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新「授業でいえない世界史」 14話の1 イスラム世界 ムハンマド~正統カリフ時代

2019-08-26 08:40:46 | 新世界史7 イスラーム世界

【ムハンマド以前】  ではユダヤ教、キリスト教に継ぐ第3の一神教、イスラーム教の成立に行きます。キリスト教と今は仲が悪い宗教です。キリスト教の始まりは、エルサレムからでした。今度はその南のアラビア半島のメッカというところから話が始まる。エルサレムと近いといえば近い。どちらも乾燥した地域です。

 時代は紀元7世紀、600年代です。この時代には大帝国として、東にはササン朝ペルシャそれから西には東ローマ帝国がありますが、ここはこのあと名前を変えます。東ローマ帝国がビザンツ帝国と名前を変える。これは同じ国です。
 このササン朝ペルシャとビザンツ帝国の2つの国があって、何百年も対立が続いていた。

※ アラビアの北部の住民は、紀元前1000年紀の前半から、周辺の人々からアラブとして知られるようになった。記録に残された彼らは、時には遊牧民であり、時には隊商貿易を営む商人であり、時には都市に住む商人であり、時には農民であったりする人々である。 そのアラブの間に、5世紀ごろから、キリスト教とユダヤ教という一神教が浸透していった。 メッカは長い間、井戸水を利用しながら周辺の山地で羊・山羊とラクダを飼う、牧畜民の小集落であったと想像される。 メッカには古くから、神々を祭る神殿があった。アラビアで最高の権威を誇る神殿というわけではなかったが、毎年何がしかの巡礼者が来るような神殿であった。カーバと呼ばれていたその神殿には300体の神々の像が安置されていた。(都市の文明イスラム 佐藤次高・鈴木董 講談社現代新書 P47)


 紀元7世紀、ササン朝ペルシャとビザンツ帝国、この2つの帝国の対立の影響を受けて交易が遮断されます。その交通の迂回路としてアラビア半島の西側が交通網として発達していく。ここをヒジャーズ地方といいます。
 その中心都市がメッカという都市です。ここには昔からこの地方のいろいろな神様を祭る多神教の神殿がありました。それをカーバ神殿といいます。イスラーム教の神殿に変わった今もそうです。この都市が貿易の中継都市として繁栄します。
 ここは砂漠地帯です。ラクダを使って、羊を追ったり、山羊を追ったりして移動生活をする。移動生活は、移動のついでに物を運んだりしますから、容易に商人になりやすい。これがアラブ人です。アラビアに住む人はアラブ人という。



【ムハンマド】 商売が発達するとお金が流通して、お金が流通すると・・・・・・世界史に共通なこととして・・・・・・貧富の差が拡大していく。貧しい人はものすごく貧しい。お金もっている人はものすごくお金を持っている。
 こういう中でムハンマドは生まれた。このムハンマドが生まれた頃には、この地域にはユダヤ教もあるし、キリスト教もすでに発生している。そういう一神教の考え方が広まっているんです。

※ アラビア半島においてユダヤ人の存在は、はるか古代から知られていた。南部では現在のイエメンで紀元前1世紀にユダヤ商人が活動していたが、北部すなわちヒジャーズの地では、さらに古い時代までさかのぼることができる。・・・・・・初期キリスト教時代、ユダヤ教はアラビア北部へ拡がり、同地の種族でユダヤ教に完全に改宗したものがあった。・・・・・・昔から砂漠の縁辺に居住し、あるいはナジル人のように都市の腐敗した生活から逃れて砂漠に移り住む者がいて、彼らは常により厳格なユダヤ教を信奉していた。特に神は一つであるという信仰において、まったく妥協を許さなかった。これこそが、ムハンマドの注意を引いたのである。(ユダヤ人の歴史 上巻 ポール・ジョンソン 徳間書店 P280)


 ムハンマドは40歳ぐらいの時、ある日突然、神の言葉を聞くんです。その神はアッラーという。そしてこの神への絶対的な信仰を説く。たぶんそういう人はいる。神のお告げを聞いた人というのは、日本にも時々出てくる。それを見て、「バカが変なこと言ってる」で片付けられないところが宗教なんです。宗教には人の心を動かすものがあります。

 「神様がオレに教えてくれた、オレの考えじゃないぞ、神様がオレに告げたんだ」、そういう彼の話を信じた者から彼は預言者とされた。明日のことをいうのは予言です。そうではなくて、この預言者は「預」かった者です。神の言葉を預かった者、これを預言者といいます。
 すでにこのヒジャーズ地方には、そういう人格神である一神教の土台が浸透していたわけです。

※ ムハンマドは610年、メッカで貧困層を中心に布教を開始し、貧富の格差を是正すべく唯一神アッラーの前の平等を主張しました。ムハンマド自身は豪商の家柄で豊富な資金を貧困層救済のために費やしました。食べ物などを変えられた貧困層はムハンマドの言うことに耳を傾け、イスラーム教に帰依するようになりました。(世界一おもしろい世界史の授業 宇山卓栄 中経の文庫 P136)



【ヒジュラ】 ムハマド自身は結構お金持ちです。両親は早く亡くなっていますが、クライシュ族という一族で、その中のハーシム家という金持ちの商人の家柄です。その中でクライシュ族自体は伝統的な多神教だったから、親戚がいろいろな神を拝んでいるのを見て、「そんな神を拝んではダメだ、アッラーだけを拝め」とムハンマドは言う。そういうふうに一神教は、他の神を否定するんです。
 言われたほうは「おまえ頭がおかしいんじゃないか」と思う。でも彼は言うことをやめなかった。そこまで言うのなら「追放だ、町から出て行け」となる。

 それで喧嘩別れして、622年に隣の町・・・・・・といっても何十キロも先なんですけど・・・・・・メディナという場所に仲間を連れて引っ越します。
 この年をイスラーム教徒は、ヨーロッパでいう西暦ゼロ年にする。イスラム暦の始まりです。ここがイスラム暦の元年です。そういう意味で記念すべき年だから、622年の引っ越しをヒジュラといいます。聖なる引っ越し、聖遷と訳されます。

 仲間とともにメディナに移って、そこで共同生活をやっていく。この共同体をウンマといいます。イスラーム国家と一般に言うけれども、イスラーム教には国という言葉は実はありません。国に当たる言葉は、実はこのウンマです。彼らは国をつくっているという気持ちはない。イスラーム教徒の共同体をつくっているだけなのです。その共同体のルールは、ムハンマドが聞いた神の言葉が、それがそのまま生活全体のルールになる。そしてこの教えに従う人たちが共同体をつくります。
 ただメッカの親戚からは迫害される。だから戦わないといけない。彼らは自ら兵士になって軍隊をつくっていく。ここから彼らの征服活動がはじまります。

※ イスラム教は、当時の経済状況における偏りと歪みの中で生まれた貧困層の反動の産物です。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P108)


※ ムハンマドが630年メッカを占領し、支配者層を追い出します。この地にカーバ神殿を作り、イスラームの本拠地としました。これらのことは貧困層のムハンマド派が上層階級を数の力でつぶしたクーデターととらえることもできます。(世界一おもしろい世界史の授業 宇山卓栄 中経の文庫 P137)

