顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

鷲子(とりのこ)山上神社…真ん中に茨城、栃木の県境

2020年09月28日 | 歴史散歩
創建は大同2年(807)、大蔵坊宝珠上人が阿波国から天日鷲命(あめのひわしのみこと、紡績業・製紙業の神)を勧請し、紙すきなどの製紙技術も伝えたといわれます。 その後鷲子山周辺が和紙の一大産地になり、関係者の厚い信奉により神社も栄えてきました。またその時代の支配者の崇敬も集め、建久8年(1197)には源頼朝が、 天正15年(1587)には佐竹義胤、慶安元年(1648)には徳川家光が寄進した記録が残っているそうです。

この神社が有名なのは、茨城、栃木の両県にまたがり、県境が大鳥居や随身門の中央、そして直角に曲がり本殿の中央を通るという全国でも珍しい立地だからです。
左に栃木県の社務所、右に茨城県の社務所がありますが、運営管理は栃木県側の神職長倉家が執り行っているということです。

常陸国風土記に「下野国との境の大山」と書かれており、1000年以上前から国境でしたが、中世では一帯が佐竹氏の領地、近世では水戸徳川家の藩領になっていました。しかし明治の廃藩置県で県境が神社の中央を通ることになり、その時に恨みっこなしで真ん中に線を引いたと思われます。

国土地理院の地形図でも、県境の線記号が不自然な曲がり方をしているのがわかります。

入母屋造で銅板葺の随身門は、文化12年(1815)再建という三間一戸の楼門で、正面両脇には随神像、背面両脇には仁王像が安置され、神仏習合の跡が残っています。

隋神の左大臣、右大臣像は、享保6年(1721)、江戸の大仏師、原田右京の作と伝わります。3回の大修理が行われており、建立当時の彩色が蘇りました。

隋神門の真ん中にも左右に分かれる県境のプレートがあります。



随身門の背面にある仁王像も同じ享保6年に原田右京の作、門の正面に安置されていましたが、明治の神仏分離で撤去されそうになるといろんな異常が起こったため、楼門の背面に板で隠して据え廃仏毀釈が過ぎるまで待ったといわれます。

隋神門と拝殿の間の急な階段にも楼門があります。

拝殿の扁額「鷲子山上神社」は、水戸徳川家12代徳川篤敬の次男で一橋家12代、伊勢神宮大宮司も務めた徳川宗敬の書です。

本殿を前後に分けて中央に県境が通っています。現在の本宮の地にあった本殿を天文2年(1552)にこの山上に建立したとの記録が残りますが、現在の本殿は天明8年(1788)の再建です。

本殿に施された木鼻などの彫刻は、日光東照宮造営の流れをくむ宮大工によるものとされます。

鬱蒼とした杉の大木の中で、本殿脇にある千年杉は樹高32m、目通り6.8mです。


鷲子神社は、古い時代よりフクロウが神の御使い・幸福を呼ぶ神鳥として崇敬されています。境内にはフクロウがいっぱいで、地上7mの日本一の大フクロウもあり、別名「フクロウ神社」とも呼ばれています。

栃木県側社務所の裏にある伍智院は、別当寺だった頃の寺院の跡です。南北朝時代の明徳3年(1392)、佐竹一族で長倉城主の長倉興義が出家して鷲子山別当になり、以後も修験宗本山派寺院として伍智院が別当職を務め、明治維新により神官になりました。
光圀公が藩領視察の折立ち寄ったという「黄門様ご休憩の間」があります。(拝観は要予約)
秋海棠が満開でした。

偕楽園の萩まつり…「草冠に秋」の花満開

2020年09月24日 | 水戸の観光

コロナ禍で期間中のいろんなイベントが縮小されましたが、偕楽園萩まつりが9月5日より9月27日まで行われています。


偕楽園の萩は、天保13年(1842)偕楽園を創設した水戸藩第9代藩主徳川斉昭公が園内に植えたと言われています。その時仙台の伊達藩から譲り受けたというミヤギノハギ(宮城野萩)のほかヤマハギ(山萩)、マルバハギ(丸葉萩)、シロハギ(白萩)などの750株が園内の見晴らし広場を中心に咲き乱れています。

以前は、日光白萩、江戸白萩の二種の白萩が園内にあるといわれてきましたが、両者とも確立した品種名として図鑑には出てなく、園内でもその品種を確定することはできませんでした。
一般的には、ミヤギノの変種とされる白萩が多いようですが。



また、萩の品種の見分け方は難しいです。交雑のせいでしょうか、同じ種らしき個体も葉の形が違っています。例えば園内に一番多いミヤギノハギ(宮城野萩)の特徴である枝が柔らかく枝垂れて花が多いという木を見ても、葉の先が尖ったもの、丸いものが見られます。

これはマルバハギ(丸葉萩)でしょうか。

また枝が垂れずに直立するヤマハギ(山萩)は、丸型で葉の先が凹型のものが多いような気がしますが確定できません。左がヤマハギ、右がミヤギノハギのようには見えますが…。

