政ロシアで革命を起こしてロマノフ王朝を打倒するということです。そのための駒に日本は利用されたのです。敵と敵を戦わせて漁夫の利を得るという古典的な戦略です。第1次世界大戦は、ロシアの共産主義革命実現に向けて最後の一押しをするために戦われたのです。(馬渕睦夫 「国難の正体」)


  1910年、日本は朝鮮を併合します。日韓併合です。韓国と日本の関係を仲が良いと勘違いしている人いませんか。仲は悪いです。こういった過去がある。併合された韓国では反日運動が起こる。兵隊崩れ、またはちょっとガラの悪い人たちが、武器をもって反日運動をする。日本に抵抗していく。これを義兵闘争といいます。ガラの悪いお兄さんたちが、日本の要人を付け狙っていく。有名なのは安重根という人です。朝鮮支配のため日本が置いた朝鮮総督府。その長官に、総理大臣を四回つとめた伊藤博文が乗り込んでいった。しかし安重根に暗殺される。伊藤博文暗殺です。日本では安重根は殺人犯です。しかし韓国では英雄です。日本では伊藤博文は偉人ですが、韓国では悪人です。歴史というのは、国によってこんなに違う。韓国の小学生、中学生、高校生はこう教えられています。


【辛亥革命】 次に、日清戦争で日本に負けた中国です。中国でも清朝が細々と生きながらえているんですけれども、そこに革命の動きが起こり始める。そういう動きは日清戦争の頃から始まっています。その中心人物が孫文です。この人はもともとお医者さんですが、お金持ちではない。しかし政治運動するときには、お金がいるんです。嫁さんが財閥のお嬢様です。浙江財閥という。バックにこれがついている。
 浙江財閥とは、19世紀末から20世紀前半にかけて、イギリスなどの海外の帝国主義諸国の大資本と結び、上海を本拠に中国経済界を支配した浙江・江蘇出身の資本家の一団で、買弁資本として発足し、金融資本に発展したものです。買弁資本とは、植民地・半植民地で、外国の資本と結びいて、利害をともにする現地の資本のことです。つまり租界で成長した外国資本の手先となった商人のことです。

  彼は1894年に中国政府を倒すための革命結社をつくる。これが興中会です。日本がロシアに勝った。この興中会、中国を興す会、この名前では何する組織かわからないから、名前を変えて1905年には中国同盟会になる。ものものしい名前になっていく。これがどこでできたか。東京でできる。だから孫文には日本人の友達がいっぱいいる。
  そこで中国をどう変えていくか。わかりやすく三つの理念を掲げる。これを三民主義という。民族民権民生とぜんぶ民がつくからこう言います。
 民族というのは、清の支配層は最大民族の漢民族ではなくて、朝鮮北方の満州族が支配していたから、そうじゃなくて漢民族の中心の国をつくろう。
 民権というのは、民権運動の民です。民衆の権利を大事にしよう。
 民生というのは、民衆の生活を守ろうという経済的な要求です。
 これが三民主義です。
 これでだんだんと勢力を拡大して、中国でも孫文に協力する人が増えて、日露戦争から6年目の1911年に中国で革命が起こる。これが辛亥革命です。辛亥の意味は中国流の年の数え方で、日本でいう干支みたいなものです。辛亥の年が1911年だったということです。
  きっかけは、中国政府が私有鉄道を全部国のものにしようとした鉄道国有化問題です。これに一気に不満が爆発して、まず四川省というところで暴動が起こり、それが全国的に広まって、14省が・・・省は日本の県より広い地方組織です・・・独立宣言していく。次の年、1912年には独立を宣言した省がまとまって、清とは別に新たな国を作っていく。これが中華民国です。これが今の中国では、ないですよ。今の大陸中国は正式には、中華人民共和国という別の国です。
 この時の中華民国をいま現在でも名乗っているのはどこですか。この国は消滅してはいないんです。日本が認めていないだけです。これが今の台湾です。なぜそうなっているかというのは、日本に原爆が落ちたあとのことを言わないといけないから、あとで言います。
 この中華民国政府の臨時大総統に孫文がなる。


【中華民国の成立】 ただこの孫文は頭キレるけれども、軍隊を持たないんです。軍隊がないと国を治められないですよね。軍隊を持ってる人にはかなわないんです。軍隊を持ってる人・・・これを軍閥というのですが・・・この軍閥の中から袁世凱がだんだん力を持ってきて、軍事力にものを言わせて、オレと交代しろという。孫文はイヤと言えない。孫文に代わって、袁世凱が大総統につく。この袁世凱政府がこのあと約5年続きます。1912年から1916年まで中国を支配することになる。
 第一次世界大戦は・・・1914年だから・・・この間に起こる。袁世凱政府の時です。袁世凱政府は、国民党を弾圧していく。国民党とは何かというと、さっき言った孫文が革命結社として作った中国同盟会、これが名前を変えたものです。つまり袁世凱は孫文を弾圧していく。
 中国はこのようにごたごた続きで、国らしい国の形を成していません。看板倒れです。そこに1914年に第一次世界大戦が起こって、日本はこのごたごた続きの中国に21の要求をしていく。これを21ヵ条要求という。日本からこれを突きつけられて、中国は飲まざるを得ない。日本と中国は今も仲が悪い。こういう過去がある。そして1916年に袁世凱は死んでしまいます。
 ごたごた続きの中国で革命の中心の孫文は弾圧され、弾圧していた袁世凱も死んでしまう。ますます国の体をなさない。中国はバラバラです。政府の看板だけはあるけど、日本の戦国時代のようなものです。地方地方で軍隊を持つ親分さんが各地を牛耳っている。こういう状態を軍閥割拠という。中国はこういう混乱の中に入っていくのです。


【モンゴル】 それでは中国の北にある国、なにかと相撲界で今お騒がせな、日馬富士とか、白鳳とか、昔は朝青龍といった、モンゴルという国です。昔はモンゴル帝国チンギスハーンが世界帝国を築いた。世界最強の国をつくった。ここはどういう形をとるか。チンギスハーンは今から800年ぐらい前のことです。
 その後1600年代の終わり、清が侵略して外モンゴルを支配する。外モンゴルというのは今のモンゴル共和国のある地域です。そうやって清朝の支配下に入ったのが1600年代の末です。
 その後1700年代から、そこに西から東へ東へとずっと領土を伸ばして、今や世界最大の領土を持っているロシアが入ってくる。
 1900年代になると清も、ここをロシアに取られてはなるものかと思って、モンゴルの支配を強化していく。これでモンゴルは、ロシアと清から両方から引っ張られるような状態になる。清が支配を強めると・・・基本的にモンゴルは中国が嫌いです・・・反清感情が高まっていく。
  その中国で1911年に清朝が滅んだ。そのあと袁世凱も死んで軍閥割拠になって力を弱めていく。するとこの辛亥革命をきっかけにモンゴルが独立宣言をする。弱った中国は、勝手に独立するな、と反発する。しかしこれを止める力はもはやない。その後10年ぐらい経つと・・・今日まだ言わないけれ・・・1917年にロシアが滅ぶんです。ロシア革命でロシアがソ連になる。君たちが生まれたのは、このソ連がまた滅んでロシアに戻った後です。ロシア・ソ連・ロシアとくる。
 この時にロシアは社会主義国家になる。ソ連という新しい国になった。これをきっかけにモンゴルはソ連に近寄っていく。そして1924年社会主義国家として独立する。 
 だから私が若い頃には、モンゴル人は日本にはほとんどいなかった。体制の違う社会主義国家のモンゴルとは国交なかったからです。
 そしてソ連が1991年に滅んだ。親亀こけたら子亀もこけて、モンゴルも資本主義体制にまた変わる。そしたら日本と同じ体制だから、モンゴルと日本の行き来が盛んになる。あそこにもモンゴル相撲の伝統がある。それで日本に来て横綱が次々と出ているという状況です。




【大戦前のヨーロッパの対立】 またヨーロッパに戻って、いよいよヨーロッパは第一次世界大戦の準備に入っていきます。ちょっとまた30年ばかりへ戻っていくと、基本はドイツとイギリスの戦いです。
  ドイツは1870年代までは、けっこう仲間を持っていた。その時のドイツの首相はビスマルクといいます。この人は外交が上手だった。だからいっぱい味方をつけた。そして仲の悪いイギリスを孤立させた。その隣の仲の悪いフランスを孤立させた。この状態が下の図です。ドイツはこれです。オーストリア、これもドイツ人です。このドイツとオーストリアという二つの国は同じ民族だから、何もしなくても仲間なんです。
 ポイントは、ドイツはロシアと仲間であったということです。これで安全です。フランスを孤立させ、ロシアと協調する、これがビスマルク外交の骨子でした。
 ドイツとオーストリアとロシア、三つの国は全部皇帝がいるからこれを三帝同盟という。1873年の締結です。この時はドイツは安全であった。三帝同盟にロシアが入っていた。
 
▼ ビスマルク外交         
 
 
▼三国同盟と三国協商
 

 しかし10年でこんなに変わる。ロシアはイギリスについている。それで世界がごそっと変わる。
  しかし1890年、老練なヴィルヘルム1世が死んで、若いヴィルヘルム2世が皇帝になる。ドイツとロシアの協調こそがビスマルク外交の骨子でしたが、この若い皇帝は、親ロシア政策をとる首相ビスマルクと対立し、1890年ビスマルクは首相を辞めてしまいます。そしてヴィルヘルム2世はロシアとの再保障条約の更新を拒否します。
 ここが変わり目です。新しもの好きの新皇帝ヴィルヘルム2世が、今までなかったような外交を繰り広げると、国際関係ががサッと変わって、はたと気づくとドイツは孤立していきます。

  まずロシアの変わり方です。日清戦争の3年前の1891年に、ロシアとまず手を組んだのはフランスです。フランスとロシアは仲間になった。これが露仏同盟です。
 すでに産業革命が起こっていて、みんな製品を売るところを求めている。ヨーロッパの東ヨーロッパのほうにバルカン半島という半島がある。そこはいろんな民族が雑多にいて、その隣にドイツ人もいるんです。
 そのドイツ人の地域で一つのグループを作ろうというのがドイツです。これをパン・ゲルマン主義という。パン・ゲルマンというのは、ゲルマン人一色主義です。ゲルマン人中心にやって行こうということです。ゲルマン人というのはドイツ人です。そしてそこを起点に、世界の遠いところまで、ドイツの影響をおよぼして行こうという拠点づくり、3つの拠点作りをドイツがやる。
 これがドイツの首都ベルリンのB、それからビザンティウムという今のイスタンブール・・・今のトルコの首都です・・・そのビザンティウムのB、それからバグダード・・・今のイラクにある・・・そのバグダッドのB、たまたま全部Bがつく。これを結ぼうとする。これを3B政策といいます。
 この3B政策によってドイツは西アジア支配をめざします。この政策は、同地域を狙うイギリスとロシアを刺激します。

※ 1899年、ドイツはバグダード鉄道敷設権を獲得する。これが3B政策になる。
中東の豊かな石油を得るため。ペルシャ湾からインド洋に出る海上航路を切り開くため。ロシアもバクダード鉄道に反対。スエズ運河を開いたイギリスのインド航路支配と競合する。

 
 これに対してロシアは民族でいうとスラブ人です。ロシアもパン・スラブ主義です。ドイツ人は民族で言うとゲルマン人、ロシアはスラブ人です。ドイツとロシアの対立が発生する。

※ ロシアは、ドイツとオーストリアに激しい反感を抱き、フランスに接近、1891年、露仏同盟を結び、ドイツと敵対します。(宇山卓栄)

 そのイギリスは、どこに自分たちの製品を売ろうとしているか。カイロのC、それからケープタウン・・・アフリカの一番南の南アフリカにある・・・そのケープタウンのCです。それからメインはインドです。イギリス最大の植民地インドの中心カルカッタのCです。たまたまぜんぶCです。これを3C政策という。この貿易の対立で、ドイツとイギリスが仲悪くなる。今でいうアメリカと中国の貿易対立です。潜在的に仲が悪いんです。

※ イギリスが「光栄ある孤立」を捨て、最初に組んだ相手は日本でした。1902年、日英同盟が締結されます。イギリスは極東アジアに進出するロシアの動きを封じ込めるために、日本を支援しようとしました。ドイツのヴィルヘルム2世はこうしたイギリスの動きを歓迎しました。
 ヴィルヘルム2世は、ドイツがロシアとの同盟を切れば、イギリスがドイツの味方になると期待していました。イギリスが日本と手を組むのはロシアを警戒してのことであり、イギリスは当初、東方問題などでロシアと激しく対立した経緯から、ドイツ支持に傾いていました。
 しかしヴィルヘルム2世のこうした期待は裏切られます。いまやドイツの台頭が著しく、ロシアやフランスよりもドイツを脅威とする捉え方が、イギリス国内で大勢を占めていました。
 また1905年、日露戦争でロシアが敗北すると、ロシアの脅威が薄れ、イギリスは明らかにドイツを敵対視するに至ります。(宇山卓栄)

 だからイギリスは、日露戦争のあと手を組まないはずのロシアと手を組んだ。これが1907年英露協商です。
 しかしこれはあくまでもドイツを潰すための手段であって、ロシアを信用したわけではありません。イギリスは本当はロシアも潰したいのです。
 イギリスはロシアの味方のような顔をしながら、ドイツも潰したいし、ロシアも潰したい、のです。第一次大戦はその通りになっていくのですが、そのためにはもう一つアメリカの動きが必要です。


 どっちも軍事力を持っているから、小さなことで、これは一瞬で変わる。しかしこの時に第一次世界大戦が起こるなんてことを誰も予想していない。こんな事はよくあることだとか、小競り合いはよくある、どうにかなると楽観している。しかしとんでもないことになっていきます。
 ドイツの仲間はオーストリアだけです。これはドイツとドイツの仲間です。イタリアは寝返るんです。信用ならない。結局ドイツは、イギリスとロシアとフランスに囲まれてしまう。これでは勝ち目ない。こういう対立です。

 ただドイツについては、イギリス側が三国協商だったら、ドイツだって三国同盟を結んでいると言われます。しかしこれは本当に成立していたか怪しいものです。イタリアはすぐに裏切るから、三国同盟は成立していなかったという話もある。ただ成立したことにした方が何となく説明上も都合がよいから、教科書にもそう書いてある。
  それに従えばこの時の世界状況は、ドイツの三国同盟イギリスの三国協商の対立です。こういうふうに世界の列強グループが二手に別れたことになっています。
 ちなみに日本はこの時イギリス側について日英同盟を結んでいる。まあ正直言って、対等だといっているのは日本だけで、イギリスはそうは思っていません。形だけのものです。今の日米同盟みたいなものです。今の日本の状況は驚くほど100年前と変わりません。
 これで終わります。ではまた。




「授業でいえない世界史」 41話 現代 第一次世界大戦の勃発

2019-05-16 15:00:00 | 旧世界史12 20C前半
※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


 第一次世界大戦前の国際関係というところです。戦争体制以前がこっちの左図だった。それが1890年にドイツの首相ビスマルクが引退するのと同時に、こう右図に変わっていった。
 前回書いたことを復習すると、ビスマルク外交時代はドイツは十分お友達を持っていたんだけれども、たった10年ぐらいの間に、ふと気が付いてみると、取り囲まれてしまっていた。取り囲んだのはイギリス・フランス・ロシア。このイギリス側が勝つわけですが、イギリス側の三つの協商を三国協商という。
 それに対して、ドイツも一応、三つの同盟を結んでるんだけれども、これは親戚づきあいのようなもので、オーストリアというのはドイツと同じドイツ人で、もともと国がわかれているのが不思議なくらいのものです。イタリアは同盟といっても、裏切るんです。あてにならない。
 ドイツ人がイギリス人に囲まれて、ロシア人に囲まれて、フランス人に囲まれた。こういう形で第一次世界大戦が始まっていく。ドイツ側は一応三国同盟といわれるけれど、これは本当に成立していたかどうか分かりません。


 ポイントは・・・イギリスとロシアがずっと対立していたんですよ・・・その対立していたイギリスとロシアが手を組んだことです。これが1907年英露協商です。これが一番大きい。ドイツは囲まれた。なぜこうなったか。


【日露戦争】 そこに日本が一枚噛むんだというこということです。日本は英露協商の3年前にロシアと戦争している。これが1904年日露戦争です。あの大国ロシアに、日本はとても勝てないと思われていたけれど、大番狂わせで勝ってしまった。世界中がこれには驚く。
 でも裏にいたのはイギリスです。同盟を組まないイギリスと最初に同盟を組んだのが日本です。これが1902年日英同盟です。実はイギリスから日本は戦わされたんです。オレの前に先に戦ってこい、日本は負けてもいい、と思っていたら勝ってしまった。
 これ半分はロシアの自滅です。


【ロシア第一革命】 日露戦争の最中にロシアでは国内から火がついて第一革命が起こるんです。これをロシア第一革命という。1905年です。日露戦争中です。ロシア革命というのはあと10年後に起こります。これが第二革命です。1917年、これが本番のロシア革命です。ロシアは滅んでソ連になる。このソ連は君たちが生まれる10年ばかり前までありました。1905年にロシアでは政府に対する反乱が起こるんです。
 このきっかけが血の日曜日事件という。ある日曜日、クレムリン宮殿・・・皇帝がいる宮殿です・・・その前の広場でデモが起こる。これに対して警官隊が発砲する。多数の血が流れて死者が出た。これに民衆が反発して国内が大騒動になっていたから、ロシアとしては日露戦争どころじゃなくなる。早く引き分けに持って行きたい。ロシアは引き分けのつもりです。しかし日本は勝った形で条約結びたい。これは難交渉だった。


 ではロシアはその後どうなったか。皇帝はつまらない奴だ、皇帝をなくして自分たちの議会を作って自分たちの政治をやろうということになる。それをソビエトといいます。議会を作って自分たちの政治をしていこう。そのために議会に送るための政党が出てくるんです。
 三つある。一つはエスエル。これはかなり左かがっている政党です。左というのは社会主義思想がかってるという意味です。時代は資本主義なんですけれども、それに対する反発として社会主義、つまり計画経済というのが出てくる。その政党なんです。
 あと二つが、この計画経済のためなら、暴力革命だってかまわない。正義のためなら人を殺したっていい。こういうときはたいがいウソです。これは権力者がよくやる常套手段なんです。そういう政党です。これをメンシェビキボリシェビキという。この二つとも社会主義革命を理想とする政党です。どう違うのかというと、分裂しただけです。もともと一つだったんです。これがちょっとした方針の違いで、少数派と多数派に分裂した。メンシェビキは少数派、ボリシェビキは多数派という意味です。つまりこの言葉にこだわらずに、これらは共産主義思想なんだということです。
 最終的にはボリシェビキが勝っていく。これがソ連を10年後に作っていく。指導者がレーニンという人です。まだそこまで行く前、10年ばかり前です。
 それでこういう動きをどうにか抑えるために、1906年に改革をする政府、ストルイピン政府ができる。これは政治家の名前です。少し改革をしていく。ぼちぼち改革をしていきましょう。農業改革です。こういうふうに日露戦争を戦ったロシアは、足元から火がついていくということです。だから足元に火がつくと威張れない。

 今まではイギリスの向こうを張ってイギリスと対立していたけれども、これではとてもイギリスと対立できないということで、日露戦争に負けたあと、1907年にその敵対していたイギリスとロシアが手を組む。これが英露協商です。これで三国協商が成立した。これでドイツを包囲した。
 だからといってロシアがメインだとは思わないでください。第一次大戦、いま向かってるのはイギリスとドイツの戦いです。中心はイギリスです。まだイギリスの世紀です。


【イギリス支配下のインド】 ではそのイギリスです。この国は同時に何をしているかというと、大植民地帝国だった。イギリスは小さな島国だけれども。最も重視していたのがインドです。インドでもイギリスの支配はイヤだな、そうという不満を持つインド人が当然出てくるわけです。そうするとそれを防ぐために手を打つ。インドの北東にベンガル地方というのがある。これを分割しようとする。1905年・・・日露戦争の1年後ですが・・・ベンガル分割令を出す。
 イギリスはワンパターンです。強い敵がいると直接は戦わない。必ず強い敵を二つに分断する。敵同士を仲間割れさせて戦わせる。インドでもそうです。頭がいいというか、ずるいというか。やってることは正々堂々じゃない。真正面からはいかない。
 君たち知らないかな、イギリス映画で一番当たったのは何か。007ですよね。007とは何か。・・・我々の時は全盛期でジェームズボンドが出てくる映画・・・あれはスパイ映画ですね。でも本当のスパイはかっこよくないです。映画のような美人は出てこない。殺されても闇から闇に葬られ、新聞にも乗らない。これがスパイです。MI6という実在の秘密警察がモデルです。こうやって常に敵情を探るわけです。そして敵を分裂させ勢力を弱めるんです。

 次の年には、これに対してインド人腹を立てる、反英運動が起こる。その大会をカルカッタという街の名前をとってカルカッタ大会という。反英、英はイギリスです。インド人がイギリスに対して反英運動を行った。インドがイギリスに支配されているからです。
 どういう反対運動をしたかというと、戦ったら殺される、ムチで打たれる、暴力を振るわれる。だから戦わない。イギリスのお金を使わないということです。イギリスのお金ポンドをもって、セブンイレブンに行っても、セブンイレブンの店長さんが、こいつに売るな、と言う。悔しかったらインドの通貨をもってこい、と言う。これが英貨排斥です。
 それから、そのセブンイレブンで売り出すのは、イギリスからの輸入品はダメ、買いたかったらインド製品を買いなさい。ざまーみろ、というわけです。これをスワデーシーという。これはインド語だから丸呑みするしかない。
 そして植民地からの自治独立を求める、このことをスワラージーという。学校で使っている言葉は、インド語じゃない、英語なんです。ここはインドじゃないか、インド語で教育ちゃんと教育しないか、これを民族教育といいます。インドの文化をちゃんと教えろ、オレはイギリス人じゃない、というわけです。



【バルカン半島の情勢】 次はその頃のヨーロッパです。ヨーロッパで火種になるところはバルカン半島です。わかりにくいけど半島です。下に地図がある。東欧、トルコ、ギリシャ、場所わかるかな。

 このトルコ、ここにあった大帝国は何というか。もともとはこんな大きい国があった。オスマン帝国です。近代ヨーロッパが勃興する前は世界の中心だった。最も進んだのはヨーロッパじゃなかった。ここのオスマン帝国なんです。もしくは明です。中国です。ヨーロッパは田舎です。まん中に文明ができて、日本は東の田舎、ヨーロッパは西の田舎です。
 しかもここにアルプス山脈があって、アルプスの北側はド田舎です。そのド田舎の海の向こうの島イギリスは、ド田舎のさらに田舎です。
 このイギリスがやっていることは、カイロ、ケープタウン、カルカッタ、これをむすぶ。これが3C政策です。線で結んで三角形の中を全部自分が取りたい。
 これに対してドイツがやろうとしていることは、ベルリン、イスタンブール(この昔の名前はビザンティウムという)、バグダード、これを結んで3B政策といいます。
 こうやってイギリスはイスラム世界を、その周辺まで含めてイギリスは取ろうとしている。そこにドイツも、イギリスがやるんだったらオレたちも、という五分五分の発想です。イギリスがやっていることはオレだってやっていい、とドイツは思う。しかしイギリスは五分五分の発想ではない。四分六の思想なんですよ。なぜか知らないけど、オレが6とってドイツには4。もしくは、オレが7とってドイツには3でいい。どっちが正しいのか知らないけど、ドイツは納得がいかないといえば、納得がいかない。
 ビスマルクは、しかしイギリスとは戦えない、と言う。しかし、若いヴィルヘルム2世は、五分五分じゃないかという。それで結果的にドイツは負ける。いまイギリス勢に囲まれたところです。ドイツは戦う前に外交で負けている。今こういったところです。
 このあとオスマン帝国というのは、100年前あたりから、その周辺で独立し始める国が出ている。しかし3~4割です。あとまだ広大な領地が、特にこのバルカン半島に残っている。
 第一次世界大戦後が非常にわかりにくいのは、イギリスが勝つ。フランスも勝つ。ロシアも勝つ。ここらへんをどんどん分割して山分けしていく。しかしこれが次の紛争に繋がっていくことです。
 狙いはこのオスマン帝国なんです。このオスマン帝国では、ヨーロッパ系の民族が独立しつつある。ギリシアも独立する。もともとはオスマン帝国の領土です。そういう状況がバルカン半島です。今ここは東ヨーロッパです。もとオスマン帝国というイスラーム国家の領土だった。ここにヨーロッパ勢力が乗り込もうとしているところです。

 そのバルカン半島情勢です。このバルカン半島、これがヨーロッパの火種です。「世界の火薬庫」といわれる。世界が吹き飛ぶような火薬庫と呼ばれる。ここに進出してくるのが、まずロシアです。ロシアは東に行こうとして、誰がストップかけたか。これは日本がストップかけた。東に来たらダメだと。
 それで前から狙っていたところに戻って、ロシアは再度南下する。バルカン半島に降りようとしていく。ロシア一色主義です。民族でいうとロシア人は何人だったか。スラブ人という。ロシア人はスラブ人です。それに対してドイツ人はゲルマン人です。

 これはあまり強調されないけど、イギリスとアメリカ人は同じなんです。イギリスはアングロ・サクソン人という。これは地理の教科書にも出てきました。千年前イギリスに移住した、もともとはゲルマン人の一派なんですけれども、その部族にアングロ族がイギリスに移住して、次にサクソン族がイギリスに移住して、ごっちゃになって混血したのが今のイギリスなんです。だからイギリス人はアングロ・サクソンといいます。
そのイギリス人が、大西洋を超えてアメリカに移住したのが、今のアメリカの白人なんです。だからどちらもアングロ・サクソン人です。

 ではロシア。ロシアはスラブ人です。スラブ人を中心にスラブ一色主義にしようと、パン・スラブ主義でバルカン半島に進出する。バルカン半島でやっとオスマン帝国から独立した国々・・・そこにはスラブ人が多く住んでいて・・・そこを応援していく。それでバルカン半島に南下する。
 そうするともう一つ、バルカン半島を狙っていたのがこのオーストリアです。オーストリアはドイツ人、つまりゲルマン人です。このオーストリアはどこを併合したかというと、これがオーストリアの領域です。オーストリアの領域はこうです。
 この前にどこを取って併合したか。このボスニア・ヘルツェゴビナです。1908年にこれを新しく領土に加えた。そうするとバルカンに住むスラブ人が腹を立てた。こういう状況が生まれた。オーストリアはボスニア・ヘルツェゴビナを併合した。つまりロシア系スラブ人とオーストリア系ドイツ人が、ここで対立しだす。

 結論を言うと、第一次世界大戦のきっかけは、1914年にこのオーストリアの皇太子つまり次の国王になる人が、併合したボスニアを訪れて国の儀式に参加し、車に乗って市内を回っていたところをピストルで撃たれて暗殺された。あるスラブ系の青年によって。この青年をプリンツィプと言いますが、彼はセルビア人だった。オーストリアは1914年7月にセルビアに宣戦します。
 すると翌月の1914年8月に、なぜかイギリスがオーストリアに宣戦するんです。さらにドイツにも宣戦する。イギリスはこの暗殺事件には直接の関係がないのに。その事件が起こったオーストリアに併合されたボスニアの州都がサラエボという。

 ではオスマン帝国そのものはどうか。そこにも改革を求める団体が出てくる。1908年青年トルコという団体です。これが政治改革を要求し革命を起こす。青年トルコ革命です。このオスマン帝国は、ちょっと前に憲法をつくっていたけど実行しなかった。せっかく作ったら憲法に従って政治やれよ、と彼らは言う。憲法に従う政治のことを立憲政治という。これが復活する。
 すると、このトルコつまりオスマン帝国と、ここから独立しかけていたヨーロッパ側は仲が悪いんです。そのヨーロッパ側の国がまとまって作った同盟をバルカン同盟と言います。このバルカン同盟とオスマン・トルコ帝国が戦争しだす。第一次世界大戦の直前の1912年にです。これをバルカン戦争といいます。そしてバルカン同盟が勝っていく。あの大帝国、オスマン帝国を破ります。
 
▼第二次バルカン戦争

【列強の対立図】 世界史は図で書かないと、いろんな国の敵味方の関係がむずかしい。ここで図に書きます。空きスペースに書いてください。今ナンバーワン国家はイギリスです。これとどこが対立しているか。それがドイツです。これが基本中の基本です。第一次世界大戦はこれです。
 実は第二次世界大戦もこれです。変わったのは日本だけです。日本はこの時イギリスの味方をしてたんだけど、第二次世界大戦はドイツ側につく。しかしそれは世界史でみるとメインじゃない。メインの対立はイギリスドイツです。


 イギリスは民族で見るとアングロ・サクソンです。これはアメリカと一緒です。同盟関係は結んでないけれど、アメリカは基本的にイギリスの味方です。今もです。これはここ100年間変わらない。日本はというと、イギリスと日英同盟を結んでいる。
 一方、ドイツの兄弟分で、同じドイツ人の国がオーストリアです。赤と青が喧嘩してるんじゃない。右と左が喧嘩してるんです。
 虫食い状態にされてるトルコ、つまりオスマン帝国はどっちが好きかというと、イギリスが一番悪さをしているからイギリスが大嫌いなんです。それに比べたらドイツがまだしもいい。


 オスマントルコはドイツ側です。これで見えてきた。この対立でイギリスが勝って、ドイツが負けるということは、トルコも負けるということです。トルコの領地を即取りに行く。植民地にしていく。それでイギリス植民地はさらに広がるんです。
 このイギリスが、あっちにはこう言い、こっちにはこう言い、矛盾することばかり言っている。それがイスラエルという国の建国に繋がって、いまだにここで血が流れて多くの人が死んでいる。

