顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

河和田城址…水戸城の南西を守る支城

2020年08月29日 | 歴史散歩
建武4年(1337)当時の水戸城主だった大掾氏の一族、鍛冶弾正貞国が水戸城の支城として築いたといわれます。その後難台山合戦の戦功により河和田城は江戸氏に与えられ、大掾氏と江戸氏の度重なる戦乱の舞台になりました。応永33年(1426)には江戸道房が大掾満幹の留守を狙って水戸城を奪い取り居城を移すと、河和田城には家臣の春秋氏が入ります。
以後、水戸城の南西の防衛拠点として重視され、大規模な平城の構えが整備され、江戸氏も佐竹氏に属し大きな勢力になりました。しかし天正18年(1590)小田原の役の後、秀吉に常陸国の所領を安堵された佐竹義宣によって攻撃され、12月19日に水戸城は落城、翌20日には河和田城も周辺の支城ともども一日で陥落、廃城となりました。

城域は東西500m、南北600mと規模が大きく、市街地の中に今でも土塁や堀が残っているのは珍しいといわれています。茨城城郭研究会「茨城の城郭」掲載の縄張りを置いてみると、堀で仕切られた同じ標高の10郭が林立している「群郭式」といわれる縄張りがよくわかります。

私有地や学校敷地で入れませんでしたが、Ⅰ郭の二郭側やⅢ郭の南側に今でも二重堀の跡が残っています。Ⅱ郭天徳寺入り口には二重土塁と空堀の跡が残っています。

Ⅰ、Ⅱ郭とⅧ郭間は湿地帯で水堀の役目をしたと思われますが、その跡には現在でも水田、蓮田があります。

城の入り口の一つががあったとされる八坂神社の周りには方形の枡形状の土塁が残っています。

八坂神社東のⅦ郭の堀跡?湧水があるのか川のようになっています。


Ⅸ郭の報仏寺山門前の土塁と空堀です。



Ⅱ郭跡の天徳寺は寛正3年(1462)、佐竹義人が夫人を弔うため太田に創建し、水戸進出に伴い水戸(宮町の水戸東照宮の場所)へ移転しますが、12年後の佐竹氏秋田移封により秋田市に移り佐竹氏代々の菩提寺となっています。

天徳寺が秋田へ移った際、水戸でも衣鉢を受け継ぐ寺があり天徳寺を名乗ったその寺は、現在の祇園寺の場所にあり、天和3年(1683)に徳川光圀公によって招かれた東皐心越が元禄8年(1695年)に没するまでその天徳寺の住持職を務めていたという由緒を持ちます。
その後光圀公により現在地へ移され、元の天徳寺は祇園寺と寺号を改めて曹洞宗寿昌派の本山寺院となりました。

天徳寺山門には、不許葷酒入山門(葷酒山門に入るを許さず)の石碑が建っています。禅宗の寺院でよく見かける葷(五葷ともいい、ニラ、ネギ、ニンニク、ラッキョウ、ショウガの類)と酒が修行の邪魔になると戒める言葉です。どちらも仙人には大好物ですが…

本堂の屋根には曹洞宗の宗門紋二つと佐竹の紋が付いています。並んだ蓮の鉢が禅寺の雰囲気を盛り上げていました。



Ⅸ郭跡の報仏寺は真宗大谷派の寺院で、建保6年(1218)親鸞の弟子で「歎異抄」の著者として有名な唯円が開いた道場が始まりとされ、元禄2年(1689)に光圀公によって現在地に移されました。
山門前には河和田城址の石碑が建っています。

本堂の前には、十字名号「帰命尽十方無碍光如来」の碑があり、唯円が親鸞の弟子になった謂れが書かれています。唯円はここから500mくらい南西の地に最初の道場を開いたとされます。