ところで、萩の花はマメ科に多く見られる蝶形花で、5枚の花弁がそれぞれ子孫を残す仕組みを持っています。昆虫に花の存在を知らせる大きくて目立つ「旗弁」の根元には蜜があり、寄ってきた昆虫が吸密しようと左右の「翼弁」に足を載せて踏ん張ると、下方の「舟弁」が開き束になった雌蕊雄蕊が現われて昆虫に触れ受粉するようにできています。


たまたま飛んできた蝶も蜂も大きすぎて花を隠してしまい、受粉のプロセスは確認できません。
蝶は調べてみるとツマグロヒョウモン(褄黒豹紋)?、黒い縁で豹の模様…まさしく見た目通りの命名です。

万葉集で一番多く142首も詠まれた萩の花、1300年前もこの秋の花に思いを寄せている日本人を誇らしく思いました。

秋の野に咲ける秋萩秋風に靡(なび)ける上に秋の露置けり   大伴家持
秋萩の咲き散る野辺の夕露に濡れつつ来ませ夜は更けぬとも   詠み人知らず
高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに   笠金村


高徳寺…室町末期の素朴な山門

2020年09月22日 | 歴史散歩

大子町の北西部、上郷地区にある曹洞宗の高徳寺は地方色豊かな山門で知られています。
鳳林山阿弥陀院と称し、永正元年(1504)の創建と伝わります。本尊は釈迦如来ですが、阿弥陀院という院号から推して、もとは阿弥陀如来を本尊とする天台系の寺であったといわれます。


というのは、この地方はかって陸奥の国で、常陸佐竹氏と白河結城氏の領地争いが激しく、創建当時は白河結城氏が家臣の深谷氏に治めさせていたとされます。寺伝では、永禄6年(1563)に荒蒔駿河守の外護により佐竹氏の本拠地、常陸太田の曹洞宗耕山寺12世の舜霊文芸が中興したとありますので、その頃山入の乱を鎮めて勢力を伸ばしてきた佐竹氏がこの地を攻め取り、家臣の荒蒔氏に約2キロ東の町付に荒蒔城を築かせて支配の拠点にしたと思われます。

山門は木造茅葺き、間口3.46m、奥行3.52m、4本の欅材の丸柱で組み立てられています。
軒垂木の優美な反り、獅子か貘とみられる木鼻にも佐竹時代の特徴が見られます。彩色が全体に施されていたともされますが、素朴な風情が山間部の長閑な風景にピッタリと嵌ります。

丸柱が礎石に載っているだけで、しかも相当痛んでいます。東日本大震災にもよく耐えてきたと感心してしまいます。

参道を覆う二本の巨木、右は銀杏、左は白樫(しらかし)で、伝承樹齢は寺の創建時というので約500年になるそうです。さらにこの白樫は榧(かや)の木と合体して(右方が榧、左方が白樫)樹高25m、目通り5.5mの大木になっています。イチイ科カヤ属とブナ科コナラ属…分類上縁遠い種の合体は珍しいということです。

本堂です。所蔵の涅槃図は、永禄元年(1558)に荒蒔城主の荒蒔駿河守為秀、荒蒔豊後守實秀連名で荒蒔氏の菩提寺である高徳寺へ寄進されたとの裏書があるそうです。

本堂の大棟には、曹洞宗の宗紋である永平寺の「久我竜胆」、総持寺の「五七の桐」、真ん中には佐竹氏紋の「5本骨扇に月」が燦然と輝き、往時の隆盛を偲ぶことができます。

当時佐竹氏は領地としたこの八溝川付近から白河の金山(かなやま)一帯で積極的に金山経営に乗り出していたと伝わっています。

栃木県境に近い八溝川沿いの山間部、500年という歴史以上の雰囲気を感じさせてくれる古刹でした。

ようやく秋風が…

2020年09月18日 | 季節の花
年々夏の暑さが厳しく感じるのは、地球温暖化と加齢のせいでしょうか。今年はマスク生活で暑さも一入でしたが、やっと秋の風が感じられるようになってきました。

