顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

茅葺きの山門…楞厳寺 (笠間市)

2019年09月29日 | 歴史散歩

国指定重要文化財の楞厳(りょうごん)寺山門は、室町時代中期の建立とされ、仏頂山の麓に立つ茅葺きのその姿はあたかも日本の原風景を見るようです。本堂はこの奥約400mのところにありますが、これは寛永8年(1631)の火災で本堂などが焼失し山門だけが焼け残り、奥の院にある観音堂を仮の本堂にしたためだそうです。

ここは仏頂山から高峰に至るハイキングコースの入り口で、何度か訪れましたが、山門があまりにも離れている謎がやっと解けました。
なお寺裏手のシイ(椎)の森は、ヒメハルゼミの北限発生地として国指定の天然記念物に指定されています。体長25㎜くらいの小さな蝉が鳴き出すと山全体で一斉に合唱するという習性だそうですが、まだ聞いたことはありません。

仏頂山側から見た山門、遠くに笠間城址のある佐白山(182m)が見えます。

笠間市のホームページにある山門の説明です。
「この門は禅宗様式の四脚門である。主柱を高くのばし平三斗組(ひらみつとぐみ)で梁木(はりぎ)を受け,控柱(ひかえばしら)も平三斗組で桁(けた)および繋虹梁(つなぎこうりょう)を受けている。柱間には扉や壁がなく,全部吹抜けである。軒は,一軒繁垂木(ひとのきしげたるき)であるが,後年の補修で内法貫(うちのりぬき),飛貫(ひぬき),頭貫(かしらぬき)の各鼻には,それぞれ異なった繰形の木鼻を飾り,また虹梁の下には花模様付の錫状彫(しゃくじょうぼり)が施されている。屋根は,切妻造りの茅葺きで全体に簡素で優れた山門である。」

さて仏頂山楞嚴寺は臨済宗妙心寺派の寺院、鎌倉以前といわれる創建当時は律宗の寺院と伝わりますが詳細は不明です。鎌倉時代中期にこの地を攻略し笠間城主となった宇都宮氏の一族、笠間時朝が再建し菩提寺としたものを、室町時代に僧大拙に請い精舎を再建し禅宗に改め現在の寺号にしたと伝わります。

本堂は昭和29年の再建、14世紀の作と伝わる木造大日如来坐像が祀られています。

旧観音堂は、かって仮本堂の役目もしていました。

太子堂は修理銘札には明治23年(1890)建立とあります。木造聖徳太子立像と木造虚空蔵菩薩立像が祀られています。イノシシ注意の立て札も見えます。

十三仏が並ぶ奥には収蔵庫があり、国指定重要文化財の木造千手観音立像が収められています。笠間時朝は、京都の三十三間堂の千一体の千手観音像のうちの2体を寄進するほど信仰心が篤く、この地に6体の仏像を作らせ安置したという笠間六体仏が伝わっており、現存するその3体のひとつで、背面に建長4年(1252)藤原朝臣時朝名の銘文が陰刻されているそうです。

笠間氏の歴代墓所です。真ん中に初代時朝の五輪塔、従五位上行長門守藤原朝臣時朝公の文字が読める石碑が建っています。
笠間氏は戦国時代も生き残りましたが、秀吉の小田原攻めの際には本家に逆らって北条氏に味方したため天正18年(1590)本家に攻め滅ぼされてしまい、約400年の歴史を閉じました。

旧吉田茂邸   (大磯町)

2019年09月25日 | 旅行
旧吉田茂邸は戦後の内閣総理大臣を務めた吉田茂(1878-1967) が暮らしていた邸宅です。もとは明治17年(1884) に吉田茂の養父・吉田健三が別荘として建てたのがはじまりです。養父亡きあと吉田茂が邸宅を引き継ぎ、昭和20年(1945)よりその生涯を閉じる昭和42年までを過ごしました。

政界引退後も「大磯参り」と言われるほど多くの政治家が訪れ、また外国の賓客も多く招かれた近代政治の表舞台でした。昭和30年代に近代数寄屋建築で有名な吉田五十八が設計した新館をメインに増築再建されましたが、平成21(2009)年3月火災により消失、その後、大磯町、神奈川県の所有として当時の復元を目指した再建整備が行われ、平成29(2017)年4月より一般公開されました。

消失を免れた檜皮葺き屋根の兜門は、サンフランシスコ講和条約締結を記念して建てられた門で、別名「講和条約門」、軒先に曲線状の切り欠きがあり兜の形に似ていることから「兜門」とも呼ばれ、京都の裏千家の兜門と同じ製作者を京都から呼び寄せて造られました。

