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新「授業でいえない世界史」 25話の1 ルネサンスと大航海時代

2019-08-26 08:15:16 | 新世界史11 近世西洋
【ルネサンス】  ここからあとは、ほぼヨーロッパの歴史です。本格的にヨーロッパが強くなっていきます。ここからの大きなテーマはルネサンス宗教改革、この二つです。
 まずルネサンスとは何か。これはフランス語で復活とか再生という意味です。何を復活させるのか。ヨーロッパの過去の文化です。
 この時代のヨーロッパの文化の中心はキリスト教です。ほぼキリスト教一色といってもいい。

 しかしここで、そのキリスト教以前のヨーロッパ文化を復活させようという動きがでてきます。
 キリストが生まれる前の古代のヨーロッパ文化といえば、まずはギリシアです。ローマと合わせて、ギリシア・ローマです。古代ギリシャの時代にはキリスト教はまだ発生していません。そのギリシア文化を復活させていく動きです。ギリシャ文化を難しくいうと、ヘレニズムです。

 キリスト教以前の文化には、もう一つヘブライズムがあります。ヘブライとはユダヤ文化のことです。キリスト教の母体はユダヤ教です。そしてユダヤ教を否定することからキリスト教が生まれてきます。しかしここで、ユダヤ教を否定したキリスト教文化をもう一度否定する動きが出てきます。ルネサンスの隠し味として出てくるのが、このヘブライズムの復活です。これが宗教改革です。

 このことは二つとも、ヨーロッパで絶対的な価値を持っていたキリスト教を否定することにつながります。反ローマ教会の動きにつながっていきます。このような反ローマ教会の動きは、18世紀末のフランス革命まで、さらに19世紀に思想家ニーチェが「神の死」を宣告するまで、このあとずっと続きます。
 そしてそのなかで、ルネサンスからは宗教改革と結びつきながら民主主義が生まれ、もう一方の宗教改革からはユダヤ人の活動を通して資本主義が生まれます。

※ フロイトがうるさく強調するように、抑圧されたものは決して消滅せず、いつかは必ず回帰します。どれほどキリスト教が土着の多神教的なものを根絶しようとしても、それは深く潜行するだけで、そのうちいつかは抑圧の壁を破って噴き出してきます。ヨーロッパ近代の混乱は、それまで二重構造ながら辛うじて何とか維持されていたヨーロッパ文明のかりそめの安定がついに崩れた結果であると見ることができます。(一神教 VS 多神教 岸田秀 新書館 P29)


 今までヨーロッパ人はキリスト教を中心にして、まず神様のことを考えていました。しかしこのルネサンスは「神様じゃなくて、ギリシャ人のように人間のことを考よう」というわけです。人間のことをヒューマンといいます。それがちょっと意味が変わって今のヒューマニズムになりますが、もともとのヒューマニズムとは今のような人道主義のことではなくて、人間の欲求を肯定する人間中心主義のことです。それは神様の否定と同時に、人間の欲望の肯定につながります。
 なぜこんな事が起こったのか。ギリシアの2000年前の文化というのは、まずどこに伝えられたか。

 今までやったヨーロッパ以外の文明は大きく分けて3つあります。1番目は中国文明、2番目はイスラーム文明、3番目はインド文明です。
 これに比べれば小さい文明ですが、ヨーロッパのはじまりはギリシャ文明です。しかしこのギリシャ文明は滅んだ後、どこに伝えられたか。それはヨーロッパではなくて、まずイスラーム世界に伝わったんです。当時このイスラーム地域は、世界で最も進んだ先進地帯でした。
 この世界最先端のイスラーム世界とはじめて接したのが、この時代から約300年前の十字軍です。キリスト教徒が胸に十字架のマークを縫い付けて、大挙してイスラーム世界に戦争をしかけに行く。このイスラーム世界との接触によって、そこに保存されていたギリシャ文明がヨーロッパにもたらされ、そこから火がついていくのです。
 結論的なことをいうと、ここから急にヨーロッパ文明が強くなっていきます。今ではほとんど、世界中がヨーロッパ文明一色になっています。 

 そんななかで今も「オレはヨーロッパのマネはしない、キリスト教のマネはしない」というのがイスラーム世界です。
 そこでは女性は伝統的なチャドルを着て、「女性は人前では顔を見せたらいけない」というイスラームの教えにしたがってスカーフをまいています。男性は、「髭ぐらい剃らないか」と日本人はいいますが、「髭のない男なんかみっともなくて外を歩けない」と、イスラームの男は髭を蓄えます。髭はイスラーム世界の男の威厳なのです。そういう点でもヨーロッパ文明とはかなり違う。

 日本はいち早く明治維新の時に「そうだ、そうだ、これからはヨーロッパの時代だ」といって、まっ先にヨーロッパ流に変わった。我々はチョンマゲしているのか。紋つき袴をしているのか。髪型でも、ズボンでも、スカートでも、ネクタイでもヨーロッパ流です。このように全世界的にヨーロッパ文明が覆っているのが現代の社会です。
 例外的に「そこまで変えていいのかな」というのが、西郷隆盛です。あの人は少し、このことに疑問をもっていたところがあります。あの人は自殺に2回失敗していますからね。「あとの人生、どこだって死んでやる」という人です。実際に死んでいきますが。 

 そういう古代ギリシャ文明は、イスラーム世界からまずイタリアにはいっていきます。早くは十字軍の後・・・・・・十字軍は約200年間1200年代の後半まで続きますから・・・・・・次の1300年代から始まる。それを見ていきます。
 最初の人はダンテというイタリア人です。小説「神曲」を書きます。
 それからもう1人、ボッカチオ。これは「デカメロン」といって・・・・・・デカいメロンではなくて・・・・・・話の内容は腐敗したキリスト教のお坊さんの私生活、隠れてお金を貯めていたり、人には「神を信じなさい」といいながら自分は神を信じてなくて、贅沢な生活をしていたりする。そういう宗教界の裏話を暴露する。

 次の1400年代になると・・・・・・昔の絵は非常に神様っぽくて肉付きのいい女性とか描かなかったのですが・・・・・・非常に有名な絵、モナリザが描かれます。これを描いたのはレオナルド・ダ・ヴィンチです。この人は絵を描くために、死体を墓場から持ってきて、夜の夜中に自分の部屋で解剖して筋肉の動きまで徹底して調べる。そのうちに絵が本業なのか、医学が本業なのか分からなくなって、めっぽう科学に強くなる。そんな人で「万能人」といわれる。天才でしょうね。
 それから、キリストのお母さんのマリアさんの像で、マリアさんと赤ちゃんのキリストです。それを普通の親子の若いお母さんと赤ちゃんの姿で描く。みんな驚くんです。マリアさんはこんなに綺麗だったんだと。これがラファエロです。
 次に、ダヴィデ像という。昔のイスラエルの王様です。ミケランジェロです。1501年。

 次に、芸術ではないですが、この時代に印刷技術が一気に拡大していく。グーテンベルクという人が活版印刷術を発明する。これがなぜ大事件なのか。庶民が聖書を読めるようになるからです。紙がないところでは庶民は字を読めないです。紙があることによって本が安く手に入り、読み書きができるようになっていく。当時の本というのは聖書なんです。これが読めるようになる。中国ではそんなことは当たり前なんですけどね。ヨーロッパがやっと中国なみに本が読めるようになる。
 それから、「太陽が地球を回っているなんてウソだ」と見抜いた人。「そうじゃなくて地球が回ってるんだ」と言った。「バカじゃないかおまえ」と最初言われたけど、彼をバカだという人は今はいない。太陽が動いているんですか。小学校レベルですね。地球が自転してるんです。これが地動説です。コペルニクスです。ここらへんで科学水準が、今までの中国のレベルをヨーロッパが一気に追い越していくんです。
 その中心がやっぱりイタリア。中心となるのはフィレンツェです。

 ギリシア文化が一気に伝わってくるのは1453年です。この年に、東ローマ帝国つまりビザンツ帝国が滅んだからです。
 この国が滅んで、そこにいた学者が命からがらヨーロッパに逃げてきた。学者の亡命です。それをかくまったのがイタリアの金持ちたちです。その中心がフィレンツェです。フィレンツェには、ヨーロッパでナンバーワンの金持ちがいる。金持ちは金貸しです。
 その中にメディチ家がいます。金貸しはお金が儲かる。銀行業はお金が儲かる商売です。これにいち早く目をつけて、腐るほどのお金をもっている。芸術家の一人や二人、三人、四人、ドンと来いです。才能があれば、なんでも材料与えてやって、「給料100万やるから、何でもいいからつくれ」と、どんどんつくらせる。そういったことで文化が発展していく。
 ただこれは一方では反キリスト教的な動きです。「キリスト教中心に考えていたものを、逆に人間中心に考えていく」ということは、それまでのように教会中心には考えないということです。



【大航海時代】 こういうキリスト教反対の動きと同時に、まったく関係のないことが起こっていきます。
 これがヨーロッパ世界がどんどん、海の向こうに乗り出していくきっかけになります。イギリスなどはもともとはバイキングの子孫です。海賊の伝統がある。海が大好き、船が大好きなんです。
 ただ昔の地球は、ここにヨーロッパがあるとすると、船乗りたちは海岸の近くだけしかいかない。海岸から離れて遠くの海に行こうとすると喧嘩が起こる。それでも船長が行こうとすると、船長は殺される。

  なぜか。この当時、地球は人間の感覚として平面でしょう。海があっても、どこまでも海が続いているわけはない。どこかで終わるはずだ。そこまで行ったら地獄に落ちる滝の流れがある。その滝の流れに巻き込まれたらもう助からない。地獄に落ちるしかない。船乗りたちはこれを怖がったんです。地球が丸いというのはまだ信じられないのです。
 「そんな地の果てまで行っていい」というのは、命知らずの荒くれ男たちですよ。つまり海賊です。「命なんか惜しくないわい。100万円儲かるなら、命なんかくれてやる」と。そうなると賭けです。そんなことをどんどんやっていく。そんな男たちだから、人殺しだってしていく。
 
▼大航海時代




【ポルトガル】 そういったことに乗り出していく国がまずポルトガルです。今は小さな国です。スペインの西のほうにあるヨーロッパの西の端にある小さな国です。しかし大西洋に面している。ここがまず海に乗り出して行きます。
 地中海貿易でアジアの香辛料を高値で取引し、それに成功していたイタリアは、オスマン帝国に遮られたため、地中海以外の新たな交易ルートを開発し、大西洋経由で直接アジアと取引しようと試みていました。そこで彼らはポルトガルに莫大な投資をし、造船をさかんにおこない、ポルトガルやその国王を新航路開拓へと駆り立てました。

※ 15世紀の大航海時代は、ベネチアに苦汁を飲まされたジェノバの逆襲として幕を開けるといっても過言ではありません。・・・ジェノバはポルトガルに積極的に資金を拠出し、これを支援しました。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P117)


 その船乗りの親分さんがバスコ・ダ・ガマです。いかにもという名前です。ガマといえば、なんか恐そうです。そんな荒くれ男の、海賊たちの棟梁だから、歴史に登場するようなエリートじゃない。やくざの親分みたいな人です。若い頃は何をしていたかよく分かっていません。
 それがなぜ歴史に名が残るか。ヨーロッパからこんなアフリカの南に行ったら、地球から落ちると、乗組員たちの大暴動が起こる。それをなだめる。命知らずの男たちを。「オレに任せろ。悪いようにはしないから」。どうするのか分からないけど、そういう親分さんです。
 彼が行った航路は、ポルトガルから赤道へと南下し、赤道はアフリカのまん中に通っているから、だんだん暑くなってくる。暑くて仕方がない。これもイヤなんです。
 そこを通り過ぎて、さらに南下すると、今度はだんだん寒くなる。今度は逆に寒くて寒くて仕方がない。不安も大きくなる。世界の滝から落ちる不安。これをなだめて「つべこべ言わずでオレに着いてこい、バカたれが」となだめる。

 その大親分はどこに行きたかったか。結局ここです。インドです。これはヨーロッパ人の羨望の的です。うらやましくて、うらやましくて、ここに行きたくて行きたくてしかたがない。それまでインドとの貿易をしていたのは、イスラーム圏です。イスラーム商人がインドから買ったものが、地中海経由でヨーロッパに運ばれていた。だから中間マージンが発生して値段が高くなる。インドに直接行けたら、安く買うことができて、戻って来れたら高く売れる。それだけで億万長者になれる。胡椒を一袋もってきたら金と同額だから億万長者です。そんなぼろい儲けができる。

 そのインドに行くために、イスラーム商人たちが牛耳っていたインド洋を、ポルトガルが戦争して取る。これが制海権です。海の支配権を握る。これが1509年のディウ沖の海戦です。
 しかし胡椒は胡椒に過ぎません。それに高値がつくということ自体が実体のないバブルです。胡椒バブルが崩壊すると、莫大な資金を投じて世界各地に港湾を建設して香辛料貿易を行っていたポルトガルの利益は著しく減少します。ポルトガルは破産し、1580年に隣国スペインに併合されます。

※ (ポルトガルは)小国ポルトガルの予算だけではその費用を負担できず、ジェノバ資本に依存しなければなりませんでした。その結果、香辛料貿易の利益のほとんどをジェノバに取られ、ポルトガル王室は慢性的な財政難に陥っていました。・・・・・・ポルトガルは身の丈に合わない開発話に乗り、負債とその利払いに追い立てられ疲弊していったのです。・・・・・・1578年、モロッコを心配していたイスラム王朝サアド朝に大敗します。この戦いに負けたポルトガルは、負債の返済の目処が立たなくなり、デフォルト(破産)します。そして1580年、隣国のスペインがポルトガルを併合します。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P123)

 


新「授業でいえない世界史」 25話の2 16世紀 スペイン 商業革命

2019-08-26 08:14:00 | 新世界史11 近世西洋
【スペイン】 そして次は、ポルトガルに先を越された隣のスペインです。「ポルトガルが東に行くなら、オレは西に行く」という。「西に行って滝に落ちたらどうするんだ」と言われると、「いやいや、地球は丸いんだ」と言う。
 これがコペルニクスの説です。これを信じていく。のるか反るかの大博打です。証拠がないんだから。ただコペルニクスがそういっただけで証拠は何もないけど、絶対西に行けばインドに着けるという。

※ ポルトガルやスペインという西の辺境を一躍、時代の雄に押し上げたのはジェノバの資本です。ジェノバの船乗りコロンブスは、ポルトガル王やスペイン王にジェノバの融資を元手にした新航路の改革を薦めて廻り、ジェノバの銀行のセールスマンのような役割をしていました。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P122)

※ ジェノバは16世紀以降、スペインにも資金を拠出します。 ジェノバ出身のクリストファー・コロンブスの努力により新大陸を発見し、金・銀を大量に採取し始めます。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P119)


 その大西洋の詳しい地図なんかないし、しかもアメリカ大陸の存在を知らないから、インドにはすぐ行けるという。これがコロンブスです。1492年、彼はスペインから大西洋を西へ向かって出航します。

※ 15~16世紀、スペインポルトガルが大航海によって世界帝国を作ったかに見えるが、彼らは世界のいくつかの港湾拠点を帆船でつなぎ、年に何回かの航海をしていただけで、多くの国々は、スペインやポルトガルと関係なく存在していた。中国には欧州より豊かな明・清の帝国があったし、中東経由の陸路でアジアに国へ行く貿易路はオスマントルコ帝国が支配していた。(金融世界大戦 田中宇 朝日新聞出版 2015.3月 P74)


 この1492年のスペインでは、もう一つ重要なことが起こっています。スペインからユダヤ人が追放されたのです。
 それまでスペインはイスラーム教徒が支配する地域でした。キリスト教徒は、異教徒を追い払う運動を始めます。これをレコンキスタといいます。国土回復運動と訳されます。1492年はそのレコンキスタが完成し、イスラーム教徒の最後の拠点グラナダが陥落する年でもあります。
 するとスペインはこれと同時に、それまでスペインの商工業の中心を担っていたユダヤ人を追放します。ユダヤ人は多くの地域に逃げていきますが、その中で多くのユダヤ人がたどり着いた先がオランダだったのです。


アルカサル アルハンブラ宮殿の要塞 レコンキスタ終焉の地 断崖絶壁からみえる白い街 グラナダ編ep4



※ ムスリム・スペイン社会へのユダヤ人の進出は、後ウマイヤ朝(756~1031年)の統一王朝時代に盛んになり、その後半から黄金時代を現出する。首都のコルドバやトレド、セビリャにはユダヤ人街が発達した。この社会では、これまでにない新しいタイプの指導者が出現した。王や支配者から信任を得て王宮の重臣として活躍する者が、世俗的にユダヤ人社会を代表するという仕組みである。(ユダヤ教の歴史 市川裕 山川出版社 P78)

※ レコンキスタの戦費を負担したのは宮廷ユダヤ人、ユダヤ商人です。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P82)


 そうすると、商業を担うユダヤ人のいなくなったスペインは没落し、逆にユダヤ人の多くが集まったオランダで商業が栄えて繁栄していくという、このあとの流れが生まれます。これで世界史の流れが、スペインではなく、オランダに変わります。このことが世界史を流れる大きな「伏線」です。さらにそのユダヤ人たちが次に移住していくのがイギリスです。このイギリスが大英帝国として世界の覇権を握ることで近代世界が形成されていきます。

 ここではコロンブスのアメリカ大陸発見がメインですが、そこからもたらされた富がどこに流れていくか、それが非常に大事なことです。最終的に富をえたのが誰なのか。そのことを見ていくときにユダヤ人の動きは欠かせません。
 ただユダヤ人たちはキリスト教徒から迫害されていますから、表面的にはカルヴァン派を名乗って隠れていることが多く・・・・・・彼らをマラーノ(またはマラノス)といいますが・・・・・・なかなか歴史の表面に出たがりません。表面的な出来事の裏で何か起こっているか、これを歴史の「伏線」としてよく見ていくことが大事です。

※ (スペインは)1492年にはレコンキスタを完成して、ムスリムとユダヤ人を追放した。(高校教科書 新編高等世界史B新訂版 川北稔他 帝国書院 P180)

※ スペインは・・・・・・1492年にユダヤ教徒に対するカトリックへの改宗を命じ、改宗しないユダヤ人は国外に追放しました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P82)

※ スペイン社会の中枢にいた「宮廷ユダヤ人」数万人は仕方なくカトリックに改宗して改宗ユダヤ人(コンベルソ)となり地位を保全しました。大部分は、偽装改宗だったと言われます。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P83)

※ まず他の何ものにも先がけて思いをはせなくてはならない壮大な世界史的出来事は、ユダヤ人のスペインおよびポルトガルからの追放であろう(1492年 1495年 それに1497年)。コロンブスが、アメリカを発見するために、パロスを出帆した日(1492年8月3日)に、30万人のユダヤ人が、スペインから、ナヴァラ、フランスへ、そしてポルトガルへ、また東方へと移住させられたことをけっして忘れてはならない。しかもヴァスコ・ダ・ガマが、インド航路を発見した年にイベリア半島の他の部分、つまりポルトガルがユダヤ人を追放したのだ。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P41)

※ (スペインで)1492年、すべてのユダヤ人は4ヶ月以内にキリスト教に改宗して洗礼を受けるか、さもなければ国外退去するよう勅令が出された。イサベラ女王がコロンブスを新大陸発見の航海に出帆させた同じ年のことだ。・・・・・・ただスペインやポルトガルの枢要な位置にあったユダヤ人を追放したために、両国社会が次第に活力を失って、せっかくの新大陸発見による繁栄を案外に短いものにしてしまったことだけは確かだといわれる。海外に逃れたユダヤ人のある者は東へ向かって北アフリカからオスマン・トルコの国々へ流れ、またある者はオランダイギリスへと渡った。新教のオランダは宗教改革の考えを入れて住民に信仰の自由を認めていたため、最も多くのユダヤ人が集まってアムステルダムに繁栄をもたらした。(ロスチャイルド家 横山三四郎 講談社現代新書 P160)

※ 大航海時代にユダヤ社会を揺るがしたのが、1490年代に起こった「第二のディアスポラ」でした。ユダヤ人の移住先は主にオスマン帝国であり、北ヨーロッパや新大陸に難民として移住したユダヤ人の数はそれほど多くはありませんでした。しかし、新興地域には十分な数でした。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P83)

※ ジャック・アタリによれば、「第二のディアスポラ」によりオランダに向かったユダヤ人は約2000人、新大陸に移住したユダヤ人は約5000人と、全体から見れば少数でしたが、新興経済地帯のオランダ、新大陸には十分な数でした。・・・・・・スペイン、ポルトガルがユダヤ人の追放で経済を衰退させたのとは対照的に、オランダ経済は急速に勃興してイタリア諸都市に代わります。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P86)

※ スペインから追放されたユダヤ人は、イタリアを経由して北アフリカなどの地中海の各地へ逃れた人々もいれば、隣国ポルトガルに逃れた人々もいた。そのなかで、最大の受け皿になったのは、ビザンツ帝国を滅ぼしてまもないオスマン帝国である。・・・・・・
 16世紀のツファト(パレスチナの地名)は、ユダヤ教史上、二つの大きな変革をもたらした。第1に、この地ではじめて律法学者と神秘家とが一つに融合したこと、第2に、新たなカバラー理論がカバラーとメシア待望論とを結びつけて、カバラーの大衆運動化の素地を築いたことである。(ユダヤ教の歴史 市川裕 山川出版社 P99)


 その1492年、コロンブスは船出します。そして「近かった、ほらインドだ」とインドにたどり着きます。でも本当はインドじゃない。今でも地図には、このコロンブスが見つけたカリブ海の島々は西インド諸島と書いてあります。コロンブスはインドだと信じていたからです。コロンブスは「インドに行ったぞ」と言って帰って来る。

※ コロンブス遠征の物質的基礎はユダヤ人によって提供された。・・・・・・コロンブスの船には大勢のユダヤ人が乗りんだ。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社  P65)


 しかしだんだん日が経つと、「これはどうもおかしいんじゃないか」と、アメリゴ・ベスプッチが探検する。そして「これは大嘘だ、インドでもなんでもなかった、これはオレたちの知らない陸地なんだ」と言った。何という陸地か知らない。名前はないから、アメリゴさんが発見したからアメリゴの土地、これがアメリカです。おおぼら吹きのまま死んでいったのがコロンブスです。死に方は不幸です。

 次に「地球が丸いなら」といって、ヨーロッパから西へ西へと行って、逆の東からヨーロッパに帰ってきたのがマゼランです。その途中、フィリピンで一休憩する。だからこのあとフィリピンは300年間スペインの植民地になる。マゼランはフィリピンで殺されたんですけど、乗組員が帰ってきて、地球が丸いというのが証明されたんです。

 それからヨーロッパ人は「アメリカだ、アメリカだ、あそこに行けば一獲千金だ」とアメリカ大陸に乗り込んでいきます。難破もします。海の藻屑と消えていた船乗りたちは、生き残ってる人たちよりもだいぶ多いですね。それでも行くんです。金に目が眩んで。金に目が眩むと、最終的には人間を犬猫のように奴隷にしてきます。これが実際にこのあとに起こることです。アフリカの黒人奴隷です。このあとアフリカ人を奴隷として売り飛ばしていく。

 今言ったことをまとめます。
 コロンブスは本当はスペイン人じゃないです。イタリア人です。ただ大航海には、会社をたちあげるような何千万円という資金がいる。船乗りもいる。船もいる。
 そのための金を貸してくれたのがスペイン女王イザベルだった。だからスペインの業績となる。コロンブスは本当はイタリア人で、イタリアの都市ジェノバの船乗りです。しかも目指したのはアメリカではなくて、インドだったということです。アメリカがあるなんて、まだ誰も知りません。


【即興アテレコ】1492 コロンブス 「イザベラ女王との謁見」



 これを「インドじゃない」と突き止めたのが、アメリゴ・ベスプッチです。アメリカという名は、このアメリゴから来る。
 では「地球が丸い」と信じて、西へ向かって出発して、東から帰ってきた人、これがマゼランです。これらのことは、ほぼ一斉に1500年頃に起こる。
 しかも早いもの勝ちで、「これは新大陸だ」とヨーロッパ人は思ったんです。でも新大陸にはインディアンがちゃんと住んでいる。インディアンというのも、日本語に訳すとインド人という意味です。インド人ではないのですが、なぜインディアンというか。ここをインドだと誤って信じていたから、そう名前が先についてしまった。しかし人間が住んでいようと、インディアンなんかお構いなし。早い者勝ちで、ぶんどり合戦です。

 それで真っ先にここにたどり着いたのがコロンブスを雇ったスペインです。スペインの植民地領域は、中南アメリカのほとんどを占めます。今でもここらへんの国はスペイン語でしゃべってるのはなぜか。スペイン人が植民地にしていたからです。このあと300年間。

 出遅れてアメリカ大陸に来たポルトガルブラジル側にたどり着いて、ここがどの大陸と繋がってるのかまだわからないのですよ。人工衛星もないから。早い者勝ちで、彼らは南アメリカのブラジル側を植民地にしていく。ここから広がって今のブラジルになる。ポルトガルの植民地はこのブラジルだけです。その他はすべてスペインです。

 この約100年後、「いや、北にもアメリカ大陸があるじゃないか」と、イギリスが乗り込んでいきます。それで今の北アメリカはイギリスの植民地になっていく。オランダやフランスと戦いながら。

 さらに南アメリカ大陸を、スペインとポルトガルで勝手に分けた。これが1494年のトリデシリャス条約です。誰の許可を得て人の土地を分けているのか。そう思いませんか。インディアンに無断で勝手に分ける。でも「分けていい」と言ったのはローマ教皇です。カトリックの法王です。そういう時代だとはいっても、ロクなことはしていない。

 中南アメリカ大陸はほぼスペインの植民地です。ただ例外的にポルトガル領になったのが今のブラジルだということです。


▼16世紀の世界




【価格革命】 このあとヨーロッパ人は戦争が強かったから武力にものをいわせて、まずインディオを捕まえて強制労働させる。「何かいいものはないか」と金銀を真っ先に奪う。
 今はもう掘り尽くしてしまいましたが、メキシコに銀山があったんです。自分たちは働かずに、現地のインディオをムチ打ちながら働かせて、穴を掘らせてをいっぱい取ってこらせる。そうやってここから銀を持ち帰るんです。取れた銀をメキシコからヨーロッパに運んでいきます。

※ 東アジアでも、太平洋を横断するマニラ・ガレオン貿易によりメキシコの港アカプルコから大量のメキシコ・ドルがフィリピンのマニラに集まりました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P97)


 こうやってまずヨーロッパにお金が増えていく。ヨーロッパにお金があふれ出し、急にお金持ちになるのです。そうすると物の量が変わらないのにお金だけが増えたら、物の値段は上がるか下がるか。「政治・経済」でもいいましたよね。一気に上がります。物価が急上昇する。これが価格革命です。

※ アメリカの経済学E・J・ハミルトン(1899~1989)は、「新大陸」からもたらされた大量の銀が、16世紀の100年間で物価をほぼ5倍に上昇させたことを立証し、それを「価格革命」と名付けました。安価な銀の継続的流入が長期のインフレをもたらし、地代収入に頼る領主層が没落し、新たな儲け口を作り出せる商人などの台頭が進みました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P98)




【商業革命】 同時に商業革命です。今までヨーロッパの商業の中心は地中海イタリア都市だった。しかし地中海はお払い箱です。「よしこれからは新大陸だ」と、港が大西洋に面したポルトガルのリスボンに移る。

 次にはアントワープです。これは・・・・・・ベルギーという国はまだないけれど・・・・・・今のベルギーです。ここに1492年にスペインを追放されたユダヤ人たちが住み着きます。オランダの隣にある国です。そうやってベルギー・オランダが繁栄していく。



【スペイン人の征服】
【インカ帝国】 そのあいだにスペイン人が何をやったか。根こそぎ現地の文明を破壊していく。でもここは未開の土地ではない。ちゃんと国がありました。アンデス山脈にはインカ帝国がありました。
 これをスペイン人がたった数百人で滅ぼす。インカの王をだまして「オレは神だ」と言う。まずいことにインカには「神様は肌が白い」という言い伝えがあった。白い人間を初めて見て「神様に違いない」と信じる。そして、いいように騙していく。王を殺したあとは武力を使う。それで一気に滅んでいく。


神々の国 ペルー #1世界遺産の旅




【アステカ王国】 それからもう一つ、今のメキシコ南部にアステカ王国というのがあった。これも数百人のスペイン人によって、あっという間に滅ぼされてしまう。王は殺される。金銀財宝は奪われる。しかしこういう高度な文明社会があったということです。

 もう一つ言うと最近流行りなのは、アステカ王国の南にも文明があって、これがマヤ文明ですね。あちこちに遺跡がある。今は密林に囲まれてますけど。非常に人気が高いパワー・スポットです。 

 南米のことをラテンアメリカといいますね。スペイン人はラテン民族で、そこに征服された地域だからです。
 今も南アメリカの先住民はちゃんといます。インド人ではないのですが、最初インドと間違われたからインディオと名付けられた。彼らは血統的には我々と同じ黄色人種です。モンゴロイドです。我々に近い人たちです。エジプトと同じ規模ぐらいのかなり大きいピラミッドも造っています。
 彼らインディオはどうやってアメリカ大陸に渡って来て、住み着いたのか。我々と同じ黄色い人間だから、彼らの移動経路は北のベーリング海峡からです。そこからアメリカ大陸のアラスカに渡り、さらに南下して南米の一番南端まで達した。

 ではそのインカ帝国、アステカ帝国を滅ぼした人物。
 メキシコにあったのがアステカ王国です。滅ぼしたのはスペイン人のコルテス1521年です。鉄砲を使い、暴力的に制圧していく。アステカ王国にはまだ鉄砲がなかったから武力の差は歴然です。

 それから南米ペルーにあったのがインカ帝国。これを滅ぼしたもの、気の荒い親分のような人物です。ピサロという。金にあくどい征服者です。1533年です。アステカ滅亡の約10年後です。

 そのあと彼らがやったことは、金銀略奪や土地の略奪。しかもを宗教を強制する。「カトリックを信じろ」という。信じなかったら殺す。ひどいものです。そして信じてどうなるか。有無を言わさず強制労働です。これでまた現地人の多くが死ぬ。南米がラテンアメリカといわれるのは、ラテン的な陽気な民族性の裏に、こういう悲惨なラテン文化の強制があったからです。



【伝染病】 それからもう一つが伝染病です。南米にはなかった病原菌をヨーロッパ人が持って行ったものだから、抵抗力のないインディアンたちはイチコロなんです。
 これは今のように全世界の人間が国をまたいで動くんだったら、ヨーロッパ人と接近しても日本人が死ぬことはないですが、こうやって大陸が何千年も隔離された時代に、別の世界から来た人間には、いっぱい体に病原菌がくっついているんです。そして何百年の間に、病原菌に対する抵抗力がついた人間だけが生き残っていくんです。
 その抵抗力がない人間は、新たな病原菌に接するとイチコロです。それでバタバタと死ぬ。生き残ったのは10人に1人もいない。全滅に近い。ものすごい死に方をしていく。

 そうなると働く人たちが激減する。スペイン人は、自分たちが強制労働させる人間がいなくなって「ああ困った。働いてくれ者がいない。それならアフリカから人間を持ってこよう」となる。持ってくるという発想です。これが黒人奴隷です。
 豚や犬といっしょです。豚を船に積み込むのといっしょで、トイレも何もない船の底に押し込めて、エサをまき散らして「さあ食え」という。そして「しばらく我慢していろ。そのうちに着くから」という。病気にかかると、死ぬ前に海から投げ捨てる。人間と思ってないですね。ここらへん一神教の怖さが漂いますね。キリスト教徒でない人間を、どうも人間だと思っていない。16世紀には日本人も奴隷として売られていますね。

 彼らポルトガル人中心に、こうやって黒人奴隷を新大陸へ送る。そして奴隷貿易が始まる。
 人間は高く売れるんです。犬猫よりも頭がいいし、言葉が通じなくても、身振り手振りでわかるでしょう。犬猫は分からない。犬猫はお手ひとつさせるために、どれだけ労力がいるか。人間は、「ああしろ、こうしろ」と言葉で言えばできる。「畑を耕せ」と言えば耕す。だから高く売れる。
 これで儲けるんです。こんな奴隷貿易を国を挙げてやるのは、ヨーロッパだけですね。



【北アメリカ】 そのあと「北アメリカは手つかずだから、オレたちが取るぞ」と出ていくのがイギリスです。ここからイギリスの出番です。
 フランスも、オランダも、それぞれ自分の植民地にしようとして、「俺のものだ、俺のものだ」と奪い合う。このあと200年間も争い合います。

 そしてその戦いに最終的に勝ったのがイギリスです。勝ってどうするか。黒人奴隷を使ってまず農業経営です。工場形式の。これをプランテーション農業という。
 奴隷は狭い小屋に住ませて、朝が来たらクワ持たせて追い出して、「耕せ、種まけ、水まけ」といって働かせる。作ったのはサトウキビです。だから砂糖が手に入る。

※ 新世界の門戸がヨーロッパ人に開かれるや否や、ユダヤ人は大挙して移住した。そればかりではない。アメリカの発見が、実はユダヤ人がスペインの故郷から追放されたのとちょうど同じ年であることがわかっている。さらに15世紀の最後の数年と16世紀の最初の十年は、何万というユダヤ人が放浪を余儀なくされ、ヨーロッパのユダヤ人が、まるで杖で巣をおしだされたアリの群れのように大挙して動き出した時期であることが判明している。ユダヤ人集団の大きな部分が希望に満たされた新大陸の各地に赴いたのも決して不思議ではない。かの地の最初の商人はユダヤ人であった。アメリカ植民地の最初の工業施設はユダヤ人に由来する。1492年、早くもポルトガル系のユダヤ人がセント・トーマス(カリブ海の島)に居住し、ここで大がかりな農園経営をはじめた。彼らは数多くの砂糖工場を設立し、まもなく3千人の黒人労働者を働かせた。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P66)

※ 17世紀前半でも、すべての大砂糖農園はユダヤ人の手中におさめられていた。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P68)

※ ユダヤ人が中南米で獲得したこの堂々たる地位は、なかんずく、17世紀末から北米の英領植民地と、西インド諸島との間に出現した密接な結びつきによって、重要性を増した。この結びつきは・・・・・・ヨーロッパ人支配の北アメリカを維持発展させたものであり、本質的にはやはりユダヤ商人によってつくられていた。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P71)

※ サトウキビを中心とするプランテーション経営が、資本主義の勃興を読み解く鍵になります。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P87)

※ 砂糖生産は農場だけではなく労働力を供給する奴隷商人、砂糖商人ヨーロッパの精製業者というような複数の業者が互いにリンクする一大産業に成長しました。・・・・・・亜熱帯で栽培されるサトウキビが、寒冷なヨーロッパ市場で販売されて高収益を上げたのです。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P87)

※ 1549年、ブラジルに最初にサトウキビ生産を持ち込んだのは改宗ユダヤ人です。・・・・・・サトウキビ農場の経営者の多くは、改宗ユダヤ人だったと言われます。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P90)

※ 1654年、・・・・・・2000人のオランダ人、改宗ユダヤ人は15隻の船で撤退し、カリブ海のキュラソー島(オランダ領)、バルバドス島(イギリス領)に移住しました。それによりサトウキビ栽培のノウハウとプランテーションの経営方式がブラジルからカリブ海域に移植されたのです。栽培技術の移植を主導したのは、ユダヤ商人でした。・・・・・・バルバドス島の自由白人の約3割がユダヤ人でした。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P91)


 その砂糖をお茶に入れて飲み始める。これが紅茶です。これが爆発的に人気になる。ヨーロッパ人が紅茶を飲み始めるのはここからです。
 これで終わります。ではまた。

新「授業でいえない世界史」 26話の1 16世紀 ルター、王権神授説、宗教戦争

2019-08-26 08:12:05 | 新世界史11 近世西洋
 前回はヨーロッパ人が新大陸を見つけたという話をしました。新大陸というのはアメリカ大陸のことです。
 それを見つけた時、ヨーロッパ人は最初はそこをインドだと思っていて、そこに住んでいた人たちをインディアンと名付けたりまたはインディオ・・・・・・どちらもインド人という意味です・・・・・・と名づけたりしましたが、結局インドではない「自分たちの知らない新しい大陸」だったということを発見したのがアメリゴ・ベスプッチだった。だから、彼の名を取ってこの大陸はアメリカと名がつく。ちなみにコロンブスの名前はコロンビアに残っています。

 するとヨーロッパ人がそこに乗り込んできて、「ここはオレの土地だ」といってそこに住んでいる人を強制労働させたり、インカ帝国という文明を滅ぼして金銀財宝を全部持って帰ったり、そういうことをスペイン中心にやっていったわけです。そういった話をしました。

 コロンブスが最初に、西インド諸島を・・・・・・西インド諸島というのはインドにあるんじゃないです・・・・・・インドだと思っていた。今のアメリカの南のカリブ海に浮かぶ島々です。ジョニーデップのパイレーツオブ・カリビアンという映画、あの舞台です。そういうところにヨーロッパの海賊がわんさか入ってくるわけです。
 コロンブスがアメリカ大陸を発見したのが1492年。すぐ1500年代になっていく。そうやってヨーロッパ人がアメリカ大陸に乗り込んでいく一方で、ヨーロッパの国内ではどうだったか、という話を今日はします。時代は同時代です。新大陸にヨーロッパ人が乗り込む一方で、ヨーロッパでは何が起こっていたか。



【宗教改革】 まずヨーロッパでは宗教戦争が起こるんですね。大航海時代とほぼ同時です。大事なことというのは、何も起こらない時は100年も200年も何も起こらないけど、何か起こる時は2つも3つも同時に起こる。もうちょっとゆっくりと、順番に一つずつ起こってくれたらいいなと思いますが、そんなことは過去に生きていた人たちの預かり知らぬところで、起こるときはランダムに一気におこっていく。これが1500年代です。急に世の中が動き出します。

 まず宗教改革が起こります。改革というけど、生やさしいものではなくて、人が死んだり殺されたりして多くの血が流れていく。何百万人も。ドイツの人口はこれによって、100人いれば30人以上死ぬ。3割、4割の人間が死んでいく。日本が1億2000万の人口であったら、2万人死ねば大事件ですが、それが4000万人死ぬとなると、とても想像できない大惨事です。これでヨーロッパが激変するんです。こんなとんでもない戦争になっていく。宗教戦争というのは一番悲惨です。人を人とも思わずによく殺します。特にヨーロッパの歴史では。 



【ルター】
 その発端が1517年。一人の牧師さんからです。ドイツのルターです。
 キリスト教会の親分はローマ教会です。正式な名称は聖ピエトロ教会といいます。今はイタリアのローマ、ヴァチカンにある。ここは今も独立国ですよ。面積は大学のキャンパスぐらいしかないのに歴然とした独立国です。別名はローマ法王庁です。



