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恐れるな(解説含む)

2016-04-24 23:52:38 | 日記
(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)
<マタイによる福音書第10章>
(10・24―33)恐れるな
(24)弟子はその弟子以上のものでがなく、僕はその主人以上の者ではない。
(25)弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である。もし家の主人がべルゼブルと言われるならば、その家の者どもはなおさら、どんなにか悪く言われることであろう。
(26)だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現われてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。
(27)わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ。
(28)また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。
(29)二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父のゆるしがなければ、その一羽も地に落ちることはない。
(30)またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。
(31)それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。
(31)だから人の前でわたしを受け入れる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受け入れるであろう。
(32)しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしもまた天にいます私の父の前で拒むであろう。

(参考 新約聖書略解 日本基督教団出版局)
・イエスの弟子は、どんなに偉くなっても、その師より偉くなることはできない。イエスとその弟子との関係は、この点一般の師弟関係と異なっている。したがって、迫害者を恐れるな。真に恐れなければならない者を恐れよ。
・24 イエスの弟子は、師イエスがこの世から受けた取り扱いよりも良い取り扱いを受けようとしたり、幸福であろうと望むな。
・25 主イエスさえ、この世において誤解、迫害を受けられた。主イエスの伝道者はその主よりも成功しようなどと思ってはならない。もしイエスがべルゼブルの仲間であるとののしられたら、弟子はなおさら悪口を言われる覚悟でいなければならない。《べルゼブル》悪魔のかしら。ヘブル語でゼブルは住居を意味しべルゼブルは《家の主人》という意味。
・26 《おおわれたもの》《隠れているもの》天国の奥義は人の目に明らかに見えるものでなく、その言葉は雲におおわれて見えないようでも、やがては必ず現われて世界に知れるに至るであろう。イエスとその言葉が十字架の死後に至るまで隠されていたように。
・27 弟子の小さいグループの中で話されたことを、広く世界に向かって宣べることを望まれた。《耳にささやかれたこと》ラビはその弟子だけにわかるような秘法を語ったが、イエスの教えは少数者に聞かせる秘法ではないから、世にあまねく宣べ伝えなければならない。
・28 人を恐れないためには神を恐れなければならない。悪人や悪魔は《からだを殺しても、魂を殺すことはできない》。かような者を恐れなくてもよい。真に恐るべきは、《からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかた》である。
・29 身も魂も殺すことのできる神の力の、もうひとつ別の力は、摂理の力である。二羽でわずか《一アサリオン》でしか売れないすずめの生死でも、神の摂理の範囲からもれていない。一アサリオンは、一デナリ(邦貨で約60円)の16分の1に当たる。
・30 神の摂理のこまやかで周到なこと。あまりに無価値なために、われわれ自身も知らない自分の《頭の毛》を神は数えて知っておられる。
・31 比べものにならぬ人間と小鳥を比べ、人間に対する神のはかり知ることのできない摂理を印象的に語られた。
・32 33 神の審判の座で人を受け入れるのも、また拒むのもメシヤの仕事である。ここにイエスのメシヤ意識が示されているが、大切なことはイエスを受け入れるということである。これまで弟子たちは、自分たちの使命は王国を宣べ伝え、病をいやすことにあると思っていたが、しだいに彼らの第一の使命はイエスをあかしすることであることを認識するようになった。

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