 もうちょっと言うと、フランスもこちら側です。三国協商側です。それからロシアも三国協商側です。我々の日本のことを言うと、アメリカと日本も三国協商側です。

 先走っていうと第一次大戦後はどうなるか。イギリスと日本は仲良かったはずじゃないか、と思うかも知れないけど、日本がロシアに勝って目立ってくると、これが気にくわないんです。まずアメリカが日本を気にくわない。それでアメリカと対立しだす。そうすると日本とイギリスは日英同盟を結んでいたから、イギリスは日本を応援するはずなのに、イギリスは日本を裏切るんです。イギリスはアメリカ側につく。日本ははずされる。はずされて行き場がなくなって、次の第二次世界大戦では日本はドイツについていく。そして負ける。

 あまり細かくやっていくと、こういう流れがぶつ切れになって、なかなか一気に説明できないんです。ここでしか言わないから、こういうのをあとで細かく追っていきます。


【アメリカの中央銀行設立】 そういう関係で、いま第一次世界大戦に向かっている。1914年、いよいよ第一次世界大戦が勃発する。
 その1年前の1913年に・・・たまたま偶然にとアメリカ人は言うけれど・・・アメリカは中央銀行をつくった。これでお金が印刷できるようになった。紙のお金もOKになった。戦争に一番大事なのは何か。大砲とかミサイルとか言うかもしれない。それは軍人に任せておけば良いことなんです。政治家にとって戦争が始まる時に、一番必要なものは何か。資金力です。お金なんです。お金を作る場所、これがアメリカの中央銀行FRB)です。今もそうです。しかもこれが銀行という名前になってない。連邦準備制度という訳のわからない名前になってる。これは日本で言えば日本銀行のことです。アメリカ版の日本銀行です。
 我々の1万円札は正式名称はお金ではない。日本銀行券です。これは政府がつくったお金ではない。民間の銀行が作ったお金です。金持ちがつくったものです。2大財閥として、ロックフェラー財閥、それからモルガン財閥です。今でもある。FRBは国家の銀行ではない。民間資本の銀行です。こうやって国家の裏にドカンと金融資本家が居座るわけです。


※ 1907年、ニューヨークの中堅銀行のニッカ-・ボッカーがモルガンたちの仕組んだ風評によって倒産に追い込まれて、銀行恐慌が勃発します。これらの一連の動きの中で、モルガンやロックフェラーと気脈を通じたセオドア・ルーズベルト大統領が財閥の市場独占を禁止する反トラスト法の停止を宣言すると恐慌はおさまり、銀行業務は正常化されます。モルガンやロックフェラー財閥は反トラスト法停止の下で、ライバル会社を倒産させたり買収したりして独占的地位を強化します。(馬渕睦夫 「国難の正体」)

※ 1907年のアメリカの恐慌は、ニューヨークの準備銀行が彼らの預金者である地方銀行に通貨を支払うことを拒否したことから起こり、これらの地方銀行は自分たちの顧客の預金引き出しを拒否した。仕組まれたものである。(コールマン)


 実はその前年の1912年には、アメリカの大統領が共和党のタフトから民主党のウィルソンに変わっています。ウィルソンの本業は学者であって、政治家ではありません。彼は大統領になるため、イギリス系の金融資本家から援助を受けています。

※ ロシア政府は、村落在住のユダヤ人の活動が、田舎の人々を搾取していると考えていた。アメリカのユダヤ人銀行家たちは、ロシアに対して宣戦布告することをアメリカ大統領に要求したが、大統領のタフトは拒否した。彼らは次の大統領選で民主党のウィルソンを選出した。(マリンズ)


 またこの大統領選で、共和党の現職大統領タフトの対抗馬として、同じ共和党の元大統領セオドア・ルーズベルトは第3政党として進歩党をつくり、共和党の票を分裂させました。このような不自然な動きの中で民主党のウィルソンが勝利し、大統領に就任しました。
 連邦準備制度理事会というアメリカの中央銀行(FRB)設立の署名をしたのもこのウィルソンです。

※ 1900年初頭、ロスチャイルド家は、ハウスをヨーロッパに送って銀行家が政治家を支配する実情を学ばせた。(コールマン)
ハウスは、最初ウィルソンを大統領選で勝利させることを任務としていたが、のち外交関係に関わった。(コールマン)


 1913.12.23日というクリスマスの前日に、多くの議員がクリスマス休暇で欠席している中、この中央銀行設立の法案は議会を通過しました。
 金融資本家たちはこの中央銀行の設立のため、人目をはばかるように密議をこらしていたという話もあります。彼ら金融資本家たちの中心にいたのが欧州のユダヤ人財閥ロスチャイルド家です。
 中央銀行は発券銀行です。つまりお金をつくるところです。お金をつくるのは国家ではありません。中央銀行です。お金をつくる力を手に入れた者は、巨万の富を手に入れます。それを人に貸すことによって。

※ FRB が発足してからわずか4年の間に、アメリカの連邦債は、10億ドルから250億ドルへと25倍にまで膨らんでいった。ドル紙幣が洪水のように市場に溢れ出した。(宋鴻兵)

※ FRB の設立でアメリカは大量のドルを刷って戦費を捻出し、また他国へ貸し出しすることができるようになりました。(馬渕 グローバル)

 戦争するときにはお金を貸す力が必要になります。その力がユダヤ人財閥を中心とするアメリカの金融資本家の手に入ったのです。その力を借りようとするイギリスは、その後「二枚舌外交」といわれる大きな矛盾を国際社会にもたらします。


【サラエボ事件】 そこに1914年、突然さっき言ったサラエボ事件が起こる。オーストリアが併合したボスニアという国の首都ですね。そこにはオーストリア人じゃなくて、ロシア系スラブ人が住んでいる。ここでたまたまそこに来たオーストリア皇太子暗殺された。誰にかというと、セルビア人の青年です。セルビアというのは隣のロシア系スラブ人の国です。ドイツ系のオーストリアと民族が違うんです。犯人はプリンチップという青年です。
 殺された日の日程を詳しく調べると謎だらけです。なぜこんな経路を通って行くのか。予定にない変な道を、非常に危険な道を、わざとのように皇太子を乗せた車が通っていく。この暗殺事件には最初から謎が多いです。


 この皇太子が殺されたことによって起こるのが第一次世界大戦です。しかしこの瞬間には、第一次世界大戦が始まると誰も思っていない。
 しかしどんどんセルビア側に味方する国が出てきて、一方ではオーストリア側に味方する国が出てきて、いよいよ第一次世界大戦が始まってしまう。
 殺した側のセルビア側についたのが、まずはロシアです。なぜか。セルビアと同じスラブ人だから。ここまではわかる。
 しかしアングロ・サクソンのイギリスが、なぜセルビア側につかないといけないのかは、これはかなり苦しい。いろいろな理由をつけてイギリスはセルビア側に応援する。民族も違うし、イギリス国内で起こった事件でもないし、関係ないと言えば関係ないんです。
 ただそこを無理矢理こじつけようとすれば、イギリスとロシアは英露協商を結んでいる。でもこれはあくまで協商つまり商売を協力しましょうであって、軍事同盟ではないから戦わなくてもいいんです。しかしイギリスロシア側つまりセルビア側につく。

 もう一つが、オーストリアです。でもオーストリアを狙ってるんじゃない。オーストリアに味方した国つまりドイツをイギリスはにらんでいる。
 結局この第一次世界大戦はドイツとイギリスの戦いです。中心がどこかというのを間違うとうまく理解できない。一番大事なのはそこです。円の中心がどこか。それが間違っていたら、いくら回しても回らない。力ばかりはいって回らない。中心を見つけると10分の1の力で理解できる。一番大事なのはそれです。しかしどこが真ん中なのかということは、勉強しないとわからない。中心はドイツイギリスです。オーストリアとセルビアのことを、いくら考えていてもわかりはしない。
 ドイツとロシアというイギリスにとっての敵同士を戦わせて、その一方のロシアを応援するわけです。


 トルコはイギリスよりもドイツの方が好きです。だからイギリスが勝つということは、ドイツが滅び、トルコも滅び、その広大な領域が植民地になっていくということです。


 この戦いは5年も続く。いつ終わるか、終わらないのではないか、とも思われだした。今まで戦争は1年も続かない。それが20世紀に入って5年も続く。

 隠し味があと一つ・・・まだ言ってないけれども・・・ここに出てきていない国、それが決定的に重要です。それがアメリカです。途中からアメリカが第一次世界大戦に参戦する。ちなみに日本も日英同盟の関係で、この時には勝つ側つまりイギリス側についている。結局勝つのは、イギリスアメリカです。
 
▼第一次世界大戦時のヨーロッパ


 負けた側から行きます。負けた方を囲みます。青でいこう。三国同盟側です。
 まずドイツです。今のドイツを想定してください。この時のドイツはこんなに大きいんです。今のドイツはどこまでかと言うと、これです。こんなに小さくなっています。しかしこの時は東にグッと伸びている。
 それからオーストリア。今負けた方をやっています。オーストリアはこれです。やはりこんなに大きい。今のオーストリアはこのくらいです。こんなに小さくなります。この時の1/5ぐらいです。

 それからオスマン帝国、今のトルコ共和国。書き切れないほど、イスラム世界にずっと伸びてるんです。右下の方、南東に。さっき見せた地図では大きすぎて、はいらないからこうなっていますが、広大な領土があるということを理解してください。イラクとかで、クウェートとか、サウジアラビアとか、エジプトまで領有しています。
 ヨーロッパの中でドイツ側についたのがブルガリアです。
 ということは、負けた瞬間から国境はどんどん変わりだす、ということです。

 勃発地点はサラエボ。ここで皇太子が殺された。その暗殺事件から第一次世界大戦が始まる。

 これで終わります。ではまた。




「授業でいえない世界史」 42話 現代 第一次世界大戦

2019-05-16 14:00:00 | 旧世界史12 20C前半
※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


【第一次世界大戦】 軽い気持ちで始まったかのような第一次世界大戦。きっかけはサラエボ事件です。オーストリア皇太子が、セルビア人青年に暗殺されたという事件です。ふつう戦争は、日清戦争でも、日露戦争でも、長くて1年なんです。ふつうは2、3ヶ月ぐらいで終わるんだけれども、これは終わらない。持久戦になっていく、体力勝負になっていく。男ほとんど戦場にとられていって、国内生産は女が支えている。そういう意味で人類初の総力戦になる。

 次の第二次世界大戦の時、うちの親父は高校生だった。授業はなかったと言います。君たちは授業がなくて喜ぶかも知れないけど、授業なくて軍事動員です。飛行場の整備、飛行場があった、10キロ先まで歩いて行くぞと言われて、泥を運んで、砂を運んで、何のために学校に行っているのか分からなかったと言っていた。家のお母さんたちも、父ちゃんの代わりに、工場に来てくださいと動員されて、爆弾を磨いたり、そんなことばかりしていた。国民全員が戦争に加わるという総力戦です。

 それでも足りずに、自分たちが征服した植民地からも兵隊に行けと言う。インド人とか、アラブ人とか。それなら戦争に勝てば独立させてくれるのか、独立させてやろうと口では言っても、守りはしない。ひどい話です。いまでも悪い人間というのはいる。約束破る人間はいる。いつの時代も。それで良いとは言わないけど。


【大戦の経過】 戦争の終結に行きます。これはフェイントがかかります。イギリスが勝ってドイツが負けたと、すんなり行く前に1回目のフェイントがかかります。前にも言いましたが、1917年3月ロシア革命が起こります。イギリス側で参戦して本当は勝つはずであった国内の革命でロシアが自滅していく。これが1917年3月です。
 問題は次の月です。次の年ではない。ほんのその直後です。1917年4月アメリカが参戦するんです。これで決まりです。アメリカはイギリスと軍事同盟は結んでいない。外交関係で仲が良いだけで、軍事同盟を結んでいません。だからこの戦争に本当は関係ありません。にもかかわらず参戦する。この理由はというと、その前にドイツが無制限潜水艦作戦で、Uボートという潜水艦を発明して無差別攻撃をし、アメリカの船を沈没させた。その仕返しにアメリカがドイツに参戦する、これが表面上の理由です。

 時間をさかのぼってみると、アメリカのルシタニア号が沈没させられたのは事実ですが、それは2年前の1915年です。時系列的に見ると、1917年3月にロシア革命が起こってロシアは崩壊する。ロシアはイギリス側だった。イギリスが頼りにしたロシアがここでつぶれた。その次の月の1917年4月にアメリカがイギリスに応援し参戦する、という流れです。
 私にはどう見てもこれは、ロシアが滅んだからその代わりにアメリカがイギリスを応援したとしか見えない。そうはアメリカは言いません。ドイツによって自分たちのルシタニア号という客船を沈没させられたから、ドイツに参戦したと言う。しかし、どうもそうじゃない。表面上の理由です。

 アメリカは、イギリスやフランスがドイツよりも優勢と見て、個人・法人・国家にいたるまで、進んでイギリスの戦債を買い支えてました。
  当初、アメリカは経済的な支援を両国にしていたに過ぎず、中立を建前としていましたが、予想以上にアメリカ人の両国への戦債投資が進みました。1917年、ロシアで革命が勃発し、ロシアが混乱に陥り、ドイツに有利な状況となると、アメリカ人は動揺しました。もしイギリス、フランスが敗北すれば、対米負債の支払いが困難になり、アメリカは大きな経済的ダメージをこうむります。アメリカのウィルソン大統領がドイツの無制限潜水艦作戦を口実に参戦し、ドイツとオーストリアの敗北が決定しました。


 この時アメリカは油が出ます。石油が出る国なんです。今の主要な石油産出国は、西アジアのサウジアラビアとかの中東地域ですけれども、そこが本格的に今の中心的な産油国になるのは、もっと後のことです。第二次世界大戦後です。
 そういう意味でアメリカは、工業生産能力を持っている。地下資源も持っている。工業生産力はすでにイギリスを遙かに抜いて世界ナンバー1です。
 ではナンバー2はどこか、それがドイツです。イギリスは3位に落ちている。工業生産力から言うと、この戦いはアメリカとドイツ、つまりナンバー1とナンバー2の戦いです。


 アメリカがイギリスを応援するということは、当然軍事的にも応援します。兵隊も派遣する。爆弾・鉄砲もイギリスに応援するけれども、もう一つはお金を援助する。
 アメリカはナンバー1国家だからお金を持ってる。しかも紙幣でドルを刷ることができる。FRBという中央銀行を、第一次世界大戦が始まる直前に・・・開戦前年の1913年に・・・FRBを設立したばかりなんです。お金はいくらでもある。いや刷れる。その金でイギリス政府の借金である英国債を買う。つまりこうやってイギリスにお金を貸す。これが次の第二次世界大戦とも関係するので要注意です。

 なぜかというと、第一次大戦後の1929年に大恐慌が起こります。アメリカ・ニューヨークのウォール街で株が一気に暴落していく。それはなぜか。イギリスにお金を貸したら、貸した金はいずれ返してもらわないといけないけど、これが滞るようになるんです。アメリカはそういう意味で、イギリスにお金を貸している債権国になるんです。債権国とはお金を貸している国です。逆に借りている国は債務国といいます。

 こういうアメリカのお金の出所は、産業界ではロックフェラー財閥とか、もう一つ銀行業界ではモルガン財閥です。こういう巨大財閥のお金を使って、戦争資金をイギリスに貸してしているというお金の流れがある。
 戦争で爆弾が飛んだ、潜水艦でどうした、戦艦がどうした、こういうのは動きがあるから、見ただけで分かる。しかしよく見ないと分からないのが、お金の動きです。戦争で一番必要なのは、爆弾、鉄砲も必要ですけど、それを買うためにはまずお金がないといけない。戦争の一番根っこには戦争資金、つまりお金があるんです。そのお金の流れはこうなっている。アメリカからイギリスに今お金が流れているということです。
 第一次大戦でアメリカからイギリスにお金が流れ、ドイツが負けると今度はドイツからの賠償金がイギリスに賠償金が支払われて、イギリスはドイツからもらった賠償金でアメリカに借りた金を返済する。第一次大戦後はこういうふうになっていきます。しかし1929年の世界大恐慌におちいってこの流れが滞ると、また次の戦争が起こるというのがこの後の流れです。
 ちょっと面倒くさいから先にここで説明しました。教科書ではそういう構成になっていないから。


 いまロシア革命の話をしていました。革命で潰れたロシアは、自分から戦争いち抜けた、オレは戦争やめたと言う。国家体制も社会主義体制に変わる。そして1918年3月に、自分だけで早々とドイツと講和条約を結ぶ。戦争いち抜けた条約、これをブレスト・リトフスク条約という。これは結ばれた場所の名前です。


 仲間のロシアが脱落したことでイギリスは不利になるかというと、さっき言ったように逆にアメリカが応援するから鬼に金棒です。これで戦争の行方はほぼ決定したと言って良い。
 どんどんドイツを追い詰めて、ドイツが不利になっていく。西部戦線と東部戦線、ドイツの西と東、この2つを守らなければならないドイツですが、まず西部戦線で負けていく。そのうちに国民をまきこんだ戦争になる。これが1914年~18年まで、5年も続く。国民は、もういい加減やないかとうんざりしていく。
 それでも、戦争はやめない。ドイツの皇帝ヴィルヘルム2世が、さらに軍隊に戦争に行けという。日本人だったらお国のために黙って戦場にいくかも知れませんが・・・それはそれで良いけど・・・ドイツ人は日本人に似ているといっても、もうちょっとドライなんです。

 日本人のことを言うと、勝てるというのを、日本人はずっと信じているんです。これはウチのお袋のことですけど、女学生の時は太平洋戦争中なんです。B29がボンボン街に爆弾を落としている。そこで学校の先生が女子生徒を集めて、竹槍を持ってきて、竹槍でヤーという訓練をさせる。竹槍でですよ。何の練習かというと、これで米軍に勝つと言う。相手はB29の爆弾攻撃です。勝てるわけないでしょう。竹槍で勝てると思っていたのかと聞くと、そう思っていたという。みんなそうだったという。これが集団心理の恐いところですね。いやウチのお袋がバカだったんじゃないですよ。社会現象としてそういうことが起こるのです。


 しかしドイツ人は、戦争に行けと言われて、では勝てるのか、これは負け戦だと分かるんです。軍隊の水平さんたちは行かない。ボイコットして反乱を起こす。ロシアと似ている。ドイツも結局、足元から火が付いて戦争続行が不可能になる。キール軍港の水兵反乱です。これをドイツ革命といいます。1918年11月です。


 言っておくけれども、そういう一生懸命に戦おうとした昔の兵隊さんをバカにしているつもりは全然ないです。全然ないんだけれども、普通は竹槍ではB29には勝てない。それすら分からなくなっていく、ということが戦争にはある。それは怖いことです。

 1918年にドイツ革命が起こって、ここでドイツ皇帝のヴィルヘルム2世は国外へ亡命する。これでドイツは実質負けた。ロシアも革命で皇帝はいなくなった。ドイツでも戦争に負けて皇帝はいなくなった。こうやってヨーロッパのロシアとドイツから皇帝がいなくなる。そういう意味では、第一次世界大戦は皇帝つぶしの戦争だったともいえます。

 そのあとドイツでは新政府ができるんですけど、皇帝が逃亡した後にイギリスに降伏する。無条件降伏じゃない。ふつう無条件では降伏はしないです。無条件降伏なんか第2次大戦だけです。ふつうの降伏は条件付き降伏です。
 それだから日本は第二次世界大戦のとき無条件降伏を呑めなかった。呑めないとどうなったか。これがピカドンつまり原爆です。これはやってはいけないことなんです。日本以外で原爆を投下された国などありはしない。あんなことしたのはアメリカだけです。ではなんで日本が降伏しなかったか。無条件で呑めといわれたからです。そんな戦争はない。いくら戦争に負けても、これだけの条件で負けましょう、それが交渉なんです。
 第一次大戦の時もドイツは無条件ではない。これによって第一次世界大戦は1918年11月に終結した。


【ロシア三月革命】 1年前に戻って・・・今ザッと言いましたけど・・・その途中で起こったこと、ロシア革命のなかみに行きます。それまでロシアはロマノフ朝で、皇帝がいた。そこにロシア革命が起こる。1917年3月に起こるからこれを三月革命という。10数年前の日露戦争の時に第一次革命がすでに起こっていました。これを血の日曜日事件といいます。それに続いてこのロシア三月革命が起こる。

 第一次世界大戦の長期化でロシア人にもだんだん不満が高まってきた。革命が起こったのは大戦中です。まだ戦争が終わってない1917年3月です。これ教科書が違えば、二月革命とも書いてあるんですよ。これは、ヨーロッパの暦とロシアの暦が1ヶ月違うんです。日本とかアメリカ・イギリスでは1917年3月ですけど、ロシアの暦は1ヶ月遅れていて2月なんです。だから二月革命と書いている教科書もある。そこらへんは細かいところだから、ここでは三月革命で行きましょう。
 労働者も首都のペトログラードで政府に反発し、兵隊もストライキをやっていく。そこで皇帝のニコライ2世は退位して、皇帝の政治は終わる。ロマノフ朝は崩壊していくんです。このあと皇帝一家は殺されます。
 それに代わって、どういう政府が成り立っていったかというと、反乱を起こした彼らが、まずソビエト政府という一つの政府をつくった。しかしこれではまとまらなくて、もう一つロシアで力を持っていたお金持ち中心に、別の臨時政府をつくる。つまり国内に二つの政権ができる。つまりまとまらない。こういうのを二重権力状態という。まとまらないからこの抗争はまだまだ続いていきます。


【ロシア十一月革命】 決着がつくのが約半年後です。これが1917年11月十一月革命です。ソビエト政権内では、この革命政権は暴力革命もやむなしとしていく。選挙で負けても・・・早い話が暴力つかってでも・・・政権さえ取ればいいという動きをしていく。そういう発想だったから、このときの社会主義政党のリーダーはいったん命の危険を感じて、2、3年前に国外逃亡していた。これが国外から戻ってくる。今がチャンスだ、ということで。
 この人物がレーニンです。三月革命の翌月の1917年の4月に戻ってくる。この人はロシア人ですけど、お父さんはユダヤ人です。ということはユダヤ人です。それまでどこに逃げていたかというと、スイスです。それが列車に乗って帰ってくる。この人犯罪者です。国外亡命していたから。
 そのレーニンをロシアに返すために、そのためだけの特別列車を用意して、スイスから帰ってくるんですけど、スイスからどこを通って帰ってくるかというと、ドイツを通って帰ってくる。これ不思議だと思いませんか。
 ドイツというのは、この時ロシアと戦っている国、第一次大戦で戦っている敵国です。敵の領地を通ってロシアに行く。しかも特別列車で。これがよくわからないですね。なぜそんなことが可能なのか。
 しかもロシアに到着すると、すぐにボリシェビキというグループの指導者になっていく。逃げていた者が帰ってきたとたんに、なぜすぐに指導者になれるのか。不思議だと思いませんか。
 彼には、ユダヤ系のアメリカの金融資本家が2000万ドルを提供しています。 


 そして4月、ロシアに着くとすぐに方針を発表する。方針をテーゼという。これを4月テーゼといいます。4月の方針という意味です。そこで戦争はやめるという。もう一方の臨時政府は、戦争に勝つぞという。しかしレーニンは早くやめるという。この時に強かったのはもう一方の臨時政府で、そのリーダーはレーニンではありません。
 こういう二つ政権があります。レーニンと対立するケレンスキーという人がまず内閣を組織してやったことは、このレーニンを弾圧していくことです。だからロシア人同士の殺し合いになっていく。つまりレーニングループケレンスキーグループが暴力闘争していく。勝ったのがボリシェビキのレーニン側です。これが1917年11月です。だから十一月革命です。
 レーニンは武装蜂起をする。そして暴力で勝つ。そしてソビエト政府を樹立する。2つあった政府を一つにまとめるというよりも相手を潰すんです。そして潰したあとは、ソ連は一党独裁政権になります。この政党がロシア共産党になります。
 
※ 革命後のソ連政府幹部の8割以上がユダヤ人で、これらユダヤ人のうち大多数はロシア革命を期にトロツキーとともにアメリカから渡ってきたユダヤ人でした。このように世界のユダヤ勢力がソ連を支援しました。(馬渕睦夫 「国難の正体」)

 そして今からは資本主義じゃなくて、社会主義国家をつくっていくぞ、と言う。まず戦争はやめるぞ。それから地主の土地は農民に全部分配するぞ。そういった社会主義改革をボリシェビキ主導でやっていく。ここには地主の私有権とか、そんなものはすべて無視されます。
 この1917年11月にはバルフォア宣言が出ています。これはイギリス外相のバルフォアがユダヤ人金融資本家の英国ロスチャイルド家当主ライオネル・ロスチャイルドに対してパレスティナにユダヤ人国家の設立を認めたものです。それほどイギリスはユダヤ系の金融資本家の資金援助が欲しいのです。レーニンがロシアに帰国したとき2000万ドルの資金を提供したのも、このロスチャイルド傘下のアメリカの金融資本家です。イギリスは同じ連合国のロシア帝国を革命から守るのではなく、逆にロシア帝国を革命によって打ち倒そうとする革命勢力を援助する側に回っています。
 すでにこの7ヶ月前の1914年4月にイギリス側に立ってアメリカが参戦していますから、ロシア帝国はすでに用済みであったのです。
 これにより、イギリスはドイツ帝国とロシア帝国という2つの敵を同時に倒すことになったのです。

 そしてドイツとは翌年の1918年3月に・・・さっきいった講和条約・・・ブレスト・リトフスク条約を結びます。これでロシアにとっては戦争終結です。


【革命後のロシア】 ロシアにとって戦争は終わったけれども、この後の社会主義改革はどうなるか。今はこんな混乱の時期で非常事態だから、理屈もクソもありゃしないということで、理屈をはずれて非常事態の社会主義改革をやっていく。これを戦時共産主義という。
 そういったなかで民間企業を国家が没収して国営企業にしていく。社長の財産を国家が没収していく。それだけじゃない。この新しいソ連という国は、こういう社会主義革命は一つの国だけでやってもつまらんのだ、全世界が社会主義にならんといけない、と世界全体を変えていこうとする。これを世界革命といいます。世界革命論です。そのための組織を作る。これがコミンテルンです。


 これは周りの国から見れば、たまったもんじゃない。日本も社会主義にするつもりなのか。日本に攻めてくるのか、ということで、このソビエト連邦に対しては、日本とか他のヨーロッパの強い国などが妨害戦争をやっていく。これを対ソ干渉戦争といいます。日本人にとってソ連は遠い国のように感じますが、日本に一番近い国は実はソ連です。
 九州から見たらソ連は遠いかもしれないけれども、北海道の人から見たらソ連は目と鼻の先です。北海道から樺太を通って、北から日本兵がソ連にどんどん行く。結局この出兵は成果は出ずに無駄な出兵に終わってしまいますが、この出兵をシベリア出兵といいます。


 そして2年後の1921年には、ソ連はネップという今後ソ連の社会主義をどうしていくかというソ連の新しい経済方針を採用する。これを新経済政策といいます。英語の頭文字をとってネップといいます。
 資本論通りの、マルクスが考えた通りの社会主義はすぐにはできない。今は非常時だから、緊急事態だからということで、一部資本主義の考え方を取り入れて行く。
 そして新しい国家の成立を正式に表明するのが1922年です。ソ連、ソ連と言いますけれども、正式名称はソビエト社会主義共和国連邦という。長いからこれを縮めてソ連という。細かいことを言うと、ソ連のなかには共和国がいっぱいある。これが邦です。邦は国という意味です。その共和国を強い力でまとめたのがソ連です。だから連邦です。ソ連は国の集まりです。1918年11月に第一次世界大戦が終わり、こうやってソ連ができました。


【ヴェルサイユ体制】 では終わったあと、戦後の世界がどうなるか。終わったあとは、勝った国が負けた国にいろいろ要求するんです。領土をもらうとか、賠償金を払えとか、そういう交渉が行われる。それをパリ講和会議といいます。1919年です。


 ただその前に第一次世界大戦によって誰の目にも明らかに変わったことがあります。今までの世界の中心はイギリスを中心とした西欧だったのが、イギリスはなぜ勝てたか。自力ではない。どこが応援したからか。アメリカが応援したからです。だから第一次世界大戦の終結と同時に、世界の中心もアメリカに移ります。世界ナンバー1国家がアメリカになります。経済的にはすでに10数年前から世界ナンバー1です。そらに軍事的にもです。


 それから、今までは皇帝がいる国が多かった。それが第一次世界大戦によって次々に滅んでいった。まず社会主義革命が起こったロシアで皇帝がいなくなった。次に負けたドイツでも皇帝は亡命していった。その仲間であったオーストリアも・・・これは言ってないけれども・・・皇帝はつぶれた。これをハプスブルク家といいます。覚えてますか。神聖ローマ皇帝だった家柄です。
 ドイツ側で戦って負けたもう一つの国トルコ、ここも崩壊していきます。スルタンという王様がいなくなります。王様がいなくなった国はまず混乱する。トルコは混乱のきわみです。トルコが持っていた広い領土、そこを勝ったイギリス・フランスが植民地にしていく。そのことが今からの会議で決まっていく。その会議を、フランスのパリで開かれるからパリ講和会議といいます。


 ではそのパリ講和会議で中心となるのがアメリカです。次がイギリスです。今まではイギリス、アメリカの順だった。ここからアメリカ、イギリスの順になっていく。
 そのフランスのパリ講和会議。何でパリか。フランスとドイツは仲が悪くて、普仏戦争で勝ったドイツはこの50年前、ドイツ帝国の建国宣言の時、フランスに乗り込んでいって、その首都のパリのベルサイユ宮殿でドイツ帝国ができたという建国宣言をした。これを見てフランス人はコノヤローと思った。それが50年前です。その憂さ晴らしです。徹底的にあの時の仕返しをしてやる。搾り取ってやる。ドイツに対して、ということです。


 その会議の中心になったのは、アメリカの大統領ウィルソンです。基本要求の14カ条を提案する。ドイツに恨みを持っているイギリスとフランス。フランスが特にです。この戦争で悪いのはドイツだ、その線で行きましょう。


 その償いをしてもらおう。金が欲しいんです。領地も欲しい。だから責任はすべてドイツにあることになる。昔から勝てば官軍という言葉がある。理屈じゃない、勝てば嘘でも本当になる。


