【東久邇宮稔彦内閣】(1945.8.17~45.10)
戦後に入ります。日本で起こったことですが、ただし主権はありません。内閣は東久邇宮稔彦内閣です。
このときアメリカはすでに徹底した日本研究をやっている。経済研究じゃない。文化研究です。日本人の考え方の研究です。日本人が何をどう考えているかを知っています。
この時の最高の日本文化研究書、これは戦争中アメリカで書かれた本です。「菊と刀」です。戦後のベストセラーです。日本人が日本を説明するよりもよくわかると言われる。その通りです。こういう本が書けるほど徹底して日本の文化研究をやっています。占領政策にそなえて。どうやったら日本人を操ることができるかと。
この内閣の外務大臣は重光葵(まもる)という。このときの東久邇宮首相はどっちかというと責任職というか、飾りです。実質の首相は外相のこの人です。足が悪くて杖をついているけれどもかくしゃくとしている。
この人の一番の手柄は、闇になっているけれども、トルコなんかはアラビア文字がABCに変わった。この20年前に。日本にも同じことをやろうとする。本当にこの計画がある。ABCのアルファベットでで、全部日本語を表記しようということが考えられています。
それだけはやめてくれ、といってそれをストップさせる。
8月15日に玉音放送。なぜか敗戦とはいわずに、終戦という。だからこの日は終戦記念日という名がつきました。敗戦というと悔しいという感情が起こる。終戦というと平和になって嬉しいという感情が起こる。微妙な言い方ですけど。こんなところから工夫があります。
【マッカーサー】 1945.8.30日にマッカーサーが日本に降り立つ。連合国の総司令官として。アメリカ軍の司令官ではなく、連合国軍総司令官として。連合国はいっぱいあります。イギリスもフランスもソ連もそうです。しかし99%はアメリカ軍です。
先にそういう既成事実を作って、それを国際社会に認めさせる。こうしましたよ、といってしまえれば、それダメだ、といってももう済んでしまっている。
1945.9.2日、降伏文書調印も、東京湾に停泊する米軍のミズーリ号に呼び出されて、外務大臣の重光葵が行います。
さっき言ったように、英語を公用語にしようとする。これだけはやめてくれと撤回させる。もしそうなっていれば、学校は英語でしゃべらないといけなくなっていた。
【GHQ】 この連合国軍最高司令官総司令部というのを略してGHQという。しかしこれは、ほぼ米軍です。旧第一生命館ビル(現DNタワー21)がある場所がそれです。皇居の南側に向かい合うこの場所には、当時、7階建てのビルがありました。この時から日本が独立する1952年までの約7年間、日本の政治方針は、国会議事堂ではなく、また首相官邸でもなく、この場所から発せられます。
日本は、GHQというけれども、当時は進駐軍といっていた。進駐軍が来たと。でも子供はこれが好きですよ。なぜか。チョコレートを配ってまわるから。チューインガムを配ってまわるから。これは作戦ですよね。だから、そのまわりで大人はシラーと見ている。子供は分からないから、ちょうだい、ちょうだい、と米兵に寄っていく。そこに自分の子供がいても、それを「行くな」とは言えない大人がいる。
※ 子供たちにとっては、チョコレートとチューインガムとがより深い印象を残しました。これらの食糧の記憶がマッカーサー元帥と結びついて、7年間にわたる占領時代を通じて、米国人に対して日本人が親しみを感じてきたことの土台にあります。(戦後日本の大衆文化史 岩波書店 鶴見俊輔 1984 P22)
※ 子供のころはアメリカの軍人さんにガムをいただいた。あれだけ温情あふれる占領をやったのはアメリカぐらいです。・・・・・・ともかくあれは占領軍じゃない。(アメリカは)あまりにも占領軍にあるまじき優しさでもって占領して、大きなゆりかごをつくって敗戦日本という赤ん坊を育てた。(ポップコン宣言 西部邁 光文社 P21)
そこで親と子の考え方が大きく違ってくる。子供は、米兵はいい人だったよ、アメリカ大好き、という。でも親の世代は、親兄弟をアメリカ軍から殺された世代です。その子供世代が、われわれです。その子供が、君たちの世代です。戦争を知っているのは、80才以上の世代です。
