顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

偕楽園の梅の種類と本数…梅のウイルス感染を乗り越えて

2022年02月23日 | 水戸の観光
茨城県では、コロナ感染者増加が収まらず「まん延防止等重点措置」が3月6日まで延長になり、水戸の梅まつりの開催もまた日延べになってしまいました。皮肉にも、今年は梅の開花も遅れていて満開は3月10日くらいになるかもしれません。


そういうことで掲載の写真はすべて以前のもので、今の状況ではありません。2月21日発表の偕楽園の開花情報は約18%(昨年同時期は約47%)です。


さて偕楽園の梅の種類と本数は、いたって流動的なものなので、通常大まかに100種、3000本というのが公式数字です。
水戸藩9代藩主徳川斉昭公が天保13年(1842)に開設の当初は200種、1万本ともいわれていますが、明治になってから常磐神社の創設などによる敷地の縮小、そして水戸空襲の被災、その後の管理不十分により減衰していたものが、やっと回復してきた昨今でした。


そんな機運の中で、日本一の梅林を目指そうと、「偕楽園公園を愛する市民の会」が平成18年(2006)から始めた「平成梅林整備事業」により402種、920本の梅の苗木が集まり、好文橋近くの苗畑A、B、C、D、Eで園内への移植を待っていました。


ところが平成21年(2009)に、青梅市でPPV(プラムポックスウイルス)という梅のウイルスの感染が発見され(青梅梅林では全部焼却)、青梅から移植の苗木もあるこの苗畑でも数本の感染が確認され、経過観察を重ねた結果、平成25年(2013)までに全部の苗木を抜根焼却する苦渋の決断せざるを得なくなりました。

その後の調査では偕楽園本園の感染は確認されず、苗畑の段階で本園や周辺への感染を防げたということは不幸中の幸いでした。焼却リストの中に珍しい名前の梅を見ると残念でたまりませんが…
現在ではこの教訓から梅の苗の増殖は原則として園内の母樹からの採取で、他方からの苗木は隔離状態で2年以上様子を見て感染の有無を調べてから移植するということを聞きました。


そして2019年の春には、焼却処分をした苗畑を復活させ、梅品種の見本園として花梅、実梅、枝垂れ梅220種が元のA、B、Cの3圃場に植えられました。今では番号札付きの梅がしっかり根付き花も咲き始めたので、本園への移植が進む今後の展開が楽しみになってきました。


見本園に掲げられていた説明書きです。


さらに本園内の苗木畑でも、従来からある偕楽園の種の保存が進んでいますので、由来がしっかりして、品種の特徴をより確実に有した後継種の拡充を期待したいと思います。


本園内の苗木畑の案内版です。

現在、偕楽園公園センターのホームページの写真入り「梅図鑑」に掲載されているのは97種ですが、苗畑で育った新しい品種が移植されつつありますので、今後増えていくことでしょう。



偕楽園の梅図鑑」  https://ibaraki-kairakuen.jp/zukan/  ←梅図鑑ページは緑色文字をクリックしてください。


なお、総本数は流動的ですが、老木の枯朽と、若木移植でも最近は木の間隔を開けているようなので、2600本位というのが現状のようです。その中で白梅が約7割、紅梅が3割…、また実を付ける実梅が6割、実の生らない花梅が4割くらいといわれています。


3月上旬には満開を迎える「水戸の梅まつり」、冬を耐えて咲き誇る梅花にコロナの終息を重ねられるようになれば嬉しいのですが…。
どうぞ園内の梅樹の品種名札を見ながら、いろんな梅の色や咲き方などを観察し、春を満喫していただきたいと思います。

巨大な達磨像…鳳台院

2022年02月17日 | 歴史散歩
笠間市にある国見山鳳台院慈眼寺は、曹洞宗のお寺で、大きな達磨像と2万株といわれるシャクナゲで、近年人気のお寺としてクロースアップされてきました。ステイホームの日が多くなったので過去の在庫写真から紹介させていただきます。

平安時代後期の永久年間(1113~1118)創建で片庭の国見山の麓にあった禅寺が前身とされ、争乱で廃寺になっていたものを、室町時代の文明8年(1476)に笠間城主笠間朝貞によって現在地に遷され、小田原の海蔵寺安叟和尚の十哲のひとりといわれた竺翁和尚を招き再興されたと伝わります。