 そこでいろいろ話し合った結果・・・なかなかすぐにはまとまらないんですけれども・・・どうにか条約を締結するところまではこぎ着けた。パリ郊外のベルサイユ宮殿でやったから、これをベルサイユ条約という。
 
▼第一次大戦後のドイツ国境

 ドイツに対して非常に厳しい。領土も分割される。ドイツの国土も狭くなる。東プロイセンが飛び地になり、国土が2つに分割されます。東側の領土が大きく削られ、ポーランド領になります。のち、ここを取り戻そうとして第二次世界大戦が始まります。現在のドイツ国境はこれよりも狭められ、首都ベルリンの東を流れるオーデル川に沿った線になります。
 おまけにドイツは賠償金も取られる。あとでドイツは払えないことになる。そういう無理なことをやると国家は壊れていく。壊れたあと、どんなことが起こるか。パン一個が1兆円になる。1兆円は運べないからパン一個買うためにお金をリヤカーで運んでいく。リヤカーいっぱいの1万円札を運ぶ。そしてもらっていくのはパン一個です。これは本当です。1兆倍になる。これでドイツ経済はパンクです。いじめればいいというものでもない。
 
▼第一次世界大戦後のヨーロッパ

【新しくできた国】 それからドイツに応援したオーストリア、これも解体される。オーストリアは今は小さい国ですけど、昔は大きかった。今のオーストリアの5~6倍あった。それ以外のオーストリアの地域はどうなったか。独立するんです。


 新しくできた国ハンガリー、ここでできます。それからチェコスロバキア、ここで独立する。君たちが生まれた時には二つに分裂してチェコとスロバキアに分裂して別々の国になりますけど、この時には一つの国でチェコスロバキアというます。
 それからユーゴスラビア。これは今はないです。君たち生まれる10年ぐらい前、分裂に分裂して、民族同士が殺しあって、この一つの国が、多くの国に分裂した。これは1991年のソ連崩壊後です。


 ドイツの領土も削減される。問題点はさっきも言ったように、悪いのはドイツだ、責任取ってもらおうじゃないか、という対ドイツ報復主義です。あまり厳しかったから、ドイツ人は希望を失って、10数年後に選挙で誰を選ぶか。ちゃんと選挙で選ばれるんです。ヒトラーというのは。そのヒトラーが率いた党がナチスです。ちゃんと選挙で選ばれます。他の政党は何もできないから、多少変わった人間でもいい。いっぺんやらしてみよう。そういったときは、だいたい失敗する。
 ふつう成功するのは、1回、2回、3回ぐらい練習しないと成功しない。いっぺんやらしてみようかというのは、大概失敗する。でも他に選択肢が無い。そういう状態に追い込まれていきます。


 それから、旧ドイツの植民地は、勝った国のイギリス・フランスが取る。負けた国の広大な土地、トルコ領も取る。これはあとでいいます。


 ただ一方で、民族自決といって、一つの民族が一つの国をつくる。自分たちで国をつくりたいなら、つくっていいということで、いろんな国が旧ロシアからも独立していく。
 ロシアからはまずバルト三国が独立した。バルト三国は、その後またソ連に併合され、さらに今から30年ぐらい前に再度独立したエストニアラトビアリトアニアです。あとで地図で見ます。
 その他にロシアから独立した国はフィンランドです。さらにしばらく消滅していたポーランドです。これがロシアから独立する。 


 ただ民族自決だったら、ドイツとオーストリアは・・・同じドイツ人だった・・・同じドイツ人だったら、民族自決を目指すのだったら、1つにまとまっていいじゃないかと思うけど、ドイツ人はダメなんです。だからこの民族自決はウソっぽい。


 ヨーロッパ列強は、東南アジアも植民地にしているから、そこも民族自決で独立させるか。しかしそれはダメという。結局、民族自決は白人だけなんです。
 これを認めれば、そういった動きが出てくるということで、イギリス・フランスは、このアメリカのいう民族自決に不信感を持つ。理由は自分たちの植民地が独立したら困るからです。


 ここで新しくできた国は、次のページの地図です。新しくできた国を地図で見ます。まずフィンランド、それからエストニア・ラトビア・リトアニア、この3つがバルト三国です。
 それから新しくできたポーランドはこの領域です。ポーランドも新しくできた。
 次にチェコスロバキアもできた。それからハンガリーもこのとき独立した。
 それからユーゴスラビア、今は6つに分裂してます。新しくできた国は、ほぼ負けた国の領域ばかりです。


 旧オーストリア領土、旧オスマン帝国領土からこれだけ独立した。まだあります。旧オスマン帝国領土の西アジアあたりに、ここは今も紛争地域です。


 しかし大きく見るとこの大戦は、ドイツロシアが潰れて、イギリスが勝ったということです。三国協商と三国同盟ができる前の構図は、まずイギリスとロシアが対立していた。イギリスはロシアの南下をずっと妨害してきた。これはグレートゲームと言われます。その時のロシアはドイツと同盟を組んでいた。ドイツ・ロシア・オーストリアの三帝同盟です。だからイギリスはロシアとドイツを同時に敵にまわすことはできなかった。
 しかしドイツのビスマルクが引退すると、ドイツとロシアの同盟関係は崩れた。そしてドイツの3B政策と、イギリスの3C政策が対立する。そこにチャンスがあったわけです。
 あとは戦争を起こすだけです。それがサラエボ事件です。

 1.イギリス ←→ ロシア
 2.イギリス ←→ ドイツ

 つまりイギリスはこの大戦で、ロシアとドイツという2つの敵を同時に倒したのです。

 しかしもっと大きな見方をすると、勝ったイギリスも、世界の覇権国家の地位を滑り落ちます。その代わりに世界の覇権を握ったのがアメリカです。

    【勝】     【負】
   アメリカ
     ↓  
 1.イギリス ←→ ロシア
 2.イギリス ←→ ドイツ

ざっくり言うとこうなります。あと目障りなのは、イギリスについていた日本です。
一見すると、アメリカとイギリスに共通するのはアングロ・サクソンということになってしまいますが、そこにユダヤ金融資本の影がちらつきます。

 これで終わります。ではまた。




「授業でいえない世界史」 43話 現代 第一次世界大戦後の世界

2019-05-16 13:00:00 | 旧世界史12 20C前半
※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


【国際連盟】

 第一世界大戦が終わったところです。終わって、主に東ヨーロッパで新しい国ができた。それがこの上の地図です。ここまでやったと思います。これだけ新しい国ができた。

 では、戦後の1920年です。パリ講和会議が前の年の1919年だった。その次の年1920年に、その会議を受けて設立されたのが国際連盟です。今はまた組織と名前が変わって国際連合という国際組織ができてます。国際軍事組織というべきか、国際平和組織というべきか。これを最初に提案したのが、戦争に勝った国、今や世界の覇権国になったアメリカの大統領のウィルソンです。


 この14カ条の提案のなかに、この国際連盟を作りましょうというのが入っていて、じゃあそうしましょうとなる。
 でもこの提案がおかしいのは、このアメリカ大統領が勝手に自分の思いだけで提案して、国内の賛成とか意向とかを、全く事前に聞いてなかったんです。国際会議で提案してつくったのはいいけど、当然アメリカがはいるものとみんな思っていたから、当のアメリカが入らないのです。
 国際連盟はつくったけれど、アメリカに持って帰って、作ってきたよとそれへの加盟を提案すると、なぜ勝手にそんなことをするのか、オレたちは承知してない、ということで、アメリカは議会でこれを否決します。それでアメリカは参加しないんです。つまりこれは、アメリカ議会が反対したというよりも、国民には何も知らせずに大統領が勝手にやったことだったんです。今の国際連合という国際組織のきっかけはこんな感じです。それでアメリカは国際連盟に不参加のままです。


 国際連盟の目的というのは、こういう戦争を起こさないためというのが目的なんです。ただそういう侵略をする国には経済制裁で懲らしめようということでできたんですけど、今と違うのは軍事力を持たないということです。
 だから、結局また20年ばかり後には第2次世界大戦が起こっていく。これには日本は負ける側について、日本の戦いは太平洋戦争というんですが、・・・最近はアジア太平洋戦争ともいいますけど・・・日本はひどい打撃を受けます。


 こういう変則的な形で国際連盟ができた。当のアメリカは入ってないから、国際社会に口を出す権利はアメリカにはない。しかし経済的にはナンバーワン国家だから、組織の外から口を出そうと思えばその力を持っている。ただ形上は口を出す立場にはない。
 だから世界がまた第2次世界大戦に入っていくときに、表面的なことだけでは非常に説明しにくいことになっていく。裏からからめていくようなところがあって、日本はまんまとしてやられたみたいなところである。このあとのわかりにくさの原因も、こういう強引さから発生することも読み取ってください。


【ワシントン体制】

 そのアメリカです。発言権はないけれども、前の会議のベルサイユ条約に関しては不満を持っていたんです。なぜかというと、実は第一次世界大戦のアメリカと日本の関係をみること、イギリスとドイツが戦って、第一次世界大戦はイギリスが勝った。
 このイギリス側について甘い汁を吸った国に二つある。一つはアメリカ、もう一つは日本です。日本には日英同盟があるから、日本が有利になったんですけど、今度は世界ナンバーワン国家になったアメリカが、日本取り過ぎだということで不満を持つんです。

 第1次世界大戦後、ロシアやドイツの脅威が去り、今度は日本がアジア太平洋地域の邪魔者としてターゲットにされます。


 日本は取り過ぎの意味はよく分からないけど、アメリカは何かイヤだなと思う。これはもう一回配分し直そう。しかし国際社会に口出す権利は・・・国際連盟に入っていないから・・・アメリカにはないけれども、経済力があるからみんなアメリカに逆らわない。うちで会議をしましょう。もう一度第2回戦の会議をやりましょうということで、首都ワシントンに各国政府の首脳を集める。これをワシントン会議という。これが1921年からです。
 この背景にあるのは、日本取り過ぎだというアメリカの苛立ちです。どこをかというと中国進出です。日本も中国の一部の利権をもらったからです。その中国では・・・後でちょっと言いますけど・・・日本に対する反日運動、五・四運動が起こります。それでしめしめです。日本と中国を分裂させよう、敵対させようとして、アメリカが発言力を増大させていく。
 「分割して統治せよ」というローマ帝国以来のやり方です。イギリスもそうでした。このアメリカもそうです。敵を叩く前に、まず敵を分裂させる。今もそうです。アメリカにとってアジア世界は分裂していた方がいい。逆に言うとアジアが一枚岩になってアメリカやヨーロッパに対抗すると困ったことになる。さらに言うと、今のイスラーム世界も分裂していた方が、アメリカにとっては都合がいい。イスラーム世界が一つにまとまることほど、アメリカにとって恐いことはないのです。


 各国首脳を集めて新たな約束を作らせる。1年前のベルサイユ体制の変更です。まず九カ国条約を結ぶ。主要な九カ国とは、アメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・日本を含めて、それに中国が加わる。9カ国の中心的な議題となったのは、この中国です。中国の主権を尊重しようという。言葉というのは常にもっともらしく言うんです。その裏には、日本は中国に対して取り過ぎだという苛立ちがある。
 これで九カ国の合意をつくって、あと具体的な条約を作る。それが四カ国条約です。四カ国とはアメリカ・イギリス・フランス・日本です。狙いは何かというと、日本はイギリスと日英同盟を1902年から結んでいる。アメリカはこれを切りたいんです。
 あとは言い方の問題です。切れというと角が立つ。だから日英同盟を四カ国に広げましょうという。日英二国間に、アメリカが加わって、フランスも加われば4カ国になれば鉄壁じゃないか。こう言われると、日本もイヤだといいようがない。イヤだといえば、おまえはアメリカとフランスを仲間はずれにするのかと言われる。これが外交上の言葉です。これに日本は乗せられた。本音はこうやって日英同盟を破棄させたいんです。実際にこの四カ国条約の締結と同時に、日英同盟は廃棄されます。

 これが四カ国になったときに、問題はアメリカと日本が対立し始めていると言うことです。イギリスがアメリカと日本の両方から引っ張られた時に、イギリスは今までの日英同盟のよしみで日本側についてくれるかというと、イギリスとアメリカはどちらもアングロ・サクソンです。アングロ・サクソン同士、これから100年経って今でも、アメリカとイギリスが戦ったことはないし、絆が切れたことはない。アメリカとイギリスは今に至るまで仲が良いです。

 イギリスは日本につかずにアメリカ側につく。つまり日本を切るんです。日本は切られるんです。日本は一面ケナゲです。そう薄々気づきながらも、国際協調だと言い始める。平和条約も結びましょう。そうしましょう。軍縮しましょう。そうしましょうと言って。それで軍事力を削減されていく。それが海軍軍縮条約です。これはワシントンで作られたからワシントン海軍軍縮条約ということもあります。軍縮とは軍隊を縮小することです。その約束を軍縮条約という。

 まだ飛行機がやっと飛びはじめたころなんです。だから空軍というのはまだない。海外で戦うときは海軍なんです。海軍をどのぐらい持っているかというのが、国の対外攻撃力の強さなんです。陸軍というのは、海軍戦で勝ったあと、首都に攻め込むときのものです。
 その海軍の主力艦を制限する条約です。このあと20年後に日本が作る主力艦と言えば、戦艦大和とか戦艦武蔵とかがあるんですが、これをどれだけ持ってるか、その比率を決めようとする。


 アメリカ・イギリス・日本で、アメリカは5、イギリスは5、日本は3、これで妥当だろうと。ここに大きな落とし穴がある。確かに国力としては妥当です。しかし今いったように、もし戦争になれば、アメリカとイギリスはくっつくんです。実際にそうなっていく。そうなった時に、5対3にはならない。アメリカ・イギリス連合と日本の対立になる。そうすると10対3です。これでは絶対勝てない。つまり逆らえないです。この段階で。これがアメリカの外交ですよ。


 これで本当の戦後体制が出来上がった。日本は第一次世界大戦で勝った。ベルサイユ条約でもらった。しかし1年後には、アッというまに変なことになった。しかしこれで決まりです。これがワシントン体制です。


 日本がその後、背負っていくのはこの体制です。ベルサイユ体制じゃない。このワシントン体制で決まる。一回戦ではなく、二回戦で決まる。国際社会は国際連盟にも入っていないのにアメリカが主導する。アメリカの狙いは、このあと一貫して原爆が落ちるまで、日本です。ドイツはイギリスに任せておく。現在に至るまでそうです。アメリカは日本を注意深く見ています。現在も日本に常駐している唯一の他国の外国軍隊は米軍です。


 それは日本の突出を防ぐためです。これは日本の外交上の敗北です。そのあとは、ジワリジワリとヘビが獲物を絞めていく。

 次にヨーロッパ社会です。もう戦争イヤよね、世界大戦はイヤよね。軍縮をもっと進めましょう。1920年代には3つ軍縮条約を結びます。これで安心かというと、その10年後にはまた第二次世界大戦が起こります。ということは、この段階から、その戦争準備は行われています。

 まず表面上の軍縮から見ます。1925年にはロカルノ条約を結ぶ。主にドイツです。ドイツとフランスの国境には軍隊を配備しない。そこをラインラントといいます。そこを非武装化します。
 それから1928年には不戦条約を結ぶ。戦いませんという条約。戦争しませんという条約を結ぶんです。しかしこれが守られないのは今言ったとおりです。

 そして1930年には、また海軍軍縮条約です。1回目はワシントンで、今度はイギリスのロンドンです。ワシントンはアメリカ、ロンドンはイギリスです。世界の中心はアメリカとイギリスです。そこで結ばれたのがロンドン海軍軍縮条約です。
 ここでは何を決めたか。ワシントン海軍軍縮条約では主力艦だった。その主力艦は単独では航行しないです。それを護衛する船団があります。何十艘と船団を組んでいく。周りを護衛する船を補助艦という。この主力艦と補助艦が合わさって、実質上の海軍の強さになる。その比率を、アメリカ・イギリス・日本で、10,10,7,と決めます。日本はそれをOKします。
 国力に応じたら、当時はこのくらいです。しかし大きな落とし穴は、さっき言ったように、米英は組むんです。そうするとアメリカ・イギリス連合と日本の対立となって、実質的に20対7になる。これでは勝てません。普通の番狂わせは半分までです。10対5とか、20対10とか、半分までです。半分切ったら勝てないです。アメリカ・イギリス連合は日本を絶対勝てない状況に置いています。


【ドイツの国境線】

 ではその次です。ドイツは次の第二次世界大戦でもイギリスと戦うことになるんですが、第一次世界大戦で負けたドイツは、本国がどのくらい縮小したか。小さくなる。ドイツは第一次世界大戦で負ける。それで小さくなる。第二次世界大戦でも負ける。また小さくなる。

 ではその前はというと、この図が第一次世界大戦前の国境です。それが戦争に負けてどうだったのかを、赤で書きます。


 実はドイツは、もとはプロイセンと言っていた。プロイセンの本拠地はこのドイツの北東なんです。それがその西側のドイツと結びついていった。その間のここを切る。ここを切って、こういうドイツになる。縮小された上に、本拠地の東プロイセンとは分断されます。国が二つに割られたということです。ドイツはこのやろうと思う。第一次世界大戦で負けたドイツが、このあとぜひ欲しかったのは、せめて分断されたここの部分をつなげてくれよ、ということです。なぜ二つに分けないといけないのか。せめてつなげてくれよ。ここはポーランドに与えられたんです。これをポーランド回廊といいます。どいつはどうしてもここが欲しい。


 20年後のことをいうと、削られたここの部分は、ポーランドの領地になった。ドイツ人にとってはこの部分は、もともとドイツなんだ、という意識が強い。だから20年後、そのときにはドイツはヒトラー政権です。ヒトラーはまずどこに侵攻したというと、このポーランドです。ポーランドに侵攻したと書いてあるんだけれど、ドイツ人の意識としては、もともとうちの土地だ。これは日本人の感覚でいうと北方領土ですよ。戦前まで日本の領土だったけれども、今ロシアに取られている。日本は返せ、返せ、と言っている。しかし今日本がそこに軍事侵攻したら、日本がロシアに攻めたとなるでしょう。


 これが20年後のことです。そこでもドイツはまた負ける。では今のドイツ国境はオーデル・ナイセ線という、ここです。ここが現ドイツの国境で、ますます小さくなっています。


【アメリカの繁栄】

 では世界の覇権国になったアメリカです。アメリカの繁栄はすさまじい。もとイギリスの植民地だったところですが、これが1920年代で世界の一等国、本国イギリスをしのぐ世界です。

 第一次世界大戦前までは、アメリカは外国から多額の借金をしていました。借金のことを債務といいます。だから債務国だった。それが第一次大戦に参戦し、戦ってみると、第一次世界大戦ではアメリカには一発の爆弾も落ちないまま勝ってしまった。実は、次の第二次世界大戦でもアメリカには爆弾は落ちてない。ほとんど無傷です。爆弾を受けることなく、世界帝国になっています。戦争はすべて外国でやっています。外で行う戦争は防衛戦争ではありません。侵略戦争です。これは非常に簡単な事実ですが、そのことはあまり強調されません。アメリカは常に外で戦争します。今やってる戦争もそうですけど。


 第一次大戦後のアメリカは、そういうふうに無傷で爆弾が落ちなかったばかりか、逆にイギリスやフランスにお金を貸してる状態です。第一次大戦で一番利益を得たのはアメリカです。アメリカは、お金を借りる側から貸す側に、戦争によって180度変わった。こういう貸したお金を債権という。これを持っているから債権国になったということです。


 経済的にも世界の中心はそれまでのイギリスのロンドンから、アメリカのニューヨークに移った。そのアメリカの経済の中心ニューヨークにアメリカの中央銀行があります。これは第一次世界大戦の前年1913年にできて今もあるFRBです。これが銀行と名がついてないけど中央銀行です。連邦準備制度という。意味のわかりにくい名前ですけど、実は中央銀行です。中央銀行というのは、日本でいえば日本銀行のことです。日本銀行といえば、我々が毎日使う1万円札を発行している銀行です。アメリカのドルを発行している銀行はこのFRBです。なぜこんな名前にしたのか。わざと訳がわかりにくい名前にした、という人もいます。ここにはブラックな話がけっこうあります。
 「歴史は夜つくられる」と誰かが言いました。そのことは意味深長です。表面だけではなかなか分からないものです。

 こういうふうにアメリカは一気に金持ちになっていく。軍事的にも1番、政治的にも1番です。アメリカは浮かれ調子です。日本はこの昭和初期、農村ではリヤカー引いている。大八車引いている時に、アメリカの農村ではトラックが走っています。
 またラジオが普及する。日本よりも20年早い。ハリウッドというのができて、どんどん映画が作られていく。ハリウッドスターというのも登場する。世界で一番繁栄しているところになっていく。

 この時代のアメリカは・・・二大政党制ですが・・・強かったのは共和党です。今のトランプ大統領も共和党です。その前のオバマ大統領は民主党です。この共和党の政策は、経済はほったらかしでいい、それでうまくいくんだ、という自由放任政策です。

 アメリカは国際連盟にも入らないぐらいだから、外国には口出ししないのを建前としています。これを孤立主義といいます。実際はアメリカは全く孤立していないのだから、これは単独主義と言ったほうがいいという話もあります。自国中心主義です。今のトランプ大統領が言っている「アメリカ・ファースト」、アメリカ最優先、このニュアンスに近いでしょう。でも教科書にも孤立主義と書いてあるからこれでいきます。うまくいってる時にはこれでよかった。

 しかし国際連盟をつくったのは民主党だし・・・これはウィルソンです・・・のちの太平洋戦争に入っていく時、日本と戦った時の政権も民主党なんです。政党が変わるとアメリカの方針も変わる。日本と戦って行くときの大統領はルーズベルトといいます。政党が変わると政策が覆っていく。国際問題に口出ししないと言っていたのが、いろいろ仕掛けていきます。
 つまり孤立主義とは、アメリカ最優先政策をとるために、いろいろ外交上の策を仕掛けていく政策だととらえていいでしょう。


【イギリス】

 ではナンバーツー国家に転落したイギリスはどうか。自由党が没落した。そしてソ連ができた。ソ連は社会主義だった。そういう社会主義に近い政党である労働党が政権を取るまでに成長します。社会主義思想が強くなったということです。その首相がマクドナルドです。ハンバーグ屋さんじゃない。マクドナルドというのはもともとイギリスやアメリカでは当たり前のありふれた名前なんです。

 これでイギリスも二大政党制です。もともとある保守党と、新しくできた労働党です。没落したのは自由党です。2019年の今もこの二大政党制です。

 アメリカの二大政党制は、共和党と民主党です。今も変わりません。この頃に今の形ができる。

 ただイギリスは植民地帝国です。植民地を1番多く持っているのはイギリスです。そのお膝元の隣のアイルランドが、オレたちはおまえたちとは縁を切る、独立させろ、と言って独立する。1922年です。


 それから1番大事な植民地はインドだった。インドに行くためにはスエズ運河を通らないといけない。そのスエズ運河はどこにあるか。エジプトです。そういう重要なエジプトが条件付きながら独立する。これも1922年。イギリスは勝ったのに、植民地を抑えきれなくなって国力が弱まっていく。


【フランス】

 それから、アメリカは借金国から、お金を貸している債権国になったということは、戦争が終われば、貸した金は戻してもらわないといけない。貸出先のイギリスやフランスからお金が返済される。アメリカはウハウハです。しかしイギリスは戦争に勝ったとはいっても、アメリカに借金を返さないといけない。フランスもそうです。

 しかし返すだけのお金がないんです。では返すお金はどこからもらうか。ドイツに稼がせて賠償金でもらおうとする。ドイツはたまったもんじゃない。返せないという。返せないといわれて一番困ったのが、国力の弱かったフランスです。それならおまえの領地をもらうといって、ドイツとの国境地帯にあるルール地方・・・これは工業地帯なんです・・・1923年にここをフランスが占領する。しかしドイツのところであとでもいうけど、これによってドイツはとんでもないインフレーション、1兆倍のインフレーション、1兆倍ですよ、こんなとんでもないインフレーションが起こっていく。結局失敗するんです。


【イタリア】

 それから第一次世界大戦で、ドイツを裏切って勝ったのか負けたのか、よくわからない中途半端なイタリアです。戦争が終わっても、深刻な経済危機、不況に陥っていく。

 イタリア人の取り柄は女に手が早いぐらいのもので、政治的にも経済的にも非常にまずい。経済危機になったからといって、働くかというと、南ヨーロッパの人間はあまり働かない。それで当てもなく、キリスト教にはスーパーマン思想、つまりメシア思想というのがあって、スーパーマンを選びたがるんです。これはドイツにも出てくるんですが、スーパーマンなんか人間がなれるわけないじゃないかと、日本人だったら子どもでもわかるけど、やっぱりこれを選ぶんです。これがムッソリーニです。


 民主主義よりも、このスーパーマンにオレたちを引っ張っていってもらいたい、全世界を救済してもらおうという発想です。これが全体主義です。カタカナでいうとファシズムです。この政党をファシスト党という。全体主義国家になっていく。
 このムッソリーニは、民主主義はイヤだといって、ローマの王様のもとを目指して、デモ行進をやる。これが1922年ローマ進軍です。民衆が、そうだ、そうだという。普通は、そんな非民主的なことをしたらいけないじゃないかと言いそうですけど、イタリア人はそうは言わない。そうだ、そうだ、ムッソリーニについて行こうとする。王様は、わかった、これ以上抵抗しないから、おまえ首相になって、イタリアの政治を引っ張っていけ、と言う。簡単に独裁政権が誕生します。こんな簡単にルールが変わるのかと不思議なほどです。

 真っ黒なシャツを着て、形相も気色悪いような一党独裁体制です。ほかの党は認めない。一党と二党が決定的に違うのは選択肢がないことです。二党は選べるんです。しかし一党というのは選択肢がない。だから選挙する意味がないんです。選挙する前に答えが決まっている。どこに入れるかと言っても、一つしか政党がなかったら、そこにしか入れられない。選挙する意味がない。これを民主的とは言わない。民主国家であるための条件は選択肢があるということです。政党は最低二つ必要です。2つと3つはあまり変わらない。しかし1つと2つは決定敵に違う。


【東欧】

 あと東ヨーロッパでは、前回言ったように、負けた国を中心に多くの独立国が誕生しました。

 次の火種。第二次世界大戦でドイツがまた軍事侵攻していく理由になったのが、隣の国、チェコスロバキアです。今はチェコとスロバキアという二つの国になっているけれども、この時はチェコスロバキアという一つの国です。ここにはチェコがドイツから取りすぎて、ドイツ人が住む地域まで国境の内側に含めてしまったズデーテン地方がある。

 このことにドイツ人は非常に不満がある。同じドイツ人じゃないか、ドイツ人が住んでいるところがなぜ他の国の領土になっているんだ。

 それからもう一つは、これはさっき言ったポーランドです。昔のドイツの東半分はポーランドになっている。しかも東プロイセンは飛び地になって分断されている。ここはドイツだろうという気持ちがある。ここがあとの火種になっていく。


【ドイツ】

 では負けた当のドイツでは、ドイツという国の名称がなくなる。ヴァイマール共和国というのがドイツの正式な名称になる。戦後のドイツでは、国際法上はドイツという名前がなくなった。ドイツという名前が消されたんです。ヴァイマール共和国になりました。

 それで、憲法も変えよう、ということになる。新しい憲法をヴァイマール憲法という。これが作られた。戦争に負けて作った憲法が、なぜか世界で一番民主的な憲法として評価が高いですけれども、評価が高いからといってうまくいくわけではない。国の実体と合わないからです。


 さらに、先に言ったように、イギリスとフランスはアメリカに借金を返さないといけない。しかしお金がないからドイツから賠償金をもらって、その賠償金でどうにか返している。だからドイツに対して、賠償金だ、賠償金だという。ドイツは戦争に負けて、爆弾落とされて、国は荒れて、国力も落ちて、賠償金を払うどころじゃない。そうすると賠償金の支払いが遅れてくる。するとフランスが腹を立てて、1923年ルール地方を占領するんです。


 ここからおかしくなる。何でそこまでオレたちはいじめられないといけないか、とドイツの労働者は怒りだして、もう働くまいとする。いわゆるストライキです。仕事はボイコットする。一時生産が停止する。生産が停止すると物が足らなくなって、急に物価が上がりだす。物価が上がると、お金が足らないからと言って、ドイツは・・・ここらへんは半分以上は謎なんですが・・・キチガイみたいにお金を印刷していく。するとアッというまに物価が1兆倍になる。これは本当に1兆倍です。
 1923年インフレーションが起こります。1兆倍というと、毎日毎日、100円のパンが200円になり、200円のパンが2倍の400円、400円が800円、1週間で10倍ぐらいになる。キチガイみたいな速さです。パン一個買うのに・・・ウソじゃなくて・・・リヤカーいっぱいの札束を持っていかないといけない。しまいには、お金に何の価値もなくなって、紙切れみたいなものだから、教科書にも載っているけど、子どもに札束与えて、これで遊んでおけと、子供が札束で遊び出す。お金じゃなくなるんです。本当にこういうことが起こる。


 変な話があって、兄は大酒飲みでビールを飲んでは、ビール瓶を片付けもしないでボンボン部屋に散らかしていた。一方の弟は勤勉で一生懸命に働いて、給料は貯金して銀行に貯めていた。そこにインフレが起きて物価が1兆倍になったら、100万円の貯金とか、100円の価値もなくなり、リンゴ一つ買えなくなる。

 しかし兄のビール瓶は、100本あれば、少なくとも1000円以上になる。酒飲みの兄が金持ちになり、まじめにお金を貯めた弟が貧乏人になる。ウソみたいな話が本当に起こる。
 ということは100万円が100円にしかならなかったら、1000万持っていた大金持ちだって1000円ぐらいしか持たないことになる。インフレになると、そうやって国民の財産が消滅していくんです。ドイツ全体の富が吹っ飛ぶんです。まじめに働いていた人たちが貧乏人ばかりになる。このことはまだ半分以上は分かっていません。なぜこんなに中央銀行つまりドイツ銀行が紙幣を印刷したのか。

