Death & Live

いわゆる日記とは違うようで。死に様や心の疲労について、つれづれなるままに書き綴るだけ。

佐世保小6事件に想う...

2006-01-26 22:12:21 | 凸凹な人々へ ∋zooquie

もうおととしになる。

04年6月1日、佐世保で小学六年生の少女が同級生の少女を刺し殺した事件。

あの事件の "最終審判" の記事を読み返していて思い出したことをいくつか。

自分があの女児の "人格特性" について書かれた記事を読んで、友人に 「自分のことを言われているかのように、多くのことが自分に当てはまったんだ」 と言った。 するとその友人は 「みんなすぐそういう事を言うんだよな。自分にも同じ性質があるとか犯人と自分は似てるだとか...。誰だって当てはまるんだよ」 とまるで冷めたことを言った。 それは "誰でも犯罪に走る可能性がある" という意味ではなく、"そうやってすぐに自分に置き換えて分かったような口を利く奴" を嘲笑していたのだ。

そうなんだろうか?

"分かったような口を利く奴" は確かにいるし、ムカつく場合もある。普段たいしてニュースなんて気にもしないヤツが、殺人に至るほどの感情の起伏を体感したことがあるとも思えない。 しかし、ホントにみんながみんな "自分にも当てはまる" と思っているのだろうか? もし多くの人がそう思っていると仮定して、"自分に置き換える" ことは良くないことだろうか?
自分に置き換えることによって、その感情をあやふやながら理解する。 あやふやながらも、そういったことを脳の片隅にでも記憶させておくことによって、もし、自分が感情的に危険な状態が近づいたとき、"あっ、これは危険な徴候だ" と自分で気付くことができるのではないだろうか。 何かを "しでかして" しまう前に一瞬躊躇することができるのではないだろうか。
自分じゃなくてもいい。 人がその状態に近づいていることに気が付くことができれば、言葉をかけることもできるかもしれない。 当人に心の余裕があれば、相談にのることだってできるかもしれない。
これって "人の痛みを感じようとする" ことと同じくらい大切な事じゃないだろうか。

ちなみに、女児の最終審判の中で自分にもあてはまるなぁと思う点は以下の通り。
その辺のヘタな占いより、よっぽど私の性格を的確に表していると思うのだが。

 自分の中にあるあいまいなものを分析し統合して言語化するという一連の作業が苦手。
 幼少期より泣くことが少なく、甘えることもなく、一人でおもちゃで遊んだり、テレビを見たりして過ごすことが多いなど、自発的な欲求の表現に乏しく、対人行動は受動的。
 自分の欲求や感情を受けとめてくれる他者がいるという基本的な安心感が希薄で、他者に対する愛着を形成し難かった。
 情緒的な分化が進んでおらず、怒りを認知しても、感情認知自体の未熟や社会的スキルの低さのために適切に処理できず、怒りを抑圧・回避する対処行動を持ち得なかった。また、空想に逃避する傾向がある。
 このような女児の不器用さは周囲に気づかれておらず、家庭でも学校でも女児の表現できない思いが酌み取られることはなかった。
 今後、健全な人格を形成するためには、まず情緒的な受容体験に基づく基本的信頼関係を獲得させ、その後に感情や情動の認知と処理方法、自己の意思を伝える方法などの社会的スキルを習得させる必要がある。
 女児の抱えている困難は根深く、内面的には極めて幼い状態であり、基本的信頼感を獲得するにも相当時間を要すると思われる。

自分は、いちお年齢的には大人だし、社会経験もそれなりに色々してきたつもりだ。なので、そんな中で少しは成長したワケで、この女児よりは少しは大人だし、少しは自分を客観的に見たりもしているつもりだ。ただ、今でも成長しないままの部分もあるし、自分でも何とかしたいと思っている部分もあるから、この女児の記事を読み返しながら、時々あやふやながらも自分自身を振り返っているつもりだ

このBlogにも、エラそうなこと書いたりしてるけど、それはそれで、自分の思いを表現する訓練でもあったりする。