顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

藩校弘道館…いま梅花に囲まれて

2024年02月29日 | 水戸の観光

偕楽園とともに水戸の梅まつりの会場になっている弘道館は、天保12年(1841)水戸藩9代藩主徳川斉昭公が創立した水戸藩の藩校です。正門と正庁、至善堂は、幕末の藩内抗争や昭和20年の水戸大空襲の消失を奇跡的に免れ、現存する数少ない江戸時代の教育施設として、国の重要文化財に指定されています。


白壁に似合う紅梅の花びらは、もう地面にこぼれていました。「品字梅」という名札が付いていますが、「座論梅」や「八房梅」と同じ品種ともいわれています。仙人は雌しべの数が多く実が三つ重なって生ることもあるので「品」という字に見えるというこの名が気に入っていますが。


水戸の六名木、「白難波」がお迎えする正庁の入り口です。正庁は藩主が臨席し、文武の大試験や諸儀式が行われたところです。


正庁の御座の間南側には対試場があり、その脇には斉昭公の諡号と付いた「烈公梅」が植えられています。公の七言絶句「弘道館中梅花に題す」をここで吟詠する方の姿を見かけることもあります。


対試場に面した正庁の長押に架かる扁額は、斉昭公が篆書体で「游於藝(げいにあそぶ)」と書いてあります。藝とは六芸(りくげい)のことで、礼(儀礼)、楽(音楽)、射(弓術)、御(馬術)、書(習字)、数(算数)をいい、「文武にこりかたまらず悠々と芸をきわめる」という意味です。


至善堂は藩主の休息所や諸公子の勉学所で、最後の将軍慶喜公も幼少期にここで学び、明治元年には同じ部屋で厳しい謹慎生活をおくったことで知られています。


正庁と至善堂の間の中庭にも白梅が植えられています。昨夏にアライグマが住み付いて重文の柱に爪痕が残っているのが見つかり、檻を仕掛けて捕獲したというニュースがありました。


弘道館は有料区域の他に北西側に梅林と弘道館の付帯施設が点在しています。



三の丸にある梅林全体で約60種800本といわれる梅が梅まつりを彩っています。

弘道館建学の精神である「神儒一致」によって建てられた、儒学の祖である孔子を祀る孔子廟と戟門は、藩校には必ずある施設です。


「神儒一致」「文武不岐」をうたう弘道館のもう一つの拠りどころは、武神の武甕槌命(たけみかづちのみこと)を祀る鹿島神社です。昭和20年の空襲で焼失しましたが、第60回伊勢神宮式年遷宮の折、伊勢神宮別宮「風日折宮」の旧殿一式が特別譲与され、伊勢神宮独特の「唯一神明造り」の社殿として再建されました。


弘道館の建学精神を記した弘道館記を納めた八卦堂は、敷地の中央に位置していました。手前の梅花は、たぐいないほど薄紅の絞りが美しいという命名の「無類絞り」です。


真っ赤な「蘇芳梅」に彩られた種梅記碑は、斉昭公が水戸に梅を植えた由来を書いたもので、独特の水戸八分という隷書体で彫られています。


斉昭の自詠自筆で「行末(いくすえ)も ふみなたがへそ 蜻島(あきつしま) 大和の道ぞ 要なりける」と記された「要石歌碑」は、樹齢300年以上といわれる楠木に左右を護られて建っています。鹿島神宮にある要石に準えて名付けられました。


弘道館の寄宿生や学生に時を告げた学生警鐘は、昭和20年の大空襲を免れ弘道館内の展示室で展示されています。(写真のものは複製です)


老木が多い梅林の中で右側の梅は「臥竜梅」といい、本来は竜が臥せるような形になるのが命名由来ですが、地面に横たわってしまいました。


老木の梅は必死に枝葉を出して栄養分を取り込もうとします。太い幹から梅が咲いているように見えるので「胴吹き」とよばれますが、実際は幹から細い枝が出てその先に花が付いています。

