アフガン・イラク・北朝鮮と日本

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平和は人権と切り離しては語れない

2009年08月17日 05時53分07秒 | 戦争・改憲よりも平和・人権
  

 前号エントリーでも約束した通り、この間見たNHKの平和関連番組から幾つか選んで、感想などを少し書いていく事にします。今回は、一昨日放送された「日本の、これから “核の時代”とどう向き合うか?」について、早速取り上げてみようと思います。
 既に何度か放送されたNHK番組の「日本の、これから」シリーズですが、以前と同様に今回も、出来るだけ多くの意見を取り上げようとする余り、時間的な制約も手伝って、どうしても総花的というか、互いに議論がかみ合わないまま言いっ放しで終わってしまう、そんな消化不良の形で終わってしまったなというのが、正直な感想です。そして、それは、この番組を見る前から充分予想できた事でもありました。
 しかし、それでも見るだけの価値はありました。それは「平和は人権と切り離しては語れない」という事が、より一層はっきりしたからです。

 番組全体の流れは、片方に北朝鮮の核開発、もう片方には米国大統領として初めて核廃絶追求を宣言したオバマ大統領のプラハ演説を対置して、日本の核武装や非核三原則の是非を、ゲストや視聴者に問うというものでした。そして、途中にニュースを挟んでの二部構成で、午後11時近くまでの長丁場に渡り、北朝鮮脅威論やミサイル防衛構想、米国の「核の傘」、NPT条約の有効性などについて論じた後で、最後に日本の核・安保政策として、(1)唯一の被爆国として非核三原則を堅持し核廃絶を目指す、(2)米国の「核の傘」に入る事で、無防備と核武装の両方のリスクを回避する、(3)北朝鮮に対抗して日本も核武装する事で、核抑止力も積極的にカードとして使いこなす立場に立つ、の三択を選ばせるものでした。
 そこで、(2)の核抑止論や(3)の核武装の立場に立つ論者は、「若し、第二次大戦中に日本が原爆開発に成功していたら、米国は広島・長崎への原爆投下を思いとどまったのではないか?」とか、或いは「若し、イラクのフセイン政権が核開発に成功していたら、米国のイラク侵攻は無かったのではないか?」という言い分で、(1)の核廃絶論に対抗していました。当時のマンハッタン計画(原爆製造計画)の立案者や、新興核保有国インド・パキスタンからのゲストの発言も引きながら。

 しかし、この一見尤もらしい言い分ですが、成る程、確かにそういう事もあるでしょう。それで「核の均衡」が保たれて、「一定期間」平和が続くかも知れません。実際、それで米ソの冷戦が熱戦(第三次世界大戦)に発展しなかったのは事実ですから。
 これが所謂「核抑止論」ですが(核武装論も基本的立場は同じ、それを米国任せにするか日本が担うかの違いだけで)、しかし、そんな平和は、所詮は危うい均衡の上に立ったマヤカシの平和でしかありません。実際には朝鮮戦争やベトナム戦争で核兵器の使用が取り沙汰されましたし、台湾海峡危機やキューバ危機では一発触発間際まで行きましたから。それを食い止めたのが、50年代のストックホルム・アピールや日本の原水禁運動、80年代西欧における反核運動の広がりでした。
 そして、そんな偶然に左右された「核の均衡」の下では、持っていても使えない核兵器を、実際にも使えるものに変えるべく、核の小型化・軽量化や、それを補強する劣化ウラン弾やバンカーバスターなどの開発が推し進められました。
 また、核拡散防止に拘泥するだけで核廃絶には一向に踏み出さない、米・ソ(ロ)・英・仏・中5大核保有国の姿勢を尻目に、その核独占維持というダブル・スタンダードの打破を掲げて、イスラエル・インド・パキスタン・北朝鮮・イランなどが、新たな核保有国として台頭してきました。
 斯様に、核抑止論による「核の均衡」下の平和こそが、一時の儚い「平和」にしか過ぎないのです。またそれは、「米ソ(ロ)が持っているものを自分たちも持って何が悪い」という北朝鮮の言い分に、逆にお墨付きを与える事にしかならないのです。