【贖宥状】 この壮大な立派な建物はこの時代にできたものです。その建物をつくるためには莫大なお金が必要です。でもお金がない。だからそのお金を稼ぐために、このローマ教会が何をしたか。字がやたら難しいですが、贖宥状(しょくゆうじょう)という。ただもっとわかりやすい別名がある。別名の方が覚え安い。免罪符という。

 日本流にいえば・・・・・・誤解をおそれずにいえば・・・・・・おみくじみたいなものです。正月に三社参りしておみくじ引いて「大吉」、それです。ただ違うのは、おみくじは100円で引けるけど、これは100万円です。または1000万円です。額が大きくなるほど、罪を免れる可能性が増すという。地獄の沙汰も金次第みたいなものです。これを販売するんです。「これを買えばあなたは間違いなく天国にいけますよ」と。
 これにみんなコロッとくる。ドイツを中心にこれを売り出し、ローマ教会はその代金を教会の建て替え費用にしたのです。

※ 貧しい人々に施しをすることが功徳になるならば、キリストの教会に施しをすることがどうして功徳にならないわけがあろう。こうして、救われたいという気持ちを持つ人が教会に金銭を出すことは、救済への近道となるのである。いわゆる「御利益宗教」と呼ばれる宗教の基底にはすべてこの考え方がある。カトリック教会は、こうした人間の自由意志を認める立場に立って、信者に善行と功徳を積むことを奨励した。このように考えるならば、贖宥状というものも理解できるだろう。 (世界史リブレット27 宗教改革とその時代 小泉徹 山川出版社 P28)


 しかしルターは「それはおかしい、それで天国に行けるなんてウソだ」と言った。
そしてそのついでにローマ教会に対して自分が疑問に思ってることを、次々に書いていったら95もあった。これを95カ条の論題という。
 今で言えば、公開質問状みたいなものです。「これだけおかしいことがある。なぜだ、答えてくれ」というわけです。これを世間に公表した。これが問題の種になる。
 
 これにローマ教会は腹を立てて「おまえは破門だ」という。破門というのは、キリスト教徒と認めないということです。ヨーロッパ人はインディアンでもボコボコ殺すでしょう。あれはキリスト教徒以外は人間じゃないと思っているからです。人としての人格を認めないからです。だからキリスト教徒と認められなかったら、何されるかわからない。ものすごく危険な状態になるんです。キリスト教徒でない人間は、殺されても文句いえない状態になる。それでもルターは自分の説は撤回しない。

 この時よく間違われるのは、ルターはなぜ反対したのかということに対して、「ローマ教会がぼろ儲けしたからだ」と言われることが多いですが、そうではありません。
 キリスト教の教えは日本人とかなり違っていて、未来に起こることはすべて神様が決めているんです。例えば私が死んで、天国に行けるかどうかはすでに神様が決めてるんです。君たちが信じる信じないは別にして、それを信じてる人たちがキリスト教徒なんです。すべては神様が決めていると。
  しかしローマ教会が今やってることは、贖宥状つまり免罪符を出して「これを買えば天国に行ける」と言っている。これは「神様が決めたことを人間が変えることなんだ」とルターは言う。「天国に行けるかどうかを決めているのは神様じゃなくて、人間じゃないか。それはおかしい」というわけです。
 だからこれは、お金の問題ではなくて、純粋に神学上の問題なんです。ルターは、これを真面目に考えれば考えるほど「わからない」という。すべてはここから始まります。

 キリスト教の基本は「神が人を動かすのであって、逆に人間が神を動かしてはならない」ということです。もともと一神教とはそういうものです。日本人のおおらかな多神教とは違います。もっと言うと、彼が言いたいのは「天国に行けるかどうかは神様が決めることであって、これは昔から決まってる。天国に行けるかどうかは、人間の努力とは関係ないんだ」と言う。
 「人間が努力して天国に行けるのだったら、それは人間が神を動かしたことになる。しかしそんなことは、あってはならないことだ」とルターはいうわけです。
この考えは一神教の基本的なものです。ルターだけが特別に変わった考え方をしたわけではありません。ルターはその基本原理に戻ろうとしたのです。決して基本原理を作りかえようとしたわけではありません。だから彼は、聖書のみを突き詰めて原始キリスト教に戻ろうとする、一種のキリスト教原理主義者ともいえます。

※ ルターは言っている。「私は善良な修道士だった。私は修道会の規律を実に厳格に守った。それだから、もしも修道士生活によって天国に到達する修道士がいるとすれば、それは私だった、ということができる。もしも私があれ以上続けていたなら、私は徹夜や祈りや朗読やその他の聖務で、自分自身を殺してしまったに違いないだろう」。いかほど修道会の定める規律を守り、精進に励もうとも、神の救いを勝ち得たという自信を持つことのできない苦しみ、いや、人間には結局救いに値する行為を完全になしおおせる能力はないのではないかという絶望感であった。ルターは自分の犯した罪を師シュタウビッツに事細かに懺悔しに行ったが、それらがあまりに、微細で度が過ぎているのを心配したシュタウビッツは、冗談まじりに次のように言ったという。「いいかね、もしもキリストに許していただきたいと思うなら、そんないろいろな微罪ではなしに、何か許していただくもの、親殺しか、涜神か、姦通か、を持ってきたまえ」。
 確かにルターの良心は、普通の修道士の尺度からすれば過敏に過ぎた。そこでルター研究者の中には、彼に精神病の疑いをかける者もいる。そのような解釈からすると、宗教改革は精神病患者の生み出した思想から起こったことになる。(世界の歴史12 ルネサンス 会田雄次・中村賢二郎 河出書房新社 P270)


 そして人間は「そういう絶対的な神様の前で、すべての人間が平等に神様と一対一で向き合って、その神の教えに従わなければならない」という。ルターにとってはこの「神の教え」がすべてです。そこには人間の「自由意志」はありません。こうやってルターは人間の自由意志を否定します。
 ルターは、ネーデルラントの人文主義者エラスムスが1524年に人間の自由意志を認める「自由意志論」を著したのに反対して、翌年の1525年に「奴隷意志論」を書きます。奇妙に思うかも知れませんが、ルターにとっては「神の教え」がすべてであって、そこに人間の自由意志は認められないのです。
 この点に関して、人間中心主義のルネサンスの影響を受けた人文主義者と、宗教改革を目指すルターの考え方はまったく異なっています。「人間に自由はあるか」、「自由とは何か」、そのことが宗教改革の大きな問題なのです。

 こういう奴隷的な神と人間との一対一の関係が個人主義の母体です。神と人間とが一対一の関係で結ばれているとすれば、すべての人はみんな平等になります。これがヨーロッパに特徴的な個人主義的な「自由」と「平等」の考え方を生み、それが政治的に応用されると、各個人それぞれに主権があるという民主主義の考え方にもつながっていきます。

 しかしそこにたどりつくまでには、ルターが否定した人間の自由意志を復活させ、論理を崩す必要があります。誰がそんなことをするのでしょうか。それは、このあとの動きを注意深く見ていかないと、うっかり見落としてしまうことになります。この逆転がどこで起こるか。残念ながら、教科書には、スルリと通り抜けるようにしか書いてありません。「自由」とは当たり前にあるものではありません。人間の自由はキリスト教においても、認められない危険なものだったのです。



【聖書中心主義】 自分の意識の中で神様と向き合う。でも神様は話し掛けてくれない。ではその教えは何に書いてあるか。それは聖書しかない。「聖書の教えに従いなさい」とルターはいう。
 今から見ると当たり前のようですが、この時代のヨーロッパ人は字が読めないんです。聖書なんか読んだことない人が多い。見たこともない。そういう中で「とにかく聖書を読みなさい」ということをルターが言い始めた。これが聖書中心主義です。



【ローマ教会否定】 たしかに聖書を読んでいくと、キリストさんはローマ教会のことには触れていないし、これが正しいとも一言も言ってない。ローマ教会があっていいとも言ってない。ルターは「それなのになぜ、おまえたちローマ教会が威張っているのか」と言う。「ローマ教会などもともとなかったし、なぜおまえたちが建物を立てるために、おみくじみたいなものを100万円で売っているのか。おかしいじゃないか」というんです。
 これはローマ教会否定です。ルターは自分の職業である牧師さんも否定していく。「みんな平等なんだ、そんなの要らない」と。こうやって教会否定につながっていく。

 後のことですが、現代の政教分離というのは実はこのことなんです。日本ではこれは「政治と宗教は分離していなければならない」と理解している人が多いですが、これは宗教の否定ではなく、宗教組織の否定です。もっと正確に言えば、宗教組織によって政治が動かされることを否定しているのです。具体的にはローマ教皇によって神聖ローマ皇帝は戴冠(たいかん)される。神聖ローマ皇帝の上にローマ教皇がいるのです。つまり神聖ローマ皇帝はローマ教皇に頭が上がらない。ローマ教皇はその立場を利用して神聖ローマ帝国を動かすことができる。現に贖宥状を売って儲けている。
 しかしこのことは宗教の否定ではなく、逆に宗教の純粋化を求めたものです。だからアメリカ大統領は就任式で聖書に手を置いて宣誓しますし、ドイツのメルケル首相の出身政党はキリスト教民主同盟です。ヨーロッパでは今も政治と宗教が無関係でありえるなどとは思っていません。ただ宗教団体が政治を左右するほどの力を持つことを禁じているのです。



【プロテスタント】 実は、この考えに非常に近いのがイスラーム教です。イスラームはモスクという教会のようなものがあっても、そこにお坊さんはいません。モスクに何か役割があるんではなくて、あれは屋根があって夜露がしのげればいいんです。あれはただの箱なんです。ただの礼拝する場所なんです。そこには神に仕えるお坊さんはいない。
 こうやって今まであったローマ教会に反対する人たちの集団がでてくる。彼らをプロテスタントという。プロテストというのは「抗議する」という意味です。抗議する人たちです。これは、新しく生まれた宗派だから新教ともいう。
 それに対して、いままで何百年も続いてきたイタリアのローマにあるローマ教会をカトリックといいます。これは昔からあったから旧教という。この対立が起こっていく。
 プロテスタントにも教会はありますが、プロテスタント教会とカトリック教会の一番の違いは、プロテスタント教会はキリストの像を祭らないことです。偶像を掲げません。多くは祭壇に十字架を神の象徴として掲げているだけです。

 キリスト教の母体はユダヤ教です。一神教のはじまりはこのユダヤ教です。一神教はもともと神の像を彫らないのです。キリスト教ユダヤ教の共通の聖典である旧約聖書の「モーセの十戒」には、「神の像を彫ってはならない」とあります。プロテスタントはこの教えを守ります。キリスト教はユダヤ教から生まれたものですが、このプロテスタントはそのユダヤ教に「先祖返り」したようなところがあります。プロテスタントは一神教の原型、つまりユダヤ教に近づくのです。これはヘブライズムへの接近です。ヘブライとはユダヤ人のことです。
 前に言いましたが、ルネサンスはギリシャ文化の復興を目指しました。これはヘレニズムへの接近です。ヘレナとはギリシャ人のことです。
 それに対してこの宗教改革は、今いったような意味でユダヤ教に「先祖返り」しているのです。これはヘブライズムへの接近です。

※ ルネサンスはキリスト教にとって異教的なギリシャ・ローマの文化を理想としたのに対して、宗教改革は原始キリスト教の精神を理想としたのであり、いわば前者はヘレニズムを、後者はヘブライズムを復興しようとしたということができる。 ルネサンスは、世俗化の方面で中世を否定しようとしたのに対して、宗教改革は宗教の純粋化を求めて中世を否定したのである。 (世界の歴史12 ルネサンス 会田雄次・中村賢二郎 河出書房新社 P233)

※ プロテスタント諸宗派のなかには、聖母マリアや聖者たちを神として考えるものはない。むしろプロテスタントでは、カルヴァンの著作にもみられたように、そうした神以外の対象への崇拝をきらう傾向がある。(日本人の神はどこにいるか 島田裕己著 ちくま新書 P120)

※ キリスト教においては、宗教改革におけるマルティン・ルターの思想に、多神教的要素への批判をみることができる。(日本人の神はどこにいるのか 島田裕己著 ちくま新書 P128)


 こうやってヨーロッパというキリスト教の世界に、ルネサンスによるヘレニズムと、宗教改革によるヘブライズムが復活し、これが何百年と続いたキリスト教社会を破壊していくことになります。
 そして、ルネサンスは宗教改革を取り込みながら民主主義を生みだし、その一方で宗教改革はユダヤ人の活動の幅を広げることによって資本主義を生みだしていきます。この2つが近代社会をつくる大きな柱になっていきます。

 まずここでは、カトリックとプロテスタントがヨーロッパを2分していきます。お互い一歩も譲らない。「オレが正しい、いやオレが正しい」とトコトンやる。上から下までの大騒ぎです。これが宗教戦争につながっていきます。



  【利息】 資本主義に関してちょっと要らないことをいうと、このちょうど同じ年の1517年にローマ教会は、ルターの動きとは別に、利息を認めます。今までキリスト教会は「金儲けは卑しいことだ、人にお金を貸して利息を取るなんてとんでもないことだ」と言ってきた。しかし1517年に「いや利息は取っていいよ」とカトリック教会が利息を認める。ローマ教会は金儲けをオーケーとします。

※ 1517年、カトリック教会は、第5回ラテラン公会議で利子徴収を解禁しました。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P80)

※ 1512年にヴェネツィアにはじめてゲットー(ユダヤ人居住区)がつくられ、その後各地に広まった。ゲットー内ではユダヤ教の諸伝統が保持された。(ユダヤ教の歴史 市川裕 山川出版社 P96)


 利息が取れると、次に何をするか。お金を人に貸したらそれだけ儲かる。ちょうど儲かるところがアメリカ大陸なんです。そこに植民地会社ができていきます。その会社に100万円貸す、つまり出資する。
 それで株式会社の原型ができる。会社の株100万円を買うと、1年間でそれが200万に値上がったりする。だんだんそういう時代になっていきます。



【政治ルールの変化】 いろんなことが、この宗教改革から発生します。
 まず「世の中の政治のルールは誰が決めるべきか」という問題がヨーロッパで発生する。今までそれを決めていたのは・・・・・・笑うかもしれないれど・・・・・・神様だったんです。でも神様はものを言わない。語りかけない。では神の考えてることがどうやってわかるか。今まではそれがローマ教会だったんです。
 ローマ教会の親分のことをパパという。パパ、ママのパパというのはそこから来る。これが教皇です。この教皇が任命したのが皇帝でした。「おまえを皇帝にする」と。これがドイツの神聖ローマ皇帝です。



【皇帝と諸侯】 ルターの考えに賛同した人たちは、この皇帝とずっと対立していた地方の親分さんたちです。これを諸侯といいます。日本の江戸時代の大名みたいなものです。田舎のお城の主人、そういった人たちが、新教つまりプロテスタント側につく。そうやってまずドイツで戦争が始まる。
 皇帝と諸侯が、お互いに相手の宗派を否定して、相手の人格を認めないんだから徹底してやります。どっちかというと、プロテスタント側が優勢です。プロテスタントが強いということは、だんだんカトリック側は没落していく。
 神聖ローマ皇帝はローマ教会の権威のもとに成り立っていますから、カトリックが弱くなりその総本山であるローマ教会の権威が低下すると、神聖ローマ皇帝の命令を誰も聞かなくなっていく。こうやって力を失っていくのがドイツの神聖ローマ皇帝です。そうなると今まで神聖ローマ皇帝を中心にまとまっていたヨーロッパがバラバラになる。こうなると単に宗教上の問題ではなく、政治問題です。





【王権神授説】 では各地の国のことを、最終的に決めるのは誰か。ドイツの神聖ローマ皇帝の権威が低下すると、その下の各国の王、例えばフランスの王、イギリスの王の力が強まります。「皇帝がダメなら王だ、各地の王がそれぞれ決定していいんだ」という。この説が「王権は、教会を経ずに、神によって直接各国の王に授けられた」という王権神授説です。難しい名前ですが、考え方そのものはそれほど難しいものではない。ローマ帝国の時代、もっと古くはメソポタミアの時代から、あったものです。

 今までは各国の王のワンランク上に神聖ローマ皇帝がありましたが、それに正当性がないのだとしたら、その下のフランス王とかイギリス王とかの各国の王が、それぞれの国家の決定権をもつことになります。もともとはドイツ王は皇帝を兼ねていて、各国の王よりワンランク上だったんです。王にもいろいろあってドイツの皇帝がナンバーワンです。その下がフランスやイギリスなどの各国の王です。その下が大名クラスの諸侯です。しかしここで、フランスやイギリスなどの各国の王に、政治の実権が移ります。

 しかし・・・・・・このあと説明していきますが・・・・・・この王権神授説もダメになる。
  この100年後には、イギリスでピューリタン革命が起こって、王は殺されていきます。
 その100年後には、フランス革命が起こって、フランスの王もギロチンでスパーンと首を切られていく。  



【社会契約説】 すると王以外の誰が、国のことを決めるのか。「皇帝」でもなく、「王」でもなく、オレたち「庶民」だ、となっていく。民主主義はどこから来たのか。プロテスタントの神と人間との直接的な関係から来たのです。ルターの教えでは、神は、教会を経ずに、直接に各個人と結びついています。この論理が、ルターの論理を利用することにより強化されるのです。これを社会契約説といいます。

 そうやって、それまで「皇帝」にあった主権が、皇帝から「」へ、次に王から「国民」へと移っていく。政治を決定できる権利のことを主権といいます。今の日本の主権者は誰ですか。内閣総理大臣ですか。天皇陛下ですか。われわれ国民ですよ。それはこういう理屈で出来上がります。

※ (ユダヤ人の古代国家である)イスラエルにおいては、力と権力を同一視して、権力の行使におぼれた王に挑戦するという伝統はずっと続いてきた。・・・・・・「王は誤ちを犯すばすがない」という考え方は、神を信じて律法の源が王ではないと考えている社会では受け入れられないのだ。歴史的に外国権力の支配を受けてきた民族が、道徳的制約のない権限をもつ不当な政府につきものの危険や罪悪を強く意識するようになったのも無理からぬことだった。(タルムードの世界 モリス・アドラー ミルトス P145)


 「民主主義の裏には神様がいる」というと驚くかもしれませんが、そこには宗教改革以来、神と人が一対一で向き合うプロテスタント的考え方があります。「神は、皇帝のものでも、王のものでもなく、オレたち国民のものだ」というわけです。「神は、皇帝だけではなく、王だけでもなく、オレたち一人一人と結びついている」という宗教的確信が、個人主義を生み、それが民主主義を生んでいきます。そこから個人に対する絶対的信頼が生まれますが、まだそこには人間の自由意志の問題は解決されていません。


※ (ユダヤ教の学者である)ラビたちは、神が全能でありそれによって将来を見通すことができるということと、人間に選択の自由があることとの矛盾にも気づいていた。そしてこの矛盾は人間の理性では解決できないものと見なしてきた。(タムルードの世界 モリス・アドラー ミルトス P125)
 


 以上をまとめると、「主権は皇帝のものでなくなった」というのが上図①です。
 次に、「主権はその下の王のものだ」というのがイギリスなどの王権神授説です(上図②)。
 さらに革命が起こって王が殺されると、「主権は我々国民のものだ」というのが現在の社会契約説です(上図③)。

  このような順番で、国民主権の考え方が発生し、民主主義が成立していきます。宗教改革がそんなことを目的としていたわけではなく、そこまでいくのはもっと後のこと(17世紀のイギリスのロック)ですが、ここで論理の最初のレールが敷かれ、そのスタート地点に着くわけです。
 もう一つの資本主義の発生については、このあと順を追ってみていきます。



【宗教戦争】 またもとに戻ってルターです。ルターが「これだけおかしいことがある」と95ヵ条を書き出してローマ教皇に反抗した。すると「そうだ、そうだ、ルターのいうとおりだ」とまず農民ルター派になる。そして徹底して戦う。これが1524年ドイツ農民戦争です。ルターの動きから7年後です。たんにドイツの農民が反乱を起こしたのではなく、農民がルター派となって反乱を起こした。相手は皇帝です。ここでは農民が負けるんですけど。

 次に今度は、日本の江戸時代でいうと大名クラスルター派になって戦う。この同盟は地域の名前をとってシュマルカルデン同盟といいます。そういうルター派の大名たちが戦争を起こした。これを1546年シュマルカルデン戦争といいます。また大名たちが負けますけど。でもだんだん戦争が大きくなっていきます。



【商業革命】 この間にもう一つ起こっているのが、アメリカでの出来事です。
 一方の新大陸アメリカでは、そこに住んでるインディアンたちを働かせて、山に連れて行って、穴を掘らせて、死ぬまでこき使ってを掘らせる。当時のお金は、金(キン)と思うかも知れませんが、この時代は銀です。そしてその取れた銀を、丸ごとヨーロッパに持っていく。
 それを持って帰って、社会が豊かになるために使えばいいけれど、ヨーロッパではその7割方は戦争のための資金に使われる。この宗教戦争のための資金です。その資金を融通するのがユダヤ商人です。



【アウグスブルクの和議】 こういったことが30年も40年も続いて、どうにか一応の手打ちになった。解決にはなっていませんが、これが1555年。これも地域の名前をとってアウグスブルクの和議といいます。
 皇帝が、大名たちに「信仰はどっちでもいい、あんたのいいようにしていい」と認める。これで大名たちは信仰の自由を勝ち取る。もう「カトリックになれ」と強制されなくなった。でも農民には、まだ信仰を選ぶ権利はありません。

 こういうルター派はどこへ広がっていくか。その中心は北ドイツです。南にはいかない。南にはイタリアにカトリックの総本山のローマ教皇がいるから。そこから逆の北へ向かってルター派は広がります。北のノルウェー、スウェーデン、デンマーク、こういった北欧がプロテスタントになる。
続く。

新「授業でいえない世界史」 26話の2 16世紀 カルヴァン、主権国家、スペイン

2019-08-26 08:11:29 | 新世界史11 近世西洋
【カルヴァン】 その後、さらに2人目のルターが出てくる。彼のいうことは、ちょっとルターと違う。これがスイスの中心都市ジュネーブというところの牧師さんで、カルヴァンという。 この人は、さらにルターの考えを徹底して「世の中は、この世が誕生したときから、たった1人の神様によってすべてが決定されている」とした。「予定」されているとした。

 キリスト教徒にとっては、そんなことは実はどうでもいいんです。自分が死んで、地獄に行くのが怖くて怖くて仕方がない。どうにか天国に行きたい。バカだなあと思うかも知れませんが、宗教というのはそういうものです。君たちは、まだ死ぬことを考えていないかも知れませんが、50年も60年も生きていると、死ぬことの準備は無意識のうちにするものです。みんな死ぬんだから、それは人生の重大関心事になる。高齢になるにつれ死への関心が高まる。「どうやって死のうか」と。今までの人間もそうしてきましたし、これからもそうでしょう。そのことを人間は繰り返してきました。




【富の肯定】 彼はどうしたら天国に行けると言ったか。「仕事して金を儲ければ、それはその人の人生が成功した印だから、それは神様に選ばれた証拠だ」といったんです。今までと180度違います。でもそれを聞いて喜ぶ人がいるんです。金儲けに長けた人たちです。
 カルヴァンは「仕事をしてお金を儲けることができたら、あなたは少なくとも神様から嫌われていない。たぶん好かれている。それはあなたが神様から選ばれているからだ。その証拠なんだ。だから天国に行ける」という。

 この論理、けっこう微妙ですね。「お金を貯めれば、天国に行ける」といえば、それは人間が神を動かしていることになるからアウトです。でもそうは言わない。「神に選ばれているから、お金を貯められたんだ」という。だから「金持ちは、神に選ばれた証拠なんだ」というわけです。でも誰が神に選ばれているかは死んでみないと分からないから、みんなその証拠を求めて金儲けに走るわけです。でもそれは、みんなが金儲けを認めたという点で、結果的には金儲け主義と同じ現象を引き起こします。
 これは金儲けをするための、言い訳のような気もします。金儲けをしたい人たちは、言い訳が見つかって大喜びです。原因と結果が逆でも、「それまで認められなかった金儲けができればそれでいい」と。

 それまでキリスト教は「金儲け大嫌い宗教」でしたが、ここで急に「金儲け大好き宗教」に変わります。こうやって「富の正当化」が起こるわけです。富は「危険なもの」から、「素晴らしいもの」に変わります。それと同時にお金も「危険なもの」から、「素晴らしいもの」に変わります。貧乏はそれまで恥ずべきものではなかったのですが、ここで恥ずべきものに変わります。「貧乏人はダメな奴らだ」と。「そんな奴らはほおっておけ」と。このことが資本主義の成立と関係していきます。

※ (ユダヤ教の聖典である)旧約聖書のなかの様々な著作のなかで富が礼賛される半面、新約聖書(キリスト教の聖典)のなかで富が呪われ、貧乏が讃えられる。・・・・・・イエスは弟子に向かって「富んでいる者が神の国にはいるよりは、ラクダが針の穴を通る方がもっとやさしい」といった(新約聖書マタイ伝 19章24節)。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P338)

※ カルヴァンは5%の利子取得を認めた。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P80)

※ (ユダヤ教の聖典である旧約聖書の)申命記の23章28節ははっきりと、「外国人には利息を取って貸してもよい。ただ兄弟には利息を取って貸してはならない」といっている。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P373)



【予定調和説】 「富をもつことが天国に行ける証拠なら、とにかく仕事に成功してを蓄えよう。これで天国に行けること間違いなしだ」、こういう考え方が流行って、それが社会を動かすほどに広がっていきます。これは富にたいする価値観の倒錯です。お金にたいする価値観の倒錯が起こります。
 私はキリスト教徒ではないから「天国に行けるかどうか」は知りません。でもこのことによって、お金にたいする価値観が180度変わります。それを信じる人が、百人、千人、何万人となっていけば社会が変わる。問題はそこなんです。

 その前提に予定説があります。予定の予とは「あらかじめ」です。人間誰が救われるかは予め(あらかじめ)定まっていて、それを人間が変えることはできない。

※ ルターは1543年に書かれた「ユダヤ人とその虚偽について」で、ユダヤ人の富は高利貸し付けで得られたものであり、高利貸しは庶民の膏血を絞る搾り取る盗人であるとして、利子で財をなしたユダヤ人の迫害を扇動しました。
それに対してフランス人の宗教改革者ジャン・カルヴァンは、商業や金融を擁護する立場に立ちます。カルヴァンは、「利子」を5%に制限することを条件に金貸しを容認し、貨幣を「資本」として運用することを擁護しました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P107)


※ カルヴァンは、ルターの認識をさらに極端に推し進めた。救済の主体を人間から神に移しかえただけではない。もし神が救済の主体であるならば、裁きの主体もまた神でなければならない、としたのである。 このように救済への自由意志と救済を完全に切り離し、救済を完全に「神の予定」に帰せしめる考え方を「予定説」という。(世界史リブレット27 宗教改革とその時代 小泉徹 山川出版社 P30)



 しかし庶民は「それを死ぬ前に知りたい」と思う。カルヴァンは、それを「職業の成功次第で分かるのだ」とした。それがなぜ分かるのかという合理的な説明はありません。にもかかわらず職業の価値がグンと上がっていく。職業というと労働です。労働はきつい、休みたいんです。土曜、日曜は休みがいい。しかし労働の価値が上がって、「職業で成功すれば天国に行ける」となると、職業は天職となり・・・・・・英語でコーリングといいますが・・・・・・職業こそがすべてだということになる。
 プロテスタントの、とくにカルヴァン派では人々がやたら働き出す。ルターの思想が、政治的な「主権」のありかと結びつくとすれば、カルヴァンの思想は経済的な「富」の創出と結びつきます。人間が自分の意志で、富をえるために働くことを認める。これが人間の「自由意志」を認める第一歩になります。

 それまでは、みんなが自分勝手に金儲けばかり目指せば「世の中はガタガタになる」と思われていました。でもカルヴァンの予定説は予定調和説ともいい、「神が決定したことは、必ず世界を調和させてくれる」というキリスト教上の信仰に裏打ちされています。「それでも世の中は調和する」と。こうなると富の蓄積に何ら問題はないことになります。

 しかしこれは、あくまでも宗教上の信仰であって、経済的に根拠があるものではありません。しかし、この考え方はその後も根深く残り、18世紀になるとそれは経済的な「見えざる手」として学問的に認められるようになります。
 ここでカルヴァンは予定説を利用して、富を正当化し、しかもそれを予定調和の世界と結びつけるという宗教上の離れ業をやったわけです。本当はカルヴァンは富を否定しない程度のことしか言っていないのですが、その背景には富を蓄えたい人々の一群の群れが存在していたのです。このことが富の蓄積を過剰に正当化していきます。



【選民思想】 さらに、キリスト教の母体であるユダヤ教には、神に選ばれたという思想、「オレは特別だ」という意識があります。ユダヤ教には・・・・・・これは教科書に太文字で書いてありますが・・・・・・「選民思想」、つまり「ユダヤ民族だけが神に選ばれているから、ユダヤ民族だけが救われるんだ」という思想があります。誰によってか。「救世主」によってです。早い話がスーパーマンがやってきて、神に選ばれたユダヤ人だけを救ってくれるという思想です。
 これが形を変えて、キリスト教の「自分こそが選ばれた人間なんだ」という意識に結びついていきます。ここでは、神に選ばれる対象がユダヤ民族から、各個人に変わっただけで、その発想は共通しています。

※ 非ヨーロッパ世界に関する限り、プロテスタンティズムの与えた影響はあまりないか、あっても望ましくないものであった。というのも、プロテスタンティズムの予定説は、選民思想と結び付いて、ヨーロッパ以外を人間として認めない方向に向かったからである。
 北米大陸のインディアンの場合に明らかなように、プロテスタントは彼らを人間として認めず、殺戮・殲滅を行って恥じないどころか、それを神の摂理の名のもとに正統化したのである。地球上で最後まで公式にアパルトヘイト政策を維持し続けたのが、オランダ系カルヴァン派の子孫の建国した南アフリカ共和国であったのは偶然ではない。
 ヨーロッパの各国が植民地を拡大する中で、そこにもともと住んでいた人々を人間であると認め、その権利を守るために闘った人々の先頭に立っていたのはイエズス会、ドミニコ会といったカトリック宗教改革の立場に立つ修道会であった。(世界史リブレット27 宗教改革とその時代 小泉徹 山川出版社 P86)



【隠れユダヤ人】 このカルヴァン派には、キリスト教徒だけではなく、マラーノ(またはマラノス)というキリスト教徒を装った「隠れユダヤ人」も多く加わっていきます。彼らは表面的にはキリスト教徒のフリをします。でも本当はユダヤ教を信じています。
 こうやってユダヤ教の選民思想をもつユダヤ人たちが、カルヴァン派としてそのなかに流入していきます。そして彼らは自分たちのもつ選民思想が嫌われることを知っていますから、自分たちがユダヤ教徒であることを隠していきます。

※ (ユダヤ教では)ある人が正しい人であるか、それとも呪われた人であるかという疑問は、その人の死後の永遠の運命が問題になるときはじめて決定される。そうなったあかつきには、勘定が完了し、残高が示される。その総額と善行の量、それに違反の量から正義あるいは劫罰が決まる。・・・・・・彼は生涯の終わりまで、休みなく善行を次々に蓄積することによって、報酬を次々に増大させるよう努めねばならない。・・・・・・ユダヤの道徳心がこのなかでは、金銭の獲得を全く独特に高く評価する態度が、並行して見られた。・・・・・・金銭獲得自体を称賛していたことはほとんど確実だ。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P318)


 この「隠れる」という行為が、このあとのヨーロッパの歴史を特徴づけます。教科書でもチラホラと姿を見せる秘密結社の存在です。ヨーロッパを代表する秘密結社にフリーメイソンがあります。
 これは当時の建築家である石工たちの団体であって、もともとは決して怪しい団体ではなかったのですが、キリスト教世界の宗教上の対立のなかで、フリーメイソンのなかに「隠れユダヤ人」たちが入り込んでいったようです。そしてその秘密結社は本来の目的を離れ、いわばユダヤ人の「隠れ蓑」として利用されていきます。

※ わたしは、まずはじめに、歴史的に極めて重要な「かくれユダヤ人のことを考えた。・・・・・・17世紀におけるプロテスタント避難民のなかに特別多くのユダヤ人がいたに違いない。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P36)

※ マラノスたち、あるいはかくれユダヤ教徒の圧倒的多数は、一般に考えられているよりも、はるかに強力にユダヤ教を奉じている。彼らは強制されて洗礼を受け、みせかけのキリスト教徒になったのだが、それでもユダヤ人として生活し、ユダヤ教の法や規則を遵守している。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P297)

※ ユダヤ人でありながら、ユダヤ教を捨てるふりをした偽装イスラム教徒、偽装キリスト教徒の大量の出現は、人類の歴史における奇想天外、唯一無二の事件であり、これについて見聞するたびに人々は驚かざるをえなかった。・・・・・・こうした抜け道の手段を用いたのが実はユダヤ教の正式代表者であったことを知るとき、ますます驚かされるばかりだ。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P460)



 キリスト教の「予定調和」と、ユダヤ教の「選民思想」は矛盾するものです。ユダヤ教の選民思想では世界の予定調和はありえません。そこでは自分たちだけが救われればいいのですから。
 しかし、キリスト教の予定調和の思想は、ユダヤ人たちに「隠れ蓑」として利用されたところがあります。表向きは予定調和説でも、その実態は選民思想です。そこから出現する社会は、予定調和の世界とはまったく違った社会になります。

 一部の人間への富の集中が起こり、貧富の差の大きい社会になります。彼らのホンネとタテマエは違うわけです。このホンネとタテマエの違いは、多かれ少なかれどこの社会にも見られることですが、これから向かうヨーロッパ近代社会は、とくにその違いが大きい社会です。
 例えば「自由と平等」はタテマエとしては立派ですが、自由がめざすものと平等がめざすものは相互に矛盾するものです。その矛盾が何をもたらすか、それが分からないと、現代社会の矛盾がどこにあるかは、なかなか分からない仕組みになっているのです。




【キリスト教の分布】 キリスト教の宗派を見ていくと、次のように枝葉が分かれています。
 キリスト教は、昔からあったローマ・カトリックと、ルターがはじめたプロテスタントです。最初はルター派だけでした。

 しかしこのプロテスタントにはルターの次に第2のルターが出てくる。これがカルヴァンです。このカルヴァン派が面倒くさいことに、国によって呼び方が違うのです。
・イギリスの場合にはピューリタンといいます。ピューリタンと言えば「カルヴァン派だな、お金が大好きな人だな」と思ってください。商売熱心でお金持ちだなと。ピュアーなピューリタン、「きれい好きな人」という意味です。でもほめてるんじゃないですよ。「何でもかんでもピカピカに磨く奴ら」という侮蔑的な意味があります。
・ところがオランダではゴイセンと言います。「乞食」という意味です。これも侮蔑的な意味です。
・さらにフランスの場合はユグノーといいます。「徒党を組む奴ら」という意味です。それがこのあと革命や戦争の名称になったりします。ただしフランスはこの後、カルヴァン派を禁止しますから、彼らは国外に移住します。彼らは一種の社会のアウトロー的存在です。だから本国にいられなくなって、新天地を求めてアメリカに渡ったりします。

 イギリス、オランダ、フランスはもともとユダヤ人の多かったところです。そこにキリスト教カルヴァン派が増えたということは、もともといたユダヤ人たちが表面的にカルヴァン派に改宗したことと符合します。

▼ヨーロッパの宗教分布
 

 のち19世紀に、世界中に植民地を獲得していく国も、イギリス、フランス、オランダというカルヴァン派の多い3カ国です。イギリスが圧倒的ですが、それに対抗していくのがフランスです。オランダは小国ですが、北アメリカや東南アジアに植民地を獲得します。

 20世紀になるとドイツも乗り出していきますが、これはかなり出遅れます。ドイツはルター派です。ドイツの他のルター派の国としては、北欧のスウェーデンやノルウェーがありますが、これらの国は植民地獲得には乗り出していきません。
 そうしてみると、19~20世紀に世界を股にかけて植民地を獲得していった国は、おもにカルヴァン派の国です。ルター派とカルヴァン派は同じプロテスタントとして扱われますが、この二つの宗派は経済活動において大きく動きが違います。



【カルヴァン派と資本主義】 のちに産業革命を起こしていくイギリスのピューリタンは、富の蓄積つまりお金儲けに熱心で、当初はヨーロッパで嫌われた人たちです。でもその人たちが産業革命を起こし、お金を蓄えて裕福になり、現在の資本主義社会を作り上げていったといわれます。
 そういうことを初めて説いたのはドイツのマックス・ウェーバーという学者です。でも彼の「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という本は、異常なほど回りくどい本です。しかも彼は資本主義の成立に重要な役割を果たしたユダヤ人のことには触れていません。

 資本主義には、産業金融があります。一言でいうと、産業とは工場のこと、金融とは銀行のことです。産業とはモノのことで、金融とはお金のことです。これを産業資本金融資本という分け方をします。
 確かに資本主義は、産業資本による産業革命から始まりますが、のちに資本主義の問題点として浮上するのは産業資本よりも、金融資本による破壊的な力です。マックス・ウェーバーはこの金融資本の動きに触れていません。
 しかし資本主義とお金の問題は、切っても切り離せません。そしてこのお金を専門に扱っている人たちがユダヤ人なのです。しかもこのユダヤ人の多くはカルヴァン派として「隠れて」います。表面だけを追い、その裏に隠れているものを見なければ、本当の姿は分かりません。

 マックス・ウェーバーはカルヴァン派の表面だけを見ていて、そのなかに隠れているユダヤ教徒の動きを見ていません。カルヴァン派の多くは産業資本家になりますが、隠れユダヤ人の多くは金融資本家になります。両者の動きは大きく異なります。にもかかわらず、カルヴァン派の動きだけで資本主義を説明しようとすると、資本主義の半分しか説明できません。残り半分は説明されないまま、説明したことにされてしまうか、または無かったことにされてしまうのです。
 在るものを無かったことにすると、物事の実体は分かりません。それでは物事の実体をゆがめてしまいます。

※ ピューリタニズムはユダヤ教である。・・・・・・宗教改革時代に、ユダヤ教と多くのキリスト教の宗派との間に形づくられた密接な関係はよく知られているし、当時ヘブライ語やユダヤ教の研究が、流行の学問として愛好されたことも周知の事実だ。しかし、とりわけ17世紀にユダヤ人が、イギリス人とくにピューリタンに熱狂的に尊敬されたことも、よくわかっている。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P383)


※ (1608年に刊行された小冊子である)「カルヴァン的なユダヤ人の鏡」で、33頁にわたってこの二つ(ユダヤ教徒とカルヴァン派)の宗教共同体の関係を次のような愉快な語り口であつかっている。
 「わたしが宣誓した上で、なぜわたしがカルヴァン派となったかその理由と真の原因をのべよと命ぜられたとすれば、わたしは、すべての宗教宗派のなかで、カルヴァン派ほどユダヤ教と調和するものがないという事実にひたすら心が動かされたからだと告白せねばなるまい。またわたしがカルヴァン派になった理由は何かという疑問への回答は、両者の信仰と生活の同一性に基づいている」(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社  P385)

