顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

菜の花摘み…野生の味

2022年03月27日 | 日記

毎年この時期は、河原の菜の花を摘みにいきます。
昨年のメモを見ると3月15日なので、10日くらい春が遅かったことになります。


今年は久慈川の支流山田川の土手です。ちょっと遅すぎた感じで満開でしたが、蕾の部分だけを摘んでも自然の恵みが充分な量になりました。


摘んでいるうちに久慈川との合流点まで来てしまいました。
久慈川は茨城と福島の県境八溝山付近を源流とし、ここから直線で約10kmの日立港南で太平洋に流入する延長124kmの一級河川です。


賑やかな色の水郡線のディーゼル列車が走ってきました。
ゆったり流れるこの久慈川も2019年10月の台風では氾濫し、上流で橋が流されて水郡線は約1年半不通になっていました。


穏やかな春の日、つくづく平和のありがたさを感じました。
大国の冷酷な独裁者に蹂躙されているウクライナは、農業大国で国旗の色は広大な黄色い麦畑と青い空を表すといわれます。


句友でデザイナーのKさんの作品です。

今日は一面の菜の花からウクライナを連想してしまい、穏やかな国土を打ち壊す音が何ともシニカルに表現されているので、紹介させていただきました。



さて、採った菜の花はお浸しのほかは、ほとんど塩漬けにします。熱湯をくぐらせてから水をかけ、よく絞って塩を3~4%、冷蔵庫で10日くらい持ちますし、冷凍でも保存できます。少し酸味が出た方が美味しいという人もいますし、栽培とは違う野生の苦みがいいという人もいます。
さっそく春を味わう肴として食卓にのぼりました。

彼岸の雪…梅の偕楽園

2022年03月24日 | 水戸の観光

暑さ寒さは彼岸まで…と言われますが、雪のないこの地方では彼岸頃に雪の降ることが何回かありました。その例にもれず、22日は真冬並みの寒さで、一日中雪が降りました。
水戸の梅まつりも満開での最終章、寒さで震え上がった偕楽園の翌日の様子です。


まつり期間中でもコロナ禍3年目の園内は、前のような賑わいはありません。
東門からの通りには、「八重西王母」が裏紅ぼかしの艶やかな花を満開にしてお迎えです。


梅の花に見えない豪華な大輪の「白牡丹」はそろそろ花期も終わりになり、老けた花が季節の移り変わりを感じさせてくれます。


咲き分けの名花「春日野」です。アントシアニンという植物に含まれる色素のいたずらで紅くなるので、来年も同じ枝が赤くなることはないそうです。


遅咲きの「開運」が満開です。杏系豊後性、花のきれいな梅は不結実のものが多いようです。


偕楽園は、開花時期の異なる梅が約100種、3000本あり、約40日間の梅まつりを彩っています。現在は、早咲きの梅はほとんど散り、遅咲きの梅が満開です。


梅の種類と本数については、拙ブログ「偕楽園の梅の種類と本数  2022.2.23」で紹介させていただきました。


洪積層台地上にある偕楽園本園のほかに、隣接する南側の沖積層の偕楽園公園にも、田鶴鳴梅林など3つの梅林があり、満開になっている様子が見下ろせます。


最近デビューした珍しい品種、「華農玉蝶台閣」です。八重の花弁の真ん中に薄紅色の蕾が出ているように見えませんか?


このように花の中にまた小さな花が咲く二段咲のことを台閣咲きといいます。図鑑では「雌蕊が台閣状になる」と記されています。

梅まつりもここ3年、期間短縮やイベント中止などまともに開催されたことはありませんでした。来年はワクチンや治療薬でコントロールできるようになっていることを切に願っています。

常陸国一ノ宮は鹿島神宮…そして二ノ宮、三ノ宮

2022年03月20日 | 歴史散歩
7世紀から10世紀頃までの律令制下の国でもっとも社格の高い神社が一ノ宮と呼ばれてきたとされますが、1国あたり1社、延長5年(927)の延喜式神名帳記載などの通例はあるものの、その選定基準の文献もなく、国司が巡拝する神社の順番などいろんな説があるようです。そのため勝手に名乗ったり、本家を争ったりした歴史などもあったようです。

