ひょうきちの疑問

新聞・テレビ報道はおかしい。
2020年のアメリカ大統領選以後はムチャクチャ

戦えば、世界は統合される

2019-07-24 14:21:45 | 第一、第二次大戦
トーナメントがそうであるように、国と国が戦えば、弱い国は統合される。
それを何回も続けていけば、いずれ世界は1つの国に統合される。

経済は統合されることを望むが、政治は統合されることを望まない。
すると経済の支配者が、政治の支配者を操って戦争を起こさせる。

第一次世界大戦、第二次世界大戦はそうやって引き起こされた。

経済は、世界全体を平坦な1つの経済圏にしようとする。
お金は強い者の味方である。だからお金は戦争を望む。

第二次世界大戦は、ファシズムとデモクラシーとの戦いであるといわれるが

2018-11-26 09:04:03 | 第一、第二次大戦

月曜日

第二次世界大戦は、ファシズムとデモクラシーとの戦いであるといわれる。
そして戦後は、資本主義と社会主義の戦いだといわれる。

しかし本当はそのどちらでもない。
その前提にあるのは、欧米の植民地支配である。
戦後はその植民地が消失した。
そのことが決定的に大きい。
その事実は、戦前の最大の植民地帝国であったイギリスが、戦後急速に没落していったことを見ても明らかである。
しかしそのことは米ソの冷戦構造の影に隠れて見過ごされがちである。

「持てる国」と「持たざる国」の戦い。
第二次大戦の実態はこれである。
欧米は世界中に広大な植民地を持っていた。これがブロック経済を生む背景にある。
植民地あっての保護貿易である。
これは危険きわまりないものである。

しかし、保護貿易そのものは危険なものではない。
戦後、植民地はなくなった。
植民地なき保護貿易は、後進国にとっては必要なものである。
戦後の先進国による、植民地なき保護貿易への批判は、自己の利益のために過ぎない。
だからアメリカは、植民地なき世界で、自由貿易を推進した。
これも自国のためである。
これがご都合主義ある証拠には、アメリカは自国製品が売れなくなると、トランプによって手のひらを返すように関税を引き上げ、保護貿易を主張している。
これを見ても分かるように、保護貿易は輸出力の弱い国には必要なものなのだ。

しかしそのことが逆に歴史の欺瞞を明るみに出している。
トランプによる保護貿易は、歴史を考える上で格好の材料を提供している。
そしてそれが、戦後なぜ欧米がこぞって自由貿易に転換したかの理由にもなっている。
本来、歴史教育はそういう筋道をたどって教えられるべきだ。
そうでないと子供たちは歴史に興味を持てなくなる。

第二次世界大戦は、欧米による植民地支配体制が原因である。
欧米の植民地支配が、ブロック経済を生んだ。
戦前の植民地ありきの保護貿易と、戦後の植民地のない世界での保護貿易は、同じ保護貿易でもその意味するところはまったく違う。

欧米はそのことに触れられたくないのだ。
それに触れられると、自分たちが悪くなることが目に見えているから。
あくまでも「持たざる国」であるドイツと日本が悪者になってくれないと困るのである。

欧米にとっては、
植民地ありきの世界ではブロック経済がよくて、
植民地のない世界では自由貿易がよいのだ。
どちらも自分たちのためである。
そのことを隠そうとしている。

そのことに目をつぶったまま、欧米の言うとおりに、
「第二次大戦はファシズムとデモクラシーとの戦いだ」と信じ込めば、
日本人は思考停止状態に陥り、歴史の真実は何も分からない。


第二次大戦の4つの謎

2018-01-30 11:34:43 | 第一、第二次大戦

火曜

第二次大戦の4つの謎
・なぜイギリスは、ポーランドに侵攻したドイツにだけ宣戦布告を行い、ほぼ同時にポーランドに侵攻したソ連には宣戦布告をしなかったのか。
・なぜアメリカは、のちに対立すると分かっているソ連と組んだのか。
・なぜヒトラーは、イギリスと戦いながら、独ソ戦を始めたのか。
・なぜ日本は、南方の石油を求めながら、アメリカの真珠湾を攻撃したのか。


