顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

偕楽園公園の桜…月池の畔に迎賓館

2023年03月29日 | 水戸の観光

桜はやはり青空が似合いますね。といっても出かけるタイミングと晴天がうまく合わないのがこの世の常でございまして…そういうわけで偕楽園下の偕楽園公園の桜を撮ってきました。

この桜山は昔から白雲岡とも呼ばれていた景勝の地で、徳川斉昭公はここに偕楽園を造ろうとしましたが狭いために断念、この岡には数百株の桜を植え休息所として一遊亭を建て、好文亭と相対させました。今は水戸の桜の名所になっています。


ソメイヨシノばかりでなく、人気の陽光桜などいろんな桜が植えられるようになってきました。


あまり手を加えていないのが魅力です。公園内を縦断する桜川は、光圀公が古来より「西の吉野、東の桜川」と並び称されるサクラの名所、櫻川磯部稲村神社を度々訪れ、持ち帰った苗を植えて名付けたと伝わります。


水戸城の南を守る堀の役目をしたという千波湖です。周囲を約750本という桜並木が囲んでいます。


水深は平均で約1mのため分類上は「沼」ですが、昔から「千波湖」と呼ばれています。幕末水戸藩の中心人物、藤田東湖の「東湖」という号は、生家が千波湖を東に望む台地上にあったことに因んだといわれます。


ところで公園の一画、月池の東側にレストランやカフェ、結婚式場…迎賓館としても利用できる建物が現れました。この事業は、都市公園に民間が施設を造り、その利益を公園管理に生かすという国の「パークPFI制度」を県内で初めて活用したものだそうです。


名称は「The 迎賓館 偕楽園 別邸」で、運営するのは佐賀県にある「IKKホールディングス」、東京や大阪など全国で婚礼施設を展開している企業です。


せっかくの自然を残した風景の中の人工物建造には反対意見も多く聞かれましたが、偕楽園から眺めても(3月7日撮影)、近くで見てもあまり違和感は感ぜず、反対意見の仙人も飲食の場が少ないこの一画にはあってもいいかなと納得してしまいました。
今年の秋に予定される先進7か国首脳会議(G7サミット)の関係閣僚会合の利用も予定されているそうです。

この迎賓館から見た偕楽園公園の借景です。台地上の偕楽園と好文亭が見えます。


月池にかかる木の渡月橋、その先に緑丘の森が見えます。


ガラス張りの施設なので、まるで四季折々の自然の中にいるような感覚になることでしょう。


この広さがあるからこそ、自己主張の少ない建物は周りの風景に溶け込めるのかもしれません。


少し宣伝臭のする紹介ブログになってしまい、湖畔に建つ大きな銅像の光圀公も戸惑い気味なお顔のようでした。なおオープンは4月7日(金)の予定です。


さて、水戸駅の東側付近の桜川の土手も桜並木が満開でした。10日くらい早い今年の桜満開、春は一気に列島を駆け抜ける勢いです。

六地蔵寺の枝垂れ桜…光圀公ゆかりの古刹

2023年03月24日 | 歴史散歩

WBCの興奮も覚めやらぬ23日の朝、しばらく春の長雨、菜種梅雨の予報なので、降らないうちにと思い、水戸市の枝垂れ桜の名所として知られる六地蔵寺に出かけてみました。


仙人の棲み処から車で5分くらい、8時10分には220台という大きな駐車場もわずか数台だけ、しかもWBC優勝を祝福するように枝垂れ桜はちょうど満開でした。


去年も来たという高齢の御夫婦の話では、10日くらい早い開花ということでした。入り口の真ん中に大黒柱のように立つ大杉は、樹齢1100年と標示されています。


この倶胝山聖寶院六地蔵寺は、約1200年前の大同2年(802)の開山といわれ、真言宗安祥寺流系六地蔵法流の本山で末寺17カ寺をもち、この地の歴代領主である大掾氏、佐竹氏、徳川氏から手厚い保護を受けてきました。


枝垂れ桜は、水戸藩2代藩主徳川光圀公の花見を楽しんだ桜の「孫生え」ともいわれ、樹齢約200年の老木などおよそ50本が植えられています。




光圀公最晩年の寄進による地蔵堂は、裳階(もこし)付きで二階建てに見えても屋根裏の高い平屋建てになり、元禄時代の建築様式の特色を示しているそうです。本尊の身丈六尺の一木造り行基菩薩一刀三礼真作の地蔵菩薩(六体)が安置されています。


