顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

長い梅雨…日照不足と雨蛙

2020年07月29日 | 家庭菜園

この地方のここ30日間の日照時間は45時間で平年比35%、雨量は221㎜で平年比157%(災害の起きている地域には申し訳ないような数字ですが…)、コロナ禍もあり行動範囲がますます縮まり、交通事故も激減しているようです。

いつも以上に元気なのは、家の周りで目につく小さなアマガエル(雨蛙)たち…、高台の団地にはオタマジャクシの生育環境はないのでどこで生まれたのか謎ですが、毎年何匹もが愛らしい顔を見せてくれます。

田んぼなどにいるトノサマガエルと違い、卵を産むとき以外は水に入らず、木の上などで生活できるため乾燥にも強く、約48種といわれる日本のカエルの中で最も多く見られます。

体の色をまわりの色に合わせて緑色や灰色などに変える保護色機能を持ちます。同じ緑色でも葉の色に合わせて少し違って見えます。

小さな昆虫が主食というので、害虫退治に役立っているかもしれません。

前足に4本、後ろ足に5本に発達した吸盤を持ち垂直のガラス面でも移動はらくらく、夜間でも玄関灯に誘われた虫を探しているようです。

カエルには嬉しい長雨でも、日照不足は植物には深刻で、野菜の値上がりが報道されています。
我が家の小さな家庭菜園でも、病害が増えています。

6種類のトマトを植えましたが、どの株の葉も腐ったように黒くなって落ち、果実にも影響が出ています。

キュウリも日照不足で収穫量がガタンと落ち、葉にも病気が出てきました。

毎日の水撒きの手間は減っても、どちらかというと水分過多、鉢植えのカサブランカも元気がありません。
来週火曜日にはやっとおひさまマークが付きました!!夏のギラギラ太陽がウイルスを滅菌させくれるといいのですが…

ワスレグサ(忘れ草)とは…、ノカンゾウとヤブカンゾウ

2020年07月25日 | 季節の花
忘れ草とは、古来よりこの花の美しさを見ると憂いを忘れるといわれ、万葉集にも5首詠まれています。
忘れ草我が下紐に付けたれど醜の醜草言にしありけり  大友家持(万葉集)

(恋を忘れられるというから下着の紐に着けたけれど、醜草(しこぐさ)の役立たず、名前だけのもので、あなたのことを忘れられません)


この忘れ草は、ユリ科ワスレグサ属の野草でよく目にするノカンゾウヤブカンゾウのことです。どちらも一日花で(まれに翌日まで咲く個体もあるようですが)よく似た仲間です。
生育環境も似ているので、たまたま千波湖畔の桜川沿いに仲良く咲いているのを見つけました。


一重咲きがノカンゾウ(野萱草)です。

どちらのカンゾウも春の若芽だけではなく、初夏の若い茎、つぼみ、花のお浸し、酢の物、てんぷらなどクセがなく美味とされますが、山菜好きの仙人もまだ食したことはありません。


ヤブカンゾウ(藪萱草)は八重咲きです。
蕊の見えないヤブカンゾウ

この八重のヤブカンゾウを見ると、雄蕊、雌蕊が見えないもの、また花弁に変わりつつあるものが見えます。カンゾウ(萱草)類は結実できない三倍体植物なので、不要な雄蕊、雌蕊が花弁に変わりつつあるのでしょうか。


雄蕊が花弁に変わる現象は、偕楽園や弘道館の梅花でもよく見られます。

こちらは「旗弁」と呼ばれています。本来はマメ科などの蝶形花でよく見られる、上方にある大きな1枚の花びらを旗弁といい、旗を立てたような形が昆虫を呼び寄せる役目をするといわれます。
梅花の旗弁化の原因はよくわかりませんが、この旗弁が増えていって八重咲きになったといわれており、同じ現象は桜や椿でも見られます。

なお同じ仲間には、黄色い花が横向きに咲き、初夏の戦場ヶ原や尾瀬湿原を彩るニッコウキスゲや、品種改良され、いろんな色の園芸種ヘメロカリスがあります。
ニッコウキスゲ