第一次世界大戦 アメリカのヨーロッパへの資金提供

2017-11-28 10:39:50 | 第一、第二次大戦

火曜日

第一次世界大戦時、アメリカはイギリスやフランスにどのようにして資金提供を行っていたのだろうか。
アメリカの第1次世界大戦への参戦は、1917.3月にロシア革命によってロシアが崩壊し、ドイツの有利が伝えられる中で、その翌月の1917.4月に突然行われた。
一般には、ドイツの 無制限潜水艦作戦が直接のきっかけとされているが、ドイツが最初にそれを実施したのは1915.2月である。有名なルシタニア号の沈没事件も1915.5月である。
アメリカの参戦はその2年も後のことである。これが直接の理由とは考えにくい。

その本当の理由はアメリカが、連合国側が戦争に負ければ、イギリスやフランスなどの連合国に貸し付けた戦争資金が回収できなくなることを、恐れたものであった。
しかし、アメリカがそれまでイギリスやフランスにどのようにして成長資金を提供していたか、そのことの説明は全くなされていない。
これは日露戦争時、日本がアメリカの資金によって戦費をまかなっていたことが、詳細に説明されていることと好対照をなしている。

アメリカは、第1次世界大戦が始まる1914年の1年前のクリスマス休暇の中で異例の議会を開いて少数の議員の決定で、アメリカの中央銀行である FRB を創設している。これにはアメリカの金融資本が深く関わっている。
このことと、アメリカがイギリスやフランスの連合国側に資金提供を行っていたこととはどういう関係にあるのだろうか。それとも全く関係がないのでないのだろうか。なぜ歴史はそのことに触れないのだろうか。

しかしそのことは、第1次世界大戦後、アメリカがイギリスに代わって世界の中心国となり、世界最大の債権国となって、ドルが世界の基軸通貨になることを考えると、決定的に大事なことである。
そのことがわからなければ、その後の歴史の意味がわからなくなる。
1920年代のドイツの驚異的なインフレーションも、その原因はアメリカから借りた戦争資金をイギリスがいかに返済していくかというところから発生したものである。
第1次世界大戦の意味は、ヨーロッパ勢のどちらが勝とうとヨーロッパがともに没落していくことにある。そしてそのヨーロッパに代わって、自国は戦場にならず、ヨーロッパの主要国に対して莫大な戦争資金を提供していたアメリカが世界の中心国になることにある。

それはアメリカが第1次世界大戦前からヨーロッパに戦争資金を提供していたことにある。
しかしその方法はいまだ闇の中である。アメリカの FRB の創設と、イギリスを中心とするヨーロッパ列強への戦争資金の提供がどのような関係にあるか、それが闇の中である。


第二次世界大戦 ドイツのポーランド侵攻時のイギリスの不可解な動き

2017-11-24 01:06:43 | 第一、第二次大戦

金曜

ドイツの
1936.3月のラインラント進駐に対しても、
1936.7月のスペイン内戦に対しても、
1938.3月のオーストリア併合に対しても、
1938.9月のチェコスロヴァキアのズデーテン地方割譲要求に対しても、
イギリスは、一貫して宥和政策をとってきた。
世界大戦の気配はなかった。

ところがドイツが、
1939.9.1日にポーランド侵攻を行うと、わずか2日後の、
1939.9.3日には、イギリスとフランスはドイツに対して宣戦布告を行っている。
その14日後、今度はソ連が、ドイツと同じく、
1939.9.17日にポーランド侵攻を行うと、
ドイツと同じ行動であるにもかかわらず、イギリスは何も行っていない。
その2ヶ月後、ソ連が、
1939.11.30日にフィンランド侵攻を行っても、イギリスは何も行ってはいない。
このソ連の行動が戦後世界にどれだけ大きな影響を与えたかは我々の世代ならばみんな知っている。
東西冷戦はここから始まるのだから。
ところがイギリスはソ連の動きに対して何も対処していない。
ドイツのポーランド侵攻に対してだけ、間髪を入れず宣戦布告を行った。

ドイツのヒトラーは実はこのことに驚いている。
そしてイギリスによる宣戦布告後、その仲裁をアメリカ大統領ルーズベルトに依頼しているが、ルーズベルトは決してヒトラーと会おうとせず、その申し出を断っている。

