「神においては“悪”とか‟苦痛”なるものは存在しない」とホルムスは言うのである。
このことは
「現象丸ごとナシ」で
現象の奥の奥に、現象と離れて不生不滅の「神の国」があり、
そこに住んでいる実相人間のみが本当の自分なのであるという、
真理の神随に至らないと
にわかには納得しづらい深い内容だ。
道元禅師は、
現象世界に住む人間の生を
一幅の絵を実在が描くようなものだと、
つまり現象の生を芸術みたいに書いているが、
谷口雅春先生もこうした記述はなさっており、
そうした観点から見れば「人生に苦痛なし」と
捉えることも出来ようが、
これには高い心境を必要とする。
つまり人間が神であるから言えることなのだ。
・絶対我としての彼・・・神・・・は悪を経験することが出来ない。何故なら彼は決して差別的知見を有っていないからである。
・苦痛は神のうちには決して自己を滅ぼしつくす経験としてあるのではない。何故なら絶対我のうちには決して何等の偏寄った選択もないからである。
・苦痛は永遠の可能の秩序のうちに横たわっているのであろうか・・・そうでなければ、吾々はそれを経験することが出来ない筈である。
(心と運命 谷口雅春)
【絶対我としての彼・・・神・・・は悪を経験することが出来ない。何故なら彼は決して差別的知見を有っていないからである。彼は常に無差別的渾一を意識している。全要素は彼にとっては知られているのである。従って彼は相対的関係に於いてはものを考えない。それ故、神はあらゆる人間の経験を分ちもつことなしには、渾てであることは出来ないにしても、尚苦痛はただ個体的顕現のうちにのみあるのである。苦痛は神のうちには決して自己を滅ぼしつくす経験としてあるのではない。何故なら絶対我のうちには決して何等の偏寄った選択もないからである。神はあらゆる既知の要素をもって選択する。では、苦痛は永遠の可能の秩序のうちに横たわっているのであろうか・・・そうでなければ、吾々はそれを経験することが出来ない筈である。而も苦痛は神を虜(とりこ)にすることは出来ないのである。・・・何故なら神自体は常に完き智慧と、全き選択とにより苦痛を超越しているからである。】
今日の部分は投稿者が、
フランス文学科の卒業論文と修士論文において問題にした、
「人生に何故苦しみというものが存在するのか?」
という疑問への解答になっている気がする。
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