樹高13mの枝垂れ桜の大木をはじめ鬱蒼とした木立ちの中は、「夏草や兵どもが夢の跡」を偲ぶ絶好のロケーションでした。


秋の気配が…

2020年08月25日 | 散歩
まだまだ残暑が厳しい日が続きますが、朝晩の涼しさとこの花が咲き始めるとなぜか秋を感じます。

シュウカイドウ(秋海棠)はベゴニアの仲間でシュウカイドウ科の多年草球根植物、春に咲くバラ科の落葉庭木カイドウ(海棠)に花の色と垂れる咲き方が似ているので名が付きましたが…?。

ところで、シュウカイドウは雌雄同株異花です。雄花の花弁状のものの小さい2枚が花弁で外側の大きい2枚は咢です。雌花は基部(子房下位)に3個の翼状の突起が付いていて、2枚の咢の中に雌蕊があります。
秋海棠西瓜の色に咲きにけり  松尾芭蕉
秋海棠ほろほろ言葉染まるなり   河野多希女 
早朝の散歩道では、ツユクサ(露草)がびっしょり朝露を浴びています。太陽が上がる前、日中の暑さが嘘のような涼しさです。

ヒルガオ(昼顔)も一日花を咲かせました。

コガネムシ(黄金虫)も夏の一生を終わりました。夏の終わりに孵化し幼虫で越冬、翌夏に蛹になり羽化する1年の命です。

昆虫の寿命は約1年が多いのですが、セミ(蝉)は幼虫時代に地中で約3~5年(このアブラゼミの場合)過ごし、夏に羽化して約1週間といわれていましたが、最近の研究では1か月近く夏を謳歌するそうです。

稲の穂が垂れてきました。梅雨の長雨の影響が心配されましたが、昨年並みの収穫という予想も…、ただコロナ禍などによる景気低迷で需要が落ち込み価格が下がるのが生産者には心配の種です。
稲の波かぶりて遊ぶ雀かな  正岡子規
奥津城も稲の香ぞするふるさとは  石塚友二

最後に…今年は短かった夏休みの終わり、小学生の孫がやっとザリガニを掴むことができました。得意げな顔が浮かぶ手の表情です。普段とは違うこの夏の、大きな快挙でした!

歩兵第二連隊 ぺリリュー島玉砕…「戦争と茨城」展

2020年08月22日 | 日記
茨城県立歴史館では、戦後75年にちなみ、西南戦争から日清・日露戦争、満州事変、太平洋戦争までの県内部隊の遺品、遺書や写真など約100点を集めた「戦争と茨城」展が9月22日まで開かれています。

これは茨城郷土部隊史料保存会が半世紀にわたり、本県に関する戦史史料の収集、保存を続け、陸上自衛隊勝田駐屯地(ひたちなか市)内の史料館「防衛館」に保管している史料を、茨城県歴史館が3年前から調査を続けてきた成果の発表です。

特に目を惹いたのは地元出身者も多かったと思われる水戸歩兵第二連隊のペリリュー島玉砕の資料です。
明治7年に編成された日本陸軍最古の連隊のひとつで、西南戦争、日露戦争に出兵、大正8年にシベリアの尼港事件では連隊の第三大隊が全滅、その勇猛さでも知られていました。
水戸城での記念撮影写真です。この三階櫓は昭和20年(1945)の水戸大空襲で焼失してしまいました。

歩兵第二連隊の軍旗は連隊創設に際し天皇より親授されたもので、その取扱いは厳重を極めましたが、歴戦を経て傷みが激しく、日露戦争の時にはもう外側の房だけになっていたそうです。ペリリュー島玉砕の時に軍旗は奉焼されていますのでこれは複製です。

昭和18年(1943)歩兵第二連隊長西本英夫大佐の離任に際し、将校団が寄せ書きしたものです。後任の連隊長になったのがペリリュー島の戦いを指揮した中川州男大佐で、ここに名前を書いた将校のほとんどがペリリュー島で戦死しました。