江戸時代には寺運が隆盛し末寺が全国に110余寺、笠間藩領内でも35寺あったといわれ、寺領5石の朱印地が安堵されていました。しかしその後たびたびの火災にあい、寺宝もことごとく焼失し、現在は山門などに当時の面影を残しているだけですが、50年ほど前から広大な敷地に伽藍や墓地の整備拡張が続けられ重厚な寺域になっています。


山門は享保21年(1736)に建てられた総欅材の四脚門で柱や頭貫の見事な浮彫などに江戸時代中期の寺院山門様式を残しています。屋根は茅葺き切妻造りでしたが保存修繕を行い、銅製瓦葺きとなりました。


本堂の奥に建つ釈迦如来像、像高10mの青銅製の大仏です。
辞書を引くと「大仏は丈六(=1丈6尺)以上の大きな仏像」と出てきます。メートル法だと4.85m、これは釈迦の身長が丈六であったと伝えられ、そのため仏像の大きさは丈六が基準で、坐像はその半分とされたそうで、それ以上の大きさは大仏と呼ばれるそうです。


また達磨大師座像も像高10mの青銅製大仏で、世界最大級ともいわれています。約2万株といわれるシャクナゲ園を眼下にしています。


大きな観音菩薩像もあります。これも大仏と呼ぶ大きさ4.85m以上かどうかは分かりません。


観音堂本殿と仏舎利奉安の五重の塔です。


大きな石に達磨大師の顔を掘った達磨石が本堂入口で睨んでいます。


新坂東三十三観音の三十三番札所になっている観音堂です。


大きく立派な仁王堂も最近の建立のようです。

人が集まってこそお寺には意味があるという先代住職の思いを守り、大仏、シャクナゲ園、広い駐車場などを整備した、レジャー気分でも楽しめる寺院の姿は、仏教離れの世の中で存在を主張できる有効な一策かもしれません。

春の訪れが遅い?…コロナ禍の2022年

2022年02月10日 | 季節の花

立春を過ぎたとはいえ、偏西風の蛇行による強い寒気が日本列島に停滞する日が多く、温暖化が続いた例年とは違う様相を見せています。またコロナ感染者数も新記録を毎日更新中で、専門家のいうピークにはまだ少し時間がかかりそうです。
しかし、身の回りの自然は少し遅れてはいますが、いつもの通りの顔を見せ始めました。


狭庭のいつもの場所でフクジュソウ(福寿草)が開きました。
早春の花に黄色が多いのは、真っ先に受粉活動を開始するハエやアブが黄色い色により反応するからという説もあります。


落ち葉を除けるとシュンラン(春蘭)の蕾が…、眠っているのを起こしたようで撮影後にはまた落ち葉を掛けました。


沙羅の木の落ち葉の寝床が気持ちいいのか、粘土質の造成地の狭庭ではクリスマスローズだけがどんどん増えています。もうすっかり開花の準備はできているようです。


霜柱で持ち上がった土から、サクラソウ(桜草)が新しい葉を広げていました。ニホンサクラソウとして頂いたものが庭中に顔を出しています。


春一番に開くヒメリュウキンカ(姫立金花)、まるで太陽が庭に降ってきたようです。


シャクナゲ(石楠花)は、開花までまだ3か月以上あるのに、もうこんなに大きな蕾を用意しています。


道端のホトケノザ(仏の座)は葉の出方が仏の蓮座のように見えるところから名のついたシソ科の一年草、いまは一年中咲いている野草になりました。春の七草のホトケノザはキク科の黄色い花でまったくの別種、別名「田平子・たびらこ」ともいい季語はこちらの方です。


タンポポは圧倒的にセイヨウタンポポ(西洋蒲公英)が多くなりました。この写真も萼が反り返っている特徴が見え、しかも繁殖力の強さを感じる逞しい咲き方です。


イヌノフグリ(犬の陰嚢)は実の形から哀れな名前を付けられました。付けたのは、2023年のNHK朝ドラの主役、牧野富太郎博士です。最近では外来種のオオイヌノフグリが席捲しているので花の大きさ約8㎜のこの花も外来種の方だと思います。


