顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

ムサシアブミ(武蔵鐙)…その仲間たち

2022年04月28日 | 季節の花

公園の湿地に大きな葉と奇妙な花のムサシアブミが咲いていました。


サトイモ科テンナンショウ属特有の仏炎苞が暗紫色にまくれ上がった様子が不気味です。仏炎苞は葉の変化したもので、仏像の光背にある炎の飾りに似ているのが命名の由来、この中に肉穂花序という多肉化した花軸が守られています。


ムサシアブミ(武蔵鐙)の名前は、仏炎苞の形が江戸時代に武蔵国で作られていた馬具のアブミ(鐙)に似ていることから付けられました。鐙は、鞍の両脇から馬の脇腹にたらして足を載せるもの、確かに仏炎苞を逆さにした形が似ています、名を付けた先人に拍手です。


太い葉柄を持つ葉は2枚で、その大きさにも驚きます。春に出てきたばかりの葉はもう40cmくらいありました。(カメラのバッテリーは約4cmです)

花が終わると肉穂花序にはトウモロコシのような青い実がびっしりと付き、秋の終わりころにはそれが真っ赤に色付いて、色彩の無くなった野でひと際目を惹きます。なお全草にシュウ酸カルシウムを含む有毒植物だそうです。

こちらは春によく見かける同じ仲間のマムシグサ(蝮草)です。

暗紫色の仏炎苞の下から顔を出している黄色の付属体の下に肉穂花序が隠れています。


同じくウラシマソウ(浦島草)は、仏炎苞の中の付属体の先端部が細く糸状に伸びて、浦島太郎が釣りをしている姿に似ることから名前が付きました。


似ているミズバショウ(水芭蕉)はサトイモ科ミズバショウ属ですが、白い仏炎苞、黄色い肉穂花序がよくわかります。


やはり季語としては一般的でないため私の歳時記には載っていませんが、属名の総称としての天南星(テンナンショウ)なども含めての例句が少し見つかりました。

女どち武蔵鐙を怪しみぬ  高澤良一
天南星火の棒かざし枯れにけり  堀口星眠
さらに奥へ道の通じて蝮草  正木ゆう子
龍宮も竪縞流行り浦島草  後藤比奈夫

ぱしふぃっく びいなす…久しぶりの大洗寄港

2022年04月23日 | 日記

4月22日、大洗港第4埠頭にぱしふぃっく びいなす(Pacific Venus)が横付けされました。コロナ過などにより約3年ぶりの寄港で、今回は感染防止のため歓迎イベントなどは中止になり、出港時に大洗高校ブルーホークスによるマーチング演奏だけが行われました。
総トン数26594トン、全長183.4m、全幅25m。客室238室で定員620人ですが今回は感染防止への配慮から約160人に制限されたそうです。


大阪発着で4泊5日のクルーズは、「天色(あまいろ)の絶景 ネモフィラ観賞と伊豆諸島周遊」というタイトルで、22日寄港の大洗港では、ネモフィラと空と海とが織りなす青のハーモニーの絶景の「国営ひたち海浜公園」か、日本三大名園の1つ「偕楽園」(パンフレットから)を訪れる2つのコースが用意されています。


茨城県では、北関東の海の玄関口として大洗港、常陸那珂港へのクルーズ船の誘致に力を入れています。クルーズ船は早朝に入港し夕刻に出港するプランが多いため、近隣観光地を巡るツアーにより地域経済の波及効果が期待されます。


ただ、国内最大級の飛鳥Ⅱ(50142トン)など大型の客船が寄港するには岸壁の長さや水深が足りず、現在は常陸那珂港区で受け入れています。確かに今回の船の長さは、ほぼ岸壁の長さいっぱいでした。

たまたま北海道航路のフェリー「サンフラワーふらの」が入港してきました。

大洗港と苫小牧港間を4隻のサンフラワーが所要時間約18時間で運行しています。


こちらは総トン数 13816 トン、全長199.70m、全幅27.20m、フェリーターミナルに入港中のサンフラワーとのツーショットです。

今回クルーズのオプショナルツアーの2か所、この時期の写真を在庫から紹介させていただきます。

「国営ひたち海浜公園」ではこの時期、みはらしの丘一面が約530万本のネモフィラの花で青く染まり、空と海の青と溶け合う絶景は、近年人気が急上昇中です。


日本3名園の「偕楽園」は、梅の花で有名ですがこの時期は、つつじまつりが開催されて新緑の中でまた別な顔を見せてくれます。

鯉渕城址と中崎家住宅

2022年04月18日 | 歴史散歩
農地や宅地化が進み遺構はほとんど残っていませんが、水戸市の南西部にある中世の城址です。
南北朝時代の末期、嘉慶元年(1387) 小田城主孝朝の子、五郎藤綱が小山若犬丸に加担して挙兵した乱で、江戸通高は鎌倉公方に従って難台山城で討ち死にします。将軍足利義満はその功により通高の子通景に河和田、鯉淵、赤尾関の地を与え、通高の二男通重が鯉淵城を築き、鯉淵氏を称して江戸氏の南西の守りを固めたのが始めとされます。