梅林では枯朽した梅に変わって新しい品種も植えられているので、思わぬところで珍しい梅を見つける楽しみもあります。有料区間以外の梅林は無料ですので、水戸駅から約500mのこの公園は空いた時間でもちょっと立ち寄れる穴場スポットです。(有料区間の弘道館は入館料400円、70歳以上は半額です)


南側に隣接する三の丸小学校は、藩校時代は武館や医学館があったところです。この一帯は白壁の塀など水戸城址のイメージに景観を合わせているので、梅花に囲まれた校門も冠木門様式で、校舎も白壁です。


江戸氏…戦国時代の水戸城主 

2024年02月23日 | 歴史散歩

平安末期に平将門の伯父国香の子孫馬場小次郎資幹が城館を築いたのが始まりとされる水戸城は、その後三度の城主一族の交代がありました。水戸市立博物館ではいま、戦国時代にかけて水戸城を領した江戸氏についての特別展示が開催されています。(3月10日まで)


江戸氏の祖といわれる那珂氏は、平安時代末期(1090年頃)藤原秀郷の子孫公通が太田太夫として久慈郡太田郷に着任し、その孫通資が那珂川北部の那珂郡を領して、那珂氏を名乗ったというのが通説ですが、詳細は不明のようです。

(那珂氏の居城があった那珂城は、常陸大宮市那賀の緒川右岸の河岸段丘上にありました)

鎌倉時代を経て約240年間この地に勢力を持っていた那賀氏は、南北朝の争乱では南朝方に立ち、北朝方に与した佐竹家と争うことになります。一時は優勢になったこともありましたが、この地の南朝の拠点で楠木正成の甥、楠正家が籠った瓜連城が落とされ、金砂山城に佐竹氏を攻めていた那賀通辰は背後を突かれ、一族34人(43人とも)が自刃したとも切られたともいわれます。これによって那珂氏は滅亡し領土も佐竹氏のものになりました。
(常陸太田市にある那珂一族の墓所です)

一族のうち逃れて生き残った那珂通辰の子通泰は、やがて再起して北朝方に服属し戦功を挙げ、足利尊氏から常陸国那珂郡江戸郷を与えられ、その子通高が江戸氏を名乗るようになったといわれます。この通高は佐竹氏9代義篤の娘を娶り、嘉慶2年(1388)には南朝方の難台城攻めで戦死し、その褒賞として子の通景は鎌倉公方氏満から河和田、鯉淵、赤尾関などを与えられます。

(河和田城域は東西500m、南北600mと規模が大きく、市街地の中に今でも土塁や堀が残っています)

河和田へ本拠を移した江戸氏はやがて応永33年(1426)大掾氏の水戸城も攻め取り、水戸城主として約160年間水戸を支配下に置くようになりました。


今回の特別展は、ほぼ戦国時代にあたるこの期間に水戸城を治めた江戸氏の拠点と地域支配、信仰と文化、佐竹氏との関係と滅亡に関する資料などが展示されました。


江戸氏時代の水戸城周辺図を見ると、青柳から海老窪の渡し(現水府橋付近)で那珂川を渡り水戸城を抜けて見川、小吹、小幡へつながる主要街道(黄線)が城内を通っていて、水陸交通の重要な拠点に江戸氏の勢力基盤を置いたことがわかります。


支配地は一族や重臣の春秋氏などの支城で水戸城を囲み万全の構えを構築していました、


大掾氏時代は「内城」という本丸主体だったのが、江戸氏は重臣や町屋などの「宿城」としての二の丸整備にも力を注ぎ、発掘調査では幾重もの堀跡が発見され、複数回の整備を物語っています。


発見された1346枚の埋納銭は江戸氏の二の丸整備の際に地鎮のために埋められたと思われます。

さて、15世紀中期以降、全国に広まった戦乱の中で所領を拡大し自力で支配する地域権力が各地に誕生するいわゆる戦国時代を迎えますが、江戸氏の権力基盤は佐竹氏との抗争の中で確立していきました。

