顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

会津鶴ヶ城…落城の悲話が残る東北の名城

2022年10月29日 | 歴史散歩

会津若松城、通称鶴ヶ城は豊かな水資源と広大な穀倉地帯を持つ会津盆地の中心にある梯郭式の平山城です。室町時代の初め葦名氏が東黒川館として造営したのが最初といわれ、天正17年(1589)には伊達政宗が攻め取りますが1年後には秀吉に召し上げられます。その後54年間は蒲生氏、上杉氏、加藤氏と領主が変わりますが、寛永20年(1643)徳川秀忠の庶子保科正之が23万石で入封し、明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城となりました。


慶応4年(1868)の戊辰戦争では、旧幕府軍の東北最後の拠点として薩長などの新政府軍に攻められ、圧倒的な兵力の差にもかかわらず約1か月も激戦が繰り広げられました。ついに9月22日降伏開城しますが、「難攻不落の名城」として後世に語られるようになりました。  (落城後の写真は、国会図書館デジタルコレクションから借用しました)


新政府の命により石垣を残して取り壊された天守は、昭和40年(1965)に鉄筋コンクリート造により外観復元の5層の天守として再建されました。さらに平成23年(2011)には当時と同じ「赤瓦」への葺き替えを行い国内唯一の赤瓦の天守閣となり、その姿がさらに優雅になりました。
しかも、本丸周辺に残る石垣や堀、土塁は当時のままなので、東北の雄藩の壮大な規模の城砦を偲ぶことができます。


天守の石垣は蒲生氏郷が築いた「野面(のづら)積み」で、自然の石を積み上げたものですが、東日本大震災でも被害がなかったそうです。城内の石垣には時代とともに進歩して石の角や面を整形した「打込み接ぎ(はぎ)」、「切込み接ぎ」も見られるので、お城好きには人気の城址です。


今は一帯が本丸を中心とした約69,000坪の敷地面積を誇る鶴ヶ城城址公園となっており、歴史と四季の自然を楽しめる東北有数の観光スポットです。


大手門につながる重要な拠点の北出丸と追手前西濠、当時石垣の角には東北隅櫓が建っていました。


北出丸大手門は枡形の石垣門です。ここは、出丸や主郭の帯郭、櫓など三方からの射撃が集中し、その防御の堅さから「鏖(みなごろし)丸」といわれたと伝わっています。


北出丸から眺める本丸を囲む三岐濠と土塁です。


北出丸から椿坂という土橋を渡り本丸に通じる大手門には多聞櫓があり、直径5尺8寸(約1.8m)の大太鼓が備えられ藩主の登城や非常事態の合図に使用されていたため、太鼓門とよばれていました。


この石垣は「打込み接ぎ」、右手の6角形の大きな石は、直径2m、奥行3mもあり、魔除け(鏡石)の役目でこの巨石を入れたそうです。人夫に元気を出させるために女性を載せて運んできたので「遊女石」といわれたという伝承もあります。


大手門の渡り櫓などに内側から昇れるV字型の石垣階段です。




高い土塁や石垣に上がる階段が随所に見られました。戦いでは重要な場所になったことでしょう。


蒲生氏時代の表門です。石垣や土塀を切り抜いた背の低い「埋(うずみ)門」の形態だったとされています。


本丸の大広間跡で、奥に茶室「麟閣」があります。秀吉の命で切腹した千利休の子少庵を会津に匿った当時の城主蒲生氏郷が建てたと伝わります。城下に移築されていたものを平成2年に、元の場所に復元されました。


本丸を囲む巨大な土塁、この先に月見櫓がありました。


茶壷櫓から廊下橋を見下ろしました。いざというときには落とせる橋になっています。右側が二の丸、遠くに雲に隠れた磐梯山が聳えています。
この茶壷櫓は橋を攻める敵の側面を攻撃する重要な櫓、櫓の下にあった茶室麟閣の貴重な茶器類が納められていたので名が付きました。