※ この紙幣増刷はあくまで人為的なものであり、政府上層部が何らかの意図を持って行ったものと捉えるべきです。・・・インフレが激しくし進行することを政府筋から掴んでいた1部の担保力のある借り手がライスバンクや市中銀行から、資金融資を受けます。その資金で土地・設備など資産を買い入れます。貸付金は激しいインフレの進行により、実質価値が下がります。すると貸し付け返済は軽くなります。・・・当時のドイツのハイパーインフレーションはこのようなオペレーションを取ることを前提にした人為的な誘導であったのではないかと考えられます。その結果、中産階級を中心とする現金資産保有者を干し上げて、担保力のある大資本、あるいは政府関係筋が土地などの実物資産を所有し、囲い込んでいきます。(宇山卓栄 経済)

 これをどうにか収束したのが、新しい首相のシュトレーゼマンです。これが、次に不思議なのは、1兆倍のインフレーションをオレは元に戻すぞといって、たった1年で本当に元に戻るんです。

※ 1923年、首相となったシュトレーゼマンはハイパーインフレを沈静化させるため新紙幣レンテンマルクを発行します。シャハトが新たな中央銀行の総裁に任命されて、レンテンマルク政策の指揮をとります。(宇山卓栄 経済)

 1兆倍になったのもおかしいし、1年でそれが元に戻るのもおかしい。こんな歴史はみたことがない。一度起こったインフレーションはそんな簡単に戻りません。しかしここではなぜかすぐに戻る。

 その飛び道具というか、手品のお金が、レンテンマルクという。1億円を1万円と交換して、インフレを抑える。それでどうにか収まる。しかし、今でもドイツ人の頭の中にあるのは、インフレだけはやめてくれ、インフレになると1000万円の預金が1000円になる。身ぐるみ剥がされる。こういう恐い記憶があります。


 インフレで身ぐるみはがされてドイツ人はスッカラカンになった。アメリカは、もうちょっと早く助けたら良かったのに、ここまできてやっとドーズというアメリカの副大統領が、では助けましょう、お金貸します、と言う。1924年です。これをドーズ案と言います。それでドイツはどうにか景気を回復する。資金援助の一環です。アメリカがドイツに資金を貸し始めます。

 これも結論いうと、貸したということは、いずれ戻ってくるはずです。それだけの余裕がある時はよかった。しかし、アメリカはこのとき株が5年間で5倍に上がっているんです。100万円の株が500万円になる。こんなに上がった。しかしこれは一種のバブルです。何かのきっかけでストーンと落ちる。これが世界恐慌になっていく。それでお金がなくなると、まず打ち切られるのは、ドイツへのこの資金援助です。これが切られる。


 アメリカの大恐慌は1929年ですけれども、これで失業率がダントツ世界一なるのはアメリカではなく、ドイツです。


 弱いところからこうやって切られていく。ドイツは、ずっと踏んだり蹴ったりです。このあとこのドイツについて行ったのが日本です。日本はドイツ側につく。なぜでつくのか。これは巧妙で今でもよくわからない。巧妙で、紆余曲折しながら、結局日本はドイツにしかつけなくなる。

 その後ドイツでは、1925年に大統領にヒンデンブルクが選出される。彼は軍部勢力です。最も民主的なヴァイマール憲法下でいろいろあって、ドイツ人が選んだのは旧勢力の軍部だということです。

 新しい民主主義的な政治家には誰も期待しなくなっています。それだけでは経済が立ち直らない。表看板の憲法だけ掛け替えても、ダメだということです。


【日本】

 では日本はどうか。日本は第一次大戦中から急に景気がよくなった。戦争にも勝った。その中で民主主義が広まっていく。時代は大正時代です。大正時代は1912年から1926年までです。ちょうどこの時期に当たります。このデモクラシーの風潮に乗って、人気を博した総理大臣が原敬です。彼のもとで今の政党内閣が実現します。政党政治になっていく。まだ国民全員が選挙権をもっていない日本の中で、男だけは普通選挙になる。1925年です。女はまだです。

 しかし同時にマイナスをやる。それが治安維持法です。法律に良い名前がつくときは要注意です。治安維持法は名前に偽りありです。中身は何か。思想の取り締まりです。普通は人を殺したいと思っただけでは犯罪になりません。思想の取り締まりは、人を殺したいと思うだけで犯罪になる。そこが怖いところです。リンゴを盗みたいと思っただけでは、ふつう罪に問われないけど、それが犯罪になっていきます。

 これで終わります。ではまた。




「授業でいえない世界史」 44話 現代 第一次世界大戦後の西アジア・東アジア

2019-05-16 12:00:00 | 旧世界史12 20C前半
※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


 第一次世界大戦後の世界です。第一次世界大戦が終わったのが1918年です。それから約20年でまた第二次世界大戦が起こる。20世紀は一番多くの人が戦争で死んだ世紀です。

 第一次大戦が終わったあとの日本は、1920年代、大正時代です。ロシア革命の影響で日本でも、給料上げろ、労働時間短縮しろ、という労働運動が盛んになります。社会主義運動が盛んになる時代です。


 このあと、いろんな地域を1920年代を中心に見ていきます。まずは西アジア。次に東アジアに行きます。


【西アジア】
【旧オスマン帝国領】 西アジアはアラブ人の地域です。このアラブ人の地域に約500年間、何という国があったか。それがオスマン帝国です。

 第一次世界大戦で負けた国は一番にはドイツですが、大きな隠し味として、オスマン帝国がドイツの味方だった。そのオスマン帝国が潰れたんです。500年続いた国が潰れるというのは、世界史的にも大きな出来事です。ちょっと教科書の扱いが小さいんですが・・・小さいからよけい分かりにくくなってると思いますが・・・この国、こんなに大きい。今こんな大帝国はないです。ローマ帝国と変わらないぐらい大きい。
 今やってる時代より70~80年前からヨーロッパが強くなって、どんどん侵略されていきます。オスマン帝国のヨーロッパ側は独立したし、エジプトもイギリスによって半分植民地にされてる。

 2019年の今でもミサイルがよく飛んでいるのが、イスラエルという国です。今ここにユダヤ人国家があります。私は世界のヘソといってますけど。列強は、イギリスを中心に、こういったところを、オスマン帝国が潰れたあと、どんどん植民地にしていく。フランスも虎視眈々と狙っています。ドイツは戦争に負けたから、枠外です。

 それともう一つ言っておかないといけないことが・・・どっちみ言わないといけないから・・・オスマン帝国というのはトルコ人なんです。オスマン・トルコ帝国とも言う。トルコは今ここにある。アラブというのはその南のこのあたりで、民族が違う。だから中心はここのトルコ人なんですけれども、その南に住んでるアラブ人は、オレたちはトルコから独立したいと思っている。


 イギリスはドイツと戦っていて、ドイツの味方がトルコなんです。だからイギリスはトルコとも戦っている。アラブ人から見たら、イギリスはオスマン帝国という敵の敵です。敵の敵というのは味方になる。
 トルコを潰すために・・・今まで言ってないけど・・・イギリスがやることは、アラブに対して、オレに味方してくれたら、おまえたちをオスマン帝国から独立させてやるぞ、だからいっしょにトルコを潰そう、と言う。


 しかしイギリスにはお金がない。戦争には金がかかる。イギリスはそのお金が欲しい。お金を持っているのは、アメリカのニューヨーク・ウォール街のユダヤ人たちです。イギリスは、彼ら豊かなユダヤ人にお金を貸してほしいんです。イギリスは、お金を貸してくれたら・・・あなたたちは国もたないでしょう・・・この戦争に勝てば、ここに2000年ぶりにあなたたちの国を作ってあげますよ、と言う。これが今のイスラエルです。

 ここまで行くには、第二次世界大戦後までいかないといけない。


【エジプト】 そのアラブです。アラブはエジプトも含めます。エジプトも含め、ここらへんは全部オスマン帝国の領土であった。約400年間。これを頭の奥に入れていてください。その後、19世紀半ばからイギリスがエジプトを欲しがって、半植民地状態にした。しかしそういうイギリス支配に対して、エジプト人が反発した。これをエジプトのワフド党という。これがイギリスに反発する。反英運動が起こる。
 第一次大戦後、1922年にエジプトは一応の独立を勝ち取る。これがエジプト王国です。しかしこれは一応であって、メインの動脈のスエズ運河はイギリスは手放さない。イギリスはインドに行きたいから、ここを通るか通らないかで、経費が全然違う。だからここだけは手放さない。だから半独立状態です。それでは満足できないと言って、エジプトは反英運動をして完全独立を目指していく。
 
▼第一次世界大戦後の西アジア

【パレスチナ】 次は、さっきいった世界のヘソのパレスチナ地方です。今イスラエルがあるところです。ここでパレスチナ問題というのが発生します。これは今でも続いてる。原因はというと、ここはもともとはオスマン帝国の領土です。
 ここには2000年前にユダヤ人の王国があった。ユダヤ人は国を持たないから、国が欲しいとずっと思っていた。それで、ここがご先祖様の土地だということで、ここに移住するユダヤ人が増えていた。
 しかしこの2000年の間にすでにアラブ人が住んでる。この地域に住むアラブ人のことを別名パレスチナ人という。時々ニュースで、パレスチナ・ゲリラとかいう人は、2000年住んでいたアラブ人が、この後ユダヤ人がイスラエルという国を建国したから、土地を追われた人々です。住むところがなくなってゲリラ活動していく。つまり難民です。
 このユダヤ人は、このあとの第二次世界大戦が終わった後、イスラエルという国を建国します。その代わり今まで住んでいたアラブ人は、そこから追い出されることになって、戦後70年経っても血はいまだに流れている。

 なぜこんなことになったのか。これがイギリスの二枚舌外交といわれるものです。絶対両立しえない事を、アラブ人とユダヤ人の双方に約束するんです。


 一つ目は第一次世界大戦中の1915年フサイン・マクマホン協定です。フサインというのはアラブ人のリーダーです。マクマホンというのはイギリスの政治家です。今いったようにアラブ人はこの段階ではトルコ人に支配されてるから、独立したいと思ってる。イギリスは、オスマン・トルコ帝国と戦っているから、敵の敵のアラブ人は味方になる。イギリスは、オレたちに味方したら、君たちにアラブ人の独立国家を作ってやるぞと約束した。


 しかしその一方で、イギリスにはお金がなかった。イギリスの外務大臣のバルフォアという人が1917年に宣言を出したんです。バルフォア宣言と言います。お金を借りた相手は、イギリスのロスチャイルドという大財閥なんですけど、このロスチャイルドというのはユダヤ人なんです。お金を貸してくれたら、パレスチナに、ユダヤ人の国家を建設しますと約束した。

 これ絶対に両立しませんよね。同じパレスチナという地域に、アラブ人が住んでいて、そこにアラブ人の国をつくってやる。そこにユダヤ人が引っ越しをし始めている。そこにユダヤ人の国をつくってやる。一つの地域に二つの国をつくることはできません。これは両立しない。

 しかしこれを約束した。そして第二次世界大戦後にユダヤ人のイスラエルという国ができた。バカを見たのはだったのはアラブ人です。信じた私がバカだった。こんな事が許されていいのか、というのがアラブ人のパレスチナ・ゲリラなんです。それがいまだに続いている。
 さらにイギリスだけではなくて、これは半分わかりながら、その中間、1916年にはフランスも、オスマン帝国がつぶれたら分割しようね、そのオスマンの領土を分割しようね、と言う。これがサイクス・ピコ協定です。
 だからもともとアラブ人を独立させるつもりはないんです。ただユダヤ人はお金持っているから、ユダヤ人との約束だけは聞いてやらないといけない。アラブ人との約束は、どうせこいつらは貧乏人だから、放っておけと。それでアラブ地域を植民地にしていく。これは今でも世界の大問題です。


【シリア・レバノン】 それで1920年代、イギリスが勝った後は、旧オスマン帝国は分割される。今のシリア・レバノン、ここはフランスの植民地になる。ただ植民地というと人聞きが悪いから、言い方を変えようという。フランスの委任統治領となる。これ実態は植民地です。独立させないずに、フランスの支配権が及ぶ。
 その南東のパレスチナ・ヨルダン・イラク、これはイギリスの委任統治領です。そしてここのパレスチナに、このあと30年後にユダヤ人のイスラエルという国をつくっていく。代わりにアラブ人は追い出される。こんなことをやるんです。


【アラビア半島】 アラビア半島に行きます。ここは、もともとイスラーム教の力が強いところで、イスラームの教えの原点に立ち帰ろうという運動、ワッハーブ派というのが起こっていた。100年以上前に、ここにワッハーブ王国ができた。この国は長く続かなかった。しかし、こういうイスラームの教えに立ち帰ろうという運動自体は続いて、それに地元の豪族サウード家が加わっていく。サウード家はこの運動で力をつけていく。


 そのイスラーム教を始めたのは7世紀のムハンマドです。ムハンマドの子孫は実は今でもいて、今のアラビア半島で王様になっていた。これをヒジャーズ王国といいます。これは由緒正しいムハンマドの子孫なんですね。これをサウード家が滅ぼして、自分の国として乗っ取るんです。これが今のサウジアラビア王国です。ちょっと後の1932年にできる。今もあります。今もあるどころか、日本はこの国から石油の大半を輸入しています。


 昨年この国は、王様に反対するジャーナリストを大使館内で殺した、という疑惑をもたれています。すごいことやっている。王様を批判したら、新聞記者は殺される。しかも国の公の施設の大使館で。オレはそんなことはしてないと、いっているけど。
 ただ日本政府は、このことを強く非難していない。さっきも言ったように、日本の石油の最大輸入国はここです。日本はこの国と喧嘩できない。
 日本人を殺すのはミサイルじゃない。一に石油です。タンカーがストップしたらもう日本はダメです。二に食料輸入です。日本の食糧自給率は極端に低い。食料を切れば日本人はミサイルを使わなくても食い物がなくて死ぬんです。日本の豊かさは意外ともろい。


 ヒジャーズ王国というのは、ムハンマドの子孫です。滅ぼされてどうなったか。今のヨルダンという国、今はそこの王様です。

その隣のイラクは、最近アメリカによって空爆されて、今は混乱の極みです。
さらにその東のイランとアメリカの関係は、最近悪化する一方です。

以上が西アジアです。



【大戦後のアジア】
 次に第一次世界大戦後のアジアに行きます。その中心はインドです。インドはイギリスの植民地です。イギリスは植民地のインド人に第一次世界大戦中に何と言ったか。兵隊に来てくれ、戦争に協力してドイツと戦ってくれ、勝てば独立させてやると言った。しかしウソです。独立させません。独立を約束したのに独立させません。

 第一次世界大戦後、何が決まったか。民族自決をアメリカは唱えた。しかしこれが適用されたのはヨーロッパの国々だけです。アジア諸国は無視です。インドは独立できない。なんだこれは、独立させると約束したじゃないか。イギリスは、エッ、そんなこと言ったかな、と知らんふりです。ふざけるなという感じです。こういうことが決まったのがパリ講和会議です。


 その後、アメリカを中心に2回戦のワシントン会議をやって、世界体制としてはワシントン体制を築いた。これは前回話しました。


【トルコ共和国】

 では次の負けたオスマン帝国です。500年間の帝国が潰れたから、あとは大変です。その後できた国が今のトルコ共和国です。
 まずここは敗戦国です。オスマン・トルコ帝国は潰れたんです。領土は大幅に削られた。今は出ベソのような形のトルコ半島のみです。それを決めたのが、第一次世界大戦が終わった次の年1920年の条約、セーブル条約といいます。国際条約で決められ削減されたんです。このままではトルコの国も危ない。そこで、アラブ人のことはもういいから、トルコ人だけの国を作ろう。地域を限定して小さくなってもいいから、トルコ人だけの国をつくろうとなる。その運動の中心がケマル・パシャという軍人です。


 でもこの人はヨーロッパ流が大好きです。イスラーム教は捨てていいという。ヨーロッパ流でやろうという。徹底したヨーロッパ化政策をとります。文字もアラビア文字だったけれども、この時からABCのアルファベットに変えます。文字から変える。
 日本語の漢字とひらがなを廃止して、全部ローマ字で書くようなものです。これと同じことを、日本に原爆が落ちて戦争に負けた次の年にアメリカ軍がやろうとした。そういう計画を聞きつけた重光葵という時の外務大臣が、それだけはやめてくれ、と言って取り下げられた。それがなかったら、君たちは漢字を知らなかったかも知れない。


 アンカラという首都・・・もともとは地方都市です・・・そこに新政府を樹立したのが1920年です。戦争に負けると文字を奪われます。次に言葉が奪われます。教科書も当然変わる。特に国語、社会、歴史などは。

 そして新しい国をつくろうとして、オスマン帝国を潰して革命が起こる。1922年に。これがトルコ革命です。ここでスルタンは廃止される。これで正式にオスマン帝国はつぶれた。500年続いたオスマン帝国は滅亡です。あの広大な領土を持っていた帝国です。そして新しいトルコという国を認めてくれという条約が、次の1923年のローザンヌ条約です。国際条約で認められた国がトルコ共和国だということです。

 インドは独立を認められない。しかしトルコは認められた。不平等じゃないか。インドは伝統を大切にしている。インド人の文化を守るぞ。ケマル・パシャはヨーロッパ大好きです。イスラーム教は、もうしなくていい。政治と宗教は別だ。ヨーロッパ流の考え方を取り入れる。さっき言ったように、アラビア文字は捨てますよ。これからはアルファベットで、ABCでやりますよ。そこまでやればヨーロッパが反対する理由はない。

 結局、近代化というのは西洋化のことです。西洋を真似することなんです。西洋のルールに従うことなんです。日本もあまり大きなことは言えない。日本は早々と明治維新でそれをやりましたから。


 政治と宗教切り離す。イスラーム教と政治を切り離す。政教分離です。そのケマル・パシャは初代大統領になる。今でもその墓地は壮大な公園になっている。そこで今でも年に一回、ケマル・パシャを祭る祭典をやっている。ただ今の大統領はエルドアンというけれども・・・ここからもう100年経ってます・・・これだけ言っておくと、トルコで初めて、オレたちはイスラーム教徒じゃないか、と言い始めた。どうなるか。普通こうなるとイギリスやアメリカは嫌います。今必死でアメリカがやっていることはイスラーム叩きです。ケマル・パシャは、ヨーロッパ流、西洋流に変えた。文字もアルファベットに変えたけど、オレたちはイスラーム教徒じゃないか、とやっと今の大統領は言い始めた。さてこれからどうなるか。
 ことの重大さを分かるためには、歴史が分からないと、何が変わったのかが分からない。歴史を知らなかったら分からない。へえーと、鼻くそほじくりながら、何も分からないまま、テレビを見るだけで終わってしまいます。


【イラン】

 次はイランです。これも今アメリカが目の敵にしている。大統領のブッシュなどは「悪の枢軸」とまで言った。彼に名指しされたのが、北朝鮮、イラク、イランです。北朝鮮とはまだ交渉中ですが、まずはイラクが狙われました。この国は2003年のイラク戦争で、アメリカの集中砲火を浴びてもう潰れました。

 ではその東隣のイラン。この時代に、ここはどこが狙っていたか。西からはイギリスです。イランとイラク、一文字違いですけど、全然違う国です。
 このイランに、西からはイギリスが攻めてくる。ソビエトと国境を接しているから、北からはロシアが攻めてくる。イギリスとロシアが奪い合う格好になっていく。でもロシアは、第一次世界大戦中にロシア革命が起こって潰れたんです。そしてソ連になった。そしてイランから撤退する。自動的にイギリス軍がイラン全土を支配する。イギリスはしめしめです。

 今は「悪の枢軸」と言ったアメリカがここを潰そうとしていますが、この時には・・・トルコのケマル・パシャと同じように・・・もうヨーロッパにすり寄るしかないという軍人が出てくる。トルコのケマル・パシャも軍人ですけど、これがレザー・ハーンというイランの軍人です。イギリスにすり寄って認められるんです。おまえを王様にしてやるといわれて王朝をひらく。これがパフレヴィー朝です。イギリスはこれを支援する。
 トルコでも、いまのエルドアン大統領がイスラーム寄りのことを言っているけど、このイランはその後イスラーム復興の運動が起こって、1979年のイラン革命で潰れる。そんなにアメリカのいうことばかり聞いていられるか、オレたちイスラーム教徒じゃないかと。それで国は潰れてパフレビー朝は消滅する。これが今のイランです。だから今もアメリカが目の敵にしている。


【アフガニスタン】

 もう一つ、ここ20年でアメリカが叩いたのが、アフガニスタンです。あの2001年の9.11事件の首謀者、ビンラディンが隠れ住んでいたのはここだとされています。ここはもともとイギリスの植民地だったところで、イギリスの影響が強いところです。一応独立は勝ち取ったけど、その独立に対してイギリスがこのヤローと思っている。
 こういうふうに西アジアは、ヨーロッパ勢力に分割されていたんです。
 分割されて、新しい国としてできたところ、完全独立ではないけれども、エジプトですね。ただスエズ運河はイギリスが握っているままです。
それからトルコは、ヨーロッパにすり寄って独立しました。
それからサウジアラビアもできた。
それからイラクもできた。しかし半独立状態ですよ。ここらへんはイギリスの委任統治国です。完全独立ではない。

 分割した地域で、イギリス領になったのが、このパレスチナとヨルダンです。まだイスラエルという国はない。20年後、第二次世界大戦でイギリスが勝った後に、ここにユダヤ人国家としてイスラエルという国ができる。世界のヘソ、ここがイスラエルです。

 ではフランスはというと、その北東がフランス領シリアです。シリアはフランス領です。
 ここらへんは今も紛争地域です。



【インド】
 次はインドです。インド人は独立を約束したじゃないかという。しかしイギリスは知らんふりをする。そのまま植民地状態が続く。インド人は、このヤローと腹を立てる。反英運動です。反英は反イギリスです。イギリスは第一次大戦中に独立させると言った。だからインド人が約束守って独立させろと言うと、イギリスがやったことは、ローラット法といって、捜査令状なしでインド人を勝手に逮捕できるようにする。手のひら返しもいいとこです。民衆運動をこうやって弾圧する。

 そこでもともとは穏健派だったけれど、これはあんまりだなと、ガンディーが独立運動をはじめる。ただ武力で勝てない。だから非暴力です。ハイと言って従わない。不服従です。非暴力・不服従。こういう運動を展開する。しかしどうも決定打に欠ける。インドはイギリスの植民地はそのままの状態で、また第二次世界大戦に突入です。

 ガンディーの相棒で主導権を握ったもう1人の人物がネルーです。この人はもうちょっと過激です。完全独立のために戦おうとする。

 ガンディーの動きとしては・・・塩は貴重品だった・・・これをイギリスが独占していたから、塩を取りに行く。この意味は反英運動の象徴なんです。これがだんだんと何千人という人が集まって、海までいっしょに塩を取りに行く。塩の行進という象徴的な行動を取る。これを見て意味が分かる人は、反英運動に参加する。しかしイヤ顔を背けようとする人もいる。この二つに分かれる。


【インドネシア】 今度は東南アジアです。東南アジアもヨーロッパ列強の植民地ばかりです。あまり目立たない小国オランダも、東南アジアに広い植民地を持っている。蘭領東インド、蘭はオランダです。今のインドネシアです。しかしここにも、独立運動が起こる。指導者はスカルノです。今の日本では、この人の奥さんがよくテレビに出てますね。毒舌ですね。誰ですか。この人の奥さんは。戦後、銀座で見初められて、第三婦人になって、インドネシアに行って、失脚して、夫は亡くなって、また日本に戻って、テレビ出演しています。今はタレントみたいです。デヴィ夫人ですね。あの人はこのスカルノの奥さんです。一夫多妻だったから、第三婦人です。
 それでそのスカルノです。別にデヴィ夫人の話をしたいわけじゃない。インドネシア国民党1927年につくる。独立できるのは第二次世界大戦後です。あと20年ぐらいかかります。


【ベトナム】 今度はフランスの植民地です。ベトナムです。ここにも独立運動が起こる。中心人物はホー・チ・ミン。この人は独立のために共産党の力を、社会主義の力を借りようとした。ベトナム共産党です。反仏運動、反フランス運動を展開する。


【ミャンマー】 次は今のミャンマーです。今のアウンサン・スー・チー女史のお父さんです。アウンサン将軍です。当時はイギリスの植民地のビルマです。これが今のミャンマーです。タキン党の独立運動が起こります。引っ張ったのは、アウンサンです。殺されますけど、その娘がアンンサン・スー・チーです。今もニュースでよくでてくる。


【タイ】 唯一独立していたのがタイです。これは別に強かったからじゃなくて、東にはフランス、西にはイギリスに囲まれて、最後に一つ残った饅頭を取るとケンカになるから、どちらも手を出さなかった。

 それ以外の東南アジアは全部植民地です。


【朝鮮】

 こんどは朝鮮です。ここは日本が絡む。日本の領土になってる。そこに日本からの独立を求める三・一独立運動1919年に起こる。第一次世界大戦が終わった年、1919年の3月1日が三一になる。
 この余波は今も続いています。徴用工問題、反日運動です。いくら、1960年代の日韓基本条約を結んだと言っても、まだ賠償しろと言う。結局お金ですよ。国家賠償という日本からお金は、我々の税金だということは分かりますか。空から降っては来ません。



【中国】

【五・四運動】 それと同じように日本が中国に21カ条要求をつきつけている。そこでも反日運動が起こる。五・四運動、朝鮮の運動から二ヶ月遅れの1919年5月4日から起こったから五・四運動です。なぜ日本が槍玉に挙げられたかというと、日本は中国に対して、時の袁世凱政府に、対華21カ条要求というものを突きつけていたからです。これに中国は腹を立てた。最初は北京のエリート学生による抗議運動だった。これが全土に広まる。
 こういう運動はすぐには成功はしないけれども、これに刺激されて孫文が・・・もともとは日本で学んだりして日本とは仲良かったんだけれど・・・政党をつくって独立を目指す。中国国民党を結成する。そして反日に傾く。日本とは手を組まずに、逆に中国はイギリスと手を組んでいく。孫文自体はお金持ちではないけど、嫁さんが浙江財閥の娘で億万長者です。この資金が孫文のバックにはある。宋美麗という嫁さんです。


【国民党と共産党】 ではこの後の中国の動きです。中国は辛亥革命のあとは、軍閥割拠の状態です。日本の戦国時代のようになって、どれが中心なのかよくわからない。その中で二つの勢力がだんだんと頭角を現す。一つが孫文の中国国民党です。1919年、第一次世界大戦が終わってすぐ結成されます。


 もう一つが・・・第一次大戦中にソ連という社会主義国家ができた・・・中国を共産主義国家にしようという動きです。中国共産党です。この決着がつくのはまだまだ30年近くあとです。結果的にどっちが勝ったか。今の中国は表看板は、共産主義国家です。これが勝つことになる。それまでに30年の歴史がある。主導しているのはソ連の国際組織コミンテルンです。社会主義は世界革命論が理想ですから。


 この国民党と共産党は水と油で、本来は手を組むはずはなんだけれども、なぜか手を組む。その一致点が反日です。協力して日本と戦おう。そこで一致していくんです。手を組まないはずの二つの政党が手を組んだ。これが1924年です。これを第一次国共合作といいます。第二次もあります。国共とは、国民党と共産党という意味です。国は国民党、共は共産党です。思想も政治思想も、ぜんぜん違うこの二つの政党が手を組んだ。


 次の年の1925年に孫文は死んでまた混乱する。孫文が死んで、その後を受け継いだのが、孫文の後継者を自称する蒋介石です。軍人です。若い頃、彼に軍隊の作法を教えたのは日本陸軍です。日本陸軍の兵隊として学んでいる。この人の嫁さんも、孫文の嫁さんの妹なんです。同じ浙江財閥のお金持ちの娘と結婚して、お金持ちと結婚したあとは徹底した反日活動家になっていく。
 今でも日本と中国とは仲悪い。韓国ともそうです。アメリカにとっては、仲良くなってもらったら困るというのもある。アジアは「分割して統治せよ」。ヨーロッパはローマ帝国の時代からそうです。敵は分断したほうがいい。アジアは分断していないと困る、というのがヨーロッパの一貫した立場です。だから中国と日本と韓国が喧嘩しても、アメリカは何も手を貸しません。逆にまとまってもらっては困る。ホンネは決して言いませんけどね。


 それで1926年から国共合作軍は北伐をはじめる。北伐というのは・・・他にも中国にはいっぱい戦国大名みたいな軍閥がいる・・・そこで国民党が共産党と手を握って、他はぜんぶ潰していこうという北方軍閥征伐です。略して北伐。6文字を2文字に短縮しているから、多少無理のある言い方ですが、北伐、北伐といいます。これで北方軍閥打倒を目指す。
 
▼北伐と長征

 一応この北伐が成功して国民党政権を作るんですが、蒋介石の政治思想は、ホンネでは共産主義なんか大嫌いなんです。仮の姿で握手しているだけです。一旦政権はつくると、共産党なんか顔を見るのもイヤだ、という。共産党員を逮捕していく。裏切るわけです。


 それでもともと国民党と共産党は、水と油の関係であったから分裂する。分裂して、蒋介石は今度は南京に自分の政府を作る。これを国民政府といいます。1927年です。この味方についているのは日本じゃない。アメリカ・イギリスです。中国はここではっきり米英側につく。日本は逆に敵です。「分割して統治せよ」が効いています。


 その蒋介石の大金持ちの嫁さんの親は浙江財閥で、これは上海に拠点がある。上海は中国最大の都市です。イギリスの租界つまり植民地として発展したところです。その財閥がバックにある。

 これで終わります。ではまた。




「授業でいえない世界史」 45話 現代 世界大恐慌

2019-05-16 11:00:00 | 旧世界史12 20C前半
※この記事の更新は、「カテゴリー(世界史 全 時代順)」の記事で行っています。


【中国】

 時代は1920年代、場所は中国に行ったところです。第一次世界大戦後、その中国です。1920年代の中国は、水と油で手を結ぶはずのない国民党と共産党が手を組んだ。これを第一次国共合作といいます。

