顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

梅花いろいろ②…水戸の梅まつり2019

2019年02月28日 | 水戸の観光
だんだんといろんな品種が咲き揃い、現在は大体五分咲き、まさに創設者斉昭公の七言絶句「清香馥郁十分に開く」の風情が満ち溢れている偕楽園と弘道館です。

「大湊」は野梅系、大枝、小枝とも直上または斜め横に伸びると図鑑に出ています。碗型のこぢんまりとした花がかわいい結実種です。(偕楽園)

「茶青梅」は江戸時代の韻勝園梅譜に「蔕(へた)は青赤混じりて花毎に下を向く形あり、茶の花の咲きたるが如し」とあるのが命名の由来でしょうか、当時から白梅の絶品とされていたようです。野梅系の結実種です。(弘道館)

「筑紫紅」は野梅系にしてはあまり実がならない品種、太宰府天満宮にあるのが有名なので九州原産ともいわれています。(偕楽園田鶴鳴梅林)

「満月」は名前に月が付く三銘花の一つで野梅性、良果結実品種です。白い丸弁が端正に重なり花冠が丸く見えるので名付けられました。(偕楽園)

「田毎の月」といえば棚田のようにたくさん並んだ狭い田の一枚一枚に月が映ることですが、その名が付いたこの梅も同じく月の付く三銘花で野梅性の結実種、花弁の丸さが月のイメージです。(偕楽園)

仙人好みの「八重松島」は野梅性、薄紅色の花弁の先が微かに白い覆輪になっている様子に絶妙な色気が感じられます。(弘道館)

実梅の代表「玉英」は青梅市原産の野梅系、青梅在住の川合玉堂、吉川英治両氏の名前から一字ずつ付けたと聞いたことがあります。(偕楽園)

「柳川枝垂」は水戸の6名木、弘道館の通用門脇に若木が植えられています。偕楽園では六角形の柵の中に鎮座する名木の後継種がすくすくと育っています。(弘道館)

同じ枝垂の「青龍枝垂」は良果が結実するので「実成枝垂」とも呼ばれるそうです。青白い花色から付いた名前でしょうか。(偕楽園田鶴鳴梅林)

人気の「鈴鹿の関」も咲き出しました。花弁の真ん中、底のほうに紅色が出るので底紅と呼ばれますが、花弁裏のほうが濃紅色でそれが透けて見えます。李系紅材性で結実します。(弘道館)

大きな実梅と言えば有名な「南高」、品種作りに協力した和歌山県の南部高校園芸科と原木生産者の高田さんの名がつけられ全国に広まりました。(偕楽園窈窕梅林)

同じく実梅の「養老」は野梅性、25g程度の実を付けます。紀州では飛鳥時代に海草郡の荘園に丁(よぼろ)という在所があり、そこでは梅の粗放栽培が行われたため、丁(よぼろ)梅として名が知れたものが、いつしか養老梅と呼ばれ今も品種として伝えられているという記述がありました。(偕楽園)

「水心鏡」は野梅性、江戸時代から続く古い品種で、千葉大の梅林に原木が残っているそうです。(偕楽園)

梅花いろいろ…水戸の梅まつり2019

2019年02月23日 | 水戸の観光
水戸の梅まつりも1週間経ち、約20%の梅が開き始めました。100種といわれる梅の種類も苗畑を入れると200種を超えているという話も聞きましたが、写真を撮れるのは散策路際の梅ばかり、その一部をご紹介します。

まず偕楽園表門前の「緋の司」です。李系紅材性八重、いつも早めに咲いて陰陽の世界の入り口を飾ってくれます。(偕楽園)

表門を入ってすぐの左側にある「緑萼」は人気の花です。野梅性の八重ですが、八重にしては端正で清楚な花は、陰の世界の入り口にふさわしい雰囲気を醸し出しています。(偕楽園)

「道知辺」は野梅性、強い芳香で夜間でも道標(みちしるべ)になるというのが名の由来とも言われています。咲き始めは淡紅で老けると紫紅色になり、盆栽にも好まれます。(偕楽園)

「芳流閣」は南総里見八犬伝に出てくる建物の名前で、その屋根の上で義兄弟がお互いを知らずに戦う名場面が錦絵などに描かれました。因んで名が付けられたのでしょうか、野梅性一重で初めは受け重ね咲きで開くと離弁になると図鑑でも現地案内板にも出ていますが、八重のように見えます?…。(弘道館)
ボランティア仲間のTさんから芳流閣に関する書籍2紙のコピーを送っていただきました。それぞれに「5弁花であるが旗弁や6,7弁花もあらわれやすい」「旗弁も出るので時には半八重のようなものも見受けることがある」の記述があり、納得しました。ありがとうございました。
「実生野梅」は梅の種子を蒔いて出て来る原種に近い梅です。梅や果樹の種子を蒔くと、種子の親ではなく、いわゆる先祖返りで原種に近いものが出てくると聞きました。出てきた苗木は確実に固定の品種を増やす接ぎ木用の台木として使用されます。(弘道館)

