顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

平成最後の年の暮れ寸描

2018年12月28日 | 日記

正月飾りに使うユズリハ(譲葉)の実生苗が公園にたくさん生えていました。
福島県以南に分布する常緑高木、新しい葉が出揃うまでは古い葉が落ちないので、家系の円滑な引継ぎに見立てて、縁起が良いとされる樹木です。(百合ヶ丘緑地公園)

八重寒紅が二本の樹に一輪ずつ咲きました。早咲きの種類ですが通常の咲き方でなく狂い咲きなのは、萼の大きさや花の様子でそれと分かります。通常の咲き方だと、周りにも膨らんだ蕾が見える筈です。(涸沼自然公園)

偕楽園の南側、いつもの場所に咲き始めた冬至梅は、周りの蕾も膨らんでいます。同じ枝を1週間後(12月27日)にも撮りましたが、散りきれない紅葉とのショット(12月20日撮影)はなにか違和感があります。

偕楽園表門の十月桜の後ろにあるロウバイ(蝋梅)がなんと満開です!まだ年が明けないのに一足早い春を告げていました。

色彩のなくなった公園で赤い色が目立ちます。カンボケ(寒木瓜)は品種的にはボケと同じで、3月頃から咲くボケに対して、11月頃から咲くものをカンボケと呼ぶようです。(涸沼自然公園)

正月用に松の写真を撮りました。水戸藩2代藩主光圀公が元禄11年(1698)に造った那珂湊の別邸で湊御殿と呼ばれた夤賓(いひん)閣の跡、幕末の水戸藩最大の内乱元治甲子の乱で建物は消失しましたが、当時の黒松が12本残っています。

光圀公が須磨明石から苗木を取り寄せて植えたという黒松、戦乱やマツクイムシにも耐えて300年以上たった見事な枝振りを、師走の空に拡げて歴史を語っているようです。

この付近を生育の北限とされるイワレンゲ(岩蓮華)、海岸沿いの岩の間に自生するベンケイソウ科の多肉植物がボランティアの方々の手で守られています。絶滅危惧種1B類指定。重なった葉の様子を蓮の花に見立てた命名です。

砂浜にロープが埋まっています。引っ張っても頑として動きません。下には千両箱かはたまた死体か…、暮れのひととき、空想と妄想に遊びました。(大洗サンビーチ)

海岸沿いにはヤブツバキ(藪椿)が自生しています。日本に自生する野生種の原種で品種改良により2200以上の園芸種があるそうですが、素朴な藪椿がいいと言う方も多く、絵に描かれるのもほとんどこの椿です。

密会を誰か見てゐる藪椿  柴田奈美
波音の引く音ばかり落椿  行方克巳

今年も拙ブログにご訪問ありがとうございました。
どうか健やかな良いお年となられますように…

水戸城大手門復元工事

2018年12月25日 | 水戸の観光

水戸城の二の丸入り口に復元される大手門の工事は、今年の春から始まり、2階の屋根も出来上がって秋には上棟式が行われ、その大きな全体像が見えてきました。

完成予定の大手門は、幅約17.2m,奥行き5.7m、高さ13.3m、延べ床面積118.8㎡のケヤキ、ヒノキなどを使った木造建築で、来秋9月のいきいき茨城ゆめ国体開催前までの完成を目指しています。

平成5年以降何度も実施した発掘調査の結果、その規模と位置が判明し、また、絵図や古写真も確認して遺構を保護しながら、在来工法による復元整備を行っています。

また大手門完成後には、二の丸南西の端に「二の丸隅櫓」と大手門から隅櫓までの「土塀」の復元工事が始まります。この部分は、水戸駅から望めるランドマークとして観光振興に役立つ期待がかけられています。

大手門から空堀跡(旧6号国道)を渡ってすぐの三の丸には、藩校弘道館の白壁が凛として連なっているので、大手門と相まって歴史的な景観がいっそう高まる一画になると思います。

今から177年前、9代水戸藩主斉昭公が開設した弘道館は日本一の規模と内容を誇り、ここでの教育はいわゆる水戸学といわれ、幕末から明治に向かう大きなうねりの思想的バックボーンとなり、薩摩、長州などの幕末の志士達に大きな影響を与えました。

