顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

千波湖周辺の桜

2018年03月31日 | 水戸の観光

千波湖は江戸時代には大きさも現在の約3.5倍で水戸城の下まで広がっており、斉昭公も偕楽園には水戸城から舟で出かけたと言われています。

水戸城の外堀の役目を那珂川とともに果たした千波湖はその後埋め立てられ、現在の1周3キロの規模になりましたが、偕楽園の一部として散歩、ジョギングなど市民の親しむ場所になっています。

水戸市公園協会のサクラマップによると、千波湖畔には約750本、30種の桜があり、各品種の桜の位置図がホームページで発表されています。
http://www.city.mito.lg.jp/001373/senbako/sbkkankou/p012035.html
いま、梅で有名な偕楽園周辺を、桜でも賑やかにしようという気運が高まりつつあります。
桜川上流部に光圀公ゆかりの山桜を植える活動をしている、「桜川千本桜プロジェクト」によると、上記の千波湖畔の桜の他に偕楽園内には130本の桜、さらに桜川の駅南部(駅南小橋~美登里橋)には250本が植えられており、こちらはソメイヨシノ中心、これに桜山の370本を加えると、桜川下流部にはすでに1500本の桜があるということです。

品種名札の付いている樹があまりなく、病害で大きく剪定された樹も多く、その中で見つけた名札の桜をご紹介します。梅と違い桜の品種にはあまり関心がなかったことを反省したい気持ちです。

水戸の桜まつりは、4月1日から15日まで、この写真は3月30日撮影、しばらく好天は続いていますが、まつり初日にはすでに散り始めてしまうかもしれません。桜の開花予想ほど難しいものはないと、ある旅行会社の担当者の話を思い出しました。

偕楽園のシンボルツリー、「左近の桜」が遠くからでも一望できます。高さ16m、幹周囲3.9m、昭和38年に樹齢7年の苗を植えたものが、これほど大きくなりました。同時期に植えた弘道館の左近の桜との違いは、やはり生育条件の差のようです。

近くで見ると、さすが常磐百景ブログの茨城一本桜番付で東の横綱に座す風格です。偕楽園を造った9代水戸藩主徳川斉昭公の正室、登美宮吉子女王が有栖川宮家より降嫁の時、仁孝天皇より水戸は代々勤皇の家柄で良縁なりと贈られた御所の桜の系統種ですが、当時の樹は枯死してこれは三代目になります。

この左近の桜は、シロヤマザクラ(白山桜)という品種で、吉野山などに自生する日本古来の代表的な山桜です。サクラは植物学上、梅や桃と同じくバラ科、サクラ亜科、サクラ属の落葉高木で、日本に自生するものだけでも100種以上あるそうです。

偕楽園南側の桜山も満開です。斉昭公は当初この場所に偕楽園を造ろうとしましたが手狭なためここには桜を数百本植えて桜山と命名し、好文亭と相対した一遊亭という御休処を建てました。

護国神社にあるペリリュー島守備隊鎮魂碑です。戦争末期の1944年、水戸の歩兵第二連隊を主とした日本軍1万名以上の将兵が玉砕しました。守備隊長の中川大佐が最後に本土に送った玉砕報告の電文は「サクラサクラ」…、この場所の桜だけは別な空間で咲いているような気がしました。

さまざまのこと思い出す桜かな  芭蕉
まさおなる空よりしだれざくらかな  富安風生
散る桜 残る桜も 散る桜  良寛



いっきに春到来!

