顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

秋の実…身の回りや近くの公園で

2023年11月25日 | 季節の花
秋たけなわ、觔斗雲を降りた仙人が彷徨範囲で見つけた秋の実を撮ってみました。


ウメモドキ(梅擬)は、葉や枝ぶりが梅に似ているのが名の由来とか(そんなに似ているとは思えませんが)。鳥の大好物の実には発芽抑制物質が含まれていて、実が糞と一緒に排出されることでその物質が除去され、運ばれた先の地面で発芽するという子孫を増やす仕組みになっているそうです。


コムラサキシキブ(小紫式部)の名をもらった源氏物語の作者の紫式部は、今から1000年ほど前の平安時代の貴族です。当時の宮廷文化を偲ばせる色は、花ことばの「聡明」「上品」にぴったりです。


塀などから顔を出しているのをよく見かけるピラカンサは、南欧や西アジア原産で明治時代に渡来しました。実には毒性があるため一部の鳥しか食べませんが、年を越して周りの実が無くなる頃には毒性が薄くなり、食した鳥が運び種を増やすことが出来るようになります。


ナツハゼ(夏櫨)は紅葉の美しい木、ブルーベリーの仲間でジャムやジュースにも利用できます。野山を跋扈した少年時代には、ハチマキボンボという名で腹に納めました。


実が生り過ぎて枝が垂れ下がったガマズミ(莢蒾・蒲染)です。これも少年時代はヨツズミといって霜が降りると甘くなるといわれていましたが、甘かったという記憶はありません。


クロガネモチ(黒鉄黐)は公園や庭木でよく見かけます。これらモチノキ科の樹皮からは鳥黐(トリモチ)が採れることからの命名で、全体に黒ずんでいるのでクロガネが付きました。


カマツカ(鎌柄)は緻密で固い木材のために鎌や玄能、金槌の柄に使われてきました。

さて地面に目を移し落ちている実を撮ってみました。


ドングリの中でも通常食べられるシイノミ(椎の実)はスダジイの実です。戦後すぐの我が少年時代には近辺の神社境内などは早いもの勝ちでした。今でも殻を割って白い実を齧ると懐かしい薄甘さがしました。


こちらはクヌギやコナラの実のドングリ(団栗)です。戦後の食糧難の時代には渋抜きして食べた話も伝わっています。このドングリを食べて育ったというスペインのイベリコ豚の生ハム、ハモンセラーノは大好物ですが、年金暮らしではめったに口に入りません。


イチョウは雌雄異株です。雌株に生るギンナン(銀杏)は茶碗蒸しや封筒に入れてレンジし塩振ってのつまみが定番ですが、臭くてかぶれる実の処理が大変で最近は拾う人も少なくなりました(かくいう仙人も)。
公園や街路樹には実のならない雄株だけ植えても、実生苗では判別が狂うこともあり最近では接ぎ木苗にして植えていると聞いたことがあります。


さてこのギンナンは茨城県立歴史館のイチョウ並木の落とし物です。ここでもかっては拾う人を見かけましたが今では掃いての処分も大変なようですし、靴で踏んでの車内には微妙な臭いが漂ってしまいます。

梅もどき赤くて機嫌のよい目白頬白  種田山頭火
小式部の才気走れる色にして  高澤良一
をさな子はさびしさ知らぬ椎拾ふ  瀧春一
団栗を踏みつけてゆく反抗期  小国要
ぎんなんをむいてひすいをたなごころ  森澄雄

低地の城、平戸館…水陸交通の要衝

2023年11月19日 | 歴史散歩
もともと水戸市平戸町のこの地は、常陸国府から涸沼川を経て陸奥へと通じる古代官道の平津駅家(ひらつのうまや)があった水陸の要衝で、そこを支配下に置くという統治を主とした城館だったので、戦いの防御には適さない低地でも建てたのでしょうか。

農地化で遺構はほとんど壊滅していますが、涸沼川河口の沖積層低地に作られた館は、標高2~3mほどで高低差のほとんどない平地の城でした。(国土地理院地図)

11世紀に書かれたとされる「将門紀」には、平将門が常陸平氏の祖で叔父の平国香を攻めて焼死させ、長男の平貞盛を追って蒜間の江(涸沼)の畔で貞盛と妻を捕らえたという記述があり、また新編常陸国誌には、平国香の長男貞盛の居宅が蒜間の江周辺の平戸の故城にあったと書かれていることから、ここを平貞盛居城跡とする説もあります。