同じように二ノ宮、三ノ宮も選定された経緯は不明で、現在の都道府県別で見ても、二ノ宮、三ノ宮がないところや九ノ宮まである上野国(群馬県)まで様々です。

常陸国一ノ宮…鹿島神宮
常陸国では圧倒的な存在力を持つ鹿島神宮(鹿嶋市)が名実ともに一ノ宮です。主祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)で古くから武神として東国の武士に信仰されてきました。全国に約600社ある鹿島神社の総本社でもあります。

まずは神宮の周辺にある東西南北4つの一之鳥居のひとつ、「西の一之鳥居」は海上鳥居としては日本最大級の高さ18.5m、幅22.5mで、神宮から南へ約2kmの北浦の出口、鰐川に建っています。


大鳥居は東日本大震災で従来の笠間の御影石製のものが倒壊、その跡に神宮の森から切り出した杉の巨木4本で再建されました。高さ10.2m、幅14.6mの圧倒的な大きさです。


楼門は、寛永11年(1634)水戸藩初代藩主徳川頼房公が奉納し「日本三大楼門」の一つといわれます(国指定重要文化財)。「鹿島神宮」の扁額は東郷平八郎元師の直筆です。


社殿(本殿・拝殿・幣殿・石の間)は元和5年(1619)、徳川秀忠公の奉納で、すべて国の重要文化財に指定されています。白木のままで彩色無しの拝殿は、かえって清く厳かな感じが漂います。
江戸時代初期の建物のため、いま7か年計画で令和の大修理が各所で行われています。
拝殿幕には神紋の左三つ巴と五三の桐が付いています。


本殿は、漆塗りで柱頭や組物などには華麗な極彩色が施されています。社殿の背後にある杉の巨木は根廻り12m、樹齢1,200年と推定されるご神木です。
社殿は征討する蝦夷地の方向、北を向いていますが、本殿内の神坐の位置は東向きで参拝者は祭神と正対できない造りになっているそうです。


奥宮は、慶長10年(1605)に徳川家康が関ヶ原戦勝の御礼に現在の本殿の位置に本宮として奉納したものを、その14年後に新たな社殿を建てるにあたりこの位置に遷してきました。(国指定重要文化財) 現在は修理のため覆われていましたので、数年前の写真です。


この仮殿は新しい社殿造営のため徳川2代将軍秀忠公奉納のもので、まずこの仮殿に神様を遷してから、旧本殿を奥宮まで曳いていき、その跡地に新しい社殿を造営しました。(国指定重要文化財)


常陸国二ノ宮…静神社
静神社(那珂市)は東国の三守護神として鹿島神宮、香取神宮とともに崇拝され、豊臣家、徳川家からも社領としての朱印が付され、鹿島神宮に続き常陸二宮として古くから信仰されてきました。


主祭神は建葉槌命(たけはづちのみこと)、倭文神(しどりのかみ)ともいわれ、機織りの神として祀られています。 創建の時期は不明ですが、6~7世紀に静織りを織っていた倭文部(しどりべ)の人たちが信仰していた神社が元になって創建されたといわれています。


天保12年(1841)の火災で、徳川光圀公が造営した社殿は焼失し、現在の壮厳なたたずまいの本殿と拝殿は、水戸藩9代藩主斉昭公が再建したものです。


本殿には国の重要文化財に指定されている社宝の銅印が納められています。これは光圀公が社殿を修造する時に、本殿脇の大きな檜の根本から見つかったと伝えられています。


拝殿幕の神紋は桜です。
桜田門外の変では、ここの神官の斎藤監物(1822~1860)が、井伊大老襲撃に参加して亡くなっています。拙ブログ「斎藤監物と静神社(那珂市) 2020年5月27日」でご紹介させていただきました。


常陸国三ノ宮…吉田神社
吉田神社(水戸市)の主祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)です。

顕宗天皇~仁賢天皇の時代(485~498)の創建と伝わり、全国の日本武尊を祀る神社では最も歴史が古く、鎌倉時代には八ヵ郷150余町の社領をもち、常陸国三の宮として大きな勢力をもっていました。


水戸藩2代藩主徳川光圀公が寛文6年(1666)に本殿、拝殿ほか多くの社殿を修造したと伝わります。その後水戸大空襲では社殿全部が焼失し、戦後再建されました。神紋は左三つ巴です。
今でも10月中旬には、水戸城下の旧下市周辺を挙げて神輿渡御の例大祭が盛大に行われています。


