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わたしはここで、もう一度、イエスの「さらば汝らの天の父の全きが如く、汝らも全かれ」という言葉を繰り返したいのである。

2021-07-05 11:23:45 | 日記
神聖原理(実相)があると分ったら、
後は“それ”が全部やってくれているのだから、
ただまかせてしまえばいいわけで、
「まかせよう、まかせよう」と頑張る必要はない。
それが現に働いているという事実を
認めてそれに「信」をあたえればよい。
実相の展開体なのが現象の自分なのであるから。
ただ実相人間じゃく現象人間だと思う間違いをずっと犯してきたのであるから、
そのことに気付き、
すでに誕生の時から実相の展開を時間空間世界でなしつつあるのだとさとったら、
もう実相(神の子)に
素直に身を任せてしまえば
よいのである。
頭脳的知恵の自由な心の使用で
実相の働きを攪乱してきた間違いに気付けばよいのだった。
なんてことはなかったというのが
真相である。
(奇蹟の時は今 アディントン著)
【本書の全巻を通じて、あなたは“完全”という語を見出されるであろう。そして人々は言うであろう。「罪と病と、あらゆる状態の苦痛に満たされている人生に於いて、完き生活などということが果たしてあり得るであろうか」と。わたしたち人間の考えでは“完全”とか“完き”とかいう語を相対的な意味に考えるのである。しかし今、私はこの語を、あらゆる生命の奥にあるところの究極的な“完全なる実相”を意味して用いているのである。プラトンはこれを称して“神聖原理”(Divine Prototype)と称している。わたしはここで、もう一度、イエスの「さらば汝らの天の父の全きが如く、汝らも全かれ」という言葉を繰り返したいのである。これこそがイエスをして即座の奇蹟的神癒を可能ならしめたところの“実相は既に完全である”という真理の悟りであるのである。“実相の完全さ”を一瞥しただけでさえも、男も女も何らかの形に於ける癒しが、その“観”の反映として“生命の世界”にも“物象の世界”にも起っているのである。】
たしかに「我を落とせ」「幼児の如く素直になれ」等々、
これを重要視するのも正しいのだが、
それ以前に必要なことは
「生命の実相」の真理を
自己薬篭のものと為してしまうことなのだ。
 

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