ここにもイギリスとアメリカがドイツ潰しに動こうとする何らかの力学の存在を感じる。

ある高校教科書には、こうある。
『イギリス・アメリカ両国などには、ヨーロッパ辺境からの移民や、東ヨーロッパで略奪や迫害(ポグロム)を受けたユダヤ人が殺到した。』


第一次世界大戦 ドイツとロシアつぶし

2017-11-24 00:08:53 | 第一、第二次大戦

金曜

第1次世界大戦は、
ドイツとイギリスの対立(3B政策と3C政策)、
ドイツとロシアの対立(パン=ゲルマン主義とパン=スラブ主義)だとされる。

1904年の日露戦争開戦当時、
日本は、イギリスと日英同盟を結び、
ロシアは、フランスと露仏同盟(1891年)を結んでいた。
イギリスは日本を応援し、フランスはロシアを応援していた。
つまりイギリスとフランスは日露戦争に対して敵対関係にあった。

ところが日露戦争が始まって2ヶ月後に、その敵同士のイギリスとフランスが英仏協商を締結する。
これには日露戦争に巻き込まれたくないというイギリスとフランスの思惑がある。(特にイギリスの)
それにアフリカの植民地化をめぐって長年対立してきたイギリスとフランスが、1898年のファショダ事件をきっかけに対立を回避して融和に向かったこともある。

この時点で、すでに三国協商うちの二つである露仏同盟と英仏協商が結ばれていた。
日露戦争でロシアが敗れた後、その3年後の1907年には、イギリスはイランをめぐって対立していたロシアとそれ以上対立することをせず、イランを北と南に半分ずつ分け合うことで、英露協商を成立させた。
これで、イギリスを中心としたロシアとフランスその三国の間に、三国協商が成立した。

この間、ドイツの味方は同じドイツ人のオーストリアだけである。
イタリアも味方に付けたが、これは当てにならなかった。
イタリアはフランスと伊仏協商(1902年)を結んでいたのであり、第1次大戦中に寝返って三国協商側につく。

第1次世界大戦は、イギリスを中心とする三国協商と、ドイツを中心とする三国同盟の戦いだといわれるが、イギリス中心の三国協商のその大がかりさと比べると、ドイツ中心の三国同盟は比べものにならないほど小さい内輪だけのものである。
イタリアの寝返りを見ても、ドイツ中心の三国同盟が本当に成立していたのかさえ怪しい。
これではイギリス中心の大きな三国協商とドイツ中心の小さな三国同盟が対等のもののように見えて、第1次世界大戦の本質を見失ってしまう恐れがある。

ドイツ中心の三国同盟はなかったか、あってもあやふやで小さい規模のものだったのである。
オーストリアはナポレオン以降ヨーロッパの檜舞台に立つことはなかったし、イタリアもヨーロッパ列強の中では二流国家である。
列強として名が通っていたのは実質的にドイツだけである。

つまりこの戦いは、ドイツ1国と、イギリス・フランス・ロシアの3カ国連合軍の戦いに等しい。
ドイツはいつの間にか、イギリスに取り囲まれてしまったのである。
それはビスマルク失脚後のドイツの失政というよりも、イギリスの周到な計算によるドイツ包囲網だといった方が良い。

この被害者はドイツだけではない。
ロシアもまたイギリスにいいようにしてやられた被害者である。
1918年のドイツ皇帝の亡命で第1次世界大戦は終わったが、その時にはその前年の1917年のロシア革命ですでにロシアという国はなくなっていたのだから。

イギリスは長年の敵ロシアと、新たに勃興したドイツという敵の2つを同時に葬り去った。
そしてそのことに莫大な資金を提供していたのがアメリカであった。
アメリカの中央銀行であるFRB(連邦準備制度理事会)は、第1次大戦の前年の1913年のクリスマスに少数の議員しか集まらないという異例の事態の中で設立が決まっている。
そして翌年第1次大戦が起こり、アメリカはイギリスに対して多額の資金供与をしていく。
そのことによって第1次大戦後のアメリカ中心の世界経済が築かれていく。
世界のリーダーがイギリスからアメリカに変わり、世界の基軸通貨もイギリスのポンドからアメリカのドルに変わる。
このことが第1次世界大戦の本当の意味ではないのだろうか。

誰かが、ドイツとロシアを潰し、アメリカに覇権を握らせる。
誰がそうしたのか、主語に当たる部分がわからない。


第2次大戦 アメリカが日本と戦った理由は?

