顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

ホタルブクロとジギタリス…他家受粉の仕組み

2023年06月27日 | 季節の花
植物の多くは一つの花の中に雄しべと雌しべがある両性花です。しかし自分の花粉で自家受粉するよりも、他の花の花粉で他家受粉した方が種の強勢を図れるという自然の摂理から、様々な仕組みが用意されています。

その仕組みのひとつで、同じ花の中の雄しべと雌しべの成熟時期をずらして他家受粉の機会を増やす「雌雄異熟」のホタルブクロとジギタリスを調べてみました。

まずキキョウ科ホタルブクロ属のホタルブクロです。


雄性先熟」といってまず雄しべが先に花粉を出し、花の根元の蜜を吸いに来た昆虫に付いて他の花に運ばれます。
雌しべが成長したときは雄しべは衰退し、昆虫に付いてきた他花の花粉で受粉します。


同じ下向き筒状の花のジギタリスは、オオバコ科ジギタリス属で、ホタルブクロとは逆の「雌性先熟」です。


まず初めに雌しべが成熟しますが、雄しべはまだ花粉を出していないために花の根元の蜜を吸いに来た昆虫に付着している他所の花の花粉で受粉します。
雄しべからの花粉が出始める頃には雌しべの受粉は終わっているため、花粉は昆虫に付いて他の花に運ばれます。


さらにこの二つの花は、内側に細かい毛が密生していて昆虫の吸蜜時の足場になり、また花の中の斑点は、昆虫を花弁の奥にある蜜のところに案内する「蜜標」という目印だそうです。まさに細かいところまで行き届いた自然界の仕組みに感心するしかありません。

この時期に眼を楽しませてくれる釣鐘状の花にこんな秘密が隠されていました。

さて我が庭のジギタリスはびっしりと実が生りました。周りにはあまり咲いてないと思うので他家受粉できたかどうかは分かりませんが…。

佐竹氏から水戸徳川家へ…水戸八幡宮はアジサイの名所

2023年06月22日 | 水戸の観光

天正18年(1590)に常陸太田に居城を構える佐竹義宣公が、水戸城主の江戸氏を滅ぼして水戸に居城を移し、その翌年の文禄元年(1592)に氏神として崇敬していた常陸太田鎮座の馬場八幡宮の八幡大神を水戸城内に祀りました。のち慶長3年(1598)、八幡小路(現在の北見町)に本殿(国指定重要文化財)を建立し、水府総鎮守の社と定めました。
   
しかし、関ヶ原の戦いの後の慶長7年(1602)に佐竹氏が秋田へ移封されると、水戸は徳川家の所領となり、元禄7年(1694)には2代藩主光圀公の寺社政策により、那珂西村へ移されましたが、宝永6年(1709)3代藩主綱條公の時代に現在の白幡山神域に遷座されました。


水戸徳川家の時代には、水戸城総構えを比高約25mの河岸段丘上に築き、八幡宮の西側にその最西端の5番目の堀があり、南側の西の谷と繋がっていたとされます。
※拙ブログ「水戸城総構え…地続きの西側に5段の堀 2020年09月14日」で紹介したことがあります。


祭神は応神天皇(誉田別尊・ほんだわけのみこと)、神功皇后(息長足日売尊・おきながたらしひめのみこと)、姫大神(ひめのおおかみ)の三柱、菊のご紋が付いています。


国指定重要文化財である本殿は425年前の創建当初のもの、佐竹公お抱えの「御大工」吉原作太郎(当時15才)を棟梁に、10〜20代の60名程の工匠の名が本殿内墨書に記されているそうです。平成7年から初めての全解体修理が行われ、3年かけて建立当時のまばゆいばかりの姿に復原されました。


左奥に見える国の天然記念物の御葉付公孫樹(おはづきいちょう)は、樹齢800年、樹高42m、幹周り9mという巨木です。樹高で「日本一の大いちょう」になるそうです。

御葉付とは、銀杏の実が稀に葉の真ん中に付きますが、滅多には見られず、仙人も数年前にやっと撮影することができました。



さて、この八幡宮はアジサイの名所として知られ、特にヤマアジサイに特化した「あじさいの道」という一画は、木漏れ日の杉林というロケーションと相まって人気のスポットになっています。



ヤマアジサイは、関東以南の太平洋岸に自生し、アジサイの原種の一つでガクアジサイの花の咲き方ですが、花も葉も小さく別名コガク(小額)とも呼ばれ園芸品種として人気があります。



今年は虫食いの葉が多く目に付きましたが、小ぶりで楚々とした花はやはり、半日陰の林の中が似合いました。



そもそも日本原産のアジサイは、原種のガクアジサイが品種改良で手鞠型のホンアジサイになり、欧米で品種改良され里帰りしたのが西洋アジサイ、今でも関東以南の太平洋岸に自生し、アジサイの原種の一つであるヤマアジサイに分けられます。(分け方はいろいろありますが…)