天正18年(1590)、城主通賢の時に、江戸氏が本拠とした水戸城が佐竹氏の攻撃で落城し、翌日には河和田城、鯉渕城をはじめ周辺の支城はことごとく攻め滅ぼされました。
城は全体的に比高3~4mほどの低い台地上に展開された平城のため、水戸市の郊外として開発が進み、残っている遺構は上記Google mapのA,B,Cの3か所だけでした。

Aの遺構は、後述する中崎住宅の北西部に隣接する堀と土塁の跡です。この一帯には堀の内という地名が残っており、堀の深さ約3m、幅約5mで守られた居館の跡とされています。


Bの遺構は、古谷川の西の台地上にありますが、竹林とすごい藪の中で約1.5mの土塁、深さ約3m、幅8mほどの堀がなんとか確認できました。


Cの遺構は、Bの南側に高さ約2mの土塁の一部が残っているだけでした。ホトケノザなど春の野草に囲まれていますが430年前の歴史を語ってはくれません。


この一角にある中崎家住宅は、元禄元年(1688)に建てられたという桁行14.81m、梁間8.2m、平面積124.8㎡、屋根面積245㎡の茅葺の古民家です。

現在は直家ですが、調査により別棟造であったことが明らかとなりました。この形式は居室部分である主屋と、土間部分の2つの建物が接して建てられ、平面上は曲屋と似た間取りとなります。当時の形式を保持している元禄時代の建造物として国の重要文化財に指定されています。


家伝によれば元禄元(1688)年の建立で、初代は藤原左京といい、天文5年(1536)に生まれ、84歳で亡くなっており、その位牌が当家に保存されており現在の当主は18代目になるそうです。


中崎家は、中世以来この付近に住んだ地侍の後裔と伝えられており、桃山時代頃の兵農分離によって農家として土着し代々庄屋を務めてきたと案内板にあるので、落城した天正18年(1590)に帰農したと思われます。


なお城域の南東の一画に十一面観音堂があります。

江戸時代中期の作といわれる漆塗の一間厨子の中に安置されている十一面観音は、「けが観音」と呼ばれる伝説があり、古くから多くの人々の信仰を集めていたそうです。



ここに正法山持福院という寺があり、幕末の水戸藩内の元治甲子の乱では、天狗党の中でも過激な田中愿蔵隊の略奪放火に対抗するためにできた農民組織「鯉渕勢」の決起の舞台になりました。やがて45ヶ村3000人余の規模になった勢力は、諸生派に利用されて天狗党との最前線にも駆り出されていくのでした。


城址内にある邨社鹿島神社です。東北、関東地方を中心に全国に600社以上あるという鹿島神社は茨城県鹿嶋市の鹿島神宮が総本社のため、県内各地には鹿島神社が特に多く見かけられます。

水戸城の桜…堀と土塁の残る連郭式平山城

2022年04月13日 | 水戸の観光

水戸城は、鎌倉時代初期に常陸平氏の一族馬場資幹が城を築き、江戸氏、佐竹氏を経て家康の11男頼房公が水戸藩初代となり、明治維新までの260年間水戸徳川家の居城となりました。

城は南北の千波湖と那珂川を天然の堀として東西に配置された連郭式平山城で、建築物は戦火などでほとんど焼失していますが、主郭だけでも東西1200m南北300~500mの城域に、壮大な堀と土塁が当時の面影を偲ばせてくれます。


本丸(左側)と二の丸の間の堀は深さ20m以上あり、JR水郡線が敷かれています。


本丸は水戸一高の敷地になっていますので、入口にある薬医門までしか入ることはできません。この門は佐竹氏時代の建築とされ、郊外に移設してあったため戦火を免れた唯一の建造物になっています。