中川連隊長の直轄部隊の第一大隊第一中隊長益子常勝中尉の遺書、南洋の激戦地への転戦命令を受けて、生きて帰らぬ覚悟を決め父に宛てて書いたものです。
昭和19(1944)年11月24日、軍旗奉焼して玉砕、中川連隊長の最後の玉砕報告電報は「サクラサクラ」でした。

現地で回収された錆びた銃剣、銃痕のある飯ごう、鉄兜、水筒などなまなましい遺品が胸を打ちます。
火力、兵力で圧倒的優位のアメリカ軍に対し、要塞化した洞窟陣地などを利用したゲリラ戦法を用い、2,3日で片が付くと言っていた敵を二か月半も苦しめました。

戦闘終結後に生き延びた兵士34名はジャングルの中の洞窟に潜み、昭和22年(1947)4月22日アメリカ軍に投降しました。
澄川道男海軍少将の説得により洞窟を出てトラックに乗る生存者たちの表情と、澄川少将と通訳のジョージ熊井の笑顔が対照的です。

さて、水戸歩兵第二連隊の練兵場があった茨城県営球場の北側の小公園に記念の石碑があります。蝉の合唱がうるさいくらいの木立の中です。

歩兵第二連隊の兵営跡は茨城大学の敷地になっています。約半世紀以上前まだ残っていた木造二階建ての兵舎が仙人の学びの場でした。冬だけは石炭ストーブがあったような気がしますが、勉強の記憶はあまりない不良学生でした。

水戸を本営とする工兵第14連隊などの工兵部隊も、次々と戦地に向かっていきペリリュー島で玉砕の隊もありました。茨大付属中学校の敷地一帯が兵営で、道路際に石碑が建っています。手前の雑草を引き抜いて撮影しました。

茨城県護国神社境内には立派なペリリュー島守備部隊鎮魂碑が建っています。
上皇上皇后両陛下が2015年4月のパラオ訪問に際し、ペリリュー島の慰霊碑「西太平洋戦没者の碑」を訪問されたのは、まだ記憶に新しいことです。

玉砕した守備隊は水戸歩兵第二連隊を主力とした10,931名でした。圧倒的多数の米軍48,000名のうち戦死者 1,794名、戦傷者 8,010名、この他に精神に異常をきたした者が数千名いたといわれる凄まじい戦いでした。なお、日本軍の負傷捕虜202名、ほかに前述の日本兵34名、この人たちは後に「三十四会」(みとしかい)という戦友会を結成していたそうです。
ところで約1,000人の現地住民などは、1か月前までにパラオ本島に疎開させられ戦闘の死傷者はいなかったということに少しは気が安らぐ思いです。

戦争を知らない世代が80%を超えていますので、資料を通して伝えていくことの大切さと、平和のありがたさをあらためて感じました。

余談ですが、日立市出身の作曲家吉田正もこの歩兵第二連隊に所属していましたが、急性盲腸炎のため部隊のペリリュー島転戦に参加できず満州に残リました。おかげであの「異国の丘」をはじめ数々の名曲を世に残すことができたのです。

水戸八景…斉昭公選定の水戸藩内の景勝めぐり

2020年08月18日 | 歴史散歩
水戸八景は、水戸藩9代藩主徳川斉昭公が領内の景勝地を8つ選び、それを巡ることにより藩内子弟の心身鍛錬、風月観賞、領地の把握ができるようにと、その場所に石碑を建てたものです。

選定にあたっては、中国の山水画の伝統的な画題になった湖南省長沙一帯の地域の瀟湘(しょうしょう)八景(11世紀後半)や、それをなぞらえて琵琶湖南部の景勝地を選んだ近江八景(17世紀初期)を参考にしたと言われ、夜雨、晴嵐、帰帆など同じ八景名が使われています。

