もともと水戸市平戸町のこの地は、常陸国府から涸沼川を経て陸奥へと通じる古代官道の平津駅家(ひらつのうまや)があった水陸の要衝で、そこを支配下に置くという統治を主とした城館だったので、戦いの防御には適さない低地でも建てたのでしょうか。
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農地化で遺構はほとんど壊滅していますが、涸沼川河口の沖積層低地に作られた館は、標高2~3mほどで高低差のほとんどない平地の城でした。(国土地理院地図)
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11世紀に書かれたとされる「将門紀」には、平将門が常陸平氏の祖で叔父の平国香を攻めて焼死させ、長男の平貞盛を追って蒜間の江(涸沼)の畔で貞盛と妻を捕らえたという記述があり、また新編常陸国誌には、平国香の長男貞盛の居宅が蒜間の江周辺の平戸の故城にあったと書かれていることから、ここを平貞盛居城跡とする説もあります。
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その後この周辺に進出してきた常陸平氏の大掾一族の石川家幹の6男高幹がこの地に配され平戸氏を名乗ったという文献があり、新編常陸国誌にも平戸村に堀之内という所あり、大掾の一族平戸氏の居所なりと出ているそうです。(以上常澄村史)
この平戸氏は本家の大掾氏とともに鎌倉の北条氏から足利氏、大掾氏から水戸城を奪取した江戸氏と、その時々の支配者に臣従して戦火に遭うこともなく、これは戦略上不利な城であったからかもしれません。やがて江戸氏が滅ぼされ佐竹氏の時代になると平戸氏は帰農しますが、水戸藩3代綱條のとき士分に取り立てられました。
天保11年の水戸藩「江水御規式帳」に大番組平戸七郎衛門幹徳 200石とあり、大掾一族の通字「幹」が付いているので、末裔の方でしょうか。
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農地の区画整理などで城跡はほぼ形がありませんが、当時は50m四方の方形の曲輪が二つの城館だったと考えられています。残った微高地の一画には吉田神社が建っています。
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この地は常陸三宮の吉田神社が南西約8キロのところに鎮座しているので、近在にはその末社が多く存在します。御祭神は日本武尊、城郭の中に八幡宮もあったようなので、水戸藩2代藩主光圀公の寺社改革の際に吉田神社に改められたかもしれません。
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鳥居脇にひっそりと建つ平戸館跡の石碑です。実際には南東の位置が1郭とされますが、民有地のため碑を置く場所がなかったようです。
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神社東側に土塁の跡がありますが、風化しているとはいえ高さは1mもありません。
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1郭北側にも土塁と堀の跡が見られます。
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1郭西側の土塁と堀跡です。堀跡の南側には、水戸街道始点の魂消橋から備前堀に沿っての飯沼街道がここを通っています。鹿島神宮を経て上総国飯沼観音に至る旧街道(約90Km)です。
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ここは国道51号と県道に挟まれた田園地帯、この一帯は那珂川、涸沼川の恩恵を受けた米どころとしても知られています。
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境内には大山阿夫利神社や稲荷神社などの摂社もありました。
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ここにも厄介な外来種のオニノゲシ(鬼野芥子)が蔓延っていました。ヨーロッパ原産のキク科ノゲシ属の越年草で世界中に帰化分布していて、我が国でも侵入植物DBに登録されています。
周辺より高い地に堀と土塁や石垣をめぐらした城のイメージとは程遠い城館の跡、こういう立地でも戦闘よりも統治を主とした城館として500年以上存在したことは、巧みな処世術で戦乱の世を生き抜いてきた稀有な例かもしれません。
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