二の丸からの入り口、廊下橋左右の約20mの高石垣は、場内で一番美しい石積みといわれています。


廊下橋門も枡形状に配置された高い石垣が続き敵を防ぎました。たまたま七五三の晴れ着が見えました、いいですねぇ平和の世の中は…。


この一角は、さらに石垣の技術が進歩した「切込み接ぎ」の時代に積まれたものと思われます。


西出丸からの入り口、西中門も直角に折れ曲がった「切込み接ぎ」の石垣です。

西中門の土塁上の鐘楼堂です。

ここに新政府軍の砲火が集中し、鐘守が相次いで斃れても落城の間際まで正確に時を告げ、大いに味方の士気を鼓舞したと伝わります。

そもそも藩祖保科正之の家訓「徳川家に忠勤尽くすべし」を守り、家中の反対を押し切って京都守護職に就任した藩主松平容保は、禁門の変の制圧や勤王派の志士たちを弾圧した朝敵とされ新政府軍の追討対象になってしまいました。恭順の意も、近隣諸藩の赦免嘆願も受け入れられず、徹底抗戦の道を選び、時代遅れの装備と少ない兵力での熾烈な戦いでは、白虎隊など数多くの悲話を残しました。


土塁の上に咲いていた野菊、間もなく奥州会津にはいつもの冬が訪れます。

金木犀の二度咲き?…秋もたけなわに

2022年10月24日 | 季節の花

初めて気が付きました。庭のキンモクセイ(金木犀)が9月末に今年の花を終わらせたと思っていたら、10月中旬過ぎにまた咲き始めました。調べてみると気温の状況などで2度咲くこともあり、それほど珍しくないと出ていました。


そういえば数年前に三嶋大社(静岡県)で毎年2回開花するという金木犀を撮った写真がありました。ウスギモクセイ(薄黃木犀)という品種だそうで、確かに薄い黄色でした。


野菊の群生…この辺の野菊といえばほとんどこのカントウヨメナ(関東嫁菜)です。

カントウヨメナは、個体差によって紺色の花もあります。


秋の花といえば、なんといってもホトトギス(杜鵑草)が個人的には好みです。


シュウメイギク(秋明菊)も好きな花ですが、あまりにも立ち繁らないで数輪で咲いてる方がいいですね。


カラスウリ(烏瓜)が色付いてきました。まだ紅くならないものはイノシシの子供のようなので、「うり坊」とも呼ばれていますが、ちょっと変わった形でした。


農家の敷地の隅に咲いていたカタバミ科のオキザリス、園芸品種です。


こちらはイモカタバミ(芋片喰)、南米から観賞用に持ち込まれたものが野性化しました。芋(イモ)の様な塊茎をもつ事から名前が付きました。


これがいわゆるカタバミ(片喰)です。夜になるとクローバーに似た葉を閉じる習性があり、片方が欠けたように見えることから名づけられたといわれています。


この威勢よく立ち上がっているのは、オッタチカタバミ(おっ立ち片喰)、最近どんどん増えてきた北米原産の外来種、戦後駐留軍の荷物について進入してきたとされます。


野性化といえばヤナギハナガサ(柳花笠)も多く見かけます。柳のような葉で花笠のような花序が名前の由来のクマツヅラ科の多年草、バーベナの仲間です。


黄色い花は嫌われモンが多いとブログに書いたことがありましたが、この花わかりますか?
悪名高きセイタカアワダチソウ(背高泡立ち草)です。この近辺でも菜の花のような群生をあちこちで目にします。


散歩道にダリアとコスモスの咲いている空き地がありました。少し離れた家の方が植えているようですが、いいですねぇ、どうぞ見てやってくださいというお気持ちが…

ねぎ蕎麦…会津西街道宿場町の秋

2022年10月20日 | 食べログ
何度か訪れた大内宿(福島県下郷町)、ねぎ蕎麦というものがあることは知っていましたが、いつも昼食時間を過ぎていたので今回初めての注文でした。

ドーンとネギ一本が添えられた「ねぎ蕎麦 1100円」です。載っているのは大根おろしと梅干、刻みネギ、大葉と刻み海苔…頼んだのは冷たい蕎麦でしたので、そばつゆをかけていただきます。