 各地に軍閥が割拠する中で、国民党と共産党がかりそめに拍手をして、彼らを追い払おうと北伐を始めた。目指すは首都北京です。このとき北京は別の軍閥が牛耳っていた。これも結構強いんですけれども、日本は実はこの北京政府を応援していた。しかし彼らは戦いに負けて北京を追い出されたんです。この追い出された人物が、満州に本拠を置き、中国の東北地方から北京を制圧していた張作霖という軍閥なんです。支配していた北京から帰ろうとしている途中、日本と今後の方針が合わなくなって、列車もろとも彼を爆殺する。これが1928年張作霖爆殺事件です。日本はこれは中国の仕業だと、ウソの発表をした。しかしこれに張作霖の息子の張学良はピンときた。これは日本の仕業だと。つまり見抜かれた、ことになっています。

※ 張作霖爆殺事件は、現在では資料が出てきており、ソ連の情報部が仕掛けたことが明らかになっています。(馬渕睦夫 グローバル)

 息子の張学良の敵は本来、親父の敵であった国民党と共産党のはずだった。しかし父親を殺害したのは日本だ、ということで逆に国民党につく。これで日本はほぼ中国全土を敵に回すことになっていく。
 しかしその後、また水と油の国民党と共産党は分裂した。そしたら、国民党が今度は共産党を攻撃する。誰が敵なのか味方なのか、わからないような状況になる。


 この時の共産党の指導者が毛沢東です。最近は現地読みで、マオ・ツートンという。日本語読みで毛沢東です。国共が分裂すると、この毛沢東は逃げます。農村地帯を延々と。この地図が赤の線がその経路です。ぐるーっと回って、延安というところまでたどり着きます。日本列島がだいたいこのくらいです。日本の北から南までの距離を、徒歩で、延々と、山越え、谷越え、この大逃亡を長征と共産党側は言ってます。


 こうやって生き延びたんです。共産党も生き延びている。最終的に、この後30年後、中華人民共和国を建国するのはどちらか。この共産党です。これが今の中国になっていくんだということです。この時の共産党は農村を基盤にしています。そのこともチラリと頭に入れていてください。中国はここまでです。



【アメリカ】
【世界大恐慌】 では次にアメリカです。ここから目玉が飛び出るような株の大暴落事件が起こって、本格的に第二次世界大戦へと助走していくようになります。

 アメリカはそれまで、1920年代の約10年間は未曾有の繁栄です。第一次世界大戦では一発の爆弾も受けていません。主戦場はヨーロッパです。そしてそれまでアメリカは借金大国であったものが、逆にヨーロッパにお金を貸し付けるようになる。貸したものは戻ってくるんです。別にくれてやったわけじゃないから。だから無傷で、しかも貸したお金が利子つけて返ってくる。もうウハウハです。貯まったお金は、日本は銀行預金をしますが、アメリカは株投資なんです。

 世界恐慌発生前のアメリカはドルを大量に印刷供給し、ドル量を拡大するインフレ政策をとっていました。マネーは株式市場や不動産に流れ、株価や不動産の価格が異常に高騰しました。

 その株が5年間で5倍に上がる。例えば我々が100万円の銀行預金をしたら、それが5年後に500万円なったとしたら、うれしくて、うれしくて笑いが止まらない。1000万円もっていたら5000万円になる。何もせずに、寝ていただけで。
 そのくらい株が上がる。みんなが、こんなに儲かるんだったら、株だ、株だと言い始めて・・・こういうのをちょうちんがつくという・・・ますます株が上がる。
 はじめちょろちょろで、本当かなと疑心暗鬼ですが、少しずつ上がっていく。上がったところで、ここら辺でオレもオレもとなって、おまえまだやってないのかとか言われて、さらにクーッと上がっていく。素人はこの上がり切ったところで買うんです。そしたら一気に落ちる。お決まりのパターンです。これが1929年です。株の大暴落です。アメリカのニューヨークのウォール街の株ブームがいっぺんで吹っ飛んでしまった。

 これがアメリカだけの不景気にとどまらずに、世界全体を巻き込む世界大恐慌に発展していったから、さあ大変なんです。アメリカでも失業者が溢れる。会社も倒産する。とにかく倒産させないためには、銀行もヨーロッパに貸していたお金を、貸したままでは自分が倒産しないといけなくなるから、急いで返せという。一番借りていたのはドイツです。ここでドイツはまた踏んだり蹴ったりです。アメリカの資本がヨーロッパから一気に引き上げられる。その中で最も借りていたのがドイツです。

※ 1924年以降、アメリカのチャールズ・ドーズは、ドイツ経済再建のため政府委員を組織し、ドル資本のドイツへの大規模注入を行います。ドーズが主導したドル資本注入はドイツ経済をアメリカ資本の傘下に置くねらいもあり、実際にドイツ経済が回復していくと、資金を拠出した証券会社などのアメリカ資本は巨額の利益を得ました。
 しかし1929年に世界恐慌が発生すると、ドイツに投じられていたドル資金が急激に引き上げられ、ドイツ経済は真っ先に壊滅的な打撃をこうむりました。アメリカ資本によって支えられていたドイツ経済は、アメリカ資本の撤退により崩壊させられてしまいました。 ヴァイマル共和国は破綻し、暴動が頻繁に起こり、大混乱に陥りました。このドイツの混乱を救ったのがアドルフ・ヒトラーです。(宇山卓栄)


 つまりアメリカが株を暴落させて、ドイツ人が苦しむという形になる。ドイツ人は、これはダメだな、戦後ヴァイマール共和国とか、新しい民主的な憲法とか都合のいいことばかり言っていたけど、これは並の指導者ではダメなんだ、と思い始める。しかしちゃんと選挙はするんです。そしてその3年後に選んだのが、みんなが知っているヒトラーです。彼が率いていた政党がナチス党です。ヒトラーはこうやって合法的に出てくる。ヒトラーは民主主義の中から出てくるんです。

 時のアメリカ大統領はというと、ハーバート・フーバーという大統領です。この人が打った手は、銀行への返済を一時停止しようとした。銀行に返さないといけないお金は、返済を一時停止するとした。これを大統領の名前をとってフーバー・モラトリアムという。モラトリアムの意味は、一時休止という意味です。一旦休み、小休止です。しかしこれは休んだだけで、根本的な解決にはならなかった。


※ 1930.6月 スムート・ホーリー法・・・アメリカが高関税法律を制定し、ブロック経済の始まりとなる。

 このことのアメリカにとっての意味は、今まで人気であった共和党のフーバーの人気が落ちて選挙に勝てなくなったばかりか、お前の対応が悪いと後ろ指を指されるようになっていく。そして別の新しい大統領が選ばれていくんです。それがフランクリン・ルーズベルトです。彼が3年後の1932年に新大統領選に当選する。日本と太平洋戦争を戦っていくのはこの大統領です。


 徹底的に日本を追い詰めて、戦う前に日本に石油を一滴たりとも売らない、と決めたのもこの大統領です。ただアメリカ国内では人気がある。また人気が出るような簡単でわかりやすい政策を掲げて、10%の効果が出るとこれを100%の効果が出たようなうまい宣伝の仕方をする。それまで大統領はテレビに出たりしない・・・当時テレビはないけど・・・自分がラジオに出る出る、という。国民を直接説き伏せるんだと言って、マスコミに出たがるんです。マスコミ利用を率先してやっていく大統領です。


【ニューディール】 これをニュー・ディール政策という。新しい言葉ですけどディールは方針です。新しい方針という普通の意味なんです。


 ルーズベルトは民主党なんですが、では今までの共和党政権とどう違うか。それまでは政治と経済は別という考え方だった。経済は経済で自由にさせておけばうまくいく、という考え方だった。しかしうまくいかない。そこで経済に政治が介入するということを選ぶ。これは考え方によっては、ソビエト流の社会主義、つまり計画経済に非常に近い考え方です。社会主義寄りになるんです。政府が仕事を作って、失業した労働者を雇って、給料を払う。そしたら失業していたお父さんたちも給料がもらえる。

 それでアメリカを流れるテネシー川を開発してそこにダムをつくろうという大規模公共事業をやっていく。

 ただ効果があったと言っているのは、ルーズベルト本人があったと言っているだけです。大統領が自分でマイク握ってラジオに出て効果があったと言っている。しかしあとで調べてみると、ほとんど効果は出ていない。ただ気分的に、効果があってるぞ、いいことやってるぞ、と自画自賛するわけです。

※ 1938年には、アメリカは莫大な政府債務の累積を憂慮する財政均衡主義者の声に押されて、財政支出を削減した結果、景気が再び悪化し、2番底へと向かい始めました。・・・この景気後退の中、アメリカに残されたのは積み上がった巨額の財政赤字だけであり、この景気後退を救ったのは第2次世界大戦の戦時需要でした。(宇山卓栄)

 本当にアメリカ経済が立ち直るのは、日本との戦争を始めてからです。戦車とか武器とかをガッポリつくり出してからです。それで軍事産業が儲かって、GDPが高まっていく。全体的にはまだ不景気なんです。不景気を脱していない。だからそれがヨーロッパにも及んで、経済は不景気のままです。


【イギリス】

【金本位制停止】 ではイギリスは、どういう対策を取ったか。この時のイギリスの首相はマクドナルドです。彼はまず金融制度を変える。1931.9金本位制を停止する。これでイギリスの中央銀行、イングランド銀行が思う存分、ポンド紙幣を刷れるようになった。1931.12月、日本も金本位制を停止します。1933.4月には、アメリカが金本位制を停止します。

※1931年以降、各国が金本位制を離脱すると、紙幣価値の下落で金需要が増大し、金価格が上昇します。(宇山卓栄 経済)

※ 1929年の大恐慌の最終目的は、金本位制の廃除であった。そしてインフレ政策を駆使し、第2次大戦にいたる金融の道を敷設した。(宋鴻兵1)

※ フーバー大統領は金本位制を維持し、国際協調することを政策の最優先に位置付け、そのために金融を引き締めてドルの供給量を減らしました。フーバーの金本位制防衛の努力によって、恐慌発生後も世界経済の秩序が保たれていましたが、次の大統領のルーズベルトが金本位制を放棄し、その秩序を崩壊させ、世界経済が大混乱に陥ります。(宇山卓栄)

※ 国際決済銀行(BIS)がヤング案の一環として設立される。国際決済銀行の立案者は、ドイツ銀行総裁を務めたヒャルマル・シャハトである。その目的は、各国の銀行家たちに秘密の資金調達のためのブラックボックスを提供することであった。・・・このブラックボックスを利用して、ナチスに大量の資金援助を行った。(宋鴻兵1)

※ 1933年にアメリカの金本位制が廃止されたことで、戦争への障害物が取り除かれた。残るは戦争を始める「口実」だけだった。(宋鴻兵1)


 物が売れないから不景気なんです。しかしイギリスは植民地をもっている。植民地に、俺たちイギリスの製品を買ってもらおうとする。逆に同時に他の国の製品は買えないようにする。ブロックする。イギリスは今までずっと自由貿易と言っていた。ここで他の国の製品を輸入しないようにするためには、どうすればいいか。高い関税をかけるんです。高い関税をかけて、他国の製品が売れなくすることを保護貿易といいます。自由貿易から保護貿易に転換したということです。


 ほぼこれと同じことを、この80年後にやっている国がアメリカです。今のアメリカのトランプ大統領です。今アメリカがやっていることはこれです。関税をかけ、中国製品がアメリカで売れないようにしています。


 この時のイギリスも、こうやってイギリス製品が売れるようにする。それはイギリスの植民地を持っていたからできることです。もう一つ、アメリカは広大な領土をもっていて、そこから石油が出るから自分でできる。


 では小さい国はどうするのか。資源もなく、植民地を持ってない日本やドイツはどうするんだ。そんなこと知るか、自分で考えろ、という。オレは自分の植民地で自分のものを売るだけなんだ、いうわけです。

 さてどうするかことです。困ったのは植民地をもたない日本ドイツです。


【ブロック経済】 この保護貿易で、植民地を市場にしようという会議がカナダで行われた。この時カナダはイギリスの植民地です。1932.7月、イギリス連邦経済会議(オタワ会議)といいます。


 ここで、イギリス製品以外は買わない、輸入しない、そういう経済圏をつくる。これをブロック経済圏といいます。こうやってイギリスのブロックの中に他国の製品が入ってくるのを防ぐ。このなかに日本は入ることができない。日本製品も売れないです。ドイツ製品も売れません。外国製品には高関税をかけられているからです。これでイギリスは、どうにか生き延びた。

 それでも日本が倒産しないためには、日本はどうすればいいか。高関税以上に日本製品を安くすればいい。安く売ればいい。安くするためには、物の値段を下げればいいけれども、もう一つ裏技があるというのを「政治経済」でいいました。どうしたら日本製品は外国で安くなるか。それは円そのものを下げればいいんです。これが為替操作です。日本はこれをやります。そしたら即座にルール違反だという。これをどう見るかというのは、経済の根本的なところです。それでいいのか悪いのか。


 ではアメリカが戦後やってる為替操作というのは一体何なのか。これは非常に難しい問題です。しかし日本にはこれしか生き残る道はない。

※ アメリカのフーバー大統領は、1933.6月に「世界経済会議」を企画し、イギリスと協調して主要10カ国を集めた。この会議を次の大統領のルーズベルトが潰した。この行為が第2次大戦の根本的な原因になった。(フーバー、茂木弘道)


【ソ連】
 もう一つ、1930年代のソ連です。1924年に指導者レーニンが53歳で死ぬ。なぜか。急死です。よくわからない。

 ワンマン社長が死ぬと、民間の会社でも必ず後継者争いが起こる。二人方針が違う人がいる。一人はトロツキー、もう一人はスターリンです。

 トロツキーは、セオリー通り社会主義は世界革命でないとダメなんだ、という。世界革命というと質の悪い漫画みたいですけど、大笑いしたらダメです。大まじめです。しかしスターリンは、それは無理だ、ソ連だけでどうにか社会主義体制を作り上げよう、という。その意見対立です。結果的にスターリンが政治的に勝つ。世界革命論はなくなったわけじゃないけれども、下火になった。潜在的には世界革命をしたい。だから1920年代に日本共産党がコミンテルンの日本支部としてできたり、中国でも中国共産党で毛沢東が指導者になったりしている。これは世界革命を狙っている。全世界が社会主義じゃないといけない。
 このスターリンがソ連一国で目標を決めてやろうと、5カ年計画を実施するんです。これはきついノルマです。さあ働け、働け。ここまで上げろ。ここまで上げないと帰らせないぞ。

 今でもアルバイトでもあるらしい。契約は就職するもやめるも自由なんです。本当は。ただアルバイトの斡旋で、今の派遣会社などは、入った以上は1年間は辞められないからね、とか言うらしい。理由は、雇用主が困るからという。しかしそれはダメです。雇用主も労働者もお互い五分五分の立場ですから、いろいろな状況が変わって、足の骨を折った人がいるかも知れないし、家庭の事情があるかも知れない。辞める時には辞めていい。辞めたらいけない、辞めたら一億円賠償してもらいます、などとなったら、働く側は恐くて働けない。今そんなことを言うらしい。そんな義務は発生しません。

 それは別の話だけれども、ソ連は5ヶ年計画で、とにかく生産を上げろ、上げろと言った。これでどうにか無理矢理に上げていった。だから表面だけ見ると、社会主義は非常にうまくいっているように見えた。理想の国家だというふうに。しかし、これは戦後わかったことなんですけど、ぜんぶ国の命令で働かないといけないわけです。当然イヤだと反対する人がいる。すると粛清される。はっきり言ってシベリア送りです。強制労働か、二度と帰ってこれなくなる。

 その数がだんだん分かってきて、何千人かな、いや1万人かな、10万人かな。100万人越えるのは確実という。もしかしたら1000万人を越えるんじゃないか。とにかくすごい数らしい。ナチスドイツの比じゃなかった。


【ドイツ】

 次はドイツに行きます。1930年代のドイツです。さっきも言ったように世界大恐慌はアメリカから始まってドイツが苦しむ。その苦しんだドイツ人がその後に選んだのがヒトラーです。そのヒトラーが率いる政党をナチスと言います。これも頭文字です。日本語に訳すと国民社会主義ドイツ労働者党という。なぜか社会主義という言葉が入っているけれども、これは社会主義じゃない。

 ヒトラーの活動自体は、世界大恐慌の10年ぐらい前から、第一次世界大戦後すぐに始まってる。1923年には、ミュンヘンというドイツ南部の地域で、ミュンヘン一揆という暴力革命を起こそうとして、これはすんなり捕まっている。この後は牢屋に入っている。ただ特別待遇だったらしくて、本は読めるし執筆活動もできるし、ここで一冊の本を書く。これは今でもベストセラーです。「我が闘争」という。この本に、今国家が行っているマスコミ操作のエッセンスはほとんど書いてある。こうやったら国民を操れるぞと。
 一言でいうと、嘘は100万回でも言え、そのうちに信じるから、100万回を10年続けて言っていたら、バカじゃないのかと思うほど大衆は信じるぞ、仲間を増やしてみんなでウソを言え、本気で信じるから、バカのように。そう書いてある。どこかの国で起こっていることといっしょです。そういう本も書きます。


 今やっていることは、1929年の世界大恐慌以降です。ドイツが一番苦しんだ。アメリカは背に腹は変えられない。貸した金を返せと言って、ドイツから資金を引き揚げる。この時のドイツはヴァイマール共和国といいますけれど、何だこんな国、とドイツ人に失望が広がる。何が民主憲法か、という感じです。

※ 1931年10月、ヒトラーがシドニー・ウォーバーグに手紙を出した。ウォール街の銀行家たちは、ヒトラーを支援することでまとまった。(宋鴻兵1)


 そして1932年、選挙してみたら、あのナチス・ドイツがつまりヒトラーのナチス党が第1党になった。一番多くの国会議員を当選させた。


【ヒトラー内閣】 首相は国会議員が選びます。ナチス党の国会議員の数が一番多いのだから、駆られはナチス党のリーダーを首相に選びます。それがヒトラーです。翌年の1933年1月にヒトラーが首相になった。ヒトラー内閣が誕生した。ヒトラー国家の成立です。ここまであっという間です。1932年の7月から翌年の1月まで、たった半年で独裁国家をつくれる。だから選挙は恐い。

 一昨年、イギリスがEU離脱するといって国民投票した結果、今はグチャグチャになっている。あれも国民に聞くのが一番だといって、国民投票で決めた。しかしうまく離脱するのは不可能なんです。ではどうするか。イギリスの国会議員も言っていたけど、もう方法がないから、国民投票をあと一回しようという人がいる。でもこんなことしたら国が割れます。今度、もしもう一回国民投票をして反対結果が出たら、1回目は何だったのかということになる。1回目よりも2回目が正しいのだったら、2回目よりも3回目が正しい。キリがない。だから1回、国民投票したら最終決定です。間違おうが何しようがそれで終わりなのです。
 バカなのはイギリス国民です。適当に入れておけ。それで予想がくつがえって、EU離脱です。国民とそれを煽ったマスコミの責任です。1回で最終決定です。あれ以外にもう覆せない。イギリスはあの路線で行くしかない。それを今更、間違っていたから、やり替えようという声が出てきているけど、これは恥の上塗りです。そんなことをすれば国が割れていく。

 だからこれと同じで、合法的に生まれたからといって、うまくいくという保証は全然ないんです。

 1933年には、まずヒトラーがライバル視したのは、第2党は共産党だったんです。この敵を叩く。半分はまだ謎ですけど、国会議事堂が燃えたんですよ。そしたら犯人は誰か。証拠不十分のまま共産党が、おまえが犯人だということになる。共産党は否定するけど、共産党のイメージがガタ落ちする。国民がそれを信じて、共産党人気がガタッと落ちていく。

 そして次にやったことが、全権委任法です。今後の国家の方針はすべてこのヒトラーにお任せください、と言う。これをまた国会が了承する。過半数取っているからもう歯止めが効きません。これが通れば・・・全権を委任するわけでしょう・・・何でも法律がつくれる。国会は要らない。国会なしでヒトラーの思うとおり、どんな法律でもつくれる。独裁の完成です。
 日本も似たようなことをやる。国家総動員法とか、首相に一任ということをやる。一任させてください、と政治家が言ったときには恐いです。一任させられないから、民主主義があるんです。国民がオレは民主主義分からないと言ったら、それは民主主義の終わりです。民主主義は国民が主ですから、その国民がバカだったらその国の民主主義は終わりです。


 ただ最初は、ヒトラーの考えはヒットしたんです。大土木工事をやる、公共事業をやる、高速道路をつくる。ドイツの高速道路はアウトバーンといって、日本よりも早く、戦前からできている。そこにフォルクスワーゲンなんかの車も国民車としてできて、どんどん時速100キロぐらいで走れる道をつくる。アメリカのニューディール政策と発想はいっしょなんです。経済に国家が介入していく。大規模工事、公共事業をやって、失業したお父さんたちに仕事を与える。そして給料をやれば、みんなが生活できる。やっていることはアメリカと変わらない。
 しかしアメリカのルーズベルトの経済政策は評価されても、同じことをやったヒトラーの経済政策は評価されません。ここらへんはもっと公平な評価がなされるべきでしょう。

 しかし、そのためのお金がいる。このお金をどうやって刷るか。ドイツの国立銀行、これをライヒスバンクといいます。これは日本の日本銀行と同じですよ。そこにとにかくドイツマルクを印刷させる。今のアベノミクスのようなものです。今の日本銀行も裏付けなしに、むやみに1万円札を刷っています。いま一応、景気がよくなったのは1万円札を刷っているからです。でもそういうやり方が果たして健全なのか。その総裁シャハトが紙幣増刷を決定します。

※ 1933年5月31日、ヒトラー政権が、中央銀行で割り引き可能な「雇用創出手形」(フェーダー貨幣)を発行する。(宋鴻兵)
 一部の経済学者は、第二次世界大戦が勃発した根本的原因の1つは、ドイツ政府が貨幣発行権を握り、英米の支配から脱却したことにあると考えている。(宋鴻兵)

 あとあと問題になるのは、同時にユダヤ人の迫害をやっていく。戦争に突入していくと、ますますこれが激しくなって、最初はちょっと要注意のユダヤ人だけ連行していたのが、そのうち根こそぎ全員連行ということになって、ポーランドにある虐殺の収容所、アウシュヴィッツというところに閉じ込めて、何万人が死んだ、何十万人が死んだ、いや600万人が死んだとか、いわれる。ただこれもあんまり言わないほうがいいかもしれないけど、アウシュヴィッツで人を焼き殺したという、そのアウシュヴィッツにある人の焼却場・・・日本の火葬場みたい名施設ですが・・・あれはフル稼働して1日6人しか焼却できなかったという。1日6人しか焼却できないのに、どうやって2年で600万人を焼却したのか、単純に考えて計算あわないです。


 ドイツにいるユダヤ人が30万人なのに、600万人を殺したという。30万人しかいないのに、なぜ600万人殺せるのか。ここらへんはあまり言ったらいけないかな。不思議な話はいっぱいある。でもドイツは負けた側だから。本当のことはまだわからないです。

 ドイツは第一次世界大戦に負けて、再軍備しないはずだったんだけれども、再軍備をはじめる。そしてフランスとの国境地帯は特に危ない地域だから、武装しない非武装地帯にするという取り決めがあった。しかしそこを武装化していく。これをラインラントという。これがヒトラー内閣誕生から3年後の1936年です。


【宥和政策】 このとき世論は、ヒトラーのことを、悪の権化だ、とは言っていない。1936年という年は、ドイツの首都ベルリンでオリンピックが開催されて、この時には、世紀の祭典だ、今までで最も素晴らしいオリンピックだと絶賛されているんです。さらに次の年のノーベル平和賞に、ヒトラーの名前が候補として上がっていたりする。受賞しなかったけどね。のちにある人が・・・あのノーベル賞はスウェーデンの賞です・・・あんたは、ドイツが悪い、悪いといってるけれども、ヒトラーの名前をノーベル平和賞にノミネートしてるじゃないかと聞いた。すると、そんなこともありましたかね、エヘッとごまかされたという話もある。ここらへんまではドイツが悪いという世論はないんですよ。


 しかもこういうドイツの動きに対して、イギリスとフランスは何も言ってない。まあよかろうと黙認する。それどころか、ドイツといっしょに動こうかな、という気配さえある。これを融和政策という。イギリスとフランスはドイツに対してこういう政策を取っていた。だからまだ第二次世界大戦を起こそうなどと、誰も考えてないです。
 それにイギリスとフランスは、今までどれだけ植民地を取っているか。


 地図に行きます。この時のドイツはこれです。このドイツとフランスの中間がラインラントだった。

 前に言ったように、第一次世界大戦に負ける前のドイツはもっと大きかった。特にドイツの東方はこういうふうになっていた。ポーランドの西部はドイツの領域であった。


【日独伊の接近】

 この時にはドイツとイギリスがまた戦うなんてことを誰も考えてなくて、みんなが注目していたのは、資本主義の敵は、社会主義のソ連なんです。そのソ連の社会主義思想が入ってくることを一番恐れているのがドイツなんです。それと東方でソ連に一番近い国、日本なんです。ここに日本とドイツの接点、共通項があります。
 ただイギリスとドイツの対立はありません。


 それに、よく裏切るけれどもイタリア、ドイツとよく一緒になるイタリアです。イタリアのことはおまけと思っていていいです。日本とドイツとイタリアが、まず1933年国際連盟を脱退し、1937年三国防共協定というのを結ぶ。この意味、「共」は共産主義です。これを防ぐのが防共協定です。共産主義はソ連です。ここでの仮想敵国はソ連です。イギリスではありません。アメリカでもない。

 ドイツの仮想敵国はずっとこのソ連です。ずっとソ連、ソ連で行っていて、突然イギリスと戦争するのが第二次世界大戦です。日本もソ連、ソ連で行っていて、突然急カーブしてアメリカと戦争する。
 どこにフェイントがあるのか分からない。だから、なぜ起こった戦争なのかなかなか分からない。それを説明するのは難しいです。よく考えないと、なぜ戦争したのか分からずじまいになる。理由はあるんでしょうけど、その理由はなかなか表面に出てこない。
 この時、日本が国連を脱退したのは、中国関係で中国と戦争し始めているからです。アメリカとではないです。中国とです。


【満州事変】

 このとき日本は1931年から満州事変を起こしています。満州は中国東北部、朝鮮の北方です。日本とドイツは、イギリスほど植民地をもたないから、物が売れない時代にあって、製品を売るためには市場を求めるしかない。そのための領土が欲しい。日本は距離的に近い中国に売りたい。その狙い目が朝鮮北方の満州です。ここはもともと中国の領土だから、そこに売ろうとすると、中国との対立が避けられない。そこで中国の戦闘に持ち込みたい。そのきっかけがまた同じような手口で、3年前の張作霖爆殺事件と同じ鉄道爆破事件を仕掛ける。日本の鉄道である南満州鉄道を爆発する。そしてそれを中国の仕業だとする。このときには、どっちがしたか分からなかったけど、あとで調べられて日本の自作自演だったことが判明する。この事件を柳条湖事件といいます。これをきっかけにして日本は中国に攻め込んでいって満州を占領し、1932年にその満州に中国とは別の国、満州国を樹立します。

 その皇帝には、清朝の最後の皇帝の溥儀を立てますが、その国の外交権・内政権を実際に握っているのは日本です。こういう国家を傀儡国家という。実質的には日本の一部です。


 このことを日本は非難されて、1933年に国際連盟を脱退する。このときドイツも一緒に脱退する。これを徹底的に調べ上げたのがリットン調査団です。リットンはイギリス人です。


【西安事件】
 中国もイギリスについている。ただその中国はというと、国民党の蒋介石と、共産党の毛沢東が分裂している。しかも内乱状態にあって、さっきも言ったけど、共産党は蒋介石の攻撃から逃げ惑っている。これを1934年からの長征という。
 だから手を組みそうにない。中国が一つにまとまることはありえない。しかし、このとてもあり得ないようなことを結びつけた人が、さっきでてきた張学良です。親父さんの張作霖は日本軍によって爆殺された。だから日本と敵対している人物です。


※ 蒋介石政権は1935年、通貨制度の根本的な改革を始めます。政府は貨幣を「元」に統一し、「廃両改元」を行います。・・・当時、中国各地に割拠する軍閥はそれぞれ独自に通貨を発行していました。・・・蒋介石は通貨改革のため、イギリスの手を借りました。イギリスは元をポンドとリンクさせる管理通貨制度への移行などを指導します。・・・政府系4銀行の発行する銀行券のみが法定通貨、つまり法幣と定められます。・・・法幣「元」はポンドと交換可能で、1元=1シリング2.5ペンスとされました。法幣の安定のために、中国の銀はイギリスの銀行の香港上海銀行に接収され、基金として積み立てられました。こうしてイギリスは、対中国債務の保全を図り、「元」をポンドの支配下に置きます。

 そこで張学良は蒋介石を軟禁する。あんたたち中国で仲間割れしている場合じゃなかろう、誰と戦うべきか、日本でしょう、手を組みなさいよ、という。組まなかったら、どうするか。この部屋から出さない。蒋介石は、張学良の部下に取り囲まれてしまう。蒋介石が軟禁されたんです。この軟禁された事件をその都市の名前をとって、西安事件という。1936年です。内戦やめて日本と戦え、そうしないと、オレは何するか分からないぞと張学良は脅す。
 分かった、手を組もう、と蒋介石はここで折れる。折れるということは、徹底的に日本と戦うということです。この蒋介石のバックには嫁さんの実家の浙江財閥があります。そしてこの浙江財閥は、イギリスの支配地である上海を拠点とした財閥です。
 
▼日中戦争図

 これで終わります。ではまた。


「授業でいえない世界史」 46話 現代 第二次世界大戦の勃発

2019-05-16 10:00:00 | 旧世界史12 20C前半
※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


 今1930年代に入った。第一次世界大戦が終わって、1930年代の中国を言っていたところです。1936年西安事件まで言っていたと思います。


 日本は第一次世界大戦後、ものすごく不景気に落ちいったんです。そこから脱しようとしていたら、ますます悪くなって1929年にアメリカのニューヨークのウォール街、金融街で株の大暴落が起こった。これが世界大恐慌になる。ますます日本の経済も悪くなって、日本は海外市場を求めて、どこに進出しようとしたか。これが満州です。満州に進出しようとしたが、日本と中国の関係がますます悪くなった。満州は今でも中国の一部ですが、ただその時の中国は国としてまとまっていなくて、二つの勢力が内乱状態になっていた。これが蒋介石の国民党毛沢東の共産党です。