 そして、この様な「儚い平和」こそが、核抑止論者や核武装論者が核廃絶の立場を攻撃する際に用いる、「奴隷の平和、一国平和主義」そのものであるという事でもあります。
 核廃絶というのは、何も核兵器の廃絶「だけ」を目指しているのではありません。戦争も抑圧も差別もない公正な社会・世界を目指す中で、その動きと連動して、その一環として核廃絶を目指しているのです。
 20世紀を経て今日に至るまでの間に、アジア・アフリカの大半の国は既に独立を達成し、地球上からは植民地は殆ど姿を消してしまいました。しかし、これら第三世界の国々が勝ち取ったのは政治的独立のみで、経済的には依然として先進国や多国籍資本によって支配されています。地球上から帝国主義が完全に消滅してしまった訳ではありません。
 そして、それぞれの国の内部でも、植民地時代から引き継がれた民族・部族・宗教対立や、新興財閥とその他の大多数の貧困層との間の経済格差が拡大しています。
 また、片や先進国内部においても、「民主的」外見の陰で、実際に国を支配しているのは一握りの軍需産業や多国籍資本にしか過ぎません。そして、見かけ倒しの「経済大国」の裏側では、映画「SiCKO」でも顕になった無保険の貧困層や、セーフティネットから弾き出された移民・国内少数民族が、吹き溜まりの如く滞留していたりする訳でしょう。
 それらが全て戦争やテロの温床となり、引いては核拡散や核武装の引き金となって、既存の核保有国やイラン・北朝鮮の軍拡をも推し進めているのでしょう。

 つまり、「核の均衡」そのものが、現実の戦争・人権抑圧・差別・搾取体制を維持するものでしかない、その抑圧体制をオブラートで包んだものでしかない、という事です。
 例えば、「ソマリアの海賊」と言われるものも、その実態は、米ソがそれまで散々支援してきた、エチオピアやソマリアの軍事政権(政権崩壊後は地方軍閥)下での「死の商人」の暗躍や、無政府状態を良い事に散々、産業・核廃棄物の不法投棄を見逃してきた事で、正業で食えなくなった彼の地の農牧漁民が、夜盗化して海賊になったものでしょう。その後始末に責任を負うべく先進国が、自分たちの責任を棚に上げて、幾ら海賊退治に乗り出しても、上手くいく筈がある訳ありません。
 アルカイダやタリバン、ハマス、イラクの旧フセイン政権にしても、元はと言えば、米ソやイスラエルなどの大国が、自分たちの敵に対抗させる為に、陰に日向に育成してきたものではないですか。北朝鮮も同じです。

 しかし、核武装論者は、その現状を打開する処方箋も意志も、一切持ち合わせていません。それ以前に、それが問題だと言う認識すら、彼の人たちには在りません。在るのは、「大国が小国を搾取して何が悪い、自分の国さえ良ければそれで好し」という、鼻持ちならない大国エゴだけです。征韓論や大東亜共栄圏の時代から全然進歩していない。それを、自分たちの散々してきた事、自ら撒いた種を棚に上げて、何を今になって正義者づら・被害者づらして、核抑止や核武装を説いているのかと思いますね。
 携帯電話やパソコンの原料となる希少金属を手に入れる為に、アフリカなどの部族紛争を散々煽ってきておきながら、今になって核拡散だの「テロとの戦い」だのと言われても、誰が聞く耳を持ちますか。軍需産業の利益や大国の勢力圏を維持する為に、北朝鮮の独裁政権を「生かさず殺さず」適度に利用してきておいて、そうやって、パキスタンの核技術が北朝鮮に流用されたのも見てみぬ振りしておいて、何を今頃になって「北の脅威」を煽っているのでしょうか。