本堂には徳川家菩提寺、真言宗本山、水戸大師という大きな看板、今でも将軍家と水戸徳川家歴代の御位牌を護持しているそうです。


大屋根や本堂幕には徳川家の葵紋がしっかりと付いていました。境内を彩る枝垂れ桜は、エドヒガン系のイトザクラで、下垂した小枝に淡紅色の優しい花を咲かせています。


真言宗の開祖である空海(弘法大師)を祀る大師堂です。


旧法寳蔵は寺宝の収蔵庫で、特に真言宗に関する貴重な「六地蔵寺典籍・文書」などを、光圀公がこの土蔵を建てて保護したと伝わります。明治42年の改修調査時に、慶長小判三十枚が隠されているのが見つかり、光圀公自身が将来の法寳蔵修繕費として置いたものであることが判明したそうです。


六地蔵寺の護持している平安から室町時代中心の学問的価値の高い資料や文化財は3000点以上におよび、すべて国及び茨城県の重要文化財に指定されており、関東地方では公的機関を除くと金沢文庫、足利学校に次ぐ規模になるそうです。
その収蔵のために昭和56年(1981)に、この新法宝蔵が建立されました。


二本の本柱の前後に控え柱を立てた簡素な造りの四脚門は、室町時代末期の様式がよく表れているとされます。


弘法大師の頭上も一面の枝垂れ桜に覆われています。
お寺に枝垂れ桜が多いのは、天井から吊るす仏具、天蓋に見立てたという説もありますので、まさにその風景でした。


六地蔵を検索すると、人がその業に従って死後に赴く六つの道から救済するために配され地蔵菩薩で……、地獄道を救う檀陀(だんだ)地蔵、畜生道を救う宝珠地蔵、餓鬼道を救う宝印地蔵、修羅道を救う持地(じじ)地蔵、人間道を救う除蓋障(じょがいしょう)地蔵、天道を救う日光地蔵の六つの地蔵と出ていました。


隣接する墓地には、水戸藩の大事業である「大日本史」に重要な役割を果たした二人の先人の墓所があり、満開の桜に彩られていました。


水戸藩彰考館総裁として「大日本史」の編纂につとめ,藤田幽谷ら多くの門人を育成した立原翠軒(1744~1823)とその一族の墓所、「立原翠軒 居士之墓」と清冽な篆書体で書かれています。なお、子孫に詩人立原道造がいます。


栗田寛(1835~1899)と養子の勤(いそし)は、明治維新後も大日本史の志、表の編著の継続と完成に尽力し、明治39年(1906)光圀公以来250年に及ぶ大日本史(本紀・列伝・志・表の397巻と目録5巻の計402巻)の大事業を完成させました。一族の墓所は奥まった一段高い場所にあります。


コロナ禍もひと段落、手水舎が使用できるようになっていました。この当たり前の写真がなぜか新鮮に感じてしまいました。

台風で倒れた偕楽園の「左近の桜」…佳子さまが復活植樹

2023年03月18日 | 水戸の観光

偕楽園の見晴らし広場にあった「左近の桜」は令和元年(2019)9月9日の台風15号によって倒れてしまいました。茨城県ではこの「左近の桜」の復活を目指して、宮内庁から御所の「左近の桜」の新たな苗木の提供を受けていました。

天保13年(1842)開園当初の造園構想にはなかったことや、好文亭からの眺望を邪魔するというような反対意見もありましたが、左近の桜が水戸に植えられた歴史やその景観に賛同する個人や団体などから、復活に向けたプロジェクトには3000万円余りが寄せられたそうです。


在庫写真で往時の姿を見ると、年々勢いが弱くなっていたような気もします。
 

偕楽園は比高約20mの河岸段丘の上にあるため、樹高16m、幹回り3.9mの「左近の桜」は遠くからも見えるランドマークのような存在でした。(2018.3.30 撮影)


吉野の桜と同じシロヤマザクラという日本古来の桜で、京都御所紫宸殿に平安時代から植え継がれてきた由緒のある桜です。


Google Earthの航空写真では、桜の植わっていた場所がすでに移植準備ができた状態で写っていました。

そもそもこの桜は天保2年(1831)の春に、有栖川宮家から水戸の徳川斉昭公に嫁ぐ登美宮吉子女王が、御所に参内してご挨拶を申し上げた際、仁孝天皇から勤王の志が強い水戸への土産として御所の「左近の桜」と「右近の橘」の実生苗を、天皇お手ずから渡して下さったと伝わっています。

小石川の水戸藩邸に植樹された後、天保12年(1841)弘道館の開館に伴って水戸に移植されましたが、弘道館では2度にわたり枯死してしまい、現在では3代目の「左近の桜」が花を咲かせています。偕楽園の「左近の桜」は、その3代目を植樹した昭和38年に宮内庁から頂いた数鉢の1つを植樹したものです。(写真は弘道館の左近の桜)