北東側に広がる「下市」といわれる水戸の城下町、縄文の海進時にはこの一帯は海の入り江だったといわれています。


伝承では日本武尊が東征の帰途、ここに上陸し休まれたと伝えられ、その朝日三角山遺跡もあります。


撮影時の2月初めには暖かい南向き斜面の女坂で、白梅が咲き始めていました。

水戸の梅まつり・2022…弘道館公園

2022年03月14日 | 水戸の観光

今年で126回を迎える水戸の梅まつりは、偕楽園のほか、水戸藩の藩校弘道館のある弘道館公園も会場として開催されています。コロナ禍のため3月1日から遅れての開催で、いろんなイベントはすべて中止ですが、自然はいつものように春を告げる花をいっぱい咲かせ始めました。


ここの梅は60種800本といわれ、早咲き、遅咲きと品種が多く長い期間楽しませてくれます。


たまたま訪れたのは、重要文化財の弘道館正門が開放の日で、天保12年(1841)に開設以来藩主の来館や特別な行事の際にのみ開かれた門をくぐることができました。


明治元年(1868)10月にここで藩内抗争の最後の激戦があり多数の死者を出しました。その時の弾痕が館内各所で見られ、門柱にも生々しく残っています。


正門、正庁、至善堂は当時の建物がそのまま残っており、国の重要文化財に指定されています。
正庁正面の式台と水戸の六名木「白難波」という白梅です。


武芸の試合が行われた対試場前には、弘道館を建てた水戸藩9代藩主徳川斉昭公の諡号の付いた薄紅色の「烈公梅」が咲いていました。


真っ赤な「緋の司」と弘道館至善堂裏手の梅林です。


学問の神様を祀る「孔子廟」も特別公開され、戟門(げきもん)も解放されていました。孔子の生誕地(中国山東省曲阜市)の方を向いて建てられているそうです。


孔子廟の大棟の両端に付いている鬼犾頭(きぎんとう)は、龍頭魚尾で頭から水を噴出する火災除けの水神で、流れ棟に鎮座するのは聖人の徳を感じて現れるという鬼龍子(きりゅうし)という霊獣です。


神儒一致の建学思想の象徴として建てられた鹿島神社は、昭和20年(1945)の水戸大空襲で焼失し、伊勢神宮第60回式年遷宮のとき、別宮「風日折宮」の旧殿一式が譲与され、唯一神明造りの社殿として再建されました。


藩校としては全国一の規模の面積約10.5haの敷地中央には、弘道館の建学精神を刻んだ弘道館記の石碑が納められている八卦堂が建っています。東日本大震災では碑の一部が崩落し、文化庁が6か月をかけて修理復元しました。堂を覆っている梅花は「八重寒紅」です。


北柵門と土塁からみた弘道館公園です。弘道館は水戸城の三の丸にあり、もとあった重臣屋敷を立ち退かせて建立されました。水戸城の大手橋前の重要な郭のため、周りは土塁と堀が巡らされていました。


「水戸の六名木」とは、花の形・香り・色などが特に優れていると選ばれた6品種、その中でも人気の「月影」と、文館跡の梅林です。


この一帯は当時、文館や寄宿寮がありましたが、明治元年の戦いで焼失してしまいました。
手前の梅は底紅という咲き方の「鈴鹿の関」、花弁の真ん中がほんのりと紅く染まります。


弘道館の寄宿生に起床時間を知らせる「学生警鐘」の鐘楼です。昭和20年の戦火を免れ、修理が加えられて現存していますが、鐘の実物は弘道館内で展示されています。


昭和5年建設の旧県庁舎は、近世ゴシック建築様式のレンガ張りの外観が重厚な印象を与え、梅やこの後咲く桜の花にとてもよく似合います。写真の似合っている梅の花は「月宮殿」という名です。

ウクライナの悲惨な戦禍の情報や、一向に減らない県内の感染状況など人間社会はウキウキする気分ではありませんが、自然は寒かった冬から急に暖かい日が続き、後れを取り戻すように一生懸命咲いています。どうも今年は、開花時期が短く、次の桜の出番にすぐなりそうな気もします。

水戸藩の修史事業…大日本史と彰考館の総裁

2022年03月08日 | 水戸の観光
大日本史は水戸藩2代藩主徳川光圀公が明暦3年(1657)に編纂を開始した歴史書で明治39年(1906)完成、本紀,列伝,志,表4部,計397巻226冊からなり,神武天皇から後小松天皇までを紀伝体で記載しました。その編纂をする「彰考館」の名は「春秋左氏伝」の「彰往考来」(往事を彰らかにし、来時を考察する)から光圀公が付けました。