新館2階の金の間は賓客をもてなす応接間、部屋の装飾に金箔を用いたことによる命名で、ここから見える富士山を大層気に入って毎日眺めていたそうです

隣の銀の間は、天井に錫箔が張られているため銀色に見えることからの命名の寝室兼書斎で、吉田茂はここで最後を迎えました。

2階北側の浴室には、大磯の船大工が製作にかかわったといわれる珍しい舟形の浴槽が再現されています。

アールデコ調のローズルームと呼ばれる食堂は、ヨーロッパ的な照明や日本の木造建築が溶け合った室内空間です。吉田茂は新しく赴任した外交官補をこの食堂でよくもてなしたと伝わっています。

庭園内の七賢堂はもともと伊藤博文が建て、のちに吉田茂邸に移築された岩倉具視・大久保利通・三条実美・木戸孝允・伊藤博文・西園寺公望・吉田茂の7人を祀った祠堂です。

ワンマン宰相といわれた吉田茂銅像が立つ場所は海から約150m、海抜19mの高台、その眺望は抜群で、日米講和条約締結の地、サンフランシスコと首都ワシントンの方角に顔を向けているといわれています。

昭和36年頃に完成した日本庭園は、作庭家中島健の設計で、中心となる心字池を邸宅の正面に配置した、池泉回遊式の庭園ですが、数奇屋建築の本邸との調和や花を愛した吉田茂の嗜好を考えて造られています。

佛国寺、羅漢寺と木喰上人

2019年09月20日 | 歴史散歩

1300年以上の歴史を持つ岩谷山清浄院仏国寺は城里町塩子にある真言宗豊山派の古刹です。寺伝では大宝年間 (705)に行基が創建し、慶長年間(1596~1614)に教導上人が再興したと伝えられており、そのころに後陽成天皇の勅額を受け、江戸時代には25石の朱印地を受けていました。

寛文3年(1663)には徳川光圀公が訪れて2泊していますが、明治初めの廃仏毀釈によって山林などを失い、本堂も焼失し、仏像なども多くを棄却されました。

古くから関東の女人高野とし、また常陸第33番札所の第33番結願寺、そして県内屈指の観音霊場として知られています。

廃仏毀釈の難を逃れたと伝わる梵鐘です。貞享元年(1684)水戸藩の家老が奉納したと伝わります。

佛國寺18世観海法印上人の墓所は、奥の院といわれる岩の洞にあります。この上人は、水戸に羅漢寺という壮大な寺院を建立し、木喰仏で有名な木喰五行明満上人に木食戒を授けた師として知られています。(後述)

付近一帯はさながら霊場の気が漂う空間で古い石仏類が数多く置かれており、その崩れた顔の部分を修正した表情が何ともユーモラスで思わず和みます。
全国を回る修行を続け93歳で没した木喰五行明満上人の入定の地が、師の墓のあるこの場所という説もあります。

さて木食(もくじき)上人とは、五穀を食べず,木の実や草などを食料として修行する木食行を続ける高僧をいいますが、特に有名な木喰応其上人と木喰五行上人には口編の木喰を使うことが多いようです。

この佛国寺の18代住職の木食観海が、水戸の下町に水戸藩から134石の土地の寄進を受け、1万7千坪の広大な敷地に五百羅漢を安置する羅漢寺という真言宗の大寺院を建設しますが、宝暦12年(1762)落成寸前に失火で焼失してしまいます。
ちょうどこの頃、この地に立ち寄った木喰五行明満上人は觀海から木食戎を受け、明和7年(1770)の羅漢寺再建に師とともに努めました。その後安政2年(1773)北海道から九州まで全国を回る修行の旅に出かけ、各地で彫った木彫の木喰仏は今でも全国各地に500体以上残っているそうです。

しかし馬が床下を通り抜けたと伝わる本堂の高さがなんと十丈八尺(33m)の大寺院羅漢寺は、浅い歴史にもかかわらず信者や寄進者も多く栄えていたためか、斉昭公の天保の改革の寺院整理で早々と廃寺になり、天保9年(1838)には建物も取り壊されました。(宝蔵寺山門から見た北側、羅漢寺のあったあたりです。)

近隣には同じ真言宗の大きな寺院の六地蔵寺と宝蔵院がありますが、羅漢寺に関する文書類は残っていないようです。ただ51号国道沿いにあるバス停の名前の「羅漢橋」が僅かにその存在を訴えているにすぎません。
宝蔵寺には羅漢寺の御手洗いが残っており、「奉納手水石 五百羅漢 御寶前 明和七年庚寅九月吉日 常陸国新治郡松塚村 沼尻甚左門 隠居 松隣」とあり、落慶の年の寄進ということがわかります。

