TBSの『天皇の料理番』は良作で、毎回楽しみに観ているのですが、10回目から登場した、篤蔵の子供たちの、親に対する言葉づかい、態度共に違和感がありました。
戦前は「地震、雷、火事、親父」と言って、家長は恐れられた存在であるのが一般的でしたが、ドラマの篤蔵夫婦の子供の上二人は父親と母親に友達言葉を使い、態度も生意気(11回目の娘は最悪)で、逆に両親の方が、子供に対し丁寧。
この子供たちは、両親のみならず、父親の元上司の宇佐美や元同僚新太郎にも、「おじさん」と慣れ慣れしい。
昨年3月までのNHKの朝ドラ『花子とアン』の時も、花子が受け持った(豊かでない家の子が多い=学校に来たくても来れない子もいる)小学校低学年の生徒たちが授業中騒いだり、授業をさぼりたがったりしたのを見て、時代考証がいい加減と鼻白んだものでしたが、『天皇の料理番』の場合、優れている番組だけに大変残念に思いました。
以前、日本語を学んでいる海外の友人達に、「50,60年代以前の映画のなかの、家族間、親しい友人同士の会話は、今の私たちがするものととても違う」と話したことがありましたが、それでも、「日本人なら、本、ドラマ、映画で、戦前の言葉遣い(そして目上や親に対する態度)が現代と違うと言うのは、子供じゃない限り、常識としてわかっているだろう」と思っていました。
『天皇の料理番』、脚本家が、「大正時代生まれの子供の親に対する話し方」を知らなかったのならば、なぜ、プロデューサー、監督、演出、時代考証の人達はもちろん、ベテラン俳優のいずれかが、「そんな言葉づかいや態度を子供に取らせるのは、当時としては不自然」と言わなかったんだろう?と訝ってしまいます。
『天皇の料理番』の主人公秋山篤蔵のモデルとなった秋山徳蔵氏は、ドイツとフランスに住んでいたので、当時の日本より民主的だったのかもしれません。
しかし、親に生意気な口をきいたり、親よりぞんざいな挨拶(たとえば、新年の挨拶も、両親と長男が「あけましておめでとうございます」と言っているのに、長女は「あけましておめでとう」というといった、ちょっとしたことも。)をするような家庭は、欧米でさえ、当時は在りえなかったのではないでしょうか。
(イタリア人のクラウディアさん(アラフィフ)によると、彼女の両親が子供のころは、親に丁寧な言葉を使ってしゃべるのが一般的だったそうです。クラウディアさんが子供のころはそこまで丁寧ではないけど、友達同士のようには親と会話せず、ある程度の節度があったそう。今は、友人同士のように話す親子が増えたそうです。日本と同じですね。)
最近、アメリカ人のティムさんが、水村美苗氏の『日本語が滅びるとき』に対する村上春樹の翻訳者であるJay Rubin氏のレビュー
The Times Literary Supplement
How to translate Japanese
http://www.the-tls.co.uk/tls/public/article1569460.ece
をクラウディアさんと私に送ってきてくれて、彼女のこと、外国人が他国の文学を翻訳する限界について話したりしていました。
この時は、外国人による外国の文学を母国語へ翻訳する話でしたが、ひょっとしたら今後、自国の文学や時代物をドラマ化、映画化するときに、現代的な会話を突然入れてしまってもおかしいと思わない外国人でない当事国の作り手、観客が増えてくるのではないか、とふと思ってしまいました。
他の役者が名演技だっただけに、あの長女役に腹立たしささえおぼえました。
(最終話には、長女だけは影も形もでてきませんでしたが・・・「長女は大正生まれとは思えない怠け者の親不孝娘だったので、のちに勘当された」という設定だったと思いましょう。)
しかし、こうした気になる点があったとしても、このドラマはすばらしい。
キャスト・スタッフに「ありがとう」を送りたいです。