顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

親沢の一つ松    茨城町上石崎

2016年06月24日 | 歴史散歩
岬や半島の先端から海や湖に向かって細長く突き出た砂礫の州を砂嘴(さし)と言いますが、涸沼に突出した砂嘴(さし)の一つに親沢の鼻があり、対岸弁天の鼻と向き合う景勝の地で,その突端には松の木が今でも見られます。

言い伝えによると、「昔一人の老人がここに住んでいたが貧乏で子どももなかった。ここに目通り(目の高さに相当する部分の木の幹の太さ)一丈三尺(4m位)という、松葉が一つの老松があってこの老人は子どもがわりに大事に育てていた。これを村の人々は親沢の一つ松と呼んでいたがその後枯死してしまったので、野生の松を植えて後生に伝えていた。」
のちに、この涸沼を愛した水戸光圀が立ち寄ったとき,この話を聞いて詠んだという歌碑が建っています。碑文が弘道館の要石歌碑と同じように、散らし書き(乱れ書き)になっていました。
「子を思ふ涙ひぬまの一つ松波にゆられて幾代へぬらむ」
光圀公はたびたび那珂川河口より船で涸沼川を遡って涸沼にやって来て、漁や猟を楽しみ、酒を酌みつつ詩歌を作ったと言われています。

ここは今、涸沼自然公園の親沢公園キャンプ場として隠れた穴場のようです。夕日が沈む時間帯にここから見る涸沼と筑波山は絶景だそうですが、まさにキャンパーの特権といえるでしょう。(テント持ち込みで、事前予約ということです。)

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