藩庁や奥御殿が置かれたのは二の丸でした。ここも学校が3校あり文教地区になっています。
城跡にふさわしい景観整備が行われ、学校の塀も白壁で統一されました。


復元された杉山門、那珂川河岸方面からの登城口でした。


右手の門をくぐると見晴らし台があり、断崖に立つ水戸城の鉄壁の守りが実感できます。
樹齢400年以上の椎の木が見えます。


水戸二中の正門も城址に違和感なく収まっています。ここには2代藩主光圀公が編纂を始めた大日本史の史局「彰考館」がありました。


右手にある二ノ丸展示館では水戸城に関する資料や城址からの出土品などが公開されています。


復元された二ノ丸隅櫓ですが、周りには彩ってくれる桜が見つかりません。


二の丸(右側)、三の丸間の空堀もその深さに驚かされます。空堀の底には旧6号国道が走っています。青い花はハナダイコンでしょうか。


二ノ丸に入口にある大手門を額縁にして、大手橋先の三の丸にある藩校弘道館の桜が見えます。


9代藩主の斉昭公は三の丸にあった重臣屋敷を立ち退かせて藩校弘道館を建てました。当時300以上の藩校の中で随一の規模でしたが、明治元年の藩内抗争の最後の戦いで、正門、正庁などの一部を除いて焼失してしまいました。
弘道館の中の桜については、拙ブログ「弘道館の桜 2020.3.29」で紹介させていただきました。


藩校の敷地でも三の丸は城の一部ですので土塁と堀に囲まれ、入口は門で厳重に守られていました。復元された北柵門、右手の土塁上には、茱萸(グミ)の大木が花を開いています。


昭和5年建築の旧茨城県庁には桜がよく似合います。近世ゴシック建築様式のレンガ張りの外観が重厚な印象を与え、ロケによく利用されるスポットになっています。


三の丸西側の空堀です。地形上地続きになっている西側には、この先の市街地にも大きな外堀が二つあり、水戸城の総構えを構成していました。


県立図書館前の枝垂れ桜は、第8代県令人見寧が植えたと伝わります。元幕臣で函館戦争にも参加した硬骨漢で、この三の丸が陸軍の練兵場になる計画を防ぎ、弘道館や県庁の敷地としての存続に尽力しました。


藩校内にある鹿島神社は、藩校の精神「神儒一致」から儒学の孔子廟と対で建てられました。


藩校の剣術方教授をしていた小沢寅吉が、明治になってから「文武一致」を掲げて開いた北辰一刀流の道場「東武館」は、今でも全国選抜少年剣道錬成大会を開催するなど、民間剣道場としては特異な存在として知られています。


弘道館公園の梅林の下はタンポポの絨毯に…うれしいことに在来種の「ニホンタンポポ」でした。

桜は日本人にとって特別な感情を抱く花だと思います。咲いている時期は心穏やかならず何か急き立てられるように、ついつい拙いブログ3本を続けてしまいました。
つくづく平和のありがたさを感じると同時に、権力をもちすぎた独裁者の平和を踏みにじる行為にさらに強い憤りを感じました。

世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし  在原業平

千波湖の桜…水戸城の天然の堀

2022年04月09日 | 水戸の観光

千波湖は、いまから3000~5000年前に古代の那珂川の堆積物により上市台地と千波緑岡台地の間にできた浅い沼でした。江戸時代になると水戸藩の城下整備に伴い水戸城南側の天然の水堀となり、北側を流れる那珂川とともに防衛上の重要な役割を担いました。


当時の千波湖は、約1,275,000㎡(約386,000坪)といわれ、現在の約3.8倍の大きさでしたが、大正末期から昭和前期にかけての埋め立てにより今の姿になりました。


ここの海抜は約9m、大洗海岸までは直線で約12.5Kmですが、湖畔には約6000年前の縄文時代前期の柳崎貝塚もありますので、縄文海進時にはここまで太平洋が入り込んでいたそうです。


遠方東側の真ん中あたりが水戸城のある方向です。千波湖は水戸城を守る要害のため、当時は禁漁や禁夜船などの措置がとられていたと伝わります。
平均水深は約1.0mのため分類上は「沼」になりますが、昔から千波湖とよばれており、また法制では河川(桜川の一部)とされています。


標高差約20mの河岸段丘の上にある偕楽園が見えます。庭園としての偕楽園には池を掘らず、借景としての千波湖を活かしたと「ブラタモリ」でも紹介されました。


千波湖の周囲はちょうど3km、桜並木の遊歩道がぐるりと周っているので、マラソン大会や市民のウォーキングやジョギングの名所になっています。


千波湖畔の桜は30種、約750本で、いま咲いているのはほとんどソメイヨシノですが、少し遅れて八重のボタン桜が追いかけて咲き出します。
珍しい品種のボタン桜については、拙ブログ「千波湖畔の八重桜…変わり種はお好きですか? 2021.4.14」でご紹介させていただきました。


この千波湖(33.2ha)や偕楽園(12.7ha)を含めたこの一帯の緑地は、「偕楽園公園」とよばれ総面積約300ha、都市公園としてはニューヨークのセントラルパーク(340ha)に次いで世界第2位になります。
市の中心部に残るこの大きな自然の恩恵を受けるだけでなく、それを守り育てていくのがこれからの市民の大きな課題になると思います。