農家の土手に白梅が開いていました。陽当たりがいい南向き斜面は開花が早いようです。

今日2月11日から開幕予定の水戸の梅まつりは、コロナ感染拡大で「まん延防止等重点措置」の期間中のため、延期になってしまいました。本当の春はいつ訪れるのでしょうか。

花よりも名に近づくや福寿草  加賀千代女
春蘭に松の落葉の深々と  川端龍子
我が靴の大きなことよ犬ふぐり  高田風人子

額田五山…陸奥への街道要衛地

2022年02月06日 | 歴史散歩

古来より陸奥国への街道の宿場として栄えた那珂市額田には、額田五山といわれる5つの古寺があります。鎌倉時代の仏教の隆盛と、この地の支配者佐竹氏とその一族の庇護のもとに一時は24寺を数えましたが、徳川光圀、斉昭による寺社改革で統廃合され、現在は鎌倉時代から江戸初期にかけて建立された、真言宗、浄土宗、曹洞宗と、浄土真宗2寺の5つの寺院が残っています。

毘盧遮那寺 (びるしゃなじ)

両部山宝光院毘盧遮那寺は、鎌倉時代初期の建久3年(1192)、文覚上人が開基と伝わる真言宗の寺院で、京都嵯峨大覚寺の末寺です。本尊大日如来は、文覚上人が持参した源為義の念持仏とされます。


正徳5年(1711)現在地に移り、文化12年(1815)の火災で諸堂・寺宝が焼失しましたが、宝物の大般若経600巻(県文化財指定)は残存しています。明応6年(1497)の檀那は額田城主小野崎下野守善通外50人と記されており、その後何度か修正補帖されました。


境内に銀杏の巨木があり、その葉が大般若経の防虫剤として使われたといわれています。
古文書に銀杏の葉が栞のように挟まれているのがよく見つかるそうですが、銀杏にはシキミ酸という防虫効果の成分が含まれることを古人の知恵が分かっていたようです。

光照寺 (こうしょうじ)

群生山光照寺は、寺伝では弘長3年(1263)本願寺2世如信を開祖とし、弟子の浄慶が創立したと伝わります。現在は無住寺で、浄土真宗大谷派の二十四輩西光寺(常陸太田市)が管理しています。


参道にJR水郡線(太田線)を通すことになり、当時の国鉄が橋を架けることで解決したといわれます。


山門代わりの標柱から線路を跨ぐ橋を渡り寺に入るのは全国でも珍しいそうです。

鱗勝院 (りんしょういん)

義峰山鱗勝院の開山は元徳年間(1329~1331)と伝わる曹洞宗の寺院で、額田城主初代義直が亡父で佐竹氏4代義重の守護寺としました。
五本骨扇に月丸の佐竹紋が付く本堂です。
佐竹氏が秋田へ移封となると、秋田佐竹氏初代義宣が秋田にも鱗勝院を建立し、額田鱗勝院の末寺として現在も存続しています。


額田城南方の天然の堀である有が池に面した参道は現在使われていないため、山門付近は幽玄な趣が漂います。


本堂前にある開基額田義直の供養塔です。

阿弥陀寺 (あみだじ)

額田城は10代義亮の時に佐竹宗家と対立し、応永30年(1423)佐竹13代義人に攻められて落城し滅びます。その後額田城主になった、佐竹義人の重臣小野崎氏は、親鸞聖人が建保四年(1214)那珂西郡大山(城里町)に開いた念仏の道場、浄土真宗二十四輩本蹟十四番の大山禅房阿弥陀寺を額田城内に移し守護寺としました。


上の階に梵鐘のある素朴な楼門に、水戸藩2代藩主徳川光圀公御手植えと伝わる樹齢320年の枝垂れ桜、春には桜まつりで賑わいます。


本堂と親鸞上人像、親鸞は大山の地に約10年滞在し、その間に二十四輩以下450余人の弟子が育ったと伝わっています。
佐竹氏の秋田移封には一時従いますが、その後旧地に戻り再興し法灯を伝承しています。

引接寺 (いんじょうじ)