だから私の親父は、あんまり言わないですね。戦後は世の中が変わって、戦争のことを言ってもどうにもならないと思っているから。
私は30才過ぎて、父にいろいろ聞きだした。それまで親父から何か言われると、うるさがっていた私ですが、自分にも子供が生まれて、親父がいるうちに、いろいろ聞いておかなければならないと思った。親父はもういませんけど。
日本国の最高機関は国会ではありません。極東委員会と言って、ワシントンにある。こっちが上なんだけど、実権は東京の連合国軍最高司令官総司令部です。これをGHQといいます。その最高司令官がマッカーサーです。
ここでの第一目標は、日本が二度と立ち上がれない国にすること、弱い国でいい、アメリカにとって無害でさえあればいい、ということです。
連合国軍といっても、GHQはほぼアメリカ軍です。アメリカ主導で日本が作り変えられていく。当然、日本に主権はありません。国会はありますが、そこで決まったことよりも、GHQの決定が優先されます。そのような主権なき国家が、このあと7年間、1952年まで続きます。
そういう意味ではここは日本史の一部じゃなくて、アメリカ史の一部になっている。1945年から1952年の独立までは。理由は、日本には国のことを決定する主権がないからです。
【間接統治】 その主権がないなかで、一応日本政府は存続していきます。GHQが国民を直接支配すると、頭のいい国民は反発するんですよ。だから、その中間に地元民の政府を立てる。しかしこの政府には実権がないんですね。これを間接統治という。生活に追われている国民から見れば、あたかも自分たちの政府が機能しているように見える。
そのなかで、日本の独特の国家体制である天皇制も維持される。日本人から見れば何も変わらないように見える。日本政府も存続する。しかしなにも実権はない。形だけです。
※ 占領統治は、マッカーサー司令官が率いる連合軍総司令部(GHQ)の指令を、日本政府が実行するという形でおこなわれた。連合軍は、日本を世界の脅威にならない無力な国にすること、そして日本を民主化することを占領の目的とした。(新しい歴史教科書 扶桑社 P290 2001年)
この反対が直接統治です。例えば軍事的に最重要拠点になった沖縄は直接統治で、米軍が沖縄を直接支配する。車は右側通行ですね。お金もドル札です。だから私が子供のころ、沖縄が日本に本土復帰するまでは、沖縄は車は右側通行だったし、お金はドル札だった。それで甲子園にも来れなかった。
沖縄の人がいうには、そんななかで屋良朝苗という沖縄主席が、子供の教育をアメリカ流にしてどうするんだ、日本流にすべきだ、主張します。これで20数年後の本土復帰の際には、何も問題なくなった。
ただ子供は、さっきも言ったように、恐い米軍と思っていたら、チョコレートを配る、チューインガムを配る、アメリカが好きになる。これも印象操作の一つです。
【政党の復活】 日本の政府が存続しますから、政党も復活します。いったん戦前に消滅したけれど、体制翼賛会が消滅して、政党は戦後すぐ復活する。戦前の二大政党は政友会と民政党です。
これが名前を変えて、政友会系は日本自由党、この党首が鳩山一郎です。
10数年前にこの人の孫の鳩山由紀夫が総理大臣になりました。自民党から政権交代したあとの民主党政権でしたが、変な形で辞任しました。そこで何があったか、あれは多分、君たちが私ぐらいの年になったときに誰かが暴くでしょう。非常に不思議な終わり方をしました。この人が同じ民主党の菅直人に変わった瞬間に、全く方針が変わった。選挙公約とまったく違ったことを菅直人がやっていった。
もう一つ、戦前の民政党系は何か。日本進歩党です。
この二つは10年後の1955年に、合体します。これが今の自由民主党です。今の自由民主党の大もとはこの二つの流れです。
【外相更迭】 この東久邇宮内閣の外務大臣は重光葵です。日本で英語を公用語にするとか、またはアルファベットで記述するとか、それだけはやめてくれと、とにかくGHQへ乗り込んでいってストップさせた。この人はアメリカに対してもモノを言うんです。モノ言う人間は、アメリカは欲しくない。それで1945.9月に外務大臣を更迭される。更迭とは、やめさせられることです。
