como siempre 遊人庵的日常

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八重の桜 第3話

2013-01-21 22:50:16 | 過去作倉庫11~14
 個人的に「大河ドラマの全編の出来を占う回」と認定してます、大事な第3話の関所を迎えました。
 前回申し上げましたように、大河ドラマは、わたし、基本的に好意全開で見ているので(全然そうは見えないでしょうが…そうなのよ。ほんと。)3話くらいではどんな駄作でも、まだまだ「いい、いいはずだ、よくなりそうだ」と希望が先行してしまうのです。
 そんな思い込みを極力はずして、客観的に見るようにつとめても、八重の桜・第3回は、ここ6年のなかでは出色の出来といえるのではないでしょうか。
 では、さっそく見てまいりましょう。

大河ドラマ

「覚馬の桜」

…あ、いや(汗)

 す、すんません、つい…。いえ、でも、今週、いきなり無防備な視界に飛び込んできた覚馬(西島秀俊)の肉体に、ただならぬ衝撃を受けた人は多かったのではないでしょうか。
 わたしですか?ビックリしました、そりゃもう。だって、前回「川崎尚之助と抱き合いヌードなんか披露して、コルクの栓を拾うとか(笑)」などと揶揄したそばから、これだもん。いやあ、もう、こんなハイパーな肉体で男と抱き合ったりしたら、失神どころじゃすまん。119番だわな。
 並みの大河でいう萌えとか眼福とか、そんな生ぬるい次元とおり越してて、列島に衝撃が走った兄つぁまの裸体。皆様いかが御覧になりましたでしょうか。しかもそれを関所の第3話にぶつけてくるあたりに「で、できる……!!」と思わず唸ってしまったわたくしがおりました。
 ってなことで、先週までとだいぶテンションも変わってしまいますが、ご容赦いただくとして。では気を取り直してもういちど、

第3話 「蹴散らして前へ」

○(とりあえず順番無視して一番肝心の)兄つぁまの衝撃の肉体。

 若松城下の自宅に蘭学塾開設の許可を得た覚馬(西島秀俊)は、象山書屋でいっしょだった尚之助(長谷川博巳)に手紙を出します。そしたら先走った尚之助が、蘭学塾で教えるために、いっぽー的に会津までやってきてしまいました。しかも、脱藩して。
 脱藩、っつーことは収入が無いということです。それで、無期限で「御厄介になります」といわれて、ニコニコとご飯やお酒を振る舞い、好きなだけいて下さいね…などという山本家の人びとは凄い、太っ腹。いや、でも昔(戦前まで)の日本の庶民には、居候という存在はそんなに珍しくなかったみたいですね。今では想像もつかぬことですが。
 大の男が無職で居候もこまるので、覚馬は尚之助の就活をはじめます。藩の蘭学教授方に取り立ててくれるよう陳情をくりかえすのですが、折悪しく会津藩はすべてに物入りの時期。黒船のにわかな来航で強化を迫られた沿岸警備や、安政の地震で倒壊した品川台場の修繕費用などで。
 そんなわけで、尚之助の就職は予算がつかず、却下されるのですけど、本来の防衛力強化策である洋式軍制の導入や兵器の近代化が、海防警備の出費のために却下されるという、この矛盾した現実に、覚馬はむしゃくしゃと腹が立って収まりません。
 そんなところへ、雨のなか、家中の若い者に「鉄砲などは足軽の持つもので、武士のやることではない。この腰抜け」などとバカにされ、ブチ切れて、あわや抜刀!という場面になります。
…ですが、武士道教育の行きとどいた会津の若い武士は、たとえ売り言葉に買い言葉のケンカでも、「龍馬伝」のバカ上士AとかBのように、往来で刀を抜くような安直な展開は許しません。覚馬と若い武士A・Bは、つれだって藩の槍の先生のところにいき、先生と仲間の検分のもと、槍の勝負で白黒をつけます。そこで、
 覚馬がもろ肌を脱ぐということになるんですけども。
 いやあ、ここで脱ぐ必要があるとか無いとか、そんなんどうでもエエです。覚馬が脱いだ瞬間に、話は「覚馬の桜」になってまったんだもん。どっちかとゆーと撫で肩な着物向けの体ねとか思ってたけど、とんでもなかった。兄つぁま、脱ぐと凄いんです。 割れた腹筋、割れた胸板、割れた…あ、いや…詳細を描写するのは控えるけど。
 とにかく、眼福とか言ってる場合じゃないような、場違いにキョーレツな兄つぁまのセミヌードだったんすけど、これはちょっとインパクトがありすぎるので、見せるのは、よっぽど考えて引き算しないといけないよね。反響が大きいからって、あんまりサービスしてはダメ。そうね、次は次回の定点観測ポイントの三月最終週あたりで。できたら、こんどはフンドシ・ロングショットで(後姿可)。京都の守護職屋敷の井戸端で水を浴びている覚馬、みたいなシチュエーションはいかがでしょうか(ヲイ)。

