顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

季節の色…コロナ小康状態の秋!

2021年11月26日 | 季節の花

大串貝塚公園の紅葉です。
東茨城台地の東端、水を透さない水戸層(凝灰質泥岩)の上の上市層(砂礫層)に水を豊富に含み、斜面からは水が湧き出しています。

水戸藩の藩校弘道館前のムクロジ(無患子)もきれいに黄葉しました。

面白い形のムクロジの実、果実の外皮は洗剤として用い、中の黒い種子は羽根つきの玉にしたといわれます。

羊歯の黄葉を見つけました。ウェブ図鑑で調べると多分ヒメワラビ(姫蕨)、繊細な葉がきれいに染まっています。

これは草紅葉というのでしょうか、イネ科チガヤ(稚萱)の紅葉に初めて気が付きました。コロナのおかげかもしれません。

ヤマイモ(山芋)の葉はきれいに黄葉するのでよく目立ちます。山芋掘りの名人は、この時期に見つけて後で収穫するための目印を付けておくと聞いたことがあります。

水戸城三の丸の土塁の上の銀杏は、最後の黄色を輝かせていました。手前のすっかり葉を落とした大木は、ケンポナシ(玄圃梨)です。

ケンポナシの実が落ちていました。白い小さな実の肥大化した果柄をかじると、まさしく梨の味と香りがしました。

なぜか親しみを感じるセンニンソウ(仙人草)は、花のあとになって名前の由来が分かります。果実より伸びた銀白色の長い毛を仙人の髭にたとえました。

公園のフェンスに絡みついたサルトリイバラ(猿捕茨)、棘のある蔦が猿を捕まえて逃がしません。

散歩道の高い藪の中で見つけたサネカズラ(実葛)は、茎や葉から出る粘液が奈良時代から整髪料に用いられたためビナンカヅラ(美男葛)ともよばれます。野生のものを初めて見ました。

高速道の下のフェンスに絡みつく蔦も紅葉しています。一番多く見かける蔦紅葉のナツツタ(夏蔦)です。

この蔦紅葉は三枚葉、ツタウルシ(蔦漆)だったら大変です。ウルシの中でもっとも強いかぶれ成分を持つといわれています。

蔦の葉はむかしめきたる紅葉かな  松尾芭蕉
蔦紅葉搦手門に火がついて  大倉敏代
蔦もみぢ濡れしは今かしぐれけむ  水原秋櫻子
色に出て竹も狂ふや蔦紅葉 加賀千代女

徳川頼房…水戸藩初代藩主の軌跡

2021年11月22日 | 水戸の観光

ここ2年間コロナの影響で休館が多かった水戸市立博物館で、水戸藩の基礎をつくった初代藩主頼房の生涯をゆかりの品々でたどる企画展が開かれました。(11月21日まで)

徳川家康の11男頼房は慶長8年(1603)伏見城にて生まれました。家康60歳の時の末っ子です。当時家康は、常陸の国水戸の佐竹氏の出羽国への減転封など関ヶ原の戦後処理も終わり、朝廷より征夷大将軍に任命され伏見城で政務を執っていました。

末っ子として家康の膝の上で可愛がられていた頼房は、慶長11年(1606)3歳にして常陸下妻城10万石を、次いで慶長14年(1609)、兄の頼宣の駿河転封によって新たに常陸水戸城25万石を領しましたが、幼少のため駿府城の家康の許で育てられました。
写真は家康着用の遺品として、頼房が水戸東照宮に奉納した具足です。家康死後に子供たちに分けられた「駿府御分物」は頼房にも多く与えられました。

頼房の初めての水戸就藩は、元和5年(1619)17歳のときで、寛永2年(1625)から寛政7年(1630)までは、ほぼ毎年水戸に就藩し、水戸城の修復や城下の整備を行いました。その後叔父、甥の関係ながら1歳年下の3代将軍家光に兄弟同様と信頼されて江戸在府が多くなり、これが「副将軍」の論拠になったともいわれます。
写真は家康着用の「石帯」(公家の正装である束帯装束を身に着けるときの黒皮製の帯)と「錦貼り提げ鞄」です。

将軍就任前後の徳川家光に宛てた元和9年(1623)の頼房の書状です。年が一つしか違わない二人は親密に交際していたと伝わります。

水戸に就藩中の頼房が、家光側近の柳生宗炬に宛てた書状です。家光の様子を伺うとともに、領内の鷹狩りで獲れた雁を宗炬に贈っています。

寛永8年(1631)頼房から家康の側近だった金地院崇伝に出された書状です。体調を崩していた2代将軍秀忠の病状を気遣っていますが、翌年1月に24も年の離れたこの兄は亡くなります。

寛文元年(1661)光圀の書状です。就藩中の父頼房が流行り病に罹り、その病状を心配して同行している家老の中山信治宛に送りました。

興味を引いたのは佐竹義宜に宛てた頼房の寛永5年(1638)の書状です。関ケ原戦後家康によって水戸城から出羽秋田に移封された佐竹義宜との交流もあったことが分かる内容で、たびたび腫物に悩まされている義宜を気遣っています。