 中国にとっては、それではダメだということで、1936年に西安事件を起こして、国民党と共産党が手を組んで、どこと喧嘩しろと言ったか。「日本と喧嘩しろ」と言った。これが張学良だった。この事件は、「まず共産党潰しが優先だ」という蒋介石を部下の張学良が監禁するんです。「ウンと言わないと、一歩もこの部屋から出さない」ということで、「そこまで言うなら」ということで蒋介石も折れて、「共産党と手を組もう」ということになった。内戦を停止して、そこに共産党の毛沢東は、「おまえ、握手してこい」と送ったのが周恩来です。彼はのちに中国の首相になります。こうやって抗日戦線が中国で結成される。抗日ですよ。ここではっきりと日本と敵対するわけです。そういう抗日戦線が結成された。


【第二次国共合作】

 これを第二次国共合作という。「国共」というのは、国民党の「国」と共産党の「共」です。これによって日本は中国と本格的な戦争に入る。日中戦争の始まりです。1937年からです。

 勘違いのひとつは、「日本はアメリカに負けた、アメリカに負けた」というけど、戦争の始まりはアメリカとは関係ないことです。これは日本と中国の戦争です。アメリカとは戦っていません。だから日本は、アメリカと戦った戦争を、戦後アメリカがそれを太平洋戦争とネーミングしたから太平洋戦争と言ってますが、これは「太平洋をまたいで日本とアメリカが戦争した」というイメージになっていますが、戦前の日本はこの名前を使ってません。日本はあくまでも、「これはアジアのなかでの日本と中国の戦争だ」といって、大東亜戦争という言い方をしています。「大」は修飾語で、大きなという意味です。ポイントは「東亜」です。亜はアジアのことです。東亜は東アジアのことです。大東アジア戦争なんです。太平洋で戦う太平洋戦争とはかなりイメージが違います。

 中国ではこの時に、抗日戦線つまり日本に敵対する統一戦線が結成されています。


【日中戦争】

 そしてその後、1937年盧溝橋事件が起こります。これは、謎の一発の銃声から始まります。日本軍と中国軍が向かい合ったところ、これが盧溝橋という中国の橋です。今でも橋があります。その川を挟んで、その東と西で日本と中国が向き合っていた時・・・今でも原因は分かっていないですが・・・夜中に一発の銃声が聞こえた。誰が討ったのかもわからない。それから日本は、ピカドンが落ちる1945年までずっと中国と戦争している。アメリカが入るのは、その4年後の1941年からでアメリカが介入してくる、という形です。基本は日中戦争です。

 中国北部の盧溝橋事件から始まって、日本はその年末12月までに、国民党政府の首都南京を占領し、ここでもまた70年経った今でも歴史の謎の事件、日本軍が南京の人を何十万人も虐殺した、またはしてない、という南京事件が起こります。真相は今でも不明ですが、中国側はそこに記念館まで建てている。ドイツのところでも言ったけど、例えば60万人虐殺するためには、どのくらいの軍備が必要なのか。当時は日本が攻めてくるということで、南京に残っていた中国人は30万人ぐらいしかいなかったという話もある。30万しかなかった南京の都市で、なぜ60万人の人が殺せるのか。いまだによくわからない。ただ賠償とか何とかの問題が将来の火種としては残っています。

 そんな70~80年の前のことは、今の日本人には関係ないのでしょうか。関係ないどころか最近ますます政治問題化しています。韓国では何が起こっているか。従軍慰安婦問題の次は、徴用工の問題です。あれ国が賠償しなければならなくなると、そのお金はどこから出てくるのでしょうか。現在の日本人が払うしかないのです。
 しかし仮に日本に賠償責任があるとすれば、欧米列強によるアジアやアフリカの植民地支配の賠償責任はどうなるんでしょうか。さらに奴隷貿易によってアフリカを荒廃させた賠償責任はどうなるのでしょうか。 

 中国と日本の抗争で、中国は武力ではなかなか勝てないから、取った方法は抗日ゲリラ作戦です。戦争のルールは、1度言ったでしょう。軍服の意味というのは、普通は私服で人を殺したら殺人犯になる。唯一人を殺しても殺人犯にならないのが、国が戦争して、しかも兵隊は軍服を着て敵を殺すことです。これは殺人犯にならない。しかしゲリラというのは私服でやる。私服を着て、町なかで日本兵を見たら、後ろからブスッとやる。

 これをやりだすと、日本兵は怖くて恐くて町を歩けなくなる。疑心暗鬼になって、誰が敵なのか分からなくなる。だから、ちょっとでも不審な点があると、お前ゲリラだろうとなる。恐怖の裏返しです。恐怖が恐怖を呼んでいくようになる。これがゲリラ戦です。
 そんな中、中国は南京からもっと内陸部の重慶というところに首都を移していく。

 この時に、その日本の戦争の理由としては、さっきも言ったように、要はアジアなんです。東亜新秩序という。東亜の意味は、亜がアジア、東亜は東アジアです。この時のアジアは、イギリスの植民地、フランスの植民地、オランダの植民地、ヨーロッパの植民地だらけなんです。こういうのをなくして、「新しい秩序をつくろう、このまま植民地でいいのか」ということを日本が呼びかけていく。しかし中国は、アメリカ・イギリスと組んでる。


 しかし日本の呼びかけに応じる中国人もいる。汪兆銘という人です。彼が蒋介石とは別の中国政府、親日政権を樹立していく。

 この間ヨーロッパではいろいろな動きがあってますけど、1938年は一旦飛ばします。あとで見ます。ここは、なかなか理解できないところです。

 日本の方針としては、日本は共産主義を敵としている。共産主義国家はどこですか。ソ連です。そのソ連と戦う。1939年5月のノモンハン事件です。ノモンハンとは地名です。今でいうモンゴル共和国の東の方です。そこで日本軍とソ連軍、そこに少しばかりのモンゴル軍も加わって、軍隊が衝突する。日本は劣勢です。
 ただこの時も・・・日本はアメリカに負けたというけど・・・あくまでもこれは東アジアの戦いであって、アメリカは全く出てきていない。どこにもアメリカの影はないです。日本はアメリカと戦う気は全くありません。このノモンハン事件の時もそうです。


 それにもかかわらずこのノモンハン事件の最中の1939年7月に、アメリカは日本に対して突如として、日米通商航海条約の破棄通告を行います。

 このとき日本は石油の66%をアメリカに頼っています。この日米通商航海条約があったから安心して買えたんです。それを破棄するという事は、アメリカは、「俺はあんたに石油一滴たりとも売らなくてもいいんだよ」ということです。「売らないことだってできるんだよ」ということです。
 突然そう言われたらどう思うか。「やる気かな」ということです。あと2年後に、石油が一滴も日本に入ってこなくなります。そういう危機がここで発生したんです。だから日本はスマトラ島の石油をめざさざるを得なくなった。

※ 日米通商航海条約の破棄通告は国際法上、また当時の不戦条約に照らしても、日本に対する宣戦布告に該当します。(馬渕睦夫 グローバル)

 なぜアメリカはこんなことをしたのか。このとき日本は中国と戦っています。アメリカは関係ないのですが。


【スペイン内戦】
 では、ヨーロッパに目を転じると、ヨーロッパではやっぱり共産主義、社会主義が一つの流行であって、もともと共産主義は世界政府という世界革命を目指す組織だった。世界革命というと漫画みたいですけども、これは大まじめです。その組織がコミンテルンです。これはソ連側の組織です。

※ フランスは1929年の大恐慌以降、国民経済が破壊されて、社会主義者が勢いづき、社会党系の左派の政権が続いていました。
 このフランスとソ連の接近に危機感を強めたのはイギリスでした。イギリスは勢いづく社会主義勢力に対抗するためドイツに接近し、1935年、英独海軍協定を結び、ドイツの海軍軍拡を容認します。(宇山卓栄)

※1935年5月、アラビアのロレンスが、オートバイ事故で死亡。現場には、道路を横切って1本の電線が張られていた。(マリンズ)


 イギリスはまだドイツと戦う素振りを見せません。

 コミンテルンはヨーロッパに、共産主義・社会主義を広げようとして、各国に共産主義を作ろうという軍事組織です。人民戦線という組織を結成していく。この組織が、政府を握った国がスペインだった。人民戦線の活動家が選挙で選ばれて、一国の内閣を組織していく。このままだったらスペインは共産主義国家になっていく。そうすると、「共産主義はイヤだ」というスペイン人も多く出てくる。そこでまず1936年から、スペイン内戦が始まっていく。このソ連側の内閣の中心がアサーニャという人です。共産主義者です。しかし、これに反対したのが軍部または大地主勢力、その中心がフランコ将軍という軍人です。


 アサーニャはソ連が味方した。ではフランコにはどこが味方するかというと、共産主義が嫌いな国、日本もそうですけど、ドイツもそうなんです。ドイツがフランコ反乱軍を応援する。そしてソ連はアサーニャ政権、つまり人民戦線を応援する。

 ソ連とドイツが出てきて、いまドイツとソ連の対立がはっきりした。イギリス・アメリカとの対立ではありません。ただ世界の中心はイギリスとアメリカです。これははっきりいって「様子見」するんですね。イギリスとフランスはこれに不干渉です。「オレは干渉しないよ。良いようにして」という。

 それでどっちが勝つか、「ドイツが負けた」と思いたがるんですけれど、1939年にフランコ側が勝った。つまりドイツ側が勝った。


 スペインは第二次世界大戦後、20年間、これで行きます。このあとスペインは出てきません。世界をここまでしか見てなかったら、世の中はドイツ有利に見えたんです。


 共産主義を嫌うヨーロッパ人は今もよくいますので、「よくストップしてくれた、フランコよくやった」、フランコを応援したのはドイツのヒトラーです。これで内戦が収まって、戦争を終わらしてくれた。ヨーロッパに平和をもたらしてくれた。スウェーデンが唯一世界に誇る賞がある。ノーベル賞です。ノーベル平和賞にヒトラーを候補者として上げようとして、本当に上げているんです。70年経って、これを隠そう、隠そうとしているけど、ちゃんと上がっている。ここまでしか知らなかったら、ヒトラーが今のように極悪人のように言われるのが、ウソみたいです。



【第二次世界大戦】
 ではその不干渉のイギリスと、ドイツがなぜ戦っていくか。それをこのあと見ていきます。

 ドイツは、さっき言ったようにスペイン内戦によって、フランコ将軍側を応援した。そしてドイツとイタリアが同じ方針で仲間になった。これを首都の名前を取って、ドイツはベルリン、イタリヤはローマですから、ベルリン・ローマ枢軸という。1936年です。


 そして次の1937年には、これに日本が入るんです。日独伊防共協定です。なぜ日本が入ったか。仮想敵国つまり一番戦う危険のある国はどこか。「共」を防ぐ、共とは何か。共産主義のソ連です。アメリカではないです。アメリカはぜんぜん出てこない。アメリカはノーマークです。敵はソ連だということで、ドイツはソ連を警戒する。このときドイツのヒトラーはそんなに極悪人というイメージはなくて、ノーベル平和賞にノミネートされているほどです。平和賞自体はとらなかったですけど。ここらへんがこの戦争の不思議なところです。


 次の1938年3月には、ドイツはオーストリアを併合する。ドイツの隣の国です。理由は、オーストリアの民族はドイツ語しゃべってる。ドイツ人もドイツ語しゃべってるんです。同じドイツ人なんです。それですんなりいく。
 それに対してもイギリスは不干渉です。干渉しない。この時のオーストリアを舞台にした映画に「サウンド・オブ・ミュージック」というのがありました。有名な映画ですが、君たちは知らないかも。ここでドイツは、ロスチャイルド財閥のウィーン分家の当主を拘束します。

 半年後の1938年9月には、ドイツでミュンヘン会談が行われて、「干渉しない」という事をイギリスとフランスは話合い、正式に決定する。これを宥和政策といいます。ドイツが同じ民族を併合しようがどうしようが、イギリスとフランスには関係ないというわけです。同じ民族自決だからそれでいいという。


 ドイツは20年前、第一次世界大戦に負けたときに、領土を削られた。チェコスロバキアの領土になった中に、ドイツ人が沢山住んでる地方があった。そこをズデーテン地方と言います。民族自決だったら、ここもドイツだろうということになる。ここはドイツ系の住民です。そこをドイツが1938年9月に併合する。このことにも、イギリスとフランスは、「われ関せず、ああそうですか」という感じです。宥和政策を決定してるからです。まるでドイツの進出を誘発しているかのようです。

 この1938年にアメリカは「ルーズベルト恐慌」といって、深刻な不況に陥ります。GDPがマイナス10%に落ち込むという深刻なデフレにおちいります。実はルーズベルトのニューディール政策は失敗しているのです。アメリカは経済再生を目指して、別の道を模索しはじめます。アメリカ経済はこのあと、日本との戦争経済によって復活します。

※ 1938年には、アメリカは莫大な政府債務の累積を憂慮する財政均衡主義者の声に押されて、財政支出を削減した結果、景気が再び悪化し、2番底へと向かい始めました。・・・この景気後退の中、アメリカに残されたのは積み上がった巨額の財政赤字だけであり、この景気後退を救ったのは第2次世界大戦の戦時需要でした。(宇山卓栄)

※ 1939年5月、イギリスが「マクドナルド白書」を発表する。これによってイギリスは、シオニズム支持を取り止めることを宣言する。(宋鴻兵)
 これによってユダヤ銀行家は、ドイツを再建し、大英帝国にとって危険な敵となるように仕向け、イギリスが再びユダヤ銀行家の財布に依存しなければならないようにする必要があった。(宋鴻兵)

※ 1939年、ドイツが、中央銀行を国有化する「帝国銀行法」を公布。
 国際銀行家の反対を避けるため、6年かけて徐々に中央銀行の実権を握った。これは政府が紙幣発行権を握ったこと。


 そしてアメリカはその翌年の1939年7月26日に突然、さっきも言いましたが、日本に対して日米通商航海条約の破棄通告を行います。そして翌1940年1月にこの条約は失効します。なぜでアメリカが日中戦争に介入するのか。なぜ日本にそんなことをするのか。
 潜在的には1920年代のワシントン会議から、ずっとアメリカによる日本潰しの兆候はありました。四カ国条約を結んで日英同盟を廃棄させた。そういう潜在的なアメリカの動きはあったんですが、ここでアメリカのホンネが一気に表面化したわけです。

※ 1939年7月という時期は、日本とアメリカは、何の戦争もしていない頃です。通商条約破棄という準宣戦布告のようなことをアメリカは日本に対してやった。・・・日本にとっては当時、全輸出額の半分近くが、アメリカ向けです。こんな貿易関係を破棄するなんていうのは、これだけで戦争行為です。(茂木弘道)

 さっきやったスペイン内戦では、ドイツとソ連は敵同士でスペインで戦ったけれど、この戦いは1939年3月にドイツが勝った。
 するとこれは「手を組んだほういい」と、1939年8月23日には独ソ不可侵条約を結ぶ。不可侵というのは「戦争しません」ということです。ドイツとソ連はここで手を組んだんです。

 次の地図、第一次世界大戦に負ける前のドイツの領域は、これだったんです。

 1939年9月1日、「ドイツ人の住む地域だったら併合していいんだったら、20年前までドイツであった地域も当然よいだろう」と思って、ドイツポーランドに侵攻する。ここはたった十数年前までドイツ領だったところです。

 しかし2日後の9月3日に、イギリスとフランスが突如ドイツに宣戦布告する。これが第二次世界大戦の始まりです。これを聞いてヒトラーはビックリした。「なぜだ。今まで言ってきたことと違うじゃないか」。それで、ヒトラーはアメリカのルーズベルト大統領に仲介を頼もうとした。ヒトラーが、握手できるように仲介してくださいと頼むと、ルーズベルトは「知らんふり」です。
 
▼ドイツの拡大



 第二次世界大戦の勃発でさらに不思議なことは、約2週間後の9月17日に、同じようにソ連がポーランドに侵攻する。ドイツがポーランドに侵攻したのが悪いからドイツに宣戦布告したのだったら、ドイツに戦争を仕掛けるのと同様に、ソ連にも戦争仕掛けないとおかしい。しかしイギリスはソ連には戦争を仕掛けない。ドイツにだけイギリスは戦争を仕掛ける。つまりドイツのポーランド侵攻がこの戦争の原因ではないのです。

 それと同じことをしたソ連とは、2年後に軍事同盟を結んで逆に仲間になる。ますます理屈が合いません。

※ 第2次大戦というのは、ヒトラーが宣戦布告したんじゃなく、ドイツがポーランドに侵入したというので、イギリスが宣戦布告したんです。ほとんど同時にソ連もポーランドに侵入しているのに。(フーバー、茂木弘道)

※ 1939年3月末、イギリスとフランスが、ポーランドとルーマニアの独立を保証した。・・・イギリスもフランスもポーランドを侵略から救いだす力がなかったにもかかわらず、その独立を保証した。・・・第2次大戦のスタートは、ポーランドを保証するという失敗にある。それでイギリスはドイツに宣戦布告した。(フーバー、茂木弘道)

※ イエジ・ユゼフ・ポトツキ駐米ポーランド大使が、「ルーズベルト大統領は、ポーランドの独立維持のために、英仏側に立って参戦することを約束していた」と証言しています。(ルーズベルトの開戦責任、ハミルトン・フィッシュ)

 これをまとめると、イギリスは1938年まではドイツに対して宥和政策をとっていた。それが1939年に突如として宣戦布告する。これが不思議です。この間にいったい何があったのか。
 1938年の状況は、アメリカは「ルーズベルト恐慌」でひどい不況に陥っていた。アメリカ経済の実体は、ニューディール政策に失敗し不況にあえいでいた。その不況からの脱出を模索していたのです。
 またドイツは1938年のオーストリア併合に際して、ロスチャイルド財閥のウィーン分家の当主を拘束しました。

 この変化は突然です。

 ドイツとソ連が手を組んだ独ソ不可侵条約が、1939年8月23日です。
その翌月の9月1日に、ドイツは10年前まで自分の領土だったポーランドに軍事侵攻した。すると突然、イギリスとフランスが、ドイツに宣戦布告した。
 しかし約2週間後の9月17日ソ連が同じポーランドに侵攻しても、イギリスとフランスは、ソ連に宣戦はしない。しかもソ連は、このあとバルト三国という、リトアニア、ラトビア、エストニアを侵略するんです。それでもイギリスはソ連に宣戦しない。この整合性の無さが何なのかというのは、まともに考えても分からない。

 ヒトラー自体がびっくりして、アメリカのルーズベルト大統領に調停を頼む。しかし無視される。ヒトラーは孤立していく。このとき日本はまだ日独伊三国軍事同盟こそ結んでいませんが、この孤立したドイツと手を組んでいくのが日本なんです。

※ ヒトラーは、ポーランド分割によりソ連と国境を接することを、イギリスは容認すると想定していました。しかし、イギリス国内でドイツに対する批判的な世論が形成され、それに押し切られる形で宣戦布告が行われました。ヒトラーにとってこの宣戦布告は「寝耳に水」というべきもので、ヒトラー自身にイギリスやフランスと開戦する意志はなく、ヒトラーは一方的に開戦を突きつけられることになりました。(宇山卓栄) 

 このように第二次世界大戦は突然起こる。変化は突然です。しかも理屈が合わない。


【大戦の推移】
 戦争がどうやって拡大していったか。ここから1940年代になります。
 これが不思議なのは、9月にイギリスとフランスがドイツに宣戦布告して半年間、一発も爆弾が落ちない。半年間、みんなどこで戦争が合っているんだ、と不思議に思う。宣戦布告をしてもイギリスは攻めもしない。だからみんな、不思議だ、不思議だと言っている。だから別名、この第二次世界大戦を「奇妙な戦争」という。

 半年経って1940年になると、ドイツが西隣のオランダを攻める。すると圧倒的にドイツが強いんです。スペインでもドイツが強かった。イギリス軍とフランス軍はケチョン・ケチョンにやられて、ヨーロッパからイギリス軍は撤退していく。


 ドイツはそのままフランスになだれ込んでいく。そしてあっという間にフランスの3分の2を占領する。フランスは負ける。そしてフランスの中でも、ドイツびいきの政権、ドイツが正しいというヴィシー政府が成立する。

 この直前にイギリスの首相が変わるんです。それまでは、チェンバレンという首相でした。この人はドイツと戦わないという方針だった。しかし選挙をして、新首相ウィンストン・チャーチルという人に変わる。この人が戦争好きなんです。徹底して戦うぞ、何があっても戦うぞと言う。しかしドイツは強い。ドイツはロンドンまで空爆して、爆弾をボンボン落とす。
 フランスも降伏した。次はイギリスか。いやいや我慢だ、我慢だ。焼け野原になるまで我慢する。


 これと同時にイギリスは、またアメリカに参戦するよう外交交渉している。アメリカはこのヨーロッパの戦いには関係ないんです。この構図は第一次世界大戦と同じです。第一次世界大戦の勝因は、アメリカの参戦でしたね。
 しかしアメリカは国際連盟にも入っていない。だからイギリスの仲間に加われない。だから戦争できない。国際連盟に加わってないし、イギリスとも同盟も結んでいない。アメリカ国民がそれを望まなかったんです。戦争に加わる理由がない。ただチャーチルは、アメリカのルーズベルトとずっと外交交渉をしている。「参戦してよ」と。でも理由をどうするか。そんなものはあとからどうにでもなるという。

 もう一人、逃げたフランス人がいる。この人は将軍です。祖国フランスを真っ先に逃げて、安全なロンドンに避難した。そこから何というか。「オレは徹底的にドイツと戦うぞ」と言う。おまえ逃げているじゃないか。これがド・ゴールです。こちらが勝つ。戦後最強のフランス大統領がド・ゴール大統領です。こういう人間が戦後大統領になる。
 彼は亡命して逃げて、ロンドンから徹底抗戦を主張する。筋が合ってるのか、合ってないのか、君たちに任せるけど。それに押されてフランスでも、「そうだ、そうだ、戦おう」という人たちが抵抗運動をする。これをレジスタンスという。抵抗という意味です。


【日本】
 そのころ日本はというと、1939年7月26日に突如アメリカが、日米通商航海条約の破棄通告をする。アメリカは、「オレは石油を売らないこともできるんだよ」と言った。日本は石油を確保しなければならない。アメリカに頼れなかったら、どこから確保するか。一番近い産油国はインドネシアです。そこに東南アジア最大の石油がある。そこを目指すしかない。
 これは一方的なアメリカの破棄通告です。しかしこれが効くんです。石油を売らなくてもいいですよ、と言われたら、日本はひとたまりもない。
 ヨーロッパではその1ヶ月後、1939年8月23日には独ソ不可侵条約が結ばれて、ドイツとソ連が手を組んだ。
 その約10日後の1939年9月1日に、ドイツは10年前まで自分の領土だったポーランドに軍事侵攻した。すると突然イギリスとフランスが、ドイツに宣戦布告した。これが第二次世界大戦の始まりです。でも日本はこの大戦に不介入を表明します。

 日本はこの時ヨーロッパの第二次世界大戦には無関係ですが、石油は確保しなければならない。
 第二次世界大戦が始まった次の年の1940年9月23日に、石油確保のために北部フランス領インドシナ進駐を行います。場所はフランスの北部植民地、今のベトナム北部です。そこにまず南下して、さらに南にマレー半島からインドネシアまで戦線を伸ばしいく作戦をとります。
 目的は、アメリカの禁輸によっていずれ途切れる石油の確保です。それともう一つは、蒋介石援助ルート(援蒋ルート)の遮断です。アメリカは翌年の1941年3月に武器貸与法を制定し、イギリス・中国・ソ連への援助を正式に表明しますが、すでにそれ以前から非公式に中国の蒋介石政府への武器援助を行っています。この時、日本はすでに中国と戦っていますから、その中国に武器援助をするという行為は、日本に敵対することをしているわけです。

 その4日後の1940年9月27日に、日本はドイツとの結びつきをさらに深め、日独伊三国軍事同盟を結ぶ。

 さらに日本は翌年の1941年4月13日、「ドイツがソ連と手を組むのなら、日本もソ連と手を組もう」ということで、日ソ中立条約が結ばれる。この戦争は、敵が一定じゃない。半年ごとに状況が変化して、裏切って、右が左に着いたり、左からまた右に行ったりして、蠢いている。
 しかしドイツは、その2ヶ月後の1941年6月22日に、手を結んだはずのソ連と突然、戦争しだす。これが独ソ戦です。一番驚いたのは日本です。日本がソ連と手を組んだたった2ヶ月後に、仲間のドイツがソ連と戦ったんだから。

 この時の日本の首相平沼騏一郎は、複雑怪奇だと言って辞任します。世界情勢が分からないということです。いわく、「複雑怪奇、不思議だ、オレにはわからない」と。実はこの独ソ戦の理由は今もよく分かりません。
 歴史に不思議はありません。たぶん本当の情報が足らないんだと思います。

 ただここでは石油の確保という緊急の課題だけが残されています。


【世界情勢】
 この1941年6月22日独ソ戦の開始がなぜまずいのか。ドイツは、西にフランス、東にソ連、両方から挟み撃ちされると負ける。これが1番恐い。第一次世界大戦で負けたのもこれなんです。フランスとソ連と、両面で戦った。ソ連が潰れてもアメリカが加わったら、ドイツは勝ち目がない。それをわかっていながら、今回も同じことをする。フランスとソ連の両面から挟み撃ちされる。なぜこんなことをするのが、よく分からない。
 ただこの時にはフランスを占領してるから、ソ連と戦っても勝てるとヒトラーが踏んだのかどうか、そんな単純なものかどうか、よくわかりません。


 ドイツはまだアメリカが攻めてくるということは想定していません。まだアメリカはこの戦争に関係ないです。何の軍事同盟にもアメリカはこの段階で入っていないです。アメリカは相手から仕掛けられない限り、戦えない状態にあるわけです。でもどうにか参戦したいと考えている。これをどうするか。

 独ソ戦が始まって1ヶ月後の1941年7月に、まずイギリスがソ連と軍事同盟を結ぶ。英ソ軍事同盟です。戦ったり味方になったり、また戦ったり、結局ソ連は、第一次世界大戦と同じイギリス側につく。


 ソ連軍はドイツの侵攻に対して頑張る。この戦いの決着がつかない。長期化する。ドイツの体力がどんどん消耗する。長期化すると、ドイツの兵隊も戦争能力が落ちてくる。体力が落ちてくる。軍隊自体も体力が落ちてくる。

 日本はというと、いつ石油が切れるかもわからない。
 1941年7月28日、ベトナムの南部、つまり南部仏印、フランス領インドシナともいう。これが南部フランス領インドシナ進駐です。ベトナムはフランスの植民地です。
 するとそれを待ち構えたように、4日後の翌月1941年8月1日アメリカ対日石油輸出を禁止した。つまり日本に対して一滴の油も売らないと決定した。これを単なる脅しだと思うなら、それはあまいです。これで日本には石油が入ってこなくなった。
 ではどうするか。石油がないと産業が立ちゆかない。この構造は今とほとんど変わりません。まず戦えない。戦車が石炭で動いていると思う人はいないでしょ。車が石炭で動いていると思う人はいない。飛行機も石炭では動かない。つまり戦えない。いくら戦車とか飛行機をもっていても、石油がなかったら、無いのといっしょです。そこまで追い詰められた。


 この対日石油輸出禁止1941年8月1日です。
 日本はその4ヶ月後の1941年12月8日真珠湾攻撃をします。

 その4ヶ月の間にアメリカが着々と参戦体制を整えていきます。
 
 これで終わります。ではまた。


「授業でいえない世界史」 47話 現代 太平洋戦争の勃発

2019-05-16 09:00:00 | 旧世界史12 20C前半
※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


 今やってるところが一番メインといえばメインです。年表を時々見てください。
 これだけ一連の動きなんです。分けて考えることができないところです。
 第二次世界大戦の始まりは1939年からです。もう第二次世界大戦は始まってるんですが、もう一回行きます。
 でもこの時は日本はまだ参戦していません。日本の真珠湾攻撃は2年あとの1941年です。だからまだ太平洋戦争は始まっていません。
 ではなぜ日本は勝てない戦争を始めたのでしょうか。


【太平洋戦争への道】
 まず1930年代というのは、主役はイギリスがメインだとして、ドイツとソ連、こんな関係で、まだバラバラだったんですよね。
 バラバラで、ドイツとソ連が先に対立し始めて、戦ったところがスペインだった。まずドイツとソ連が対立した。それがスペイン内戦だった。そこではドイツが勝ったんですよ。フランコが勝った。そのフランコを応援していたのがドイツだった。

 1939年に、イギリスはドイツに対しても不干渉、ソ連に対しても不干渉、「オレたちには関係ない」と言って、少なくともドイツと戦うそぶりは見せなかったんですが、第二次世界大戦は、またしてもイギリスとドイツの対立です。

 第一次世界大戦も、第二次世界大戦後も、結論をみると、イギリスとドイツの戦いです。そしてアメリカは、どちらの戦いでもイギリスに応援する。
 日本はイギリスについたり、ドイツについたり、1番翻弄された国なんです。
 今に至るまで、歴史は日本の動きを上手に説明していないところがあって、こう言ったらナンですけど、私は今でもよくわからない。いろいろな本を読んでも、膝をポンと叩いてわかったという感じにならない。何か奥歯に物がつまっているような感じです。


【1939年】
 1939年5月に日本がソ連とノモンハン事件で戦っている最中、その2ヶ月後の1939年7月にアメリカは日本に対して突如として、日米通商航海条約の破棄通告を行った。日本が石油を頼っているアメリカが「日本に石油を売りたくない」と言ったんです。日本にとっては寝耳に水で、これが日本が石油を求めて、南下するきっかけになります。

※ 日米通商航海条約の破棄通告は国際法上、また当時の不戦条約に照らしても、日本に対する宣戦布告に該当します。(馬渕睦夫 グローバル)

