顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

400年、水戸の下市を流れる備前堀と九つの橋

2018年04月28日 | 歴史散歩

水戸藩初代藩主徳川頼房公は、その53年の治世の間に水戸城と城下の整備に力を注ぎました。その一つが、水戸城防御の堀の役目をした千波湖が時々洪水災害をもたらしていたので、その治水と灌漑用水のため、慶長15年(1610)に関東郡代の伊奈備前守忠次に命じ築かせた用水堀で、その名が付けられた備前堀です。

当時の千波湖は現在の本一丁目辺りまで及び、その水を直接引いて東方へ新しく備前堀を掘り、下流20ヶ村に延長12km,水田約980ヘクタールを開発しました。後に大正から昭和にかけての千波湖埋立改修により、現在の桜川から取水するようになりました。

備前堀は現在でも農業用水に利用されており、稲作期間の初夏から秋口まで酒門や浜田、常澄の水田地帯を潤しています。この時期には柳堤堰でラバーダムにより桜川の水位を上げ、備前堀に一部通水します。稲作が終わると堰が無くなるため、備前堀の水量は減りますが、那珂川から桜川に鮭の遡上ができるようになります。
なお、ダムでせき止めた期間は、桜川の流れが緩慢になるので、千波湖にアオコが発生する原因になるともいわれています。

その名を付けられた伊奈橋は備前堀最初の橋、国道51号線に掛けられており、欄干が見えるだけで、ドライバーは橋の存在には気付かないかもしれません。

荒神橋は、仏・法・僧を守護するという三宝荒神を祀る竈神社の場所にあることから名付けられました。写真右の大木は樹齢330年以上の竈神社境内の大ケヤキです。

銷魂橋(たまげばし・消魂橋)は、江戸へ向かう水戸街道の起点で、ここで別れを惜しんだということで光圀公の命名とか、藩の禁令や法度などの高札が立てられていました。元治元年(1864)の天狗党の乱では、市川三左衛門率いる門閥派の藩兵がここへ陣を構え、藩主徳川慶篤の名代として水戸城に入ろうとした支藩の宍戸藩主松平頼徳一行を阻止し、水戸城攻防の最前線となったこともありました。

道明橋(どうめいばし)は、明和年間に近くの酒造業の道明作兵衛が掛けたのが最初といわれますが、現在は彫刻家山崎猛作の伊奈忠次の像が建っており、お盆の時期は灯篭流しや、春には鯉のぼりなど賑やかになる一角です。

三又橋(みつまたばし)。以前はこの地点で本流と町裏江(浜田,渋井,細谷,吉沼方面)に分かれ三叉になっており水門がありました。写真の右下に分岐の水門跡が見えます。川幅はここから少し狭くなります。

ここは浜田小学校への通学路なので、この橋は地元の人が学びの橋とよんでいたそうです。

金剛橋は、右岸にある金上山不動尊(瓦谷不動尊)の参拝路に地元の信徒有志の寄進によって掛けられました。「金剛」は仏教用語で、たいそう堅くてどんなものにも壊されぬ堅固の意味を持つそうです。後ろに不動尊の石柱が建っているのが見えます。

常陸山橋。大正の初め第19代横綱常陸山が先祖の墓所酒門共有墓地へ墓参の際、旧酒門街道筋の備前堀にかかっていた老朽化した木橋を見て新しいコンクリート橋を寄贈したものです。その後平成13年(2001)に改修され、欄干に常陸山のイラストが描かれています。

なおこの橋のすぐ下流に造られた県道179号線に、昭和30年(1955)2月竣工の橋がありますが、こちらは新常陸山橋ともよばれています。

この橋から下流の水田地帯に流れて灌漑の役目を果たす備前堀も、ここまでの下市地区周辺の流域は、歴史ある堀としての遺産を生かす都市整備がなされ、「歴史ロード」として美しい景観を見せています。

この周辺は昔、紺屋町という名で備前掘の流れでさらした染物屋が多くありましたが、現在も何軒かの店が営業しています。

この備前堀も、9月半ばを過ぎ灌漑用水の役目のない時期は、通水が止まり堀底が見えるほど水量が乏しく、水質も悪化してせっかくの風情が失われてしまいます。
柳堤堰からのポンプアップなどによる通年通水が検討されているようですが、なかなか実現していません。

桜川の備前堀樋門のプレートに記されている取水量は、3月25日から4月20日まで1日最大取水40,089㎥、4月21日から5月20日まで191,712㎥、5月21日から9月10日まで161,796㎥となっており、稲作のスケジュールにきっちり合わせてありました。