※ (ユダヤ教とピューリタニズムを比較すると)ユダヤ教の考え方と、ピューリタニズムとの考え方の事実上ほとんど完全な一致を明らかにするに違いない。すなわち、宗教的関心の優位、試練の考え、生活態度の合理化、世俗内的禁欲、宗教的観念と利益獲得への関心との結合、罪の問題の数量的なあつかい、その他もろもろの事柄が両者にあっては全く同一なのである。とくに重要な点をことさらとりあげるならば、性愛の問題に対する独特の立場と性的交渉の合理化は、ユダヤ教とピューリタニズムの両者では、全く細部にいたるまで同一である。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P382)

※ わたしの見解とは、すなわち、近代資本主義は根本においては、ユダヤ的性格の流出に他ならないということだ。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P72)

※ マックス・ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を書いた。この大著によって、プロテスタントの思想が近代資本主義を作った、ということに世界中でなってしまった。しかし本当は、どうもそうではなかったようだ。近代資本主義を作ったのは、どうやらユダヤ商人たちだったようである。(恐慌前夜 副島隆彦 祥伝社 2008.9月 P84)

※ 西暦2世紀ないし6世紀以来、(ユダヤ教の聖典である)タルムード(とくにバビロンのタルムード)は周知のように、ユダヤ人の宗教生活の中心点となった。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P300)

※ 長い歳月が宗教組織をタルムード(ユダヤ人の聖典)のなかに閉じこめた。そして数世紀にわたって、タルムードのために、そしてタルムードのなかでのみ、ユダヤ人は生きていった。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P296)

※ そもそもユダヤ人の宗教、これをけっして古いイスラエル人の宗教と混同してはならない。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P312)




【私的所有権】 今までのキリスト教は「貧しくあること、貧しい中で一生懸命に働くこと、これこそが神様が望んでいたことなんだ」という教えだった。「清貧の思想」です。
 ところがカルヴァン派により「貧乏人なんか怠け者のしるしだ。この怠け者や貧乏人は、神に捨てられたしるしだ」と180度変わっていく。この考え方の変化にそう時間はかからなかった。変わるときには一気に変わります。

※ かつてなら仮に貧窮の境遇に転落しても、修道院の庇護のもとで救済を受けることもできたが、今やそれもできなくなった。修道院がなくなってしまったことに加えて、貧民救済の意味が変わってしまったからである。貧しい人に施すことが救済にいたる確実な道ではなくなった以上、貧民救済は宗教的意味を失い、単なる行政上の厄介ごとになっていった。 また貧しいこと自体が、かつてのように神に祝福された状態とはみなされなくなってきた。中世のキリスト教的伝統の中では、貧しいことは本来神に祝福されていることを意味していた。キリスト自身、「貧しいことは幸いである」と述べていたし、アシジの聖フランチェスコをはじめとする多くの聖人が、無所有の生活をキリスト教徒としての理想の生活と考えていた。ところが今や貧しいことは、よくても単なる怠惰の結果にほかならず、悪ければ神に見捨てられたしるしとみなされるようになったのである。 (世界史リブレット27 宗教改革とその時代 小泉徹 山川出版社 P62)


 そうなると「働いて得た富は誰のものか」ということが問題になっていく。「それは当然働いて努力した者のものだ」と。これが私的所有権の確立です。
 1粒の種から100粒の実りがもたらされたとき、それがぜんぶ自分のものだという発想はそれまでありませんでした。最初の1粒の種は自分がつくったものではないのだから、全部自分のものとなるはずがありません。その最初の1粒は自分以外の者によってもたらされたのだから、新しく発生した富はもとの持ち主に返さなければならないはずでした。富の源泉は自分にはなく、別のところにあったのです。富はけっして何もないところからは発生しないのですから、最初の持ち主に返すのが当然でした。つまり新たに発生した富は、必ずもとの持ち主、つまり大地とか、神様とか、社会に返さなければなりませんでした。
 そのことは、今でも贈り物をされたら必ずお返しをするのと同じです。今でも、もらいっぱなしはいけません。最初の1粒のことを忘れて、富をぜんぶ自分のものだと考えると、それまで維持されてきた社会のバランスが崩れていきます。

 しかし、何もないところから富が発生するとすれば、すべて自分のものになります。この私的所有権の考え方は、今では当たり前のことになってしまってますが、今までの社会とは大きく異なるものです。こういう考え方の変化は、このあとの社会を大きく変えていきます。

※ (イスラーム社会の)ウラマーを組織的に養成する機関をマドラサという。マドラサの教授は、場合によっては給料を得ていた。学生も奨学金を受け取っていた。しかし為政者はこれらに何のかかわりもない。給料や奨学金はワクフという制度が保証していたのである。
 ある金持ちが自分の財産の保全を考えるとしよう。自分の利益だけのために財産を残すのは、イスラムの理念からは恥である。みんなのためにも何かをする。それがあるべきムスリム(イスラーム教徒)の行為である。そこでこのお金持ちは、自分の持っている商店とアパートの賃貸料をワクフとした。賃貸料の半分は自分のため、自分の死後は自分の子孫のために使う。残りの半分は自分が責任をもって指名する某マドラサで授業を行う某法学派の教授の給料に使う、と公衆に約束し、それを文章にした。このような行為がワクフであった。(都市の文明イスラム 佐藤次至・鈴木董 講談社現代新書 P96)

※ (アメリカの)北西海岸地域のインディアンには「ポトラッチ」という習慣がある。・・・・・・ポトラッチとは、人を招いて物を与えることである。・・・・・・富が一部の者によって蓄積されるのでなく、ポトラッチという組織によって、半強制的に社会の構成員に広く再分配された。(アメリカ・インディアン 青木晴夫 講談社現代新書 P110~119)


 神様というと君たちは笑うかも知れませんが、王権の根拠も実はそこにありました。王権は神から与えられたものだったのです。だから王の命令には従わなければならなかったのです。しかしそのことが意味をなさなくなっていきます。
 こういうカルヴァン派の考えが一番広がったのがイギリスです。そこではこのあと革命が起きて、王が殺されていくようになります。




【オランダ】 その前に、カルヴァン派が広まるもう一つの国がオランダです。オランダには風車がある。あの風車は何のためか。水を出すためです。なぜ水を出すか。オランダというのは本当はネーデルランドといいます。ネーデルは低い、ランドは土地です。低い土地です。周りを堤防で囲って海を陸地化した土地です。もともとは干拓地です。水が高潮ですぐ入ってくる。これをしょっちゅう外に出さなければいけない。人の手でかき出していてもラチがあかないから、風車を回して水を出すんです。それで風車が次々に立っていく。もともと人が住んでないところです。

 ついでにいうと、イギリスも本当はイングランドといいます。外国でイギリスと言っても分かりません。これは日本だけの言い方です。実はこの時代、イギリスはまだ統一されていません。南のイングランドと、北のスコットランドに分かれています。・・・・・・本当のことをいうと西のウェールズも別の王国でしたが・・・・・・それがこの後、ユダヤ人が移住してきた南のイングランドが強くなって、北のスコットランドを併合し、1707年にブリテン島を一つの国として統一していくのです。それはのちにいうピューリタン革命の後のことです。今でも北のスコットランドは、イギリスからの分離独立を求める声があって、国民投票にかけられたりしています。

 オランダのことです。そこには、国を追われたカルヴァン派が広まっていきます。そしてここは、コロンブスのアメリカ大陸発見と同じ年の1492年に、スペインを追放されたユダヤ人がたどりついたところでもあります。つまりここでキリスト教のカルヴァン派とユダヤ教のユダヤ人がいっしょに暮らすようになったのです。

※ ルター派が広まったのは、ドイツのほかでは、デンマーク、スウェーデン、ノルウェーなどの北欧諸国に限られていた。それに対してカルヴァン派はスイスのほか、フランス、ネーデルラント、イギリスアメリカに広がっている。
 カルヴァン派を流失させたジュネーブは、プロテスタントのローマといわれるにふさわしい。しかも注意すべきことには、カルヴァン派の広まった西欧諸国は、北欧に比べて先進的な地域であり、近世において政治的にも経済的にもヨーロッパを主導する国々である。そこへカルヴァン派が浸透していったことは、近世史上カルヴァン派のほうが、ルター派よりも大きな歴史的役割を果たすであろうことを意味する。事実、オランダの独立戦争やイギリスの清教徒革命で中核となった人々はカルヴァン派だった。(世界の歴史12 ルネサンス 会田雄次・中村賢二郎 河出書房新社 P332)

※ 近代国家の支配者のなかにユダヤ人を見出すことができないとしても、こうした支配者、それに近代の君主を、ユダヤ人を抜きにしては、とうてい考えることができない(それはちょうど、メフィストフェレス抜きで、ファウストが考えられないのと同様である)。両者は、連携しつつ、われわれが近代と呼んでいる数世紀間に躍進したのだ。わたしはまさにこの王公とユダヤ人との結合のなかに、興隆する資本主義と、それと結びついた近代国家を象徴するものが見られると思っている。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P85)

※ きわめて重要な状況は彼ら(ユダヤ人)の大多数がまさにスペインから分岐したことである。これによって彼らはとくに、植民地貿易の動きを指導し、なかんずく銀を新興諸国のオランダ、イギリス、フランス、それにドイツに流入させた。彼らが経済的大発展の途上にあるこれらの国々に好んで移住し、それにより、まさにこれらの国々を彼らの国際的コネクションのもつ利益の恩恵にあずからせたことも、重要である。難民となったユダヤ人が、あらかじめ自分たちが追放された国々の商業の流れを転換させ、彼らを客として迎えてくれた国々にこの流れを入り込むようにしたことはよく知られている。・・・・・・
 ユダヤ人は、彼らが空間的に拡散したことによって与えられた利益を、組織的に利用し、そのあげく、地球上の様々な場所の状況を迅速かつ正確につかみ、さらに最良の情報を入手していたことから、もろもろの証券取引所において、彼らの業務上の態度を、物事の状態に応じて、利益のあがるように調整していけた。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P261)

※ 16世紀以来イベリア半島を去っていった(ユダヤ人の)難民の大多数は大金持ちだったに違いない。彼らによってもたらされた「資本の流出」は有名だ。しかし、彼らが追放されるさいに多くの財産を売却したこと、そして外国のしかるべき場所でその代金を手形によって支払わせたことも知られている。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P276)



【イギリス国教会】 この宗派間の対立問題とは全く別に、イギリス国王はローマ教会と縁を切ります。これは教義上の問題ではなく、嫁さんと離婚したかった王のわがままです。
 それでイギリスの教会が、ローマ教会と縁を切り独立する。今でもイギリスの教会はローマ教会の下の組織ではなくて、一国で独立した教会です。これをイギリス国教会といいます。1534年の成立です。今もあります。その時の王をヘンリー8世といいます。
 ローマ教会は離婚を認めてない。ヘンリー8世は、嫁さんの他に若い女の子が好きになって、嫁さんと離婚したくなった。しかしローマ教会は「離婚を認めない」という。
 「それならいい、オレは別に教会を作る」という、王のわがままです。これで一国の教会が成立するところがヨーロッパの王権のすごいところです。ほめてるんじゃないですよ。つまり国というのは国王の私有物なんですね。ヨーロッパはパブリックの観念が行き届いているといわれますが、政治を見ると非常に私的な政治が行われています。

 でもこうなるとカトリックでなくなったイギリスは、プロテスタントにとっては住みやすいところになります。ローマ教会というカトリックの支配が及ばない国になりますから。イギリスは、こうやってカルヴァン派やユダヤ人が移り住む国になります。



【イエズス会】 こんななかでローマ教会はだんだん力を失っていきますが、このままでは済まない。盛り返さないといけない。その中心がスペインです。スペイン中心にカトリック教会が盛り返すための団体をつくります。これがイエズス会です。イグナチウス・ロヨラという人、この人がナンバーワンです。

 ではナンバーツーは誰か。フランシスコ・ザビエルです。聞いたことないですか。日本にキリスト教を伝えた人です。長崎にやって来た。世界遺産になった長崎の平戸の隠れキリシタンも、ここから始まります。彼が日本にやって来て、日本にカトリックのキリスト教を広めようとする。ヨーロッパでの運動がこういう形で日本にも及びます。

※ ザビエルはキリスト教が一番、かつ絶対であって、それ以外の信仰や宗教は全部悪魔がつくったものであると本気で信じていました。これに日本人は反駁した。どういう反駁をしたか。ザビエルの手紙には、子細にそのことが書かれています。
 「神が天地を創造し、そんなに情け深い存在だというなら、なぜ地獄などというものがあるのか、これは大矛盾であると。キリストを信じ、神の洗礼を受けなければ救われないというならば、自分たちの先祖はどうなっているのだ。洗礼を受けていない先祖は、やはり地獄に行ったのか」と聞いたといいます。
 ザビエルは「先祖であろうが、地獄へ行った」と答えました。それを聞いて、日本人は非常に悲しんで泣いたといいます。 ザビエルはイエズス会の同僚たちとの往復書簡の中で、もう精魂つきはてたと述べています。自分の能力の限界を試されたと、正直に告白しています。そして、日本に神父を派遣するときは、よほど学問のある神父にしてほしい、できれば経験のある神父がいいと言っています。若い神父では日本人に打ち負かされてしまうからだというのです。(聖書と甘え 土居健郎 PHP新書 P105)

 しかし、ヨーロッパで本格的に宗教戦争がまた始まります。いったん、宗教の話はここで切ります。



【主権国家】 ヨーロッパでは次に何が起こるか。さっきの話と関係するのは、それまでヨーロッパでは形式上は「ドイツの王様が神聖ローマ皇帝として、ヨーロッパ全体を支配する」という考え方が何百年も続いてきた。しかしそれがルターによってダメになった。
 すると「王であるオレが、国の主権者だ」とドイツの周辺のフランスやイギリスの王が言い始めた。そういう国を主権国家といいます。神聖ローマ帝国の下にあった各国の王が、オレがナンバーワンだと言い始めます。これが1500年代からです。このことが、ルターがローマ教会を否定し、神聖ローマ皇帝の権威を低下させたことと結びついていくわけです。



【植民地戦争】 ちょうどその頃、コロンブスが発見した海の向こうのアメリカの植民地をめぐって、ヨーロッパの国同士の対立が始まります。その中心はイギリスとフランスです。これが植民地戦争です。これがヨーロッパの宗教戦争とほぼ同時に起こります。
 ヨーロッパは戦争するのに忙しい。ヨーロッパ内で戦争する一方で、太平洋の向こうのアメリカ大陸でも同時に戦争する。植民地ぶんどり合戦をやる。そして強い者が勝つ。それだけがルールです。だから戦争に勝つための軍事力が発展する。

 これが次の1600年代も続きます。最大の戦争はこのあとでいう三十年戦争です。これでドイツの人口の3分の1が死ぬ。ひどい戦争です。徹底して殺していく。そういったなかで、「国のことは、王であるオレが決めるんだ」という主権国家が、実はこの戦争の中から確立してくる。ヨーロッパはとにかく戦争、戦争です。

  だからペリーが来たときに日本が「これは勝てない」と思ったのは、豊かさや頭のよさではない。武力の違いです。ヨーロッパの軍事力が圧倒的に強くなります。
 大砲の飛距離でいうと、10m飛ぶ大砲を10本買うのと、100m飛ぶ大砲を1本買うのは、どっちが有利か。1本よりも10本のほうが強いような気がしませんか。でもこれは絶体に迷うことなく、100m飛ぶ大砲を1本買うべきです。なぜなら、100m飛ぶ大砲の前では、10m大砲など、10本あろうが、100本あろうが、何の役にもたたないからです。問題は飛距離なんです。100m大砲の前では、10m大砲の弾は届かないのです。このような軍事技術の点で、圧倒的にヨーロッパが強くなる。ヨーロッパはこのあと300年間、戦争ばっかりしていきますから、その間にどんどん軍事力が発達していきます。



【絶対主義】 誰が国の権力を握っていくか。まず各国の王様です。王様の力が強い国家、これを絶対主義国家といいます。絶対主義といういい方をしますが、実際は「絶対」というほど強くはない。でも少なくとも以前と比べると強くなる。
 そうすると王の力が地方にまで及ぶようになる。これを中央集権国家といいます。政治上の言葉の問題として重要です。この反対語は今でもよく出てくる。地方分権といいます。地方分権の反対語が中央集権です。

 そこで王は誰と結びつくか。王は、農民と大名が大嫌いなんです。彼らとは戦争して対立していますから。彼らとは血が流れています。だから王はそれ以外のお金持ちと結びつく。「大名なんか大嫌いだ。かといって農民なんか相手にできるか」と。こういって王様は、お金が大好きな大商人と結びついていく。この大商人の多くが、カルヴァン派のキリスト教徒や、ユダヤ人です。

※ プロテスタンティズムは、プロテスタントの主張が正しかったために生き残ったのではなかった。プロテスタンティズムを、プロテスタンティズムとして生き残らせたのは、主権国家の出現という世俗的契機だった。新たな主権国家は、自らの正統性を保証する理論的支柱を必要としていたし、プロテスタントは自分たちを保護する世俗的権威を必要としていた。したがって宗教改革の帰結が、個人の良心に基づいて集まる人々の独立教会を形成する方向に向かわず、主権国家を一つの宗教によって統合する国家教会をつくり出す結果になったことは驚くに値しない。(世界史リブレット27 宗教改革とその時代 小泉徹 山川出版社 P80)


 商人は、アメリカ大陸が発見されると、そことの貿易が当たれば、一獲千金で儲かります。そういう外国貿易をしている。船が難破したら命がないけど、そんな危険のなかでどんどん海を渡る荒くれ男たちが、この商人と結びついています。さらにそれと国王が結びついていきます。
 こういう外国貿易と結びつくことによって、ガッポリ利益をあげようという方法を重商主義といいます。日本の江戸時代のような農民中心の社会ではなく、「とにかく商売だ、貿易だ、ボロ儲けだ、一獲千金だ」と非常に投機的な社会をつくっていきます。




【スペイン】 それでガッポリ儲けるのは、まず最初はスペインです。次にオランダが出てきて、それがまたイギリスに変わって世界を制覇していきますが、まずはスペインです。
 スペインは、コロンブスがアメリカ大陸に出発したその同じ年の1492年に、商業の担い手であったムスリムとユダヤ人を追放しています。

 スペインは次に出てくるイギリスと何が違うか。王だけが貿易を独占したということです。貿易の中心は王であり、その貿易の利益をガバッと王が自分の懐に入れたのです。スペインはその後100年間ぐらいは強かった。
 そのスペインの王様は・・・・・・1500年代はちょうどルターの時代です・・・・・・カルロス1世という。1516年に即位します。
 強いといっても、この時代はまだ世界ナンバーワンはイスラーム圏のオスマン帝国です。ヨーロッパまだ田舎で、今から成り上がろうとしていくところです。
 カルロス1世は、実はもともとはドイツ人で、神聖ローマ帝国の王子です。ところが、お母さんはスペインの王女だった。そのスペインで、王様の息子たちが次々と死ぬんです。だいたいこの時代は5人に2人は成人前に病気で死ぬ。半分生き残ればいいほうです。珍しいことではありません。だから多く死ぬぶん多く産んで、この時代は多産なんです。
 スペインで王の跡継ぎがみんな死んでしまった。それで母親がスペイン王女だった縁から、彼はスペイン王になり、さらにもともと神聖ローマ帝国の王子だから、ドイツの神聖ローマ帝国の皇帝の位が回って来た。

 だからドイツとスペインの2カ国の王です。スペイン王としてはカルロス1世、同時にドイツの神聖ローマ皇帝としてはカール5世です。カルロスのドイツ語読みがカールです。神聖ローマ皇帝としては3年後の1519年に即位します。わかりにくいのは、カルロス1世、カール5世と、使い分けて出てくる。「なんだこの人は」と思うけど、同一人物です。1人の人物をカール5世といったり、カルロス1世といったりする。

※ スペインもポルトガルと同じく、ジェノバの資本に支援され、利益の多くを利払いに充てていました。スペインの国家収入の約7割が対外利払いに回されていたのです。ただ、スペインは、ポルトガルと異なり、強国であり、ジェノバの資本にだけ依存していたわけではありません。スペインは、スペイン領ネーデルラントの中心都市アントワープを特区地域として開放していました。・・・・・・スペインはこのアントワープで起債し資金を調達していました。・・・・・・スペインにとって、高い利払いを要求されるジェノバよりも、アントワープの方に魅力があったことは言うまでもありません。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P125)


 ということは、この人は神聖ローマ皇帝としての領地の他に、スペイン王としても広大な領地をもっているということです。どれくらいの領地をもっていたか。もともとのドイツの領域の他に、まずスペイン本国です。それからネーデルランド、これはオランダです。それからイタリアの南半分。それにアメリカ大陸の広大な植民地があります。
 
▼16世紀中頃のヨーロッパ




【オランダ】 とくに大事なのは、オランダがスペイン領だということです。オランダはまだ独立国ではありません。でもこのオランダが「スペインから独立したい」といいます。そして戦争が起こり、人が死んで、血が流れる。オランダ人も戦争好きです。オランダは小さい国ですが、自分の利益のためならトコトン戦います。

※ 16世紀前半、経済特区アントワープには新しい世代、カルヴァン派新教徒たちが集まりました。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P126)


 では終わります。ではまた。



新「授業でいえない世界史」 27話の1 16世紀 スペインとオランダ

2019-08-26 08:10:04 | 新世界史11 近世西洋
 16世紀、1500年代のスペインを途中までやったところです。大きなこととして、ルターの宗教改革が1517年です。ほぼこの時代です。
 我々日本人にとっても意外と大事なのがオランダです。オランダの場所わかりますか。フランスとドイツの中間にある。海に向かってライン川が注ぐところ、低湿地帯です。そして小さい。それがオランダです。
 その南はベルギーというところです。ここも要注意です。

 現在のヨーロッパは旧ローマ帝国のように、一つの国家にまとまろうとしています。これがEUです。そのとき首都はどこになるか。EUの本部がある国はどこか。イギリスだとか、バカなこと言ったらダメですよね。イギリスは逆にいまEUから離脱しようとしています。しかし、変な勘違いをしている人がいるんです。「ヨーロッパはいまイギリスを中心にまとまろうとしている」とか。「そうだ、そうだ」と納得する人がいたりする。でもそれ、おかしいでしょう。
 EUの本部はどこにあるか。ベルギーです。ということは、このまま行けばベルギーがヨーロッパ全体の首都になったっておかしくない。イギリスは逆にEUから離脱しようとしています。

 さしあたって問題は・・・・・・こんなことまで言うと前に進みませんけど・・・・・・イギリスが離脱しようと思っても、いま離脱できそうにない。それでもめている。
 イギリスが離脱に失敗すると・・・・・・日本企業が何百社とイギリスに進出している・・・・・・これが現地で生産できなくなる。するとガクッと日本の景気は落ちるでしょうね。また第2のリーマンショックが来るかも知れない。リーマンショックの時の卒業生は就職は悲惨だった。これは全国的に。不景気になると人が余る。企業が首切るから、当然新規採用も減る。
 それはともかく、主要四カ国以外に、オランダ(ベルギー)、スペインに注意です。



【スペイン】
 スペイン王はカルロス1世(位1516~56)という。しかし母親がもとスペイン王女で、ドイツに嫁いだ人です。だからこの王はもともとはドイツ人なんです。神聖ローマ帝国というのはドイツなんです。ドイツ人がスペインの王とドイツの王を兼ねた。だから名前が2つあるというところまで、前回言ったと思います。
 ドイツ王(神聖ローマ皇帝)としてはカール5世。カルロスとカールは同じです。おんなじ綴りでドイツ語読みがカールで、スペイン語読みするとカルロスになる。

  このカルロス1世の時代・・・・・・それから神聖ローマ皇帝としてはカール5世ですけど・・・・・・この時代がスペインの全盛期でした。新大陸の銀山でがっぽり儲けて、銀貨を握る。しかし宗教戦争で戦争ばかりして、銀貨を戦争につぎ込む。そんな無駄遣いをしてるから、100年ももたないで没落していく。

※ スペインが新大陸からかき集めた「あぶく銭」のなんと約70%が宗教戦争に浪費されたのである。(知っておきたいお金の世界史 宮崎正勝 角川ソフィア文庫 P56)


 しかもドイツ王としてはフランスと対立していて、このとき同時にイタリア戦争をやってる。この戦争は1494年から1559年まで、60年以上続きます。ドイツはイタリアが欲しい。この戦争はイタリアをめぐる戦いです。なぜイタリアが欲しいのか。ローマ教会がイタリアにあるからです。その宗教的権威と結びつきたいからです。
 ヨーロッパの戦争は恐ろしく長いです。前にも言いましたけど、日本は平和の合間に戦争する。ヨーロッパは戦争の合間に平和がある。全く逆です。
 戦いの構図は、神聖ローマ帝国対フランス王国です。宗教のことでドイツのなかでも戦争が起こるし、フランスとも戦わないといけない。敵があっちにもこっちにもいる。
こうやってこのカール5世は戦争に忙殺された皇帝です。「もうイヤだ」と思うぐらい戦争が起こって疲れ果てていく。

 そして1556年にスペインの王様をやめる。すると今度は息子のフェリペ2世(位1556~98)が王になります。この人はドイツの神聖ローマ皇帝の位は受け継がなかった。スペインだけです。
 この王がアジアで植民地にしたのが・・・・・・他にもいっぱい中南アメリカに植民地がありますが・・・・・・フィリピンです。フィリピンという名は、フェリペの国という意味です。フェリペがフィリピンになる。ここはマゼランが世界一周の途中でたどりついたところです。それをきっかけに、スペインがフィリピンを支配します。

※ 1571年、スペインがフィリピンのルソン島を占領して、中西部のマニラ湾東岸に国際貿易港を建設した後、メキシコのアカプルコから毎年大量の銀貨を運ぶマニラ・ガレオン貿易は、1815年までの250年間続きました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P104)


 スペインはこの時代に日の出の勢いで力をつけて、あの宿敵、世界の中心であったオスマン帝国を破るまでになる。それが1571年。これは海の戦いでレパントの海戦という。レパントは地中海のギリシャ近辺にあります。
 そこでオスマン帝国に勝つまでになった。しかし同時にスペインはカトリックだけしか認めないから、それ以外の宗教を信じてる人、1492年におもにユダヤ人を追放していたんですね。彼らはスペインの商工業を担っていました。彼らはどこに逃れたか。ライン川の低湿地帯です。これがオランダです。この時オランダはスペインの領地です。だからオランダは逃れたユダヤ人商人たちによって商工業の国になっていく。あのぬかるんだ土地が一気に変わっていきます。
 堤防でさえぎって陸地化しても水がどんどんどんどん入ってくるから、風車を回して水を出さないといけない。だからオランダの名物は風車です。それは、のどかなオランダの風景ではなくて、土地が低いから必死なんです。オランダの本来の言い方は、低い土地という意味のネーデルランドといいます。オランダという言い方は完全な和製英語です。外国でオランダ、オランダといくら言っても通じません。オランダのことをオランダと言っている国は日本だけです。今でもネーデルランドという。

 そのオランダがスペインからの独立を目指して、1568年からオランダ独立戦争を始めていきます。ここらへんからスペインの没落が始まって、新たに今度はイギリスが強くなっていく。
 スペインの持つ海軍、これは世界で一番強い艦隊と言われていた無敵艦隊です。これに勝てる海軍はヨーロッパには存在しないと言われていましたが、それがイギリスに負けた。これが1588年アルマダ海戦です。イギリス近海での戦いです。イギリスはもともと海賊の国だから海戦は得意です。イギリス王室のご先祖はノルマン人という海賊です。この時のイギリスの王がエリザベス1世という女王です。

 負けたスペインは、次の1600年代になると衰退していく。貿易でいくら稼いでも王様独占、その王様は無駄遣いして戦争にばかりお金をつぎ込んでいた。だから没落は急速です。
 このあたり、今の平成日本を見るようです。平成30年間の日本の衰退の原因は何なのでしょう。とても気になります。



【オランダ】
【オランダの独立】
 次の1600年代、17世紀のイギリスの覇権の前に、スペインから独立したこのオランダが強くなっていきます。
 しかし前に言ったように、スペインの王様は、カトリック以外の宗教は認めない。それ以外を拝むんだったら「国を出て行け」と言って、1492年にスペインから異教徒のユダヤ人が追放された。彼らがたどり着いたのがオランダです。するとそのオランダでは彼らの活動により商業がさかんになります。だからオランダは商人の町です。領土は小さいけれどもお金持ちになります。

※ 近代経済の発展の経過にとって、決定的に重要な事実は、国際経済関係の重心と、経済エネルギーの中心地が南欧諸国民から北西ヨーロッパ国民へと移ったことである。・・・・・・本質的な出来事は、突然オランダが興隆したことであり、それがその後の経済大国、とくにフランスとイギリスの強力な発展のきっかけをつくったことだ。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P39)

※ オランダの国民経済の発展が、16世紀末期、突然の衝撃とともに(資本主義的ににおいて)向上したことはよく知られている。最初のポルトガル系のマラノス(かくれユダヤ人)1593年アムステルダムに移住し、まもなく後続の移住者を迎えた。1598年、早くも最初のシナゴーグ(ユダヤ教寺院)がアムステルダムにつくられた。17世紀の中頃には、すでに多くのオランダの都市にユダヤ人集団がいた。18世紀のはじめ、アムステルダム在住のユダヤ人世帯だけで2400と算定されている。彼らの精神的影響は、すでに17世紀の中頃でも卓越していた。・・・・・・オランダに向かったスペイン系のユダヤ人は、一部は直接、また一部はスペイン領として残ったネーデルランドの部分、とくにアントウェルペンを経由して移住した。彼らは15世紀の最後の10年間に、スペインとポルトガルから追放されたあと、オランダに赴いたわけである。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P46)

※ 連邦制をとるオランダではイギリスのような集権的システムが不在で、貴族の勢力が弱く、寄せ集めの外来商人たちによるドライな人間関係が支配的だったことから、ユダヤ商人の経済合理性と国際性が生かせたのです。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P109)

※ われわれは、対中近東貿易が、まったくユダヤ人の手中におさめられていたと聞いている。・・・・・・この貿易分野をユダヤ人がほとんど独占的に支配したからである。早くもスペインを足がかりにして、彼らは対中近東貿易の大部分をおのれの手中におさめた。すでにその頃から、彼らは中近東の海岸のいたるところに事務所を設けていた。そしていよいよイベリア半島から追放されるにあたって、スペイン系ユダヤ人の大きな部分が、自らオリエントに赴き、また他の部分は北方に向かった。こうして、まったく気づかれないうちに、オリエント貿易は北欧諸国民の手中に入り移動した。とりわけオランダは、こうしたもろもろの関係のめぐりあわせによって、はじめて世界的貿易国家となった。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P58)


 だからこのあと1600年代になると、貿易の利を求めて江戸時代の日本にもやってくる。これが長崎の出島です。
 オランダで繁栄したところがアントワープです。ここが一時、非常に繁栄し、ヨーロッパの中心になりますが、その後スペイン軍に攻められ、中心はアムステルダムに移ります。

※ 北海周辺でユダヤ人の最初の移住先になったのがアントウェルペンでした。・・・・・・アントウェルペンでは有価証券取引も普及します。・・・・・・アントウェルペンは、1575年、1585年と繰り返しスペイン軍により略奪されました。・・・・・・その代わり、オランダのアムステルダムが勃興しました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P101)

※ フェリペ2世は異常なほどの敬虔なカトリック教徒でした。1576年、新教徒の拠点であったアントワープはスペイン軍によって略奪・破壊されました。それ以降、新教徒の商工業者はオランダのアムステルダムに逃れます。フェリペ2世はスペイン王国の資金源たるアントワープを自らの手で破壊したのです。・・・・・・ 敬虔なカトリック教徒のフェリペ2世にとって、金の流れを追うというのは卑しい所業であり、耐えられることではありませんでした。・・・・・・ フェリペ2世にとって、有数の商工業都市アントワープは国庫を潤す貴重な財源として映っていたのではなく、不埒な新教徒たちの悪の巣窟と映っていました。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P128)

※ ポトシ銀山で産出された年産30万キロの銀のかなりの部分もアントウェルペンに流れ込む。「金あまり」の中で、アントウェルペンでは有価証券取引が活発になる。アントウェルペンには1531年に通年為替取引を行う有価証券取引所が開設された。(知っておきたいお金の世界史 宮崎正勝 角川ソフィア文庫 P57) 


 1581年、オランダ独立戦争の最中に、「オレはスペインに頭を下げたくない」と言ってオランダ独立宣言を発表する。ここから実質的に独立した国になっていくわけです。

※ オランダは、1581年にスペインから独立した国で、もともとスペインが開拓した国際航路を活用し、カトリック教国だったスペインが嫌ったプロテスタントユダヤ人を多く受け入れ、中世から地中海貿易で活躍していたユダヤ人の商業技能を生かし、船舶の高速化など技術開発にも積極的で、世界最初の自由貿易共和国として大発展した。オランダでは民間企業が貿易を手がけたが、英仏西など他の諸国の貿易は国営だった。・・・・・・
 オランダはアジアではジャワ島、台湾、長崎など、北米ではニューヨークの前身であるニューアムステルダム(ハドソン側の毛皮貿易の集積地)などを、寄港地として持っていた。ニューヨークの「ウォール街」の名称はニューアムステルダムの城壁(ウォール)に沿った道という意味である。(金融世界大戦 田中宇 朝日新聞出版 2015.3月 P75)

※ 近代国家が形成されるようになった近代になってはじめて、王公の財政顧問としての、ユダヤ人の活動がとてつもない力を持つに至った。オランダでは彼らは迅速に指導的地位についた(もっともこの国では公式には官僚として出世する道は閉ざされていた)。ここで思い起こされるのはウィリアム3世のお気に入りのモーゼス・マハド、ベルモンテの公使一家、国王ウィリアムに1688年、200万グルデンを貸した富裕なスッアソらである。オランダのユダヤ人の金融資本家の役割はオランダ国境を越えて伸張した。なぜなら17、18世紀のオランダは、資金のほしいヨーロッパのすべての王公が資金あさりをした金庫であったからだ。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P90)


アムステルダム旅行ガイド | エクスペディア



 ただスペインのフェリペ2世はこれを「何をいうか、オレは認めないぞ」と頑なに拒む。(正式に認めるまでにあと60年かかります。そこまで行くのにもう1回大戦争が起こる。この戦争が1618年からの三十年戦争です)
 オランダに住む商工業者の多くはカルヴァン派です。「お金を貯めなさい」、そういう教えがカルヴァン派だった。「お金は卑しいものではなく、救われた証拠だ」といってガバガバ商売しだす。そういう人たちがオランダに集まります。そして富を蓄える。そのなかには多くのユダヤ人や、カルヴァン派を装ったかくれユダヤ人であるマラーノが多く混じっています。カルヴァン派の教えはユダヤ教の教えと似通っています。



【オランダ東インド会社】 そういうお金持ちが集まって独立宣言をしたオランダは、次には海の向こうのアジアに乗り出して貿易していく。
 1602年にはインドとの貿易会社をつくる。これがオランダ東インド会社です。この東インド会社という名前はイギリスもフランスも同じ名前をつけるから、ここではオランダ東インド会社です。これが株式会社の始まりと言われます。自分のお金だけではなく、他人の金を集めて会社をつくるかたちができ上がります。

※ オランダ、イギリスの台頭は、それまでの世界史とは断絶しており、海上交易と植民地経営が大きな意味を持つことになります。 (ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P6)

※ 東インド諸島にも早くも中世以来、明らかに多くのユダヤ人が居住していた。そして1498年以後、ヨーロッパの諸国民が、依然として古い文化国家維持のためにせめぎあっていた間に、ユダヤ人は東インド諸島で、ヨーロッパ人支配の歓迎すべき代表者として、とくに貿易の先駆者として奉仕することができた。ポルトガル人オランダ人の船に乗り、大勢のユダヤ人集団が東インド諸島の各地に渡っていったと思われる。ともかく、ユダヤ人が東洋のすべてのオランダの植民地獲得に、強力に加わっていたことはわかっている。さらにオランダ東インド会社の株式資本のかなりの部分がユダヤ人の手中におさめられていたことも判明している。さらにわれわれは・・・・・・オランダ東インド会社の総督が、ユダヤ名がケーンという名であったことを知っている。さらにもしわれわれがこの役職についた人々の経歴を十分に吟味するならば、ケーンがオランダ領東インドにおける唯一のユダヤ人総督ではないことを容易に確信することができるであろう。ユダヤ人は東インド会社の支配人であったばかりか、いたるところの植民地の業務にたずさわっていたことがわかる。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P62)

※ 株券が、債券や手形と大きく異なる点は、株券の所有者が、この事業体の所有者となり、経営権を持つことです。・・・・・・つまり、自らが会社のオーナーになるということです。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P133)

※ オランダ東インド会社は、今日と同じく株主責任を、集められた資金の範囲内にとどめ、有限化するとともに、株券を購入しやすくしました。しかし、責任を部分限定する会社に社会的な信用がつくのかという疑問が当初ありました。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P135)

※ 株式会社の特色は、①株主の有限責任、②経営の継続、③株主の匿名性にありました。所有権を証券化した株券は、投資家の間で自由に取引され、信用経済の成長に寄与します。・・・・・・②の経営の継続という形式が取られたのはなぜかと言うと、連邦制をとるオランダ政府が弱体だったからです。政府の力が弱いため、会社自身が植民地経営の基盤を作り維持しなければならず、継続投資が必要になったのです。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P114)


 しかしこのときはまだ正式なオランダという国はありません。オランダが正式に独立国として承認されるのは・・・・・・あとで出てきますが・・・・・・三十年戦争終結時の1648年のウェストファリア条約においてです。つまりこの国は国家の形ができあがるよりも先に、経済活動が活発化していきます。その担い手がカルヴァン派の商工業者たちです。彼らは国家の形成に関係なく、国家をまたいだ商取引を活発化していきます。

※ 1602年に東インド会社が設立されてオランダ経済をリードするようになると、1609年に設立されたアムステルダム銀行は東インド会社の短期資金を都合するようになり、両者の癒着関係が強まった。銀行は預金としてプールされているお金を記号化して東インド会社の口座に移し、投資したのである。銀行が簡単に利子を稼げる仕組みができ上がるのである。(知っておきたいお金の世界史 宮崎正勝 角川ソフィア文庫 P63)


