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「私は聖書を再検討し、密室に籠り、跪いて祈った。神についての数々の疑問を探り求めた。」ステラ・テリル・マン

2019-04-11 09:40:52 | 日記
『信仰と愛行による新生』の作者であり、
米国のキリスト教の教派であるニュー・ソートの指導者の
ステラ・テリル・マン女子は
如何にして実相の世界の確信つまり
ニュー・ソートの宗教思想に
たどりついたのであろうか。
多分
西洋の宗教思想史には
新約ヨハネ伝にある「ロゴス」(神の言葉)解釈のような
一般のキリスト教会の解釈とは異なる
「久遠いのちの流れ」を汲む正しい解釈の流れも
脈々と流れてきていたのではないかと
私は推察する。
以下は『信仰と愛行による新生』の
原著者であるステラ・テリル・マン女史の
序文である。
女史の信仰の出発点が
「イエスが説き、且つそれを駆使した如き“霊の法則”について」であったことは
注目に価する。
(参考 信仰と愛行による新生 ステラ・テリル・マン 谷口雅春訳 日本教文社)
<私の神についての知識は耳からのみ学んだものであった>
【私はクリスチャンの家庭に生まれ、メソジスト派の教養を施された。そしてヨブと同じように、“私は神を知っている”と感じたが、兄弟ヨブが矢張りそうであったように私の神についての知識は耳からのみ学んだものであった。私は宗教について非常に多くを学んだ。しかし、非常な艱難にゆすぶられたり、大きな苦痛に見舞われた際に、私は自分の信ずる宗教でそれらを克服する術(すべ)を知らなかった。祈りによって私のいのちが救われて後、今度はまた全然祈りが効を奏しないで、それでも尚、再び祈りをつづけながら、私は残された自分の人生を、かつて、イエスが説き、且つそれを駆使した如き“霊の法則”について一層深く学び知ることを生涯の願いとしてわが余生を捧げようと決意したのであった。】
<聖書はイエスが宣り給うた如く“霊と生命”であったのか。私はどうしてもそれを知らねばならない、さもなくば死ぬもよし、と決意した。>
【私は“人間とは何か?”についてその回答を求め始めた。そして神は本当に、「詩篇」の作者が書いているように、人間について思いやり深い存在なのだろうか、満足の行くまで知りたいと思った。聖書は空疎な言葉や、詩や、幻想や、はかない望みを約束するに過ぎないのか、また、それは遥か昔にそれらを述べた人々と同様に死にゆく者の願いを混えて歴史が単に織り成したものであったのか。それともまた、聖書はイエスが宣り給うた如く“霊と生命”であったのか。私はどうしてもそれを知らねばならない、さもなくば死ぬもよし、と決意した。】
<私は聖書を再検討し、密室に籠り、跪いて祈った。神についての数々の疑問を探り求めた。>
【こうした私の探求は、多くの権威ある純粋な宗教研究者と同様に、歴史、地理、伝記、心理学、精神分析的治療や、一般医学を始めとして自然科学の研究にまで私を遠く導いて往ったのである。私は聖書を再検討し、密室に籠り、跪いて祈った。神についての数々の疑問を探り求めた。私は聖書の教えを実践し、祈り、失敗し、成功し、再び失敗し、そしてまた教えを生活に試みた。幾度も幾度も繰り返した。】
これを読んでも「唯神実相哲学」を正確に把握し、
実相を現象化するための“人間神の子”“生命の実相”の真理把握と
神想観による実相の正観は
かなりの精魂こめた探求が必要であることは
明白である。

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