ヘメロカリス
(ニッコウキスゲのストック写真が見つからなかったので、日光市のホームページより拝借させていただきました。)

生れ代るも物憂からましわすれ草  夏目漱石
萱草や昨日の花の枯れ添へる  松本たかし
今日をうたえ藪萱草の百の舌  豊口葉子
忘草風がおもねるとき散れり  粕谷南城

薬王院…水戸領主代々の祈祷寺

2020年07月21日 | 歴史散歩
平安初期に桓武天皇の勅願寺として建立されたと伝わる薬王院は、常陸三の宮の吉田社の神宮寺として、この地方を治めた常陸大掾氏との密接な関係のもと帰依と保護を受けてきました。
応永29年(1422)に大掾氏を府中に追いやり新たな領主となった江戸氏の時代もその保護を受け、その頃神宮寺から吉田山薬王院と変えていったといわれます。大永7年(1527)焼失した本堂も、享禄2年(1529)江戸氏によって再建されました。

天正18年(1590)には秀吉より常陸国の知行を安堵された佐竹氏が水戸城を奪取し、新しい外護者になり一時真言宗一乗院と変わりますが、佐竹氏の秋田移封の後、再び天台宗に戻りました。

その後は代々の水戸藩主が深く帰依し、特に光圀公は、妻泰姫(法光院殿)の菩提所とし、本尊薬師如来や本堂の大修復も行い、天台宗檀林所として関東八檀林の一つにもなりました。


本堂は享禄2年(1529)に江戸氏により再建されたもので、貞享3年(1686)に光圀公が大修理した芽葺型銅版葺入母屋造で室町時代の建築手法を現代に伝えており、国指定の重要文化財です。


四脚門は本瓦葺きの切妻造で中央の頭貫上の蟇股、木鼻に彫られた渦の形などの特徴から江戸時代中期の建造とされます。

仁王門は、芽葺きの八脚門で、桁行6.8m、梁間約6.4m、貞享年間(1684~1688)に建立されたものと思われます。 正面に連子窓を設け、その中に仁王像(木造金剛力士像)が安置されています。

室町時代前半作と伝わる金剛力士像が左右で睨みを利かしています。連子窓の間から撮っても迫力が充分伝わります。

回向堂、書院、客殿などの一画…、法要などの際に使用しています。

水戸藩2代藩主光圀公の兄にあたる亀千代丸の五輪塔です。初代藩主頼房公の二男、4歳で早逝し遺骨はのちに光圀公によって常陸太田の瑞竜山に改葬されましたが、五輪塔は土中に埋められ、昭和46年の境内改修の際に発見されました。存命ならば2代藩主に?…歴史は変わっていたかもしれません。

ここの墓地には、水戸藩家老の鈴木石見守の墓があります。井伊谷三人衆の一人で井伊直政に仕え、その後徳川秀忠の命で水戸藩付きになり代々家老をつとめた名家ですが、幕末の藩内抗争では当主の鈴木重棟が諸生党の領袖に祭り上げられていたため、維新後幼少の息子二人もろとも斬罪に処されました。
背中合わせの墓域は分家の鈴木重義(縫殿)で、諸生党追討の隊長というのも幕末水戸藩の悲劇の縮図を見るようです。

水戸を領した大掾氏、江戸氏、佐竹氏、徳川氏歴代の外護を受け、1200年以上の歴史をもつ境内は、街中と思えないほど静寂に包まれた空間でした。

偕楽園…♫ 今日も雨~だった ♪…

2020年07月17日 | 季節の花

さすがにこれだけ雨が続くと、自然がいっぱいの偕楽園のあちこちにキノコが顔を出しています。
日本のキノコで名前の分かるのは約2500種、しかしその倍以上の未知種があるとされます。食用にされるのは約300種、毒キノコは約200種、中毒禍が毎年報じられるほど見分け方は難しく図鑑などでの判別も困難です。

