国指定重要文化財の楞厳(りょうごん)寺山門は、室町時代中期の建立とされ、仏頂山の麓に立つ茅葺きのその姿はあたかも日本の原風景を見るようです。本堂はこの奥約400mのところにありますが、これは寛永8年(1631)の火災で本堂などが焼失し山門だけが焼け残り、奥の院にある観音堂を仮の本堂にしたためだそうです。
ここは仏頂山から高峰に至るハイキングコースの入り口で、何度か訪れましたが、山門があまりにも離れている謎がやっと解けました。
なお寺裏手のシイ(椎)の森は、ヒメハルゼミの北限発生地として国指定の天然記念物に指定されています。体長25㎜くらいの小さな蝉が鳴き出すと山全体で一斉に合唱するという習性だそうですが、まだ聞いたことはありません。
仏頂山側から見た山門、遠くに笠間城址のある佐白山(182m)が見えます。
笠間市のホームページにある山門の説明です。
「この門は禅宗様式の四脚門である。主柱を高くのばし平三斗組(ひらみつとぐみ)で梁木(はりぎ)を受け,控柱(ひかえばしら)も平三斗組で桁(けた)および繋虹梁(つなぎこうりょう)を受けている。柱間には扉や壁がなく,全部吹抜けである。軒は,一軒繁垂木(ひとのきしげたるき)であるが,後年の補修で内法貫(うちのりぬき),飛貫(ひぬき),頭貫(かしらぬき)の各鼻には,それぞれ異なった繰形の木鼻を飾り,また虹梁の下には花模様付の錫状彫(しゃくじょうぼり)が施されている。屋根は,切妻造りの茅葺きで全体に簡素で優れた山門である。」
さて仏頂山楞嚴寺は臨済宗妙心寺派の寺院、鎌倉以前といわれる創建当時は律宗の寺院と伝わりますが詳細は不明です。鎌倉時代中期にこの地を攻略し笠間城主となった宇都宮氏の一族、笠間時朝が再建し菩提寺としたものを、室町時代に僧大拙に請い精舎を再建し禅宗に改め現在の寺号にしたと伝わります。
本堂は昭和29年の再建、14世紀の作と伝わる木造大日如来坐像が祀られています。
旧観音堂は、かって仮本堂の役目もしていました。
太子堂は修理銘札には明治23年(1890)建立とあります。木造聖徳太子立像と木造虚空蔵菩薩立像が祀られています。イノシシ注意の立て札も見えます。
十三仏が並ぶ奥には収蔵庫があり、国指定重要文化財の木造千手観音立像が収められています。笠間時朝は、京都の三十三間堂の千一体の千手観音像のうちの2体を寄進するほど信仰心が篤く、この地に6体の仏像を作らせ安置したという笠間六体仏が伝わっており、現存するその3体のひとつで、背面に建長4年(1252)藤原朝臣時朝名の銘文が陰刻されているそうです。
笠間氏の歴代墓所です。真ん中に初代時朝の五輪塔、従五位上行長門守藤原朝臣時朝公の文字が読める石碑が建っています。
笠間氏は戦国時代も生き残りましたが、秀吉の小田原攻めの際には本家に逆らって北条氏に味方したため天正18年(1590)本家に攻め滅ぼされてしまい、約400年の歴史を閉じました。