ずいぶん前に撮った山中の渓流沿いに群生があったヤマアジサイです。林や沢沿いの環境を好み、今でも近くの山野ではよく目にします。

水戸徳川家の崇敬が厚いこの神社には9代藩主斉昭公もしばしば参詣し、その際に涼をとったとされる烈公御涼所が残されています。日影をつくる大欅は樹齢約400年、樹高は約30m、幹周り5.75mの巨木です。

那珂川の冷風が吹きあがってくる比高約25mの台地の北の端、那珂川や遠く阿武隈山地をも遠望できる今でも納涼の絶好スポットです。

文殊院、花の寺5番寺…戸村城の出城的位置

2023年06月17日 | 歴史散歩

茨城県の北西部の寺院八ヶ寺が宗旨を超えて設けた、十二支の守り本尊と花めぐりの「花の寺」の5番寺は、那珂市にある真言宗智山派の朝日山文殊院乗蓮寺です。

永承年間(1050年頃)に創立され、佐竹氏一族の戸村城の祈願所として信仰され今でも佐竹氏の紋が付いています。


近隣では戸村観音文殊院という名で親しまれています。


山門への長い参道は季節を彩る花が植えられています。


山門の扁額は、文殊院です。


山門をくぐるとお城の堀のような位置に川が引き込まれています。


本尊の十一面観音菩薩像は、桜川の雨引き観音像と同じ木で作られているという情報もありました。
花の寺の午年の守り本尊、勢至菩薩も祀られています。


本堂の扁額は戸村観音となっています。
現在でも安産子育ての戸村観音として信仰厚く、毎年4月17日の縁日には近隣から多くの人々が参拝するそうです。


目を惹く大きな不動明王像やいろんな石像も迎えてくれます。


境内に若宮八幡宮、大杉大明神の二社があるのは、神仏混淆時代の名残でしょうか。

この文殊院は、那珂川左岸の比高約6mの河岸段丘上にある中世城址戸村城の出城的な一画を占めています。

戸村城は、永暦元年(1160)藤原秀郷流の那珂氏3代通兼の子で能通がここに居城し戸村氏を称したといわれます。南北朝時代に南朝方として、常陸瓜連城の楠木正家に従い活動しましたが、北朝側の佐竹氏に敗北し那珂氏一族とともに戸村氏は滅亡しました。
その後15世紀、佐竹氏12代佐竹義人(義憲)の3男義倭が、寛正元年(1460)ここを修築して居城とし、戸村氏を称して佐竹氏の南方を代々守りました。慶長7年(1602)に佐竹氏が秋田へ転封なると従属し、寛文12年(1672)からは横手城代として佐竹氏の重臣をつとめました。

城址主郭部は東西400m、南北300m、外郭を含めると東西最大450m、南北700mで、その主郭部は南側にあり、その東側と北側の外郭部には、家臣の住居や城下町があったと推定されますが廃城以来400年、農地、宅地化が進み土塁や堀の一部がわずかに残るだけです。

花しょうぶ…あやめ祭りの主役です

2023年06月12日 | 季節の花

青山花しょうぶ園(城里町)に行って来ました。地元の愛好家のグループが保存会を立ち上げ休耕田に苗を植え約70種8000本の花しょうぶ園を開いたという情報を得たからです。

どこもそうですが、花しょうぶ類は群生を撮ってもなぜか華々しさが出ないというのが個人の感想です。

農村風景の中の手作り感いっぱいの花しょうぶ園は、それはそれで好感が持てましたが…。

ところで一番知られている「あやめ」、そして「花しょうぶ」との関係について調べてみました。

近在では有名な水郷潮来あやめ祭りでも植えられているのは、「花しょうぶ」です。
潮来市のホームページにも「約500種100万株のあやめ(花菖蒲)が水郷潮来あやめ園に植えられており…」と出ています。つまり「あやめ」と「花しょうぶ」、そんなに区別しないで総称として「あやめ」で通すようです。Wikipediaにも「アヤメの仲間に含まれる厳密なハナショウブも「アヤメ」の名称で広く呼ばれている。(あやめ園、あやめ祭り、自治体の花名など)」と載っています。


水戸黄門こと水戸藩2代藩主徳川光圀公が晩年隠居した常陸太田市の西山荘入り口の西山の里桃源も「花しょうぶ」で知られていますが、10年以上前は「あやめ」として通っており、いつの頃からか「花しょうぶ」に変わりました。

どちらもアヤメ科アヤメ属の植物でその違いがよく話題になるのは下記の3種です。



一番多い「花しょうぶ(菖蒲)」は湿地などに生育し、紫色の他にピンク、白、ブルーなどいろんな色があり、花弁の根元の模様は黄色です。


あやめ(菖蒲、文目、綾目)」は、山地や草原など乾燥した地を好むことから生育場所が他と違います。花弁の根元に網目模様があることから、文目(あやめ)とよばれるようになったといわれています。


かきつばた(燕子花、杜若)」は湿地や水の中でも生育し、花弁の根元の模様は細く白い線です。句会に誘われた初めの頃に、杜若が読めずに冷や汗かいたことがありました。尾形光琳の国宝「燕子花図屏風」が有名です。
  