このように歴史を振り返っても水戸と皇室との繋がりを象徴する桜なので、3月16日の植樹祭には秋篠宮家の次女の佳子さまが出席されました。


茨城県知事と二人で、すでに植えてあった背丈2mくらいの苗に土をかけて無事終了です。満開を少し過ぎてはいますが、梅いっぱいの偕楽園にはやさしい南風が吹いていました。

倒木した「左近の桜」を撮った時に根があまり張っていなかったのを覚えています。地盤の水捌けが悪かったのかもしれません(素人の感想)。今度は土が盛り上げられています。樹齢60年くらいのソメイヨシノに比べると、ヤマザクラは300年~500年以上の木も多く見られるそうです。

成長が早く大きくなりすぎるので庭に植えるなといわれるヤマザクラですので、すぐに広がった枝に花をいっぱい咲かせて歓声を誘うことでしょう。その頃には觔斗雲に乗って下界眺める本物の仙人がいるかもしれません。

弘道館中千樹梅…斉昭公の詠んだ梅が満開

2023年03月12日 | 水戸の観光

詩吟をやっている方にはおなじみの「弘道館に梅花を賞す」という漢詩(七言絶句)があります。天保12年(1841)に藩校弘道館を創設した水戸藩9代藩主徳川斉昭公が詠みました。

弘道館中千樹梅  (弘道館中千樹の梅)
淸香馥郁十分開  (清香馥郁(ふくいく)十分に開く )
好文豈謂無威武  (好文豈(あ)に威武(いぶ)無しと謂わんや)
雪裡占春天下魁  (雪裡(せつり)春を占む天下の魁)

意訳 『弘道館の千本の梅が清らかな香を漂わせて満開である。
「好文」という別名の梅が武の威力がないと言えようか。
雪が残る中で春を独り占めする天下の魁のような花ではないか』


この弘道館は、水戸の梅まつり会場にもなっており、いま満開の梅が180年前と同じように馥郁たる香りを放っています。撮影した3月11日は、斉昭公の生誕日(グレゴリオ暦では4月4日)であり、また東日本大震災の被災と復旧をふり返える日として、藩主来館時のみ開かれる正門が解放されていました。



斉昭公の諡号の付いた「烈公梅」は水戸固有の梅、花弁の離れたきりりとした花は、その生きざまを表しているような気がします。この梅の前で詩吟をうたう方々を何度か見かけたこともありました。


千樹梅まではいきませんが、約60種800本の梅が満開になっています。藩校時代のこの場所には学問を修める文館がありました。


当時の藩校では国内随一の規模を誇る弘道館の敷地は水戸城三の丸の地に105,000㎡(32,000坪)、藩校当時の正庁などが現存し、国の重要文化財に指定されています。
周りの梅林内に点在する弘道館の付帯施設ご紹介いたします。


斉昭公が梅を水戸に植えた経緯を述べた種梅記碑です。その中に、「夫(そ)れ梅の物たる、華は則ち雪を冒(おか)して春に先んじて風騒の友と爲り、實は則ち酸を含んで渇きを止め軍旅の用と爲る。嗚呼、備へ有らば患ひ无(な)。」という一節があり、梅は風雅を鑑賞でき戦では役立つ食糧にもなるので備えておくようにと述べられています。

碑文の拓本が弘道館内で展示されています。この斉昭の書の隷書体は、線が波形で筆端をはねる波磔 (はたく)が独特な装飾性をもち、「水戸八分」とよばれています。


藩校建学の精神を記述した弘道館記の石碑を納めた八卦堂です。石碑は東日本大震災で一部崩落しましたが、文化庁が半年以上かけて破片をつなぎ合わせた痛ましい姿で再建されました。

この弘道館記碑が完全な形で刷られている拓本は、弘道館正庁の正席の間に掛かっています。この部屋は藩主が臨席して、学問の試験や対試場で行われた武術の試合を観覧したところです。


当時の藩校には付き物の孔子廟は、大空襲でこの戟門(げきもん)と左右の土塀を残して焼失し後に復元されました。


建学精神にあげてある「神儒一致」を実践する鹿島神社は、天照大神の国土平定の祖業に貢献した武の神、武甕槌命(たけみかづちのみこと)を祀る鹿島神宮から分祀されました。


時を知らせる学生警鐘(複製、実物は弘道館内に展示)の背面には「物学ぶ人の為にとさやかにも 暁告ぐる鐘のこえかな」と斉昭公の書が彫られています。


要石の歌碑は、斉昭の自詠自筆の歌「行末(いくすえ)も ふみなたがへそ 蜻島(あきつしま) 大和の道ぞ 要なりける」が、老中の小田原藩主大久保忠真から送られたという伊豆石に彫られています。意訳は「日本古来で永久不変の正しい道を、これからも踏み違えてはならない」でしょうか。鹿島神宮にある「要石」になぞらえて「要石歌碑」という名がつけられました。

