水戸八景は、水戸藩9代藩主徳川斉昭公が領内の景勝地を8つ選び、それを巡ることにより藩内子弟の心身鍛錬、風月観賞、領地の把握ができるようにと、その場所に石碑を建てたものです。
選定にあたっては、中国の山水画の伝統的な画題になった湖南省長沙一帯の地域の瀟湘(しょうしょう)八景(11世紀後半)や、それをなぞらえて琵琶湖南部の景勝地を選んだ近江八景(17世紀初期)を参考にしたと言われ、夜雨、晴嵐、帰帆など同じ八景名が使われています。
文政12年(1829)10月に水戸藩第9代藩主に就任した斉昭公が、最初の就藩(帰国)は天保4年(1833)で3月5日に水戸城に到着しました。その後約1か月の間に西山荘、瑞龍山、湊別荘などを巡り、4月にはもう、大日本史編纂局の彰考館員に「常陸八景」(水戸八景)の題で詩歌を作らせました。というのは、この間に八景の場所の提案を何人かに命じ、その中から斉昭公自身の案も含めて久昌寺(常陸太田市)の日華上人の案が多く採り入れられたということです。
なお碑の建立については、天保5年(1834)というのが通説ですが、涸沼湖畔の広浦秋月の碑の傍にある保勝碑(明治25年建立)には、八景碑の建立が天保13年と記されているそうです。
青柳夜雨(あおやぎのやう・よるのあめ)
国道349号万代橋(よろずよばし)が架けられているこの付近は、当時は水戸城下と常陸太田を結ぶ交通の要所、那珂川には渡し場があり舟で人や荷物を運んでいました。今は堤防ができて川は直接見えませんが、大きな柳の木が当時の風情を醸し出しています。
雨の降る夜、川向こうの水戸の台地上の灯りを見て感傷に浸り、詩歌を詠む気持ちが芽生えてくるのはいつの世も同じ感情のようです。
碑は何か動物が蹲っているような形の横120cm縦103cmの石で、しかも土の中から直接出ているため元々そこにあったような自然石(硬砂岩)そのままの感じです。書体は斉昭公が好んで使った隷書体ですが、その独特な装飾性から「水戸八分」と呼ばれ、この八景の石碑をはじめ残された書や碑に多く見られます。「夜」の字には古典文字が使われています。
夜さめに小舟くだせば夏陰の柳をわたる風のすずしさ 徳川斉昭
大田の落雁(おおたのらくがん)
常陸太田のいわゆる鯨ヶ丘という台地の東側にあります。太田盛衰記には、日本武尊が東夷征伐のためにこの地を巡った際、丘陵の起伏があたかも鯨が洋上に浮遊しているようなので「久自」と名付けたとあります。
470年もこの地を治めていた佐竹氏の居城のあったこの台地中心地の道路から、狭い階段を降りたところにあるので分かりにくい場所ですが、この碑からは東側一帯に町並みと山並みが一望できます。当時も、稲穂の実った豊かな田畑と御用石寒水石の採れる真弓山、そして阿武隈山系多賀山脈が続く素晴らしい眺めだったことでしょう。
碑はやや縦長の自然石(花崗岩)で横140cm縦170cm、風化が進んでいる気がしますが、力強い水戸八分書体が堂々と刻まれています。
さしてゆく越路の雁の越えかねて大田の面にしばしやすらふ 徳川斉昭
山寺晩鐘(やまでらのばんしょう)
ここは徳川光圀公が生母の谷久子(靖定夫人)のために建てた久昌寺、その附随施設として設けられた学寮「三昧堂檀林」の跡地にあたり,常時数百名の学僧が修行を積んでいたとされる場所で,暮れ六つ時(午後6時)になると,勤行の声や梵鐘の音が太田の町中に響き渡っていたといわれます。
その後昭和13年(1938)に常陸太田市出身の実業家・梅津福次郎が設立した、茨城県西山修養道場として主に青年団や教育関係者などの研修と就学に利用されていましたが、昭和20年(1945)、それまでの軍国主義的色彩を排除し、民主主義の普及を図るため「文化研究所」と改称、その後「常陸太田市西山研修所」に改められました。現在は、団体による自然散策や創作活動、スポーツ合宿など、幅広い用途で活用されています。
奇しくも昔と同じように修行鍛錬の場所にこの碑がありますが、令和の世、鐘の音だけは聞こえてきません。
碑はこの地区で採れる水戸藩御用石の寒水石(常陸太田産の大理石)で横87cm縦220cmの大きさ、鐘の字が鍾となっていますが同じ意味だそうです。右側に跳ね上がる独特の水戸八分書体で山の字は古典書体、碑の台石は地中に埋められて見えないため、自然石がそのまま立ち上がっているように造られています。
けふも又くれぬと告ぬ鐘の音に身のおこたりをなげくおろかさ 徳川斉昭
村松晴嵐(むらまつのせいらん)