オレンジ色の強いこのキノコは多分ヒイロダケ?腐朽菌の一種なので枯れ木などに取り付きます。

これも腐朽菌のサルノコシカケの一種?このキノコが付いたら木の中はすでに腐っているといわれます。

多分イグチ科の仲間、食用になるキノコですが、わからないものには手を出すのはよしましょう。

ベニタケです。毒ではないようですが、この色では誰も食べないでしょう。

白いドームのような形、まるでスイーツみたいな可愛らしさです。

きれいに開いた傘は自然の造形です。

隣接の茨城県歴史館の蓮池周辺では、季節の花が人影まばらな庭園を彩っていました。

マスクをかけていても、その匂いは遠くから気付きました。林の中のヤマユリ(山百合)がちょうど見頃です。

ハス(蓮)の花はそろそろ終盤、いつもは池全面を覆っていましたが、今年は何故か半分くらいに減っていました。

日本古来のギボウシ(擬宝珠)は、シーボルトがヨーロッパに紹介し多くの品種が育成されました。これは斑入りです。春の山では若芽をウルッパと呼び、美味しい山菜になります。

弁当を広げる小高い丘がクローバーの白い花で覆われてしまいました。本名はシロツメクサ(白詰草)、江戸末期にオランダから献上されたガラス製品のクッション材に「詰められた」のが名の由来です。

大覚寺…裏見無し庭園と親鸞聖人法難の地

2020年07月14日 | 歴史散歩

石岡市大増にある板敷山大覚寺は浄土真宗本願寺派の古刹です。寺伝では、承久3年(1221)、後鳥羽上皇の第三子周観大覚の創建と伝わります。周観大覚は、親鸞聖人が配流されていた越後よりこの近在の稲田郷に移住した折、聖人を訪ねて師弟の契りを結ばれ善性房鸞英と称され、以後親鸞聖人の教化をたすけられたと伝わります。
 
  
親鸞が約20年間滞在したその稲田御坊までは約6Kmくらい、この縁で親鸞は何度もここを訪れていたと伝わり、境内には説法石も残っています。

現在地より山の奥にありましたが、天明2年(1786)の山津波で本堂は下に流され現在地に再建されたものの、安政元年(1845)に焼失、現在の本堂は慶応2年(1866)の建立だそうです。

本尊は阿弥陀如来像、また寺宝の「弥陀名号」は縦64㎝、横16㎝で絖絹(ぬめぎぬ)様のものに、金糸で刺繍したもので、法然上人の書を親鸞の妻、恵心尼が刺繍したものと伝わります。
本堂の大棟にある二つの紋、「下り藤」と「八藤」、調べてみるとどちらも本願寺派の紋でした。

さて、この大覚寺は「親鸞聖人関東教化中法難の遺跡」として有名で、山門潜ると大きな看板が立っています。これが謡曲「板敷山」にもある、いわゆる山伏弁円と親鸞の伝承です。

板敷山麓に住む山伏弁円は近在にその名を知られていましたが、親鸞の出現で信者たちが浄土真宗に入信し、自分の修験道場が寂れてしまったので親鸞を殺そうとしてここで待ち構えていました。
結局、親鸞の尊さに敬服し、自分の弟子30人を連れて、親鸞に帰依したといいます。弁円は明法と名を改め、常陸大宮市に法専寺、那珂市に上宮寺を創建し、各寺の縁起にその名が残っています。

自然豊かな境内の左手にある庭園が、大覚寺庭園としてもその名が知られています。

江戸時代に天龍寺庭園、桂離宮を模して作庭されたと伝わる池泉回遊式庭園は、どの角度から見ても裏表がないので、「裏見無しの庭」と呼ばれます。

とくに、茅葺屋根の書院から眺めた庭園の景観は素晴らしいそうですが、裏見はなくてもこれが表見なのでしょうか。季節の移り変わりを彩る草木が随所に植えられています。

大覚寺奥の山の中にある板敷山道、元の寺院はその近辺にあったのでしょうか。

山中の板敷峠一帯には、弁円が親鸞を呪咀した護摩壇石、待伏山、弁円懺悔の場などが残っています。