 そして翌月の1939年8月には、今まで喧嘩していたドイツとソ連が手を組んだ。これが独ソ不可侵条約です。なぜ手を組んだかというと、ポーランドが欲しかったからです。ドイツはポーランドの西側から・・・ここはドイツの土地だった・・・ソ連はポーランドの東側から、挟み撃ちして自分の領地にしてしまったんです。イギリスはドイツに対して、宥和政策つまり喧嘩しない方針を固めていた。

 ドイツのヒトラーもそれを信じていた。しかもソ連と組んでやったから、これは当然、これは宥和政策が続くと思って1939年9月1日ドイツがポーランドに侵攻したら、たった2日後の9月3日にイギリスはフランスとともにドイツに宣戦布告した。
 これにヒトラーはビックリした。なぜだ。それで慌ててアメリカに、ルーズベルトに、「ちょっとどうにかしてください」と調停を頼むと、そしたらルーズベルトは「知らん」と言う。どっちが戦争をしたがっているのか、よくわからないのです。
 それで第二次世界大戦が始まった。

 さらに約2週間後の1939年9月17日に、同じようにソ連がポーランドに侵攻した。逆の東側からソ連が攻めた。さらに次の年には、ソ連はこの北のバルト三国に侵攻した。侵略度合いは明らかにソ連が大きい。しかしソ連には見て見ぬふりで、宣戦布告しなかった。
 これがドイツとソ連のどちらにも宣戦布告するんだったらまだしも、これでは理屈が通らない。この整合性の無さがなんなのか、よくわからない。ドイツが侵略したから宣戦布告したというんだったら、ソ連が侵略したらソ連に宣戦布告するのが当然なのに、そうじゃない。ここらへんがこの戦争の理屈に合わないところです。でも歴史に理屈の合わないことは無い。必ず別の意図があるはずです。
 ちなみに日本はこのヨーロッパでの第二次世界大戦の勃発に対して、これは日本とは関係のないヨーロッパでの戦争だとして、「大戦不介入」つまり戦争には参加しないことをはっきりと対外的に表明します。

 1939年9月に、第二次世界大戦が始まると、最初はドイツが圧倒的に有利です。
 ドイツが西側のオランダをまず占領する。そしてイギリス軍をヨーロッパ大陸から追い払う。フランス軍も逃げていく。ドイツはそのままフランスになだれ込んで、フランスを占領します。フランスは簡単に負けます。ドイツはフランスの領土の3分の2をアッという間に占領します。するとフランス人のなかにも、ドイツ側につく軍人も現れる。これがヴィシー政府です。


【1940年】
 ただイギリスではこの時に選挙に勝った新しい首相が誕生する。これがチャーチルです。大のドイツ嫌いで、「徹底して戦うぞ」という。ドイツが空襲しても、「戦う、戦う、絶対戦う」。ただ軍事的に負けてるから、「アメリカさん」とすり寄る。

 このアメリカというのは、第一次世界大戦後、国際連盟に加盟してなかったから、戦争には加われない。加われないけれども、このイギリスの新首相チャーチルは、アメリカ大統領のルーズベルトとつながっていくんですね。

 負けたフランスは、いち早く逃げたド・ゴール将軍が、亡命先のイギリスから・・・自分は逃げているのに・・・フランス国民に「戦え、戦え」と言っている。これを亡命政府というんです。それに応じて、じわじわとフランスでもドイツ軍に対する抵抗運動が起こっていく。これがレジスタンスです。レジスタンスというのは抵抗という意味です。
 アメリカのことを言うと、このあと日本人が戦うのはアメリカです。アメリカはこの戦争の行方を左右する主役です。
 アメリカは、1940年8月には軍事作戦として、目立たないけれども決定的なことに成功している。アメリカは日本軍の暗号解読に成功しているんです。
 戦争の作戦指令は、全部暗号で・・・日本語ではしない・・・暗号でやるんです。しかしもう筒抜けです。このことはすでに常識化しています。アメリカは、それ以前から日本研究をバッチリやってるんです。
 これに対して、日本は・・・これはまずいなとおもうのは・・・逆に日本は英語を使ったりすると、非国民と言って使わせないんです。高校でも英語の先生は首です。その代わりに中国語をやったりする。敵の言葉を何で使うか。アメリカはまったく逆です。「日本を研究しろ、研究しろ」。アメリカは明らかにこの段階で日本をマークしているということです。

 だからバスケットと言うし、バレーボールと言うけど、ベースボールと言わないでしょう。野球という。ファーストのことを、一塁という。敵国語だからです。大正時代から野球は来ている。ホームランと言わずに本塁打という。珍しいスポーツです。英語で言わずに、名前を日本語の漢字に当てはめるスポーツというのは。これも英語を使わせなかったからです。

 前に言ったように、1939年7月にアメリカが日本に、「オレは日本に石油を売らなくてもいいんだよ」と言った。日本は石油を全面的にアメリカに依存してるにもかかわらずです。アメリカは日米通商航海条約を破棄した。「売らないことだってできるんだよ」、と言った。
 日本は、これが怖くて怖くて、石油がある今のインドネシアに軍を進めたい。中国からインドネシアに行くために、ベトナムに軍隊を進めた。これが1940年9月23日北部フランス領インドシナ進駐です。

 そしてヨーロッパではドイツが破竹の勢いであって、その前からソ連に対しては、三国で防共協定を結んでいたから、これを1940年9月27日に、日本・ドイツ・イタリアで日独伊三国軍事同盟に発展させていった。


【1941年】
 ドイツは、さきの1939年8月独ソ不可侵条約を結んで、ソ連と組んでいた。日本は、ドイツと歩調を会わせる必要から、1941年4月日ソ中立条約を結んだ。お互い攻めませんという条約です。
 これはその4年後、ソ連が簡単に破るんですけどね。満州は日本の土地だったけれども、ソ連が無断で入ってくる。1945年8月6日には広島に原爆が落ちる、2日後の8月8日には満州からソ連軍が攻めてくる。翌日の8月9日には長崎に原爆が落ちる。踏んだり蹴ったり状態で、6日後の1945年8月15日に日本は無条件降をしていくことになります。

 1941年4月日ソ中立条約でソ連と仲間になったつもりが、2ヶ月後の1941年6月には、ドイツとソ連が独ソ戦を始める。ここがわからない。わからないというのは、理由は一応書いてあるんです。ソ連には油田があるんです。ドイツと日本は非常に似ていて、日本には油田がないです。ドイツにもないんです。ソ連と組んだら、油田の利権を分けてくれないかなという下心があったところをソ連が断った。だから、一旦手を組んだソ連を攻めたという。でもこれだけで戦争するでしょうか。

 西側はフランスから、東側はソ連から攻められて、挟み撃ちされる危険があるのがドイツなんです。戦争のイロハとして、これだけはしたらいけない。敵から右からも左からも攻められたらどんな天才でも勝てない。この失敗が第一次世界大戦なんです。それにも懲りずまた同じことをドイツはする。なぜこんなことをしたのか。いくら考えても分からないけど、一応の理由はこう書いてある。
 事実として、ドイツはソ連に宣戦布告を行ったということです。

 そうすると、ドイツとソ連が対立したら、ドイツとソ連が組んでいたのが切れて、逆にソ連はイギリスと結びついていく。つまりドイツは敵を増やしただけなんです。負けに行っているとしか思えない。なぜそんなことをしたのか。よく分からない。

 日本は、その不利になったドイツ側と結んでいる。イギリスはこのあと、待ち構えたように、ソ連を仲間に引き入れていく。すでにそういう交渉をしている。独ソ戦開始の翌月1941年7月には英ソ軍事同盟を組びます。

 その後ドイツは、速攻でソ連を攻めることができたかというと、やっぱり長期化していく。ヒトラーの予想では、3ヶ月でソ連を打ち負かすと言っていた。しかし無理だった。逆にこの後押し戻されていく。

 1941年6月独ソ戦が始まって、翌7月英ソ軍事同盟ができる。しかもドイツはソ連を攻め落とすことができない。この独ソ戦からドイツの有利が逆転していくんです。

 アメリカには日本人の移民が実は結構いるんです。日本の会社がアメリカに子会社をつくっていたりもしている。それは日本の財産なんです。独ソ戦の翌月1941年7月25日には、アメリカはそういう日本の在米資産を凍結する。使わせない。つまりアメリカが没収したということです。

 日本はこういうふうに追い詰められて、「やっぱり早く石油だ。インドネシアにある石油に早く届かないといけない」ということで、同月の1941年7月28日に、南部フランス領インドシナ・・・ここは今のベトナム南部で南部仏印と言っていました・・・ここに軍を進めた。これが南部フランス領インドシナ進駐です。

 そうすると、4日後の1941年8月1日に待ち構えたように、アメリカは、「日本に石油を売らない」と宣告した。対日石油輸出禁止です。今までは、「売らないてもいいんだよ」と言っていた。しかしこの時にはっきり「売らない」と言った。

 石油がなかったら飛行機も飛ばない。とにかく備蓄が1年分ぐらいしかない。「1年で戦うんだったら戦う、そうでなかったらのたれ死にするしかない」という結論になる。こういうふうに追い詰められていく。
 では勝てるのかというと、勝てると言った人はいない。ではどうするのか、答えがない。ただ、「このままだったらジリ貧だ、やせ細っていくだけだ」という点では一致している。こういう状態に追い詰められていくわけです。

 日本の南部フランス領インドシナ進駐1941年7月28日です。そしてアメリカの対日石油輸出禁止8月1日です。たった4日後です。4日間で待ち構えたようにやる。

※ 「経済封鎖は戦争行為である」と、パリ不戦条約批准の時にケロッグ米国務長官が言っている。1941.7月には、日本の在米資産の全面凍結があった。1941.8月には、石油と鉄くずの禁輸もあった。アメリカと通商でなんら問題が起こったわけじゃないのに、通商条約を破棄する。これは準宣戦布告でしょう。(フーバー、茂木弘道)


 その11日後、今度は1941年8月12日になると、アメリカは国際連盟に入ってないし、イギリスとも軍事同盟を結んでないから、このヨーロッパの戦争には何の関係もないはずですが、アメリカ大統領ルーズベルトとイギリス首相チャーチルが、大西洋上の軍艦で出会って、そこで話し合うんです。今後のことを。
 ここで、軍事同盟もないのに、何を話し合うのか。この段階でアメリカは戦争に介入する、と決めていたとしか捉えようがないことを発表する。これを大西洋憲章という。

※ チャーチルとルーズベルトは、太平洋戦争前の1941年8月に大西洋憲章を調印しますが、その時点でアメリカの参戦について話し合っていたことが、明らかになっています。(太平洋戦争 藤井厳喜)

 大西洋の軍艦の上で話し合ったからこういう名前であって、これは国際会議でも何でもなくて、たんにアメリカとイギリス2国間の取り決めにすぎません。
 この時日本はまだ真珠湾攻撃をしていません。アメリカとまだ戦っていません。どっちかというと戦局はドイツが優勢で、イギリスは負けている。それなのにこの憲章の内容は、「この戦争に勝ったらどうするか」ということを書いている。こうやって戦うぞではなくて、勝つのが当たり前みたいになっていて、勝ったらこうするぞと、国際連合をつくる予定を発表する。
 おかしな話です。アメリカは国際連盟に入ってもいないのに、第二次世界大戦に勝てば国際連合をつくると言っている。

※ 1941.9月、ルーズベルトは、日本の近衛総理大臣の和平の提案を受け入れ拒否した。(フーバー、茂木弘道)


 これは、アメリカ大統領とイギリス首相が、この世界大戦は、ドイツと日本はファシズム国家だ。彼らが悪い。それに対して俺たちは民主主義国家だ。つまりこの戦いは、悪のファシズム国家であるドイツ・日本と、正しいアメリカ・イギリスの戦いなんだということを、言っているんです。

 アメリカとイギリスが勝ったから、戦後はこれが正しいことになった。ドイツと日本が悪いということに今でもなってます。

 ただアメリカは、さっき言ったように、軍事同盟も国際連盟にも入ってないから、このことには無関係なはずなんです。アメリカが戦争すること自体がおかしい。アメリカ国民の85%は戦争反対です。戦争賛成しますかと聞くと、「なぜ戦争しなければならないのか」と不思議に思っている。「あれはヨーロッパの戦争で、オレたちとは関係ない。アメリカが参戦する必要はない。なぜ他国の戦争にアメリカが参戦しなければならないのか」と。
 だからルーズベルトは踏み出せない。こういった時に、どうやったら戦争に入れるか。それは国民を怒らせるようなことを仕掛けたらいいんです。そこまでいくのは、もうちょっとあとですけれども。

 ソ連はイギリスと組んでどうしたか。もともと共産主義は世界革命を狙っていた。しかしこれはイギリスにとって迷惑だった。まずコミンテルンを解散する。「イギリスといっしょにやりましょう」と。こうやって世界的な共産革命路線を放棄する。世界革命というと漫画みたいだと、思うかもしれないけれど、大の大人が大真面目で、何兆円も使って計画を立てていました。それを放棄します。

 アメリカは、1941年11月26日に、大統領に次ぐナンバーツーの国務長官ハルという人が、ノートつまり文書を日本に手渡す。メモといっても国務長官のメモだから、正式文書といっしょです。これがハル・ノートです。
 そこに何と書いてあったか。日本は今インドネシアに行こうとしている。インドネシアに行くなということを伝えます。それだけではない。日本軍は今どこにいるかというとベトナムにいる。ベトナムから撤退しろではない。中国南部から撤退しろでもない。北京を撤退しろでもない。そんなことは当たり前だという。北京とは別の、中国とは別の満州国、「その満州国そのものから出ていけ」という。満州国を含め、それ以降のすべての占領地域から撤退することを日本に対して要求する。

 日本は確かに中国とは戦ってるけれども、アメリカとは戦っていないし、中国とアメリカが軍事同盟を結んでいるわけでもない。なぜアメリカがこんなことを言うのか、ということです。日本はこれを見たときに、「これはやる気だ」と思う。これを最後通告だと思う。日本の軍部はこれを最後通告と受け止めた。戦争が始まるのは避けられないと判断した。それが1941年11月26日です。

※ ハル・ノートは、アメリカによる交渉打ち切りのための最後通牒です。(馬渕睦夫 グローバル)

 そして今も問題になっている北海道の北方領土、そこの択捉島に戦艦ヤマトはじめ海軍を結集させて、真珠湾攻撃に向かうのが12月1日です。そして1週間かけて、真珠湾に着くのは12月8日です。

 ただその途中の12月4日には・・・これ全部無線で暗号でやっている・・・アメリカ軍は日本の暗号をすべて解読していた、というのももはや常識化しています。その暗号解読されたものが、アメリカ大統領の手に届いていた。ルーズヴェルトは日本艦隊の動きを知っていたがそれを無視したと言われる。アメリカ大統領は、真珠湾攻撃のことを事前に知っていた。教科書にはそのことは書けませんけど。

※ 多くの歴史学者は、ルーズベルト大統領は、日本の真珠湾攻撃を知っていたと信じている。(宋鴻兵1)

 その4日後に真珠湾が奇襲される。それを知っていたら、これは奇襲攻撃にならない。だから知らなかったことにして握りつぶした。こういう話は戦後すぐからあって、もはや常識化しています。

※ 作戦的に見ても真珠湾攻撃をする必要があったのかどうか、非常に疑問です。日本はアメリカを迎え撃てばよかったのです。(馬渕睦夫 グローバル)

 この1941年12月8日の「真珠湾奇襲攻撃」から太平洋戦争が始まります。

 日本とアメリカが戦うということは、日本はドイツと日独伊三国軍事同盟を結んでいますから、アメリカがドイツと戦えるようになったということです。これはヒトラーが注意深く避けていたことでした。
 これでアメリカは日本ともドイツとも戦えるようになったわけです。アメリカはヨーロッパにも軍隊を派遣していきます。
 これでアメリカの戦後の覇権が視界に入ってきます。



【太平洋戦争の勃発】
復習をかねてもう一度、この流れを日本の目で見ていきます。

 まず1939年7月、アメリカは一方的に、「石油を一滴も売らなくてもいいんだよ」と言った。これが日米通商航海条約の破棄通告です。アメリカが日本にです。日本はこれに非常に驚いた。

※ 日米通商航海条約の破棄通告は国際法上、また当時の不戦条約に照らしても、日本に対する宣戦布告に該当します。(馬渕睦夫 グローバル)

 翌月1939年8月、ドイツは独ソ不可侵条約をソ連と結んだ。
 そして翌月1939年9月には、そのソ連と組んでポーランドに軍事侵攻した。その2日後にイギリスはドイツに宣戦布告をした。これが第2次世界大戦の勃発です。しかしイギリスは、ソ連には宣戦布告をせずに、ドイツにだけ宣戦布告をした。

 この段階はまだヨーロッパ内での戦争であり、日本は参戦しません。日本は「大戦不介入」をはっきりと対外的に表明します。日本は注意深く戦争を避けています。
 アメリカも全く関係ありません。しかしそれにもかかわらずアメリカは「日本には石油を売らない」という。なぜそんな脅しをするのかよくわからない。
 日本はアメリカに石油の供給をほぼ全面的に頼っています。日本はアメリカに首根っこを押さえられている状態です。日本にとっては石油の供給をどう確保するか、それが最大の政治課題になります。エサを与えられなかった動物がどうするか。そういう状態に日本は追い込まれていきます。このことは教科書にはサラッと書いてありますが、日本にとっては一番重要なことです。

 日本は翌年1940年9月23日に、石油のある南方のインドネシアを目指して、北部フランス領インドシナ進駐を行います。これは今のベトナム北部です。ベトナムはフランスの植民地だからベトナムという国はありません。

 その直後の1940年9月27日に日本は日独伊三国軍事同盟を結ぶ。


 さらに日本は翌年、ドイツがソ連と独ソ不可侵条約を結んでいるからということで、ソ連と手を組む。これが1941年4月日ソ中立条約です。

 しかしその2ヶ月後の1941年6月にドイツはソ連と独ソ戦を始めた。だから訳がわからなくなった。一応の理由はドイツは、ソ連の石油利権がうまくいかなかったからという理由ですけれども、どうかなという感じです。

 そして翌月1941年7月25日、アメリカが、日本の在米資産、つまりアメリカにある日本企業の資産を凍結した。

 その3日後の1941年7月28日、アメリカが日本に対して対立的になったから石油確保を急がないといけないとして、さらにベトナムの南部に軍を進める。これが南部フランス領インドシナ進駐です。

 その4日後の1941年8月1日に、アメリカは、「日本に対して石油は売らない」と宣言した。これが対日石油輸出禁止です。そうやってアメリカが経済制裁すれば、イギリスも輸出制限かけようとなる。オランダもです。資源がない日本にますます資源が入ってこなくなった。
 日本は、負けるんだったらはやく降参するしかない。または、戦うんだったら大急ぎで戦うしかない。この二つに軍部の意見は分かれる。

 1941.9月、ルーズベルトは、日本の近衛総理大臣の和平の提案を受け入れ拒否した。

 日本は中国と戦争している。中国も日本に経済制裁するんです。これを語呂合わせで、アメリカの頭文字はAです。イギリスは島の名前はブリテン島という。ブリテンのBです。ここに中国が、チャイナ、C。ABCとなる。さらにオランダ、オランダと言っているのは日本だけで、ダッチ、Dです。これでABCDとなる。日本は完全にABCDに包囲された。これをABCD包囲網という。これで完全に遮断されたんです。
 さてどうするかです。困り果てます。それで、勝てはしないけれども、戦うしかないという判断をする。
 「窮鼠、猫を噛む」(きゅうそ、ねこをかむ)です。窮鼠とは、追い詰められたネズミです。そして先に猫を噛んだネズミが悪いことになります。追い詰められたネズミはどうすれば良かったのでしょうか。ネズミはネコに勝てません。でも噛みつくしかない。この戦争がおかしいのは、そういう戦争の仕組みです。問題はどこにあるのでしょうか。
 世界史的に重要なのは、ネズミがどうしたかではありません。ネコが何を狙っているのかということです。 

 そして、その10日後、1941年8月12日には、さっきいった米英による大西洋憲章の発表です。これは「ファシズム国家、悪いドイツと日本に対する民主主義の戦いなんだ。勝ったら国際連合を作る」、そういうことを早々と打ち上げている。手回しが良すぎます。この戦いは。

 さらにアメリカは、1941年11月26日に、ハル=ノートによって、日本の満州からの撤退を要求する。日本はこれを最後通告と受け取る。

※ ハル・ノートは、アメリカによる交渉打ち切りのための最後通牒です。(馬渕睦夫 グローバル)

 そして1941年12月8日に、太平洋戦争が始まった。これが日米戦争です。きっかけは、ハワイにアメリカ軍最大の軍港があるんです。英語でパールハーバーという。パールが真珠です。ハーバーは湾です。だから真珠湾です。ここを日本軍が攻めた。これが12月8日です。

 出発したのが12月1日。その途中の12月4日にはアメリカのルーズヴェルトは、暗号解読をしてこの情報を知っていたけど握りつぶした、という話がある。
 もう一つはこれをアメリカが、奇襲だ、だまし討ちだといいながら、日本はその前日に宣戦布告を日本大使館に打電している。その日本大使館が翻訳に手間取って、戦争開始の午前11時に間に合わなくて、11時30分に手渡したとか・・・こんな話はあり得ないと思うけど・・・いろいろな疑問がある。何していたのか分からない。野村吉三郎という日本大使に聞いても、何してたかよくわからない。

 この真珠湾攻撃ばかりが有名ですけど、本当は真珠湾がメインじゃないです。本当の日本の狙いは南方です。インドネシアです。インドネシアに行くためにはこのマレーシア、シンガポールを取らないと行けない。メインはここです。真珠湾攻撃と同じ日の12月8日に、マレー半島にも上陸する。マレーシアはイギリスの植民地です。これはイギリスを追い払ったということです。

 この真珠湾攻撃の不思議なところは、海軍の主力は今も昔も空母です。本当はアメリカ太平洋艦隊最大のパールハーバーには空母が10隻いないといけなかった。しかしこの日、攻撃を受けた12月8日に限って、パールハーバーには空母が一隻もいなかった。「なんでだ」。「たまたまだ」。「1隻、2隻いないのならまだしも、全部いないのにたまたまか」。これも不思議な話です。どうでもいいところばかり攻撃して、爆撃して、勝った、勝ったといって帰ってきている。「トラトラトラ」と言って。そのままアメリカに上陸したかというと、帰ってきただけです。

 これ以後、日本がアメリカを空爆して、爆弾落としたことは一回もない。後は逆に、アメリカからの攻撃です。東京・大阪も、地方も、いっぱい焼けている。ボンボン空襲される。
 この時には、南方の石油を取りたいから、日本軍の勢力範囲は、かなり南方に拡大していきます。

 この時、アメリカ・イギリスは、これをファシズムという一言で片付けましたけれども、日本は自分たちをファシズムとは思っていない。日本が言ったのは、大東亜共栄圏のための戦いだという。現状は共栄どころか、アジアはほぼすべてヨーロッパの植民地にされてる。「これを独立させるんだ。欧米帝国主義から解放するための戦いだ」と位置づける。戦争というのは、お互い自分をけっして悪くは言わない。相手が悪いから戦うということにしないと戦争はできない。どっちもです。だからどちらが正しいというのは、一方の言い分だけ聞いていては分からない。
 
▼第二次世界大戦前の東南アジア
 
▼第一次世界大戦中の東南アジア


【各国の状況】
 次はその間のドイツの動きです。本格的に戦争が始まると、もともと、ヨーロッパで不人気であったユダヤ人、彼らを強制収容所に入れ始めるんです。そして財産没収する。ただこれはアメリカにいる日本人だって財産を没収されて、やはり強制収容所に入れられている。このことはあまり言われないだけで、在米日本人は敵国人ということで、1カ所に集められて強制収容所に入れられている。
 ドイツが行ったユダヤ人の強制収容所を言うんだったら、アメリカが行った日本人の強制収容所のことも、公平に言わないといけない。そのことを知っておかないといけない。

 もう一つは抵抗運動として、社会主義国でありながら抵抗し、そして旧ユーゴスラビアを作った人、これがチトーです。戦後はソ連の言うことを聞かない。しかしソ連が崩壊したとたんに、バラバラになって、今は消滅した国です。
 終戦から約50年後の1990年代から、内乱が起こって、ヨーロッパで一番多く人が死んだところです。
 日本が完全に平和の使者であったか、そんな事はない。まず朝鮮半島では、朝鮮語の使用を禁止する。言葉を奪われるということは、民族にとって一番屈辱的なことです。それから名前を奪う。金さんとか、朴さんとか、朝鮮の名前、これを日本風に変えなさいという。これを創始改名という。名前を奪われるというのは、人間にとって非常に屈辱的なことです。

 さっき言ったようにアメリカはアメリカで、日本人を強制収容所に送る。財産を没収する。そういうことをアメリカもやっている。

 では第二次世界大戦のヨーロッパでの進展はというと、最初はドイツが優勢だった。次はここから行きます。
 これで終わります。ではまた。

 

「授業でいえない世界史」 48話 現代 第二次世界大戦の推移

2019-05-16 08:00:00 | 旧世界史12 20C前半
※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


 前回は、戦争反対の世論が強かったアメリカのことを言いました。そのアメリカは日本に油を売らないと宣言したんです。それで日本は、油があるうちじゃないと動けない、ということで、アメリカ太平洋艦隊のあるハワイの真珠湾・・・これをパールハーバーという・・・そこを攻撃した。1941年12月8日の真珠湾攻撃です。


 おまけに暗号電文が30分ばかり遅れた。こういったことがあって、結局、真相は分からないまま奇襲攻撃とされた。政治的にはこれによってどういう効果が生まれたかというと、アメリカの戦争反対の国民世論が180度ひっくり返ったんです。「この野郎、ジャップめ」となった。戦争大賛成です。戦争やれやれという雰囲気に一気に変わった。


 日本はその前年の1940年9月に日独伊三国軍事同盟を組んでる。アメリカにとって敵は日本です。その敵の味方がドイツです。だからアメリカはドイツも攻撃できる。イタリアも攻撃できるわけです。合法的に。これでルーズベルトは戦争できる。太平洋をまたいだだけでなく、本格的にヨーロッパの戦争にもアメリカが参加する。本格的に第二次世界大戦になった。
 真珠湾攻撃の意味は、ヨーロッパとアジア太平洋という二つの地域で、地球規模の戦争が発生したということです。


【東南アジアの植民地図】

 この時のアジアが一体どうなっていたかということを、先に見ていきます。





 今までアメリカは国連にも入ってないし、イギリスとも軍事同盟を結んでいない。だから全くこのヨーロッパでのイギリスとドイツの戦争には関係なかった。しかしここで、戦争に加わりたくても国民が反対しているから加われないという状態が、一気に壊れたということです。
 アジアはどうなっているかというのが、アジア全域はほとんどヨーロッパの植民地になっています。このなかで大植民地帝国はイギリスです。


 イギリスの植民地は、インド、それからミャンマー、マレーシア。拠点はこのシンガポール、ここは島ですけれども、存在感は大きい。それからボルネオ島つまりカリマンタン島の北部です。
 それと組んでいるフランスの領域、ここが日本史でもよく出てくるフランス領インドシナです。日本はこの北部に侵入した。これをフランス領インドシナという。漢字でよく仏印と書かれています。


 そして、あとこの広大な島々、今のインドネシア、ここはオランダ領です。ほぼ植民地だらけになっています。わずかに独立しているのは、このタイぐらいのものです。
 そこに、日本の領域というのは、もともと固有の領土はここです。戦前の日本の領域は、樺太の半分、それから北方領土、国後島、択捉島、歯舞島、色丹島、それから沖縄、台湾、朝鮮です。
 そして昭和になると、半植民地として傀儡国家をつくる。満州国です。満州国から満州事変へと南下して、日中戦争になる。北京を押さえて、上海、南京を押さえて、どんどん南下した。
 今言っているのは・・・太平洋戦争が始まったから・・・その時には、ここのシンガポールまで行った。


 真珠湾攻撃の前、アメリカが日本にハル・ノートという最後通告を出す。

 これは、どこまで日本に撤退しろと要求したか。日本が北部フランス領インドシナに入ったことに対しては、アメリカとは実は関係ないんです。そこはフランス領だから。アメリカがなぜここで油一滴も売らない、というのか分からないけれど、アメリカの要求はどこまでか、ハル・ノートに何を書いているか。
 日本に対して、ベトナム南部から出て行けなのか、ベトナム北部から出て行けなのか、中国南部から出て行けなのか、中国全土から出て行けというのか、というと満州から出て行けという。もう日本の土台から否定するんです。
 「これは相手さん、やる気だな、もう間違いがない」ということになって、「それなら早くしないと油が切れてしまう」ということになって、真珠湾攻撃になった。そういうことを言った思いますが、結局日本が戦う場所は、真珠湾、真珠湾というけれども結局、ここではないんです。結局は油なんです。油は真珠湾ではなく、こういった南方にある。


 日本は石油確保のためにこの南方を手に入れたい。だから日本の多くの兵隊さんが死んでいくのは赤道直下の南方です。

 だから日本の最大領域は、こんな広い守備範囲になっていく。

 その後のことをいうと、ドイツがいくら優勢でもアメリカが参戦すれば、半年か1年ぐらいで逆転できます。第一次世界大戦と一緒です。同じやり方です。


【ヨーロッパの戦局】
 ドイツとソ連についても、この地図からやります。
 ドイツのもともとの領域としては、こういう領域です。今よりかなり大きいです。
ただドイツは国が二つに切り離されているところが、どうしても納得できなかった。第一次世界大戦でそうされたんです。
 それでどんどん西に東にと戦局を広げる。本当は西側で戦うだけにしとけばよかった。そうすると敵は一方だけで済む。ところが東のソ連とも戦ったもんだから、軍隊を東と西の二つに分けないといけない。この時点で作戦的に無理がある。勝つのが難しくなる。
 ドイツはこうやって戦局をここまで広げたんだけれども、このあと出てくるのは、攻防戦は、ここのスターリングラードです。1942年7月からのスターリングラードの戦いです。
 今スターリンは死んでしまって、この地名は地図でいくら探してもないです。今はボルゴグラードという。ソ連の都市の名前は体制の変化によってよく変わります。ここからソ連が攻めてきます。
 