ラバーダムの周りには那珂川から上ってきて、この先へ進めなくなった大きな鯉の群れが泳いでいるのが印象的でした。

水戸のつつじまつり

2018年04月22日 | 水戸の観光

4月21日から5月13日まで、偕楽園、千波公園、水戸市森林公園を会場に「第34回水戸のつつじまつり」が開催されます。
今年は季節の訪れが早く、偕楽園では初日の21日にはもう満開のツツジが見られます。

開園当時に斉昭公は好文亭内庭から芝生広場にかけての調和を図るためにツツジを植えたと思われます。圧巻は樹齢300年の薩摩のキリシマツツジが約85株、古木のため近年衰えが見られるようになりました。

斉昭公は舟で水戸城から偕楽園南門に着き、櫟門をくぐってこの庭から好文亭に入ったといわれています。

まるで小山のような樹齢300年のドウダンツツジが白い花を咲かせています。周りの竹垣は偕楽園垣という様式の竹垣で、横の竹(胴縁)の取り付け方に特徴があります。

園内にはキリシマツツジの他に、ヤマツツジ、ドウダンツツジ、オオムラサキなどのツツジが約26株、少し遅れて咲くサツキ類が約150株、新緑の中に鮮やかな彩りを加えています。

樹齢200年以上とされる藤の花も咲き始めました。藤棚下のベンチは薄紫の花を見上げる顔がいっぱいです。

梅の実は昨年は大不作でしたが、今年はどうでしょうか?
花弁の退化した梅、酈懸(てっけん)梅はさすがに野梅系、実がびっしりと生っています。

竹林の筍がぐんぐん伸びています。ある程度伸ばしてから、切る竹残す竹を決め、傘を差して動けるくらいの間隔の見栄えのいい竹林にするそうです。

今年の4月は、花いっぱい!

2018年04月20日 | 季節の花

千波湖畔のエノキ(榎)に花が咲いています。
エノキはケヤキと同じニレ科で、ケヤキが太い枝を上に向かって伸ばすのに対し、エノキは横方向にも太い枝を伸ばします。漢字の「榎」は夏に木陰を作ることから、日本で作られた国字です。古来より一里塚などに利用され、実は飢饉の際の救荒植物とされました。

イカリソウ(碇草)は船の錨に似た淡紫色をした花をつけることから名付けられたようです。近辺の山野でも見られ、淫羊霍という生薬の原料としても知られています。

様々な品種が出回っていますが、変種や交雑種も多く品種の同定は難しいようです。我が家では2色が群生しています。

リキュウバイ(利休梅)
茶室に飾ることが多いことからの命名のようです。中国原産でバラ科ヤナギザクラ属、新緑の葉と白い花はあまり満開を主張しておりません。

ヤマブキ(山吹)はバラ科、この一種だけのヤマブキ属です。「実の(蓑)一つだになきぞ悲しき」という太田道灌の逸話にありますが、一重の山吹には実がちゃんとなるとか…八重の花には実はならないそうですが。雄蕊の真ん中に子房から出た雌しべらしきものが見えます。

シロヤマブキ (白山吹)はバラ科シロヤマブキ属で、ヤマブキとは全くの別種。黒い果実はいつまでも残り、種子を撒くと発芽して株がよく増えます。

いつもグラウンドゴルフをする野芝の中から、可憐なフデリンドウ(筆竜胆)が顔を出しています。秋に発芽して越冬し,翌年に開花結実する越年草です。

偕楽園公園で群生のホトケノザ(仏の座)、一年中見かける雑草ですが、世界第二位の都市公園の中でまとまって咲けば、充分に絵になります。

千波湖畔の崖下に、シャガ(著莪)、一帯は清浄な水が湧き出し千波湖に注いでいますが、湖の浄化にはまだまだ不足しているようです。

偕楽園の吐玉泉下の水辺ではミツカシワ(三槲)、ミツカシワ科ミツカシワ属の一属一種の多年草。山地や低地の沼地に生え、3枚の葉が、カシワの葉に似ていることから名が付きました。

ライラック(Lilac)は、フランス語での「リラ」の方がシャンソンなどで歌われて知られています。モクセイ科で香りがよく香水の材料にもなります。

このワスレナグサ(勿忘草)は、エゾムラサキなどの在来種の交雑種から出来た園芸品種です。寒冷地では多年草ですが、夏に弱く一年草として流通しています。

佐竹一族の北の守り…久米城址 (常陸太田市)

2018年04月18日 | 歴史散歩

久米城は、比高80m(標高100m)の地に、南北700m、東西400mの広大な規模をもち、鹿島神社本殿がその2郭にある本城(東城)、北側に竜貝城(西城)と北の出城、南側の尾根に南の出城と4つの城が連なった山城です。