以上の3種、花弁の根元にある模様での区別をまとめてみました。


この他に、よく見かけるキショウブ(黄菖蒲)は、ヨーロッパ原産で明治中頃に渡来しましたが、今ではほぼ全国で野性化し、要注意外来生物に指定されています。


この仲間で一番早く咲くので名前にもなったイチハツ(一初)は、中国原産で室町時代に渡来しました。
※我がストック写真にはなかったので、“花の写真集”のフリー素材をお借りしました。

このイチハツは、古来より茅葺屋根の棟に植えると強風や乾燥から屋根を守ると伝わってきました。

光圀公の隠居所西山荘を10年以上前に撮った写真です、その屋根に写っていました。光圀公は領民にも植えるよう薦めたともいわれています。

端午の節句に菖蒲湯や屋根に吊るして邪気を払うのに使う「ショウブ(菖蒲)」は、ショウブ科ショウブ属の別種で、ガマの穂のような黄色い穂状の花です。古くから「あやめぐさ(菖蒲草)」といわれ万葉集にも登場しています。

現在の「花しょうぶ」は、アヤメ科の「ノハナショウブ(野花菖蒲)」の園芸種で、江戸時代から栽培が盛んになり数千種もの品種があるようです。菖蒲の漢字は「あやめ」とも読むので、話がややこしくなってきますが…。

旅かなし紫あやめ野に咲けば  富安風生
はなびらの垂れて静かや花菖蒲  高浜虚子
湿原に水の道つく燕子花  上田五千石
黄菖蒲に暮れなむとする水の色  高澤良一
一八やはや程ヶ谷の草の屋根  泉鏡花
あやめ草足にむすばん草鞋の緒  松尾芭蕉

大山寺…花の寺めぐり(第3番寺)

2023年06月07日 | 歴史散歩

茨城県の北西部の寺院八ヶ寺が宗旨を超えて設けた、十二支の守り本尊と花めぐりの「花の寺」の3番寺は、城里町にある真言宗豊山派の高根山閑心院大山(たいさん)寺です。



弘仁元年(810)弘法大師の開創と伝えられ、かつては符貴山金剛王院妙法寺と称されましたが、長禄元年(1457)に宥阿上人が佐竹氏庶流の大山城主義成公祈願所として中興し高根山閑心院大山寺となりました。江戸時代には徳川将軍より代々御朱印地十石を拝領して末寺二十余箇寺を所有し、虫封じ、子授け、開運厄除に霊験あらたかとされ、近隣の信仰を集めてきました。

桜の時期の仁王堂と鐘楼です。


鐘楼は下層がスカートのように広がった優雅な袴腰造りになっています。




仁王門と筋肉の表現がすごい阿吽の仁王像、製作年代は新しいもののようです。


仁王門をくぐるともう一つの門、山門があります。切妻造りの四脚門で、蟇股、木鼻、海老虹梁などに典型的な室町末期の様式を残しています。


入母屋造りの本堂は間口十間、奥行八間、本尊の大日如来像が祀られています。


弘法大師御真筆の乾闥婆王尊画(けんだつばおうそんが)が祀られている乾闥婆王尊堂、屋根が二重になっていますが銅板葺きの平屋建てです。
堂内には卯年の守本尊文殊菩薩や不動明王2体と千手観音像もお祀りしてあります。
大山城主8代の義勝は子がなく乾闥婆王尊に祈願したところ、男子が誕生したので、願文を記して大山寺に感謝の意を表した書が寺宝として残っています。


光明殿は回廊で本堂、婆王尊堂と結ばれている檀信徒館です。


弘法大師堂中央の高さ五尺余の台石の上に弘法大師の座像が安置されています。


大畠祖先碑というお堂がありました。木札には「大畠飛騨守藤原四郎兵衛吉方公廟」とあり天正14年11月28日没と書かれています。天正14年(1586)といえば織田信長憤死4年後で豊臣秀吉が政権を確立した時期、この地で大畠吉方のどんな歴史があったのかは不明です。

ところで大山(たいさん)寺を祈願所とした佐竹一族の大山(おおやま)氏の居城大山城は、約850m東にある比高20mの台地の上にありました。現在はホテル大山城の城郭風の建物がそれらしい雰囲気は出しています。

大山城は長承元年(1132)大掾氏の家臣鈴木五郎高郷の築城が最初といわれています。康安2年(1362)佐竹氏9代佐竹義篤の子義孝が修築し大山氏を名乗り、約230年の間居城としました。

延徳2年(1490)山入の乱という一族間の争いでは、本拠の太田城を追われた佐竹氏16代義舜が母方の大山氏を頼り、支城孫根城に約10年間匿われたため戦闘の舞台になりました。結局、明応9年(1500) 攻め寄せた山入氏に追われた義舜は、金砂山城に逃れて応戦し、2年後にはこの戦いに勝利して常陸太田城を奪還、この内戦に終止符を打ったターニングポイントの城でした。
しかし慶長7年(1602)には佐竹氏の秋田転封に大山氏も従ったため、城はすべて廃城になりました。