2015-01-11 11:33:14 | 第一、第二次大戦

日中戦争のさなか、1939.7.26日にアメリカは日本に対して、日米通商航海条約の破棄を通告した
これによってアメリカは日本に対して石油を供給する義務を負わなくなった。当時の日本は石油の輸入をアメリカに依存していた。石油がなくなれば日本にとって死活問題である。
当然、陸軍の戦車も、海軍の戦艦も、空軍の飛行機も、動けなくなる。軍部にとっても死活問題であった。

その理由は、日本の中国進出が原因だとされているが、日本の本格的中国進出はすでに2年前の1937.7.7日の廬溝橋事件から始まっており、それから2年経ってなぜこのタイミングで日米通商航海条約の破棄を通告がなされたのかは疑問である。
しかし、ヨーロッパで起こっていることに目を転じて、その約1ヶ月後の1939.9.3日にイギリスとフランスが突然ドイツに宣戦布告することとあわせて考えてみると、アメリカとヨーロッパの連合国が歩調を合わせて同じ方向に動いていることが分かる。

この時日本はあくまで中国と戦争していたのであり、日本がアメリカと事をかまえたことはなかった。
むしろ日本の敵意はソ連に向けられており、その4ヶ月前の1939.5.12日には、ノモンハン事件を起こしてソ連と軍事衝突している。

こういった状況下で突然突きつけられたのが、アメリカによる一方的な日米通商航海条約の破棄を通告である。
この時まだ日本はドイツとの三国軍事同盟を結んでいない。
にもかかわらずアメリカは、日本の死活問題である石油の供給を断つ行動にでた。


日本が日独伊三国軍事同盟を締結するのは、アメリカが日米通商航海条約の破棄を通告したあと、翌年の1940.9.27日である。
しかしこれによって日本がヨーロッパの戦争に参戦したのではない。日本はヨーロッパで起こった戦争(第2次世界大戦)には不介入の立場を表明していた。


その後、日本にとって石油の確保は大きな課題になる。
そこで日本は南方を目指して、2年後の1941.7.28日に南部フランス領インドシナ(今のベトナム南部)に進駐した。
するとそれを待ちかまえていたように、4日後の1941.8.1日にアメリカは対日石油輸出の全面停止を行った。即座の対応である。
これで日本には石油は入ってこなくなる。国民生活の危機である。

驚いた時の首相近衛文麿は、アメリカ大統領ルーズヴェルトとの首脳会談を申し込むが、ルーズヴェルトは準備不足を理由に断っている。
そのことは第2次大戦が起こった1939.9月に、それに驚いたヒトラーがイギリス・フランスとの調停をアメリカのルーズヴェルトに依頼したものの、ルーズヴェルトがその依頼を断ったのと同じ態度である。


そのころルーズヴェルトはイギリス首相チャーチルと会談していた。
そして1941.8.14日に、戦争に勝利したあとの戦後処理の原則である『大西洋憲章』に調印している。
つまりアメリカは日本と戦争をする前から、戦後処理の構想をイギリスと話し合っていたのである。


この時日本はインドネシアにはまだ進出していないし、アメリカの植民地であるフィリピンに進出したわけでもない。
にもかかわらずアメリカのこの対日石油輸出の全面停止という即座の対応に、日本の軍部は動揺した。


アメリカの対日石油輸出の全面停止により、日本の軍部内では急速に短期決戦論が頭をもたげる。
石油がなくなれば、陸軍の戦車も、海軍の戦艦も、空軍の飛行機も、動けなくなる。
『そうなってからでは遅い、石油の備蓄があるうちに事を起こさなければ手遅れになる、日本が生き残るのは短期決戦だけだ』、そういう論調に傾いていく。
こうやって日本は追いつめられていく。このままでは『ジリ貧』におちいるだけだ、という『ジリ貧論』のなかで、日本は戦争に追い込まれていく。
こういうのを『窮鼠猫を噛む』というのだろう。