 「それならオレも、東インド会社に1枚かもう」といって100万円投資する。投資したら今の株といっしょで・・・・・・株には配当(利益の分配金)がつきます・・・・・・1606年には配当が75万円になる。100万円の投資で、1年で75万円の配当が戻ってくる。これが毎年来ます。ものすごく儲かる。
 いま銀行金利は何%ですか。1%にもならない。このあいだ、私が銀行に10万円に預けたら、年率0.01%だった。100万円預けて利息は1000円ぐらいです。100万円預けて75万円も配当がもらえるんだから、これはすごいです。こうやって株式会社が発展していく。ただこの儲け方は尋常ではありません。

※ 小国オランダでは銀貨の流通量が相対的に不足し、ユダヤ商人がイスラーム世界、地中海世界からもたらした「架空の銀貨」(手形)が大きな役割を果たします。手形の発行により貨幣の流通量は実在の銀貨の2倍にも3倍にも膨らみ、オランダの飛躍が可能になったのです。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P108)

※ (17世紀)無記名証券は、オランダを出発点としていたるところに進出した。・・・・・・中世全期、さらに近代に入ってからも、何らかの意図によって送付貨物や債務の本来の受け取り人であることを、かくすというこの手口は、ユダヤ人にとってはしばしば効果があったに違いない。そこで無記名証券の形式が、このようなかくすという手口をつくるための歓迎すべき手段として出てきた。それに無記名証券はある土地で、ユダヤ人迫害の嵐が過ぎ去るまで、彼らの財産をかくしておくことができるようにした。・・・・・・注目せねばならないのは、まず無記名証券の理念が、もっとも内的な本質、つまり「ユダヤ法の精神」から導き出されることであり、さらに無記名証券の法的形式は非人格的な債務関係を表している以上、ローマ法王やゲルマン法のもっとも内的な性格とは異質である半面、ユダヤ法には完全に適合していることである。・・・・・・ドイツ法、つまりゲルマン法の基本原理によれば、債務者はおのれがそうすると約束した者以外には、何事をも行う義務をもっていなかった。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P120~133)

※ 中世にはユダヤ人だと分かっただけで財産を没収されることもあったので、ユダヤ人にとって自らの名前を書かねばならない記名型の証券は安全ではありませんでした。そのためユダヤ人の金融業者たちは、無記名の証券である銀行券を発行・流通させる銀行をヨーロッパ各地で運営していました。(日本人が知らない恐るべき真実 安部芳裕 晋遊舎 P176)

※ 手形の可能性を一挙に拡大し「長期の手形革命」を新たな段階に引き上げたのが、債権者の名前が記されず、証券の現有者が債権を持つとする「無記名手形」の出現でした。それを簡単に言うと、商品券のように扱われる手形です。有価証券を無記名にして債権者を特定できなくする方法は、ユダヤ人であるという理由で理不尽に財産を没収されてきたユダヤ商人が財産を守るために発明しました。・・・・・・「無記名」の証券は・・・・・・手形から紙幣(銀行券)が生まれる際の媒体になりました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P110)

※ 「裏書」により手形の「請求権」を第三者に移すことも、17世紀のオランダで初めて法的に認められました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P111)


 今度は西インド会社をつくる。西インドとはどこか。これは、インドとはまったく関係がないところ、アメリカ大陸です。なぜアメリカ大陸に西インド諸島があるかはすでに言いました。コロンブスの勘違いだったんですね。アメリカをインドだと思っていたからです。西インド諸島はアメリカです。そのアメリカにも乗り出していく。
 オランダがその植民地の拠点にしたのが、本国オランダのアムステルダムにならって、新しいアムステルダムという意味で名づけたニューアムステルダムだった。そこに小屋を建ててオランダ人が住み着く。そこがのちにニューヨークと名前を変える。今では世界ナンバーワンの経済都市です。いま世界で1番お金の集まる都市といえばニューヨークです。

 なぜニューヨークと名前が変わるのか。これもあとで言いますが、この都市はイギリスに奪われるんです。ということは、このあとオランダとイギリスが戦争したということです。そしてオランダは負けます。こうやって世界の覇権がオランダからイギリスに変わるのです。

 それ以外に新大陸ではブラジル方面にも乗り出すし、映画「パイレーツオブ・カリビアン」のような海賊たちが乗り込んできてカリブ海の島々でも大農場経営をやっていく。中心はサトウキビです。そういう農業をプランテーションといいます。
 プランテーションというのは、白人の大金持ちが黒人奴隷たちを使って、鞭打ちながら「働け働け」という農場です。何が欲しかったか。砂糖です。今では甘いものはあふれていますが、この時代に甘いもの、特に砂糖は貴重品です。

 さらに新しい飲み物を発明しました。中国のお茶は甘くない。イギリス人は、それに砂糖を入れて甘いお茶を飲む。これが紅茶です。中国人とか日本人の好みと全然違います。普通のお茶に砂糖を入れて飲もうとかいう発想は、我々にはないですけどね。しかしイギリス人はこれをやるんです。
 なぜならイギリスが中国から買ったのはボロ茶だからまずかったんです。だから甘ければいい。甘いものがいい。そうやって何にでも砂糖を入れる。逆にいうと、それだけイギリスは食い物がまずかったんです。フランス料理は有名でも、イギリス料理とかは聞かないでしょう。だから甘さでごまかすわけです。

 コロンブスがアメリカ大陸を発見してもう100年以上経ちました。1620年代です。そうなると今まで、黒人奴隷を使いながら銀を掘らせていたその銀山が掘り尽くされてしまいます。するとヨーロッパに入る銀の量が減少していく。今度はお金の量が少なくなっていく。お金が少なくなると、景気がよかった1500年代に比べて、1600年代はヨーロッパ全体が不況になっていくんです。
 だから1600年代、つまり17世紀は一転して不況です。不況になると生活が苦しくなるから、みんな腹を立てて戦い出すんです。そしてイギリスで革命が起こります。王が殺されたりする。こうした殺伐とした戦いが起こっていく。



【チューリップバブル】 その中でオランダだけは商売上手だからお金持ちです。お金が余るとどうなるか。今の現代の株式相場で起こることと同じ現象が、初めてオランダで起こりはじめる。

※ オランダでは、1568年から1609年まで続いた独立戦争が一段落し、新大陸からの銀の流入が頭打ちになった17世紀中頃にデフレ傾向が一挙に強まりました。行き場がなくなった「資金」は投機に向かわざるをえず、「バブル」という加熱現象が引き起こされたのです。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P119)


 これが1637年チューリップバブルです。原因はチューリップの球根です。いまチューリップの球根は一つ100円か200円ぐらい。それがなんと200万円とか300万円になっていく。どんどん値上がりして、もうわけわからなくなる。なぜそんなに上がるか。チューリップそのものが欲しいのではない。チューリップの球根さえ手に入れば「今100万円で買っても必ず200万円になる」、そう予想されたんです。これが金儲けの手段になる。一種のマネーゲームです。これがバブルです。バブルはヨーロッパの発明です。それだけみんなが金儲けに熱中するんです。そしてあるとき一気に暴落する。



【覇権の推移】 1600年代の前半はそういうオランダの全盛期です。その中心がアムステルダムです。今のオランダの首都です。当時ここに世界中からお金が集まる。ヨーロッパ金融の中心になっていく。しかしこのオランダの繁栄は50年ももちません。
 イギリスのことはこのあと言いますが、1652年にオランダはイギリスと戦争します。漢字で書くとイギリスは英、オランダは蘭です。だから英蘭戦争といいます。この時イギリスはピューリタン革命の最中です。このことはイギリス史をするときにもう1回言います。ここでオランダがイギリスと戦って負けます。そのことがオランダが衰えるきっかけになります。

 こうやって国の勢いが、だいたい50年から100年ごとに変わっていく。最初はスペイン、次にオランダ、その次にくるのがイギリスです。そのイギリスの覇権はその後200年ぐらい続く。それが20世紀にまた今のアメリカに変わる。それが現代までの、あらかたの流れです。

 またスペインのことを言うと、王様の家柄は神聖ローマ帝国の皇帝のハプスブルク家です。このスペインはどれだけ領地を持っているか。要注意はこのネーデルランドです。今のオランダです。スペインの領地としてこのオランダは押さえてください。
 そのオランダはスペインから逃れたユダヤ商人たちの国として独立していく。なぜスペインから追放されたのか。彼らの宗教と彼らの行動が、当時のスペイン社会を崩壊させる危険性を持っていたからです。
続く。


新「授業でいえない世界史」 27話の2 16世紀 イギリス エリザベス1世

2019-08-26 08:05:27 | 新世界史11 近世西洋
【イギリス】
【イギリスの絶対主義】
 では次にイギリスに行きます。移り変わりが激しくて100年ずつで覇権国が変わります。
 オランダの次はイギリスに行きます。いま覇権がスペインからオランダに変わったところです。時代は1600年代です。その1600年代のイギリスで何が起こるか。



【ヘンリ8世】 ちょっと前にも言いましたが、イギリスはヘンリー8世というわがままな王様が、1534年にローマ教会から分離して自分の教会を勝手につくってしまった。理由は嫁さんと離婚したかったから。それをローマ教会が認めなかったから、「それならもういい、オレはオレで教会を作る」とつくってしまったんです。
 そして今もこの教会はイギリスという国を代表する教会としてあります。これをイギリス国教会といいます。こうやってイギリスはローマ教会から独立しました。
 そしてそのイギリス国教会の親分に、国王ヘンリー8世自らがなります。王様が宗教上の支配者にもなる。こうやってイギリス王権は一度は絶対的な権力を持つんです。

 次の国王のメアリ1世は・・・・・・この人はヘンリー8世の最初の嫁さんとの間にできた娘です・・・・・・1555年にカトリックを復活させることで国内の諸侯と和解し、同じカトリックの信奉者スペインのフェリペ2世と結婚することで、対外的にもスペインと和解しました。



【エリザベス1世】 しかし、そのヘンリー8世の下の娘、といっても前の嫁さんの娘ではなくて、離婚したあとの2番目の若い新しい嫁さん・・・・・・アンブーリンと言いますが・・・・・・彼女が産んだ娘が成人して、1558年に女王になります。それがエリザベス1世です。やわな女王じゃないですよ。若い頃は牢屋に幽閉されたりして、命の危険にさらされていますから、政治の怖さを知っている筋金入りの女性です。
 私が若い頃にイギリスの首相で「鉄の女サッチャー」という女性首相がいましたが、あんな感じかなあ。


恋に落ちたシェークスピア より Judi Dench as Queen Elizabeth | A Woman On The Stage | Shakespeare in Love | SceneScreen



※ 特権階級のユダヤ人、すなわちいわゆる宮廷ユダヤ人がいかに重要な役割を果たしたかの証拠として、 H・ アーレントは、イギリスのエリザベス女王の金主はセファルディー・ユダヤ人(スペイン系ユダヤ人)だったことを挙げている。(ユダヤ人 上田和夫 講談社現代新書 P134)


 1558年から約50年間も女王を務めます。しかも独身で。だから彼女のアメリカ植民地はヴァージニアと言います。「処女地」という意味ですね。
 本当に処女だったか。とんでもないです。結婚しなかったのは政治的な判断です。宮廷には常に愛人を引き入れてます。海賊だってアゴで使う恐いおばさんです。でも表向きは処女だから子供は産めません。ということはこの王朝は・・・・・・チューダー朝といいますが・・・・・・跡継ぎがいなくてこの女王で終わりです。彼女がそこまでして守りたかったのは何か。イギリスの独立です。イギリスはまだ弱い島国で、スペインに押されてしまう危険があると思ったのです。
 ちなみに今のイギリスの女王はエリザベス2世ですが、この人とは関係ありません。

 さっき言ったように、このイギリス女王がそれまで無敵のスペイン艦隊を破る。1588年アルマダ海戦です。それぐらいイギリス海軍は強い。もともと海賊の子孫ですから。イギリス王家の祖先のノルマン人はバイキングだから、海戦が得意です。



【奴隷貿易】 女王はこの海賊を使ってぼろ儲けしていく。さらに1560年代から奴隷貿易に手を染める。おしとやかな女王様を想像していたらダメですよ。裏も表もある、酸いも甘いも知り尽くしたような、海千山千の女王です。気に入らなかったら男でも怒鳴り飛ばされる。やわな女じゃない。

 この200年後に、イギリスに世界初の産業革命が起こって、あの小さなイギリスが大英帝国となり、世界の七つの海を又にかけるような大植民地民地帝国になっていきます。なぜそんなことが起こるのか。奴隷貿易で儲けたお金があるからです。教科書にも書いてある、「奴隷貿易なくして産業革命なしと。奴隷貿易とは、アフリカの黒人をアメリカに連れて行って売り飛ばすことです。

※ 西アフリカでの奴隷獲得の担い手は、ダホメーなどの沿岸部族でした。彼らがヨーロッパ人から鉄砲を入手して内陸部族との戦争を繰り返し、戦争捕虜を奴隷商人に売り払ったのです。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P47)



【私掠船】 今までアメリカ大陸で一番金儲けしてるのはスペインです。スペイン船はアメリカ大陸の銀をいっぱい船に積み込んで、スペインに運んでいるんですね。それをイギリスが襲う。襲っていいのかって? この時代におまわりさんなんていないんですよ。誰も海賊を捉えられないんです。だからスペイン船を襲撃する。誰を使ってか。仲間の海賊を使ってです。この女王様はこういう海賊たちのお仲間です。

 こういう犯罪船・・・・・・別の国のお宝船を襲ったら本当はダメでしょ・・・・・・しかし教科書はご丁寧にちゃんと名前を付けている。これを私掠船という。早い話が海賊船です。金銀財宝があれば、どんな船でも襲って自分のものにする。この海賊の総元締め、それがイギリスの女王です。何かすごい世界です。
 そして海賊が、金銀財宝を奪ってガッポリ儲けて、それを女王にもって来ると誉めるんです。「よくやった」と。「おまえは大した男だ。爵位を授けてやる」と。爵位とは貴族の位です。これを海賊に与えるんです。「お金を稼いで来たから、おまえを貴族にしてやる」と。この海賊の親玉がドレークです。実体は海賊です。それが貴族になる。サー・ドレークという立派な名前になる。本当はただの海賊です。


エリザベス:ゴールデン・エイジ (字幕版)



 イギリスによる富の収奪はこのあとも続きます。このことについて、宇山卓栄氏が3つの段階を挙げていますので、それを引用します。

※ イギリスの悪辣なる収奪システムの拡大には三つの段階があります。 第1段階は16世紀の私掠船の略奪、 第2段階は17~18世紀の奴隷三角貿易、 第3段階は19世紀のアヘン三角貿易です。

【1】 第1段階の私掠船とは、国王の特許状を得て、外国船の捕獲にあたった民間船で、国王が許可し、国王や貴族が資金援助した海賊船でした。イギリスの私掠船は、スペインやポルトガルの貿易船を繰り返し襲い、積み荷を略奪しました。積み荷を売却した利益は国王や金属などの出資者に還元され、イギリスの初期資本の蓄積に寄与します。この海賊私掠船のスポンサーリストにエリザベス女王の名前も掲載されていました。
【2】 イギリスの第2段階の収奪は、17世紀後半以降の黒人奴隷貿易です。黒人をカリブ海の西インド諸島に搬送し、砂糖プランテーションで強制労働させて、砂糖をイギリスに持ち帰る三角貿易を行います。イギリスは17~18世紀、スペインやフランスという競合者と戦争し、彼らに勝利することで奴隷貿易を独占し、莫大な利益を上げていきます。当時、奴隷貿易ビジネスへ出資した投資家は30%程度のリターンを受けていたとされます。この犯罪的な人身売買ビジネスが、イギリスにとって極めて有望な高収益事業であったことは間違いありません。
  18世紀前半から産業革命が始まると、綿需要が高まり、綿花栽培のプランテーションが西インド諸島につくられます。綿花は砂糖に並んで「白い積み荷」となります。17~18世紀のイギリスは砂糖や綿花を生産した黒人奴隷の労働力とその搾取のうえに成立していました。1790年代に産業革命が本格化すると、西インド諸島のプランテーションだけでは原綿生産が間に合わ間に合わず、アメリカ合衆国南部一帯にも大規模な綿花プランテーションが形成され、黒人奴隷が使われました。18世紀後半に至るまで1000万~1500万人の奴隷たちがアフリカから連行されたため、アフリカ地域の人的資源が急激に枯渇しました。
 人道的な批判や世論も強まり、イギリス議会は1807年、奴隷貿易禁止法を制定します。しかし、それでも19世紀半ばまで奴隷貿易は続きます。この頃、イギリスはインドの植民地化を着々と進め、インド産の原綿を収奪しました。
【3】 イギリスの第3段階の収奪として、奴隷三角貿易の衰退とともに、19世紀、イギリスはインドのアヘン中国のお茶を結びつける三角貿易を始めます。イギリスで喫茶の習慣が拡がり、イギリスは中国のお茶を求め、銀で支払いをしていました。そのため、イギリスは輸入超過状態となり、銀の流出が止まりませんでした。そこでイギリスは銀の代わりにインド産のアヘンを中国に輸出し、茶を中国から得ました。
  ジャーディン・マセソン商会などの貿易商がアヘンの中国への輸出を担当し、大きな利益を上げて、逆に中国側の銀が流出しはじめました。ジャーディン・マセソン商会は1832年に、マカオで設立されて、イギリス東インド会社の別働隊のような役割を担った民間商社で、アヘン貿易を取り仕切ります。
 アヘン戦争の開戦に際し、ジャーディン・マセソン商会は議員に対するロビー活動で多額のカネをばらまき、反対派議員を寝返らせます。ジャーディン・マセソン商会は、アヘン戦争でイギリスが占領した香港に本店を移し、さらに上海にも支店を開き、中国市場に進出します。ジャーディン・マセソン商会は、清朝政府に対して借款を行い、清崩壊後も鉄道の敷設権や営業権などを得て、莫大な利益を上げていきます。今日でも、ジャーディン・マセソン商会は国際的な複合企業です。
  アヘン戦争後、香港上海銀行が設立されます。香港上海銀行はジャーディン・マセソン商会をはじめ、サッスーン商会などのアヘン貿易商社の資金融通や、送金業務を請け負いました。香港上海銀行は香港で、アヘン戦争以降、今日まで続く通貨の発行もおこない、中国の金融を握ります。
  このようにイギリスの覇権は奴隷貿易の人身売買業者、アヘン貿易のドラッグ・ディーラーなどによって形成されたものであり、その犯罪的かつ反社会的な手法なくして、持続可能なものでなかったことは明白です。悪辣非道、弱肉強食、厚顔無恥、こうしたことこそが国際社会の現実であることを歴史は証明しています。 
 そもそも、覇権というものはその本質において、犯罪的な収奪によって成立するものです。ウォーラーステインは覇権国家の条件を『圧倒的な生産力』『圧倒的な流通力』『圧倒的な金融力』と言いましたが、これら三つの条件に加え、『圧倒的な詐術力』『圧倒的な強奪力』の二つの条件を加えなければなりません。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P179~182)



【綿織物の人気】 これと同時にイギリスでは、毛織物業が発展しつつあります。ヨーロッパ人は毛を着る。動物繊維を着ています。前にも言ったけど、ただ毛は洗ったら縮む。だから基本的に洗えない。汗まみれで、着つぶすんです。だから汚いんですよ。

※ 綿花を栽培できない寒いヨーロッパで、衣料は毛織物(ウール)製品が主流でした。何よりも、綿織物がウール製品と決定的に違うのはウォッシャブル、水洗いできることでした。ヨーロッパ人は水洗いできない不潔なウール衣料を着ていたために病原菌に侵されやすく、特に免疫力のない乳幼児の死亡率が高かったのです。18世紀以降、綿製品がヨーロッパで流通すると、乳幼児の死亡率が劇的に改善されます。・・・・・・
 こうなるとイギリスなどのウール製品業者は壊滅状態に陥り、彼らは生き残りをかけてビジネスモデルの転換を図らなければなりませんでした。イギリスはインド産「キャラコ」に対抗するために、アメリカ西部のカリブ海諸島やアメリカ南部に奴隷制プランテーションを経営し、インド産綿花に代わる安い原料を栽培します。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P165)


 ヨーロッパ人が明治に日本に来て「こいつら日本人は毎日風呂にはいっているぞ」と驚くんです。ということは、彼らは毎日風呂にはいっていない。臭くて臭くてイヤになったころにシャワーを浴びるだけです。だから女は臭い消しとして香水を振りまく。それにバカな男が騙される。
 日本人のように、毎日風呂に入っている人間に香水なんて要らない。そのくらいヨーロッパ人は汚いんですよ。着ているものも洗わない。

 でも木綿は洗えるんです。これがヨーロッパにはない。アジアにしかない。特にインドにしかない。ヨーロッパ人が木綿が欲しくて欲しくてたまらないというのは、そういうことです。我々のようにふだんに木綿を来ている人間から見ると、この感覚は分かりませんね。でもヨーロッパには毛織物しかない。この毛織物で儲けているのがイギリスです。



【イギリス東インド会社】 イギリスも、そういう木綿が欲しい。それがあるところはインドだから、そこと貿易するために1600年イギリス東インド会社という貿易会社をつくります。東インドは本当のインドです。
 貿易は船で行く。海賊が行く。ちゃんとした商行為が成立すればいいけれども、成立しなかったら子供の使いじゃないから、モノを奪ってくる。殴ってでも「売れ」と言って奪ってくる。荒っぽい商売です。
 さっき言ったオランダ東インド会社は、実はこの2年後の1602年です。それが世界初の株式会社になります。

  この動きはスペインと何が違うか。国家とは別に、民間人が貿易をしているんです。スペインは王様独占だった。しかしイギリスやオランダは違う。金持ちたちが国家プロジェクトにお金を出して、「俺も俺も、俺も参加させてください」と言って、それに出資していく。

※ イギリスの植民地は、東インド会社が植民地経営をしていましたが、東インド会社を運営していたのは主にユダヤ人たちです。東インド会社の存在を見ればわかるように、国の経営というのは、その当時から民営化が始まっていました。・・・・・・東インド会社のようなシステムを全世界で広げて行こうとするのが、今日のグローバル化であり、それを強く望んでいるのが国際金融資本です。・・・・・・そこで必要になるのが「新しい秩序」というわけです。・・・・・・その「新しい秩序」とは、ユダヤ思想による秩序です。国境をなくし、国家主権をなくし、国家そのものをなくす。金融の分野はもともと無国籍ですから、金融の論理の行き着く先は世界統一市場であり、それに向かって世界は動いていくと彼ら(国際金融資本家)は見ています。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 2015.12月 P188)

※ 実際に植民地を経営したのは、東インド会社などの民間企業でした。東インド会社は、主としてユダヤ人企業家が経営していた会社です。彼らの立場にたって考えてみると、イギリスの帝国主義政策の結果としての植民地支配ではなく、東インド会社がビジネスをするために、当時、最強国だったイギリス帝国を利用したという見方もできます。(「反日中韓」を操るのは、じつは同盟国・アメリカだった 馬渕睦夫 WAC 2014.10月 P105)


 船が難破して出資金がパーになることもありますが・・・・・・確かにリスクは高いですが・・・・・・生きて帰れれば100万円が10倍の1000万円になる。だからこれが軌道に乗れば、イギリスに大金持ちがいっぱい出てくる。こうやってそれに出資した人たちがお金を蓄えていくんです。
 しかも会社が潰れたら、出資した者は、普通はその会社の借金を返さないといけませんが、株式会社の場合は返さなくてよいのです。これが有限責任です。「政治・経済」で習ったと思います。株式会社は有限責任です。会社がいくら借金を抱えて倒産しても、会社の出資者である株主は、それを返さなくていい。1億円の借金を抱えて会社が倒産しても、株主はその会社に10万円投資していたら、10万円だけ損すればいい。後の借金は払わなくていい。では借金は誰が払うのか。誰も払わないです。これが会社の倒産です。あとは誰も責任を負いません。

 儲かれば儲かったお金は株主のもの、失敗して損失を出したらそのお金は誰も払わなくていい。この形式が今の株式会社です。これはもともとヨーロッパだけのルールだったんです。他の地域はそんなことは許しません。しかしその後、ヨーロッパの株式会社のルールが世界中に広がり、いまでは日本の会社もそういうルールで成り立っています。なぜこんなことになったのか、というのがこの後の歴史です。



【アメリカへの移民】 それからイギリスの宗教改革でプロテスタントになった人たちは、イギリスを捨ててアメリカに渡るんです。アメリカの東海岸の東北部、ニューイングランド地方と今は名前がついている地域です。これは逆ですね。イギリス人がそこに住み着いたから、ニューイングランドつまり新しいイングランドという名前をその地域につけたんです。そして今でもそう呼ばれています。

 最初にアメリカに行った人たちは、1620年に渡ったピルグリム・ファーザーズという。ちょっと有名な一団です。乗って行った船はメイフラワー号といいます。「オレたちがアメリカ一番乗りだ」と。アメリカはイギリス人中心の国です。だからアメリカでは英語を話しています。むかし英語がイギリス語だというのを知らない生徒が一人だけいました。「英語ってどこの言葉ですか」と。英語はイギリス語です。



【インド貿易】 1600年代の初めは、イギリスはまだオランダと張り合ってる最中で、アジア方面に関して一番欲しかったのは実はインドネシアでした。そこで胡椒が取れる。しかしアジアではオランダと戦って負けます。この事件が1623年アンボイナ事件です。イギリスがオランダに負けた事件です。
 負けたからどこに行くか。イギリスは、今度はインドに行く。だからこの後、イギリスのアジア植民地はインドになる。

 これで終わります。ではまた。


新「授業でいえない世界史」 第28話の1 17世紀 三十年戦争(独)、ピューリタン革命(英)

2019-08-26 08:05:15 | 新世界史11 近世西洋

【ドイツ】
【三十年戦争】 今度は、中世ではヨーロッパの中心であったドイツです。宗教戦争の本場はここです。ルターはドイツ人であった。このルターの宗教をめぐって血で血を洗う戦いが起こります。
 1618年から1648年まで三十年戦争が起こる。これが30年間も続く一番ひどい戦争です。この主戦場がドイツです。戦ったのはドイツの中の旧教つまりカトリックと、新教つまりプロテスタントです。
 カトリック側の中心は伝統を守ろうとする勢力です。ローマ教会が大好きなドイツ王です。ただドイツ王は正式には神聖ローマ皇帝という。これは実質的にドイツの王です。それに対して「この王を引きずり下ろそうぜ」というのが家来の大名たちです。そういうドイツ領主プロテスタント側です。
 これが外国にそれぞれ応援を求めたから、それはたんにドイツ内の戦争じゃなくなって、国際戦争つまりヨーロッパ全体を巻き込むような戦争になっていきます。だからフランススウェーデンも加わります。そういう大々的な戦争になっていって、いつ果てるとも知れない、ついにはドイツの人口の3人に1人が死ぬまで戦うという、すごい戦争になる。

 そして決着がはっきりしないまま「とにかくもうやめようよ」というのが1648年です。その地名を取ってウェストファリア条約といいます。
 ドイツはもうぐちゃぐちゃでバラバラです。つまり実質的に、国をまとめなければならない皇帝が負けたということです。滅ぼされはしませんが、ドイツの神聖ローマ皇帝にはドイツをまとめる力はもうありません。逆にお殿様たち、日本でいえば大名が力を持ち出した。

 今までヨーロッパの政治は神聖ローマ帝国であるドイツが中心だったのが、そのドイツにはもう力がない。するとその周辺のフランスやイギリスが強くなる。そして「ドイツの命令には従わないぞ」とイギリスの王様が言う、フランスの王様も言う。それまでは何となく「神聖ローマ皇帝の命令には従わないといけない」という慣例があったんです。しかしそれが無くなった。これが教科書的にいうと主権国家の成立です。
 つまり近代国家は戦争から出てくるのです。平和の中から話し合いで出てきたのではない。しかもこのあと戦争はますます激しくなります。主権国家は、戦争をする国家として登場します。

※【宮廷ユダヤ人】

※ 三十年戦争などで、新大陸からもたらされた大量の銀が浪費されたのです。スペインの国家収入の約7割が、宗教戦争の戦費・戦債の利払いに費やされたと言われるほどです。・・・・・・三十年戦争では、ドイツの多くの小国が、商才のあるアシュケナージムを競って宮廷ユダヤ人として迎え入れて富国強兵を図ります。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P99)

※ ドイツにおいても、ユダヤ人は早くから、しばしば、もっぱら御用商人の地位を占めていたことがわかっている。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P88)

※ グレーツによれば、こうした「宮廷ユダヤ人」は三十年戦争中のドイツ皇帝の「発明」であった。・・・・・・本質的に国家財政は、彼らの支援に依存していたのだ。・・・・・・100年以上にわたってウィーンの宮廷関係の銀行家はユダヤ人ばかりであった。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P94)

※ 1618年、ドイツで30年戦争が起こり、開戦直後にハプスブルグ家は崩壊寸前となる。権力を失わずにすんだのは、ユダヤ人、ことに資金調達に奔走したプラハのヤアコヴ・パッセヴィのおかげである。・・・・・・
 この悲惨な戦いはドイツを荒廃させたが、ユダヤ人をヨーロッパ経済の中心へと駆り出した。・・・・・・食糧やかいばの調達に東欧におけるユダヤ人の食糧供給網が役立ったのである。ユダヤ人は鋳造工場や火薬製造工場を建て、ヨーロッパと東方を巡って武器を買いあさった。・・・・・・1622年に、リヒテンシュタイン公とヴァレンシュタイン将軍とともに帝国の銀貨造幣局を賃借する借款団を創設したのもパッセヴィである。彼らは皇帝に巨額の戦費を提供する一方、鋳造硬貨の質を落とすことによってその分を取り返した。・・・・・・
 ユダヤ人は、いくら物資が不足していてもどこからか入手してくる才能や、敵だらけの厳しい状況下でも資金を調達してくる才能があったので、どの陣営にとってもなくてはならない存在となっていた。・・・・・・
 そうこうするうちに、ヨーロッパの強国が次々と戦闘に加わるようになり、ラインラントとアルザス、ボヘミアとウィーンのユダヤ人は当事国すべてに物資を供給する。・・・・・・
 30年戦争の間・・・・・・ドイツはかつてないほどの辛酸をなめたが、ユダヤ人は生き延びただけでなく繁栄さえ味わった。・・・・・・
 さらに、平和が訪れた後もユダヤ人は戦時中に劣らず役に立つことがわかった。彼らは今や専制君主国家に欠かせぬ存在となり、巨大なバロック宮殿や美しく設定された都市を建てるのに必要な資金を調達したり、重商主義の経済政策に乗り出したりした。・・・・・・ユダヤ人が調達した資金でウィーンのすばらしい教会カールスキルヘや、ハプスブルグ家の壮麗なシェーンブルン宮殿が建てられている。(ユダヤ人の歴史 上巻 ポール・ジョンソン 徳間書店 P422)

※ 三〇年戦争の時代から、それまで中世のアラブ王国とキリスト教スペイン王国にしか見られなかった宮廷ユダヤ人(宮廷に出入りを許された貴族おかかえのユダヤ人。贅沢品の供給、貨幣鋳造、軍隊の用達などをした)が、中央ヨーロッパでは当然となった。(ユダヤ人の2000年 歴史篇 市川裕 同朋舎出版 P146)


 それまではヨーロッパの国々は、神聖ローマ皇帝の命令に従わないといけないという慣例があった。しかし「そんなものくそ食らえだ、神聖ローマ帝国はオーストリアだけを支配している小さな国にすぎないんだ」と。このあとの神聖ローマ皇帝は、実質的にオーストリアを支配するだけになります。

 「あんな大きい国をですか」とか言わないでくださいよ。オーストリア人のシャレで、ウィーン空港で「ここにカンガルーはいません」というシャツを売ったという話を以前しました。オーストラリアじゃないですよ。オーストリアです。今でもドイツの南にオーストリアがあります。この国は、今は小さな国になっていますが、昔は大きかった。今の3~4倍ぐらい広かった。もともとは神聖ローマ皇帝の本拠地です。ドイツの王様つまり神聖ローマ皇帝は、ヨーロッパ支配権を実質的に失ったのです。
 ハプスブルク家はドイツの支配権を失い、本拠地オーストリアへ撤退します。
以後ハプスブルクの国は神聖ローマ帝国とは呼ばれず、オーストリアと呼ばれます。

 


【イギリス】
【ピューリタン革命】  イギリス革命に行きます。1600年代の世の中は不況です。新大陸からの銀が入ってこなくなって、だんだんと景気が悪くなる。
 そうなると不安が増大して、今まではそういう不安を宗教で解決していましたが、宗教同士が戦ってるからますます疑心暗鬼になる。
 何が行われるようになるか。宗教上の信条に過敏になり、気に入らない人間を魔女としていく。そして裁判にかけて火あぶりにする。こんな蛮行がヨーロッパで盛んになります。魔女刈りで一番人が殺されたのは、実はこの17世紀です。
 そういう不安と不景気の中でイギリスで革命が起こっていく。不景気の理由は新大陸からの銀の減少です。

 これが1640年からのピューリタン革命
です。
 ピューリタンというのは、宗教改革でカトリックに反対したプロテスタントの一派です。より具体的にいうとルター派ではなくて、カルヴァン派です。彼らの特徴はお金が大好きで、仕事も大好き、金を稼ぐのも大好きという人たちです。富が自分が救われた証拠だというんです。
 彼らを清教徒ともいう。なぜ清らかなキリスト教徒と言われるか。とにかくで几帳面で、時間に厳しく、綺麗好きです。家の中も掃除を1日に2回3回、まだ足りずに暇さえあれば何かを磨いている。ドアのノブまで一所懸命磨いていないと気が済まない。他宗派の人が、皮肉交じりに清教徒と呼んだんです。
 でも本当はお金が大好きです。この人たちが時の王様に歯向かう。


※ 1603年3月、エリザベス女王死去の報を受けて、スコットランド王ジェイムズ6世がイングランド王ジェイムズ1世として即位した(在位1603~25)。・・・・・・新国王にたいしていち早く動いたのは、国教会からカトリック的な要素を除去し、宗教改革を徹底しようとしたピューリタンたちであった。彼らは、ジェイムズが戴冠のためにロンドンへ向かう途上の1603年4月、「千人請願」という文書を提出して、国王に教会改革の継続を要求した。(新版世界各国史11 イギリス史 川北稔編 山川出版社 P179)


 国内もヨーロッパ全体も銀が減少して景気が悪い。そういう1600年代は「不況の17世紀」といわれます。そういう時にイギリスでピューリタン革命が起こります。

 ここではイギリスの内政面で革命が起こったことを言いますが、同時にそのイギリスが気にくわないという人は「こんな国捨てて、アメリカに渡って行くぞ」という人が出てきます。イギリスからアメリカへの移民です。その最初の一団が、さっき言った1620年ピルグリム・ファーザーズです。彼らはピューリタンです。

 彼らはイギリス国教会に不満なのです。イギリス国教会はカトリックではないけれども、ピューリタンから見ると中途半端で、ピューリタンのなかには、「こんな教会にはつきあっていられない」と言って国を出て行く人と、「いや、国教会に属しながら内部から国教会を変えていこう」という人に分かれます。ピューリタン革命は、この「内部から国教会を変えていこう」という人たちが多く参加します。彼らは国王と国教会に不満なのです。この二つは結びついているからです。

※ ピューリタニズムが、議会に選出されることの多いジェントリ層に受容されたことは、革命の前提条件として重要だろう。彼らの大半は、国教会支持にとどまっていたが、国教会の改変に反発し、宮廷の官職にもあずかれない彼らの一部は、ピューリタニズムに接近していった。革命前にピューリタンたちは、少なからず反対派のネットワークをつくりあげていたが、それは、国内にとどまるものではなく、新大陸オランダにまでおよんでいた。新大陸への植民活動は、もちろん宗教的動機だけに起因するものではなかった。経済的な目的を中心にして、1607年、ジェイムズタウンがヴァージニア会社によって建設された。1627年にはバルバドス島(のちに砂糖プランテーションで知られる)が領有され、植民地帝国の基礎が築かれた。こうした事実は、地方の企業家的ジェントリがロンドン商人などと提携して進められることが多かった。・・・・・・
 他方、ピューリタンの一部は、より近くにあるプロテスタントの同盟国オランダへ亡命した。1630年代に亡命したピューリタン聖職者たちの大半は、オランダにとどまることなく、革命開始後に帰国した。帰国者は、独立派の指導者となることが多かった。・・・・・・このようにピューリタンのネットワークは、国内のみならず、海外にも張りめぐらされていた。迫害され、抑圧されたピューリタンたちは、1640年代になるといっせいに表舞台に登場することになる。(新版世界各国史11 イギリス史 川北稔編 山川出版社 P187)


 結論をいうと、イギリスは革命軍が勝って、王を殺していく。普通は日本だったら百姓一揆が起こっても、百姓が負ける。しかしヨーロッパは逆です。彼らが本気で腹を立てたら、王だって殺していく。 
 この時の王はジェームズ1世です。その次の王は息子のチャールズ1世です。彼らはドイツの神聖ローマ帝国がガタガタになったあと、「国の主権は皇帝ではなくて各国の王にある、神様がそう決めたんだ」という王権神授説を唱えます。とくに息子のチャールズ1世は、新しい税金を取ろうとします。


ロンドン旅行ガイド | エクスペディア



 イギリスの特徴として、すでに1200年代から議会があった。議会とは、王様に文句をいう組織だと思ってください。
 それに対して王は「オレは神様から主権をもらってるんだ、議会は黙っていろ」という。それに対して、「何でだ」と議会は腹を立てる。「いつからそんなことになったのか、王は300年も前から議会の伝統を守ってきたじゃないか、それを守れ」という。

 議会は、最初それをちょっと丁重にお願いした。これが1628年の権利の請願です。「お願いです。守ってください」と。権利というのは、ここでは貴族の権利です。その貴族の権利を、話し合って王に申し入れるのが議会なんです。その中で最も大きなものは「勝手に税金を取るな」ということです。「税金を取るときは議会の同意を得ろ」ということです。
 するとチャールズ1世は、1629年に「おまえたち議会は解散だ、もう集まるな」と言ってその後11年間、議会を開かなかった。


 ほぼ同時に、海をわたってすぐのオランダ、ここは小さい国ですが、当時景気がよかった唯一の国です。
 ここでオスマン帝国からもらった珍しい花、チューリップの球根にお金をつぎ込む人が出てきて、一株がなんと100万円、200万円になる。これが1637年チューリップバブルです。たんなるチューリップの球根が、100万円、200万円になる。しかしこんなことは、いつまでも続かない。ピークをつけたら、さっと一気に値が落ちる。これがバブルです。
 それから400年経った21世紀の今でも、人間は学習能力ないですね。同じことをもっと大規模に世界規模でやってる。そんなバブルの始まりはここからです。革命の一方では、このような飽くなき金銭欲が渦巻いています。