※ 大富豪のクライシュ族の出身であるムハンマドは豊富な資金力で、貧民を雇い入れて、強大な私兵軍団を編成しました。一族の中には武勇のすぐれた軍略家もおり、軍事のプロたちが数多くそろっていました。貧困層の集団を組織的に軍制化したのも彼らです。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P108)


 彼らの軍隊は勇敢で、メッカの勢力に勝利します。そしてメッカにあったカーバ神殿・・・・・・それまでは多神教の神殿でしたが・・・・・・その神殿をイスラーム教の一神教の神殿に作り変えます。こうやってメッカのカーバ神殿がイスラーム教の聖地になります。
 そのカーバ神殿には神の像がありません。代わりに神の象徴として黒い石があるだけです。一神教では偶像崇拝は禁止されています。

 イスラーム教はコーランの他に旧約聖書新約聖書も聖典として認めていて、旧約聖書の「十戒」の中にある偶像崇拝の禁止を守っています。しかしキリスト教は旧約聖書を聖典としていながら偶像崇拝をしています。キリストの像を拝んでいます。「これはおかしい」とイスラーム教徒は感じるわけです。
 このことはのちにキリスト教の内部でも問題になり、キリスト教会の分裂につながります。この偶像崇拝を認めているのがキリスト教最大のローマ・カトリック教会なのです。

 イスラーム教徒は、このカーバ神殿に一生に一度は巡礼することになっています。
 現在このカーバ神殿を有している国はサウジアラビアです。日本にとってこのサウジアラビアは、最大の石油を輸入している国です。いわば日本の命綱といってもいい国ですが、その割には日本人はこの国のことを知りません。


サウジのメッカ巡礼 - Mecca Diaries




【一神教】 イスラーム教は、神の教えを24時間守っていく政教一致の宗教です。ここがキリスト教と違うところです。「個人的な時間にお祈りしておけばいい」のではないことです。「日常生活すべてが神の教えに従うべき」なのです。神の教えそのままを日常生活で守る。
 「飯を食うな」といわれたら食わない。断食です。日没までですけど。飯も食えなかったような貧しいときの苦しみを忘れるなという教えです。
 「女性は顔を隠せ」と言われたら隠す。今もイスラム女性は人前で顔を見せません。イスラームのスカーフは女性蔑視だと非難されますが、日本も平安時代の女性は顔を隠していました。身分が高い女性ほど顔を隠していた。これはアラビア半島だけの風習ではない。古代ではみんな女性は顔を隠していた。身分が高ければ高いほどそうだった。身分の低い女性だけがスッピンであった。

 このようなイスラーム教は、ユダヤ教やキリスト教と同じ一神教です。日本の多神教とは違います。ただキリスト教と違うのは、ムハンマドの位置づけです。イエスは神に近い存在だった。少なくとも預言者ではなかった。だからイエスは生身の人間ではないとされた。ところがイスラーム教では、ムハンマドは紛れもない生身の人間です。
 さらにそれと同じようにイスラーム教ではキリスト教のイエスも普通の人間だとします。神とは認めません。神はアッラーだけです。イエスは優秀な預言者に過ぎません。
 イスラームの神というのは一神教ですから、世の中のすべての事を作ることができるし、見通すことができる存在です。全知全能の神とはそういう神です。でも一歩間違えば、とんでもなく恐ろしい存在です。

 だからその教えには絶対従う。ムハンマドが聞いたその神の教えをまとめたのがコーランです。クルアーンとも言います。ここに書いてあることは今でも必ず守らねばならない。この教えを守る人のことをムスリムという。イスラーム教徒のことです。
 イスラームとは服従という意味です。これは一神教として非常にすっきりしています。これほど明快な一神教はありません。

 すでに一神教世界では、この約1000年前にユダヤ教という一神教が発生し、約600年前にはキリスト教という一神教が発生しています。そして第3番目の一神教がアラビア半島に誕生した。それがイスラーム教です。神様はアッラーといって呼び名は違うけど、この神様はたどっていくとユダヤ教のヤハウェといっしょです。呼び方が違うだけです。
 だからイスラーム教徒はそれ以前の一神教、つまりユダヤ教やキリスト教とは、同じ神を拝んでいるから、この二つの宗教の信者を「啓典の民」として尊重します。

 神様が語った言葉を知るための一番正しい方法は、直接コーランを読むことです。そのためには当然ながら字が読めないといけない。イスラーム教徒は字が読めたのです。それに対してこの時代のキリスト教徒はほとんど聖書を読みません。字が読めないからです。
 それだけではなくイスラーム教徒は読んだ上に暗記する。これが神のルールだとしっかり頭に入れて行動しなければならないからです。文化水準はどちらが高かったか、勘違いしている人はいませんか。

 ヨーロッパ人はまだほとんど字を読めなかったのに、イスラーム社会では多くの人が読めるんです。だから識字率は非常に高い。だからコーランを読んで覚えるのです。そしてそのコーランに書かれた通りの生活を一日を通してする。だからイスラーム教は政教一致の宗教です。聖なる宗教の時間と、日常の時間の区別がありません。



【政教一致】 キリスト教との違いは、キリスト教には牧師さんがいますが、イスラーム世界にはそのような神様と人を仲介する人がいません。自分でコーランを読んで、自分で神様の教えを勉強するから、キリスト教徒のようなお坊さんはいらないのです。ちなみにヨーロッパ世界で、普通の人が聖書を読めるようになるのは、宗教改革の始まる16世紀以降です。イスラーム世界はその1000年も前からそれをやっています。
 またお坊さんや牧師さんがいなければ、牧師さんが説教する教会もないです。「モスクがあるじゃないか」というけど、あれは無人の礼拝所です。先生のいない学校のようなもので、祈りの場所として場所を提供してるだけです。

 そういうお坊さんの代わりに、コーランの意味をどう解釈するかという学者、イスラーム教に詳しい学者が社会のルールを作っています。そういう人をウラマーといいます。イスラーム法学者ともいう。コーランに基づいて決まりを作れば、それは祈りの時間だけではなくすべての時間のルールを作ることになりますから、それは日常の法律と同じなのです。だからイスラーム法学者なのです。
 彼らがイスラームの教えに基づいて、政府や地方の行政を行っていきます。だからイスラーム社会ではコーランに書かれた神様の命令が、そのまま政治のルールになっていきます。

※ イスラム世界の都市には、市長もいなければ市役所もない。権力が都市の秩序を維持したのではなかった。制度化された、閉鎖的な自治組織が都市を維持したのでもなかった。さまざまなワクフが維持したのである。(都市の文明イスラム 佐藤次高・鈴木董 講談社現代新書 P98)