○ 西郷頼母の年齢問題ふたたび

 そうして、ハイパーマッチョなボディで、若侍二人を正々堂々ボコボコにした兄つぁまは、お目付役の西郷頼母(西田敏行)様にコテンパンに叱られます。バカ者、私怨で試合をする者があるか。武士にあるまじきことぞ。鉄砲などを持っても、武士の心根がしっかりしていなれれば身を滅ぼすとかなんとか、いろいろ言われてしまうんですけど、一応おことわりしておくと、この西郷頼母さんは、兄つぁまより二歳ほど年下なんだよな(爆)
 いえ、もう、諸事端整にととのったドラマの世界が確立しつつあるので、とびぬけてヘンで目立つのが、この西田敏行の年齢問題なんですよね。覚馬と同世代で、しかも同じくらいまで長生きする設定の役に、65歳の西田敏行をキャスティングしちゃいかんよな…。こういう設定の場合は、最低でも西島さんと同世代の人にしないと。あとあと年齢的につじつまが合ってくる、んじゃなくて、(西島さんは老け作りするわけなので)、むしろどんどんヘンさが増すんじゃないかと不安に思っています(年齢的には梶原平馬役の池内博之さんくらいで丁度いいはず)。

○あと、今週のよかったこといろいろ。

1・川崎尚之助は、品がよく、適度に誠実で適度に軽い感じで、思っていたよりずっと良い役でした。今週もよかったですが、とくに、斜め後ろ方向からの横顔とか。顔がはっきり見えない状態で、セリフも「………」という無言で、行間の感情を表現できるのがいいですね。
 あと、これは脚本が良いせいもあるんだけど、八重ちゃん(綾瀬はるか)のストレートな言葉に対して、非常に大人の反応をするところがいいです。「会津は頑固ですからね…」という言葉に、呆れ半分、愛しさ半分みたいな、相反するニュアンスを感じさせるあたり、いいですよねえ。硬直した先例主義はどうしようもないけど、それを根性で打破しようという山本兄弟の頑固さは大好きだ、みたいな。そういう微妙なところをを、具体的な言葉でベラベラ語らないのも高級ですよ。

2・これも具体的に語らない例ですが、照姫(稲森いずみ)が、藩主正室になった敏姫(中西美帆)に、(殿さまがお国入りで不在の間は)お歌を詠んでお送りなさいませ、歌を考えている間中殿さまの面影が心にあるので、寂しくありませんよ…という場面。容保(綾野剛)がすごく柔和な顔をして、「それは良い…」というんだけど、これが、なまじなラブシーンより情感があってよかったですねえ。
 歌を詠んでいる照姫の心にはいつも容保の面影が…という、要は遠まわしな愛の告白だよねこれ。演じている人達の品が良いので、ドロドロな感情のえげつない応酬はまったくなく、綺麗な水の上澄みだけのように清涼なシーンで、いや良かった良かった。

3・八重ちゃんはまだローティーンなので、こういうベタな少女設定でいいと思います。木の上で本を読んでいて、将来夫になる人に出会うとか。どこかでみたような気がするけど、いえ、どこで見ていたって、古典的な少女マンガで全然オッケーなのです。

4・覚馬が、蘭学や洋式軍制を否定する藩の重役に対し、「あんたら古すぎる。何もわかってねえ」とキレて言いたい放題を言い、「しまった、言っつまった」と後悔するシーンですが、若い主役(とりあえず今のところは覚馬が主役認定でいいよね)が目上の者に反抗して暴言を吐くというのは、大河ドラマの定番モチーフであります。これがない大河ドラマは無いといっていいくらいです。
 ただ、おなじ段取りを踏んでも、去年の「平清盛」とくらべて段違いのこの気品は、いったい何に由来するのでしょうか。
 いろいろ考えたのですが、大河ドラマの主人公を「等身大に」描くっていうのは、まずその時代特有の事情をきちんと踏まえて丁寧に描き、古い価値観に抵抗する主人公の葛藤を、やっぱり丁寧に描くってことなんですよね。そこにはじめて「等身大の」、感情移入できる人物像が生まれるわけなので、主人公が現代言葉の汚い言葉づかいで、現代の価値観をタイムワープのように持ち込んで古い時代を無責任に一刀両断したり、幼稚っぽい恋愛やベタベタした親子の狎れ合いを、これでもかとコテコテに盛りこむのが、大河ドラマにおける「等身大」だってのは、これは全然違うと思う。
 なので、「篤姫」以降5作にわたる大河ドラマは、等身大という言葉の意味を完全に間違えていたわけですよ。そんなトンチンカンなものを長きにわたり見すぎてしまったあとなので、今週の兄つぁまの抵抗は、「こ、これが等身大の人物像なのよ…」と、おもわず懐かしさに涙を催すほどでした。


