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平城京遷都は743年の大仏造立の詔から始まった?

2024-05-12 08:19:18 | 旧日本史1 古代

平城京遷都は通説の710年ではなく、本当は聖武天皇による743年の大仏造立の詔から始まったのではないか。

聖武天皇は、この詔を743年に近江の紫香楽宮で発したことになっている。
実はその3年前、740年には藤原広嗣の乱が福岡県の大宰府で起こっている。
藤原広嗣はそれ以前に都から大宰府に左遷されたことになっていて、それを怨んで大宰府で乱を起こした。しかし、実はそうではなく、彼はもともと大宰府にいたのではないか。
藤原広嗣が左遷された理由は、聖武天皇の政権中枢にいた吉備真備を排除しようとして失敗したためだとされている。遣唐使として中国から帰った吉備真備は、強力に唐風化政策を推し進めた。それに反対したのが藤原広嗣である。

しかしその吉備真備もその後、筑紫国司(福岡県)や隣の肥前国司(佐賀県)を歴任している。吉備真備は都から九州に左遷されたというが、それにしては福岡県の糸島にある高祖(たかす)山に怡土(いと)城を築造するという大事業を任されている。どうも不自然である。
つまり吉備真備も、実はもともと大宰府にいたのではないか。
なぜなら、この時まで、大宰府が日本の都として機能していたのではないか、と思われるからである。

高校生でも教わることだが、奈良時代に農民(運脚)が奈良の都まで税を運ぶには、遠い地方は1か月以上かかるものだが、九州の北半分の地域ではたった5日で届いている。
それはなぜか。九州では税は大宰府に運べば良かったからだ。つまり大宰府は九州の税を独自に集めていた。奈良の都に送ることなしにである。それは大宰府が日本の都であったということだ。税を集める力を持つことは、大宰府が実質的な政治権力を持っていたということだ。

聖武天皇が743年に大仏造立の詔を発した近江の紫香楽宮は、そこに行宮(またはお寺)の石碑などはあるが、都というにはあまりにも山深いところである。
740年の藤原広嗣の乱が起こると、聖武天皇は都を恭仁京や紫香楽宮などに遷都して各地を転々としている。

740年に藤原広嗣の乱が起こると各地を逃げ惑っていた聖武天皇は、都を九州の大宰府から奈良の平城京に移す決断をしたのではないか。
その平城遷都の始まりが743年の大仏造立の詔だったのだ。その2年前の741年に恭仁京で出された国分寺建立の詔はその準備段階であった。

その平城遷都が、仏教の力によってこの国を立て直そうとする聖武天皇の本心であったのか、それとも藤原広嗣の乱に見られるような急激な唐風化政策への反発を乗り切るための、政治的な強硬措置であったのか、そのことは分からないが、いずれにしても、奈良時代に花開いた天平文化は中国文化の圧倒的な影響を受けた。

数ある天皇の中で、なぜ聖武天皇の遺品とされるものだけが東大寺(聖武天皇が作った大仏のあるお寺)の正倉院に残っているのか。
きっと九州から奈良への大がかりな引っ越しのために、宝物を保管する場所が新たに必要だったのだろう。そうでなければ、他の天皇の遺品の保管庫がこの後も次々と建てられ第二、第三の正倉院が造られるはずだが、そんなものはついぞ造られなかった。そういう意味で聖武天皇は特別なのだ。


九州北部の地名と、平城京周辺の地名が似通っていることはよく指摘されるが、
その類似は、この743年の大仏造立以降に人為的に作られたのではなかろうか。
712年の古事記、713年の風土記(これは作れという命令)、そして720年の日本書紀、これらはすでに聖武天皇の時代にはつくられているが、これらの記述に合わせるように(矛盾しないように)、後づけで奈良盆地の各地に似た名前が宛てられていったのではなかろうか。

それ以前、694年に持統天皇が遷都したという藤原京(奈良盆地南部)も、日本書紀にはっきりした場所は示されていない。現地を訪ねても、現代になってあとから整備された広場はあるが、これといった目立つ遺構はない。
藤原京は不思議な都である。藤原京には都の外側を取り巻く広域の城である羅城がない。平城京にも羅城はない。平城京にも平安京にもその入り口に羅城門はあるが、もともとの羅城がないのだから、それは本当の羅城の門ではない。
その羅城を持っていたのは大宰府だけである。