※ ウラマーを組織的に養成する機関をマドラサという。 マドラサの教授は、場合によっては給料を得ていた。学生も奨学金を受け取っていた。しかし為政者はこれらに何のかかわりもない。給料や奨学金はワクフという制度が保証していたのである。 ある金持ちが自分の財産の保全を考えるとしよう。自分の利益だけのために財産を残すのは、イスラムの理念からは恥である。みんなのためにも何かをする。それがあるべきムスリムの行為である。そこでこのお金持ちは、自分の持っている商店とアパートの賃貸料をワクフとした。賃貸料の半分は自分のため、自分の死後は自分の子孫のために使う。残りの半分は自分が責任をもって指名する某マドラサで授業を行う某法学派の教授の給料に使う、と公衆に約束し、それを文章にした。このような行為がワクフであった。(都市の文明イスラム 佐藤次高・鈴木董 講談社現代新書 P96)

※ さまざまなワクフが集まって維持される公共施設は、マドラサに限らなかった。なによりもモスクがそうである。モスクとは、ムスリムを組織し、管理する機関なのではなかった。そこは、都市の住人であろうと、旅人であろうと、誰もが利用できる空間であった。その管理人は、信者を管理する偉い人なのではなく、建物の管理に当たる掃除人などであるのだが、その給与は特定のワクフが負担した。(都市の文明イスラム 佐藤次高・鈴木董 講談社現代新書 P97)


 世の中のルール、政治のルールはどこにあるかというと、すべては神の言葉であるコーランに書かれている。だから本当は憲法はいらない。イスラーム社会にも憲法はあるにはありますが、それはコーランに矛盾しない範囲の憲法に限られています。コーランをかみくだいて矛盾しない憲法を作ってるだけです。また政治的な大統領はいますが、その上に宗教的な最高指導者がいます。
 西洋社会のように、「聖書にはこう書かれているけど、実際の社会のルールは憲法に書かれている」というようなことはありません。そんなことをすれば、コーランは意味をなさなくなるからです。

 ヨーロッパでも中世まではそういうことがありましたが、近代に入って西洋で最初に起こったことは、そういう神のルールが日常から失われていくことです。
 社会の変化に合わせて、何でも変えていいか。そこには条件があります。それはコーランに矛盾しないことです。正しいことはすべてコーランに書いてあるから、それに違反はできません。それがイスラーム社会の合意なのです。

※ イスラーム法は、国家や権力者が制定した法ではなく、ウラマーたちが、イスラーム教徒としてあるべき行為の規範を、「コーラン」やハディースに基づき学問的に探求するなかで生じてきたものである。(詳説世界史研究 木村靖二他 山川出版社 P148)



【ムハンマド時代】 この宗教は日本のような多神教と違って一神教です。神様は一つしか拝んだらいけない。二つ拝んだら罰が当たる。そういう発想です。日本のように「神様、仏様」と拝む神仏習合とは逆の発想です。
 ムハンマドが生きていた間に、共同体がどこまで広がったか。ほぼアラビア半島全域に広がった。これがムハンマド時代です。こうなるとこの共同体は国です。  



【正統カリフ時代】 ムハンマドはヒジュラから10年ほどで死にました。632年にムハンマドが死ぬと、どこの世界も誰を後継者にするかが非常に難しい。すったもんだしたあとで、やっと後継者が選ばれる。この後継者のことをカリフといいます。これがイスラーム社会のリーダーになる。
 ではカリフは王様かというと、さっき言ったように、イスラーム社会は信者の共同体ではあっても、国という意識がないんです。気持ちとしては、国ではなくて、信者の共同体つまりウンマをつくっただけなのです。そのグループの人数を、最初の10人から、100人、1万人、1億人に拡大しても、彼らはこれを国とは思ってないんです。ただ何とも呼びようがないから、便宜的に国と呼ぶんですけど、そのリーダーがカリフです。ウンマの代表者です。

 カリフは人々に命令はしていいんだけれども、何でも命令していいかというと、コーランに違反する命令はしたらいけないのです。だからコーランに書かれた範囲内でしか命令できない。だからカリフには法律を作る権利つまり立法権はありません。カリフ独自の新しい法律を作るようなことはできないのです。

 こういうカリフが4人続きます。この時代が30年間ぐらい続きます。これを正統カリフ時代といいます。カリフが選挙で選ばれた時代です。
 ただこの時代は、ムハンマドが死んだ後にもかかわらず、急速に領土を拡大していきます。つまり戦争していく。戦争し征服していく理由として、「これは神のための戦争だ、神のために俺たちは戦っているんだ」という。これをジハードといいます。日本語に訳すと「聖戦」といいます。

 なぜそうまでして領土を広げていく必要があったのかというのは、ちょっとわからない。ホントに神の命令と思って戦ったのか、それとも戦って相手を富を略奪したかっただけなのか。本当のところはわかりませんが、とにかく戦いに戦って隣のササン朝ペルシャという巨大国家を滅ぼします。
  なぜムハンマドが死んだ後、たった30年でここまで広がるのか。なぜここまで征服していくのか、実はよくわからないです。
 彼らの言い分は、「神のため、神の教えを広めるためだ」と言うけど本当かなぁ。
 もう一つの考え方は、「征服して金銀財宝を奪うため」。そっちの方が俗っぽくて私のような俗人にはわかりやすい。

※ 拡大するイスラームはヨーロッパ・キリスト教世界をも支配しようと、とどまることのない征服欲を持っていました。(世界一おもしろい世界史の授業 宇山卓栄 中経の文庫 P138) 
  


※ イスラム帝国の場合、政治的に支配した地域を越えて、世界の商業路を把握して東アジア・中国にも達しました・・・・・・・またそれは近代におけるヨーロッパ諸国の世界進出の前触れであったのです。それは近世初頭のポルトガルやスペインの進出と本質的に違いはありません。・・・・・・違ってくるのは、資本主義の発展を背景にしてイギリス・フランス等が世界を植民地・半植民地・従属国とするようになってからです。・・・・・・近代以前の世界帝国も、同じように隷属国家を搾取し、そこからの朝貢物によって繁栄したのだと説く者もいますが、それはずいぶん疑問です。(中国通史 堀敏一 講談社学術文庫 P198)


 とにかくこんな大帝国を築いていった。それが正統カリフ時代です。たった30年間ぐらいのことです。

※ 636年、ビザンツ帝国はヤルムクの戦いでイスラムの軍勢に決定的敗北を喫し、4年後にはイスラム教徒がパレスチナ全域とシリアのほとんどを占領してしまった。・・・・・・ユダヤ人が、すべてのイスラムの怒涛に呑み込まれてしまったのである。(ユダヤ人の歴史 上巻 ポール・ジョンソン 徳間書店 P279)


※ イスラムの預言者から、アラビア南部に作戦展開中の軍事指導者たちに宛てた有名な手紙は、次のように明快に述べている。「・・・・・・自分のユダヤ教ないしキリスト教を保持したいと思う者は、改宗させられてはならない。・・・・・・」というわけで、ビザンティン帝国下でこうむった厳しい迫害に比べ、ユダヤ人がアラブ人征服者を好意的に、いや場合によっては熱狂的に迎えたとしても、驚くには当たらない。・・・・・・ビザンティン帝国から加えられた迫害のゆえに、以前にこの地域から逃れていた相当数の(ユダヤ人の)避難民が、勝ち誇るイスラム教徒軍とともに故郷に戻ったという。聖なる町エルサレムへのユダヤ人の帰還は、こうしてイスラムのおかげで可能になった。(ユダヤ人の起源 シュロモー・サンド ちくま学芸文庫 P361)

