Various Topics 2

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ドーデ『最後の授業』の実態、これを教材に選んだ時代

2012年09月05日 | 社会(歴史・都市計画含む)

アルザス・ロレーヌ地方は今まで行ったなかで一番好きな土地ですが、ここで思い出すのは、昔国語の教科書にも載っていた、ドーデの『最後の授業』です。

これが80年代半ばに教科書から消えたのは私も知っていましたが、それでも「もともとアルザス人はドイツ語(およびアルザス語)を使っていたのに、この話は脚色もよいところ」程度にしか考えていませんでした。しかし、実際は-

JBpress (201294)

争奪の地、アルザス・ロレーヌ地方の今

国境と国益(第13回)

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/36022

(前略)

独仏国境の東寄りに沿って位置するアルザス・ロレーヌ地方は、ドイツ側にはモゼル、フランス側の西隣にはシャンパーニュ地方とワインの名産地を控え、鉄鉱石や石炭の産地として古くから知られる場所である。

 古代から近世にかけてケルト人が住んでいたが、一時ローマ帝国の版図に入って以降は、周辺民族が幾度となく争奪を繰り広げ、ゲルマン系アルマン人とフランク人が入りこんだ。17世紀以前には、この2つのゲルマン系民族が定着し、言語的にはドイツ語系が話されてきた。

 そして18世紀以降はドイツ民族が分立国家を形成している状況の中、統一国家として大きな力をつけたフランスが何度も併呑を試みて侵入し、1736年からはフランス領に組み込まれた。公用語がフランス語となったため、この地方ではそれまで使われていたドイツ語系言語にフランス語が混合したアルザス語が形成されていった。

 しかし、周辺住民が自由で自然な交流と結合により統合されていったのではなく、外からの国家権力(軍事力)による併呑で特定地域が特定国の領域に組み込まれることは、郷土的・民族的感情に基づく一体感を作り出すことが難しい。また、併呑された土地が豊かであれば、かかる形での特定国領土編入は周辺国との間に反発を呼び、しこりを残すことになる。

 結局、19世紀半ばから勃興したプロイセン王国が全ドイツ統一の中軸となる中、それに介入しようとしたフランスとの間で「普仏戦争」(1871年)が起き、現代的で優れた兵器体系と編成に進んだプロイセン軍にフランス軍が敗れると、賠償の一環としてアルザス地方全部とロレーヌ地方の東半分がプロイセン領に割譲された。

日本の教科書から消えた「最後の授業」

普仏戦争後の苦境と領土割譲によるプライド喪失は、フランス国民の胸中に深い傷を残した。

 それを表す文芸作品が日本でもよく知られている。一時期、我が国の小学校教科書にも掲載され、児童・生徒劇としてコンクール等でも上演されたドーデー作「最後の授業」である。

「最後の授業」は、1873年頃にフランスで広がった反ドイツ感情を背景に新聞連載された一連の短編小説集の一遍で、プロイセンに併呑される際のアルザス地方を舞台にしたものだ。

 ストーリーは、アルザス地方の村にある小学校でプロイセン軍の占領を控える中、フランス語による最後の授業が行われるというもの。村長をはじめ村人も参観する中、教師は「ある民族が奴隷となっても、その母語を保っている限りは牢獄の鍵を握っているのと同じである」と述べ、フランス語の優秀さを説き、進駐するプロイセン軍の軍靴の音が迫る中、黒板に「フランス万歳!」と書き、授業を終えるという「愛国」的内容である。

 しかし、前述したことから、この内容はいささか歴史的経過も実態も無視したものと言える。アルザス・ロレーヌの原住民は、ドイツ語系のアルザス語を使用していたのであるから、「フランス語の優秀さ」なんて話は外からの押し付けがましいものとならざるを得ない。

 物語が同地方の「言語多様性」を否定した内容で、歴史的事実と異なっており、文学作品ならばとにかく学校教材にはそぐわないのではないかとの声が我が国の言語学や民族研究専門家から上がり、現在「最後の授業」は学校教科書には掲載されていない。

 いずれにしろ、軍事力を背景に「戦時賠償」のような形で力押しで領土編入が行われると、当該地域を越えて国民間に恨みや悪感情を残し、それと結びついた形で一種の「愛国心」を煽ることを示す好例とは言えよう。

(中略)