文政12年(1829)10月に水戸藩第9代藩主に就任した斉昭公が、最初の就藩(帰国)は天保4年(1833)で3月5日に水戸城に到着しました。その後約1か月の間に西山荘、瑞龍山、湊別荘などを巡り、4月にはもう、大日本史編纂局の彰考館員に「常陸八景」(水戸八景)の題で詩歌を作らせました。というのは、この間に八景の場所の提案を何人かに命じ、その中から斉昭公自身の案も含めて久昌寺(常陸太田市)の日華上人の案が多く採り入れられたということです。
なお碑の建立については、天保5年(1834)というのが通説ですが、涸沼湖畔の広浦秋月の碑の傍にある保勝碑(明治25年建立)には、八景碑の建立が天保13年と記されているそうです。

青柳夜雨(あおやぎのやう・よるのあめ)
国道349号万代橋(よろずよばし)が架けられているこの付近は、当時は水戸城下と常陸太田を結ぶ交通の要所、那珂川には渡し場があり舟で人や荷物を運んでいました。今は堤防ができて川は直接見えませんが、大きな柳の木が当時の風情を醸し出しています。

雨の降る夜、川向こうの水戸の台地上の灯りを見て感傷に浸り、詩歌を詠む気持ちが芽生えてくるのはいつの世も同じ感情のようです。

碑は何か動物が蹲っているような形の横120cm縦103cmの石で、しかも土の中から直接出ているため元々そこにあったような自然石(硬砂岩)そのままの感じです。書体は斉昭公が好んで使った隷書体ですが、その独特な装飾性から「水戸八分」と呼ばれ、この八景の石碑をはじめ残された書や碑に多く見られます。「夜」の字には古典文字が使われています。
夜さめに小舟くだせば夏陰の柳をわたる風のすずしさ 徳川斉昭

大田の落雁(おおたのらくがん)
常陸太田のいわゆる鯨ヶ丘という台地の東側にあります。太田盛衰記には、日本武尊が東夷征伐のためにこの地を巡った際、丘陵の起伏があたかも鯨が洋上に浮遊しているようなので「久自」と名付けたとあります。

470年もこの地を治めていた佐竹氏の居城のあったこの台地中心地の道路から、狭い階段を降りたところにあるので分かりにくい場所ですが、この碑からは東側一帯に町並みと山並みが一望できます。当時も、稲穂の実った豊かな田畑と御用石寒水石の採れる真弓山、そして阿武隈山系多賀山脈が続く素晴らしい眺めだったことでしょう。

碑はやや縦長の自然石(花崗岩)で横140cm縦170cm、風化が進んでいる気がしますが、力強い水戸八分書体が堂々と刻まれています。
さしてゆく越路の雁の越えかねて大田の面にしばしやすらふ 徳川斉昭

山寺晩鐘(やまでらのばんしょう)
ここは徳川光圀公が生母の谷久子(靖定夫人)のために建てた久昌寺、その附随施設として設けられた学寮「三昧堂檀林」の跡地にあたり,常時数百名の学僧が修行を積んでいたとされる場所で,暮れ六つ時(午後6時)になると,勤行の声や梵鐘の音が太田の町中に響き渡っていたといわれます。

その後昭和13年(1938)に常陸太田市出身の実業家・梅津福次郎が設立した、茨城県西山修養道場として主に青年団や教育関係者などの研修と就学に利用されていましたが、昭和20年(1945)、それまでの軍国主義的色彩を排除し、民主主義の普及を図るため「文化研究所」と改称、その後「常陸太田市西山研修所」に改められました。現在は、団体による自然散策や創作活動、スポーツ合宿など、幅広い用途で活用されています。
奇しくも昔と同じように修行鍛錬の場所にこの碑がありますが、令和の世、鐘の音だけは聞こえてきません。

碑はこの地区で採れる水戸藩御用石の寒水石(常陸太田産の大理石)で横87cm縦220cmの大きさ、鐘の字が鍾となっていますが同じ意味だそうです。右側に跳ね上がる独特の水戸八分書体で山の字は古典書体、碑の台石は地中に埋められて見えないため、自然石がそのまま立ち上がっているように造られています。
けふも又くれぬと告ぬ鐘の音に身のおこたりをなげくおろかさ 徳川斉昭