※ 638年、ビザンツ帝国からパレスチナを奪ったイスラーム教団は、かつてローマ帝国のハドリアヌス帝が命じたユダヤ人イェルサレム居住の禁止を解除しました。・・・・・・ほとんどのユダヤ人は現状維持を望み、ローカルなイェルサレムには戻りませんでした。それは、ペルシア人により「バビロン捕囚」が解かれた際に、多くのユダヤ人がそのままバビロンに留まったのと同じ現象です。 (ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P32)



  642年ササン朝ペルシャを破ります。これをニハーバントの戦いといいます。ニハーバントは地名です。この結果イスラーム国家がどこを領有するか。ユダヤ教・キリスト教の聖地です。キリスト教の聖地とはどこだったか。それがエルサレムです。だからイスラーム教徒が、この時からエルサレムに住み始めます。


▼イスラーム帝国の発展



 次の目標はキリスト教国のビザンツ帝国です。ここからイスラーム教徒とキリスト教徒の対立が始まります。

※ イスラーム勢力は、東ヨーロッパのビザンツ帝国と対峙する前線基地をシリアに築き、ここに主力精鋭軍を結集させました。その数十万人にのぼる精鋭軍を率いていた総督はムアーウィアという人物です。(世界一おもしろい世界史の授業 宇山卓栄 中経の文庫 P139)


 この対立がずっと続いた後、それから1000年以上経って、ユダヤ人が「おまえたち退け」と言う。「昔オレたちの国があったから、新しいイスラエルをつくるんだ」と言って、イスラエルという国ができたのが今から約70年前のことです。


 正統カリフ時代の、初代カリフはアブー・バクル、2代はウマル、3代はウスマーン、4代がアリーです。
 4代目のアリーはムハンマドと同じハーシム家の出身で、ムハンマドの従兄弟に当たります。しかもムハンマドの娘のファーティマと結婚していて、今までのカリフの中で一番ムハンマドに血筋が近いカリフです。しかしこのあと4代目カリフのアリーが暗殺されて、その対立者のウマイヤ家が指導者になります。

※ ムアーウィアの軍団はビザンツ帝国との戦いを一時中断し、急遽軍を取って返し、カリフのいるアラビア半島に進撃します。この混乱のなかで4代目カリフのアリーは暗殺されました。アリーはムアーウィアの勢力に殺されたととらえるのが自然です。(世界一おもしろい世界史の授業 宇山卓栄 中経の文庫 P139)



新「授業でいえない世界史」 14話の2 イスラム世界 ウマイヤ朝・アッバース朝・後ウマイヤ朝

2019-08-26 08:40:35 | 新世界史7 イスラーム世界

【ウマイヤ朝】  この王朝をウマイヤ朝といいます。661年の成立です。建国者はムアーウィアというシリア総督でダマスカスに拠点を持つ軍人の親分です。首都のメッカを捨てて、今のシリアの首都であるダマスカスに新首都をつくります。このダマスカスというところも、今非常に血生臭い。爆弾が飛んだり、人が死んだりしている。メッカはアラビア半島ですが、ダマスカスは地中海寄りです。
 ここ数年、世界最大の難民はそのシリア難民です。イスラーム国とかいろいろあって、日本人が殺されたりしたあの国からいっぱい難民が発生しています。

 そのダマスカスに首都を定めて、ウマイヤ家がカリフの地位を世襲していく。世襲の意味は、親から子、子から孫へと受け継がれていくことです。こういう形を世襲といいます。
 そういう形で継承される国家を王朝といいます。王朝は他の地域では普通のことですが、イスラーム世界では宗教指導者は選挙で選ばれてることが原則だったのです。それが世襲制に変わったのです。

 もともとカリフの選出は世襲ではなかった。もともとのルールは、選挙で選ばれることだった。信者の中から選ばれないといけない。それを無視して世襲になる。選挙は行われなくなった。これだったらふつうの国家の王様と変わらない。
 だから「これはおかしい」という人、反対する人も出てきた。しかし「これでいい」という人も出てくる。これでいいというグループ、これをスンナ派という。
 それに対して「これではいけない。4代カリフのアリーの一族こそ本当のカリフだ」というグルーブをシーア派と言います。この一派もアリー一族の世襲を目指している点では同じですが、それはアリーがムハンマドと同じハーシム家出身であるからです。シーア派の支持者は4代カリフであったアリーの支持者です。
 これが現在でも続くイスラーム教の二大対立です。二大派閥の中の多数派がスンナ派です。

 全世界を見渡すと、我々はどうしてもヨーロッパが進んでいるという先入観がありますが、何回も言うように、この600年代のヨーロッパはド田舎です。ローマ帝国は滅んだ。滅んだあと、蛮族と言われるゲルマン人という田舎民族の国が乱立して、文化水準は逆にものすごく低くなった。
 それに比べたらこのイスラーム世界の方がはるかに進んでいる。「けっしてヨーロッパの方が昔から進んでいたわけではない」ということは一つ頭に入れていてください。そのゲルマン人のことは、またあとで言います。

 こういうふうにリーダーが親から子へと世襲されることは、これはイスラームの共同体といえども、一つの王朝とみなされます。だから家の名前を取ってウマイヤ朝といいます。
 しかしこれを「おかしい、ウマイヤ朝を認めない」というグループもあるんです。これがさっきも言った反対派のシーア派です。
 今の時代から1400年ぐらい前のことですけれども、現在でもこの対立は、スンナ派とシーア派の対立として続いています。1000年以上変わらないこの対立はこの時できたんだということです。

 では大帝国が築かれた裏で、逆に征服された側の人はどうされたか。悲惨な戦争のなかで問答無用で殺されたというイメージがあるけれども、宗教は強制されません。これがキリスト教と違うところです。
 キリスト教では正当な考え方と違うと、「おまえは魔女だ」と魔女裁判架けられて、火あぶりの刑で殺されていく。その点イスラーム教は、征服はするけれど、「信じないなら信じなくていいよ、イヤなら信じなくていいよ」という。

 ムハンマドは、「宗教に強制なし」と言った。「宗教は強制するものじゃない。自分から信じるものだ。考えが違ったらそれは仕方がない」。
   その代わりお金を払えばいい。税金を払えばいいんです。税金に2種類あって、土地税ハラージュ、これは一般的です。これはどこでもある。ヨーロッパでも日本でも。
 もう一つが、体で払う税金です。こういうのをジズヤといいます。これを人頭税といいます。国の中に住んでいるだけで、国のために働きにいかないといけない。お殿様のところの家の修理とか、畑を耕したりしないといけない。「この二つを払えば何を信じてもいいよ」という感じです。

※ ウマイヤ朝は695年、正式な法定貨幣を発行します。ファルス銅貨、ディルハム銀貨、ディナール金貨の3種類に統一され、イスラム世界の金銀両本位制が確立します。(世界史は99%経済でつくられる 宇山卓栄 育鵬社 P110)