 話をピューリタン革命に戻すと、ところが議会を開かない間、1630年代の末にスコットランドに反乱が起こります。この反乱の原因も宗教がらみで、カルヴァン派であったスコットランドにイギリス国教会を強制しようとしたために起こったものです。国王は、その鎮圧の戦費調達のために、1640年に議会を再招集した。しかし開いたところがやっぱり意見が合わない。翌年の1641年、そこに今度はカトリックであったアイルランドに反乱が起こります。これにはカトリックであるスペインやフランスが後ろで糸を引いているという噂も流れます。
 1642年から、議会が反発して国王との内戦が始まります。その王と対立した議会派にピューリタンが多かったので、ピューリタン革命と呼ばれます。

※ 宗教的には、国王派は国教会の信者と一部のカトリック教徒であり、議会派はピューリタンであった、といえるけれども、これはごく一般化したいいかたにすぎない。また当時の人たちの観察によれば、国王に味方したのは、貴族や大ジェントリとかれらにつきしたがう農民や召使いであり、他方議会がわには、貴族の一部と中小のジェントリ、自営農民、さらにロンドン市の大商人商工業者などがついた、といわれている。(世界の歴史13 絶対君主の時代 今井宏 河出書房新社 P180)

※ のちに革命政府の要職につくことになるある人物は、つぎのような正直な思い出を書き残している。「文章による戦いから、いまや軍隊を集め、指揮官や士官を任命する問題にまでどうしてきてしまったのか、わたしたちにはどうもよくわからない」。
 議員になっていた地方の有力者すですらこうだとすると、一般の庶民が味わった困惑は想像にかたくない。(世界の歴史13 絶対君主の時代 今井宏 河出書房新社 P178)


 革命とは血が流れることです。日本流にいうと内乱ですが、この内乱が鎮圧されるどころか、逆に国を変えてしまうのです。
 そこでイギリス人は、王党派つまり王を支持する人と、議会を支持する人に真っ二つに分かれていく。一方ではイギリスを見捨ててアメリカに渡っていく人もいる。そういうなかで、国内がぐちゃぐちゃになって、内乱が7~8年続きます。
ふつう日本だったら百姓一揆は農民側が負けるのですが、ヨーロッパはそうじゃない。逆に議会側が勝利します。

 議会側はアマチュアの軍隊ですが、この戦いで大活躍したのが、騎兵の一隊長にすぎなかった
クロムウェルです。彼の軍隊は鉄騎隊といって、ピューリタン中心の軍隊でした。かれは貴族ではなく、ジェントリーという地方の地主です。そこから議会の議員に選出され、革命軍として活躍し、その中心になっていきます。のちのフランス革命で下級士官から出世したナポレオンもそうですが、こういう人には何らかの支持母体があります。ただこういう混乱の時には、それが非常に見えづらくなっています。
 議会が勝利すると「わかったらこれから気をつけろよ」で済むようなそんな甘いものじゃない。王は殺されます。1649年チャールズ1世処刑です。これがヨーロッパの革命です。


チャールズ1世の処刑 Oliver Cromwell: Execution Of Charles I



 この後、イギリスはしばらく王様がいない国になります。議会派の軍隊を率いていた中心人物が中心になって・・・・・・王にはならないけど・・・・・・政治を行う。これが戦いで活躍したクロムウェルです。

※【イギリス革命という名称変更について】
※(●筆者注) ピューリタン革命名誉革命を合わせてイギリス革命という名称が使われ始めているが、これはピューリタン革命をピューリタンが原因とするよりも、イングランド、スコットランド、アイルランドの三王国の内乱に原因があるとする視点からのものである。しかし、このピューリタン革命はグローバルな影響をもつものであって、それをイギリス内の三王国の内乱に原因を求めることは、グローバルなことをローカルなものにしてしまう恐れがある。この革命には確かにピューリタンの動きに不透明なところが多い。しかし、世界史的に視野を広げてみれば、ピューリタンが世界史に及ぼした影響は大きく、それと同時にユダヤ人の動きが垣間見えることも大切なことである。イギリス革命という名称は、ピューリタンという名称を消すことにより、そのことを視野から外すものであり、グローバルなことをローカルなことに矮小化し、カルヴァン派が世界に及ぼしたグローバルな変化を覆い隠す危険がある。この革命のもつ宗教性を軽んじてはならないと思える。


※【ユダヤ人のイギリス流入】
※ エドワード1世が1290年に英国のユダヤ人を追放してからというもの、ユダヤ人がそこに住むことは法的に絶対許されないと思い込んでいた人が多かった。・・・・・・
 英国の王党派が破れ、1649年に王が処刑されたのを見て、これはユダヤ人が英国への入国をかち取るよい機会だとメナシェ(オランダのアムステルダムのユダヤ人学者 1604~57)は考えた。今や王に敵対する清教徒が事実上国を動かしていたが、彼らは以前から英国を代表する親ユダヤ派であった。・・・・・・
 第1次英蘭戦争が起こるとしばらく何の手も打てなかったが、1655年9月メナシェは自らロンドンへ乗り込み、護国卿オリヴァー・クロムウェルに請願書を出している。それは、ユダヤ人の入国を禁ずる法を撤廃し、政府の定める条件でユダヤ人に入国許可を与えて欲しいという請願書であった。・・・・・・来てはいけないという法令がないのだから。ユダヤ人はやってきた。・・・・・・英国は近代的ユダヤ人共同体が発祥しうる最初の地となった。・・・・・・(ユダヤ人の歴史 上巻 ポール・ジョンソン 徳間書店 P456)

※ (1657年)、クロムウェルは、1290年のエドワード1世によるユダヤ人追放令以来、イギリスへの入国が禁止されていたユダヤ人の入国許可に踏み切りました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P123)

※ イギリスの財政は17、18世紀の間、きわめて強力にユダヤ人によって支配された。イギリスでは、長期議会の資金欠乏が、富裕なユダヤ人のイギリス流入の最初のきっかけを与えた。彼らの流入がクロムウェルによって認可されるはるか以前に、富裕なかくれユダヤ教徒が、とくにスペインとポルトガルから、ほとんどの場合、(オランダの)アムステルダムを経由して流入してきた1643年にはとくに大勢のユダヤ人がやってきた。そして彼らの中心は、本人自身がマラノス(かくれユダヤ人)であるロンドン駐在のポルトガル公使アントニオ・デ・ソウザ家であった。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P91)

※【クロムウェルとユダヤ人】
※ 1655年、イギリスのカリブ界進出を画策するクロムウェルにより海賊の拠点だったジャマイカ島が征服され、同島がイギリスのサトウキビ栽培の新たな中心になりました。・・・・・・ユダヤ史家佐藤唯行氏の「英国ユダヤ人」は、「バルバドス島のユダヤ人はプランターあるいは商人として成功すると、ロンドン郊外の高級住宅地で余生を送るために帰国し・・・・・・」と述べ、ユダヤ人のプランター(農場主)は成功を収めるとイギリスに戻り、ジェントリー(領主、地主)になったことを指摘しています。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P93)

※ (イギリスの)共和政治の時代(1649年のチャールズ1世の死刑執行から1660年の王政復古まで)には、一番重要な軍の調達者は、1630年と1635年の間にロンドンに流入し、まもなくイギリスの指導的商人に成り上がった「大ユダヤ人」A・F・カーヴァジャルであった。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P87)

※ イギリスにおけるよりユダヤ人の後援者は周知のようにクロムウェルである。・・・・・・彼は商品と貨幣の取引をさかんにし、それとともに政府にとって能率の良い友人を獲得するためには富裕なユダヤ人の商社を必要とすると信じた。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P49)

※ 17~18世紀に西ヨーロッパが資本主義、重商主義時代になるにつれて、イギリス、ドイツ、オーストリア、デンマーク等では特権階級のユダヤ人、すなわちいわゆる宮廷ユダヤ人が頭角をあらわした。彼らがいかに重要な役割を果たしたかの証拠として、 H・アーレントは、
  イギリスのエリザベス女王の金主はセファルディー・ユダヤ人だったこと、
 クロムウェルの軍隊はユダヤ人から資金を得ていたこと
 オーストリアではユダヤ人がハプスブルク家に5500万グルデン以上の信用貸しをしていたこと、
 ザムエル・オッペンハイマーの死はオーストリア国家と帝室を破産に瀕せしめたことを挙げている。
 宮廷ユダヤ人の活躍がとくに著しかったのは、帝国が多くの小国家に分割された三十年戦争によって財政的に困窮していたドイツである。(ユダヤ人 上田和夫 講談社現代新書 P134)

※【クロムウェルとフリーメイソン】
※ クロムウェルはメイソンであったとは思われないが、フリーメイソンリーを、分裂した宗教的、政治的、人間的諸集団を超党派的統一へともたらすために利用した。(フリーメイソンリー 湯浅慎一 中公新書 P103)


 しかしクロムウェルはピューリタンで、決まりにうるさい、時間にうるさい、非常に厳格な政治を行う。決まり通りにしないと気が済まない。実績も上げ、戦さにも強いけれど、人気は今ひとつです。この人がピューリタン的な独裁政治をする。

※【クロムウェルによる弾圧】

※ 政権を握るとクロムウェルは下級階級を弾圧し始めます。とくに下層階級で急進的な共和制を主張した水平派と呼ばれる人々を危険視し、大勢を処刑しました。その一方、クロムウェルは政権運営のために、台頭するブルジョワ中産階級の経済力が必要と考え、中産階級を擁護する政治を行います。・・・・・・
 王政を倒す革命のエネルギーを下級階級に求め、革命が成功すると彼らを切り捨て、政権運営能力を中産階級に求め彼らと手を組みました。(世界一おもしろい世界史の授業 宇山卓栄 中経の文庫 P230)



新「授業でいえない世界史」 第28話の2 17世紀 奴隷貿易、金匠手形

2019-08-26 08:03:43 | 新世界史11 近世西洋
【英蘭戦争】 ただこの後も、イギリスは外国との戦いには強い。唯一景気がよかったオランダと戦って、1回目1650年代、2回目1660年代、3回目1670年代、その3回ともイギリスが勝つ。この3回にわたる戦いが英蘭戦争です。ここでオランダとイギリスの関係が逆転します。
 100年前のエリザベス1世の時のイギリスの敵はスペインだった。その次はこのオランダです。このピューリタン革命のあと、強いイギリスになっていく。

 戦いに勝つとイギリスは、海の航路つまり大西洋貿易航路をオランダから奪います。奪うと同時に平和な国になっていくか。とんでもないです。イギリスは、アフリカから奴隷を連れてきて、それを売り払っていく。これで儲けていく国になります。

※【オランダの北米植民地】

※ オランダは、1624年に北アメリカ東岸にニューネーデルラント植民地を開き、ニューアムステルダムを建設した。ニューアムステルダムは、1664年にイギリスが奪って、のちにニューヨークと改名された。ニューネーデルラント植民地は、イギリスによるニューアムステルダム奪取の直後に起こった第2次イギリス=オランダ戦争の終結時の1667年にイギリス領と定められた。(詳説世界史研究 木村靖二他 山川出版社 P291)

※ 1655年4月26日、アムステルダムの会社の支配人は、彼(ニュー・アムステルダムの政権担当者)への手紙のなかで、西インド会社の領域内でのユダヤ人の商業と居住を認めよとの指令を出した。「なぜなら彼ら(ユダヤ人)がわが社に投資した莫大な費用のためである」(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P76)

※【ユダヤ人のアメリカ流入】

※ 1654年・・・・・・23人のユダヤ人難民がブラジルのレシフェから、オランダ人が入植していたニュー・アムステルダムという町へやってきた。・・・・・・
 1664年に町が英国の手に落ちニューヨークとなるや、すべての不安が解消された。それ以後、ユダヤ人は英国市民としての特権はもちろん、新大陸への入植者たちが採択した宗教の自由も享受したのである。・・・・・・
 英国人は、商売上手で貿易のコネをもった入植者を求めていた。次に知事になったエドマンド・アンドロスは、キリスト教に限らず「いかなる宗教」を信じていようと法を遵守する者は平等の扱いと庇護を受けると約束した。英国本国と同様、ユダヤ人であるかどうかは問題にされなかった。・・・・・・  1677年にはニューポートに、その5年後にはニューヨークにもユダヤ人墓地が作られている。・・・・・・1730年にはシェアリス・イスラエルの会衆がニューヨークで最初のシナゴーグを奉献し、1763年にはニューポートにも格別りっぱな新シナゴーグが建てられている。・・・・・・こうして、アメリカのユダヤ人が誕生した。(ユダヤ人の歴史 上巻 ポール・ジョンソン 徳間書店 P460)

※ わたしが考えているのは17、18世紀を通じ、ユダヤ商法こそ、アメリカの植民地の国民経済を活性化した源泉であったという単純な事実である。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P77)



【奴隷三角貿易】 そういう奴隷貿易の中心になるのがイギリスです。イギリス中心に奴隷貿易が活発化する。
 奴隷三角貿易とは、イギリス・アフリカ・アメリカ、この三角形です。イギリスはアフリカの黒人をアメリカに売り飛ばしていきます。こうやって奴隷が取り引きされていく。このピークがこの1650年頃です。
  1655年、その頃イギリスは、ジャマイカ・・・・・・カリブ海に浮かぶ島です・・・・・・そのジャマイカにアフリカの黒人奴隷を連れて行く。オリンピックの短距離走で世界最速の男フセイン・ボルトはこの国の出身だった。彼も黒人です。この国の黒人は、この時の黒人奴隷の子孫です。

 そこで何を作るか。ちょうどヨーロッパで中国のお茶が流行りだした頃です。それに砂糖を入れたくてたまらないわけです。それでサトウキビをつくる。では誰が耕すか。イギリス人は鞭を持っているだけ。働くのは当然アフリカからの奴隷たちです。

※【プロテスタンティズムの影響】

※ 非ヨーロッパ世界に関する限り、プロテスタンティズムの与えた影響はあまりないか、あっても望ましくないものであった。というのも、プロテスタンティズムの予定説は、選民思想と結び付いて、ヨーロッパ以外を人間として認めない方向に向かったからである。 北米大陸のインディアンの場合に明らかなように、プロテスタントは彼らを人間として認めず、殺戮・殲滅を行って恥じないどころか、それを神の摂理の名のもとに正統化したのである。
 地球上で最後まで公式にアパルトヘイト政策を維持し続けたのが、オランダ系カルヴァン派の子孫の建国した南アフリカ共和国であったのは偶然ではない。
 ヨーロッパの各国が植民地を拡大する中で、そこにもともと住んでいた人々を人間であると認め、その権利を守るために闘った人々の先頭に立っていたのはイエズス会、ドミニコ会といったカトリック宗教改革の立場に立つ修道会であった。(世界史リブレット27 宗教改革とその時代 小泉徹 山川出版社 P86)

※【イギリスの侵略第2段階】
※ イギリスの第2段階の収奪は、17世紀後半以降の黒人奴隷貿易です。黒人をカリブ海の西インド諸島に搬送し、砂糖プランテーションで強制労働させて、砂糖をイギリスに持ち帰る三角貿易を行います。
 イギリスは17~18世紀、スペインやフランスという競合者と戦争し、彼らに勝利することで奴隷貿易を独占し、莫大な利益を上げていきます。当時、奴隷貿易ビジネスへ出資した投資家は30%程度のリターンを受けていたとされます。この犯罪的な人身売買ビジネスが、イギリスにとって極めて有望な高収益事業であったことは間違いありません。
 18世紀前半から産業革命が始まると、綿需要が高まり、綿花栽培のプランテーションが西インド諸島につくられます。綿花は砂糖に並んで「白い積み荷」となります。17~18世紀のイギリスは砂糖や綿花を生産した黒人奴隷の労働力とその搾取のうえに成立していました。
 1790年代に産業革命が本格化すると、西インド諸島のプランテーションだけでは原綿生産が間に合わ間に合わず、アメリカ合衆国南部一帯にも大規模な綿花プランテーションが形成され、黒人奴隷が使われました。
 18世紀後半に至るまで1000万~1500万人の奴隷たちがアフリカから連行されたため、アフリカ地域の人的資源が急激に枯渇しました。
 人道的な批判や世論も強まり、イギリス議会は1807年、奴隷貿易禁止法を制定します。しかし、それでも19世紀半ばまで奴隷貿易は続きます。この頃、イギリスはインドの植民地化を着々と進め、インド産の原綿を収奪しました。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P180)


 変な話があって、なぜイギリス人はお茶に砂糖を入れたのか。もともと豊かなのは中国です。イギリスに売らなくても中国人の生活は成り立っています。しかしそこに来たイギリス人が「どうしてもお茶が欲しい」というものだから、仕方なく中国人はイギリス人に売った。不要な余ったお茶しか売ってないんです。だからまずいお茶だった。

 するとイギリス人はお茶に砂糖を入れたくなる。上級なお茶、我々が飲んでいるような日本茶なんか、それに砂糖を入れるという発想を日本人はしません。上等なお茶はそれだけで十分おいしいのです。まずいお茶には砂糖を入れる。しかしこれが紅茶になって明治以降に日本に伝わって、「イギリスの紅茶はさすがおいしい」とか誰かが言い始めた。
 こうしてイギリスではお茶と砂糖をミックスして紅茶を飲み始める。しかしこれがイギリスで爆発的な流行を生みます。 



【金匠手形】 もう一つ変なことが起こるんです。この時代は金(キン)を預かる商売がある。不景気で、内乱が起こって、泥棒がいっぱいいて、金(キン)を家のタンスに入れていたら、泥棒が土足で踏みにじって取られてしまう。不安で仕方がないから、金(キン)を扱う業者に預ける。彼ら金(キン)を扱う金細工たちを金匠といいます。

※ 最大のタルムード(ユダヤ教の聖典)学者はほとんどの場合、同時にもっともすぐれた財政家、医師、宝石細工人そして商人であった。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P297)


 人から預かったものは金庫に大切に保管しなければなりませんが、しかし彼らはそれをコッソリ人に貸し出しました。そしてそこから利息をもらいます。もともとキリスト教では利息を取ることは禁止されていましたが、宗教改革期にそれがオーケーになりました。するとますます彼らは利息をもらうことに抵抗がなくなります。
 「どうせ金庫の中にどれくらいの金があるか、誰も分からないんだから、少しぐらい人に貸しても分からないだろう」、そう思って、コッソリ他人から預かった金を人に貸し付けます。そしてその利息を自分のポケットに入れます。これはいい商売です。人道的に社会のルールに反しますが、そのぶん儲けは大きいわけです。つまり彼らは「人のフンドシで相撲を取って」、儲けは全部自分のものにするわけです。しかも「人のフンドシ」を使っていることさえ秘密にします。現代の銀行の発生はここにあります。これは現代でも変わらない銀行の仕組みです。

 さらに変なことが起こります。金(キン)を預かった業者たちは、預かった証拠に預り証を切ります。これは預かった金(キン)との引換券でもあります。例えば、ズボンを買うときには「スソを曲げてください」といって、いったんそこに預けるでしょう。その時に「1週間後に来てください」と引換券をもらいます。その引換券と同じです。この引換券は、これを持っていればズボンと交換できるから、ズボンと同じ価値があります。
 すると、この金(キン)の引換券が、お金と同じ価値を持って勝手に世の中で流通し始めるんです。これが銀行券つまり今の紙幣の始まりです。いまの1万円札は正式には日本銀行券といいます。銀行が発行したものですが、もともとは金(キン)の引換券です。これを持って日本銀行に行けば、誰でも本物の1万円「金貨」と交換できたのです。

 すると彼らは、今度はコッソリと預かってもいない金の引換券を発行しだして、それをお金として人に貸し始めます。金を預かってもいないのに金の引換券だけが出回ることになります。でもそのことに誰も気づきません。その引換券は最終的には自分のところに戻ってきて、そこで破ってしまえば、誰にも分からないのです。でもその時、金業者は利息を手にします。こうやって手品のようなぼろい儲けが発生します。
 これは資本主義の隠れた伏線です。


お金ができる仕組み。銀行の詐欺システム Money As Debt



※【無記名証券】
※ (17世紀)無記名証券は、オランダを出発点としていたるところに進出した。・・・・・・中世全期、さらに近代に入ってからも、何らかの意図によって送付貨物や債務の本来の受け取り人であることを、かくすというこの手口は、ユダヤ人にとってはしばしば効果があったに違いない。そこで無記名証券の形式が、このようなかくすという手口をつくるための歓迎すべき手段として出てきた。それに無記名証券はある土地で、ユダヤ人迫害の嵐が過ぎ去るまで、彼らの財産をかくしておくことができるようにした。・・・・・・
 注目せねばならないのは、まず無記名証券の理念が、もっとも内的な本質、つまり「ユダヤ法の精神」から導き出されることであり、さらに無記名証券の法的形式は非人格的な債務関係を表している以上、ローマ法王やゲルマン法のもっとも内的な性格とは異質である半面、ユダヤ法には完全に適合していることである。・・・・・・
 ドイツ法、つまりゲルマン法の基本原理によれば、債務者はおのれがそうすると約束した者以外には、何事をも行う義務をもっていなかった。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P120~133)

※ 銀行家がはじめて持参人払の支払約束証書を、純預金がなくとも発行した瞬間こそ、新しいタイプの有価証券(銀行券)発行の時ということができる。・・・・・・
 非人格的銀行証書の誕生の動きは、15世紀はじめのヴェネチアで見られたというのが、もっともたしかなように思われる。・・・・・・
 ベネチアは全くユダヤ人の都市であった。1152年の記録によれば、ヴェネチアにはその頃すでに1300人のユダヤ人居住者がいたという。16世紀においては、ヴェネチアにおけるユダヤ人人口は6千人と推定される。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P110)

※ ユダヤ人は集団的本能から無意識に顔の見えない財務を行い、経済の手続き全般を合理化した。中世から近代初期にかけて、ユダヤ人のものだとわかっている財産や、そうとしか考えられないものは常に危険にさらされていた。・・・・・・そのためユダヤ人は海上保険も含め貿易関係の書類に架空のキリスト教徒の名前を使うようになり、これはやがて特定の個人に言及しない文言へと発展していく。また、信用状の発展とともに、彼らは無記名債権を考えだす。これは個人名を出さずに金銭を動かす新しい方法であった。・・・・・・誰のものかわからず信頼できる有価証券(為替手形や有効な銀行券など)の登場は非常にありがたいことであった。そういうわけで。これらの仕掛けに磨きをかけて広く普及させたい一心で、ユダヤ人は近代初期にいろいろなことを行う。・・・・・・その一つがイングランド銀行(1694年設立)を中心とする、法令によって有価証券を発行する権利が保障された中央銀行であり、もう一つが株式取引所である。アムステルダムではユダヤ人が東西インド会社の株を大量に保有し、株式取引所を牛耳っていた。最初に証券による大規模な取引を行ったのもユダヤ人である。・・・・・・英国で最初にプロの株式仲買人になったのもおそらくユダヤ人であろう。1697年の時点でロンドン株式取引所には100人の株式仲買人がいたが、そのうち20人はユダヤ人か外国人であった。ニューヨークの株式取引所が設立されたのは1792年であるが、その際にもユダヤ人が力を貸している。・・・・・・彼らは全世界を一つの市場とみなしていたからだ。そのような先進的な見方ができたのは、民族が離散した結果、グローバルな視野を身につけたおかげである。(ユダヤ人の歴史 上 ポール・ジョンソン 徳間書店 P466)

※【銀行券の発生】
※ ここで重要なのは紙幣の発達である。日常的な買い物に必要とする以上の硬貨を貯めると安全な保管場所が必要になる。商売上、貴金属を大量に扱う金細工師は自分の在庫を保管する頑丈な金庫をもっていたから、自然に料金を取って貸金庫業をすることになった。・・・・・・
 硬貨を金庫に保管すると、預かった側は持ち主に、いつでも預かり物を引き渡すと約束する預り証を渡した。最初は持ち主が預り証を提示したときにだけ硬貨を引き取ることができた。そのうちに、持ち主が裏書した預り証を提示した第三者にも引き渡すという慣行が始まった。この裏書された預り証が現在の小切手の前身である。
 この展開の最終段階では、預かりもの全体について一通の預り証を出すのではなく、いくつにも分けて少額の預り証を発行し、その預り証に「持参人に支払いをおこなう」と記すようになった。人々が経験を重ねて、この預り証にはたしかに金細工師の金庫にある金の裏打ちがあり、この預り証を示せば金貨が引き渡されると確信すると、金貨の代わりに預り証が流通し始める。こうして預り証貨幣が生まれた。(マネーを生みだす怪物 G・エドワード・グリフィン 草思社 P194)

 1640年、従来、ロンドンの商人たちは、金貨や銀貨などの貴金属を当時造幣所があったロンドン塔に預けていた。ところが議会と対立して財政難に陥った国王チャールズ1世が13万ポンドにおよぶ貴金属を差し押さえてしまう。王は4万ポンドの貸し付けを条件に貴金属を返還したものの、貸し付け分は返済されなかった。
 政府への信頼をなくしたロンドン商人は、長い間シティで両替業を行っていたゴールドスミス(金匠・金細工師)に貨幣を預けるようになる。ゴールドスミスは、貨幣を預かり、ベネチア銀行にならって預金証書を発行した。やがて預金証書を、同じ額の「金匠手形」という補助券に分割する。一種の紙幣である。便利な「金匠手形」はお金よりも広汎に流通したという。
 ゴールドスミスは、預金者が請求すればお金を返済したが、沢山のお金が手元に残されているのが常だった。そこでゴールドスミスは、手元に残されたお金を短期で貸し付けたり、手形の割引をしたりするようになった。ゴールドスミスが保管するお金が、預金と貸し付けの保証として作用するようになったのである。(知っておきたいお金の世界史 宮崎正勝 角川ソフィア文庫 P86)

※ 「金匠手形」の所有者は、合法的な譲渡であることを証明するサイン(裏書)をすることにより、金貨の請求権を他人に譲渡することも可能でした。・・・・・・やがて金匠は、自分が保管する「金」のうち、引き出される可能性のあるのは全体の1割から2割程度の量に限られることに気が付きます。そこで預かっている「金」の一部を他人に貸し出し、利子を取り始めるようになります。さらには、一定の枠で実体のない「金匠手形」の発行も始めました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P141)

※ 硬貨を預かっていた金細工師のほかに、硬貨を貸し出す「金貸し」という商売人がいた。金細工師は自分たちも同じ商売を、ただし他人のマネーを使ってできると思いつく。預かった硬貨を金庫で眠らせておくのはもったいない、というわけだ。貸し出して利潤を生ませ、それを預けた客と分け合えばいいではないか。ほこりをかぶっている硬貨を働かせよう。金細工師は経験から、預けだ客がいっぺんに返せと要求してくることはほとんどないと知っていた。預かった硬貨が引き出される率はせいぜいで10%から15%、それを超えることはめったにないそこで80%から85%ぐらいまでは貸し出しても危険はないと思われた。こうして預かり業者が顧客の代行として金貸しの仲介を始め、いまのわたしたちが知っている銀行の考え方が生まれた。
 と、たいていの歴史の教科書には書いてあるが、じつはこれには遊んでいる金を働かせるというだけではすまないことがからんでいる。まず金利収入を預金者と分かち合うというのは、当初はなかった考え方だった。このやり方が一般的になったのは、何年もたって、預金者が腹を立て、貸し出しが自分たちの利益にもなると確認したがってからだ。はじめは自分たちの硬貨が貸し出されていることすら知らなかったのだ。預金者は無邪気にも金細工師は自分のマネーを貸していると考えていた。
 預金者が利潤の一部を受け取るかどうかにかかわらず、そもそも金庫の中の硬貨を貸し出していいのか、ということを考える必要がある。・・・・・・
 銀行は今度はその預かり金の85%分の預り証を発行し、買い手はそれを受け取る。これは元の預り証のほかにさらに発行された預り証だ。硬貨に比べて85%多い。こうして銀行は85%のマネーを創出し、借り手を通じて流通させる。言い換えれば、インチキな預り証を発行することでマネーサプライを人為的に拡大させたわけだ。・・・・・・
 100の金に対して185の預り証が発行されているから、54%の裏付けしかない。・・・・・・
 こうして預り証は私たちが「部分準備貨幣」と呼ぶものになり、これが生み出される仕組みを「部分準備制度」銀行と呼ぶ。
 残念ながら、この欠陥は説明されたことがなかった。
 銀行が借り手にも預り証を発行しはじめたとき、銀行は魔術師になった。無からマネーを創造すると言った人もいるが、事実は少し違う。銀行はもっと不思議なことをやってのけた。債務からマネーを創造したのである。(マネーを生みだす怪物 G・エドワード・グリフィン 草思社 P209~214)

※ 長い間、金匠銀行家に多くの利益をもたらしたのは銀行券の発行であった。当時の銀行券とは、預金者が金匠に保管を託した金貨の預かり証であった。大量の金貨を持ち運ぶのは危険であり、人々は金貨の預かり証を代用して取引を行い、そのあとに金匠で相応の金貨に換えた。しかし、後になると、金匠で金貨を出し入れするのさえ面倒になり、預かり証はしだいに貨幣のように扱われるようになった。
 しだいに金貨と交換する人が少なくなってきたことに気づいた利ざとい金匠銀行家は、密かに預かり証を発行し、お金を必要とする人に貸し与え、貸した額に利子を加えて回収し、何事もなかったかのように預かり証を破り捨てた。その結果、利息だけが財布の中に残った。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P29)

※ 新大陸から流入した厖大な銀でも補いきれず、約4000年間続いてきた「銀貨の時代」は「紙幣の時代」へと転換していくことになります。・・・・・・紙幣の普及には、信用経済の仕組みが必要だったのです。
フランスとの長期に及ぶ植民地戦争の戦費不足と国債の発行、大規模な海上貿易による通貨の膨張により、イギリスで銀貨の調達が難しくなり、複雑な金融操作により手形を変形させた紙幣に依存せざるをえなくなったのです。そうした場面で頭角を現したのが、金融のスペシャリストのユダヤ商人だったわけです。
 ヨーロッパが本格的な金融の時代に入る19世紀後半には、ロスチャイルド家という「宮廷ユダヤ人」がポンド紙幣の発行を請け負い、イギリスのユダヤ人金融家が、金融後発国のアメリカで大活躍することになります。20世紀初頭にアメリカの中央銀行に当たる「連邦準備制度」が創設されますが、それを担った民間銀行の経営者たちも、その多くはユダヤ系の金融業者でした。 (ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P6)


 ユダヤ教徒が棄教したふりをして、社会内部に隠れるという現象が起こります。

※【ユダヤ人のメシア運動】
※ 世界のユダヤ人社会のほぼ全域にわたり、少なからぬ衝撃を与えたできごとが、1665~66年のシャブタイ・ツヴィのメシア運動である。・・・・・・シャブタイ・ツヴィは、小アジアのイズミルで、青年期からメシアを自称し、躁鬱病を患いつつ、発音を禁じられた聖なる4文字の神名YHWH を公然と発するなどの奇行により破門され、放浪のすえにエルサレムに住んだ。・・・・・・運動の盛上がりにおいて顕著なことは、キリスト教徒を装ってきたポルトガル系ユダヤ人(コンヴェルソ、マラーノ)による強い支持があった点である。・・・・・・ツヴィは、(1665年)12月末にイスタンブルに向け出航、1月末から2月上旬に到着したが、まもなく逮捕され、監禁された。・・・・・・その後ツヴィはターバンを巻いてムスリム(イスラム教徒)となり、王宮から丁重な扱いを受ける身分に変貌を遂げた。メシアの棄教である。
 メシアの棄教によって、周囲ではツヴィとともにイスラームに改宗する者が続出する一方で、ユダヤ人社会内部では運動が沈静化し、メシア信仰を捨てなかった者も、地下へ潜伏した。ユダヤ人社会内部の隠れメシア教徒という現象である。棄教という背信行為については、ルリアカバラーの理論が意味づけを与えた。メシアは悪の世界の深奥にくだって、内側から悪を滅する使命がある。そのために、自らが悪の根幹まで落ちねばならない(ユダヤ教の歴史 市川裕 山川出版社 P114)

※ (サバタイ・ツヴィの棄教後、サバタイ主義者の過激派は)あのメシアとまったく同じように、各信徒もまた地獄に下るべきだというのである。なぜなら、悪は悪によってのみ打倒されうるのだから。(世界宗教史5 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P280)


続く。

新「授業でいえない世界史」 第28話の3 17世紀 名誉革命

2019-08-26 08:03:30 | 新世界史11 近世西洋
【名誉革命】 そして王がいない政治が約20年近く続いていく。
 そして1688年に2回目の革命が起こるんです。これを名誉革命といいます。

 ピューリタン革命後のことを言います。
 イギリス人は考えた。「今までずっと王がいてイヤだったけど、王がいないのも何かと不便だな、代わりのクロムウェルもちょっとねえ、王様はやっぱりいた方がいいんじゃないか」と。
 それで処刑されたチャールズ1世の弟がまた王になる。これがチャールズ2世です。こうやって王政が復活します。これを王政復古といいます。1660年です。

※【ユダヤ人金融家のイギリス流入】

※ 周知のようにチャールズ2世は、(ポルトガルの)ブラガンサのカタリーナ姫をポルトガルから王妃として迎えたが、王妃のお供のなかに一連のユダヤ人金融家が加わっていた。そのなかにはとくに、カタリーナの持参金の管理と輸送を委ねられたアムステルダム出身のポルトガル系ユダヤ人銀行家、ダ・シルバ兄弟の姿も見られた。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P91)
 

 議会政をとなえる中産階級と、王政をとなえる上流階級の両者の折衷案である立憲君主制の考え方が誕生します。
  この王の治世下で、イギリスはさっき言ったオランダとの戦争に勝ちます。
 オランダはアメリカに植民地を持っていた。そこにニューアムステルダムという都市をつくっていた。それをイギリスが奪って名前まで変える。「ニューアムステルダムというのはオランダの都市じゃないか、イギリスの名前にしよう」と。イギリスにヨーク地方という毛織物の産地がある。ここは景気がいいんですね。ここの名前をつける。これが今の世界最大の金融都市、アメリカのニューヨークになる。新しいヨーク地方という意味です。これが1664年です。そのアメリカに、不況の中、多くの貧しいイギリス人が渡って来る。新天地を求めて。 
 しかしいろいろな伝染病も入ってくる。船に乗ったり、シルクロードの行き来があると、ヨーロッパにそれまでなかったような風土病が伝わる。その最大のものがペストです。
 1600年代は、不況になるわ、宗教戦争はするわ、王様は殺すわ、奴隷貿易はするわ、伝染病は流行るわ、小氷期で気温は下がるわ、大変な時代です。

 話を戻すと、王政復古したチャールズ2世が、また自分のいいようにしだすんです。議会のいうことを聞かない。それでまた議会と対立する。
 そこでまた同じことが起こるのか。しかし議会の中にも「王がいないとまずい」という考え方も半分出てくる。王様は必要だという考えのグループ、これをトーリー党といいます。王様のいうトーリー、そんな感じです。それに対して「王は要らない、議会で決めればいいじゃないか」、これをホイッグ党といいます。
 これが政党の始まりです。考え方を同じにする人たちが政治的グループを作っていく。そして議会で話し合う。この政党同士が話し合って話がまとまる。「王はやはり追放しよう」と。

 1688年
、チャールズ2世の弟で新しい王になっていたジェームズ2世を追放する。
 実は追放される前に、「これは命が危ない」と思ったジェームズ2世は、夜の闇に紛れてテムズ川というロンドンを流れる川に船を浮かべて、自分でスタコラさっさと逃げていく。

  ではこれで王はいなくなったのか。イギリス人がやることはちょっと中途半端というか、今度はジェームズ2世の娘を王にする。娘は結婚してオランダ王に嫁いでいた。その娘夫婦を二人で共同統治の王にするんです。これがメアリー2世とウィリアム3世です。変な形ですね。けっきょく王になったのはオランダの王です。オランダの王を招いて、彼を新しいイギリスの王とする。

※【イギリス王とユダヤ人の結束】

※ オランダは英蘭戦争でイギリスに敗北し、復讐感情を持っていました。そのオランダに対しイギリスは破格の誠意を示します。1688年、名誉革命でジェームズ2世が追放され、オランダから総督ウィレムと妻メアリーを国王として招きます。オランダのトップをイギリス国王として迎え、オランダと一体化していきます。(世界一おもしろい世界史の授業 宇山卓栄 中経の文庫 P236)  

※ ウィリアム3世の政治とともに新移住者が流入し、宮廷と富裕なユダヤ人との結束は一層緊密になった。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P91)

※ ここ(ロンドン)は、18世紀以降アムステルダムを凌駕し、周知のように、最初の大規模な取引所所在地に発展した。しかも、ロンドンでは、株式取引所に対するユダヤ人の影響は、おそらくアムステルダム以上に明白に確認できる。とくに、次のことがある程度確実に証明できる。すなわち、17世紀末にロンドンの株式投機が体験した大発展は、その頃ロンドンに移住したアムステルダム・ユダヤ人の活動に帰すことができるということだ。・・・・・・
 とにかく、17世紀末頃には、(ロンドンの)取引所は(1698年の取引所小路以来)、ユダヤ人で満ち溢れていた。その数は膨大であったので、建物のある一部がユダヤ人の縄張りと呼ばれたほどである。
 「取引所はユダヤ人で立錐の余地もない」とその頃の人が書いている。取引所小路への移住は、それまで王立取引所では白い目で見られていたユダヤ人の関与の増大と関係があるのだろうか?
 とにかく移住とともにイギリスの証券投機がはじまった。この突然の、ユダヤ人の氾濫の原因は何か? これについては、われわれはくわしく知っている。つまり、ウィリアム3世に従って渡英した無数のユダヤ人に起因しているのだ。そして、すでにのべたように、このユダヤ人たちが、証券取引の熟練した技術をロンドンにもたらした。・・・・・・
 最初のイギリスの借款の主要仲買人はユダヤ人であった。彼らは協議の末、オレンジ公ウィリアム3世に肩入れすることに決定した。なかでも、富豪メディナはマールボローの銀行家で、年に6000ポンドを献金し、見返りとして軍隊出陣の内報を得ていた。・・・・・・
 こんにちロンドンが世界全体の貨幣流通の中心地でありえたのは、ひとえにユダヤ人に負うものである。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P151)

※ ユダヤ人を中心とするロンドンでの株取引も、簡単な集会場所として利用できるコーヒーハウスから始まりました。17世紀末に金融街シティにあったギャラウェイ、ジョナサンズという二つのコーヒーハウスが、株取引の場所になります。名誉革命後、多くのユダヤ人がアムステルダムから新興経済都市ロンドンに移住したことはすでに述べましたが、彼らがロンドンの金融街シティに株取引と「投機」を持ち込みました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P130)