村松晴嵐(むらまつのせいらん)
約1300年以上前の創立とされる村松大神宮とその神宮寺だった虚空蔵尊の西側の高台、松林の中に碑が建っています。

当時はこの小高い砂丘から海が見えたと思われます。晴嵐とは晴れた穏やかな日に、海の方から立ちのぼった霞が松林の間を漂っている様子といわれます。

やや円形の自然石(硬砂岩)は横95cm縦90cmで、土の上に直接出ている本来の姿で置かれています。
書体は水戸八分という独特の隷書体で、「村」の字は装飾的な古典文字が使われています。
真砂地に雪の波かと見るまでに塩霧はれて吹く嵐かな  徳川斉昭


水門帰帆(みなとのきはん)
那珂湊漁港を見下ろす高台の突端にありますが、建立当時は今よりもっと崖際にありしかも那珂川が蛇行してこの下を流れていたので、船運で栄えた那珂湊に帆掛け舟が出入りする様子をしっかと見られたようです。

碑の海側には小さな東屋があり、海に向かってせり出した高台のため海風が天然のクーラー、一日何回も涼みに来ると近所の方が話していました。

碑は水戸藩御用石の寒水石(大理石)で横214cm縦120cm、左上が山型になった形が自然のままの感じですが、碑面は平らに削ったようにも見えます。斉昭自筆の特徴ある水戸八分という隷書体を地元の石工、大内石了が彫ったとされていますが、石了は弘道館の弘道館記碑を彫ったことでも知られています。左にあるのは、後世に建てられた藤田東湖の七言絶句碑です。
帆という字は「馬+風」の古典文字、音が「はん・へん」で、本来は馬が風のように「はしる」という意味、転じて「帆」の意味にも使われました。
雲のさかひしられぬ沖に真帆上げてみなとの方によするつり舟 徳川斉昭


巌船夕照(いわふねのせきしょう・ゆうしょう)
那須三斗小屋に源を発する那珂川が、太平洋に注ぐ直前に涸沼川と合流する崖上にこの碑が立っています。

水戸藩御用石の寒水石(大理石)ですが、形は土の中から出てきたような自然石の感じです。水戸八分の隷書体と古典文字「夕」の装飾文字に風格が感じられます。大きさ横170cm縦148cm。

碑からの眺望は素晴らしく、右手に那珂川、左手前に涸沼川、そしてこの地方の米どころの水田が続きます。南方には遠く筑波山、まさしく夕焼けに照らされた姿は絶景で、斉昭の時代には今よりくっきりと見えたことでしょう。
筑波山あなたはくれて岩船に日陰ぞ残る岸のもみぢ葉 徳川斉昭

 広浦秋月(ひろうらのしゅうげつ・あきのつき)
「広浦の秋月」の碑は、縦長の自然石で横70cm縦263cm、汽水湖涸沼の出口付近の広浦にあります。

建立当時は台座の石は地中に埋められて、地面から直接出ているようにして自然石(千枚岩)の味を出し、周りの風景に調和するように工夫されていたようです。水戸八分書体と「月」の古典書体が装飾性を高めています。

左側には明治25年に建てられた津田信存撰文、小河政常の書による保勝碑が建っていますが、常陸太田産の寒水石(大理石)のため、風雨に晒され細かい文字はよく読めなくなっています。
碑と碑の間に遠く筑波山が見えます。直線距離で約40キロありますが、さすが関東平野の名峰、遮るものはありません。
大空のかげをうつしてひろ浦のなみ間をわたる月ぞさやけき 徳川斉昭

僊湖莫雪(せんこのぼせつ)
この碑は偕楽園の南崖の斜面にあり、東南に千波湖(僊湖)の視界が広がっています。当時は水戸城の堀の役目を担い、現在の4倍近い広さの千波湖、もっと遠方までの眺望があったことでしょう。