真珠湾攻撃は、それから約3ヶ月後の1941.12.8日に起こるが、アメリカはその奇襲攻撃を最大限宣伝に利用し、アメリカ国内の反日感情を盛り上げることに成功する。
そのときのキャッチフレーズが、『リメンバー・パールハーヴァー』(真珠湾を忘れるな)である。

ところがこの真珠湾奇襲攻撃にはいくつかの疑問点があり、今でも太平洋戦争の疑問点になっている。
それはアメリカはすでに日本の暗号解読に成功していたからだ。
当然日本がアメリカの日本大使館に打電した暗号電文も傍受されている。
そして解読されていたはずである。
ということは大統領ルーズヴェルトは、事前に真珠湾攻撃を知っていたことになる。
そのことは日本の真珠湾攻撃に際し、日本が当初目標としていた、アメリカ海軍の主力艦である空母がそこにいなかったという事実と妙に符合する。
アメリカは大損害を被ったと見せながら、その実、一番大切な空母を温存し、被害を最小限に食い止めていたのである。

日本がフランス領インドシナ(今の南ベトナム)からさらに南方を目指してシンガポールやインドネシア(そこには油田がある)を占領していく軍事行動をとるのは、そのあとのことである。

ただこの時に注意しておかねばならないことは、当時シンガポールやインドネシアという国はないのであり、あるのはあくまでも英領シンガポールであり、オランダ領インドネシアであったということである。
つまり東南アジアはタイを除いてそのすべてがヨーロッパの植民地であり、ヨーロッパ列強の格好の草刈り場と化していた。
日本が直接戦ったのは、シンガポール軍ではなくそこを拠点としていたイギリス軍であり、インドネシア軍ではなくそこを拠点としていたオランダ軍である。


第2次大戦 イギリスがドイツと戦った理由は? 4

2015-01-11 10:28:14 | 第一、第二次大戦

1941.12.8日の真珠湾攻撃の4ヶ月前、1941.8.14日にアメリカ大統領のルーズヴェルトとイギリス首相のチャーチルはすでに『大西洋憲章』を結んでいる。
この大西洋憲章は、戦争が終わったあとの戦後処理の原則を約束したものである。
日本にとっては戦争が始まる前に、負けたあとの戦後処理が決められていたことになる。
これによって国際連合の設立も約束されていた。
手回しの良すぎる早さである。

ドルを世界の基軸通貨とする現在の通貨体制も、日本の敗戦の1年以上前、1944.7月のブレトン=ウッズ会議で決められている。
手回しが良すぎるのである。

とにかくこの戦争は手回しが良すぎる戦争で、その手回しの良さは第一次大戦の比ではない。第一次大戦では戦争終了後の1919年のベルサイユ会議によってはじめて検討された。しかもそれはベルサイユ体制に不満を持つアメリカによって1921年のワシントン会議によって覆されている。
このようなもたつきに比べると第二次大戦の戦後処理は異常なほど手回しがよい。

1943. 1.14  カサブランカ会談……ルーズヴェルトとチャーチル
1943.11.22 カイロ会談……ルーズヴェルトとチャーチルと蒋介石
1943.11.28 テヘラン会談……ルーズヴェルトとチャーチルとスターリン

1944. 7. 1  ブレトン=ウッズ会議……主要国
1944.10    ダンバートン=オークス会議……四大国

1945. 2. 4   ヤルタ会談……ルーズヴェルトとチャーチルとスターリン
1945. 6.26  国際連合成立
1945. 7.15  ポツダム会談……トルーマンとアトリーとスターリン
1945. 8.15  日本がポツダム宣言受諾

このような状況を見ると、連合国にとっては戦争そのものは二の次であったことが分かる。

日本が必死で戦っていたときに次の世界はすでに決まっていたのである。
そしてこのようなことは日本の真珠湾攻撃の時点から始まっていた。


第2次大戦 イギリスがドイツと戦った理由は? 3

2015-01-10 08:48:16 | 第一、第二次大戦

通貨発行権を国が持つか中央銀行が持つかという問題は、近代になって発生した問題である。
この当時もそして現在も、通貨発行権は中央銀行が握っているが、それ以前は国家が握っていた。