今週の八重ちゃんドロナワ学習会

 今週は、八重ちゃんが鉄砲の玉を手作りしていましたが、あの、火薬を紙に包んだ「パトロン玉」というのをつかうのは、何度か名前が出てきたゲベール銃であり、元はオランダ軍の制式銃。この当時は日本では最先端の銃でした。
 仕様は、前装滑腔式といって、銃身がツルッと筒状になってて、そこに、付属の棒で丸玉(と、一緒に紙に包んだ薬莢)を、筒の前から詰めるのですね。なので「先込め式」ともいいます。
 このゲベール銃は、火縄銃いらいの近代兵器として引っ張りだこになるのですが、アッというまに時代遅れとなります。やがて同じ前装・先込め式でも椎の実型の銃弾を使う施条式(銃身に螺旋が切ってある)で、命中精度が段違いのミニエー銃が上陸。
 そしていよいよ、アメリカの南北戦争から大量に放出された、シャスポー、スペンセル(スペンサー)、エンフィールド(エンピール)、スナイドル(シュナイダー)など後装式(元込め式)の銃が主流に変わっていきますが、このころは、鳥羽伏見の戦いからはじまって、泥沼の戊辰戦争に雪崩れ込んでいます。沿岸警備・専守防衛からはじまった日本の軍備が、完全に内戦対応に変貌していますね。グラバーやスネル兄弟など、外国人の「死の商人」も活発に活動しはじめます。

 それはまた追々の話としまして…

「西国の藩はすでに洋式軍制さ取り入れている!!」
  と兄つぁまは言いましたが、この安政四年当時、西国の雄藩はそんなに軍備さ進んでいたのか?っつう話です。

 とりあえず最先端をいっていたのが薩摩です。すでに弘化四年(1847)年に、戦国以来の甲州流軍楽とか、荻野流などの古来の砲術の流派を全廃してしまい、洋式に統一して、城下でも洋式調練を開始しています。黒船が来るはるか前の話。
 中央が鎖国で惰眠をむさぼっていたときにも、地理的に常に対外的な緊張感にさらされていたことと、「薩摩飛脚」に象徴されるくらい徹底した秘密主義で、薩摩の国内でなにをやってても中央には守秘でいられたこと、あと島津豪秀と、その孫の島津斉彬という、とびっきり豪快で新し物ずきの破格の殿さんが出たこと…など諸条件が重なって、黒船のころには、薩摩はすでに破格の(日本基準では)軍事大国になってたわけです。
 で、安政四年のころには、斉彬が、磯の集成館という秘密基地をベースに、おどろくべき近代事業を展開してました。軍事開発だけじゃなくて、産業の振興までやってました。しかも、反射炉と溶鉱炉もつくって、鉄製砲の鋳造に成功してたし、西洋式砲艦(帆船)の建造もやってたし、最後には国産の蒸気船も…というところにまで達してました。
 こんな藩は薩摩しかないです。このあたりの事業的なものは、斉彬が急逝したあと一旦全部白紙になってしまい、その後薩摩は別の(権謀術数的な)意味での軍事大国になっていくんですけど、このとき植えつけられた進取の気性が藩内のすみずみまで行き渡り、その後の戊辰戦争をけん引したということは、いえると思います。

 それと双璧を成すのが、佐賀
佐賀もすごくて、鍋島直正という、これも破格の殿様が出て、嘉永年間にはすでに洋式鉄製砲を国産してたし、長崎(長崎奉行だった)沿岸には国産の大砲を配備する、という進みっぷりでした。古典的な軍学を全廃して藩を挙げて洋式軍制に改革、なんてこたあとっくにやっていました。
新し物ずきというよりも、理系脳だったので、資料的なものや、技術的な精度は佐賀のほうが薩摩より進んでいたみたいです。ひとりの傑出した殿様(斉彬)が死んだとたんにすべて白紙、みたいな極端な浮き沈みもなくて、淡々と、真実追求的に、西洋軍備の拡張を進めていた藩といえます。あまり中央の政争にも関与しないで…。
この理系集団が国を揺るがすカードを握るのは、幕末も押し詰まってからのこととなりますが、とりあえず洋式軍制の黎明期、佐賀が(薩摩経由で)全国に与えた影響も多大なものがあります。

そんな感じなので、「わが藩は古来長沼流軍学の…」とか言っている東北の藩が、決定的に出遅れてしまうのは致し方ないことなのですね。
士道とか、士魂とかいうのはまた別次元の話として、客観的に、この時点で会津が、軍事的にはすでに勝負になっていなかったということは、覚えておいていいと思います。
 もちろんそれで最終局面に直結するわけじゃなく、幕末の政争にからんで、会津の得意絶頂の時期も来るのですがね。その経緯については、その折にまた見ていきたいと思います。

また来週…。


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