さて、箸の代わりにネギを用いて蕎麦を食べるので、蕎麦をすくいあげて口元に持ってくるのが、滑ってなかなかうまくいきません。途中でネギを齧ると、その辛さが蕎麦に合うことは確かですが…。


蕎麦好き仙人にはちょっと邪道という印象は残りました。しかし蕎麦は美味しく、もちろん途中から箸の出番になりましたが、完食です。
この蕎麦ですが、会津松平家初代藩主で徳川秀忠の庶子、保科正之が長野県の高遠藩から移封されてきたときに、蕎麦文化が持ち込まれたともいわれています。


大内宿は会津若松と日光を結ぶ会津西街道の宿場です。江戸時代には会津藩が江戸と結ぶ幹線道路の一つとして整備し、物資の輸送や会津藩主の参勤交代にも利用した重要な街道の宿場でした。
明治になってこの街道が東の阿賀川沿いに付け替えられたため、開発に取り残された集落は当時の面影を今に残すようになりました。


街道に沿った南北500m、東西約200mに寄棟造りの家が道路と直角に整然と並んでいる景観は見事で、他には何もない場所ですが観光客で賑わっています。


主屋の多くは江戸時代後期から明治にかけて建てられたもので、道路側に半間幅の縁側を付けその奥の二室を座敷にしています。その縁側にはほとんどの家でお土産類を並べてあり、座敷で蕎麦類を提供する家も多く見かけました。
大内宿観光協会の店舗マップには、このような店舗兼住宅が45軒載っていました。


道路の中央には広い溝が設けられ宿場の用水路として利用されていましたが、明治以後は道路の両側に側溝が掘られて各戸の洗い場が設けられています。


伝統的な茅葺屋根は、茅手(かやで)と呼ばれる職人を中心に住民が協力して屋根の葺き替えを行って維持しているそうです。 (写真大内宿観光協会ホームページより)


「街道の両側に均等に並ぶ寄棟の家屋」が江戸時代の宿駅制度に基づいた宿場の形態を残すとして、昭和56年(1981)「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。


常陸大掾氏と府中城…国府から府中藩陣屋への歴史

2022年10月16日 | 歴史散歩
石岡市市街地から西に突き出た比高20mほどの台地にある府中城は、大掾氏15代詮国が正平元年(1346)に築城した平山城で、東西500m、南北400mあり、本丸、二の丸、三の丸の他に出丸をいくつも備え、幾重にも土塁や堀を巡らした堅固な城郭でした。

「図説・茨城の城郭」掲載の府中城概念図をgoogle mapに大雑把に落とし込んでみました。

この場所には、7世紀後半から11世紀まで常陸国の国府が置かれ、北に常陸国分寺や常陸国分尼寺、南に常陸國總社宮が配置されていました。


そもそも大掾氏とは、桓武天皇の曾孫高望王の子平国香が常陸大掾に任官して土着し常陸平氏の祖になったと伝わります。その子貞盛は平将門の乱で同族の将門を破り,この地方に勢力を伸ばし子孫は常陸大掾の職を世襲し職名をみずからの名字としました。鎌倉時代の初め,本家の大掾義幹と弟の下妻広幹は鎌倉殿の13人で守護の八田知家の讒言により失脚、大掾職は庶流で現在の水戸城近辺を所領していた馬場資幹に継承されました。

その後も八田知家が祖の小田氏や江戸氏、佐竹氏などと争いながらも勢力を保っていた大掾氏ですが、天正18年(1590)に佐竹義宣に攻略され400年の歴史を閉じました。その佐竹氏も慶長7年(1602)に出羽国に移封となり、水戸藩初代藩主徳川頼房の四男頼隆が2万石で府中藩として立藩、大掾氏府中城の三の丸に陣屋を置きました。しかし水戸藩同様の定府制のため、藩主以下大半の家臣は江戸に詰め、陣屋には郡奉行以下20数名が駐在しただけでした。