不幸にして肝心の水戸藩では藩内抗争が明治まで続き、新しい時代つくりには加わることができませんでしたが、時代の魁となった一時期もあった学びの館です。重要文化財のその正庁、正門、手前に対試場のこのアングルは、歴まちカードにも使われているのを真似て撮りました。

歴史まちづくりカード(歴まちカード)とは、国土交通省の各地方整備局が平成29年10月から始めた、歴まち認定都市の象徴的な風景写真や歴史まちづくり情報を紹介したカード型パンフレットです。大きさ6.3センチ✕8.8センチで、茨城県では水戸弘道館と真壁の街並みの2種類が各15000枚発行され、弘道館のカードは弘道館入口事務所で配布していますが、まだ残数があるそうです。(一人一枚です。)

楠公社…水戸浪士の毛塚と長岡宿脇本陣  (茨城町)

2018年12月20日 | 歴史散歩

楠公社は、桜田門外の変に参加した水戸藩士達が安政7年(1860)江戸へ向かう途中、長岡宿に屯集した際、南北朝時代の尊皇の武将・楠木正成一族の忠誠にならい、髪を切り埋めたもので、明治9年(1876)現在地に塚が築かれ、埋めた髪を移して社が建立されました。

一角には襲撃に加わった水戸浪士17名と、ただ一人薩摩藩から参加した有村次左衞門の他、総裁の金子孫二郎や高橋多一郎の名を刻した石碑が建っています。

また高橋多一郎の詠んだ「菊水の 清き流れを長岡に 汲みて御國の塵を洗わん」の歌碑が幕末と明治の記念館(大洗町)の創立者、田中光顕の揮毫により建てられています。井伊暗殺計画を立てた高橋多一郎は、安政7年(1860)2月に脱藩、自身は襲撃には加わらず薩摩藩の攘夷派と合流して挙兵するため大阪に潜伏していたところを捕方に包囲され、四天王寺で子の庄左衛門と共に自刃。享年47歳。

南側には涸沼川のもたらす穀倉地帯が広がっています。遠くには紫峰筑波山877m、直線で約30キロ離れていても、高い山のない関東平野では他を睥睨しています。

ここは江戸へ向かう水戸街道の最初の中継地長岡宿のあった所で、当時の庄屋で脇本陣も務めていた木村家の建物が藁葺き屋根のまま残っており、水戸街道の本陣に類する貴重な遺産の一つになっています。

脇本陣は大名などが休泊した本陣の予備にあたる建物で、安政4年(1857)の長岡の大火で焼失した直後に建て替えられたとされています。閉館日だったので、板塀の間からの撮影です。

またこの地は、戊午の密勅返納阻止の志士数百人が集まった安政6年(1859)の長岡屯集でも知られ、志士達の刀痕が残る旅籠(現在は洋品店)もあります。その中心人物たちが翌年、桜田門外の変に深く関わりました。

皇帝ダリヤ、霜に果つ

2018年12月15日 | 季節の花

最近あちこちの庭先で目にする皇帝ダリアは、メキシコや中米原産のキダチダリア(木立ダリア、学名 Dahlia imperialis)です。 学名にしっかとインペリアル(皇帝の)と付いています。
日が短くならないと咲かないので開花期は降霜間際の11月半ば、今年は11月16日にほぼ満開になりました。

背丈は10mにもなるといわれ我が家でもゆうに4m以上になります。太い茎ですが強風で折れることがしばしば、今年も切り戻して丈を詰めた後の台風で折られ、1本だけになってしまいました。

やがて12月10日、今冬の最低気温マイナス2.8℃を記録した朝に寒さで萎み、丈も花も大きいだけにより哀れな姿を冬の青い空に晒しました。
まだ季語にはなっていないようですが、間もなく晩秋か冬の季語になるでしょうか、そうなると季重ねですが…。