約1300年以上前の創立とされる村松大神宮とその神宮寺だった虚空蔵尊の西側の高台、松林の中に碑が建っています。
当時はこの小高い砂丘から海が見えたと思われます。晴嵐とは晴れた穏やかな日に、海の方から立ちのぼった霞が松林の間を漂っている様子といわれます。
やや円形の自然石(硬砂岩)は横95cm縦90cmで、土の上に直接出ている本来の姿で置かれています。
書体は水戸八分という独特の隷書体で、「村」の字は装飾的な古典文字が使われています。
真砂地に雪の波かと見るまでに塩霧はれて吹く嵐かな 徳川斉昭
水門帰帆(みなとのきはん)
那珂湊漁港を見下ろす高台の突端にありますが、建立当時は今よりもっと崖際にありしかも那珂川が蛇行してこの下を流れていたので、船運で栄えた那珂湊に帆掛け舟が出入りする様子をしっかと見られたようです。
碑の海側には小さな東屋があり、海に向かってせり出した高台のため海風が天然のクーラー、一日何回も涼みに来ると近所の方が話していました。
碑は水戸藩御用石の寒水石(大理石)で横214cm縦120cm、左上が山型になった形が自然のままの感じですが、碑面は平らに削ったようにも見えます。斉昭自筆の特徴ある水戸八分という隷書体を地元の石工、大内石了が彫ったとされていますが、石了は弘道館の弘道館記碑を彫ったことでも知られています。左にあるのは、後世に建てられた藤田東湖の七言絶句碑です。
帆という字は「馬+風」の古典文字、音が「はん・へん」で、本来は馬が風のように「はしる」という意味、転じて「帆」の意味にも使われました。
雲のさかひしられぬ沖に真帆上げてみなとの方によするつり舟 徳川斉昭
巌船夕照(いわふねのせきしょう・ゆうしょう)
那須三斗小屋に源を発する那珂川が、太平洋に注ぐ直前に涸沼川と合流する崖上にこの碑が立っています。
水戸藩御用石の寒水石(大理石)ですが、形は土の中から出てきたような自然石の感じです。水戸八分の隷書体と古典文字「夕」の装飾文字に風格が感じられます。大きさ横170cm縦148cm。
碑からの眺望は素晴らしく、右手に那珂川、左手前に涸沼川、そしてこの地方の米どころの水田が続きます。南方には遠く筑波山、まさしく夕焼けに照らされた姿は絶景で、斉昭の時代には今よりくっきりと見えたことでしょう。
筑波山あなたはくれて岩船に日陰ぞ残る岸のもみぢ葉 徳川斉昭
広浦秋月(ひろうらのしゅうげつ・あきのつき)
「広浦の秋月」の碑は、縦長の自然石で横70cm縦263cm、汽水湖涸沼の出口付近の広浦にあります。
建立当時は台座の石は地中に埋められて、地面から直接出ているようにして自然石(千枚岩)の味を出し、周りの風景に調和するように工夫されていたようです。水戸八分書体と「月」の古典書体が装飾性を高めています。
左側には明治25年に建てられた津田信存撰文、小河政常の書による保勝碑が建っていますが、常陸太田産の寒水石(大理石)のため、風雨に晒され細かい文字はよく読めなくなっています。
碑と碑の間に遠く筑波山が見えます。直線距離で約40キロありますが、さすが関東平野の名峰、遮るものはありません。
大空のかげをうつしてひろ浦のなみ間をわたる月ぞさやけき 徳川斉昭
僊湖莫雪(せんこのぼせつ)
この碑は偕楽園の南崖の斜面にあり、東南に千波湖(僊湖)の視界が広がっています。当時は水戸城の堀の役目を担い、現在の4倍近い広さの千波湖、もっと遠方までの眺望があったことでしょう。
八景碑の建立は天保5年ということになると、偕楽園開園の天保12年以前になります。斉昭が長尾景徳に命じて梅林を造成した天保5年にこの碑を建てたままか、あるいは偕楽園開園時に別な場所からここへ移設したかなどの詳細は分かっていません。
石は地面から直接出ていて台石は見えません。平らな自然石で横119cm縦128cm、多分花崗岩と思われます。
千重の波よりてはつづく山々をこすかとぞみる雪の夕ぐれ 徳川 斉昭
『水戸名勝誌』(明治44年)では、八景めぐりの順番は「青柳→太田→山寺→村松→水門→巌船→広浦→僊湖」の順で距離は、”二十里に余れり”、となっているそうなので、掲載順もその通りにしました。内容は、4年くらい前に拙ブログで8回にわたり紹介させていただいた記事と写真を、一部訂正してまとめたものです。
二十里と言えば約80キロ、一日で歩くのには、健脚の当時の武士たちにも大変な距離だったと思います。なお現在の車での最短距離でも、約90キロ以上はあります。