2018年03月29日 | 季節の花
今年は久方ぶりに寒い冬でしたが、3月になると今までを挽回するように暖かくなり、逆に例年より早い春の訪れになりました。

ニュータウン内の公園のコブシ(辛夷)の花、早春の野山を飾る一番花です。果実が握り拳のような形をしているから付いた名前と言われています。千昌夫「北国の春」のリズムが浮かんでもしまうのは、当時カラオケの演り過ぎだからでしょうか。

ウグイスカグラ(山鶯神楽)の花を見つけました。6月ころの真紅のみずみずしい実は、サンガリコッコとよび、うす甘い山のおやつでした。面白い名前は、ウグイスガクレ(鶯が隠れる木)が転じたとも言われています。

ヤブツバキ(藪椿)は近在のそれこそ藪の中によく見かけます。シンプルな一重の花にこそ和の美しさがあるような気がします。

六地蔵寺の枝垂れ桜は、メインの古木の樹勢が弱って二回り以上小さくなり、後継木が取って代わろうとしています。そのせいか樹の周りを今年から柵で囲いましたが、もっと早めにやっておけばと悔やまれます。

病院駐車場のヨウコウザクラ(陽光桜)、色がいちだんと鮮やかで、最近よく見かける桜です。
戦死した教え子たちの鎮魂と、世界恒久平和への願いを込めて、元教師が在来種のアマギヨシノ(天城吉野)とカンヒザクラ(寒緋桜)との交配によって作出した平和の桜として知られています。

通りの植え込みの間から己の存在をアッピールするように、ボケ(木瓜)が満開です。果実が瓜に似ており、木になる瓜で「木瓜(もけ)(ぼっくわ)」から「ぼけ」に転訛したとも言われています。薄い絞りが控えめな色気を漂わせています。

町内の空き地にムスカリが顔を出しました。壺の形をした紫の小花が、ブドウの房のように密集してなんとも愛嬌があります。隣家のモクレン(木蓮)の花も、賑やかに見下ろしています。

鉢植えのニオイバンマツリ(匂蕃茉莉)は、2色咲き分けのように見えますが、咲き始めの紫色からだんだん白くなっていく、いわゆる「移り白」です。名前の通り、甘い香りが漂います。名前の漢字は、匂は芳香、蕃は外国、茉莉はジャスミン類のことを指し、「香りのする外国のジャスミン類」となりますが、ナス科の低木でジャスミンの仲間ではありません。

河原の菜の花

2018年03月27日 | 日記
ここ数年の恒例になった河原の菜の花摘み、今年も那珂川に出かけました。昨年のブログでは4月4日でしたので、約10日早いことになりますが、一気に早まった桜前線に合わせました。

近年、河川敷に繁殖し出した菜の花はほとんどがセイヨウアブラナ(またはセイヨウカラシナ)で、江戸時代から種子を絞って菜種油を採取するために、アブラナの栽培が盛んでしたが、1960年代になると種子を輸入したほうが安くて簡単なため、栽培が減ってきて廃棄される過程で河川に流れ出し、流域に拡散していったようです。

那珂川は、那須岳の西、三斗小屋を源流として栃木県と茨城県を貫き太平洋に注ぐ全長150キロの河川です。関東平野では利根川に次ぐ長さにもかかわらず、堤防やダムが少ないため、流れていく市町村では自然の姿を残し、清流を保っています。
イタチが目の前をゆったりと横切りましたが、カメラを手にしておらず、慌てて撮ったスマホの写真は遠く離れた時でした。

早速、辛子和えです。少しの苦味は、野生の証しでしょうか、お酒によく合います。
この冬亡くなった母は花が大好きで、咲いているのを食べるにはしのびないと、いつも花瓶に活けてしまいました。

菜の花といふ平凡を愛しけり  富安風生
北上は声なく流る花菜敷き  山口青邨
土堤を黄とする菜の花は土堤の花  山口誓子

偕楽園内の石碑

2018年03月21日 | 水戸の観光
2月17日からの水戸の梅まつりも終盤です。異常な寒さの2月には、開花が10日くらい遅れていましたが、3月に入っての気温上昇で一気に追いつきました。
表門前の十月桜は、10月から咲き始め、真冬にはさすがに花が小さくなりましたが、ここへきて最後の元気を振り絞って春を告げています。