その後この周辺に進出してきた常陸平氏の大掾一族の石川家幹の6男高幹がこの地に配され平戸氏を名乗ったという文献があり、新編常陸国誌にも平戸村に堀之内という所あり、大掾の一族平戸氏の居所なりと出ているそうです。(以上常澄村史)

この平戸氏は本家の大掾氏とともに鎌倉の北条氏から足利氏、大掾氏から水戸城を奪取した江戸氏と、その時々の支配者に臣従して戦火に遭うこともなく、これは戦略上不利な城であったからかもしれません。やがて江戸氏が滅ぼされ佐竹氏の時代になると平戸氏は帰農しますが、水戸藩3代綱條のとき士分に取り立てられました。
天保11年の水戸藩「江水御規式帳」に大番組平戸七郎衛門幹徳 200石とあり、大掾一族の通字「幹」が付いているので、末裔の方でしょうか。


農地の区画整理などで城跡はほぼ形がありませんが、当時は50m四方の方形の曲輪が二つの城館だったと考えられています。残った微高地の一画には吉田神社が建っています。


この地は常陸三宮の吉田神社が南西約8キロのところに鎮座しているので、近在にはその末社が多く存在します。御祭神は日本武尊、城郭の中に八幡宮もあったようなので、水戸藩2代藩主光圀公の寺社改革の際に吉田神社に改められたかもしれません。


鳥居脇にひっそりと建つ平戸館跡の石碑です。実際には南東の位置が1郭とされますが、民有地のため碑を置く場所がなかったようです。


神社東側に土塁の跡がありますが、風化しているとはいえ高さは1mもありません。


1郭北側にも土塁と堀の跡が見られます。


1郭西側の土塁と堀跡です。堀跡の南側には、水戸街道始点の魂消橋から備前堀に沿っての飯沼街道がここを通っています。鹿島神宮を経て上総国飯沼観音に至る旧街道(約90Km)です。


ここは国道51号と県道に挟まれた田園地帯、この一帯は那珂川、涸沼川の恩恵を受けた米どころとしても知られています。


境内には大山阿夫利神社や稲荷神社などの摂社もありました。


ここにも厄介な外来種のオニノゲシ(鬼野芥子)が蔓延っていました。ヨーロッパ原産のキク科ノゲシ属の越年草で世界中に帰化分布していて、我が国でも侵入植物DBに登録されています。

周辺より高い地に堀と土塁や石垣をめぐらした城のイメージとは程遠い城館の跡、こういう立地でも戦闘よりも統治を主とした城館として500年以上存在したことは、巧みな処世術で戦乱の世を生き抜いてきた稀有な例かもしれません。

道の駅みわ「北斗星」…山間部の貴重な休憩所

2023年11月14日 | 旅行
道の駅は、日本の各地方自治体と道路管理者が連携して設置し国土交通省(制度開始時は建設省)により登録された休憩施設、地域振興施設等が一体となった道路施設である。(Wikipedia)

道の駅は、平成3年(1991)に山口、岐阜、栃木県へ実験的に設置されたのが最初で、平成5年には全国105か所に道の駅が登録されました。さらに平成19年(2007)に東京都初の道の駅が八王子に開設されて、47都道府県全てに道の駅が網羅され、今年8月時点では全国1,209か所になりました。

さて今回ご紹介するのは、16の道の駅がある茨城県でも、早い時期の平成7年(1995)に開設された道の駅みわ「北斗星」です。多分全国でも200番目くらいの設置ではないでしょうか。

ここは国道293号線沿いといっても完全なる山間部です。
地区のほとんどが山林で空気が澄み、天体観測に適しているので「星のふるさと」 としても知られています。また近くの花立自然公園内には天文台もあることから、親しみやすい直売所になって欲しいと、「北斗星」のネーミングにしたそうです。


ここの一番の魅力は、豊富な地元物産の販売コーナーです。地元生産者が毎朝採れたての新鮮な野菜を自ら運び陳列していますが、午後にはほぼ売り切れてしまう人気です。

開店当初から変わらない店舗内の田舎臭い雰囲気が、なぜか新鮮さを増幅しているような気がします。特にこの地域はしいたけの里ともよばれ、肉厚で、身丈も大きい絶品のしいたけが山積みされています。


飲食スペースの名は「北斗庵」、地元産の蕎麦を石臼で自家製粉したそば粉100%の手打ちそばが人気です。店の外にも多くの椅子席が設けられていますが、昼時には満席になる賑わいです。