(佐竹義舜と交わした起請文です)
15世紀に起こった佐竹氏の内乱「山入の乱」では間隙を縫って那珂川流域の佐竹氏や近臣たちの所領を力づくで占拠しますが、16世紀初頭には乱を収めた佐竹義舜への従属を決断し起請文を交わしています。その後も離反、従属を繰り返し、したたかな外交政策をとりますが16世紀半ばには和議を締結し軍事的、政治的にも佐竹氏に従属することになりました。


天正16年(1588)には江戸氏の内乱、神生の乱が起こり、水戸城内の戦闘で命を落とした江戸氏家臣や近在居住の武士の名前と死因などが記されている和光院過去帳が展示されていました。

しかし、府中合戦やこの江戸氏内紛に佐竹氏の力を借りたため、次第に江戸氏に対する佐竹氏の影響力が強まっていきます。
そして天正18年(1590)小田原城を攻め落とした秀吉に常陸国の所領を安堵された佐竹氏が、水戸城など江戸氏の諸城を瞬時に攻め落として江戸氏は滅亡、常陸54万石の領主になった佐竹氏も水戸城主わずか12年で家康により出羽国に移封され、御三家の水戸藩が誕生するという歴史の波が押し寄せました。


江戸氏、佐竹氏の整備で出来上がった水戸城は、やがて家康公11男の頼房公が水戸藩を立藩して入封し、さらに城下町を含めた大修築と整備を行い、御三家水戸城の形が出来上がりました。

水戸城落城後、江戸重通は妻の父である結城晴朝のもとに身を寄せます。関ヶ原合戦後に結城氏当主の秀康(家康の次男で晴朝の養子)が越前75万石を受領すると、重通の子宣通も随従し千石の知行で客分として厚遇され、「水戸氏」と姓を変え越前松平家に永く仕えました。


江戸氏の祈願寺だった和光院に残る江戸氏歴代の位牌です。


水戸城内にあった和光院は、その後水戸市田島町の現在の地に移されました。ここに残る和光院過去帳は「群書類従」に記載されている著名な古文書で、天正13年(1586)から寛永年間に書き継がれた貴重な資料です。


江戸氏家臣の多くは水戸や周辺に残って水戸藩士になるものもいたようですが、今でもその姓を見かけると、つい末裔の方かと想像を膨らましてしまいます。

2024春…花はいつものように

2024年02月17日 | 季節の花
立春よりはや2週間、季節外れの暖かい日や一転して10度以上気温が戻ったり…毎年同じ定点観察ですが、いつものように春の訪れを告げる花を狭庭と身の回りで探してみました。

フクジュソウ(福寿草)は太陽の光に敏感に反応し、日が陰ったり日没には花弁が閉じますが、老けた花はこの反応が鈍くなるというのは人間と同じで嬉しくなりました。


ヒメリュウキンカ(姫立金花)です。庭のあちこちに顔を出し、太陽の欠片が降り降りたようです。花茎が直立した黄金色の花で葉はハート形、花ことばは「あなたに会える幸せ」というそうです。


花を包む萼がすっかり緑色になってきたフキノトウ(蕗の薹)、雄花雌花の違いはこの段階では分かりません。


すっかり野性化しているオオキバナカタバミ(大黄花片喰)、南アフリカ原産の帰化植物ですが繁殖力が強く国立環境研究所の侵入生物データベースにも載っています。


菜の花は、早咲きの種子を毎年撒いて正月料理の彩りに使っていますが、今年は開花が少し遅かったようです。


サンシュユ(山茱萸)の蕾にも黄色が見えてきました。春早く咲く黄色い花と秋の鮮やかな色の実に惹かれて植えましたが、写真のような実が生ったのは数回です。


シュンラン(春蘭)はまだ蕾が固く開花には時間がかかりそうです。


サクラソウ(桜草)の日本の原種として頂いたものが庭のあちこちで花を咲かせています。Googleレンズで確認したらプリムラ・マイコイデスと出ていましたが?