※ ヨーロッパはルイ14世が軍事的に制圧していたが、それに対抗して大連合が組まれ、ナポレオンのときのように最終的にはルイ14世の支配をうち砕いた。その際、資金源を調達したのは主にユダヤ人である。1672年から1702年にかけてオレンジ公ウィリアム、すなわち後の英国国王ウィリアム3世が連合軍を指揮したが、資金と食糧を調達したのはハーグを主な拠点とするオランダのスファラド系ユダヤ人のグループであった。・・・・・・ウィリアムが無事即位すると、大勢のユダヤ人金融業者がロンドンに移り住む。・・・・・・ロンドンのユダヤ人金融業者は1690年9月から翌91年8月にかけて、物資を調達・郵送して95000ポンドという巨額の代金を受け取っている。ロンドンではウィリアムの時代に金融市場が育っているが、その創設にはユダヤ人が関わっていた。(ユダヤ人の歴史 上 ポール・ジョンソン 徳間書店 P464)


 この名誉革命の3年前の1685年、フランスのルイ14世はナントの勅令を廃止しています。ナントの勅令というのは、あとでも言いますが、1598年にフランスで出された信仰の自由を認めた勅令のことです。勅というのは王様のことです。ナントの王令ともいいます。ナントの勅令で、「新教を禁止しない。信仰の自由でいい。ユグノー、どうぞ信仰してください。だからもう戦争やめよう」と。それでいったん丸く収まった。
しかしその廃止で信仰の自由を失ったユグノーたちは、イギリスやオランダに亡命します。彼らはフランスで商工業を担っていた人たちです。
 そういう流れで、このウィリアム3世の時も、新しいオランダの王の取り巻き連中が一緒にイギリスについて来ます。オランダは商業の国だから商売人が多い。その中にけっこうユダヤ人がいるんです。そのユダヤ人がイギリスで何を始めるか。ユダヤ人は金貸し業が多い。金融業つまり銀行業に入っていく。
 彼らが10年後に何をつくるか。それがもう一つの伏線になります。

 その前に政治的なことを言うと、議会はこの新しい王に対して「議会の権利をちゃんと認めなさい、王にしてやるから」という。前のジェームズ2世は「これを認めない」といったところから名誉革命が始まった。「わかった、認めよう」、これで確定です。これを権利の章典といいます。1689年です。
 何を認めるかは、この章典にいろいろ書いてある。しかし一番大事なことは何か。税金です。「税金を勝手に取らない、勝手に上げない」ということです。「課税権は議会にあります。王が課税したいという時には、必ず議会に相談してその了解をもらいなさい。議会がダメと言ったらダメです」と。つまり決定権は王にはないのです。

 一番お金がかかるのは戦争です。イギリスはこのあとずっと戦争していきます。戦争するにはお金がかかるから税金を取りたいけど、勝手には取れない。ではどうするかという問題です。
 結論をいうと、銀行から借りるんです。銀行から借金して戦争していく。それで戦争に勝っていくんです。銀行がその戦争資金を貸す。だから新しい王様は銀行に頭が上がらない。



【ロックの思想】 名誉革命の2年後の1690年、イギリスのジョン・ロックがこの名誉革命を正当化するために書いたものが『市民政府二論』です。彼の思想は、このあとアメリカの独立宣言やフランス人権宣言にも取り入れられ、近代社会に大きな影響を与えます。
 政治面の啓蒙思想では、まずイギリスのホッブズです。彼は人間の自然状態を「万民の万民に対する闘争」とした。しかしそれではみんなが困るから、王権に政治を委ねたのだとします。これが王権神授説になります。

 しかしそれに反対したのが、同じイギリスのロックです。
 国家の主権は誰が持っているか。最初は神様であった。次はローマ皇帝であった。次はイギリスやフランスの王様であった。「いや違う、国民なんだ」とだんだん下に降りてくる。これが社会契約説です。国民が主体です。国民主権の考え方の根はここにあります。昔はダントツに王様が偉かった。でも国民が偉いというふうに変わっていく。
 この啓蒙思想は、歴史に基づいたものではありません。「この人はそう考えた」というだけで、そういう意味では宗教思想に近いものです。宗教思想が悪いわけではありませんが、これはあくまでも「思想」であって、科学的に実証されたものではありません。

 しかもこのロックは・・・・・・「政治・経済」でも出てくる重要人物ですが・・・・・・言っていることが難解なうえに、多くの矛盾があります。そういう意味で要注意人物ですが、有名なわりに彼に関する解説書は日本では非常に少なく、よく分からない人です。
 世にいう難解な文章には2つあって、本当に難しいことを書いている場合と、何かをごまかそうとして難しくなっている場合があります。簡単なことを難しくいうのは、難しいことを簡単にいうより、簡単なことです。人が難しく言いたがるのは、それによって理解できなくなる人が増えて、反対意見が出にくくなるからです。国会の政治答弁などがそうでしょう。言葉は何かをごまかそうとするときに難しくなります。正しいことは意外と簡単です。


※【ロックの矛盾】

※ ロックは、それ(自然状態)をこう定義するのである。
「それは完全に自由な状態であって、そこでは自然法の範囲内で、自らの適当と信ずるところにしたがって、自分の行動を規律し、その財産と一身とを処置することができ、他人の許可も、他人の意志に依存することもいらないのである(市民政府論 ロック 岩波文庫 P10)」
 ホッブズの理論からすれば、これはすでに「自然状態」を脱した状態である。人間の理性がすでに「自然法」を発見しており、しかもそれに従って各人が「自分の行動を規律」するということが行われているのであれば、それは立派に「社会状態」と呼ぶべきものである。・・・・・・
 ロックはそれを「平等の状態でもある」と言うのであるが、その理由を彼はこう説明するのである。 「人間はすべて、唯一人の全知全能なる創造主の作品であり、すべてただ唯一人の主なる神の僕(しもべ)であって、その命により、またその事業のため、この世に送られたものである(市民政府論 ロック 岩波文庫 P12)」
 これでは、ロックはホッブズをとびこえて、それ以前のスコラ神学・法学における「自然状態」の話をしていたのだ、ということになってしまう。ここまではっきりと「神」を持ち出すのであれば、いっそ話は簡単なので、あとはただ、神法・自然法のもとに、神の僕として創造された人間たちが、いかにして神の御心にかなった政府・国家を建設しうるか、ということだけが問題となるはずである。そして当然、そのような「神の国」の建設のために、人間たちはどのような「神の命」に従う義務を負っているのかということが、ことこまかに語られてゆくはずである。ところが、ロックはそれについてはまるで知らん顔をきめ込んでしまうのである。・・・・・・
 そして、やがてこの(所有権についての)話の結論の部分に至ると、彼は労働が神の命令にもとづいたものであったなどということはケロリと忘れ去ってしまう。彼は「労働が所有権を設定した」と述べて、それをこんなふうに説明するのである。
「以上のことからして、次の点が明瞭になる。すなわち、たとえ自然の事物は共有のものとして与えられていても、人間は自分の主人であり、自分自身の一身およびその活動すなわち労働の所有者であるが故に、依然として自分自身のうちに所有権の大きな基礎を思っていたということ・・・・・・である(市民政府論 ロック 岩波文庫 P49)」
 ここでのロックは、はじめに自分の語っていたことを、すっかり忘れ去ってしまったかのごとくである。彼は、最初に人間の自由と平等を説明するところでは、すべての人間は「その送り主なる神の所有物」だと語っていたのであった。それに従うなら、人間の「自分自身の一身」はもちろん神の所有物であり、また「その活動をすなわち労働」も神の命令するところだったのであるから、その労働のもたらした一切のものは神のものとなるはずである。・・・・・・それを彼はまるで知らん顔のまま、平気で「人間は・・・・・・自分自身のうちに所有権の大きな基礎をもっていた」と言ってのける。・・・・・・
 ここには、やがて百年、二百年後に大量にあらわれ出てくるプロパガンディストーー自らの主義主張を通すためには真理や正しさといったことについては一顧だにしない人々ーーの先触れといったものがうかがわれるのである。(民主主義とは何なのか 長谷川三千子 文春新書 P190)

※ フリーメイソンの標語として紹介される「自由」「平等」「博愛」という観念も、フリーメイソンの 発案になる観念ではけっしてなく、そのいずれもロックの「国政二論」に見ることができる。・・・・・・フリーメイソンは、このロックによって明瞭な表現を与えられた諸観念を、ヨーロッパの貴族・上層市民層へと伝達する役割を果たしたのである。・・・・・・18世紀を通じてイギリスのフリーメイソンは、ロックがフリーメイソンであったことを信じて疑わなかった。・・・・・・ロックはオランダに亡命していたことがあり、オレンジ公ウィリアムのイギリス上陸にともなってイギリスに帰国し、名誉革命の代表的なイデオローグとなっているが、「国政二論」は彼がオランダ亡命中に執筆されている。17世紀後半のオランダは、フリーメイソンを初めとする進歩的な知識人たちの温床となっていたのである。(フリーメイソン 吉村正和 講談社現代新書 P101)

※【啓蒙主義と無神論】
 
※ 人間の理性からの発想ということは、神からの発想とは逆であって、後者の発想から見れば啓蒙主義は本質的に無神論的である。(キリスト教の歴史 小田垣雅也 講談社学術文庫 P168)

※ (●筆者注)イギリス人ロックは、1683年にオランダに亡命し、1688年にイギリスで名誉革命が起こると、翌年の1689年にイギリスに帰国した。帰国翌年の1690年、58才でロックは『市民政府二論』を発表した。これは2年前の名誉革命を正当化するために書かれたものである。
 ちなみに、ロックが生まれた1600年代のはじめにはオランダのアムステルダムが世界の金融市場の中心として繁栄を極めていた時代で、そこには多くのユダヤ人が金融業者として活動していた。
 ロックの生きた時代は神聖ローマ帝国の皇帝権が否定され、さらにイギリスの王権が否定された時代である。このようにしてイギリスでは他国に先駆けていち早く王権神授説が否定された。このような時代を生きてきたロックにとって、皇帝権がローマ教会から祝福されているという考え方や、イギリス王権がイギリス国教会から祝福されているという考え方は時代にそぐわないものに見えた。
 そこには前世紀の宗教改革者であるルターやカルヴァンの影響がある。彼らはローマ教会の権威を否定し、一人一人の信仰のみを問題にしようとした。ロックはこれを国民主権の考え方に応用した。「神はキリスト教信者すべてを祝福している」と考えるならば、主権は皇帝権にもなく、王権にもない。主権は「一人一人の個人」に与えられているという考え方が出てくる。これが国民主権の考え方である。
 では主権を持った一人一人の人間がどうやって国をつくることができるか。そのために考え出されたのが社会契約説である。 ロックの自然状態は、「人間は自然状態でも平和に暮らしている」とされた。日本人にとってこれは分かりにくいことで、もし人間が国の統制を受けず思う気ままに生活すれば、同時代のイギリス人思想家ホッブズがいったように「万人の万人に対する闘争」状態になるはずだが、ロックはそれを否定した。
 ロックの場合、国家は必ずしも必要ではない。国家を否定しても「人間は理性的であり、平和に暮らしている」とする。彼が想定する社会は、全員がキリスト教徒であることが前提になっているが、そのことは表に出さない。キリスト教には一切触れず、キリスト教の理念が実現することが前提になっている。そうやって彼の言説はキリスト教徒に心地よさを与えたのである。しかし、その後につづく彼の結論を見るとそれは単なる方便に過ぎなかったようである。彼はなぜこのようなことを言いだしたのか。
 そこに1つの問題が出てくる。カルヴァンは、神の救いの証拠として、世俗内職業による富の存在を正当化した。しかしこの時点では、「神から与えられた職業によってえた富は、当然神に捧げるものである」という前提がまだ生きていた。神に捧げるとは、社会に分配することでもあった
 ところがロックはここで「私的所有権の絶対性」を言い出す。「富はその労働を投下した者の所有に完全に属する」と。そこには「神からもらった自分の職業の恩恵を、神に返す(人に返す)」という肝心なことは消えてしまっている。これによって経済活動から神の存在は完全に消されてしまった。ルターやカルヴァンが目指した宗教改革は、ロックによって完全にゆがめられた。
 一方では「神の恩寵により主権を与えられた自分」という政治的特権が発生し、他方では「神の恩寵である労働によってえた富は完全に自分のものである」という経済的特権が発生する。そこに神と人間とのギブ・アンド・テイクの互酬性は見当たらない。ただ私的所有権という個人の権利が突出している。これでは、皇帝や王の特権を消し去り、万民に平等な政治的特権を与えるように見せながら、その実は経済的に有利な者が金銭的利益を一人占めすることが正当化されたのと同じことである。これはルター、カルヴァンが宗教改革で目指したものではない。ロックは、ルター、カルヴァンの宗教改革を受け継ぐように見せながら、全く反対のものを2つ導き出した。
 一つは国民主権を原理とする「民主主義」であり、もう一つは私的所有権の絶対性を原理とする「資本主義」である。しかし彼の言説には大きな矛盾が潜んでいる。

※(●筆者注) 無神論が一概にいけないのではなく、ロックは神への信仰に立脚しているようにみせかけながら、無神論を説いていることが問題である。彼は論理的に破綻しているばかりでなく、学者として倫理的にも破綻している。人格的に崩れていないと、ふつうの人間はこんな非論理的なことをここまで平然とは言えない。その平然さに多くの人がだまされるが、その矛盾は論理的には明瞭なことである。

※ カルヴァン自身が「キリスト教綱要」において、政治権力を神によって樹立された存在とし、それに対する臣下の心からの服従と忠誠を要求したのみならず、ユグノーの抵抗を常に抑制する立場をとっていたことから考えても、もともとカルヴァン主義に独自の抵抗権の観念はなかったと考えるべきであろう。(世界史リブレット27 宗教改革とその時代 小泉徹 山川出版社 P44)




【財政革命】 名誉革命後、政府はお金がないから借金したい。この借金の方法が・・・・・・今まで他の国と違って・・・・・・国が借用書を発行して「これを100万円で買ってくれよ」という。これが世界初の国債です。これが財政革命です。
 今の日本は1000兆円もの国債を発行してます。日本も借金大国です。ナンバーワンはその2倍の2000兆円を借金しているアメリカです。次が日本です。そのような国債での国の借金はこのイギリスから始まります。

 借金してどうするか。フランスとの戦争です。これを1688年からのファルツ継承戦争といいます。名誉革命と同時に始まっています。その戦争を続けるために銀行が欠かせなくなります。

※ 名誉革命によってイングランドはオランダと同君連合を形成し、寛容法を定めてプロテスタント全般の信教の自由を保障してフランスからの亡命ユグノーを受け入れつつ、ルイ14世に対抗した。(新世界史B 改訂版 岸本美緒ほか 山川出版社 P232)




新「授業でいえない世界史」 28話の4 17世紀 フランス ルイ14世

2019-08-26 08:02:29 | 新世界史11 近世西洋
【フランス】
【ルイ14世】 次は海を渡ってフランスです。1500年代の終わりに戻ります。
 ルターの宗教改革が1517年だった。中心はドイツだったけれども、フランスもやっぱり宗教戦争が起こる。
 フランスの宗教戦争をユグノー戦争といいます。ユグノーというのはカルヴァン派です。1562年から98年、40年近く続く。40年間戦争するというのは、日本での感覚ではなかなか理解できない。

 やっと終わらせたのがアンリ4世という王様で、それを終わらせたのが1598年ナントの勅令です。勅というのは王様のことです。王様の命令です。ナントの王令ともいいます。ナントの勅令で、王様は何を決めたか。「新教を禁止しない。信仰は自由でいい。ユグノー、どうぞ信仰してください。だからもう戦争やめよう」と。それでいったん丸く収まった。

 しかし次に何をするか。やはりイギリスとの戦争です。戦争大好きなのは、次のルイ13世もやるんですが、本格的にやるのはその次のルイ14世です。この人は、1643年から1715年までの約70年間ずっと王様です。子供のときからの王様です。大人になると戦争ばっかり。この時代のイギリスではピューリタン革命が起こっています。
  フランスでも貴族が反乱を起こすのは同じです。1648年のフロンドの乱といいます。イギリスのピューリタン革命とほぼ同じ時期です。イギリスは貴族の反乱に負けて王が殺されました。しかしフランスは王が強くて、貴族を潰した。王が生き残った。それで逆に王権が強くなる。イギリスは王の権利が弱くて、議会の権利が強くなった。イギリスとの違いはこの違いです。

 そして「王は絶対なんだ」という王権神授説で貴族を抑える。「朕は国家なり」と言ったという。朕は王様の一人称です。「俺が国家だ、オレが決める、つべこべ言うな。ぶっ殺すぞ」と。そして戦争大好きです。
 戦争にはお金がかかる。お金を稼ぐ人物を大臣につける。コルベールという。1665年からフランスの財務総監になります。目を付けたのは、やはりアメリカ大陸との貿易です。だからフランスもアメリカが欲しい。イギリスもアメリカが欲しい。ヨーロッパでイギリスとフランスが戦争するたびに、同時にアメリカでイギリスとフランスは植民地争いをしています。

※【官製工場のフランス】

※ フランス絶対王政の産業振興策は、王政が事業そのものに出資し、官製工場を各地で経営し、利潤の大半を王政が徴収するという統制的な経済を展開していました。イギリスが民間資本の蓄積により、経営を拡張していく方針をとることと大きく異なっていました。(世界一おもしろい世界史の授業 宇山卓栄 中経の文庫 P220)


 強く見せるためには身を飾らないといけない。派手な豪邸をつくらないといけない。だから別荘をつくる。これがベルサイユ宮殿です。1682年にほぼ完成します。彼はモンテスパン夫人や、マントノン夫人などの愛人をもち派手な社交を繰り広げます。

※【フランス王室の愛妾】
※ (14世紀のペトラルカの)時代になると、若い男が既婚婦人を誘惑することがスマートなことであるとされた。そこでこれができない青年は、同じ年頃の仲間から軽蔑されて不幸であった。・・・・・・(ペトラルカの時代は)王侯の間では、子供が非合法に生まれることをもはや恥としないばかりか、むしろ誇りとしはじめたのと同じ時代である。・・・・・・妻に姦通された男でも大きな顔をしていられたということは、イタリアではほぼ14世紀以来、フランスでは(16世紀の)フランソワ1世以来はじまったということだ。(恋愛と贅沢と資本主義 ヴェルナー・ゾンバルト 講談社学術文庫 P108)

※ 宮仕えする女は、王侯君主を皮切りに、次々に廷臣の愛妾となり、そして彼女たちが高等娼婦となった。このようにして、愛妾が支配する経済または愛妾経済の時代が始まった。・・・・・・この最も重要な問題についても、宗教改革以来フランスが先導したことがわかる。(16世紀前半の)フランソワ1世の愛妾は、われわれが生き生きとしたイメージを抱くことのできる最初の「王の愛妾」であった。・・・・・・この王は、宮廷生活の真価を情事にあると考えた人である。「情事の重要な歩みは、王が彼の愛妾を、なんらためらうことなく、宮廷の第一人者にまつり上げたことにある。」(ハインリッヒ・ラウベ)・・・・・・非合法な恋愛関係は、少なくともそれが宮廷に結びついているかぎり、外面的にもけがらわしいとはされなくなった。・・・・・・実際は宮仕えとは縁もゆかりもない高等娼婦も・・・・・・ヴェネチアとローマを皮切りとして、イタリアの大都市に発生した。これらの大都市では、なんといっても富があったために、新しいタイプの女たちを生みだすのにきわめて好都合であった。それに、この頃古代の復活が歓迎されていたため、昔のヘタイラ、つまり遊び女も再現されてもいいだろうという気運もみなぎっていた。(恋愛と贅沢と資本主義 ヴェルナー・ゾンバルト 講談社学術文庫 P115)

※ 17および18世紀の間に、街の情人たちの数は、文化の中心地、とくにパリとロンドンで増加した。・・・・・・18世紀の終わりに、宮廷に使える20人の男のうち、少なくとも15人は夫人とでなく、妾と一緒に暮らしているということが伝えられているが、この割合はおそらく真実にきわめて近いであろう。しかし、たんに宮仕えする騎士が妾をかかえていたばかりでなく、やがて新興成金たちの間にあっても、ある程度貞淑な女にちょっかいをかけることは、よい趣味であるとされるようになった。女をかかえるために必要となる経費は、相当の財産家の予算内でも最大の額を占めたと、この問題に関する最良の識者はくわしい調査にもとづいた報告を残している(ティリオン)。同じことが、ロンドンについても伝えられている。すなわちロンドンでは2000ポンド以上の収入のある独身のイギリス男性は、生活必需品のためには200ポンドしか支出せず、「その他はすべて、享楽のため、しかもその第1にして最後の商品である女の子のために使われている。」(アルヒェンホルツ)(恋愛と贅沢と資本主義 ヴェルナー・ゾンバルト 講談社学術文庫 P119)

※ 17世紀および18世紀から、社交婦人が権力をほしいままに発揮するようになった「サロン」も、実はといえば、まずイタリアで、名高い娼婦たちも参加した機知あふるる人々の会合の続編であったにすぎない。だが、最も重要なことは、娼婦たちの生活方式が、外面的には社交界(当時は上流社会のすべての婦人)の生活のあり方の模範になったということだ。(恋愛と贅沢と資本主義 ヴェルナー・ゾンバルト 講談社学術文庫 P122)

※ この女性崇拝と砂糖との結合は、経済史的にはきわめて重要な意味がある。なぜなら、初期資本主義期に女が優位に立つと砂糖が迅速に愛用される嗜好品になり、しかも砂糖があったがために、コーヒー、ココア、紅茶といった興奮剤がヨーロッパで、いちはやく広く愛用されるようになったからだ。(恋愛と贅沢と資本主義 ヴェルナー・ゾンバルト 講談社学術文庫 P122)


 でもこの時代の・・・・・・日本は江戸時代ですが・・・・・・日本のお殿様は小さな庵を好む。派手さを戒めています。この違いは何なのでしょうか。

 その一方でルイ14世は次々に戦争をします。自然国境説を唱えて領土を拡大したいのです。彼が起こした戦争は次の4つです。
 1667年からの南ネーデルラント継承戦争、
 1672年からのオランダ侵略戦争、
 1688年からのファルツ戦争、
 1701年からのスペイン継承戦争です。
 とくに後ろ2つの戦争は、ヨーロッパだけでの戦争ではなく、それと同時にアメリカでの領土争いからイギリスとの戦争も行います。1688年のファルツ戦争とほぼ同時に翌年の1689年からはアメリカでウィリアム王戦争が起こり、1701年のスペイン継承戦争とほぼ同時に翌年の1702年からはアメリカでアン女王戦争が起こります。息つく暇もなく戦争をする一方です。

 ベルサイユ宮殿といい、戦争といい、お金がかかることばかりです。メインは戦争です。左うちわでベルサイユ宮殿でお茶飲んでいるような王様ではありません。
 そのルイ14世の話をあと一つ付け足すと、いかにもベルサイユ宮殿で大金持ちみたいな印象を受けますが、実はフランスの国家財政はあいつぐ戦争で財政難です。財政難で金持ちからお金を借りまくっているんです。借りたものは返さないといけない。しかし返せない。すると「オレは王様だ、借金なんか返さないぞ」と言うんです。こういう踏み倒しをデフォルトという。何を失うか。信用を失うんです。「あそこの王にお金は貸せない」と。
 そうやって好きな戦争は続けていく。しかし全部負ける。なぜか。戦さが弱かったからじゃない。お金がなかったんです。信用がないから、お金が必要な時にお金を貸してくれる人がいない。それで負けます。

※【ルイ14世とユダヤ人】

※ 1716年、ストラスブールのユダヤ人は、ルイ14世の軍隊に情報と食糧を提供する仕事にたずさわった。ルイ14世の主要戦時調達者はヤーコプ・ヴォルムスという名前であった。その後18世紀には、ユダヤ人はこうした役目を果たし、フランスで一層重要性を増した。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P87)


 では誰が勝つか。宿敵のライバルは海の向こうのイギリスです。そのイギリスが勝つ。これ実は借金力の差です。イギリスは借金できる体制をつくっている。もっというとお金を印刷できる政治的技術を持っている。紙幣は政治的発明です。
 どっちも借金で戦争する。借金という点では変わらないけど、フランスはデフォルトを何回も宣言して、いざという時にはお金を借りられない。しかしどちらにも「借金して戦争していく」という構造が発生しています。ヨーロッパの戦争の勝敗は、この借金をどこまで借りられるかにかかっています。どこまでも借金し続けた方が勝ちなのです。

 イギリスにお金を貸しているのがイングランド銀行です(イングランド銀行については次回触れます)。イングランド銀行ができたのが1694年です。この銀行は、ファルツ継承戦争の最中にその戦費を調達するためにつくられたものです。この銀行ができたとたんに、ますます戦争が起こります。この戦争をきっかけとして、イギリスはアメリカに乗り出していきます。
 1.1688年 ファルツ継承戦争=アウグスブルグ同盟戦争
   1689年 ウィリアム王戦争(アメリカ)
 2.1701年 スペイン継承戦争
   1702年 アン女王戦争(アメリカ)
 3.1740年 オーストリア継承戦争
   1744年 ジョージ王戦争(アメリカ)
 4.1756年 七年戦争
   1754年 フレンチ=インディアン戦争(アメリカ)

 アメリカでの4つの戦争は、第2次英仏百年戦争ともいわれます。ヨーロッパの戦争がメインですが、その後の歴史から見るとアメリカでの戦争が重要です。(3と4の戦争はおもにドイツでの戦争ですが、これについては後で述べます)

 さらにルイ14世は、1685年ナントの勅令を廃止します。当時フランスの商工業を担っていたのはユグノーたちでした。信仰の自由を失ったユグノーたちはイギリスやオランダに亡命します。するととたんに、フランス経済は活気を失います。フランスの財政難はこういうこととも関係しています。
 このような異端や異教を厳しく排斥する傾向は、キリスト教のような一神教世界に特徴的なことです。
 似たことは、約200年前の1492年にユダヤ人を追放したスペインでも見られました。その後スペインでも商業は急速に衰えます。そのスペインの代わりに興隆してくるのが、スペインから追放されたユダヤ人や、フランスから追放されたユグノーたちがたどり着いたオランダでした。

※【ナントの勅令廃止とフリーメイソン】(再掲)

※ 初期のイギリスのフリーメイソン運動において最も大きな影響力を持っていたのは、「近代フリーメイソンの父」と呼ばれるジャン・デザギュリエである。・・・・・・
 フランスのロシェルでプロテスタントの牧師の子として生まれたデザギュリエは、(1685年の)ナントの勅令の廃止とともにイギリスへ亡命してくる。・・・・・・やがてアイザック・ニュートンの友人となり、ロイヤル・ソサイティー(王立協会)の会員となる。・・・・・・彼は1719年に、ジョージ・ペインの後継として第3代グランド・マスターになる。(フリーメイソン 吉村正和 講談社現代新書 P33)

※ 「ナントの勅令」が1685年に廃棄され、数千のユグノーがイギリスに亡命し、その多くの者がメイソンになった。その中で特に重要な役割を果たすのはデザギュリエである。彼は英国国教会の司祭となり、ニュートンの友人、王立協会の会員ともなった。
 1719年にはイギリス大ロッジの第3代目の大棟梁となり、アンダーソンの「憲章」の成立にも関係し、フランスにイギリス合理主義、イギリス理神論を紹介し、かつ教権主義的君主国家フランスに対抗するイギリス内での精神的、政治的領域での中核的人物となった。
 彼を中心とする亡命フランス人は、イギリスおよびイギリス・フリーメイソンリーにとって恰好の道具となった。モンテスキューやヴォルテールはイギリスを訪ね、帰国後直ちにイギリスの思想や体制の宣伝を始めた。革命理論は学術的な体裁でイギリスからやってきた。あとはフランス人の実践が残っているだけだ。
 イギリスはしかし革命にイデオロギーだけを与えたのではない。群衆に撒かれた金も含めて革命資金は一体どこから流入したのか。最大の大口はオルレアン公であり、次はフランス・メイソンからのものや、他のもろもろのフランス資金、そして当時のイギリス首相ウィリアム・ピット(小)の指導するイギリス政府からのものであった。
 なぜイギリスが。なんとなればイギリスにとっての最大の利益は、フランス、なかんずくブルボン王朝の崩壊にあったからである。(フリーメイソンリー 湯浅慎一 中公新書 P127)


新「授業でいえない世界史」 第28話の5 イングランド銀行

2019-08-26 08:02:10 | 新世界史11 近世西洋

【イングランド銀行】  イギリスでは戦争のためのお金が必要になったが、そのための借金に応じる国民がいない。だから何をつくるか。それが1694年イングランド銀行です。この銀行はロンドンの「シティ」という区域に建てられ、今もあります。名誉革命から6年後のことです。
 イギリスは忙しい。王が殺され、2回も革命が起こって、その間にオランダと戦争し、革命が終わったらすぐにフランスと戦争する。その借金のために銀行をつくるんです。

※【ウィリアム・パターソン】

※ 17世紀末、イギリスは新大陸の植民地争奪戦争を本格化させ、フランスと激しく戦いました。戦費調達で財政状況が悪化し、膨大な赤字国債の発行が続きました。政府は国債の利払いや償還に追われ、デフォルトの危機に直面していました。この危機を乗り切るため、ある陰謀が画策されます。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P186)

※ イギリスでは1625年以降の2度の内戦と政局不安によって、政府の国庫は空っぽになってしまった。ウィリアム1世がジェームズ2世の娘メアリーと結婚し、1689年に国王に即位した時には、彼は収拾のつかない現実に直面していた。そのうえ、フランスのルイ14世と戦いの戦費もかさみ、国王はあらゆるところに借金する羽目になり、食事も喉を通らない状態だった。
 そのようなウィリアム国王に、ウィリアム・パターソンをはじめとする銀行家たちはオランダから伝わってきた一つの新しい「考え」を提案した。それは、国王の支出を賄うために私有中央銀行、つまりイングランド銀行設立することであった。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P29) 


The World Kabbalah (中央銀行に関するドキュメンタリー)



 この戦争の資金は国王の手持ち資金ではありません。民間の金融業者たちの資金を集めたものです。このイングランド銀行は民間銀行に過ぎません。この民間銀行から王様はお金を借ります。イングランド銀行は、イギリス国債を買う形で、フランスとのファルツ継承戦争の戦費120万ポンドをイギリスに貸し付け、その代わりに、それと同額の120万ポンドのイングランド銀行券を発行する権利をえます。つまり120万ポンドの金(キン)を元手に、その2倍の240万ポンドのお金を発行します。
 こうやって、金(キン)をもっていれば、その2倍のお金を発行することを国が認めたのです。しかし2倍がよければ、3倍でも4倍でもいいはずです。10倍でも20倍でもいいはずです。キリがありません。こういう手品のようなことが起こるのです。これが紙幣つまり銀行券の発生です。

 だとすれば、紙幣を発行する権利を手に入れた者は、いくらでも富を手にすることができます。紙幣はもとはタダの紙です。紙に「10万円」と書いて相手に渡せば、相手は10万円の品物を売ってくれるのです。「10万円」と書くだけで富は無尽蔵に増えます。
 銀行は、「100万円貸してくれ」といわれれば、紙に「100万円」と書いて相手に渡すだけで、それがお金になります。返してもらわなくても困りません。どうせ紙なのですから。いくらでも印刷すればいいことです。しかも返してもらわない限り、利息はもらえます。イングランド銀行はこのとき、イギリス政府に貸した120万ポンドを「返さなくていいよ」といいます。そして利息だけもらい続けます。かえってこの方がいいのです。 

 もともと銀行券というのは(キン)の預り証です。預かった金以上の預り証を発行することはサギです。金の預り証でなくても、預かってもいないのに預り証を発行することは、人をだますことです。ニセ金をつくって手数料を取る、そういう商売です。ニセ金でも、自分で使うのではなく、困っている人に貸して人を助けているのだからいいという人がいます。でもこれは人を助けることが目的ではありません。利息を取ることが目的なのです。

 利息は不労所得
です。働かずに他人の利益をもらうことです。人を働かせて、その利益を自分のものにすることです。ニセ金をつくった者に利息を払う、またそのことを国が認める。そのことそのものが、国民を裏切る行為なのです。そういうことをイギリスがはじめます。このカラクリは一見複雑に見えますが、手口は簡単なものです。預かってもいないものを、さも預かっているように見せかけ、しかもその手数料を取っているだけなのです。自分はニセ金をつくっておいて、「借りた金は返せ、利息を払え」という。

※【イングランド銀行】

※ 「金匠手形」と同じ仕組みを大規模化したのが、民間のイングランド銀行による無記名手形銀行券紙幣)の発行でした。初めて国債が発行された2年後の1694年、国債の引き受け手がいなくて困っていた政府に、商人たちが巧みに付け込みました。商人は政府に低利で融資し、その見返りに・・・・・・紙幣(銀行券という特殊な手形)の発行許可を得ます。つまりスコットランド人の貿易商ウィリアム・パターソンは「ロンドンやオランダの資産家が株主となる新銀行」を設立し、120万ポンドの紙幣の発行を条件に軍事費を8%の低利で融資し、フランスとの戦争(ウィリアム王戦争)で財政が逼迫していた政府を助ける提案をしました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P143)

※ イングランド銀行は、戦費貸し出しの代償として、出資金と同額の「金貨・銀貨と交換できる持参人払いの捺印手形」(銀行券)の発行の権限を政府に求めました。政府が国債を発行する代わりに、国の借金証文を分割して紙幣として発行するというのです。金繰りに困っていた政府は、後先を考えずにその権限をイングランド銀行に与えましたが、それが民間商人の銀行が紙幣を発行する権限を持つきっかけになりました。最初の紙幣は、誰でもそれを持参すればイングランド銀行の金庫に蓄えられている金貨と交換できる「無記名手形銀行券)」
で、手形の形式に準じていました。世界史的に見ると、民間商人の銀行が紙幣発行権を得たことは、アケメネス朝(ペルシア帝国)以来ずっと通貨の発行権を帝国、国家に奪われてきた商人が、二千数百年ぶりにそれを奪回した出来事だったといえます。イギリスの政治家は自らが紙幣を発行し、軍備を調達するという知恵を持ち合わせていなかったのです。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P145)

※ (イギリス)政府のサイエンティストたちは進行中の戦争の費用50万ポンドを必要としていた。(イングランド)銀行はただちに必要額の2倍以上の融資をした。金融のサイエンティストは資本金120万ポンドで銀行を発足させた。・・・・・・そのうえ、銀行は少なくとも同額を民間に貸し出す特権を与えられた。したがって政府に融資した資産をもう一度貸し出したことになる。・・・・・・
 この新しい「サイエンス」では、政府への融資120万ポンドについて8%の金利を得たほかに、一般への貸し付け72万ドルについて推定9%の金利を取っていた。・・・・・・
 この世界最初の中央銀行の公的な行動に、その後に続く中央銀行の特徴である壮大な欺瞞を見て取ることができる。銀行は融資するふりをしたが、じつは政府が使うマネーを「製造」したのだった。政府自身がそのようなことをすれば、そのマネーが不換紙幣であることはすぐに見破られるから、戦費を払おうとしても額面どおりの価値では受け取ってもらえないだろう。だが銀行システムを通じてマネーを創出すると、一般市民にはプロセスが見えない。新たに創出された紙幣は金貨の裏づけがあるそれまでの紙幣と見分けがつかず、一般市民はだまされる。・・・・・・
 たった2年で物価は100%上昇した。・・・・・・銀行創立からわずか2年後の1696年、「正貨による支払いを停止」することを認める法律が成立した。イングランド銀行は法の力で、銀行券と金を兌換するという約束を守らずにすむようになった。(マネーを生みだす怪物 G・エドワード・グリフィン 草思社 P223)
(●筆者注) このイングランド銀行のしくみは、まともに考えると理解できないのがふつうである。なぜなら、そこには最初から理屈にあわないゴマカシがあるから。

※ イングランド銀行はイギリスの永久債を引き受ける形で、年間8%の金利と4000ポンドの管理費をもらい、政府に120万ポンドの現金を提供した。一方、政府は毎年10万ポンドの利払いで120万ポンドの現金を手に入れ、元本を返す必要はなかった。当然のことながら、政府は見返りを出す必要があった。イギリス政府はイングランド銀行に銀行券の独占的発行を認めたのである。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P29)

※イングランド銀行の通貨発給の仕組みは簡単でした。彼らは国王125万ポンドを融資し、その代わり同額の通貨発給の権限を得たのです。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 2015.12月 P35)


※ さらに巧妙なのは、この仕組みが国家の通貨と永久債を切っても切れない関係にしていることであった。通貨を増やすには、まず永久債を増発しなければならず、国債を償還すれば国家の通貨がなくなってしまう。市場に流通する通貨がなければ、政府はいつまでたっても債務の履行ができないことになる。・・・・・・
 案の定、この時以降、イギリス政府は一度も債務を完済することはなかった。2005年末までの借金は、1694年の120万ポンドから5259億ポンドへと膨らみ、イギリスの GDP の42.8%を占めるまでになっている。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P30)


ブレグジットの黒幕は裏経済のボス「シティ」?イギリスの裏社会の黒歴史と今後の動向



 この通貨発行権は、富の収奪につながります。銀行は紙に「10万円」と書くだけで、人の所得をもらうことができます。銀行が国家と結びついた場合、銀行への利息は国の税金から支払われます。その税金は国民が支払ったものです。つまり中央銀行へ利息を払っているのは国民なのです。銀行が紙に「10万円」と書くだけで、国民がその銀行へ利息を支払わなければならなくなる。これが中央銀行の仕組みです。

 しかもこの銀行は国立の銀行ではありません。国とは関係のない民間商人たちによる株式会社の銀行です。その利益は誰のものか。当然このお金持ちの商人たちのものになります。何かキツネにつままれたような話ですが、本当のことです。中央銀行にはそういうカラクリがあります。
それによってお金が、金貨から紙幣になりはじめます。でも紙のお金でよかったら銀行はいくらでもお金を刷れます。

 政府が「戦争したいから、お金を貸して」というと、「いいですよ、いくらですか、いくらでも刷りますよ」、そうやって銀行がお金を貸します。
 そうやってイングランド銀行は、政府のイギリス国債を買います。そしてその国債を担保に紙幣を印刷し、そのお金をイギリス政府に払います。これを「国債を引き受ける」という言い方をします。紙幣発行の裏付けとしてイギリス国債を担保とし、その担保としたイギリス国家の国債の信用力で紙幣を発行する。紙と紙のやりとりだけであたかも信用が生まれたように見える。これは一種のトリックです。何かが新しく生まれたわけではありません。
 しかしこれで、イギリス政府はいくらでも紙幣を手に入れることができます。こうやって一度ゴマカスと、いつまでもゴマカシ続けなければならなくなります。つまりどこまでも富の収奪を行わなければならなくなります。しかしこのことは持続可能なことではありません。富が尽きたとき、このシステムは終わります。

