【中華民国の成立】 ただこの孫文は頭はキレるけれども、軍隊を持たないんです。軍隊がないと国を治められないです。軍隊を持ってる人にはかなわないんです。軍隊を持ってる人・・・・・・これを軍閥というのですが・・・・・・この軍閥の中から袁世凱がだんだん力を持ってきて、軍事力にものを言わせて「オレと交代しろ」という。
孫文はイヤとは言えない。孫文に代わって袁世凱が大総統につきます。この袁世凱政府がこのあと約5年続きます。1912年から1916年まで中国を支配することになります。第一次世界大戦は・・・・・・1914年だから・・・・・・この間に起こる。袁世凱政府の時です。その袁世凱政府は、孫文の国民党を弾圧していく。国民党とは何か。さっき言った孫文が革命結社として作った中国同盟会、これが名前を変えたものです。
※ 国民党を作った孫文は、ハワイ華僑として成功していた兄の孫眉ら在米華僑や、長老協会などアメリカのキリスト教会から支援を受けていた。中国を共和国にして経済発展させたいと最も強く考えていたのがニューヨークの資本家たちだったことは、容易に想像がつく。(金融世界大戦 田中宇 朝日新聞出版 2015.3月 P94)
中国はこのようにごたごた続きで、国らしい国の形を成していません。看板倒れです。そこに1914年に第一次世界大戦が起こって、日本はこのごたごた続きの中国に21の要求をしていく。これを21ヵ条要求といいます。日本からこれを突きつけられると、中国は飲まざるを得ない。日本と中国は今も仲が悪い。こういう過去があります。そして1916年に袁世凱は死んでしまいます。
ごたごた続きの中国で革命の中心の孫文は弾圧され、弾圧していた袁世凱も死んでしまう。ますます国の体をなさない。中国はバラバラです。政府の看板だけはあるけど、機能していない。日本の戦国時代のようなものです。地方地方で軍隊を持つ親分さんが各地を牛耳っている。こういう状態を軍閥割拠という。中国はこういう混乱の中に入っていくのです。
【モンゴル】 それでは中国の北にある国、なにかと相撲界で今お騒がせな、日馬富士とか、白鳳とか、昔は朝青龍といった力士もいた、モンゴルという国です。昔はモンゴル帝国としてチンギスハーンが世界帝国を築いた。歴史上最大の国をつくった。ここはどういう形をとるか。チンギスハーンは今から800年ぐらい前のことです。
その後1600年代の終わり、清が侵略して外モンゴルを支配する。外モンゴルというのは今のモンゴル共和国のある地域です。そうやって清朝の支配下に入ったのが1600年代の末です。その後1700年代からロシアが、東へ東へと領土を伸ばしてモンゴルに入ってくる。
1900年代になると清も、ここをロシアに取られてはなるものかと思い、モンゴルの支配を強化していく。これでモンゴルは、ロシアと清の両方から引っ張られるような形になる。清がモンゴル支配を強めると・・・・・・基本的にモンゴルは中国が嫌いです・・・・・・反清感情が高まっていく。
その中国で1911年に清朝が滅んだ。そのあと袁世凱も死んで軍閥割拠になり、中国は力を弱めていく。するとこの辛亥革命をきっかけにモンゴルが独立宣言をする。弱った中国は「勝手に独立するな」と反発する。しかしこれを止める力はもはやない。
その後10年ぐらい経つと・・・・・・今日はまだ言わないけど・・・・・・1917年にそのロシアが滅ぶんです。ロシア革命でロシアがソ連になる。君たちが生まれたのは、このソ連がまた滅んでロシアに戻った後です。ロシア、ソ連、ロシアとくる。
ロシア革命でロシアは社会主義国家になる。ソ連という新しい国になった。これをきっかけにモンゴルはソ連に近づいていく。そして1924年に社会主義国家として独立する。
だから私が若い頃には、モンゴル人は日本にはほとんどいなかった。体制の違う社会主義国家のモンゴルとは国交なかったからです。しかしソ連が1991年に滅んだ。親亀こけたら子亀もこけて、モンゴルも資本主義体制にまた変わる。すると日本と同じ体制だから、モンゴルと日本の行き来が盛んになる。モンゴルにもモンゴル相撲の伝統があります。それで日本に来てモンゴル出身の横綱が次々と誕生するという状況です。
【大戦前のヨーロッパ】
またヨーロッパに戻ります。いよいよヨーロッパは第一次世界大戦の準備に入っていきます。ちょっとまた30年ばかり前へ戻っていくと、基本はイギリスとドイツの対立です。