 
近所の空き家の庭ではスイセン(水仙)がもう盛りを過ぎていました。一番多く見かけるニホンスイセンのようですが、見る人もないのに毎年増えています。


ピンクの椿「侘助」が咲きだしました、土質が合わないのか全然成長しない哀れな椿です。


まだ2月なのにアヤメとは場違いな感じがしますが、カンザキアヤメ(寒咲菖蒲)です。近所の家からの移住で、毎年可憐な花を冬景色の中で咲かせています。


畔のタンポポ(蒲公英)です。この一帯に出るのは西洋タンポポですが、場所によっては日本タンポポが所領を固守している所がまだ残っています。


散歩道の土手に梅が満開です。この木はいつも実がいっぱい生りますが、誰も収穫しないので毎年道路に零れ落ちています。

早春はやはり黄色い花が多いですね。この時期にいち早く活動を始めて受粉を媒介するアブ、ハエ、ハチなどの昆虫は黄色に敏感なので、鮮やかな色ですぐ見つけてもらうためとよくいわれます。

山茱萸の黄を春色の出入口  後藤比奈夫
菜の花がしあはせさうに黄色して  細見綾子
大地より金を放てる福寿草  山田閏子
たんぽゝの黄が目に残り障子に黄  高浜虚子

水戸の梅まつり…偕楽園の4つの梅林

2024年02月12日 | 水戸の観光

2月10日より水戸の梅まつりが始まりました。地球温暖化のせいで年々開花が早まったため、少しずつ前倒しになり今までより10日ほど早めの会期になっています。偕楽園公園センターの発表では園内の開花はやや早めで開花率は約30%と出ていました。(写真は早咲きの八重寒紅です。)


ところで主役の梅林は、偕楽園開設当時からある本園の東西梅林の他に、南側にある沖積層の低地にも3つの梅林、「田鶴鳴(たづなき)梅林」「猩猩(しょうじょう)梅林」「窈窕(ようちょう)梅林」が造られています。


そのひとつ、「猩々梅林」は、この梅林の西側にある小高い丸山の上に、2代藩主光圀公が中国の詩人陶淵明を慕い「淵明堂」を建て、酒を愛した詩人を偲び、堂の壁に猩々(しょうじょう)の絵を描かせたので別名「猩々堂」とも呼ばれた故事に因んで名づけられました。

その「猩々梅林」の梅の花を撮ってみました。


一番早咲きの梅、八重寒紅はすでに満開を過ぎています。奥に見える「田鶴鳴梅林」でも紅白の梅が咲き始めています。


同じく早咲きの八重冬至も満開、偕楽園内のお休み処、好文亭は南側の木を何本か切り倒したので遠くからよく見えるようになりました。「猩猩梅林」から「田鶴鳴梅林」へ…二つの梅林をつなぐ沢渡川の橋は「花追橋」とい風雅な名前が付けられています。


水戸の六名木「月影」は人気のある青軸性の銘花で、青白い花に咢や枝が緑色で名前にぴったりの咲き方といわれています。


同じ六名木の「虎の尾」です。黄色い雄しべが目立っていますが、名前の由来説はいろいろありその一つに雄しべの曲がり具合が虎の尾のようだというのもあります、真偽不明ですが。


濃紅色の代表「鹿児島紅」は、結実しない観賞用の花ウメです。


満開になると滝が流れ落ちるようだという「白滝枝垂れ」も咲き始めていました。


「唐梅」は、咲くにつれて花弁の縁が白くなってくる覆輪という咲き方です。雄しべの一部が花弁に変わる現象「旗弁」が写っています。


「八重海棠」は、下向きに咲く海棠に咲き方が似ているのでの命名という説もあります。杏系でも結実します。


「南高梅」…いまや実梅の代表種で和歌山県産、苗を発見した高田氏と育てあげた南部高校の教師と生徒に因んで名前が付けられました。


梅林の中でロウバイがまだ咲いていましたが、さすがに主役を奪われたような顔をしていました。

桜の花は離れて木全体を眺めるほどボリュームがありますが、梅の花は近寄って香りをかぎ、花の違いをじっくり鑑賞し、名前を付けた先人に思いを馳せたりするのも一興です。
これから100種以上の梅が花を咲かせる偕楽園ですが、混雑の少ないこちらの梅園はゆっくり花を観賞する方にはおすすめです。しかも、入園料もありません。(まつり期間中は周辺駐車場が有料になります)