光圀山攝取院引接寺(こうこくざんせっしゅいんいんじょうじ)は、元禄9年(1696)水戸藩2代藩主徳川光圀公が、この地にあった広栄山心岸寺という寺を金砂郷に移し、元禄2年に水戸徳川家菩提寺として建立した浄土宗の向山浄鑑院常福寺の末寺として建立しました。


この引接寺は、光圀公をはじめ水戸徳川家歴代藩主の御神葬式に際し、瑞竜山徳川家墓所に埋葬する御霊柩の宿寺として明治初年までその役目を果たしてきました。
水戸城から瑞竜山墓所まで約25キロの街道沿いのちょうど中間あたりに引接寺があるので、ここで葬送の行列が一泊したのでしょうか。


本尊の阿弥陀如来は、安良川村(高萩市)の八幡宮に奉安してあったものを 光圀公が引接寺に寄進したものと伝わり、背面に元禄9年(1696)に徳川光圀寄進の自筆刻銘があるそうです。


中世にここを領した額田城主は、この地方を支配した佐竹氏の庶流や重臣でありながら独立心が強かったため、一帯は何度か宗家などとの戦いの場になった時もありました。その後の水戸藩の寺社改革や明治維新の波もすべて乗り越えてきた歴史を、今後も守り続けて欲しいと思います。

なお額田城については、拙ブログ「額田城…二度も宗家に叛いた中世の城址 2022年1月16日」
で紹介させていただきました。

逆川緑地の「漱石所跡」…徳川光圀と夏目漱石

2022年02月01日 | 水戸の観光

偕楽園公園の一画、逆川緑地にある「漱石所跡」の石碑は、文豪と同じ名前の「漱石」が気になっていました。「漱」という字は「口をすすぐ、うがいをする」と漢和辞典には出ています。


碑文には「笠原水源の湧地に近い逆川の縁のこの地に、寛文5年(1665)水戸藩第2代藩主徳川光圀が建てた茶亭を漱石所といった。光圀はここでしばしば、川の上流より盃を流し、眼前を通過しないうちに和歌を詠む曲水宴を催したと伝えられている。天和3年(1683)の漱石所規約によると池や流れでの魚釣り、不動堂上での肉食などを禁じていた」と記されています。


調べてみると、漱石という名前は中国の故事である「漱石枕流」に由来し、そこから光圀公や夏目漱石がその名を引用していました。

晋の武将孫楚は有能で物知りなことで知られていましたが、ある時「枕石漱流」(石を枕にして、川の流れで口をすすぐような自然の中に隠居したい)と言うべきところを間違って「漱石枕流」と言ってしまいました。指摘された孫楚は「石に漱ぐのは歯を磨くため、流れを枕にするのは耳を洗うため」と言い張った故事から、「漱石」が負け惜しみの強い頑固者を指す言葉になりました。
光圀公は、負け惜しみの強い変わり者たちが集まる所と洒落心で「漱石所」と名付けたと思われます。


時代が変わって明治の半ば、夏目金之助は親友の正岡子規の持っている数多いペンネームから「負け惜しみ、頑固者」という意味の「漱石」が気に入って譲り受けたというのは有名な話だそうです。

東大予備門から親友だった子規と漱石は、卒業(子規は中退)後に再会し、松山の漱石宅に子規は療養を兼ねて約2か月滞在したこともありました。
有名な上記の写真はwebページから借用しました。



この逆川緑地には、光圀公が水戸城下への飲料水供給のために寛文3年(1663)に敷設した上水道の笠原水源地があります。


今でも竜頭栓からの水を汲みに来る市民の方の姿が絶えません。
水源地裏の山は、茶亭の名をとって漱石山ともいわれ、そこに古くからあった不動尊は光圀公が「不動の威、厳たり」と称え、笠原水道の設計者平賀保秀は一昼夜参籠祈願して敷設工事の成功を祈ったと伝わります。


昭和になって付近の有志達によって再建された不動尊は、管理者がなく荒れ果てており、今年1月初めの地元新聞に取り壊しが決まったという記事が出ていました。


2018年撮影時の不動尊の案内板です。ここに不動尊があったこともやがて忘れられてしまうかもしれません。