※ 戦後の日本外交における「自主路線」のシンボルが重光葵です。「対米追随路線」のシンボルが吉田茂です。そして重光は当然のように追放されます。・・・・・・重光外相は、降伏文書に署名した9月2日のわずか2週間後、9月17日に外務大臣を辞任させられています。「日本の国益を堂々と主張する」。米国にとってそういう外務大臣は不要だったのです。求められるのは「連合国最高司令官からの要求にすべて従う」外務大臣です。それが吉田茂でした。重光が辞任した後、次の外務大臣は吉田茂になります。戦後の日本外交の歴史において、「自主路線」が「対米追随路線」に取って代わられる最初の例です。(戦後史の正体 孫崎享 創元社 2012.8月 P44)
そこで代わりに外務大臣になるのが吉田茂です。戦前、何していた人か。アメリカ好きの外交官です。もと親米派の駐米大使です。国民に選ばれた国会議員ではありません。
この時期の外務大臣は、占領軍であるGHQとの窓口であり、その交渉の責任者です。実質的な日本政府の実権は外務大臣が握っています。この人はこのあと総理大臣になり、占領下日本の中心的政治家になっていきます。
1868年に帰国したあと、横浜の英国商社・ジャーディン・マセソン商会横浜支店の支店長に就任して富を築いた資産家です。吉田茂はその莫大な資産を受け継ぎます。
幕末に活躍した長崎のイギリス人の武器商人トーマス・グラバーの親会社に当たるジャーディン・マセソン商会が、こんなところに顔を出します。
三菱も長崎のグラバーと関係の深い会社でした。その三菱財閥の創業者である岩崎弥太郎の四女と結婚した政治家が、幣原喜重郎でした。幣原喜重郎は親米派の外交官として吉田茂の先輩格でもあります。
外務大臣の吉田茂は、この忘れられかけていた幣原喜重郎を次の首相として引っ張り出すことになります。
戦後のこの時期になっても、幕末の長崎つながり、つまりイギリスつながりの人脈が顔を出します。
【プレス・コード】 こういう占領下の状況の中で、米軍がまずしたことが報道統制です。
戦争中の日本が報道統制をしていたことは言いましたけれども、徹底した報道統制はGHQ占領下の戦後すぐにはじまります。これをプレス=コードといいます。1945.9.19日です。プレスは印刷です。新聞発行要領という。これはGHQの政策です。日本に主権はないから、ここで説明するほとんどのことは、GHQの政策です。
出版物はすべて事前検閲、米軍に都合の悪いことを報道しようとすると、全部発行禁止になって許可が降りない。出版物の最たるものが新聞です。絶対させてはいけないものが占領軍に対する批判です。
これにまず乗せられていくのがNHKです。「真相はこうだ」という番組や、太平洋戦争はこうだったという番組を、アメリカの情報を一方的に流させていく。日本人の中には、アメリカに負けただけではなく、日本の軍部にだまされたんだという意識も出てくる。この1年間で日本人は、アメリカはこんなにいい国だったんだと作り替えられていく。
太平洋戦争という名前も、日本はあくまでも中国戦っていたからもともとアジアの戦争だった。だから東アジアの大戦争、大東亜戦争と言っていたものを、アメリカがこれはダメだといって、太平洋戦争という名前に変えられていく。最近は、これでは実態が分からないということで、アジア太平洋戦争という名前になりつつあります。
※ GHQは、1945年9月から言論の検閲を開始した。ラジオ新聞、雑誌のすべてにわたって厳しい事前検閲がなされた。(新しい歴史教科書 扶桑社 P290 2001年)
※ GHQは、新聞・雑誌・ラジオ・映画を通じて、日本の戦争が、いかに不当なものであったかを宣伝した。こうした宣伝は、東京裁判と並んで、日本人の自国の戦争に対する罪悪感を培い、戦後日本人の歴史の見方に影響を与えた。(新しい歴史教科書 扶桑社 P295 2001年)
※ マッカーサーは占領政策で、厳重な言論統制下、日本人に大東亜戦争の真因を分析批判することを禁止した。少し研究すれば、たちまち米国の侵略性、加害性の謀略が明らかになるからである。彼は先手をとってこの戦争の呼称を「大東亜戦争」から「太平洋戦争」へとスリカエることを命じ、日本が太平洋を越えて米国を侵略した戦争というイメージを植えつけた。続いてGHQのスミス企画課長が勝者の立場で独断で捏造した「太平洋戦争史」を、開戦の十二月八日を選んで強制的に全国新聞に一斉に連載させ(昭和二十年)、NHKに命じて「真相はこうだ」と放送させた。(侵略の世界史 清水馨八郎 祥伝社 P15)
