この法律は貧困にあえぐ「北海道旧土人」(アイヌ)に対する保護を名目として作られたもので、土地[1]、医薬品[2]、埋葬料[3]、授業料の供与[4]、供与に要する費用にはアイヌの共有財産からの収益を用いること[5]、アイヌの共有財産は北海道庁長官が管理すること[6]、自由な土地売買や永小作権設定の禁止[7]などが定められていた。この法律は、「貧困にあえぐアイヌの保護」が目的であるが、悪用される例もあった。また、北海道アイヌは基本的に狩猟生活であり、土地を与えられても耕作に不慣れであったため、農業経営に失敗する例もあった。高野斗志美はこれを「アイヌの財産を収奪[8]し、文化帝国主義的同化政策を推進するための法的根拠として活用された」と主張した。具体的には、
1.アイヌの土地の没収
2.収入源である漁業・狩猟の禁止
3.アイヌ固有の習慣風習の禁止
4.日本語使用の義務
5.日本風氏名への改名による戸籍への編入
等々が実行に移された[9]。
以上は、ウイキペディアからのコピーとなっている。その他色々な立場からの見解については、webを参照されたい。
前回のブログで略奪うんぬんと書いたことについての、一方的な独断的な解釈。
明治の新政府は、廃藩置県を行ったが公家独自の領土が増えた訳では無い。下手に県(旧藩)を触ることは、政権の安定にとって好ましくない。突き詰めれば、300年余それなりに安定していた徳川政権を、テロで転覆させて成立した国家でもあったから、、、
北海道は、直轄であったり、松前藩であったりしたが、租税の基本であった”米”本位の統治は為されていない。すなわち、土地についても統治下にあるような無いような代物であったとも言えよう。
そこで、公家政府はこれ幸いと払い下げ名目で開拓や開発行為を行った(行わせた)。「はい、そこは、石炭の鉱脈があるから〇百円、あそこは、良い樹林があるから、□百円、、、などと」、何分、先住していたアイヌ民族は、国家や土地の私有と言った概念に乏しい狩猟民族であったから、当初は抵抗も多くは無かったかも知れない、、、
しかし、和人による私有や開発が身近に迫って来ると、当然アイヌの人たちの生活に影響して来るのは必然となる。ある朝目覚めたら、突然一方的に、「私有地であるから立ち入り禁止、そして出て行け、、、」となるのだから、騒動が起きることも想像に難くない、、、
ここで、前に掲げた5項目を読めば一目瞭然であろう。土地を没収したのだから、アイヌの人たちの主張を拒絶できる。一方的な無理筋の話ではあるが、漁業や狩猟を禁止してあるのだから、従来からの入り会い的な主張も拒絶出来る。例えば、「狩猟禁止なのになぜ入って来た、、、」等々、、、
アイヌの人たちの固有の習慣や風習をも禁じたのだから、祭祀のためとして集まることも禁じられたことになる。 (あれっ、今で言えば共謀罪の適用対象か?)文化を否定し抹消することは、民族の抹消でもある。
加えて、前出のアンダーライン部読めば分かる様に、アイヌの就業制限した上で、アイヌへの供与の費用は、アイヌの共有財産の収益から行うとするのであるから、”北海道旧土人保護法”は同化政策云々では無く、アイヌを滅ぼすための施策と言っても過言ではあるまい。
その一方で、日清戦争の後の明治28年4月の下関条約で日本が統治することになった台湾には、日本の国家予算のかなりな金額(20%程度と記憶しているが、原典が見当たらないので、かなりとした。)が投入された。他方で、明治32年3月にスタートした北海道旧土人保護法は、どうだろうか、、、前出の通りであり、その扱いに彼我の差がある。
歴史的な学問の世界でも、明治中期の”東京人類学会雑誌”(多分の当時の権威筋)には、酷い偏見と別紙の論文が堂々と載せられている、、、曰く、「アイヌは不潔だからコレラに罹る」、曰く「、、、彼らの文化は、津軽海峡を渡る船を作る能力などは持ち合わせていない」等々、、、こんなのも、思い出した、、、コロポックルの伝説について、「、、、アイヌは、事をオーバーに言う習性を有している。第一、蕗の高さはせいぜい4~50センチであるからして、蕗の葉の下に隠れているなどはあり得ない話なのだ、、」
本州の秋田蕗だって背丈は高いし、北海道の足寄地方には螺湾蕗と称する2mを超える高さの蕗が自生している、、、最近では栽培もしている、、、
松浦武四郎さんの紀行文にも載っているのだが、、、読んではいないのであろうな、、、多分、、、それに東大出身でもないし、、、
このように、政治以外の背景をみても、”北海道旧土人保護法”は、アイヌの蔑視から始まって、公家政府の略奪を正当化するために制定した法律にも見えて来てしまう、、、だからと言って、四代前に遡って珠洲や大津に帰れと言われても困るが、、、
墓参りをした来たと、妹から電話があった。
そこでふと頭にを過ぎったのは、遺骨の研究者(と、称する人)が墓参りに出けたところ、誰かが墓暴きをしていたとする。そして、その輩が「、、、研究の為ですから、、、」と、宣った時、果たしてニコニコしながら「、、、宜しくお願いします」とでも、言うのだろうかと、、、