ヒトラーはナチス党に入党した当初から、中央銀行が通貨発行権を握っている世界の現状に疑問をもっていた。
ヒトラーは政権をとった1933年から通貨制度の改革に努めている。それも6年の年月をかけてかなり慎重に事を運んでいる。それは独裁者とのイメージとは異なるもう一つのヒトラーの姿である。それが完成したのが第2次大戦が起こった1939年のことである。この年にドイツの中央銀行は『帝国銀行法』によって合法的に国有化されている。
このことによってナチスドイツは通貨発行権を握ったのである。

このことの意味は何か。
ドイツが、イギリスのシティやアメリカのウォール街を中心とする国際金融資本から独立して通貨を発行する権限を手に入れたということである。
イギリスがドイツと戦った本当の理由はここにあるのではないかという指摘もある。

20年前の第1次世界大戦の終了から、ドイツが賠償金の支払いのために、アメリカからの融資に頼っていたことは周知の事実である。
ヒトラーはこのアメリカ金融界からの独立を図っていたのである。
もともと通貨発行権は国家が持つものであった。しかしこの当時、通貨発行権は中央銀行が握っていた。
ヒトラーは通貨発行権を持つ中央銀行を潰すことをせず、中央銀行を国有化することによって、通貨発行権を国家の手に戻そうとしたのである。

今でも中央銀行は国家資本によって成り立っていると考えている人がいるが、これは間違いで、実は中央銀行は民間資本の出資によって成り立っている。このことを理解しておかないとヒトラーのとった行動の意味は分からない。
ドイツ経済はこの当時アメリカウォール街の国際金融資本からの融資によって成り立っていた。
ヒトラーは中央銀行を国有化することにより、自前でそのことを行おうとしたのである。
そうなればヒトラーは思うように中央銀行から融資を受けることができ、その資金を使っていくらでも公共投資をしてドイツ経済を上向かせることができる。
実際ヒトラーの首相就任以来、ドイツ経済は高速道路アウトバーンの建設に代表される公共投資をさかんにすることにより、みるみるうちに回復していった。

その方法は、国家のダミー会社をつくって、その会社に『雇用創出手形』を発行させ、その手形を公共事業の支払金にすることによって実質的には通貨と同じ役割をさせる、という多少今の方式とは違った方法をとるが、要は中央銀行が政府の要求に従って、通貨を発行しているのと同じことである。
これによってヒトラーは莫大な額にのぼる公共投資を行い、その結果ドイツ経済を立ち直らせたのである。

しかしそのことは、世界の金融を支配しているアメリカのウォール街やロンドンのシティの国際金融資本家たちの地位を、低下させるものであった。
彼ら国際金融資本家たちは、そのことを恐れた。

紙幣は富との交換券である。
その紙幣発行権を国家が握ることができれば、国家はあらゆる富を手にすることができる。ヒトラーはそれを公共投資という形で行った。アウトバーンなどの国家の公共財としての富は増え、同時に公共事業に従事して賃金収入を得た国民の富も増えた。
1920年代前半に経験したハイパーインフレにも陥らなかった。
このことはドイツに紙幣が不足していたことを物語っている。
第一次大戦の敗戦国であるドイツは、賠償金という形で国家の富を吸い取られていた。ドイツ国内に潜在的な富はあるが、紙幣が吸い取られていたため、その富を有効活用する手段がなくなっていた。

紙幣がないのなら、別の形で紙幣をつくればよいと気づいたのが、『雇用創出手形』である。この効果は絶大であった。

しかしこれと同時にアメリカは不況に陥っていく。1937年のルーズヴェルト恐慌と言われるものである。ルーズヴェルトについては初期にとったニューディール政策の成功だけがいわれるが、実際にはアメリカはこの政策によって不況を脱してはいない。むしろナチスドイツの経済復興とほぼ時を同じくして、逆に不況に陥ったのである。アメリカが本格的に好景気を取り戻すのは、第二次大戦に入ってからである。