慶長5年(1600)、上杉討伐に向かっていた家康が小山で石田三成の挙兵を聞き引き返す時に、佐竹義重の次男で蘆名氏を継いだ義広に出した書状です。佐竹氏の中でも家康と連絡をとっていたものがいたことが分かりました。

水戸藩家老の鈴木石見守家伝来の古文書で、永禄10年(1567)今川家当主の氏真が鈴木重時の軍功を褒めたものですが、永禄3年(1560)今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれ後を継いだ氏真の代には衰退の一途をたどり、重時もやがて今川家を離反し井伊谷三人衆の一人として家康に従います。その子重好は徳川秀忠の命で水戸藩付きとなり、代々石見守を名乗り5000石で家老を勤めました。

文禄3年(1594)1回目の朝鮮出兵から京に戻った伊達政宗が国元に送った書状です。家臣たちのことを気にかけており、また政宗の許に身を寄せていた常陸額田城主小野崎昭通の堪忍分(隠居料)のことも書かれています。

歴史上に名の知れた先人の筆跡を眺めていると、その息遣いまで感じられるような気がしました。最近は撮影不可の展示物以外は写真が撮れるので、歴史を語る展示を紹介できるようになったのは嬉しい限りです。
写真は水戸城二の丸の柵町坂下門前に建つ頼房公の銅像(製作/篠原洋)です。

さらに会期中の11月14日には、頼房公が創建した水戸東照宮の江戸時代から伝わる御祭禮が100年ぶりに行われ、あらためて400年前に思いを巡らすことができました。

水戸東照宮御祭禮…城跡を行進

2021年11月16日 | 水戸の観光

水戸徳川家の初代藩主頼房公が、家康公を祀って元和7年(1621)に創建した水戸東照宮の御祭禮は、江戸時代の諸国祭礼番付によると、江戸の山王祭と神田祭に次いで「常陸 水戸御祭」と出ているほど盛大に行われていましたが、大正時代以降途絶えてしまいました。

今年は水戸東照宮創建400年と、二の丸大手門や隅櫓の復元完成を記念して、100年ぶりの御祭禮行列が水戸城から東照宮まで、11月14日に行われました。

300人ほどの行列はまず水戸城本丸の薬医門をスタート、本城橋を渡って二の丸へと進みます。

騎馬行列の馬は、市内の乗馬クラブの春香、葉月、みなみ、めい、星丸の5頭、馬の名前を見ると勇ましい武将の姿もほほえましく、平和の世の中を象徴するようです。

騎馬列の後尾の白い装束の三人衆は?…馬糞の処理係でした。
やや緊張気味の水戸市長、直垂姿で騎馬行列に参加していました。

20台くらいの人力車の行列は、直垂姿の地元選出国会議員の方々が先頭です。

頼房が奉納したと伝わる豪華な「八角形の御神輿」も担がれていました。

大手門を出て大手橋を渡り三の丸へ…県内のコロナ感染者も今のところ毎日数人、久しぶりの人混みですが、全員マスクしているのはさすが日本人です。

三の丸で昼の休憩です。後ろには高い土塁が見えます。

三の丸の空堀と土塁の上には銀杏の黄葉が見頃です。

昭和5年(1930)に建てられた近世ゴシック建築様式の旧県庁舎前には、飲食物のテントが並び久しぶりの笑顔があふれていました。


家康の死後、各地の徳川、松平一門大名や譜代家などは競って東照宮を建立し、全国で500社を超えたといわれますが、明治維新以後には廃社や合祀が相次ぎ、現在では約130社の東照宮があるそうです。写真は昭和37年に造営された水戸東照宮の社殿です。

昭和20年(1945)8月2日の空襲で、東照宮や水戸城など市内中心部の約80%が焼失してしまいました。戦後しばらく経ちましたが、このほど水戸市で進めてきた大手門、二の丸隅櫓、二つをつなぐ土塀の復元整備が完成し、歴史ある水戸城址の視覚的な印象を市民や観光客に届けられるようになりました。写真は二の丸隅櫓です。

長福寺と大串貝塚(水戸市)

2021年11月13日 | 水戸の観光

東茨城北部台地が東へ突き出た先端に位置する一帯は、縄文海進時には海に面した小高い丘陵で、縄文時代前期(約5000年以上前)に形成されたという大串貝塚(国指定史跡)があります。

その南側にある塩崎山密厳院長福寺は、1100年の歴史を持つ天台宗のお寺です。

平安時代の貞観元年(859)に慈覚大師がこの地に開基、本尊は阿弥陀如来で恵心僧都(942~1017)の作、康永3年(1344)に中興開山の栄尊和尚が本堂を再建し、水戸藩2代藩主光圀公の時に思し召しにより500人の人夫の手で現在地に引寺されたと伝わります。
天保10年(1839)火災により山門だけを残しすべてを焼失するも、天保12年(1841)本堂が再建され現在に至ります。水戸領城下三ケ寺のひとつといわれたと寺伝には記されています。