右側に大輪の白梅「滄溟の月」が満開、その下に常磐公園の石柱が建っています。大正11年(1922)、常磐公園の名前で史跡及名勝として指定されました。

偕楽園記碑
天保13年(1842)、前年に開設された藩校弘道館と一対をなす偕楽園創設の由来が、篆書体で記されています。徳川斉昭公の起草、揮毫で、周囲に描かれている梅は藩の絵師、萩谷遷喬の作です。
この中の「一張一弛、一馳一息」は孔子の言葉で、厳しいだけでなく時には弛めて楽しむことも大切であると、文武修行の弘道館に対し心身を休める偕楽園の役目を述べています。

茨城百景碑
昭和25年(1950)に選定され、当時の知事、友末洋治の書です。後ろに南崖の洞窟が見えます。徳川光圀公の笠原水道の岩樋や吐玉泉の集水暗渠に使用した神崎石(凝灰質堆積岩)を切り出した跡といわれています。

観梅碑
梅の季節の偕楽園を詠んだ長坂周(1845-1924)の漢詩で大正4年(1915)に建てられました。名古屋出身、東京で医院を開き、詩や書を能くしました。

正岡子規句碑
「崖急に梅ことごとく斜なり」の句は、子規が明治22年(1889)同窓の菊池謙二郎を水戸に訪ねた時のもの。昭和28年(1953)東湖神社裏に水戸の俳人たちが建てたものを、後にここへ移転しました。

大日本史完成の地
2代藩主徳川光圀公が明暦3年(1657)から編纂した大日本史は、明治維新後、編纂局の「彰考館」が水戸城内から移転し、明治39年(1906)に250年を経て、この場所で完結しました。

二名匠碑
水戸彫と言われた彫金の二名匠、萩谷勝平と初代海野美盛の顕彰碑です。菊池謙二郎の撰文、書は北條時雨によるもので明治43年(1910)建立、海野勝珉の描く龍獅子が浮き彫り(彫刻:飛田雲玉)になっています。

菁莪遺徳碑
十五代将軍徳川慶喜公の側近、原市之進の顕彰碑で、篆額は水戸第11代藩主徳川昭武公で碑文は昌平黌の岡千仭、書は吉田晩稼で、明治30年(1897)の建碑です。市之進は水戸藩士、後に一橋家の用人となり慶喜公に仕えましたが、慶応3年(1867)幕臣により暗殺されました。

遺徳碑
茨城県第6代県令、関新平の遺徳を偲び明治30年(1897)に建てられました。篆額は徳川昭武公、撰文は手塚陽軒、書は北条時雨です。旧佐賀藩士で、2年8か月の在任中、旧水戸藩士の救済などに尽力しました。

水戸八景碑
偕楽園で一番古い石碑で、斉昭公が瀟湘八景、近江八景に倣って藩内でも八景を選び、天保5年(1834)ここに「僊湖暮雪」の碑を建てました。自然石を選び、あたかも地中から出ているように台座が見えないのが特徴ですが、他所の八景碑はその後の改修で台座に載せられているものもあります。

和実梅の碑
好文亭奥御殿の清の間東側にあるこの碑は、柳川枝垂付近の竹垣の外から見えます。戦災で焼け落ちた奥御殿跡から発見され、樹が枯れたので碑を床下に置いたものと考えられます。
斉昭公が植物係の長尾左太夫に宛てた書状では、駿府から取り寄せた珍しい梅であったことがわかりますが、国内で現在見つかってはいません。白色遅咲き、実の核は極めて脆弱にして容易に噛み砕き易しという記録が残っているそうです。

園内の遅咲き梅の代表、「江南所無」が満開です。眼下に千波湖が見えます。平均水深が、約1.0m程度であるため、分類上は沼になりますが、昔から「千波湖」と呼ばれており、さらに法律上は、河川(桜川の一部)に位置づけられているそうです。

