(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)
<マタイによる福音書第8章>
(8・5―13)百卒長の信仰
(5)さて、イエスがカぺナウムに帰ってこられたとき、ある百卒長がみもとにきて訴えて言った。
(6)「主よ、わたしの僕(しもべ)が中風でひどく苦しんで、家で寝ています」。
(7)イエスは彼に、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。
(8)そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。
(9)わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。
(10)イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた。「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。
(11)なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西から来て、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、
(12)この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。
(13)それからイエスは百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。
(参考 新約聖書略解 日本基督教団出版局)
・病気全快の奇跡のその二。ルカによる福音書は異邦人の百卒長がユダヤ人の長老の仲介によってイエスに近づくことが記されているが、この項の主題は奇跡であるよりも、むしろ異邦人がイエスを信じ、しかもかれの信仰が称賛されたことである。
・5 《百卒長》ローマ軍の一軍団の六分の一にあたる百人の兵卒の指揮官。この人はたぶんガリラヤの分封君主ヘロデ・アンテパスを護衛の名目でローマの政治を施行させるために駐留したローマ軍の長であったろう。彼の僕のひとり、原語は、むすことも訳せる言葉であるが、病が中風であるとことから僕が適当である。
・7 《「わたしが行って……」》「わたし」が強い調子で用いられている。この章は現行訳のように、イエスの発意と解するのが普通であるが、「わたしが行ってなおしてあげようか」と問いの形に訳すこともできる。問いにすれば八章の百卒長の告白がいっそういきいきとしてくる。
・8 百卒長がイエスを《わたしの屋根の下》に迎える《資格》がないと言ったのは、彼の謙遜のためであったが、同時に彼はイエスが異邦人の家にはいることをためらうであろうと思ったからである。《ただ、お言葉を下さい》たとい病人まで距離があっても言葉だけで十分だと信じた。彼はイエスのもつ言葉の威力を彼自身の職務上の経験から学んで知った。すなわち権威をもつた言葉が、どんな作用をもつかを知っていた。
・10 この信仰はもはや単に奇跡のみを期待する信仰ではなく、更に大いなる信頼のうえに築かれたものである。このような信仰は特異であり、選民《イスラエル人の中にも》容易にみることができない。それをイエスは悲しむとともに、異邦人の中にみたことを驚きかつ喜ぶ。信仰により異邦人も義とされる。
・11、12 世の終末。メシヤの日に開かれる最大の宴会において、異邦人がかえって列祖たちとともに席につき、神の民イスラエルがかえって戸外に放逐され戸外で哀泣切歯する。《多くの人が東から西から》異邦人が神の国に受け入れられる思想は預言者の中にすでに胚胎している。《この国の子ら》生来のユダヤ人。《外のやみに追い出され》旧約におけるシェオール(陰府、黄泉)、新約聖書におけるゲヘナ(地獄)。12節は盲目的な愛国者には言えない言葉である。
・13 イエスの言葉の威力を示す。
<マタイによる福音書第8章>
(8・5―13)百卒長の信仰
(5)さて、イエスがカぺナウムに帰ってこられたとき、ある百卒長がみもとにきて訴えて言った。
(6)「主よ、わたしの僕(しもべ)が中風でひどく苦しんで、家で寝ています」。
(7)イエスは彼に、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。
(8)そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。
(9)わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。
(10)イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた。「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。
(11)なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西から来て、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、
(12)この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。
(13)それからイエスは百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。
(参考 新約聖書略解 日本基督教団出版局)
・病気全快の奇跡のその二。ルカによる福音書は異邦人の百卒長がユダヤ人の長老の仲介によってイエスに近づくことが記されているが、この項の主題は奇跡であるよりも、むしろ異邦人がイエスを信じ、しかもかれの信仰が称賛されたことである。
・5 《百卒長》ローマ軍の一軍団の六分の一にあたる百人の兵卒の指揮官。この人はたぶんガリラヤの分封君主ヘロデ・アンテパスを護衛の名目でローマの政治を施行させるために駐留したローマ軍の長であったろう。彼の僕のひとり、原語は、むすことも訳せる言葉であるが、病が中風であるとことから僕が適当である。
・7 《「わたしが行って……」》「わたし」が強い調子で用いられている。この章は現行訳のように、イエスの発意と解するのが普通であるが、「わたしが行ってなおしてあげようか」と問いの形に訳すこともできる。問いにすれば八章の百卒長の告白がいっそういきいきとしてくる。
・8 百卒長がイエスを《わたしの屋根の下》に迎える《資格》がないと言ったのは、彼の謙遜のためであったが、同時に彼はイエスが異邦人の家にはいることをためらうであろうと思ったからである。《ただ、お言葉を下さい》たとい病人まで距離があっても言葉だけで十分だと信じた。彼はイエスのもつ言葉の威力を彼自身の職務上の経験から学んで知った。すなわち権威をもつた言葉が、どんな作用をもつかを知っていた。
・10 この信仰はもはや単に奇跡のみを期待する信仰ではなく、更に大いなる信頼のうえに築かれたものである。このような信仰は特異であり、選民《イスラエル人の中にも》容易にみることができない。それをイエスは悲しむとともに、異邦人の中にみたことを驚きかつ喜ぶ。信仰により異邦人も義とされる。
・11、12 世の終末。メシヤの日に開かれる最大の宴会において、異邦人がかえって列祖たちとともに席につき、神の民イスラエルがかえって戸外に放逐され戸外で哀泣切歯する。《多くの人が東から西から》異邦人が神の国に受け入れられる思想は預言者の中にすでに胚胎している。《この国の子ら》生来のユダヤ人。《外のやみに追い出され》旧約におけるシェオール(陰府、黄泉)、新約聖書におけるゲヘナ(地獄)。12節は盲目的な愛国者には言えない言葉である。
・13 イエスの言葉の威力を示す。
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