長い歴史の中で、幕末の元治甲子の乱(天狗党の変)ではここが戦場のひとつになりました。元治元年(1864)尊王攘夷を掲げた水戸藩の改革激派天狗党と、門閥派諸生党の戦いの戦端がこの一帯で開かれ、藩主の名代で鎮圧に向かった支藩の松平頼徳の軍が8月12日ここに陣を置きました。

やがて那珂湊方面に移った頼徳軍に代わって、9月4日から宇都宮藩など近隣諸藩からなる幕府の追討軍800名が駐屯し、台地下の北東方面に陣を敷いた天狗党勢力と激しい戦いが繰り返されました。

その後頼徳は捕えられて切腹、天狗勢の一部も降伏したため、約1000名の残存勢力は一橋慶喜を通じて朝廷へ尊皇攘夷の志を訴えようと西上の行軍を続けます。しかし頼みの慶喜が幕府追討軍を率いることを知り12月17日に越前の地で投降、352名が斬首という近世史上最も悲惨な結末になりました。

幕府から要請されて追討軍に出兵し、異郷の地に戦死した近隣諸藩士4名が山門前に眠っています。この3年後には明治維新、今度は幕府軍が逆賊になるという歴史を知る由もありません。

山門から見下ろす田園地帯が激戦の舞台になりました。

また山門の脇には寛文10年(1671)、延宝4年(1676)などの古い石仏が並んでいて、寺の歴史を物語っています。

北側にある大串貝塚は、奈良時代の「常陸国風土記」に記されており、文献に残る貝塚としてわが国で最も古く、これにまつわる巨人(だいだらぼう)伝説とともに知られています。

一帯は「大串貝塚ふれあい公園」として整備され縄文時代の住居なども復元されています。

貝塚の斜面を保存した「貝層断面観覧施設」は休館中、汚れたガラス面越しに断面を撮影してみました。

遠くからも見える伝説の巨人「だいだらぼう」の像は高さ15.25m、奈良の大仏より25cm高いという可愛い自慢が載っていました。

「だいだらぼう」の手の高さにある展望台から東側の田園地帯を眺めると、前方は太平洋、左手が天狗の乱の主戦場となった那珂湊方面です。


この公園にある水戸市埋蔵文化財センターの入口には遺跡をイメージした石塔が並びます。

いま、「悠久の水戸市」というテーマで市内の遺跡と発掘された土器などが展示されていました。(2022年2月20日まで)

今は秋…大洗サンビーチ

2021年11月09日 | 日記

今は秋♪…誰もいない海~  トワエモアが歌った夏の喧騒が一転して静かな秋の海…、しかし大洗サンビーチの夏は、新型コロナの影響でほとんど閉鎖され2年続きの寂しいものでした。

遠浅で広くきれいなビーチが続き、快水浴場百選にも選定された海岸線は、いま人の姿もまばらです。

砂浜に散らばる小さな星は、ハマグリ(蛤)の稚貝です。ここ大洗から南の鹿島灘はハマグリの有名な産地ですがほとんどが禁漁区で、サンビーチもほんの一部だけが採取可能区域です。

砂浜に無数の穴が開いています。掘ったことはありませんが、波打ち際などで見かける透明なスナガニ(砂蟹)の巣だそうです。

7000台収容の駐車場と砂浜の間には、広い緑地帯が広がりますが、すっかり秋色になっています。

緑地帯で残っている花は、コマツヨイグサ(小待宵草)くらいしか見当たりません。

セイタカアワダチソウ(背高泡立草)やコセンダングサ(小栴檀草)の悪名高き外来種の向こうに見えるのは、北海道航路のフェリーです。大洗港から北海道苫小牧港まで、約20時間で結ばれています。

第4埠頭に停泊中の貨物船は北九州の船でした。苫小牧行きのフェリーと並んで、日本列島の南北の船舶が並びました。

釣り禁止の看板が出ていますが釣り客は素知らぬ顔、もっとも「建て前」での禁止で、事故でも起きなければ取り締まられることはありません。沖の堤防には波しぶきが上がっています。

大洗マリーナには豪華なクルーザーも停泊をしています。この沖は有名なカジキ釣りの好漁場で、茨城ビルフィッシュトーナメントも開催され、200kgクラスのカジキが釣り上げられますが、2年間中止になっています。

一帯の生垣に多く植えられているシャリンバイ(車輪梅)には、巨峰のような実が生っています。食用には向かず染料になりますが、大島紬は実でなくシャリンバイの樹皮を使って染められているそうです。

松林の中にいっぱい出ているヌメリイグチです。この辺ではアブクタケ、アワタケといいますが、キノコうどん専門店ではジゴボウという名で出ていました。

食用になりますが、最近この辺では採る人はいなくなりました。かさの表皮と管孔層が消化されにくく、かさの皮を剥いて食べると故老より聞いたことがありますが、守らずに消化不良を起こしたことがありました。