同じく宝蔵寺には觀海上人の五輪塔と二世観順の墓碑が並んで残っています。

なお仏国山文殊院宝蔵寺は、文明2年(1470)賢禅の開基と伝わる古刹で高野山真言宗別格本山、水戸大空襲で伽藍は全焼しましたが、壮大な寺院として再建されています。

この羅漢寺については網代茂著「水府綺談」と常陽藝文282号に詳しく書かれており、参考にさせていただきました。

小さな本丸…小原城 (笠間市)

2019年09月16日 | 歴史散歩

小原城址は東北約400m、南北約350mの平城です。現在は本丸跡に土塁と水堀の遺構があるだけですが、周辺の家の屋敷内数カ所にそれらしい土塁も残っています。

築城年代は諸説あるようですが、笠間市のホームページでは、「手綱郷(高萩市)の地頭里見家基は、鎌倉公方足利持氏より那珂西郡の地を与えられ、小原城を築き、弟の満俊に小原地方を治めさせた。文亀2年(1502)里見義俊は、養堂禅師の道風を慕って小原に廣慶寺(曹洞宗)を建立した。宍戸大田町の養福寺縁起に、小原領主里見義俊、子息義治、三郎里景、里元らの名がみえる。里見氏は、天正19年(1591)に佐竹氏に滅ぼされ、城も廃城となった。」と書かれています。

また、小原城は南西部にある宍戸城の重要地点で、築城年代は明らかではないが、里見氏が永享元年(1429)小原の地に領地を得、里見七郎義俊が文亀二年(1502)頃現在の館を中心に小原城(館)を形成したという説もあります。
いずれにしてもこの規模の城で、大掾氏、江戸氏、佐竹氏の攻め合う戦国時代のこの地に単独で生き残るのは考えられず、小田氏から佐竹氏に従属を変えた宍戸氏の出城的存在だったかもしれません。

本丸跡の地名は古宿、御城稲荷神社と集落の公民館が建っています。

本丸土塁の一部が残っています。北側は長さ26m、角の部分の高さは3m,頂上に小祠堂が建っています。

土塁の外側には水堀の遺構がありましたが、平成3年には埋められてしまったようです。

西側にある虎口らしき一画です。

小原神社前の民家の敷地内にある土塁、塀の外から撮らせていただきました。

大きな欅のある小原神社は、城域の外れに位置しており、永徳元年(1381)に富田左内道正が鹿島の神を奉迎したとされています。
なお、この一帯には原始から古代にかけての遺跡が多く、かなり栄えた地であったと推定され、この小原が「常陸風土記」の那珂郡の条にある「茨城の里」で、茨城(いばら)がなまって小原(おばら)となったという茨城の名の発祥の地説もあるそうです。

偕楽園の「左近の桜」が台風で倒伏!

2019年09月11日 | 水戸の観光

9月9日早朝、この地方を襲った台風15号の爪痕が偕楽園の左近の桜にも及びました。完全に倒れた根元を見ると根があまりなく、木質部分の色も茶色で一部枯朽していて樹高16mの大木を支えきれなかったと、素人判断です。

そういえばここ数年、満開時の咲き方も以前ほど元気がないような気がしていました。
(2013年、2017年、2019年の写真を並べてみました)
高台の芝生広場に立つ勇姿は遠くからも眺められ、市民や観光客にも親しまれてきた園内のシンボルツリー的な桜が消えてしまったのはまことに淋しい限りです。




この桜の由来は、天保2年(1831) 偕楽園を開設した水戸藩9代藩主徳川斉昭公の正室、登美宮降嫁の折、ときの仁孝天皇から京都御所の左近の桜の鉢植えを賜ったことにさかのぼります。
東京小石川の後楽園徳川邸に植えられたこの桜は、天保12年(1841) 弘道館の落成にあたり弘道館正庁玄関前に移植されました。 その後、初代、2代目は枯れてしまい、現在の桜は昭和38年(1963) 弘道館改修工事の完了を記念して茨城県が宮内庁より京都御所の左近の桜の系統(樹齢7年)を受領し、弘道館と偕楽園に植えたものです。
ヤマザクラの一種のシロヤマザクラで、幹の周囲は3.84m、 高さは約16mです。(すでに撤去された案内板の文に一部追加)

今週から、偕楽園も有料になることが決まっています。賛否両論がありましたが、すでに関連工事も始まっていますので、この木が抗議しての自害ではないと思うことにしましょう。
跡地はどうなるか?新しい園内整備プランが計画されているようですので、その一環として歴史や景観に配慮し、多くの人が納得できる整備をお願いしたいと思います。

そして4日後の12日、跡地はスッキリと整理されていました。天保13年(1842)開設当時にはこの桜はなかったわけですから、こんな広々とした景観があったのかと思うとどうにも複雑な気持ちに襲われました。