 イギリス政府はこれで財政難をしのぎます。イギリスが戦争に強かったのはこういうゴマカシのお金、つまり紙のお金をいくらでも印刷したからです。そしてそのお金で、戦争のための武器弾薬をいくらでも買います。しかし銀行への利息は国民の税金から支払われます。
 フランスは、そういうことをしません。だから戦争には弱い。「お金とは金貨だ」というルールを守っています。でもフランスでもその金貨は底を突きつつあります。だから武器を買えないのです。
 しかしイギリスの紙幣はいくらでも刷れます。王様がイングランド銀行に国債を渡して、紙幣の発行を頼めば、それだけで印刷した紙がお金になります。こうなるとニセのお金と、本物のお金の差がどこにあるか分からなくなります。でもこのスタイルが世界中に広まって、今の紙幣というお金になっていきます。しかしその利息を払っているのは国民です。国民は利息を支払うために働くことになります。

 これが中央銀行の通貨発行権のはじまりです。紙のお金を自由に発行する権利をイングランド銀行がもつようになった。しかもそれを王が認めた。そしてこれがのちの中央銀行になります。中央銀行とは今の日本でいえば日本銀行ですが、イングランド銀行はこういう形で世界初の本格的中央銀行になります。

紙幣 - Wikipedia

【概要】 紙幣には、政府が発行する政府紙幣 (Print money) と、銀行中央銀行など)が発行する銀行券 (Bank note) があるが、特定地域だけで通用する地域紙幣(地域通貨)が発行されることもある。
現在の多くの国では中央銀行の発行する銀行券が一般的であるが、シンガポールなど政府紙幣を発行している国もある。
現在多くの先進国の中央銀行が完全な国家機関ではなく、民間企業の投資などで出来ていることから、中央銀行のありかたを疑問視する考え方が最近世界中で起きている。そのため代替案としての政府紙幣、地域通貨なども再び脚光を浴びはじめている。



 だからイギリス政府の金庫には、いっぱい紙のお金がある。イングランド銀行から借金して紙のお金を貸してもらう。自分のお金だろうが、借金したお金だろうが、お金に変わりはないのですから、武器、弾薬、戦争に必要なものは何でもガバガバ買える。フランスの何倍も買える。兵隊の給料だって払える。だからイギリスが強いんです。そのことは高校の教科書にも書いてあることです。その銀行業の中心に、新しい王といっしょにオランダから来た金貸し業のユダヤ人がいます。

※【戦争費用の調達】
※ イギリスでは、1694年にイングランド銀行が創設され、政府が発行する借用証書(国債)を引き受け、これが金融市場で取引されるようになった(財政革命)。イギリスでは、イングランド銀行が国債を引き受けたことで、国債の信用を高め、国内外からの投資を安全なものとしたため、多くの資金が集まることになった。こうした資金を軍事費にあてることで、イギリスはフランスとの戦争を有利に進めた。イギリスが、あいつぐフランスとの戦争に勝利したのは、この財政革命によって、フランスより戦争の費用を集める能力が高まったためであった。(高校教科書 新詳世界史 B 川北稔他 帝国書院 P178)


英中央銀行のあるシティオブロンドンでロスチャイルドビルに行ってきた


 
 こんなことをするんだったら「イギリス政府が直接紙幣を発行すればいい」という考え方もあります。でもそうすると紙幣は「銀行券」ではなくて「政府紙幣」になります。
 しかしこれをやられると銀行家の商売はあがったりです。銀行券と政府紙幣の違いは何か。政府紙幣はいくら発行しても利息は発生しません。しかし銀行券には銀行に支払う利息が発生します。中央銀行が利息をもらうのです。中央銀行は政府にお金を貸しているから、政府から利息をもらうのです。
 ではその利息は誰が払うか。政府の税金から払うんです。つまりこれは国民が、中央銀行に利息を払うのと同じことです。

 中央銀行は紙幣を刷るだけで、国民の税金を利息として手に入れることができます。このぼろい儲けを銀行家たちは決して手放そうとしません。逆に、政府紙幣を発行しようとする政治家は、銀行家たちにとっては敵なんです。中央銀行券というお金が政府紙幣に変わっただけで、中央銀行には利息収入が手に入らなくなりますから。しかもこの中央銀行は政府がつくった銀行ではなく、民間のお金持ちたちがつくった銀行です。

※【利子と重税】
※ 名誉革命後のイギリスでは、1694年にイングランド銀行が創設され、政府の発行する国債を引き受けた。・・・・・・イギリス政府は、戦争時、容易に大量の国債を発行することができるようになったが、その利子を払うために、国民にますます重い税を課すようになっていった。・・・・・・イギリス政府は、大量の国債を発行してその利子を税金で支払いつつ、対フランス戦争を戦い、植民地を拡大する政策を進めた。(高校教科書 新編高等世界史B新訂版 川北稔他 帝国書院 P212~213)


 紙幣に関しては、前に言った中国でも似たようなことがありました。約600年前の中国の宋の時代、民間業者は「交子」という紙幣を発行していました。しかし政府はそれを禁止して、国家が発行する「官交子」という紙幣に切り替えます。これにより、紙幣の発行は民間業者がするものではなく、国家が発行することにしたのです。
 紙幣発行権を手に入れた者に莫大な利益がもたらされることは同じでも、これには利息が付きません。国民が利息を払う必要もありません。しかも国家は公的なもので、そこには利益の再配分機能があります。民間業者にはその機能がありません。民間業者は、利益は全て自分のものとするだけです。つまり「富の偏在」が起こるのです。

 通貨発行権を誰がもつか。現在、多くの国は中央銀行がその権限を握っていますが、その正当性は曖昧で、今でも正式に説明されたことのない問題です。しかしこの問題は、このあと政治を動かす大きなカギになります。

※【紙幣発行権の獲得】
※ 「ただ、私は国家の通貨の発行を支配したいだけだ。それができれば、誰が法律を作ろうと、私はかまわない。(メイヤー・ロスチャイルド ロスチャイルド家初代)」(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P21)

※ アメリカ独立宣言を起草し、歴史に名を残したす第3代アメリカ大統領のトーマス・ジェファーソンは次のような警世の一文を残した。
私有銀行がアメリカ合衆国の通貨の発行権を握ったならば、彼らはまずインフレを作りだし、それから一変してデフレにすることで、国民の財産を奪うだろう」
「我々の自由を脅かす銀行の脅威は、敵軍よりも危険なものだと私は固く信じている。彼らはすでにマネーをバックにした貴族階級を作りだし、政府を軽視している。通貨の発行権を銀行から奪い返すべきだ。通貨発行権は真の持ち主、すなわち国民が持つべきだ(1802年)」(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P59)


 イギリス政府にお金を貸しているのはイングランド銀行です。イングランド銀行ができたのが1694年です。このイングランド銀行は、ファルツ継承戦争の最中にその戦費を調達するためにつくられたものです。この銀行ができたとたんに、ますます戦争が起こるようになります。この戦争をきっかけとして、イギリスはアメリカに乗り出していきます。
 1.1688年 ファルツ継承戦争=アウグスブルグ同盟戦争
   1689年 ウィリアム王戦争(アメリカ)
 2.1701年 スペイン継承戦争
   1702年 アン女王戦争(アメリカ)
 3.1740年 オーストリア継承戦争
   1744年 ジョージ王戦争(アメリカ)
 4.1756年 七年戦争
   1754年 フレンチ=インディアン戦争(アメリカ)
 アメリカでの4つの戦争は、第2次英仏百年戦争ともいわれます。このときはヨーロッパの戦争がメインですが、その後の歴史から見るとアメリカでの戦争が重要です。

※ 設立当初のイングランド銀行は11年間だけ存続が認められ、国がその借金を完済したときには閉鎖されるという約束になっていました。しかし、フランスとの間の英仏第二次百年戦争がきわめて長期間続いたために政府の財政難が続き、1812年まで12回にわたりイングランド銀行への特許状が書き換えられました。イングランド銀行の紙幣の発行は、長期の戦争が、なし崩し的に定着させたということになります。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P147)

※ 歴史家ポール・ニコルは、「1689年から1815年までの125年間に、フランスとイギリスは実に2年に1度の割合で敵対してきたことになる。外見上では勢力の優劣は極めて明瞭であった。当時人口600万から1200万に達していたイギリスも人口1800万から3000万に達するヨーロッパで最も人口が多いフランスに対して常に劣勢であった」と記していますが、実際にはどの戦争でもフランス軍が劣勢で、国力の低いイギリス軍が勝利を収めました。それは宮廷ユダヤ人のサポートによる国債発行が、戦費の調達面で威力を発揮したからです。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P136)

続く。


新「授業でいえない世界史」 第28話の6 18世紀 奴隷貿易とバブルの発生

2019-08-26 08:01:10 | 新世界史11 近世西洋

【奴隷三角貿易】 これと同時進行でイギリス人は、アメリカに乗り出していく。イギリスの西、大西洋を越えたところにアメリカがある。その大西洋をまたいで貿易をしていく。
 過去にはスペインもやってた。オランダもやってた。しかし1600年代の中心はイギリスです。奴隷貿易の中心もスペインからイギリスに移っていく。そこで奴隷貿易をやる。

 アフリカの現地の人たちを勝手に捕まえて・・・・・・これは今でいう拉致ですよ・・・・・・船に乗せて奴隷として売り飛ばしていくんです。
 奴隷は、イギリス人が経営する・・・・・・イギリス人は紅茶用の砂糖が欲しいから・・・・・・サトウキビの農場で働かされる。「紅茶ぐらい」とバカにしないでください。この砂糖で稼ぐんです。もともとアメリカに住んでいた原住民たちは、この重労働でバタバタ死んでいく。そこに伝染病も加わって死んでいく。
  その労働力不足の補充に、アフリカから奴隷貿易で黒人奴隷を連れてくる。そしてアメリカに売る。これが利益莫大です。犬猫どころじゃない、高級ロボットどころじゃない。言葉が分かって言われたとおり、指示どおりに働いてくれる便利な機械だから、奴隷は法外の値段で売れます。

※ 西アフリカで購入した黒人奴隷10倍の価格で売却されたと言います。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P128)


 これでイギリスはガッポリ儲けた。そのピークが1650年ぐらいです。さっき終わった2回のイギリス革命の中間ごろです。イギリス革命と同時にこういった事が起きています。このような奴隷労働を背景に、サトウキビからできた砂糖を購入し、砂糖入り紅茶を飲む生活スタイルがイギリスで確立します。

※ 18世紀になると、砂糖がカリブ海域のジャマイカ島で大量に生産されて利益を上げるようになり、働き手の黒人奴隷を西アフリカからカリブ海域に運ぶ奴隷貿易も大規模化して、砂糖貿易奴隷貿易でイギリス経済は急成長を遂げました。・・・・・・大西洋三角貿易という大掛かりな貿易となりました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P127)


 社会的に重要なのは、そういうあこぎな商売人たちがお金をガッポリ稼ぎ、お金を貯めだしたということです。こういう貯まったお金のことを経済的に資本といいます。この資本が次の1700年代にイギリス産業革命の資金源になります。
 もともとは何の金か。奴隷を売った金です。つまり産業革命の富の源は奴隷貿易の利益です。


奴隷航路:抵抗する魂





【キャラコ貿易】 もう一つあります。イギリスはインドと貿易をしていた。このインドではヨーロッパではつくれない植物繊維があった。
 ヨーロッパ人は毛糸を着ている。毛糸は洗うと縮むから洗えない。だから臭い生活をしてる。しかしインド人は・・・・・・これはキャラコとインドでは言っていますが・・・・・・綿織物を着ている。着ているものが違うんです。「洗えるじゃないか、綺麗じゃないか、清潔じゃないか、着心地がいい、これ欲しいな」と。

 イギリスは奴隷貿易で儲けている。ある程度、お金を稼ぎ出した。高いインド産キャラコが買えるようになる。するとこのキャラコが爆発的に流行する。
   そうなると、今まで着ていたイギリス製の毛織物が売れなくなって、毛織物業者がバタバタと倒産していく。だから1700年には一旦インドからの綿織物の輸入は禁止される。これは国内産業を保護するためです。


 これは後のことですが、その後、ピューリタン革命から100年ぐらい経って、イギリスに産業革命が起こると・・・・・・それ以前には綿織物を作る技術はイギリスは持っていませんでしたが・・・・・・技術が進歩して、綿織物を国産化できるようになる。つまりイギリスで綿織物がつくれるようになる。これを今度は逆にインドに輸出する。そして儲ける。こういうこの後の流れがあります。

 
▼18世紀中頃の世界貿易


 産業革命は18世紀半ば、1700年代半ばです。そのころイギリスはインドを征服して植民地にしていく。
 それで何をするか。ヨーロッパでは綿花は寒すぎて作れない。だからインドでその原料になる綿花を強制的に作らせる。綿花が綿織物の原料です。その原料をインドからイギリスに持ってきて、それを綿糸にして、さらにそれを織って綿布にしていく。そして売る。これでがっぽり儲ける。このためにインドは、このあと約200年かけて、イギリスの中心的な植民地にされていく。
 インドが本当に独立国になったのは今からたった70年前、20世紀の半ばです。日本が原爆を落とされた後です。それまではずっとイギリスの植民地です。インド人がなぜ英語がしゃべれるのか。イギリスの植民地だったからです。

 イギリスの植民地になり地域が破壊されたのは、インドとアフリカです。アフリカは20歳前後の働き盛りの男たちが奴隷にされてアメリカに連れて行かれるから、働き手がいなくなる。それで社会全体が貧しくなって、アフリカ社会そのものがボロボロに破壊されていきます。
 アフリカには、それまでマリ王国とかソンガイ王国とか、ちゃんと国があった。それがなぜ未開の土地になったか。こういう理由で破壊されたからです。もともと未開ではなかったのです。



【イギリスの南海泡沫会社事件】 それと同時に、アメリカでもインディアンが迫害されていく。さらにアメリカの支配をめぐって、イギリスとフランスは植民地合戦でずっと戦う。そして最終的にはイギリスが勝つ。イギリスが勝って、以前から住んでいた先住民をさらに追い込み、人の住まないような西の方にどんどん追い込んでいく。先に住んでいたのはインディアンなのにです。
 ヨーロッパでは数え切れないほど戦争がある。戦争につぐ戦争です。たまに平和がある。日本は平和が基本でたまに戦争がある。まったく逆なんです。

 1701年から1713年のスペイン継承戦争でスペインと戦って、イギリスがそのスペイン植民地での奴隷貿易の独占販売権(アシエント)を握る。イギリスからしか奴隷が買えなくなる。これで儲けたイギリスですが、こうやってアメリカ大陸に乗り込んでいく一方で、植民地での戦争はイギリスの財政を悪化させます。

※【スペイン継承戦争とユダヤ人】

※ スペイン継承戦争で、(フランスの)敵側の軍隊に必需品の供給をしたのもユダヤ人である。「フランスは戦時中に騎兵を出動させるため、いつもユダヤ人の援助を必要とした」。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P87)

※【近代フリーメイソンのはじまり】
※ 18世紀のヨーロッパでは・・・・・・フリーメイソンのような民間の団体・協会が数多くうまれ、言論の場となって学芸や時事問題について自由な会話や議論がおこなわれた。(フリーメーソンとは)イギリスで発足して世界各地に広まったヨーロッパ最大の秘密結社。さまざまな社会層の人々が加入して、社交・言論の場となった。(高校教科書 新世界史B 改訂版 岸本美緒ほか 山川出版社 P241)
 
※ フリーメイソン・・・18世紀、イギリスで成立した結社。博愛主義、自由、平等の精神を主張するが、入社式が非公開のため秘密結社的な性格を持つとみられた。石工の組合から始まったとされ、石工の小屋(ロッジ)という名称を用い、1717年イギリスでロッジを単位とする組織が確立した。(角川世界史辞典 西川正雄ほか 角川書店 P823)
 
※ フリーメイソンの起源に関して、じつに多くの説が提出されている。起源に関して定説がないこと自体、フリーメイソンという組織にはある種のあいまいさがあることを物語っている。(フリーメイソン 吉村正和 講談社現代新書 P18)

※ イギリスの近代フリーメイソンの歴史は、1717年に始まる。・・・・・・この頃のフリーメイソンのロッジのほとんどが居酒屋に置かれていたことは、フリーメイソンがクラブとして発足していることをよく物語っている。クラブは、共通の趣味・関心をもつ男性が社交・娯楽・飲食を目的として集まる団体を意味しており、ほとんどのクラブは居酒屋で集会を開いていた。・・・・・・
 1717年6月24日にロンドンにあった四つのロッジが予定通り居酒屋「グース・アンド・グリドアイアン」に集まり、グランド・ロッジを結成する。近代フリーメイソンは、一般にこのときをもって発足するとされる。「グランド・ロッジ」というのは、ロッジを統括するロッジという意味であり、新しいロッジの創設を承認する権限が与えられた。(フリーメイソン 吉村正和 講談社現代新書 P26)

※【ナントの勅令廃止とフリーメイソン】
※ 初期のイギリスのフリーメイソン運動において最も大きな影響力を持っていたのは、「近代フリーメイソンの父」と呼ばれるジャン・デザギュリエである。・・・・・・
 フランスのロシェルでプロテスタントの牧師の子として生まれたデザギュリエは、(1685年の)ナントの勅令の廃止とともにイギリスへ亡命してくる。・・・・・・やがてアイザック・ニュートンの友人となり、ロイヤル・ソサイティー(王立協会)の会員となる。・・・・・・彼は1719年に、ジョージ・ペインの後継として第3代グランド・マスターになる。(フリーメイソン 吉村正和 講談社現代新書 P33)

※ 「ナントの勅令」が1685年に廃棄され、数千のユグノーがイギリスに亡命し、その多くの者がメイソンになった。その中で特に重要な役割を果たすのはデザギュリエである。彼は英国国教会の司祭となり、ニュートンの友人、王立協会の会員ともなった。
 1719年にはイギリス大ロッジの第3代目の大棟梁となり、アンダーソンの「憲章」の成立にも関係し、フランスにイギリス合理主義、イギリス理神論を紹介し、かつ教権主義的君主国家フランスに対抗するイギリス内での精神的、政治的領域での中核的人物となった。
 彼を中心とする亡命フランス人は、イギリスおよびイギリス・フリーメイソンリーにとって恰好の道具となった。モンテスキューやヴォルテールはイギリスを訪ね、帰国後直ちにイギリスの思想や体制の宣伝を始めた。革命理論は学術的な体裁でイギリスからやってきた。あとはフランス人の実践が残っているだけだ。
 イギリスはしかし革命にイデオロギーだけを与えたのではない。群衆に撒かれた金も含めて革命資金は一体どこから流入したのか。最大の大口はオルレアン公であり、次はフランス・メイソンからのものや、他のもろもろのフランス資金、そして当時のイギリス首相ウィリアム・ピット(小)の指導するイギリス政府からのものであった。
 なぜイギリスが。なんとなればイギリスにとっての最大の利益は、フランス、なかんずくブルボン王朝の崩壊にあったからである。(フリーメイソンリー 湯浅慎一 中公新書 P127)

※【イギリス王室とフリーメイソン】
※ イギリスはスチュアート家の末裔ゾフィーの子ハノーヴァーの選帝侯ゲオルク・ルードヴィッヒを、1714年イギリス王ジョージ1世として迎えた。英語は出来ず、イギリスの政治にも関心をほとんどもたない彼の許に、これを補完するため責任内閣制が作られ、首相が国政に当たることになった。既に1689年の名誉革命で王の絶対権力を失っていたイギリスは、ここに民主的な立憲君主国の姿をはっきり示すに至った。・・・・・・
 イギリスに始まったフリーメイソンリーはイギリス人の手で素早く大陸のカトリック国に移入されたが、そのどこでもその「民主主義的要素」ゆえに弾圧された。こうしてイギリスの大陸政策は、大陸の王朝の弱体化による民主化を目指し、大陸に送り込まれたイギリス王朝の子孫は当地でもこの姿勢を崩さず、宣伝する役割を果たすことを期待され、また大陸の民主化はフリーメイソンリーの大目標でもあった。・・・・・・
 大陸のカトリック的神権体制を代表したのは、フランスとスペインのブルボン王朝であり、次に神聖ローマ帝国の長たるハプスブルク王朝であった。この二つの王朝こそヨーロッパにおける人間の自由と平等と社会正義を縛る鎖であり、これに直面するイギリスには大陸の解放者としての使命を果たす義務が生ずるのである。(フリーメイソンリー 湯浅慎一 中公新書 P113)  



東京タワーから徒歩3分の場所にフリーメイソン日本支部が存在した!



 イギリスはアメリカとの奴隷貿易で儲けていますが、1711年に、そのための奴隷会社をアメリカに作ります。この会社の名前をなぜか、アメリカ会社ではなくて南海会社といいます。アメリカにつくったイギリスの奴隷貿易会社です。
 この時の会社は株式会社に近くなっている。株が売買されます。そうするとお金を持ってるイギリス人たちが「この株は上がるぞ」と勝手に予測して、「株を買おう、俺も買おう」となる。それでバブルになる。会社自体は儲けてないのに、これだけで株価がグーッと何十倍も上がる。そしてピークをつけたら、ストーンと落ちる。それで多くの人間が破産します。これが1720年南海泡沫会社事件です。

※【アシエントと南海会社】 
※ イギリスは1711年、南海会社という特権会社を設立します。イギリスは新大陸の植民地争奪戦(スペイン継承戦争とアン女王戦争)を有利に戦い、1713年にユトレヒト条約が結ばれると、イギリスはスペイン領西インドの奴隷貿易独占権(アシエント)を獲得し、南海会社にそれを与えました。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P186)

※ 南海会社のペテン騒ぎがイギリスに出現した頃、ユダヤ人集団がすでに同国最大の金融資本家として、いすわっていたことがわかっている。・・・・・・彼らは、政府が地租を担保に募集した公債の4分の1を引き受けることができた。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P92)

※ 1718年、イギリスはスペインとの間で四カ国同盟戦争を開始し、スペインとの奴隷貿易ができなくなり、アシエントは事実上、失効します。
 焦った政府は計画を練り直し、新たに南海会社に対し、宝くじの発行を認める特別措置をとります。この手法は大当たりし、宝くじは一般市民に飛ぶように売れ、南海会社は莫大な収益を得ます。
 一定の信用を得たところで、政府が国債と南海会社の株券との引き換えを提起します.提起というのは建前上のことで、半ば強制でした。政府は財政難で、国債の償還ができないため、南海会社の株券と国債を引き換えて欲しいと申し出たのです。事実上のデフォルト宣言でした。
 もちろん国債保有者は政府を批判しましたが、デフォルトで国債の紙くずになり、何も得られないより、南海会社の株券を取得する方が良いと考え、政府の半強制的な提起に従いました。
 当時、宝くじ事業で成功していた南海株の値上がりが見込まれており、損をしたくなければ早急に国債と株券の交換に応じなければならない状況でした。国債保有者は南海株との交換に押し寄せ、それが株買いと同じ効果となり、1720年、南海株は値上がりし始めました。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P187)

※ イギリス政府は南海会社を使ってバブルを仕掛け、財政の窮地から脱しましたが、そのツケはバブルに踊った一般市民が払う羽目になりました。結果として、詐欺的な手法で、国家が国民の富を収奪したことになります。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P191)

※【イギリス国債の人気】
※ (18世紀前半のウォルポール時代)以降、イギリス国債は議会により、その発行や償還がコントロールされ、意志決定の透明性を確保していきます。
 また、議会は予算の審議を行い、国債を管理しました。他の国の債券は王政によりコントロールされ、その意思決定が恣意的で不透明であり、投資家にとってリスクは大きかったのですが、イギリスの政治は議会により開かれ、外部からも動向が見えやすく、投資家に判断材料を多く提供しました。
 イギリスは投資家の信用を得て、国債市場を発展させ、全ヨーロッパの富裕層から投資金を集めました。ヨーロッパの国々の中でもイギリスの国債の人気が圧倒的に高く、イギリスにマネーが大量に流れ込みました。イギリスは豊富な資金・資本を新たな市場開拓へと振り向けるべく、積極的に海外進出をし、世界各地を植民地経済に編成していきます。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P193)


 だからここからあとは、株式会社は危険だぞ、ということになって、このあと120年間ぐらいは株式会社は禁止されます。もともと株式会社は危険でブラックな会社だったんです。

※【株式会社禁止】
※ 1720年泡沫会社禁止条例が制定され、7名以上の出資者からなる株式会社は、議会の承認、あるいは国王の勅許が必要とされることになった。事実上1825年に同条例が廃止されるまで、イギリスでは株式会社の設立が不可能になる。イギリスの産業革命は、株式会社の設立が不可能な状態の下で始まるのである。(知っておきたいお金の世界史 宮崎正勝 角川ソフィア文庫 P72)
 

 そのほとぼりが冷めた約150年後に・・・・・・1860年代の南北戦争後ですが・・・・・・イギリスで株式会社が許可されます。それをきっかけに、また火を付けるのがアメリカです。アメリカで株式会社が巨大化していきます



【フランスのミシシッピーバブル】  似たようなことは、フランスでもほぼ同時に起こっています。  フランスは・・・・・・アメリカにミシシッピー川というアメリカ最大の長い川がある・・・・・・その名前を取ってミシシッピー会社をつくります。「アメリカに広大な開発農場を作るぞ」という会社です。
 するとイギリスと同じように、株が暴騰して、ピークをつけたらストーンと落ちる。そして会社が破産する。その株を買った多くの人間も破産します。
 そういう非常に景気の波の激しい、不安定な社会が発生し始めた。実はこちらが1年早い。1719年です。

※【ミシシッピーバブル】
※ フランス王室はミシシッピ株式会社という特許会社と紙幣発行権を持つバンク・ロワイヤル(王立銀行)をテコに、「ミシシッピ計画」を立てます。その手法はイギリスの南海会社と同じく、負債と資本の交換でした。1719年、特許会社のミシシッピ会社が作られます。この会社は新大陸の開発を一手に任され、ミシシッピ川河口のニュー・オーリンズの開発などを請け負っていました。ミシシッピ会社は、開発が成功していることを誇張して宣伝し、会社の信用を高めます。そしてこのミシシッピ会社株とジャンク化していた国債を半ば強制的に交換させます。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P199)

※ フランス王室にとって(ジョン・)ローのリフレ政策は意味のあるものでした。たとえバブルで一般市民が破産しようとも、王室財政は債務から逃れ、一息つくことができたからです。貨幣増刷、金融緩和などのリフレ政策が、政府の財政を救済することを目的として展開されるとき、それは結果的に、国家が国民の富を収奪する行為となります。
 イギリスは南海会社計画で、フランスはミシシッピ計画で、それぞれ当面の財政危機を乗り切ることができ、新大陸やインドなどでの植民地争奪戦を1744年から再開します。両者の戦いは最終的にイギリスが勝利し、1763年、パリ条約が締結されます。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P202)  



【政党政治】 ではまたイギリス内の政治の流れです。名誉革命の時に初めて政党の原型みたいなものができました。トーリー党です。今も続いています。名前を変えていますが。これが今の保守党です。今もこれがイギリスの政権与党です。
 次にホイッグ党です。これはのちの自由党になります。でも今は弱体化しました。保守党は勢力を保ってますが、自由党は弱体化しました。でも当時はこのトーリー党とホイッグ党の二大政党制です。

 イギリスの政治は議会で、例えば100人で二つの政党が議席を争ったら、過半数の51人が議席を取ったら賛成多数で勝ちです。100人の国会議員のうち、51人取ったら賛成多数で決定です。51人をどっちが取るか、これが勝負の分かれ目です。
 内閣総理大臣は王様が任命するんじゃないです。議会が選ぶんです。多数決で選ぶから、半自動的に勝った政党から首相が選ばれることになる。これを責任内閣制といいます。
 今の日本はこれですね。日本の首相は、天皇陛下が選んでいるんですか。衆議院で自民党が半分以上の議席を持っているから、議会で自民党の国会議員が内閣総理大臣に選ばれている。これはイギリス流です。日本の政治はイギリス流です。アメリカのような大統領制ではありません。

 選挙で勝って、議会の多数党のリーダーとして初めて首相になる人物が、1721年のウォルポールという首相です。だからこの人は、選挙で負け、例えば議席が2人減って味方が49人、敵が51人になったとたんに「では辞めましょう」と言って、1742年に辞めます。選挙で負けたら、議会の信任を得られなくなるからです。ここに政党政治の原形が現れます。

※【イギリス王室とフリーメイソン】
※ フリーメイソンリーが掲げる社会理念は自由、平等、正義であるにもかかわらず、その由来からして市民的であるにもかかわらず、その発祥の地イギリスのフリーメイソンリーは早くから王侯貴族をその成員にしようと努めた。・・・・・・
 イギリスのフリーメイソンリーで、その最初の貴人となるウェールズ王子はジョージ2世の長子であり、1737年11月5日に加入した。このことについて、「IFL」(国際フリーメイソンリー辞典)は誇らしげに、彼は「メイソンになった最初の王子であった」、またこれは「生まれたばかりのフリーメイソンリーの成果を王冠で飾るものであった」と述べている。この表現はまさにその後のイギリス・フリーメイソンリーが常に王室と一体となって発展する歴史を的確に表現している。(フリーメイソンリー 湯浅慎一 中公新書 P105)

※ ジョージ3世の息子であるジョージ4世は、王子のとき、1787年2月6日「オカジョナル・ロッジ」に加入し、1790年に伯父ヘンリー・フレデリックの死後はここの大棟梁となり、(1820年に)王位についてからはイギリス・フリーメイソンリーの「大保護者」となった。こうしてイギリス・フリーメイソンリーは会士にはじめてイギリス国王を迎え、名実ともにイギリス社会の正統派となったわけである。(フリーメイソンリー 湯浅慎一 中公新書 P106)


 その後、1757年から1761年までの5年間、大ピットが執政を務めます。七年戦争は実質的に彼が指導しました。その後1766年から1768年まで首相を務めます。
 その1760年代からイギリスでは産業革命が起こり、1775年からはアメリカの独立戦争が始まります。
 そしてそのアメリカ独立戦争が終わった1783年から1801年まで首相を務めるのが、大ピットの息子の小ピットです。この時に起こるのが1789年からのフランス革命です。
 これで終わります。ではまた。



新「授業でいえない世界史」 29話の1 18世紀 オーストリア継承戦争、七年戦争

2019-08-26 07:24:39 | 新世界史11 近世西洋


【ドイツ】
 ではドイツに行きます。ドイツは不思議な国で、ここは800年間ぐらいヨーロッパの中心であった。
 しかしその国はドイツとは言わなかったんです。神聖ローマ帝国といっていた。これがドイツなんです。その神聖ローマ帝国の領域が下図です。今のドイツよりもだいぶ広い。



【オーストリア対プロイセン】 ただ、ここにはいろんな大名がいます。その最大のものが、神聖ローマ帝国の皇帝であり、それがオーストリアを本拠とするハプスブルク家です。まずこの神聖ローマ帝国の領域を赤で囲むと今のドイツよりもだいぶ広い。イタリアまでかかっている。ではこのハブスプルク家は、自分の土地としてどこに領土をもっているかというと、もっと小さくてウィーン周辺のこれだけなんです、もともとは。
 もとの神聖ローマ帝国の中で自分の領地を広げるんだったらよかったんですが、帝国の外側に自分の領域を広げた結果・・・・・・隣がハンガリーというんですが・・・・・・そこまで領地を広げる。神聖ローマ帝国をはみ出して領地を持つようになる。これがハプスブルク家というオーストリアの領地なんです。ドイツではこれがナンバーワン大名です。(神聖ローマ帝国はすでに有名無実化しています)
 それを急速に追い上げてくるのが別の領主、ドイツの北方に領地をもっていた大名です。これがプロイセンです。

 何を言いたいか。ドイツの主導権をめぐってケンカするんです。この二つの大名が。
 もともとの主流はオーストリアです。オーストラリアじゃないですよ。これをハプスブルク家という。これを前に戻って説明します。
 ドイツでは1600年代に三十年戦争という血で血を洗うような宗教戦争、カトリックとプロテスタントの戦争が起こって、人口の3人に1人が死ぬ。それぐらいものすごい殺し合いを行って、国がメチャメチャになってしまって分裂した。ただ分裂しても一番強かったのは、神聖ローマ帝国の皇帝を出す家柄であったハプスブルク家です。これがオーストリアです。
 これだけだったらよかったのですが、これを急速に追い上げてくる若手の大名が北方から出てくる。これがプロイセンです。
 ではバラバラになったドイツをどっちがまとめるか。「俺がまとめる、いや俺がまとめるんだ」、それでドイツはもめていく。

 
▼18世紀中ばのヨーロッパ



【オーストリア継承戦争】 ドイツの中にオーストリアプロイセンという2つの強力な大名が現れたということです。その戦争が1700年代に起こっていく。
 1740年オーストリア継承戦争です。きっかけは王の跡継ぎ問題です。争った人物の名前からいきます。プロイセンの王はフリードリヒ2世という。それに対してオーストリアは女帝です。マリアさんという。マリア=テレジアという女王です。どっちもドイツ人です。ドイツ人同士がドイツの中で戦いあう。
 このオーストリア継承戦争がより複雑なのは・・・・・・これはドイツの中の内乱ですが・・・・・・それにイギリスが乗っかることです。さらにフランスが乗っかる。フランスとイギリスは何が目的だったか。ドイツではない。アメリカの植民地です。いま北アメリカの植民地を奪い合って、どんどん領地を広げているのがイギリスとフランスです。
 ヨーロッパで戦争が起こると、イギリスとフランスが敵と味方にわかれて、北アメリカ植民地でも同時に戦争がおこる。これはセットです。

 オーストリア継承戦争がヨーロッパで起こると、ほぼ同時に北アメリカつまり今のアメリカでジョージ王戦争が起こる。イギリスフランスの間で。これが約5~6年続いた後、終わったかと思うと、また2番目の戦争が起こる。本当はこの前に2つあって全部で4回戦うんですが、前2つは割愛しますが、この4回の戦争は、ポイントはすべてイギリスとフランスが敵味方に分かれてずっと戦うことです。

 イギリスの主眼は、宿敵フランスをつぶすことです。この流れは、1775年からのアメリカ独立戦争、さらに1789年からのフランス革命まで一貫して続いていきます。大きな流れで見ると、アメリカ独立戦争も、フランス革命も、イギリスとフランスの戦いなのです。
 アメリカ独立戦争でフランスはアメリカを援助することによりイギリスと戦い勝利しますが、次のフランス革命ではイギリスと戦って敗れていきます。アメリカ独立戦争とフランス革命は一連の流れであり、もっと大きく見ると第2次英仏百年戦争の終着点でもあります。
 ここでは後ろ2つ、さっき言ったオーストリア継承戦争ともう一つを言います。



【隠れユダヤ人】 ヨーロッパは戦争をつづけていきますが、戦争には資金が必要です。その資金をどれだけ調達するかが戦争の勝敗を決する、といっても過言ではありません。そこにはユダヤ人の存在があります。彼らは古くから金融業を営んでいました。そういうユダヤ人の金融業者たちがドイツの宮廷に入り込んでいきます。戦争の資金源の多くはこのユダヤ人なのです。

 そのユダヤ人社会にはすでに約百年ほど前から救世主の出現を求めるメシア活動が盛んでした。約百年前の1665年に救世主を名のる一人の男が現れます。サバタイ・ツヴィというユダヤ人です。彼はオスマン帝国内で活動し、多くのユダヤ人の救世主として崇められます。しかし彼は、オスマン帝国の皇帝(スルタン)に拘束されると、それに屈してユダヤ教の信仰を捨てます。そして言われるがままイスラム教徒に改宗して、安泰に暮らします。つまりメシア自体がユダヤ教を捨てて、棄教したのです。

 しかしユダヤ人のメシアを待望する活動はおさまりませんでした。そこにどういう理由づけが行われたのか。彼らは信じられないような考え方をします。たとえば約2000年前、ユダヤ教が誕生したときも、「信じる者は救われる」としたら、「救われないのはなぜか」という疑問に、それは神が役に立たない神だからとはせずに、「自分たちが信じていないからだ」としました。それによってより強靱な一神教が誕生したのです。
 このときも、それ以上の奇抜な発想をします。サバタイ・ツヴィが棄教したのは、「本心からではなく棄教したふりをしてイスラム教徒になりすまし、イスラム教の内部から敵を破壊するためだ」としたのです。だから自分たちも敵と戦うためには、「敵の味方になりすまし、そこから敵を破壊に導くべきだ」という考えになっていきます。

 彼らはすでに「隠れユダヤ人」として生活していました。その隠れた生活をここで一気に正当化するわけです。この考え方が恐ろしいのは、自分の本性を隠し、人をだますことを正当化していることです。
 この本性を隠すという考え方は、秘密結社の考え方とも結びついていきます。このような宗教思想が広がるなかで、ユダヤ人金融業者はヨーロッパでの戦争資金を提供していきます。しかも多くは、敵と味方の双方に資金提供を行っていきます。

※【ユダヤ人のメシア運動】
※ 世界のユダヤ人社会のほぼ全域にわたり、少なからぬ衝撃を与えたできごとが、1665~66年のシャブタイ・ツヴィのメシア運動である。・・・・・・シャブタイ・ツヴィは、小アジアのイズミルで、青年期からメシアを自称し、躁鬱病を患いつつ、発音を禁じられた聖なる4文字の神名YHWH を公然と発するなどの奇行により破門され、放浪のすえにエルサレムに住んだ。・・・・・・運動の盛上がりにおいて顕著なことは、キリスト教徒を装ってきたポルトガル系ユダヤ人(コンヴェルソ、マラーノ)による強い支持があった点である。・・・・・・ツヴィは、(1665年)12月末にイスタンブルに向け出航、1月末から2月上旬に到着したが、まもなく逮捕され、監禁された。・・・・・・その後ツヴィはターバンを巻いてムスリムとなり、王宮から丁重な扱いを受ける身分に変貌を遂げた。メシアの棄教である。
 メシアの棄教によって、周囲ではツヴィとともにイスラームに改宗する者が続出する一方で、ユダヤ人社会内部では運動が沈静化し、メシア信仰を捨てなかった者も、地下へ潜伏した。ユダヤ人社会内部の隠れメシア教徒という現象である。棄教という背信行為については、ルリアカバラーの理論が意味づけを与えた。メシアは悪の世界の深奥にくだって、内側から悪を滅する使命があるそのために、自らが悪の根幹まで落ちねばならない。・・・・・・
 それが極端な姿で登場したのが、18世紀中葉、ヤコブ・フランク(1726~91)をメシアとするフランク主義である。彼は、1755ウクライナのポドリアで、メシアを自認した運動を興し、性的乱交を奨励した。・・・・・・フランクとその集団はカトリックに改宗し、ナポレオン戦争時には、メシア時代の到来を促進させるべく、率先して破壊活動を展開した。(ユダヤ教の歴史 市川裕 山川出版社 P114)

※ (サバタイ・ツヴィの棄教後、サバタイ主義者の過激派は)あのメシアとまったく同じように、各信徒もまた地獄に下るべきだというのである。なぜなら、悪は悪によってのみ打倒されうるのだから。・・・・・・もっとも忌まわしいサバタイ主義者ヤーコプ・フランク(1791年没)は、ショーレムがニヒリズムの神秘主義とよぶところまで突き進んでいる。彼の弟子たちのなかには、そのニヒリズムを表明する手だてとしてさまざまな革命的政治活動に走った者たちもいる。(世界宗教史5 ミルチア・エリアーデ ちくま学芸文庫 P280)