この拓本は弘道館至善堂の御座の間に掲げられています。ここは斉昭公の七男で最後の将軍の徳川慶喜公が明治維新後に謹慎した部屋として知られています。


旧弘道館敷地内に建つ昭和5年建築で近世ゴシック様式の旧茨城県庁本庁舎は、レンガ張りの重厚な外観でいろんなロケや撮影に使われています。 

老木の枯死に伴う新しい若木の移植など、この梅林でも世代交代が見られます。最近植えられたニューフェイスをご紹介いたします。

朱鷺の舞」  青梅産出の野梅系品種、裏の花弁の紅が透き通って見える裏紅という咲き方です。


黒雲」 紅材性杏系でも結実品種です。紅が濃すぎて黒く見える?のが命名由来でしょうか。


大輪青軸」 名前の通り萼や枝が緑色で爽やかな印象、大輪の花ながら収穫できる実梅としても知られています。

温かい日が続いています。天下の魁と詠われた梅の花が、もう季節外れになりそうです。
幕末の水戸藩の若き志士たちが時代に魁けて梅の花を咲かせるも、やがて大きく変わっていく世の中についていけず、満開の桜を見ることなく散っていったことを想ってしまいました。

梅満開の偕楽園…4年振りの梅まつり通常開催

2023年03月09日 | 水戸の観光

水戸の偕楽園は、いま梅の花が最盛期を迎えています。2020年の梅まつりは開始早々に新型コロナの影響でいろんなイベントが中止になってしまいましたが、3年後の今年は久しぶりにいつも通りの開催ができました。

混雑を避けて早い時間の梅林は梅の香に溢れ…ですが、仙人の嗅覚はほとんど機能しません。
偕楽園も老木の多いのが特徴のひとつ、いかに長生きさせるか担当の方々が苦心しているようです。

仙人が「案山子梅」と勝手に名付けた木がまだ生きていました。樹皮の一部がかすかに残った案山子のような姿で白梅を咲かせています。

梅林の下の青い花の群落は、春先に咲く雑草で別名「星の瞳」といわれる外来種オオイヌノフグリです。

梅林の真ん中付近にあった売店が撤退した跡には、手頃なお休み処ができました。

「梅大使」が園内でお出迎え、記念撮影に応じてくれます。前は「梅娘」でしたが既婚者でも応募できるようになったので名前が変わりました。

偕楽園は比高約20mの河岸段丘にありますが、見下ろした桜川沿いにも田鶴鳴梅林などの3つの梅林が満開の梅を咲かせています。

水戸の大空襲で焼失を免れた表門、ここから入園するのが陰と陽を体現できる理想的なコースとされています。

偕楽園を創設した徳川斉昭公は、二層三階の好文亭で文人墨客や家臣・領民を招き、養老の会や詩歌の会を催しました。

その詩歌の会を催した西塗縁広間は、総板張りで漆塗りが施されている36畳間、天井は檜皮の網代張りです。いまここではカフェ「樂」が営業しています。歴史ある場所にそぐわないというような意見もありますが、遠くからのお客様には好評のようです。

隣接する奥御殿は藩主夫人やお付の女中衆のお休みどころ、襖絵で名前の付いた10部屋があります。

梅の間のある一画は明治2年に水戸城の中御殿の一部を移築したもので、斉昭公夫人の貞芳院が明治2年から、向島小梅邸(旧水戸藩下屋敷)に移るまでの4年間住まわれました。
 
好文亭3階の楽寿楼から見た梅林と見晴らし広場、約180年前に斉昭公も同じ景色を見ていたことでしょう。

梅の種類が多いことも偕楽園の特徴です。100種以上の梅の一部をご紹介します。

偕楽園を創設した斉昭公の諡号の付いた「烈公梅」は、水戸のシンボル的な花です。昭和8年弘道館孔子廟の東で今までの品種にない老梅を見つけ命名したと伝わります。

梅と思えないほど大輪で豪華な豊後性八重の花「白牡丹」、明治時代の梅銘花三牡丹(玉牡丹、紅牡丹)の一つです。

濃い紅の花の代表品種「佐橋紅」、天保年間に旗本佐橋氏の屋敷の実生に名付けたともいわれますが、梅花の名前の由来ははっきりしないものが多いようです。

一個の花に実が数個生るのが見られる「座論」です。以前は水戸独自の名前「品字梅」という名札が付いていましたが、最近図鑑にある品種名に直されました。花弁の先が白くなる覆輪という咲き方です。

水戸の梅まつりも19日(日)まで…、間もなく日本列島は桜の話題で持ち切りになる、そのバトンタッチは早くなりそうな予想です。今年はコロナ以前のいつも通りの花見ができそうでよかったですね。