八景碑の建立は天保5年ということになると、偕楽園開園の天保12年以前になります。斉昭が長尾景徳に命じて梅林を造成した天保5年にこの碑を建てたままか、あるいは偕楽園開園時に別な場所からここへ移設したかなどの詳細は分かっていません。

石は地面から直接出ていて台石は見えません。平らな自然石で横119cm縦128cm、多分花崗岩と思われます。
千重の波よりてはつづく山々をこすかとぞみる雪の夕ぐれ 徳川 斉昭

『水戸名勝誌』(明治44年)では、八景めぐりの順番は「青柳→太田→山寺→村松→水門→巌船→広浦→僊湖」の順で距離は、”二十里に余れり”、となっているそうなので、掲載順もその通りにしました。内容は、4年くらい前に拙ブログで8回にわたり紹介させていただいた記事と写真を、一部訂正してまとめたものです。
二十里と言えば約80キロ、一日で歩くのには、健脚の当時の武士たちにも大変な距離だったと思います。なお現在の車での最短距離でも、約90キロ以上はあります。

玉造城…南方33館の仕置きで400年の歴史に幕

2020年08月14日 | 歴史散歩

鎌倉時代初期に常陸大掾氏一族の行方忠幹の子、景幹の4人の子がこの地方に配され小高氏、島崎氏、麻生氏、玉造氏を名乗り行方四頭と呼ばれました。
この地には治承年間(1177~1181)に四男四郎幹政が配され、玉造城を拠点に歴代城主が約400年この地を治めました。

しかし天正19年(1591)の小田原戦の後、秀吉に常陸国領土を安堵された佐竹義宜により、15代玉造重幹はいわゆる南方三十三館の領主ともども常陸太田城で謀殺され(一説では日立の正伝寺で自害とも)、すぐに玉造城も攻め落とされてしまいました。
以後佐竹氏の支配下に置かれた玉造城も、関ヶ原戦後の佐竹氏の秋田移封により廃城となりました。

旧玉造町教育委員会資料(1991)です。

比高約20mの台地先端部にある連郭式平山城で三方は湿地に囲まれ、それも当時は香取海だったとすれば半島先端のさらに要害の地になります。比高約15mの台地を腰曲輪とし、その上に比高約20mの3つの郭が並んでいます。(旧玉造町教育委員会資料より)

約80m四方のⅠ郭が本丸で、その北側に急峻な切岸が残っています。周りを囲む帯郭は民家の敷地になっています。

南側の帯郭の幅は約23m、その一画に玉造郷校跡の案内板が建っています。安政5年(1858)に開館の水戸藩の郷校で、郷士、神官、農民など300人以上が通い、天狗争乱の時には尊王攘夷派の拠点になっていたため討伐により焼失してしまいまいました。

本丸と二の丸間の深い空堀跡です。

本丸の土塁、本丸一帯は生い茂った藪になっています。

玉造城の東南麓には、水戸藩の大山守や、水戸御留川の川守、霞ヶ浦48津の北津頭などを勤めていた大場家の屋敷が残っています。この大場家は玉造城の家老を勤めていたという説もあります。
左の長屋門は藩主専用で通常は開かずの門、右手の薬医門を通用門として用いていたといわれます。

寛文期(1661~72)に初代水戸藩主・徳川頼房公の領内巡視の際の宿泊所として、また水戸藩南部の藩政所として建てられ、以後歴代藩主が利用しました。写真は藩主専用の数寄屋造りの御殿の一部ですが、現在コロナ禍により休館中なので5年前に撮ったものです。

城址の麓にある玉造氏の菩提寺、玉松山一閑寺は曹洞宗の古刹で、大場家の菩提寺でもあるそうです。

本堂には、宗紋である五七の桐と久我竜胆が左右にあり、中央には水戸徳川家の葵紋が付いています。周りの彫刻の見事さに眼を奪われます。

不動明王堂の前に建つ敬信講の石碑は勝海舟の書、伯爵勝安房篆額と刻まれています。