「麝香梅」は野梅性八重で早咲き、確かに香りが強く感じられました。碗型の花がだんだんと平らに展開していきます。(偕楽園)

「八重冬至」は早咲きの冬至梅の八重種、野梅性の結実種とされています。新暦の冬至は12月22日、その頃に咲き始まるというまさしく名前通りの温暖化が進んでいます。(弘道館)

偕楽園東門の見晴亭西側にある「梓弓」は、野梅性一重、薄い紅色は老けるとだんだん白くなる移り白という性質の花です。伊勢物語の「梓弓引けど引かねど昔より心は君によりにしものを」からいうと、心変わりの移り白は似合いませんが…。(偕楽園)

花弁のない「酈懸(てっけん)梅」も咲き始めました。野梅性の結実品種、園内に何本も植えられていますが、目立たないので満開でもお客様は通り過ぎてしまいます。よく見ると退化した花弁の一部が見えることがあります。別名茶筅梅。(偕楽園)

「白加賀」は野梅系で実梅の代表種、30g程度の大果が生り、梅干しや梅酒に最適とされます。家紋が梅の加賀前田藩では、江戸の藩邸にも白い梅が植えられ、加賀の白梅と呼ばれていたのが名の由来という説もあります。(弘道館)

「烈公梅」は偕楽園を造った水戸藩8代藩主徳川斉昭公の諡号の付いた水戸に所縁の名花で、水戸の6名木です。昭和8年、弘道館孔子廟の東側にあった老木が新種とされ名付けられました。(弘道館)

その烈公梅の下で2月21日、在日大使館の大使やスタッフを招待してのイベントが開かれていました。対試場で行われていた剣術は弘道館当時からの北辰一刀流を伝える水戸東武館の教士の方々、年配ながら古武士の風格があり在りし日の御前試合を見るようでした。

常陸太田そばまつり…そば園 佐竹

2019年02月15日 | 食べログ
常陸秋そば発祥の地とされる常陸太田市の27の蕎麦店が参加してのそばまつりが2月1日から28日まで開催されています。

天神林町のそば園佐竹は、田んぼの中の一軒家、お昼時は常に数組の待ちができる人気店のようです。暖簾にはこの地を領した名門佐竹家の「五本骨扇に月丸」の家紋が白く抜かれています。

注文したネットでも評判の天ざる(900円)は野菜天ぷら、蕎麦は香りもよく仙人好みのコシの強さ、何と言っても自家製にこだわる野菜の天ぷらの美味しさ、こんなにも野菜は甘いんだと感激しました。
平成18年に義父から店を受け継いだ若主人が、自分らしい蕎麦を追求する心意気が溢れ、持ち山で採れる山菜や自家栽培の野菜など、蕎麦以外の食材にこだわっていると市のホームページでも紹介されていました。

すぐ北側の台地上には佐竹氏発祥の地、馬坂城址があります。強力な戦国大名になった佐竹氏の祖である新羅三郎義光(源義家の弟)の孫,昌義が平安時代の末期に築いた城郭跡です。

その先にある佐竹寺は、佐竹氏の祈願所で茅葺きの本堂は重要文化財、仁王門には佐竹の家紋がしっかと付いていますので、そば店の名もこれらに因んで付けたのではと思いました。

第123回水戸の梅まつり…2月16日スタート

2019年02月11日 | 水戸の観光

今から177年前、水戸藩9代藩主徳川斉昭公が家臣や領民がともに休息できる癒しの空間として造園した偕楽園は、約100種以上の早咲き、中咲き、遅咲きと開花期の違う梅が約3000本、3月末日まで長い期間にわたって花を開きますので、梅の花一つ一つを充分に楽しむことができます。 (2月8日撮影)

早咲きの代表、「八重寒紅」は野梅性八重、すでに満開でお客様をお迎えする準備完了です。この時期の満開はこの種だけなので、樹により紅色の濃さに違いがあるのがよくわかります。
梅の紅白は材の色で見分けるとされますが、この梅は例外で材は白、白梅に分類されるそうです。不結実種とされています。

同じく早咲きの「冬至梅」、野梅性で一重と八重があります。結実品種ですが、受粉作業を行う虫の活動前に咲き切ってしまい、結実できない年もあります。

白い梅も老けてくると紅い色素が出てくることがあるとよくいわれます。桜の花は散り際に花芯の部分の赤が濃くなりますが、これは受粉後に花弁が必要なくなり萼から切り離されると、花弁で出来て幹に流れるアントシアニンが、花弁中心部に留まり紅い色素として残るためと言われています。写真の白梅も同じような現象なのでしょうか?