※ ウマイヤ朝第5代カリフのアブド・アルマリクは、ビザンツ帝国のノミスマ金貨をまねた純度97%のディナール金貨、ササン朝のディレム銀貨を継承するディルハム銀貨、ビザンツ帝国のフォリス銅貨を継承するファルス銅貨によりお金の制度を整えた。本位通貨の金貨・銀貨の鋳造権はカリフが独占し、補助貨幣の銅銭の鋳造権は地方の総督にも与えた。(知っておきたいお金の世界史 宮崎正勝 角川ソフィア文庫 P30)

※ 金融の民ユダヤ人には、を支払えばイスラーム帝国で利子を取ることが認めるられましたので、イスラーム帝国の経済の膨張に伴って金融の民としてのチャンスが広がりました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P30)

※ (ウマイヤ朝では)豊かな財務の経験を持つシリア商人やユダヤ人優位が揺るがず、ユダヤ商人はウマイヤ朝で行政官、財務官として活躍することになります。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P33)


 まだイスラムの拡大は続いてます。

※ ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを破ることのできないウマイヤ軍はバルカン半島を越えてヨーロッパへと中央突破することができません。やむをえず、ウマイヤ軍は北アフリカ経由の迂回ルートを進むという戦略の大きな転換を迫られました。北アフリカからスペインへとまわり込み、ヨーロッパの背後をつくという新戦略です。(世界一おもしろい世界史の授業 宇山卓栄 中経の文庫 P141)


 100年経つと、イスラーム軍はヨーロッパ西端のスペインまで征服します。弱かった田舎のヨーロッパも「ここから先はいくら何でも」といって必死で戦う。スペインのちょっと北のほうです。
 イスラムはどこまで行こうとしたかというと、ダマスカスからアフリカを西に進んで、ジブラルタル海峡を渡ってスペインに乗り込み、その北のフランスに乗り込んで、ツールとポアチエというところまで攻め込んだ。

※ 711年にイスラーム軍は西ゴート王国を倒してイベリア半島を征服しましたが、その際の軍司令官で初の総督になったのがユダヤ化したベルベル人のターリク・ブン・ジヤード(ジブラルタル海峡の語源となる)で、遠征には多くのユダヤ人も参加しました。その後、イスラーム社会の宗教的寛容性、経済成長の可能性もあって多数のユダヤ人の移住が続き、イベリア半島は地中海周辺におけるユダヤ人の一大拠点に成長します。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P51)


Umayyad Conquest of Hispania (Moorish Iberia)



 フランスまでがイスラームの国に征服されるかという寸前ところで、ヨーロッパ側がこれを食い止めた。その戦いが、ツール・ポワチエ間の戦い732年です。ここでやっとイスラーム帝国は膨張をストップした。この時点では、これをストップしたヨーロッパの諸国に比べれば、イスラーム国家の方が何倍も大きい。

※ ウマイヤ朝は実はムアーウィアによる建国の起源から軍事主義的な性格を持っていました。しかし、ひとたびトゥール・ポアティエ間の戦いで敗れ、その侵略が止まると、機構はすぐに動揺し、もろくも崩れ去っていきました。(世界一おもしろい世界史の授業 宇山卓栄 中経の文庫 P142)



【アッバース朝】 今言ってるのは、ウマイヤ朝の動きですが、それに反対する一派つまりシーア派もいます。そのシーア派と組んで新しい王朝をつくったのがアッバース家です。750年にウマイヤ朝を滅してアッバース朝をうち立てる。しかしアッバース家は王朝をうち立てると、協力したシーア派を弾圧し始めます。そしてやはり多数派のスンナ派の国家になります。

 アッバース朝はウマイヤ朝のような軍事国家ではありません。
 この時に首都をどこにしたか。ダマスカスはウマイヤ朝という敵方の都だったから、そこを捨てて新しい都をつくる。これがバグダードです。今でも新聞やニュースで時々聞きませんか。今のイラクの首都ですよね。このときに人工的に都市計画をして新しくできた新都です。
 今の主要な国の首都の中には、国ができたときにその王様が人工的に作って、それが今まで続いているものがあります。このあと出てくるエジプトのカイロもそうです。

 王朝が成立した翌年の751年には中央アジアでタラス河畔の戦いが起こります。これはアッバース朝と中国の唐が戦ったもので、ここで勝利したアッバース朝に唐から製紙法が伝わります。
 中国にはすでに紙がありましたが、ここで初めてイスラーム世界に紙の製法が伝わります。このイスラーム世界からヨーロッパに紙が伝わるのはさらにその後です。ヨーロッパにはまだ紙はありません。紙がないということはヨーロッパの大半の人は文字が読めないということです。


タラス河畔の戦い Battle of Talas River (Abbassids vs Tang Empire)



 アッバース朝の全盛期は、800年前後のハールーン・アッラシードという王様のときです。このイスラーム帝国で一番有名な物語として、船乗りシンドバッドの冒険とか、子供のころ聞いたことないですか? または、アラジンと魔法のランプとか、アリババと40人の盗賊とか、あれは一冊の本の中にあるんです。これを「アラビアン・ナイト」という。この本に出てくる王様です。時代もこの王様の頃のことです。

 この頃のヨーロッパは、あとでいうカール大帝の頃です。800年にカール大帝がローマ教皇レオ3世からローマ皇帝の戴冠を授かり、西ローマ帝国の復興に向かおうとする頃ですが、まだ首都さえ定まらず、王は各地を転々としている状態です。各地を転々として王の権威を誇示しなければならなかった頃です。こういうのを移動宮廷といいますが、バグダードという新首都を建設したアッバース朝との国力の差は明らかです。

※ アッバース朝期、10世紀以降には銀不足が深刻化します。人口150万人を数えるバグダードの金融街が金銀比価の調整にあたり、各地方都市の両替商が活躍した。しかし、巨大化した経済に金・銀の産出量が追いつかなくなる一方だった。アッバース朝の経済規模が拡大して交易が活性化すると簡単な決済方法が求められ、ペルシア起源の送金手形のスフタジャ、持参人払いの為替手形のチャクが盛んに用いられた。ちなみにチャクは英語のチェック(小切手)の語源になっている。(知っておきたいお金の世界史 宮崎正勝 角川ソフィア文庫 P31)

※ (10世紀に)銀貨不足に直面したムスリム商人やユダヤ商人は、貨幣がもともと「信用」を数値化した「引換証」だったという原点に立ち返り、紙で作った手形、小切手も使うようになります。・・・・・・言ってみれば手形は、やむをえず使われるようになった「架空の銀貨」というような位置づけになります。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P55)

※ (ヨーロッパの手形は)銀貨不足に対応するイスラム起源の手形が、地中海商業圏で活躍したユダヤ商人などの仲介によりイタリア諸都市に伝えられたものです。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P56)

※ (手形の発行は)ムスリム商人と違って、外国人から利子を取ることが宗教的、倫理的に認められていたユダヤ商人には余分な操作が省けましたから俄然、有利でした。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P57)