※ 戦争(第一次世界大戦)の始まる1914年以前で、ヨーロッパでは約半世紀、正確に言えば45年の長きにわたり、戦争らしい戦争はまったくなかった。・・・・・・列強各国が、近代化の立ち遅れたアジア、アフリカ、アメリカなどの「植民地」獲得に奔走しており、あえて強い国と戦う必要性がなかったこと、そしてもう一つ大きな理由があった。それが「イギリス王室」の存在である。普仏戦争(1870年)後、イギリス王室のヴィクトリア女王(在位1837~1901年)は、自分の子供たちを積極的に他国の王室に嫁がせ、ヨーロッパ全土に「君主ネットワーク」を築き上げていった。20世紀にかけてヨーロッパの王室は、ヴィクトリア女王頂点に、ドイツ皇帝、イギリス王、ノルウェー王、ルーマニア王、ユーゴスラビア王、スウエーデン王、スペイン王と、「血脈」=ブルーブラッド(高貴なる血)で、事実上、結びついた。イギリスを頂点とした「王族連合」が誕生したのだ。・・・・・・ヴィクトリアは、新世紀を迎えた20世紀元年の1901年、実にいいタイミングで逝去する。まずは近代化という不文律で、ヨーロッパの王族をまとめていたヴィクトリアという歯止めを失ったとき、ヨーロッパはどうなどうなるか・・・・・・。・・・・・・複雑に絡まった王室同士の結びつき、同盟関係(三国同盟、三国協商)でモザイク関係が築きあげられていた。それは45年という長い平和をヨーロッパにもたらす一方で、いったん、戦争になれば、ヨーロッパ全土が泥沼の戦争に巻き込まれる、砂上のように危うい平和のただ中にいた。(勃発!第3次世界大戦 B・フルフォード KKベストセラーズ 2011.4月 P158)
ドイツは1870年代までは、けっこう仲間を持っていた。その時のドイツの首相はビスマルクでした。この人は外交が上手だった。だからいっぱい味方をもっていた。だから仲の悪いイギリスを孤立させた。その仲の悪い隣のフランスも孤立させた。この状態が上の図です。ドイツはこれです。オーストリア、これもドイツ人です。このドイツとオーストリアという二つの国は同じ民族だから、何もしなくても仲間です。
ポイントは、ドイツとロシアは仲間であったということです。これでドイツは安全です。フランスを孤立させ、ロシアと協調する、これがビスマルク外交の骨子でした。ドイツとオーストリアとロシア、三つの国は全部皇帝がいるからこれを三帝同盟といいます。1873年の締結です。三帝同盟にロシアが入っていた。
【ドイツとロシア】 しかし10年で下の図のように、こんなに変わる。ロシアはイギリスについている。それで世界がごそっと変わる。
その経過を言うと、1890年に老練なヴィルヘルム1世が死んで、若いヴィルヘルム2世が皇帝になる。ドイツとロシアの協調こそがビスマルク外交の骨子でしたが、この若い皇帝は、親ロシア政策をとる首相ビスマルクと対立し、1890年にビスマルクは首相を辞めてしまいます。そしてヴィルヘルム2世はロシアとの再保障条約の更新を拒否します。
ここが変わり目です。新しもの好きの新皇帝ヴィルヘルム2世が今までなかったような外交を繰り広げると国際関係が一気に変わって、はたと気づくとドイツは孤立してしまいます。
まずロシアの変化です。日清戦争の3年前の1891年に、ロシアとまず手を組んだのはフランスです。ロシアとフランスが仲間になった。これが露仏同盟です。フランスとドイツは伝統的に仲が悪いから、これはロシアが反ドイツに一歩踏み込んだということです。
さらにドイツとロシアの対立は深まります。すでに第二次産業革命が起こっていて、みんな製品を売るところを求めている。ヨーロッパの東南にバルカン半島がある。そこはいろんな民族が雑多にいて、その隣にドイツ人もいるんです。
そのドイツ人の地域で一つのグループを作ろうというのがドイツです。これをパン・ゲルマン主義といいます。パン・ゲルマンというのは、ゲルマン人一色主義です。ゲルマン人中心にやって行こうということです。ゲルマン人というのはドイツ人のことです。
そしてドイツを起点に、世界の遠いところまでドイツの影響をおよぼして行こうという拠点づくりをします。Bのつく3つの拠点作りをドイツがします。
1つ目がドイツの首都ベルリンのB。
2つ目がビザンティウムという今のイスタンブール・・・・・・今のトルコの首都です・・・・・・そのビザンティウムのB。
3つ目がバグダード・・・・・・今のイラクにある・・・・・・そのバグダッドのB。
たまたま全部Bがつく。これを結ぼうとするから、これを3B政策といいます。この3B政策によってドイツは西アジア支配をめざします。
※ 1899年、ドイツはバグダード鉄道敷設権を獲得する。これが3B政策になる。 中東の豊かな石油を得るため。ペルシャ湾からインド洋に出る海上航路を切り開くため。ロシアもバクダード鉄道に反対。スエズ運河を開いたイギリスのインド航路支配と競合する。