ざるそば600円の価格は近在ではもう見かけません。しかも充分に満足できる味でした。朝一番に生産者が店舗に並べた朝採りの新鮮野菜の天ぷらも人気があるそうです。


いろんな情報発信のパンフレット類が置いてあるコーナーは、2Fギャラリーや体験館の入り口にもなっています。


清潔なトイレの天井には星空が描かれ、「満てんトイレ」と名付けられていますが、「満天」の星空と、いつもきれいで清潔な「満点」の二つの意味を込めたそうです。

周りに何もない地域の道の駅だからこそ、今ではほとんどのマイカー、営業車、観光バスなどが必ず立ち寄る場所になっていますので、利用者も運営者も充分にその恩恵を受けているのではないでしょうか。

旧町屋変電所…そして水戸藩御用「町屋石」

2023年11月09日 | 歴史散歩

114年前の煉瓦造りの建物と銀杏の黄葉が人気スポット…常陸太田市の旧町屋変電所は、明治2年(1909)久原鉱業所日立鉱山(現在のJX金属)が建設した町屋水力発電所の変電施設です。

その後,明治44年(1911)年、「茨城の電気王」と呼ばれた前島平が設立した茨城電気(後の東京電力)が町屋発電所を買い取り、同年11月にはこの辺の旧太田町一帯に電灯が灯りました。
当時は「電気見たけりゃ町屋へ行け」といわれ、町屋の人々は誇りに思っていたそうです。

煉瓦造りで切妻屋根の建物と寄棟屋根の建物がつながった外観が特徴のこの変電施設は,町屋水力発電所から送られてきた300Kwの電力を各地に送電していました。使用されている三相の碍子はフランス製とされています。

昭和31年(1956)まで変電所として機能した後は,地域の集会所として利用され,現在は地区の「河内の文化遺産を守る会」によって周辺整備が進められています。この会は整備の記録やイベントの案内などをホームページで発信しています。
河内の文化遺産を守る会  http://aka-renga.hitachi-ohta.net/hendensyo.html

 
数年前にNHK朝ドラ「ひよっこ」では、ここが架空の「奥茨城村」の村役場になり、模擬聖火ランナーの舞台にもなりました。 

文化庁の登録有形文化財と土木学会選奨土木遺産に登録認定されています。


さて、この近辺で採れる「町屋石」が敷地内の地面に展示されていました。

町屋石は斑石ともよばれる蛇紋岩で、橄欖(かんらん)石が地下深部で水の作用を受けて変質反応し、表面にササ(笹)やモミジ(紅葉)などの紋様が見られる特徴は、他には熊本県の竹葉石だけとされています。

江戸時代、水戸藩2代藩主徳川光圀公は、近隣に造成した水戸藩主歴代墓所「瑞竜山」でこの町屋石を使用し、特に良質な石が産出される藤山(ふじやま)を御留山として領民が許可なく採掘することを禁じました。

紋様には、ササ、モミジ、ボタン、鼈甲、霜降りなどがあり、特に上記写真の笹目石とよばれるものが高級で一般には使用が許されず、良く採れる藤山が解禁になったのは明治になってからでした。

御留山以外の鉱脈での採掘は江戸時代にも少しは行われていたようですが、明治以降の解禁により地元住民の根本健介が常陸斑石会社を設立、他にも砕石を行う事業者も地区に増えましたが、昭和40年代には産出地の規模が小さく営業的に採算が取れないなどの理由で採掘は行われなくなりました。
彫刻し易くしかも緻密で風化にも強いという特徴を持つために、墓石ばかりでなく町屋石で彫られた仏像が、確認できるのだけでも1,239体あり、推定では広範囲に1万体以上分布するとされているそうです。(常陽芸文 2015・1月号)

今まで石の種類までは気にしていませんでしたが、今回あらためて町屋石の作品が近辺に多くあるのに驚きました。

町屋石で彫られた村松虚空蔵尊(東海村)本堂前の牛の石像です。紋様は「霜降り」でしょうか。


回天神社(水戸市)にずらりと並んだ水戸殉難志士の墓所の371基も町屋石です。大正3年(1914)元治甲子の乱50年祭を期に建てられました。


桂岸寺(水戸市)境内の宝暦の延命地蔵尊(左側)は宝暦年間(1751~1764)に作られた大きな丸彫り立像で、「ぴんころ地蔵」とも呼ばれて親しまれています。

まだ少し鉱脈は残っているようなので、手掘りで小さな作品を作って、「町屋石」として世に出していただくと面白いとは思いますが、営業的には難しいのでしょうか、素人の勝手な思いでした。


小瀬一揆…重税に立ち上がった農民

2023年11月04日 | 歴史散歩
明治5年以降の大洪水、暴風雨、冷害と凶作により、現在の常陸大宮市周辺の村々の農民の生活は困窮していましたが、明治6年には明治政府による地租改正が行われました。江戸時代より年貢として米で納めていた税を、一律に地価の3%を金納するというものでした。


