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顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

最近撮った初夏の花…

2017年06月28日 | 季節の花

偕楽園のケンポナシ(玄圃梨)の花、高いところなのでコンパクトカメラでのアップです。10月頃に実がつき、実ではなく膨らんだ面白い形をした果柄を食べると梨の味がするとか、その形から手棒(てんぼう)梨が訛って名前になったようです。二日酔いにも効くというので、秋の挑戦がひとつ増えました。

水戸の佛性寺の境内にボタイジュ(菩提樹)が満開でした。何の花?そういえばお寺に関係あるのは、釈迦が悟りを開いた菩提樹と入滅した時の沙羅双樹と思い出しました。微かに甘い香りが漂っています。

偕楽園にも藤棚近くに2種類のボダイジュがあります。こちらはオオバボダイジュ(大葉菩提樹)、葉の大きさだけで花はほとんど同じです。

最近道端で見かけるこの紫色の花は、調べてみるとヤナギハナカサ(柳花笠)、南アメリカ原産で、園芸植物として導入されたのが、野生化して今は日本全国の空き地や道端などに生えており、別名サンジャク(三尺)バーベナともいいます。

近所の家で道路際に出ていた鉢植えの花、オレンジ色の6本の雄蕊と白い雌蕊が際立っているので、調べたらサフランモドキ(擬き)、江戸時代に鑑賞用として導入され、サフランと呼ばれていたのが、後にハーブの本物のサフランが導入されてからモドキが付いて可哀想な名前、ゼフィランサスとも言うようです。

庭に1本だけ出てきたジギタリス、暑さに弱く二年草ですが、生育環境によっては多年草にもなるようです。ベル状の花の模様がとても強烈で印象的ですが、調べると案の定毒性の強い植物だそうです。

この時期山間部を走っていると、猫の好物マタタビの白い葉が目につきます。クルマを停めてよく見ると歯の裏側に隠れるように白いきれいな花が咲いていました。梅のような五弁の花からナツウメ(夏梅)とも呼ばれるそうです。

マタタビは雄株には雄蕊だけを持つ雄花を、両性株には雄蕊と雌蕊を持った両性花をつけ、雌蕊だけの雌花をつける雌株もあるとか…、写真に撮ったのは雌花のようです。
葉の陰で花が見えないので、葉が白くなって虫を呼び寄せると言われており、結実する頃になると葉の色は元通りになるというから、まさに自然の神秘です。

沙羅の木(夏椿)は背が高くなるので普通の目線では見えず、落ちてる花を見て咲き出したことに気がつきます。ツバキ科で学名はナツツバキ、幹はサルスベリのようにつるつるしています。朝に開花し、夕方には落花する一日花で、お寺の庭などによく植えられています。

「祗園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必滅の理をあらはす」という平家物語の有名な一節が、花が一日でぽたりと落ちる儚さを表しているようです。
しかし沙羅双樹は別種で、お釈迦様が入滅した場所に生えていたとされるフタバガキ科のインド自生の熱帯樹、日本では温室でないと育たないので、夏椿をその代用として沙羅の木と言っているようです。

夏椿げんまんの死はぽたぽたと  増田まさみ
うちしきてあしたの沙羅のよごれなし  長谷川素逝
地に落ちて地の色になり沙羅の花  顎髭仙人

佛性寺 本堂 (水戸市)

2017年06月25日 | 歴史散歩

国の重要文化財に指定されている佛性寺は、涌石山大日院と号する天台宗の寺院で、県内には類例のない八角堂がその本堂です。堂内の墨書から天正13年(1585)の建築年代と、寛永8年(1631)、寛文3年(1663)、文化13年(1816)の江戸時代、明治9年(1876)、大正6年(1917)などの修復年代が判読できます。

台輪や柱の上下端が細まり丸められた粽(ちまき)など、禅宗様といわれる中国の様式がみられるほか、頭貫に彫られた模様などに、室町時代の水戸地方独特の特色がみられます。
東日本大震災の被害により平成23年から平成26年にかけて実施された解体保存修理の際、元禄6年(1693)に正面を東側に改変したことなどがわかり、創建当時の南向きへ復元されました。(水戸市ホームページより)

面積五十六平方メートル、高さ十一メートルの八角円堂は、全国でも数少ないもので、梁にのこる墨書などから天正13年(1585)に当時水戸城の主、江戸氏の家臣でこの地を治めていた立原伊豆守正幹などにより再興と記されています。水戸城はその5年後佐竹氏に攻められ落城してしまいました。
周りと内側をそれぞれ八本の円柱で支え、内柱には素朴な彫物が施されており、木鼻などに刻まれた模様には、室町時代の雰囲気をもっているとされています。修復後の新しい部材が混じっているのがわかります。

境内には樹齢800年という銀杏の大木が、乳(乳根)を垂らしています。銀杏は雌雄異株ですが、この乳は雄株にも出るそうです。鎌倉時代からここに根を生やして参拝する地元の方々を眺めていたのでしょう。

こちらが本堂のように見える回向堂、右手の十二支守り本尊8体も新しいものです。本尊の大日如来は文安5年(1448)鋳造、康正元年(1455)に造られた三十日仏坐像は、1日から30日にいたる小型の脇待仏で、もとは30体あったと思われますが、現在は20体だけが安置されており、本尊とともに茨城県指定の文化財となっています。