※ ユダヤ人のディアスポラ社会は、同じようにネットワーク型のイスラーム社会にうまく溶け込みました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P59)

※ アラビア数字や複式簿記の起源は、イスラーム世界にあり、リスク、小切手(チェック)などの言葉がアラビア語に由来することが示すように、イスラーム世界の金融の仕組みは14~15世紀ルネッサンス期のイタリア商人にも伝えられた。(知っておきたいお金の世界史 宮崎正勝 角川ソフィア文庫 P10)

※ 10世紀になると、資源の枯渇や銀を精錬する木材の枯渇により、銀の産出量が一気に減少した。金貨と銀貨が大幅に不足すると、帝国の経済規模を維持するために金融業者手形を大量に流通させることになった。バグダードやバスラなどの大都市では金融業者の店が軒を並べ、バスラでは市場の商人たちが銀行に口座を設けており、市場での取引はすべて小切手で行われた。両替商に有価物件を持ち込むと、両替商は手数料を差し引いた額の小切手帳を発行し、その限度内で市場での買い物を小切手で済ますことができたという。
  またバグダードで振り出された小切手は、北アフリカのモロッコで現金化できたとされる。イスラーム商人が使う手形や小切手は、イスラーム商人と取引するベネチア、ジェノバなどのイタリア商人の間でも取り入れられるようになった。(知っておきたいお金の世界史 宮崎正勝 角川ソフィア文庫 P32)

※ (アッバース朝では)アラブ人による征服王朝が、イスラーム教信仰に基づく商業帝国に姿を変えたのです。 ・・・・・・アッバース朝はもともと商人の活動に寛大だったので、ユダヤ商人にとっては都合がよい大帝国だったのです。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P34)

※ ユダヤ人は、各地の小共同体の間の連絡に当たる密使を往来させることで相互の結びつきを維持し、経済ネットワークを成長させました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P35)

※ ユーラシアの大商圏は、ユダヤ商人の前に開放されました。ユダヤ商人は広域に分布するユダヤ人の共同体とそのネットワークをフルに活用し、要地に代理人を置いてヨーロッパからインド洋、中央アジア、中国までをつなぐ国際商業網を作り上げました。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P39)


 このアッバース朝は500年ぐらい続きますが、早くも9世紀には、広大すぎる領土の周辺で各部族の自立が進み、各地で新たな王朝が発生していきます。そこにトルコ人も侵入してきます。

※ 12世紀バグダードでは4万人のユダヤ人が平和に暮らしており、28のシナゴーグと10の律法法院があったと言われます。(ユダヤ商人と貨幣・金融の世界史 宮崎正勝 原書房 P62)


Abbasid & Vikings (Viking Raid to Caspian Sea)




【後ウマイヤ朝】  ではアッバース朝に負けたウマイヤ朝はどうなったか。本拠地はアッバースに奪われた。その代わりイベリア半島つまり今のスペインに逃げた。スペインまでイスラーム教が浸透していました。そこに乗り込んでいき、756年後ウマイヤ朝をつくる。ウマイヤ朝の後という意味です。首都はスペインのコルドバです。
 だからスペインは今でこそキリスト教の本尊みたいになっていますが、このあと約700年間はイスラーム世界だったのです。今でもスペインにはイスラーム文化の香りが残っています。


スペインの世界遺産「コルドバ歴史地区」(博学のガイド)



 この後ウマイヤ朝というイスラーム教の国に移り住んでいくのが、国家を失ったあとのユダヤ人です。この国には多くのユダヤ人が住みつきます。首都のコルドバにはユダヤ人街が生まれました。彼らスペイン系のユダヤ人のことをスファラディといいます。ユダヤ人の多くは金持ちで、そのなかから12世紀にマイモニデスという有名な学者も誕生します。彼らは他のイスラーム教国家やキリスト教国家にもいます。彼らは、イスラーム教やキリスト教という、ユダヤ教と同じ一神教地域のなかで、相互に連絡を取り合いながら活動の場を広げていきます。
 これで終わります。ではまた。


新「授業でいえない世界史」 15話 イスラム世界 ファーティマ朝~マムルーク朝、アフリカ

2019-08-26 08:38:56 | 新世界史7 イスラーム世界

【ファーティマ朝】 それから、アッバース朝も100年ぐらい経つと、帝国が広すぎてとても支配できない。周辺で地方政権が分裂します。

 909年エジプトファーティマ朝が成立します。ここはアッバース朝が嫌いな国です。ここで新しい国を作って、その時に新しい都もつくる。それがカイロです。今でもエジプトの首都です。
 ここは同じアラブ系の国ですが、シーア派の国です。アッバース朝はスンナ派です。国の名前のファーティマというのはムハンマドの娘で、その娘と結婚したのがシーア派が正統とする4代カリフのアリーです。つまりアリー支持派です。アリーを支持するグループがシーア派です。それにちなんだ国の名前です。

※ 過激シーア派といわれるイスマイール派の指導者ウバイド・アッラーは、910年1月チュニジアで自らがマフディー(待望された救世主)たることを公式に宣言し、またカリフを称した。ファーティマ朝の正式のスタートである。ちなみに、これに対抗してアンダルスの後ウマイア朝も929年、カリフを名乗ったので、アッバース朝カリフともに、イスラム世界に3カリフが鼎立することになった。(都市の文明イスラム 佐藤次至・鈴木董 講談社現代新書 P208)

※ 10世紀以降、イスラム世界の中心が、イラクからエジプトへ移動したといわれる。現在もエジプト・アラブ共和国の首都であるカイロは、アラビア語でカーヒラという。「勝利」を意味するカーヒラは、10世紀にチュニジアからエジプトに支配を広げたファーティマ朝が新たに造営した城郭都市の名前だった。(都市の文明イスラム 佐藤次至・鈴木董 講談社現代新書 P154)


 イスラーム帝国は広すぎる。だから辺境地帯で地方政権が誕生してどんどん分裂していく。広げるときはいいけど、広すぎると守りが大変です。異民族が侵入してくるんです。



【トルコ人の移動】 今度は中国史と関わります。中国史で中国の北方民族、馬に乗った民族、彼らは動くのは速い。1000キロ、2000キロぐらい平気で移動する。
 彼らが移動して、中央アジアからこのイスラーム化した西アジアに入って来ます。イスラーム帝国に入ってきて国を建てていく。彼らがトルコ人です。

 中国史では何と言っていたか。漢字で出てきた。中国史では突厥と言っていた。騎馬遊牧民です。彼らは馬に乗っていて戦いには強いから、それを見込まれてアッバース朝の王様から軍人に雇われる。彼らは好んでイスラーム国家の軍人になっていきます。


▼トルコ人の拡大 




 しかし彼らは今でいう軍人と違って、王様の奴隷として軍人になっていきます。奴隷軍人なんです。しかも王様と緊密なつながりを持つエリートです。イスラーム圏にはこういうシステムがあります。横文字で言うと、彼らのことをマムルークといいます。