野山で見られるヤマハギ(山萩)です。萩は秋の七草の一つで、万葉集に一番多く142首も詠まれ、また草冠に秋という字で、まさに秋そのものを表しているようです。

同じ萩でも北米原産の帰化植物、アレチヌスビトハギ(荒地盗人萩)は、荒れ地に生え、実が盗人のように密かに衣服にくっつく萩の仲間というのが名の由来でしょうか。

野生の栗の実も大きくなりました。山栗、この辺では柴栗ともいいます。縄文時代から食用とされてきて、現在栽培されている様々な品種の原種となっています。

ヤマブドウ(山葡萄)も小さな房に実を付け始めました。正確にはエビヅル(海老蔓)という品種ですが、この辺ではヤマブドウで通っています。

キレハノブドウ(切葉野葡萄)、葉の切れ込みが深いのが特徴で食べられませんが、秋が深まるときれいな色に色づきます。

大きなマメ科の花は、クズ(葛)です。蔓延るという字そのものの繁殖力で、廃屋などを覆い隠してしまいます。

ノアズキ(野小豆)はマメ科のつる性多年草で別名ヒメクズ (姫葛)、小さな花で目立ちませんが日本全国で見られます。

クサギ(臭木)は葉を揉むと臭いので命名されましたが、花は芳香があり実も濃い藍色が美しく、昔から染料に使われました。

犬は可哀そうです、植物の名前で役に立たない、つまらないものにはなぜかイヌという字がつけられてしまいます。このイヌゴマ(犬胡麻)もシソ科の特徴である大きく口を開いた唇弁花がきれいですが、胡麻に似ても食べられない雑草なのでイヌが付いてしまいました。

イヌホオズキ(犬酸漿)も同じ、ナス科の植物でも役に立たないからの命名です。可愛い実を付けますが、繁殖力が強く厄介な雑草として嫌われてはいます。
調べてみるとイヌが付く植物は100種類以上あるという報告も出ていました。

水戸城総構え…地続きの西側に5段の堀

2020年09月14日 | 水戸の観光
総構え(そうがまえ)とは、城の外郭のほか城下町一帯も含めて外周を堀や石垣、土塁で囲い込んだ日本の城郭構造で、惣構、総曲輪ともよばれます。

Wikipediaでは45の城が総構えとして挙げられており、有名な小田原城、大阪城が堀や土塁などで城を囲んだのに対し連郭式平山城の水戸城は、城と城下町が連なる比高約25mの洪積層台地の急崖を利用し、地続きの西側にのみ5段の堀を設けたものです。5段目の堀は本丸から約2.7Km西に在り、その外側に造られた偕楽園は、出城、望楼的な役割を果たしたともいわれています。
この台地が東側に張り出した先端の水戸城は、現在より3.8倍も大きかった千波湖が南東を守る堀となり、北側には那珂川が流れる天然の要害でした。

江戸時代の地図と現代の地図を重ねたものです。
市街化が進んでいますが、その総構えの跡がまだ残っているのをgoogle mapで見てみました。

1段目、2段目、3段目の堀です。1段目は水郡線、2段目は旧6号国道が走っています。

本丸と二の丸間にある1段目の堀は幅約40m、深さ約22mでJR水郡線が走っています。右側が本丸ですが、藩庁や御殿は左側の二の丸に設けられていました。この橋には本城橋が架かり本丸側に当時の藥医門が現存しています。


二の丸と三の丸間の2段目の堀は、幅40m、深さ12m、旧6号国道の幹線道路です。
この堀には大手橋が架かり、二の丸側に今年2月に大手門が復元されました。

3段目の堀は三の丸の西側にあり深さ13m、桜の名所になっており、水戸の開花宣言の標準木がありましたが、道路拡張と古木のため伐採されました。

4段目、5段目の堀は、南側にその一部が残っています。浸食谷を利用した相当深い谷だったのがわかります。

4段目の堀は、一時水戸藩主になりその後紀州藩初代となった頼宣公の縁で(?)紀州堀と呼ばれていましたが、梅香トンネルという国道349号の地下道路ができ、紀州堀一帯がトンネル南側出口となりました。
(写真は、句友のYさんの「破髯斎拾遺」ブログから借用いたしました。)

5段目の堀は西の谷公園となって整備されつつあります。街中とは思えない深い谷の中です。

なお5段目の堀の中心部分は市街地となり埋められて痕跡を探すのは困難ですが、台地北側の八幡宮の西隣に5段目の堀の入り口の鬱蒼とした谷がありました。

この一帯は台地から浸みだす湧水が数多く見られます。そこに地元の方が掲げた案内板があり、その分かりやすさに感服しました。作者に拍手を送りたいと思います。

そもそも水戸城は、約800年前の平安時代末に常陸平氏の馬場氏が居を構えて大掾氏を名乗り約240年、やがて江戸氏が応永33年(1426)に大掾氏を追放して約160年、その後天正18年(1590)に江戸氏を滅ぼした佐竹氏が近世城郭としての整備に取り掛かりますが、12年後の慶長7年(1602)に秋田移封になってしまいます。
やがて慶長14年(1609)に家康の11男頼房公が水戸藩主となり、寛永年間(1624~1638)頃に水戸城と城下の大普請が行われました。

徳川政権発足後の立藩である水戸藩は御三家にもかかわらず、城に石垣も天守閣も造られませんでした。しかも昭和20年8月の大空襲により市街地の8割が焼失、城内の三階櫓なども失いましたが、大規模な空堀や土塁、5段の構えの一部が残っていますし、復元されつつある大手門や隅櫓などと合わせて往時を偲んでみたいと思います。
写真は、空襲時に郊外に移設されていたため焼失をまぬかれた、水戸城で唯一現存する本丸の薬医門です。