皇帝ダリア無傷に深き冬の天  西山美枝子
碧天の皇帝ダリヤ霜に果つ  顎髭仙人

太平洋を見下ろす磯浜古墳群    大洗町

2018年12月14日 | 歴史散歩

大洗町埋蔵文化財企画展「太平洋を見下ろす大洗の王墓」が12月16日まで開かれ、その一環として発掘品の展示が12月16日までの土、日曜日に展示されています。
この王墓、磯浜古墳群は、大洗駅東方600mほどの太平洋を望む台地上にあり、既存の4基と最近発見された仮称・五本松古墳の合計5基の古墳が残っています。

現存する古墳の築造順は、姫塚古墳(前方後方墳)・五本松古墳→坊主山古墳(前方後円墳)→日下ヶ塚古墳(前方後円墳)→車塚古墳(円墳)で、畿内から遠いこの地方にしては早期の、4世紀代から5世紀初頭の築造とされています。

古墳の埋葬者は推定の範囲内では、鹿島灘、涸沼川・那珂川に近接しているこの地を支配した古墳時代の有力者の墓域とされています。発掘品からは大和王権と繋がりのある品が数多い中に、この地方独特の埴輪も立てて並べるなど、権力の規模と特質の一端を見ることができます。



姫塚古墳の現存する部分の全長は30m、高さ3.5mで、2011年の発掘調査で小型丸底土器が発掘されました。形状の破壊が進み、従来円墳とされていましたが、前方後方墳であることが判明しました。

坊主山(ぼちやま)古墳は未調査ですが、古墳の現存部分は長さ約55m、推定復元の長さは約63mの前方後円墳とされています。 住宅に囲まれているため全体像はなかなか掴めません。     



一段と高い車塚古墳は、直径約95m、高さ13mの全国で3番目の規模の円墳です。
葺石(ふきいし)と呼ばれる崩落を防ぐ石が墳丘に敷き詰められ、この地域では初期の埴輪も並べられ、その周りには周溝と呼ばれる溝が掘られていたようです。

スダジイの大木に覆われた墳丘の一部しか撮れませんが、墳頂部、中段、下段の三段構成の一部が確認できます。

日下ヶ塚(ひさげづか)古墳は常陸鏡塚古墳ともいい、全長約103.5m、後円部径60m、同高12m、前方部幅25m、同高4.5mで、規模、副葬品ともに県内有数の前方後円墳です。写真の左手が前方部で右奥が後円部です。

昭和24年の調査では長胴壺型埴輪などの他に、後円部墳頂中央の粘土槨の木棺付近から4000点以上の副葬品が発見され、その一部の滑石の臼玉、勾玉、鏡、石で作った刀子、鑿などのミニチュアなどが旧大貫小学校で期間中の土、日曜日に展示されています。

この前方後円墳は、江戸時代の天保年間に(1836〜1842)水戸藩主 徳川斉昭(烈公)が外国船に備える海防陣屋構築の際に前方の一部が削り取られたとされています。海側の先端には土で盛り上げた一角があり、多分砲台の跡でしょうか。ただ当時水戸藩所有の大砲の性能では、沖の船舶には届かなかったという話もよく聞きますが…。

当時イギリスやアメリカなどの異国の船が沿岸に接近したり、異人が上陸したりするのに備えるため、水戸藩では大津(北茨城市)からこの磯浜まで陣屋、番所、台場など18か所、さらに連枝松川藩が夏海、大竹などに5か所の台場を造りました
この磯浜海防陣屋の建物は、元治元年(1864)の元治甲子の変(天狗党の乱)で激戦の舞台になり焼失してしまいます。

しかし、海を見下ろすこの高台は、権力を象徴する墳墓にも沖を見張る海防陣屋にも絶好の立地であることがわかります。

南方には筑波山、直線距離は約45kmでも冬空に双耳峰がくっきりと見えました。

なお、五本松古墳は平成28年に個人から寄付された土地です。昭和20年代の踏査でこの一帯には数基の円墳が把握されていましたが、その後の宅地化により現在では墳丘は存在せず、壺類の破片が出土しただけのようですが、4世紀代の古い時代の築造とされます。

ドライフラワーの先駆けで珍重されたため、この近辺では見られなくなったツルウメモドキ(蔓梅擬)の大木が藪の中で赤い実をびっしりつけていました。

しぐるるもまた好日の蔓もどき  斉藤 美規
蔓もどき情はもつれ易きかな  高浜 虚子