アルザス・ロレーヌ地方でも1919年、ドイツに革命騒ぎが起きたタイミングでアルザス=ロレーヌ共和国の独立が宣言された。しかし、結局戦勝国フランスが領有権主張をして連合諸国に認められ、ドイツ領ルール地方がドイツから切り離されると同時に再び併呑された。

 ところがそれから20年ほどの1940年、第2次世界大戦下でドイツはフランス侵攻作戦を成功裏に進めて降伏に追い込み、再びアルザス・ロレーヌ地方をドイツ領に編入。

 次は、わずか4年後の1944年中に大陸部ヨーロッパへ連合軍が自由フランス軍と共に反攻作戦を展開し、アルザス・ロレーヌ地方を自由フランス軍が奪還。以後、戦後から今日まで一貫してフランスの領域とされている。

 しかしながら、同地方の住民はその後もフランス国民として平坦な道のりを歩んだわけではなかった。それまでの歴史を踏まえて、今度はアルザス・ロレーヌ地方への強固な支配を確立しようとしたフランス政府は、強硬なフランス化政策を推し進めたのだ。公用語にフランス語を用いることの他、学校教育の場から徹底してアルザス語を排除したり、地名表示もそれにならったりといったことが行政措置的に展開された。

 強権的な「フランス同化政策」は、アルザス・ロレーヌ地方の住民間に反発を呼び、独立運動が起きテロの形での抵抗運動まで発生させてしまった。

 アルザス・ロレーヌ地方からの「郷土文化、言語と民族的な独自性を尊重せよ」との声は、フランス国内の民主的改革を求める運動と結びつき、政府も強引な「同化政策」を見直さざるを得ない状況になった。

 また、第2次世界大戦の悲惨な被害は、周辺国からの介入という、歴史的な領土紛争の要因を作り出す解決への衝動を完全に鎮めるに至り、同時に平和的な経済的発展と繁栄、領土・国境問題の永続的解決を目指す欧州共同体の強化の方向が模索された。

 こうした状況の中、1997年に成立した社会党、共産党等の連立によるジョスパン政権が、移民を含むフランス国内居住の諸民族の権利尊重と拡大を軸とした改革を打ち出し、文化、教育政策面でもそれを具体化した。アルザス・ロレーヌ地方に対しては国語としてのフランス語教育の強制をやめ、ドイツ語やアルザス語の教育と使用を認める方向が採用されたのである。

 結果として、アルザス・ロレーヌ地方はフランス語、ドイツ語、アルザス語が自由に使われる「マルチリンガル土壌」が形成され、民族的和解の方向が進められるところとなった。ここに至るまでの「和解」を目指した動きに他のヨーロッパ諸国も同調し、統合の中心地にアルザス・ロレーヌ地方がクローズアップされていったのだ。

 欧州共同体(EC)時代に欧州議会が同地方の中心都市ストラスブールに置かれるなど、独仏にとっては、かつて辺境として争奪に遭った地が統合の象徴的地域となったのだ。

 以上の経過を含め、ヨーロッパ諸国の近代史における国境、領土問題からはその失敗と成功から学び取るべきことは多い。

(後略)

それにしてもドーデがこのような短編を書いた動機・背景もですが、何故日本がこのようなものを教育現場に持ち込んだのかも知りたいです。

後者に関しては、田中克彦氏が著書『ことばと国家』(岩波書店)になかでこう述べられているようです。一つの意見として貼り付けます。

奇妙なことは、「最後の授業」は、まさに日本のアジア侵略のさなかに、「国語愛」の昂揚のための恰好の教材として用いられたということだ。その国語愛の宣揚者たちは、たとえば朝鮮人の「国語愛」には思いもよらなかったのである。しかしこの奇妙さは、言語的背景であるアルザスに朝鮮を、フランスに日本を入れかえれば、一挙に消え去るのである。日本のアメル先生にとって、朝鮮人は皇民であったのだから。このように考えをすすめていくと、「最後の授業」の母国語愛がどのような性質のものであるかがありありと姿をあらわしてくるであろう。

背景をよく考えてみると、「最後の授業」は、言語的支配の独善をさらけ出した、文学などとは関係のない、植民者の政治的煽情の一篇でしかない。

(『帰国生からみた「最後の授業」と歴史教育 by 武井弘一氏』

http://diep.u-gakugei.ac.jp/output/001010013/main.htm

より引用させてもらいました。このリンクも是非どうぞ。)

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