ルーズヴェルト恐慌から2年後の1939年に、それまでドイツに対して宥和策をとっていたイギリスとフランスは、ドイツとソ連のポーランド侵攻をきっかけとして、突然矛先を転換して、ドイツに対してだけ宣戦布告をしていく。

ドイツとアメリカ間で繰り広げられているのは、植民地戦争ではなく、金融戦争である。



ところで日本で今行われているアベノミクスなる金融政策についてだが、安倍政権は、中央銀行を国有化しようとしたナチスドイツと一見すると非常によく似た動きをしている。
今の黒田日銀は、ほぼ安倍政権の思うとおりの動きをしている。
これは日銀が国有化されたのと同じ動きである。
そしてその黒田日銀によって量的金融緩和が行われているのも、ナチスドイツと似ている。日本銀行券という紙幣のバラマキである点では、ナチスドイツよりももっと直接的である。

ではその違いは何か。
ナチスドイツがアメリカの中央銀行からの独立を目指したのに対して、安倍政権はアメリカの思うとおりに動いている。その安倍政権が日銀をなかば国有化するのと同じ動きをしているということは、日銀がアメリカ政府によって取り込まれるのと同じ効果をもっている。
昨年10月末に、アメリカが金融緩和を終了するのとほぼ同時に、日銀が逆に追加緩和に踏み切ったのも、日銀がアメリカ金融界を補完するために使われているということである。
金融緩和によってナチスドイツがめざましい経済復興を遂げたのに対し、今の日本が金融緩和によってもまったくその効果が上がらないのは、金融緩和は同じでもその目的がまったく違っているからである。

アベノミクスとは、日銀の国有化ではなく、日銀の米国化である。日銀を国有化しているのは日本ではなく、アメリカである。
これもアメリカが得意とする金融戦争の一環である。
今、安倍晋三をヒトラーになぞらえるパロディをよく見かけるが、その違いは、ヒトラーが金融戦争に対して自覚的であったのに対し、安倍晋三が無自覚である点である。
ヒトラーは資本主義に対する金融の持つ意味を深く理解していた。この理解があったからこそナチスドイツは経済復興に成功した。しかし安倍晋三がそのことを理解しているかは疑問である。
(私はヒトラーが政治的に正しかったかどうかには一切触れていないことを申し添えておく。)


第2次大戦 イギリスがドイツと戦った理由は? 2

2015-01-10 08:21:50 | 第一、第二次大戦

イギリスは、第2次世界大戦が始まる4年前の1935年にドイツと英独海軍協定を結び、それ以来ドイツに対して宥和的な態度をとってきた。
翌年1936年に始まったスペイン内戦に際しても、ソ連寄りの人民戦線に対しても、ドイツ寄りのフランコ将軍のどちらに対しても、中立的な態度をとり続け、この戦争に干渉しなかった。結果はドイツ寄りのフランコ将軍の勝利であった。
このことはイギリスが(そしてフランスも)、ヒトラー政権下のナチスドイツと武力で対抗する意志のないことを示すものであった。
イギリスはこの時むしろソ連の共産主義の拡大を懸念していた。
イギリスはかつて日露戦争で日本をロシアと戦わせたように、ドイツをロシアと戦わせれば、一番好都合であった。

ドイツにとってはその後1938年のオーストリア併合にしても、チェコスロバキアの一部割譲にしても、イギリスの了解のもとに行った行為であった。
第2次世界大戦のきっかけになった1939.9月のドイツ軍によるポーランド侵攻にしても、ドイツにとってはこの延長線上にあった。
ヒトラーはポーランド侵攻が世界大戦の引き金になるとは想定していなかった。
1939.9.1にドイツ軍がポーランドに侵攻。
1939.9.3にイギリス・フランスがドイツに対して宣戦布告。
たった2日間の間に状況は一変する。
ヒトラーにとってイギリス・フランスからの宣戦布告は『寝耳に水』であった。
ヒトラーは驚いて、アメリカ大統領のルーズヴェルトに停戦の調停を依頼しているが、ルーズヴェルトはそれを断っている。
アメリカはこのヨーロッパの戦争に対して中立の立場を表明しているが、本当にアメリカがこの戦争に対して傍観していたかといえば、そこにはもう少し複雑な金融面での問題があった。


第2次大戦 イギリスがドイツと戦った理由は?