水戸の6名木「白難波」は李系難波性八重、図鑑では難波白ですが、水戸だけが何故か呼び方が変わってしまったようです。白さがいちだんと際立つ気がするのは、個人的な感じかも知れませんが…。

「難波紅」も李系難波性八重、雄しべが花弁より短く四方に射出していると出ていますが、八重寒紅との違いがよくわかりません。

水戸の6名木「月影」は野梅性一重、良果結実と出ています。軸と萼の緑色が特徴で青白い月の光のイメージがネイミングともよく合い、人気のある銘品です。

水戸の6名木「虎の尾」、李系難波性八重、これも名品として知られていますが、名の由来は蕊の曲り具合など諸説あって定かではありません。

窈窕梅林で見つけた「都錦」、李系で難波性八重、ほとんど結実しないようですが、花弁の裏が紅い裏紅性のため透かして見える淡い色が魅力的です。花つきがいいので盆栽に向いているそうです。

同じく盆栽によく使われる「大盃」、李系紅材性一重、濃い紅色と花弁と等長の長い雄しべが特徴です。

「風流」という梅を見つけましたが、所持する梅図鑑には載っていません。一重中輪桃色という情報しか入らず、しかもまだ開花前、期待をもたせるような蕾を撮ってみました。(窈窕梅林)

この地方には珍しく一日置きの小雪が降っていて花が縮こまるのが心配ですが、これから3月中旬にかけては、100種類以上の梅が次々と咲き誇ります。桜と違って梅は香りを楽しみながら、花を近くで眺め、種類ごとの梅の特徴を見て名をつけた先人に思いを馳せるのも楽しいことです。

古徳城址と白鳥の池

2019年02月09日 | 歴史散歩

白鳥の飛来地として有名な古徳沼の北西側の勢揃山と呼ばれる小高い丘は、比高約20mの中世の城郭、古徳城の跡です。

永和元年(天授元年(1375))常陸大掾氏7代大掾義幹の次男で、足利義満に仕え軍功によって古徳庄を領して従五位上に列し古徳氏を称した民部大輔義純によって築かれたといわれます。
古徳氏は代々城主としてこの地を支配しましたが、応永29年(1422)大掾幹幹が江戸氏に水戸城を奪われると江戸氏に仕えるようになリます。しかし永正11年(1514)、江戸氏の内乱に巻き込まれた古徳氏は、江戸氏の大軍に四方から攻められることとなり、激闘の末城は炎上、古徳義優は80数名の家臣と共に討ち死にして一族は滅びたといわれています。
古徳沼から城址へ上がる山道と、静神社に通じる古道の標識があります。

道端に大正5年建立の古徳八景の碑、「勢揃山の秋の月」と見事な文字が刻まれおり、小さいながらも堂々たる風格です。

茨城城郭研究会の「図説茨城の城郭」掲載の縄張り図を大雑把にgoogle写真に載せてみました。

雑木に覆われた城址は藪の中に埋もれています。規模は大きくありませんが空堀、土塁がはっきりと見て取れます。

中心となるⅠ郭とⅡ郭の南側には3重の横堀が並び、各郭は土塁が周っています。

Ⅰ郭の北側は斜面の傾斜が特に険しく、下に腰曲輪と横堀が見えます。

急峻な北側の崖の下には農地が見えますが、当時ここまで沼が連なっていたともいわれています。この方向約10キロ先には佐竹氏の本拠地太田城がありました。

五輪塔がひっそりと置かれていましたが、詳細は不明です。
戦国前期に廃城になったとされますが、戦略上複雑に造られた遺構の状態から、戦国後期に佐竹氏が改修して使用した可能性も指摘されているようです。

ところで、古徳沼にはたくさんの鴨が泳いでいますが、100羽以上が飛来しているとされる肝心のオオハクチョウは数羽がいるだけ、写真を撮っている人に聞いたら、餌があまりないので近在の他の池に出かけていて、遠くは久慈川付近まで遠征しているとのことでした。

沼の南東側にある林の木々が、カワウなどの糞で真っ白になっていました。

ついでに近隣の池を白鳥求めて歩いてみました。
古徳沼すぐ近くの中沢ため池でも白鳥は出払っているようでした。

芳野文洞溜です。
農産物を販売しているふれあいアーム芳野で白鳥の餌が店先で売っていました。情報ではコブハクチョウが一羽だけ住み着いていると出ていました。

一の関ため池は公園になっていて、湖面に突き出たテラスがあり、餌が豊富なのかここが一番多く白鳥が見られました。

園内にある茅葺き屋根の曲がり屋ではひなまつり展が開かれていました。曲がり屋とは、住居と馬小屋、物置が一体となった東北地方と茨城県の一部にみられる民家形式で、市内にあった文久2年(1862)建築とされるものを解体保存し、平成11年ここに移設復元されました。