公の招きで全国から集まった多くの学者は、60名を超えたこともあり藩の財政に大きな影響を与えともいわれます。光圀公が常陸太田市の西山荘に隠居して編纂を続けた元禄11年(1698)には、館の主体は江戸の藩邸から水戸城内に移され、以後、江戸小石川藩邸の「江館」と水戸城内の「水館」に分かれて編纂が進められました。
3代綱條公以後は館員も減少し修史事業も衰退しましたが、6代治保公の治世には復興し、9代斉昭公は江館を閉ざし水館だけにしました。明治になって閉館同然となった彰考館は、明治12年(1879)徳川家が栗田寛らに委嘱して再開、249年の歳月を経て明治39年(1906)397巻が完成し、修史局としての彰考館の役目は終わりました。

彰考館の最高位である総裁は天保3年(1683)から置かれ、館員の増加時には数人置かれたときや、館の縮小に伴い置かれないときもあったようです。石高は200石~300石の大番役や小納戸役相当の中士職で、初期の頃は他所からの招聘者が多く、後期には実力で士分に取り立てられて総裁まで昇進した藤田幽谷、豊田天功などもおりました。

その総裁たちの静かに眠る墓所のいくつかを訪ねてみました。

佐々宗淳(1640-1698)
総裁期間 元禄1年(1688)~元禄9年(1696)

15歳で京都妙心寺の僧になるが還俗し、延宝2年(1674)より史の編纂に参加、史料の調査収集のために全国を回ったため、後に「水戸黄門漫遊記」の助さんのモデルとされました。晩年は西山荘に隠居した光圀公の側近くに仕えました。 通称/介三郎 号/十竹   墓所/正宗寺(常陸太田市)


安積澹泊(1656-1738)
総裁期間 元禄6年(1693)~正徳4年(1714)

水戸藩士で朱舜水に学び、博識で史学にすぐれ編纂に指導的役割を果たし、総裁を辞した後も修史事業に尽力しました。澹泊の死によって修史事業はしばらく休止状態になったともいわれます。「水戸黄門漫遊記」の格さんのモデルとされています。名/覚 通称/覚兵衛 号/老圃、常山など 墓所/常磐共有墓地(水戸市)


酒泉竹軒(1654-1718)
総裁期間 元禄12年(1699)~享保3年(1718)

筑前国出身。長崎に遊学し書道、篆刻、中国語に優れ、佐々宗淳の推薦で編纂に参加、元禄11年(1698)水戸に彰考館設置に伴い来水し、翌年総裁となりました。名/弘 通称/彦太夫 字/道甫、恵迪  墓所/常磐共有墓地(水戸市)


大井松隣(1676-1733)
総裁期間 宝永4年(1707)~享保14年(1729) 

京都出身。伊藤仁斎に学び、大串雪瀾の推薦により水戸藩に出仕。大日本史という書名を裁定した3代藩主綱条の命で、その序文「大日本史叙」を起稿しました。 名/貞広 字/彦輔 通称/介衛門 号/南塘  墓所/常磐共有墓地(水戸市)


神代鶴洞(1664-1728) 
総裁期間 正徳4年(1714)~享保13年(1728)  

天和3年(1683)水戸藩に出仕し彰考館員となり、光圀、2次代藩主綱條に仕え編修校訂に尽力しました。 通称/杢太夫 号/求心斎  墓所/神崎寺(水戸市)


小池桃洞(1683-1754)
総裁期間 享保4年(1719)~享保10年(1725)

母は儒学(朱子学)者の室鳩巣の妹。建部賢弘に関流の和算を,渋川春海に暦学を学び、弟子に大場景明らがいます。 名/友賢 通称/七左衛門 字/伯純   墓所/妙雲寺(水戸市)


名越南渓(1699-1777)
総裁期間 延享2年(1745)~安永4年(1775) 

江戸昌平黌で学び林鳳岡の推薦で水戸藩に出仕し編修に従事しました。酒を好み衣服に構わず「ぼろ十蔵」とよばれたと伝わっています。 名/時中、克敏 通称/十蔵 字/子聡 号/居簡斎  墓所/常磐共有墓地(水戸市)


立原翠軒(1744-1823)
総裁期間 天明6年(1786)~享和3年(1803) 

水戸藩士。徂徠学を学び彰考館に入り、「大日本史」校訂について門人の藤田幽谷と対立して享和3年総裁を辞任、これが藩内抗争の原因のひとつともいわれています。嫡男は南画家の水戸藩士立原杏所、子孫には詩人、立原道造がいます。 名/万 通称/甚五郎 字/伯時 号/東里、此君堂   墓所/六地蔵寺(水戸市)