2015-01-05 21:20:53 | 第一、第二次大戦

1939年、第2次世界大戦が起ころうとするとき、イギリスには、
1.対共産主義に対する戦争
2.対ファシズムに対する戦争
この2つの選択肢があった。

1はソ連と戦うもの、
2はドイツと戦うもの、である。
イギリスが選んだのは2である。
これを決めたのが、ドイツとの宥和策を模索するチェンバレンに代わって登場したチャーチルである。


しかし巷で良くいわれることは、第2次世界大戦は、3『植民地を持つものと持たざるものの戦いだ』ということである。
上に示した1、2には、3の植民地のことがまったく関係づけられていない。
共産主義とファシズム、そのことと植民地とはまったく無関係である。
それでは理屈が通らない。
1,2が3の植民地支配とどう関係するのか、そのことの説明が全くない。
もともとこの3つを結びつけることは不可能ではないか。


3の『植民地を持つものと持たざるものの戦いだ』としても、植民地を持つイギリス側が勝利したにもかかわらず、戦後植民地が次々に独立していくことは理屈に合わない。


第2次世界大戦の直接のきっかけは、1939.9月のドイツによるポーランド侵攻だが、そしてその際にはドイツの侵略性だけが取り上げられるのだが、
歴史的事実はこの侵攻はドイツによるものだけではないということだ。
同時にソ連軍が反対の東側からポーランドに侵攻している。
つまりポーランド侵攻とは、ドイツとソ連による共同作戦だったということである。
このことは別に隠された歴史ではなく、どんな歴史書にも記述してある当たり前の事実である。

私が疑問に思うのは、ドイツの侵略性が問題にされるのなら、なぜ同じポーランド侵攻を行ったソ連の侵略性が取り上げられないか、ということだ。
ソ連がドイツと連合してポーランド侵攻を行ったにもかかわらず、ドイツにだけ戦争を仕掛けることは非常におかしなことだと思うのだ。
ドイツとともにポーランドに侵攻したソ連は、さらにその2ヶ月後の1939.11月にフィンランドに攻め込み、ソ連=フィンランド戦争を開始している。これに対して国際連盟は、ソ連の行動を侵略であると非難してソ連を国際連盟から除名している。
しかしソ連は翌年1940.7月にルーマニアのベッサラビアを占領するばかりか、ほぼ同時にエストニア・ラトビア・リトアニアのバルト三国を併合している。

イギリスがこのようなソ連を味方に引き入れて、ソ連と共同してポーランドに侵攻したドイツとだけ戦うことはますますおかしなことだ。

ソ連を味方に引き入れた以上、ポーランド侵攻を理由としてドイツと戦うことは論理的に不可能だ。

この戦争はこの瞬間に正義がなくなっているのではないか。

私はソ連の共産主義が良いとか悪いとか、そんなことを言っているのではない。
論理的に正義が成立しえない戦争だと思うのだ。

この戦争はよくイギリス・フランス・ソ連・アメリカの連合国と、ドイツ・イタリア・日本の同盟国の戦争だと言われるが、
その発端となった1939年を見ると
イギリス・フランス同盟とドイツ・ソ連同盟の戦争が起ころうとしていたようにしか読めない。


そしてその両者が戦争しようとした瞬間に、なぜかソ連がイギリス側につき、その結果、イギリス・フランス・ソ連同盟とドイツ・イタリア同盟の戦争になってしまう。

アメリカと日本の戦争はその後の1941.12月の話である。
日本は開戦後、ヨーロッパの戦争に関与していないが、アメリカは日本と戦うと同時にヨーロッパの戦争にも関与していく。ドイツとアメリカには利害関係はない。このことも、不思議なことである。
しかもこのことが戦後世界を決定していくことになる。

よく言われる1、2、3の理由は後付けの理由ではなかったか。
1の共産主義
2の全体主義
3の帝国主義
そのどれももっともらしい説明はついているが、
現実の世界で起こっていることは、もっと違ったことではなかったか。
この戦争で最も利益をえたのが誰だったのか、そのことから考える必要があるのではないか。
アメリカ側から見た第2次世界大戦をよく見直す必要がある。