 奴隷というとものすごく悲惨な生活をしているような気がしますが、実はそれはヨーロッパの奴隷のイメージであって、ここの奴隷はけっこうお金をもっていて豊かです。我々日本人の持つ奴隷のイメージとはかなり違います。そこには血の通った主人と奴隷の関係があります。
 だからこれは奴隷ではなくて、日本で言えば養子のようなものだという人もいます。確かにそうとらえた方が分かりやすいです。しかし教科書には奴隷と書いてあります。
 ただ優れた軍人奴隷は他の王様も欲しいから、「奴隷を売ってくれ」となる。そうなると自分の意志とは関係なく、売られていきます。売られる人間というのは、自由人ではなくてやはり奴隷だという位置づけです。雇い主から雇い主に売られていたので「やはり奴隷かな」という感じです。

 だから奴隷というのは、その生活の悲惨さを言うのではなくて、お金で売買されるかどうかが基準になるようです。他人の意志でお金で売買されるとは、自分の意志は無視されるということです。つまるところ人間と奴隷との差は、その生活水準ではなくて、個人の意思が尊重されるかどうかにかかっているようです。
 ただ現在でもこのスタイルを取っている職業人はいます。すぐれた野球選手は、球団のオーナーから見ると戦力として非常に欲しいから、高額でトレードされます。トレードとは売買です。5億とか10億で売買される。これがトレードです。イスラム圏の奴隷は、こういうプロ軍人として、今のプロ野球選手のイメージに近い。「オレはあの球団には行きたくない」と言っても、オーナーが「移籍しろ」と言えば、嫌な球団でも行かざるをえない。

 サラリーマンはそういったことはありません。例えば私がある企業に勤めていて、社長が「全然関係のない別の会社に移れ」と言うことはできません。A社で働こうが、B社で働こうが、それを決めるのは自分であって、社長ではありません。しかしこの軍人奴隷にはそういう権利はありません。ご主人様がA軍に行けと言えばA軍に行き、B軍に行けと言えばB軍に行く。そういう奴隷軍人です。
 しかし生活は豊かです。権力も持っている。武力も持っている。だから彼らが腹を立てると怖い。奴隷が主人の国を乗っ取って、別の国を建てたりします。

▼11世紀のイスラーム世界




【セルジューク朝】 彼らトルコ人がマムルークになって雇われているその一方で、中央アジア出身のトルコ人たちをまとめた国が建てられます。これが1038年です。これをセルジューク朝といいます。セルジューク家が建てたものです。彼らは中央アジアから入ってきた人たちですが、もともとの出どころはモンゴル高原です。中国史で出てきた騎馬遊牧民の突厥です。

 1055年、セルジューク朝のトゥグリル=ベクがバグダードに入城し、先に侵入していたブワイフ朝を滅ぼします。これはアッバース朝カリフの要請に応える形で入城します。アッバース朝はブワイフ朝をトルコ人を使って退けたかったのです。

※ アッバース朝のカリフは実際のところ、10世紀には、イラク平原を支配するだけの存在になっていた。・・・・・・10世紀後半以降は、アッバース朝とは名だけの政権になってしまった。しかし、アッバース朝のカリフは、その後も長い間それなりの権威をたもった。各地の政権担当者は建前として、カリフから任命されて統治に当たるという形式をとっていたからである。イスラム世界は政治的には分裂しながらも、象徴としてのカリフと、共通のイスラム法と、同じカリキュラムで教育された後の担い手であるウラマーによって、1つの世界として存続し続けたのである。(都市の文明イスラム 佐藤次至・鈴木董 講談社現代新書 P99)


 しかしそのトルコ人のセルジューク朝がかなり大きい国になります。東はイランから中央アジアまで。そして西はアナトリアまで。この西のアナトリア(トルコ半島)を領有したことが、今のトルコ共和国の起源になります。
 このアナトリアはそれまでビザンツ帝国の領土でした。そこにセルジューク朝が入ってきたことが、ヨーロッパ人の恐怖心を高め、このあとでいう十字軍のキリスト教徒の征服活動になります。
 アラビア半島のまん中は砂漠だから、20世紀に石油が出るまでは誰も欲しがりません。

 つまりアラブ人の世界に、東方の騎馬遊牧民のトルコ人が入ってきたということです。そして奴隷からのし上がって支配者になっていく。
 トルコ人はもともとはアジア系の人々です。顔も言葉もアラブ人とは違います。しかし千年たった今では血が混じり合って、アラブ人やヨーロッパ人に似た顔になってます。

 彼らはアッバース朝から実権は奪っても、アッバース朝のカリフは名目的に飾っておいた。そしてそのカリフからスルタンという称号をもらった。これを日本語に訳すと「統治者」という。つまり宗教的権威とは切り離して、政治的な権力だけをカリフから認められたわけです。
 こういうふうに、アラブ人に代わってトルコ人がこの地域の支配層になります。これが11世紀です。

 この頃のヨーロッパでは・・・・・・これも後で言いますが・・・・・・キリスト教のローマ教会が「イスラーム帝国と戦争をやる」と宣言して「参加するものこの指とまれ」というと、ヨーロッパ人がいっぱいその指にとまりだして、イスラームに対して征服活動をしだします。ヨーロッパ人は「オレがイスラームの土地をぶんどってやる」というんですよ。
 1096年からの約200年間、7回にわたってキリスト教徒の攻撃を仕掛けます。彼らヨーロッパ軍は、胸にキリスト教のトレードマークつまり十字架のマークをつけて征服に行ったから、十字軍と呼ばれます。これはヨーロッパ勢です。彼らはキリスト教が発生したところつまりエルサレムを一時的に奪います。エルサレムはこの時イスラーム教徒の支配地になっています。
  こうやって西アジアは、イスラーム国家ができるわ、東からはトルコが来るわ、西からはヨーロッパのキリスト教徒が攻めて来るわ、もうグシャグシャになる。



【アイユーブ朝】 次の12世紀になると、エジプトにまた別の王朝ができる。これをアイユーブ朝という。建国は1169年です。建国者はサラディンという武将です。本名はサラーフ・アッディーンといいますが、これを縮めたあだ名がサラディンです。サラーフ・アッディーンの短縮形のようなものです。
 1187年、サラディンは十字軍と果敢に戦い、キリスト教徒からエルサレムを奪い返します。それでヨーロッパに名を知られます。ここまでが12世紀です。



【イル=ハン国】  次は13世紀です。1200年代です。中国史は先にやりました。モンゴルは、モンゴル高原から中国を征服して、この西アジアまで征服しに来ます。中国方面から征服に来た勢力は2度目です。1度目はさっき言ったトルコです。そして2度目が今からいうモンゴルです。

 モンゴル人はイスラーム世界を席巻して、ここにモンゴルの分家をつくる。これがイル=ハン国です。1258年建国です。これがアッバース朝のカリフの息の根を止めます。ほんとに殺害する。実権を失ったとはいえ、まだ生きながらえていたアッバース朝はこの時に滅亡します。

 モンゴルの支配下では、イスラーム教は禁止されたのか。これが全く逆です。支配者層になったモンゴル人自らが、このイスラーム教の教えの圧倒的な厚みに感化されてイスラーム教徒になっていきます。支配する側が支配される側の宗教に染まっていく。これがモンゴルのイスラーム化です。


