顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

黒沢止幾の生家

2016年01月30日 | 歴史散歩
幕末の女傑、日本初の女性教師、黒沢止幾の生家は城里町の「うぐいすの里」近くにあります。荒果てているという情報を見て久しぶりに出かけてみました。

唖然!手前にあったお蕎麦屋さんもなく、生家は荒れ果て障子は破れ、屋根にはビニールシート、こうなるともう修復は不可能?と素人でも感じます。情報では末裔で六代目の方が2009年に亡くなり保存が危ぶまれていたようです。

そういえば地元城里町のホームページには全然紹介記事はなく、案内板その他に行政の手が感じられません。確かに前面にはアルミサッシのガラス戸が張られ、建造物としての歴史的価値はないかもしれませんし、また所有権などが複雑なのかもしれません、ただ歴史を語る「物」が消えてゆくことで、郷土の先人とのふれ合いが薄くなるような気がしてなりません。

古家や累々として柚子黄なり   正岡子規

下記は水戸市のホームページに乗っている止幾の紹介です。
黒沢止幾は、文化3(1806)年に茨城郡高野村(城里町錫高野(すずこうや))に生まれました。家は私塾(寺子屋)も開いていた修験道場の宝寿院。幼い頃に父と離別し、祖父や養父から漢学、国学などを学んで育ちました。止幾は26歳で夫と死別すると実家に戻り、その後20年間、櫛や簪の行商で生計を立てました。行商は関東一円に及び、草津や七会村塩子では、豊かな知識と才能を見込まれ地元有志の子弟たちの教育にもあたりました。また各地の文人と交流し、俳諧、漢詩、和歌などを学んで文芸の世界にも親しんでいます。
 安政元(1854)年、止幾は養父の私塾を受け継ぎ、多くの門弟に囲まれておりましたが、安政5(1858)年、天皇の許可を得ずに日米修好通商条約を調印した大老井伊直弼を詰問するため、押懸け登城した前水戸藩主徳川斉昭らが謹慎させられ、世に言う「安政の大獄」が始まり、これに義憤を感じた止幾は、斉昭の罪を晴らそうと単身京都に向かい、「国と主君を思う一念」を「長歌」にしたためてたった一人で朝廷に献上しようとしました。当時の女性としては驚くべきことで、止幾が「幕末勤王(きんのう)の女傑」と呼ばれる所以です。止幾は捕らえられ、処罰を受けて常陸国への立入りを禁じられました。しかし止幾は、密かに錫高野に戻って私塾を再開。彼女の高い教養と信念を貫く姿は門弟たちの尊敬を集めました。
 明治5(1872)年に学制が発布されると、止幾の私塾は錫高野小学校の教場となりました。同時に止幾は小学校教師に任命され、これが日本における女性教師の最初とされています。(水戸市立博物館館長 玉川里子)


早春の花は黄色が多い?

2016年01月27日 | 季節の花
庭先で福寿草のつぼみが大きくなりました。「冬知らず」、「立金花」と春先の花は何故か黄色が目に付きます。いつもの場所で、「蕗の薹」も黄色っぽい首を持ち上げました。
今日撮影の写真4点はすべて黄色、先日撮ってブログに載せた「タンポポ」、「蝋梅」…そして花芯の黄色い「日本水仙」…周りを見渡しても、咲き出した「菜の花」、つぼみが大きくなってきた『山茱萸』、山ではまもなく開く「マンサク」、「キブシ」なども黄色です。と言うことで日本植物生理学会のホームページに面白い記事が載っていましたので要約して掲載させていただきました。

『黄色い花の植物は春咲く花の50%位というのもありますし、白と黄色と30%位という数値もあります。しかし、早春の花は黄色が多いというのは誰しも感じることです。この研究はまだなされていませんが、花の色というのは人の鑑賞のためにあるのではなくて、その植物の生殖戦略で、多くの種子植物は種子を形成して次世代の繁殖に備えるために受粉が必要です。花粉が運ばれてくる方法の多くは昆虫が媒介します。こういう虫媒花の花にとって、昆虫が花粉を運んでくれるかどうかが、次世代に子孫を残せるかどうかを決めることになります。そのため、花は昆虫を惹き付けるために誘惑の手段を講じます。香り(匂い)であり、花の色であり、形という場合もあります。早春の色彩の少ない山野で黄色というのは非常に目立つ色です。早春にいち早く活動を始める昆虫にはアブやハエの仲間が多いのですが、これらは黄色い色に敏感だといわれています。
また、昆虫の目には単眼と呼ばれる光を受容する器官があって、受容出来る光の波長は人に比べてより短波長で、そのため紫外線を含む青や紫の短波長の光には昆虫は反応し易く、黄色い花は昆虫の目には淡い青色に写ると思われます。』

つまり、受粉役の昆虫を呼び寄せるため、目立つ色の黄色が多いということですが、梅の花の蕊が変形して花弁になる旗弁と言う現象も、昆虫を呼び寄せるためという説もありますが、推測の域を出ていないようで、まだまだ自然の仕組みは分からないことが多いようです。