大掾氏の府中城の遺構は市街地化によってほとんど消失し石岡小学校付近に堀と土塁が少し残っているだけです。国府跡の碑と土塁の跡です。

歴代大掾氏の墓所が府中城の700m南にある曹洞宗の平福寺にあります。

中央にある最大の五輪塔は高さ1.62m 、その周囲に14基の五輪塔が並んでいます。


この大掾氏の菩提寺の平福寺は平国香の開基と伝わり、かっては奈良西大寺の末として府中5大寺のひとつでした。寺号に平家の「平」を付けたのでしょうか。


境内にある平景清の墓です。鎌倉時代初期の武将で藤原忠清の子。木曾義仲との戦いをはじめ一ノ谷、屋島、壇ノ浦と転戦、平氏滅亡後建久6年(1195)頼朝に降伏し、預けられた八田知家の屋敷で80日の断食の後に死んだといわれます。この景清は当地で出生したという伝承もあるそうです。

さて、時代は変わり江戸時代、常陸府中藩の陣屋門です。

文政11年(1828)に建築されたもので、火災にあった江戸屋敷を再建した際、その余った材料を使って建築したといわれています。現在は元の場所の数メートル南側の市民会館駐車場内に移転されています。袖塀は新しく復元され、門にも修復の痕があちこちに見られます。
この門は「高麗門」という様式で、左右の鏡柱からのびた控え柱との間に、それぞれ小さな切妻屋根をのせているのが特徴です。

府中藩主松平家の墓所のある雷電山西向院照光寺も近くにあります。

応安7年(1374)常陸大掾隆幹の開基とされる浄土宗の古刹で、幕末の天狗党の乱には田丸稲之右衛門一派の宿舎となりました。


お寺なのに鳥居のある墓所です。
水戸徳川家御連枝の墓所は、常陸太田の水戸藩歴代藩主の墓所、瑞龍山に合葬とされていますが、墓碑にある9代松平頼縄と10代頼策の2柱は、上屋敷のあった小石川の宋慶寺から大正15年(1926)ここに移したと案内板に記されています。


奈良時代の常陸国府から中世は大掾氏の府中城、江戸時代には水戸藩のご連枝常陸府中藩…1300年の歴史は市街地の下に静かに眠っているようでした。

秋の気配濃厚…散歩道で

2022年10月10日 | 季節の花

ステイホームが当たり前になりつつありますが、たまに出た散歩通では樹々が色付きはじめていました。


ナツハゼ(夏櫨)は日本のブルーベリーとよばれるそうです。そんなことはつゆ知らず少年時代は、「ハチマキボンボ」という名の山のおやつでした。


見つけました、ハツタケ(初茸)です。シーズンの初物として古来より珍重されました。5,6個採れましたので、もちろん美味しく秋を味わいました。

初茸の無疵に出るや袂から  一茶


ミゾソバ(溝蕎麦)は湿った場所を好むタデ科の仲間、アップで見ると金平糖のようなかわいい花です。


似ているヒメツルソバ(姫蔓蕎麦)は、増えすぎて困るという話をよく聞きます。


この近辺でヤマブドウといってるこの実は、正確にはエビヅル(海老蔓)だそうです。


野性のシバグリ(柴栗)が落ちていても拾う人は少なくなりました。数個ポケットに入れて帰ったら、数日後には虫の粉が出ていました。縄文人の集落にも植えられていたといわれています。


クズ(葛)の花が終わり、マメ科独特のサヤ(莢)状の実が生っていました。


同じくハギ(萩)の花もマメ科、小さい実が生っています。


いかにも秋を感じる地味なこの菊は、シロヤマギク(白山菊)でしょうか。



番外編。
コスモス畑を宣伝している近くの町の公園に行って来ました。あまりにも馴染み過ぎているので、在来種と思っていましたが、メキシコ原産の外来種でした。
歳時記では、コスモスは外来語なのでカタカナ、秋桜は別名で詠まれていますが、山口百恵のヒット曲からコスモスの漢字として秋桜が使われるようになったという話もありました。


コスモスや無人駅にもある別れ  溝口麗子
コスモスににらみをきかす赤ん坊  夏井いつき
秋ざくら霧の迅さにみだれけり  町田しげき
風去れば色とり戻す秋桜  稲畑汀子