梅花繚乱 ②

2018年03月16日 | 水戸の観光
例年より低い温度が続き、咲き遅れていた水戸の梅まつりですが、ここへきて暖かい日が続いたので遅れを一気に取り戻し満開を迎えました。びっしりと隙間なく咲く桜は離れても楽しめますが、梅は近くでそれぞれ違った咲き方の一輪一輪を眺める楽しさもあります。

「玉英」は、良質な実を収穫する実梅です。青梅市原産で、ゆかりの河合玉堂と吉川英治の名前をとって名付けられたと聞いたことがあります。(偕楽園)

「古金襴」と言うのは、室町中期に中国から渡来した豪華な織物・金襴のことです。紅筆性で、蕾や花弁の先が紅色を帯びます。(弘道館)

大きい花で知られる「白牡丹」と「黒田」を500円玉(直径26ミリ)と一緒に撮ってみました。「武蔵野」、「滄溟の月」「江南所無」 などが、大輪の代表です。(偕楽園)

小さい花の代表が、「米良(めら)」と「矮性冬至(ちゃぼとうじ)」、米良は江戸時代から梅花最小輪とされてきました。どちらも野梅系で結実品種です。(偕楽園)

「八重唐梅」はスモモ系梅でも結実します。日本に導入された紅材性梅の初期の品種と図鑑には載っています。(偕楽園)

裏紅という咲き方の「内裏」は、三重の花弁の外側ほどより紅くなり、ほんのりと透き通って繊細な美しさを醸し出します。さすがに花梅の代表、ほとんど結実しないようです。(弘道館)

紅色の濃い梅は、「本紅」といいます。「鹿児島紅」はその代表的な梅、スモモ系の紅材性、結実しません。(弘道館)

「八重茶青」は野梅系、梅田操「ウメの品種図鑑」では八重茶青(Ⅰ)と(Ⅱ)に分かれており、こちらは(Ⅰ)、梅花集、梅花名品集に伝わる名品と載っています。(弘道館)

紅色と白色が同じ花の中や、隣同士の花や、枝ごとなどで咲き分ける品種の代表が、「思いのまま」、「輪違い」ともいい最近の園内の名札はそうなっています。「思いのまま」の方がいいと言われたこともありましたが、確かにその意見に賛成です。(偕楽園)

紅白咲分けの品種は他にもあり、この「五色梅」は枝に黄色い筋が入る特徴があります。野梅性八重、五色の色に咲き分けるとでもいう名前にしたのでしょうか。(偕楽園)

底紅という咲き方は花弁の中心が赤くなります。「関守(せきのもり)」はさらに赤い筋が入り、よく似た「東雲」も偕楽園にあります。「鈴鹿の関」も同じスモモ系の紅材性、いずれも結実します。どちらも名前に「関」が付く理由を、名を付けた人に聞いてみたいものです。(偕楽園)

筋入りとは、本来の枝の色のほかに黄色などが枝に長い筋となってあらわれることをいい何種類かの品種があります。弘道館の白壁外の通路にある垣に囲まれて完全に横たわった梅は、「筋入り春日野」ではないかという庭の花たちと野の花散策記ブログの雑草さんの見立てです。確かに筋と紅い絞りが見えています。(弘道館)

※雑草さんからコメントがあり、横たわった梅(臥龍梅)は枯れており、その跡に植えた梅が「筋入り春日野」ということでした。先代を肥料にして、新しい品種が育っている写真を添付しました。

番外編。梅林の下ではイヌフグリの群落が青く染めています。可憐な花で数個では目につきませんが、まとまって梅に負けじと咲き誇り歓声を浴びています。(偕楽園)

1月から咲き始めた梅花も「雪裡春を占む天下の魁」の役目を全うして散り始め、世の話題は桜に移り始めました。

白梅や老子無心の旅に住む  金子兜太
万蕾の白梅にして紅きざす  鷹羽狩行
むすめらは嫁ぎ紅梅さかりなり  山口青邨