※ 1945年12月9日から、日本放送協会は、「真相はこうだ」という番組の放送を始めました。この番組は、戦争についての真実を伝えるということになっていました。当時日本の放送局は占領軍の完全な検閲のもとにあり、この番組は占領軍が放送局に命じて作らせたものでした。この放送は、それまで日本国民から隠されていた真実を占領軍がすべてもっいるという印象を与えました。(戦後日本の大衆文化史 岩波書店 鶴見俊輔 1984 P20)
※ マッカーサーがワシントン政府から受けた第一号命令は、日本を再び米国や連合軍の脅威にならぬよう徹底的に無力化、弱体化することであった。そのため、日本人の精神の底にある強烈な愛国心を抹殺すること、つまり大和魂を抜くことが求められた。つまり日本的な心をすべて否定させることだった。さらに魂を抜いただけでは気がすまず、その穴埋めに戦争犯罪意識を日本人の心に深く植えつけることであった。これを戦争犯罪宣伝計画(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)と言う。(侵略の世界史 清水馨八郎 祥伝社 P238)
【墨塗教科書】 学校では先生が墨もってきて、この教科書はウソ書いてあるから消しなさい、と言う。では去年まで、先生たちが言っていたことはウソだったのかということになる。これは辛いでしょうね。例えば、私が今言っていることを、来年政権が変わった場合に、ゴメン去年言ったことは間違ってた、といって自分の考えとは関係なく、それを墨で消す。これは耐えられないと思う。墨塗教科書というのは、そういうことです。
本来、教育は政治に左右されてはならないものですが、GHQはそれをやるんです。だから無条件降伏は長いこと受け入れられなかったし、それまで歴史的にもなかったんです。特に文系の教科は政治に左右されます。今やっている日本史も戦後最も変わった教科です。
1945.12.15日、国家と神道の分離令(神道指令)が出されます。
※ 「神道指令」が発せられ、神道と国家の結びつきを禁止し、同時に建国の理想とされた「八紘一宇」の使用をはじめ、民族の理想やロマンを伝える伝承や神話の抹殺を命じた。次に教育管理令を発した。教育勅語は勿論、修身・地理・歴史の教育を禁止し、新教科書ができるまで生徒は従来のテキストにスミ塗りをさせられた。これは明らかに戦時国際法違反である。(侵略の世界史 清水馨八郎 祥伝社 P239)
【一億層懺悔】 戦争の総決算として、一億総懺悔(ざんげ)です。この意味は、ごめんなさいをいうのは政治家じゃない、軍部じゃない、日本人全員なんだ、という。一般庶民は、オレは何か悪いことしたんだろうか、という話です。
それほど価値観がガラリと変わる。ここまで価値観が変わると国民は一種の思考停止状態に陥ります。庶民は生きていくのに精一杯な毎日です。とにかく流れに着いていくしかない。哀れなのは、軍神と崇められた、特攻兵のわずかな生き残りの青年たちが石投げられて、この特攻崩れが、と言われたことです。この屈辱は一生忘れない、といって戦後、死んでいった人もいる。
※ 敗戦後の日本人は豹変する。いち早く日の丸を捨て星条旗を振った変わり身の鮮やかな男たちのなかには、占領軍のマッカーサー元帥のもとに、「マッカーサー神社を建てたい」「日本をアメリカの州に加えて欲しい」などと手紙を送りつけた者もいた。その軽薄さは時世時節としても、ゆるせなかったのは、敗戦の8月15日以降新聞やラジオや民衆が、にわかに手のひらを返し、祖国の難を救うと信じ、特攻に赴いた若者たちを、罵倒したことであった。世間は、戦場から命を拾って帰ってきた飛行兵たちを無頼漢にまでおとしめ、「特攻くずれ」と呼んだ。その18才の屈辱を、50年たった今も、私は忘れていない。(特攻隊員の命の声が聞こえる 神坂次郎 PHP P87)
この東久邇宮は臨時政府みたいなものです。1945.10月、2ヶ月で退陣します。