▼第二次大戦中のヨーロッパ


 今度はノルマンディーというフランスの地域。アメリカはここに攻めてくるわけです。1944年6月のノルマンディー上陸作戦です。ドイツはソ連とアメリカから挟み撃ちされます。だからドイツが負けるのは日本より早いです。


 そうやってドイツ優勢がはっきりと逆転した戦い、これが、さっきも言った1942年7月のスターリングラードの戦いです。これは独ソの戦いです。真珠湾攻撃は1941年12月8日ですけど、形勢逆転するのにそのあと半年もかからない。

 そこで、今まで優勢だったドイツ軍が逆にソ連に押されて、ソ連の反撃を防ぐことができなくなる。ソ連はそのまま東ヨーロッパやバルカン半島に軍を進める。
 だからドイツが降伏したあとは、ソ連はここを手放さない。東ヨーロッパとバルカン半島はほとんどが社会主義国家になっていきます。君たちが生まれるちょっと前までの戦後60年間ぐらいは。

 さらにそこに真珠湾以降、日本と戦い、ドイツとも戦い、イタリアとも戦うことになるアメリカ軍が上陸してくる。これがイタリアです。シチリア方面から、南から攻めてくる。それでイタリアはすぐ降伏します。指導者ムッソリーニは吊るされて、処刑される。一番先に白旗上げたのはこのイタリアです。1943年9月にはイタリアは無条件降伏をする。この時日本の負けはほぼ確定です。同盟国側の日独伊の負けは確定します。


【日本の戦局】
 そのころ日本ではというと、真珠湾攻撃の半年後から、雲行きが怪しくなって、1942年6月・・・真珠湾の半年後です・・・ミッドウェー海戦で日本はアメリカに敗れます。日本海軍とアメリカ海軍が太平洋の真ん中あたりのミッドウェーで戦って、日本は完敗します。完璧なまでに負けた。この第一の原因は情報漏れです。日本の暗号電文は解読されている。
 日本はアメリカの作戦を知らないけれど、アメリカは日本の作戦を無線で完全に傍受して暗号解読してる。

 そうなると、日本はここで負けて、太平洋の制海権を失っていくと、ミッドウェー海戦がここです。それでアメリカが取ったのはここです。サイパン島です。ここを取るんです。小さな島だけど重要です。地下資源があるのか、豊かなのか。そんなことは関係ない。

 ここに飛行場をつくれば、戦闘機が往復できる。距離的に戦闘機の往復が可能になる。アメリカ本土からは遠すぎて往復できないです。燃料切れで太平洋の真ん中に落ちてしまう。
 ここから日本は空爆されるようになる。アメリカのB29戦闘爆撃機が日本に爆弾を落としていくようになる。米軍飛行機による日本への本土爆撃が始まる。日本人は空襲に怯えるようになります。


【連合国の動き】
 日本が負けて白旗あげるのは、あと2年以上あとです。玉音放送が流されるのは2年以上あとなんだけれども、アメリカはもう次の1943年に・・・戦争が終わる1年以上前から・・・戦後の計画を早く話し合っている。この戦争は、とにかく手回しが早いんです。何か別の青写真があるような感じさえします。

※ 1943.1月、カサブランカ会議においてルーズベルトは「無条件降伏」ということを言い始めます。・・・これにこだわったので戦争画より残酷になり、長引いた。(フーバー、藤井厳喜)

 カイロで、1943年11月に、カイロ会談です。米英中が、エジプトのカイロで会談する。

 ほぼ同時に、1943年11月に、テヘラン会談です。米英ソが、イランのテヘランで会談する。ソ連が加わっています。
 ソ連はここで何を打診されるか。アメリカは、ソ連のスターリンに日本を攻撃してくれと頼む。こんなことありえないのは、日本はソ連と何を結んでいるか。日ソ中立条約を結んでるんです。お互い攻めませんという。アメリカとイギリスは、そこを崩していく。

 それから1年後の、まだ戦争が終わっていない1944年7月には、お金儲けの話までしていく。お金と貿易のルールまで決めていきます。

 これがブレトン・ウッズ会議です。場所はアメリカです。「政治・経済」でもやりました。ここで、今に至るまでの世界の通貨体制は決定されます。
 これ言い出すと長くなるから、これは後でいいます。戦後のこととして言いますが、戦後のことじゃなくて、実は戦前に決まっています。段取りが早すぎます。戦争終わる前から計画ができている。
 イギリスのポンドではなくて、米ドル、つまりアメリカドルを世界の基軸通貨にする。そして金との交換は、他の通貨ではできない。金が欲しかったらアメリカドルでしか金は買えないとする。

 この戦争中にも、アメリカには世界の金がどんどん集まっているんです。世界中の金の半分以上が、戦争が終わった時にはアメリカが持っている。だからこんなことができるわけです。
 アメリカは戦争しながら、どうやって金(きん)を集めるほど儲けているのか。アメリカ製の武器を世界中に売っているからです。それで世界の金(きん)を吸収しているんです。アメリカはそれまで「ルーズベルト恐慌」に陥っていた。それがこの第二次世界大戦の武器製造によって景気を回復しているんです。

 ドルが世界の基軸通貨になると、何がそんなに儲かるのかというと、日本の円では世界中すべてのものを買えないですよね。日本にあるものしか買えない。基軸通貨になると世界中で通用するから、世界中のものを買えるようになる。そこが基軸通貨の圧倒的優位性です。


【ドイツの降伏】

 そのブレトン・ウッズ会議が開かれる1ヶ月前の1944年6月に、またアメリカ軍は、北フランスのノルマンディーという海岸に上陸します。これがノルマンディー上陸作戦です。そしてここからドイツの首都ベルリンに向かってアメリカ軍が進んでいく。西から東へと。
 その一方で、東からはソ連軍が、ドイツの首都ベルリンに向かって進んでる。
 だからこのあと、ドイツの首都ベルリンは、東から来たソ連と西から来たアメリカが奪い合う形になって、分断されていくんです。君たちが生まれる直前ぐらいまではベルリンの壁といって、ベルリンを東西に分断する壁が何十キロも続いていた。東京の西半分が長い壁で囲まれているようなものです。

 このアメリカ軍を率いていたのがアイゼンハワーです。

 この人が大事なのは、このあとアメリカの大統領になります。この人のライバルが日本を占領したマッカーサー元帥です。でも2人の政治力はこのアイゼンハワーが上です。
 その首都ベルリンが陥落して、1945年5月ドイツが無条件降伏する。日本より3ヶ月先です。


【日本の降伏】
 アメリカは1943年からすでに戦後の事を話し合っていたけれども、1945年の終戦の年になると、またどんどん国際会議を、終戦前からやっていく。

 ヤルタ会談、これが1945年2月です。メンバーは、アメリカ中心にルーズベルト、イギリスはチャーチル、ソ連はスターリンです。役者がそろった。

 「まずドイツをどうしようか。分割しましょう」。まずベルリンが分割される。
 「では日本は。ソ連が攻撃してください」。さっき言ったけど、日ソ中立条約があって、こんなことできないはずです。でも攻撃するという。ソ連に攻撃されたら日本は共産主義国家になるはずなんです。ドイツの半分、旧東ドイツが社会主義国家だったたように。これは夢物語ではない。戦争に負けたらそのくらい簡単に体制は変わります。文句言うと戦犯容疑で殺される。裁判にはかけるけど、裁判と言ったって、理屈が通る裁判ではない。誰もが口をつぐむ。何でもありです。
 この会議でスターリンは対日参戦をOKした。

 1943年のテヘラン会談、1945年のヤルタ会談でルーズベルトはスターリンとともにドイツ・日本の共同侵攻、戦後の共同分割統治を取り決めました。この合意に基づき、アメリカはヨーロッパに介入、ソ連は極東に介入し、共同作戦をとりました。哀れなのはイギリスのチャーチルで、アメリカとソ連の二大勢力が主導権を握り、取り残されてしまい、その外交的地位を大きく低下させました。
 ルーズベルトはソ連をパートナーとして認め、ソ連に活躍の場を与え、共産主義を増長させたのです。

 しかし、日本の降伏に行くまで、アメリカ軍による本土爆撃がどんどん激化して、東京を初め各地で大空襲がありました。その時の不発弾は全国各地から今も出てきます。それだけ多くの都市が攻撃され、多くの人が亡くなりました。1945年4月になるとアメリカ軍はフィリピンから北上します。その一番近いところが沖縄です。


 沖縄は今でも戦略的価値はバッチリです。まず中国に一番近い。グアムよりも沖縄が近い。
 この後、ベトナム戦争が30年後に起こりますけれども、その戦争へ米軍が飛び立つのは、この沖縄基地からです。こういうことを日本のNHKなどのマスコミは、ほとんど報道していなかった。私が子供の頃、ニュースぐらいは時々見ていたけど、その米軍の飛行機はアメリカから飛び立っているとばかり思っていた。実は沖縄から飛び立つんです。

 1945年4月には、サンフランシスコ会議で、国際連合憲章が採択される。これも早いですね。国連の設立は日本の敗戦前に決まっています。

 1945年7月には、ポツダム宣言が出される。ポツダムというのは、ドイツの都市の名前です。日本に対して無条件降伏を要求します。日本は無条件降伏をすれば、天皇が戦犯にされるのではないか、これが心配なんです。だからなかなか降伏できない。

 降伏できないから、戦争は続いたんです。そしてアメリカは新型爆弾を開発した。これが原爆です。アメリカは、8月6日広島に落とす。この時には・・・実はルーズヴェルト大統領は癌で死ぬ・・・大統領がトルーマンに替わっている。

 ポツダム会談ではルーズベルトの急死により、副大統領から大統領に昇格したトルーマンが出席しました。ルーズベルトとトルーマンは同じ民主党内にいながら、考え方の違う左派派閥と右派派閥の領袖でした。

 トルーマンは大のソ連嫌いです。ルーズベルトはソ連が大好きだったんです。共産主義者であったという話があるぐらいです。

 だからトルーマンは、日本をソ連に占領されたら困るわけです。ソ連に手柄をたてさせる前に、アメリカの力で日本を降伏させたいんですね。だから連続二発、8月6日広島、3日後の8月9日には長崎です。連続技のつもりだったんだけれども、広島に原爆が落ちたら、ソ連はこのままだと手柄を立てられないから、急きょ日本の支配地である朝鮮北方の満州へ、シベリアのソ連軍が怒濤のごとく侵入してくる。これが8月8日ソ連の対日参戦です。

 日本は原爆は落とされる。仲間のはずのソ連からは攻められる。踏んだり蹴ったりです。満州国には、何十万という日本人でいるんです。この満州で、この時どれぐらい悲惨な事が起こったのかというのは、ほとんど報道されない。

 心のすさんだソ連兵が、日本の女性に何をしたか。戦争ではどこでも起こることですが、ここでも起きた。生き残った兵士たちはこの後シベリアに送られて、日本に帰るのにこの後10年ぐらいかかる。これがシベリア抑留です。
 その間に、何十万人が強制労働させられて、飢えと寒さで死んでいく。

 1945年8月15日に、日本はポツダム宣言を受諾した。世界で5000万人が死んだ。イタリア降伏、ドイツ降伏、最後に日本が降伏した。これで第二次世界大戦が終わりました。
 過去最高の犠牲者、5000万人。しかも軍人ではなく、非戦闘員が多い。無差別爆撃ですから。原爆がそうです。東京大空襲もそうです。非戦闘員が死んだ、ということです。

 この後、勝ったあとをどうするかというのはもうすでに決まっています。戦争中に決定されている。

 第一次世界大戦の時は、戦争終了後のパリ講和会議で決まりました。しかし第二次世界大戦では、戦争終了時にはすでに戦後の世界をどうするか決まっています。手回しが良すぎるのです。
 これで終わります。ではまた。



「授業でいえない世界史」 49話 現代 第二次世界大戦中での決定事項

2019-05-16 07:00:30 | 旧世界史12 20C前半
※この記事の更新は、「カテゴリー(新世界史1~15)」の記事で行っています。


【大戦中での決定事項】
 この戦争中に決定されていたこと、これを次に見ていきます。

 1番目、一番早かったのは、日本が真珠湾攻撃をする前から決まっていた。国際連合を作るということ。1941年8月に決まった。真珠湾攻撃はその年の12月です。4ヶ月も前に決まっている。これが大西洋憲章です。

 アメリカのルーズベルトとイギリスのチャーチルが軍用艦の上で密かに会談し決まった。これが国際連合です。そして場所をそれまで国際連盟があったスイスのジュネーブから、アメリカのニューヨークに移す。しかもその場所はロックフェラーの私有地であったものを譲り受けます。

 2番目が、戦争が終わる1年以上前、1944年7月には、戦後の貿易のあり方について、特に通貨制度について決定している。これがブレトン・ウッズ会議です。これはアメリカの地名です。

 ここで世界の基軸通貨アメリカのドルになった。これは政治経済で言ったことといっしょです。本物のお金というのは紙幣じゃなくて(キン)なんです。この時もそうです。
 1万円札つまり日本銀行券というのは、日本銀行に「お願いします」と持っていけば、本来は1万円金貨と交換できるものなんです。今はこれを停止している。これで日本の円や他の通貨は・・・このときまでは金と交換できたのに・・・金と交換できなくなった。
 他の通過を金と交換させない。これがドルです。今までみんな、自国の通貨で金と交換できていたのが、ドルでしかそれができなくなった。もし日本政府が金(きん)が欲しくなったら、まず円でドルを買い、そのドルでまた金を買うことになる。二度手間です。もしアメリカがドルを売らなくなれば、金(きん)は変えません。
 円とドルの交換に手数料も発生します。けっこう高いんです。海外旅行の時、空港で交換したりしますけど、かなり高いです。こういう他の通過とドルとの交換をアメリカの銀行がやる。全部アメリカの収入になります。ただこれはまだ小さいことです。本当の狙いは別にあります。
 

 30年後の1971年にドル・ショックというのが起こって、金とドルの交換ができなくなった。できなくなったらもとの形に戻って、どこの国の通貨でも以前のように金と交換できるようにしなければならない。しかし戻らない。矛盾しているんですね。アメリカのドルが世界の基軸通貨になったのは、アメリカのドルだけが金と交換できる唯一の通貨になったからです。そのドルが金と交換できなくなったら、当然ドルは基軸通貨ではなくなるはずです。しかし、そうはなってない。今もその矛盾が解消されていません。今もドルが世界の基軸通貨の地位を占めています。
 恐慌というのは、ずっとアメリカから起こります。1929年の恐慌も、そしてつい10年前のリーマン・ショックもそうです。金融と通貨制度はどこかに矛盾があり、今も不安定です。この矛盾を知れば少しは安定するでしょうけど、逆にその矛盾を突いて利益を自国に誘導することもできます。今世界で起こっていることはそういうことです。

 円とドルの交換レートが戦後決められたのは正式には1949年ですけど、1ドルは360円というレートになります。この時には固定相場制です。これが1971年に、現在のような変動相場制に変わります。この変動相場制が名前のとおり変動して不安定なのです。

 平成日本はこれでやられました。円高で日本製品が売れなくなりました。それに対してドルは一貫して安くなっています。人民元も一貫して安くなっています。円だけが一貫して高くなっています。

 そして国連の専門機関として・・・本来これは国連とは関係ないけど・・・国連にくっつけた国際金貸し機関、IMFIBRD、漢字でいうと国際通貨基金世界銀行とを設置します。恐慌が起きてすぐにつぶれそうな国の金融機関には、ここがお金を貸す。一兆円貸しますよという。ただし、条件ががっぽりつきます。非常にアメリカに有利な制度になっている。韓国なんかは、これにやられてひどいものです。

 それから、3番目、国際連合の具体的枠組が、1944年8月のダンバートン・オークス会議で話し合われる。

 そして正式に国際連合が発足したしたのが1945年4月です。日本の敗戦はその年の8月だから、まだ戦争は終わっていません。日本が一番苦しみもがいている最中です。その4カ月も前に、アメリカのサンフランシスコでサンフランシスコ会議という国際会議が行われて、ここで国際連合が正式に発足する。
 紛争が起きたとき、それをどうするか、軍隊を派遣するかどうかの決定は、その一理事会である・・・総会ではなく理事会であるというところがミソですね・・・安全保障理事会で決められる。
 安全保障というのは、交通安全とかそんなものではないですよ。とんでもないです。これは戦争のことです。戦争という言葉を使わずに、安全保障という言葉を使います。ここにも言葉のアヤがあります。戦争はイヤですが、安全保障は良いことです。でもこの二つは同じことです。言葉に騙されてはいけません。
 問題はこの決定権が五つの国にしかないことです。国際連合はみんな対等だ。でも戦争するしないは、たった五つの国、この五つの国が常任理事国といって、すべて第二次世界大戦の勝者です。米・ソ・英・仏・中です。国の頭文字ですけど、米がアメリカとか言わなくていいでしょう。
 これは全部、完全一致しないといけない、逆に言うと、米戦争するしないで意見が合わなかった場合、俺は戦争しないと、一つでも言えば決定できない。こういうのを拒否権といいます。普通はこれを発動するのは、アメリカかソ連です。

 時間の流れを見ると、日本が負けたときにはすでにこういう枠組みが決まっています。
 この後の日本はアメリカに占領されて主権はありません。主権のない国は国ではありません。これは政治経済の教科書に書いてあることです。そんな中で日本は、ここですでに決まっている枠組みに合うようにつくりかえられます。
 これで終わります。ではまた。





民主主義国家は、国民ではなく資本で成り立っている

2018-12-31 00:42:20 | 旧世界史12 20C前半

月曜日

民主主義下では、大企業がその資金力によって政治家を政界へ送り込むようになる。
そして選挙が金で動くようになる。
選挙活動に強い政治家しか政治家として生き残れなくなる。

政治家が選挙によって選ばれるに従って、巨大企業が発展してきた。

民主主義の歴史は、大企業の発展の歴史である。
民主主義下の政治家は、大企業の信頼無くしては生き残れない。

政治家は不安定な仕事である。リスクも大きい。
自らの職業的安定のためには、政治家は大企業に頼らざるを得ない。

民主主義下で職業政治家となるためには、大企業とのパイプがなければならない。
だから政治権力が、大企業の経済支配と一体のものになる。

民主主義は表面的には庶民の政治である。
しかし多数の庶民にはお金はない。
お金のありかは少数の大企業である。

選挙の前には様々なウソが流布される。
庶民はそのウソに従って投票する。
大きなウソほど庶民は騙される。
マスコミの役割はそこにある。

資本主義が必ず民主主義なるとは限らないが、
民主主義は必ず資本主義になる。
政治家が、マスコミに抵抗しようとしない場合、民主主義は最も劣悪な政治になる。
しかしそのことは大企業にとって、最も都合のよい政治である。

政治家には国境があるが、大企業には国境がない。
大企業は国をまたいで活動することができる。
そしてやがて大企業は国を出て行く。

そうなると国をまたいで活動する多くの多国籍企業の利益は、だんだんと一致するようになる。
多国籍企業は、タックスヘイブンに本拠を移し、国に対して税金を払わない。
にもかかわらず税額に比して少額の政治献金で、国を操ることができる。

大企業にとっては、税金を払うよりも、少額の政治献金のほうが遙かに効率がよい。
大企業は私企業であるから、国民の監視の目は届かない。
カルロス・ゴーンの不祥事は、これから多くの大企業で起こることである。
さらに困ったことには、世界には、いくら不実を働いても、決して表面化しない企業がある。
平成30年間の日本で起こったことは、その典型である。
日本の主権は、日本の庶民にはない。

マスコミには必ず大きなウソがある。
そのウソを見つけることが、大事である。
それが民主主義の質である。
「民主主義は最悪である。しかし今までのいかなる政治よりもマシだ」というチャーチルの言葉は当たっている。
民主主義国家は、国民で成り立っているのではなく、資本で成り立っている。


グローバリズムは、世界社会主義

2018-12-26 20:35:25 | 旧世界史12 20C前半

水曜日

一つの独占資本が国家全体を支配すれば、それは国家独占資本主義となる。
それは共産党による一党独裁しか許さない社会主義と同じことである。
しかしこの一国社会主義の考え方は、最近になって登場したものであって(スターリンの一国社会主義)、もともとの社会主義思想は世界革命論と一体のものであった。

マルクスの主著が「資本論」であるように、資本は世界革命に向かう。
人には国境があるが、資本には国境がない。資本にとっては国境があっては困るのである。
世の中を資本から読み解こうとすれば、必ず世界革命論になる。
そこから排除されているのは、人間の姿である。
そして現代の経済学は、この生身の人間の姿を排除することが、もっとも合理的だとされている。

資本の姿とは、資本主義であろうと社会主義であろうと、一つしかない。
どこから上ろうと、資本から考えている限り、山の頂点は同じである。そこから見える世界の景色は同じ景色である。
それはたぶん冷たい氷のような景色であろう。

アメリカの金融資本や多国籍企業が求める「グローバリズム」とは、社会主義が求める世界革命と同じである。
ソ連はスターリンの一国社会主義によって世界革命を実質的に放棄した。そのことがソ連崩壊の理由である。
グローバリストにとって、「一国」ではダメなのである。彼らが資本を考えている以上、必ず目標は「世界」でなければならない。
しかしそれは恐ろしい世界であろう。それはたぶん国家独占資本主義以上の悲惨な世界である。

1920年代、第一次世界大戦のどさくさの中で、世界は二人の政治家によって、世界革命を目指した。
一つは、レーニンによる世界初の社会主義国家ソ連(1922年)の成立である。そしてそれは世界革命に発展するはずであった。
もう一つは、アメリカ大統領ウィルソンによる国際連盟(1920年)の設立である。
前者は暴力の力によって、後者は金融の力によって。
しかし目指すところは同じである。


20世紀は、米ソ対立ではない

2018-12-18 11:12:39 | 旧世界史12 20C前半

火曜日

戦後の米ソ対立とは何だったのか。
本当に資本主義と社会主義の対立だったのか。

19世紀に、グレートゲームといわれたのは、イギリスとロシアの対立であった。
しかし1914年の第一次世界大戦は、イギリスとロシアの対立にはならずに、イギリスとドイツとの戦いであった。
ロシアはイギリス側についた。
しかしあっけなく1917年のロシア革命で滅んだ。
ロシアが滅ぶと同時にアメリカはイギリス側について、ドイツとの戦いに参戦し、ドイツは滅んだ。

この第一次世界大戦で、イギリスに代わってアメリカが世界の覇権国になったが、
次の第二次世界大戦も、イギリスとドイツの戦いであった。
ソ連もイギリス側につき、ドイツと戦った。
この時もアメリカはイギリス側につき、ドイツを滅ぼした。

こうやってドイツは二度滅ぼされた。

世界はイギリス中心に回っている。
そのイギリスは大きなところでは、いつもドイツと戦っている。
そして仲の悪いロシアを味方に引き入れている。
そしてドイツが滅ぶと、その後でロシアを滅ぼしている。

この戦いに損な役回りを演じているのが日本である。
イギリスは、1904年の日露戦争で、極東進出を狙うロシアに対して日本を戦わせ、ロシアを極東進出から、バルカン半島進出に矛先を変えさせている。
そのことはオスマン帝国との協力関係を深めるドイツに対して、バルカン半島に南下しようとするロシアを戦わせることになる。
いわゆるパンゲルマン主義と、パンスラブ主義の対立である。
1914年のサラエボ事件で、ドイツとロシアが戦い始めると、イギリスはロシア側について、ドイツと戦い、これを滅ぼした。

つまりイギリスは、日露戦争で日本をロシアと戦わせたように、
第一次大戦ではロシアをドイツと戦わせたのだ。

イギリスはいつもこのように敵同士を戦わせ、体力を消耗させた後、生き残ったほうをさらに叩くという方法をとってきた。
ロシアは体力を消耗し、国内の反政府活動が活発になったところで、ロシア革命が起きて滅んだ。

第二次大戦後も、米ソ対立とあれほど言われながらも、1991年、ソ連はウソのようにあっけなく滅んだ。
イギリスからアメリカへと覇権は変わっても、アングロサクソンであることに変わりはない。
イギリスとアメリカはアングロサクソンである。
それに対してドイツはゲルマンである。
そしてロシアはスラブである。

ナポレオンの前までは、ヨーロッパの中心はドイツであった。これが約1000年続いた神聖ローマ帝国である。ドイツはこの伝統を受け継いだ国である。
このゲルマンの国の復活を、イギリスとアメリカというアングロサクソンの国は、嫌っているように見える。

敵と敵を戦わせ、味方を増やす。
イギリスの戦法はこれである。

日本はこれにうまくしてやられ、1902年に日英同盟を結んだ。
この同盟を対等同盟などと信じるほうがどうかしている。
これはいまの日本とアメリカの関係と同じである。日米同盟と同じである。
いまの日米同盟が、対等でないことは誰の目にも明らかである。
いや、そんなことはない、日米は対等だ、と言う人がいれば、それはおめでたい人である。
日本はイギリスに利用されただけだ。

これ以上、利用されるのはイヤだといって、日本は太平洋戦争を戦ったが、無残に敗れた。
ロシアも同じである。ロシアはイギリスに利用されただけだ。

19世紀のイギリスとロシアの対立をグレートゲームというのは、イギリスにとってそのほうが都合がよいからだ。
イギリスはドイツとの対立を隠したいのだ。

第一次大戦も第二次大戦も、なぜそうなったのか、なかなか分からない戦争である。
しかしその背景には、イギリスとドイツの対立が隠されている。これこそが20世紀を貫くグレートゲームである。
ロシアはそのあだ花である。イギリスとロシアの対立は、イギリスとドイツとの対立を隠すためのカモフラージュである。
イギリスはロシアを利用することしか考えていない。利用するぶん利用して、あとで捨てればよい。ロシアに覇権を奪われるなどとは思っていない。
覇権を奪われる恐れがあるのはドイツである。

20世紀の終わりになって、中国はソ連を潰すために利用された。
そのために中国は、急速な発展を強いられた。
中国の人民元は、為替価値を約十分の一に落とされ、その人民元安のもとで急速に輸出を伸ばした。
その中国にドイツが急速に接近している。
いまドイツはEU(ヨーロッパ連合)の盟主であり、アメリカのドルに対する対抗通貨ユーロを発行している。
しかしイギリスはそのEUから離脱しようとしている。

やはりアングロサクソンのアメリカと、ゲルマンのドイツとの対立なのだ。
この構図は100年以上変わっていない。

ロシアも、中国も、そして日本も、この構図の中で利用されているに過ぎない。
いま中国は第一次大戦の時のロシアの役回りを演じようとしているのか。
日本はいま集団的自衛権をうかつに行使しない方がよい。
アベシンゾーは、第二次大戦に翻弄された松岡洋右の役回りを想起させる。
歴史は繰り返すのか。


第二次大戦は、ナショナリズムとグローバリズムの戦い

2018-02-03 16:45:22 | 旧世界史12 20C前半

土曜

第二次大戦は、よく全体主義と民主主義の戦いといわれるが、
そうではなく、ナショナリズムとグローバリズムの戦いである。

ナショナリズム……ドイツ・日本
グローバリズム……アメリカ・ソ連

またファシズム国家との戦いともいわれる。しかしその点ではドイツだけではなく、ソ連も同じである。
あるいは民族虐殺が取りざたされる。その点はソ連に加えて、アメリカも同じである。日系移民の資産を凍結し、強制収容所に入れている。

社会主義は当初、世界革命論を唱えていた。そのための組織が、第1インターナショナル、第2インターナショナル、そして第3インターナショナル(コミンテルン)と続く。
しかし、ソ連のスターリンは一国社会主義に方向転換した。
だから米ソ対立が始まったのだ。
アメリカがソ連と手を組んだのは、ソ連が世界革命論を掲げていたからである。その点で、国の垣根をなくそうというソ連とアメリカの狙いは、目指す方向が一致していたのである。

ロシア革命時に、その役割を託されたのが、アメリカに亡命していたトロツキーである。トロツキーは、アメリカからの多額の資金とともにロシアに帰国した。
しかしソ連では、トロツキーの世界革命論とスターリンの一国社会主義論が対立し、スターリンの勝利に終わる。
逆説的だが、アメリカにとってソ連は世界革命論でなければならなかったのである。
そこから米ソ対立が始まったのだ。

米ソ対立とは、資本主義と社会主義の対立ではない。
社会主義であれ独占資本主義であれ、一つの資本システムによって全世界が統一されれば、資本主義であろうと社会主義であろうとその実体に大した違いはなくなる。
だからこれは、グローバリズム(米)と一国社会主義(ソ)の対立である。

戦前、ナショナリズムを掲げていたのは、ドイツ・日本であった。
ナショナリズムは、国家主義とも民族主義とも訳されるが、その両方の意味が含まれる。
アメリカがナショナリズムと対立したのは、アメリカが移民の国だからではない。
最大の問題は資本と通貨である。
第一次大戦後、アメリカは世界最大の資本主義国であり、アメリカの通貨ドルは世界の基軸通貨の地位を勝ち取った。
そういう立場のアメリカにとって自国の最大の利益がグローバリズムであった。
資本も通貨も国境を越えて走り回ろうとする。
アメリカにとってはそれを妨害するものが国家であり、国境であり、ナショナリズムであった。

しかし第二次大戦後、ソ連が一国社会主義を唱えている限り、それを実現することは不可能であった。
1991年にソ連が崩壊することにより、アメリカはやっと本来の目標を実行に移しだした。

1991年以降の日本経済を見れば明らかだが、日本は失われた10年、20年、30年と続いた。
アメリカがグローバリズムを目指すようになって、最もその被害を被ったのが日本である。
1990年のバブル崩壊と、1990年代後半の金融自由化(金融ビッグバンなどと意味不明なネイミングがついたが)で、日本の不況の長期化が決定づけられた。
ちなみに、アベノミクスの異次元の量的金融緩和も、アメリカの政策の一環のような気がする。
まだまだ日本は茨の道ではないか。