これに対してロシアは民族でいうとスラブ人です。ロシアもパン・スラブ主義です。ドイツ人は民族でいうとゲルマン人、ロシアはスラブ人です。ドイツとロシアの対立が発生します。
同時にこの政策は、同じ東方地域を狙うイギリスを刺激します。
※ ロシアは、ドイツとオーストリアに激しい反感を抱き、フランスに接近、1891年、露仏同盟を結び、ドイツと敵対します。(世界一おもしろい世界史の授業 宇山卓栄 中経の文庫 P317)
【ドイツとイギリス】 では次にそのイギリスとドイツの対立です。イギリスは、どこに自分たちの製品を売ろうとしているか。
1つ目は、カイロのC。エジプトです。
2つ目は、ケープタウン・・・・・・アフリカの一番南の南アフリカにある・・・・・・そのケープタウンのCです。
3つ目は、メインはインドです。イギリス最大の植民地インドの中心カルカッタのCです。
たまたまぜんぶCです。これを3C政策という。語呂合わせみたいですけど、ちゃんとした歴史用語です。
この対立で、イギリスとドイツの仲が悪くなる。イギリスは中東地域からインド地方に進出していたからです。今でいうとアメリカと、それを追い上げる中国の対立のようなものです。もともと潜在的に仲が悪かったものがここで表面化します。ドイツは、イギリスとロシアが日露戦争で対立しているのを見て、イギリスがドイツに歩み寄るとみていましたが、そうはなりませんでした。というより、イギリスは世界でナンバーワンでなければならなかったのです。それを妨げるものは、どこであろうと潰していったのです。しかしそのためには新興のアメリカの力が必要でした。アメリカの出方はもっと後で言います。
※ イギリスが「光栄ある孤立」を捨て、最初に組んだ相手は日本でした。1902年、日英同盟が締結されます。イギリスは極東アジアに進出するロシアの動きを封じ込めるために、日本を支援しようとしました。ドイツのヴィルヘルム2世はこうしたイギリスの動きを歓迎しました。
ヴィルヘルム2世は、ドイツがロシアとの同盟を切れば、イギリスがドイツの味方になると期待していました。イギリスが日本と手を組むのはロシアを警戒してのことであり、イギリスは当初、東方問題などでロシアと激しく対立した経緯から、ドイツ支持に傾いていました。
しかしヴィルヘルム2世のこうした期待は裏切られます。いまやドイツの台頭が著しく、ロシアやフランスよりもドイツを脅威とする捉え方が、イギリス国内で大勢を占めていました。
また1905年、日露戦争でロシアが敗北すると、ロシアの脅威が薄れ、イギリスは明らかにドイツを敵対視するに至ります。(世界一おもしろい世界史の授業 宇山卓栄 中経の文庫 P318)
だからイギリスは日露戦争のあと、それまでの宿敵ロシアと手を組んだ。これが1907年の英露協商です。そのための日露戦争だったわけです。だから、これはあくまでもドイツを潰すための手段であって、ロシアを信用したわけではありません。イギリスは本当はロシアも潰したいのです。イギリスはロシアの味方のような顔をしながら、ドイツも潰したいし、さらにロシアも潰したい。実際、第一次大戦はその通りになっていくのですが、そのためにはもう一つアメリカの動きが必要です。このことは後で言います。
イギリスもドイツも強大な軍事力を持っている。小さなことから世界は一瞬で変わる。しかしこの時に第一次世界大戦が起こるなんて誰も予想していない。「こんな事はよくあることだ、小競り合いはよくある、どうにかなる」と楽観している。しかしとんでもないことになっていきます。
ドイツの仲間はオーストリアだけです。ここはドイツの仲間です。もう一つのイタリアは寝返るんです。信用ならない。結局ドイツは、イギリスとロシアとフランスに囲まれてしまう。これでは勝ち目ない。こういう対立です。
ただドイツについては、イギリス側が三国協商だったら、ドイツ側だってドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟を結んでいると言われます。
しかしこれは本当に成立していたか怪しいものです。イタリアはすぐに裏切ります。だから三国同盟は成立していなかったという話もあります。ただこの三国同盟が成立したことにした方が説明上も都合がよいから、教科書にもそう書いてある。
それに従えばこの時の世界状況は、ドイツの三国同盟とイギリスの三国協商の対立です。こういうふうに世界の列強グループが二手に別れたことになっています。
ちなみに日本はこの時イギリス側について日英同盟を結んでいます。まあ正直いって対等だといっているのは日本だけで、イギリスはそうは思っていません。今の日米同盟みたいなものです。こういう日本の状況は驚くほど100年前と変わりませんね。
これで終わります。ではまた。