 そんな戦争や抑圧の火種を無くす事と同時並行で、その文脈の中で初めて核廃絶が進められてこそ、それが初めて大きな力を発揮するのです。しかしながら核抑止論者や、とりわけ核武装論者においては、そういう面は一切見ずに、バカの一つ覚えみたいに「米国・インドは民主国家であって、中国・北朝鮮などの独裁国家とは違う」と繰り返し、そこで思考停止しまっているだけです。その「民主国家」が、裏でアルカイダ・ハマスやカンボジアの旧ポルポト政権を育成し、中国と利権を山分けし、国内の貧困層を切り捨ててきた事には、一切頬かむりして。
 核廃絶論者も、核抑止論や核武装論のこの様な欺瞞こそ、真っ先に見破るべきなのです。その為には、原水禁国民会議みたいに、核廃絶を単に「平和」や「戦争防止」の課題として捉えているだけでは不十分です。それを「人権」、すなわち、国内外の貧困層・少数派・社会的弱者の生存権や、小国の民族自決権を守り発展させ、南北対立や累積債務問題の解消を図り、差別・抑圧を無くす立場(国際関係における民主化推進の立場)と結び付けてこそ、初めてその力を本当に発揮するのです。
 何故、旧ソ連があっけなく崩壊し、米国経済がここまでガタガタになったのか。それこそが、核抑止や「核の均衡」の「成れの果て」「行き着く先」ではなかったのか。それを、今こそみんなもっと真剣に考えるべきなのです。それは、この21世にもなって、未だに幕末・明治維新当時の尊皇攘夷や征韓論さながらに、「コミンテルンへの敵討ち」や「日帝復活」を夢想する復古反動・アナクロ・キチガイ田母神一派には、どう逆立ちしても出来ない相談です。

 最後に、番組に対し、少し苦言を呈してみたいと思います。実際、この田母神一派に限らず、今回のNHK番組ゲストの核武装論者にも言える事ですが、「彼の人たちとは幾ら議論しても議論に成らない」というのが、今回の番組を見た私の正直な感想です。
 少なくとも私の見る限り、核廃絶論者の中に「日本滅亡」を望むような輩はいませんでした。方法論こそ違えども、彼・彼女らもこの日本を愛しているのは間違いありません。「国を愛するが故に、国の進路を危めてはいけない」と考えているのが、番組視聴者の私にも充分伝わって来ていましたから。
 しかし、前述の核武装論者の中には、どうみても議論の前提条件が存在しないとしか思えない人が、少なくありませんでした。それが証拠に、核廃絶論者が幾ら核抑止論の危うさやイラク戦争の不当性を訴えても、彼の人たちはまるで聞く耳を持たず、「米国は民主国家で北朝鮮とは違う」と鸚鵡返しに繰り返すのみで、全然その内実を問おうとはしませんでした。その挙句に、被爆者を「コミンテルンの手先」呼ばわりしたり、最後の一言メッセージを書く場面でも、平気で「めざせ核武装!!」なぞと書いて、被爆者の神経を逆撫でする様な挙に出れるのは、議論の前提となる他者への共感能力を決定的に欠いているからだと、言わざるを得ません。

 私は、少なくともこの種の視聴者参加番組においては、核武装論も含めて自由に議論すべきであって、徒に議論にタブーを設けるべきではないと考えます。しかし、その為には、少なくとも「戦争・差別・抑圧には反対する」という「共通の土俵」が最低限必要です。しかし、核武装論者の中には、明らかにそれが欠けた人たちが散見されました。彼の人たちも、「その土俵は尊重する」と口先だけは言うものの、実際の議論においては、そんな姿勢は微塵も見られませんでした。その様子に対しては、お仲間である筈の「米国の核の傘」論者の中からも、「核武装論者の中には、核戦争阻止の純粋な動機とは別の、日本人としての誇りを取り戻したいなどの、異種の要求が渦巻いている」という声が上っていた程です。
 この種の視聴者参加番組が、得てして「言いっ放し」や「言ったモン勝ち」だけで終わってしまいがちなのも、この種の「ネット掲示板荒らし」まがいの輩がいるからではないでしょうか。少なくとも、そんな「ネトウヨ・勝共連合・在特会」まがいの輩は、この種の番組に参加する資格はないと考えます。そんな輩は、他の参加者・視聴者の迷惑にしかなりません。この種の番組については、そういう事も含め、議論の在り方を見直す時期に来ているのではないかと思う次第です。
コメント (3)
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