神への全托がうまく出来ないのは、
それに逆らう想念が
自己のうちに隠れているが存在しているからである。
これを破ってしまえば、
ということは神(実相)を素直に受け容れれば、
潜在意識の抵抗がないから、
神の力の流入があるのである。
この意識における「神を観じることへの抵抗」というのは、
毎日神想観を実修しているうちに、
少しずつ消えてゆくはずである。
これは潜在意識の浄化とか、
業を消すことであるとか、
罪の包みをほどいていくとか、
皆同じ意味を言っていると思うのだが、
結局そういうものは、
神に向かえば次第に消滅して行くものなのだ。
(奇蹟の時は今 J・アディントン著・谷口雅春訳)
【使徒パウロがガラテアの教会の信徒たちに送りたる『ガラテア書』第5章7節に次のような一節がある。『なんじら前(さき)には善く走りたるに、誰が汝らの真理(まこと)に従うを阻みしか」と。わたしたちの祈りに対する神の報いを受けることを阻んだのであろうか? わたし達は、完全な健康を求めて祈る。そして一方に於いて、自分の体に関する従来からの古い信念を棄て切れず持ちつづける。そして自分たちの健康はある医学的処置に依存しなければならぬという信念を矢張りもち、また“あれ”を信じ“これ”を信じ、現象的症状にふり廻されて、果てしなき円環を永遠にグルグル廻りながら、‟こんな訳だから私の病気は治らないのだ”という口実をつくり出すのである。われわれは、自分の意識の深層に、神への全托に抵抗したり反論したりするところの想念があって、それが原因で現在の運命の墜落が起っていることを知っているのである。それを知りながら、尚も自分のいとしい人生を何とか出来ないものかと、今までの“迷いの心”にしがみついているのである。】
神想観においては
「神の子円満完全」と観じる際には、
抵抗を感じやりにくいこともあるが、
だからこそ神想観をやるわけである。
潜在意識の抵抗を破る鍵は
神様に対して祈る姿勢だ。
人間は“神の子”だからこれが無いと、
ぶ厚い潜在意識の抵抗をなかなかぶち破れない。
神への「信」によって
神の無限力を観る必要があるのである。
「人にはできなくても神にはできる」のである。
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