顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

初夏の帰化植物

2015年05月23日 | 季節の花
いつものコースを歩いていると、春から初夏にかけて花の選手交代が忙しくなります。最近特に多くなったと感じられるのが帰化植物、今まであまり関心がなかったせいかもしれませんが、道端の花を撮って調べるとほとんどが帰化植物です。



ここ数年土手や公園の芝生の間に咲いているこの可憐な花はマツバウンラン(松葉海蘭)、蘭という名前でもゴマノハグサ科で北米原産、写真の畦道で風にそよぐ姿はまさにスレンダービューティーです。
この美人たちも間もなく刈払機の餌食になります。越年草とあるので数本採ってきて、プランターに植えてみました。因みに越年草とは、冬の前に発芽し、冬を越えて春から夏に花を咲かせて枯れるもの、 実質的には一年草生植物でありロゼットを形成するものもあると載っています。
しかし、芝生の中に出てくるのを、花壇の中に植え替えてやると一年で消滅、相変わらず芝生の中だけに出てくる我が家のネジリバナ。あまり過保護な状態では生きられない植物もあるみたいで感心しましたが、この美人たちも同じように他の植物に揉まれた状態でないと育たないなと思っています。



園芸品種のオキザリスに似たムラサキカタバミ(紫片喰)、花弁中心部の濃い紫の筋がすっきりと印象的ないわゆる小股の切れ上がった美人です。学名はOxalis corymbosa とオキザリスの名がついている多年草で原産地は南米です。オキザリス属で調べると、花の美しいものは園芸用に栽培され、多くは学名カナ読みでオキザリスと呼ばれるというのですが、区別されるほど醜い花では決してありません。ただ、繁殖力が強くて世に蔓延り、厄介者になっているようです。確かに美人ばかりの世の中では、面白くないかもしれません。

この他にも、アカバナユウゲショウ(赤花夕化粧)、ヒルザキツキミソウ(昼咲月見草)、ニワゼキショウ(庭石菖)、ナガミヒナゲシ(長実雛罌粟)など充分に園芸用になれる器量良しですが、やはり他を押しのけて出てくる繁殖力の強さが、雑草として駆除される方に入れられてしまうのでしょうか。

ラムサール条約と涸沼

2015年05月14日 | サイクリング



薫風の日曜日、涸沼サイクリングコース沿いの田んぼは一斉に田植です。結構広い耕作面積が多い地区ですが、農業だけではやっていけず、どこも兼業農家が当たり前になっているのが現実で、どうしても休日の農作業が多くなります。せめて、天候がその日に良くなることを、一緒に願ってあげることくらいしかできませんが…。
そこで二句、「日曜は 瑞穂の国の 田植かな」 「田植する この真下にも マグマ沸く」



コース沿いの葦の広い湿原が刈られていました。この一帯はラムサール条約登録候補地になったとニュースで報道された一部、新聞によると所有者の会社が、太陽光発電事業計画の事前調査のためという。この場所は、ここは通るたびに、いろんな囀りがうるさいほど聞こえて、野鳥観察者も集まるところです。葦はすぐに伸びるとしても、子育てで営巣中の鳥たちには影響ないのでしょうか。しかもラムサール条約の目的が「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地の保全」と明記されているわけですから。

どうしても守備範囲内での行政対応では後手になってしまうので、目的を共有した連携対応を願わずにはいられません。そのためには、やはり行政が購入して将来を見据えた保全に取り組むべきと思います。
パスカルの名句「人間は考える葦である」にありますように、充分に考慮していただきたいと思います。

ところで葦はイネ科の多年草、アシ、ヨシと呼び名が二つ、正しくはアシ。ヨシという和名は、アシが「悪し」に通じるのを避けて、「良し」と言い換えたもの。関東ではアシ、関西ではヨシが一般的と載っています。

弘道館などが日本遺産に認定

2015年05月04日 | 水戸の観光



藩校としての旧弘道館と偕楽園、大日本史編纂の彰考館跡、加倉井砂山の日新塾跡をまとめた水戸市の遺産群が、栃木県足利市の足利学校、岡山県備前市の閑谷学校、大分県日田市の咸宜園とともに日本遺産「近世日本の教育遺産群」―学ぶ心・礼節の本源―に選ばれました。

日本遺産は全国各地の文化財や遺跡、伝統芸能などをまとめ、それを通して日本の魅力を伝えるいわゆるストーリーを認定する、今年から始まった文化庁の事業で、今回は83件の申請があり、18件が認定されました。水戸を含めた近世の教育遺産群グループは、世界遺産を目指していますが、第一ステップとしての日本遺産申請でした。

認定のニュースの翌日4月25日、たまたま弘道館の案内活動日でしたが、思ったほどの来館者はありませんでした。しかし半数くらいの方がニュースで知って出掛けてきたという、知識のある方ばかり、普段は静かな歴史地区ですが、ちょうど統一地方選の最終日、選挙カーの賑やかさだけがひとしおでした。

いま水戸城周辺の景観の整備が行われており、三の丸にある弘道館から大手橋を渡り、二の丸の学校群の通りの塀が白壁に変わりつつあり、さらにその先、本丸手前に杉山門、柵町坂下門が立てられ、城跡の風情がさらに強くなりました。
水戸城はもともと土塁の城で、天守閣もなく、城めぐりの観光客にはやや期待外れの声が聞こえる一方、この方が味があるという通の方もおられます。そういう意味でむやみに建築物を再建しない方がいいという意見もありますが、今後の世代の方の興味を惹く一助になれば、ある程度の視覚的な魅力も必要と思います。数年後には、水戸駅方面から見えるところに隅櫓、大手橋に大手門が再建されることが決まっているので、さらに観光客誘致に役立つことでしょう。



写真は白壁の続く二の丸から本城橋方向を撮りました。大きなシイの木、見晴台入口、新しく建てられた杉山門が見えます。この大シイは樹齢400年、水戸藩の創設以来の歴史を眺めてきたものです。お城といっても佐竹氏の統治以後、攻防戦があったわけではなく、明治元年(1868年)戊辰戦争最終章、藩内抗争による弘道館戦争が最初にして最後の戦いでした。この時に藩校弘道館の武館、文館などを焼失し、また明治5年の不審火による本丸の炎上、そして昭和20年の空襲による三階櫓などの焼失と続き、弘道館の正門、正庁、至善堂を除いた建造物をすべて失いました。



大シイは、弘道館内の対試場を見下ろす三の丸小学校の敷地内(元の弘道館武館跡)にもあり、北辰一刀流や神道無念流の試合を眺めてきた老木ですが、樹齢は同じくらいでしょうか、昭和20年8月2日、終戦直前の水戸大空襲によって市街地の7,8割は消滅しましたが、生き残りました。大きな洞が口をあけて何か言いたげな様子に見えたので、写真に収めてみました。