 しかしこういう国は長続きしません。せっかくイスラーム地域を征服しても、肝心の考え方を奪われてしまう。借り物の考え方は、一時的にはよくとも、長続きしません。征服したあと、自分たちの考え方を捨てるというのは、不思議なことです。それだと何のために征服したのかということになる。目標を見失ってしまうのです。目標を見失った国家は長続きしません。個人の目標と、国家の目標が一致しないと、国家は滅びます。私はこれは今の日本についても当てはまると思います。日本も明治以降、西洋の考え方を借りて急速に近代化しましたからね。

※ 自前の宗教的権威を欠くことの多かった権力者にとって、支配下の社会の代表でもあるウラマーと協力関係を結び、自らの支配がイスラーム教の教えにかなう正しいものであるとのお墨つきを得ることは重要でありつづけた。(詳説世界史研究 木村靖二他 山川出版社 P148)



【マムルーク朝】 これと前後して、エジプトには1250年マムルーク朝ができます。マムルークとは、さっき出てきた奴隷軍人という意味です。彼らはまたここでも王朝をつくる。そしてここに攻め入ろうとするモンゴル軍を撃退していきます。

 イル=ハン国の侵入はエジプトの手前で止まります。その後、イル=ハン国は、約100年後の1393年にティムールによって滅ぼされます。ティムールも、東のチャガタイ=ハン国を受け継いだモンゴル系の人物です。ですが、すでにイスラーム教徒になっています。のちにいいますが、このティムール帝国も短命です。



【まとめ】 以上をまとめると、今までいろんな国が出てきたんだけど、覚えようとしてもなかなか覚えきれないというのが実情ですね。
 出てきた国を確認すると、
 8C ウマイヤ朝からアッバース朝になった。
 10C エジプトではファーティマ朝が分裂した。
 11C アッバース朝をトルコ系セルジューク朝が占拠した。
    するとヨーロッパから十字軍が攻めてきた。
 12C エジプトにアイユーブ朝ができた。
 13C モンゴルが攻めてきて、イル=ハン国ができた。
    エジプトでマムルーク朝が対立した。
 14C ティムールが攻めてきた。
 グチャグチャですね。西からも、東からも敵が押し寄せてくる。西アジア地域の宿命のようなものです。メソポタミア文明の頃から、これは変わりません。



【イスラーム文化】 いろんな絡みでいろんな宗教と接触し、キリスト教勢力も来る、中国の遊牧民も来る、そうしながらイスラーム文化圏がいろんな文化を取り入れていくわけです。
 結局どんな敵から攻められても、イスラームは戦争には負けても文化的には勝ったんです。モンゴルだってイスラーム帝国に戦いでは勝っても、イスラーム教を受け入れていく。だからイスラーム教はますます栄える。

 この時代は、ヨーロッパよりもこのイスラーム世界のほうが文化が高い。頭もいい、計算もできる、字も書ける。ヨーロッパ人は字が書けない、計算できない、まず紙がない。
 しかしここには紙がある。紙があって、字が書けて、計算ができるから、契約ができる。ということは商売ができる。金貨や銀貨のお金だって当然あります。このころのヨーロッパでは、まだお金は一部にしか流通していません。

 イスラーム商人たちは、そのお金を使って何百キロも離れたところと取り引きをし、中にはガッポリ儲ける商人たちも出てくる。これが船乗りシンドバットのモデルです。
 船乗りシンドバットは物語上の人物ですが、彼らは実際に風向きもちゃんと知ってる。季節によって風向きが違う。これを利用すれば船で貿易ができて大儲けができる。船が1年を通じて移動できるんです。
 この季節風の知識を得て、彼らが操ったイスラームの船をダウ船という。この船乗りがシンドバッドですよ。

 アラビアンナイト、これがイスラームを代表する物語です。日本では千夜一夜物語といいます。
 しかもギリシャの学問は、すぐにヨーロッパに伝えられるのではなく、このイスラーム世界で一旦アラビア語に翻訳されて保存されているんです。彼らイスラーム教徒がまずギリシャ文化を学んだ。その500年もあとになって、ヨーロッパでやっと紙ができて、ヨーロッパ人が勉強しはじめる。まだこの500年もあとだけど。

 ヨーロッパ人がそのアラビア語を、自分たちの書き言葉であるラテン語に翻訳して、やっとヨーロッパ人が、ギリシャ人が考えたことを読めるようになるんです。こうやってギリシャ文化がヨーロッパに伝えられた。ここからヨーロッパが動き出して、やっとイスラームの水準に追いつく。もっと後のことですけど。
 それまでのヨーロッパは遅れた地域だったのに、それが追いついたとたんに、なぜか爆発的に発展していく。これは不思議ですね。
  イスラーム世界は、これで終わります。



【アフリカ】  次はアフリカです。世界史はあっちこっち行きます。アフリカは野蛮な土地ではない。ちゃんと国があります。今なぜ遅れた地域になっているか。
 これは後で言いますが、ヨーロッパ人が荒らしまくって、アフリカの黒人社会を壊したからです。この最たるものが奴隷貿易です。アフリカの働き手の若手の多くが、奴隷として連れ去られた。
 これは前に言ったイスラーム圏の奴隷と違って、本当に悲惨です。彼らは今でいう拉致にあう。突然後ろから羽交い締めにされて、手を縛られてブタのよう船に入れられて、大西洋を渡ってアメリカに連れて行かれた。この後500年後におこることです。

 アフリカにやってくるのはヨーロッパ人ですが、その前はアフリカにもちゃんと国がありました。
  ガーナ王国マリ王国。ちゃんと文明も栄える。国もあった。そのほかにもあるんですが、代表してこの二つ。ガーナ王国の後、14世紀にマリ王国。ここも非常に繁栄して、金があふれるほどとれた。そういう王国もでてきます。
 しかしその後、ポルトガル人が、スペイン人が、そしてイギリス人がやってくる。これでアフリカが変わる。

 アフリカ大陸の自然環境は、赤道から北にあるのがサハラ砂漠です。北はイスラーム圏です。古代ではエジプト文明が栄えた。よく赤道をサハラ砂漠のまん中あたりに引く人がいますが、そうじゃない。サハラ砂漠の南に赤道はあります。赤道直下は熱帯雨林で、さらにその南北に砂漠があります。これは地理の基本だったですね。

 商業が栄えたのは、アフリカの西ではなくて、アフリカの東のほうです。東岸の海岸です。なぜなら、この東海岸にイスラーム商人の船乗りシンドバットたちが、インド洋を西に東に貿易をしていくわけです。インド洋の西の突き当たりがアフリカの東岸です。儲かる商品があれば、何でも売り買いしていく。
  だからここらへんのアフリカのもともとの言葉はバンツゥー語といいますが、これにアラビアの商人の言葉が混じり合います。そして別の言葉になっていく。これがスワヒリ語です。
 東海岸にもジンバブエなどの国ができます。



2014年06月28日 グレートジンバブエ遺跡・・かずかず


 次はヨーロッパに行きます。これで終わります。ではまた。