麓の久米集落に城主や家臣の居館があり、山城部分はいざという時の詰の城としての総構えの構造でした。

〈本城跡〉
鎌倉時代に大掾氏が館を設けたのが最初と伝えられていますが、その後は常陸源氏の嫡流である関東の名門・佐竹氏の14代佐竹義治の四男で、佐竹義信を祖とする佐竹北家の居城として知られます。もともとは藤原秀郷の末裔でその後佐竹氏に従属した小野崎氏の一族、久米氏の居城でしたが、戦国時代初期、佐竹氏は一族でもある山入城主・山入氏と対立(山入の乱)しており、義治はその攻撃に備えて久米氏を部垂城へ移し、子の又三郎義武を城主にしました。

〈西の城跡〉
文明10年(1478)11月に山入義知に攻撃され、義武は戦死しますが、翌月には義治は城を奪還しています。その後、義武の弟の義信を初代久米城主とし、佐竹氏の居城である太田城の北方に位置することから義信以降、子孫は「佐竹北家」や「北殿」と呼ばれ、佐竹一門の重鎮として本家を支えました。

〈南の出城跡〉
慶長7年(1602)、佐竹氏の秋田転封に従って廃城となり、佐竹五家も宗家とともに秋田に移り、後に北家は角館を領しました。
尚、現在の秋田県知事佐竹敬久氏は、この佐竹北家の末裔で21代目です。

〈堀切と竪堀、∨字谷〉
現在城址には土塁や虎口のほか、堀切で遮断された曲輪群や竪堀、急峻なV字谷などの遺構を良好な状態で確認することができ、佐竹氏時代の城址の中では数少ない貴重な城跡です。

〈物見台跡〉
西の城の北側には一段高い物見台があり北方を見下ろしています。
佐竹氏時代には100城を超えたといわれる支城の中でも最大級の規模、太田城の北辺を守る重要な拠点だったことがわかります。

〈北の出城跡〉
地元の有志の方々による散策路の整備や丁寧な案内板の設置などが行われ、遺構を周って中世のロマンを充分に楽しめるスポットになっています。主要な場所には、五本扇に月の佐竹の旗が翻っており、まるで戦場の鬨の声が聞こえてくるようです。

本城の一段下、2郭には鹿島神社が建っています。城址説明パネルとパンフレットまで用意された道路脇の駐車場からは、神社の参道を上がれるようにわかりやすく整備されています。地元の保存会の方々に、拍手と感謝の念をおくりたいと思います。

久しぶりの春の山

2018年04月14日 | 山歩き

三年ぶりくらいに焼森山(423m)周辺を歩いてきました。ここは八溝山地鶏足山塊といわれ、城里町と栃木県茂木町の県境に位置し、鶏足山(430m)とともに近辺では人気の低山です。

春の訪れの速さは個人感覚で約2週間、雑木林の登山道を覆う満開のタチツボスミレ(立坪菫)とヤマブキ(山吹)にまず胸がときめきます。

マルバスミレ(丸葉菫)はその名の通り、葉が丸いのが特徴、いわゆるシロスミレの長い直立した葉で区別できます。

まだ蕾のハナイカダ(花筏)はミズキ科の落葉低木、花が筏に乗っていると先人が付けた風流な名前で晩春の季語ですが、同じ名の季語では「散った桜が水に浮かんで筏のようだという」花筏の方が一般的には知られています。

【番外編】  偕楽園公園の丸山橋のたもとに集まった花筏です。

雲も水も旅をしてをり花筏  相生葉留実
花筏寄りつ離れつ澱みつつ  中村苑子


さて、登山道のクサボケ(草木瓜)は別名シドミ(樝)、庭植えのボケの同属です。枝には棘がありますが、林間で見かけるオレンジに近い緋紅色は鮮やかです。

ヤマツツジ(山躑躅)も咲き始めました。山歩きでは、この酸味のある花弁を歩行中につまんで食べたものでした。

ありふれたチゴユリ(稚児百合)ですが、アップで見るとさすがユリの名前の付く(イヌサフラン科)だけあって、気品と色気があります。

本日の収穫はコシアブラ、採取の鉄則「一芽は残す」は守りました。そして僅かなワラビ、いつもは連休の始めくらいの採り頃が2週間の前倒しです。
前者は天ぷら、後者はおひたしでビールと共に腹に美味しく収まりました。

後日談  食した次の日の新聞に、この地区のコシアブラから基準値を上回る放射能セシウムが検出され、販売した直売所で自主回収が始まったという記事が出ました。
もうすでに腹の中、しかも後があまり無い老躯の摂取なので気にしていませんが、津波による原発事故から7年も経って、しかも120キロ以上離れた自然の中にまだ残存している放射能の恐ろしさを再認識しました。