朝日さす弓師が見せや福寿草     蕪村 
暖炉たく部屋暖かに福寿草    正岡子規 


さて、一夜明けて次の日は暖かい春日、福寿草は笑っているかのようにしっかと開きました。

日輪を大地に溢し福寿草   顎鬚仙人

磯浜海防陣屋跡

2016年01月24日 | 歴史散歩
冬晴れの日、大洗町磯浜の海防陣屋跡を訪ねました。

当時イギリスやアメリカなどの異国の船が沿岸に接近したり、異人が上陸したりするのに備えるため、文政8年(1825年)日下ヶ塚(ひさげつか)古墳のある高台に遠見番所が設けられましたが、天保7〜13年(1836〜1842年)水戸藩主 徳川斉昭(烈公)が藩の南端の沿岸防御を強化するために、改修してこれを強化し海防陣屋としました。

1864(元治元)年の“元治甲子の変”(天狗党の乱)には激戦地となり、磯浜海防陣屋の建物等は焼失してしまいましたが、現在遺跡は日下ヶ塚古墳の前方部付近に比高約1.5~2mの土壇状の良好な状態で残っています。
鈴木茂乃夫著の「天狗党の跡を行く」には、1864年8月11日、大発勢が涸沼川を渡って市川勢を駆逐し、磯浜の砲台を占領したとの記述があります。

この日下ヶ塚前方後円墳は4世紀末築造で全長103.5mと規模は大きく、当時この地方に大きな勢力があったことが分かります。ただ方形の半分がなくなっているので、多分陣屋創建時に削って、高台の海側に砲台として土の壇を盛り上げたのではないかと仙人の推測です。

水戸藩では大津(北茨城市)からこの磯浜まで陣屋、番所、台場など18か所、さらに連枝松川藩が夏海、大竹などに5か所の台場を造りましたが、実際の海岸線の防備に役立ったかどうかは分かりません。

下方に大洗港、南に筑波山が見え、城郭にも使えるような地の利のある高台でした。

近世の教育遺産、日新塾パート2 加倉井砂山の墓

2016年01月21日 | 水戸の観光

水戸市成沢町の江戸時代末期北関東最大の私塾、日新塾跡から南へ約700mくらいの杉林の中に塾主宰の加倉井砂山の墓所があります。
道路際に「贈正五位加倉井砂山先生墓」と大きな石塔、さらに進むと砂山死亡当時にはすでに廃寺になっていた蓮性寺の苔むした石碑が見えます。『新編常陸国誌』に、蓮性寺は「法華宗、加倉井妙法寺末、妙澤山實相院ト號ス」とあるようです。なお、砂山の位牌は加倉井町の日蓮宗妙徳寺に納められています。


加倉井氏は、甲斐国南部郷(身延近辺)の波木井氏から出たといわれ、奥州南部氏の祖先も同じ、鎌倉時代に常州那珂西郡加倉井村(水戸市加倉井町)に所領を得、常陸江戸氏の五大家老となり、領地に館と土塁(妙徳寺付近)を築いて戦国期には勢力となりましたが、後に佐竹氏に滅ぼされ日新塾のあった成沢に所領を得て帰農し代々庄屋を勤めてきました。祖父久徴の代から水戸藩郷士に取り立てられ、家禄50石を給されていました。  
なお、水戸市加倉井町近辺にも加倉井姓があり家紋は武田菱、同じ一族から分かれたようです。

 
砂山は、安政2年(1855)に51歳で亡くなると、加倉井家代々の墓に妻と共に葬られましたが、昭和3年春にこの場所へ移転、整備されました。右に加倉井砂山、左がその妻宇良子(うらこ)の墓です。
没後約160年、当時頭にちょん髷載せた鎖国日本が、昨年もノーベル賞二人を出し、今や世界の先進国として不動の位置を占めているのを夫婦で笑いながら見ていることでしょう。

ヒヨドリの死

2016年01月17日 | 日記
庭の椿の木の下にヒヨドリが死んでいました。去年もこの近くに落ちているのを見つけた場所です。椿の蜜を吸いに来て最後の力でここまでたどり着いたのか、まだ暖かいくらいのきれいな姿を、近くに落ちている椿で囲んで写真を撮り、一緒に埋めてあげました。合掌。
びっくりするくらいの身体の軽さ、餓死だったのでしょうか。春は虫などを食べ、秋から冬は樹木の実や特に椿などの花の蜜などが大好物のようです。



このヒヨドリ、1970年頃までは秋に北から渡来し、春に渡り去る冬鳥でしたが、留鳥として一年中棲むようになり、里山や公園などある程度木のある環境に多く生息し、都市部でも見られるようになりました。ときに集団で畑に現れ農作物や果樹を食い荒らすこともあり、農家には嫌われ、ムクドリ、カモ、スズメなどと同じ狩猟鳥の指定にされてしまいました。因みにカラスは保護鳥というのは、納得できませんが…。
源平盛衰記の一ノ谷の戦いで、源義経が平家の軍勢を追い落とした深い山あいを「ひよどり越え」というのも、そこが春と秋ヒヨドリの渡りの場所になっていたことからだそうです。

椿落て昨日の雨をこぼしけり   蕪村
椿落つる我が死ぬ家の暗さかな   前田普羅
天命とは惨いものなり落ち椿   顎鬚仙人