高橋坦室(1771-1823)
総裁期間 文化4年(1807)~文政3年(1820)

水戸藩士。長久保赤水に学び、「大日本史」編修に従事しますが、藤田幽谷とともに立原翠軒とその一門と対立しました。 名/広備 通称/又一郎 字/子大  墓所/常磐共有墓地(水戸市)


藤田幽谷(1774-1826) 
総裁期間 文化4年(1807)~文政9年(1826)

藤田東湖の父。古着屋の子に生まれ,立原翠軒に学び彰考館員となり水戸藩士にも取り立てられ、彰考館総裁、郡奉行も務めました。水戸学の基礎を築いたといわれ、会沢正志斎らの門人を育てました。 名/一正 通称/次郎左衛門 字/子定 墓所/常磐共有墓地(水戸市)


川口緑野(1773-1835)
総裁期間 文化12年(1815)~文政5年(1822)、文政10年(1827)~天保1年(1830)

水戸藩士。立原翠軒の推薦で彰考館員になり6代藩主治保公の侍講も務めました。 名/長孺 通称は三省、助九郎 字/嬰卿  墓所/常磐共有墓地(水戸市)


青山延于(1776-1843) 
総裁期間 文政6年(1823)~天保1年(1830)

水戸藩士。立原翠軒に学び、江戸彰考館総裁となり,藩史「東藩文献志」をまとめ,藩校弘道館初代教授頭取も務めました。 通称は量介 字/子世 号/拙斎、雲竜  墓所/常磐共有墓地(水戸市)


会沢正志斎(1782-1863)
総裁期間 天保2年(1831)~天保10年(1839)  

水戸藩士。藤田幽谷に学び、9代藩主斉昭公を擁立して藩政改革につとめ,藩校弘道館初代教授頭取となりました。著作「新論」は全国の尊攘運動に多大な影響を与えたといわれます。 名/安 通称/恒蔵 字/伯民 号/欣賞斎、憩斎   墓所/本法寺(水戸市)


豊田天功(1805-1864) 
総裁期間 安政3年(1856)~元治1年(1864)

久慈郡の庄屋の次男で幼少時よりその才を知られ藤田幽谷等に学び、15歳で彰考館見習いとなり、総裁に就任後は志、表の編纂を主宰するとともに、「防海新策」などを著して、斉昭公の攘夷海防論に学者としての知的裏付けをしたといわれます。長男の小太郎の妻は、藤田東湖の姪で日本の保母第1号といわれる教育者、豊田芙雄です。 名/亮 通称/彦次郎 号/松岡、晩翠  墓所/常磐共有墓地(水戸市)


青山延光(1807-1871)
総裁期間 元治1年(1864)~慶応1年(1865)

水戸藩士。青山延于の長男。藩校弘道館の教授頭取にもなり、彰考館総裁として「大日本史」の校訂に尽くしますが時代は幕末の動乱期で、総裁期間には藩内を二分する天狗党の乱がありました。 通称/量太郎 字/伯卿 号/佩弦斎、晩翠、春夢  墓所/常磐共有墓地(水戸市)


番外編
栗田寛(1835-1899)

水戸の城下町で代々油屋を営む家に生まれ、会沢正志斎、藤田東湖らに学び、24歳の時、町人出身ながら彰考館への出仕を命じられ、豊田天功の指導を受けながら史書編纂事業にあたりました。藩内抗争の激しい時代の中で政争には関与せずに彰考館の維持に尽力しますが理解を得られずに一時下野、明治になって彰考館は水戸徳川家所属となり、藩の政治の動向に拘束されることは無くなったため、寛たちの編纂事業は大いに進みました。
寛の没後は、養子の栗田勤が「表」、「志」の編纂、校訂を引き継いで明治39年(1906)に全397巻226冊(目録5巻)がついに完成、光圀が史局を開設した明暦3年(1657)から数えて249年の歳月を要しました。   墓所/六地蔵寺(水戸市)


いまコロナ禍にめげず満開の梅が匂う偕楽園…その南斜面の中腹に建つ「大日本史完成の地」の石碑です。
水戸光圀公によって江戸藩邸で始まった大日本史の編纂は、明治維新後は水戸徳川家の事業として続けられ、最終的にはこの地で完成をみたのでした。