小舟村の富農本橋次郎左衛門は、農民の窮状を座視できずこの施策に不満を持ち、明治9年4月、長田村の士族鈴木教善とともに建白書を作り、折から高部村に地租改正事業の督励に出張してきた茨城県令中山信安に提出したところ、即座に却下されました。本橋は方針を変えて大勢にて県庁に押しかけて陳情しようと仲間に声をかけ、上小瀬村の大町甚左衛門、小林彦衛門(甚左衛門の実弟)、岡崎新八、小舟村の内田三郎右衛門など約10人の同志が幹部になり12月6日、上小瀬村愛宕山境内に集まりました。

写真は江畔寺の愛宕山頂にある勝軍地蔵です

翌7日、上小瀬、小舟の農民たちが氷ノ沢、長澤、長田、野上、岩崎、上大賀、小祝村をまわる間に800人もの数になり、小祝村で焚火を囲んでの集会は、やってきた3名の警官に手順を経て穏やかに願い出るように諭されて解散しました。
しかし大町らの指導者たちは高館山(230m・中世の小瀬氏の城址)に身を潜め今後の陳情の願書を作成する一方、8日には上小瀬村に鎮撫にやってきた二人の巡査が、高圧的に捕縛すると威嚇したため襲われて殺されてしまいます。

9日には檄文を各村に回し参加を呼び掛けたため、たちまち数百人が集まり速やかに県庁に押し寄せようと大町らは約500人を率いて氷之沢村から下小瀬村へ、岡崎らは約200人で氷之沢村から高野村に押し出し、長田村で合流、小野村の河原に集結したときは1500人にもなっていました。
12月10日朝、小野河原から那珂川を渡り阿波山上神社境内に集まる頃には2000名もの人数になり、石塚村の薬師寺境内へ移動、その頃鎮圧に来た笠間出張所長ら2人の警察官を殺害してしまいます。

写真は、阿波山上神社です

慌てた県では急遽巡査30余人、県官130人余、徴募士族50人余の鎮圧隊を編成し、十万原に向かった一揆勢を急襲したため、不意を突かれた農民たちは多数の死傷者を出して総崩れ、指導者の本橋は重症を負いました。
大町らの一部勢力は再挙を期して300人ほどが再び十万原に向かうと、水戸監獄に収監されていた囚人6名が県の内命を受け脱獄してきたと偽って仲間に加わり、隙を見て指導者の大町らを殺傷したため一揆勢は逃散してしまいます。

やがて三重、愛知、岐阜県や大阪府でも地租改正反対の一揆が起き、さすがに政府も翌明治10年1月に3%だった地租を2.5%に引き下げ、茨城県令の中山信安は罷免、一揆鎮圧に囚人を使ったのもその理由とされています。(現在でも囚人を軍隊で使っている国がありますが…)
逃走した小林彦衛門は福島県で、岡崎新八は宮城県の山中で捕縛され、明治11年8月水戸裁判所で戦死者7名以外の首謀者たちに処罰が言い渡されました。
本橋次郎左衛門(39歳)に斬罪、岡崎新八(35歳)、小林彦衛門(33歳)に絞罪。その他懲役24名、罰金1083名となり、その犠牲者は40村に及びました。(植田敏雄編 茨城百姓一揆)


国道293号線沿いの、斬首された本橋次郎左衛門の生家の近くにその顕彰碑が建っています。


案内版には、「本橋次郎左衛門政國は明治九年、小瀬一揆の指導者として農民を動員、県庁に向かったが、目的を達せず首謀者として処刑された。当時三十九歳であった。明治三十三年、義民と称され有志者により建てられた顕彰碑である。」とあります。
当初は政府側から叛逆者扱いされていたようですが、のちに「義民」として顕彰されました。


政國君碑と彫られた大きな石碑です。
辞世の句として「國のため民のためぞと思ひしに 身のいたづらとなるは悲しき」が伝わっています。


また、近くには地元の方が建てた素朴な義民堂があります。
案内版には「小瀬一揆の犠牲者並びに殉職警官四名を含め、十七名と後日亡くなられた幹部三十七名を祀る慰霊堂で昭和三十三年に小森けん氏が建てた」とあります。


義民堂には三十数名の名札や当時の数え歌などが貼られていました。


約150年前のこの地方で起きた一揆の話…、農民の生活を守ろうと権力に命を賭けて立ち向かった先人の気概を風化させずに伝えていきたいものです。