山門前には石像金剛力士立像(水戸市指定文化財)があり、右側の石像の背部に元禄7年(1694)の銘があります。本堂の東向きにあるので、正面を東側にした時期、2代藩主光圀が寺院改革を強力に推し進めていた頃に建てられたのかもしれません。
山門の屋根には葵の紋、境内の建物にも葵紋がしっかと付いています。

修復工事完成記念碑には、工事に指導協力した徳川ミュージアムや文化財建造物保存技術協会などの団体と寺社建築の老舗で好文亭の復元にも携わった金剛組の名前が記されています。

野菜の病気

2017年06月24日 | 家庭菜園
隣地の一部を借りて10坪くらいの土地で野菜を作っています。今年は地力をつけるといいとプロの方からのアドバイスに従い、牛糞を多めに入れたせいか、思いの外成績がいいと自負していましたが、梅雨に入ると途端に怪しくなりました。

きゅうりも葉がモリモリで毎日の収穫が始まっていましたが、あっ発見!葉に黄色く裏側では黒いモザイク状のシミ…、多分モザイク病?症状のある葉を除去して、ネットで調べたダコニールの1000倍液を裏表に吹き付けましたが、別な情報では薬剤では効かず、葉の除去と媒介するアブラムシを駆除するとあって…、どうなることやら。

ミニトマトは雨よけのビニールで覆っていますが、下部の方の葉に黒いシミが出始まりました。これも放っておくと茎まで黒くなってしまうので、病名は不明ですがとりあえず病気の葉を除去しています。

万願寺とうがらしは、先端から黒くなって来るのがここ数年続いています。病気ではないので食べていますが、見た目がイマイチです。カリウム不足とネットに出ていたので、根元に粒剤を撒いていますが効果は現れません。

毎年苦労するナスは今のところ順調ですが、これから長い梅雨、何が出てくるか分かりません。
連作は駄目と言っても2,3年周期位で同じ場所に植えるしかない家庭菜園、病気に強い接ぎ木苗を植えたりしていますが、やはり俄農業では自然の仕組みを習得するまでには至らずに終わりそうです。

ジャガイモにトマトが成った!!


三畝植えたジャガイモにミニトマトのような実が成っています。世紀の大発見と意気込んだらぞくぞく見つかりました。ネットで調べたらトマトもジャガイモも同じナス科ナス属で、結構見られる現象と出ていました。

塊茎を大きくさせるのには取った方がいいらしいので、これだけの収穫?がありました。植えたのはキタアカリ2畝とトウヤ1畝、隣の畑では実が成っていませんので、土や生育条件は同じ筈だから品種の問題でしょうか。もちろん食べてみるのは止しました。

栗の花

2017年06月23日 | 季節の花
墜栗花(ついり)という言葉があるように、栗の花が散る頃になると梅雨に入ると言われていますが、実際にこの時期には栗の花の、あの独特の甘い匂いが漂います。特に栗畑の連なる一帯は青臭い匂いにむせるようで、嫌だという人も結構います。

この匂いについては、男の匂いとして知られています。撮影したのは、野生の柴栗、数が少ないし、香りもそれほど強烈ではありませんし、咲き始めの頃は可愛いものです。

長い穂になって咲いてる花は、ほとんど雄花ですが、散る頃の茶色になった花穂の根元近くに雌花がもうすでに毬栗の子供を付けています。

例句では、思わせぶりな句ばかり選んでしまいました。

栗咲く香にまみれて寡婦の寝ねがたし  桂信子
雨近き蝶の狂へり栗の花  角川源義
ひと夜なる旅寝もくるし栗咲く香  能村登四郎

佐竹寺(常陸太田市)

2017年06月21日 | 歴史散歩
佐竹寺は,常陸太田を中心にこの地方を支配した佐竹氏代々の祈願所。寛和元年(985)に花山天皇の勅願を受けて元密上人が創建したとも言われています。茅葺き寄棟造りで重厚感あふれる佇まいの現在の本堂は、兵火焼失したものを、天文15年(1546)に佐竹義昭によって再建されたもので、明治39年(1906)国宝に指定されましたが、制度改正により現在は重要文化財です。

主屋の周囲に杮葺きの裳階(もこし)をめぐらし、正面中央には唐破風が設けられており,正面の火頭窓や柱,外陣の繋ぎ梁の海老紅梁の組物など,あらゆる箇所に桃山時代の建築物の先駆とも言える遺構が残されています(案内板より)。

唐破風真下の蟇股、横木が柱から突き出した部分に施された彫刻装飾、木鼻の動物(多分象?)が450年の歴史を感じさせてくれます。

手前の花頭窓と奥に見える建物側面の丸窓など、近在の寺院ではあまり見かけない作りですが、それにしても隙間ないほどの千社札には驚き呆れます。

仁王門の正面高く、佐竹氏軍扇の「月印五本骨」の軍扇が見えます。宝永年間(1704~1710)に建立されましたが、昭和14年(1939)に火災により焼失、2年後に再建されました。里の人達が無事に運び出したと言われる仁王像ですが、結構新しい姿で鎮座しているのは、塗り替えたのでしょうか。

歴史的に貴重な建物ですが、素人目でも分かる全体の傷みや保存状態などに問題があり、壇家頼みでなく郷土のお宝として、行政の補助のもとに次の世代に引き継いでいけたらと思いました。