話柄が逸れた。墓参りに続いての話は、お天気のことだった。何せ、今朝の室温は26℃だったが、先ほどは23℃にまで低下していた。そして続くのは、兄妹での決まり切った問答「、、、もう若くないから、お互いに健康に気を付けよう」と、、、やれやれ、、、
1.アイヌの土地の没収
2.収入源である漁業・狩猟の禁止
3.アイヌ固有の習慣風習の禁止
4.日本語使用の義務
5.日本風氏名への改名による戸籍への編入
等々が実行に移された[9]。
以上は、ウイキペディアからのコピーとなっている。その他色々な立場からの見解については、webを参照されたい。
前回のブログで略奪うんぬんと書いたことについての、一方的な独断的な解釈。
明治の新政府は、廃藩置県を行ったが公家独自の領土が増えた訳では無い。下手に県(旧藩)を触ることは、政権の安定にとって好ましくない。突き詰めれば、300年余それなりに安定していた徳川政権を、テロで転覆させて成立した国家でもあったから、、、
北海道は、直轄であったり、松前藩であったりしたが、租税の基本であった”米”本位の統治は為されていない。すなわち、土地についても統治下にあるような無いような代物であったとも言えよう。
そこで、公家政府はこれ幸いと払い下げ名目で開拓や開発行為を行った(行わせた)。「はい、そこは、石炭の鉱脈があるから〇百円、あそこは、良い樹林があるから、□百円、、、などと」、何分、先住していたアイヌ民族は、国家や土地の私有と言った概念に乏しい狩猟民族であったから、当初は抵抗も多くは無かったかも知れない、、、
しかし、和人による私有や開発が身近に迫って来ると、当然アイヌの人たちの生活に影響して来るのは必然となる。ある朝目覚めたら、突然一方的に、「私有地であるから立ち入り禁止、そして出て行け、、、」となるのだから、騒動が起きることも想像に難くない、、、
ここで、前に掲げた5項目を読めば一目瞭然であろう。土地を没収したのだから、アイヌの人たちの主張を拒絶できる。一方的な無理筋の話ではあるが、漁業や狩猟を禁止してあるのだから、従来からの入り会い的な主張も拒絶出来る。例えば、「狩猟禁止なのになぜ入って来た、、、」等々、、、
アイヌの人たちの固有の習慣や風習をも禁じたのだから、祭祀のためとして集まることも禁じられたことになる。 (あれっ、今で言えば共謀罪の適用対象か?)文化を否定し抹消することは、民族の抹消でもある。
加えて、前出のアンダーライン部読めば分かる様に、アイヌの就業制限した上で、アイヌへの供与の費用は、アイヌの共有財産の収益から行うとするのであるから、”北海道旧土人保護法”は同化政策云々では無く、アイヌを滅ぼすための施策と言っても過言ではあるまい。
その一方で、日清戦争の後の明治28年4月の下関条約で日本が統治することになった台湾には、日本の国家予算のかなりな金額(20%程度と記憶しているが、原典が見当たらないので、かなりとした。)が投入された。他方で、明治32年3月にスタートした北海道旧土人保護法は、どうだろうか、、、前出の通りであり、その扱いに彼我の差がある。
歴史的な学問の世界でも、明治中期の”東京人類学会雑誌”(多分の当時の権威筋)には、酷い偏見と別紙の論文が堂々と載せられている、、、曰く、「アイヌは不潔だからコレラに罹る」、曰く「、、、彼らの文化は、津軽海峡を渡る船を作る能力などは持ち合わせていない」等々、、、こんなのも、思い出した、、、コロポックルの伝説について、「、、、アイヌは、事をオーバーに言う習性を有している。第一、蕗の高さはせいぜい4~50センチであるからして、蕗の葉の下に隠れているなどはあり得ない話なのだ、、」
本州の秋田蕗だって背丈は高いし、北海道の足寄地方には螺湾蕗と称する2mを超える高さの蕗が自生している、、、最近では栽培もしている、、、
松浦武四郎さんの紀行文にも載っているのだが、、、読んではいないのであろうな、、、多分、、、それに東大出身でもないし、、、
このように、政治以外の背景をみても、”北海道旧土人保護法”は、アイヌの蔑視から始まって、公家政府の略奪を正当化するために制定した法律にも見えて来てしまう、、、だからと言って、四代前に遡って珠洲や大津に帰れと言われても困るが、、、
墓参りをした来たと、妹から電話があった。
そこでふと頭にを過ぎったのは、遺骨の研究者(と、称する人)が墓参りに出けたところ、誰かが墓暴きをしていたとする。そして、その輩が「、、、研究の為ですから、、、」と、宣った時、果たしてニコニコしながら「、、、宜しくお願いします」とでも、言うのだろうかと、、、
話柄が逸れた。墓参りに続いての話は、お天気のことだった。何せ、今朝の室温は26℃だったが、先ほどは23℃にまで低下していた。そして続くのは、兄妹での決まり切った問答「、、、もう若くないから、お互いに健康に気を付けよう」と、、、やれやれ、、、