※ 偽メシアのなかでもっとも有名なのは、ヤコブ・フランク(1726~91)である。彼は1755年に自分がツヴィの生まれ変わりであると名のった。フランクの一派がユダヤ教から公式に破門されると、彼らは地方司教に支援を求めてカトリックに改宗し、タルムードに対する旧来の非難を蒸しかえした。その結果、たび重なる論争が起こり、またしてもタルムードが焚書とされたのであった(1757)。その誠実さを協会に疑われ、フランクはポーランドを離れざるをえなくなり、ドイツのオッヘンバッハに逃亡して、ここで1791年に死ぬまで自分の宮廷を設けて暮らした。(ユダヤ人の2000年 歴史篇 市川裕 同朋舎出版 P158)


※【フリーメイソン】
※ ドイツのフリーメイソンは、イギリスとフランスを経由しており、ほぼ啓蒙主義と同義のものと理解されるようになっていた。そのことは、代表的な啓蒙専制君主といわれるフリードリヒ2世(大王)が、はやくも1738年にブラウンシュヴァイクでフリーメイソンに加入したことでも理解される。(フリーメイソン 吉村正和 講談社現代新書 P47)

※ マリア・テレジアの夫君となるロレーヌ公爵は、すでに1731年、オランダのハーグの「臨時ロッジ」においてフリーメイソンに加入している。・・・・・・1730年代は、オーストリアだけではなく、ヨーロッパ全土にフリーメイソンのロッジが創設されていった時期であり、さすがにこの動きを無視できなく無視できなかったローマ教皇は、1738年、教皇クレメンス12世の名でフリーメイソン禁止令を出している。・・・・・・1780年マリア・テレジアが亡くなり、ヨーゼフ2世がその後を継ぐ。・・・・・・その(ヨーゼフ2世の)保護のもとでオーストリアのフリーメイソンは全盛期を迎える。(フリーメイソン 吉村正和 講談社現代新書 P50)

※【ドイツと宮廷ユダヤ人】

※ 17~18世紀に西ヨーロッパが資本主義、重商主義時代になるにつれて、イギリス、ドイツ、オーストリア、デンマーク等では特権階級のユダヤ人、すなわちいわゆる宮廷ユダヤ人が頭角をあらわした。彼らがいかに重要な役割を果たしたかの証拠として、 H・アーレントは、
 イギリスのエリザベス女王の金主はセファルディー・ユダヤ人だったこと、

 クロムウェルの軍隊はユダヤ人から資金を得ていたこと、
 オーストリアではユダヤ人がハプスブルク家に5500万グルデン以上の信用貸しをしていたこと、
 ザムエル・オッペンハイマーの死はオーストリア国家と帝室を破産に瀕せしめたことを挙げている。
 宮廷ユダヤ人の活躍がとくに著しかったのは、帝国が多くの小国家に分割された三十年戦争によって財政的に困窮していたドイツである。(ユダヤ人 上田和夫 講談社現代新書 P134)

※ 近代国家の支配者のなかにユダヤ人を見出すことができないとしても、こうした支配者、それに近代の君主を、ユダヤ人を抜きにしては、とうてい考えることができない(それはちょうど、メフィストフェレス抜きで、ファウストが考えられないのと同様である)。両者は、連携しつつ、われわれが近代と呼んでいる数世紀間に躍進したのだ。わたしはまさにこの王公とユダヤ人との結合のなかに、興隆する資本主義と、それと結びついた近代国家を象徴するものが見られると思っている。
 まったく表面的ながら、多くの国家において、政治的な諸階級やツンフトなど、前資本主義的諸力に対抗し、被迫害者のユダヤ人の保護者として、王公が登場する有様が見受けられる。そして内面的には、王公、ユダヤ人両者の利益、志向が、かなり一致しかつ入りみだれている。ユダヤ人は近代資本主義を具現し、そして王公は、おのれ地位を獲得し、維持するために、ユダヤ人という力と連携していた。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P85)


※ わたしはとくに、成長しつつある国家に彼ら(ユダヤ人)が物質的手段を提供したこと、その助けをかりて、こうした国家が維持、発展できたこと、それに彼らが、すべての近代国家が依存している基盤ともいうべき軍隊に二つの方式で寄与してきたことを考えている。そのうち、一つは戦時における武器、装備それに食料を調達することであり、もう一つは必要な金銭を取りそろえることである。そのうち必要な金銭というのは、当然のことながら(初期資本主義の時代は圧倒的にそうであったが)、たんに軍隊のためばかりでなく、他の宮廷、国家の必要をまかなうために用いられる金銭だ。換言すれば、わたしはとりわけ16、17、18の3世紀に、ユダヤ人がもっとも影響力の大きい軍隊の御用商人であり、またもっとも能力もある王公への資金提供者であったと思っており、さらにこの状況は近代国家発達の動きにとって重大な意味があるとみなすべきだと信じている。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P86)


※ (神聖ローマ)皇帝レオポルドの下で、追放(1670年)後、再びウィーンに居住が許された最初の富裕なユダヤ人、オッペンハイマー、ヴェルトハイマー、マイヤー、ハーシェルらはやはりすべて、軍隊の御用商人である。(ユダヤ人と経済生活 ヴェルナー・ゾンバルト 荒地出版社 P89)


※【ロスチャイルド家】
※ 金融界、経済界の分野は中世における金貸し業を経た後、宮廷の財政顧問として仕えてきたユダヤ人にとって、まさにお手のものであった。彼らは19世紀の産業革命の時代にはもはや宮廷ユダヤ人としてではなく、銀行家となり、産業のための資金を調達した。ユダヤ人の大富豪といえば、人はすぐにロスチャイルド家を思い浮かべるであろう。ロスチャイルドをドイツ語では「ロートシルト」というが、これはもとこの家の前に取りつけられていた「赤い楯」にちなむものである。その創始者はマイヤー・アムシェル・ロートシルト(1743~1812)であるが、先祖は代々(ドイツの)フランクフルトのゲットー(ユダヤ人の強制居住区域)に住んでいた。マイヤー・アムシェルは、古銭商より身を興し、ヘッセン、カッセルのヴィルヘルム伯爵の御用商人となり、大金持ちになった(ユダヤ人 上田和夫 講談社現代新書 P152)


貴重映像 世界金融支配者ロスチャイルド家当主 ジェイコブ・ロスチャイルドのインタビュー映像① Jacob Rothschild Interview video①



ワデズドンマナー ロスチャイルド家の週末ハウス Visit Rothschild's Waddesdon Manor 【英国ぶら歩き】週刊ジャーニー




【七年戦争】 1757年から七年戦争がドイツで起こる。これもオーストリアプロシアの領地争いです。このときオーストリアのハプスブルク家の宿敵だったフランス王家のブルボン家は、オーストリアと手を組みます。これを外交革命といったりします。
 でもそれより重要なのは、フランスが宿敵のオーストリアと手を組むと、イギリスは今度は反対にプロシアの支援にまわり、イギリスフランスが対立することです。これによりイギリスとフランスはまたアメリカ植民地で戦います。

※【外交革命】

※ 1750年、(オーストリアの)マリア・テレサ女帝は・・・・・・(フランス王ルイ15世の愛妾)ポムパドゥール夫人を通じ、(フランス王)ルイ15世の意向を打診させた。フランスがオーストリアとの関係を根本的に改善する用意があるか、と質問したのである。・・・・・・ルイ15世はプロシアを嫌悪しオーストリアに好意を抱いていた。それを熟知しているから、マリア・テレサ女帝は外交ルートを避けて、寵妾路線を使ったのである。・・・・・・七年戦争はフランスに不利に展開した。・・・・・・総司令官にプランス・ド・スビーズ元帥を起用したのは、ポムパドゥール夫人なので、彼女は世論の痛烈な非難を浴びた。(ヴェルサイユ宮廷の女性たち 加瀬俊一 文春文庫 P118)

※ ある記録によると、 ルイ15世の私生児は61名にのぼるという。恐るべき淫乱である。(ヴェルサイユ宮廷の女性たち 加瀬俊一 文春文庫 P117)


 だから勝ち負けは、ドイツでどうなったか、北アメリカでどうなったか、この二つがあります。ドイツでは勝ったのはプロシアです。新しい新興国です。伝統あるオーストリアは負けた。
 では北アメリカではどちらが勝つか。こっちはイギリスが勝利する。だから今のアメリカはイギリス語を話すようになる。これが英語です。この北アメリカでの戦いをフレンチ=インディアン戦争(1754~63年)といいます。
 
※【イギリスの植民地侵略】

※ フランスがヨーロッパ内陸部の戦争に関与し動きが取れない状況の中で、イギリスは北アメリカ大陸やインドへ進出し、全軍を投入して、現地のフランス勢力を排除していきます。島国イギリスがヨーロッパの紛争から切り離され、海外植民地支配に専念することができたのに対し、フランスはその兵力の大半をヨーロッパ内陸部の紛争につぎ込まなくてはなりませんでした。イギリスの優位は明らかで、18世紀後半にフランス勢力を駆逐し、イギリスの北アメリカ大陸やインドへの支配権が確立しました。(世界一おもしろい世界史の授業 宇山卓栄 中経の文庫 P243)


 勝者は2つ、プロシアとイギリスです。より重要なのはイギリスのほうです。1763年にパリ条約が結ばれ、イギリスはフランス領カナダと、ミシシッピ川以東のルイジアナ、及びスペイン領フロリダを獲得します。こうやって北アメリカ大陸が、イギリスのものになっていきます。これが1700年代半ばです。
 このイギリスがこの後100年かけて、大英帝国となり世界最大の植民地帝国をつくっていく。日本にも来て影響を及ぼします。

 1775年からアメリカ独立戦争が始まりますが、その同時期にヨーロッパでは次のようなユダヤ人、特にロスチャイルド家の活動が始まっています。

※【戦争と宮廷ユダヤ人】
※ 戦争がなければ、そもそも資本主義は存在しなかった。・・・・・・戦争は資本主義の発展を促進した。そればかりか、戦争はその発展をはじめて可能にした。それというのもすべての資本主義が結びついているもっとも重要な条件が、戦争によってはじめて充足されねばならなかったからである。とりわけわたしは16世紀と18世紀の間にヨーロッパで進行した、資本主義的組織の独自の発展の前提となった国家の形成について考えている。・・・・・・近代国家はひたすら軍備によってつくられた。・・・・・・行政、財政は、近代的ににおいて、戦争という課題を直接充足させることによって発展してきた。(戦争と資本主義 ヴェルナー・ゾンバルト 論創社 P19)

※ (特別に注目に値すると思われる)その1点とは、軍の調達とユダヤ人との間のあらゆる時代を通じての密接な関係である。中世以来のユダヤ人の経済的発展を追求した者はだれでも、軍隊の、必要とするすべての物資を供給した者は、しばしばユダヤ人であったという事実以上に、驚かされることはあるまい。(戦争と資本主義 ヴェルナー・ゾンバルト 論創社 P200)

※ 彼ら(ユダヤ人)は、金貸しとして、とりわけ、債務関係の客観化(証金取引所の方式であつかわれた部分的債務の形成)によって、国家に多額の借款の受け入れを可能にした。彼らはある戦争によってもうけたかと思えば、別の戦争でももうけた。つまり彼らは、他の諸民族が互いに争っているもろもろの戦争で、どんどん富裕になった。彼らの固有な社会状態と、彼らの素質のおかげで、ユダヤ人がキリスト教徒よりも、この面での機能をより上手に実践し、まさに戦争によって富と名誉(宮廷ユダヤ人になる)を獲得した。戦争によって彼らはこれまでほのめかしたような方途を通じ、いろいろな場所でまず各国の国民経済の源泉に到達できる通路を開いた。ヨーロッパとアメリカにおけるユダヤ人の経済支配は、とくに戦争のおかげである。(戦争と資本主義 ヴェルナー・ゾンバルト 論創社 P19)

※【ロスチャイルド】

※ 1764年、マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドが20歳のときにドイツ・ロスチャイルド商会を創設します。(金融の仕組みは全部ロスチャイルドが作った 安部芳裕 徳間書店 P88)

※ ウィリアム・G・カー「闇の世界史」によればこうである。1773年、マイヤー・ロスチャイルドは、弱冠30歳で、フランクフルトに12人の有力者を招き、世界征服綱領、秘密の世界革命計画25項目を決定して、その実行に着手した。・・・・・・そして、この秘密会議こそ、1789年のフランス革命を作り出した本当の奥の院である。しかし、1744年生まれの初代ロスチャイルドが30歳になるかならないかのうちに、一体どこで、どのようにして、これだけの大仕事を始める力量を養ったのであろうか。(闇の世界史 ウィリアム・G・カー 成甲書房 P99以下)(ロスチャイルドの密謀 太田龍 成甲書房 P318)

※ 1775年、マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドがドイツの名門貴族ヘッセン家のヴィルヘルム9世と古銭業を通じて知り合い、その財産運用を任されます。当時はアメリカ独立戦争の最中であり、ヘッセン家は、独立戦争を鎮圧するための傭兵をドイツで鍛えてイギリス政府に貸し出すというビジネスをしており、個人としてはヨーロッパ最大の資産家でした。このヘッセン家の資産が、のちにロスチャイルドがのし上がる種銭となります。(金融の仕組みは全部ロスチャイルドが作った 安部芳裕 徳間書店 P89)

※【ヴァイスハウプト】
※ 教会法の教授で、かつてイエズス会士に教育されたアダム・ヴァイスハウプトは、インゴルシュタット大学で教えるかたわら、キリスト教思想を離れ、サタンのイデオロギーに帰依した。1770年になると(ロスチャイルド商会を設立したばかりの)金貸し業者がヴァイスハウプトを雇い、サタンのシナゴーグに世界の最終支配権を与えて社会変革を起こしてのち、サタン的独裁支配を実施してサタンのイデオロギーを自らの民族以外のすべての人々に課すことを目論んだ大昔の「プロトコール」を時代にふさわしいものに改訂させた。この仕事をヴァイスハウプトは1776年5月1日に完成させた。(闇の世界史 ウィリアム・G・カー 成甲書房 P26)

※ 1776年、ヴァイスハウプトはイルミナティを組織して目論みを実行に移した。イルミナティという言葉はサタンに由来し、「光を掲げる者」を意味している。その目的は、知的能力を実証された人々が世界を治められるう、世界単一政府を生みだすことであると嘘をついて、彼は、美術、文学、教育、さらにはさまざまな科学、財政、産業の分野でもっとも聡明な人々を含む2000人ほどの信望者を集めた。そしてその後、大東社ロッジを創設すると、それを秘密本部とした。(闇の世界史 ウィリアム・G・カー 成甲書房 P27)

続く。

新「授業でいえない世界史」 29話の2 18世紀 ロシア、英仏植民地抗争、アジア、アヘン三角貿易、アフリカ

2019-08-25 09:46:13 | 新世界史11 近世西洋

【ロシア】
【モスクワ大公国】 
ロシアに行きます。ロシアの始まりは、1400年代のモスクワ大公国から始まります。それまではモンゴル帝国がロシアを約300年間支配していた。やっとそこから自立したのがモスクワ大公国です。



【ロマノフ朝】ちょうどその頃、1400年代の半ばまで1000年続いたローマ帝国の名残つまりビザンツ帝国という国がありました。しばらく出てきませんでしたが1000年続いたんです。昔は東ローマ帝国と言っていた。そのビザンツ帝国が潰れたんです。
 潰れたんですが、そのビザンツ王様の姪がモスクワに嫁いでいたから、「このビザンツ帝国の後継者はオレだ」と名乗りを上げたのがこのロシアです。その名乗りを上げたロシア王朝が
ロマノフ家です。
 
 ロマノフ家の王朝だからロマノフ王朝という。これが成立したのが
1613年です。このあと約300年間、1917年のロシア革命まで続きます。日本が日露戦争でロシアと戦ったのはこのロマノフ朝です。
 その間、ロシアはヨーロッパから東へ東へとずっと領土を広げて・・・・・・ここは寒くて氷で覆われた世界だからヨーロッパ人は興味がない・・・・・・「欲しかったらやるぞ」ということで、このロシアはヨーロッパの田舎の国から発生して、気づけば世界最大の領域を持つ国家になっていく。

 このロマノフ朝に出た王様が1600年代の
ピョートル1世です。英語でいうとピーターです。ピーターパンのピーターです。ロシア語読みでピョートルと発音する。ここは田舎の国ですが、この王はヨーロッパ人からバカにされないように「西洋化をすすめるぞ」と言って、ヨーロッパ流をどんどん取り入れていった。
  次の1700年代になると女帝です。女の王様エカチェリーナ2世です。女ながら戦争大好きです。弱いものはいじめる。隣に弱い国ポーランドがある。昔は強かったんですけど、1700年代には弱った。弱ったら最後、領土を盗まれる。これが1772年の第1回ポーランド分割です。江戸時代の日本にも使いを送ったりする女王です。以上がロシアです。



【啓蒙思想】  このように相変わらず戦争が続いているヨーロッパで、1600年代から発展するものが科学的な知識です。

 代表的なものとして、「木からリンゴが落ちたんじゃない、これは地球の引力によって木になっていたリンゴが引っ張られた」という万有引力の法則。これはイギリス人のニュートンです。そういうふうに、田舎のヨーロッパが科学水準が急に上がっていくのが1600年代です。
 政治的にも啓蒙思想というのが現れてきて、近代的な政治をつくる上で重要な人たちが出てくる。そうすると彼らの教えや考え方を学んだ王様がまた次に出てくる。こういう王様を啓蒙専制君主という。イギリスに負けないようにどんどん機械化をしなさい。そういう近代化を推進していく。



【英仏の抗争】
【西欧での抗争】 ここまでをまとめます。ヨーロッパではもともと800年間ぐらい神聖ローマ帝国が中心であった。これは実体はドイツだった。しかしこの帝国はバラバラに分裂して、次に勢いのある国に中心が移っていく。
 それがさっきも半分説明しました。それがイギリスフランスなんです。ドイツから、イギリスとフランスへと中心が変わっていく。結論をいうと圧倒的にイギリス優勢になります。イギリスが勝者になります。まずヨーロッパで。次に北アメリカ植民地で。ヨーロッパではひっきりなしに戦争が起こっていた。
 その最後のツメとして1756年から七年戦争が起こった。これはドイツでの戦争です。これは前回言いました。



【北米での抗争】 しかしこれとほぼ同時に1755年、北アメリカ植民地で起こっていたのがフレンチ=インディアン戦争です。なぜこんな名前がつくか。勝ったイギリス人が呼んだ言い方です。イギリス人の敵は、フレンチつまりフランス人です。そのフランス人を応援したのがアメリカのインディアンだった。だから敵はフランス人とインディアンです。それに対してイギリスが勝ったという意味です。

 一番良い迷惑は、先祖代々そこに住み続けていたインディアンたちです。この後、イギリスにどんどん迫害されて土地を追われて、住みかを失っていく。これに負けたフランスはこの後、アメリカ大陸から撤退していきます。これがイギリスの大きな一歩です。


フレンチ・インディアン戦争【歴史動画】「タイムレス」その時何が起きたのか?




【インドでの抗争】 イギリスは実はこれだけじゃない。他にも植民地を持っています。それがインドです。1757年・・・・・・七年戦争とほぼ同時です・・・・・・インドでプラッシーの戦いが起こる。
 インドを植民地にしたいから。ライバルはどこか。やはりフランスです。フランスもインドを植民地にしたい。奪い合いの構造はいっしょです。イギリスとフランスが戦ってイギリスが勝った。フランスはインドからも撤退していく。フランスはアメリカからも撤退したし、インドからも撤退した。イギリスの一人勝ちです。
 なぜイギリスが戦争に勝てたのか。イギリスが勝った原因は、前に言ったように手品のようなお金の作り方をしていたからです。



【資金源】 フランスはデフォルトしていたから信用がないんですよ。フランスの王様は威張っいるばかりで、まったくお金を返さない。そういうところには貸さないでしょう。
 イギリスとの違いはお金の借り方です。借したのは大商人じゃない。イギリスはイングランド銀行という銀行をつくったんです。誤解を恐れずにスバッというと、金(キン)の量以上に銀行に紙幣を印刷させて、それをお金にした。イギリスの王が「オレが認める」と言って。銀行は紙幣を印刷して「これはお金だ」と言う。国民がそれを信用すると、それでなぜか世の中が回ってきたのです。その仕組みがよく分からないまま。しかしこれで大砲を買える。弾薬、爆弾、何でも買える。これで戦争に勝つ。このお金は一種の手品みたいです。だから銀行の出所というのは、ちょっと怪しいんですよ。

※【イングランド銀行の国債引き受け】

※ イギリスでは、1694年にイングランド銀行が創設され、政府が発行する借用証書(国債)を引き受け、これが金融市場で取引されるようになった(財政革命)。イギリスでは、イングランド銀行が国債を引き受けたことで、国債の信用を高め、国内外からの投資を安全なものとしたため、多くの資金が集まることになった。こうした資金を軍事費にあてることで、イギリスはフランスとの戦争を有利に進めた。イギリスが、あいつぐフランスとの戦争に勝利したのは、この財政革命によって、フランスより戦争の費用を集める能力が高まったためであった。(高校教科書 新詳世界史 B 川北稔他 帝国書院 P178)
 

 ただ他の国は、この方法で勝ったイギリスが植民地を手に入れ世界ナンバーワン帝国になっていくから、多くの国がこの銀行スタイルをマネしていく。このあとの日本もです。これでイギリスの王様が「100万円貸せ」と銀行に言うと、「ハイ分かりました」と言って、お金を印刷するだけです。
 こういう国の借金のことを何といったか。これを国債といった。まず銀行が買ってくれるんです。銀行が国債を買うためのそのお金は印刷すればいい。コピーすれば良いだけです。本物の金貨や銀貨は要らないんです。だからいくらでも印刷できます。

 これで植民地を支配し、植民地の人間を働かせる。またはアフリカから若い青年を奴隷として連れて行って働かせて儲ける。その儲けたお金でイギリスは、次の1760年代から産業革命が世界ではじめて起こっていく。そのお金で蒸気機関車というのを世界で初めて走らせる。あれはお金がかかるんですよ。線路を敷かないといけないから。

  そしてインドからは・・・・・・ヨーロッパには毛織物しかなかった・・・・・・インドにしか綿織物はなかった。または中国にしかなかった。このインド産木綿をキャラコといいます。英語でキャラコという。綿織物とは、君たちがふつうに着ているような綿織物です。これはもともとイギリスにはなかった。それをイギリスが国内製造に成功し、逆にインドに売りつけていく。それでインドはその原料である綿花の供給地になる。



【西洋文化】 ヨーロッパの1700年代の文化です。
 1700年代を代表するものとして、戦争には負けたけど豪華さで勝ったフランスのベルサイユ宮殿です。これはこう考えたほうがいいです。こんな宮殿にお金を使っていたから、戦争に回すお金がなくなって、また負けたんだと。
 そのフランスのベルサイユ宮殿の様式をバロックといいます。作ったのはルイ14世です。戦争大好きです。でも戦争には負けました。
 それからプロイセンもちょっとやる。プロイセンはここまで派手じゃない。小さいところでお金をかける。これをロココ調と言います。これがサンスーシ宮殿です。バロックとロココです。

 科学の発達では、さっきいった、田舎のヨーロッパが急落に世界ナンバーワンの科学技術を持つ。イメージとして代表格は、万有引力の法則を発見したイギリスのニュートンです。どんどん科学の力が発達していく。科学革命とも言われる。

 政治面の啓蒙思想では、まずイギリスのホッブズです。彼は人間の自然状態を「万民の万民に対する闘争」とした。しかしそれではみんなが困るから、王権に政治を委ねたのだとします。これが王権神授説になります。
 しかしそれに反対するのが、同じイギリスのロックです。国家の主権は誰が持っているか。最初は神様であった。次はローマ皇帝であった。次はイギリスやフランスの王様であった。「いや違う、国民なんだ」とだんだん下に降りてくる。これが社会契約説です。国民が主体です。国民主権の考え方の根はここにあります。昔はダントツに王様が偉かった。でも国民が偉いというふうに変わっていく。このロックについては、すでにイギリス革命のところで言いました。こういう考え方が啓蒙思想です。ヨーロッパで生まれた思想です。ヨーロッパはここまでです。



【東アジア】
 今度は中国です。ヨーロッパが中国にどうちょっかいを出しているか。ヨーロッパはいろんなところに手を出しはじめている。そうじゃないと世界制覇できない。イギリスを中心に支配の手が伸び始める。
 これが本格的になるのはあと100年後ですが、1700年代からぼちぼちその目は出ている。この時代の中国は清です。300年ぐらい続いています。



【華僑】 ただ中国の貧しい農民たちは、日本人のように国にはこだわりがなくて、「こんな国もう出てやる、捨ててやる」といって、東南アジアあたりに出稼ぎに行く。そしてそのまま帰ってこない。「中国よりもこっちのほうがよっぽどいい」と言って。今でも東南アジアには、そのまま東南アジアに住み着いた中国人の子孫がいっぱいいます。彼らを華僑といいます。華僑の華は、中華の華です。
 東南アジアで一番豊かな都市は、シンガポールです。そこでは半分以上が華僑です。その多くは貧しかった福建省や、その南のほうにある広東省の出身です。

 そういう中国に、今度はヨーロッパ人も出向いていく。ヨーロッパ人が出向いて、中国との窓口にした港・・・・・・南のほうです・・・・・・その代表がマカオです。その隣が香港です。マカオはポルトガル領になります。
 そこに、キリスト教の宣教師を送っていくんです。イタリア人のマテオ・リッチです。ヨーロッパから中国に宣教師を送るんです。彼らはキリスト教を布教しにくる。「あなた神を信じますか。信じなさい」と。それからもう1人がカスティリオーネです。こういうふうに最初は「布教のため」という宗教の仮面をかぶってやってくる。そして次には大砲で支配していく。



【典礼問題】 キリスト教はやはり中国人の考えとだいぶ違って、そのヨーロッパの宣教師も、最初は中国人の考え方をだいぶ取り入れて、妥協していくんですね。
 例えば先祖崇拝というのがある。自分の亡くなった爺さん婆さんをちゃんと拝んで頭を下げる。しかしキリスト教の世界では、人間が頭を下げるのは一つだけなんです。ゴット(神)だけです。この神様は世の中に一つしかない。
 だから「中国人は、自分のご先祖様にも頭を下げている。おかしいじゃないか」となる。キリスト教にはそういう教えはない。だから禁止する。「ご先祖様を拝んだらダメだ」という。すると中国の皇帝は腹を立てて、キリスト教を禁止する。それで一時衰退する。
 しかし文化的にも経済的にもこの時点では中国が上です。魅了されたのは中国人ではなくて、ヨーロッパ人です。



【中国茶】 「中国はいいな。こんないいものを飲んでいる」。これがお茶です。「これいいな」。ヨーロッパ人は欲しくて欲しくてたまらない。ヨーロッパにはまだないです。この時はまだ1500年ごろだから、コーヒーが流行る前です。それでヨーロッパでお茶が流行する。
 このあとのことは少し言いましたが、中国人はヨーロッパ人にお茶を売って儲けようとしません。だからヨーロッパ人から「売ってくれ」と言われても、良いお茶はやっぱり自分が飲みたいから、余ったお茶を売った。
 ヨーロッパ人がもらったお茶はまずいお茶だから、砂糖を入れないと飲めない。我々の発想と違ってお茶に砂糖を入れようとするのは、まずいお茶だからです。それで紅茶にしていく。ヨーロッパ人は質の悪いお茶に砂糖を入れて、甘くして飲むという飲み方を始める。



【中露国境】 では中国とロシアの関係です。中国の北にはロシアがある。今も国境を接しています。だんだん西から東にロシアは領土を広げています。いつか中国と領土を接する。すると喧嘩になって、「どこが国境か決めよう」となる。こういう交渉が始まる。
 1689年にロシアと中国の間で国境が決められた。これをネルチンスク条約といいます。さらにロシアが東の方に領土を拡大すると、約30年後の1727年キャフタ条約を結んだ。これを結んでどうにか戦争にまではいかなかった。もし条約が結ばれなかったら戦争です。国境紛争になる。こういう緊張関係があります。



【英印交易】 ではインドからヨーロッパにもたらされて、ヨーロッパで圧倒的に流行していくもの、これがインド産綿織物です。着心地がいいんです。
 「お茶も飲みたい。木綿も着たい。オレたちよりも良いものを飲んでいる。俺たちよりも良いものを着てる」。だから欲しかった。
 何がよかったか。まず着心地もです。しかも、これは洗濯できる。当たり前みたいですけど、ヨーロッパ人の毛織物は洗濯しずらい。だから臭いんです。だから香水が必要なんだ、という話もしました。風呂にも入らない。日本人が毎日、風呂に入ってるといって驚いた報告をしているぐらいだから。毎日風呂に入っている人間だと、日本人が毎日風呂に入っても驚かないでしょう。驚いたということは、自分たちが入っていないからです。 



【産業革命の原資】 こうしてヨーロッパ人がアジアにちょっかいを出し始めた。そこからイギリスの産業革命のお金につながります。工場つくるにはお金が必要です、そのお金はどこから来たか。ここらあたりから儲けていく。その産業革命が起こるまでのことです。ちょっとまだいくつか条件がある。

 インド産の木綿が欲しい。このインド産の木綿がイギリスに入ってくる。そうすると、自分たちが作った毛織物が売れなくなる。彼ら毛織物業者が反対するんです。輸入反対だ。それで関税をかけて、売れないようにする。
 しかしイギリスは、これで何十年か木綿の輸入をストップしたあとに、科学技術が発達して、インドの技術を自分たちが盗んで、インド産綿織物と同じ綿織物を自分で作るようになる。つまりイギリス国産化に成功する。しかも機械で。



【奴隷三角貿易】 ではその機械を買うお金はどこから来たか。その間、アメリカ植民地で稼いでいる。奴隷を売って。まずこれでしこたま儲ける。さらにアメリカでは主に砂糖をつくっている。お茶に入れる砂糖です。それが紅茶になる。この儲けによってイギリスにお金持ちがいっぱい出てくる。お金のことを資本といいます。奴隷で儲けた金で機械化に成功する。だから機械を買える。
 だから前に言ったように、「奴隷貿易なくして産業革命なし」です。産業革命の原資は奴隷貿易です。人を売った金です。ここら辺も怪しいお金です。近代社会のもとにあるお金というのは、きれいなものばかりじゃない。

※【砂糖とお茶】

※ サトウキビは、最初はポルトガルの植民地ブラジルで栽培され、17世紀になるとオランダ人がガイアナで、イギリス人とフランス人がカリブ海域の西インド諸島に進出して栽培を始めた。サトウキビ栽培のプランテーションが大規模化すると、砂糖は贅沢品から大衆的な嗜好品に姿を変える。・・・しかし砂糖だけでは使用量が限られる。そこで砂糖はパートナーを見つける必要に迫られた。その役割を担ったのが、もともとはイスラーム世界の飲料だったコーヒーと中国の茶である。(知っておきたいお金の世界史 宮崎正勝 角川ソフィア文庫 P79)

※【イギリスの侵略第2段階】
※ イギリスの第2段階の収奪は、17世紀後半以降の黒人奴隷貿易です。黒人をカリブ海の西インド諸島に搬送し、砂糖プランテーションで強制労働させて、砂糖をイギリスに持ち帰る三角貿易を行います。
 イギリスは17~18世紀、スペインやフランスという競合者と戦争し、彼らに勝利することで奴隷貿易を独占し、莫大な利益を上げていきます。当時、奴隷貿易ビジネスへ出資した投資家は30%程度のリターンを受けていたとされます。この犯罪的な人身売買ビジネスが、イギリスにとって極めて有望な高収益事業であったことは間違いありません。
  18世紀前半から産業革命が始まると、綿需要が高まり、綿花栽培のプランテーションが西インド諸島につくられます。綿花は砂糖に並んで「白い積み荷」となります。17~18世紀のイギリスは砂糖や綿花を生産した黒人奴隷の労働力とその搾取のうえに成立していました。
 1790年代に産業革命が本格化すると、西インド諸島のプランテーションだけでは原綿生産が間に合わ間に合わず、アメリカ合衆国南部一帯にも大規模な綿花プランテーションが形成され、黒人奴隷が使われました。
 18世紀後半に至るまで1000万~1500万人の奴隷たちがアフリカから連行されたため、アフリカ地域の人的資源が急激に枯渇しました。
  人道的な批判や世論も強まり、イギリス議会は1807年、奴隷貿易禁止法を制定します。しかし、それでも19世紀半ばまで奴隷貿易は続きます。この頃、イギリスはインドの植民地化を着々と進め、インド産の原綿を収奪しました。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P180)
 


 奴隷というのはアフリカからの黒人奴隷ですよ。アメリカの黒人はアメリカの原住民じゃないですよ。原住民だと思っている人が時々います。アフリカから連れてこられた奴隷の子孫です。誰がそんなことをしたか。白人です。その中心がイギリス人です。



【アヘン三角貿易】 しかしイギリスはさらに儲けたい。イギリスは中国からお茶を輸入したいんです。しかし中国は事足りているから売らなくてもいい。それでも買おうとすると、値が上がって高く買わないといけなくなる。高いお金を払わないといけない。

 そのお金を払いたくないから、今度はアヘンを売ろうとする。麻薬です。イギリスは植民地にしたインドアヘンを作っていたんです。それをお茶の代金の代わりに中国に売る。これがアヘン三角貿易です。三角というのはイギリス・インド・中国です。これで貿易する。
 麻薬を売りつけられて中国はありがたがったか。そんなことはない。当然、中国は腹を立てる。「要らない」という。そしたら100年後にイギリスが戦争ふっかけて強引に押しつける。これがアヘン戦争です。そのことはあとで言います。

※【イギリスの侵略第3段階】

※ イギリスの第3段階の収奪として、奴隷三角貿易の衰退とともに、19世紀にイギリスはインドのアヘンと中国のお茶を結びつける三角貿易を始めます。イギリスで喫茶の習慣が拡がり、イギリスは中国のお茶を求め、銀で支払いをしていました。そのため、イギリスは輸入超過状態となり、銀の流出が止まりませんでした。そこでイギリスは銀の代わりにインド産のアヘンを中国に輸出し、茶を中国から得ました。
 ジャーディン・マセソン商会などの貿易商がアヘンの中国への輸出を担当し、大きな利益を上げて、逆に中国側の銀が流出しはじめました。ジャーディン・マセソン商会は1832年に、マカオで設立されて、イギリス東インド会社の別働隊のような役割を担った民間商社で、アヘン貿易を取り仕切ります。
 アヘン戦争の開戦に際し、ジャーディン・マセソン商会は議員に対するロビー活動で多額のカネをばらまき、反対派議員を寝返らせます。
 ジャーディン・マセソン商会は、アヘン戦争でイギリスが占領した香港に本店を移し、さらに上海にも支店を開き、中国市場に進出します。
 ジャーディン・マセソン商会は、清朝政府に対して借款を行い、清崩壊後も鉄道の敷設権や営業権などを得て、莫大な利益を上げていきます。今日でも、ジャーディン・マセソン商会は国際的な複合企業です。
 アヘン戦争後、香港上海銀行が設立されます。香港上海銀行はジャーディン・マセソン商会をはじめ、サッスーン商会などのアヘン貿易商社の資金融通や、送金業務を請け負いました。香港上海銀行は香港で、アヘン戦争以降、今日まで続く通貨の発行もおこない、中国の金融を握ります。
 このようにイギリスの覇権は奴隷貿易の人身売買業者、アヘン貿易のドラッグ・ディーラーなどによって形成されたものであり、その犯罪的かつ反社会的な手法なくして、持続可能なものでなかったことは明白です。悪辣非道、弱肉強食、厚顔無恥、こうしたことこそが国際社会の現実であることを歴史は証明しています。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P182)


 もう一つの奴隷三角貿易は前に言いました。イギリス・アフリカ・アメリカの三角です。奴隷を売った金、アヘンを売った金、こんなお金で近代社会が生まれていきます。あまり誉められたことじゃない。


▼18世紀の世界





【近代前のアフリカ】 ヨーロッパは、アフリカにも乗り込んでいきます。アフリカもこのあと100年かけて、19世紀の末までにはほとんど植民地なってしまうんです。ではアフリカは未開の土地だったのかというと、そうではなくてちゃんとした国があった。キリスト教国さえあった。1000年以上前から国もあった。
 一番古い国がエチオピアです。アフリカ唯一のキリスト教国です。これは近代になってできたんじゃない。もう2000年ぐらい前からあった国です。アフリカはけっして未開の土地ばかりじゃない。
 その他にもどういう国があったのかということを、見ていきます。アフリカ西部では、サハラ砂漠のはずれに国があった。500年間で3つの国が次々に代わっていく。


Aksumite Empire (Abyssinia/Ethiopia)



 まずガーナ王国です。今もガーナという国はありますけどちょっと場所が違う。アフリカの西のほうです。次がマリ王国。それから3つ目がソンガイ王国。そういう3王国が次々に繁栄をしていった。お金持ちです。金も取れる。代表的な都はツゥンブクツゥーという。
 サハラ砂漠は気候の変化でだんだん拡大しています。いま砂で埋もれそうになって、ちょっと寂れそうになりつつあるんだけれども、昔は砂漠がそれほど大きくなくて繁栄していた。
 そのマリ王国では、大金持ちの王様がいて、金をばらまいて歩いた、という話がある。マンサムーサという王様です。宗教はイスラーム教徒だから、イスラームの聖地メッカのあるアラビア半島まで巡礼の旅をしていく。そのときに「王様が通るぞ」というときに、貧乏たらしく節約はできないから、通った村々にお金を配って歩いた。非常に豊かな国だった。


Mansa Musa (Mali Empire)



 それからアフリカの東南部です。このインド洋側になると、モノモタパ王国という。今はこの首都の名前が国の名前になっている。都の名前は大ジンバブエという。聞いたことないですか。ジンバブエという国がある。最近できた国です。これが東南岸ですね。中心は南のほうです。
 インド洋を西に行くとアフリカ東岸に出ます。そこはアラビア半島に近い。宗教的にはムスリムです。ムスリムというのはイスラーム教徒です。アラビア一帯から彼らがやって来やすい。ここにムスリム商人の進出が見られます。こうやってイスラーム教徒がやってくる。

 ということはイスラーム教徒は文明人だから、この地域も文明化されていく。交易も非常に活発です。交易、商売するということは、少なくとも算数ができないといけない。字が書けないといけない。 そこでバントゥー語というのが現地の言葉、そこにアラビア語が入ってきて、商売しているうちにちゃんぽんになって、新しい言葉が生まれた。今使われているのはその新しく生まれた言葉で、スワヒリ語といいます。二つの言葉が融合してできた言葉です。
 これで終わります。ではまた。