赤沢江…350年前の水戸藩の農業用水

2024年02月06日 | 歴史散歩

赤沢江(あかざわえ)は今から約350年前に、水戸藩初代藩主徳川頼房の命を受けた工事奉行望月恒隆の指図により甲州黒川金山や諸国の鉱山開発に携わっていた永田茂右衛門、勘右衛門親子が工事を任され慶安3年(1650)に着工、明暦2年(1656)に完成した農業用水路です。

その取水口は那珂川大橋の約100m上流左岸にありました。関東の嵐山ともいわれる御前山(156m)の山裾が那珂川に突き出した岩盤を穿った洞窟が見えます。

この河原は我が娘たちが小さい頃によく連れて行って遊ばせたところですが、当時は興味も知識もなく気が付きませんでした。

幕命により水戸藩が編集した地誌「水府志料」によると、沢山村(城里町)赤沢で取水し大山、北方、粟野、高久、上圷、石塚、下圷、上泉、岩根を通り、長者山(水戸市)の下で台地の端を削って通水、常葉村(水戸市)の北で那珂川に流入した水路延長4里28町(約18km)で11ヶ村2000石余の地域を潤しました。

Google mapにその地区を結んで流路を大雑把に引いてみました。

その後水利が悪くなったり、大洪水で破壊されたりして宝暦7年(1757)には使用されなくなったため、短期間のこの事業は後世にあまり知られていないようです。



昭和になってから約2キロ下流に赤沢揚水機場を設け、水の便が悪い河岸段丘上の約200haの水田の灌漑をしてきました。しかし近所の人の話では昨年でここも稼働を止めたと言っていました。

機場のすぐ上流の対岸には小場江堰の頭首工が見えました。

ここも同じ時期に永田茂右衛門、勘右衛門親子が工事を任された水戸藩の三大江堰(辰ノ口江堰・岩崎江堰・小場江堰)の一つで、これは建設から350年以上経過していますが、現在でも重要な灌漑設備として水戸市、那珂市、ひたちなか市の農業用水を供給しています。
※頭首工とは、農業用水を河川から取水するため、河川を堰き止めて水位を上昇させ、水路へ流し込む施設のことです。


赤沢江の取水口から約10キロ下流に「赤沢江憩いの広場」があります。手入れがされてなく案内板も消えていますが、用水の跡らしい水路が河岸段丘の裾にありました。

水を含んだ台地の湧水が用水路に流れ込むようにしてあったのでしょうか。

ところで、これらの工事をした永田勘右衛門は、赤沢江、小場江堰の他に辰ノ口江堰(慶安3年・1650)、岩崎江堰(承応元年・1652)や、水戸城下町の笠原水道(寛文2年・1663)など、水戸藩の利水、治水に大きな功績のあったため2代藩主光圀公より「圓水」の名を賜り、光圀公が晩年隠居した西山荘近くの墓地に葬られています。


永田勘右衛門が携わった笠原水道は、初代藩主徳川頼房公の田町越えといわれる低地を埋め立て下町への商人移住策の後、飲料水に不自由した下町へ光圀公が水道設置を命じたものです。

総延長10キロの水道は日本で18番目に古い江戸時代の水道といわれ、修復を繰り返しながら、近代水道が敷設された昭和7年まで使われました。

昨日はこの地方にも珍しく大雪注意報が出されましたが、太平洋から約5キロに位置する終の棲家では午後の降雪もその後雨に変わり、雪の欠片もない朝…、震災に遭われた能登の方々には申し訳ないような気持ちになりました。一日も早く元の生活に戻れることを願うばかりです。